@DSSmafia
私は雨が好きなので、蜘蛛を見つけたら必ず殺すようにしている。
◇ / ◆
木造の扉を叩くと、鉄鍋をひっくり返したような激しい物音が返ってきた。
来訪者が客ではなく、“彼女”だと察したのだろう。
女は返事を待たず、客のいない大衆食堂の扉を蹴り破った。
東南アジア特有の熱と湿気で膨張した木材が、不揃いの破片となって床を転がる。
「ッ……“ジャックマリヤ”の旦那、へへ」
脂汗を掻いた大柄なアジア人の店主が、愛想笑いで侵入者を迎える。
ジャックマリヤと呼ばれたスーツ姿の女は、臙脂色の紅を差した唇から、艶のある溜め息を溢した。
「蜘蛛というのは厄介な生き物だ。他人の家に労せず棲み着いて、勝手に糸を織り始める。己が居候の分際だとまるで弁えていない」
東洋人が異国に渡って始める稼業は、仕立て屋か飯処だと言われている。
真偽は定かではないが、事実としてこのガトー・アイランドにもアジア料理の店は多い。
法の及ばぬ土地ならば好き放題に稼げると、暗がりの街灯に群がってくる。
「景気が良さそうだな、チンク。店を畳むように言ったはずだが、よく仔牛一等丸々買い付ける予算があったものだ」
ジャックマリヤの声には、檸檬のような冷たさがある。
甘さのない淡々とした響きで、闇に生きる女とは思えぬほどに澄んでいる。
しかし、それを聞いた店主は、飢えた虎の唸り声を浴びたかのように縮み上がった。
「そんな、滅相も……」
愛想笑いを一瞥して、ジャックマリヤは手近な椅子に腰掛けた。
すらり、と足を伸ばして組むと、懐から紙タバコを取り出して、視界の端でもう一度店主を睨む。
「……酷い臭いだ」
「えっ、そうですかい?」
呆れるほどの愚鈍さだ。
「どうやら先月の“お願い”は、“わかりにくかった”らしい。傷つけないように優しい言葉を選んだのが逆効果だった」
「旦那、あのですね」
「いや、待て。もう一度、私に説明のチャンスをくれ。さて、どこから話したものか」
「こちらも、ご相談が」
店主の言葉を待たず、ジャックマリヤは続ける。
「…………そうだ。隣人とは上手くやっているか?」
「え、は」
「向かいはドイツ人の経営するビアホールだ。発酵キャベツと塩漬け肉を蒸したのが美味くてな。私もよく週末には世話になる」
と、おどおどした態度の店主が、そこでやや自慢げに胸を張った。
「え、ええ。そりゃもう。先日も、新鮮なミズダコが入ったんでね。差し入れてきたところです」
「……大通りの裏にはサウジアラビアの古物商。通り一帯の顔役だ」
「真っ先に挨拶に向かいましたよ。二十五年物の紹興酒も手土産に」
「…………斜向かいの店は」
「ネパール人の香辛料専門店ですね、店の前を通ると刺激的な香りがなんとも芳しい。ちょうどこの仔牛を処理したら、良いところをお裾分けしようと……ほら、アジア人の好で」
よくやっているでしょう、と言わんばかりの得意げな笑みを見ていられず、堪らず眉間を押さえた。
艶のある前髪が滑り落ちて、その表情を覆う。
「貴様らが隣人をまるで理解していない、というのはよく分かった」
「そうでしょうとも! は、 」
背もたれに深く体重を預け、天を仰ぐ。
まもなく、パァン、と立て続けに火薬の弾ける高い音が響いた。
「その豚包丁で耳の垢を丁寧に刮いでよく聞け、チンチョン」
底冷えする、深海のように昏い声。
「このストリートにアジア人の料理屋がただの一軒もないのは、何故だ?」
「それっ、それ、は」
「その通り、ドン・ポルチーニの直営するジャパニーズ・クィジーンの居酒屋がど真ん中にあるからだ。カレーもキムチもラーメンも一通り揃っている。彼らの文化は素晴らしい。分かるか、お前にも理解できるように共通語で喋っている。同じ極東でこうも違いが出るものか?」
おそるおそる、店主が視線を向ける。
ジャックマリヤの手には、いつのまにか拳銃が握られていた。
銃口からは、硝煙が立ち上っている。
射線の先は、店主のどてっ腹――――の、わずかに下。
先程まで捌いていた仔牛の肉に、三発分の貫通孔。
銃口は、まだ店主を睨んでいる。
「…………だが、ドン・ポルチーニは寛容だ」
はく、と息を呑む音。
ようやく状況を認識したらしい。やはり、呆れるほどの愚鈍さだ。
「貴様らが“友人”たちと足並みを揃え、細々と生計を立てる程度に慎ましやかにやっていくなら」
生娘の悲鳴じみて、店主が喉を鳴らす。
意に介さず、ジャックマリヤは言葉を続ける。
「それを逐一咎めはしない。だが、その“友人”たちから苦情が何件も寄せられている。毎朝よくわからない薬液を振りまいて大通りを悪臭で満たし、用水路には未処理の肉片や残飯を平気で…………」
ごとり、と、何かが音を立てて床に落ちた。
言葉を止めて、ジャックマリヤは視線を落とす。
床に落ちたのは、拳銃だ。先程まで、店主を睨みつけていたはずの。
「…………………」
顔を顰める。
慣れない拳銃を使ったからか、指先に妙な痺れがある。
「お、お言葉を返すようですがね、旦那」
いや、違う。
利き腕の指だけではない。その反対の手指、いや足の爪先からも。
毒虫に刺されたような熱を伴う痺れが、じんわりとやってくる。
「他所のシマってこたぁ、分かってんです」
のそり、と狙いすましたかのように、店主が歩み出てきた。
恰幅の良い体格、熊のような膂力を備えた肉の太さだ。
包丁を握りしめる丸太のような腕には血管が浮いており、
その切っ先がゆっくりと、ジャックマリヤに向けられた。
「けど、私らだって引くわけにゃいかんのです」
「…………」
ジャックマリヤがそれを退けなかったのは、刃に臆したわけでも、店主の言い分に耳を貸したわけでもない。手足の痺れに次いで、奇妙な酩酊感が思考を奪う。
「“香木”ってんですよ。とはいえ、表の市場で見かける“お線香”とはワケが違う」
するり、と、無遠慮な刃の先端が、彼女の服に忍び込む。
肌を傷つけることなく隙間を縫うと、スーツの留め紐のみが断ち切られた。
ふつり、と解き放たれた布が重力に負け、絹のように白い生肌が露わになる。
店主は……いや、その“男”は、舌なめずりをするように、その姿をつま先からてっぺんまで値踏みした。
中性的なブロンドのショートボブ。
きっちりとタイを結わえた男物の高級スーツ。
柳のように細くしなやかな腰。
女性らしさを称えた流線的なシルエット。
「ウチらの“幇”もね、ここいらの利権にいっちょ噛みしたいと、そう思っているわけで……いや、なにも戦争仕掛けにきたンじゃねェ。少ぉお〜し、この街の一角で商売させてくれりゃあ、それで」
くゎん、と視界が揺れる。
店主の輪郭が崩れ、やがて波紋が広がるように世界が歪む。
「おっと……へへ、だいぶお気に召していただけたようで」
下卑た笑い声が輪唱する。
厨房の裏に、もう二人ほど潜んでいたらしい。
らしい、というのは、推測ということだ。
床を舐めるように倒れ込んだ視界が、それを確認することはなかった。
ごとん、と頭蓋に重たい音が響く。
「“お愉しみ”ン時にゃ、女のケツからブチ込んでもいい。“使い捨て”ンなっちまうが……と、アンタには刺激が強かったかな」
ずちゅ、と、血と脂で汚れたキッチンシューズが、ジャックマリヤの剥き出しの腹部を優しく蹴り転がす。
「地元の組とわざわざ事を荒立てたかねンだ。どころか、その幹部に手ェ出したとあっちゃ、命が幾つあっても足りねェ。だから、アンタはこの店には来なかった、ってのはどうだ?」
仰向けの視界に、三人の男が逆さまにこちらを覗き込んでいる。
いずれも似たような体格だ。力比べでは敵わない。
「“宣誓処女”だなんだって、東欧のクソ田舎から出てきた未通娘ってことだろ。白人の若い女には好事家が良い値を付ける」
うち二人の男が、女の手足を押さえこむ。
頭上に、ぎらり、と骨断ち包丁。
「愉しむのに手足は要らねェ、穴が残ってりゃ……と思ったが、そんな上等な肉を仕入れて客にだけに食わせるのも勿体ねェな。シェフの特権ってことで、俺たちもちょいと味見をすふぁ、ボッ」
そして、一筋の赤い線が奔った。
不自然に口を噤んだ店主に、二人の店員が不思議そうに視線を向け――――まもなく、その顔が泣き叫ぶ赤子のように歪む。
「本当に…………本当に、めでたい頭をしているな。だが、得心がいった」
くつくつと、床に転がされたままの女が肩を揺らす。
嘲笑でも威嚇でもない。
心の底から、怯える男たちの阿呆さが愉快で仕方なかった。
「数だけは多い華僑連中の末端ともなれば、“教育”が行き届かずお粗末になるのも仕方がない。だが、同じ穴の狢なら遠慮は要らんな」
既に、店主は息をしていなかった。
いや、言葉の綾だ。生きているのか、と問えば、答えは是だ。
だが、まもなく己の血によって窒息して絶命に至る。
店主の喉を食い破って口蓋に忍び込んだ“それ”は、音もなく頭蓋をぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、落ち窪んだ眼窩から這い出るように、ずるり、と姿を現した。
「ところで、先程のは名案だ」
血の悪魔。
他に、形容のしようがなかった。
真っ赤なシルエットは鳥の骨格標本に近い。
だが、よく目を凝らせばヒトの上半身のようでもある。
肘から先は尺骨の代わりに、蟷螂の鎌のような弧を描いた鋭い爪。
「私はこの店には来なかった。ドン・ポルチーニは多忙なお方だ、心労を増やしたくはない」
赤子の拳ほどの“ちいさな悪魔”が、ぞろぞろと店長の顔の“穴”から滑り落ちてくる。
二匹、三匹、とんで八匹。
十を越えた辺りで、男たちはその数を数えることの無意味さを悟った。
「代わりに、不幸な暴走トラックを手配しよう。ガソリン満タン、もう半刻ほどでこの店に突っ込んでくる。今月一番の大火事だ、人間と牛の死体の見分けもつかん」
それまでは――――
そうだな、この香木とやら――――
確か、ケツの穴にブチ込むのが良い、んだったな?
淡々とした調子を崩さなかった女の声に、初めて狂喜の色が乗った。
“宣誓処女”の誓いによって、性行為は禁じられている。
だが、男どもが怯えながら命惜しさにまぐわうショーは、いくらかの無聊の慰めになる。
「……小ぶりだな。臭いも酷い。まあ、私が食らうわけではないが」
ジャックマリヤは男の一人にしなだれかかると、慣れた手付きでベルトの金具を外し、その股座を弄り始めた。
◇ / ◆
轟々と燃え盛る木造の店を背に、私は煙草の煙を吸い込んだ。
建材が湿気ていたのか、それとも得体の知れない大陸の品でも扱っていたのか。
鼻を覆いたくなるような悪臭が、通り一面に広がっている。
「刺激的な格好ですね、カポ。目のやり場に困っちまう」
「女扱いするな、殺すぞ。景気はどうだ?」
迎えの車を待っていると、向かいのビアホールの店主が挨拶にやってきた。
「最悪ですよ。なにせ、店の正面に生ゴミ処理場が出来ちまったんだ」
「吐瀉物の臭いを肴にする物好きもいないからな」
「ええ、まったくそのとおりで」
ビアホールの店主は、よく冷えたビールの瓶を手渡してきた。
気の利く男だ。
私はそれを受け取って、代わりに100ドル紙幣を何枚か握らせた。
「カポ、こんなに」
「詫びだ。対応が遅れてすまなかった」
「そんな……シュラハトプラッテは仕込み中ですが、カリーヴルストの試作が出来たところです」
「…………確か、“カレー風味の腸詰め”だったな?」
「悪臭に負けないように、キツめの味付けで」
「頂こう」
扉を潜ると、煉瓦作りの広間の中央で、若いスタッフたちが賄いを食べている最中だった。
立ち上がって挨拶しようとするのを手で制して、彼らの目の届かない厨房の裏へと潜っていく。
私は、このガトー・アイランドという住処を気に入っている。
故郷の豊かな草原とは比べるべくもない。
だが、この島には悪徳と引き換えの自由がある。混沌のうちに調和がある。
故に、その庭に入り込んだ害虫は駆除しなければならない。
それがマフィアの務め、私の使命だ。
目下の懸念対象は、『ホワイトロリータ』の残した一粒種。
悪食の女郎蜘蛛、アルフォート・ルマンド。
彼女の引き起こしたクソッタレな厄介事を片付け、厄除けの魔石を取り上げたのち――――
死ぬよりも惨たらしく、その尊厳を奪わねばなるまい。