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Sweeeeeeet!

全体公開 4 21 43568文字
2022-06-02 10:28:02

バロ龍 2019/1/27発行
web再録

Posted by @saeki_f


目次


プロローグ          ・・・ 2≫

一日目 プディング      ・・・ 3≫

二日目 キャラメル      ・・・ 4≫

三日目 パイ         ・・・ 5≫

四日目 チョコレート     ・・・ 6≫

五日目 アイスクリーム    ・・・ 7≫

六日目 ビスケット      ・・・ 8≫

七日目 ケーキ        ・・・ 9≫

エピローグ          ・・・ 10≫

  プロローグ

 中央刑務裁判所の中で、バンジークスは探していた人物を見つけた。
「弁護士」
「あっ、バンジークス検事! やりましたね! 遂に真犯人に有罪判決を!」
 探していた相手……龍ノ介はバンジークスを見つけると小走りに駆け寄ってくる。現れた方向からすると、先ほどまで裁判を傍聴していたのだろう。バンジークスとは反対側の席で。
 二人は法廷に立っていない。が、今回の裁判は二人がそれぞれ追っていた事件に関するものであった。真犯人はバンジークスが捕らえて法廷まで引きずり出し、先ほど遂に有罪判決を受けたばかりだ。
「この度の犯人逮捕は、貴公の協力なしには実現し得ぬものだった。それは認めざるを得ない」
「いやあ、ぼくはそれほど。色んな人に助けてもらいましたし」
 龍ノ介は別にこの真犯人を追っていたわけではないのだが、色々と偶然が重なって犯人の逃走先を知り、それをバンジークスに提供した。今回最大の功労者と言っても良い。だが龍ノ介としてはそれほど大したことをした感覚がなく、なぜバンジークスがこれほど殊勝にかしこまった態度なのか疑問に思っている。
「通常、凶悪犯の逮捕に協力した市民には公式に感謝状が贈られるのだが……今回は私の手柄ということになってしまった」
「検事が追って検事が捕まえたのですから当然では?」
「だが私一人の手柄ではない。それに貴公の栄誉も」
「気にしませんよ」
 龍ノ介は栄誉が欲しくて手伝いをしたわけではない。そもそも捜していたのは凶悪犯などではなく、ただの落とし物だ。この結果は偶然の産物に過ぎないと考えていた。
「率直に言う。私は貴公に礼をせねばならない」
「そんな、お礼だなんて」
「貴公が気にするしないの話ではない。そうしなければ私の気が済まぬ」
 バンジークスはやけに必死だ。これは龍ノ介の想像だが、東洋の小さな弁護士に借りを作るのが許せないのではないだろうか。なんとかしてすぐにでも借りを返したい──いかにもそんな顔をしている。
 遠慮するつもりでいたが、この様子を見るとバンジークスも譲らずいつまでも平行線である。遂に龍ノ介が折れた。
「分かりました。では、倫敦で検事がお薦めする甘いものを食べに連れて行ってください!」
……は?」
 必死の形相は、一転して渋面に変わった。バンジークスとしては何か龍ノ介が必要としている物や、直接的に金銭でも贈ろうとしていたのだが、甘いものが食べたいとは。しかも、バンジークスに店を紹介しろと。
「貧乏留学生なもので、外で甘いものを頻繁に買うことができないのです」
「なら、私が謝礼を渡してそれで食べに行けばよかろう」
「だって検事ならおいしいお店をご存知なのではないですか? 庶民一人では入りにくいお店とか」
 貴族が食べるものを食べてみたい。誰でも一度は考えてみるものだろう。そして今回は、東洋の小さな庶民に訪れた千載一遇の好機なのである。
 龍ノ介は困惑するバンジークスを見上げ、もしや、と眉尻を下げた。
「甘いもの、お嫌いでしたか?」
……いや」
 低く小さく非情に聞き取りにくい声であったが、確かにそれは否定の声だった。
「では、お好きな方ですか?」
 一転してぱっと顔を綻ばせるのを見ると、さしものバンジークスも誤魔化しきれない。
…………うむ」
 実のところ、砂糖好きな英国人の例に漏れずバンジークスも甘いものが好きだった。いよいよ断る理由が無くなって、バンジークスはようやく首を縦に振る。
……分かった、連れて行ってやる。明日から一週間、毎日だ。腹を空かせて待っていろ」
「! ありがとうございます!」
 龍ノ介としては一度どこかに連れて行ってもらえれば十分だったのだが、それではバンジークスの気が済まないらしい。
 どうせ依頼もなく暇なのだ。毎日連れ出されても龍ノ介が困ることなど何もない。思いがけない機会ではあったが、一週間もの間おいしいものを食べさせてもらえるのだから大歓迎である。
 出口でバンジークスと別れ、龍ノ介はご機嫌で家へと向かう。何を紹介してもらえるのか、貴族はどんな店に行くのか、何もかもが今から楽しみで仕方ない。
 先ほどまで傍聴していた裁判のことなどすっかり頭から抜けている。明日の昼食はいつもより少なくしておくのが良いだろう。

  一日目 プディング

 そして次の日。龍ノ介は言われた通り、昼食をいつもの半分にしてお腹を空かせてバンジークスを待った。自分から言っておきながら、朝から緊張しきりで馬車の音に耳をそばだてている。数え切れないほど窓の外を確認し、ようやく見知った馬車が角を曲がってきたのを見て駆け足で階段を降りていった。
 幸いにも、バンジークスが馬車を降りるところを玄関先で迎えることができた。というのも、彼が扉を叩いてから降りていったのでは遅いと嫌味を言われそうだと思ったからだ。
「時間ぴったりですね」
「当然だ。行くぞ」
 いつもの如く言葉少なではあったが、機嫌を損ねてはいないらしい。御者に開かれた扉から馬車に乗り込み、座るとほぼ同時に出発する。

 バンジークスは喋らない。どこへ行くかさえ言わない。どのくらいこの無言の時間を耐えれば良いのか分からず、龍ノ介は途方に暮れた。
(やぱり、現金で頂いた方が良かったのかしらん……
 とはいえ今から覆せるわけでもないので、龍ノ介も無言で座っているほかなかった。

「プディングのお店ですか」
 馬車を降りるとそこにはプディングの専門店の看板。歴史を感じる堂々とした店構えで、なるほど確かにバンジークスが好みそうな場所だ。
「そうだ。英国において、これを外すわけにはいかぬだろう」
 バンジークスが重そうな扉の前に立つと店の者が恭しくそれを開く。龍ノ介も遅れないように早足でついて歩き、落ち着いた照明の店内に入る。
 中は多くの人が楽しんでいる様子であったが、騒がしくはない。ざっと見渡しただけで、それなりの客層であることが分かった。少なくとも龍ノ介が一人で気軽に来るような場所ではない。
「前を向いて歩け」
 きょろきょろとせわしない動きが伝わってしまったのだろうか。静かな声でバンジークスに窘められ、反射的に背筋を伸ばす。
 人が多いとはいえ、二人が座れるような机はそこかしこにある。しかし案内係はそれらに目もくれず、ただただ奥の部屋を目指しているようだった。どこに連れて行かれるのやらと龍ノ介が心配になった頃、前を歩く二人が足を止める。危うくバンジークスの背中に顔をぶつけるところだ。いや、鼻先はぶつかっていた。
 係が目の前に現れた扉を開くと、人気のない廊下に続いていた。そしてまた躊躇いもなく歩き出す。これには龍ノ介も驚いた。世の中の食事処に、こんな造りがある店は生まれて初めて見たのだ。廊下は静かで、先ほどの店内よりも更に暗かった。
 少しばかり真っ直ぐに進んで、また三人は止まる。
「こちらのお部屋でございます」
 扉が開かれた。どんな大部屋が飛び出すかと思いきや、そこは小ぢんまりした空間に高級な調度品を詰め込んだような部屋であった。
「おお……
「個室くらいで何を驚いている」
 席に着きながら、呆れたようにバンジークスが口を開いた。彼にとってはこれくらい当たり前なのだろう。庶民には少し想像しにくい生活だが。
「個室といいましても、こんな秘密の小部屋があるお店は初めて見たもので……貴族になったような気分です」
「随分と簡単に貴族気分が味わえるのだな」
 軽口を叩いていると、給仕に品書きを渡される。それ一つさえ重みがあり、また少し驚いた。
「好きなものを選ぶがいい」
「ええっと……うわあ、いっぱいあるんですね」
 品書きを開いた龍ノ介は面食らった。一冊の品書きの八割以上がプディングで埋め尽くされているのだ。龍ノ介もベーカー街の家で食べたことくらいはある。アイリスのお手製はもちろんおいしいが、専門店というだけあって、ここには英国中のプディングが集まっているのではないかと思うほど種類が豊富だった。
「こんなにあると選びきれません。お薦めはありますか?」
「では、ポンドプディングとカスタードプディング、それと紅茶を」
「かしこまりました」
 バンジークスは一瞬の迷いもなく給仕に伝え、給仕も無駄な動きなく奥へ下がっていく。龍ノ介はぽかんとそれを見ているだけだったが、少しおいてようやくバンジークスの言葉が脳まで届いた。カスタードプディングは知っている。では、ポンドプディングとは。
「ポンド? 池、ですか」
「その通り」
 池。正直なところ想像ができないし、甘いものとも結びつきにくい。品書きに何か書いてあったかもしれないが既に回収されてしまった。一体どんなものが運ばれてくるのか。
「な、何が入っているのですか……?」
「それは自分で確認しろ」
 バンジークスは本当に、龍ノ介に何ひとつ教えてくれない。

 ややあって、二人の下に二つのプディングが運ばれてきた。バンジークスの前にカスタードプディング、龍ノ介の前にポンドプディングとやらが置かれる。見た目は丸い焼き菓子のようだが、平皿ではなく少し深さのある皿に盛られている。
 同時に食器と紅茶が用意されていく。龍ノ介が英国に来て知ったことだが、紅茶は牛乳を先に入れるらしい。湯気の立つ湯呑から、良い香りが部屋に広がった。
「紅茶はニルギリでございます。ごゆっくりどうぞ」
 龍ノ介の目の前に置かれたポンドプディングとやら、そしてその脇にはナイフとフォーク、スプーンもある。これらは全て使うものなのだろうかと、バンジークスに視線を送った。
「あの、これ」
「切ってみろ」
 言われるがままナイフを手に取る。おそるおそる外側の生地にナイフを入れてみた。意外と硬く、中の方までしっかりと突き刺す。
「おっ、おおっ!?」
 中身を確認すべく切り開いてみると、中から滝のように液体が溢れ出てくる。慌てた龍ノ介は認識するのが遅れたが、レモンの香りが部屋中に広がった。
「ななななんですかこれは! 切ったら! 汁が!」
「切ると中から果汁が溢れて池のようになる。だからポンドプディングと呼ぶ」
 バンジークスの話は半分聞いていない。皿から溢れてしまいそうなほど果汁が出てくるのだが、止める術もなくただ唖然と見つめることしかできないのだ。
「ああ~、なるほど…………
 濁流が収まってきて、ようやく龍ノ介が落ち着きを取り戻した。皿のお陰で溢れることはなかったが、流れ出た果汁は立派な池と呼べるほどだ。
「いやあ、恐ろしい目に遭いました」
「いいから早く食べろ」
 プディングからは湯気が上がっている。温かい内に食べるのが良いのだろう。
「それでは、いただきます」
 龍ノ介が日本式に手を合わせる。それを見てバンジークスは少し戸惑った様子だったが、何も言わずカスタードプディングにスプーンを入れた。

 甘酸っぱい香りの池から、山を一掬いして口に入れてみる。想像よりもずっと甘い。レモンの酸味とほんのりとした皮の苦みを、甘い生地が包み込んでいる。飲み込んでから口に残る後味が爽やかで良い。
「おいしいです! レモンを丸ごと使うなんて、贅沢なお菓子なのでは?」
「そうでもないが……ああ、日本でレモンは高級品なのだな」
 国が違えば物流も違う。龍ノ介が高級品だと思っていた果物は、どうやら英国では馴染みあるものだったらしい。海外へ行った者の特権だ。
「こちらに居る間にたくさん食べておかないと」
「他の品は食べなくて良いのか」
「うっ、それは迷うところですね」
 先ほど選びきれなかった多くのプディング。ぜひとも口に運んでみたいものである。

 ふと龍ノ介は自分の手元の先、バンジークスの手元を見た。三分の一ほど食べ進んだカスタードプディングの卵色が輝いて見える。
「なんだ、人の手元をじろじろと」
「ええと……
 スプーンで掬えば柔らかく揺れる。あちらはきっと優しい甘さなのだろう。龍ノ介は思わず唾を飲んでいた。
「言いたいことがあるならばはっきり言え」
「うう……あの……検事のプディング……
「これがどうした」
 艶々として甘そうな見た目。どんな味か、どんな触感か、龍ノ介の想像が膨らんで止まらない。我慢しきれず声が出た。
「一口、頂けないでしょうか!」
 しばしの沈黙。龍ノ介は言ってしまったことを既に後悔している顔である。
「何事かと思えば……構わぬ。食べるがいい」
 どんな罵声が飛んでくるかと身構えていたのに、バンジークスはむしろプディングの皿を少しだけ龍ノ介に寄せてやったではないか。
「よ、よろしいのですか?」
「言い出したのは貴公の方だろう。少々行儀は悪いが」
「うう、人が食べているものって、おいしそうに見えるので」
「まあ、ここは個室だ。それくらいは許されよう」
 まだ信じられない気分で龍ノ介は皿を受け取る。死神と恐れられる男からカスタードプディングを一口もらった、などと言っても誰が信じるだろうか? 龍ノ介は呆然としたまま、今度はバンジークスの顔を凝視した。
「そもそも、貴公のような庶民に作法など期待していない」
 それで良いのか悪いのか。ただ、バンジークスの顔は呆れてもいなければ怒っている様子もない。言葉で表すならば、嫌味を言い忘れていたからとりあえず取ってつけておいたような。
(結果として一口もらえたんだから、良かったことにしようか)
 気を取り直して、自分のスプーンでカスタードプディングを掬う。アイリスがベーカー街の家で作るものより少し硬めだ。龍ノ介は思ったよりも多めに量を取ってしまって、バンジークスの眉間の皺が若干深くなった気がした。恐ろしくて顔を上げられないまま口に運ぶ。
 硬いかと思ったのも束の間、舌の上に乗った端から徐々に蕩け始める。滑らかな舌触り、口一杯に広がる甘さ、そして鼻を抜ける卵の香り。するりと気持ち良く飲み込んでしまった。
「とてもおいしいです。流石、検事がお薦めするお店というだけありますね」
「人に紹介するのだから当然だ」
 淡々とした返事だが声に棘はない。誰だって自分のお気に入りが褒められたら嬉しいものだろう。たとえそれが中央刑務裁判所の死神であっても。
 照れ隠しなのか、バンジークスはまた一口プディングを掬って口に入れた。


 甘い菓子は紅茶との相性も良く、あっという間に食べ終わってしまった。
「ごちそうさまでした」
 見た目よりもお腹に溜まるので龍ノ介も満腹だ。幸せそうに手を合わせる姿に向かって、バンジークスが疑問を口にする。
「改めて聞くが、本当にこんなものが礼で良かったのか? 私と茶を飲むなど、率直に言って貴公の気が休まるとは思えぬのだが」
 今更ながらもっともな質問だった。バンジークスは龍ノ介と相対する立場にあり、どちらかといえば苦手な部類の人間である。食事をするならもっと気心の知れた相手が良いと普通は考えるだろう。
(一応、気にしていてくれたんだな)
 むしろ龍ノ介の方こそ、バンジークスが渋々付き合っているのではないかと思っていた。しかしそんな様子はなく、今日の茶会は至って穏やかなものだった。彼と一緒に食事する時間は 実は龍ノ介にとってそれほど苦ではないのだ。
「もちろんです。さっそく庶民にはできない体験をさせていただきましたし、プディングがおいしかったですから。明日も楽しみにしていて良いのでしょう?」
 話しかければ返事は来るし、別に議論をしようというわけでもない。何よりバンジークスは、思いのほか龍ノ介に気を遣っているようなのだ。龍ノ介が日本人だということを考慮して店に連れて来て、選びきれなければすぐお薦めを選んでやる。個室を選んだのも単に彼が貴族だからというだけではなく、龍ノ介が作法など気にせず楽しめるようにするためだろう。
 態度こそ普段通り冷たく素っ気ないが、何となく察せられるところはある。そんな相手とお茶を飲むのは、決して悪い気分ではない。
……当然だ。では、明日も同じ時間に」
「はいっ!」
 一週間を終える頃にはバンジークスの表情も少しは変わっているのだろうか。想像はできないが、そうなる可能性も皆無とは言い切れない。龍ノ介は少しだけ、バンジークスに対する苦手意識が和らいでいた。
店を出た龍ノ介ははたと立ち止まった。帰りは歩こうと思っていたが、知らない場所に来ていたことに今ようやく気付いたのだ。きょろきょろしていると、前を歩くバンジークスが振り返る。
「何をしている。早く馬車に乗れ」
「え、まだどこかに行くのですか?」
……? いや、帰るのだが」
 会話が微妙に噛み合っていない。先に理解したのは龍ノ介の方だった。
「もしかして、家まで送ってくださる……とか」
 自信なさげに言う龍ノ介を見て、バンジークスも違和感の正体に気付く。そして不思議そうに首を傾げた。
「当然だろう。来る時も迎えに行ったではないか」
 普通の英国人であれば当たり前のことなのかもしれない。だがもてなされ慣れていない龍ノ介は、帰りも送り届けてもらえるというだけで小さく感動していた。
「ありがとうございます!」
「だから礼を言われるようなことでは……
 いずれにせよ帰り道も分からなかったのだ。ありがたく馬車に乗り込んだ。

 優しさを見せたと思われたバンジークスだったが、帰りの車内でも無言である。よくよく考えれば、龍ノ介も彼と世間話をする場面など想像できない。きっと死神の人付き合いとはこうしたものなのだろう。
 今日の店の感想とか、明日はどこへ行くとか、そんな話をする間柄ではない。バンジークスと龍ノ介は検事と弁護士で、今はお礼をする人とされる人。それだけだ。バンジークスが饒舌に世間話をしていた方が、逆に不安になるだろう。これくらいで良い、龍ノ介はそう考えることにした。

 ベーカー街で馬車を降りて屋根裏の部屋に戻る。こうしてみると、出掛けていた時間はそれほど長くなかった。
 龍ノ介はまだ余韻に浸っている。多少は緊張したが、良い部屋でおいしものを食べたという満足感で胸一杯なのだ。
 明日も楽しみにしていろとバンジークスは言った。それほど自信を持っているのなら期待できる。何を食べさせてくれるのか分からないというのも意外と悪くないかもしれない。
 少し辛いが、明日も昼食を減らして準備しておこうと龍ノ介は心に決めたのだった。

  二日目 キャラメル

「おやおや、こんな所で会うとは珍しい!」

 今日もバンジークスの馬車がベイカー街まで迎えに来た。今回は店内ではなく持ち帰って屋敷で食べると聞いて、龍ノ介はまた緊張している。屋敷とは即ちバンジークスの家である。まさか人生で彼の家に入ることがあろうとは夢にも思っていなかったのだ。
 そんな状態で着いた店の扉を開けた瞬間に、ご機嫌な声が飛んできた。
「ホームズさん!」
 人に会うと言って午前中から出掛けていた龍ノ介の同居人が、店の中でキャラメルを物色していた。
「何をそんなに驚いているんだい? ここはボクの行きつけだよ」
 そう、今日の店はキャラメル屋。ホームズの好物だ。出先からの帰りがてら、ここで買い物をしていたって別に不思議ではない。少しだけ不自然なところが無いわけでもないが。
 ホームズは店の入口でぽかんと立っている二人をぐいぐいと奥まで引っ張り、聞いてもいないことをあれこれと話し出す。ここの店長はかつて旦那の浮気調査の依頼に来てから顔馴染みだとか、最近少し値上がりしてしまったとか。本当によく動く口だが、一方で手も止まることがない。
「キャラメルを買いに来たんだろ? ボクのオススメはコレとコレと、あとこの新作も試してみるといい」
 二人が何も言わない内に、ホームズは棚の商品を次々に籠に入れる。どうせ何にするか迷ってお薦めを聞くことになるのだろうから、勝手に選ばれるのはまだ良い。だが妙に量が多い気がして龍ノ介は籠の中身をちらりと見た。
「なんだか全て一枚余分にあるのですが」
 同じ包みが全て三枚ずつ。龍ノ介にはもう想像がついているが、それでも一応聞かずにはいられない。
「ボクの分に決まっているだろう! せっかく死神クンが奢ってくれるっていうんだから」
「貴様に奢るとは一言も言っていない」
「まあまあ、固いコト言うなよ。なあミスター・ナルホドー」
「えっ」
 気を抜いていた龍ノ介は急に話を振られてはっとする。そこで同意を求められるとは予想外だ。
「あの事件、ボクも協力してやっただろ? カレにそう言ってやれよ」
 そう言って青い目を片方閉じてみせた。ここまで聞いて龍ノ介はようやく違和感の正体を掴む。
(ホームズさん、ぼくがあの時のお礼をしてもらってること知ってたのか……
 どうやって知ったのかは分からないが、彼に不可能など無いのかもしれない。とにかく倫敦が誇る大探偵は、キャラメルを奢ってもらうためにこの店で待ち伏せしていたようだ。
 探偵自身は別の依頼で忙しかったために直接的な働きかけがあったわけではないが、確かに先の事件ではホームズの助言にかなり助けられた。あれが無ければかなりの遠回りをしていただろうし、それによって犯人の確保が遅れていたか、最悪の場合は取り逃していた可能性もある。そう思えばホームズもこの恩恵に与るべき人間だろう。
「えーっと、そういうことなので、ぼくからもお願いできますか……?」
 バンジークスはあからさまに渋い顔をしたが、諦めたように短く息を吐いた。
「釈然とはしないが……キャラメルの二、三枚にケチをつけると思われるのも癪だ。買ってやろう」
「キミならそう言ってくれると思ってたよ!」
 三種類のキャラメルを三枚ずつ籠に入れて会計を済ませる。と、ほぼ同時にホームズは帰宅してしまった。依頼人を待たせているらしい。ならばこんな所に寄り道せず真っ直ぐ帰れば良かったのではと思う龍ノ介であったが、知り合いに会ったことでいつの間にか自分の緊張が解けていると気付き、結局は彼に感謝するのであった。

 意外と普通、などと言うとまた睨まれてしまいそうだが、バンジークスの家は至って普通の貴族屋敷であった。暗雲と雷光に囲まれたり、断崖絶壁の上に建ったりなどしていない。龍ノ介としては少し残念である。
「茶の用意を。茶請けは買ってきた」
「はい、ただいま」
 使用人達はきびきびと動き回る。無駄がなく、しかし歩く足音さえ静かだ。流石は貴族の使用人である。
 執事らしき男性が龍ノ介とバンジークスを案内する。が、彼が明けた扉は屋外へ向かうものだった。
「段差がございますのでお気を付けください」
「待て、サロンに用意するのではないのか?」
 バンジークスもこれは予想外だったらしく、先を行く執事を引き止めた。執事は主人の言葉に臆する様子もない。
「今日はせっかくお天気が良うございますのに、お屋敷の中に籠もられるなんて勿体ない」

 外に出ると、三方を壁に囲まれた中庭だった。広大というほどではないが、薔薇を始めとした花や緑が存分に楽しめるような場所だ。中心に白い木香薔薇に覆われた東屋が建っている。その中には丸い机と椅子が四脚。
「すぐにお茶をお持ちします。どうぞお寛ぎください」
使用人が下がると、無言の空間に戻る。風が草花を揺らす音が二人の耳に届いた。
「ここは静かですね」
 大都市の中心部近くにもかかわらず人の声は聞こえないし、馬の蹄の音も遠い。忙しない倫敦の中ではなかなか貴重な場所だ。
「家に居る間くらいは落ち着いて過ごしたいのでな」
 同居人が多く賑やかな家に住む龍ノ介には、静かな家の中は慣れない。こんなに広い屋敷なのに、バンジークスはここに一人で住んでいるのだ。
(寂しくは……ないんだろうな)
 つくづく違う世界で生きる人間なのだと思う。そんな二人が今は一緒に午後の紅茶を楽しもうとしているのだから、また不思議なものだが。

 給仕の男性が紅茶を運んできた。まず温めた牛乳を注ぎ、そこに紅茶を注ぐ。やはり英国式だ。
「茶葉は?」
「キャラメルをお買い上げと伺いましたので、ルフナをご用意いたしました」
「なるほど。ご苦労」
「失礼いたします」
 机の上の準備が整えられ、バンジークスは手袋を外した。
「それでは頂くとしよう」
 と言われて初めて、龍ノ介はふと今日買ってもらった品物について考える。これらは全てホームズが勝手に選んだものであり、思い返せばちゃんと中身を見た記憶がない。急に不安が押し寄せてきた。
 おそるおそる袋を開けてみる。妙なものは入っていないようでひとまずは安心だ。二人分で六枚、三種類の板キャラメル。普通の甘い味、少し苦めの味、そして塩味であった。
「し…………?」
「新作だと言っていたな。しかし全て板か……粒のものを買うべきだった」
「ああ、ホームズさんに気を取られてそこまで頭が回りませんでした」
 普段通りなら龍ノ介も板を選ぶだろうが、人と紅茶を飲みながら食べるのなら粒の方が良かった。といっても今から買い直すのは面倒である。
「まあいいじゃないですか、板で齧りましょう。外ですし」
 内心、龍ノ介は少し期待している部分もあった、バンジークスが板キャラメルを齧る姿などそうそう拝めるものではない。
 しかしわくわく顔で凝視していればすぐにばれる。包装紙を剥がしていたバンジークスに睨まれた。
「何を見ている」
「え、あ」
「フン……大方、私がキャラメルに齧りつく様子を観察してやろうというのだろうが、そんなことはせぬ」
 そう言いながらキャラメルに入った溝に沿って一角を千切り取り、それを口に入れた。なるほどそのための溝である。
「そんなに分かりやすいですかね、ぼく」
「国が違うのにここまで伝わるものかと驚くほどだ」
 バンジークスの真似をして、龍ノ介も一角を千切って口に入れた。これはホームズがよく齧っている甘い味。体温で少しずつ柔らかく溶けていく。少し口に残して紅茶を飲めば、甘さとまろやかさとほんの少しの渋味が絶妙である。
「この紅茶、キャラメルとすごく合いますね。ルフナというのは初めて聞きましたが」
「印度近くの島で採れる茶葉だ。我が家の給仕は紅茶に詳しいのでな。毎日の茶葉選びも一任している」
 葡萄酒に関しては他人の手を入れさせないバンジークスだが、紅茶に関しては人任せで良いらしい。ともあれ、給仕の腕が確かであることに間違いはない。龍ノ介は紅茶をもう一口飲み、口に残る甘さを楽しんだ。

 次に手を伸ばしたのは苦めの味だ。ホームズはあまり買ってこないので、龍ノ介が食べるのは初めてだった。
 先ほどのものよりも色が濃い。気持ちばかり小さめに千切って、ゆっくりと噛んでみた。苦めといっても甘さは十分。そこに焦がした砂糖の苦味と香ばしさが乗って、少し大人の味だ。後味もすっきりとしている。甘い方は紅茶と交互に味わいたいが、こちらはこれだけで延々と食べていられそうだ。
 一方、バンジークスは塩味を手にしていた。
「そ、それ、おいしいのでしょうか」
「店側も出来が悪ければ売り物にはしないと思うが」
「でも塩味ですよ? キャラメルなのに」
「食べてみれば分かること」
 尻込みする龍ノ介を他所に、バンジークスはひとかけらを口に入れた。
「ふむ」
 そもそもバンジークスは表情の変化に乏しい。特に笑った顔など、龍ノ介は見たことがない。甘いものが好きだとは言っていたが、昨日から彼がおいしいと感じているかどうかを判別できないでいた。
「どうですか?」
「自分で確かめろ」
 読めない顔のまま紅茶を口にするバンジークス。冷たい視線はどこか意地悪だ。
 味を教えてもらえないものだから、やはり自分で食べてみるほかない。龍ノ介は意を決して包みを開いてみた。香りは甘い。どうやら心配するほどしょっぱくはなさそうだ。端を千切って口に入れる。
 舌に触れた瞬間は、一つ目に食べたものと同じ味だと思った。が、すぐに違うと分かる。甘さの中に明らかな塩気を感じた。それはキャラメルの風味を邪魔しない程度であり、むしろその甘さを引き立てるような存在であった。
 こんなものは初めて食べたはずなのに、龍ノ介はどこかでこれに似たものを食べたことがあるような気がしている。
「あっ、みたらし団子か!」
「???」
「このしょっぱさ、日本のお菓子にちょっと似ています。英国でこんなものに出会えるとは思いませんでした」
 醤油と砂糖。香りは全く違うが、このキャラメルはあのタレに少し似ている。答え合わせができて一人ですっきりしている龍ノ介と、いきなり訳の分からない単語を聞かされてどこかもやもやしているバンジークス。
……まあ、美味いと感じたのなら何よりだ」
 未だ納得はしていないがそれ以上の深追いは面倒だったようで、バンジークスは出かかった疑問を紅茶と共に飲み干した。


「あっ!」
 紅茶のポットが空になる頃、龍ノ介は突然小さく飛び上がった。
「どうした」
「寿沙都さんからおつかいを頼まれていたのでした。ここって、中央刑務裁判所からどれくらいですか? 裁判所の近くのお店なのですが」
「馬車ならば十五分もかからぬ。しかし道を知っているのか?」
「いえ、地図を見て行こうかと……
 実際のところ、歩いても大した距離ではない。だが昨日も似たようなやり取りをしたことを、龍ノ介はもう忘れてしまったのだろうか。
「馬車を出す。裁判所までなら私も行こう。執務室に置き忘れた物がある」

 龍ノ介が断る余地はなく、また二人揃って馬車に乗った。バンジークスが忘れ物をしたのは事実だが、別に今日である必要はない。龍ノ介ならばきっと断るだろうと思い、バンジークスが少しばかり気を遣ったのだ。流石にそれは分かる。
(もてなすと決めたら徹底してるというか……なんだかんだで律儀な方だな)
 初めこそ怖いという印象しかなかったが、その怖さの奥には真面目さや厳格さがあるのだと、幾度かの裁判を通して知った。日本人を敵視しているのだとしても、それを置いて一度決めたら最後までやり通そうとする姿を見て不快に感じるはずがない。妙なお願いをしてしまったと思っていたが、案外これは良い機会になったのではなかろうか、龍ノ介はそんな風に思っていた。

 裁判所の前で停車する。龍ノ介もこの先の道は分かるし、買い物があるからと家まで送ってもらうのは丁重に断った。バンジークスもそれならばと了承する。
「ではまた明日」
「はい、明日も楽しみです」
 菓子はもちろんだが、バンジークスと居ると龍ノ介が知らないことを見聞できる。それは必ずしも生活に必要なものではなく、日本に持ち帰る必要もないかもしれない。だがこの非日常体験を、龍ノ介は間違いなく楽しいと感じていた。



 家路を歩きながら、龍ノ介は二日間を思い返す。
(明日は、今日より少しは会話が弾むと良いなあ)
 そうなればもっと楽しくなるような気がする。菓子の感想だけではなく、何か話題はないものかと考えてみる。といっても、思い付くのは法廷のことばかり。楽しい会話になるとは到底思えない。それどころか議論になる可能性もある。
 良い案が浮かばないまま、龍ノ介の足はベーカー街に到着した。
(バンジークス検事、反応が薄いから何を話しても響いた感じがしないんだよな……無理に話そうとしても不自然かしらん)
 きっと不自然になってしまうのだろう。ぎこちない会話で龍ノ介の意図を見透かされて、余計な気は遣わなくて良いと言われるところまで想像に難くない。無理をするのはやめだ。
(そもそも、ぼくと話すこと自体が検事にとって楽しいかどうかも分からない以上、あれこれ考えても無駄かもしれないのだけど)
 龍ノ介が楽しく話をしても、バンジークスの迷惑ならただの独りよがり。礼を受ける側であっても、そのような事態はできれば避けたいものだろう。

 人付き合いに間違いはあるが、正解は無い。龍ノ介の出会った中でひときわ気難しい相手は、眠りに落ちるまでその頭の中から出ていくことはなかった。

  三日目 パイ

 一日目と同じように奥の部屋へ通される。一階だけの店だと思っていたら、表からは見えない階段で二階に上がり、下の喧騒から離れた部屋に着いた。倫敦の店にはどこでもこのような空間を持っているのかと考えてみるが、そうだとすればどうも土地の広さが合わない。龍ノ介が知らないことはまだたくさんあるようだ。
「貴族の方々はそもそも一般のお店でお食事なんてされないのだと思っていましたが、こんな所に隠れていたんですね」
「別に隠れているつもりはないのだが」
 しかし考えてみればそうかもしれない。人目を避け、隔離された小部屋で限られた人とだけ話をする。隠れていると言われても違和感はない。
(なかなかどうして、妙なところで鋭いことを言う男だな)

 席に着き、品書きが渡された。ここはプディングの店のような専門店ではないが、部屋に着くまでに見た客がこぞって同じものを皿に乗せていたので、今日何を食べにきたのか龍ノ介には確信があった。
「今日はパイですね?」
 バンジークスは何を食べに行くか語らない。彼なりにわくわく感を演出しているのだろうか? 真偽は不明だが、龍ノ介もそれを楽しんでいる節がある。何を食べるか当てる遊びのような感覚だ。
「正解だ。この店の看板商品でな」
 品書きにはこれまた多くのパイが並んでいる。食事のパイの割合が多いが、甘いものもたくさんある。林檎や木苺、カボチャなどが定番のようだ。どれもおいしそうで目移りしてしまう。
「このお店も種類が多くて迷いますね」
「では、私が薦めるものを?」
「うむむ、あっ、このカスタードパイが食べたいです」
「悪くない。ではカスタードパイとアップルパイを」
「かしこまりました」
 給仕が部屋を去ると、手袋を外しながらバンジークスが口を開いた。
「カスタードが好きなのか」
「一日目に、検事のプディングを一口頂いたでしょう。あれがパイになったらさぞおいしいだろうと思ったのです」
「ふむ。ここのカスタードは評判だ。貴公も気に入るだろう」
 龍ノ介の気のせい、ではなかった。一日目よりも二日目よりも、バンジークスの口数が増えている。余分な……と言うと語弊があるが、必要最低限だけで終わる会話ではない。雰囲気も心なしか丸いようだ。昨日考えていたことがことだけに、バンジークスの言動には注意深くなる。
 食事の席を共にすることは、古くから人の親交を深めるために行われてきた。たった二日でそれが早くも効果を表したということだろうか。何にせよ龍ノ介も悪い気はしなかった。

 甘い香りと共に二つの皿が運ばれてきた。龍ノ介の皿には卵色のパイ、バンジークスの皿には、黄金色の生地に包まれたパイが置かれる。
「紅茶はディンブラでございます」
 温かい紅茶が注がれると、花のような香りが広がった。どんな味がするのかと思えば、癖がなく飲みやすい。目の前のパイともよく合いそうだ。
「では、いただきます」
 三角形の頂点にフォークを入れるのはいつだって至福の瞬間である。カスタードの柔らかな感触と、パイ生地のさくさくとした感触。口に入れればまったりとした甘さが舌に広がり、卵と牛乳の香りに包まれる。飲み込んだ後も香りは残るが、甘さは舌に残らない。とても上品な味であった。
「期待通りです」
「そうか」
 素っ気ない返事だったが、龍ノ介にはまた表情が和らいだ気がした。
 そして、バンジークスの手元を見つめた。彼が頼んだアップルパイは、カスタードパイと同じ土台に煮林檎を敷き詰め、その上から網状の生地を乗せて焼いている。机に向かい合って座ってなお龍ノ介の鼻まで届く林檎の香りも魅力的だ。
……何だ」
「人が食べているものって、おいしそうに見えませんか?」
「それを聞くのは二度目だ。単刀直入に言え」
「一口ください」
 龍ノ介がこれを言うのも二度目だ。となると、頼むのにも遠慮がなくなってくる。断られるなどとは微塵も思っていない顔を見て、バンジークスはやれやれと自分の皿を差し出した。
「全く……食べ物のこととなると清々しいほど貪欲な男だ」
「あ、それ亜双義にも言われたことがあります」
 皮肉を皮肉とも思わず素直に返事する龍ノ介。バンジークスとしてはやや調子を狂わされ、にこにこと給餌を待つ彼の前に皿を差し出すことしかできなかった。

「では失礼して」
 中の林檎はジャムのようにとろりとしている。生地は厚みがあって香ばしく、林檎の爽やかな甘みと相まって絶妙な調和を生み出す。
「美味いか?」
「はい、とても。検事が頼むものっておいしいですよね」
「まあ……これが美味いと知って来ているからな」
 龍ノ介はバンジークスの手元を見る。定番というか堅実というか、間違いなくおいしいと想像できる品を選んでいるように見える。
「あまり珍しいものには挑戦しない方ですか」
「そうだな。行きつけの店では大抵頼む品が固定されている」
 別にそれが悪いということはない。口に合わないものを無理に食べる必要はないし、それが食べたくて店に来ているのだから。だが、それではバンジークスの普段通りになる。
「明日はちょっと冒険してみませんか」
「冒険、か」
「昨日の塩味のキャラメルを食べてみて、普段は手を出さない味を選んでみるのも良いなと思ったのです」
 昨日の一件は良い発見だった。ホームズが勝手に籠へ入れなければ、龍ノ介があれを食べる機会は永遠に訪れなかっただろう。
 龍ノ介もどちらかというと定番を選ぶ方だ。だからたまには新規開拓をしてみたい気持ちが湧いた。
「ふむ、好きにするがいい。明日はおそらく貴公にも選びやすいだろうからな」
「?」
 選びやすいとはどういう意味だろうか。単純に種類が少ないのか、好みが分かれやすいのか。何にせよ明日も変わらず楽しみである。

「パイって、この端のところが一番おいしくないですか?」
 八割ほど食べ進んで、龍ノ介の皿にはパイの端の部分が丸く残っている。カスタードの部分はもうあまり残っておらず、もはやこれが何のパイだったのか分からない状態である。
「つまり貴公は、どれを食べたところで一緒だったということか?」
「いえ! もちろん中身もおいしいのですが! でもここがパイの醍醐味だと思うのですよ」
 焼きたてのさくさくとした食感も、具に押されてしんなりとした食感も、龍ノ介は両方を愛している。中身と一緒に食べるのが至上ではあるが、焼いた生地だけ食べていろと言われても喜べるほど。
「私は中身の方が美味いと思うが」
 一方のバンジークスは端だけが残らないよう、扇の弧を小さくしながら食べていた。最後の一口までちゃんと具と一緒に食べられるよう計算しながら進めていたことが窺える。
「気が合いませんね……あ、いや、逆に補完し合っているという考え方もできる……?」
「また訳の分からぬことを……
 龍ノ介が謎の理論を展開し始めて、バンジークスは呆れて塞がらない口を紅茶で濁す。
「まあ、好きな部分を最後に取っておくという点においては共通しているようだな」
 そう言ってバンジークスは最後の欠片を口に入れた。アップルパイは冷めてもおいしい。最後の一口はやはりこうでなければとバンジークスは思う。

(まただ、この感じ)
 普段であればばっさりと切られてしまうような話題も、今日は比較的柔らかい答えが返ってくる。言葉では表しにくいが、会話しようとする意思のようなものをバンジークスから感じていた。
(ここで突っ込みを入れると逆に黙ってしまうかもしれないな)
 彼は悪い人間ではないが、素直でもない。馬鹿正直に「今日はなんだか会話が弾みますね」などと言ってみろ。意図的であったにせよ無意識であったにせよ、バンジークスは元のように冷たい返事しかしなくなってしまうのが目に見えている。
 ならばなるべく意識しないよう努めるしかないだろう。龍ノ介だって同じようなことを考えていたのだから。
「確かに、最後に好きなものを食べると幸せな気分になれますよね」
「随分と安い幸せだが……否定はしまい」
 龍ノ介も最後に残っていたカスタードパイの耳を食べた。バターが香ばしく、何層にも重なった生地。今までに龍ノ介が食べた他のどのパイよりも繊細で、最後の一口まで至福のおいしさであった。


「三日目に聞くことではないのですが、検事はお忙しいのですよね? 毎日ぼくにお付き合いいただいて大丈夫ですか?」
 今日は平日。龍ノ介はさておき大抵の人は働きに出ている時間だが、一昨日からバンジークスが仕事をする様子がない。昨日裁判所に寄ったのも忘れ物を取りに行くためだった。
「毎日遊び歩くほど暇ではない……と言いたいところだが、今は休暇中でな」
「あ、そうだったんですか! よかった。お仕事の邪魔じゃないかと心配で」
「フン、捜査現場でうろちょろされたり、私の執務室に入って来られる方がよほど邪魔だ」
「それがぼくの仕事なのですが……
 ともあれ、今は邪魔ではないようで安心である。が、そうなると次の疑問が湧いてきた。
(せっかくのお休みをぼくと消化してしまって良かったのかしらん?)
 しかしそもそもバンジークス本人が言い出したことなのだから、聞くまでもないかと思い止まった。
 礼のためとはいえ、バンジークスは一人穏やかに過ごすよりも龍ノ介とお茶を飲む方を選んだ。それは実は非常に珍しい現象で、今この場においてもまだ現実味が湧かない。それだけバンジークスが龍ノ介に感じる恩義が重いということだ。
 龍ノ介は本当に大したことをしたつもりはない。偶然持っていた情報が、偶然バンジークスの正解だっただけだ。それに事件自体も、傷害事件ではあったがそれほど珍しくも重要性が高かったわけでもない。彼がなぜそこまでしてこの礼にこだわるのか、未だに不思議であった。

「貴公こそ仕事はないのか」
 喉まで出かかっていた質問はバンジークスの声に押されて飲み込まれた。
「ううーん、依頼は基本的にヴォルテックス卿から頂くか、自分から弁護を申し出るくらいしか……
 龍ノ介は自分で言っていて悲しくなってくる。もちろん日本で資格を取ったわけでもない半人前の身で、第一線の弁護士として働こうなどとは思っていない。だがこうも時間に余裕があるともう少し何かあっても、と思うことはある。
「なるほど、貴公も暇人か」
「で、でも勉強はしていますよ! ちゃんと定期の報告書も出していますし」
「留学生なのだから当然だ」
 全くの正論にぐうの音も出ない。バンジークスから称賛を受けるには、一体どれほどの努力が必要なのだろうか。
「法の世界は常に変化している。進化の追求を怠るな。時代遅れの法典など使っている場合ではないぞ」
「うっ」
 怒涛の畳み掛けで龍ノ介の精神は大変な痛手を負った。別に好んで古い法典を使っているわけではないのだが、バンジークスにしてみればどちらも同じだ。
……まあ、その留学生に幾度となく負けているのだから、私もまだ未熟者ということか」
 ボコボコにされた気分の龍ノ介だったが、そこまで聞いてはたと我に返る。
(これはもしや、励ましてくださっているのだろうか)
 一つ前の言葉も、考え方によってはそう受け取れなくもない。遠回しにも程があるが、バンジークスの顔を見るとぼんやりとした予感は確信に変わった。
「ぼくが今まで無罪を勝ち取れたのは、ぼくだけの力ではありませんよ。それに検事も証人も、全員で真実を暴いた結果がたまたま被告人の無罪だっただけです」
 裁判で龍ノ介がバンジークスに負けたことはないが、彼に敵うと感じたことなど一度もない。勝敗だけで経験の差は埋まらないし、龍ノ介が背負うものと彼が背負っているものは重さが全く違うように感じる。だからこれは謙遜など一切含まない言葉なのだ。
「その返事を聞く限り、大丈夫そうだな」
「大丈夫とは?」
「こちらの話だ」
 バンジークスは一人で納得している様子で、龍ノ介がそれ以上は追及しても何も答えてはくれなかった。



 もやもやしたものを残す帰り道。しかし満たされた体には馬車の振動が心地よく、更にベーカー街まで距離があったために、龍ノ介はうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。車輪の音が次第に遠くなる。先ほどの疑問などどうでもよくなってくる。
 知らず知らず、龍ノ介は意識を手放していた。

「着いたぞ」
「!」
 浅い眠りであったため、バンジークスの静かな声でも目が覚めた。馬車は止まっており、窓の外を見れば見慣れた景色。
「疲れでも溜まっていたのか」
「い、いえ、満腹で眠くなっていただけです。すみません」
 短い時間だとしても、二人しか居ないところで寝てしまうとは失礼なことをした。慌てて謝ったが、バンジークスは怒るでも呆れるでもなく、単純に気にしていないようだ。
「ならば良い。だが家に入る前に涎は拭いておけ」
「!!」
 口の端に垂れていた涎を手の甲で拭っている間にバンジークスは馬車に乗り込んでしまった。そしていつもと同じ台詞。
「ではまた明日」
「はっ、はいっ!」
 返事と同時に扉が閉まる。寝起きの頭で馬車の後ろ姿を見送り、二、三度顔を叩く。本人が気にしなかったとはいえ、やはり良くない行動であっただろう。馬車に乗る時は気を付けようと心に刻み、家の扉を開いた。



(目の前で居眠りするほど気を許されていた、か)
 バンジークスがそんなことを考えていたとは、龍ノ介は知る由もない。

  四日目 チョコレート

 いつものように馬車で迎えに来てもらい、今日は中心街まで。煌びやかな建物の前で降りる。
 若い女性が多く、皆幸せそうな顔で店から出てくる。店の外側には菓子で出来た家や、詰め合わせの箱が並んでいた。
「今日はこのチョコレート屋だ」
「おお、もう良い香りがします」
 女性だらけであろうと何のその、龍ノ介は躊躇うことなく店の扉を開いた。

 店内はもっと濃い香りに満ちていた。外に展示してあった詰め合わせの箱や、山のような小箱。店員に頼んで一粒ずつ選ぶこともできるようだ。
「大人気ですね」
「ここは王室御用達だからな」
 女王陛下はチョコレートが大好きで、そんな彼女が選ぶ店ということで常に人波が絶えない店なのだとか。当然、龍ノ介の期待も高まってくる。

「で、どれにするのだ」
 昨日の龍ノ介の提案通り、珍しい品を選ぼうという算段だ。だがその前に聞いておかなければならないことがある。
「いくつまで買っていいですか?」
……食べきれる分だけだ」
 棚に並ぶ商品の形は様々で、どれも美しくおいしそうである。一箱だけでは到底満足できそうにない。
 華やかな箱が並ぶ中、一際目を引くものがあった。白い楕円の箱で、色彩鮮やかな花の絵が描かれている。「花束」と名付けられたそれはチョコレート一粒一粒が花の形を模しており、その中には薔薇や菫の砂糖漬けが入っているらしい。一番人気の新作だ。そして、見回す限りこれがこの店で最も高価なもののようだ。ほんの僅かに罪悪感はあるが、最後には好奇心が勝った。
「これ、いかにも冒険って感じで良いですね!」
「確かに珍しいな」
 この箱は九粒入り。まだまだ食べられる。
 次に龍ノ介が選んだのは、この店で一番古くから売られている詰め合わせだ。これはバンジークスのお薦めで十粒入り。冒険したいと言いつつ、定番商品は結局外せない。
 そして最後に選んだのは酒が練り込んであるチョコレート。一種類しか入っていないが六粒入りだ。
 三つの箱に決めてバンジークスに買ってもらう。荷物を持つのは龍ノ介だが。

 いざ帰ろうと店を出たところで、二人は見覚えのある顔に出会った。
「ジーナさん?」
「あっ、ナルホドー! と、死神? 一緒に居るなんて珍しいね」
 店外の展示品を覗き込んでいたのだろうか、ジーナは体を起こして後れ毛を耳にかけ直す。
「何を見ていたんですか?」
「これはその、違うっていうか、違わないっていうか」
「?」
 何かを取り繕う様子に龍ノ介は首を傾げた。この店の客の多くは女性であるし、ここに居て不自然なのはむしろ龍ノ介達の方だろう。
 彼女は小さく溜息を吐いて、低い声で呟く。
……可愛いなって思ってたの。でもアタシの給料じゃまだ余裕なくて」
 ジーナの視線の先には、先ほど買った箱の一つが並んでいた。龍ノ介が真っ先に決めた「花束」だ。
 先ほどの態度の理由はこれである。店に入るのさえ気後れする、自分ではまだ手の届かない品を見ている場面を、店から出てきた者に見られて恥ずかしくなったのだ。そんな風に思う必要などないのに。
「ジーナさん。良かったらこれ、差し上げます」
 紙袋の中から先ほど買ったばかりのものを取り出す。外見も華やかな新作の箱。
「え……いいの?」
「この前の事件ではトビーにお世話になりましたからね。お礼だと思って受け取ってください。ぼくは他にもありますし」
 龍ノ介はにこりと笑ってジーナの手を取り、その箱を優しく持たせてやった。
 別にジーナの意図を全て理解したわけではない。彼女が欲しいと思っているから、少しだけ理由をつけて差し出した、ただそれだけだ。ジーナも龍ノ介のことを知っているからこそ素直に受け取ることができる。
「あ、ありがと」
 信じられないような顔の後、照れと嬉しさが入り混じった顔。お礼の声は小さかったが、龍ノ介には確かに届いた。ジーナが喜ぶならばそれで十分である。
「とんでもない。それでは、ぼくらはこれで」
 背後のバンジークスと馬車を待たせていることを思い出し、軽くお辞儀をして店を後にした。

 馬車に戻ってから、何も言わなかったバンジークスが口を開く。
「良かったのか? あれが一番欲しかったのだろう」
 ジーナと話している間、バンジークスは龍ノ介に声を掛けようとして止めた。口に出せばバンジークスが買ってやったことがジーナに知れ、まず間違いなく固辞すると思ったからだ。しかし手放したのは最初に決めた品物。龍ノ介自身も他の箱より楽しみにしていたはずである。
「構いません。きっと他のもおいしいと思いますよ」
 龍ノ介があまりにもあっけらかんと答えるものだから、バンジークスもそれ以上深追いはしなかった。もとよりこれは龍ノ介への謝礼であり、彼がそうしたいと決めたのならそれに従うのみ。


 馬車は軽い足取りでバンジークス邸へ。今日は天気が崩れてきそうなので、前回は入らなかったサロンで食べることになった。日当たりの良い部屋で、曇っているのに中は明るい。調度品は葡萄酒のような深紅で揃えられ、外からの明かりで艶々と輝いている。正に、チョコレートを食べるためにあるような部屋である。
 ふかふかの椅子に座ると体が沈み込んで、二度と立ち上がれなくなりそうだ。
 今日の紅茶はウバだと給仕が言っていた。清涼感のある香りで渋味が強い。これならばチョコレートの強い香りにも負けないだろう。給仕のこだわりを感じる。
「結局、定番商品になってしまったな」
「あはは……本当ですね。また明日に期待しましょう」
 二つの箱を並べて眺める。変わり種を選んだつもりが、まさかそれを人にあげてしまうとは。
 気を取り直して箱を開けた。こちらはこちらで可愛らしい見た目のチョコレートが並び、一気に期待が高まる。
「どれから頂きましょうか」
「酒が入った方は後にしろ。酔って味が分からなくなっては本末転倒だ」
「ではこちらの箱から」
 添えられている説明書きによると、クリームが練り込まれたもの、中にジャムが入っているもの、味の違う二種類のチョコレートを重ねたものなど、日本では見たこともない種類ばかりだ。
「貴公は迷うのが好きだな」
 いつまでも決められない龍ノ介に、遠回しな「早くしろ」が飛んでくる。
「だって、どれもおいしそうです」
「決められぬのなら私が先に選ぶぞ」
 言い終わらない内にバンジークスが手を伸ばし、無慈悲にも最初の一粒を先に口に入れてしまった。
「ああーっ!!」
 食べられたのは、甘さ控えめの香り高いチョコレートの中にすり潰したアーモンドが入ったものだ。
「美味い」
 龍ノ介の叫びなど聞こえていないかのように、バンジークスはもぐもぐと味わいながら温かい紅茶を楽しんだ。
 龍ノ介は泣く泣く諦め、次こそはと気合を入れた。手に取ったのは直方体で色の薄い粒。中身は砕いたビスケットらしい。丸ごと口に入れて噛んでみると、チョコレートの合間にさくさくと香ばしいビスケットが現れ、噛み続ければ更にチョコレートと一体化していく。
「これを考えた人は天才ですね」
……
「え、どうしました?」
 バンジークスが何か考え込んだ顔をしている。無意識だったのか、はっとして緩く首を振った。
「いや……私も子供の頃に似たようなことを……
「ムッ、ぼくの考えが子供並みということですか」
(そうきたか)
 龍ノ介の受け取り方は予想外だったが、バンジークスは否定も肯定もせずに聞き流した。


 次に酒が入った方を手に取った。ジーナにあげた箱も随分と凝った装飾がされていたが、こちらも負けていない。上品な青に金色の縁取り。紙でありながら陶器でできているかのような美しい箱だ。
 開くとほのかな酒の香りが立ち上り、龍ノ介は思わず頬を緩ませた。
「良い香りですねえ。お酒って、何が入っているんですか?」
「ブランデーだ」
 バンジークスも表情こそ変わらないが、今までにないほどそわそわしている上に随分と前のめりになっている。
……検事、これがお好きなんですね」
……うむ」
 これ以上待つ必要もない。一つずつ指でつまんで口へ運んだ。
 最初の印象は少し苦いチョコレート。だが噛んでみると、甘くてとろりとした何かと一緒に酒の香りと苦味が一気に広がった。よく噛んで舌で触って、その正体を確かめる。
「なんでしょう、この中身。つぶつぶしたものが入っていますね」
「苺のジャムとブランデーを混ぜてある。だから酒が利きすぎず、周りのチョコレートとの相性も良い」
 確かに、中身の甘さと外側の苦さが混ざってちょうど良い。ブランデーといえば強い酒だが、全くそんな強さを感じずに食べられる。
「夢のようなお菓子ですね、これ」
「あと二つずつだ。大事に食べろ」
 いつもはバンジークス一人で六粒食べるのだろうが、今日は半分だけだ。その言葉はもしかしたら自分に向けたものかもしれない。龍ノ介はほんの僅かに申し訳なく思って、二つ目に手を伸ばした。


「でも、いいなあ。検事は子供の頃からこんなにおいしいものを召し上がっていたんですね」
 チョコレートは結局すぐに無くなってしまって、二人は三杯目の紅茶を飲みながら寛ぐ。いつもならば食べ終わったらあまり時間を置かず帰宅するのだが、今日はなんといっても椅子の座り心地が格別に良い。
 幸せの余韻に浸りながら呟いた言葉は、バンジークスの耳にも穏やかに響いた。
「まあ、な」
「日本だとやっぱり和菓子の方が一般的で、洋菓子なんてそう頻繁には食べられなかったんですよね」
 龍ノ介は東京でよく食べていた菓子を思い出す。花見の時は団子と決まっていたし、煎餅は安いからよく食べ歩きをしていた。懐に余裕がある時は餡蜜など食べたものだ。いずれも懐かしく、少しだけ恋しさがこみ上げる。
「日本の菓子とはどういうものなのだ?」
 龍ノ介の様子がよっぽど幸せそうだったのか、バンジークスが興味を示した。まさか食いつかれるとは思わなかったが、龍ノ介は嬉しそうに話し出す。学ぶばかりで日本のことなど話す機会がなかったものだから、知っていることを人に教えるのが楽しいのだろう。
「そうですねえ、大福とか羊羹、どら焼き……基本的には餡子を使ったものが多いです。何と言えば良いでしょう……豆のジャムのような」
「豆を? 美味いのか、それは」
「もちろんですとも。お餅との相性が良いんですよ」
「オモチ?」
 和洋菓子の異文化交流は、ともすれば法廷の意見交換よりも難しいかもしれない。根底にある文化と知識が違いすぎて、単語ひとつ説明するのも一苦労である。
「ええと、米はご存知ですよね。日本には粘り気の強い米があって、それを蒸して潰してまとめたのがお餅です」
 小麦粉主流の英国においては、穀物をそのまま蒸すというだけで頭の上に疑問符が乗る。それを更に潰してまとめるとは想定外。もはや最終的な形など想像すらできていないだろう。
「日本人は妙なことをする人種なのだな」
「ええ? おいしいんですけど……そうだ、もしお餅が手に入ったらお裾分けしますね」
……まあ、もし手に入れば」
 バンジークスとしては、こんな口約束などいずれ忘れるか、そうでなくともオモチとやらを入手するのは難しいだろうと考えての返事だった。果たして実現するのか。それはまだ分からない。



 ようやく椅子から腰を上げた時には、いつの間にかしとしとと雨が降りだしていた。この国ではよくある小雨だ。今日は道も分かっているし、家までそう遠くもないので歩いて帰るつもりである。寒い季節でもないので、これくらいならばと龍ノ介が外へ出ようとすると、後ろから肩を掴まれた。
「待て、家まで送らせる」
「え、ええ? 大丈夫ですよ、これくらいの雨。もう道は分かりましたし」
 今日は歩いて帰ると先に伝え、バンジークスも了承したはずだ。が、肩に置かれた手はどかされる気配がない。
「これはしばらく止むまい。歩けば流石に全身濡れる。乗っていけ」
 バンジークスの〝気遣い〟は有無を言わさぬ圧がある。断る間もなく馬車の準備が整えられ、結局その言葉に甘えることとなった。
 歩ける距離を馬車に乗せてもらうなど勿体ないと思うのは貧乏性ゆえか。英国貴族には普通のことなのだろうが、やはりまだ気が引けるのである。

 広い馬車に一人だけで乗るなど初めてだ。倫敦の乗合馬車は大抵誰かが乗っているものだし、こんなに広くもなければ高級でもない。贅沢ではあるが、龍ノ介には少々もの寂しい。
(検事はいつも一人でこれに乗っているんだよな)
 逆に言えば、バンジークスにとっては誰かと馬車に乗る方が非日常なのである。もしかしたらバンジークスもここ数日は馬車の中で落ち着かない時間を過ごしていたのかもしれない。そんな風に考えると、龍ノ介の彼に対する印象も少しは和らいだ気がした。

 雨足が強まってきた。窓から外を覗けば、人々が足早に家路を急いでいる。
(歩いていたらずぶ濡れだったな)
 馬車の中も少し冷えてきた。もし龍ノ介が風邪を引いたら、当然明日は甘いもの巡りも中止になるだろう。そうならないように馬車を出してくれたのか……龍ノ介の考えすぎかもしれないが。

 バンジークスの言う通り、雨はベイカー街に着いた後も降り続き、深夜まで止まなかった。

  五日目 アイスクリーム

「成歩堂さま……近ごろ毎日のようにバンジークスさまと甘味巡りをなさっているそうですね……?」
 龍ノ介が出掛ける準備を済ませる頃、寿沙都は静かに切り出した。
「はあ、毎日のようにというか、毎日ですが」
 甘いもの巡りを始めてもう五日目。折り返しを過ぎて、バンジークスとの距離感も掴めてきた。
(そういえば、寿沙都さんにも言っていなかった気がするぞ……?)
 思い返せばこの甘味巡りは龍ノ介とバンジークスの個人的な約束で、なぜか情報を握っていたホームズを除けば他の誰にも知られていないはずだ(単に話す機会がなかっただけだが)。だが二人で出歩くようになり早数日。出先でジーナにも出会ったことだし、彼女の耳に入ってもおかしくはない。
 寿沙都は胸の前で固く拳を握り、何か言いたげに小さく震えていた。
「寿沙都は……寿沙都は羨ましゅうございます!」
 こんなに羨ましいとはっきり言う寿沙都を、龍ノ介は初めて見た。必死の形相に気圧される。
「恥を忍んで申し上げます。一緒に連れて行ってくださいませ!」
そして思い出す。彼女は甘いものに目がないのだ。
「わ、分かりました……
 勢いに押され、すっかり出掛ける準備を整え終わった寿沙都と共に玄関を出る。黒い馬車が角を曲がってくるのを見てようやく、一人増えても大丈夫だろうかなどという心配が湧き上がってくるのだった。

「ということで、今日は寿沙都さんも一緒です」
「お邪魔いたします、バンジークスさま」
 寿沙都は深々とお辞儀する。バンジークスは腕組みをしたまま、少々戸惑っているように見えた。
「あっ、もちろん寿沙都さんの分はぼくが支払いますので!」
 龍ノ介が勝手に連れて来たのだ。そこまで世話になるわけにはいかないだろう。が、バンジークスは組んでいた腕を解いて首を横に振る。
「いや、いい。一人も二人も変わらぬ」
 急な客人の追加に驚いただけで、機嫌を損ねていたわけではないらしい。行くぞ、と馬車に乗り込む背中を見た後、寿沙都と龍ノ介は顔を見合わせてほっと息を吐いた。

「本日はどちらへ?」
「検事、いつも目的地は教えてくれないのです」
「着けば分かること」
「ふふ、お楽しみということですね」
……好きに取ってもらって構わぬ」
 寿沙都一人いるだけで車内の空気が全く違う。龍ノ介も彼女が隣に居るとやはり心強いのか、圧倒的に口数が増える。
 今日は賑やかな午後になりそうである。

 着けば分かるとバンジークスは言ったはずだが、馬車を降りて店の前に立ってみても、二人とも何の店だか分からない。
「看板が出ていないようですが……
……今の時期は看板を出していないのだったな。ここはアイスクリーム屋だ。夏以外はただの喫茶店に見えるがな」
「まあ、あいすくりん!」
 夏は盛況だが、気温が下がるにつれ客足が遠のくために、それ以外の時期は普通の喫茶店として営業しているそうだ。もちろんアイスクリームはいつでも楽しめる。
 年季の入った扉を開くと、橙色の灯りが置かれた穏やかな空間。帝都の高級な喫茶に似た雰囲気である。

 今日も今日とて秘密の部屋へ案内される。龍ノ介はもはや慣れたものだが、寿沙都は一日目の龍ノ介と同じ場面で驚いていた。部屋に着いてから龍ノ介がそれを指摘すると、「貴公が言うな」とバンジークスに怒られもした。
 腰を落ち着けて、さて今日は何を食べるかと龍ノ介が品書きを受け取ったその時、バンジークスは一切に目を通さず給仕に言いつける。
「全てのアイスクリームを一つずつ。紅茶も頼む」
「かしこまりました」
 日本人二人は大いに慌てた。引き止めようとした給仕はさっさと下がってしまって、扉の閉まる音が空しい。
「ぜ、全種類だなんて! 流石にそんなには食べきれませんよ!」
「そうですとも! いくらバンジークスさまといえどそんな贅沢は!」
 あわあわと心配する二人に、バンジークスは溜息を吐く。そもそも彼が初めに何も言わなかったのも悪いのだが。
……この店のアイスクリームは三種類のみだ。悩む必要すらない」
 寿沙都が来てちょうど三人。どうせ色々食べたいと言うに決まっているのだから、それ以外の選択肢はない。二人ともぴたりと動きを止め、小さく落ち着いた。流石に恥ずかしい。だがそれと同時に、ここが個室であって本当に良かったと胸を撫で下ろしていた。


 先に紅茶の準備が進む。茶葉はアッサムで、牛乳の入った湯呑に濃い色の茶が注がれていく。これぞ紅茶という香りが優しく広がった。
 アイスクリームはその後すぐに運ばれてきた。白、茶色、そして桃色の三種類がそれぞれ龍ノ介、バンジークス、寿沙都の前に置かれる。
「バニラ、チョコレート、苺味でございます」
 いずれにも薄い焼き菓子が刺してあるのが洒落ている。
「ばにら?」
「香辛料の一種だ。甘い香りがする」
 白いアイスクリームの中に見える黒い粒がそれだとバンジークスが教えてやる。確かに、砂糖や卵とは違う香りがした。
「どれもおいしそうでございますね」
 寿沙都は机の上を眺めて、黒い瞳を幸せそうに輝かせた。勢いに押された形ではあったが、連れて来て本当に良かったと龍ノ介は思う。バンジークスも似たようなことを感じたらしく。
……食べてみるか」
 寿沙都はもちろん、龍ノ介も耳を疑ってバンジークスを凝視した。彼はそんなことを言う類の人間だっただろうかと、もう二人の喉から出かかっている。
「そんな、よろしいのですか?」
「この弁護士と数日過ごしてみたが、どうあっても私が食べているものを一口欲しがるものでな。もう慣れた。それにこの部屋ならば人目を気にする必要がない」
 前半はともかく、気にせず食べれば良いという意図は寿沙都に伝わったようだ。 
「それでは、失礼いたします」
……
 バンジークスは寿沙都の方を向いているというのに、龍ノ介からの視線が痛い。五日目ともなれば流石にもう何も言われなくても分かる。
「貴公にも一口やる。しばし待て」
(犬のような扱いだ……
 果たして犬の〝ような〟で済む話なのだろうか。

 寿沙都と龍ノ介の皿に少しずつチョコレート味のアイスクリームが乗せられ、いざ実食。皿もスプーンもよく冷えている。
 バニラは口に入れると香りが一層よく分かった。甘味が増したと錯覚するほど甘い香り。鼻に抜けるだけで幸せな気分を味わえる。
 冷たいアイスクリームは口の中でゆっくりとほどけた。まろやかなクリームはバニラの奥から牛乳の味がしっかりと活きており、龍ノ介が食べたことのない高級な味がする。
 続いて、溶けてしまう前にチョコレート味を掬った。昨日チョコレートを食べたばかりだが、こちらはどうか。
 口に運んだ時からバニラとは全く違う。本当にチョコレートを食べているような、しかし温度も食感もアイスクリームだ。
「おっ、おいしい……
 思っていたことをつい口に出してしまったかと思いきや、それは龍ノ介の声ではなかった。横を向けば、寿沙都が感動した様子で片手を頬に当てていた。
「成歩堂さま、こんなにおいしいものを連日召し上がっていたのですね」
 うっとりと息を吐いて、寿沙都は自分の苺味に手を伸ばした。実のところ彼女としてはもっとゆっくり味わいたいのだが、いかんせん今日はアイスクリームである。一番良い瞬間を食べなければ。


「それにしても、なぜお二人で甘いもの巡りを?」
 三人とも溶ける前に食べ終わり、紅茶で体を温める。
 寿沙都はふと、そもそもの疑問を口にした。二人で甘いものを食べていることは知っていたが、その理由までは聞いていないのだ。
「先日の落とし物の件がどういう訳か検事の追っていらっしゃった事件に繋がりまして、捜査協力のお礼です」
「ああ、先週の。寿沙都はお力になれず……
「そんな、寿沙都さんが気にされることではありませんよ」
 例の事件を手伝っていたのは龍ノ介だけである。というのも、依頼が来た時に暇そうにしていたのが龍ノ介だけだったのだ。
「ですが、よくバンジークスさまがお付き合いくださいましたね」
「バンジークス検事も甘いものがお好きだそうですよ」
「まあ!」
「!! 弁護士……
 バンジークスが龍ノ介に鋭い視線を刺した。そんな反応をされるとは思っていなかったものだから龍ノ介は少し慌てる。
「別に恥ずかしがることでもないと思いますが……ホームズさんもよくキャラメルを齧っていますし、アゲモノを無限に食べている刑事だっているじゃないですか」
「一緒にしないでいただきたい」
 この国には男女問わず甘いものが好きな人が多い。菓子の店の充実ぶりがそれを物語っている。甘党の紳士などそう珍しくはないだろうが、それでもバンジークスはあまり公にしたくなかったようだ。
……まあ、既に他の者にも知れてしまったが」
 龍ノ介はもとより、ホームズにジーナ、そしてここに居る寿沙都。この数日で随分と広まってしまったものだ。本人は既に諦め始めている様子。
「今日で五日目と仰っていましたが、昨日までは何を召し上がっていたのですか?」
「ええと、プディング、キャラメル、パイ、昨日はチョコレートでした」
 思い返すだけで味も蘇る。今日のアイスクリームを含め、全て大満足である。
「まあ、どれもこんなお部屋で?」
「いえ、キャラメルとチョコレートは検事のお宅で頂きました。持ち帰りしかできなかったもので」
……バンジークスさまの、お宅で……
 絶句した寿沙都を見て、龍ノ介は何か思い当たることがあるようだ。
「心配しなくても、普通の立派なお屋敷でしたよ!」
「貴公らは何を想像していたのだ……
 せっかく初めての訪問の際には黙っていたのに、ここにきて思っていたことが露呈してしまった。どんな想像をしていたのか大体バンジークスにも分かる。
 しかし龍ノ介もバンジークスも、寿沙都が言葉を失った本当の理由に気付いてはいなかった。
「そうだ、寿沙都さん。明日も来ますか? あ、ぼくが聞くことじゃないですけど」
「別に構わぬが」
 甘いもの好きならば誘いに乗るかと思われたが、寿沙都の表情は硬い。
「い、いえ、それは遠慮いたします。元々はバンジークスさまから成歩堂さまへのお礼でございましょう? 寿沙都は、今日ご一緒できただけでも充分でございます」
「そうですか……
 彼女が居ると二人のときよりも場が和むだけに、龍ノ介は残念そうだ。
 しかしまったく男というものは、女性の考えを見抜けない生き物である。


 帰りの馬車は行きよりも賑やかであった。というのも、寿沙都が店の入口に置いてあったマドレーヌを眺めていたら、バンジークスが手土産にと買ってくれたのだ。箱に四つ入っているのでベーカー街の面々で食べるのにちょうど良い。
「こんなにしていただいたら罰が当たりそうです」
 白い箱を大切に抱え、寿沙都は溜息を吐いた。嬉しさ半分、悩ましさ半分といった様子で、しかしやはり嬉しそうな目で箱を見つめている。
「気にするな。あれはたまにしか置かれないのだ。今日を逃せば次はいつ出るか分からぬぞ」
「まあ! 貴重なものなのですね!」
 店長の手が空いているときにしか店頭に並ばないマドレーヌ。数が少なくすぐに売り切れてしまうため、バンジークスも買えたのは二度目だ。今日もこれが最後の一つだった。
 しかし本当に、バンジークスが手土産まで持たせてくれたのは意外だと龍ノ介は思っていた。滅多に買えないものがたまたまあったからなのか、甘いもの好きな同志への仲間意識なのか、はたまた他に何か理由があるのか。
(ぼくもこれだけもてなしていただいておいて罰が当たりそうだけど、なんだか少し羨ましいな)
 龍ノ介の方がよっぽど歓待されているというのに、なぜかその小さな手土産が羨ましい。バンジークスに選んでもらったチョコレートの箱と同じくらいの価値が、それにはあるように感じられた。
 しかしいくらなんでもそれは欲張りだろう。寿沙都はマドレーヌを皆で食べましょうと言った。だからこれは等分……のはずだ。


「送っていただき、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 二人でぺこりと頭を下げる。バンジークスはいつも通りの澄ました顔で、当然のこと、とだけ言った。
 馬車が角を曲がるまで見送ってから二人は部屋に戻った。ホームズはまだ帰宅しておらず、アイリスは原稿が大詰めだというので、なるべく静かに屋根裏部屋へ。
「成歩堂さま、今日は本当にありがとうございました。お陰様で夢のような時間を過ごさせていただきました」
 寿沙都は改めて龍ノ介にお辞儀した。彼女としてはなかなか思い切った行動で勢いに任せた部分もあったが、それは正解だったようだ。
「いえ、ぼくは何も。バンジークス卿もすんなり受け入れてくださいましたし、寿沙都さんに喜んでいただけて何よりです」
 今日の寿沙都は実に幸せそうであった。あまり自由に遊び回れない貧乏留学生の身なので、少しでも彼女の息抜きになったのなら僥倖だ。
「でも、本当に良いんですか? 明日も明後日も、きっと頼めば一緒に連れて行っていただけると思いますが」
 バンジークスは嘘や誤魔化しなど言わない。彼が構わないと言ったのなら寿沙都がついて来ても本当に構わないのだろう。
 だが彼女は首を横に振る。
「ええ。お邪魔いたしました」

 誰が想像しただろうか。検事と弁護士が個人的な約束をして倫敦の甘いものを食べ歩いているだけにと止まらず、自宅にまで招かれているとは。
 バンジークスが法廷で龍ノ介に向けていた敵意は、寿沙都には感じられなかった。事件の礼ならば理解もできるが、それでも自宅というのは意外でならなかったのだ。
(成歩堂さま、まどれぇぬをお気になさっていたようですが……それよりよほどすごいものを受け取っていらっしゃるのでは?)
 皆まで言うのは無粋だろうが。

  六日目 ビスケット

 馬車を降りると、龍ノ介はにわかにきょろきょろと辺りを見回す。
「どうした、尾行でもつけられているのか?」
 発想がどうも物騒であるが、彼の生活を思えば無理もない。龍ノ介は首を止めてバンジークスに向き直った。
「いやいやそんなまさか。結構な頻度で顔見知りに会うものですから、今日も誰かいるのではないかと思ってしまったのです」
「ああ……確かにな」
 すぐに振り返ってしまったために一瞬しか見えなかったが、龍ノ介の目にはその時確かにバンジークスが口元を歪ませていたように見えた。

 今日の店も当然のように王室御用達である。ただし店内がとても広いので、チョコレート屋ほどの混雑は感じない。
「こんなに大きなビスケット屋には初めて来ました」
 辺り一面が黄金色である。クッキーもショートブレッドも、ここにはあらゆる焼き菓子が揃っているように見える。
「ここはビスケット屋ではない。紅茶屋だ」
「ええ!?」
 どう見ても菓子しか売っていない。この店にもまた裏側があって、そこで紅茶が売られているのだろうか。龍ノ介はそんなことを想像していたが。
「ここは三階だろう。一階と二階は全て茶葉の売り場で、この建物全体が一つの店なのだ」
「へえ……
 聞けば紅茶屋が自社のお茶に合うビスケットやクッキーを売り始め、いつしかこのような規模になったそうだ。紅茶に合うとあって菓子類もたいへんな人気で客の層が厚い。ビスケット屋ではないが、味は十二分に期待できるだろう。
 店内が広いものだから物色にも時間がかかる。端からじっくり歩いていると、半分ほど回ったところでバンジークスが居なくなってしまった。が、彼のことだからと龍ノ介も特に気にせず買い物を続ける。歩いていれば戻ってくるだろうし、お互いに居なくなったからといって心配するような年齢でもないのだ。

 予想通り、龍ノ介が選び終わった頃にどこからともなくバンジークスが姿を現した。
「決まったか」
「今日こそ冒険してみました」
……と言う割には手堅いところで固めるのだな」
「そ、そうでしょうか」
 龍ノ介の手にはジンジャークッキー、レモンビスケット、そしてショートブレッド。どれも倫敦で馴染み深い。
 前者二つは食べたことがないと思って選んだものだが、バンジークスが居ないところで選ぶとこうなってしまうらしい。冒険してみるつもりが結果的に定番になってしまうあたり、この連鎖からは逃れられない運命なのかもしれない。
 何にせよ龍ノ介が食べたいのならばそれで構わないと、その三種類を買ってバンジークスの屋敷へ向かった。


「今日は雨が降りそうにないですね」
 屋敷に着くなり龍ノ介が呟いた。独り言と呼ぶには少々大きな声で。
「で?」
 振り向いたバンジークスは、龍ノ介の言わんとすることを大方予想できているような表情をしている。
「またお庭で頂きたいなあと」
「そんなに我が家の庭が気に入ったか」
「気持ちの良い場所ですから。花のことはよく分かりませんが、すごく綺麗でしたし」
「そうか。庭師に伝えておこう」
 バンジークスの声色が少し明るくなったのは、おそらく龍ノ介の気のせいではないだろう。中庭の準備をするよう使用人に伝え、二人もそちらへ向かった。

 庭に出る前、バンジークスはすれ違った給仕に持っていた紙袋を渡す。
「ああ、今日はこれを」
「これは……はい、かしこまりました」
 ここの使用人は無駄な動きがないだけに留まらず、無駄な言葉もない。給仕は中身を一目見ただけで主人の意図を理解した様子で、受け取ったものを持って下がってしまった。
「あれ? 検事も何か買っていたんですか?」
「まあな」
 バンジークスはどこかご機嫌な様子で、龍ノ介は袋の中身が一層気になる。やはり何も教えてはくれないが、その答えを知る時は思いのほか早くやって来た。

「お待たせいたしました、本日の紅茶はバロック様がお選びになったダージリンでございます」
 いつの間に。龍ノ介はバンジークスの顔を見た。
「貴公がビスケットを選んでいる間に買っておいた。あの店で菓子を買うなら、紅茶も飲まねば始まらぬ」
 そういえば、バンジークスが不在の時間があったことを思い出した。随分と粋なことをしてくれる。龍ノ介が女性であったなら間違いなくときめいた瞬間だろう。いつも漫然とおいしく飲んでいた紅茶が、今日はどこか特別なもののような気さえした。
「実を言うと紅茶も気になっていたのです。ありがとうございます」
 礼を伝えて一口。流石は王室御用達の紅茶屋、はっきりとした爽やかな香りにほんのりとした渋味があり、早くビスケットの箱を開けたくなる。
 バンジークスも同じことを思ったらしく、黙って二人同時に紙袋へ手を伸ばした。

 三種類の焼き菓子が机の上に並ぶ。龍ノ介がまず手に取ったのはショートブレッド。厚みのある四角い形と、均等に並んだ穴が特徴だ。
「いただきます」
……
 龍ノ介はいつも何かを食べる前に手を合わせる。毎度黙ってそれを見ていたバンジークスだったが、何を思ったか今日はその真似をして小さく手を合わせた。
「!」
 もちろん龍ノ介がそれに気付かないはずがない。突っ込むような野暮な真似はしないが、口元はにやついてしまっている。
「にやにやするな」
「すみません。でもなんだか嬉しくて」
 ほんの一瞬だが、バンジークスが歩み寄ってくれた気がした。これ以上笑うと鋼鉄の踵が落ちそうなので、龍ノ介は誤魔化すようにショートブレッドを口に入れる。
 生地は唇だけで折れてしまうほど脆い。ほろほろと口の中でどんどん崩れていき、バターの香りが強く広がる。ときどき舌に当たる塩が甘さを一層引き立てて、噛むほどに深みの増す味だ。
 余韻が消えない内に紅茶を口に含めば、まったりとした甘さを紅茶の渋味が引き締めてくれる。期待通り焼き菓子にとてもよく合う茶葉であった。
「やっぱり、紅茶に一番合うお菓子はこれだと思うのです」
「定番中の定番だからな」
「検事は何だと思います? 紅茶に一番合うお菓子」
 甘いものに目がないだけあって、そう聞かれるとバンジークスは悩む。生菓子よりは焼き菓子に合うとは思うが、それでも絞り切れない。定番のビスケットはもちろん、パウンドケーキやアップルパイ、スコーンも捨てがたい。
……決めかねるな」
 龍ノ介としては軽い気持ちで投げかけた質問だったのだが、バンジークスは真剣に悩んでいる。紅茶とは、英国人にとってそれほど重要な飲み物らしい。龍ノ介も緑茶に一番合う菓子は何かと聞かれたら同じように悩むだろう。
「どうしても一つに絞るのであれば……そうだな、明日はそれを食べるとしよう」
 どうやら一つだけ候補を決められたようだ。そしてそれは明日行く店でお目にかかれると。明日の楽しみがまた一つ増えた。
 レモンビスケットは薄く固めの生地にレモンの皮が練り込んである。歯ごたえが良く、爽やかな香りも相まってあっさりとしているので、何枚でも食べられそうだ。
「貴公、もう半分以上食べているのではないか」
「えっ」
 無意識というのは恐ろしいもので、紅茶と一緒に食べていると本当に止め時が分からなくなる。気付けばビスケットの缶は残り三分の一ほどになっていた。
「半分ずつだろう!」
「すみません!」
 ビスケットくらいバンジークスならいくらでも買えるだろうが、そういう問題ではないのだ。甘いものの前では誰もが平等で、国籍も年齢も関係ない。
「その分こちらは私が貰うぞ」
「ああっ、ジンジャークッキー!」
 新しく開けた缶のクッキーは、ここからここまでが私の分、とバンジークスに境界線を引かれてしまった。この線はドーヴァー海峡よりも越えるのが難しい。
 枚数を制限された龍ノ介は大切にジンジャークッキーを食べる。こちらは甘さが強めで、遠くに生姜の辛味を感じる。後味もしっかりと生姜の香りがした。ショートブレッドほど濃厚ではないが、ビスケットよりもまったりとした味わい。これがやはり紅茶によく合う。
「中国でも生姜をこんなお菓子にしているそうですよ」
「ほう?」
「なんでも中に紙が入っていて、それで運勢を占うんですって」
……東洋人のすることは本当に変わっている」
 なんでも東洋人と一緒にされるのもどうかと思ったが、餅の件もあってあまり反論もできないので龍ノ介は黙っているのであった。


「そうだ、お聞きしたかったことがあります」
「何だ」
「この前の事件、バンジークス検事が担当されていたものではないのですよね? ならどうして検事が犯人を捜していたんですか?」
 実のところ、龍ノ介はずっと気になっていた。事件を追うバンジークスと鉢合わせたことから始まり、犯人が捕まったとの一報を受けて喜んだところまでは良かった。しかしいざ裁判を傍聴してみると、当のバンジークスは検事席ではなく傍聴席に座っていたのだ。不思議に思わぬはずがない。
 犯人の逮捕から裁判までの間は慌ただしく、龍ノ介の疑問を解決している暇などなかった。有罪判決が下されてからは時間もあったが、事件がひと段落した解放感で忘れてしまっていた。
「あの事件、列車の個室で起きた殺人未遂であっただろう」
「そうですね」
「法廷では省略されていたが、本来あの時間、あの個室に入る予定だったのは私なのだ」
「えっ?」
 紅茶の湯呑を持った手を下ろした。事は龍ノ介の想像以上に複雑であったらしい。
「予定よりも早く駅に着いたところ、被害者が荷物の到着遅れで出発に間に合わないと言っていてな。目的地も同じであったから彼と切符を交換したのだ」
 しかしそれで事件に巻き込まれてしまった。乗車直前の話だ。バンジークスが一本先の列車に乗ったことは被害者しか知らない。襲撃の標的がバンジークスであったことはおそらく間違いないのだろう。
「別の者が担当検事に立てられたが、私は事件の責任を取るつもりで調査をしていた」
 バンジークスの声は重い。犯人が捕まっても被害者の傷がすぐに癒えるわけではないのだ。未だその責任は残っていると感じていることが窺える。
「結果的に私が犯人を捕らえたから良かったが……個人の感情で勝手に動くなど検事として許されぬ。軽率であったな」
 自嘲的に言葉を切った。結果を得られたからといってそれで全てを良しとするほど、バンジークスは自分に甘くない。しかし、龍ノ介には彼の全てが間違っていたとも思えないのだ。
「規律に反する部分があったかもしれません。でも、ぼくは検事が動いていらっしゃったからこそ捕まえられたと思いますよ」
 襲撃の標的が自分であったのならば、責任を感じるのも無理はない。それに担当検事ではないが少なくとも関係者だ。捜査に協力する立場ではあった。
「駅で偶然お会いしたでしょう。あの時、担当の検事さんは別の場所で調査をされていたのですよね?」
 必要なのは感傷的な言葉などではなく、事実と証拠。その二つだけが頑なな彼を揺さぶる方法だと知っている。
「あれが無ければぼくが検察側に犯人の行方をお伝えすることはなかったでしょうし、その後に別の方法で居場所を掴んだとしても既に逃げてしまった後になっていたかもしれません。だから、検事の行動があの事件の解決を早めたのですよ」
 慰めなどバンジークスには必要ないだろう。それでも龍ノ介は、彼の為したことに意味はあったのだとただ伝えたかった。
「そう、か。少しは責任を取れていると良いが」
 龍ノ介の言葉はちゃんと響いたようだ。バンジークスは眉間の皺を浅くして、穏やかな顔でそう言った。
「明日が最後か」
 帰り際、馬車の扉を閉める前にバンジークスがぽつりと呟いた。
「ああ、そうですね。あっという間でした」
 早いもので、裁判からもう一週間近く経っている。明日が終わればこの甘いもの巡りも終了だ。
(名残惜しいな)
 甘いものを食べさせてもらえるのももちろん嬉しいが、バンジークスとの茶会は単純に楽しい。初日とは比べ物にならないほど色んな会話をするようになり、バンジークスもまた龍ノ介の話をよく聞いてくれる。
 今の二人は、傍目には検事と弁護士には見えないだろう。まるで、そう。
(友達、みたいになれたと思っているのだけど)
 バンジークスはどうだろうか。龍ノ介の面倒を見なくてもよくなって、肩の荷が下りたような顔をしているかもしれない。そうだったら少し寂しくて、龍ノ介は彼の顔をちゃんと見れない。
「明日は倫敦の最高を見せてやろう」
 静かで淡々とした声のようで、少し違う。どこか活き活きとした声色に反応して龍ノ介は顔を上げた。いつもと同じ仏頂面でも、検事席に立っている時より柔らかな雰囲気を纏っているように感じる。倫敦の最高と言い切るだけあって、その表情は自信に満ちている。最後まで手を抜かない。それがバロック・バンジークスである。
「はい! 明日もお腹を空かせておきますね!」
 彼が龍ノ介を友達のように思っているかどうか、そこまでは分からない。だが、嫌々付き合っている様子もない。ならばそれで十分ではないか。
 明日が終わればただの検事と弁護士に戻るとしても、共に過ごしたこの一週間が変わることはないのだ。今後何かの機会があればまた食事をする可能性だってある。ただし、それは神のみぞ知るところ。

 扉が閉まって、龍ノ介はひとり馬車の中。静かな空間で明日のことを考える。
(倫敦の最高って、何だろうな)
 連日食べていた菓子は王室御用達を含め高級なものばかりであったが、それらをも上回るということだろうか。バンジークスが一番紅茶に合うと思う菓子があるとも言っていた。
 何かと心を尽くしたもてなしをしてくれたバンジークスだ。期待は更に高まる。

 馬車がベーカー街に到着する頃にはすっかり日が暮れていた。二人は気付いているのだろうか。龍ノ介が帰宅する時間が、日に日に遅くなっていることに。

  七日目 ケーキ

「あれ? なるほどくん?」
 馬車を降りるとほぼ同時に、可愛らしい声が龍ノ介を呼び止めた。
「アイリスちゃん、偶然だね。今日は出版社だったっけ? 早かったね」
「今回の原稿は一発でオッケーだったの!」
 アイリスが出掛けた時は戻るのが夕方になると言っていたが、まだお茶の時間である。予定が早く終わって彼女はご機嫌だ。
「ところで、なるほどくんと検事のおニイちゃんは何してるの?」
 かくかくしかじか、二人で甘いもの巡りをしていることと、そうなった経緯を説明する。ホームズも寿沙都も承知だったが、思えばアイリスには何も言っていなかったのだ。彼女が原稿の締切で忙しかったというのもある。
「いいなあ、楽しそうなの!」
「君も来るか?」
(おや、珍しい)
 龍ノ介の目から見たバンジークスは子供が好きそうではない。そんな彼が自分からアイリスを誘うとは、全くの予想外であった。
「いいの?」
「今週はこの言葉を何度も口にしたものだが、一人増えたところで変わらぬ」
 バンジークスの言い方は淡々としているが、誘う姿勢を見せただけでも驚くべきことである。龍ノ介はぽかんとしているアイリスの背中を押した。
「行こうよ。原稿が上がったなら、その打ち上げってことでさ」
 ね、と龍ノ介が差し出した手に、アイリスの小さな手が重なる。バンジークスの歩幅も心なしか狭くなっている気がした。


店に入り、三人は窓際の席に座る。客入りはそこそこで、静かすぎず慌ただしすぎずといったところ。
「ここ、来てみたかったの!」
「有名なの?」
「女王陛下が大好きなケーキを食べられるんだよ」
「へえ、女王様の?」
「元王室専属パティシエが高齢で引退して出した店だ。王室の味と言っても過言ではない」
 この一週間は色んな店に連れて行ってもらった龍ノ介だが、御用達どころか本物の王室の味とは。最終日にまた素晴らしい所へ来たものだと感動する。
 ただ、今日は秘密の小部屋ではなく普通の席だ。窓から日差しが入るので暖かい。
「このお店には個室がないのですか?」
「左様。王室に勤めていたせいか、開けた空間にしたかったそうだ。個室のある店の方が良かったか?」
「いえいえ、ぼくはむしろ普段通りで落ち着きます。あの小部屋も良い場所でしたが、庶民にはやはりこっちですね」
「なるほどくん、個室でお菓子食べてたの? いいなあ!」
 品書きを渡され、ずらりと並んだケーキを見る。名前の横に材料が書かれているので想像しやすくて助かった。
 一番のお薦めはやはり女王陛下のお気に入りである。店員が注文を取りに来て、まだ絞り切れていない龍ノ介は品書きと真剣に向き合う。
「アイリスちゃんは何にする?」
「果物が入ったパウンドケーキがいいな!」
「えっ、女王様のケーキじゃなくて?」
 龍ノ介もバンジークスも、てっきりアイリスはそれを楽しみにしているのだと思っていたのだが。
「うん、今日はそんな気分なの。意外と入りやすいお店だったから、またホームズくんとすさとちゃんも一緒に来ればいいじゃない?」
 にっこりと笑う少女にはとても敵わない。別に他の人と同じものを頼んでも問題ないのだが、そこは色んな種類の菓子を楽しめるよう気を遣ってくれたのだろう。
「じゃあぼくはサンドウィッチケーキにするよ」
「私はウェルシュケーキを。それと紅茶を人数分頼む」
「はい、少々お待ちくださいませ」
 バンジークスは最終日まで迷いがない。そして今日も紅茶は欠かせない。素晴らしい腕を持った職人の店だ。きっとケーキに合うお茶を用意してくれるに違いない。注文をしたばかりだが、運ばれてくるのが待ち遠しい。


 紅茶は大きなポットで運ばれてきた。癖がなく優しい香りがふわりと鼻をくすぐる。
「茶葉はキャンディでございます」
 また龍ノ介の知らない名前の紅茶だ。色は薄めで、渋味が少なくあっさりと飲める。何にでも合いそうな味で、牛乳入りでもおいしいのだとアイリスが教えてくれた。
 続いてケーキが運ばれてきた。サンドウィッチケーキという名前の通り、二枚の生地に赤いジャムと白いクリームが挟まれており、粉砂糖が振ってある。女王陛下のお気に入りならばどれほど豪華なものかと思えば、案外素朴な見た目をしていた。
 一方、アイリスのパウンドケーキはどっしりとしていて、小さいながらも食べごたえのありそうなものが二切れ乗っている。中には干し葡萄などの果物が入っているらしく、赤や紫が鮮やかだ。
「で、検事のそれが紅茶に一番合うお菓子ですか?」
「そうだ」
 ウェルシュケーキというのは、龍ノ介は聞くのも初めてだ。形はアイリスがたまに朝食で作ってくれるパンケーキにそっくりで、大きさは二回りほど小さくしたくらいだろうか。外は砂糖がまぶしてあり、中にはこれも干し葡萄が入っているようだ。皿には二枚盛られている。
「どうしてこれがウェルシュケーキなのですか?」
「ウェールズ地方で生まれたケーキだからだ。ここの店主がそちらの出身でな」
「おいしそうですね」
……
 バンジークスは無言で、二枚の内の一枚を四等分した。そして一切れずつアイリスと龍ノ介の皿に置いてやる。
「え、もらっていいの?」
「この男が毎回私の食べる物を欲しがるのでな。もう慣れた」
 小さな女の子の前で連日の食いしん坊ぶりを公表されてしまい、龍ノ介は少々居心地が悪い。今日も一口を要求しておいて今更な話だが。
「じゃあ、あたしのケーキも一口あげるね!」
 龍ノ介に痛いほどの視線が突き刺さる。今の言葉を聞いたかと、貴公がこんなことを一度でも思ったかと。
「ぼ、ぼくだって言っていただければ差し上げましたよ!」
「ならば頂くとしよう」
 バンジークスが龍ノ介のケーキを寄越せと要求している。あまりに意外な行動に龍ノ介は一瞬固まったが、慌ててケーキを切り分けた。扇形の頂点、一番おいしいところを二人の皿に乗せる。アイリスも二切れの内の一切れを半分に切って取り分けた。
「ふふ、みんな一緒だと色々食べられて嬉しいの!」
 アイリスの嬉しそうな顔につられて龍ノ介も笑う。それぞれの皿の上には三種類のケーキ。三人ともどれから食べるか迷っている。
 龍ノ介がまず手を伸ばしたのはアイリスのパウンドケーキ。フォークを刺すと、しっとりと密度の高い生地だ。具がたくさん入っている場所を選んで口に運んだ。
 最初にバターの強い香り、続いて蕩けそうな甘さ、そして噛めば果物の程よい酸味があり、一口で幸せを感じられる。
「おいしいね、これ。すごく甘い」
「昨日まで原稿が大変だったから、とびきり甘いのが食べたかったの!」
 アイリスも頬に手を当ててご満悦だ。彼女のご褒美になったのであれば、誘った龍ノ介としても嬉しい限り。
 続いて目の前のサンドウィッチケーキにフォークを入れる。切り分けた時も感じたが、こちらはかなり軽い生地だ。中には木苺のジャムとクリームがたっぷりと挟まっている。口当たりはふわっとしていて、生地の控えめな甘さを粉砂糖が補う。ジャムは酸味が強めだがクリームがそれをまろやかに包み込み、軽い生地との相性が抜群である。見た目は地味でも味は一級品。やはり女王の菓子職人なだけあって、ケーキ全体の調和が素晴らしい。
「これが女王陛下お気に入りの味……
「倫敦の最高を見せてやると言っただろう」
 そう言うバンジークスは誇らしげで、女王という存在が英国民の誇りの象徴であることが窺える。彼の言う通り、これは倫敦で一番のケーキだと言って良いだろう。
「ええ、確かに」
 バンジークスとアイリスもサンドウィッチケーキを口に入れた。軽くて甘く、上品な味。アイリスはもとより、バンジークスの口角でさえ少し上がったような気がした。

 そしてフォークはウェルシュケーキに移る。これは龍ノ介の知らない香りがした。
「これ、何の香りですか?」
「シナモンだ。ナツメグも入っている」
「しなもん」
「先日のアップルパイにも入っていただろう」
「ああ! 言われてみれば、なんだか不思議な香りがすると思いました」
 英国の料理には色んな香辛料が使われており、どれもその香りだけで異国情緒を感じる。このケーキの匂いは、寺のお香のそれに似ていた。食べ物とはかけ離れた印象だが、おそるおそる口に入れてみる。すると香りは一層増して甘い生地と干し葡萄を刺激的に彩った。不思議なもので、食べてみると龍ノ介の頭はちゃんと食べ物だと認識するようだ。
「しなもんが入っているだけでこんなに違うのですね」
「それが紅茶に合う所以だ。飲んでみろ」
「はあ」
 言われるがまま、牛乳入りの紅茶を一口。すると口に残ったシナモンの香りと、癖の少ない素直な紅茶の味が混ざって新しい感動を生む。表現しがたいが、バンジークスが最も紅茶に合う菓子と選んだ理由はよく分かった。
「世の中にこんなおいしいものがあると知れて、本当に良かったです」
「大袈裟な」
「オオゲサなの」
 二人はそう言うが、龍ノ介は純粋に思ったことを言ったまで。この一週間、色んなものを食べて、色んなことを知った。おいしいものがあるだけで世界は明るくなる。良好な仲とは言えなかった相手とだって穏やかな時間を過ごすこともできた。
 決して、大袈裟などではないのだ。



「検事のおニイちゃん、甘いものが好きなの?」
 ケーキを食べ終わった頃、今日もこの質問である。龍ノ介は内心ひやりとした。まさかバンジークスが子供に不快感を露にすることはないだろうが、彼にとって聞かれたくないであろうということも知っているからだ。しかし当のバンジークスは涼しい顔をしていた。
「まあな。英国人なら嫌いな人間の方が少ないだろう」
 どこか開き直っているように見える。もう何人にばれてしまったか分からないので、隠すのは諦めたのだろう。
「じゃあ、今度お礼にクッキーを焼くね! あたしの香茶も持っていくの!」
「礼、とは?」
「今日誘ってくれたお礼。ホントはなるほどくんと二人で来るつもりだったんでしょ?」
「ああ……そうか。ならばありがたく頂くとしよう」
「楽しみにしてて! あっ、ホームズくんには触らせないから安心してね」
 最後にそう付け足されるだけでどうしてこんなにも不安になるのだろうか。アイリスが言うのならば大丈夫なはずだが。


 帰りはもちろん三人で馬車に乗る。アイリスも貴族の馬車は初めてだった様子で、きらきらと目を輝かせた。
「わあ、広い! それにとってもキレイなの」
「君には段差が大きすぎるな」
 バンジークスの馬車の乗り口は、アイリスの胸ほどの高さがある。手を使って乗るなど英国の淑女には有り得ない。踏み台を出してもらおうかと龍ノ介が御者に声をかけようとすると、バンジークスが前に出た。
「少し失礼する」
「わ」
 そう言うと同時に、バンジークスが片手でアイリスを抱き上げる。まるで背に羽根が生えたかのように、軽々と馬車の床に降り立った。
「ありがとう!」
「構わぬ」
 法廷では近付くものを皆傷付けんとする刃のような男だが、裁判所を出れば英国紳士らしい一面もある。龍ノ介がその様子を微笑ましく眺めていると、冷たい視線を返された。
「貴公は自分で乗れ」
「いや、誰もやってほしいなんて言ってません……

 全員が乗り込んで馬車が出る。アイリスは龍ノ介の隣、バンジークスの向かいに座ってご機嫌だ。
「ふふ、検事のおニイちゃん、なんだか本当のお兄様みたいなの」
「そうか……?」
「えっ、ぼくは?」
 それなりの月日を過ごした同居人としてその発言は聞き逃せない。バンジークスより龍ノ介の方がよっぽど兄のような存在に近いのでは、と本人は思っているのだが。
「うーん、なるほどくんは弟みたいかなあ」
「弟……
 随分大きな弟である。ここに寿沙都が居たら間違いなく同意されていただろう。
「ぼく、もう成人してるのに?」
「じゃあもうタマネギ残さない?」
……
 ほらね、とアイリスの視線が語る。龍ノ介はぐうの音も出ない。ただ、家族のように思っていてくれるのはやはり嬉しかったので、それで良しと考えることにした。

 家に着き、玄関の扉を開ける。しかしそこで龍ノ介は大切なことを思い出した。
「少しバンジークス卿と話してくるから先に戻ってて」
「うん、わかった」
 踵を返して、今まさに再び乗車しようとしていた彼を呼び止める。御者が手綱を下ろした。
「何だ、忘れ物か?」
「いえ、改めて今週のお礼をと思いまして」
「律儀なことだ」
 バンジークスは龍ノ介に向き直り、ふっと肩の力を抜いた。その姿がなんともくすぐったい気持ちにさせる。
「一週間、ありがとうございました。どれもおいしくて、とても楽しかったです」
「そうか。私も」
 そこまで言って、凍ったように動かなくなった。
「?」
 まるで蝋人形だなと龍ノ介が思っていると、今度は 聞いたこともないような早口で喋り始める。
……いや、口が滑った。忘れろ。またいずれ法廷で」
 すぐさま振り返って馬車に乗り込み、少々手荒く自分で扉を閉めてしまった。龍ノ介には何のことだかさっぱり分からない。
「ちょっと検事! 急に何ですか!?」
 馬車の外から叫んでみるも、バンジークスは聞こえないふりをする。そしてそのまま出発してしまった。

 後姿が完全に見えなくなってから家に入る。〝私も〟の続きを考えた。龍ノ介が楽しかったですと伝えた直後なのだから、単純に考えれば彼も〝楽しかった〟と繋がると推測できる。というか、普通ならばそれ以外の可能性などほぼ無いだろう。だが言ったのはあのバンジークスである。よりにもよって嫌っているはずの日本人に向かって、そんなことを言うだろうか? 確かに和やかな空気を纏った場面もあったが。
 結論は、その日の内には出なかった。

  エピローグ

 ヴォルテックスに呼ばれ、龍ノ介は高等法院を訪れていた。用件を済ませて建物の外に出ると、ちょうどバンジークスが入ってくるところであった。先週の事件に関して報告書を出しにきたのだ。
 バンジークスから見た龍ノ介は、この一週間で存分に息抜きをしたはずなのに、どんよりと落ち込んでいる様子だ。すれ違うバンジークスの姿も見えているのかいないのか。
「弁護士」
 流石にそんな彼を無視することは憚られ、肩に手を置いて呼び止める。
「ああ、バンジークス検事……
「ヴォルテックス卿に叱られでもしたのか?」
 龍ノ介が落ち込む理由を、バンジークスはそう多く思いつかない。
 すると龍ノ介は俯いて、小刻みに震え出した。そして顔を上げて悲痛な叫び声を上げる。
「だ……誰のせいだと思っているのですか!」
「!?」
 バンジークスが一体何をしたというのだろう。少なくとも昨日までは確かに上機嫌であった。彼の機嫌を損ねる原因に心当たりなどまるでない。
 戸惑うバンジークスに龍ノ介は嫌々口を開いた。
「ヴォルテックス卿が……「少し見ない内に太ったのでは?」と……
声は小さいが、聞き取ることはできた。なるほど毎日甘いものを好きなだけ食べられる生活をすれば、一週間で体型に現れる。しかし。
「いや、元を正せば貴公が言い出したことだろう! 人に責任を押し付けるな」
「だって検事が紹介してくださるものがおいしいから! 食べ過ぎてしまったのです!」
 聞けば聞くほどバンジークスに非はない。龍ノ介だってそれは分かっている。ただ、このどこにもぶつけようのない悲しみをどうにかしたいだけなのだ。それはバンジークスもなんとなく察している。
「では聞くが、行かなければ良かったか?」
 数々の秘密の小部屋、バンジークス邸の庭やサロン、そこで食べた様々な菓子と、一緒に食べた人との会話。行かなければ良かったなど。
「そんなわけないでしょう……
 しおしおと龍ノ介の勢いが削がれた。バンジークスはその返答に満足したようで、この話はこれまでと去り際に声を掛ける。
「ならば恨み言はそれくらいにしておけ。それと、少しは運動しろ」
 ぐさり。痛い所を突いていくあたりが抜け目ない。
 傷心の龍ノ介が今度こそ帰ろうとした時、バンジークスが低い声で呟いた。
「今日、被害者の見舞いに行ってきた」
「!」
「順調に回復しているようだ。犯人が有罪になったと聞いて安心していた」
「それは、本当に何よりですね」
 回復の報せを聞けて龍ノ介も安心した。これで怪我が悪化したなどとあれば、バンジークスがどんな思いをするか容易に想像できる。
「彼は私を恨んではいなかった。迅速な逮捕を称賛さえしてくれた。被害者を増やさずに済んだと……そして協力者にも感謝を伝えてくれと」
 まるで独り言のような語り口を、龍ノ介は黙って聞いた。これはバンジークスなりの経過報告なのだろう。
「私のしたことが正しかったとはやはり思えぬが、無駄でなかったことは確かなようだ。貴公の言い分もたまには聞いてみるものだな」
 最後に数秒だけ龍ノ介の目を見て、バンジークスは建物の中へ消えていく。龍ノ介は鋼鉄の踵の足音が聞こえなくなるまでぽかんと入口に立っていた。
……少しは認めてくれた……のかな?)
 どこまでも素直ではないが、今回の件に関してはそのようだ。

 所変わってベーカー街。気持ち小走りで帰宅した龍ノ介は、息を整えてから扉を開ける。
「おかえり。死神クンとのデートは楽しかったかい?」
 家にはホームズ一人だけ。キャラメルを齧りながら怪しげな薬を弄り回していた。しかしそれどころではない。今の発言は試験管の中身より気になる。
「えっ、デート?」
「違った? 毎日一緒に出掛けて甘いものを楽しむなんて、デート以外の何なのか教えてほしいくらいだけど」
 全くもって、全然、一寸たりとも龍ノ介にそんなつもりはなかったが、ホームズは傍から見ればデートにしか見えないという。
 思い返せばそうかもしれない。家の前まで送迎してもらい、店選びから何から手配してもらい、家にまで行ったことだってある。男同士というのがなんとも言い難いが、本人たちにその気があるかどうかは関係なく、結果的にやっていたことはデートと変わらないのである。
「いや、ちが……違うんです……
「赤い顔で言われても説得力ないよ」
 そんなつもりはなかったはずなのに、指摘されると意識してしまう。次にバンジークスと会う時、どんな顔をすればいいのか龍ノ介には分からないのだった。


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