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メディア対策室の引っ込み思案に好きになってほしい犬飼の話

全体公開 犬飼中編シリーズ 54 42957文字
2022-06-04 14:07:57

タイトルの通りです。

名前変換
Posted by @_yyyzzz_

 ボーダー本部の飾り気のない廊下を、名前は己に可能な限りの早足で歩いていく。
(急げ急げ、万が一にも気付かれたり追いつかれたりする前に、絶対に部屋に着くっ)
 昼と夜のあわいの時間。昼夜を問わず人の出入りの激しいボーダー本部基地にもかかわらず、メディア対策室の各部に通じる通路には今、名前以外の人の気配はない。多くの隊員がたむろするラウンジや作戦室のある区域を一歩出れば、そこにあるのはひっそりとした事務局、事務室の数々だ。
 足元で支給品のパンプスの踵がかつかつ鳴っている。気が急く名前には、音を立てて歩かないようにと気をつけるだけの余裕もない。名前の頭にあるのは、ただひとつ。とにかく一刻も早く、彼から距離をとらなければということだ。
 名前の心を乱し、文字通り追い詰める人物。優秀で有能で――底知れない。
「あれ、名前ちゃん。今から仕事行くところ?」
「わぁっ!?」
 ふいに背後から投げかけられた声に、名前は文字通り、飛び上がって驚いた。ぎこちない動作でゆっくりと背後を振り向けば、そこには形の良い目をくにゃりと楽し気に歪ませた、長身の男がゆらりと立っている。
 犬飼澄晴――ボーダーの誇る腕利き銃手であり、名前と同じ六頴館高等学校三年D組のクラスメイトでもある。
 そしてまた犬飼は、ここ数日、名前がかたくなに遭遇を避けている相手でもあった。
 いつのまにか犬飼は名前の前方へと移動している。名前は一歩、小さく後ずさった。犬飼とここで遭遇することは、名前にとって完全に予期せぬ問題だった。
 名前の背を、じとりとした汗が伝う。
「い、犬飼くん……、どうしてここに? その、さっきまでラウンジにいたのでは……
「ん? いたよ?」
「では、あの、何故ここに……?」
 ラウンジからこの通路まではそれなりに距離がある。ラウンジでほかの隊員と談笑している犬飼の姿を名前が発見したのが数分前。そこから名前は大急ぎで回れ右をして、支給された制服のスカートが許す限りの歩幅と速度でここまで歩いてきたのだ。だというのに一体なぜ、ここで犬飼につかまってしまったのか。名前にはまったく理解できなかった。
(そもそも私が今日、本部にいること自体、犬飼くんには知られていないはずなのに)
 名前はメディア対策室の事務員、いわば裏方仕事を担っている。戦闘員とは違うシフトで動いており、また防衛上の機密から、ボーダー内でも所属が違えば、互いの勤務状況をそう容易に知りえない。
 そんな名前の疑問を察して、犬飼は飄飄と言った。
「名前ちゃん夕方からシフトって聞いてたから」
「聞いてた!? 誰に……!?」
「それはほら、企業秘密」
「私の個人情報……
 防衛上の機密は、悲しいほど簡単に漏洩していた。漏洩とはいえ組織内のことであるし、名前のシフトなど機密というほどのものでもないのだが、それでも名前はどっと脱力した。犬飼の顔の広さとコミュニケーション能力の高さは、名前が警戒していたよりも遥か上をいっていた。
 無機質な通路を、犬飼と名前以外の誰かが通る気配はない。脱力しながらも、名前の頭はどうにかさっさとこの場を切り上げられないかと思案し始めた。と、そのとき、
「そういえば」おもむろに、犬飼が切り出した。
「名前ちゃん、明日の古典の小テストの勉強した?」
「へっ?」
「重要古語単三十問のやつ」
 脈絡なく話題を転じられ、名前は思わず素直に頷いた。
「あ、ええと、はい。一応」
 名前と犬飼は同じクラスで机を並べている。なので小試験や授業のことなど、共通の話題を振られること自体には、特に不自然なことは何もない。しかし、会話の流れとしては不自然なことこのうえない。小テストについての雑談など、わざわざ名前のシフトを把握し、こんなところまで追いかけてきてするような話ではない。
 企業秘密、と笑ったのと同じ声と表情のまま、犬飼はしれしれと学生生活の話を続ける。
「さすが。おれもやらなくちゃなぁ。範囲って、この間の休み前に配られた古語単のプリントからでいいんだよね?」
「そのはず、だけど」
「あれ、今日持ってきてたかなぁ。この後時間あったら詰め込もうと思ってたんだけど。ああいう嵩張るプリントって、一教科ならいいけど複数教科分たまるとなかなかの荷物だよね。名前ちゃんは置き勉とかしなさそうだな」
「そうだね、わりと……
「おれは結構置きっぱなしにしてるんだよね。あ、でも古語単は持って帰ってきてたはず。もし忘れてきてたら、あとで名前ちゃんに見せてもらいにいってもいい?」
「ええと、時間があえば」
「助かるー」
「いえいえ……?」
 ぽんぽんとテンポよく投げられる会話に、名前は狼狽えながら応じた。かたくなに犬飼のことを避けていたはずなのに、いつのまにか彼のペースにはまってしまっている。そのことにはたと名前は気が付いて、同時に慄然とした。
(だめだ、完全に犬飼くんに持っていかれてる……!)
 名前は体の横におろした手の、手のひらをぎゅっと握りこむ。そして胸のうちで気合いを入れなおすと、きっと目に力をこめて犬飼の顔を直視した。
「い、犬飼くん!」
「ん?」
 掴みどころのない笑顔で首を傾げられ、すぐに名前は言葉に詰まった。その間に犬飼は、一歩名前の方に踏み込み距離を詰めてくる。圧を感じるわけではない飄飄とした雰囲気と、物理的な圧迫感。相反する印象があいまって、名前は一層混乱する。
「いや、ええと……
 しどろもどろになる名前を、犬飼はますます愉しそうに眺めた。そしてしばらく名前の周章ぶりを堪能してから、
「あ、もしかして告白の返事?」
「ひえっ」
 いきなりずばりと切り込まれ、名前は情けない悲鳴を上げた。

 ・

「おれ、名前ちゃんのことが好きみたい。良かったら、おれと付き合ってくれませんか」
 放課後の三年D組の教室で、名前が犬飼に告白されたのは、今から三日前のことだった。その日名前は、犬飼とともに授業後の教室に残って、日直日誌を仕上げていた。ペンを走らせているのは名前ひとり。犬飼は名前の文字を目で追っているだけだった。
 はっきり言えば犬飼がそこにいる必要はどこにもなかった。日誌なんて、ひとりいれば十分書ける。もしも犬飼が一緒に日直をしていたという義務感でそこに居残っているのであれば、いつでも帰ってくれて構わないと名前は思っていた。
 犬飼が唐突に告白したのはまさに、そんな白けた空気が薄く流れるときだった。
 それまで名前と犬飼は同じクラス、ボーダー所属という共通点こそあるものの、ほとんどまともに会話を交わしたこともなかった。人あたりのいい犬飼は男女を問わず人気があったが、反対に引っ込み思案で友達の少ない名前にとっての犬飼は、話しかけるなど論外の雲上人にも等しい存在だった。
 犬飼にしても、わざわざ名前のやんわりとした消極的拒絶を無視してまで、名前に話しかける用はなかったのだろう。元A級隊員と、組織の下っ端、ぎりぎりどうにか組織の裾に引っかかっている程度の名前では、同じボーダー隊員といっても共通点はほとんどない。これまで同じ教室の空気を吸いながら、ふたりの接点はほとんど皆無に等しかった。
 とはいえ、互いに相手を意識していなかったというわけではない。名前が犬飼を雲上人と見做すほどではなくても、犬飼も名前を認識くらいはしていた。
 防衛任務を担う戦闘員はともかく、裏方ともいうべき仕事に従事する高校生は、ボーダー内にもそう多くない。目立たぬ部分の業務従事者は一般の民間企業と同様、その大多数を社会人が占めている。名前の資質とは無関係に、名前の立場は珍しくて人目を引いた。
 閑話休題――
 日直日誌を仕上げていた名前は、唐突すぎる犬飼からの告白に、完全に思考を停止した。ただでさえ犬飼とふたりでの日直で、名前のキャパシティは大幅に圧迫されている。そこにきての、犬飼からの告白。自分の置かれている状況を処理するのに、名前は束の間時間を要した。
「え……?」
「あはは、聞き返しちゃうか。好きだよって、告白したつもりだったんだけど」
 犬飼が言葉を加えたところで、名前の混乱はより深まる。
(告白? 好きだよって、告白……?)
 復旧中の脳で、名前はぐるぐる思考をめぐらせる。愛の告白というのなら、犬飼の言葉は少しばかり重みが足りていない。
 名前は異性に愛の告白をしたことなどない。だがもしもそういう機会があるとすれば、もう少し言葉を選び、必死の形相で告白するはずだ。間違っても椅子に反対向きに腰かけて、くるくるとペンを回しながら告げたりはしない。
(というか、犬飼くんが、私に? 私を? なんで?)
 名前の頭の中を疑問が埋めつくす。訝しさが、犬飼への淡い拒絶感に勝った。
 つと視線を上げ、名前は犬飼の顔を見る。その瞬間、自分の顔のすぐ目の前に犬飼の顔があることに、名前は驚き息をのんだ。
 ひとつの机を、前と後ろから挟んで座っている。互いに机の上に身を乗り出していれば、その顔が近づくのは自然なことだった。けれど日誌にばかり目を落としていた名前は、そのことに気付いていなかった。だから目が合った瞬間に、名前は弾かれたように顎を上げ、犬飼から顔をそらした。
(び…………っくりした!)
 慌てて椅子から立ち上がる。がたがたみっともなく椅子が鳴る。立った瞬間、椅子の座面が張り出した部分で、名前は膝の裏をしたたかに打った。痛みに上げかけた小さな悲鳴を、名前はどうにか飲み込んだ。
「ご、ごめんなさい……!」
 顔が近かったことへの謝罪のつもりだった。だが、犬飼はにんまりと目を歪めて笑った。
「え、それ告白の返事?」
「違う!」
「じゃあ告白の返事はOKってこと?」
「それも違う!」
 けたけたと笑っている犬飼に、名前は膝の裏の痛みと羞恥心がごたまぜになって、泣きたくなった。告白。告白。意味が分からない状況ではあるが、犬飼が自分に好意を伝えているらしいということだけは、どうにかこうにか理解する。
 理解はしたが、受け容れることはできなかった。
「日誌、出してくるので! さようなら!」
 引ったくるように鞄と日誌を掴むと、名前は転がり出るように教室を飛び出した。

 顔が熱くて、目の奥がじんじんする。廊下を全力疾走していると、次第に先程までの犬飼との遣り取りがすべて、自分の妄想か何かのように思えてきた。
 バカげている。ありえない。
(あの犬飼くんが、私のことを好きになるだとか)
 顔の表面がひりひりして、痛みと痒みがいっぺんに襲ってきたようだった。息が苦しい。わきばらが刺すように痛む。めちゃくちゃな呼吸で、慣れない全力疾走をしたせいだった。
 ゆっくりと足を止め、来た道を振り返る。そこには誰の姿もなく、ただ放課後の森閑とした廊下が伸びているだけだ。窓からさしこむ光を反射し、埃が舞うようにちらちら光っている。
 犬飼が追いかけてきていないことに、ほっとした。
 制服のそでで、ひりついた頬をごしごし拭う。ふと窓にうつった自分の顔を見ると、頬が痛そうなくらいに真っ赤になっていた。直前に袖でこすったせいだろうと名前は思った。そうでなければ、こんなに真っ赤になるはずがない。
 名前は長く深い息を吐き出して、ふたたび歩き出す。とぼとぼと力ない足取りで、職員室にゆっくり向かった。犬飼がもう教室を出たのか、どんな顔をしているのか、どういうつもりなのか。それらの疑問を、名前は考えないことにした。

 それ以来、学校でも本部基地でも、名前は犬飼とふたりきりになるのをかたくなに避けてきた。犬飼の方も名前を追いかけ回すようなことはしなかった。そうして距離をとっているうちに、名前はだんだんと告白の件は何かの間違いかいたずらだったのではないかと、そう思うようになりつつあった。
 そうだ、そうに決まっている。名前は自分が犬飼に対して褒められた態度をとっていないことを知っている。だから犬飼に嫌われることこそあったとしても、好かれる理由などひとつもない。ないはずだった。
 もちろん悪戯で告白なんて、かなり悪質ではある。しかし本気で告白をされるよりは、悪戯の方がいくらかましだと思えなくもない――
 そんなふうに考えていた名前の希望を、犬飼はいとも容易く打ち砕いた。
「あれ、まさかと思うけど忘れてたりする? 大丈夫? おれこの間、名前ちゃんに告白したつもりだったんだけど。もう一回告白しなおした方がいい?」
 笑みを崩さないまま尋ねる犬飼に、名前はぶんぶんと首を横に振った。
「大丈夫! 間に合ってます!」
「そう?」
 今度は勢いよく首肯を繰り返す。脳震盪になりそうなくらい激しい頭の動きに、視界がぐにゃりとぐらついた。
「あはは、名前ちゃん顔真っ白だ。告白されて真っ赤になるなら分かるけど、真っ白になるのはどういう心境のあらわれなの?」
「あっ、あの、犬飼くんっ」
 もう、やめてもらえないでしょうか。
 しかし名前がそう続けるより先に、犬飼が機先を制した。
「なに? 返事の準備ができてるなら、おれはいつでも聞くよ?」
 あくまで余裕たっぷりの犬飼の態度に、名前は反論する気をごっそり削られた。
 きっと犬飼は名前の気持ちを分かっていて、なおもわざとやっている。狼狽える名前をおもちゃにしているのだ。
 そこまで分かっているのに、犬飼を目の前にすると拒み切れない。そんな自分が、名前は情けなかった。
 いや、拒んでいることには拒んでいる。少なくとも、名前にできる精いっぱい、全身全霊で犬飼を遠ざけているのだ。これが拒んでいないはずがない。
 ただ、告白に否の返事をできない。
 それが名前の致命的な欠点で、そして同時に犬飼の付け込む隙でもあった。
 顔を俯け、名前は肩を震わせる。犬飼に否を突き付けられない理由なら、名前は嫌というほど自覚していた。犬飼とはまったく何の関係もない、名前の個人的な記憶。それが原因で、犬飼の告白をしりぞけることができないでいる。
 結局今も、名前にできるのは弱弱しい拒絶と、その場からの逃亡だけだった。
「し、仕事に遅れるのでまた後日っ!」
 言うが早いか、名前は犬飼の返事も待たずに駆け出した。犬飼が追いかけてこないだろうということは、すでに学習済みだった。

 ・

 名前の背中が小さくなっていくのを、犬飼は笑みを崩さぬまま見送る。お世辞にもスマートな逃亡とはいえない名前のばたついた姿に、犬飼は日頃心の奥底に沈ませている欲が煽られるのを感じた。
(可愛いなぁ)
 皮肉でもなんでもなく、本心からそう思う。だからこそ、思いを自覚してすぐに名前に告白したのだ。どうせ片思いをするのなら、その期間にも名前に意識してもらっていた方が話が早い。そんな打算が犬飼にはあった。
 告白の効果はてきめんだった。名前は過剰なほどに犬飼を意識するようになった。
 しかしいきなり告白の返事を求めたところで、気の小さい名前が怯えることは分かり切っている。雑談をまじえて多少気持ちをほぐしてから切り込む――緩急をつけることでうっかり望み通りの返事を引き出せたりしないかとも思ったのだが、さすがにそこまで簡単ではなかった。そもそも名前は犬飼に好意など持っていないのだから、望んだ返事をもらえたとして、それが名前の意に沿わないものであることくらい、犬飼にもよく分かっている。
 好かれているどころか、避けられている。嫌われているわけではなさそうなことだけが救いだが、それは嫌うほど犬飼のことを知っているわけでなく、嫌うに至るほど積極的な感情を、名前が犬飼に対し持っていないという事実の裏返しでもある。
「どうしたら、好きになってもらえるかな」
 名前の目は、犬飼をけして映さない。かたくななほどに、名前は犬飼から目をそらす。何故名前に避けられているのか、犬飼には思い当たる理由はなかった。
 ほんの一瞬だけ、名前が自分を好きであるがゆえに照れているという可能性も考えた。だが犬飼は、すぐにその可能性は捨てた。もしもそうなら、名前の態度にもう少し隙と可愛げがあるはずだ。
 結局、どれだけ考えたところで答えは分かりそうになかった。犬飼は早々に、真相を追及するのをやめにした。
 早々に名前に告白したのは、意識してほしかったからという打算によるところが大きい。だが手っ取り早く名前の視界に入りたかったというのも、犬飼が告白した理由のひとつだった。嫌われるにせよ意識してもらえるにせよ、意味も分からずただ避けられているだけなのは不毛だ。それならば無理やりにでも視界に入る方が、遥かにましなように思えた。
 だが、今の状況は犬飼にとって望ましいものではない。
「正攻法で逃げられるなら、搦め手で攻めた方がいい……かな?」
 模擬戦の作戦でも考えるような気軽さで、犬飼は微笑みまじりにひとりごちる。搦め手の策をとれば、もしかすると今以上に、名前は犬飼に対して心を閉ざすかもしれない。だが、こうして不意打ちを狙って逃げられ続けていては埒が明かない。諸刃の剣でも、やってみないことには始まらない。
「まあ、失敗したらリカバリーするだけだ」
 犬飼がひとり笑みを深めたそのとき、名前の背すじを凄まじい悪寒が走ったことは、蒼褪めた名前以外には誰も知らない。

 犬飼にボーダー本部の廊下で絡まれた日から、さらに一週間後。名前はへろへろと力ない足取りで、地下通路におりる階段をくだっていた。
 ボーダー本部の建物は、市街地のなかに置かれた施設としては、類を見ないほどの巨大さを誇る。同階層の移動も一苦労だが、建物内での上下移動も多い。隊員は普通エレベーターを利用するが、名前は時間があるときには、エレベーターではなく階段を使うようにしていた。
 理由は単純で、エレベーターと違って利用者の少ない階段ならば、人とすれ違ったり待たされることも少ないからだ。
 地下は、用途や使用部署によってざっくりと区画分けされている。メディア対策室用倉庫がかたまっている区画に到着すると、名前はそのうちのひとつの扉を開いた。
 無人の倉庫はひやりと涼しい。壁に沿うようにして大小の段ボールが並んでおり、部屋の床の半分以上は埋まっていた。天井に換気用のダクトが走っている。換気扇が静かに唸る音が、耳が痛いほどの静けさをまぎらわしていた。
(なんだか、どっと疲れたな……
 疲弊しきった身体で倉庫に入る。扉のすぐ横に照明用の操作盤とリモコンがついており、名前はリモコンを手にとった。明かりをつけてすぐ、名前は壁を背にして、ずるりとその場に腰をおろした。おしりの下に床の冷たさを感じる。トリオンでつくられた建造物とはいえ、感触はコンクリートと大差ない。
 ボーダー入隊後、転属を経て現在の職場に辿り着いた名前は、今の仕事こそ天職だと思って働いている。だから学生生活とボーダーの二足の草鞋を履くことに苦痛はないし、多少仕事で無茶をしたところでここまでの疲労を感じることは滅多にない。
 今名前が疲れ切っているのは、仕事や学校のこととは別の理由からだった。
(犬飼くん、本当何考えてるの……
 抱え込んだ膝に額をこすりつけ、名前は溜息を吐いた。
 現在ボーダー内で、浮ついた噂が流れている。曰く、「B級一位部隊の犬飼が、内勤の苗字名前に一方的な片思いをしてはすげなくされているらしい」という噂だ。実際、何一つ間違ってはいない。名前からすれば犬飼の告白は面白がってやっているとしか思えないが、それでも犬飼は名前に告白しているわけだし、名前は犬飼の告白を拒み続けている。
 噂の発生源がどこかは知らない。だが十中八九、犬飼が自分でぺらぺら話しているだろうことは、名前にも想像がついていた。犬飼の人あたりの良さは、悪くいえば軽佻浮薄ともみえる。推察するに、恋愛の話をするのも嫌いではないのだろう。犬飼の人好きする性格を考えれば、噂が広がれば広がるほど、犬飼を応援する人間は増えるに違いない。
 名前にとっては、たまったものではない。
 ただでさえ注目を集めることが苦手な名前だ。名前のこれまでの人生で、ここまで他人から注目を浴びたことは一度もなかった。それも、名前にとってこれ以上ないほどの、不本意な注目だ。名前の精神が擦り切れる寸前なのも当然のことだった。
 今の時間、ラウンジにもボーダーの出入口にも、どこにいっても隊員がいる。このまま家に帰るのではなく、少しこの倉庫で時間をつぶしてから、こっそり帰る予定だった。
(それにしても、犬飼くんの考えてることが分からなさすぎる……
 疲れ果てた名前の頭の中は、とろりとした液体を流し込まれているように鈍い動きしかしない。働かない頭でぼんやりと、名前は犬飼のことを考えた。普段犬飼のことは考えないようにと自分を律しているせいで、思考の自制がきかなくなった途端に、頭の中は犬飼のことで埋めつくされていく。
(一体どうして、犬飼くんは突然私のことを好きなんて言い出したんだろう)
 接点の少ない相手を好きになるといえば、ぱっと思い付くのは外見が好き、あるいは一目惚れ。しかし名前は外見で損も得もしたことがない程度の、ごく一般的な容姿をしている。男女問わず人気がある犬飼のめがねに敵うとは、到底思えない。
 六頴館高校に通う程度の学力はあるが、だからといって特別頭がいいわけでもない。そもそもボーダーで正隊員をしている犬飼のまわりには、頭のいい人間などたくさんいるはずだ。そこから落ちこぼれた名前に、目を掛ける理由がない。
 考えれば考えるほど、犬飼が自分の何を気に入っているのか分からない。箸にも棒にも掛からないような裏方の名前に片思いして袖にされているなんて、そんな自分の不名誉な噂を流すほどのどんな理由が、あの犬飼にあるというのだろう。
 名前が思考の迷路に迷い込んでいると、ふいに金属の軋む鈍い音がした。腰を上げるのが億劫で、名前は緩慢な動作で首をめぐらせ扉の方を見た。
「あ?」「あ」
 少しだけ驚いたような三白眼と目が合う。入ってきた人物を見て、名前は「おつかれさまです」と頭を下げた。

 ・

 地下倉庫の重たい扉を開けて中を覗いた瞬間、犬飼は思わずへらりと笑って「えぇ?」と声をあげた。その声には、緊張感も不平不満も滲んでいない。が、犬飼が意識的にせよ無意識にせよ声を出したという時点で、それが犬飼の胸のうちを反映したものであることはたしかだった。

「苗字さんを地下の倉庫につづく通路で見かけた」
 顔見知りの隊員から犬飼がそう聞いたのは、つい先程のことだった。名前が仕事の時間外に地下の倉庫にたびたび休憩を取りに行っていることは、犬飼も以前から知っていた。もちろん、そんな個人的なことを犬飼に知られているだなんて、名前は夢にも思わないだろう。犬飼の観察と情報収集は、名前の想像をはるかに超えている。
 だからその情報をもたらされたときに、犬飼には特別不審に思う気持ちはなかった。ただ相手の隊員の表情がいやに複雑そうだったのが、犬飼にとって気になるといえば気になることではあったが、それは目下、自分が噂を広めに広めたことによる些細な影響だろうとばかり思っていた。
 まさかこっそりと訪れた地下の倉庫で、名前が諏訪とふたりきりで、それも諏訪の肩を借りて、ぐうぐう寝ているとは思いもしなかった。
「よぉ、犬飼」
 地下のひややかな空気に、わずかにひそめた諏訪の声が響く。犬飼は足音を立てないよう気を付けて、名前と諏訪が座っている壁際まで歩いていった。天井の照明は視界を保証しているものの、地上階ほどの明るさはない。諏訪のすぐそばに小ぶりなリモコンが置かれていることから、眠ってしまった名前のため、諏訪が明かりを少し落としたのだろうと犬飼は推察した。
 名前の前までやってきた犬飼は、そっとその場にしゃがみこむ。固く目を瞑った名前の寝顔は、安らかというには程遠い。いつもより血色が悪く見えるのは、淡い照明のせいか、やや顔を俯けていることで前髪が顔にかかってできたかげのせいか。あるいは名前が現在置かれている状況のせいかもしれなかった。
 そんな寝顔を見ていれば、犬飼とてまったく胸が痛まないわけではない。けれどもその小さな痛みを表に出すことなく、犬飼はしゃがみこんだまま、視線を名前に肩を貸している諏訪へと移した。
「いやいやいや、『よぉ』じゃないですよ。なんで諏訪さんがここに? ここ、名前ちゃんが逃げ込むのによく使ってる倉庫ですよね」
「おめーも知ってたのか」
「諏訪さんも知ってたんですか?」
「まあ、人目につかずにさぼれそうなとこ探すようなやつは、大体同じようなとこに目ェつけるだろ」
 悪びれた様子もなくいう諏訪に、犬飼は口許だけで笑う。人望あつい諏訪の周りには、隊を問わず人が集まっていることが多い。そんな諏訪が、人目につかない場所を求めているとは思いもしなかった。
「諏訪さんには作戦室があるじゃないですか」
「作戦室は人目につかない場所じゃねえじゃねえか」
……ここ、禁煙ですよ」
「吸ってもいねえよ」
 諏訪の舌打ちに、犬飼が笑う。なんとなくだが、諏訪の言いたいことも分かるような気がした。本当の意味でひとりで気を抜ける場所というのは、実際それほど多くはない。作戦室や自宅にしょっちゅう他人を招いている諏訪ならば、特にそう感じても不思議ではなかった。
 犬飼が納得したのを見て取ったらしい諏訪が、座ったままでそっと身じろぎした。その仕草には、眠っている名前への配慮がうかがえる。
「俺がここで休憩しようと思って来たら、こいつが先にいたんだよ。で、疲れた顔でへろへろしてっからちょっと話して、そしたら寝た」
「そんな赤ちゃんみたいな」
「どっかの誰かのせいで、よっぽど寝不足だったんだろ。見るからに神経細そうだしな」
 世間話のような口調で、耳の痛い話を振られた。犬飼はまっすぐに諏訪を見たが、諏訪はどうでもよさげに視線をずらしている。
(端から勝負する気もないってことか)
 犬飼は察し、ようやく息を吐き出した。長く重く吐き出された呼気は、それだけで諏訪の苦言への弁明のように響いた。
 名前と諏訪がどういう経緯で知り合いなのか、犬飼は知らない。犬飼が知る限り名前と接点がある隊員は、影浦隊と数人のオペレーターくらいのはずだった。
 犬飼が名前のことを観察し始めて、まだひと月ほどしか経っていない。それまで犬飼は、名前のことを気にも留めていなかった。せいぜいが、同じクラスにボーダーの子がいるな、と認識していた程度だ。
 だから自分の知らない名前がいるのはごく当然のこと。それなのに、名前のことを何も知らないというその事実に、犬飼は何とも言えぬ焦燥と狼狽を抱く。
「別に、こいつと個人的に親しいわけじゃねえよ。変な勘ぐりやめろ」
 諏訪が胡乱うろんな目を犬飼に向けた。
「え? 別に勘ぐってなんかないですよ」
「こいつ、仁礼と仲いいだろ。で、仁礼とうちのおサノが補習仲間だろ」
……ああ、そういうことか」
「やっぱ勘ぐってんじゃねーか」
「やだなぁ、勘ぐってませんって。ただ納得しただけです」
「そうかよ」
 けっ、と諏訪が舌打ちする。犬飼はにっこりと笑顔をつくった。しかしその笑顔にも諏訪はいっそう呆れた顔をして、それからふいに呟いた。
「犬飼にしちゃ、まずったな」
 諏訪の声に、揶揄からかう色はない。いっそ揶揄われた方がまだ気分的に救いがあったな、と犬飼は思う。
「やっぱりまずったと思います?」
「そりゃそうだろ。やり過ぎると嫌われんぞ」
 何を、とは言わない。互いに分かり切っている。
「もう嫌われてるかもしれないんですけどね」
「嫌いだったら嫌いっていうだろ」
「言いますかね? 名前ちゃんが?」
「言わねえか。いや、言わねえな。ご愁傷様」
「諏訪さんひどいなぁ」
 流れで笑ってはみたものの、自分で思っていた以上に、犬飼の声に覇気はなかった。諏訪がほんの一瞬、犬飼に視線を走らせる。
 年長者としての心配は当然、あるのだろう。そしてその心配は、見るからに疲れている名前に対してだけではなく、目の前の飄飄とした態度を崩さない――崩そうとしない犬飼に対しても、平等に施されるものだった。
(おれ今、気遣われてるな)犬飼は思う。
 諏訪の気遣いは、犬飼にとってもっとも近しい年上である二宮のそれよりも、数段分かりやすく、なおかつ自然だ。普段の犬飼ならば相手を不愉快にしない程度に、そういう気遣いは受け流すだろう。人生相談は受けるものであって、自分が他人にするものではない。
 けれど今の犬飼は、諏訪の気遣いを素直に受け容れたかった。自分で思っているよりも、犬飼もまた弱っていたのかもしれない。それこそ、諏訪のように目配りのできる相手にしか気付かれない程度に、だが。
「嫌われるかもしれないとは思ったんですよね」
 暫しの沈黙を置いてから、犬飼が言った。
「それでも、名前ちゃんが直々におれのところに文句のひとつでも言いに来てくれれば、そこからどうとでもなるかなと思ってたんですけど。まさかこんなところに潜りこんで、そのうえ諏訪さんに美味しいところ持っていかれるとは。さすがにこれは想定してなかった」
「美味しいか? 重てえだけだぞ」
「その重さがほしいんですよ、おれは」
 犬飼は力なく笑った。
 犬飼には、自分がそれなりに器用に立ち回る自信がある。それこそ影浦のような特例でもなければ、嫌われたり引かれたりすることは、自分がそうなるよう仕向けない限りそうそうあり得ないことだと思っていた。
 名前のこととなると、犬飼は途端にうまく立ち回れなくなる。正攻法でいけば怯えられ、ならば搦め手と策を巡らせれば、余計に名前は犬飼から遠ざかろうとする。弁明も弁解も、信用なくしては意味がない。犬飼は今、名前からの信用をほとんど失っている状態だった。
(いや、今まで一度でも、名前ちゃんが俺を信用してくれたことなんて、あったかな)
 思い返せば、告白するよりもっと前、最初の出会いからして、名前は犬飼に対し壁をつくっていた。もしかするとそれは、犬飼と出会う以前の名前の経験によるものなのかもしれない。だとすれば、犬飼は最初から覚えのないハンデを背負わされているようなものだ。そのハンデを覆すのは、けして容易なことではない。
 地下の壁を伝うように、どこか遠くの物音が静かにこの倉庫まで響いてくる。三門市の地下に張り巡らされた地下道は、市民が思っているよりずっと広く、多くを収容している。
 その広大な地下空間のなかの、ひっそりとして忘れ去られたような倉庫くらいにしか逃げ場を持たない名前。そして今、そこに名前を追い込んでいるのは、ほかでもない犬飼自身だ。
 この手の恋愛相談を、きっと名前は同性の友人にも自分からはしない――いや、できない。犬飼の見立てでは、ごく親しい相手に話を振られでもしない限り、名前は自分が人から好かれているなんて話を、自ら吹聴することはない人間だった。まして、噂の相手がボーダー内でおそらく知らぬ者のいない犬飼ともなれば尚更だ。
 困り果てた名前が最終的に辿り着くのは、きっと自分しかいない――犬飼はそうとばかり思っていた。だからこそ、多少のリスクをおしてでも噂話を広げた。どのみち名前以外のボーダーの女子と、今後恋愛を絡めた関係になる予定はない。名前を困らせた計略の裏にあるのは、ひたすらに純然たる名前への好意だった。
 それなのに――
 本当はただ、顔を合わせて言葉を交わしたいだけなのに。たったそれだけのことが、こんなにもうまくいかない。
 知らず床に落としていた視線を上げ、犬飼は名前の寝顔を覗き込む。薄く開いたくちびるに視線を吸い寄せられ、こんなときでも下心が消えないことに苦笑した。
 どうしたら、名前を困らせずに好きでいられるのだろう。どうしたら、思い悩ませることなくそばに居続けられるのだろう。どうしたら。
「どうしたら名前ちゃんは、おれのこと好きになってくれるんだろう」
 自嘲と懇願のあわいにある犬飼の声に、諏訪は返事をしなかった。

 名前がゆっくりと目蓋を開くと、段ボールと無機質な倉庫の壁、天井ばかりの室内風景が、すぐさま目に飛び込んできた。それほど深く眠らずにいたのだろう。目の前に広がる景色に、すぐに頭が働き始め、眠る前の状況を思い出す。
 仕事を終えて疲れ果て、ひと休みのつもりで潜り込んだ地下の倉庫で、たまたま諏訪と一緒になった。諏訪とは小佐野を介した知人であり、特別親しいわけではないものの、何度か世話になったこともある。
 どうやら名前は、諏訪に話を聞いてもらううちに眠ってしまったらしい。そこでようやく、名前は自分が隣に座っている人物の肩を借りていることに気が付いた。
「すみません諏訪さん、私ものすごく失礼なこと――
 慌てて身体を離し、隣で肩を貸してくれていた人物に向き直る。そして名前は絶句した。
 諏訪がいるとばかり思っていたそこにいたのは、にこにこと愉しそうに笑っている犬飼だった。
「あ、起きた?」
 平然としている犬飼に、名前は意味が分からず混乱する。諏訪は一体どこへ行ったのか。犬飼はいつからここにいるのか。いや、そもそも一体どうして、犬飼がここで名前に肩を貸しているのか。
「えっ、あ……え!? なん、な、なん、なんでいにゅっ!」
「あはは、噛んだ。おはよう、名前ちゃん」
 けらけら笑っている犬飼に、名前はしだいに血の気が下がっていくのを感じていた。
 もしかして諏訪だと思っていた人物は、最初から犬飼だったのだろうか。まさかそんなことがあるはずないのだが、そうでなければ名前が寝ている間に諏訪と犬飼が入れ替わったことになる。諏訪には犬飼とのことをさんざん相談したあとだ。にも関わらず犬飼と入れ替わるなど、諏訪らしからぬ鬼畜の所業としか思えない。
(諏訪さんに限って、意味のない嫌がらせをするとは思えない、けど……
 顔を俯けていてもなお、犬飼からの視線を痛いほどに感じる。名前の全身が、ぶるぶるとおこりのように震えた。
「なん、なんで、諏訪さんは、」
「諏訪さんなら用事があるって言って、先に地上うえに戻ったよ。さすがにこんなところに名前ちゃんひとり寝かせておくわけにいかないから、おれが諏訪さんの後引き継いだんだ。あ、おれがここに来たのはたまたま」
 倉庫内には時計がないので、正確にはどのくらいの時間ここで眠っていたのか分からない。だが忙しい諏訪に代わって、通りすがりの犬飼が名前が起きるのを待つ役を買って出てくれたというのは、十分にあり得ることだった。
 ということは、名前は犬飼に感謝し、謝罪する立場。怯えおののくなど言語道断だ。
「す、すみませんでした……!」
 大慌てで土下座しようとした名前を、犬飼が腕を伸ばして制した。
「そんな大袈裟にリアクションしなくても」
「いや、でも、」
「どちらかといえば、謝られるよりお礼を言ってもらえた方が、おれとしては嬉しいかな」
……ありがとう、犬飼くん」
「まあ、おれも名前ちゃんとふたりきりになれて嬉しかったし。寝顔まで見られて役得」
「っ!」
 呼吸をするように口説かれて、名前は息を呑んだ。少しだけ見直したのも台無しだ。
 大体、元はと言えば名前が地下倉庫に逃げ込んでいるのも、諏訪の目の前で寝落ちしてしまうほど心労を抱えていたのも、すべて犬飼のせいとも言える。
(やっぱ感謝するんじゃなかった……!)
 気付いた瞬間、がくりと全身から力が抜けそうになる。が、あいにくと名前には脱力するほどの余力すら残っていなかった。そうした力はすべて、犬飼の振りまいた噂によって削り取られている。
 それでも短時間の仮眠をとったことで、どうにか最低限の気力と体力は回復した。名前は立ち上がり、急いでこの場を立ち去ろうとする。すでに俺も謝罪もお礼も済ませている。名前がこの場にとどまらなければならない理由はひとつもなかった。
「それじゃあ、」
「待った」
 すかさず犬飼が、腰を浮かせて名前の手をとる。不意打ちで肌と肌がふれあって、名前は「ひえっ」と悲鳴を上げた。反射的に腕を引く。
 ほんの一瞬、犬飼の表情が強張った。しかしその強張りも、まばたきひとつで消え去る。犬飼が、ぐっと手に力を込めた。名前が腕を引いても犬飼の手はびくともせず、腕が抜ける気配はない。
 名前の手首をとったまま、犬飼は名前を上目遣いに見た。冷たく澄んだ色の瞳にじっと見つめられ、名前の喉がごくりと鳴る。緊張が、名前の胸からじわりとせり上がる。
「ごめんね、名前ちゃんがおれと話したくないのは分かってるんだけど」
……そんなことは」
「ない? じゃあ今から少しだけ、おれとの話に付き合ってくれる? 寝てる名前ちゃんをひとりにしなかったことへのお礼はおしゃべり、ってことで」
 腰は低いが、名前が断りづらいように提案してくる。犬飼に転がされているのは明らかだ。それが分かっていても、名前は頷くしかなかった。頷かなければいけないように、犬飼に誘導されていた。
「うっ、……はい」
「はい、じゃあここに座ってね」
 途端にごきげんになって、犬飼は自分の座っているすぐ隣――先程まで名前が座っていた場所を視線で示す。まだ名前の手首を離しはしない。名前が座るとようやく、名残惜し気に手を離した。
 犬飼からやや距離をとって座った名前は、注意深く犬飼の様子を探る。とはいえ犬飼の顔を直視するのは気が引けて、犬飼の指先だとか、あぐらをかいて突き出している膝だとか、そんなところばかりに視線がいってしまう。隊服の黒スーツを纏っている犬飼は、高校で見かけるよりも大人びて見える。
「今更だけど寒くない? 床に座ってると、結構身体冷たくなりそうだね」
「大丈夫。犬飼くんは……?」
「おれはトリオン体だから平気だよ」
「そっか……
 会話がうまく膨らまず、沈黙が落ちた。会話の最後を名前が引き取ったので、うまく会話できない申し訳なさのような感情が、名前の胸に降り積もる。犬飼はきっとそんなこと気にしていないのだろう。分かっていてもなお、自分の口下手が嫌になる。
 名前が黙っているうちに、ふたたび犬飼が口を開いた。
「名前ちゃんはここの倉庫、よく来るの?」
「うん。もともとよく、仕事で使うから」
「仕事って、メディア対策室の?」
「作ったグッズの在庫とか置いておくんだよ。ほら、あそこの段ボールとか」
 名前は正面の段ボールの山を指さした。段ボールの側面には油性の極太ペンで『嵐山隊 アクキー予備』と走り書きされている。
「そういえば名前ちゃんの仕事って、おれあんまりよく知らないな。メディア対策室っていうから、広報みたいなことしてるのかと思ってたけど。名前ちゃんはテレビに出たりとか、そういうことはしないの?」
「うーん、そういう目立つ仕事はもっと華があるというか、目立つ人たちがするものだからね……。私はグッズの企画開発とか、そういうお仕事の手伝いをさせてもらう方が多いよ。というか、そっちがメイン」
「ああ、それで名前ちゃん、嵐山さんや木虎ちゃんとよく話してるんだ」
「嵐山隊はグッズ登板率が高いから」
「じゃあうちの隊のグッズを出すってなったら、おれも名前ちゃんと仕事することになる?」
「私以外にも担当の人はいるし、私は雑用みたいなものだから確実ではないけど、でも、少しくらいの接点はできるかも」
 名前はまだ学生だから、どのような仕事であっても主戦力となることはない。しかしその分、いろいろなところで雑務を担っている。
「というか、名前ちゃんって最初からメディア対策室希望で入隊したの?」
「そういうわけじゃないんだけど、ボーダーでいろんなお仕事の人見ているうちに、私がやりたいのってこっちだよなーと思って。転属願い出して、結構無理言ってお願いしたんだ。下っ端の中央オペが根付さんにアポとるの大変だから、諏訪さんに協力をあおいだりして……。でも転属願いだして良かったと思ってるんだよね。あのままオペやっててもそんなに役に立ったと思わないけど、今のお仕事は下っ端なりにいろいろ任せてもらえて楽しいし」
 好きな仕事の話になり、知らず名前は饒舌になっていた。いつのまにか犬飼は相槌を打つだけになっている。だんだんと血の気が失せていた名前の顔に赤みが戻ってくる。
「名前ちゃんは、今の仕事が好きなんだ」
 穏やかな声で、犬飼が尋ねた。
「そう! それはもう!」
 犬飼の問いに、名前は微笑んだ。座ったままで、犬飼の方に顔を向ける。
 犬飼の瞳に、名前の顔が映りこんだ。犬飼と視線が絡む。その瞬間、名前ははっと我に返った。
 名前は慌てて犬飼から視線を逸らした。
(しまった、相手が犬飼くんだってこと、完全に忘れてた)
 浮き上がっていた気分が、急速に萎んでいくようだった。夢中になると相手のことが見えなくなる、自分の幼稚さに羞恥心が沸き上がる。学校のことや世間話くらいならばともかく、こんなふうに自分の個人的な話を打ち明けるのは、名前にとってそうあることではなかった。それをよりによって、犬飼相手に嬉々として語ってしまうとは。
 身体の前で組んだ手を、ぎゅっと握りしめる。こうやって結局毎度犬飼のペースに乗せられてしまうから、だから二人きりにならないように避けていたのに。特に今は時期が悪すぎる。こうしてふたりでいるところを誰かに見られでもしたら、噂にさらに尾鰭が付いてしまうのは間違いない。諏訪ならば余計なことは言わず黙っていてくれるだろうが、いつまでもここに犬飼と名前以外の人間が来ないとも限らない。
「私ばっかり話してごめん、その、つまんない話だったよね。私、そろそろ、」
「おれのせいで、迷惑かけてごめん」
 急き立てられるような名前の言葉。それを遮る犬飼の声に、名前は一瞬、自分が何を言われたか分からなかった。一拍遅れて、それが謝罪だと理解する。
「え……?」
「いろいろ噂されたり注目されるの、名前ちゃん苦手だったでしょ。分かってて噂立てたのはおれだけど、そこまで思いつめさせると思わなかった。だから、ごめん」
 素直に吐き出された謝罪に、何と答えるべきなのか分からなかった。
 たしかに無責任な噂には困っている。メディア対策室で働いているのは名前以外はいい大人ばかりなので、浮ついた噂にいちいち言及してくる同僚はいない。だが若年層が多く、犬飼を慕うものも多い戦闘員のなかには、名前にこれみよがしな視線を向けてくるものも多い。だからこそ、名前はすっかり参ってしまっていたのだ。
 だが、こうして面と向かって謝られてみると、不思議と犬飼に対する屈託のようなものは、それほど感じないのだった。たしかにあったはずの胸の中のしこりが、いつのまにかほどけている。謝られたから許した、なんて単純なものではないはずだが、この期に及んでなお許さないと言い張れるほどの不快さは、すでに名前の中にはどこにもなかった。
 犬飼は沙汰を待つかのように、じっと沈黙を守っている。黙りこくる犬飼を直視しないよう視界の端に映して、名前はゆっくりと深呼吸した。そして、
……犬飼くんは」
「ん?」
「犬飼くんは、私のことが嫌いなのかと思ってた」
 思い切って、かねて抱いていた所感を口にする。途端に犬飼が、狼狽えたように身じろぎした。
「え? 待って、なんで? おれ何かした?」
「というか、今もまだ少し、嫌われてるのかなと思ってる」
「いやいやいや、なんでそうなっちゃうのかな」
「だって犬飼くんに嫌われそうな理由ならいくつか思い付くけど、好かれる理由なんてひとつも思い付かないから」
 あまりに卑屈な言い分に、自分で言っていて情けなくなった。それでも、思ったことをなかったことにはできない。
 犬飼に好かれていることを無条件に信じられるほど、名前は自分に自信を持っていない。誰彼構わず嫌われる人間ではないが、だからといって特別好かれることもない。
(それに私は、犬飼くんみたいにうまく立ち回る人間には、軽んじられやすい性格をしているとも思うし……
 そういう自覚が名前にはある。そしてそのことを、特別嫌だと思ったこともなかった。
 自分は犬飼のように特別な人間ではないし、ボーダー内においては数多いる駒のひとつに過ぎない。それを悪いことだと思ってもいない。
 だからこそ、駒のひとつではなく特別な存在だと言われると、逆にどうしていいのか分からない。意味が分からなくて、怖くなる。
 犬飼は「ううん、困った」と苦笑した。わずかに身体をかがめると、首を傾げて名前の顔を横から覗き込む。
「それって、おれが今ここでひとつずつ、名前ちゃんの好きなところを発表すればいいってこと?」
「え!? なんで、やめてほしい!」
「いや、今のは振りかと思うでしょ」
「そういうんじゃないよ……
 力なく答えて、名前は膝に顔を埋めた。犬飼からの視線が、ちくちくと頭の横に刺さっている。
(面倒なやつ、鬱陶しいやつだと思われたかな)
 もしもそう思われていたら、少し悲しい。そんなことをふと考えて、その思考こそがもっとも面倒くさくて鬱陶しいのだと自省する。犬飼に好きと言われて困っているはずなのに、面倒だと突き放されたら悲しくなるなんて、面の皮が厚いにも程がある。
 天井を走る換気ダクトが、細く震える空気の音を響かせる。やがて犬飼が、ゆっくりと口火を切った。
「おれがいくら好きだっていっても、もしかしたら今の名前ちゃんには届かないのかな」
 問いともつかない犬飼の声に、名前はのろのろと顔を上げた。そっと犬飼の方に顔を向ける。犬飼もまた、名前の方に顔を向けていた。
 視線がぶつかり慌てる。今度は犬飼の方から、視線を横にずらしてくれた。名前を気遣ったのだろう。
「それじゃあ、……嫌いじゃないって言葉なら、名前ちゃんにもちゃんと届く?」
 今度ははっきりと、問いの形になっていた。逡巡ののち、名前は頷く。嫌いじゃない、という言い分なら、名前にもすんなりと受け容れることができた。
「おれは名前ちゃんのこと、嫌いじゃないよ。嫌いになんてならない」
 確認するように、犬飼が言葉を重ねる。
「どう? これなら信じられる?」
……信じたいなとは、思うよ」
「ありがとう」
 犬飼の苦笑に、名前は居心地悪げに膝頭を擦り合わせた。嘘ではない。信じたいという気持ちは、間違いなく名前の本心だった。
 あの犬飼が、ここまで名前のために心を尽くしてくれている。耳障りのいい言葉ではなく、名前が受け容れやすい言葉を慎重に選んでくれている。強引な方法で名前の気を引こうとするのではない。きちんと名前の方を向いた、名前のために考えられた気持ち。
(この優しさが、揶揄からかってるだけの気まぐれだなんて、思いたくない)
 名前の胸にじんわりと、あたたかいものが広がる。胸がぎゅっと切なくなった。その感覚を閉じ込めるように、名前はぎゅっと膝を抱えなおす。
 もしも今、名前の胸の中身をぱかりと開き、犬飼に見せることができたなら。そうしたら名前自身不慣れなこの感覚に名前を与えることくらい、犬飼にはきっと造作ないことだろう。名前は犬飼が正面ではなく横にいてくれたことに、ひそかに安堵する。
「ねえ名前ちゃん」名前の胸中を知りもせず、犬飼が名前を呼ぶ。「おれは名前ちゃんのことが好きだよ」
「そ、れは……
「うんうん、まだ受け容れられないんだよね」
 薄い微笑みを貼り付けて、犬飼は名前に笑いかけた。
「だから、おれのこと安心して信じられるように、おれのことを知ってよ。おれも名前ちゃんのこと、もっといろいろ教えてほしいしさ。いろんな名前ちゃんを知ったうえでの好きって言葉なら、名前ちゃんも信じられるんじゃない?」
 たしかに名前は、犬飼のことをあまりに知らなさすぎた。どうして犬飼が自分を好きになったのか以前に、同じクラスの人気者の男子という以上の犬飼について、名前はまったく情報を持っていない。
……たぶん」
「そういうことなら、まずはお互いに相手を知り合おう。今からでも遅くない?」
 躊躇いながら、名前は頷く。犬飼が満足そうに、目を細めた。
「ということなら、今日のところはまず連絡先の交換からかな」
 そう言うなり犬飼は、手慣れたふうに携帯を取り出した。

 バーガークイーン三門本店。窓際のテーブルで向かい合っているのは、影浦隊オペレーターの仁礼光と、メディア対策室所属の名前だ。それぞれ学校帰りに店内で待ち合わせて落ち合っているので、今日はボーダーの制服ではなく学校の制服を着用している。
「名前、犬飼と付き合いだしたって?」
 ストローでコーラを吸い上げ、ぷはっと息を吐き出し言った仁礼に、名前は一呼吸止めてから、ごっほごっほと噎せこんだ。一呼吸の間に、口の中のポテトを大急ぎで飲み込んでいる。そのせいで余計に激しく咳き込んでしまったが、仁礼に差し出されたジュースでどうにか落ち着くと、名前は困った顔で仁礼を見た。
「に、仁礼さん、いつどこで誰が何をどうやって……
「おっ、ごーだぶりゅーいちえいち」
「すごい、復習の成果が出ているね! ――じゃなくて!」
 万年補習の仁礼の勉強をよく見ている名前は、一度手を叩いて仁礼を褒めかけた。が、今はもちろん、そんな場合ではなかった。
「先にぼけたのそっちだろ」
 仁礼がぶつくさと文句を言うのも、名前の耳には届かない。
 例の噂――犬飼が名前に片思いしているという噂は、消えてこそいないものの、だんだんと下火になりつつある。完全に消えたわけではないのだが、少なくともボーダー本部内を歩いているときに、名前が参ってしまうほどの視線を感じることはなくなった。
 噂の鎮火の裏には犬飼の暗躍があったのだろうことは、名前にも薄々察しがついている。もともとが犬飼の流した噂なのだから、火消しまで犬飼が責任を持つのは当然のことだ。一体どのようにして火消しをしているのかは、名前は聞かないことにしていた。うっかり藪をつついて蛇を出すような真似をしたくはないからだ。
 ともあれ、火消しが順調そうな様子を見て、名前はすっかり安心しきっていた。犬飼との関係もあれ以来悪くない。相変わらず犬飼に片思いされていることに納得はしていないものの、ひとまずは最大の危機を乗り切った――そうとばかり、名前は思っていた。
(ぜんぜん呑気にしている場合じゃなかった……
 よほど名前の恋愛話が楽しいのか、いたずらめいた顔をしている仁礼を前に、名前は悩ましげに頭を抱えた。
 噂に尾鰭おひれがついているどころの話ではない。犬飼が名前を追いかけているという噂ならばまだしも、どういうわけだか知らない間に、名前と犬飼が付き合っていることになっている。これでは完全にデマだ。
「何がどうして、そんなことに……
「ん? 付き合ってねーのか?」
「付き合ってるわけがないよ……。私、仁礼さんにそんな報告してないでしょ?」
「たしかに報告はされてねーけど、名前って元々そういう話アタシにしねーだろ」
「それは、今まで私に恋愛の話がなかっただけで」
「てか実際、最近よく犬飼と一緒にご飯食べたりしてんだろ? なんかそういう話ちらほら聞くんだけど」
「それはっ、たしかにそうだけどっ、弁明をさせて……!」
 名前のトレーからポテトをつまんで笑う仁礼に、名前はがくりと肩を落とした。

 名前から一連の事情をかいつまんで聞いた仁礼は、もっともらしく腕を組んで唸った。
「ふむふむ。じゃあまだ付き合ってねーのか」
「まだとか、そういう言い方は……
「時間の問題っぽいけどな。名前、押しに弱いし」
 うっ、と名前が言葉に詰まる。図星だった。
「ま、まぁ押しに弱いのは事実なんだけど……
「てか犬飼って名前みたいなのが好きなんだな。もっと面食いなのかと思ってたけど、ふーん、なかなか趣味いいじゃん」
 犬飼も名前も自分より年上であるということを一切感じさせない、仁礼のふてぶてしさ溢れる物言いに、名前は苦笑を隠しきれない。
(というか私はともかく、仁礼さん、犬飼くんのことも呼び捨てなんだ……
 犬飼と同学年の名前ですら、犬飼を呼び捨てにする勇気はない。もっとも名前は他人を呼び捨てにすることなど滅多にないし、反対に仁礼はたいていの同年代の相手をあだ名か呼び捨てで済ませる。だからこういうことは、これまでにも何度もあることだった。
 仁礼の何にもとらわれない自由さに、名前はつくづく感服する。そういう仁礼のことが好きで、名前は仁礼を慕っているのだ。
 正反対ともいえる性格をしているふたりだが、その付き合いは長い。仁礼と名前の出会いはボーダー入隊前まで遡る。
 当時名前と仁礼は近所に住んでおり、名前は一学年下の仁礼の明るさに憧れていた。仁礼もまた、その大らかさでもって、名前という年上の崇拝者を懐広く受け容れた。
 以来、名前の実家が転居した現在に至ってもなお、ふたりの交流は続いている。名前が仁礼を「仁礼さん」と呼ぶのは、仁礼に憧れ、彼女を慕っているためだ。
 引っ込み思案の名前がボーダーに入隊したのも、元はと言えば仁礼の後をついていっただけだった。ただしふたりともオペの道に進んだ時点で、一緒に隊を組む道はなくなった。結局戦闘に馴染むことのなかった名前は、早々に転属し、裏方へと引っ込んだ。もともとの性分を考えれば、おさまるべきところにおさまったともいえる。
 閑話休題――
「いいんじゃねーの? 犬飼」
 カップに残っていたコーラをずごごっと一気に吸い上げて、仁礼はお気楽にコメントした。名前はむっと眉根を寄せ、じっとりと仁礼を睨む。
「仁礼さんはまたそういう、根拠のないことを」
「名前のうじうじしたところ、引っ張ってくれそうだし。面倒くさいときはずばっと切り捨ててくれそうだし」
「た、たしかに……
 ほとんど何も考えていなさそうなコメントのわりには、かなり的確にポイントをついている。名前がうっかり納得してしまい、仁礼はけらけらと陽気に笑った。
「てか、だめなら別れればいいじゃんか。ボーダー内で気まずくなったとしても、名前は戦闘員やオペじゃないんだからそこまで気にすることないって。お互い避けあってれば顔合わせずに済ませるくらい楽勝だろ」
「今更だけど、仁礼さんのそのポジティブさ、本当にすごいよね」
「名前が根暗すぎんだよ」
 暴言にも近い台詞だが、仁礼から言われる分には気にならない。仁礼と比べれば自分の性根が暗いことくらい、名前も重々承知している。
(それに実際、仁礼さんの言い分って一理あるんだよね……
 仁礼ほど軽やかに考えることはできないが、だめなら別れればいいというのが正しいとは、名前も思った。顔を合わせないようにすることも、そう難しいことではないはずだ。
 名前と犬飼の接点は、高校のクラスが同じこととボーダー所属であること。高校はもうじき卒業してしまうし、ボーダー本部で顔を合わせることも、本来働いている区域が違うのだからそうそうないはずだ。今は犬飼が名前を追いかけているのでたびたび顔を合わせるが、それさえなくなれば、まったく顔を合わせないようにすることも不可能ではない。
 地下の倉庫で和解して以来、名前と犬飼は程よい距離と関係を維持している。噂に尾鰭がついていたのは想定外だったが、犬飼本人はいたって適切な態度で名前との距離を縮める努力をしてくれていた。
 クラスで会えば話もするし、連絡もそれなりに取り合っている。防衛任務や訓練の隙間を縫って犬飼が送ってくるメッセージは、常に名前が返信しやすいよう配慮されていた。
 互いの時間が合えば、一緒に食事をとることもある。さすがにボーダー本部内のラウンジや食堂では周囲の目が気になるので、もっぱら施設外に出ていくか、あるいは地下の倉庫などの人気ひとけのない場所を選ぶことになるが、それだって慣れてしまえば少しも気まずく感じなかった。
(相変わらず犬飼くんは掴みどころがないけど、話してみたら普通に良い人だったしなぁ)
 ここ暫くのことを思い返し、名前はしみじみと感慨にふける。
 この短い期間に、犬飼はすっかり名前の防壁を崩してしまった。あれだけ強固に築いたはずの防壁を、犬飼はゆっくり丁寧に、一枚ずつ削ぎ落とす。名前を傷つけないように、これ以上名前が壁の奥に引っ込まないように、犬飼は常に最善の一手を打ってくる。
 そのことに気付いていながらも、名前は犬飼に対してされるがままになっていた。警戒心を再度呼び起こすこともない。防壁の奥に少しだけ引っ込むことすらしていない。
 名前だって、本当はとっくに分かっている。名前は間違いなく、犬飼に惹かれつつあるのだ。だから今の距離間を心地よくすら感じてしまい、抵抗する気をなくしている。
 本当は地下で和解をした日から、薄々気付き始めていた。これまではただ、闇雲に目を瞑って気付かぬふりをしていただけだ。
(だけど、付き合うとなると……
 臆病さが首をもたげ、たちまち逃げを打ってしまう。犬飼の心が名前に向いていることは分かっているのだから、あとは名前が犬飼の方に一歩踏み出せばいいだけの話なのだ。それだけで、きっとすべてが丸くおさまる。
 けれど肝心のその一歩を踏み出す勇気が、名前にはない。
「もしかして名前、まだ昔のこと引き摺ってんの?」
 名前の表情がくもったことに気付いた仁礼がぼやく。名前は気まずげに視線を彷徨わせ、
「昔っていったって、そんなに前のことじゃないよ……。入隊の前の、中学の終わりくらいのことだから、まだ三年経ってないくらいじゃない……?」
 ごにょごにょと言い訳のように返事をした。仁礼が視線を上げ、何か思い出すかのような仕草で宙を睨む。仁礼が何を思い出そうとしているのか、相対する名前には容易に想像がついた。
 中学までは仁礼と同じく地区の公立中学に通っていた名前は、進路も決まり卒業を控えた頃、同じクラスのある男子生徒から嫌がらせを受けていた。相手は男子からも女子からも人気がある、いわゆるモテる生徒だった。
「頭もよくて人あたりもよくて人気もあってって、たしかに犬飼っぽさあるけど。でもあいつと犬飼、そこまで似てない気もすんだよなぁ」
「分かってる……、というか、比べたら犬飼くんに申し訳ないくらいだよ……
「性格が終わってたんだっけ?」
「私の前でだけね」
 溜息を吐く名前。嫌がらせを受けていたのは、中学三年の最後の二か月くらいだけだ。それまで特に揉めることもなかった相手がどうして変わってしまったのか。その心当たりならば名前にもある。
 その当時相談相手だった仁礼もまた、その辺りの事情は知っている。
「告白断ったら悪口広めるって、まじでしょうもないやつだな。そんな男の風上にも置けねーやつ、アタシなら一発なぐんないと気が済まねーよ」
 我がことのように鼻息荒く言う仁礼に、名前の心は少しだけ軽くなる。
「私も仁礼さんみたいだったらなぁ」
「褒められてる気がしねーんだけど!」
「褒めてる褒めてる。称えてる」
「そうか? わはは、もっと褒めていいぞ」
 ころりと機嫌をなおす仁礼に、名前も表情をゆるめた。過去のこととはいえ、自分のせいで仁礼を怒らせたくはない。一方で、名前と違って素直に怒ってくれる仁礼がいるから、名前は多少落ち込むだけで済んでいる。
(犬飼くんと、あの時のあのひとは違う……
 少なくとも、犬飼は名前を傷つけようという意図で動くことはないだろう。噂を広められたときにはさすがに恐ろしくも思ったが、その件については犬飼から謝罪もあった。
 何より、どういう意図で犬飼がそうしたのか、名前にも大体の事情は理解できる。傷つけることが目的でないのなら、くだんの彼と犬飼はその時点で大きくかけ離れている。
 仁礼がストローでコーラを吸い上げた。カップ内に残っていたのは、溶けかけの氷と薄まったコーラだけだ。仁礼が不機嫌そうに口をとがらせた。
「仁礼さん、なんか飲み物いる?」
「んー、いや、もういいや。このあとカゲんちのお好み焼き食べ行くし。名前も行く?」
 問われ、名前は逡巡した。仁礼と親しくしている縁で、影浦隊とはときどき話すこともある。隊長の影浦は無愛想で怖いが、仁礼の隊の隊長が悪い人であるはずがないと思い接しているうちに、今では多少打ち解けた。
 本部で会えば世間話もするし、実家のお好み焼き屋に仁礼と一緒に連れて行ってもらったこともある。多分今日も仁礼についていったところで、嫌がられはしないだろう。
 しかし名前は、短い思考のすえに首を横に振った。
「いや、私は今日はやめておくね。カゲくんたちによろしく伝えてください」
「任せとけ」
 にししと笑った仁礼を見て、名前は犬飼とのことも仁礼に話せてよかったと、改めて実感した。

 先に店を出た仁礼を見送って、名前はふたたび席に戻る。店内はそれほど混みあっておらず、適度な騒々しさがかえって丁度いい。今日はシフトも入っていない。せっかくなので、ここで学校の課題を片付けてから帰ることにした。
 仁礼が帰り空いたスペースにトレーをよけ、テーブルにノートと参考書を開く。ノートの上に身を乗り出し、視線を参考書に滑らせ始めたところで、
「名前ちゃん」
「ひえっ!?」
 突如声を掛けられて、名前は悲鳴をあげた。声の出所はどこかと首を巡らせると、名前の背後に置かれたパーテーションがわりの人工観葉植物の向こうから、犬飼がひょこりと首を伸ばしている。
「あ、あわわわわわ犬飼くん……
「やっほー。名前ちゃんもご飯食べに来てたの?」
「いや、あの、私は、お茶を」
 仁礼さんと一緒に、と名前が続ける前に、
「あ、席そっち移動していい?」
「え!?」
「お邪魔しまーす」
 犬飼が自分の荷物とトレーを持って、名前の席へ回り込んでくる。名前の返事を聞かない強引さは、断られることなどないと確信しているようだ。
 名前は慌ただしく、テーブルの上に広げていた筆記用具を手元に引き寄せた。結局、犬飼が移動してくるのに一役買ってしまっている。押しに弱いという仁礼の言葉を思い出し、なんとも言えない気分になる。
 ついさっきまで仁礼が座っていた席に腰をおろした犬飼は、
「俺も課題やってたところ」
 名前のノートを指さし言った。
「夜の防衛任務まで時間あるし、ここで課題やっちゃおうと思って。ラウンジ人でいっぱいだったし、作戦室は来客予定があって居づらくてさ。名前ちゃんもう課題終わった?」
「え、いや、まだ」
「まあ明後日までの課題だし、どうにかなるでしょ」
 暗に、今は課題をやらせないと言われている。犬飼も課題を取り出すつもりはないらしく、テーブルの上に腕を組んでにこにこと名前に視線を送っていた。もしかするとこのまま防衛任務の時間まで、時間を潰すのに付き合わせるつもりなのかもしれない。
 名前の背を、冷たい汗が伝う。
 お互いをもっと知り合うため一緒に時間を過ごすうちに、名前もだんだんと犬飼に慣れてきた。今はもう、こうして向かい合っていても気まずく思うことはない。だが、今は慣れとは無関係に、胸がはげしく鼓動を打っていた。
(さっきの話、犬飼くんに聞かれた……?)
 仁礼との会話はどれもこれも、犬飼にだけは聞かれたくない話題のオンパレードだった。一体いつから犬飼がそこにいたのか知らないが、パーテーションを挟んですぐ背後にいたということは、話している内容がすべて筒抜けだったとしてもおかしくない。
 パーテーションは高さがあって相手の姿を隠してくれるというだけで、内緒話を隠してくれるほどの厚みや幅を持っているわけではない。ことさら声をひそめていたわけでもない。名前は顔を蒼くして犬飼を見つめた。

「ええと、あのぉ、犬飼くん……?」
「さっきの話なら、申し訳ないけど聞いてたよ」
「あああ……
 探りを入れた瞬間に、笑顔で頷かれてしまう。名前は轟沈した。両手で顔をしっかり覆い、止め処なく襲い来る羞恥に身もだえする名前。
(犬飼くんにだけは聞かれたくなかった……っ)
 過去の恋愛の話なんて厄災のタネ――相手によってはこのうえなく甘美で美味しい餌を、事もあろうに犬飼の前に無防備にちらつかせるなど、自殺行為に等しい。まして、美しい過去とは言い難い嫌な思い出ならば尚更だ。
 正面から犬飼の視線を感じ、名前は顔を上げられない。悶えに悶える名前に、犬飼は愉しげに声を掛けた。
「おれとしてはものすごーく深掘りしたい話題なんだけど、やめておいた方がいい感じかな? 名前ちゃんが嫌なら、聞かなかったこと――にはできないけど、話題にはしないよ」
 名前は返事に困り、指の隙間からそっと犬飼を見た。犬飼はテーブルに頬杖をつき、笑みを貼り付け名前の返事を待っている。
「どう? 聞いてもいい? 聞かない方がいい?」
 犬飼の涼しげな目に見つめられ、名前はじりじりと追い詰められた。犬飼の微笑みは名前に絶え間なく、ひしひしとプレッシャーを与え続ける。
 しばし沈黙で抵抗していた名前だが、犬飼のプレッシャーに抗いきることはできなかった。最後の抵抗に大きく息を吐き出して、悄然と肩を落とす。観念したことを示すように両手をテーブルに戻してから、沈痛な面持ちで名前は犬飼を見た。
「はな、します……
 捕虜のような弱弱しい声。
「あはは、無理しなくてもいいのに」
「いや、どうせ聞かれてたんだし、ここまで聞かれたら話すよ……
 そうして名前は、中学時代最後の冬の話を、ぽつりぽつりと犬飼に話して聞かせた。
「って言っても、全然ほんとうにおもしろい話じゃないんだけどね。なんというかな、中学の時に、学年で一番人気のある男の子がいて、どういうわけか私はその人に告白された……してもらったんだけど……
 犬飼の眉がぴくりと動く。名前は気付かず続けた。
「でも、全然私、その人と仲良かったわけではなくて……。好きじゃない相手と付き合うわけにはいかないから、本当に光栄なことだけどごめんなさいって断ったら、今度はあることないこと言いふらされちゃって……、でも私なんて、なんていうかほら、こんなだから……
 話しているうちに、だんだんとしどろもどろになっていく。ただでさえ話すのが得意ではない名前だ。知らないうちに自分が好かれ、いつのまにか嫌われていた話なんて、一体全体どう説明したらいいものかも分からない。最後はよく分からないまま語尾をぐずぐずにさせて、
「ええと、まあ、だからそんな感じです……
 なかば無理やり切り上げた。口を閉じた途端、とてつもない疲労感に襲われた。
 できることなら今すぐにでも、どこかの穴に入り込みたい。しかし生憎、バーガーショップに都合よく穴などあいているはずがなかった。仕方がないので、名前は犬飼が口を開くのを居心地悪い気分で待つしかない。
(こんな話して、幻滅したかな。もっとうまく立ち回れよって、思ったかな……
 名前が話している間、犬飼は短い相槌を打つ以外はひたすら名前の話に耳を傾けていた。澄んだ瞳には思慮深げな光が宿っている。
 名前の話を聞き終えた犬飼は、「うぅーん、というかさ」と微笑みを崩さないまま首を傾げた。
「もしかしておれ、その名前ちゃんに告白した男子のせいで、名前ちゃんから最初避けられてたの?」
 痛いところをつかれ、名前は赤面した。
「ごめん……、犬飼くんって、ちょっとその人に似ていて」
「まじか。そういうことだったんだ」
「本当に本当にごめんね……
 図星なので、名前はひたすら謝るしかない。
 これに関しては、犬飼にはまったく非はなかった。単に彼が名前にとっての「苦手なタイプ」と合致していたというだけだ。しかし身に覚えのない理由で避けられていたとなれば、犬飼が気分を害してもおかしくない。
 一体どんな文句を言われるだろうかと、名前は戦々恐々と犬飼の次の言葉を待った。だが名前の予想に反して、犬飼の口から出たのは、ひどく短い問いだった。
「今は?」
「え?」
「今も、その男子とおれのこと、似てるって思う?」
 思ってもみなかった問いだった。名前は慌てて、
「似てない、と思う」
 首を横に振り否定する。
「本当に?」
 吸い込まれそうな瞳にまじまじと見つめられ、名前はごくりと喉を鳴らした。短い沈思ののち、名前は正直に答えた。
……あんまり似てないと思う、よ」
「少しは似てるってことか」
 けらけらと笑う犬飼。名前は申し訳なさに胸が苦しくなった。
 苦手な人間と似ているなんて言われて、良い気分になるはずがない。犬飼のことを多少知った今でもまだ、重なる部分が時々あって怖くなるのは、名前が過去と今を切り離せないから。それは名前の気持ちの問題で、結局のところ名前が犬飼に嫌な思いをさせているも同然だ。
「いいよ。なんとなく分かるから」
 その言葉に安堵した自分に、つくづく嫌気がさす。けれど、犬飼のフォローのおかげで心がほんの少しでも軽くなったのも、名前にとって事実だった。
 地下で和解したあの日に、犬飼が「もっとよく知り合おう」と提案してくれたこともそうだ。名前はどうしても犬飼に追い込まれているように思いがちだが、実際には追い込まれ悩まされている以上に、犬飼に救われ、許されている。
「でも、犬飼くんと昔のことは関係ないから。最近はそういう色眼鏡はなしで、ちゃんと犬飼くんと話せてると、思うよ」
 申し訳程度に付け加えると、
「そう? それならよかった」
 犬飼はこだわりなく答えた。その軽さもまた、名前が思いつめ過ぎないようにと加減した返事なのだろう。
(何の気負いもなく、そういうことをさらっと言ったりできたりするのが、犬飼くんなんだ)
 だんだんと名前にも分かりつつあった。犬飼は人並外れて器用で、そして多分――少なくとも名前に対しては、優しくしようと努力してくれている。上辺うわべだけの優しさではなく、大切に、傷つけないよう接してくれる。ただ、なまじ器用なだけに、時に過程を度外視した、結果重視の策を思い付けてしまうだけで。
 これまでの犬飼とのやりとりを振り返り、名前は苦笑する。と、犬飼がおもむろに、テーブルの上の手を組みなおした。
「よし。それじゃあ、話が一段落したところで本題に入ろうか」
「え?」
 名前がきょとんとして犬飼を見る。
「深掘りしたい話題があるって言ったでしょ?」
「だからそれは、今洗いざらいお話しましたけども」
「おれが深掘りしたいのは、その前に名前ちゃんが仁礼ちゃんと話してたことだよ」
 テーブルの下で長い足を組みかえて、犬飼は微笑んだ。
「名前ちゃん、おれと付き合う気になった?」
「げっほごほっ」
「はいはい、お水お水」
 思わず噎せる名前に、すかさず犬飼がグラスを手渡す。ごくごくと一気に水を飲み干す名前。グラスが空になり、名前が真っ赤な顔で口をぱくぱくさせ始めるのを確認してから、犬飼は会話を再開した。
「そういえば仁礼ちゃんも、おれのこといいって言ってたよね。なんだっけ? おれなら名前ちゃんのこと引っ張っていきそう――だっけ?」
「ちょっと待って、そんなところから聞いてたの!?」
「先に店にいたの、おれだからね」
「声掛けてよぉ……
「だって黙ってた方が、面白い話が聞けそうだったから」
 悪びれずに答える犬飼に、名前は今度こそ真っ蒼になった。会話が筒抜けどころの話ではない。犬飼は分かっていて、わざと聞き耳を立てていたのだ。
(悪趣味すぎる……!)
 ついさっき、犬飼のことを実は優しいだの何だのと内心で評した自分に、それは間違いだと大声で教えてやりたくなった。優しいだなんてとんでもない。仁礼と名前のガールズトークを盗み聞きしてなお、一切良心の呵責を感じていない犬飼は、正真正銘いやらしい。
「別に名前ちゃんたち、内緒話してたわけじゃないでしょ。そこそこの声量だったし、隣のテーブルにいたら普通に聞こえてきたよ」
「それはそうだけどっ」
「うーん、じゃあ話題……というか、質問の仕方を変えよう」
 取り乱す名前に取り合わず、犬飼は「ペン借りるね」と、テーブルの上の名前のボールペンを手に取った。次いでトレーの上から紙ナプキンを一枚つまむと、その上に直線を一本、フリーハンドで引く。
「この線を名前ちゃんの中の好感度だとすると――
 話しながら犬飼は、線の両端にそれぞれ、ゼロと百の数字を書き入れた。
「今のおれはどの辺り?」
「余計に答えにくいよ!」
「ちなみにだけど、おれの中で名前ちゃんはこの辺り」
 八十五パーセントあたりにペン先を立て、犬飼は名前を見る。ぴくりと名前の眉が動いた。すかさず犬飼が言う。
「今名前ちゃん『意外と低いな』と思ったでしょ」
「お、思ってないです」
(思ったけど……
 気まずい内心を見透かされ、名前は慌てて作り笑いをした。しかし名前の雑な誤魔化しが、あの犬飼に通用するはずがない。
「言っておくけど、おれは名前ちゃんのためにハードルを下げてあげたんだよ。ここで俺に百パーセント出されたら、この後名前ちゃんが答えにくいだろうから」
「そんなお気遣いをしてくれるのなら、そもそもこんな聞き方しないでほしかったけどね……
 やけにくっきり真っすぐに書かれた数直線を見て、名前は溜息を吐いた。犬飼がにこにこ笑って名前に促す。
「ほらほら、怒らないから教えてよ」
 ペンを犬飼に手渡され、名前は困り果てて数直線に視線を落とした。ゼロから百までの数字を書かれた数直線の、一体どこにペン先を置くべきか。犬飼の視線を感じながら、名前はしばらく悩んだのち、ある一点にゆっくりとペン先を落とした。犬飼が名前の手元を覗き込む。
「これはー……七十パーセントくらい? 思ったより好かれてるな」
 愉しそうに言う犬飼。対する名前は苦い顔をする。
(ちょっと数字がリアル……というか生々しすぎたかな……
 とはいえ必要以上に高くさばを読むのも、逆に実際以上に低い値を示すのも、どちらも要らぬ想像を呼びそうで憚られた。その点七十パーセントは、かなり名前の実感に近く、嘘をついているという罪悪感も感じずに済むベストの数値だ。
 だが改めて考えてみると、七十パーセントくらいの好感度というのは、なかなか結構、好意を抱いている数値のような気もする。名前は顔が熱くなるのを感じながら、照れ隠しに目をすがめて口をとがらせた。
「思ったよりって、どのくらいだと思ってたの」
「四十とか、そのへん?」
「それはさすがに、ちょっと低く見積もり過ぎじゃない?」
「いやいや、名前ちゃんのおれへの反応って、大体そのくらいの相手への反応でしょ」
 そう言われてしまうと、名前としては反論のしようもない。今はともかく、以前の名前が犬飼に失礼な態度をとっていたのは事実だ。
「その節は本当にすみませんでした……
「いいよ。実際は七十パーセントだったしね」
 屈託なく答え、犬飼は視線を紙ナプキンから上げた。
「ちなみにだけど、どのくらいまで好感度を上げれば、付き合うのを検討してもらえるの?」
「それは、」
「というかもしかして、実はもう付き合う候補の圏内だったりする?」
 返答に窮する名前にかまわず、犬飼は畳みかけた。指先を数直線上にすっと滑らせる。名前が印をつけた七十パーセントの位置を、犬飼は指先でとんと叩いた。その間も、彼の視線の先は名前に固定されている。
 試すような犬飼の視線に晒されて、名前は息を呑む。ペンを握った手がじっとりと汗ばんだ。
(もしも今ここで、私が頷けば)
 そうすれば、察しのいい犬飼のことだ。きっとさっさと話をまとめてくれるだろう。そしてかりにそうなったとしても、名前には特に不都合はない。名前もまた、犬飼に惹かれているからだ。
 それなのに、名前はどうしても頷くことができなかった。ままならない心のまま、名前は黙って、きゅっと唇を結んだ。
「まだ好きを受け容れてもらうところまではいかないか」
 ややあって犬飼が、さして残念でもなさそうに呟く。けれど犬飼のことを少しずつでも分かり始めた名前は、その声にほんの幽かに滲んだ、どこか落胆に似た重い響きにも気付いてしまう。途端に胸がぎゅっと詰まった。出所の分からない切なさが、名前の胸をじりっと焦がす。
(違う、そうじゃなくて、圏内じゃないとか、そういうわけじゃなくて)
 纏まらない感情の熱にあぶられて、名前の中の焦げ付きが勢いを増していく。
――犬飼くんはっ」
 気が付けば、名前は犬飼の名前を呼んでいた。
 妙に切羽詰まったその声に、犬飼がほんの一瞬怪訝そうに真顔になる。けれどすぐ、いつものうっすらとした笑顔をつくり、犬飼は名前を見つめ返した。
「おれが何? 名前ちゃん」
「犬飼くん、は……
 何と聞き返されたところで、衝動的に呼んだだけの名前にはこれという話題もない。苦肉の策として名前が思い付いたのは、とてもではないが正気のままでは尋ねられないような問いだった。
「わ、私のどこが、好きだと思えるの……?」
「顔」
……
 間髪を容れずに返された言葉に、名前は返答の言葉を失った。本心なのかおちょくられているだけなのか、まったく判別のつけようがない。
(いや、でもいくら犬飼くんが相手だと言ったって、ここでそんなボケを挟んだりする……?)
 名前の容姿はいたって平凡そのもの、十人並みだ。しかし異性の好みは人それぞれ。そもそも特にアピールポイントを持たない名前を好きだという時点で、犬飼の好みは多少人とずれているともいえる。
 黙り込む名前に、犬飼はへらりと笑う。
「というのは冗談で」
……
「もちろん見た目が好きって気持ちはあるんだけど」
 犬飼は取ってつけたような調子で言った。
「うーん、そうだなぁ。好きなところはいろいろあるんだけど、これって全部言った方がいい?」
「いや、そんな、全然そんなことない」
「あはは、だよね。じゃあ、今回は一番好きなところだけ」
 言いながら、犬飼は組んでいた手をほどく。荒々しさや雄々しさとは程遠い外見とはうらはらに、犬飼の指の関節は大きく、手首も太い。その手を軽く握って口許に持っていくと、犬飼はごほんとひとつ、小さな咳払いをした。そして、
「名前ちゃんさ、カゲたちと仲いいでしょ」
「え?」
 唐突に挙げられた知人の名前に、名前は一瞬何のことか分からず呆けた。犬飼がカゲと呼んだのは、考えるまでもなく、仁礼の所属する隊の隊長の影浦雅人のことだ。
「え? カゲくん? 仲いいというほどでは……。仁礼さんの隊の人たちだから、会ったら普通に話はするけど……
 戸惑う名前に、犬飼は頷きだけを返し、話を続ける。
「おれ、昔からあんまり人のものを羨ましいと思ったりしないんだけど。でも、前にカゲに向かって笑いかけてる名前ちゃん見て、どういうわけか、おれ『いいな』って思ったんだよね。おれにもあんなふうに笑ってくれたらいいのにって」
「それは……
「おかしいって自分でも思うよ。カゲに笑いかけただのなんだのって、そんなの名前ちゃんたちにとっては日常的なことなんだろうし、そこに特別な何かがあったわけでもなかったんだろうってことくらい、分かってるはずなのに」
 だけど、と呟いた犬飼は、しかしそこで口をつぐんでしまった。気まずい沈黙に耐えかねて、名前がおそるおそる口を開く。
……カゲくんとは、本当に仁礼さん繋がりで話したりするだけだよ」
「知ってるよ。でも、いいなと思ったのはたしかだし、今もまだ、カゲのことを羨ましいと思ってる。おれはあんなふうに、名前ちゃんに笑いかけてもらったことがないから」
 何気ないふうに発されたその言葉に、名前の胸が、軋むように痛んだ。淡々とした口調だからこそ、かえって切なく、淋しく聞こえる。名前はもう、何も言えずに黙っていることしかできなかった。
(そんなふうに思ってたこと、今まで少しも教えてくれなかった)
 ふいに名前は、犬飼から最初にされた、軽すぎる告白を思い出す。ぐるぐると頭の中で巡る言葉に、名前は頭を抱えたくなった。
 好きみたい――あの時名前は、犬飼の言葉に対してなんと適当な告白だろうと思った。好きだ、と言い切ることもしない。なんとなく好きな気がするから、お互い不都合がなければ付き合おうと、そう言われているのだと思った。告白されたときには戸惑いで頭が真っ白になったが、帰宅してから思い返し、自分が軽んじられているように感じた。
 けれど実際に犬飼は、あの時は「好きみたい」としか言いようがなかったのだろう。犬飼の意識に引っかかったのは、名前が影浦に向けていたという笑顔だけだった。その笑顔以外の名前の表情など、あの時の犬飼はほとんど知らなかっただろう。好きだと断言するには、犬飼と名前は互いを知らなさすぎた。
「世の中には一目惚れで恋に落ちる人もいる。だけどおれは、自分がその手の人間だとは思わない。自分で言うのもなんだけど、おれは結構なんでも理詰めで考える方だし、まさかそんなふうに、一時の感情に振り回されることがあるとは思わなかった」
 だが、どれほどそんなはずはないと自分に言い聞かせたところで、犬飼が名前に対して感じる心の動きは、そのありえないはずの一目惚れによく似ていた。好きだと確信することはできなくても、自分が恋しているという状態に近い状態だということは分かる。
 だから犬飼は、あんな告白をするしかなかった。
 「好き」ではなく「好きみたい」。
 そう考えれば、犬飼はあの時すでに、名前に対してじゅうぶん誠実だった。たとえその告白の思惑が、駆け引きというには狡猾な計略にあったとしても。
 誠実じゃなかったのは名前の方。告白に否ということもせず、ただ逃げ回っていた名前の方だった。

 名前の胸の鼓動がはやくなる。
(私も、犬飼くんのことが――
 好きみたいだ、と。名前は逸る心でそう思う。
 まだ「好き」と言い切れるだけの強さを持たない、あまりにやわらかで不確かな思い。しかし名前は、着実に犬飼に惹かれている。
 その脆くやわらかな手触りの思いは、きっと少しずつはっきりとした感情になるだろう。そんな予感を、名前はたしかに感じていた。柔らかな海辺の砂にも干上がることなく水を与え続ければ、いずれは複雑な形の砂の城すら作れるほどの、がっしりとした砂となるように。
(言わなくちゃ、犬飼くんに)
 けれどそう思えば思うほど、喉に言葉が張りついて何も言えなくなる。声が無様につっかえて、切羽詰まったような視線を犬飼に向けるだけになってしまう。
 そんな名前の姿を見て、犬飼もまた、少しだけ眉尻を下げて笑った。
「一番好きなところというか、好きになったきっかけの話みたいになっちゃったね」
 犬飼はそう言って、がたりと音を立てて椅子から立ち上がった。
「さてと、おれはそろそろ戻らなくちゃいけないんだけど。名前ちゃんは? この後はもう帰る? もし本部に行く用事があるなら、一緒に行こう」
 伝えたい言葉が、喉の下にはすでにある。けれど今ここで、名前がそれを口にすることはできなさそうだった。
 そっと小さく息を吐き、名前は答えた。
……本部に」
「わかった。じゃあ、行こうか」
 本当は、今日の名前は本部に用事などなかった。だから名前が犬飼と一緒に店を出ることにした理由は、ここで犬飼と別れるのが惜しまれたから、ただそれだけだ。
(行ったら行ったで、やることはあるだろうし)
 そんなふうに自分の行動に無理に理由をつくりだし、名前は紙屑ののったトレーを片付けた。

 夕暮れに赤く染められた道を、名前は犬飼と並んで歩いて行く。道に伸びたふたり分の影は、ずいぶんと長さが違っていた。大人と子供みたいだな、と名前は視線の先に伸びる黒い影を見て思う。
 店を出てからというもの、犬飼は一言二言発した程度で、ほとんどずっと口を閉ざしている。ふだん口数の多い犬飼が黙っているのだから、本来であれば名前もそわそわして落ち着かないところだ。しかし今は幸か不幸か、名前にもほかに考えることがある。だからふたりの間に沈黙が落ちるのに任せ、名前もぼんやりと思索にふけった。
(犬飼くんのことが好きか――それは多分、イエスだ)
 自分の気持ちを整理し、名前は素直に犬飼への好意を認めた。犬飼への気持ちはもう、どこにも疑う余地がない。自分を誤魔化すことはできないし、きっと遠からず犬飼にもばれるだろう。
 もしかすると犬飼はすでに、名前の気持ちが自分に向いていることに気付いているのかもしれない。だからこそ、犬飼はさらに一歩踏み込んできたということも考えられる。
 いくら名前の気持ちが犬飼に向いていても、付き合うことに抵抗がある、あるいは犬飼からの好意を無条件に受け容れられないということだってある。だから犬飼は名前に確認した。
 付き合う候補の圏内か。好きという犬飼の言葉を受け容れられるか。
(だけどこれも多分、イエスなんだろうな……
 ついさっき答えられなかった問いに、今ようやく名前は自分なりの答えを出した。
 名前は犬飼に好意を抱いている。まだ好きとはっきり断言できるわけではないけれど、もっと犬飼のことをよく知りたいと思うし、もっと近づきたいとも思う。
 好きだと言われて、ありがとうと答えたいと思える。
 それが名前の答えだった。
 だが恋心を自覚した途端、胸の鼓動はさらにはやまった。顔が熱くなるのとは反対に、指先がだんだん冷たくなっていく。
(というか今まで私、どんなふうに呼吸して、どうやって視線の位置を定めていたんだっけ……!?)
 急にいろいろなことが覚束ないような気がしてくる。押し寄せる不安と緊張のあまり、名前ははあぁ、と長く息を吐き出した。なんだか無性に、息が苦しい。
「名前ちゃん?」
 隣の犬飼が、怪訝そうに名前の顔を覗き込む。
「どうかした? なんか調子悪い?」
 犬飼の問いに、名前はふるふると首を横に振った。右手をそっと胸に置き、静かに三度、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。先程までの息苦しさが少しだけ緩和され、名前の心に多少の余裕が生まれた。
(犬飼くんに話そう)
 ごく自然に、そう思えた。
「あのね、犬飼くん」
 呼吸を十分整えてから、名前は切り出す。
「さっき、数直線のどこにいるかって話をしたでしょ」
「うん、したね」
「あれで、私、犬飼くんのことを七十パーセントくらいって言ったでしょ」
「言ってたね」
 犬飼の言葉は軽い。この会話がどこに着地するのか、まるですべて分かっているようだ。
(犬飼くんなら、本当に分かっているのかもしれないけど)
 それならそれで、名前は構わなかった。どのみち名前が伝えなければいけないことは変わらない。
「さっきからずっと考えてたんだけど、諏訪さんとかカゲくんとか、仁礼さん、はちょっと話が違うけど……、とにかく、ぱっと思い付く人たちって、大体みんな私のなかで七十パーセントくらいなんだよね」
「うわ、喜んでいいのか悲しむところなのか難しいことを」
「ごめんなさい……
「謝るんかい」
「えっ、違う!? 間違えた!?」
「いや、いいよ。悪気ないの分かってるから」
 犬飼に苦笑され、名前は羞恥で耳が熱くなる。けれどまだ、一番伝えたいことを口にしていない。折れかけた心をどうにか立て直し、名前はごほんと大袈裟な咳払いで仕切りなおした。
「とにかく、そういうわけなんだけど」
「だけど?」
「でもたとえばね、さっきのが数直線じゃなくて、頭の中の割合? 占有率の円グラフ? とかだと、そういう横並びにはならないわけで」
……それで?」
 押し殺したはずの呼吸の音が、ひゅうっと名前の耳に届く。名前は犬飼を見上げて言った。
「私の頭の中の占有率だと、今は犬飼くんが私のなかで、一番、ぶっちぎりで大きいよ。だから、要するに同じ七十パーセントではあるんだけど、犬飼くんとほかの人の七十パーセントは濃度? 密度? よく分かんないんだけど、そういうのがぜんぜん違うわけで……って、ごめん、私の言いたいこと、ちゃんと伝わる?」
「うーん、なんとなく。おれにとって、いい話ってことは分かる」
「そっか、じゃああの……よかったです」
 名前はほっと胸を撫でおろした。肩の荷がおりた気分で、自然と頬がゆるんでくる。
(よかった、ちゃんと言えたみたい)
 心と一緒に、足取りまでもが軽くなる。調子に乗って「それにしてもいい夕焼けだね」などと名前が言い出したところで、
「え? 待って」
 堪らず犬飼が足を止め、ぎこちない笑顔で名前を制止した。
「え、それだけ? 名前ちゃん、それ、続きは?」
「続き……?」
「これって、だから名前ちゃんはおれのことが好きになりました、って結論になる話じゃなかったの? 何名前ちゃんひとりで清々しい顔してるの」
「えっ、そこまでの明言を求めてたの!?」
「そりゃそうだよ。……まったく、びっくりするなぁ」
 犬飼は長く重たい溜息を吐く。そして今度は堪らずといった様子で、くっくと声を殺して笑い始めた。それも一段落すると、犬飼はまたしても長く息を吐き出す。しかし今度は重たい溜息ではない、まるで胸の中にたまったものを一気に吐き出すような、そんな仕草だった。
「名前ちゃん」
 犬飼が不意に、名前の名前を呼ぶ。優しく、おだやかな声だった。
「名前ちゃんが知ってるかは知らないけど、おれは結構打算的だから、見返りを求めずに好きって言ったりしないんだよ」
「そうなんだ……
「あと、名前ちゃんの困り顔を見るために告白するのは、楽しくはあるけど、さすがにアウトって覚えたから、あんまり名前ちゃんに好きって言わないようにしてたんだけど」
「それはアウトだよ。私相手じゃなくてもアウトだよ」
「でも今の話の流れ的に、今ならもう一回告白してみてもいいんじゃないかなと、おれはそう思うんだけど」
 名前が見慣れた、余裕たっぷりの表情でほほえむ犬飼。知らず、胸が甘くときめいて、名前は慌てて視線をそらした。
「そういう聞き方は、ちょっとずるいんじゃないかな」
「ずるいこと言ったら嫌いになる?」
…………
 名前はこの瞬間、地下倉庫での和解以降の犬飼が、いかに名前に気遣い――もとい、手加減していたのかを思い知った。
(この人、やっぱりものすごくいやらしい性格してるんじゃ……
 今更のように犬飼への認識を改めるが、時すでに遅し。犬飼は、薄いくちびるに淡い笑みをのせて言った。
「おれは名前ちゃんのことが好きだよ。信じてもらえるか分からないけど、信じてほしい」
 愚直なまでの直球勝負。名前の返事が分かっていただろうからとはいえ、ストレートな言葉は言う方も聞く方も恥ずかしい。だが犬飼は恥じらいなど微塵も感じさせることなく、堂々と一息に言い切った。
(「好きみたい」じゃなくて、「好き」になってくれたんだ)
 名前の心も、決まっていた。
……信じるよ。犬飼くんのこと、信じることに決めたから」
「そっか、ありがとう」
 そう言って、犬飼はまた前を向いた。ふと名前が見上げると、犬飼の耳が目に入る。平べったい犬飼の耳は、ほんのりと朱に染まってた。
……分かりにくいなぁ、犬飼くん)
 沈みかけの夕日に照らされて、名前はじわじわと喜びが胸に湧き上がるのを感じていた。

 ・

 三門市内にはそこかしこに、ボーダー本部基地に繋がる地下通路の扉が隠されている。しかし名前と犬飼は、特に示し合わせることもなく、地下通路ではなく地上を通って本部に向かっていた。
(私、犬飼くんと恋人同士になったんだよね……
 今にも腕と腕がぶつかりそうな近さで歩きながら、名前は顔に集まる熱を持て余す。熱を散らすために手で顔をあおごうと、身体の横におろしていた腕を持ち上げようとしたところで、不意にとん、と名前と犬飼の手の甲が触れた。
 名前が犬飼を見上げると、犬飼もまた名前をにこにこと見下ろしている。どうやらたまたまぶつかったわけではなく、犬飼が意図して、名前の手に触れたらしい。
「こういうの嫌?」
 犬飼が尋ねる。名前の顔に、さらに熱が集まる。
……嫌じゃないよ」
「じゃあ、これは?」
 言うが早いか、犬飼は今度は名前の指に自分の指を絡めた。名前よりも一回り大きい手のひらが、ゆるく名前の手を握りこむ。
 犬飼が返事を求めて、名前の顔を覗き込んだ。
……嫌じゃない」
 今や茹ったように真っ赤な顔で、名前は弱弱しく返事をする。
「もしこれと同じこと、カゲにされたらどう思う?」
……だから、なんでそこで」
「いいから答えて」
 あくまで穏やかな声音で、しかし断固引かない姿勢を見せる犬飼。名前は仕方なく、脳内で影浦に手を握られる想像をした。
(カゲくんと手を繋ぐなんて、危ないところで手を引かれて助けられてるくらいしか、想像できないんだけど……、犬飼くんが言ってるのは、そういうことじゃないんだろうな)
 犬飼のため、しばらく脳内で無理やりな想像に挑戦し続ける名前。やがてどうにか想像を終えると、疲れた声で犬飼の質問への答えを告げた。
……びっくりするかな」
「嫌ではないんだ?」
「だってカゲくんはこんなことしないよ」
「まあ、それもそうか」
 犬飼も納得したのか苦笑する。それでも手を離す気はなさそうで、指を絡めたままのふたりの手が、ぎこちないリズムでふらふらと揺れる。
 またしばらく、沈黙の時間が続いた。言葉はなく、繋いだ手だけが揺れている。そろそろボーダーの本部基地が近づいてきたという頃になってようやく、犬飼がまた口を開いた。
「名前ちゃん、おれのこと好きになってくれたんだと思っていいんだよね?」
「いい、と、思う……
 顔を赤くして名前は頷いた。今日は赤くなってばかりだ。
「おれが言うのもなんだけど、本当にいいの? おれたち付き合うってことだよ?」
……はい」
「本部で顔合わせたら人目もはばからずに抱きしめていいってことだよ?」
「それはだめだよ」
 だめか、と犬飼が悪戯っぽく笑う。
(油断も隙もない……
 名前はむっつりと犬飼を見上げて睨んだ。しかし名前の視線をものともせず、犬飼は口許の笑みをさらに深める。
「じゃあ、人目をはばかって抱きしめるならいいんだよね? それとも、抱きしめること自体がまだだめ?」
…………」 
「ねえねえ名前ちゃん。黙っちゃわないで」
 犬飼がわざとらしく握った手をぎゅっと握りなおす。ぐいぐい身体を寄せられて、名前は道のわきの側溝に落ちそうなところまで追い詰められた。
「ねえ、名前ちゃん?」
 愉しげに何度も名を呼ばれ、名前は堪らず呻いた。
……人が見ていないところと、本部からも学校からも離れてる場所で、なら」
「ああ、それなら任せて。防衛任務で歩き回るから、そういう穴場には結構詳しいよ。あ、でも名前ちゃんは警戒区域は入れないんだっけ」
「ハグするために警戒区域に行く人はちょっと……
「冗談だよ」
 まだ付き合うことになってほんの数十分しか経っていないというのに、名前は早速犬飼に翻弄されている。
(私、本当に犬飼くんと付き合ってやっていけるんだろうか……
 急速に不安が胃からこみあげ、名前は自分がひどい過ちを犯したような気分になった。けれどもう、犬飼の手を振りほどくことはできない。犬飼の手は名前の手をゆるく握りこんでいるが、ちょっとやそっとでは離してくれなさそうだと思うほど、しっかりと名前をつかまえている。
 名前の背を、冷たい汗が伝う。後悔はない。が、無条件に浮かれていられた時間は、思ったよりも短かった。
 そのとき、ふたりの背後から「犬飼」と呼ぶ、男の低い声がした。名前と犬飼は同時に後ろを振り返る。そして名前は固まった。
「あ、二宮さん。おつかれさまです」
 犬飼が軽い口調で、何時の間にか後ろを歩いていた二宮に挨拶する。
…………
 二宮の視線が、犬飼の顔と名前の顔、そしてふたりの間で揺れる手へと順番に移動する。無言の圧に耐え切れず名前が犬飼の手を離そうとするが、犬飼の手はびくともせずに名前をつかまえている。
 名前はこれから先、自分を待ち構える前途多難さに思いを馳せ、今この瞬間の気まずさから逃避した。

 fin,


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