魔王討伐〜エンディングまでの話
『魂廻り』後の出来事
@fengli25
アオ主
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少年の肩から光が飛び散った。
魔王の剣戟より放たれた一撃をいなしきれず、肉を穿たれ、かろうじて骨は避けたものの大きく姿勢が崩れた。危機的状況だ。降ろされた右腕はそう簡単に上がらないだろう。剣先がむなしく床を削る。相対する魔王の唇が卑しく歪む。二撃目が、すぐ目の前まで迫ってくる。
そのときアオガミの聴覚は別の音を拾っていた。巨体に見合った敵の剛腕が振りきられる風切り音でも、少年のすぐ後ろから援護に割りこもうとするクシナダの詠唱でもない。叫び声だ。
(何笑ってるんだクソが!!)
それも聞くに堪えない罵声だ。戦闘時は滅多に言葉を発さない少年の声が、アオガミの内側で乱反射する。同時に、揺らいでいた重心が地を捉え、勢いをつけて前へと振りかぶった。ナホビノの力を得た少年が最も得意とする技能、彼曰く「やられたらやり返す」反撃の剣だ。
「ぐぅ!?」
予想外の衝撃を受け止めきれず、後ろへたたらを踏んだ魔王に容赦のない追撃が飛ぶ。
「八の雷よ!」
(好き勝手やりやがって!)
まだ動かせる方の腕を掲げ、轟雷を呼び寄せる掛け声と同時に悪態が飛ぶ。少年の口からではない。おそらくアオガミ以外は拾えていない、内から溢れる叫びだ。
降り立った雷は魔王の腹に直撃した。全てを飲みこもうとする貪欲さを象徴するかのように、割かれた腹肉の内に宿していた牙と舌が焼け焦げている。負傷した魔王を庇うようにして飛び出した護衛たちを、アプサラスとリリムが迎え撃つまでの混戦の最中、文字通り少年と一体化していたアオガミは絶え間ない叫び声をぶつけられていた。もしもナホビノではなく神造魔人としてこの場に立っていたなら、苦渋に満ちたしかめ面が拝めただろう。
少年は叫ぶ。
(さっさとくたばれ!)
激情をそのままぶつけるように、悲痛さをもって、むしろ泣き出してしまいそうな声で。
(何が創世だ偉そうに! 迷惑なんだよ!)
少年は叫び続ける。
(どうしてこんな奴らのために、俺たちが苦しまなきゃいけないんだ!)
目の前の悪魔を否定し、湧きたつ憎しみを吐きつける。
それは、アオガミが彼の「叫び声」を聞けるようになってから、最も明確に突きつけられた拒絶の言葉だった。
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魔を生命、人を知恵とし、この二つが合一することで原初の姿に戻った神をナホビノという。かつて創造神により禁じられたとされる古の記憶は、つい数日前、神造魔人アオガミが手にした知恵によって現へと引きずり出された。
はるか遠い過去に途絶えたはずの威光はダアトを照らした。多くの悪魔は、無作為に食い散らかしてきた人の血肉から牙を外し、その内にある魂を求めるようになった。禁じた神はもういない。ただの被造物ですらナホビノに戻れたのだ。ならば悪魔であれば、貶められた神であれば、どれだけの力を手に出来るのか。
彼らはどんな手段を使ってでも知恵を求める。この事態を重く見たのは、かつて創造神の軍勢として先陣を切っていたベテルだった。混沌の悪魔どもを根絶やしにすべく神の残党は牙を剥く。しかし。各地に支部を持つベテルの配下に、当のナホビノがいることを疑問視する悪魔は少なくない。
たった今、激戦の末に斬り捨てた魔王もその一柱だった。
主を失った魔王城の最奥で、少年がひとり立っている。切り揃えられた黒髪と花の図柄をあしらった黒服が目立つ少年は、不意に糸が切れたようにその場へとしゃがみこみ、大きく息を吐いた。
「どっと疲れた……」
言葉の通り明らかな疲労感を滲ませた独白だった。些細な風で吹き飛んでしまいそうな頼りなさの背後から、男の声がかけられる。身体に不調があるのか、と片割れの身を案じる問いかけに少年は「気にしないでいい」と答えた。
少年と並んだその姿は、白い装甲を纏った人ならざる神造魔人のものだ。筋骨隆々の引き締まった機体に張り巡らせるようにして走る、赤い亀裂が目を引く長身の男は、自分よりひとまわりもふたまわりも小さな体を見下ろし観察する。
打撲・裂傷の類は認められない。魔王に貫かれ負傷した肩には傷痕すら残っていない。治療にまわったクシナダの手際が良かった部分もあるが、殆どはナホビノの自己治癒力によるものだろう。
つい先ほどまで二人は一人だった。混沌の魔王を討伐すべく神の力を振るっていた一人が二人に分たれたのは、何も任務を達成した安堵からではなく、ひとえに生命側……神造魔人アオガミの意思によるものだった。
「少年、私の我儘に付き合わせてすまない。龍穴を探知する前に再度合一することを推奨」
「いいよ、もう少しこのままで」
「しかし」
「アオガミ。俺の我儘には付き合ってくれないのか」
(身体がだるいわけじゃない)
「……了解」
外と内、両側からの声を受け、しばらく間を置いてから引き下がる。釘を刺された神造魔人の苦悩もついでとばかりに形を潜めた。
内から響く声、目の前の少年から発せられる声質と同じくする声は、合一を解いた状態でも思考めがけて飛びこんでくる。制御できるものでもなく、どういった法則で聞こえてくるのかも分からない。ただ、きっかけだけは心当たりがあった。
――――あの夜。マガツヒの光が漂う部屋で、文字通り少年と「肉体を繋げた」瞬間から、アオガミの聴覚は朧げな音を拾っていた。夜の一件からくる不調と判断した音が徐々に大きくなり、言葉としてはっきり感知できるようになったのは魔王城に潜入してからの出来事だった。
城内の悪魔を斬り伏せるたびに「どうして」と響く。先行する天使の指令を受けるたびに「うるさい」と響く。同じ任務にあたっていた学友を見つけたとき「太宰」と呼びかけた音は他より穏やかだったが、傍らの大天使、アブディエルを認めた瞬間、軋みが混ざった。
結局のところ、言葉として発せられた場面は一度もなかったが、幾たびも拾いあげた雑音は聴覚の不調などでなく、片割れから流れてくる突き刺さんばかりの叫び声なのだとアオガミは判断した。判断してなお、少年には何も告げなかった。
かつてアオガミは少年を理解できなかった。大雑把にまとめてしまえば人間そのものをよく分かっていなかったのだが、被造物の定めを差し置いても、己の知恵がどのように考えた上で行動しているのか、納得できたことは一度もなかった。少年の学友にあたる少女二人の運命が、悪魔に狂わされたあの日までは。
他者からの問いかけに言葉を交わし、肯定し、否定して、けれどもそこに意思はない。相手の望みに合わせる時もあれば、特に理由はなく反抗する場面も見せる。だがそこに意図はない。
対立する選択肢を足蹴にして行き来するような、そんな不可解さを体現してきた少年は、あの日から思うように動けなくなった。少なくともアオガミの目にはそのように映った。
どの答えを選べばいいのか決められずに、問いかけの狭間で迷い続けている。悩める少年を気遣いながらも。「少年を理解できるようになった」喜ばしさが、おそらく思考の大半を占めていた。その変化を望ましいとさえ受け取ったのだ。神造魔人として少年をサポートするためにも、まず相手の行動が理解できなければ、それこそ思い通りに動けない。
ただ、「思考そのものを盗み聞きできるように」してほしいなど、頼んだ覚えはなかった。
敵の陣地にも関わらず、アオガミたっての望みで合一を解いた理由はただただ距離を取りたかったから。内を叩く少年の叫びがあまりにも悲痛で。苦しみに満ちていて。聞き続けるには、悪魔への憎悪が強すぎた。アオガミとて造られた存在とはいえ魔の部類に分けられる。片割れからぶつけられる生々しい感情に耐えられるはずもない。
それでも、自ら離れたというのに。こうして隣に立っている間も「戻らなければ」と己を掻き立てる焦燥感に襲われるのだ。彼の手をとって、二人から一人にならなければならないと警鐘を鳴らす何かがいるのだ。相反する欲求をどのように処理するのか、神造魔人に与えられた機能ではどうにも追いつかず、ただその場で立ち尽くす以外にできることはなかった。
そうして晒した弱みに目をつけてきたのが、よりによって因縁ある蛇の女怪だったことがアオガミの不幸といえた。
魔王城の最奥に突如として現れたジョカは、先に少年らと対面していた八雲に寄り添い、二人を見比べてから金の両眼をすうと細めた。
「小僧。そなた、子飼いの魔人に喰われたな?」
「その瞳の色合い……昔を思い出すのう。懐かしいものを見せてもらった礼に、先達として一つ教えてやろうか」
(余計なお世話だ)
「一口では済まぬぞ。魔も人も変わらぬ、ひとたび齧れば次が欲しくなる。ふたび、みたび、果ては種子まで喰い尽くしても其奴は止まらぬだろうよ。ふふ、厄介な男に見染められたものよな」
(悪魔ってやつは下世話な話にしか興味がないのか)
一言も発していないくせに雄弁な少年の声はさておき、ジョカの予言めいた教示はまっすぐ魔の側へと突き刺さった。
一人に戻るだけでは飽き足らず、分たれた知恵を丸ごと飲みこむ起こり得ないはずの夢想に、アオガミは。
結論に至るまでの思考を即時封鎖する。これ以上考えてはいけない。己が存在意義を見失わないために、何より少年を害する可能性を浮上させないために。何も考えてはいけない。ただ少年をサポートすることが神造魔人としてあるべき姿なのだから。
八雲らが去った後、合一を拒んだ少年を休ませてそう経たないうちに龍穴が見つかった。魔王城から出れば大天使が待ち構えているだろう。彼らがどう出てくるか分からないとしても無防備のまま姿を見せるべきではない。
ナホビノに戻るべく手を差し出したところ、少年はじっとアオガミを見つめ、気が済んだかのようにその場から立ち上がった。
(これからが憂鬱だ)
全くもってその通りだ、と無言で答えた。
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越水長官直々に万魔会談への同行を求められ、諸々の打ち合わせを終えてから帰路に着いた二人の視界にまず飛びこんできたのは、自室の扉を開いたところからよく見える黒焦げのカーペットだった。
今朝は身支度に、食べ損ねた夕食込みの食事に、と忙しなかったため気にも留めていなかったが、こうして目の前に現れると悲惨なありさまに言葉が詰まる。しばしの沈黙が横たわり、先に口火を切ったのは少年からだった。
「アオガミ」
「なんだろうか、少年」
「これ、昨夜のアレのせい?」
「昨夜のアレ、では具体性に欠けるが、おそらく君の認識している通りだ」
胎から引きずり出され、勢いのまま投げ飛ばされた肉塊が辿った末路をアオガミから聞いていた少年は、僅かに表情を曇らせてから、ふと一転して考えこむ。
(樹島の声が聞こえたんだよな、あのとき。よく覚えてないけど)
「その肉塊、滑りがあって色は黒くなかったか」
「君の言う通りだ。具体的には……」
(ラフムの触手に似ていたんだろう)
「具体的には、なんだよ」
催促の声と、確信の声が混ざりあう。その声に応じていいものか、アオガミには判断がつかなかった。
少年の胎から「生まれた」肉塊は確かにラフムの触腕と酷似していた。違いがあるとすれば宿主から離れても生きようとする生命力の強さだろうか。あのまま放置すればマガツヒを取りこみ続け、数百年の月日を経てから新たな悪魔が誕生していた可能性すら捨てきれない、そういった類の代物だった。
神造魔人と人間のまにあわせで執り行われた儀式でしかない目合いもどきから、何故、古い神に相当する魔が生まれたのか。今となっては確認する術はない。ただ推測はできる。
ラフムは己が知恵を見つけ、その身に取りこんでいた。生命と知恵の合一となれば、ナホビノか、それに近しい状態だったと思われる。現に最終的に対峙した際の姿は、一目では見分けがつかないほどにラフムの知恵そのものだった。
少年がとどめを刺したとき傷口から大量のマガツヒが放出された。それもすぐそばで、肉薄するほどに。仮に、少年の胎に宿った何かをマガツヒの残滓と想定した場合、生まれる子が「合一を果たしたラフム」ではないと、誰が断言できるだろうか。
「……答えたくない?」
少年からの問いかけに対し、アオガミは「すまない」以外の答えを持ち合わせていなかった。あの夜、意識を失う寸前に「俺の中にいたのはあの子だった」と認識していたと思われる時点であればまだしも、今になってよく覚えていないのであれば望まない記憶を呼び起こすかもしれない。告げられる筈もない。
無言を通すアオガミ、その隣でじっと横顔を見上げる少年、先に動いたのはやはり少年からだった。革靴からスリッパに履き替え、さっさと脱いだ上着をベッドに放り出し床へと腕を伸ばす。それから丁寧に畳まれていたタオルを拾い上げた。
「ほら、靴裏拭かないと入れないんだろ」
(こういうところ律儀だよな)
手渡されたタオルには昨夜拭き取った汚れがところどころに付着していた。
森羅万象の寝静まった夜にこそ誘惑は頭をもたげる。こんこんと眠る部屋の主とは対照的に、すぐそばで立ち続けている神造魔人は、無意識のうちに巡らせる思考を封鎖してはまた巡らせる、果てのない堂々巡りを繰り返していた。
ひとたび齧れば。一度途切れた繋がりは撚り合わさり強固な縄となる。ふたび、みたび。再びその身体を掻き抱けば繋がりはより強くなる。いずれ食い尽くしたとき。少年は人として生きてきた執着を捨て、幽世の住人となる。そう遠くない未来に。
何を馬鹿げた夢想に取り憑かれているのか。機体にひびが入る寸前まで、組んだ腕に力をこめたアオガミの聴覚に、音が一つ。
(まだ起きてる)
「………座れないにしても、目ぐらい閉じたら」
「起こしてしまったか」
「これだけ見られていれば……誰でも起きる」
寝起き特有の掠れ声をあげた少年は、かろうじて開いていた薄目をまた閉じた。身を起こす気は毛頭無いらしい。まだ夜明けも遠い暗がりの真っ只中だ。彼の健康面への影響を考えるまでもなくアオガミに異論はなかった。
「さっき、思いつかなかったけど。ベッド空いてるから。そっちで寝たら、いいんじゃないか……俺のよりは、綺麗にしてある」
(落ち着かないし)
「君の気遣いに感謝する。だが繰り返すように、昨夜のような出来事に対処するには現在の立ち位置が望ましい」
「そう」
(二度と起きてたまるか死にかけたんだぞ)
よほど痛みの記憶が根づいてしまっているらしい。僅かに寄った眉間の皺から感情の起伏を察知する。
この少年は、よほどの出来事に遭遇しなければ表情を崩すような隙を見せない。けれども内に渦巻く声は何より雄弁だ。こうして彼の声を拾えるようにならなければ、おそらく永遠に、少年への認識が深まることはなかっただろう。理解した数だけ一歩ずつ距離が短くなっていく。言葉、表情、推測、それら全てを飛び越えて丸裸の心を覗けるようになったのなら、この両手は細い喉元までかかっているに違いなかった。
「……じゃあ、もう寝る。おやすみ」
(見られたくない)
「了解」
最後の砦となるのは拒絶の声だ。彼が悪魔を厭わしく思うたびに、神造魔人の手から逃れられる。たとえ僅かな時間稼ぎだったとしても。
アオガミはそっと目を閉じた。
+++
(どうして)
軋み続けた声はいよいよざらつき混じりの悲鳴へと変貌しつつある。ベテル本部主導による万魔会談時、並み居る神の注目をものともせず、それどころか粛清に走った大天使の襲撃を受けてなお悪態に留まっていた声は、たった一人の人間によって一変した。
大天使でもナホビノに敵わないというのなら、知恵を探し出してナホビノになれば。
魔王城の一件から秩序を重んじるベテルに、言ってしまえばアブディエルに傾倒しつつあった学友の一人、太宰イチロウはここに来て少年への敵対心を示すに至った。
(こうなるかもしれないと分かってはいた)
現存のナホビノを超えるとなれば、思想そのものは少年が打ち倒してきた魔王と変わりない。
(それでも、どうして)
彼は少年を討伐する側に足を踏み入れた。
(どうして……)
対面する大天使と学友を残し、その場から立ち去ろうとする少年に「いいのか」と問いかける。意味を持たない確認だ。敵対した以上、こちら側に呼び戻す意思が少年になければ違えた道が交わる可能性は限りなく低いだろう。
いいも何もなく、少年は既に歩き出していた。アオガミの問いに答えは返ってこない。
(どいつもこいつも俺たちを勝手に引っ掻き回していく)
(好き放題やりやがって、何が創世だ! 何がナホビノだ!)
(こんな目に遭うなら関わりたくなかった)
(知りたくなかった)
かつてアオガミは少年に「自分は不要な存在なのだろうか」と聞いたことがある。全ての悪魔を憎み、滅ぼすべきだと主張した八雲を撃退してすぐの出来事だった。
悪魔が人間を不幸にするというのであればアオガミも例外ではない。元を正せば少年が戦うための力を手にした原因は他でもない、神造魔人アオガミにある。あの時、あの砂漠で出会わなければ、少なくとも学友を手にかける未来は訪れなかっただろう。
もしも、の仮定を続けるのであれば。アオガミとの邂逅が実現しなかった場合、ほぼ確実に、誰とも知られない砂漠のどこかで悪魔に嬲られた亡骸が散在していただろうが、望まないままナホビノとなった少年にしてみれば、果たしてどちらがより不幸といえるのか。
あのとき少年は「助かっている」と答えた。同時に(順番が逆だ)と声が聞こえた。あのとき助けられたから自分はここにいる。不要ならとっくに死を選んでいる、と。
もしも。少年が黄泉への道行きを選び取ったなら、今より不幸でなくなるというのなら。その背中を押してやれるだろうか。
+++
夕暮れに染まった外付け階段を駆け降りていく。そう数は多くない生体反応の中で、移動し続けている一つを追うためにアオガミは寮内へと続く扉に手をかけた。鍵はかかっていない。
移動速度からして走っていると思われるが、時折止まり、しばらくその場で待機してから、また移動を始める。元々身体機能がそこまで発達しているようには認められない外見だったこともあり、急に駆け出した動機に心肺が追いついていないのだろう。アオガミがその気になれば一分もかからずに追いつける距離だ。
目標が停止する。アオガミの足が止まる。しばらく待機してから、再び気持ちゆっくりと移動し始める。アオガミが走り出す。その繰り返しで徐々に縮まっていった距離の末、ようやく少年の背中が見える範囲まで追いつめた。
もうその場から動く気力すら残っていないらしい。しゃがみこんで大きく息を吐く姿に、一歩ずつ白い影が近づいていく。
近くの談話室から誰かが消し忘れたであろうテレビの天気予報が流れてくる。明日は雨が降るそうだ。それからすぐノイズが走り、何も聞こえなくなった。
(アオガミ)
「少年、君が私を呼んだのか」
答えようとしたのだろう。何回も咳きこんで、しかし言葉が出ない様子を見兼ねたアオガミが隣にしゃがみこんだ。苦しそうに跳ねる背中をさすってやるとだいぶ楽になったのか、押さえていた口元から掌を離した。だいぶ汚れてしまっている。
そのままどうしたものかと固まっている様子に、再び見兼ねたアオガミは今朝がた学生服のポケットに入れておいたハンカチを取り出した。唾液まみれの手に乗せてやる。
(そういえば持っていたんだった)
「君はもう少し持ち物を気にした方がいい」
(ダアトで飽きるほど聞いたよ、そのお説教)
「なるほど。何度言っても改善の余地が見られなかったのは、君がお説教に飽きていたからか。次からは、より実行しやすくなる方法を検討する」
(げっ)
「……いつから認識していたのだろうか」
少年は一言も発していない。ハンカチで口元を押さえたまま、アオガミをじっと見ている。
「………ん、アンタに……抑えつけられて、腕突っ込まれたときから聞こえていた」
まさかお互い聞こえていたなんて予想していなかったけど。眉を少しばかり下げて、少年は笑った。彼の笑顔を見たのはこれが初めてかもしれなかった。
+++
悪魔に殺されたはずの学友が生きていた。ひと時でもそう思い違えていたのが、決壊のきっかけだった。
寮の屋上に姿を見せた学友は、正しく聖女に至り、ナホビノたる少年を創世へと導くために顕現したのだと語る。東京を真に救いたいと思うのであれば。消えていく人々に哀れみを見出すのなら。導くための手が差し出されたとき、内から這い上がってきた声は聞くに堪え難いものだった。
思いつく限りの罵声と怒号がまぶたの裏をうめつくし、視界が不安定になる。神造魔人ですらあまりの不快感に立ちくらむ程だ。ただの人間でしかない少年にのしかかった負担は如何程のものか、察するにあまりある。
少年は差し出された手を払いのけた。手酷く打ちつけたため当たった部分が赤く染まり、自ら痛みに怯むほどの強い拒絶だった。聖女から小さく悲鳴が上がる。その反応に己の蛮行を悟ったのか「ごめん」と発してからすぐ、少年は踵を返し、外付け階段の方角へと駆けていった。
「少年!」
すぐにあとを追おうとしたアオガミは、聖女の視線に呼び止められた。たとえこの場で逃げたとしても意味はない。聖女は緩やかに目を閉じ、ただ待てば良いと告げた。
今は一人にしてあげて、と。
(アオガミ!)
ならば聞こえてくるこの叫びは。
(そばにきて! 一人にしないで!)
「彼が呼んでいる。私には分かる。行かなければならない」
「……貴方にはそう聞こえるのね」
答えを待たずにアオガミはその場から駆け出した。遠ざかる呼び声は、まさか、相手に聞こえていると「分かっていて」ぶつけてきているのではないか。確かめなければならない。
残された聖女は屋上から見える景色を眺めていた。いずれ戻ってくる二人を待っている間、かつての記憶がうっすらと蘇る。友達を助けたいならどう動けばいいのか。あの二人なら。
「きっと、大丈夫だよね」
――――生命と知恵はかつて一つだった。一つが二つに分たれ、それぞれ魔を生み、人に宿った。
アオガミは推測する。我々にこうして意思伝達の異常があらわれたのは「分たれたまま」正式な手続きを踏まずに、一つになろうとした弊害だったのではないかと。
「無理やり突っ込んだのがまずかったんだろ。痛かったんだからな、ほんとに」
「本当にすまなかった。私に生殖器が備わっていれば回避できた可能性はある」
「いや、待った、やっぱり無し。今の無し。聞かなかったことにして」
(後ろだけ経験有りなんて冗談じゃないぞ!)
こちらが女性器を着ける前提だったのだが、と思い浮かべた瞬間、少年の動きが止まった。しばらく悩む様子を見せてから、首を激しく振る。雑念を追い払うような仕草だった。
少年の内にアオガミの声が吹き荒れるようになったのは、魔王城の最奥に至った頃だったという。それまでは耳鳴り程度だった音が、はっきりとした輪郭を持ち始め、こう告げたのだ。「どうすれば少年を守れるのか」と。
「凄かった。特にジョカが余計なちょっかいかけてきた時は、頭が割れそうだった。うるさすぎて」
「そうだったのか……」
「あまり気にするなよ。それに俺の声もうるさかっただろ?」
「いや……そうだな。君は本当に口が悪い」
寮生の居住スペース手前にあたる廊下で、二人は話し続ける。落ち着いて呼吸できるようになった少年は腰を上げ、汚れたハンカチを裏返しに折りたたんでから再びポケットへとしまった。アオガミも彼に倣って立ち上がる。
「俺はアンタが何考えているのか聞けて嬉しかったよ。どうして黙っているのかも分かったし、アオガミは敵にならない、大丈夫だって思えるようになった。それに……俺の方が手札が多い」
「手札?」
「一方的に聞こえているなら、相手より有利に振る舞える。知っていることに差が出るから。アンタが俺に何も言わなかったのも、そういうことなんだろ」
実際はお互い聞こえていたんだから勘違いも良いところだ。
少年はふうと息を吐いた。走ってきた方へと振り返り、廊下の奥を見通す。
(行きたくない)
(東京が滅ぶというのならそのまま滅んでしまえばいい)
(もう何をやったって取り返しがつかない)
「少年」
向き直った二人を沈みゆく夕日が照らし出す。昼と夜の境目の色が刻一刻と表情を変え、あと幾許もしないうちに夜の足音が聞こえてくるだろう。時間はない。悩んでいる暇はない。ただ、二人の間に必要な儀式があったことを、アオガミはようやく理解した。
「我々には言葉が足りなかった」
「……」
「お互いの声が聞こえているとはいえ、己が何を考えているのか、自分自身ですら気がついていないものだ。意図していない声を聞いたところで充分とは言い難い」
「……神造魔人でも?」
「そうだ。人間である君と変わらない」
君は悪魔を憎んでいる。人の世界を侵し、親しい者を奪っていった全ての存在を憎んでいる。神も、天使も、そして神造魔人も君の中では等しく敵だ。「そこまで考えていない」と君は驚くだろう。私にはそのように聞こえた、ただそれだけの事実なのだから。
「こうしてお互いの溝が深まる。たとえば私がどういった苦悩を抱えていて、君に何を求めていたのか。言葉にしなければ分からないだろう。如何に私の声を聞かざるを得なかったとしても、だ」
「……だったら、アオガミは俺に何を望んでいるんだ。聞かせてくれよ。アンタはずっと俺を守りたいって叫んでいた。大事な知恵を誰にも奪われたくないって言ってた」
「私の望みは……君が悔いなく生きることだ」
「は?」
予想外の言葉だったのか、少年の表情に動揺が生まれる。アオガミ自身「知恵を奪われないために」といった利己的な理由から、彼を守りたいと願っていた己に驚愕の色を隠せないでいたが、同時にやはり、とも納得がいった。
内からの声が欲求のまま叫んだところで、相手に求めている願いとは限らない。
「君がどのような答えを選ぶのかサポートすることが私の生きがいだ。選び取った答えに悔いが残らないよう全力で支える。もしも君が他の悪魔に奪われたなら、私は存在意義を失うだろう」
「………聞いてない」
「言葉にあらわしたのは初めてだ」
「そういうことじゃ、ないけど、うん……改めて言われると恥ずかしいというか……」
目を伏せ、掴んだ上着の端をなんども指で擦りつける。顔の血行が良くなり平常より約1℃、体表面温度が上昇している。ここまで分析したところで少年はぶっきらぼうに吐き出した。
「俺が望んだのは……たぶん、創世だ」
「天使と悪魔が勝手に争ったせいで東京がめちゃくちゃになったんだ。どちらに着いたとしても、失くしてしまったものは元に戻らない。だったら……両方ともいらない。神もいらない」
「人だけの世界が欲しい。全部やり直して、少しでもマシな未来になればいいって思う。思うんだけどさ」
その世界にはアオガミもいないんだ。
黙りこんだ少年から多様な声が流れてくる。ついに言ってしまったとも、他の仲魔には絶対に言えないとも、形にならない声までもが彼の中で渦巻いている。言葉に出して初めて、己が望む輪郭を掴んだのはアオガミとて同じことだった。
一歩踏み出す。アオガミからだ。ひくりと肩を震わせた少年の腹に腕をかざし、指を二本そっと突き立てる。
「私は君の中にいる。あの夜、我々は肉体を繋げたのだから」
この指先を通して送りこんだ一部が喪われることはない。たとえ全ての魔を消し去ったとしても。神造魔人アオガミは、君と共に在り続ける。
「そう推測できる」
(推測止まりかよ)
「何しろ前例がない。通常の目合いで発揮される効果が、創世後に適用されると断言はできない。それでも」
「………」
「君の救いになる」
腹に突き立てた指をゆるく握るようにして掴まれる。そのまま少年の額へと導かれ、表情が見えなくなった。押しつけられるまま指を曲げていき、ふと親指に当たった雫を拭いとってやると鼻を啜るかすかな音が聞こえた。
細い喉元に手をかけられる。腕を伸ばさずとも、種子も残さず一飲みできる。拒絶の壁はとうに崩れ去った。
アオガミは動かなかった。少年がもう充分だ、と指を離し、寮の屋上へと移動し始めるまで身じろぎもしなかった。
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「時間が止まっているなら、いくらでも話ができるじゃないか」
至高天へと通じる神殿内。創世を目指すナホビノが真に世界の王として相応しいか、はかるための試練の道。不可思議な装置を利用し、無駄な戦闘を避けながら進んでいったところでの少年の提案だった。
時間の流れすら留められる空間において、ナホビノに干渉できる悪魔は存在しない。逆にナホビノから干渉することも不可能であるためか、先へ続く扉を開くためにはまた別の装置を探し出す必要があった。何度も道に迷い、着実に階層を進めていき、おそらく次の階段を上がれば目的地に辿り着くだろうと推測できる地点。少年は歩みを止めた。
「私は構わないが、何か話しておきたいことがあるのだろうか」
「たとえば……ハーベスト姉さんがそろそろ出てきそうで怖い、とか」
「デメテルだ、少年。確かにあの神の目的は未だ不明。何か仕掛けてくる可能性は高い」
「今度はどいつと戦わせられるんだか。シヴァより楽な相手だといいんだけど」
「あの破壊神より手強い神か……出来る限りサポートしよう。どのような神であっても、創世よりは容易い任務だ」
「それ持ち出されたら何も言えないだろ。あとは……山……」
「山?」
「ベルフェゴールがいた山、ずっと気になっていたんだけど。とぐろ巻いていたよな」
「丘だったと記憶しているが、とぐろ……螺旋状の道のことか?」
「あっ、ダメか。アマノザコには通じたけどアオガミはダメか。話を変える。山と言ったら登山だよ、登山」
「私ではダメなのか……」
「学校の遠足で山登りした記憶しかないんだけどさ! 高尾とか! 23区から離れてる山だけど知ってるかな!」
「イヅナゴンゲンを祀っている都内有数の霊峰だ」
「そこまでは俺も知らない」
少年が切り出した会話はほとんどが脈絡のないものだった。これから向かう至高天に待ち構えているであろう他のナホビノ、学友らをその手で排除する避けられない未来については何一つ触れず、今まで出会った悪魔への所感を語っていく。
(このままずっとここにいられたら)
「少年」
短い呼びかけに表情がこわばる。
「分かってる……分かってるよ。今だったらコンスの声が聞こえたかもしれない。アイツ相当追い詰められていたんだな」
「君には私がいるだろう」
「そうだ、俺にはアオガミがいる」
(他の悪魔を消し去ったとしても。俺だけは、アオガミを手放さずに済むかもしれない)
(虫のいい話だ)
目の前にそびえ立つ装置に触れれば、堰き止められていた時間が一気に流れだす。先へ進めるようになるだろう。至高天へと辿り着き、友を手にかけ、人の身体を捨てた果てに少年の求めていた世界がある。
もう叫ぶ必要はない。それでも未だアオガミとの会話が途切れる瞬間に怯えているのだ。おそらく彼も分かっているのだろう。
背中を押してやらなければ。
「行こう、少年。君の答えを示すときだ」
――――神殿内の最奥へと続く階段手前でナホビノは振り返る。隣についていた聖女も同じようにあたりを見渡したが、視線の先に何かしら目立つようなものは見当たらなかった。誰にも知られることなく、ゆっくりと、ナホビノの唇が音もなく動く。
何も返ってこなかった。
目に焼きつかんばかりの広大な砂漠に少年は立っていた。
砂地に浸した革靴を引き揚げ、前へと進んでいくたびに切り揃えられた黒髪がざんばらと風に乱される。瞬きと砂塵が混ざっても視界は変わらない。どこまでも続く青と黄。少年の好きな色。しばらく歩くと随分と下まで降りていく傾斜が見えてきたので、軽やかに駆け出し、勢いのまま滑っていった。
今回の目的地は彼にとって懐かしい場所だ。かつて埋もれていた神造魔人に命を救われた場所。もしかすると、運命に出会った場所。
「ははっ」
そんなところに魔の気配が現れるなんて、俺の面目丸潰れじゃないか!
いつものように生まれたばかりの悪魔を魂ごと握りつぶしたところで、少年は足元に光る何かを拾い上げた。砂にまみれてところどころ変色していたが、硬い感触と手触りの良さ。白い破片を這うようにして走る赤い亀裂。見覚えがあるなんてものじゃない。創世してから「何百個も」見つけている。
掌におさめた破片を渾身の力で握りしめる。指の隙間からポロポロと溢れていく光はマガツヒのそれだ。紐状に解けた赤い光は、あたりを彷徨ってからすぐ大気と混ざって見えなくなった。
開いた掌には微かなチリ以外残っていない。それも突風にさらわれ、消えてしまう。最初から何もなかったかのように、傷ひとつない掌をじっと見つめてから、少年は顔を上げた。
今日も声は聞こえない。