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Parody, Parody, Parody!

全体公開 7 10 57968文字
2022-06-02 09:53:11

バロ龍 2022年3月11日投稿
web再録

Posted by @saeki_f

Parody 1 どうぶつのくに

 世界の最先端を進む大帝都倫敦。石畳の上を何台もの馬車が駆け、天高く伸びる煙突からはせわしなく灰色の煙が吐き出される。
 そんな大都市にそびえ立つ中央刑務裁判所……の地下倉庫で、一匹のネズミが命の危機に瀕していた。

(ああ、ぼくはこんな所で死んでしまうのかしらん)
 ネズミの名前はちゅうのすけ。友人の誘いで海外行きの船に乗ったは良いが途中ではぐれてしまい、いつの間にか到着した外国で細々と生活をしていた。今日はたまたま遠出しただけなのだが、彼はそれを大変に後悔しているところだ。

 背後には白い壁。目の前には、ちゅうのすけが日本では見たことがないほど大きな猫。豊かな毛並みの美しい雄だが、額にある十字の傷が貫録を出している。飼い猫のように見えても動きは俊敏で隙が無い。そんな猫に部屋の隅まで追い詰められ、細長い瞳孔はちゅうのすけの一挙手一投足を見逃すまいと輝いている。逃げることなど到底できそうになかった。
「あ、あ、あの、ぼくを食べないでください……
 小さな黒い目は泳ぎ、気持ちばかり潤んでいる。声は震え、今にも消え入りそうだ。これから何が起こるかを思えば当然のこと。捕まって食べられるなど、想像するだけでも恐ろしい。たとえ無駄だと分かっていても命乞いをせずにはいられない。
 あわあわと震える小さなネズミに向かって、猫は初めてその口を開いた。低く冷たい声であった。
「食べる? 私は食べるためにネズミを追っているのではない」
 ふん、と鼻を鳴らして猫はネズミを見下す。長いヒゲがさわりと揺れた。その仕草ひとつで彼の矜持の高さが窺える。只者ではない空気を纏った気品のある猫だ。
 食べられることはないらしいと分かったものの、ちゅうのすけが安心したのも束の間であった。
「私はここの本を齧る不届きなネズミを葬り去るために居るのだ。私が狩りを始めてから、ここを生きて出た者は居ない。倫敦のネズミは、私を〝中央刑務裁判所の死神〟と呼ぶ」
(やっぱりここで死ぬことに変わりないのか……!)
 猫がよく研がれた爪をちゅうのすけに向けた。それはネズミにとって本当に死神の鎌さながらで、目前に迫る刃にちゅうのすけの焦りも募る。
「おおおお待ちください! ぼくはここの本を齧るつもりなど毛頭ないのです!」
「そう言ってこそこそと紙を巣に持ち帰るつもりだろう。私はそういった者を何匹も見てきた」
「本当に、そんなつもりは……
 ちゅう、と情けない鳴き声がぽつりと落ちた。本当に紙を齧って持ち帰ろうなどとは思っていないのだ。ちゅうのすけの棲み処の周りは自然豊かで、枯れ葉や草が十分にある。むしろ変わったものを巣に入れると、かえって外敵に見つかりやすくなってしまう。しかしそんなことを説明したところで、この猫は聞く耳を持ってくれないだろう。
「何か言い残すことはあるか?」
 猫の爪がきらりと光る。いよいよ年貢の納め時だと猫の目が語っていた。
 逃げられはしない。もしそれができたとしても、無傷では済まないだろう。そのまま外に出れば他の猫に襲われてしまうかもしれない。こんな危険な所にやって来てしまった己の不運を嘆いても遅いのだ。
 遂にちゅうのすけは覚悟を決め、氷のような蒼い目を見た。
「あなたのお名前を、お聞かせ願えますか」
「!」
 意味の無い質問かもしれない。だが名前も知らない相手に殺されるよりはずっと良い。そう思ったのだ。
 ネズミを狩るために人間に飼われている猫は多い。ちゅうのすけの経験上、そういう猫は往々にして自分の仕事を理解しており、非情な性格の者の割合もそれなりだ。そんな相手から返事をもらえるのか分からなかったけれど。
「バロック・ニャンジークス、だ」
 猫は、ニャンジークスは質問に答えた。意外と話の通じる相手だったのかもしれない。ネズミを食べる猫でないのなら、出会いがこんな形でさえなければとちゅうのすけは思う。
「ニャンジークスさん、ですね。ぼくは成歩堂ちゅうのすけといいます」
 死に行くための自己紹介をして、ちゅうのすけは神妙に目を閉じた。
 ここで死ぬのか。もう一度祖国の景色を見ることなく、家族や友を置いて。ちゅうのすけの頭には様々な感情が渦巻いていた。元々長くもない命だが、いざ散り際となると半生の記憶が脳裏を駆け巡る。
(せめて最後にお前と会いたかったよ、親友)
 最後の思い出は親友と過ごしたあの海の上。不安はあったが、期待も大きかった。新しい土地に何が待ち受けているのだろうと。それがこんな形になってしまうことが無念で、ちゅうのすけは唇を噛む。

……去れ」

 どれほど時間が経ったのか、それとも一瞬だったのか。極度の緊張下にあるちゅうのすけには時間の感覚がない。
 振り下ろされるはずの刃の代わりに、短い言葉が落ちてきた。ちゅうのすけは思わず固く瞑っていた目を開く。ニャンジークスが持ち上げていた前足を下ろしている。小さな心臓はまだどきどきと早鐘を打ち、何もかも現実ではないような感覚だった。
 ちゅうのすけにはほとんど聞こえていなかったが、去れと言われたような気がした。前足を下ろしている以上「この世から去れ」などという物騒な意味ではなく、「この場から去れ」という意味だと思われる。ちゅうのすけは自分の大きな耳を疑った。
「え?」
「去れと言ったのだ。東洋のネズミよ」
「で、でも」
「私の気が変わる前に行け。そして二度とここへ立ち入らぬことだ」
 ニャンジークスは鋭い爪を収めてそっぽを向いている。後ろ脚を畳んで座り、蒼い目だけを出口の方へちらりと向けてちゅうのすけを促す。あれだけネズミは逃がさないと殺気立っていた彼だが、本当に見逃してくれるらしい。
「あ……ありがとうございますっ!」
 何が彼の気持ちを変えたのか。ちゅうのすけにはまだ分からなかったが、言われた通り猫の気が変わってしまう前にと一目散に駆け出した。追ってくる気配はまるでない。壁の小さな穴から建物の外へ抜け出し、馬に踏まれないよう蛇行しながら石畳の上をひた走る。
 来た道を戻り、巣に辿り着いた時には心臓が働きすぎでぴたりと止まってしまうのではないかと思うほどだった。ちゅうのすけは落ち着ける場所に入って力が抜けたのか、崩れ落ちるようにその場へ座り込んだ。
(怖かった……!)
 日本で暮らしていた時も何度か猫に襲われた経験はあったが、隣にはいつも親友が居た。今日とて彼さえいれば……そこまで考えて、ちゅうのすけは思考を切った。過ぎたことを考えても仕方ないし、何より親友と離れてしまったことが心細く、寂しく感じてしまう。

 ニャンジークスは日本に居ない種類の猫らしい。青々として長い毛皮も相まって、下手をすれば小型の犬よりも大きな体をしていたのではないか。今でも鮮明に思い出される鋭利な爪。獲物を射殺さんばかりの冷たい眼差し。〝死神〟と呼ばれるのも納得できる。今まで出会ったネズミが一匹も助かっていないのであれば、ちゅうのすけは彼と会って助かった初めてのネズミということになる。
(どうして急に見逃してくれたんだろう)
 鼓動が落ち着き、少しは考える余裕が出てきた。何も思い当たることはない。猫の気まぐれかもしれない。だがきっとちゅうのすけはニャンジークスにとって、他のネズミとは何かが違ったのだ。二度と来るなと言われてしまった以上、確かめる術などありはしないのだが。
 出会う形が違えばまた会いに行けたのかもしれない。例えば、ちゅうのすけも猫であったなら。あのような目に遭っておいて不思議なことに、もう会えないのが惜しいと思う程ちゅうのすけはニャンジークスが気になって仕方ない。
 しかし再会など二度と望めないだろう。有り得ない想像を振り切って、ちゅうのすけは小さな巣穴で丸くなった。
 衝撃の邂逅から一月ほど。ちゅうのすけは例の倉庫どころか、その建物にさえ近寄らないよう、それはそれは注意深く過ごしていた。
 今日は友達のウサギに会いに行った帰り、街中の木の上で昼寝をしている。ここらは野良猫が少なく、ネズミが安心して過ごせる場所なのだ。

 ちゅうのすけがうつらうつらと心地よく夢を見始めていた時だった。麗らかな陽気を切り裂くように、突然木の葉を揺らすほどの疾風が駆け抜けた。何事かとちゅうのすけが下を覗くと、犬に追われる猫の後姿が小さいながらも確認できる。
(今の、この前の怖い猫だ)
 中央刑務裁判所からはそこそこ距離がある。家猫と思しき彼がこんな所まで、しかも犬に追われて全速力で駆けているという状況は、ちゅうのすけの目を覚ますには十分だった。



 十五分ほど前、中央刑務裁判所近くの通りにて。

「ちょっと、仕事の邪魔よ。どいてくれない?」
「はっ、どかせるもんならやってみろよ」
 人を乗せた乗合馬車が、野良犬に邪魔をされて立ち往生していた。御者が気付いて追い払おうとするが、図太い犬はなかなか離れない。
 遂に馬が痺れを切らした。前足を上げて犬を威嚇しようとした瞬間、横から素早く影が現れる。
「いってえ!」
 影は犬に飛びかかって着地する。長く豊かな毛並みに、額に傷のある大型の猫。影の正体は見回り中のニャンジークスであった。
 飛びかかるといっても本気で爪を立てたわけではない。牽制のための軽い一撃だったが、効果は十分だった。既に犬は馬から興味を失い、目の前の猫に向かって呻り声を上げている。次の瞬間、二匹は弾けるように駆け出した。

 思ったよりも犬の追跡がしつこく、二匹はニャンジークスの縄張りを外れて走る。慣れない場所に出て、遂にニャンジークスは袋小路に追い詰められてしまった。野良犬は勝ち誇ったように吠え立てる。
「大将気取りで歩きやがって、この目障りな家猫が!」
「目障りなのはそちらの方だ。野良犬の分際で、街を歩く馬にちょっかいばかりかけて。先週など貴様の仲間のせいで、危うく馬車同士がぶつかるところだったのだぞ」
 ニャンジークスはあくまでも冷静さを失わなかった。路地とはいえ、これだけの広さがあれば犬をかわして逃げることも可能だ。
「知るか。アイツら図体はでかいくせにとろくさくて邪魔なんだよ! まあ……今のお前ほど邪魔じゃねえけどなあ?」
 野良犬は笑いを堪えきれないといった様子だ。ニャンジークスが嫌な予感を察知すると同時に背後で物音がした。いつの間に仲間を呼んでいたのか、それともここまで誘導されてしまったのか。物陰に隠れていたもう一匹の犬が躍り出て猫を挟み撃ちにしようとする。が、寸でのところでニャンジークスがすり抜けた。
 もはや来た道は犬に塞がれ、反対に向かって走る他になかった。眼前には背の高い金網。壁でなくて良かったと心底思う。
 助走は短いが、なるべく高い位置に飛びついてよじ登る。長い尻尾を上げておくのも忘れない。こんなところで切られたりなどしてしまったら死神の名折れだ。
 犬も諦めが悪く、登れないにしても飛び跳ねて何とか捕まえようとする。後ろ足に荒い息がかかるほど距離が迫っていたが、このままいけば逃げ切れるはず。そう思った時、右の後ろ足が金網を滑った。
(!)
 しまった、とニャンジークスが思った時には、既に血が流れていた。噛まれたのだ。一瞬だけ下の光景が目に入る。犬の表情より、想像以上に血が出ていることに気付いて危機感をおぼえる。それでも引きずり下ろされることだけは回避すべく、左の後ろ足で犬の顔を引っかいてなんとか牙を外させた。
 そこから夢中で更に上へ。両前足と後ろ足一本だけでも案外どうにかなるもので、あっという間に頂上へ辿り着いた。負傷してしまったのはニャンジークスも想定外だったが、ここまで来ればもう問題もないだろう。そう思って、いつものように飛び降りた。
「ぐっ!?」
 右足の痛みで着地の衝撃を吸収しきれず、少々無様な格好で地面に転がる。怪我をしているのだから当然だ。
 背後の犬達はまだ諦めていない。通りを回って再びニャンジークスを追い詰めようとするかもしれない。いや、きっとそうするだろう。そうなる前にここを離れなければ。
 動けないほどの傷ではないが、走ることは難しい。一度見つかれば先ほどまでのような逃走劇は不可能だ。隠れるとしても、距離を稼がなければ血の匂いですぐに見つかってしまう。

 どうすべきかと思案を巡らせていた時だった。
「ニャンジークスさん!」
「?」
 どこかから名前を呼ばれている。聞き覚えのあるようなないような、しかし声の出所が分からず、ニャンジークスは辺りを見回す。
「ニャンジークスさん! こちらです!」
 左手側の足元、建物に空いた穴から白いネズミが顔を覗かせている。
「貴公は、いつかの」
 忘れるはずがない、ニャンジークスが初めて見逃したネズミだ。彼は穴から出て、ニャンジークスの足元へ駆け寄る。
「この穴から裏道を通れば、裁判所に帰れます!」
 ネズミが猫を助けようとしているのか。ニャンジークスはちゅうのすけの正気を疑う。
 裏道から裁判所に帰れるとは。なるほど確かにそれは素晴らしい提案だ。しかし彼が示している穴は、ネズミ一匹がようやく通れるほどの大きさしかないのだ。ニャンジークスは鼻先しか入れないだろう。
……私には些か小さいようだが」
「ハッ! 確かに」
 ちゅうのすけは本気でこの小さな抜け穴を猫に使わせようとしていたらしく、ニャンジークスは緊張も忘れて呆れ返った。
「そもそも、なぜこんな所に居る?」
「犬に追われているのを見かけて、何事かと思い追いかけてきました。そうしたら血の匂いがしたもので」
「フン、余計な世話を」
「ですが、怪我している方を放ってはおけません。あなただけでは逃げきれないでしょう」
 小さなネズミの手前強がってはいるが、ニャンジークスも八方塞がりであるのは事実。時間もない中、どうにかしてこの場を切り抜けなければ。
「策でもあるのか? その抜け穴を使う以外に」
「考えます。これから」
……心許ないな)

 相手は体の大きな犬二匹、ニャンジークスの味方は居ても居なくても変わらないようなネズミ一匹。犬が追いつくまで時間はそう長くないが、それまでに何か策を練らなければ。

 二匹の犬は路地の反対側に到着したが、そこは既にもぬけの殻であった。
「まだ歩けたか。でも匂いは近いな」
「わざわざ追いかけるんすか? オレ顔引っかかれたんですけど」
「当たり前だろ! あの家猫野郎、一回痛い目に遭わせてやりたかったんだよ」
 彼らの群れにおいては一匹目の方が兄貴分であるため、二匹目はそれに従うのみ。
 低い呻り声を上げ、二匹は血の匂いを追って歩き出す。この辺りは人間の少ない路地裏で邪魔が入りにくい。あの足では高い塀に登ることは不可能と踏んで、ひたすら地面の匂いを探る。

「こっちだ」
「え? こっちじゃないすか?」
 分かれ道に差し掛かったところで二匹の意見が割れた。兄貴分が示す右の道は中央刑務裁判所に続いており、弟分が示す左の道は人通りが更に減る路地の方向だ。
「あいつは怪我してんだぞ。普通に考えて、少しでも家に近付こうとするに決まってんだろ」
「うーん、まあ、そうっすね」
 疑問は残っているようだが、兄貴分の言うことは絶対だ。左の可能性は捨て、右の道を進んでいった。

 匂いの元と思われる場所は、袋小路に扉を取り付けただけの簡易的な倉庫だった。すぐ傍で工事をしているのだろう。資材や布や、色んなものが乱雑に置かれている。猫が身を隠すにはお誂え向きだ。
「今度こそ追い詰めたぜ。観念して出て来やがれ!」
 犬が吠えても返事はない。が、そこには確かに生き物の気配があった。犬たちの口元が歪む。
「そこに居るのは分かってんだぜ」
 無駄にゆったりとした足取りで奥へ進む。目当ては一番奥、布が被せてある資材の山だ。
 直前で立ち止まり、二匹で視線を交わし、一斉に飛びかかった。適当に積まれていた木材や金具が音を立てて散乱する。木屑の混じった砂埃が舞い、視界が霞む。
 太い前足で押さえつけた布の下に何かを捕らえた感触はあったが、死んだように動かない。妙に思った二匹が布を取り去ると、そこにはニャンジークスの靴と木材の破片があるばかりだった。
「「!!」」
 囮だと気付いた時には既に遅い。振り向けば上から灰が詰まった袋が二匹めがけて落ちてくる。兄貴分はなんとかかわしたが、弟分は頭から尻尾の先まで灰まみれになってしまった。
「う、うわあ! もう嫌だあ!」
 きゃいんと情けない声を上げながら、弟分は文字通り尻尾を巻いて逃げ去っていく。残った一匹は不甲斐ない弟分に舌打ちしつつ、見えない敵に低く呻る。
「隠れてないで出て来い! 怪我したからってコソコソした手ばっかり使いやがって!」
 やはり返事はない。盛大に撒かれた灰のせいで、せっかくの嗅覚がすっかり駄目になっていた。そうでなければ、頭上から飛び掛かってくるものに気付けなかったはずがない。
 犬の背中に何かが落ちてきた。先ほどの灰の残りかと思ったが、崩れ落ちる様子がない。そのまま尻尾の方まで移動していくのを感じて流石に振り向くと、黒い服を着たネズミが張り付いている。
「なっ!?」
 犬にとっては知らない顔であった。とにかく背中を這い回られて良い気分はしない。振り落とそうと尻尾を振り回してみるが、なかなかどうして辛抱強い。尻尾の先まで到達したかと思えば、思い切り鋭い歯を立てた。
「いっ!! てめえ!」
 ネズミごと尻尾を壁に叩きつける。が、ネズミは衝突の直前に飛び降りた。
 どういう訳か分からないが、このネズミはニャンジークスの味方をしているらしい。これだけ暴れまわっても現れないとなれば、彼自身がここに居ないのは明白だ。

(しかし、あのネズミ狩り野郎がネズミを仲間にするか? 普通)
 その逡巡の隙を突き、ちゅうのすけは出口に向かって走り出した。犬も反射的にそれを追う。ニャンジークスの味方であろうとなかろうと関係ない。とにかくこの苛立ちをぶつける相手が欲しいのだ。

 もう少しで出られそうな距離まで来た直後、扉から漏れていた光が消えた。追いついた犬が勝ち誇った顔でちゅうのすけを見下す。
「残念だったな、袋のネズミちゃん」
 何者か分からないが尻尾を噛まれたことは気に入らない。大都会に生きる野良犬からしてみれば、小さなネズミ一匹捕まえるくらい朝飯前だ。猫を探す前にこのネズミを片付けてやろうと息を荒げる。

 退路を断たれたちゅうのすけ。しかし意外にも慌てている様子はなかった。至近距離から次々に襲い来る爪や牙をなんとか避けながら、少しずつ犬との距離を空ける。
 資材の影に身を隠そうとするが、それを許す犬ではない。隠れる場所を悉く潰し、とうとう壁際まで追い詰めた。
「逃げ場なんてねえよ! 諦めな!」
 ちゅうのすけの足を捉えようとした爪はしかし、地面を強かに打つだけに終わった。犬には何が起こったのか分からない。先ほどまで壁を背に冷や汗を流していたネズミは、忽然と姿を消してしまったのだ。
 もし彼の鼻が正常に働いたら、そしてもしここが暗い倉庫の中でなければ気付けただろう。ちゅうのすけの背後には、ネズミが通るには十分な大きさの穴が開いていた。
 犬が戸惑っている間にもちゅうのすけは走る。もう一つ空いていた穴から外に出て、先ほどまで閉じ込められていた倉庫の扉を見上げた。そして迷いなく把手の方へ登っていき、目的のものに飛びついた。

 がちゃん。犬の背後で音がした。
 焦って扉に飛び掛かってももう手遅れだ。鍵は外側からしか開閉できない。
「おいこら! 出せ!」
「か、鍵をかけることはできますが、開けることはできません。人間にやってもらってください」
 犬が出て来られないと確認して、ちゅうのすけの緊張がやっと解けた。
「ふざけんな!」
「それはあなたの方です。手負いの猫を二匹がかりで襲うなんて、恥ずかしいと思わないのですか」
「ぐ、う」
 正論に言葉を詰まらせる。そもそも自分の方が悪いことをしていたという自覚は一応あるのだ。
「もう彼を攻撃しないと約束してください」
……嫌だと言ったら?」
「あなたたちがたった一匹のネズミにしてやられたと、倫敦中の動物に言いふらします。ネズミの情報網は広いですよ」
 犬の社会は序列が厳しい。もしそんな噂が広がってしまったら、自分の上に立つ犬の面子まで潰してしまうかもしれない。そうなれば、群れどころかこの大都市を追われることになりかねないのだ。その程度のことが考えられないほど、犬の方も馬鹿ではない。
「ああ、クソッ! 分かったよ!」
 実際のところ、かなり恥ずかしい思いをした。弟分は逃げ、自分は倉庫に閉じ込められて助けを待つしかない。しかも人間に見つかれば、この倉庫内の惨状の責任を全てなすりつけられてしまうのだろう。仕置きとしては十分である。



 話を終えたちゅうのすけはニャンジークスの下へ急ぐ。もう安全だと伝えて、家に帰って手当を受けさせなければ。犬たちが一度立ち止まった分かれ道を右手に進み、ニャンジークスの名前を呼んだ。具体的にどこに隠れているかは分からないのだ。
 二、三度呼んだ後、建物の影から名前の主が姿を現した。鉢植えの後ろに隠れていたようだ。
「ニャンジークスさん! もう大丈夫です。家に帰りましょう」
……本当に」
「?」
「本当に、貴公一匹だけで犬らを追い払ったのか?」
 少々服が汚れてはいるが、ちゅうのすけは無傷だ。ニャンジークスならいざ知らず、こんな小さな体ひとつで凶暴な犬二匹を退けたなど、にわかには信じがたい。
「気の弱そうな方は逃げていきました。最初にあなたを追いかけていた方は、人間の倉庫に閉じ込めてきました。もうあなたを攻撃しないよう約束もしたので、安心してください!」
「一体どんな手を使ったのやら……ぐうっ」
「! 急ぎましょう。ああ、でも急げないんでした……ううん、とにかく帰りましょう、ニャンジークスさん」

 ちゅうのすけとニャンジークスの行動はこうだ。
 まずちゅうのすけがニャンジークスの足から靴を拝借する。本体の匂いはもちろん、血がしっかりと付着していることが重要だ。そして手近な水道を探し、少しでも血の匂いを消すため怪我をした足を洗った。ちゅうのすけは靴を持って例の路地裏へ、ニャンジークスはなるべく遠い場所に身を隠すため二手に分かれた。怪我をしたら普通は家に向かうと考えるだろうというちゅうのすけの目論見通り、犬たちは本体の匂いの強さよりも裁判所への道を選んだ。ここで彼らが冷静な判断をしていたら、結果は大きく違っていただろう。
 物が多く鍵のかかる倉庫を見つけたのも幸運だった。体の小ささを活かして一番奥に靴を隠す。そこまで終わらせたところで犬が追い付いてきた。後は小さな体で攪乱し、犬を閉じ込め、ニャンジークスを迎えに行けば一件落着だ。明日になって工事の人間が来れば出してもらえるだろう。

「頑張って、もう少しです!」
「っ、ああ」
 ちゅうのすけに先導され、痛みを耐えながらニャンジークスは家を目指す。血は止まったがかなり酷使してしまったため、負傷した足は地面に着けて歩くのが困難になっている。
 せめて猫ほどの大きさがあれば彼の体を運んであげられたものを。ちゅうのすけは今ほど自分の体の小ささを悔しく思ったことがない。

 いつもの倍以上の時間をかけてゆっくりと進む。ようやく見慣れた建物が目に入ってきた時には既に日が沈み始めていた。
「ここまで来れば、後は大丈夫ですか? 飼い主さんは見つけてくれるでしょうか」
「おそらくは。そうでなくとも顔見知りが部屋まで連れて行ってくれるだろう」
 ニャンジークスは少し気を緩めたのか、地面に寝そべってふうと息を吐いた。呼吸が速い様子を見るに、まだ痛みが引かないのだろう。ちゅうのすけも無事到着できたことに安心した。地面に座りたいところだが、そうしたら立ち上がれなくなってしまいそうなのでぐっと堪える。
「では、ぼくはこれで」
「帰るのか」
「ええ、もう日が暮れてしまいますから」
……その」
 歩き出そうとするちゅうのすけの尻尾を、ニャンジークスの前足が押さえる。何事か分からず慌てたが、取って食おうというわけではないらしい。何かをちゅうのすけに伝えたいのだ。不器用な方法に思わず苦笑しながら、大人しくニャンジークスの言葉を待った。
……今日は、助かった。感謝する」
 前半は少し顔を逸らしながら。後半はまっすぐちゅうのすけの目を見て、ニャンジークスははっきりと感謝を伝えた。
「お節介だったかなと思っていたのです。そうじゃなくて良かった」
 ニャンジークスの前足が離れた。それを合図に、ちゅうのすけは猫に背を向けて歩き出す。走って帰る元気は残っていない。てくてくと巣へ向かうネズミの背中が見えなくなるまで、ニャンジークスはじっと目を離さなかった。
 天気の良い午後、ニャンジークスは窓際で日光浴をしていた。普段なら倉庫の見回りをしている時間だが、先だっての怪我に響くため、見回りの回数を減らして安静を取っている。
 麗らかな日差しに眠気を感じ始めた頃、ニャンジークスの視界の端で何かが動いた。横目に見れば白いネズミがとことこと近寄ってくる。その黒い目がニャンジークスを見つけて、ぱっと嬉しそうな表情に変わったのが遠目にも分かった。
 起き上がるでもなくそれをぼんやりと見ていると、ちゅうのすけは口にくわえていた一輪の小さな菫を枕元に置いた。眠気はとうに覚めてしまって、ニャンジークスはゆっくりと顔を上げる。
「何の真似だ」
 何の真似、と問われれば、人間の真似だ。病人のもとへ花束を持参するのを見たことがある。とはいえ花束を抱えて街中を走り回るわけにはいかず、せめてもと思い道中で一輪摘んできたのだ。
「どうしても様子が気になって、お見舞いに来たのです。足の具合はいかがですか?」
「大事ない。主人のお陰でな」
 主人とは、中央刑務裁判所の資料室の司書のことだ。怪我をして帰ってきた彼に手当てをし、高いところに飛び乗らなくて済むよう寝床を移動してくれた。猫の気持ちが分かる優しい飼い主だ。
「ああ、良かった」
 容体を確認し、ちゅうのすけはほっと息を吐いて笑った。それを見るとニャンジークスもなぜか心に温かいものが広がる。こんな感覚はいつ振りだったか。しかも、それを思い起こさせたのがまさかネズミとは。
「猫が助かって喜ぶとは、変わったネズミだ」
「あのとき見逃してくださった時から、ただ非情な方だとは思えなくて。ずっとお礼を言えていませんでしたね。ありがとうございました」
 このネズミを見逃さなければ、ニャンジークスの怪我はこんなものでは済まなかっただろう。命を落としていた可能性さえある。初めて会った時の気まぐれが今に繋がっているのは運命というものだろうか。ニャンジークスの頭にふとそんな考えが過った。
 と、ちゅうのすけが頭を下げた拍子に帽子がぽろりと落ち、ころころ転がってニャンジークスの足に当たって止まる。それをあわあわと追いかけ、ちゅうのすけは猫の足元で無防備に背中を晒した。

「またここへ来たら、今度こそ私に殺されるとは思わなかったのか?」
……あ」
 二度と来るなと、確かに言われた。先日は建物の中まで入らなかった。共に強敵と戦った仲ではあるが、約束を違えてしまったことに変わりはない。
……抜け穴の件といい、貴公は相当うっかりしているらしい。捕食者の前で無防備なのはあまり感心せぬぞ」
 ニャンジークスの顔がちゅうのすけの頭に寄る。どうしてそんなに近いのか、恐ろしくて聞けるはずもない。

 さり さり

(あわ あわわわわわ)
 ニャンジークスのざらざらとした舌が、ちゅうのすけの白い頭を撫でる。一瞬何が起こっているか分からなかったが、舐められているのだと理解して凍りついた。一体なぜ猫がネズミの頭など。これは頭からがぶりと食われてしまう前触れか。
 帽子を拾ったままの体勢で凍りついたちゅうのすけ。よく見るとカタカタと小さく震えていることに気付いたニャンジークスは、舐めるのを止めて目線をネズミの高さに合わせる。
「? 何をそんなに怯えている」
「たたたた、食べないでください……!」
「失礼な。命を助けてもらった者を食べるほど恩知らずではない。ただの毛繕いだ」
 ちゅうのすけの震えがぴたりと止まる。
「けづくろい」
「頭の毛がはねていたのが気になったのでな」
 いかにもな台詞をああも並べられれば誰だって食われると考えるだろう。それでもなおしれっとした態度を貫くニャンジークスは、意外と悪戯好きなのかもしれない。

 ともあれ、ちゅうのすけが彼に食べられる可能性はこれで無くなった。ここはある種の安全地帯になったと言える。ニャンジークスとの心の距離も少しは縮まったようであるし、ちゅうのすけは思い切って申し出てみた。
「またここへ来てもよろしいでしょうか?」
「何?」
「ぼくはネズミですけど、本を齧ったりしません。あなたの邪魔もしないと誓います。だから、また会いに来ても良いですか?」
 日本で友達になれたのだから、英国の猫ともなれるかもしれない。ちゅうのすけの目は期待に輝いており、ニャンジークスとしても無下に断ることなどとてもできそうになかった。
……好きにするがいい。全く、本当に変なネズミだ」

 それからまた一週間ほど。ちゅうのすけが小さな壁穴から顔を出すと、ちょうど目の前をニャンジークスが通り過ぎようとするところだった。
「こんにちは、ニャンジークスさん」
「! 貴公か。本当にまた来るとは」
 呆れ半分といった表情ではあったが、嫌な顔はしなかった。穴から完全に体を出してぺこりとお辞儀する。
「あ、包帯、取れたのですね」
「ああ。もう完治した」
「ではこれはそのお祝いということで」
 ちゅうのすけは今日も花を一輪持ってきていた。今回は黄色い蒲公英。小さな体には重いだろうに、こうして律儀に花を持参する彼を、ニャンジークスは悪しからず思う。
 受け取った蒲公英を萎れた菫の横に飾り、ニャンジークスは立ち上がって帽子を被った。
「外へお出かけするのですか?」
「体が鈍っていたのでな。ついて来るか?」
「はい!」


 元気よく返事をしたは良いが、建物の出口に到達するまでの間で既に問題が発生していた。
「まっ、待ってください……
 猫とネズミでは歩幅から何から全て違う。ニャンジークスが歩くにもちゅうのすけは走って追い、高いところへ飛び乗ろうものなら必死で壁を登らねばならない。遅れて追いかけるネズミを待ってやり、外に出るまで普段の倍の時間を要していた。
「貴公に合わせていたのでは運動にならぬ」
「ううっ、確かにそうですけど」
 そうは言っても、体の大きさは如何ともしがたい。申し訳なさそうにするちゅうのすけを見て、ニャンジークスは徐に寝そべった。
「あのう……?」
「乗れ」
 ちゅうのすけは目を丸くした。あの気位の高い猫が、野良ネズミに背中を貸してやるという。当然あの大立ち回りあってのことだろうが、こんなことも起こるのかと驚きを隠せない。
「良いのですか?」
「早くしろ」
 その言葉に甘えて、ちゅうのすけは紫色の毛並みに初めて手を触れた。
 体は外套の上に乗せたが、手は外気に晒された首元へ。よく手入れされたふわふわの毛皮。その下にある体躯はがっしりとして安定感があった。削りたての上等なおがくずでできた寝床に勝るとも劣らない感触で、ちゅうのすけは感動に震える。
「ここに乗っていると寝てしまいそうです……
「振り落とすぞ」
「起きます!」

 猫の友達は居たが、背に乗せてもらったのは初めてだ。かつての友はどちらかというとちゅうのすけを咥えて運ぶことが多かった。ニャンジークスほどの体格はなかったし、毛も短い方であったから、運びやすいように運ばれているのだろうと察した。
 ちゅうのすけが初めて見る猫の視界。いつもより少し視点が高いだけで、色んなものが目新しく見えた。高い塀の上に軽々と飛び乗るなど、ネズミの身ではできないことだ。何よりニャンジークスの背に乗っていれば人間や馬に踏まれる心配をする必要もない。

 町並みがいつもより目まぐるしく動く。馬車の停留所で馬たちに挨拶をし、警察官に付き従う犬に出会えば情報交換をし、木陰で休む鳩にはどこかへの伝言を頼む。この周辺の治安を守ろうとする姿は正に裁判所で飼われる猫らしい。ただネズミからはやはり恐れられているのか、一匹たりとも姿を見かけることはなかった。
 見回りを終えて帰る頃には、ちゅうのすけにとってのニャンジークスはもはや怖いだけの対象ではなく、仕事のできる猫として尊敬の色を込めた眼差しで見るようになっていた。

 西日が二匹の影を伸ばす。暗くなる前に帰ろうとしたところを、ニャンジークスが呼び止めた。
「ああ、帰る前に」
「は、い!?」
 ニャンジークスの顔が寄る。食われはしないと分かっても、本能的な恐怖がちゅうのすけの全身を強張らせた。動かないのを良いことに、ニャンジークスの舌は白い毛並みをくまなく舐める。毛繕いされていたと理解できたのは、猫の頭が離れてからだった。二回目とはいえ慣れないものは慣れない。
……もしや、毛繕いされるのは嫌だったか?」
「ち、違います! 嫌ではないのです!」
 反射的に返した言葉に、ちゅうのすけははたと我に返る。
(あれ? そうか。ぼく、嫌じゃないんだ)
 自分で言って初めて気が付いた。ざらざらとした舌で毛を整えてもらうのは悪い気分ではない。大量の冷や汗を流しながら固まる姿は、傍から見れば食われるのを待つばかりの生餌であるが、整えられた後の毛並みはすっきりとして気持ち良い。
 毛繕い自体が悪いわけではないのだ。ただ。
「でも心臓に悪いので、できれば毛繕いするときは一言下さい……
「ふむ、そうしよう」

 帰り際に二匹の目が合った。猫はゆっくりとした瞬きをひとつ送る。ネズミはぱちぱちと瞬きを返す。
 猫は半分溜息混じりに鼻で笑った。どうやら意図は伝わっていないらしい。今はそれでもいいかと視線を逸らした先、一輪の蒲公英が目に留まる。
……そういえば、花の礼をしていなかったな。次に来る時までに用意しておこう」
「!」
 あまりに意外だった。ニャンジークスは、彼がまた来ると確信しているのだ。無論ちゅうのすけも再訪するつもりではいたが、きっと「また来たのか」といった顔をされるに違いないと思っていた。

 初めて出会った時には、こんな会話は考えらえなかった。怖いばかりの天敵だと思っていたが、ニャンジークスも本当は優しい猫なのだ。
「楽しみにしていますね」
 返礼も、そしてまた会うことも。

 次はいつになるのだろう。また一緒に出掛けられるだろうか。互いにそんなことを考えながら、ニャンジークスとちゅうのすけはそれぞれの寝床へ帰っていった。

Parody 2 成歩堂龍ノ介と毒のリンゴ

 ここは魔法の力が働き、人間と妖精が共存する世界。そのどこかの国に広がる深い森の外れ、隣国との国境近くに一人の男が住んでいた。
 男は誰も居ない家の中で鏡に向かって話しかける。
「鏡よ鏡、この世で一番賢いのは誰?」
『それはまあ、貴方でしょうね。ホームズ』
 鏡はホームズと呼ばれた男の姿を映し続ける。なんと、人の言葉を話しながら。
 ホームズは喋る鏡に驚きもせず、返答に不満な様子を見せた。
「つまらん! キミ、何回質問をしても同じ答えじゃないか!」
『そう言われましても、毎日同じ質問ばかりされたら同じ答えを返すしかないじゃないですか』
 鏡はホームズを映すことを止め、初老の東洋人男性の姿を映し出した。これが彼の本来の姿だ。持ち主の言葉に答え、何でも映す魔法の鏡。ホームズ唯一の友達である。
「何か面白いコトでも起こらないかなあ……
『この平和な世界では事件などそう起こりませんよ』
「キミが言うんじゃ、本当に何も起こってないんだな」
 平和が何よりと理解しつつ絶望してパイプを咥えた。ホームズは退屈を何より嫌う。世界のどこで事件が起こっているかを知るために鏡の力を借りているのに、毎日つまらないニュースばかり。このまませっかくの頭脳を働かせない日々が続くのなら、いっそ死んでしまったほうがマシだとさえ思う。
(いや、待てよ。起こらないなら起こせばいいんじゃないか?)
 緩やかな死を待つくらいなら、面白い変化を起こしに出向く方がずっと良い。難事件を解決するほどのスリルはないかもしれないが、少なくとも今の退屈凌ぎくらいにはなるのではないか。そんな考えが頭を過る。
『ホームズ、貴方何か良からぬことを考えているんじゃないでしょうね』
 急に黙った友人を怪しんで言葉をかける。この男が静かに何かを考えている時は、三割くらいの確率でとんでもない悪巧みに発展することがあるのだ。
「いやいやそんなまさか。ところでミコトバ、もう一つ聞きたいことがある。この世で一番スナオなのは誰だい?」
『素直、ですか。ふむ……それならこの子でしょう。成歩堂龍ノ介という子です』
 ミコトバと呼ばれた鏡は、東洋人の若者の姿を映した。純朴で優しそうな青年で、この世で一番素直と言われても違和感がない。森の奥深くの小さな家で妖精と共に暮らしているようだ。
 ホームズは若者の姿をしばらく観察した後、満足そうに笑う。
「へえ。ここからそう遠くないじゃないか。いいね、ちょっと遊びにいってくるよミコトバ!」
 何を思いついたのだか、ホームズは突然立ち上がって元気よく家を飛び出していく。こういう時の彼は往々にして碌なことを考えていないとミコトバは知っている。
『あっコラ! ちょっと! 待ちなさい! 何をするつもりですか!』
 引き止めようとしたところで所詮は鏡。駆け出す友人を力ずくでは止められず、ミコトバはやけに楽しそうな背中を見送ることしかできなかった。


 所変わって森の中。
 鏡に映し出された青年は、そうとも知らず布団の中ですやすやと気持ちよく眠っていた。そこへぞろぞろと妖精たちが入ってきて、ベッドの様子を確認する。
 その内の一人が飛び上がり、仰向けの腹の上に乗った。
「おい成歩堂! いつまで寝ているつもりだ!」
 赤いハチマキを巻いた猫……の妖精が、元気良くぴょんぴょん跳ねる。
「うぐっ……あとちょっとだけ……
「さっきもそう言ってたけど、それからもう二十分も経ってるの」
 小熊の妖精が言う。
「仕方ない。頼むよ、ミス・ウサト」
 背の高いウサギが、垂れ耳のウサギの肩に手を置いた。
「かしこまりました。皆様、離れてくださいませ」
 小熊、背の高いウサギ、帽子を被った猫、仮面をつけた猫、白いネズミ、皆うさとから距離をとる。龍ノ介の上に乗っていた猫も下りてベッドから離れた。

「とおおーっ!!」
 うさとの掛け声と共に、大きな音が家中に響き渡る。小さな体のどこにそんな力が秘められているのか。気付けば龍ノ介は床へ逆さまに投げ出され、半開きだった目はぱっちりと開いていた。
「あいたたた……お、おはようございます」
「もうお日様は高く上っておりますよ。成歩堂さまが起きてくださらないと私たちがお仕事に行けないのですから、うさとに投げられなくても自分で起きてくださいませ」
 龍ノ介が起きたことを確認すると、七人の妖精たちはまたぞろぞろと部屋を出て行った。
 なにも毎日こうなっているわけではない。投げられるのは週に一度ほどのペースだ。龍ノ介は強かに打ちつけた背中や、猫に何度も飛び跳ねられた腹をさすりながら、着替えて朝食に向かった。

「「「いただきます」」」
 小熊のくまりす、背の高いウサギのうさろっく、垂れ耳ウサギのうさと、帽子を被った猫のにゃんじーくす、ハチマキを巻いた猫のにゃそうぎ、仮面をつけた猫のにゃめん、白いネズミのちゅうのすけ、そして人間の龍ノ介。全員が食卓に並んで朝食が始まった。
 今日の朝食当番がくまりすだったお陰で、おいしい食事にありつける。食事の質は基本的に誰が作っても平均的なのだが、うさろっくだけはその日のテンションや機嫌に左右されるので油断ができない。
 洗い物はにゃんじーくすとにゃめんの当番だ。黙々と作業するので、忙しい朝は二人の迅速な仕事に助けられている。

 朝食と洗い物を終えると妖精たちはお弁当を持ってそれぞれの仕事に出かける。彼らの外出中は龍ノ介が留守番をし、残った家事を片付けるのだ。掃除、洗濯、食材の買出し、八人で暮らしていればやることは山のようにある。
「それじゃ、いってらっしゃい」
「なるほどくん、怪しいヒトが来てもドアを開けちゃダメだからね!」
「大丈夫だよ。もう子供じゃないんだから」
「キサマ、先日ただの小麦粉を法外な値段で買わされそうになっていたではないか」
……
 つい先週のことを蒸し返されてしまってはぐうの音も出ない。人間と顔を合わせる機会がないわけではないが、人里を離れて久しいため龍ノ介は少々素直すぎるところがあるのだ。
「まあとにかく気をつけたまえよ。悪い魔女が人の良さそうなお婆さんに化けて来るかもしれないからね」
「は、はい……
「では出発するとしよう」
 にゃんじーくすの言葉を合図に、それぞれが自分の仕事へと向かう。全員の背中が見えなくなるまで見送ってから龍ノ介は家の中に戻った。

 人間の龍ノ介は、子供の頃に森で迷子になったところを妖精たちに拾われ、ここで暮らすことになった。既に身寄りはなく、人里に戻ろうとも思わなかったのだ。気付けばあっという間に月日は過ぎ、龍ノ介は二十三歳になっていた。
 不便はないし、この穏やかな生活に不満もない。結婚したいという願望もなく、周りの妖精たちがむしろ心配になるくらいだ。このまま静かに年を取っていくのも良いだろう。そんな風に思っていた。

 まずは洗濯物から。妖精の服は大きさこそ小さいが、数が多いし洗い分けをしなければならない。くまりすとうさとの服は仕上げに良い香りをつける。仕事でよく汗をかくにゃそうぎ、にゃめん、ちゅうのすけの服は二度洗い。高級な生地を使っているにゃんじーくすの服は丁寧に。何の染みがついているかよく分からないうさろっくの服は最後に別洗い。龍ノ介自身の服が一番手がかからないくらいだ。
 干し終わったら昼食を挟んで掃除を始める。猫たちの部屋は綺麗なので簡単に終わるのだが、ちゅうのすけとうさろっくはすぐに散らかしてしまう。更にうさろっくは勝手に物を動かすと怒るため、龍ノ介もあまり手が出せずいつも悪戦苦闘する。ちなみに、女の子の部屋は無断での入室を禁じられているので掃除は免除されている。
 ハタキで埃を落として、箒で掃いて、雑巾で拭いて。小さな家といっても八人が暮らす家だ。一日で散らかるし、毎日掃除しなければならない。龍ノ介は子供の頃からずっとこれを続けていた。



 共用部分の掃除も終えて一息ついた頃のことだった。
 こんこん、扉を叩く音がする。朝にあれだけ言われた後だ。いくら龍ノ介だって流石に何も考えずドアを開けたりはしない。
「どなたでしょうか?」
「リンゴ屋です。訪問販売に参りました」
 訪問販売という言葉で身構える。にゃそうぎに言われた通り、押し売りに騙されかけたばかりではないか。
「う、うちは結構です!」
「まあまあそう仰らず。ここらの方はご新規様なので、試食のリンゴをお配りしているんですよ」
 試食、つまり買わなくても良いのだ。それにタダで貰えるのならこちらに損はないはず。そんな考えで、龍ノ介はドアを開けてしまう。
 玄関先には背の高い金髪の男性が立っていた。初めて見る顔だが、販路を広げようとしているのなら知らなくて当然だろう。荷車に真っ赤なリンゴを積み、機嫌の良さそうな笑顔を龍ノ介に向けている。
「ありがとうございます。それでは、お一つどうぞ。ぜひとも食べた感想を聞かせてください」
「今、ですか?」
「ええ!」
 妙な押しの強さというか、威圧感のある笑顔に負けて龍ノ介はリンゴを一口齧った。味の感想を伝えるくらい何てことはないだろう、そんな軽い気持ちで。
「いかがです?」
「お、おいしいです。よく熟していて……うっ!?」
 突然の目眩が龍ノ介を襲った。強烈な眠気にも似て、立っていられない。飲み込んでからほんの数秒でその場に崩れ落ちる。意識が遠のき、呼吸が薄くなり、次第に何も聞こえなくなる。
 最後に見たのは、心の底から楽しそうなリンゴ売りの顔。
……本当にあっさり信じたなあ。なんてスナオな子なんだ」
 驚嘆の声はしかし、龍ノ介に届くことはなかった。男はしゃがみこんで状態を確認する。息はなく、心臓も動いていない……龍ノ介は、確かに息を引き取っていた。

 直後、ホームズの後ろで声がする。
「成歩堂さま、ただいま帰りまし、た……
 最悪のタイミングでうさとが帰宅した。彼女の目の前には、リンゴを片手に倒れた龍ノ介と、いかにも怪しい人間の男。
「あ、もしかしてコレ、ボクが殺したように見えちゃう?」
 見えるも何も実際そうなのである。うさとは急いで龍ノ介に駆け寄った。
「な、成歩堂さまぁっ!」
 まだ体は温かいのに、うさとがどれだけ呼んでも、体を揺すっても目を開けてくれない。あまりに突然のことでまだ認められないが、うさとは龍ノ介の顔に生気がないことに気付いていた。

 返事のない龍ノ介を呼び続けることを止め、うさとは立ち上がる。涙目になりながら、自分の何倍も大きな男に立ち向かった。静かに構えて、腹の底から掛け声を一つ。
「とおおーっ!!」
「うわっ!?」
 目覚めない子を起こす優しいものではなく、全力の投げ技であった。



 次に目が覚めた時、ホームズは木に縛りつけられていた。日の傾き具合から二時間ほど気を失っていたことを知る。後頭部や背中、腰の痛みで、気絶する前の出来事を思い出した。
「いやはや、手荒な妖精たちだね全く」
「キサマ、何者だ!」
 喉元には猫たちによって三振りの刀が突きつけられていた。少し離れた場所からウサギも銃を構えている。毒を盛られた若者の体はここには無かった。部屋の中へ運ばれたのだろう。
「ボクはシャーロック・ホームズ。あ、魔法使いじゃないよ。ただの人間」
「森の外れの変人か」
 にゃんじーくすはホームズの噂を多少は知っていたが、姿を見たのは初めてだった。青い瞳に金色の髪、顔は整っていて背も高い。しかし人好きしそうな容姿の裏に、どこか陰のありそうな男という印象を受ける。
「よくも我らが家族を……兵士に突き出してやる」
 サーベルを鼻先まで近付けられてもホームズは慌てる様子がない。むしろ今の状況を楽しんでいるようにさえ見えた。妖精たちの苛立ちが募る。
「まあ待てよ。あの子はまだ死んでない」
 余裕の笑み。この男は天使なのか悪魔なのか、一同は混乱させられるばかりだ。
「何を言っている? どう見てもミスター・ナルホドーは……っ」
 普段は感情の波が穏やかなにゃんじーくすでさえ語尾が荒くなる。幼い頃からずっと育ててきた大切な子が突然命を奪われたのだ。この場に居る誰もが悲しみに暮れ、正常な精神を保っていられない。
「仮死状態なんだよ。解毒すれば息を吹き返す」
「なんだと……!? キサマ、そういうことは早く言え!」
「説明する間もなく投げ飛ばされて、さっき起きたもんでね」
 自分の膝の高さほどしかない妖精に投げられて気絶するとは、ホームズも流石に想定外だったのだろう。あの瞬間を思い出すと背中が痛んでくる。ホームズはうさとの方を見てにこりと笑ったが、当のうさとは当然の報いだと腕を組んでそっぽを向いた。
「ハア……ボクの腰に解毒剤が入った試験管がある……そう、それだ」
 ホームズにサーベルを突きつけていたにゃめんが荷物を探り、青い液体が入った試験管を取り出した。割らないようにそっとちゅうのすけへ渡す。
「これを飲ませれば生き返るんですね!」
 全員の顔に希望の光が差した。が、ホームズは首を振る。
「話は最後まで聞きたまえ。これは未完成なんだ」
「役に立たぬ奴だな。完成させてから持って来い」
「そうできたら良かったんだけどね。これは最後の材料を加えたらすぐに飲ませないと、効果が消えてしまうんだ」
 早く龍ノ介を救ってやりたいが、それができるのは悔しいことにこの男だけなのだ。もどかしさに苛立ちながらにゃそうぎは質問を続ける。
「では、最後の材料とは?」
「人間の唾液の中に含まれている成分だ」
 全員が頭を傾げた。要するにどうすれば良いのか分かりかねている顔だ。それを見てホームズが補足する。
「まあつまるところ、口移しで飲ませろってことさ」
「「「!!」」」
 妖精たちに動揺が走った。彼らは知っている。龍ノ介が、少なくともこの家に来てからは、キスなどした経験がないということを。
「わ、我々の内の誰かではダメなのか」
「だってキミたち人間じゃないだろ?」
 もっともな答えだ。こうなれば何者であろうと関係なく、人間に薬を飲ませてもらう必要がある。それは確定事項なのだ。
「なるほどくん、カノジョもいないのに……
「こんな訳の分からん男のせいで……
「うう、おいたわしゅうございます」
 とはいえ龍ノ介はやはり彼らにとっての子供のようなもの。知らない人に初めて唇を奪われるのが不憫でならない。しかも、本人に非はないときた。
「ボク、すっかり悪者だなあ」
「仮死とはいえ人に毒を盛るなんて、立派に犯罪ですよ!」
 ホームズのせいでなければ誰のせいなのだ。温厚なちゅうのすけでさえ怒り心頭である。逆に、なぜこの男はこれほど呑気でいられるのか誰も分からない。
 妖精が全員で顔を突き合わせて相談し、一つの結論を出した。
「不本意だが、キサマにやらせる他なかろう」
 この場にそれができるのはホームズだけ。にゃそうぎは嫌々という態度を一切隠すことなく言う。誰もそれを良しとは思っていないが、それが一番手っ取り早いのだ。しかしホームズは頷かない。
「ああ、それもだがね。ボクは普段から薬の実験をしているせいで、体に色々と不都合があるんだ。ボクのじゃ解毒剤が完成しないのは実験済みなんだよ」
「役に立たないの……
 いくらホームズが図太いといっても、子供の妖精にここまではっきり言われると傷つく。表情には決して出さなかったが。
「しかし困ったな。こうなったら村まで行って、人を呼んでくるしかないだろう」
「それなら急いだ方がいいぜ。あの毒、三時間も放置すれば本当に死んでしまうからね!」
 場の空気が凍る。そして温度はすぐさま沸点まで急上昇した。
「そういうことも早く言え!」
「ミスター・ナルホドーがリンゴを食べたのはいつ頃のことだ!?」
「ええっと、三時くらいだったかな」
「あと一時間もないではないか! 村まで行って戻って来るのでは間に合わぬ」
 しかし普段ここまでやって来る人間は少ない。夜が近付けば尚更だ。もう日は沈み始めていて、どうにか近くで人が通りかかるのを捕まえるしかないようだ。
 そんな絶望的な状況の中、希望の光たる音が近付いてくるのをうさろっくは聞き逃さなかった。
「馬の足音だ」
 ホームズを見張るにゃめんを残して全員が駆け出した。ウサギの耳を頼りに足音の主を探す。

 細い街道に大きな影があった。黒い馬に乗り、厳めしい衣装に身を包んだ長身の男性。幸いにも急いでいる様子はなく、六人の妖精は転がるように馬の前に躍り出た。
……何事だ?」
 突然馬の周りを取り囲まれたからだろうか、男性の眉間には深い皺が寄る。そうでなくとも、彼はお世辞にも優しそうとは言えない雰囲気を纏っていた。
 風貌に多少怯みはしたものの、人の命がかかっているのだ。妖精たちは引き下がることなく男性に声をかける。
「お願いです、助けてください」
「ボクらの大事な家族が死にそうなんだ」
 妖精たちの尋常ではない様子に男性も真剣な表情に変わる。慌てた彼らの説明では要領を得なかったが、誰かの力を必要としているということは伝わってきた。
「分かった。案内せよ。領民を助けるのも我が家の務めだ」
 それを聞いて喜ぶやら慌てるやら、とにかくわあわあと騒ぎながら家への道を走る。

 連れて来られた人間を見るなり、ホームズは目を丸くした。
「! いやあ、まさかキミが来るとは!」
「シャーロック・ホームズ……貴様の仕業か」
 男性はホームズを見ると諦めたような溜息を吐いた。見知らぬ仲ではないようだ。
「お知り合いなのですか?」
「国境近くの見回りで何度か顔を合わせただけだ」
 見回りと聞き、妖精たちは男性の顔を見る。厳めしい服装と顔に目が行きがちだが、綺麗な身なりをしているし、装備も高級そうだ。もしかしなくても、警備隊かそれ以上の身分の人間を連れてきてしまったらしい。
「そうだ、あなたの名前をお聞きしていませんでしたね」
「バロック・バンジークス。この土地の領主の弟だ」
「まあ、クリムトさまの!」
 この土地を治めるバンジークス家。現当主クリムト・バンジークスは優秀な上に誰でも分け隔てなく接してくれると人望も厚い。その弟だというのだから、バロックも相当な人物だと思われる。ホームズが驚くのも当然だった。
「それで、死が迫っている者とは」
 一旦ホームズや身分のことは置いておく。何といっても時間がない。にゃそうぎがバンジークスを家の中に案内し、龍ノ介の眠る部屋に連れて行く。
「コイツだ」
 仮死状態に入ってから二時間半ほど。ベッドに横たわる龍ノ介は、やや血の気が引いている様子はあるが、生きている時とほとんど変わらない。だが相変わらず息は無く、脈も止まったまま。それが妖精たちの心を痛める。
「私は何をすれば良いのだ?」
 バンジークスの目には、彼の命は既に失われたように映っている。亡くなっているのなら人間にできることは何もないはずだと、妖精たちの方を見た。
「実はかくかくしかじかで……このお薬を成歩堂さまに口移しで飲ませてただきたいのです」
 口移し。そう聞いてさしものバンジークスも少々怯んだ。男に唇を寄せた経験などない。
 しかしよくよく考えてみれば、乙女の唇を奪って後で恨まれるよりも、男相手の方が人命救助と割り切ってやりやすいかもしれない。打算的だが自分を納得させるには十分だった。
……仕方あるまい。これも人助けだ)
 他意はない。時間もあまり残っていないようであったので、手早く済ませてしまおうと、その時は思っていた。
「請け負おう。では薬を」
 半泣きのちゅうのすけから試験管を受け取って蓋を開ける。ベッドの傍に跪き、横たわる龍ノ介の顔に手を添えた。
「失礼する、ミスター・ナルホドー」
 一礼してバンジークスは薬を煽る。量は僅かだ。指でそっと口を開かせながら顔を寄せた。にゃんじーくすがくまりすの両目を覆う。
 龍ノ介の体は少し冷たくなっていたが、まだ生き物の温度は残っている。柔らかな唇の間から液体を流し込んだ。これで仕事は終わりのはず。しかしバンジークスはなぜか唇を離しがたく感じていた。低い体温が心地良かったのか、柔らかい感触に驚いたのか、理由はバンジークス自身にも分からない。
 数秒の停止の後、周りから見えないように甘く唇を噛んでようやく顔を離した。誰もが固唾を飲んで様子を見守る。
 睫が震えた。眉間に一度くしゃりと皺を寄せ、徐々にその両目が開かれる。半分だけ開いた瞼の下から黒く澄んだ瞳が現れた。
「う…………あれ……?」
 龍ノ介の視界へ真っ先に映ったのは、見知らぬ男性の安堵したような顔だった。とても美しい瞳だと、ぼうっとした頭で思う。徐々に顔が離れていくのが勿体ないとも。
 バンジークスに肩を抱かれ、ゆっくりと起き上がる。龍ノ介は周りを見渡してようやく自分が今まで眠っていたことに気が付くが、目の前の知らない男と妖精たちの心配そうな表情についてはまだよく分からない。
「あっ、あ、あの、どなたでしょうか? そうだ、あのリンゴは!?」
「成歩堂!」
「なるほどくん!」
 龍ノ介の問いには誰も答えず、妖精たちは口々に名前を呼んで抱きついた。生きていることを確かめるように、そして冷たくなっていた体を温めるように。
 手に足に纏わりつかれ、頭を撫でられ、訳も分からぬままもみくちゃにされてしまう。皆の様子を見て、龍ノ介はどうも彼らに多大な心配をかけていたらしいことを察した。
……!」
 少し遅れてにゃめんが部屋に入ってくる。龍ノ介が目覚めたことに気付くと、いつもは感情を表に出さない彼が龍ノ介の膝に乗って頭を擦り付けた。服を握って離そうとしない。顔こそ見えないが、全身から喜びの感情が伝わってくる。
「にゃめん、お前も心配してくれたんだな。ありがとう」
 龍ノ介が黒いフードの上から撫でてやると、にゃめんは尻尾をぴんと立てて喉を鳴らした。

「そういえば、にゃめんはホームズの見張りをしていたはずでは……
 にゃんじーくすが思い出したように言った。にゃめんはびくりと体を固め、すぐに回れ右して外へ向かった。他の者もそれを追いかける。
 ドアを開けると、そこには既に切られたロープが残っているだけだった。
「逃げてるの!」
 足跡はあるが、もう日は落ちてしまった。これから探すのは至難の業だろう。
 にゃめんは申し訳無さそうにしょんぼりと耳を下げる。だがにゃめんだって口に出さないだけで龍ノ介の様子がずっと気になっていたのだ。その気持ちが痛いほど理解できるだけに、誰も彼を責める気にはならない。今は皆、龍ノ介が帰ってきたのが嬉しくて、他のことの優先度が下がっている。
「ま、まあ、解毒剤をくれたのもそのホームズさんなわけですし。今日は見逃してあげましょう」
 呆然と暗闇を見つめる妖精たちに向かって、龍ノ介は努めて明るい声を出した。死にかけた身としては謝罪の一つくらい欲しいところだが、そのためだけに夜の森を歩かせることなどしたくはない。
「殺されかけたというのに、甘いヤツめ」
 にゃそうぎは毒づいたが、その口元は笑っていた。



 龍ノ介は事の顛末を聞き、深く反省した。相手がなかなかのやり手であったとはいえ、あっさりと騙され命を落としかけるとは。周囲に大変な心配と迷惑もかけてしまった。しかし落ち込む龍ノ介を叱る者は誰も居ない。無事に戻ってきてくれたから、今はそれで良いのだ。

 妖精たちは龍ノ介の部屋から解散して自室へ戻っていった。残されたのは人間が二人。ちゃんとした礼を伝えられていなかったのを思い出し、龍ノ介は深々と頭を下げた。
「あの、助けてくださって本当にありがとうございます」
「当然のことをしたまでだ」
 淡々とした返事ではあったが、その表情は穏やかなものだった。良い人に助けられたものだと龍ノ介は思う。
「では、私はこれで」
 バンジークスはマントを翻して外へ向かおうとする。それを見た龍ノ介は慌てて引き止めた。外はもう真っ暗なのだ。
「これから帰るのですか? この辺は灯りが少なくて、一人で馬を走らせるのは危ないですよ。うちに泊まっていってください」
「しかし……
 ありがたい申し出ではある。が、迷惑ではなかろうかと思いもした。見たところ人間サイズの部屋はここだけのようで、まさか龍ノ介と一緒に寝るわけにもいくまい。そんな想像をしてしまうあたり、バンジークスは相当に龍ノ介を意識していた。
「あっ、ベッドはぼくのを使ってください! あなたには小さいかもしれませんが、人間用のはこれしかなくて……ぼくはリビングのソファで寝ますから」
 安心したような、少々残念なような。とにかくそれならばとバンジークスは泊まっていくことを了承した。

 ゆっくり話ができるようになり、龍ノ介はおずおずと切り出す。 
「あの、ぼくを助けてくれたときの……
 妖精たちに聞く限り、バンジークスは口移しを快諾したらしい。本人が気にしている様子は全くなかったが、申し訳ないことをさせてしまったとずっと気になっていたのだ。
 しかしその続きは上手く言葉にできず龍ノ介は口ごもる。謝った方が良いのかもしれないが、そもそも思い出させて良いものだろうかと。当のバンジークスは少しだけ眉根を寄せた。
「あれは人命救助だ。ものの数にも入らぬ。忘れるがいい」
 男とのキスなど忘れた方が良いだろうと思っての言葉だった。だが龍ノ介はそれを聞いて、胸のどこかが痛んだ気がした。
 確かに驚いたが、嫌だったわけではない。相手が人命救助のためにやってくれたのだと理解もしている。それでいてなお、心の奥で何かが動く音は止まない。
 バンジークスが龍ノ介から目を逸らそうとした。それに耐え切れず、反射的に腕を掴む。
「忘れられないと言ったら、どうしますか?」
 黒い瞳が真っ直ぐにバンジークスを見つめる。忘れようとしても無理なのだ。龍ノ介は自分が体験したことのない気持ちに戸惑っていたが、どこからか湧き上がる想いは不快ではなかった。今の龍ノ介は、ただ「今、どうしたいか」という本能の声に従うだけ。
 バンジークスはしばらく黙っていた。掴まれた腕が熱い。龍ノ介に薬を飲ませた時の感情が蘇る。すぐに唇を離せなかったのは何故か、心の底で本当は分かっていた。龍ノ介の言葉によって呼び起こされた想いを、どうしようもなく思い知らされる。
 目の前の男が欲しいと思ってしまった。自覚してしまえばもう嘘はつけない。掴まれていない方の手が龍ノ介の頬に伸びる。
「忘れたくないと言ったら、どうする?」
 想像以上の言葉に龍ノ介は固まってしまった。情報の処理が追いつかず、何か言いたいはずなのに何も言葉が出てこない。ただ、全く悪い気はしなかった。
 動かない龍ノ介をバンジークスの手が引き寄せる。顔が近付いて、二人は目を閉じた。ゆっくりと唇が重なる。今度は温かかった。
「!」
 バンジークスが龍ノ介の唇を軽く食む。その感触で龍ノ介も思い出した。目覚めの直前と同じだ。あの時から全て始まっていたと気付き、思わずバンジークスの背中に腕を回す。求めるまま、求められるまま、心ゆくまで互いを堪能した。

 唇が離れて目を開けた時、二人は相手の顔の赤さに驚いた。肌の白いバンジークスでさえはっきりと分かるほどだ。我に返ってつい体を離す。自分たちが今日初めて会ったばかりだということを忘れるほど夢中になっていた。
「そ、それでは、ぼくはもう寝ますね。おやすみなさい!」
 妙な空白を取り繕うように自室を出ようとしたところ、バンジークスに手を取られる。やむを得ず控えめに振り返った。
……また、ここへ来ても構わぬだろうか」
 龍ノ介の心臓が跳ね上がる。また会える、そう思うだけで息が止まりそうなほど嬉しく、期待してしまう。こんな気持ちは初めてだった。
「もちろん、です。またあなたに会えるなら、そんなに嬉しいことはありません」
 バンジークスの表情にほんの僅か浮かんだ不安の色を拭い去るように、龍ノ介は心のままを打ち明ける。それを聞いてバンジークスはほっとした様子を見せた。そんな顔をしている自覚があるかどうかは分からないが。
「見回りの際には必ず立ち寄る」
「ええ。お待ちしています」
 ささやかな約束。それでも二人の胸を高鳴らせるには十分だった。
「では、良い夜を」
 バンジークスは握ったままだった手の甲に軽くキスをして、それを解放した。龍ノ介の顔がまた赤く染まる。あやふやな返事を何とか声にして、ふらふらと部屋から出て行った。

 リビングに置いてあるソファに寝転がる。色んなことがあって疲れているはずなのに、眠気は一向に訪れなかった。だって、あんなことをされてしまっては。キスされた右手は、そこが心臓になってしまったのかと思うほど活発に血を巡らせている。
 布団を被っているのをいいことに、龍ノ介は右手の甲に唇を寄せた。どうしてこんなにも強く惹かれるのか、考えても考えても答えは出ない。理屈ではないのだろう。
 ドア一枚挟んだ部屋で彼が寝ていると思うとじっとしていられない。他のことを考えるべきだ。バンジークスのこと以外にも、今日は色々と事件が起こったのだから。

(そうだ、あのホームズさんって人……毒を盛って何も要求せずに解毒剤を渡すなんて、一体何がしたかったんだろう?)

 最後に残った謎は解けないまま。こればかりは本人にしか分からない。
 次第に龍ノ介の興奮状態が落ち着いて、少しずつ眠気がやってくる。明日、目が覚めたら、彼がいつ見回りをしているのか聞いてみよう。そんなことを考えながらゆっくりと眠りの世界へ沈んでいった。


『ホームズ、とりあえずここに座りなさい』
 ホームズが帰宅するなり、ミコトバは真剣な口調で言う。流石のホームズもそれには従うほかにない。
『人に毒を盛るとは何事ですか! 今回は助かったから良かったものの、危うく殺人犯になるところでしたよ!』
 全てを映し出す鏡は一部始終を見ていた。ホームズが龍ノ介に毒を盛ったところから、最終的に龍ノ介が息を吹き返し、誰も見ていない隙にホームズがこっそり逃げ出したところまで。
 龍ノ介が倒れたのを見た時はミコトバも自分を責めた。迂闊に彼の名前を出してしまったことも、ホームズを止められなかったことも、自分に責任があると。そして生き返った場面を見た時は鏡の中でほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「ミコトバ、ボクがそんな危ないマネをすると思ってるのかい?」
 ホームズはやれやれといった様子で頭を掻いた。ミコトバとしては、それくらいのことをしかねないからそう言っているのだが。しかしこれは〝危ない真似〟ではなかったらしい。ということは。
……まさか、口移しで飲ませなければ意味がないというのは嘘ですか』
「さすがボクとの付き合いが長いだけのことはある。でもまだまだだな。もう一声だ」
 付き合いを始めて洞察力が磨かれた親友に賛辞を送りつつ、鏡に向かって前のめりになる。種明かしの時間だ。
「あの毒は一時的に仮死状態になるけど、二、三時間もすれば息を吹き返す。試験管の中身はね、ただの気つけ薬なんだ。解毒剤なんて必要ないんだよ」
『貴方という人は……
 何でも見通せるといっても、薬の中身や効能までは分からない。呆れたと言うべきか、最初から死人など出ないように仕掛けられていて良かったと言うべきか。この高笑いする男の気紛れに巻き込まれた彼らを思うと、ミコトバは長い長い溜息を吐くことしかできなかった。

 ホームズはまだ真意を理解していない様子の友人のために、更に付け加える。
「誰も来ないままタイムアップになれば起こして種明かしをしていたさ。でも、彼が来た」
『バロック・バンジークス、ですか』
「ミスター・ナルホドーは今後もずっとあの家で、唯一の人間として暮らしていくつもりだったはずだ。でもボクはそうすべきだとは思わない。あの子は他人と関わってこそ活きる人間だ」
『そのためにはまず他人と繋がりを持って、人里に近付ける必要があった、と?』
 うんうんとホームズは頷く。
「本当は年頃の女性でも連れてきてもらおうかと思ってたんだけど、ボクが気絶して時間をムダにしちまった。まあ最終的にはなんだかんだ上手く転がったみたいだね」
 やり方はどうあれ、思惑通り龍ノ介はバンジークスとの絆を得た。ホームズはまだ知らないが、意外な形、想像以上の強さで。事件の起きない平和な世界なら、暇潰しを作らなければやっていられない。シャーロック・ホームズはそういう人間だ。
「いやはや、それにしても〝死神〟バロック・バンジークスとは……偶然というのは本当に面白いね。ああ、しばらくは彼らのお陰で退屈せずに済みそうだよ!」

Parody 3 車を降りる前に

 人ひとり入れそうなトランクと共に、ぼくと親友はイギリスで一番大きな空港に降り立った。飛行機で十二時間の旅。ときどき動くようにはしていたけれど、狭い椅子に座りっぱなしだったから体が軋んで仕方がない。それは親友も同じらしく、やっと開けた場所に出られたと大きな伸びをしていた。
「入国審査も終わったし、荷物も全部回収できたし……もう寮に向かえば良いんだよな?」
「待て、成歩堂。同じ便に知り合いのお嬢さんも乗っていただろう。彼女を探さなければ」
「ああ、そうだった」
 ぼくとこの亜双義一真は今年の春に東京の大学を卒業し、イギリスの大学院に進学を決めた。学部は違ったけれど留学先も同じ大学を選び、今日遂に移動の日を迎えたのだ。
 亜双義の知り合いというお嬢さんは亜双義がお世話になった教授の娘さんで、高校の特待生として一年間の留学を認められたそうだ。出発前に簡単な挨拶をしたのだけれど、確かにキリッとしてとても賢そうな印象だった。
 女の子一人で何もかもさせるのは心配だからと、教授がぼくらの出発に合わせて送り出し、これから彼女の寮までは送ってあげることになっていた。忘れていたのは長旅の疲れと入国の慌ただしさのせいだ。
 本当は一緒に降りるつもりだったらしいけど、席が離れていたし人も多くて、ぼくは亜双義とはぐれないようにするのさえ一苦労だった。
「携帯に連絡してみる。電源を入れ忘れていなければ良いのだが」
「税関の出口で待ってみようか? あそこなら出てくる人が必ず通るし」
「そうしよう」
 亜双義は荷物の乗ったカートを押しながら電話をかけ始めた。さっき通ったばかりの出口に戻ってみると、ツアーコンダクターや留学生の迎えらしき人が大勢いた。みんな考えることは同じだ。
「もしもし……ああ、やっと繋がった。今どこに?」
 何度目かでようやく電話が繋がったらしい。ぼくらが生まれた頃は海外で連絡を取るのも大変だったけど、今どき携帯さえあれば地図もいらないのだから便利なものだ。
……そうか。分かった。迎えに行くからそこで待っていてくれ」
 彼女は既にここを通り過ぎ、ぼく達を捜し歩いていたらしい。そう言って通話を切ったものだから、これからどこへ向かえば良いのかと聞いたら、ここで待っていてほしいという。
「荷物が大きいからな。ここでキサマと一緒に待っていてくれた方が動きやすいし、彼女の荷物を持ってやらねば」
「分かった。じゃあ行ってきてくれ」
 今は朝の十時を過ぎたところで、ぼくらの寮へは夕方五時までに行けば良いと言われている。時間はむしろ余るくらいだ。焦ることはない。親友の背中を見送った後、どこか邪魔にならない場所に移動しようと周りを見回していると、腰のあたりにぽふっと何かがぶつかってきた。
「わあっ、ごめんなさい、お兄さん」
 目線を下げると、十歳くらいの女の子がこちらを見上げていた。印象的な赤毛に変わったゴーグルをかけて、小さなリュックを背負っている。ホールドアップするように両手を挙げて、申し訳なさそうな上目遣いが可愛らしい。
「大丈夫だよ。ぼくの方こそごめんね」
 こういうときに英文科で良かったと思う。いや、そうでなかったら留学なんかしていないだろうけど。
 女の子は安心したような表情を見せた。このままどこかに行ってしまうものと思ったけれど、じっと動かず綺麗な緑色の目でじっとこちらを見つめている。
……お兄さん、日本人?」
「うん、そうだよ」
「もしかして、さっき着いた飛行機に乗ってきた?」
「うん。君は誰かのお迎え?」
「そうなの。おニイちゃんと一緒に、パパのお迎え」
 飛行機にはビジネスマンらしき人も乗っていた。仕事から帰ってくるのを迎える子供たち。何とも素敵な話じゃないか。他にも何便か同じ頃に着いたらしくて色んな所で行列ができていたから、この子のお父さんはそこで時間がかかっているのかもしれない。
 お兄さんと一緒に来たというけど、今は一人なのだろうか。と、不意に背後から影が落ちてきた。
「あ、おニイちゃん」
「!?」
 振り返った先には、おそらく三十歳は超えていようかという男性が立っている。しかし女の子は明らかにこの人をお兄さんと呼んだ。朗らかな女の子とは対照的にものすごく険しい顔をした方で、兄妹よりは親子と言った方が丁度良いくらいの年齢差だ。
 お兄さんはとても背が高くて、見上げないと視線が合わない。流石、こちらの人は体格が違う。
「失礼した。この子が迷惑を」
「いえ、時間を持て余していたところですので……
 睨まれているのかと思ったらそうではなかったみたいだ。もともとこういう顔つきなのか。人生、苦労しそうだな。
「荷物番をしているのか?」
「あ、はい。すみません、邪魔ですよね」
「避けるのならこちらのカートは私が運ぼう」
 失礼なことを考えていたぼくを殴ってほしい。噂には聞いていたけれど、英国人は本当に紳士だったのか。早速イギリスの風を感じた気分になって小さく感動する。
 亜双義の荷物を壁際に避けてもらい、男性にお礼を言った。
「お兄さん、とっても大荷物なの」
「ぼくは留学生なんだ。そっちの荷物は友達のだよ」
「ではこちらで暮らすのか」
「はい、大学の寮に入る予定なのです」
「お友達と一緒に留学、楽しそうなの!」
「学部は違うけど、心強いよ。ぼくは海外自体が初めてだから」
「それにしては随分と流暢な英語だな」
「そ、そうですか? ありがとうございます。でもまだ学ぶことが多くて」
 とても感じのいい二人だ。互いに人を待つ間の暇潰しとはいえ、会ったばかりの他人とこうも和やかに会話できるなんて。
 これから帰ってくるという二人の父親は一体どんな紳士だろうと、興味が湧いたその時だった。
「アイリス!」
「あっ、ホームズくん!」
 女の子の顔がぱっと輝いて、声のした方へ駆けて行った。きっと父親が現れたのだ。振り向いた先で彼女が抱きついていたのはしかし、どう見ても横に立っている物静かな男性より若く見える金髪の男性。しかもこの子、父親らしき人を「ホームズくん」と呼んだぞ。もう訳が分からない。
「おかえりなさい!」
「元気だったかいアイリス! 少し背が伸びたかな?」
「たかだか一週間の出張だろうが……
 背の高い男性は呆れたように額を押さえた。姿といい物言いといい、あの少女はともかくこの二人が親子なのか? 少なくとも血縁はなさそうだ。
 金髪の男性はアイリスと呼んだ少女を抱きかかえたまま立ち上がり、こちら側を向いて人差し指を立てた。
「一週間の変化というのもなかなか侮れないものだよ。例えば、そう。アイリスの髪のセットが今一つだとかね!」
「ぐっ」
「コラ、ホームズくん! おニイちゃんをいじめない!」
「やはりボクほど綺麗には出来なかったようだね。でもそれ以外は完璧だ。アイリスを見れば分かるよ。面倒を見てくれてありがとう」
 余所者のぼくを置いて広がる会話。この人はやっぱり父親で、でもお兄さんは普段一緒には居ないような口ぶりで? 話を聞けば聞くほど、この三人の関係が分からなくなる。他人事だし不躾だとは思ったけれど、思い切って聞いてみた。
……あの、失礼ですが皆さんはどういうご関係なのですか……?」
 声を掛けると三人が一斉に振り返った。こうして並んでみると、少女の目鼻立ちは静かな男性に似ていて、仕草は金髪の男性に似ている気がする。
「あ、そっか。よく分かんないコトになっちゃってるよね」
 少女は父親の腕からぴょんと飛び降りて、ぼくの方へ向き直る。
「この賑やかな方があたしのパパ。血は繋がってないけどね」
 いま帰国したばかりの金髪の男性。すらりとした体型で整った顔をしている。柔和な表情をしているけれど、目の奥に何か計り知れないものを隠しているような印象だ。
「で、この静かな方はあたしの叔父さん。おニイちゃんって呼んでるの」
 叔父さんは険しい表情のまま腕を組んでいる。性格はあまり似ていないようだけれど、並んでみれば確かに、と思う部分がなくもない。
 なるほど叔父と姪と非血縁者ならこの不思議な三人の様子にも納得できる。とりあえず疑問は解決したが、これはなかなか複雑な家庭環境のようだ。

「アイリス、こちらは?」
「さっき知り合った日本人のお兄さんなの。そういえば、名前を聞いてなかったね。あたしはアイリス。よろしくね」
 アイリスちゃんはにこりと笑って、可愛らしくお辞儀をしてみせた。まだ幼くても立派なレディだ。
「よろしく。ぼくは成歩堂龍ノ介。来月からロンドンの大学院に進学するんだ」
 そう言った直後、後ろの二人が目を見開いた。ぼくは何か変なことを言ってしまったのだろうか。
「大学院生……ということは、もう成人なのかい?」
「はい。今年で二十三歳です」
「失礼、ティーンエイジャーかと思っていたよ」
 成人してから何年も経つというのに十代と間違えられるとは……アジア人が若く見られがちというのも実感せざるを得ない。
「ボクはシャーロック・ホームズ。そしてこちらの寡黙な男がバロック・バンジークスだ」
 ホームズさんが紹介すると、バンジークスさんは無言で一礼した。
「ボク達もロンドン住まいなんだ。またどこかで会えるかもしれないね」
「なるほどくん、遊びに来ればいいの!」
「それは楽しそうだね」
 あだ名をつけられてしまった。まあ、いいか。
「そういうことならボクの連絡先を教えておこう。困ったことがあった時はきっと役に立つよ」
 ホームズさんの言い方は少し引っかかったけれど、快く差し出された電話番号にはどこか頼もしさを感じた。
「ありがとうございます。あ、これぼくの電話番号です」
 なぜたまたま知り合っただけの人と連絡先の交換などしているのだろう。一瞬冷静になったが、これもきっと何かの縁だ。こちらでの生活が落ち着いたら訪ねてみるのも良いかもしれない。
 後々ぼくは自分の行動に助けられることになるのだけど、この時はまだ知る由もない。


 彼らを見送ったのとほぼ同時に、亜双義が帰ってきた。
「成歩堂、すまない。随分待たせたな」
「お待たせいたしました、成歩堂さま」
「いや、大丈夫。亜双義こそ、無事に合流できて良かったよ」
 高校生の御琴羽寿沙都さん。少し疲れた顔をしているものの、背筋は真っ直ぐ伸びている。
「誰かと話していたのか?」
「ああ、ちょっと縁があって。ぼくらと同じ便に乗ってた人とそのお迎えなんだって。荷物が多いのを見て手伝ってくれて、色々話してる内に連絡先まで交換してさ」
 そこまで言うと、亜双義の眉間に皺が寄る。
「キサマ、誰とでもすぐに仲良くなるのは良いが……危ない輩ではなかろうな?」
「変わった人達だったけど、悪い人じゃなかったよ。ロンドン市内に住んでるって言ってたからいつかまた会えるかも」
 警戒心の強い亜双義はまだ少し心配そうだったけれど、一度会っただけの人に電話をかけることなんてまずないだろう。しばらくあの家族のことは忘れて、ぼくらは各自の寮に向かうことにした。

 住所に示された場所は騒然としていた。野次馬らしき人だかりの合間に、車が何台も停まっている。日本のと見た目が違ってもすぐに分かる。消防車と救急車だ。警察もいる。辺りには何かが焦げた匂いがダメ押しのように立ち込めていた。
「なあ亜双義。ぼく、今ものすごく嫌な予感がしているんだけど」
「奇遇だな。オレもだ」
 火の手こそ上がっていないものの、これはどう見ても。
「ああ、君達は今日からここに入る子だね」
 管理人らしきおじさんが、大荷物の横で呆然とするぼく達のところへ駆け寄ってきた。
「入寮日にこんなことになってしまって、本当に申し訳ない」

 今朝遅く、ぼくらが空港に着いた頃のことだ。この学生寮で火事が起きて、ついさっき完全に鎮火した。被害があったのは何棟かある内の一つだけで、更に今は休暇中だったこともあって学生はほとんど残っておらず、人的被害は管理人の一人が少し煙を吸った程度で済んだらしい。
 ただ、建物の被害はあまり小さくなかった。火元となった部屋はもちろん、その周りも修理が必要になった。配管系統の一部も燃えてしまったから、しばらく建物自体をメンテナンスしなければならない。
 そして運の悪いことに、燃えたのはぼくが通う文学部系の生徒が入る棟なのだった。
「アソーギ君の方は問題ないのだけど、ナルホドー君の方が……いま管理室から大学に問い合わせをしているところでね。今年は他の棟にも空き部屋が無くて、最悪の場合、自分で下宿先を見つけてもらわないといけないかもしれない」
「なんですって!」
 声を上げたのはぼくではなく亜双義の方だった。
「もちろん修理が終われば入ってもらえる。しかし今ここに場所が無いことには我々にもどうしようもないんだ。うちに入るのは留学生がほとんどだから、皆こちらに頼れる人も居ないしね……
 おじさんは頭を抱える。緊急事態に言葉を失ったぼくの代わりに、また亜双義が口を開く。
「しばらくオレの部屋に泊まるというのはどうだ?」
 なかなかの名案に思えた。一部屋に男二人というのは手狭かもしれないが、部屋の修復が終わるまでの期間ならどうにかなるんじゃないだろうか。
 しかし管理人さんは眉根を寄せて首を振る。
「君達が寮の部屋を見たら、きっとそうは言えないと思うよ。一人が生活するのがやっとの広さだ。二人分の荷物なんてとても入らないし、今は平気でも新学期が始まったらすぐに限界を迎える」
 困った。今日明日の寝床なら適当なホテルで過ごせるかもしれないけれど、寮に入れるようになるまで何週間、下手すれば何ヶ月かかるか分からない。じきに大学も始まるし、この国に慣れるためにも定住できる場所は不可欠だ。何より、ホテル暮らしするような資金はない。
「無理を承知で聞くけど、ロンドンに知り合いなんて居ないだろうか? 部屋を出なきゃいけなくなった子の宿探しで手が足りないんだ」
 ロンドン、知り合い。その単語を聞いた瞬間、ふと空港で出会った人達の顔が過った。携帯の中に入っている、今日知り合ったばかりの男性の電話番号。困ったことがあったらきっと役に立つと言っていた。
 どうしよう。さっきの今で電話をかけるなんて、いくら何でも急すぎやしないか? でもロンドン市民ならここからあまり遠くには住んでいないだろうし、下宿かホテルを探すとすれば現地の人のアドバイスが欲しい。それに今以上に困った事態など、今後そう起こるとは思えなかった。
「分かりました。知り合いに力を貸してもらえないか聞いてみます」
「本当かい! それは助かる」
「おい成歩堂、キサマまさか」
「突っ込んでくれるな、亜双義。ぼくだって気は引けるんだ」
 自分で言いながら、恐る恐る番号を入力して発信ボタンを押した。これが唯一の望みだ。ホームズさんに断られたら大人しく直近の宿だけ探して、大学側に部屋探しを手伝ってもらえるまで待とう。というか、本来はそうすべきだ。
 電話に出てほしいような、出てほしくないような。そんな気持ちでコール音を聞いていた。
『やあ、ミスター・ナルホドー。電話がくるならそろそろだろうと思ったよ』
「え!?」
 呼び出し音が終わったと思ったら名乗る間もなく突然名前を呼ばれ、しかも電話が来るのを予想していたかのような言い草。驚くなという方が無理だ。
 言おうとしていたことが全て飛んでしまってしどろもどろしていると、そのままホームズさんが喋り続ける。
『家に帰る途中でボヤ騒ぎを見かけたからちょっと覗いてみたら、大学の学生寮だっていうからね。キミがそこに入る予定なら少なからず困ったことになっていると思ったのさ。最悪の場合、自分で部屋を探す羽目になっている可能性もあるとね』
 どこかでぼくのことを見ていたのではないかと思うほど的確な推理だ。もしかしたら本当にどこかで見られていて、犯罪のカモにしようと狙われているのかもしれない。でも今のぼくは困窮極まっていて、これ以上悪くなるような想像はできなかった。
「ええ……その最悪の事態に陥っておりまして。部屋を探したいので、もし良ければご助言を頂きたいなと」
 ホームズさんは気さくな方みたいだけど、こんな急なお願いをされたら流石に困るんじゃないだろうか。ぼくだって、自分が頼まれる側になったら助けてあげられるかどうか。
 二、三秒の空間と緊張。その後に携帯の向こう側から明るい声が聞こえた。
『分かった。とにかく一度ボクの家に来たまえ。ベーカー街221Bだ。お手数だがあの大きな荷物も持ってくることをオススメするよ』
「本当ですか! ありがとうございます! ではすぐに向かいます」
 ホームズさんも帰国したばかりで疲れているだろうに、なんて優しい人なんだ。信じられない気持ちで電話を切る。
 早速荷物を持って教えられた住所へ向かおうとすると、ぼくの様子を見ていた亜双義が立ち上がった。
「待て、オレも行く」
「亜双義は入寮の手続きがあるだろ。ぼくに付き合っていたら日が暮れて、お前まで今日の寝床を失うかもしれないぞ。自分のことを進めていてくれ。大丈夫だから」
 後で必ず連絡すると親友に言い聞かせて寮を後にする。顔に不服と書いてあったのは見えないふりをした。ぼくの助けになろうとしてくれるのは本当にありがたいけれど、あまり迷惑ばかりかけられない。運が悪かったとはいえ、これはぼくの問題だ。

 移動にはタクシーを使わせてもらった。贅沢だとは思ったけど荷物が多いし、不案内な場所だからそれが一番確実だったのだ。行先を伝えると、運転手さんが車を走らせながら声を掛けてくる。
「ホームズさんに相談かい?」
「え! ええ、まあ。ホームズさんのお知り合いなのですか?」
「ははは、知り合いなんかじゃないよ。でもロンドンで彼を知らない人は居ないさ」
 どうやら、偶然出会った人はかなりの有名人だったらしい。不安と緊張で固くなっている体をできるだけ落ち着かせようと、タクシーのシートに体を沈めた。



 ベーカー街221B。ノックすると大家さんらしきご婦人が案内してくれた。重いトランクを二階まで運んでくれた運転手さんにチップをはずんで、ドキドキしながらチャイムを鳴らす。と、ほぼ同時に扉が開いた。
「待っていたよ。四時間ぶりだね。どうぞ上がって」
「お、お邪魔します」
 いきなり開いた扉に度肝を抜かれ、緊張しながら部屋に入る。まず目を引いたのは雑多に置かれた物の多さだ。本、ファイル、実験器具、暖炉の上に置かれた靴やその他諸々。その反対側には可愛らしい家具が置いてあって、こちらはアイリスちゃんのスペースのようだ。机の上にはパソコンがある。
 この二人、一体何者なのだろう。そんなことも知らず助けを求めるぼくもぼくだけれど。
「なるほどくん、また会えて嬉しいの! ハーブティーを淹れたから、どうぞ召し上がれ」
「ありがとう」
 腰を落ち着けて、アイリスちゃんが入れてくれたお茶を一口飲む。この慌ただしい状況の中でも少し心が安らぐ香り。まだ幼いのに、本当にしっかりした子だ。
 さっそく電話をかけた経緯を説明する。火事が起こったことはもちろんホームズさんも承知だったから、更に詳しい話を。
「大変だったねー。入るはずの寮で火事なんて」
「今となっては入る前で良かったかもしれないと思い始めたよ」
「なるほどくん、ポジティブなの……
 ぼくだけじゃなくて、新学期が始まる前で良かった。満室の寮で火事なんて起きていたら、今回みたいな小さな被害では済まなかっただろう。それにぼくらの到着がもし昨日だったら。そう考えれば今の状況はまだかなりマシな方に思えてきた。
「それで、自力で部屋を探すつもりなんだね?」
「うん。来たばかりで土地勘もないし相場も分からないから、助言をもらえないかと思って」
「その話だけど、ここに住むというのはどうだい?」
……はい?」
 何もかもすっ飛ばした提案に、思わず首を傾げる。ここに住む? ぼくの聞き間違いかしらん?
「場所が良いからこの部屋を借りたんだが、ボクらには少し広すぎるし、その分家賃も高い。上に一つ空き部屋があるから、キミがそこに住んでボクに家賃を払えばお互い助かると思わないか?」
「即決なら、朝ゴハンのサービスもつけちゃうの!」
 親子二人で並んで、不動産会社よろしくプレゼンしてくる。まさかアイリスちゃんまで乗り気なのか? 家に知らない外国人が住むなんて、普通は歓迎されないと思うのだけど。いや、もちろん歓迎してくれるに越したことはない。
 どん底で窮地に追い込まれていたぼくに、きらりと光る蜘蛛の糸が降りてきた。出来過ぎなほどよく出来た小説のようで、今ひとつ現実感がない。かろうじて、ホームズさんが荷物を持って来た方が良いと言った理由だけは分かった。
「い、いいのですか?」
「むしろお願いしたいくらいさ。イマドキ、あえて他人とのルームシェアを選ぶ人はあまり居ないからね。部屋を見てみるかい? 掃除をしていなくて悪いけど」
 ぜひ、ということで、三人で屋根裏部屋に上がる。確かに掃除はされていなくて埃っぽいけれど、それなりの広さがあるし、大きな窓も照明もあって明かりも申し分ない。
 何もない部屋かと思いきや、机とベッドだけは置いてある。昔ここに住んでいた人が置いていったものらしい。古いものの壊れたり腐ったりはしていなくて、十分使えそうだ。この二つがあるだけでも大分違う。
 ここなら大学にも十分通える位置だ。寮よりは少し遠いけれど、どちらにせよバスか地下鉄を使うのだから大差ない。寮に払う予定だったお金があるから、家賃はそれで構わないという。
「ホームズさん、ぜひお願いします! まさかこんなに良い話を頂けるなんて!」
「いや、こちらこそ。もし良ければ、寮の修理が終わっても住んでいてほしいのだけど」
 ホームズさんからしてみれば、ぼくは要するに使わない部屋に住んで高い家賃を軽減してくれる相手というわけだ。家賃が変わらないのなら、特に引っ越す理由も見当たらない。管理人さんの話によれば寮の部屋はかなり狭いみたいだから、こちらの方が条件は良いかもしれないくらいだ。
「そうですね。きっとそうさせてもらうと思います」
「助かるよ。それじゃ、これからよろしく。ミスター・ナルホドー」
「やったあ! なるほどくん、よろしくね!」
「はい、よろしくお願いします!」

 交渉成立、さっそく部屋の掃除に取り掛かる。疲れていても、今夜からちゃんとした場所で寝られると思うだけでやる気になれる。ホームズさんは今日帰国したばかりだからと、アイリスちゃんが手伝ってくれた。
「そういえば、バンジークスさんは……
「おニイちゃんはここには住んでないの。たまに遊びに来るから、そのうち会えるよ」
 言われてみれば、空港でそんな話をしていたな。まさか空港でたまたま会っただけの学生が姪と一緒に住むことになったとは、彼も想像していないだろう。
 ……どんな顔をされるか、ちょっと怖いな。



 掃除が一通り終わって、やっと部屋として使えそうな様相を呈してきた。とりあえず今晩眠るだけなら何の問題もないだろう。
 まだ明るいけど、時計を見るともう五時近くになっていた。一息つくついでに携帯を見る。しまった、あいつのことを忘れていた。着信が何件か。それと、メッセージの通知が十件以上。最初の着信が十分ほど前だから、幸いにも長時間無視していたことにはならなかった。
 慌てて折り返しの電話をかけると、コール音一回分も待たずに通話が開始する。ごめんよ亜双義。
『成歩堂、大丈夫か? 俺の方は一通り手続きが済んだのだが、やはり今からでも俺が』
 本当に心配をかけてしまった。こんなに焦った声は聞いたことがない。
「落ち着いてくれ亜双義。無事に家は見つかったよ。もう安心だ」
『何? さっきの今だぞ?』
「とりあえず、これから夕飯でも食べに行こう。詳しいことはそこで話すよ」
『ああ、分かった』
 話ができて少しは落ち着いたみたいだ。知り合ったばかりの人の家に居候することになった、なんて言ったらまた心配させてしまうだろうか。でも、考えうる中で最高の選択肢だと思うんだよなあ。


 二人に理由を説明して外へ出る。こんなに色々してもらった上に、いきなり食事までお世話になってしまうのは憚られるという気持ちもあった。
 ただの感覚に過ぎないけれど、とても良い人たちだ。嘘を吐いているようには見えない。もし彼らが詐欺師だったとしても、騙す相手としてぼくを選ぶというのはあまりにも見る目がないと思うし。
 とにかく住む家が無いよりずっと良い。せっかく蜘蛛の糸を掴めたのだ。前向きになれば、きっとこれから上手くいくはずだ。


「空港で知り合った人の家に厄介になる、だと?」
 亜双義と駅で待ち合わせて、近くのパブで夕食をとることにした。親友の反応は大方予想通りだったし、まあ当然だろう。自分でもまだ実感がないくらいだ。
「ああ。ホームズさん、使わない部屋があるから住んでくれる人を探してたんだって」
「そんな都合のいい話がよく転がり込んできたものだ。そのホームズ氏は何をされている方なんだ?」
「うーん、自営業らしいんだけど詳しくは教えてもらってなくて」
 そんな話をする暇はなかった、というのが正しい。そういえば有名人らしいし、怪しい仕事ではないと思うのだけど。その内に聞いてみれば良いか。
「大丈夫なのだろうな?」
「まあ、空港でも言った通り悪い人ではないと思うよ。今月の家賃の支払いは危なかったみたいだけど」
「本当に大丈夫なのだろうな!?」
「自営業だから、収入が不安定なのかもなあ……だからこそ同居人を探してたんじゃないか?」
 亜双義の目が「楽観的過ぎるぞ」と訴えてくるようだ。そりゃまあ、ホームズさんが家賃を払えなくてぼく共々追い出される、なんてことになったら大変だけどさ。
……何かあったら、すぐ連絡するのだぞ」
「心配性だなあ、亜双義。ぼくだって成人してるんだから一人でどうにかできるよ」
「キサマはどこかぼんやりしているからな。心配にもなる」
 煮え切らないなりに納得はしてくれたらしい。正直なところぼくとしてもホームズさんについては分からないことだらけで、不安がないと言えば嘘になる。でもきっとそれはお互い様だ。彼だって、いきなりよく知らない外国の学生を家に住まわせることになったのだ。ぼくが出来ることは限りなく少ないけれど、こうなった以上は見込み通りの人間だといってもらえるように頑張ろう。
 嵐のような一日がようやく終わろうとしている。
 イギリス初日を祝してエールで乾杯すれば、あっという間に夜は更けていった。


 翌朝、新学期が始まるまでは生活環境を整えることに専念する。ベッドがあって助かった。お陰様で、旅の疲れは大方取れている。大学に住所変更の連絡をしないといけないし、ビザの登録をした住所が変わってしまったから大使館にも行かないと。でも週末に入ってしまったから、それは週が明けてから。
 こちらで揃えようと思っていた日用品を買いに、今日も亜双義と出かけた。ぼくはつい無駄なものを買ってしまいがちだから、その見張り役も兼ねて。
 食器や水回り道具、洗剤などの消耗品、そして少しの食料品を買うとあっという間に両手がいっぱいになった。今まで引っ越しなんてしたことがなかったから、こうしてみると存外多くの物に囲まれて過ごしていたのが分かる。

 これ以上は荷物を増やせなくなって、今日は自分の部屋に戻って続きはまた明日にしようと別れた。近場で揃えたとはいえ、両手いっぱいの大荷物を運ぶのはなかなか骨が折れる。よろよろと歩いてようやく家が見えてきたと思ったら、ドアの前に女性が立っているのが見えた。
 どこか見覚えがある後ろ姿だ。それにあの黒髪、もしかして。
「寿沙都さん?」
「きゃっ!」
 後ろから声をかけると女性は小さく飛び上がった。そんなに驚かせるようなことをしたかな、ぼく。
 振り返った女性はやはり寿沙都さんだ。彼女も今日は買い物に出てきたのだろう。手には紙袋を抱えている。
「ああ、成歩堂さまでしたか」
「こんな所でどうしたのですか?」
「あ、あの、私……ロンドンに来たらこのお宅を一目見たいと思っておりまして!」
「この家?」
 握った拳が力強い。上品で物静かな印象だったけれど、こんなに興奮して目を輝かせることがあるなんて意外だ。
 ただ、目の前にあるのはどう見てもぼくが住む家だ。ここは観光名所か何かだったのだろうか。
「ええ! かの有名な大探偵、シャーロック・ホームズさまのお宅ですとも!」
「かの有名な、大探偵……
 この家に住んでいるシャーロック・ホームズといえば、やはりあの人しか居ないだろう。何の仕事をしているのか気にはなっていたけれど、なるほど、探偵。タクシーの運転手さんが言っていたことを思い出した。しかし寿沙都さんも知っているなんて、どうやら世界的に有名な人だったようだ。ぼくは知らなかったけど。
「成歩堂さま、もしかしてご存知ないのですか?」
「恥ずかしながら……
「成歩堂さまもこちらのお宅をご覧にいらしたのかと」
「いえ、ぼくはここに帰ってきたのです」
 寿沙都さんに怪訝な顔をされてしまったので、ここに至る経緯を簡単に説明した。空港での出会いから、火事のこと、そして数時間後の再会について。ぼくは昨日から何度同じ話をしているのだろう。
「そ、それでは、あのシャーロック・ホームズさまのお宅に居候を!?」
「はあ、お互いの利益が一致しまして」
「そんなことが起こるなんて……!」
 寿沙都さんの顔を見なくても、羨望の眼差しで見られているのが分かる。そんなに栄誉あることだったのか。知らなかったとはいえ、なんだかとてもむず痒い。
……良かったら、上がっていきますか? あくまでぼくの部屋に、という体裁ですが」
「!!」
 一人で来た女子高生を部屋に上げるなんて本当は良くない。けれど、ここで「それでは」と帰ってしまうのはあまりに薄情じゃないだろうか。ホームズさんはまだ外出中でもアイリスちゃんが居るはずだし、問題はないはずだ。たぶん。
 
「おかえりなさい、なるほどくん」
「ただいま」
 アイリスちゃんはリビングで学校の宿題をしていた。ぼくと寿沙都さんに気付くと、ノートを畳んでぱっと顔を輝かせた。
「そのお姉さんは? お友達?」
「友達……うん、そうなるかな。一緒に日本から留学してきた、御琴羽寿沙都さん。さっきたまたまそこで会ったんだ」
「お邪魔いたします」
「おお! 仲間がどんどん増えるの!」
「寿沙都さん、こちらはホームズさんの娘さんで、アイリスちゃんです」
「よろしくお願いいたします、アイリスさま」
「うん、よろしく!」
 歳は離れているけれど、女の子同士というのは打ち解けやすいものなのだろう。むしろぼくの方が蚊帳の外になりつつあった頃、すぐ後ろで声がした。
「そんな所に立っていないで、どうぞお座りください。お嬢さん」
「あっ」
 階段を上がる音も聞こえなかったのに。ホームズさんは寿沙都さんに恭しくお辞儀すると、見たこともないような良い笑顔でウインクして見せた。さすが英国紳士と言うべきだろうか。
「ホームズくん、おかえりなさい」
 その時の寿沙都さんといったら、驚きと感動と喜びを掛け合わせたような、とにかく満開の桜のような顔だった。

「へえ、アイリスのブログの読者というわけか」
「まあ! あのブログはアイリスさまがお書きになっていたのですか!」
「そうだよ。日本の人にも読んでもらってるなんて嬉しいの!」
「私、あれを原文で読めるようになりたくて英語を勉強し始めたのです。ああ、寿沙都は感動いたしました」
 寿沙都さんを交えてリビングで話を始めたのだけど……全然、話についていけない。ブログってなんのことだろう。
 いまひとつ理解の追いつかない話題で、寿沙都さんはあっという間に親子と仲良くなった。なんなら、ぼくより寿沙都さんの方がホームズさんについて詳しいかもしれない。
 つい口数の減ったぼくを見て、ホームズさんが感づいてしまったらしい。
「もしかしてキミ、ボクが何者か知らずにずっと過ごしていたわけじゃないだろうね」
「え」
「うーん、まあ外国のニュースになることは滅多にないから、仕方ないの」
「え、え」
 おろおろしていたら、アイリスちゃんが自分の部屋からノートパソコンを持ってきた。画面には英語のブログ。タイトルは……『シャーロック・ホームズの事件記録』。すごいアクセス数だ。
「あたしね、ホームズくんが解決した事件の記録をブログにしてるの。けっこう人気があるんだよ!」
 世界的に有名な探偵、と、人気ブロガー。なるほど、さっき話していたのはこのことだったのか。ブログなら寿沙都さんが日本で読んでいたというのも分かる。
 この親子が何者なのかようやく掴めてきた。ちょっと変わった家に転がり込んだ程度の認識だったけれど、これはなかなか。
 ブログを読んでみようかと一瞬思って、やめた。きっと本人たちから聞く方が面白い。今度こそちゃんと会話の輪に入って、彼らの話に耳を傾けた。


 研究室での予定が早めに終わって、ぼくは法学部の棟へ向かっていた。今日は亜双義と会う約束をしている。待ち合わせの時間まではもう少しあるから、近くのベンチに座って待つことにした。
 そろそろ出てきても良い頃だ。通行人をぼんやり眺めていると、一際背の高い人影が目についた。まだ夏の暑さが去らないというのに、長袖の白いシャツに灰色のベストをきっちりと着ている、しかし至って涼しそうな顔の男性。その顔を見て、霞がかったような思考が一気にはっきりとしてくる。思わず声を上げていた。
「バンジークスさん!」
「?」
 ベンチから飛び降りるようにして駆け寄る。一度しか会ったことはないけれど、アイリスちゃんと同じ色の目。やはり見間違いではない。どうしてこんな所に。
「君は……空港で会った」
「成歩堂です。またお会いできましたね」
「ここの学生だったのか」
「はい。バンジークスさんはここで……働いているのですか?」
 平日の昼間に大学構内を歩いている人は限られる。教授にしては若いから職員か学生かもしれない。はたまた大学の研究に協力している企業の社員という可能性もある。
「立場的には客員講師と言うべきか。現代裁判の講義で何度か講演をしてほしいと依頼があって来た。本職は検事だ」
「そうだったのですか。優秀なのですね」
「いや、決してそういうわけでは……本当は他の検事に来た話だったのだが、多忙ゆえ押し付けられてしまったのだ」
 それでも、代理として来られるくらいなのだからやはり優秀なのだろう。法学部の講義と聞いて、亜双義がちょっと羨ましくなる。
 こんな所で会えるとは思わず、つい顔が緩んだ。
「ではまたここにいらっしゃるのですね」
……嬉しそうだな」
「こちらで初めてできた知り合いですから。ホームズさんとアイリスちゃんにはすぐ再会できたのですが、バンジークスさんにはなかなかお会いできなくて」
「ああ、探偵の家に部屋を借りたそうだな」
 ぼくから言おうとしていたことを先に言われ、少し驚いた。まだあの家に住み始めて二週間と経っていない。
「ご存知だったのですか」
「姪が毎日メールを送ってくるのだ。同居人が増えたと喜んでいた」
 彼女の日記のようなものだろうか。一緒に住んでいなくても、毎日メールでやりとりするなんて相当仲が良いな。
 アイリスちゃんの話をするときのバンジークスさんは少しだけ雰囲気が柔らかくなる気がする。この家族にどういう事情があるかは分からなくても、あの少女を可愛がっていることは間違いない。単純と思われるかもしれないけれど、そんな彼が悪い人にはとても見えないんだ。あの時感じた印象は、今も全く変わらない。
「君とは意外と縁があるようだ。時間ができればベーカー街に足を運ぼう」
「楽しみにしています。ああ、すみません、お引き留めしてしまいました」
「構わぬ。今日は帰るだけだからな」
 ではまた、と短く挨拶をして、バンジークスさんは靴の音を響かせながら去っていく。その背中を見つめて呆けていると、強い力で背中を叩かれた。
「ぎゃっ」
「キサマ、名前を呼んでも気付かんとは」
「あ、亜双義! ごめんよ」
 こちらは半袖のシャツに腕を通した熱い男。こいつの隣にいると、まだ夏は終わらないなと思う。そうだ、ぼくは亜双義と待ち合わせしていたのだった。
 呼ばれていたのを無視していたことを謝ると、亜双義は首を振った。
「いや、俺の方こそ待たせたようだ。今話をしていたのは?」
「見てたのか」
「見えたのだ」
 あえて聞かずとも、怪しい奴ではなかろうなと目が語っている。まったく、お前はぼくのお母さんか。
「空港で会った人だよ。まさかこんな所で会えるとは思わなくて」
「ああ、女の子の叔父という」
「現役の検事で、法学部の客員講師として何度か講演するんだって。亜双義、ちょっと覗いてみたらどうだ?」
「検事? ほう……それは面白そうだ」
 その口調がどこか好戦的なのは気のせいだろうか。
 亜双義は検事を目指している。こいつは正確には法学部の院ではなく、ロースクールに通っている。となればバンジークス検事は先輩にあたるはずなのだけど、負けず嫌いで何かと人と張り合いたがる奴だからなあ……何にせよ、この感じならきっと講演を覗きに行くのだろう。どんなものだったか、今度聞いてみたい。


 休日は亜双義や寿沙都さんと会うこともあるけれど、家で同居人と過ごす時間も増えた。ホームズさんが仕事で家を空けることがよくあるらしく、まだ幼い女の子は家に遊び相手が居るのを喜んでくれる。小学校に通っていても家に居る時間はアイリスちゃんが一番長い。いくら利発でしっかりしているといったって、やはり寂しさはあるのだろう。ぼくもこちらに来て人と共同生活をするとは思っていなかったし、慕ってもらえるのはやはり嬉しい。
 今日はホームズさんも在宅している……というか最近は仕事が無いらしい。リビングの隅にある机の上で何かの実験をしながら、ときどきぼくとアイリスちゃんの会話に口を挟んでいる。手順や計量がどこか適当な様子を見るに、ただの暇潰しのようだ。来月の家賃、大丈夫なのかしら。
 そんな調子で午後の時間を過ごしていると、玄関のチャイムが鳴った。
「アイリス、悪いが出てくれるかい」
「はーい」
 アイリスちゃんがぱたぱたと玄関に向かう。寿沙都さんや亜双義なら事前に連絡をくれるはずだから、ぼくのお客さんではなさそうだ。
「あれ、おニイちゃんだ!」
 玄関から嬉しそうな声が上がった。それに続いて落ち着いた低い声が聞こえてくる。
「近くまで来たのでな。変わりないか?」
「うん! どうぞ上がって。今日はみんないるよ!」
「あまり長居はできぬが、そうさせてもらおう」
 バンジークスさんの来訪と分かって、ぼくも少しだけわくわくする。ここで会うのは初めてだ。
 部屋に入ってきた彼はこの前に会ったときのような服装だった。今日も仕事があったらしい。忙しい人だとは聞いていたけれど、休日もこれじゃなかなか会いには来られないだろう。
 少し疲れたような顔を押し込んで、バンジークスさんは椅子に座った。
「同居人が増えたと聞いて、妙な輩ではなかろうかと思っていたが……心配は無いようだな」
「まあ、知り合ったばかりの外国人を住まわせると言ったら心配にもなりますよね」
 叔父さんのお眼鏡には適ったようで何より。本人が気にしないと言ったって小さな女の子なのだから、それはもう周りが心配してやまないだろう。
 今思うと、空港で妙な奴だと思われなくて本当に良かった。あの時の印象が悪かったら今ぼくはここに居られなかったかもしれない。
「その点はボクの人を見る目を信頼してほしいものだね!」
「貴様の観察力は承知しているが、道徳的な面ではあまり信用がおけぬ」
「なんてこった! この世界にボク以上の道徳心を持った人間なんて居ないだろうに!」
「そういうところだ」
 何というかこの二人、決して険悪なわけではないのだけど、ただ反りが合わないんだろうなあ。

 ハーブティーを飲み終えた頃、バンジークスさんは静かに立ち上がった。
「今日はこれで失礼する。そろそろ戻らねば」
「お仕事ですか?」
……まあ、そんなところだ」
 歯切れが悪い。嘘ではないけど、本当のことも言っていないような。それがどうも心に引っかかる。


 バンジークスさんが帰った後、何となく思っていたことが口に出た。
「彼女、ですかね?」
 本当に何気なく言ったつもりだったのだけど、アイリスちゃんは目を丸くするし、ホームズさんに至っては噴き出した。
「ぶっ、アッハッハッハ! 彼女! あの検事クンに! アッハッハッハッハ!」
「ぼく、面白いこと言いました?」
 笑い過ぎて呼吸がままならないらしく何も答えてくれない。代わりにアイリスちゃんが口を挟んだ。
「いくらなんでもそんなに笑ったらおニイちゃんに失礼なの!」
「そうは言ってもね、アイリス。あの仕事しか頭にない男に恋人なんて!」
 そしてまた笑い始める。バンジークスさんに恋人ができるって、そんなに有り得ないことなのか? ぼくからはむしろ女性の引く手数多に見えるけれど。
「でも分からないじゃないですか。ホームズさんの知らないところで出会いがあったかもしれませんよ」
「分かるよ。彼の香水も、携帯を確認する頻度も、ネクタイの趣味も変わってない。あれは恋人なんかじゃなくて、苦手な相手との会食だよ」
 会食があるなんて一言も聞いていないのに、さも知ったような口ぶり。ぼくもそろそろ分かってきた。ホームズさんがこう言うときはいつも根拠があって、大体当たっているのだ。
 それはそうとバンジークスさん、恋人はいないのか。いい人だし頭も良さそうなのにな。顔はまあ、ちょっと怖いけど。どこか他人を寄せ付けない雰囲気があるというか……ただぼくが彼に会うときは家族の前が多いから、それをあまり感じないだけなのかも。
 なんだろう、胸に広がるこの気持ちは。

「ミスター・ナルホドー」
 研究室を出て帰ろうとしていたところ、後ろから聞き覚えのある声がぼくを呼ぶ。振り返ればやはりその人だった。
「あっ、バンジークスさん!」
「よく会うな。君は文学院の学生だったはずだが」
「友達がロースクールに通っているもので……今から講演ですか?」
「いや、帰るところだ。君は?」
「ぼくも帰るところです。途中までご一緒させてください」
 聞けばバンジークスさんの講演は午後で、いつもこれくらいの時間に帰るのだとか。前に会った時は打ち合わせだったと言っていた。
「大学には慣れたか?」
「はい。教授は優しい方ですし、友達も増えました。年間の研究テーマも固まりそうなので、これから忙しくなりそうです」
「何よりだ」
 彼に会うと不思議と嬉しくなる。話をするのは楽しいし、その一日がとても良い日だったように感じる。あまり会えない人だからかな。

 校門への階段を降りている時のことだった。冷たい空気を感じてふと彼の方を見ると、誰かが何かを振り上げようとしている。知らない顔だし、それが何かは分からない。ただ背筋が凍る感覚だけは確かだ。何か嫌なことが起きようとしている。スローモーションの後、そいつと目が合う。反射的に叫んでいた。
「危ない! 後ろ!」
「!?」
 バンジークスさんが振り返ると同時に、ぼくは後ろの奴に体当たりする。手に持っていたものがごとりと音を立てて落ちた。大きめの石みたいな何か。
 そっちに一瞬気を取られて、何が起きたか分からなかった。気付いたときにはもうバランスを崩していて、肩から階段に叩きつけられた。重力に従って転がり落ちる。数にして十段もなかったはずだけど、その時のぼくには何十段も転がっていたように感じた。
 多分、相手に押し返されたのだと思う。でなきゃ後ろに倒れるはずがない。地面に寝転がりながらそんなことを考えていた。
 そうだ、バンジークスさん! 彼も突き飛ばされたりしていないだろうか。打ち身だらけの上半身を気合で起こすと誰かが肩を支えてくれた。誰だろうと視線を上げて、息を呑む。
「ミスター・ナルホドー、頭は打っていないか。出血は」
 バンジークスさんの顔がとても近い。近すぎて照れてしまって、まともに顔を見られない。いや、今はそんなことを考えている場合じゃないんだけど、分かっているんだけど。
「あ、頭は打っていませんし、血も出ていません。大丈夫です。それより襲ってきた人は」
「身の安全の方が大事だ。だが心配はいらぬ。通行人に取り押さえられた」
 階段を見上げると、踊り場に人だかりができている。ちょうど駆け付けた警備員に引き渡されるところで、ひとまずは安心だ。
 いつまでも地面に座っているわけにもいかない。バンジークスさんの手を借りて立ち上がる。
「いっ!?」
 ……立ち上がろうとして、右の足首に思わぬ痛みが走った。バンジークスさんが支えてくれて倒れずに済んだ。さっき捻ったのか。立ってみるまで分からなかった。
「足が痛むのか」
「捻ってしまったみたいです。安静にしていれば痛くないので、骨は大丈夫だと思いますが……
 体重をかければ当然痛い。歩けないほどではないものの、ただ捻っただけにしては痛みが重い気がする。ぼくにはやや高すぎる肩を借りたまま、ベンチまで連れて行ってもらった。


 やがて警察がやって来た。口髭に帽子を被った、どこか不機嫌そうな男性だ。バンジークスさんとは顔見知りのようで、話はてきぱきと進む。
 怪我をしているということでぼくは大学の医務室へ連れて行ってもらい、手当てを受けながら事情聴取を受けた。多少の打ち身や掠り傷はあるものの外傷は大したことはない。頭も無事だ。捻った足を診てもらったら、どうやら捻挫しているらしい。その程度で済んで良かったと思うべきか……なんだか、こちらに来てから不運を許容してしまう体質になってきている気がする。

 諸々を終えて、警察は帰っていった。
「さっきの犯人、顔見知りですか」
 ただの通り魔だとしたら選ぶ相手も場所も不自然だ。〝背が高く体格の良い相手〟に対し、〝高さの有利を取るために〟あの場所を選んだのではないかと考えずにはいられない。
「悪くない勘だな。危うい空気を感じてなおそれを聞く愚直さにはあまり感心せぬが」
 バンジークスさんの視線が冷たい。すごく遠回しに、危険に首を突っ込むなと言われているんだと思う。でもぼくは目を逸らさなかった。自分が怪我をした理由くらい知ったって良いだろう。それに、突き放されるのはなんだか嫌だったから。
 彼は半ば諦めたように短く息を吐き、いつもの表情に戻った。
「直接の知り合いではない。が、どこの者かは予想がつく」
「それは……
 人から恨みを買う機会など一般人ならそうそう無い。でも彼は、犯罪者と関わる仕事をしている。
……君には話しておこう。私が検事だとは知っているな」
 無言で頷いた。
「職業柄、逆恨みを買うことがままある。特に私は最近まで余計な異名が付けられていてな……つい先日も強盗を働いた者を二人ほど有罪にしたのだが、あれはおそらくその仲間だろう」
 バンジークスさんは異名と言うけれど、つまり法曹界や犯罪者の間では有名で、良からぬ人に狙われやすいということだ。この感じからすると襲撃に遭ったのも今回が初めてではなさそうだ。
「私が取り逃がしたばかりに……すまない、迂闊であった」
「そんな、あなたのせいではありませんよ。どんな理由があろうと、暴力を働く方が悪いのです」
 彼のせいではないのに彼は申し訳無さそうにする。
「とにかくそういう訳だ。あまり私に近寄らぬ方が良い」
「一人だったらあなたが怪我をしていたじゃないですか。誰かと居た方が安全です。絶対に」
「だがそれで君に怪我をさせていては」
「せっかく偶然にも知り合えたのです。ぼくはこの縁を大切にしたい」
 勢いに任せて言葉にしてから、告白してるみたいだと気付いた。返答はない。そりゃそうだろう。出会って日の浅い年下の男からこんなことを言われたら困るに決まっている。バンジークスさんは複雑そうな表情で、ぼくの前でしゃがんだ。
「今日は家まで送ろう。私の背に乗るがいい」
「ええっ! そんなことさせられません! ただの捻挫ですから、歩けないことはありません」
「だが痛むだろう。心配せずとも、この裏手に車を停めてある。人に見られることはほぼない」
 ああ、車までおぶってくれるのか。いやいやそれも申し訳ないけれど。
 渋るぼくに痺れを切らしたのか、眉間に皺が寄る。
「背に乗るのがどうしても嫌と言うなら、横抱きにして運ぶぞ」
……それはどうかご勘弁を」
 想像するのも恥ずかしい。自力で歩かせるという選択肢はどうしても無いようで、仕方なく広い背中に体を預ける。首に回す腕は控えめにしていたら、もっとしっかり掴まれと怒られた。
 小柄な方とはいえ成人男性だ。重くないだろうかと思ったけれど、全くの杞憂だった。バンジークスさんほど体格の良い方にとっては、子供と変わらないのかもしれない。ぼくを背負ったまま走り出せそうだ。
 おんぶされるなんて何年ぶりだろうか。それどころか、こうして特定の人と密着すること自体が久し振りの感覚だ。人の背中って、温かいな。それに良い香りがする。安定して支えられているという安心感もある。この状況はやっぱり恥ずかしいけれど、思ったよりも心地良い。
 助手席のドアを開け、そこへ丁寧に降ろされた。離れた背中が少しだけ名残惜しい。
「ありがとうございます」
「これしきのこと。私こそ君に助けられたのだから、礼を言うのはこちらの方だ」
 運転席の扉が閉まって、車が発進する。車内という密室に二人きり。今ならさっき言えなかったことを聞ける気がした。
「もしかしてアイリスちゃんの所へ頻繁に行かないのも、危険から遠ざけるためですか?」
「! ……なかなか鋭い」
 実際に危ない目に遭って分かった。どれだけ忙しいといっても同じ市内に住んでいるし、毎日メールのやり取りをするほど仲が良いのだから、もっと会いに行っても良さそうなのにと思っていた。
「時間が取れぬのも事実だ。だが必要以上に私が近付けば目を付けられる可能性はある。聡いとはいえ、あの子はまだ幼い。口惜しいが探偵の傍に居るのが一番安全なのだ」
 ホームズさんとバンジークスさんはあまり仲良しには見えなかったけれど、そこまで言い切るとは相当な信頼があるらしい。まあ、可愛い姪っ子なのだから信頼できる人にしか預けられないか。

 その後はさっきの話を忘れるように別の話をして、やがてベーカー街に到着した。車から降りるときには手を貸して、そのまま体を支えてくれる。車から玄関までたった数メートルなのに。
 ドアの前、バンジークスさんがぼくの方に向き直った。
「どうかその怪我が治るまで、送迎をさせてはもらえぬだろうか」
「い、いやいやいや、そこまでしていただかなくても! 本当に大丈夫です!」
 急に何を言い出すのかと思ったら、こんなことを考えていたのか! 確かに危ない目には遭ったけれど、怪我は軽いし何もそこまで深刻に考えなくても。
「私の気が済まないのだ。大した遠回りでもない。姪に挨拶もできる。それに……誰かと居る方が安全なのだろう?」
「それ、今言いますか……
 どうしても譲る気はないようだ。ぼくの言ったことを引用されてしまっては断れない。
 ぼくが大学へ行くのは週に四日。まだ新学期が始まって間もないし、大学で過ごす時間は世の社会人とだいたい同じくらいだ。ときどき午前で帰ったり寄り道することもあるから、その時は送ってもらわなくていいと念を押した。もちろん、バンジークスさんが遅くなるときはぼくが先に帰るとも。
 連絡先を交換して、バンジークスさんは帰っていった。さっそく明日から来てくれるらしい。すごく緊張するけど、どこか楽しみにしている自分が居る。


 ベーカー街から大学までは車だと三十分弱。朝は道が混んでいるから、空いていればもっと速いだろう。バンジークスさんは第一印象で無口な人かと思っていたけれど、意外と話が弾む。日本のことを教えてあげたり、家で日々起きる小さな事件のことを話したりしていたらあっという間に大学だ。
 車での送迎は思ったよりも目立たないらしく、特に好奇の目で見られたりはしなかった。そりゃみんな大学生で、もう落ち着いた年齢だ。ぼくがどうやって通学しようと誰も気に留めないのだろう。

「成歩堂! 何ださっきの車は! しかもキサマ、怪我をしているな!」

 ……この妙にタイミングの良い、保護者みたいな親友を除いては。

「なぜオレに言わん」
「いや、亜双義は関係ないだろ」
「それはそうだが……キサマはつくづくあの検事と縁があるようだな」
 事の顛末を伝えると、いかにも面白くなさそうな顔。本当に保護者じゃあるまいし。それとも何だ、親友が知らないところで人と仲良くなっていたのが気に入らなかったのか?
「なんだ、嫉妬か?」
「調子に乗るな。まあ、ヤツなら心配はないだろうが」
 冗談は一蹴された。そういう奴だよな、お前は。
 というか、あの亜双義がバンジークスさんを〝心配ない〟と言ったぞ。何があったんだ。
「珍しいな、お前がそんなことを言うなんて」
 空港の時も家探しの時も警戒心むき出しだった奴とは思えない。すると亜双義は苦い顔をして徐に口を開いた。
……講演でヤツを質問責めにしてやったのだが、全て綺麗に返されたのだ。思い出させてくれるな」
 あ、やっぱり行ったんだな、バンジークスさんの講演。悔しそうな様子からして、かなりコテンパンにやられたらしい。亜双義だって学部を首席で卒業するほど優秀だけど、まだ学生だもの。そこまで悔しがらなくても良いんじゃないか? まあ、そんなことを言って聞く男じゃないな。負けは負けということだろう。
「とにかく、優秀かつまともな倫理観を持った人物だ。せっかくの機会だからキサマも色々と教わると良い」
「ぼく、法律家になりたいわけじゃないのだけど……

 亜双義と別れて研究室へ。先輩も同級生も足のことを心配してくれた。いつも通りに戻ってきた感じがする。
 でも、今日が終わったらまたバンジークスさんが迎えに来るんだ。黒い車に乗って校門の前まで拾いに来てくれる。電車が車になっただけなのに、別世界に入ってしまったような特別感。たった三十分足らずの会話がとても心地良い。それがなぜなのかは分からないけれど。
 ああ、夕方が待ち遠しい。


 そんな生活が一週間ほど続いて、送迎してもらうのもすっかり慣れてしまった。話す度にお互いが心を開いていくのが分かる。検事の仕事や学生時代の話を教えてもらうと、彼が意外と身近に感じる。仕事が忙しくないのかと心配だったけど、ぼくの送迎を始めてから決まった時間に出るようになったから、むしろ助かっているのだとか。
 バンジークスさんが急いでいない時は、近くに車を停めてぼくらの家に寄っていくこともある。アイリスちゃんが喜んでくれるし、むしろ怪我をして良かったような気さえする。いや、良くはないか。

 ぼくの足は、先週に比べれば腫れも引いたし痛みも和らいだ。まだ右足だけで立ったりはできないから完治まではもう少しかかりそうだ。しばらく治らなくてもいいかな、なんて言ったら、皆に怒られてしまうだろうけど。

 スコットランドヤード前。用事を終えてグレグソンで遊んでいたら、待っていた人物が建物から出てきた。
「今日はミスター・ナルホドーの迎えに行かなくてもいいみたいだよ。友達と出かけると言っていたから」
 こちらに気付いたクセに無視して通り過ぎようとしたから、車に乗り込むところで声をかけてやった。わざわざ待っていたのになんてヤツだ。
「本人から連絡をもらっている」
 おやおや、連絡先を交換していたのか。これは意外。奥手なキミのことだから、てっきりまだだと思っていたよ。
「珍しいじゃないか。キミが車にアイリス以外を乗せるなんて」
……彼から聞いていないのか。私のせいで怪我をさせてしまった詫びだ」
「もちろん聞いているとも。大した怪我にならなくて良かった」
 いや、本当に。階段から落ちて軽い捻挫で済むなんて運の良い子だ。でもボクが聞きたいのはそういうことじゃないんだよ。
「いくらキミに責任があるといっても、軽傷の子を毎日送迎してあげるとは思わなかった」
「何が言いたい」
 彼の話題を出した時点で察せないもんかな。まあ、察していても自分から触れたい話題じゃあないか。
「キミ、あの子のことが好きなんじゃない?」
 そう睨むなよ。からかってるわけじゃないんだから。
「そのようなことは」
 ほら、目を逸らした。嘘が下手なんだから、最初からやめておけばいいのに。本当はどこかで気付いていたんだろう? 
「良いことだと思うがねボクは。あの子の言う通り、一人より誰かが隣に居る方が安全だ。相手が男なら尚更心配は少なくて済むじゃないか」
「そういう問題ではないだろう……
 世間体を気にしているのか? 〝死神〟とまで呼ばれたキミが?
「百年前とは違うんだ。同性のパートナーなんて珍しくもない」
「だとしても、彼の気持ちは無視できない。今の距離が適当だ」
 要は振られるくらいなら今のオトモダチ関係を続ける方がマシってか。ああ全く、これだから朴念仁は。それは「適当」じゃなくて「妥当」っていうんだ。
 ボクは恋なんてしないけれど、恋や愛がどれほど強い力で人間を動かすかは知っている。だから断言しよう。その恋はキミにとって必ず良い方向に働く。
「まあ、無理強いさせるつもりもないけどね。決断は早い方が良いよ。彼の足はほぼ完治してる。もう送迎の必要はないと言われてしまったらそれきりだ」
 少し大袈裟だったか。いや、これくらい言っておかないとこの男は動かない。
 独りに慣れ過ぎて咲く前に枯れてしまったかとさえ思っていた彼が恋だなんて。しかも出会って間もない、外国から来た青年に! こんな面白いこと、そうそう起こらない。
 あの子がどう思っているかは確かに問題だけど、さして分が悪い勝負でもないと思う。多少の苦労はあるかもしれないが。何にせよ、キミにとって良いことだと思ったから言っているんだ。名探偵の推理は当たるもんだぜ。

 今日、バンジークスさんに家まで送ってもらったら、言おうと思っていることがある。足は完治したので、もう送迎していただかなくて大丈夫ですと。
 朝に言えたら良かったのかもしれない。でも、言えなかった。悪いぼくが、今日いっぱいまでは良いじゃないかと囁いたのだ。もう走ったって平気なのに、甘えてしまった。
 大学はどこか憂鬱な気分で過ごした。上の空でいるわけにはいかないから研究室に居る間は忘れられたけど、集中力が切れるとダメだ。これからはバンジークスさんに迷惑をかけなくて済むのに、どうしてこんなに気分が落ち込むんだろう。
 彼が迎えに来る時間が近付くにつれ、溜息の回数も増える。

「すまない、待たせたか」
「いえ、全然」
 ぼくが校門前に立っているといつもこのやり取りがある。それも今日で終わるのだけど。
 乗り込む前、静かに深呼吸した。助手席に座ると車が出発する。道が混んでいなければ二十分ほどで着いてしまう。渋滞が起きていればいいのに、なんて初めて思った。

 願いも空しく車はスムーズに走った。信号も大半は青く、最短記録に迫る早さ。どうして今日に限って。ベーカーの家の前でいつものように路肩に停車する。
 言わなければ。これ以上先延ばしにしてしまったら、バンジークスさんにも迷惑がかかる。
「あの……ぼくの怪我のことなんですけど」
 ぼくの言おうとしていることが何となく伝わったのだろうか。バンジークスさんがサイドブレーキをかけた。そんなに長話をするつもりはないのだけど。
「すっかり完治したので、もう送迎していただかなくても、っ!?」
 シートベルトを外そうとした腕を急に掴まれた。どうしたんだろう。バンジークスさんの横顔はほとんど髪に隠されていて、表情が分からない。
「君は言ったな。せっかく出会えたのだから、この縁を大事にしたいと」
「言いました、っけ」
 語尾を曖昧にしてしまった。もちろん覚えているけれど、なぜ今それを。
「私もそれには同意しよう。君との縁は、大事にしたい」
 ありがたい言葉のはずなのに、どうしてぼくは逃げ出したい気持ちになっているんだろう。
「こんなことを言っても、困らせてしまうだけかもしれない。だが、私は」
 バンジークスさんがこちらを見た。何を、何を言うつもりですか。待ってください。
 気付いた時には掴まれた腕を振り解いていた。バンジークスさんの顔が凍る。違う、そうじゃない、こんなことをしたかったわけじゃない。じゃあ、ぼくはどうしたいんだ? 分からない。ただ言えるのは、今ぼくがやってしまったことは取り返しがつかないということだけ。やめて、そんな絶望したような顔でぼくを見ないで。
……送ってくださって、ありがとうございました」
 違う! こんな冷たい声で言いたいんじゃない! 頭ではそう思っているのに、どうして口は従わないんだ?
 いやだ、こっちを見ないでください。この場から逃げたい一心で今度こそシートベルトを外す。ろくに顔も見ないまま、車を降りてドアを閉めた。呼ばれたような気がしたけれど、きっと気のせい。

 早足で階段を上がって部屋に戻る。窓から彼の車が見えた。今まではぼくが部屋に上がる頃には見えなくなっていたのに。そんなことを考えていたら、十秒ほどおいて徐に発車した。目が離せなくて、角を曲がるところまで見届ける。

 バンジークスさんが何を言おうとしていたか、予想はできる。流石にそこまで鈍感じゃない。驚いて、反射的に逃げてしまった。まさか彼が、そんな。
 車を降りた時、彼はどんな顔をしていた? 見なくても分かる。だから見れなかった。
 傷つけたかったわけじゃない。この三週間、お世話になったお礼を言いたかっただけなのに。なんで、急にあんなことを。



 次の日。あまりよく眠れなかった。昨日よりも気分はずっと落ち込んでいる。頭はぼんやりするし、人の言葉も耳に入ってこない。今日が大学に行かなくて良い日で良かった。ときどき様子を見に来てはやけに明るい調子で妙な薬を勧めてくるホームズさんをあしらいながら、部屋で一人じめじめとした時間を過ごした。

 二日目。昨日より気分はマシになったものの、色々と考えてしまって眠りは浅い。久し振りの地下鉄通学はどこかもの寂しかった。
 バンジークスさんに謝りたい気持ちはあるけど、そのためにはぼくがどうしたかったのかをまず考えるべきだ。でないと何を言っても伝わらない。
 例えばあのまま彼の胸の内を最後まで聞いてしまっていたら、どう思うだろう。驚きと戸惑いに別の感情が隠されて、大事なものを見落としてはいないだろうか。
 嫌では、なかったと思う。たぶん。人から好意を向けられて、悪い気はしない。なら次の問題だ。ぼくはバンジークスさんを、そういう対象として見ることができるのか? そもそも人と付き合ったことがない。可愛いなと思う女の子は何人かいたけれど、別に告白しようとしたわけでもなく、ぼんやりとこの歳になった。
 男性と付き合うなんて想像したこともなかった。同性愛なんてどこか遠くの話だと思っていた。どうなんだ? ぼくは彼をどう思っている?

 三日目。昨日の内に答えは出なかった。
 この一ヶ月を少し遡ってみよう。出会ってから今日まで、ぼくが感じたことを思い出すんだ。
 最初は、怖い顔だけど紳士だなと思った。優秀な検事で、家族想いな人。孤独でいたいわけじゃないのに、周りを巻き込みたくないからと一人になる、強くて優しい人。巻き込んだお詫びにぼくの送迎を買って出たのは、下心ではなく純粋な親切心からだろう。
 思い出した。送迎を断るとき、ぼくはひどく気落ちしていた。その理由がずっと分からなかったけれど、今こそよく考えるべきじゃないか。
 言い出しにくいことじゃなかった。早めに言うべきだと思っていたし、車での通学に慣れて便利さを手放したくなかったわけでもない。でも、あの通学時間は、確かに手放しがたかった。楽しかったんだ、単純に。
 今後彼に会えなくなるわけではないけど、頻度はずっと下がる。期間限定の講義ももうすぐ終わる。会う理由がなくなってしまうのが嫌だったんだと思う。

 ぼくは彼が好き?

 答えはたぶん、イエスだ。そうじゃなきゃあんなに落ち込んだりしなかっただろうし、会う度にわくわくしたりもしなかった。それに気付く前に彼から告白を受けそうになって、びっくりして全てをシャットアウトしてしまったんだ。

 このままではいけない。ぼくが拒絶してしまったのだから、ぼくがそれを撤回しなければ。直接会って伝えたいけれど、バンジークスさんが今この家に来る可能性は限りなくゼロに近い。
 連絡先を交換しておいて良かった。きっとアイリスちゃんに聞けば電話番号も分かるのだろうけど、流石にちょっと気が引ける。知らない番号からの着信は出ないかもしれないし。
 メッセージアプリを起動して文章を考える。何と言ったものだろうか。バンジークスさんからしてみれば、告白する前に振られてしまったようなものだ。そんな相手から急に心変わりしたみたいなメッセージが来たら、怒らせてしまうかもしれない。それは不本意だ。
『この前のこと、自分でよく考えました。直接お話したいので、空いている時間に会っていただけませんか? 何曜日でも、何時でも構いません』
 十秒ほど躊躇ってから、送信。
 忙しい人だから、ぼくが予定を合わせる方が良いだろう。それに彼の予定に合わせれば、土壇場で逃げられる確率も下がる。


 四日目。土曜日だというのに返事はない。今日も仕事なんだろうか。

 五日目。今日も返事はない。そればかり気にしていても仕方がないから、気晴らしにアイリスちゃんのお買い物に付き合うことにした。

 帰り道にアイリスちゃんの携帯が鳴る。メールのようだった。
「あ、おニイちゃんからだ」
「!」
 内容はいつも通り、日常の報告。でも今のぼくにとっては意味が違った。
 見てるんじゃないか、アイリスちゃんからのメールは。
 その場は何とか取り繕ったけれど、内心穏やかでいられるはずがない。見た上で無視されているのか。それならぼくと向き合う気持ちなんて無いのか。あまりのショックで、それから後のことはあまり覚えていない。

 六日目。メッセージを送ってから三日。返事は来ない。もちろん家にも来ない。だんだん悲しさよりも怒りが湧いてきた。嫌なら嫌で断るとか何とかしてくれても良いんじゃないか? どう思っているのか分からないけれど、何も返事を出さないなんてあんまりだ。
 もうじっと待ってはいられない。こうなったら、残る手段は一つ。

 七日目。
「!」
 まさか講堂の入り口で待ち伏せされているとは思っていなかったんだろう。不意打ちはとりあえず成功だ。
「今日が最後の講演だそうですね。亜双義から聞きました」
「アソーギ……ああ、ロースクールの日本人か。友達が居ると言っていたな」
「ここは人目もあるので、場所を移してお話しましょう」
 お話しませんか、なんて言い方はしない。ぼくはもう逃げない。だからあなたも逃げないでください。
「分かった。家まで送ろう」
 二十分で終わらせろということだろうか。最良の返事ではないけれど、会話を拒絶されるよりはずっと良い。

 ……はずだった。あまりにも空気が固すぎて、話がなかなか切り出せないままじりじりと時間だけが過ぎる。待ち伏せした勢いはどこへいったんだ。勢いに任せすぎて、何から話すか頭の中を整理してくるのを忘れてしまった。
「私の顔など見たくないのでは?」
 あまりの沈黙に耐えかねたのか、バンジークスさんから話しかけられてしまう始末……いや、ちょっと待て。今この人、何て言った?
「そんなわけ、ぼく、あなたに会うために待っていたのですよ!?」
 つい語気が荒くなる。四日間もずっと彼に会うための返事を待っていたというのに、それはないだろう。
「面と向かってはっきり断っておきたいということか」
 なんだろう、どうも会話が噛み合わないような。この人、もしかして。
「読んでいないのですか。ぼくからのメッセージ」
「読んで傷つくと分かっている文章など読みたくない」
 そうかもしれないと思ってはいたけれど、まさか……まさか、そんな理由で! この人、存外子供っぽいぞ!
 あんなに色々考えて送ったのに、読まれてないんじゃ意味がない。言わなきゃ伝わらないんだ。痛いほど思い知った。
「じゃあいいです。ぼくが今、直接言います」
「聞きたくない」
「聞いてください!」
 逃げないで。耳を塞がないで。今度こそちゃんと話をさせてください。
「あの時は……自分がどうしたいのかよく分からなくて、容量オーバーになっていたんです。それでついあなたの手を払ってしまった」
 車が家の前に停まる。与えられた時間は過ぎてしまったけど、これくらいのロスタイムは許してもらいたい。
「後悔、しました。あなたを傷付けてしまったこと」
 バンジークスさんがサイドブレーキをかけた。まだ話を聞いてもらえるらしい。シートベルトを外して、体ごと彼の方を向く。
 今日も彼はこちらを見ない。ハンドルを握ったままの手を掴むと、少しだけびくりと動いた。動揺、したのか。
「ぼく、あの時どうしたかったのかようやく分かったんです」
 お願いです、ぼくの目を見てください。
 はたと気が付いた。あの時、バンジークスさんもきっと同じような気持ちだったんだ。怖くて緊張して、でも相手に伝えずにはいられない。やっと分かった。遅すぎるかもしれないけれど、それでも最後まで聞いてほしい。
「ぼく、あなたのこと、わぶっ!?」
「好きだ」
 言いたかったことはバンジークスさんの肩にぶつかった。耳元で聞いた告白は、この一週間ずっと聞きたかった声だ。広い胸に抱き締められて、今までで一番近くに彼を感じられる。
「君から私が不要だと言われるのが嫌だった。講演を終えて、迎えにも行けなくなれば、会う機会が無くなってしまうと焦った。それであのような真似を……今思えば、あまりにも性急であった。驚かせて当然だ」
 すまない、と謝罪が付け加えられる。そんな辛そうな声を出さないでください。悪いのはぼくの方。
「ぼくも、本当は似たようなことを思っていました。もう送迎が必要ないと伝えてしまうのがすごく憂鬱で、でもその理由が分からずもやもやしていて……あなたと離れたくないからだって、気付きました。後になって分かるなんて、鈍すぎですよね」
 お互いに言い訳ばかりで、格好がつかないったらない。それでもこうして本音を話せたことが嬉しい。
「いいや、間に合ったではないか」
 抱き締める腕に力が入る。ちょっと苦しいですと伝えたら、腕が緩んで小さく謝られた。こんな風に冷静さを失うこともあるんだ。彼はいつだって余裕たっぷりの大人で、取り乱すことなんてないんだと勝手に思っていた。そうじゃない。この人だって人間だ。恐怖も焦りも、喜びも愛もある。あなたのことをもっと知りたい。


「念のため確認させてほしい」
 バンジークスさんは体を離して、ぼくの両肩に手を置いて語り掛ける。真剣な表情で、何を言われるのかちょっと怖い。
「歳も離れているし、何より男だが……良いのか?」
 なんだ、そんなこと。確認するまでもない。自分が同性を好きになるとは確かに思わなかった。でも好きになってしまったものは仕方ないじゃないですか。法律で禁じられているわけでもなし、ましてや何も分からない子供でもなし。
「今更でしょう。その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。ぼくで良いんですね?」
「当然だ」
 ほら、あなただって即答するくせに。ぼくらは順番を間違えてばかりだ。
「家まで送り届けたばかりだが、シートベルトを着けろ」
「え?」
……姪と探偵の居る前でこんな話をするわけにもいくまい」
「あ、そ、そう、ですね」
 車の中とはいえ抱き合ってしまったことを今更思い出した。日が沈む時間で良かった。相手が誰であれ、人と抱き合っているのを見られるのはやっぱり恥ずかしい。
 とりあえずシートベルトを着けて発車する。どこへ行こう? どこへだって行ける。明日は大学に行かなくても良い日だから夜遅くなったって構わない。
 まずは、一緒にお食事でもいかがでしょうか。


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