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「Strawberry Bloods Forever」

全体公開 作文 18050文字
2022-06-17 22:30:03

2021.07 大正ショタ吸血鬼パラレルのホー炎。ショタ×ショタです。人が20人くらい死ぬ
2021年7月発行の同人誌「Stargazer」に収録→通販

Posted by @nanameru

「おい。いい加減起きろ」

 ほの暗い寝室に凛とした声が響く。
 声の主は赤褐色の髪を持つ、白い半袖シャツの制服を着た十と幾つかの年頃の少年だ。しゃんと腕組みをして、壁際に置かれたベッドの脇に立っている。

 視線の先、ベッドの上にはブランケットを被ったかたまりが転がっている。
 窓の外にはとっくにまばゆい朝が訪れているが、ベッドの主はいまだまどろみの中にいるようだ。ころんと寝返りを打つと、ブランケットがするりと落ちて、あどけない横顔が露わになる。
 歳は赤髪の少年と同じか、一つ二つ年少だろうか。小麦色に輝く金の髪の少年だ。

「啓悟」
 赤髪の少年が金髪の少年――啓悟の肩をゆする。
 すると金色の睫毛がふるりと震え、琥珀の瞳がようやく朝の光をとらえた。

「ん……おはようございます、炎司さん」
「相変わらず寝汚いな」

 啓悟がブランケットにくるまったまま言うと、炎司と呼ばれた少年がばさりとブランケットをめくりあげた。
 その下から現れたのは、赤色に艶めくこうもりの翼だった。
 背中側が大きく空いた寝巻、その穴から外に伸びた翼が、真っ白なシーツの上に投げ出されている。翼は非常に大きく、ゆるく畳んだ状態であっても啓悟の身の丈を超すほどだ。

……じゃあ、今日もお願いします」

 啓悟はひとつ伸びをすると、炎司にくるりと背を向けて言った。
 
      ◇

 出会いはケイゴが齢十の時分だった。
 時は大正時代。洋灯 ランプの光が夜を照らし、自由な気風の文化が華開く。都市部から離れた九州にも鉄道が敷かれるなど、地方にも近代文明の波が及び始めた世であった。

 当時は明治の初頭に始まった義務教育が格段に定着してきた頃だった。
 ケイゴほどの年頃の子供なら大半は尋常小学校に通っているが、ケイゴは学校に行かず福岡の市街にある大きな屋敷で下働きをしていた。西洋風の重厚で絢爛なその館には資産家の夫妻が暮らしている。

 使用人は十数人おり、ケイゴは父母とともに家族ぐるみで住み込みの使用人として雇われていた。ここに来る以前家族で住んでいた家は雨漏りすきま風がひどく、まさにぼろ家と言うべき有様だったことをうっすらと覚えている。
 屋敷は広大で、まだほんの子供であるケイゴにも掃除、洗濯、庭仕事などたくさんの勤めがあった。
 家族ぐるみで雇われてるとはいったが、ケイゴの父母はあまり良い使用人ではなかった。他者の前では媚びへつらい、見えない所でうまく手を抜き、ケイゴに仕事を押し付けた。
 
 その日もケイゴは任された雑務を夜遅くまでこなしていた。山ほどの野菜の皮むきを終えて、使用人たちが寝泊まりする離れに戻ろうとしていた。
 この夜、のちにケイゴの運命を大きく変える出会いが訪れる。
 
 炊事場を出て長い廊下を歩き、玄関広間にさしかかる。
 目指すべき裏口は反対方向なのだが、玄関広間には旦那様が買い集めた調度や美術品が飾られている。目まぐるしく変わる展示をこうして夜中にゆっくりと眺めるのを、ケイゴは密かな楽しみにしていた。

 ケイゴにはそれらの価値や良し悪しは分からないが、技巧を凝らした品々は圧倒的な絢爛さでもって疲労をしばし忘れさせた。自分の身長の倍はありそうなアンティークの振り子時計。繊細な模様付けがされた青磁の器。高い天井にはきらきらと輝く硝子 がらす製のシャンデリアがぶら下がっている。

 玄関広間の真正面には大きな階段があり、二階へと続く踊り場の壁にはいくつかの絵画が飾られている。二階は屋敷の主である夫妻の私的な部屋が多く、仕事以外の用事で近付くのははばかられるのだが、今日ほど遅い時間ならば誰にも見咎められないだろう。

 そう考え、踊り場に視線を向けた時だった。
 踊り場に、ひとりの少年が音もなくたたずんでいた。

 年の頃はケイゴよりいくつか上だろうか。
 両腕を組み、階段の手すりに軽く体を預けて立っている。
 大きな三角の襟が特徴の上着に、膝丈の洋袴 ズボン――子供用の水兵服は、成長期前の小作りな体にぴたりと合っている。ケイゴの着古した着物と違って少年が身に着けた紺色の布地はつやりとした光沢を放っており、この館の主である旦那様や奥様と同程度には上層に身を置いている者だと察せられた。
 踊り場の壁の高くにある大きな窓から、月のひかりが煌々と射し込んでいる。
 つんと立った短髪は赤味がかった茶色で、毛先が月光に透けて炎のような緋色に輝いていた。

 夫妻の子息は遊学のため家を出ており、使用人もケイゴの他はみな大人だ。この屋敷で初めて目にした同年代の子供の姿にケイゴは興味を持った。
 なにより、絵画と見間違うほどの眩いかんばせ、豪奢な空間でも抜きん出て目をひく存在感は、抗いがたい魅力を放っていた。ケイゴはふらふらと赤い絨毯が敷かれた階段を登っていく。

……こんな夜中まで働いている子供がいたのか」

 ケイゴを視界に入れた少年が言う。居丈高にも聞こえる少年の物言いに構わずケイゴは更に近付いていく。手を伸ばせばつるりとした白磁のような頬に触れられそうな距離まで寄ると、彼の瞳は髪と正反対の鮮やかな青緑色であると気付いた。

「ばりきれかけん絵かて思うたばい。ばってんそっちこそこげん夜中に何しよーと?」

 ケイゴが興奮気味にまくしたてると、少年はきゅっと眉根を寄せた。のちに聞いたところによると、これは方言を聞き取れず戸惑っていたらしい。ケイゴはそんなことも露知らず、きらきらした瞳で少年の返事を待ちわびていた。やがて、少年は毒気を抜かれたようにふっと相好を崩した。



 以来、ケイゴと少年は屋敷の中で度々逢うようになった。
 ケイゴは使用人たちの間でも働き者であると認められていたので、夜遅い時間に姿を消していてもまたどこかで仕事をしているのだろうと、とやかく言う者はいなかった。

 少年は、轟炎司と名乗った。
 炎司は神出鬼没で、必ずケイゴがひとりでいる時に現れた。そしてなぜか、日が出ている間は姿を見せなかった。毎日会えるとは限らないのだが、今夜こそ炎司に会えるかもしれないと思うと、ケイゴは昼間から足取りが浮き立つような心地になるのだった。

「ケイゴはよくさえずる。小鳥みたいだな」

 ある時炎司がそう言った。自分がこんなに喋り好きだということを、ケイゴ自身初めて知った。
 初めのうちはケイゴが一方的に喋るばかりだったが、次第に炎司も話に応えてくれるようになったことをケイゴは心の底から喜んだ。

 そのうち、炎司は広い屋敷のどこかにある自室にケイゴを招くようになった。
 部屋に行くときは決まって、炎司はケイゴに目を瞑らせ、自ら手をひいて先導した。こっそり目を開けることもできたが、なぜかそうする気は起きなかった。

 部屋に着くと、炎司は言いつけ通り目を閉じたままでいたケイゴに
「良い子だ」
 と言って、到着を知らせてくれる。少しだけ目を細めて笑うと、青緑の瞳が弓なりの月のような形に変わる。その時彼の瞳はひときわ輝きを増すように見えた。
 ケイゴはこの輝きを見るたびに、炎司とは少ししか歳が離れていないはずなのに、何もかも見通されているように思えてどきまぎしたものだった。

 しかし、夢のような日々の中にも少しばかり気掛かりなことがあった。
 まずは炎司の境遇について。
 ケイゴはこの屋敷の構造はほとんど把握しているつもりだった。だが彼の部屋は広い館のどこかにあることは確かなのに、頭の中の間取り図のどこにも合致しない。

 彼の自室はこの屋敷の多分にもれず贅沢なつくりだった。いつも通されるのは応接間のような部屋だが、奥に扉があり、そちらに寝室があるようなことを言っていた。
 炎司は何か表に出られない事情があって、昼間はこの部屋で秘密の生活をしているのだろうか。
 下世話なことだが、旦那様の隠し子かと想像したこともあった。

 次に、自身の体に残るあざについて。
 炎司との逢瀬を重ねるうち、ケイゴは自分の手に薄赤いあざが付いている時があると気付いた。見た目は虫刺されに似ているが痒みや痛みはない。指先でつんと触れたほどの小さなあざが、手の甲や手首のあたりに点々と散っている。半日もすれば消えてしまうのだが、そのあざが見られるのは決まって炎司の部屋に行った翌日だった。
 部屋に連れて行かれる時は炎司がケイゴの手をそっと掴み先導する。あざの位置は炎司の指先が触れていた位置と丁度一致する。

 しかしだ。炎司はあまり笑う姿を見せず少々不愛想な所はあるが、子供ながらに紳士然とした態度でケイゴに接していた。肌が変色するほど強く握られた記憶はないし、炎司のあかぎれ一つないひんやりとした手とこのあざはどうしても結びつかなかった。
 なにより、ケイゴにとっては炎司とともに過ごす時間こそが至上で、彼の不透明な境遇や自身の体のことなど些細な問題だった。


 炎司との交流を重ねるうちに、ケイゴは都会者のような丁寧な言葉遣いを覚えていった。
 炎司はそのままの喋り方でも構わないと言ったが、ケイゴは彼にきちんと敬意を示したいと思い、そのようにした。本来ならきっと雲の上の人であろう炎司と交流を持ち、自由に言葉を交わしている。そんな日々は奇跡のように幸福なのだった。

 炎司は学校に通えずにいるケイゴに文字を教えた。
 部屋の中央に鎮座する舶来の卓の上に本を広げ、炎司がゆっくりと文章を読み上げる。ケイゴは隣に椅子を並べて真剣に文字を目で追い、時には用意された紙に字を練習した。ケイゴは利発で飲み込みが早く、仮名だけでなく漢字を読み書きできるようになるまで時間はかからなかった。

 炎司は読書家のようで、沢山の本を所有していた。学術書など専門的なもの、大衆小説のような俗っぽいもの。異国の伝承や想像上の怪物の物語を集めた本。
 炎司は初めは簡単なものからケイゴに読み聞かせてやり、若木に水を与えるようにケイゴに知識を与えた。
 ある日、ケイゴは人の名にも漢字が当てられていることに気付き尋ねた。

「えんじさんの名前って、どう書くんですか?」

 炎司は胸のポケットからつやつやとした淡い緑色のペン――翡翠を削り出した特注の万年筆を取り出し、当時は貴重だった白いなめらかな紙に書き付けた。

『炎司』

 えんじ、炎司。
 炎を、司る。

 口の中で繰り返す。甘やかな音しか知らなかった彼の名に、強靭な意味が裏打ちされていく。
 炎司が時折見せる知識への貪欲さや啓蒙の意欲を、ケイゴは憧憬を込めて好ましく眺めていた。惰性で日々の生活を回す両親らとは違って、炎司は闘志をもって今を生きている。
 まさに情熱の支配者のような彼にぴったりの名だと、ほうと溜息をつく。

「かっこよかぁ。俺の名前にも漢字があるのかな」
「タカミ、ケイゴか」

 炎司はふむと頷き、すらすらペンを走らせた。手をどかした紙の上には二つの漢字が書かれている。

「姓はこの辺りの地域の出なら『鷹見』だろう。名の方はどう書くか知らんのか?」
「聞いたことないです」

 学校なぞくだらないというのはケイゴの両親の弁だ。おそらく彼らは識字の能力が不十分だ。子の名前の漢字など考えていない可能性が高いとケイゴは想像した。
 すると炎司はしばし逡巡して言った。

……だったら、これはどうだ」

 先ほどの姓の下にさらに二文字、書き加えた紙をケイゴの前に差し出す。

『鷹見啓悟』

 ケイゴは紙を受け取って、じいっと眺める。
 これが、俺の名前。炎司さんがくれた名前。あたたかな何かがじわじわと体に満ちていく。物心つく前から決まっていた呼び名より、彼がくれたこの二文字はずっと価値あるもののように感じた。

――ありがとうございます。これ、どういう意味なんですか?」
「意味は……いや。名は体を表すと言う。お前の名の意味は、お前のこれからの生き方が決めていけばいい」

 博識な炎司のことだ。この二文字に込めた意味、あるいは願いを考えていない訳がない。
 だが炎司はそう言って、与えた名前の意味をケイゴに託した。

「分かりました。大切にしますね」

 この日、両親に使い潰される存在にすぎなかった子供は『啓悟』になった。





 それから数年が経った。
 啓悟の薄っぺらな体はずいぶん成長し、頭一つ分ほど開いていた炎司との身長差も、少し背伸びすれば同じ高さになるまで追い付いた。
 炎司は同世代のはずなのに自分よりずっと大人びていて、一生届かない存在のように感じていた。まだ二次性徴のきざしもない子供の範疇を出ない体だが、それでも啓悟は自身の成長を誇らしく思った。

 季節は巡り、年果てる十二月。
 屋敷の者たちは年末に向け慌ただしい日々を過ごしていた。そんなある日、啓悟が街へ買い出しに行った時のことだった。

 屋敷から出て程なく歩くと、そこは福岡でもっとも賑々しい市街地である。市街には昨今急速に増え始めた背の高い建物が立ち並んでいる。それらの建造物の合間を縫うように、老若男女、富める者と貧しき者、大勢の人々がひしめいていた。
 手際よく用事を済ませた啓悟は、大通りをすたすたと歩いていた。帰路を急ぐその道すがら、細い路地の前を通りかかった。
 日当たり悪いその通りの奥に、見覚えのある人物がいたように思いふと足を止めた。数歩戻り、建物の影からそっと盗み見る。

 確かめた視線の先にいたのは、啓悟の父親だった。
 やはり見間違いでなかった。父は裾の擦り切れた外套を羽織って、帽子を目深に被り顔を隠している。父のほかに男数人がいて、顔を寄せ何やら話し合っている。男たちはがたいの良い中年もいれば瘦せこけた若者もいた。
 皆一様に言えるのは、所謂ごろつきのような格好をしているということだ。彼らは明らかに人目を忍び、有体に言えば密談をしているようだった。

 啓悟は内心警戒を強める。今の屋敷に世話になる前、ぼろ家に住んでいた頃。父がああいった柄の悪い風体の者たちとつるんでいた記憶がある。
 まさか、何かよからぬことを企んでいるのだろうか。
 気がかりではあったが、次の予定の時間が迫っていた。当面の間父の動向に用心しようと心に留め、啓悟はその場を去った。



 一週間後、事件は起こった。
 啓悟は夕食後の片付けを終え、ごみ捨てに屋敷を出た。冬の暮れは早い。裏門を出てすぐの所にあるごみ置き場の付近は、街灯もなく真っ暗だった。つまり、ならず者が潜むにはうってつけの場所だった。
 裏門の鍵を開け、敷地の外に出る。一旦地面に置いたごみ入れを再度抱え上げ、ごみ置き場にどさりと落としたその瞬間。

 何者かが背後から啓悟にそろりと近付く。啓悟が振り向く間もなく細い首に腕がかかり、頸動脈を圧迫する。視界が、音が、すうっと遠のく。こういった荒事に慣れている者の手管だった。啓悟はなすすべもなく、気を失った。
 
 小一時間ほど経った頃。北風が着物の隙間に忍び込む寒さで啓悟は目を覚ました。
 はっと起き上がって辺りを見回し、屋敷の方向を見据える。裏門は大きく開け放たれていた。
 嫌な予感が瞬く間に啓悟の胸を支配する。

 がばりと起き上がり、啓悟は駆けた。裏門をくぐり、庭を突っ切り、屋敷へとたどり着く。
 啓悟がごみを捨てに出る前は、翌日の仕込みを行う者と宿直の当番の者が二、三人残っているのみだった。ところが今は、夜の屋敷とは思えぬほどのざわめきが漂っている。音の源は炊事場の向かいにある部屋――使用人たちの詰所のようだ。

「何かあったと!?」

 詰所に駆け付け、バンと扉を開ける。
 まず視界に飛び込んで来たのは、ずらりと並んだ使用人たち。残っていた者に呼ばれたのか全員雁首を揃えている。
 次に、床に転がされた啓悟の両親の姿。後ろ手に縛られて、着物は汚れ、肌の所々に暴行を受けたような跡があった。ただならぬ様相に啓悟の心臓がぎゅっとこわばる。

「おう、ケイゴ。どこ行っとった」

 刺々しい視線がいっせいに啓悟に突き刺さる。

……父さんと母さん、悪かことしたんですか」
「こん男がな。こそこそしとると思ったら、玄関ん鍵ば開けとった」

 そういって啓悟の父に向って顎をしゃくった。
 別の使用人が唾を飛ばしてがなり立てる。

「やっぱり前からおかしいと思ってたんや。お前もどうせ手ェ貸しとったんやろ!? 言えや!」

 そう言って白状しろと迫られた母は、私は何も知らないと髪を振り乱しわめいている。
 不満、猜疑、鬱憤。誰が爆発してもおかしくない。
 張り詰めた空気の中、使用人の中でも腕自慢の男が動いた。床に這いつくばったままだんまりを決め込んでいる父の頭を掴む。乱暴に揺さぶられた父がククク、と不気味な笑い声を漏らす。低い笑い声が、やがてゲラゲラと喉を破らんばかりの哄笑に変わる。

「阿呆共。もう遅か!」

 その瞬間、啓悟の耳は部屋の外の物音を聞きつけた。
 乱暴な足音。それも一つではない。ばらばらと廊下に反響する。複数人が屋敷を我が物顔で闊歩しているような。

 啓悟のよく回転する頭は、たちまち事件の大枠を理解した。
 やはり、啓悟の父は昔つるんでいたならず者たちと切れていなかったのだ。ここに雇われた頃は悪徳から足を洗った気でいたのかもしれないが、屋敷の内情を知ったのをいいことに襲撃を企てた。狙いはおそらく、強盗。金目の物や値打ち物はここにはいくらでもある。

 父が正面玄関の鍵を開けていたのはいわば囮で、本命は裏門だった。夜のごみ捨てで裏門が開く時間、それもか弱い子供である啓悟が出る日を狙って、啓悟を襲いまんまと敷地内に侵入した。
 その後侵入者たちは囮である父が騒ぎを起こしている間に、屋敷のどこかにひそんで襲撃の機をうかがっていたのだろう。数日前見かけた密談は、この打ち合わせだったに違いない。

 ざあっと血の気が引くが、他の者たちはまだ侵入者の存在に気付いていないようだ。
 もっとも憂慮されるのは旦那様と奥様の安否だ。
 啓悟は血相を変えて部屋を飛び出そうとしたが、一人の使用人が啓悟の腕をつかんだ。啓悟の軽い身体はがくんとつんのめって床に倒れる。

「ケイゴはあいつらの子供やろ、お前も噛んどるんやなかと?」

 そう食ってかかる姿を見て、ぞっとする。働き者である啓悟は、使用人たちからは比較的目をかけられて過ごしていた。このような猜疑の目で見られたころはかつてなく、身がすくむ。だが啓悟は果敢に立ち向かった。

「争ってる場合やなか! 旦那様と奥様が危ない、はやく警察を!」
「黙れッ」

 言いかけた所でみぞおちに鈍い痛みが広がる。胸の辺りに吐気がうずまく。
 呼吸がままならない。遠のく意識の中、両親が折檻を受ける声を聞いた。ここで、啓悟の意識は再び途切れた。
 
 
 
 ――あつい。
 身体が泥のように重い。また気を失っていたらしい。己の不甲斐なさに涙が出そうになる。息をするといがいがした空気が肺に飛び込んできて、啓悟はひどくむせた。
 まだぼんやりとしている視界には黒っぽい煙が充満していた。それに、肌が焼けるようにひりつく。

……火事や」

 火の元が近い。おそらく炊事所。かまどの火の不始末か、強盗たちが火を付けたのか。原因は分からないが、いずれにせよすぐこの部屋から脱出しなければ。
 よろよろと立ち上がった途端、何かに足を引っ張られてべしゃりと転んだ。
 恐る恐る視線をやった足首には、ごつごつした手が巻き付いていた。その手の主は、啓悟の父だ。父が道具棚の下敷きになりながら、啓悟の足首を掴んでいるのだ。

「ケイゴぉ。俺ん息子やろ、助けてくれや」

 使用人たちの姿はすでに見当たらない。父はどうやら使用人連中にも仲間の強盗達にも見捨てられたらしい。煙にむせながら、哀れに助けを乞うている。
 啓悟は足首を掴まれたまま座り込んで、父の様子を素早く観察する。

 うつ伏せに倒れた体の上に、硝子戸 がらすどのついた重厚な道具棚がのしかかっている。
 肩より上は下敷きになっておらず何とか動かせるが、下半身は完全に人の厚みを失っていた。口からはだらだらと血がこぼれている。
 周囲の床に硝子の破片が散らばっているので、下敷きの体には大量の硝子片が突き刺さっていることだろう。
 啓悟が助けようが助けまいが、すでに取り返しがつかない程の傷を負っていると思われた。

 その時だった。啓悟の頭上にふっと影が落ちる。
 背後に誰かが立っている。
 啓悟がはっと振り向くと、そこには鉄の花瓶を頭上に振りかぶった母の姿があった。
 父が充血した目をぐわりと見開き、言う。

「待――
「あああああぁぁああッ!」

 花瓶が啓悟のすぐ足元、父の頭に振り下ろされる。
 金属が床にぶつかる鈍い音と同時に、ぐちゃりと生々しい音が響く。赤く生ぬるいものが啓悟の肌に飛び散る。

 啓悟は柘榴のように割れた塊を呆然と見下ろした。父だったものの手は、いまだにぎちりと啓悟の足首を掴んでいる。
 父に手を下した母は、啓悟の横に力なく崩れ落ちた。
 床にはあっという間に血溜まりができて、母の髪や着物をどろりと汚していく。
 その口はブツブツと呪詛のような言葉をとめどなく吐き出している。

「私は何もしとらん……何も知らん聞いとらん……全部あんたのせいや、あんたと家持ったんが間違いやった、いやだ、痛か、間違いだなんていやだ、なしてこげんことに、いやだ、なんで、死、あああ、うぁ、があああああ!」

 低い声はやがて悲痛な叫びに変わり、母は半狂乱で血溜まりを転げまわる。
 啓悟はなんとか足首の手をほどいて、母の体を引き起こした。

「ふふ、ふ、何もかもおしまい、ぜんぶ滅茶苦茶」
「母さん、そんなことない!」
……こん子はッ! 一度おまえの目で見てみなさい!」

 啓悟の反論を受けた母はカッと目をいからせて、啓悟の腕をぐいと引っ張って詰所から廊下へ連れ出す。
 廊下には詰所の中より数段濃い煙が渦巻いていた。
 黒く煤けた視界の中、扉のすぐ前に腕自慢の使用人と、見たことのない男――強盗一味のひとりが折り重なって倒れていた。

 腕自慢は首を一文字に切り裂かれている。死んでいる。
 強盗の後頭部は大きく陥没している。死んでいる。
 そして少し離れた所にもう一人、強盗が白目をむいて転がっている。黒い煙を吸いすぎたのだろう、ぴくりとも動かない。死んでいる。

 三者ともそれぞれ凶器を握っている。攻防あるいは仲間割れの末に火事に巻き込まれたと思われた。
 立ち尽くす啓悟の横で母が言う。

「家もなか、旦那もなか、私が殺した。これから生きてけるわけなか……どうしたらよかと! ふふ、ッは、アハハハハ!」
「分からないよ! でもまずは逃げよう、母さん!」

 啓悟の叫びは母のケタケタと笑う声にかき消されて届かなかった。いつも無気力な母がこうも大きな声を出すのを、啓悟は初めて見た。
 だがそれは、彼女の中のなにかが決定的に壊れてしまったに他ならなかった。
 母はふらふらとよろめいて、火の元である炊事場の扉にぶつかった。炎に炙られ脆くなった扉があっけなく崩れる。
 途端、真っ赤な炎がぶわりと噴き出した。

「うぐッ……!」

 爆風にも似た気流が発生し、啓悟は玄関の方向へ吹き飛ばされた。
 ごろごろと床を転がる。何とか起き上がり振り向くと、廊下がたちまち炎で埋め尽くされていく。
 火の手の向こうに見える母の影は、炎に包まれ踊り狂うようにのたうっている。
 
「母さん――

 啓悟は必死に火炎の向こうに手を伸ばす。
 だが母は、そのまま諦めてしまった。
 やがて黒焦げになった体は、砂の城が壊れるように崩れ落ちた。

 啓悟は後ろ髪を引かれる思いをぐいと断ち切って、母に背を向ける。まだ道が残されている玄関の方向へ足を向ける。
 長い長い廊下を片足を引きずって進む。吹き飛ばされた拍子に挫いたらしい。煙を吸ったせいで息切れがひどい。
 一本道のはずの廊下を、まるで出口のない迷宮のように感じる。
 進む先に死体。また死体。よく知る者の死体、知らない者の死体。いくつもの死体の横を通り過ぎた。
 
 やっとのことで廊下を抜け、玄関広間に到着する。
 到着した途端に、玄関の正面にある大階段の途中に旦那様と奥様が折り重なって倒れているのが目に入った。
 近付いて見ると、赤い絨毯が濃く湿った色に染まっている。死んでいる。
 最悪の事態を避けられなかった。己の無力さにめまいがする。

 それでもまだ諦めたくないという思いが、啓悟の身体を突き動かす。
 よろよろと玄関の扉にすがりつく。ありったけの力をこめて押し引きするが、強盗が鍵を破壊したらしく開かない。
 そうこうしているうちに、すぐそこまで火の手が迫ってきた。
 何か脱出に使えるものはないかと、広間の中央に移動する。ぜいぜいと息を切らしながら辺りを見回すと、彼と初めて出会った踊り場が目に入った。

「炎司さん……

 どこか浮世離れした雰囲気を持つ彼のことを、啓悟は自分とは一線を画した存在のように感じていた。根拠もなく無事でいると思っていたが、彼もこの屋敷で暮らしているのだから危機の渦中にあるはずだ。
 彼の部屋はすぐには分からない場所にある。強盗の手は避けられたと思うが、火事はどうだろうか。分からない。
 炎司のことを思うと、啓悟の小さな体は焦燥で塗りつぶされ、心臓がぎゅっと潰れそうになる。
 その時だった。

 啓悟の頭上で、ブツリと何か太いものが切れる音がした。
 はっと顔を上げると、すぐそこにきらきら輝く塊が迫っていた。

 シャンデリアが落ちて来る。

 気付いた時には手遅れだった。
 地響き。ズンと骨を射抜く衝撃。砕けた硝子 がらすの悲鳴。

 うつぶせで倒れた啓悟は、大きなシャンデリアの下敷きになっていた。
 肩より上は下敷きになっていないが、脚がぴくりとも動かない。体じゅうに硝子の破片がいくつも刺さっているのが分かる。奇しくも先ほどの父と同じような格好だ。
 視界が暗く遠ざかる。炎も肌を焦がす距離まで追いついてきた。
 霞みがかった意識の中で、かすかな音が響いた。

 ――啓悟。

 誰かに呼ばれている。
 ままならぬ体を叱咤してどうにか面を上げる。
 すると、目の前につやりとした革靴の爪先が並んでいた。その靴の主が、叫んでいる。

「啓悟ッ!」
……炎司さん」

 望み焦がれた彼の姿がそこにあった。
 煤汚れ一つなく、場違いに美しい姿のままで。
 不思議なことに、彼の周りを炎が避けているようにさえ見えた。

「炎司さん、無事でよかった」
……迂闊だった」

 炎司は床に這いつくばる啓悟を覗き込むように跪いた。ぐしゃぐしゃと髪をかき回し、歯を食いしばって言う。

「炎司さん。俺……

 啓悟がほとんど吐息のような声を漏らす。終わりがすぐそこまで迫っているのは明らかだった。数多の未練が走馬燈のように啓悟の目の前を駆け巡る。

……俺、まだやってないこと沢山ある。学校にだって行けてない。炎司さんの部屋の本も少ししか読めていない。もっと知りたかった、話したかった、あなたのこと、」
「もういい、喋るな」

 床に投げ出された啓悟の手に、炎司の手がそっと重なる。死が決定的に訪れるまでは慰めになってやろうと。せめて最期だけはこの弱い生き物に寄り添ってやろうと。
 そんなふうに情けをかけられて、啓悟はどうしようもない歯がゆさを覚えた。
 あっさりと消えてしまうのが悔しくてたまらない。まだ生きることを諦めたくない。
 熱に浮かされたようにうわ言を吐き出す。

……いやだ、俺。まだ、諦めたくない。それに――

 啓悟。あなたがくれた名。
 その意味を、まだ全うできていない。

 世界はみるみるうちに暗くなっていく。目を開けているはずなのに何も見えない。
 手足がすうと冷えていく。
 遠ざかっていく意識の中で、唇に何か柔らかいものが押し付けられた。生ぬるい液体が流し込まれる。液体は喉を通り、じわりと臓腑に染み渡る。

 その先はただ静かだった。
 老いも死もない、永遠の場所に啓悟は足を踏み入れた。
 そうして、人間としての啓悟の道は終わりを迎えた。





 翌日昼。炎に包まれていた屋敷はようやく鎮火された。
 罪過は強盗殺人および放火。強盗たちは報酬の分配が原因で対立の末、火災に巻き込まれて全員が死亡したと見られている。
 屋敷は全焼。焼け跡からは二五名の遺体が発見された。内訳は屋敷の主人である夫妻、使用人十数名、そして侵入者五名。

 ただし、使用人名簿に記載のあった男児・鷹見ケイゴ。
 彼の遺体はとうとう見つからなかった。
 子供の骨は脆く細い。彼は骨ごと跡形もなく焼けてしまったのだろうと結論されて、この痛ましい事件は幕を閉じた。









 気が付くと、ほの暗いどこかにいた。

 音も遠い。光も遠い。繭にくるまれたように全てが不確かだ。
 おぼろげな世界の中で、己の呼吸の音だけが聞こえた。
 呼吸する。心臓が動く。とくとくと鳴る。
 鼓動が伝播する。指先まで血が巡っている。

 重い雲が晴れるように、少しずつ音と光が戻って来る。
 まどろみを脱ぎ捨てて、浮上する。瞼を開く。

――俺、生きてる」

 目を覚ますと、木目の天井が目に入った。
 上等な造りの座敷だ。体がふわりとしたものに包まれている。どうやら畳の上に敷いた布団の上に寝かされているらしい。

「啓悟。目が覚めたか」

 聞き覚えのある凛とした声が響く。
 啓悟が視線だけ動かして声の元を見ると、炎司が正座をして啓悟の枕元に控えていた。藍墨色の着流し姿で啓悟を見下ろしている。
 啓悟は起き上がろうと腹に力をこめるが、うまくいかず布団の上でわずかに身じろぎするのみとなった。意識ははっきりしているが、体に力が入らない。

「まだ体ができあがっていない。無理をするな」
……はい」

 啓悟はそう答えながら状況把握につとめる。部屋に窓はなく、時間は分からない。隅の文机の上に洋灯 ランプが置かれていて座敷をあたたかく照らしている。
 胸までかけられた布団はふかふかと柔らかい。浴衣に着替えさせられた体には、あの事件での怪我や火傷の痕跡など一つもなかった。全身に刺さっていたはずの硝子はない。力が入らないだけで、脚の感覚もある。
 落ち着かない様子の啓悟に、見かねた炎司が口を開いた。

「お前は、永遠に死なない体になった。これを見せれば分かるか」

 そう言ってぐわりと大きく口を開けてみせる。
 白い粒がずらりと並ぶ中、ひときわ目をひくのは上顎の糸切り歯だった。炎司の糸切り歯は、常人のそれよりもはるかに大きく尖っている。

 それを見てとある記憶が甦る。啓悟ははっと息を飲んだ。
 炎司の部屋で読み聞かせてもらった、異国の伝承や想像上の化物の物語を集めた本。
 その本にあった怪物の名は。

「吸血鬼……!」
「その通り、俺は吸血鬼だ。……そしてお前も同族となった」

 炎司はむっつりと首肯して、事細かに述べていく。
 吸血鬼。神出鬼没で不老不死、夜に生きる異形。
 人間離れした怪力を持ち、生き物の血や精気を糧とする。鋭い牙を突き立て吸血するが、慣れると指先からでも血を吸い取ることができる。その際指先が触れた箇所は薄い痣になるという。

 啓悟はそれを聞いて、炎司にまつわる数々の謎にようやく合点がいった。
 夜にしか現れないこと。自身の肌に残った痣のこと。
 あまり笑わないのはこの尖った牙を見せないようにするためか。
 聞けば、炎司は少年の姿のまま百年以上は生きているという。まさに本にある伝説通りの存在だ。話を聞き進めるうちに、ひとつ疑問が起こる。

「あのう、本では吸血鬼は異国の伝承だって。でも炎司さんは異人ではないような」
「似たような怪物は世界中に存在している。異国では『ヴァンパイア』の呼び名が通りが良いそうだ。東洋では『鬼』の一種として括られてきたことが多い。地域差こそあるが、基本的な生態は同じようなものと思っていい」

 次いで、誤解の多い事柄について補足を加えていく。
 血を吸われると同族になるという話は誤りで、正しくは吸血鬼の血を与えられた者は同族になるというのが正しいこと。
 日光が弱点だが力の強い吸血鬼は日光を克服しており、炎司もその一部であること。炎司が夜にしか姿を現さなかったのは、単に屋敷の者と鉢合わせないようにするためだったらしい。

「そういうことだったんですね。色々、腑に落ちました」
 啓悟が頷くと、ふと炎司の表情が翳った。 
……あの夜、俺が留守にしている間に賊の襲撃があった。屋敷に戻るとあの惨状で、死にかけているお前を見つけた」

 そう言って炎司は事件の顛末を語っていく。
 炎司は不死の怪物、それも永遠に少年の姿である。成長しない体というのはなにかと不都合が多く、社会に紛れて生きていくには人間の協力者が不可欠だった。
 長く生きてきた炎司は各地に人脈を持っており、今は亡き資産家夫妻も協力者の一翼であった。夫妻は屋敷の隠し部屋を炎司の住処として提供し、炎司は見返りとして骨董蒐集が趣味である彼らに古美術界への伝手を紹介していた。

 だが吸血鬼である炎司を夫妻が匿っていたことと、今回の事件は無関係だという。
 強盗一味があの屋敷を狙ったのは単に金品強奪が目的だった。無頼漢であった啓悟の父が使用人として雇われていたのも、襲撃があった晩に炎司が用事で家を出ていたのも偶然だ。まさに不幸な偶然が重なった悲劇だった。

 炎司は重傷を負った啓悟を初めは看取るつもりでいたが、すんでの所で見捨てられず、自身の血を与えたという。
 燃え盛る屋敷から脱出し、今は馴染みの旅籠屋に身を寄せている。

……お前が眠っている間ずっと考えていた。お前を同族にしたことは正しかったのか。長く生きるということは、一人きりで尽きぬ悩みと歩み続けるということだ。知らぬ間に惰性が纏わりついて足取りは重くなる。汚泥に沈まぬよう己を奮い立たせてなんとか生きる日々など、知らぬ方が幸福だろうと」

 訥々と語る炎司の顔は洋灯 ランプの光に淡く照らされている。その表情には迷いと後悔の色がにじんでいるように見えた。
 炎司がこのように内心を吐露する姿を、啓悟は初めて目にした。
 定命の者を見送り続ける恐怖、ままならぬ世への諦観、孤独に屈しまいとする奮起。
 彼が時折見せていた感情の揺らぎの裏には、このような苦悩があったのだと得心がいった。

 同時に自身の内に一本気な芯が芽生えたように感じた。
 何しろ、啓悟は不老不死の一族となったのだ。今の自分ならば、一人きりで歩み続けてきたという彼に寄り添える。彼を支えられる。

……炎司さんの言う悩みとか惰性とか、俺には難しいみたいです。まだ十年とちょっとしか生きてないんですから。けどこれからどうなるかは分からない。道を見失って、迷子みたくみっともなく泣いてしまうかも。だから……そうならないように俺のこと、見張ってくれませんか」

 啓悟はそう言って炎司をじいっと覗き込む。
 啓悟の神妙な視線を受け止めた青い瞳が揺れる。
 炎司は神妙な顔で頷いたのち、ふいとそっぽを向いた。薄暗い部屋のせいで分かりにくいが、白い頬には赤みが差している。

 俺も、炎司さんのことを見ていますから。
 言葉にしなかった意図が伝わったのを見届けて、啓悟は満足げに微笑んだ。

……そうだ、腹が減っただろう」

 しばらくして、炎司が沈黙に耐えかねたように唐突に話を逸らす。
 おもむろに立ち上がると、隣の部屋から盆を手にして戻って来る。盆の上には小ぶりの缶詰が乗っている。缶の側面には赤い果実の絵と、啓悟が知らない異国の文字が書かれていた。

「ストロベリージャム……苺の砂糖煮だ。知っての通り吸血鬼は血や精気を糧とするが、人間の食べ物からでも栄養は摂取できる。効率は良くないんだが……お前はまだ吸血鬼の体が出来上がっていないから、人間の食べ物で十分だろう。それに、赤い食べ物は何となく空腹が紛れる」

 そう言いつつ座布団の上に戻り、共に持って来ていた缶切りを缶詰に突き刺したが、炎司の手つきは非常にぎこちないものだった。
 最初はなぜか缶切りを両手で握っていたが、それだと安定しないことに気付いて片手で缶を支えることにした。
 ところが、盆の上に置いて固定してやればいいものを、なぜか宙に浮かせた状態で缶を持っている。しかも傾けすぎて缶の切れ込みから果汁がこぼれかけている。
 啓悟は身動きのとれない体で、炎司が缶と格闘する様子をはらはらと見守った。

 数分後。何とか缶詰は開いたが、炎司の両手はジャムでべとべとになっていた。
 更に、皿や匙を忘れていたことに気付く。これでは啓悟に食べさせることができない。

「こういったことは不慣れで……力を込めすぎると潰してしまいそうだし、加減が難しいんだ」

 炎司は汚れた手を所在なくぶらつかせて、きまり悪そうに言い訳をした。
 啓悟は仕方ないといった風に微笑むと、餌を待つ雛鳥のようにかぱりと口を開けた。

 しばし逡巡ののち、意図を理解した炎司がおそるおそる啓悟の口元にジャムまみれの手を近付ける。
 差し出された指先に、啓悟はちょんと舌先をくっつける。
 柔らかくぬるりとした舌の感触に炎司の指がぴくりと反応する。
 まだ躊躇している細くなめらかな指に舌を這わせて、奥へ奥へと呼び込む。隅々まで舐めとり、そっと吸い付く。ちゅう、とあけすけな音が鳴る。

 甘美な味が啓悟の喉を通り、じわりと臓腑に染み渡る。
 啓悟の口の中と炎司の指はほとんど同じ温度で、そう気付いてようやく、啓悟は彼の同族になった実感を得たのだった。

 冷たさもなく温さもなくゆるゆると絡み合う心地よさ、境界を失くしてしまう錯覚。曖昧に溶け合う口腔内で、甘さだけが彼を彼たらしめていた。

 この甘さは苺のせいか、それとも彼の指だからか。
 この甘やかな時間をいつまでも味わっていたいと、啓悟は思った。

 
      ◇

 
 時は流れ、二十一世紀。
 二人の少年は各地を転々とし、手を取り合って生きてきた。

 成熟した吸血鬼は人ならざる力を備えることがある。
 炎司は炎を支配下に置く力を持っており、啓悟も吸血鬼になってしばらくすると赤く巨大なこうもりの翼が背中に生えた。
 飛行能力を持つ吸血鬼は珍しくないが、啓悟の翼は身の丈を超すほどで、他に類がない大きさだった。

「お前は俺より吸血鬼に向いてるんじゃないか」
 と炎司がこぼしたことがある。俺より、というのは冗談めかした言い方だったが、旧く濃密な血を引く炎司と、たった百年で炎司と肩を並べる力を付けた啓悟、どちらも強大な吸血鬼であることには違いなかった。

 今の二人のすみかは関東地方、炎司が所有するマンションだった。
 いまだまどろみの気配が残る寝室だが、窓にかかったカーテンの隙間からは淡い光が射し込んでいる。子供が一人で使うにはずいぶんと広いベッドの上で啓悟はうんと伸びをすると、ベッドの脇に立つ炎司にくるりと背を向けた。

……じゃあ、今日もお願いします」

 そう言いながら寝巻を脱ぎ捨てて、真っ白な背中と赤色に艶めく翼を炎司の眼の前にさらす。
 炎司はひとつ頷くと、右翼の付け根をぐっと握りしめた。
 力を込めて引っ張ると皮膚が張りつめ、やがてぶつりと裂ける。
 その真新しい裂け目から、めりめりと翼は引き抜かれた。
 慣れた手つきでもう一方も手にかける。啓悟の方も慣れたもので、わずかに眉をしかめただけでうめき声ひとつ上げない。啓悟の巨大な翼は現代社会で生活するには不便が多く、こうして翼を抜くのが二人の朝のルーティンなのだった。

 翼を抜いた跡の二つの穴ぼこは見るからに痛々しく、赤黒くぬめっている。
 だが血が流れ落ちるよりは早く真新しい肉が盛り上がり、みるみるうちになめらかな皮膚が編まれてゆく。そして仕上げと言わんばかりに、小指の長さほどの翼がぴょこりと芽生えた。
 この小さな翼が夕方には手のひらほどのサイズになり、夜間に最も成長して翌朝には元の大きさまで戻るというわけだ。

 芽生えたての小さな翼は啓悟の血でうっすらと湿っている。新芽に朝露がつたうように血がひとしずく、できたての肌へと落ちかける。
 そこに炎司の口が割って入る。翼をぱくんと口に含み、ちゅうと血を舐めとる。
 捕食にも似たたわむれを、啓悟は肩を震わせくすぐったいと笑う。
 これもいつからか繰り返される二人の習慣だった。

「炎司さん、もうじき夏休みですよ。今年はどこか遠出します?」
「なんだ、どこか行きたい所があるのか?」
「俺、久しぶりに人目気にせずに泳ぎたいです」

 他愛ない話をしつつ朝食を摂る。啓悟も炎司と同じように身支度を整えおり、小さな翼は人目につかぬようアンダーウェアの下に行儀よく収まっている。

 今日の朝食はトーストとベーコンエッグだ。啓悟はダイニングテーブルの向かい側に座る炎司をじっと見つめる。炎司はテーブルの中央に置かれたストロベリージャムの瓶を手に取り、トーストにたっぷりと塗りつけている。
 二人の暮らしにストロベリージャムは欠かせない品だった。こんがりときつね色に焼けた食パンの表面が、とろりとした深紅に覆われていく。この艶めく赤色を見るたびに、啓悟は自分たちに流れる吸血鬼の血に思いを馳せる。

 啓悟は死の際に炎司の血を与えられたが、朦朧とした意識のなか口に流し込まれた液体の味を残念ながら覚えていない。
 己の運命の分岐点である、炎司の血。
 その味を躍起になって何度も思い出そうとして、記憶の中の炎司の血はいつしかストロベリージャムの味に塗り替わってしまった。

 そして、炎司が毎朝儀式のように繰り返す行為。
 吸血鬼にとって同族の血は養分にならず、口に含んでも味はしない。にもかかわらず、炎司は啓悟の翼を舐めとる形で血を口にする。
 この無意味な行為を続ける理由を炎司ははっきり言うことはないが、共に長い時を過ごしてきた啓悟には彼の心が手に取るように分かる。

 もう百年も昔、啓悟がまだ人間だった頃。炎司は啓悟の血をつないだ手からひそかに摂取していた。同族になったが故に二度と味わえなくなった啓悟の血の味を、炎司もまた思い出そうとしているのだろう。

 つまり、二人とも似たようなことをしている。ありし日の血の味を、甘やかに反芻しているのだ。
 啓悟が目を細めて笑うと、琥珀の瞳が弓なりの月のような形に変わる。黙々とトーストをかじっていた炎司が啓悟の雄弁な視線に耐えかねて、むすっとして言う。

「おい、その目をやめろ……何もかも見通されているような気がしてくる」
「見通せてるとしたら、きっとあなたに似たんですよ」
「フン。言うようになったな」

 炎司はきまり悪さをごまかすように眉間に皺を作る。それに負けじと、啓悟は笑みを深めた。

「それじゃ、行きましょうか」
「ああ」

 白い半袖シャツに紺のスラックス。揃いの制服に身を包み、玄関の扉を開けた。
 人々に混ざり、そこらにいる学生のような顔をして雑踏を歩む。一人では流されてしまいそうな日々の移ろいも、二人ならば足取りは軽い。

 この世界を味わい尽くすまで、甘やかな血と連れ立っていく。
 二人には、ありあまる悠遠があるのだから。




end


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