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「恋とはどんなものかしら」

全体公開 作文 11 27041文字
2022-06-09 23:05:43

2020.09 学パロホー炎。鷹見くん(中2)が轟先生に恋してる話。人が死ぬ

Posted by @nanameru

・擬似的な死亡描写、モブからの悪意の描写があります。
何が起こるのか把握した上で読みたい方・苦手要素がないか気になる方は、こちらの解説ページを確認すると安心かもしれません→8≫
・同人誌版は完売しました。お手にとってくださりありがとうございました。

1、鷹見啓悟の恋


 鷹見啓悟は恋をしている。

 恋は盲目、恋は罪悪、恋はみずいろ。古今東西、恋を語る言葉は多くあるが、啓悟にとっての恋はひとことで言うならば、焦燥だ。
 その人のことを思うといても立ってもいられなくなる。一挙一動が目に焼き付いて、すみずみまで知りたくてたまらない。今すぐにでも駆け出して話しかけたい、背にある翼で飛んだ方がずっと速いのに! けれど舌も脚も翼ももつれてしまって、それがまた啓悟の想いを重くした。

 啓悟がじっと視線を注ぐ片想いの相手は、今まさに教壇に立っていた。赤銅色の髪にきりりとした目つきを際立たせる眼鏡。黒板のてっぺんに並ぶくらいの長身に分厚い体躯。国語の轟先生だ。
 出会いは啓悟が中学二年になった四月のことだった。最初の授業での、春の雷のような衝撃を啓悟は生涯忘れないだろう。教室の隅々まで射抜く力強い視線。この人は、俺を見ている。
 以来、啓悟は休みがちだった学校にきっちり通うようになった。世間はこれを一目惚れというのかもしれない。だけど、人柄を知っていくにつれて確信に変わった。この恋は、ほんとうだと。

 先生の背中を見つめては、先生について知っていることを頭の中で繰り返す。
 下の名前は炎を司ると書いてえんじ。身長は一九五センチで俺より四〇センチも大きい。頼み込んで保健室の身長計で測らせてもらったのだ。羽を使えば簡単にできるけど、先生と同じ視線で先生を見てみたくてわざと椅子に乗った。個性を使うのは見たことないけど炎の個性だって教えてくれた。好物はくず餅で、今は独身。それから、それから。

 啓悟は恋をして初めて、自分が思いのほか強欲なのだと気付いた。先生のことが知りたくてたまらない、授業以外でも会いたい、毎日話したい、俺のことを知ってほしい。影の薄い不登校児は無遅刻無欠席の優等生に生まれ変わった。先生が受け持つ委員会を勝ち取った。啓悟は一分一秒を惜しんで恋をしている。

 先生に出会ってから、啓悟の世界は変わった。どこにもいたくないから、ここにいたいに変わった。先生は俺を見ていてくれるから。
 新しい世界は太陽の色をぐんと濃くしていく。もうすぐ、夏休みが始まる。
 



 

 
 夕日が照り渡る廊下の真ん中に啓悟は立っている。
 今日は終業式だった。生徒たちは待ちに待った夏休みに足を弾ませて、皆とうに下校している。
 静まり返った廊下に階段を降りる音がこだまする。もうすぐ足音の主が、啓悟の想い人が、やってくる。
 夏休みに入る前に確かめておきたいことがあった。だけどうまく言えるだろうか。緊張を飲み込むようにごくりと喉をならす。啓悟は三日前の出来事を思い出していた。
 

     *

 
 三日前の土曜、啓悟は駅前の図書館にいた。
 人々の穏やかな気配にみちた空間は居心地がいい。何より、隣に先生がいる。自然と頬がゆるんでしまうのを抑えながら手元の本に視線を落とした。静かに呼吸すると、鼻の奥でわずかに鉄のにおいがする。

 一時間ほど前のこと。啓悟は街中をひとりで歩いている先生を空から見つけ、声をかけた。あいさつだけで去るつもりだったが、タイミング悪く鼻血が出てしまった。暑い時に飛ぶとのぼせやすいのだと言い訳すると、分かっているなら自分の足で歩けとすかさず注意が飛んでくる。先生に手を引かれ建物の中に連れて行かれた。しばらくして鼻血が止まり、ようやく辺りを見回す余裕ができた。

「ここは……図書館ですか? すみません、お休みの日に」

 正確にいうと図書館の入り口前にあるラウンジのような場所だ。そこのベンチに腰かけて手当てを受けていた。外の蒸し暑い空気とはうってかわって、清涼な気温が快い。

「丁度ここが目的だったから問題ない。もう止まったか? ならばここで――
「お、俺もちょうど図書館行くところだったんです。一緒にいていいですか」

 とっさに口をついて出た嘘だった。だが、静かにしているならばと承諾を得た。啓悟はいそいそと先生の横の席につき、小説のページをめくっていく。夏休みに向けて読書感想文にお勧めとうたうコーナーから持ってきたものだ。しばらく物語に集中していたが、とある単語を前にしてふと手が止まる。隣の先生の様子を盗み見ると、目の前に分厚い本を何冊も積み上げている。何か調べ物をしているらしい。啓悟はタイミングをうかがい小さな声で尋ねた。

「先生、『たそがれ』って何ですか」
「たそがれか。日常でよく使う言葉でいうならば夕方といったところか」
「夕方……

 小首をかしげる啓悟を見て、先生は待っていろと告げて席を立つ。ほどなくして一冊の本を手にして戻ってきた。

「写真集……ですか?」
「そうだ。言葉だけ聞くよりイメージを掴みやすいだろう」

 啓悟は写真集を受け取りぱらぱらとページをめくっていく。春夏秋冬、朝昼夜。さまざまな空の写真が並んでいる。啓悟は実のところ図書館という場所にあまり馴染みがなかった。こういった本もあるのかと感心していると、突然、目の前にごつごつした手が割り込んできた。先生の手だ。啓悟の心臓がどきりと跳ね上がる。
 先生の手はぴたりと、とある写真を指さした。とろけるようなオレンジから深い紺のグラデーション。夕と夜の境目のような空だ。授業の時は朗々と響く声が、写真に添えられた文章をひそやかに読み上げる。

「たそがれ。元は『誰そ彼』という。日が沈みかかって薄暗く、相手の顔が分からない時間をさす」

 啓悟はその写真集にたちまち夢中になった。
 たそがれ、夕映え、夕月夜、宵の明星、残照、トワイライト。たとえば同じ夕方の空でも、いくつもの表現があると知った。
 色鮮やかな空と言葉たちに没頭していると、ふとつむじのあたりがざわめく。先生の視線を感じたのだ。たまらない気持ちになってちらりと見上げると、ふいと視線をそらされてしまった。


 
 先生の手をひいてみたいと、啓悟は思う。
 今のふたりの関係はただの教師と生徒で、大人と子どもで、家族でもない他人だ。その枠をはみ出したことはない。だけどかなうならば、それ以外の何かになりたい。枠の外へと、先生の手をひいてみたい。そらされた視線の意味を知りたい。
 先生が啓悟を見ていることは間違いない。ならば、この手を伸ばしたら、先生は応えてくれるだろうか。
 不確かな手ざわりを揺るがぬ真実に変えたくて、啓悟は確かめることにした。
 

     *

 
 梅雨明け間近の生ぬるい空気がたゆたっている。首筋を汗がつたう。窓からはまばゆい夕日が差し込んでいる。
 天井も床もすべて金色に照らされた廊下で、ふたりはついに向かい合う。啓悟は先生の行く先をはばむように立ちふさがった。

 ――先生。

 呼びかけたはずの声は、かすれていて音にならなかった。だけど伝えなければ。今はただの生徒と教師だけど、それ以外の何かになりたい。どんな言葉にすれば伝わるだろう。考えれば考えるほど啓悟の喉は締め付けられてしまう。

「まだ帰っていなかったのか」

 先生の声を聞いて、啓悟の緊張が更に加速する。今日を逃したら当分会えないのに、このまま何も言えないままなんて。せめてもう少しだけ待ってほしい。背中の翼がひとりでに動いて、通せん坊するように廊下の幅いっぱいに羽が広がる。

「鷹見、廊下で羽を広げるな」

 単にどけと言えば済むのにわざわざ注意する律義さが轟先生らしいと、普段の啓悟なら笑みを浮かべたはずだった。こんなはずじゃなかった。腕に、舌に、思考に、焦燥が絡みついて動けない。なんとか顔をあげると、碧い瞳と視線がかち合う。出会った時から変わらない、心の奥を見通すような目だ。

「おい、聞いているのか。……鷹見?」

 先生のいぶかしげな声だけが廊下に響く。これ以上猶予はない。今言わなければ永遠に言えない、そんな予感が啓悟を駆り立てる。
 どこにもいたくないから、ここにいたいに変わったのだと、伝えなければ。
 考えるより先に身体が動いた。真正面に立つ先生に、とっさに抱き着く。何もかも思った通りにできていない。けど、不格好でもなにか言わないと。想いを絞り出して声に乗せなければ。

……まだ、帰りたくない」

 震える声が先生の白いシャツに吸い込まれる。ふたりきりの放課後の廊下は、まるで時が止まったかのようだった。だが夕日の色は黄金から朱に変わって、着実に太陽が沈んでいると教えてくる。どうか伝わってくれと、こうべを垂れてすがりつく。
 やがて、啓悟の想い人は深く息をつき、口を開いた。
 あの日、空の写真に添えられた文章を読み上げた時よりずっと静かな声だった。

――もう日が暮れる。帰りなさい」

 少しのゆらぎもない声に、啓悟の脳の芯がすっと冷える。おそるおそる見上げた先生の顔は、不自然なまでに今まで通りだった。
 先生の手が啓悟の肩に触れ、そっと引き離す。今まで通りの、教師と生徒の枠にとどめ置くように。
 
 こうして鷹見啓悟は、恋に敗れた。
 
 
 







2、袋小路にて


 失敗した。

 夜に染まり始めた街を逃げるように駆ける。飛べることも忘れてただ走る。
 ひとの顔色をうかがうのが得意だった。だから理解できてしまった。
 俺と轟先生は、生徒と教師で、子どもと大人で、家族でもない他人だ。だけどかなうならばそれ以外の何かになりたい。
 だけど先生は?
 先生にとっての俺はいったい何なんだろう。教師と生徒で、大人と子どもで、家族でもない他人で。それ以外には、なれないんだろうか。

 もしかしたら、と浮かんだ考えにぞっとする。
 もしかしたらだけど、先生の世界にはこれ以上、俺を入れてくれる隙間はないのかもしれない。俺にとって先生は世界のほとんどなのに!

 音楽の授業で教わったモーツァルトの有名なアリアが頭をよぎる。
 希望に満ちたメロディをこうも皮肉に感じてしまうとは思わなかった。
 あの歌では軽やかに歌い上げられていたものが、手足に、翼に、身体に絡みつく。

 恋とはどんなものかしら、なんて。
 恋がこんなに重たいものだなんて、知らなかった。


 
 街並みを一面のオレンジ色に染めた夕日は姿を消し、夜が訪れようとしている。
 夕闇が自分の影にのしかかって、走る力もなくしてしまった。
 のろのろと足を引きずって住宅街を歩く。角を曲がって飛び込んできた光景にそっとため息をついた。

 何の変哲もない住居たちの狭間にある小さな家。そこだけ遠くから見ても異様だった。なぜならば、元は白かった壁には落書きや張り紙がぎっしり敷き詰められている。
 天誅、ドロボーたかみの家、ナマポ乙、人殺しの家族は出ていけ、その他ストレートな罵詈雑言。
 ここが俺と母さんが住んでいる場所だ。

 玄関の扉の前にたどり着き、改めて我が家の惨状を眺める。朝にはなかった張り紙が増えている。落書きはもうどうしようもないけど、張り紙は母さんに見られる前に片付けておきたい。またヒステリーを起こされてはかなわないから。
 扉の上あたりに貼られたものは俺の背では届かない。どうしようかとぼんやり突っ立って、しばらくして自分の背には翼があると思い出した。さっきのことがよっぽどこたえているらしい。

 ふわりと宙に浮かび紙を剥がしていく。コピー機で増殖された一年ほど前の新聞や雑誌の記事と、これまた罵詈雑言。
『■■歳男性逮捕へ 真昼の凶行、強盗致死』
『鷹見■■被告新事実! ご近所肉声スクープ』
 画質が荒く所々読み取れないが、とっくに暗記してしまった文字が並んでいる。
 そう、俺の父親は金を盗み、人を殺めた。
 あの日から俺たちの生活は一変した。二人取り残された家でわめくだけの母さんは無力で、黙っているしかできない俺も無力だった。だからちょうど良かったんだろう、不平不満のはけ口に。ひとたび火が付いた悪意が燃え広がるのは、あっという間だった。

 止まない雨のような中傷は無表情でしのげるようになった。だけど平気なわけじゃない。鷹見啓悟でいる時よりも人殺しの子でいる時間の方がもうずっと長くて、自分のりんかくがグズグズに腐ってそのうちヒトの形をなくしてしまいそうだった。

 家も学校も地続きで、どっちにも居たくなくて空に逃げていた。そんな日々も轟先生に出会って終わった。先生が俺を見てくれたから、俺は鷹見啓悟でいられたのに。
 いたたまれない気持ちが指先にまで侵食して、張り紙をぐしゃりと握り潰す。

 その時だった。
 空気を裂く音が背に迫る。翼で察知して振り向きもせずによけると、俺にぶつかるはずだった石ころが壁に当たって落ちていった。
 代わりに投げつけられたのは嘲笑う声だ。なんだハズレかよ、生意気、大人しく当たっとけ、ガキのくせに、お前投げるの下手くそだな、じゃあお前やれよ。
 少しも触れられていないのに翼の羽の並びをぐちゃぐちゃにされるみたいだった。石は当たらず体は無事だ、それでも効き目は十分すぎた。

 たまらず空に飛び立つ。
 わき目もふらず必死で翼を動かす。人も家も街も見分けがつかなくなるくらい高く、追いかけてくる罵声を下へ下へと引き離す。木々もビルも送電塔もずっと下に追い越して、高く高く。

 そうして逃げ出した先はただ静かだった。眼下にはミニチュアより小さな街が、街のはるか向こうには海が広がっている。ここに来て、ようやく息ができる。


 
 静かで何もない空の真ん中で、夕と夜の境目を見た。
 とろけるようなオレンジから深い紺のグラデーション。まばゆい色彩が西の空をきらめかせている。

 とたんに、いくつもの言葉がわき上がる。
 たそがれ、夕映え、夕月夜、宵の明星、残照、トワイライト。
 先生が教えてくれた本で知った、今のこの空にまるわる言葉たち。

 ああ、またこれだ。
 恋をしてから、俺の頭の中には先生が住みついてしまった。何気ない会話のかけらや盗み見た表情。先生との思い出がふとした瞬間にあふれてくるのだ。日に日に止められなくなって、恋わずらいとはこのことかなんて思ったりもした。

 今や先生は俺の世界のほとんどだ。なのに、どうして失敗してしまったんだろう。
 抱き着く俺を引きはがした先生の手を思い出す。知らない人たちの悪意は毒ガスのように俺のりんかくを蝕む。でも先生の手は、その手が優しいからこそ俺に的確に触れてくれて、だからこそ『俺』を拒絶したのだと分かる。

 大丈夫、大丈夫。
 胸の中で必死に言い聞かせる。ちょうど明日からは夏休みだ。会わない間に少し前の距離に巻き戻せばいい。大丈夫、うまくやれる、大丈夫。
 だけど、この恋はもう手遅れだ。
 ただの生徒と教師に戻ったとして、それ以外にはなれないなんて。この先ずっと満たされない世界で生きていくなんて、耐えられない。

 叫べたらよかった。
 どうせここには誰もいない、意味のない悲鳴をあげて喉が潰れるくらいわめいて頭が空っぽになるくらい叫べたらいいのに。
 だけど俺はこんな時もやっぱり黙っていることしかできなくて、せめて風を切る音で空回る焦燥を上書きしたくてがむしゃらにスピードを上げる。どこに行くかなんて考えてない。どこにもいたくないだけだ。

 息があがり、目がかすむ。耳鳴りがあと少し加速すればきっと風と同じになれる。
 そう信じて翼を広げた瞬間、何かと衝突した。
 握りこぶしほどのシルエット。おそらく小鳥が、右の翼に直撃した。

 飛行機と鳥がぶつかる事故をバードストライクというらしい。どちらも全力で飛んでいたならば小さな鳥でも致命的な衝撃になる。まさにそれだ。理解した時にはもう遅かった。

 頭は地へ、足は空へ。

 もみくちゃに回転しながら落ちていく。右翼は骨が折れ風切羽を何本か失くした。翼を広げてもスピードが落ちない。片方ではブレーキをかけられない。
 どうしたらいい? 左の風切を移す?
 落ちながらそんな芸当できない。他に手は?
 そうこうしてる間に風圧に負けて左の風切も折れてしまった。
 つまり、もう、落ちるしかない。

 うなる落下の暴風の中、こんな時にも先生の声を思い出す。
 たそがれ。元は『誰そ彼』という。日が沈みかかって薄暗く、相手の顔が分からない時間。暗がりを飛ぶ小鳥が見えなかった。これが誰そ彼か。

 墜落のスピードはぐんぐん上がっていく。恐怖がせまるより速く落ちていく。はがれて宙に散っていく赤い羽根をただ見送る。

 あっけない終わりだ。

 先生が世界を変えてくれたのに、俺は変われないままだった。どこにもいたくなくて、黙って逃げるしかできない子どものままだった。それも失敗して間もなく地に落ちる。

 最期に見えたのは、西空の果ての星だった。
 宵の明星はたそがれの薄明かりをまとい、ひときわ強く光っている。空という特等席から見るこの輝きを先生と見たかった。
 でも、それはもう叶わない。

 啓悟はすべてを諦め、静かに目を閉じた。
 
 
 






3、インターバル


 失敗した。

 ホークスは頭をかきむしりたい衝動にかられた。だがそれはかなわない。現実の彼の肉体は、今は深い眠りについている。ゲームの合間に息継ぎのように『ホークス』の意識が浮上しているだけだ。
 あの世界での『鷹見啓悟』の思考回路は自身と同じはずだ。それなのに制御がままならない。

 なぜならば、鷹見啓悟は轟炎司に恋をしているから。
 ホークスはこの事件の発端を回想する。

 
     *

 
 現実の時間経過では一日前のこと。
 とある中学校の生徒、教師全員が突然眠りにつくという事件が起こった。およそ五百名を無抵抗のまま眠りにつかせる手際は複数名の敵による計画的な犯行と見られ、大規模な捜査線が組まれた。超常解放戦線の打倒に成功したとはいえまだ予断を許さない世情だ。
 ところが犯人はほどなくして警察に出頭した。

 犯人はグループではなく、たったひとりだった。
 そして、犯人は一つの要求をした。それはホークスと話をすることだった。


 
「ああ、紅き疾風、不朽の翼よ、ようやく出会えました」

 ホークスと分厚いアクリル板越しに対面した犯人は芝居がかった口調で語り出した。

「ホークス、ワタシは目を奪われました、世間はこれを一目惚れともいうのかもしれない。ですがワタシにはお見通しです、貴方の飄々たる人気者然とした振る舞いはペルソナであると、なぜならワタシも貴方と同類だから! そうやって生き難い世界を生きている、けれどワタシと貴方は決定的に違う。貴方はワタシよりずっと巧妙だ頑丈だ上出来だ。貴方は一等輝いている、それでいて哀れです。貴方には素顔を曝け出す舞台がないに違いない、だから貴方のための舞台を用意いたしました」

 犯人がまだ続けようとするのを止めて、ホークスは手早く事件解決に必要な情報を聞き出していく。
 犯人の個性は『仮想恋遊戯』といった。

「恋愛ゲームって分かります?」

 犯人の言葉にホークスは頷いた。やったことはないが知識にある。キャラクターと親愛を深めていき、会話や行動の選択によって話の結末が変わる、といったものが主流らしい。
 犯人の個性は、まずは集合的無意識下に仮想空間を構築する。そして指定した場所、人々を基にして恋愛ゲームの世界を作るものだった。
 要するに、今回は中学校を舞台にした恋愛ゲームを作り出したというわけだ。学校や登場人物は現実とそっくりそのままで、個性に取り込まれた人々にとっては鮮明な夢を見ているような感覚らしい。

「ですが今のままではゲームは始まりません。ホークスにはこのゲームのプレイヤー、主人公になってほしいのです」
「恋愛ゲームということは……
「そう、ホークスには恋をしてもらいます! 相手は老若男女問わず自由、五百人からより取り見取りです。ゲームが開始したら攻略対象を一人選んでください。そのお相手とゲームの中で両想いになれば、見事クリアというわけです。ワタシは嘘は言いません、いいえ、言えないのです。制約がありますので」

 厄介な個性だった。特殊な催眠系個性の一種で、発動条件が極めて限定的なかわりに強大な力を発揮するたぐいだ。学校にいる五百人は意識だけが恋愛ゲームの世界にとらわれているような状態だ。ゲームは犯人の意思で終わらせることもできず、解除条件はただ一つ、ゲームのクリア。さもなければ五百人は眠り続けたままになる。

「攻略対象を決定すると、ホークスは恋に落ちます。それはもう一目惚れのように。ああ、恋をすることも両想いになることも全部ワタシのゲームの中での話ですよ」

 他にも子細を確認していく。ゲームの世界での一週間は現実世界の一時間にあたること。ホークスはゲーム開始とともに生徒か先生のどちらかの役割を与えられること。ゲーム内でも本来の思考回路を失うことはないが、そこに『攻略相手への恋心』『生徒または先生の役割』が上書きされた状態で行動が出力されること。クリア後も記憶は残るが、夢を見ていたような感覚であること。

「もうひとつ確認したい。攻略対象は学校外部の人間を連れてくることもできるのか?」
「そう来ましたか、面白そうでしたら承りましょう。さてさて、そのお相手は?」
……エンデヴァーに協力を要請したい」


 
 かくしてホークスはエンデヴァーに――厳密に言うと中学二年生の鷹見啓悟は国語教師の轟炎司に、恋をすることになった。
 エンデヴァーを指定したのは苦渋の決断だった。犯人はエンデヴァーの名を聞いても動揺する様子はなく、自身が生み出したゲームへの信頼が見て取れた。この様子ではルール外の破壊行為も通じないだろう。

 だがホークスには勝算があった。彼が幼少の頃よりエンデヴァーに抱くもの。世界の隅々まで照らし出すような衝撃、自身のほとんどを占め突き動かす衝動について、ホークスは悩んでいたことがあった。

 この想いは恋なのではないかと。

 だがホークスは『これは恋である』と定めることで、ふくれ上がってしまう可能性が恐ろしかった。
 たとえばこれが恋であるならば、あなたと話したい、あなたに認められたい、あなたに見てほしい、あなたと何か特別なことをしたいと願ってしまうかもしれない。そんな膨大なもしもを抱えて飛ぶには当時のホークスの翼は未熟すぎた。

 ホークスはまず何よりも、ヒーローになりたかった。エンデヴァーのような皆を明るく照らせるヒーローに。それ以外に何を望むというのか。
 だからホークスは『これは恋ではない』と決めた。そして速すぎる男と呼ばれるヒーローになった。

 ホークスはエンデヴァーに恋した自分を想像した経験を活かせると考えた。ゲーム内で強制的に恋に冒された状態になっても、何度も想像した『恋』がヒントをくれる。恋で浮ついた思考を差し引きするのだ。そうすれば客観的な思考回路で恋愛ゲームを攻略できる。
 何より、初対面の五百人から攻略相手を選ぶなんてギャンブルは避けたい。ゼロから恋をするよりも、よく知った相手を攻略する方が確実で速い。


 
「そういうわけで、エンデヴァーさん。準備はいいですか」
「準備も何も、ここに座っているだけだろう」

 数時間後。ホークスとエンデヴァーは渦中の学校に到着し、職員室の一角に陣取っていた。ローテーブルを挟んで対面する形で置かれたソファーに、ふたりは向かい合って座っている。ゲーム開始とともに肉体が眠りに落ちるため、腰を落ち着けられる所の方が都合がいいと考えてのことだ。

 窓からは夕映えの光が差し込んで、年季の入ったテーブルを艶やかなオレンジ色に照らす。今の学校には犯人が認めた者しか立ち入れない。下校時間をとっくに過ぎた校舎は、今日は五百人を抱え込んで夢を見ている。重たい静寂の向こうで、校舎の警備に当たるヒーローたちのかすかな声が聞こえた。

「確かにその通りですが心の準備というか。俺と……ただの仕事仲間と、ゲームの中でとはいえ親密な関係になるんですから」
「フン、侮るな。夢や幻くらい切り分けられる」
「そう言ってくれると思いましたよ」

 ホークスは密かに胸をなで下ろす。今回協力を求めた理由についてエンデヴァーには、よく知った相手の方が確実に攻略できるため、という点のみ説明していた。恋かもしれないと苦悩したほどの感情を本人に伝えるのは抵抗があったからだ。だがこのように断言してくれるのならば、たとえゲーム内で恋に冒され醜態を晒したとしても、夢や幻のたぐいであると片付けてくれるだろう。

「準備が整った。始めてくれ」

 ホークスは呼吸を整え、虚空に向かって告げた。するとスピーカーから校内放送のように犯人の声が流れ出す。

『承知いたしました。ではゲームスタートです!』

 
     *

 
 かくしてゲームは始まった。だがホークスは夏休み前の一週間を何度も繰り返していた。
 ゲームは夏休みの七日前からスタートし、終業式の日までに両想いにならなければ失恋と見なされ強制リセットされる。失恋の結果、啓悟は命を落としてしまう。どうやらこの世界での啓悟の命運は夏休み前で途切れているらしい。

 今回は墜落死、その前は母親ともみ合いになって、その前はと思い出しかけてやめた。自分の死に様を反芻するのはあまり気分の良いものではない。ゲームの世界で過ごす日々は現実と変わらないリアルさだった、それが死でさえも。
 なお、ループを知覚しているのはプレイヤーである啓悟だけで、轟先生や他の生徒たちにはループの記憶は持ち越されない。

 ホークスはこれでちょうど十回になるループで得た情報を分析しクリアへの道を探っているが、大きな問題に直面していた。
 それはゲーム内で思考に上書きされる『恋』が想定よりずっと熱烈だったことだ。ホークスは犯人の陶然とした弁舌を思い出す。

『恋は素晴らしいものです! 恋に身を焦がすと言いますが、恋のさなかにある時の焦燥は何物にも代え難い。一挙一動が目に焼き付いてすみずみまで知りたくて堪らない、今すぐにでも駆け出したい! だが駆け出したとて、知ったとて一体どうする? 何を望む? つまるところ恋は究極の自問自答なのですよ!』

 どうやら啓悟をさいなむ『恋』は、犯人の考えるそれであるらしい。ホークスは襲い来る熱病のごとき波に身震いした。あの世界での啓悟の思考回路は自身と同じものなのに、制御がままならない。こんなの、ほとんど状態異常じゃないか。

 だが恋に冒されたとて、一つずつ道を探るだけだ。
 小さな変化も見逃さず、観察しろ。考え続けろ。強く念じながら、ホークスは再び『鷹見啓悟』に意識を沈ませた。
 
 
 






4、鷹見啓悟の恋


 鷹見啓悟は恋をしている。

 恋は盲目、恋は罪悪、恋はみずいろ。古今東西、恋を語る言葉は多くあるが、啓悟にとっての恋はひとことで言うならば、焦燥だ。
 啓悟がじっと視線を注ぐ片想いの相手は、今まさに教壇に立っていた。国語の轟先生だ。
 出会いは啓悟が中学二年になった四月のことだった。最初の授業での衝撃を啓悟は生涯忘れないだろう。教室の隅々まで射抜く力強い視線。この人は、俺を見ている。世間はこれを一目惚れというのかもしれない。だけど、この恋はほんとうだ。

 先生に出会ってから、啓悟の世界は変わった。どこにもいたくないから、ここにいたいに変わった。先生は俺を見ていてくれるから。
 新しい世界は太陽の色をぐんと濃くしていく。もうすぐ、夏休みが始まる。


 
 終業式の四日前、啓悟は職員室にいた。通りすがりの教師に頼まれていた用事を済ませ、きょろきょろとあたりを見回す。ほどなくして目当ての人の姿を見つけると、表情をゆるませそちらに近付く。用事を引き受けたのも実のところこれを期待していたのだ。

「轟先生!」
「ム、鷹見か。どうした」
「ええと……

 声をかけたはいいが、会いたい気持ちが先走って話のたねは用意していなかった。少し考えて他愛ない話を口にする。

「夏休みの宿題、配られたのでちょっとやってみたんですけど」
「まだ休み前だぞ。まあ、やらんよりはいいが……

 啓悟が話題にあげたのは国語の問題集にあった漢字の問題のことだった。『夢にやぶれる』の漢字は敗れると破れるどちらが正しいかという設問だ。

「これって、夢は勝ち負けじゃない。だから『敗れる』じゃなくて『破れる』を使うのかなと思って。この手の問題はいつも丸暗記するんですけど、これは間違わない自信あります」
「いい覚え方だな。夢のほかは、恋もそうだ」
「え?」
「恋にも『敗れる』ではなく『破れる』を使う」
「そう、なんですか」

 その途端チャイムが鳴り、啓悟は後ろ髪を引かれつつも職員室を後にした。
 想い人の口から前触れなく飛び出した言葉。恋。たった二音が啓悟の頭の中で反響する。ふわふわと風船のようにふくらんで漂っている。
 途端に、恋というもの何だか不確かで壊れやすいもののように思えてくる。恋が、とめどなくふくらんで破裂してしまう。ちくりと針に刺されてあっけなく割れてしまう。そんなイメージが浮かんでしまってぶるりと震えた。

 きっと、恋も勝ち負けじゃないから、恋に破れるというのだろう。破れないように、壊れないように、慎重に扱わなければ。
 一人きりで壊れものを抱えているおそろしさが、啓悟の胸の底に澱のように沈んでいった。
 



 
 
 夕日が照り渡る廊下のまんなかで、啓悟と先生はふたりきりで向かい合っている。

 今日は終業式だった。生徒たちは待ちに待った夏休みに足を弾ませて、皆とうに下校している。窓からはまばゆい夕日が差し込んで、天井も床もすべて金色に染め上げる。
 啓悟は先生の行く先をはばむように翼を廊下の幅いっぱいに広げた。

「鷹見、まだ帰っていなかったのか」

 啓悟はぼんやりと突っ立って先生の声を聞いている。
 どうして俺はここにいるんだっけ。それは、先生と両想いになりたいから。どうしてもこの恋を叶えたいから。
 どうして叶えないといけないんだっけ。それは、俺と轟先生は生徒と教師で、子どもと大人で家族でもない他人で。だけどかなうならば、それ以外の何かになりたいから。そのはずだった。

 啓悟の恋は今や手に負えないほどにふくれ上がっていた。この恋の向かう先が見えない。分からない。たとえ先生と両想いになれたとして、今までと違う何かになれるんだろうか? こんなにも先が見えない恋は、何かおかしいんだろうか?

 だけど、この恋は、ほんとうだ。
 違和感にふたをして、啓悟は先生に伝えるべきことを必死に考える。だけど、もやが胸に詰まっているみたいで上手く言葉を作れない。
 破れないように、壊れないように。啓悟はこの恋を壊すまいとして、一歩も動けなくなってしまった。

「おい、聞いているのか。……鷹見?」

 先生のいぶかしげな声だけが廊下に響く。
 ここで帰るわけにはいかない。なぜなら先生と両想いになりたいから。どうしてもこの恋を叶えたいから。とめどない焦燥が啓悟をじりじりと追い詰める。せめて、まだ帰りたくないと伝えなければ。

 啓悟は手を伸ばし、先生の白いシャツのそでをつまんだ。指の二本か三本、たったそれだけで先生に触れる。
 うつむいたまま、指先から少しでもうつらないかと祈る。この息がつまるような、一人きりで壊れものを抱えているおそろしさが。

 ふたりとも黙ったまま、放課後の静かな廊下はまるで時が止まったかのようだった。だが夕日の色は黄金から朱に変わって、着実に太陽が沈んでいると教えてくる。

 先生のゆるぎない視線に全部まかせてしまえば楽だったのかもしれない。分厚い体躯にみっともなくすがりつけば教えてくれたかもしれない。この恋の行先が、向かうべき場所が、先生なら分かるだろうか。あてどない思いが次々浮き上がっては消える。
 やがて、啓悟の想い人は深く息をつき、口を開いた。

……もう日が暮れる。帰りなさい」

 先生の低い声が、何かを押さえつけたようにかすかに震えている。それを聞いた途端、啓悟はおそろしい可能性にとらわれてしまう。もしかして、先生を困らせてしまったんじゃないか。迷惑をかけているんじゃないか。

 心が重く曇った色に染まっていく。それに抗うすべを啓悟は知らなかった。見上げた先生の表情は窓から差し込んだ夕日に塗りつぶされて、何も見えなかった。
 
 
 
 
 




5、袋小路にて


 失敗した。

 重く長く伸びた影が足元にまとわりつく。のろのろと歩く間に日は沈み、街に夜が訪れようとしている。
 ひとの機嫌をうかがうのが得意だった。だから気付いてしまった。先生の声がわずかにかげる瞬間に。

 先生の重荷になってしまったかもしれない。そう、かもしれないの話なのだ。あんなにも先生のことを知りたいと思っていたのに、今では確かめる勇気もない。
 恋をしたなら、先生のことを知りたい、話したい、認められたい、何か特別なことをしたい。そんな風に望むはずだった。本当にそうだろうか? 分からないのに、こんなにも焦がれている理由は何だろう?

 音楽の授業で教わったモーツァルトの有名なアリアが頭をよぎる。
 あの歌では華やかに歌い上げられていたものが、目を、耳を、喉をふさぐ。見えず聞こえず声も出ないまま、袋小路に放り込まれたみたいだ。

 恋とはどんなものかしら、なんて。
 恋がこんなにおそろしいものだなんて、知らなかった。
 
 
 




 自宅の玄関にたどり着いて頭を抱えた。家の鍵がかばんの中にない。
 思い当たるのは昨夜の母さんの荒れようだ。母さんは泣きながら家じゅうのものをひっくり返して、俺は嵐を耐えるように部屋の隅で縮こまっていた。その時俺の通学かばんから落ちてしまったんだろう。

 窓から明かりがもれているから母さんは家にいるらしい。呼んで開けてもらおうと考えて、ためらう。俺の翼が父親譲りだからか、母さんは俺の姿を見たくないと言うことがある。昨日は特にひどかった。
 やろうと思えばドアの隙間から羽を忍び込ませて鍵を開けられるけど、母さんにバレたら火に油を注ぐことになる。
 母さんを呼ぶのも自分で開けるのも得策でない。だったら、今日は外で夜を明かすことにしようと、ため息をついて家をあとにした。


 
 駅近くのビルの屋上に侵入して何時間か経った。
 そのまま大人しくしていればよかったのに、のどの渇きに耐えかねて地上に降りたのがいけなかった。コンビニの前を通ったとたん、聞き覚えのある声が飛んでくる。

……鷹見か? こんな所で何をしている」
「轟先生! えっと……学校の帰りで」
「もうじき日付が変わるぞ。あれから何時間経ったと思っている」

 動揺のあまり見えすいた嘘をついてしまい、返す言葉もなく黙り込む。先生たちは長期休みの前などに繁華街をパトロールするらしいと聞いたことがある。でも、よりによってこのタイミングで、よりによって先生に出くわしてしまうなんて。

 暗闇のなか、コンビニの明かりが俺と先生をまぶしく照らしている。蛍光灯の白い光でいっそう明るく見える先生の瞳が、俺を射止める。出会った時から変わらない、心の奥を見通すような目だ。俺は観念していきさつを話すことにした。

「母さんと喧嘩していて、家に入れてもらえないんです」
……俺から鷹見のお母様に話してみよう」
「え、そんな」

 正直に言って、先生にあの家の惨状を見られるのはいやだった。父親が塀の中にいて、母さんと二人暮らしで生活保護を受けている。そんな俺の家庭の事情は学校の教師たちのあいだで共有されているはずだ。あからさまに態度に表れる教師もいたが、轟先生はそういった素振りなく接してくれた。そんな先生に家のことを曝け出すなんて。

「お前を放っておくことはできん」
…………

 結局、俺は先生の厚意をはねつけることはできなかった。喉がこわばってうまく声が出せなくて、黙ったまま頷いた。




 
 
 
 黒い道路をヘッドライトが照らす。空調の音が密やかに車内の空白を埋める。先生が運転する車の助手席に俺は縮こまって座っていた。状況だけならデートみたいだけど、気分はすっかり沈みきっていた。

 あの後先生の車に乗せられて俺の家に向かったが、結果は散々だった。母さんの怒鳴り声と泣き声はやまず、先生が追い返される様子を車の中で見ていた。戻ってきた先生は、今晩は俺が預かることの了承は貰ってきた、と言った。いつになくかたい表情の先生を見ていられず、うつむく。

「お前の家の事情と、お前がそれを知られるのを望んでいないのは気付いていた。今回はやむを得まいと押し掛けたが……無理を言って悪かった」

 先生の低い声は走行音に混ざってざらついて聞こえた。俺が黙り込んでいるので先生はひとりでぽつぽつと話し続ける。

「喧嘩をして家に入れてもらえないと言っていたが、お前に落ち度はないのだろう。だから気に病むことはない」

 真綿で首を締められるみたいだ。
 普段の明快な口ぶりとは違う、遠回しで大人が子どもに言って聞かせるような話し方。それは、やさしいからこそ苦しかった。今の俺たちの関係はただの教師と生徒で、大人と子どもで、家族でもない他人だ。だけどその枠が今、ぎゅっと狭まっている気がした。このままではただの保護する者とされる者の関係に収まってしまう。それだけは嫌だった。

……何でそんなこというんですか」

 絞り出した声は思ったよりずっとかすれていた。ただひとつの関係に押し込められてしまうのを止めないと。その焦燥だけで必死に言葉をつむぐ。

「先生と俺は教師と生徒で、大人と子どもで家族でもない他人で。だけどただの子どもを見るみたいな目で見るんだったら、俺を見ないでください。このどれかだけでいるのは嫌なんです、だって俺は、先生に、恋してるから」
……ああ。知っている」

 めちゃくちゃな告白に後悔する間もなく、先生はあっさり俺の恋を認めた。
 だけど先生の言葉に何か、違和感がある。気付いた瞬間、はっと息をのんだ。
 この声色を今日の放課後、夕暮れの廊下で一度聞いている。帰りなさいと言った先生の声は、何かを押さえつけたようにかすかに震えていた。

 あれは困らせてしまったんだと思っていた。これまで俺は先生に好意が伝わるようふるまってきたけれど、べたべた触れるような真似はせず優等生らしい態度を崩したことはない。その一線を越えて引きとめて、ただの生徒と教師の枠をはみ出してしまったから。

 もしかしたら、違うのかもしれない。
 こうも歯切れが悪いのは先生らしくない。先生ははっきりものを言う人だから、俺に同情して告白の返事をにごしている訳じゃない。何か別の理由があるんだろうか。分からないが、思い切って捨て身で返事をせまる。

「この恋に望みがないのは分かってます。だからせめて、はっきり言ってほしいです」

 だけど結局、ここまで言っても先生は返事をくれなかった。
 真夜中に近付いていく車の中、泥のような沈黙が降りつもる。受け取られなかった言葉は静けさで研ぎ澄まされて、俺を傷付ける。
 たとえ本当のことでも、この恋に望みがないなんて言いたくなかった。ぎゅっと目を閉じて、涙がこぼれそうになるのをごまかす。だけどこれ以上は耐えられないと諦めかけた時、先生が口を開いた。

「鷹見。どこか行きたいところはあるか」
……どうして望みを拾うような真似するんですか」
「頭の中で何を思うかは自由だ。お前が恋をするなら勝手にするといいし、だから断らないのも俺も勝手だ」

 盗み見た先生の横顔に皮肉や怒りの気配はない。だったらこの突き放すような言い方はわざとだ。多分、失恋のつらさを先生のせいにする逃げ道を俺に用意するためにそう言っている。
 ここまで先回りされてしまってはもう返事はもらえないだろう。完敗だった。溜め込んだ涙が膝の上にぽたぽたと落ちる。

「海に行きたいです」

 こうして俺は、恋に敗れた。

 
     *

 
 波の音が聞こえる。
 啓悟と先生は狭い車内で朝を待っていた。フロントガラスの向こうには朝日の気配に淡くきらめく海面がよく見える。夏とはいえ、夜明け前のこの時間は過ごしやすい気温だ。少しだけ開けた窓からは涼やかな海風が吹き込んでくる。
 先生は運転席の背もたれを少し倒して眠っている。目を閉じた先生の横顔を、啓悟はじっと見つめていた。

 先生は眠っているように見えて、息をしていない。作り物のようにぴたりと停止している。これはリセットの前兆だ。今回も失敗だった。間もなくこの一週間は先生の中ではなかったことになり、また一週間前に戻る。

 死んだように動かない先生を見ていると、そうではないと分かっていても脳の芯がぞっと冷える。ひとりきりで見る海はただ広く、潮騒が胸をざわつかせるだけの場所だった。
 啓悟の意識の底で、ホークスは先生の言葉を思い返す。

『頭の中で何を思うかは自由だ。お前が恋をするなら勝手にするといいし、だから断らないのも俺も勝手だ』

 何度も一週間を繰り返すなかで、この言葉を聞いたのは初めてだった。言葉通りに捉えるならば、断りたくない理由があるということになる。
 それはなぜだろう。先生には、何か隠してることがある。


 
 水平線の果てににじんだ薄明かりは、しだいに強さを増していく。みずいろの空はじわりと薄紅に染まり、まばゆい光線が波の上に踊る。そして黄金のような光のかたまりが昇り始めた。答えが出ないまま、朝は近付いて来る。

 先生は、俺とどうなりたいんですか。

 届かない問いが声になる前に、啓悟の意識は暗く反転した。
 
 
 






6、トワイライトシーン


 夕日が照り渡る廊下の真ん中で、啓悟と先生はふたりきりで向かい合っている。
 今日は終業式だった。生徒たちは待ちに待った夏休みに足を弾ませて、皆とうに下校している。窓からはまばゆい夕日が差し込んで、天井も床もすべて金色に染め上げる。啓悟は先生の行く先をはばむように立ちふさがった。

 夕暮れの廊下でこうして向かい合うのはこれで二十四度目だ。啓悟は前回の二十三周目の結末を思い返す。啓悟が生きたまま夏休みの朝を迎えたのは初めてだった。
 前回の行動には啓悟が死なない分岐に至るカギがあったはずだ。そうして思い至ったのが『夕暮れの廊下で何も言わない』ことだった。死亡しなかったということは、クリアに近い道を通っていた可能性がある。次にすべきは『何も言わない』選択肢からの分岐を試すことだ。
 
「鷹見。まだ帰っていなかったのか」

 うつむいて拳を握りしめる啓悟に先生が声をかける。啓悟は先生の行く先をふさぐように翼を廊下の幅いっぱいに広げた。
 問題は、今この場でどう行動するかだ。これから啓悟は何も言わずに、望みを伝えなければならない。何も言えないのならば、せめて表情で伝えなければ。でも何を伝えればいいのだろう。
 啓悟はもはや、自身の望みが分からなくなっていた。

 一週間を二十四回、百六十八日。半年近くものあいだ、ホークスは一分一秒を惜しんで恋について考え続けてきた。かつてヒーローになるために切り捨てたものが今になって重くのしかかる。答えが出ないまま、恋は思考を焦がしていく。

「鷹見……聞いているのか?」

 先生のいぶかしげな声だけが廊下に響く。啓悟はまぶしい夕暮れから顔をそむける。
 袋小路に追いつめられたようだった。恋について考えることは終わりの見えない自問自答だ。心の底にしまい込んだものまで暴きたてて追及する行為は、ホークスを相当追い詰めていた。
 こんなはずじゃなかった。顔をあげることすらできず、ひっそりと唇をかみしめる。その時、先生が静かな声で言った。

「鷹見、ついてこい」


 
 たどり着いた先は職員室だった。促されるまま、一角にあるソファーに腰かける。ローテーブルを挟んだ向かい側に先生も座った。窓からは夕映えの光が差し込んで、年季の入ったテーブルを艶やかなオレンジ色に照らす。
 先生は啓悟を見つめて何か考えている素振りだったが、程なくして慎重な口振りで言った。

……鷹見。お前の望みは何だ」
「俺の、望み」
「お前がこうも俺のことを見ているのは、なぜだ。何か俺に望んでいることがあるんじゃないのか。言わなければ分からない。何もしてやれない。叶えてやれるとは限らないが……まずは、お前がどうしたいのかを知りたい」

 啓悟がはっと顔をあげると、碧い瞳がそこにあった。出会った時から変わらない、心の奥を見通すような目だ。いつだって、この瞳にはかなわない。

「俺は……先生に恋しています。この恋を叶えたい。先生と両想いになりたい。ずっとそう思っていました」

 向かいに座った先生はじっと啓悟を見ている。安堵と切迫が混ぜこぜになって啓悟を追い立てる。押し込めていた言葉がせきを切ったようにあふれ出す。

「だけど、分からなくなったんです。恋って何なんでしょうか。恋をしているから恋人になりたい、そんな簡単な話なのか。恋をしてあなたとどうなりたいのか、分からないんです。俺は、どうしたらいいんでしょうか」

 最後のあたりはもはやすがるような声色だった。啓悟の心を投げ打つような吐露を、先生は真正面から受け止めた。そして細い糸をたぐるように言葉を探しながら訥々と答える。

……恋とは何か。答えは人それぞれだ。身を焦がすように相手を想う者もいれば、人生をゆるがすような大仰なものではないと言う者もいる。近くで離れず側にいたいと望む者もいるし、反対に遠くで眺めるだけでいいと言う者もいるだろう。人それぞれだが――だからこそお前が何を望むのかを知りたい。たとえば、単純に俺と何をしたいのか」

 先生に問われて、啓悟は考える。
 初めは先生のことが知りたいと思った。先生と話したい、先生に認められたい、もっと見てほしい、何か特別なことをしたい。

 ごつごつした指が本のページをそっとめくるのを見ていたい。
 先生は空の真ん中から空を見たことはあるだろうか。あの特等席からの景色を、いちど先生に見せたい。

 欲望は次々にふくれ上がり、目の前にずっしりと積み上がっていく。それがおそろしかった。何かを望みすぎるというのは、自分にとっても、先生にとっても重荷に違いないのだ。

……すごく、すごく、たくさんあります」
「鷹見は意外と欲張りなんだな」

 ふと先生の表情がやわらぐのを見て、啓悟は目を丸くした。どうして今、こんな優しい顔をするんだろう。怖々と口を開く。

「俺……もしかして、欲張りでもいいんでしょうか」
「当たり前だ。他人や自分に何かを望み、求める。ひととはそういうものだ。恋をしていようが恋してなかろうが、それは変わらん」
……恋じゃなくても変わらないなんて、初めてそんなふうに考えました」
「すぐに答えを出さなくていい。何しろたくさんあるのだろう、俺とやりたいことも、鷹見がお前自身に望むことも。そうだな……納得できる答えを見つけたら、教えてくれ」

 瞬間、視界が開けたようだった。
 啓悟が何かに追い立てられるようにがむしゃらに恋をしていたのは、先生に置いていかれないよう必死だったからだ。だけど、先生はきっと待ってくれている。この先も俺を見ていると約束してくれた。
 今ここに、真っ暗で見えなかった道が照らし出されている。
 絡みついていた糸がとけるように、啓悟は笑った。

「すぐには分からないかもしれません。だけど、いつか」
「ああ、いつでもいい。待っている」


 
 その時だった。誰もいないはずの校舎にキーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴り響く。

『おめでとうございます、ゲームクリアです!』

 陽気な声が校内放送のようにスピーカーから流れだした。その途端、啓悟の真向かいに座る先生の姿がぐにゃりと歪む。とっさに手を伸ばすが、十三歳の骨ばった手は蜃気楼のようにゆらめいて、黒いグローブをした大人の手に変わっていく。

「鷹見……いや、ホークス」
……エンデヴァーさん」

 霧が去るかのように『轟先生』の姿がにじみ、気が付くとそこには『エンデヴァー』がいた。窓からはゲームが始まった時と同じように夕映えの光が差し込んでいる。一週間を二十四回繰り返し、現実世界では丸一日が経っていた。
 鷹見啓悟はホークスに、轟先生はエンデヴァーに。ふたりは夢から覚めて、互いの現実の姿をまじまじと見つめた。
 








 
 
 
 
 
7、エンドロール


『お見事でした、ホークス。それにしても番狂わせの難関をたった一日でクリアするとは。迷宮の奥深くにたどり着くまでの赤裸々なダイアローグはワタシに共鳴、いいえ打ちのめすほどに鳴り響いてワタシを砕くのです、ああ何たる至福!』
「待て、番狂わせって何のことだ」

 うっとりと語り続ける声にホークスは鋭く割り込む。

『おっと、お伝えしていませんでしたね。実は予期せぬ事がありまして。クリア条件が当初より複雑になっていたのです。ゲーム風にいうなら上級編、ハードモードといったところでしょうか』
「ハードモード?」
『ああ、どうか気を鎮めてください。ワタシだって後出しは気が引けます。ですが仕様なのです、当初の条件ですとゲームが成立しなくなってしまうので。いいですか。なんと、クリア条件が最初から満たされていたんです!』

 寝耳に水の情報を告げられホークスは目を見開いた。当初告げられていたクリア条件は、ゲームの中で攻略対象と両想いになることだ。

「俺と同じようにエンデヴァーさんも強制的に恋に落ちて……いや違う。それだとゲームが成立しない」
『おっしゃる通り、ワタシの個性の強制力で恋していたのはホークスだけ。ワタシは両想いというものは小難しいものではないと考えます。相手が自分を見てくれている。恋心が認められ憎からず思われている。そんなところでしょうか。ですが貴方にとってはそうではなかった。……おや、じきに校内で眠っている皆様が目覚めますね。続きは後ほどということで』

 そうして犯人との通信は途切れた。最後に告げられた言葉がホークスの頭の中をぐるぐると巡る。
 個性の強制力で恋に落ちていたのは自分だけ。クリア条件が最初から満たされていた。それは、つまり。
 向かいのエンデヴァーの様子をちらりとうかがうが、泰然とした表情から真意は読み取れなかった。
 


 その後ふたりは学校関係者たちが目を覚ますのを見届け、犯人が待つ警察の収容施設に向かった。再度の事情聴取や関係各所への連携など、ひとまずの事後処理を片付けていく。

 数時間後、ホークスは報告書の最後の文字を打ち込みうんと背伸びをした。まだ明らかになっていない点もあるが、とりあえず今日はここまでだ。
 夜中といえる時刻はとっくに過ぎて、窓の外を見ると東の空がうっすら白み始めていた。
 事件は一段落したが、今回のことについてエンデヴァーと個人的に話しておきたいとホークスは考えていた。彼もまだ施設内にいるはずだ。ホークスは意を決して席を立った。


 
 
 空の端ににじむ朝の気配に星々が飲み込まれていく。しかし地上はいまだ暗い。前にも後ろにも車の姿はなく、ヘッドライトが照らす先は黒い道路がどこまでも続いていくように見えた。
 空調の音がひそやかに車内の空白を埋める。ホークスがハンドルを握り、エンデヴァーは黙って腕を組み助手席に収まっている。警察で融通を効かせてもらって借りた車は、この規格外の体格の男を乗せるには少し窮屈だ。

 話しておきたいことがあるんです。
 そう言ってホークスはエンデヴァーをドライブに誘った。事件の顛末を共有するだけなら直接顔を合わせずとも後日資料を送るだけでいい。エンデヴァーはこと仕事においては合理性を重んじる男だ。こんな非常識な時間の誘いに乗ったのは、事件の話だけでは済まないと彼も分かっているからだろう。つまり、すぐに顔を合わせて話しておきたいことがあるのだと。ホークスは進行方向を見据えたまま、まずは事件のあらましについて話し始めた。

「改めて、今回はご協力ありがとうございました。あの後もう一度犯人と話して、動機はやはり俺への共感と執着とのことです。ペルソナとか何とか言ってましたが、要するに俺の内面に興味があったと。それをあばいて鑑賞するために数年かけて準備して、今回の事件を起こしたってわけです」
「お前を狙っての騒動だったということか。難儀なものだな」

 エンデヴァーの声に同情的な色がにじむ。それもそのはず、彼自身同様の犯罪を仕向けられた過去があるからだ。ホークスはあなたに言われると説得力がありますね、と言いかけて飲み込んだ。無闇にやぶをつつく気はない。

「ゲームの中での事についていくつか確認させてください。まずゲーム内の記憶。あそこであったこと、どれくらい覚えてますか?」
「俺が体験したことはすべて記憶している。夏休み前の一週間を何度も繰り返していたことも目覚めた後に認識した。長い夢を見ているような……真に迫ったドラマでも見ているような感覚だった」
「犯人の供述と一致していますね、自身の個性については嘘をつけない制約があるというのは偽りでないようです。ということは、クリア条件の変更は犯人にとっても想定外だったと」

 クリア条件。そう口にしてホークスは思わずハンドルを握りしめた。まだ少しだけ、迷いが残っていたのだ。このまま有耶無耶にしてしまうことも考えた。だがエンデヴァーがこのドライブの誘いに乗ったのは、彼がもう腹を決めているからだ。ならば自分も彼にならおうと、ホークスはぐっと前を向いた。

「ああ、見えてきましたね。覚えてますか」
「これは……あの時の海か」

 道沿いの木々が途切れて視界が開けると、そこには見覚えのある海が広がっていた。ふたりがゲームの世界で一度訪れた場所だ。


 
 しばらく海沿いの道を走り、砂浜に入って車をとめる。フロントガラスの向こうには朝日の気配に淡くきらめく海面がよく見える。夏とはいえ、夜明け前のこの時間は過ごしやすい気温だ。少しだけ開けた窓からは涼やかな海風が吹き込んでくる。

「ここに来たのは二十三回目の時でした」

 エンジンを切ってしんとした車内には波の音がよく聞こえてくる。ホークスは答え合わせをするような口ぶりで切り出す。

「あのゲームの当初のクリア条件は、啓悟と轟先生が両想いになること。俺はゲーム開始と同時に個性の強制力で恋に落ちました。先生と両想いになるべく、ゲームの中で夏休み前の一週間を何度も繰り返していました。ところが、実はクリア条件が変わっていた」

 変更後のクリア条件のことは追って説明します、と付け足し一旦言葉を切る。ぴんと空気が張りつめる。ふたりは今、核心のすぐ手前に立っている。

「犯人いわく、予期せぬ事態があった。最初からクリア条件が満たされていた。つまり――

 ホークスが助手席を見ると、あおい瞳と視線がかち合った。そこには動揺の色はなく、羞恥も卑下もない。

……ああ、そうだ。俺はお前に恋をしている。犯人の個性とやらは無関係に」

 そう告げて、エンデヴァーはふいと視線をそらした。事の始まりを思い返すように、遠い水平線の果てを見る。

 
     *

 
 轟炎司は恋をしている。

 恋とは何か。その答えは人それぞれであるが、炎司にとっての恋は人生をゆるがすような大仰なものではなかった。胸をつくような情動もなければ、駆けだしたくなるような焦燥もない。
 きっかけはささいなことだった。チームアップの最中、待機スペースでのこと。ホークスが脈絡なく呟いた。

「恋って壊れものみたくないですか」
「何だ、唐突に」
 ホークスは誰かが置き去りにしたゴシップ誌の記事をさす。そこにはどこかの芸能人の色恋沙汰がかかれていた。
「恋って、破れるとか玉砕とかいうじゃないですか。だから壊れものみたいだなって」

 珍しい、とエンデヴァーは思った。ホークスが天気や流行などの世間話を垂れ流しているのはよくあるが、このような雑談らしい雑談を持ちかけてくることは意外にも少ない。
 だが信頼できる同業者としての年月を重ねるうち、炎司はホークスのことを歳の離れた友人といって差し支えない関係と思うようになっていた。たまには戯れに乗ってやるのも悪くないと、少しばかりつついてやることにした。

「そういえば、貴様は案外浮いた話を聞かんな」
「えっ! 俺の話ですか」

 ホークスはエンデヴァーはコイバナなんかせんとひとしきり笑うと、今度は真面目ぶった顔をする。

「恋ですか。近くで離れず側にいたいって人もいるし、遠くから眺めてるだけで満足って人もいる。それこそ人によるんじゃないでしょうか」
「それは一般論だろう」
「うーん、正直ヒーロー業で手一杯で……恋をしたら俺はきっと強欲になってしまう。たとえば相手をもっと知りたいとか、何か特別なことをしたいとか。だからそこまで手が回らないというか。もしかして浮いた話、期待してました?」
 そう言って完璧な笑顔を作ると、自分から始めたくせにさっさと話を切り上げた。それが妙に印象に残っていた。

 この日をきっかけに炎司は、自分にとっての恋はどんなものかと考えるようになった。
 次第に、自身に巻き起こるささやかな感情の源にホークスがいると気付くようになった。
 たとえば、空を見上げるたびにホークスを思い出す。
 好ましいものを見つけるとホークスにも教えてやりたくなる。
 そういった心の動きに、炎司は試しに恋と名をつけた。
 やがて、ホークスの存在を手掛かりにしてこの世界の他愛なさを愛せると気付いた時、炎司はこれは恋であると受け入れた。


 
 ゲームの世界でも炎司は啓悟に恋をした。
 まず最初に目があった。その瞬間、啓悟の透明なビー玉のような瞳に特別な色が宿ったのを見てしまった。同時に啓悟が恋に落ちたことを理解した。恋をした者はこんなふうに笑いかけてくるのかと心を打たれた。

 教師としてあってはならないことだが、彼ひとりを懐に入れすぎている自覚はあった。こうしてやりたいと思うことが湧き水のようにあふれ出してくるのを抑え、ただの教師と生徒らしい距離感をはかって接してきた。しかし炎司は結局のところ、根が愚直な正直者だった。啓悟からの告白をはっきりと断らなかったのはそのためだ。

 けれど、二人が両想いだったのはあのゲームの中での話だ。現実の啓悟――ホークスが自ら語った通り、彼は色恋沙汰とは一線を引いている節があるようだった。彼の世界には恋が入り込む隙間はないと悟った。

 こうして轟炎司は、恋に破れた。

 だが、恋が叶わなくとも、ホークスとの関係は変わらない。
 歳の離れた友人のようで、最も信頼のおける仕事仲間で、時折食事をともにすることもある。炎司は今のふたりの関係に満足している。今以上を望む理由はなかった。

 
     *

 
「協力要請の話を聞いて、都合がいいと思った。あの手の個性は現実での人間関係を下地とするパターンが多い。とすれば、俺はお前にすでに好意を抱いている。これで有利に事が運べると」

 それが裏目に出たようだが、と炎司が自嘲気味に言う。

「恋をしているからといって、お前とどうこうなる気はない。恋は劇的なものでなければならないということはない。そこにあった感情に恋と名付けてみたら、案外悪くないと思えた。俺にとっての恋はそういうものだ」
……話してくれてありがとうございます。俺も隠してたこと、全部言います」

 ホークスも自身のゲーム内での状況、そして隠していたことを洗いざらい話していく。
 個性の強制力による恋はまるで熱病のようで、『啓悟』はホークス本来の感情をベースにしながらもその影響を受けていたこと。
 そして、エンデヴァーに対して憧憬や敬愛という枠でくくるには過剰な衝動を抱いていたこと。

「これが俺の隠しごとです。俺の気持ちは恋ではありません。だけど小さい頃から……中学二年生の啓悟よりもずっと小さい頃から、ずっとあなたを想ってきました」
……そうか。だが、なぜ今になって話した」
「だってエンデヴァーさん、俺に恋してるってこと言わないつもりだったでしょ。でも言わせてしまったから。せめて、あいこにさせてくださいよ」

 そう言って不遜の皮をかぶせた切実な気遣いをみせる。炎司の脳裏に十三歳の啓悟の姿がよぎる。張りつめた糸のような決死の表情をしていた少年が、ずいぶんそつのない物言いをするようになったものだと密かに感心する。

「フン、そういうことにしておこう。――で? クリア条件が変わったと言っていたが」
「はい。追加の取り調べで確認を取ってきました。簡単に言うと、俺が納得したらクリアってことになったそうで」

 当初のクリア条件はゲームの中で攻略対象と両想いになること。犯人のいう両想いとは、互いに恋心を認めあい憎からず思っている状態だ。両想いになった先の話は犯人の関心の外で、たとえば両思いだが恋人にはならない、という結末でもクリアとなるらしい。
 だがホークスにとっての両想いは単純なものではなかった。両想いになった先を思い描き、望みが多すぎるゆえに行先を見失い、袋小路に迷い込んでしまった。

「恋をしていようが恋していなかろうが、ひとが他人や自分に望みをかけるのは変わらない。すぐに答えを出さなくていい。エンデヴァーさん――先生にそう言われて、やっと納得できました」

 ホークスが一通り言い終えると、しばしの沈黙が訪れた。
 繰り返される波の音を何度か数えたころ、ホークスは再び口を開いた。穏やかな声が潮騒と溶け合う。

……ねえ、エンデヴァーさん。恋ってどんなものなんでしょう。たくさん考えてみましたが、やっぱり分かりません。俺の世界に恋が入り込む隙間はまだないみたいです。でも十三歳の俺と、今の俺では違うことがあります。十三歳の俺にとって恋は重荷でしたが、今じゃそんなやわじゃないってことです。だから今の俺の答え、聞いてもらっていいですか?」
「思ったより早かったな。聞かせてみろ」

 エンデヴァーが促すと、ホークスは落ち着いた表情で語り始めた。

……実はあの世界では、俺が本当に納得する両想いなんてものは叶えようがなかったんです。恋をしたならあなたと話したい、認められたい、あなたに見てほしい、何か特別なことをしたい。そう望むはずでした。それをかなえるべく恋をしていたのに、違和感が消えませんでした。なぜなら、これには大事な根元が欠けてたからです」

 ホークスは一度言葉を区切り、身体ごと隣に座る炎司に向き直る。

「俺はまず何よりも、ヒーローになりたかった。それが叶った今は、あなたとヒーローとして並び立ってあなたの信頼だとかを勝ち得たうえで、全部の望みを叶えたい。これが、俺の一番の望みです」

 一息に言い放ち、炎司の瞳をじっと見つめる。
 ホークスの答えを聞き届けた炎司はしばし考え込み、やがてむすっとした顔で言った。

……何というか、お前は俺の想像の上を行く欲張り者のようだな」
「そうみたいですね。でもこんな俺だからこそ自信を持って言えることがあります。恋をしていようが恋していなかろうが、俺の望みがたくさんなのはきっと変わりません。俺、欲張りなんです」
「フン、言うようになったな。俺に恋をするのは骨が折れただろうに」
「恋していても恋じゃなくても、あなたといると骨が折れるのは同じです」
――そうか」
「で、今はそんなあなたと海を見たい。そんな気分です。だからここに来ました」

 ホークスは軽やかに笑って言ってのけた。つられて炎司も唇の端を上げる。


 
 水平線の果てににじんだ薄明かりは次第に強さを増していく。みずいろの空はじわじわと薄紅に染まり、まばゆい光線が波の上に踊る。そして、黄金のような光のかたまりが昇り始めた。

 かつてひとりで見た朝焼けの海は、共に見るならなおさら美しい。
 恋をしている者にとっても、恋をしていない者にとっても、それは同じだ。
 はじまりの彩光が、ふたりのこれからを照らしていた。





(終)






~何が起こるのかふんわり把握した上で読みたい方向けフワッとしたネタバレページ~

学パロ詐欺で、ホー→炎と見せかけたホー←炎です。
ホークスが恋の病で七転八倒しますが、最終的な結末は超大団円ではないもののグッドエンド、みたいなかんじだと思います。

人が死にます。(回数1回)
モブから啓悟くんに向けたの悪意の描写があります。(前半)
啓悟くんの家庭環境がよくないです。


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