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小ネタまとめ大逆裁編

全体公開 大逆転裁判 1 17888文字
2022-06-20 21:08:04

ネタバレたくさん何でもあり

Posted by @fengli25

【屋敷跡と老爺の話】

 かつてはそこにあった松の木も、気づけば切り株ごと撤去されていた。随分と雄々しい松だった。まだ樹齢三十年にも届かない若い木だった為か、ほんの少し目を離せば好き放題に枝が伸びてしまい、庭師をほとほと困らせたものだった。
きっと家の主人に似たのだろう。老いた庭師はそのように思い出を語っていた。屋敷が建てられたときには既に植えられていた松だったから、あれは家の者の行く末をずっと見守ってきたのだ。さながら子を見る父親のように。
 松が切り倒されていくさまを目の当たりにし、うっすらと目に涙を滲ませていた庭師は「悲しいな、悲しいな」と何度もつぶやき、自ら後を追うようにして、ぽっくりと逝ってしまったのだそうだ。もう、四十年は経つだろうか。

 いつからか、通りに面していた白壁が見る影もなく綺麗さっぱりなくなっていた。家の主人に会うべく、何度かくぐった屋敷門も、すっかり姿を消していた。内と外の区切りがなくなり、ひそかに薩摩崩れ主人の出自を考えれば見当違いも甚だしいがの武家屋敷と揶揄されていた敷地は、だいぶ見晴らしが良くなっていた。何しろ家屋も取り壊されていた。瓦一枚、柱の一本すら残されはしなかった。視界を邪魔するものは一切合切この地から除かれていたのだ。
 屋敷が取り壊される頃には、既に引き継ぐ者が途絶えていたため、まっさらになった跡地の土地権利は町内会へ引き取られたという。もう、三十年は昔の話だ。

 それから。この地域は屋敷跡地と変わらぬ程度にまっさらになった。どこもかしこも綺麗さっぱりなくなったため、老いぼれの目には見分けるにも一苦労だ。先導する世話役がついていなければ、まず通れなかったであろう小道を歩いていく。隅には瓦礫が幾重にも積まれていた。ところどころ焼け焦げた跡がある。詰まった鼻腔にまで突き刺さるような臭気に満ちた、夏の日だった。

「おぉい、亜双義よ」

 萎びた老爺が更地へ呼びかける。染みだらけの顔面に入った切れ目は、実のところ垂れ下がった皮膚より覗くまぶたや唇だった。禿げ上がった頭のてっぺんに残るわずかな白髪を結んでいる。しかし歳のわりに体格は立派で、腰もほんの少ししか曲がっていなかった。
 隣に立つ世話役の、白木綿のタンクトップに国民服といった出で立ちと対するように、シャツの上に肌触りの良さそうな着物を身につけた老爺は、また何度も更地へ呼びかけた。そうでもしなければ狂ってしまうと言わんばかりに、掠れた声で、何度も。何度も。

「男も、子供も、みんな死んじまったぞ。亜双義よ。我が親友よ」

 悲哀に満ちた声につられたのか、今まで黙っていた世話役が嗚咽をあげて泣き始めた。俯いたまま、手のひらで目元を押さえている。夏の日だった。目に痛いほどの青空が広がっていた。
老爺は涙一つ見せずに、こう続けた。

「どうしてワシのような爺が、ムダに生き残っちまったんだろうなぁ」

 老爺が友を撃ち殺したあの夜から六十年は経とうとしていた。


【倫敦風落語のような何か】

(開幕)

 えー、思い起こせば十年前の、ところは下町名は倫敦、かの大悪党プロフェッサーが処刑された翌日のことでした。

 朝刊の見出しはもちろん、夜中に処刑されたプロフェッサーで、びっしり埋まっておりました。しかもこれがビックリ、墓から蘇った姿が目撃されたというじゃありませんか。そりゃあもう、倫敦市民の誰もが話題にしましたとも。
 なにしろ傷心しきった女王陛下のおわす我らが大英帝国では、ずぅっと、ぜんっぜん、ロクな娯楽がなかった。どこのご婦人も真っ黒な喪服でうろついてましたし、うちのかかぁも、噂話の井戸が枯れちまったと嘆いておりましたよ。亭主の悪口は枯れないくせにねぇ。
 そんな暗黒世紀末の街中で、悪徳貴族どもを成敗して回った殺人鬼が処刑された……今になって当時を思い返しても、背筋を震わせるような、または心踊るような話のタネといえば間違いなく、「大悪党プロフェッサー」でした。おまけにプロフェッサーは最後の最後まで、市民に話題を提供してくれたんですね。
 とある記者の調査記録によると、蘇った遺体には銃痕があったといわれているんです。コイツはちょっとおかしい。女王陛下の治める大英帝国で極刑といえば首吊りです。銃殺刑は行われてきませんでした。
 ならば何故?謎が謎を呼ぶわけです。


 さて、にわかに朝の通りが賑わう中、質屋のハッチは耳慣れない騒音に叩き起こされました。

「おやこれはどういったことでしょう」
「えぇえぇハッチさん、どうやらうちの下宿人の部屋から聞こえるみたいなんですよ」

「こいつは間違いない。赤ん坊の、泣き声ですよう!」
「な、なんだって? いつのまに!」

 外に出たハッチは大家と顔を見合わせたんですなぁ。
 というのもそこの下宿部屋……二階なんですがね……住んでいたのが男二人、だったんですよ。まさか男の身で赤子をこしらえるわけがない。こいつは厄介なことになってきたぞ、と大家を先頭にして階段を駆け上りました。

 ととんととんととん

「ちょっと、ホームズさん? 鍵を開けてくれませんか?」

 しぃーん
 ととんととんととん

「ホームズさん?」
「なんだい今こっちは忙しいんだよ! また後にしてくれないかな」
「後じゃあダメなんですよ、今開けてください」
「それじゃあ七時には開けるよ!」

 ハッチが懐中時計を見てみれば、時間まであと五分。それなら待ってやろうかとドアノブから手を離してみれば、また例の泣き声が。

「ぶええええええええ」
「ちょっと! ちょっとホームズさん!」
「なんだよシツコイな!」
「今、鳴き声が聞こえてきたんですけど」
「あぁこれかい? ネコだよ! まんまるとしたニャンコが鳴いているのさ!」
「ネコォ?」
「ぶええええええっ、うえっ、うえっ、ゥゲエゥプ」
「ホームズさん! ネコはゲップなんざしませんよ!」
「うちのネコはするんだよ!!」

 これはもう、間違いない。大家はハッチへと振り返ります。

「ハッチさん、どうやら公にはいえないような赤ん坊がいるみたいですよ」
「そんなまさかホームズさんが、誘拐だなんて!」
「いやそこまで言ってませんけどね」
「こうなったらこのハッチ! 捕まる前に死んでお詫びするしか!」
「いや捕まるとしたらホームズさんですけどね。ほら銃をしまって」
「ビエーーーーーッ」

「ちょっと!ちょっとホームズさん!」
「今度はなんだい!」
「なんだも何もありませんよ! スゴい泣き声じゃないですか!」
「あぁこれかい? ヤカンの音だよ! ちょうどお湯が沸いたから甲高い声を響かせているのさ!」
「お湯ゥ?」
「ビエーーーーーッ! ギャーーーーッ! ホギャーーーーッ!!」
「ホームズさん! そんな断末魔のようなヤカンがありますか!」
「知るかよ! ボクだって叫びたいぐらいさ!!」

 そうこうしているうちに時間がやってきました。しかし、というよりやはり、とっくに針が七時を示しているのに、一向に扉の開く気配がしません。それどころか、ネコかヤカンか定かではありませんが、向こう側の騒動がより激しさを増しているようにも思えました。

「あの、ホームズさん! ホームズさん! 時間ですよ!」
「時間!? なんの話だい!」
「スッとぼけるのもいい加減にしなさいよ!
七時! 扉! あける! 貴方が言ったんでしょ!」
「質に、トミーを、いれる? 意味がわからないよ!」
「どうやったらそんな聞き間違いするんですか!」

 すると……ふと、泣き声が止みました。あれほどの耳をつんざくような騒音が、まるでなかったかのように、しんと、静まり返ったのです。
そして………ガチャリと、ドアノブが回りました。大家とハッチは思わず唾を飲みこみました。

「あの……
「おや、貴方は確か……日本人の……
「ミコトバです」
「あぁすみません、どうも覚えられなくて」
「六年もここにいるんですけどねすみません、すぐに出られなくて」
「それはそうと今までの騒ぎは?」
「あぁすみません、ちょっと赤ん坊を預かってまして彼の養子になる子です」
「ヘェェ……それはまた急で」

「あのぉ」
「おやハッチさん。なにか?」
「今、その子はどちらに? こんなに静かになって寝息もま、まさか
「あぁ大丈夫ですよ」


「ホームズ特製ミルクで、ぐっすり安らかに、眠っていますからね」


 (暗転)
 テンテケテンテンテテンテテンテン


【少年と猫の話】

 あなたが迎えに来てくれそうな夜だった。雲一つない星空に、生温い夏の空気、遠くから虫に混じって笛と太鼓の音が聞こえてくる。祭りの日。母お気に入りのネコを腕に抱いて、オレは家路を急ぐ。こんな夜はさっさと寝てしまうに限る。今日だって、本当はそのつもりだった。

 亜双義の家からネコが逃げ出したのは、ほんのささいなキッカケだった。縁側から家に入ろうとして、乗り出したオレの足にふれた柔らかい感触と、耳をつんざくような金切り声、つまるところ寝ていたネコの足を踏んづけちまったのだ。運の悪いことにソイツは茶トラだったので、視界の悪い縁側に見事擬態していた。そんなところで寝るヤツが悪い。だが、ネコにヒトの道理を言って聞かせたところで当然何にもならず、物凄い勢いで飛び上がったソイツは、オレが慌てて足を退けるや否や、股の隙間から庭へと逃げ出してしまったのだ。

 こら、だの。待て、だの。握っていた木刀を放り出して、ふん捕まえようと手を伸ばしたが、籠から取り出したばかりのウナギのようにつるりと抜け出したどらネコは、あろうことか塀を乗り越えて向こう側に消えたのだった。一真さん?と背後からオレを呼ぶ声が聞こえてくる。母だ。

「なんでもありません!少し出かけます!」

 あの人にバレたら大目玉だ。何しろ、アレは父が渡英した寂しさを慰めるために貰ってきたネコだ。元々情の深い母のこと、ネコかわいがりなんてものじゃなく、それこそ目に入れたって惜しくないと豪語するほど、大層気に入っていたネコなのだ。逃したとなれば……下手するとオレがネコの「代わり」になりかねない。流石にそれはゴメンだった。

 常日頃はしまってある部屋のカンテラを取り出し、急いで門へと駆けていく。こんな夜に出かけるなど正気の沙汰ではないと分かっていたが、あのまま家にいたところで状況は悪くなる一方なのだ。通りに出たところで影も形もない。ひとまず、ネコの溜まり場を虱潰しに探そうと走り回った結果、ようやく見つけた場所は神社境内の賽銭箱近くだった。
 家からだいぶ離れているというのに、よくもまぁ、と呆れつつも「これで母上のお小言も帳消しだ」と胸をなでおろしたのもまた事実だった。おおかた、一匹飛び出したはいいものの、行くあてがわからず人の気配が多いところに誘われてきたのだろう。今日は祭りだった。そこかしこに灯りがともっていた。

 そういえば、遠い昔。祭りの人混みで迷子になったオレが、泣きながら蹲っていたのもこの場所だった。
 少し距離を置いたところでしゃがみこみ、チチチ、と舌を鳴らしながら呼びかける。指でちょいちょいと手招いてみれば、意外にあっさりと近寄ってきたソイツは、さも遅かったなと言わんばかりにオレの前で横になり、腹を見せたのだった。

「あぁ、悪かった。寂しい思いをさせたな」

 わしゃわしゃと腹を撫でてやる。それから脇と尻に手を差し込んで、抱き上げてやった。少し引っ掻かれたが、これ以上追いかけっこはゴメンだ。更にしっかりと抱えて、その場を後にする。
コイツも随分と大きくなった。父が渡英してからだから、少なくとも五年は生きているのか。貰ったばかりのときはあんなに小さかったくせに。五年、五年か。
 オレも随分と大きくなりましたよ。誰にも聞こえないように、ネコの首元に顔を埋めながら呟く。あぁコイツ、また引っ掻きやがった。


【明治村謎解きコラボ発の話】

 喪野垣の部屋は、宇治山田郵便局の宿直室区画にある。村内放送のチャイムが鳴る頃には締め切られる館内に、局員でもない第三者を住まわせるのは、得てして彼が、地主の息子に他ならないがためだった。
 常より喪野垣は、部屋から外へ出ようとしなかった。すぐ近くの汐留バーで飲んだくれるか、少し登った先の東湯へ出かけるか。それも二日にいっぺんの頻度だった。放っておけば、何日も閉じこもって一升瓶とお友達になっているのだろう。喪野垣は労働を知らなかった。人として生きていくに、あまりにも無知だった。
 そんな彼を外界へと連れ出す役目を担っていたのが、当郵便局員の届毛文章、その人だ。彼は喪野垣の世話役であり、大学の後輩であり、秘密を分け合う共犯者であり。
 そして、彼はーーー。


「喪野垣さん、そろそろ風呂に行きませんか。少しは酒気も抜けた頃でしょう」

 局内の戸締りをあらかた済ませた届毛が、喪野垣の部屋へと顔を出した。他の職員はとっくに帰路へつき、終業時間も大幅に過ぎている。こんな時間まで残っているのは届毛だけだ。それも毎日。たとえ休日でも、日が暮れる頃には、ここに訪ねてくる。
 そうでもしなければ、『藻野垣は死んでしまう』と、届毛のみならず局員全てが確信していた。

「あぁ、またやってる」

 床に転がった酒瓶を回収しつつ、喪野垣が潜り込んでいた万年床の『マットレス』に目をやった。真っ赤に染まった部分からはワインの芳醇な香りが立ち昇っていた。ここは文明行き交う明治村。西洋のワインだって、ひとっ走りすれば簡単に手に入る場所なのだ。
 しかし、こうも床にこぼされては、ベッドも布団も置けやしない。元々人が住むことを想定していない部屋の作りのため、押入れにしまうこともできず、仕方なく比較的洗いやすい薄っぺらなマットレスと毛布で寝床としている。今使っている代物も、そこらに酒が染み込んでいた。もちろん、洗うのは他でもない届毛だった。

「喪野垣さん」
………んぇ」
「ちょっと……風呂場、しまっちまいますよ」
「あぁ…………うん、うん」

 ようやく毛布から顔を出した喪野垣だったが、土産ヤで見た起き上がり小法師のように、こくりこくりと頷くばかり。ぼうぼうに伸び散らかした黒髪を搔きあげることもなく、それどころか頭を起こそうとすらしない。
 いつものこととはいえ、どうにも寝起きが悪すぎる。額に手を当てた届毛はというと、慣れた様子で帽子を脱ぎ、万年床の向こう側にある机へと回って、その上に置いた。先客に真っ白な原稿用紙と、丸められた無数の紙くずがあった。万年筆とインク瓶もある。はぁ、と大きくため息をついた届毛は、くるりと寝入る喪野垣へと向き直った。

「今日は、こんなことがあったんです」

+++

 貴方がいつも行ってるバー、あるでしょう。汐留バー。あそこでね、一悶着あったんですよ。
 あのバーはテラス席がありましたね、ここからもよく見える所。何しろ道を挟んだ向かい側だ。手紙を出し終えたお客様が、ちょいと寄っていくのに丁度いい所ですよ。
 しかし今日は誰も寄りつかなかった。何故かって?酔っ払いですよ、貴方のように寝こけた男が席三つも占領していたんです。往来からも丸見えの場所で、眠る男と共に一杯と行きたいでしょうか。オレはごめんですね。
 ついに見かねたバーのマスターが起こしに行ったのですが……幾分、大男でして。男一人ではとてもじゃないが抱えられなかったんです。こいつは困ったと。
 しかし妙な話です。何故、往来からも見えよがしな真昼間に、酔っ払いの大男が、テラス席で寝こけていたのか。いつから寝ていたのか把握している客はいませんでした。この男、どこから現れたのでしょう?

+++

 ここまで話した届毛は、すぴすぴ鼻を鳴らす喪野垣のそばへしゃがみこみ、そっと頭を下げた。村人よりも大分色の抜けた、亜麻色の跳ね返った髪が、頰へと流れる。喪野垣を見つめる瞳は黄色味がかった緑だった。

「しばらくすると」

 先ほどよりも、幾分落とした声で続ける。

「テラス席に女がやってきました。随分と頭に来た様子で、寝こけた男の側にやってきたかと思うと……頰を張り倒したんですよ。
一族の恥さらしとかなんとか、言ってね」


 劇的な変化だった。夢の中にあった喪野垣が、むっくり起き上がったのだ。そのまま不明瞭な独り言を少々吐き出したかと思うと、毛布越しに膝を抱えこみ、枕元にいた届毛の方へ顔を傾けた。

「その女人は」

 酒焼けの酷い声だ。

「黒い着物を着ていたかい」
「えぇ、よく分かりましたね」
「じゃあ決まりだ。その大男、白いタキシードを着ていたろう。ここには教会があるからね。そいつは新郎だったに違いない。しかしバーに来ていたとなると余程相手が嫌だったんだろうね。結婚は人生の墓場と言うし、そもそも彼には他に意中の相手がいたのかもしれない。そうに違いない。何しろ汐留バーはここらで一番の洒落たバーだからね、洒落た女が来るんだよ。挙式を控えたはいいものの、やはりこのままではいけないと突っ走って、ここまで来て、来るとも分からない運命の女を待って呑んだくれてたのさ。しかしそんな女いやしないけど。結局は元どおり、今日も教会の鐘が鎌を持って振り下ろす。あぁいやだいやだ………
「喪野垣さん」

 いよいよ気だるげな喪野垣の、長ったらしい世迷言に区切りをつけた届毛は、またもや慣れたものだと静かに告げた。

「その男は黒い和装でしたよ」
………なぁんだ。葬式か」
「どちらにしても家族ぐるみでしょうね。あとから人力車が来て、どこぞに行ってしまいました。この話はおしまいです」
「そう」

 ようやくその場から立ち上がった喪野垣は、頭を掻き毟りつつ部屋の隅へと歩いていった。折りたたまれた手ぬぐいと着替え。あらかじめ届毛が用意したものだ。

「行くんだろ」
「はい。行きましょう」

 二人は連れ立って部屋を出た。廊下向こうの裏口に置いてある草履をつっかけ、日の落ちた道を歩いていく。この村は、夜の暗闇も目に優しい。街灯の明かりが行先を照らしてくれる。
 やっと隣に並んだ届毛へと、振り返ることなく、そして問いかけたかどうかもあやふやな言葉が夜道に響いた。

「この話、面白いと思うかい」

 ハッと振り向いた届毛の瞳は、いつもよりも光を孕んでいた。長い黒髪と無精髭に隠された横顔をじっと見つめる。届毛はこう言った。

「きっと面白くなりますよ」

 他でもない貴方が思い描いた物語でしょう。
そう口には出さずに。伝わるかどうかも、分からずに。むしろ勘付かれてはいけないのだと、誰よりも、届毛は分かっていた。
 喪野垣が描く物語は『彼自身が書く作品』でなくてはならないのだから。
 沈黙が後をついてくる。それ以上の会話を交わすことなく、二人は東湯へと辿り着いたのだった。

+++

 それから数日後、マットレスを尻に敷いた届毛は、ふと机の上にあった紙くずが増えていることに気づいた。わずかに震える手で一つとり、中身を改める。結婚式の話だった。

「なぁ」

 背中に声が落ちる。すぅ、と胸の奥が冷えていくのを感じ取った届毛は、広げた紙くずをくしゃりと握りしめた。

「頼むよ。これで最後にするから」
……
「次の作品、書けそうにないんだ。ダメなんだよ……なぁ、頼むから」
………これで最後」
「うん」

 かたく握りしめられた両手は、それでも紙くずを、広げられた喪野垣の書き損じた原稿を、手放せなかった。
 次で最後。何度目か分からない、代筆の依頼。いつになったら、喪野垣自身の作品を、最後まで読みあかせるようになるのだろうか。

………これで最後ですからね」
「うん、うん」

 届毛文章は喪野垣の≪幽霊作家≫であり。
 彼は、被害者だった。


【オチができてない師と弟子の話】

 慈獄が下宿先に帰ってきた頃にはとっくに日が昇りきっていた。目覚めの時だった。誰もが動き出す午前七時、酒の匂いを撒き散らしながらリビングルームに顔を出した慈獄は、一つ間を置いて、固まった。

「こいつは……どういうことだ?」

 食卓を囲む同居人こと亜双義と御琴羽の視線が集中する。おかえり、と声をあげた御琴羽の足元には、特大のトランクが横たわっていた。

 オランダ風の赤煉瓦が建ちならぶペアウッド通り沿いの角にあるフラット、その三階に詰めこまれた司法留学生のうち、慈獄の帰宅時間は最も遅かった。同じ留学生でも、まだ勤務先が決まっていなかった御琴羽はさておき、激務で知られる倫敦警視庁に配属された亜双義よりも、だいぶ遅い。朝帰りも珍しくなかったのだから、相当だった。それもこれも、慈獄政士郎の立場上、留学生代表として公の場に顔を出さなければならない機会がいくつもあったのが、原因の大半を占めていた。
 判事サマも大変だな、と亜双義に背中をバシバシ叩かれ。あまり無理をしないように、と御琴羽に釘を刺され。そのうち、お互い当たり前の光景になるだろうと、思っての矢先だった。

「朝帰りだろうと思って麦粥を用意してもらいましたが、食べますか?」
「お、おう……

 なんてことない呼びかけに身体は動いたものの、視線は外せなかった。あのトランクは確か、日本を発った時から御琴羽が持っていた代物だ。下部に刻印された桜紋からして間違いない。と、なれば。
 どこか浮ついた心地で木椅子の背もたれを引き、腰掛ける。隣の亜双義は焦げたトーストを齧っているようだった。炭の匂いと、紅茶の香りと、ゆで卵とベーコンの生臭さ。朝帰りには少々きつい朝食の横で、冷えた麦粥の椀が置かれる。揃って三人、食卓についたところで。口を開いたのは二人だった。

「話があるのですが」
「お前さん、ここを出るのか」

 視線がかち合う。思ってもみなかった様子の慈獄に対し、御琴羽の眼差しは一層真剣みを帯びていた。

+++

 何かあったときには、と書き残されたメモには、新居地の住所と同居人の名前が書かれてあった。食卓に突っ伏した慈獄は、メモを手に、じろりと睨めつけ黙読する。

『ベーカー街二二一B、シャーロック・ホームズ』

 ホームズ、ホームズってか。馴染みのない響きだ。おおかた現地人の名前なのだろうが、正直いったところ、男か女かも定かでない。本人の話では年若い青年だという。ますますよく分からない。何をどうして、同胞と英国人に接点ができたというのか。

「慈獄、寝るなら自分の部屋に行け」

 新聞越しに亜双義の声が飛ぶ。一振りの刀のごとく凛と冴え渡る声を、今朝になって、はじめて聞いたような気がした。自然と慈獄の興味は目の前の男へと移る。そしてまた当然のように、問いが落ちた。
 知っていたのか。

「昨日の夜、な。ヤツから聞いた。いわく、住むなら早い方がいい、と先方から急かされたらしい」
「それこそ随分と急じゃないか……大丈夫なのか?タチの悪い野郎に捕まったんじゃないのか?」
「だとしても。御琴羽が決めたことだ」
「しかし」
「くどい」

 広げていた新聞が折りたたまれる。そのまま机に置いて、腕を組んだ亜双義の視線は冷え切っていた。目と目が合う。同時に、背筋に悪寒が走る。頭の芯からつま先まで稲妻のごとく震えが降りていった。さすが、地元で『蛇のひと睨み』と恐れられた亜双義だ。並大抵の人間なら震え上がって動けなくなるだろう。それだけ彼の瞳には、畏れそのものが形になったような、言い知れない迫力が潜んでいた。
 思わぬ非難の目に内心戸惑う慈獄だったが、犬っころのように尻尾を巻いて逃げ出すほど、低い矜持は持ち合わせていなかった。自然と睨み合う形で身体を起こす。一触即発の空気を最初に破ったのは、亜双義だった。

「御琴羽を信じろ、慈獄」

 短く言いきった言葉の内容がすぐに理解できなかった。そんな当たり前のことで責められるなど、非難されるなど、慈獄にとって思ってもみなかったことだった。御琴羽は親友だ。親友を信じるのは当たり前だ。≪オレは御琴羽という男を信じている≫

……藪から棒に、ナニを言っている?」

 つまり慈獄の困惑はしごく当然の反応だった。だが彼の様子を一瞥した亜双義は、ふうと息をつき、ゆるく首を振った。日本人らしからぬ、そのそぶりは倫敦に着いてからの亜双義に、ときおり見られるようになったものだ。誰から影響を受けたのか、考えるまでもない。
 この場においては。そぶり一つが慈獄の神経を苛立たせる。

「その様子だと。どうやら、分かってないらしい」
「喧嘩売ってンのか」
「まさか。暫く時間がかかりそうだと、気が遠くなっただけだ」
「よし分かった。売ってンだな?そうだ、ングッ」

 突如目の前が暗くなる。まさかこの距離から昏倒させられたのか、と肩を強張らせた慈獄は、そう間を置かないうちに眼前に広がる暗闇の、輪郭を掴んでいく。並ぶ文字。インクの香り。
 顔の前に両手を持っていき、叩きつけられた新聞紙を力任せにわし掴むのと、同時だった。

「アイツはここを出ていきたがっていた」

 亜双義の声だ。位置からして、すぐそばに立っている。腕を伸ばせば届く距離だ。しかし、慈獄は何もできなかった。

「今回の引越しは渡りに船だった。好機だったのだ。慈獄よ、そろそろ御琴羽を好きにさせてやれ」
……
「あとは己で考えろ」

 部屋から出ていった亜双義は、そう時間の経たないうちに下宿からも出ていった。今日は休みと聞いていたが、用事でもあったのか。それとも同じ空間にいたくなかったのか。今の慈獄には、どちらも、どうでもよかった。
 やっと新聞紙を引き剥がす。どんよりと曇った窓明りが頼りの、気の滅入るような暗い、暗い天井が、広がっていた。

………寝るか」

 ひどく惨めな心持ちで自室へと向かう。自分も休みだ。久々の休暇だ。こうなったらトコトン寝てやるのだ、勤勉すぎる師に付き合ってきた分をまとめて清算してやるのだ。

 のちに検事局からの使いはこう語った。留学生が集まるという下宿に急務の報せを持っていったら、天井ほどの大熊がものすごい形相で応対した、と。

+++

 かの大英帝国で慈獄は一人の師を得た。先進国と渡り合うために必要な国際法に加えて、門外漢であるはずの外交まで教示する、検事局きっての慧眼、上級検事ハート・ヴォルテックスその人だ。生来人間といえば黒と白以外の常識を持ち得なかった慈獄にとって、大英帝国の師は何もかもが異質で、人外じみていた。
 倫敦の空よりも色素の薄い銀髪、更に薄く白目と同化しているのではないかと疑ってしまう水色の瞳。かと思えば、松を思わせる浅黒い肌は慈獄のソレよりも濃い。慈獄よりも背が高く、慈獄よりも声が低く、慈獄よりも、そう。ハート・ヴォルテックスは人使いが荒かった。

 朝帰りにようやく一眠りしていたところを叩き起こされた慈獄は、迎えの馬車に揺られるがまま、気づけば師の執務室に立っていた。
 英国式の作法でそつなく入ってきた慈獄に対し、執務机を前に座したヴォルテックスの視線は、手元へ降りたままだ。小さく「見積もって三分三十六秒の遅れか」と呟いたのが聞こえる。どこから見積もったのだろうか。寝不足も重なり気が遠くなった慈獄の脳裏に、そういえば迎えにきた使者が到着時刻を伝えてきたような、と微かな記憶がよぎったところだった。

「さてジゴクよ。これより二日前の夜について、見聞きしたことを供述してもらう。嘘偽りなく答えるように」
「はい?」
「貴公の供述次第で調査の範囲が広がるのでね。三分だ。時間内に、全てを説明したまえ」
「いや、待った!待ってくださいよ!供述!?」

 思わぬ方向からの命令に、前のめりになった勢いで執務机に手をついてしまった。俄然接近した師といえば、相変わらず微笑を浮かべている。寛容ではない。緩めた口元から上へ辿っていけば、眉間の皺を更に深くして、言外に、とっとと話せ、と急き立てる苛立ちを肌で感じる。
 寛容などであるものか。この方の微笑みは獲物を睨めつける獣と同等なのだ。師と仰いでから早一ヶ月、ヴォルテックスの人となりについて嫌という程思い知らされてきたが故の、率直な感想だった。
 しかし二日前の夜に、何が起こったのだ。眠気と戦いながら必死に記憶を探っていく。昨夜の深酒が余程祟っていたらしい。どうでもいいイザコザや、この場にそぐわない暗い天井など、何度も顔を出す記憶の壁をかきわけ、ようやく目当ての光景を掴みとる。東洋人の女だ。随分と背丈が低く、コルセットを剥き出しにしたまま現れた夜更けの女。

「さては、貴公。今朝の新聞を読んでいないな?」
「えっ」

 朧げながら思い出した女をかき消すように、眼前のヴォルテックスが腹底から息をついた。呆れた様子の師。事情が把握できない弟子。一瞬静まりかえった空気に耐えかねたのだろうか、いつのまにか側にいた見慣れぬ男が慈獄の手になにかを押しつけた。ぎょっと肩がこわばる。不意をつかれた形で視線をおろせば、手に新聞が握られていた。
 ご苦労、とヴォルテックスが簡潔にねぎらう。よくよく見れば男の胸元に検事章が光っていた。つまるところ、師の部下か後輩か。それにしては、あまりにも存在感の薄い男だった。

「見出しは≪大帝都倫敦・本日のスクープ≫だ。嫌でも目に入る」


【間に合わなかった大探偵の話】

 気付いたときには遅かった。手遅れだった。久方ぶりの焦燥感に駆られながら、ホームズは足早に路地裏をあとにしていく。ホテル・バンドールを出てから既に二十分が経っている。刻一刻と過ぎていく時間に押されるようにして、たどり着いた場所は、人並ぶ乗合馬車≪オムニバス≫の停留所だった。
 倫敦市民に愛される大探偵の特権を駆使したホームズは、目論見どおり真っ先に馬車へと乗りこんだ。そこまでは良かったのだが。その後ろを陣取った、ハムのような腕の大男があまりにも幅広かったために、哀れ車内の壁に挟まれる羽目に陥ってしまった。漏れるうめき声。鼻につく悪臭。
ちくしょう、急いでるときはいつだってこうだ。口を閉じることもままならない悪辣な状況下で、ホームズは内心毒づく。

 事件が起こってから物知り顔でのこのこ現れる。
 それが探偵だ。探偵であるがために、悲劇を未然に防ぐための努力も、回避するための知恵も、結局は徒労に終わるのが常なのだ。現に『今回も』被害者が出てしまった。
 防げたはずの悲劇だった。避けられたはずの悲劇だった。ほんの少し道筋が違えば、あともう少し己の理解が進んでいれば、事件現場での顔合わせも違う形になっていただろう。少女らの涙を見ることも、なかっただろう。とめどない後悔がホームズのこめかみに痛みとして現れる。物理的な圧迫感も伴っているためか、冗談でなく頭が割れそうに痛い。
 砕けてくれるなよボクの頭蓋骨。ホームズの独白はどこか必死の色が浮き出ている。今日に至ってから散々酷使した脳みそにより既に結論は出ている。やらなきゃいけないことも、行くべき道筋も、全て把握した。あとはただ走り抜けるために、やはり脳みそが必要なのだ。もってくれよボクの意識。
 やっと気付いたのが何だっていうんだ。まだ何も終わっちゃいないんだ。

 乗合馬車は港へとたどり着いた。


【共犯者の話】

 それはたしかに人間の形をしていた。上等な絹のシャツをドス黒く濡らし、腹のあたりまで切り裂かれ。咽喉に埋めこまれたアダムの林檎も、飛沫と共に撒き散らされていたが、『それ』は人以外の何者でもない。ヴォルテックスは口早く祈りを呟いた。
 徐々に広がっていく水溜りが、佇むヴォルテックスの足元まで辿り着く。何食わぬ顔でつま先を下げた彼は、うまく流れを避けた。彼は検事だ。殺人現場で怖気付くほど、初心ではない。今更、天を仰ぎ見る遺体と遭遇したところで、この世の非道を嘆くには経験が豊富すぎた。検事の職についたものは、遅かれ早かれ、みなそうなる。鈍感になる。被害者を悼むよりも、起きてしまったものは仕方ないと断罪する作業に集中した方が、よほど楽だったし、効率的だったからだ。

 見下ろす先で跪き、神に縋るように手を組み、丸めた背中をガタガタと震わせる男もまた、検事のはずだったのだが。シルクハットを深くかぶり直したヴォルテックスは周囲を事細かに見回した。夜も更けた路地裏の、凄惨たる殺害現場には三人の男と『凶器』以外、誰もいない。被害者、発見者、そして残り一人。発見者であるヴォルテックスは勿論、震えている男も検事だ。しかし、まさに彼こそが、哀れな被害者を前にして両手を汚した殺人鬼だった。

「そこに倒れている男は、貴公と関係あるお方ですか」

 殺人鬼から応えはない。ガスライトの灯りも遠く、暗がりで観察し難いものの、身につけている装飾具からして貴族層の人間だろう。殺人鬼と同じ階級に属する者だ。彼らの繋がりは何世代にも渡り、魚獲りの網のように張り巡らされているので、何かしらの接点があると見て間違いはない。
ふとポケットの上から懐中時計に指を這わせる。あまり時間がない。今のところ人影はないが、足元の唸り声が徐々に喉笛へと迫ってきている。

「貴公が抱いている猟犬の仕業と見て、宜しいか」
………

 殺人鬼は応えない。顎下につぅと汗が伝ったが、構わずヴォルテックスは続ける。

「もし命じたなら、私は貴公を殺人犯として断罪しなければならない。しかし猟犬による事故だったなら、腕の良い弁護士を用意しよう。ただの不幸な事故であり、貴公に殺意など存在しなかった」
……………

 フゥと息を吐く。ヴォルテックスの口元が一瞬白く染まり、夜の冷気に消えていった。さて、と切り出した時、彼は気がついていた。殺人鬼のギラつく視線が、吸い込まれるように自身の喉笛へ注がれていたことを。舌がカラカラに乾いている。今この時が夜であったことはきっと幸運だった。

「しかし、そうではないのでしょう。私はあの男をよく知っている。あの男は、法による正義を踏みにじり、悪徳を良しとする、罰せられるべき犯罪者だった」

 殊更に強調された悪を口にした途端、首回りを覆っていた殺意が微かに薄れた。殺人鬼の表情に戸惑いが浮かび上がる。ちら、と伏し目に伺ってみれば、まるで同意を得ることなど想定していなかったような顔つきだ。
 つくづく尊い血の貴族サマという奴は。あの悪徳貴族を憎む点においては同志である、とヴォルテックスは想定していたのだが、相手の反応からして、全くの範疇外にあったことをまざまざと突きつけられてしまっては内心呆れる他ない。おそらく腕に抱く猟犬程度の存在すら、身近にいなかったのだろう。彼はそういう男だ。殺人鬼へと堕ちた検事クリムト・バンジークスは、そういう男だった。

「貴公の殺意があの男に裁きを下した。誰にも否定はできますまい」
………私は」

 ようやく聞き取れたバンジークスの吐露に、ヴォルテックスは確かな手応えを感じ取った。一息吐くには早すぎるが、ひとまず第二の犠牲者には、ならずに済んだようだ。今思えば、殺害現場に居合わせた瞬間、背を向けなかった自分を褒めてやりたいぐらいだった。
 俯いたバンジークスの前に膝を下ろす。勿論、血溜まりに触れないように。

「私は、どうすればいい……
「貴公には時間が必要です」

 間髪入れず、言い聞かせるように答える。急いで出した結論が良かった試しはない。とにかくここにいてはいけない。誰かに見つかる前に離れましょう。血まみれのスーツを覆うように自分のコートを着せてやり、肩から支えるようにして立ち上がらせる。猟犬を抑えていた腕が離れた瞬間は流石に緊張したヴォルテックスだったが、襲われはしなかった。

「一度私の邸宅に寄りましょう。手狭でありますが、使用人は殆どいません。ゆっくり考えるには良い場所だ」
「あぁ……
「ほら、歩いて」

 人気のない通りに馬車を待たせてある、と先導するヴォルテックスは、バンジークスの肩越しに路地裏の暗がりを見た。つい先ほどまで、ここには三人の人がいた。被害者と、発見者と、残り一人の殺人鬼。被害者がただの肉塊になり果てて、今や全員、人でなしだ。人のかたちだけ象った獣そのものだ。
 どれだけ言い繕おうと人間には戻れない。


【労咳屋敷に繋がる話】

 月の綺麗な夜だった。
 縁側から見える月夜の空は、雲もなく、星もなく。たとえ満ちなくとも月の映える良い夜だった。それでいて、虫の代わりに蝉が鳴く、蒸し暑い夜でもあった。
 成歩堂と亜双義は、縁側に二人座って月を見ていた。手には少々黄ばみがかった薄紙のうちわ。傍には、広げた風呂敷に置かれた艶やかな白団子。硝子の水差し。そしてなみなみと水の注がれた茶碗二つ。ぐい、と一つを飲み干した成歩堂は、また水を注ぎ足しつつ大きく息を吐いた。

「こうも暑いと、お月見も何もあったもんじゃないな」

 ぼやくかたわら、着流しの下に覗く長襦袢まで胸元を広げ、煽った風を送りこむ。
 たとえ趣のある月夜でも暑いものは暑い。いくつも浮かんだ汗粒が、腹まで滴り落ちていくほどの熱気。ここに人がいなければ帯まで解いていただろう。
 素足を放り出し、後ろに手をつく親友の横で、涼しげな顔つきの亜双義は団子を頬張っていた。此度の月見、時期も酒も外れた奇妙な集いにて、最初に話を持ちかけたのは、意外にも亜双義からだった。

+++

 処理を手伝ってほしい。何、こみいった話ではない。つい先ほど、世話になっていた教授の奥方から、団子をいただいてな。流石に一人では食いきれんのだ。

 大日本帝国が誇る大審院の帰り道、今日も一仕事終えた成歩堂は、偶然出くわした親友からのお誘いに迷っていた。
 首にかけた手ぬぐいで汗を拭う。さんさんと照っていたお天道様が沈む頃、道を歩いていた成歩堂は、今日も今日とて御琴羽の家へお世話になるつもりだったのだ。
 今朝方その旨を家主に伝えていたし、何より、成歩堂のすぐ隣には御琴羽のご令嬢、寿沙都がいた。このまま彼女を置いていくのは流石に忍びない。そうこう考えているうちに、耳元で悪い蟲が囁く。なんなら寿沙都も連れていってしまえば。いや、いやいや、それはそれでよろしくない。
やはり断ろう。折角のところ悪いけど、そう口火を切ろうとした横に割り入ってきたのは、思いもよらぬ一言だった。
 改めて、成歩堂はその時を振り返る。

「ならば泊まっていかれてはいかがでしょうか、だってさ。ただでさえ狭い肩身がより狭くなった思いだよ」
「はっはっはっ! 大の男が、ひとさまの家で何年も居候をやっていれば、卑屈にもなろうさ。そろそろ家を構えたらどうだ?」
「簡単に言ってくれるよなぁ……事務所だって見通しが立ってないんだぞ」

 いよいよ残り少なくなった団子を頬張る。揃って大食漢だったのが幸いして、山盛りの白も底が見えるまで数を減らしていた。この時期ならば足も早い。かの大英帝国で耳にした豪華汽船パラブロック号には、電気式の冷蔵室があったそうだが、この屋敷にそのような一室があるはずもなかった。
 何しろ、亜双義の生家だ。悪くなるより早く食えばいい、とのたまうような男の家だ。どんなに時代が進もうとも冷蔵室など必要としないのだろう。

「人聞きの悪い。糠床ぐらいはある」
「何年ほったらかしにされてるのか想像するだけでも恐ろしいな」
「確かにそうだ」

 二人して茶碗を傾ける。掘井戸から汲んできた清水は、とうに温く、苔の青臭さが鼻につくまでになっていた。
 そろそろお開きの時間だろう。
 あらかた減らした団子を横目に、一息ついた成歩堂は、縁側へと寝転んだ。頭上の向こう、奥の部屋には布団が二組敷かれているが、そこまで這っていくのも億劫だ。何しろ今夜は暑かった。

「風邪をひくぞ」
「ん」

 親友の忍び笑いと共に、最後の一つが、その口に放り込まれる様を視線で追っていく。これでおしまい。咀嚼する頬と、上下する喉のあとに残るのは、ただ落ちる月明かりのみ。あぁそういえば、と成歩堂は振り返る。
 こんな夜更けに、彼の顔を見るなんて何年ぶりになるのかしら。相変わらず美丈夫で、同じ男も惚れるほどの男前だなぁ。

「なぁ、成歩堂」

 やはり亜双義はかっこいいなぁ。

「事務所ならば、この家を貸し出してやろうか」
……うん?」
「だから事務所だ、法律事務所。家賃は安くしてやる。部屋も好きに使うといい」

 視線を合わせるように寝転がった亜双義は、肘立てた掌に頰を乗せ、さも当然のごとく言い放った。
 悪くない条件だろう。団子の誘いと変わらない気軽さで切り出してきた親友を前に、思わず頷きかけた成歩堂は、すんでのところで我に返る。

「ここは亜双義『検事』の家じゃないか。場違いにも程があるというか」
「オレが出て行こう。家のことなら、御琴羽法務助士に聞け。彼女ならよく知っている」
「いやいやいや! 無茶言うなよ!」

 がばりと身を起こした成歩堂の横で、また快活な笑い声が響いた。

「嫌ならさっさと目処をつけろ。あんまり足踏みするようなら、無理やりでも押しつけるぞ」
「お、横暴だ……
「横暴で結構」

 人生はあっという間だぞ、成歩堂。

 嫌に耳に残る捨て台詞と共に、起き上がった亜双義は、食器や風呂敷をまとめて隅に置いた。そのまま奥の部屋へと続く障子を開ける。
 キサマも明日は早いだろう。そう囁く着流し姿の親友に、かつて大英帝国で舌戦を尽くした、かの検事の面影がありありと見えるようだった。

 此度の月見、酒を控えたのは来たる明日のため。亜双義一真が、はじめて検事として大日本帝国の大審院に立つ姿を、確かに見届けるその一心で、ここにいる。担当弁護士が別の人間だったのが、成歩堂からしてみれば悔しくもあり喜ばしくもあった。しかし親友の晴れ舞台であることに、間違いはない。

「おやすみ、相棒」
「うん」

 おやすみ、ぼくの親友。
 閉じられた障子を挟んで、改めてうちわ片手に寝転がり、ぼんやりと月を眺める。どちらにせよ布団は同じ部屋にあるのだから、彼が寝入るより先に、寝床へ入らなければならない。それでも動くのはいささか億劫だった。

(うっかり寝てしまっても寿沙都さんが運んでくれたものなぁ)

 しみじみ思い返し、ふと親友の忠告が脳裏をよぎる。
 大の男が。居候の身。

 まさしく考えないようにしていた事実を突きつけられてしまった。自分の家を構えてこそ日本男児というのに、留学先でも下宿人だった性根は、そう簡単に治らないらしい。引け目もあってか、あの大探偵が両手広げた姿勢で「そんな調子でいいのかい?」と煽る幻覚すら見てしまった。
 家を構えて。事務所を開いて。弁護士として働くならば、法務助士を、入れなければ。

 障子をじっと見つめる。こうして迷っているのも訳があるのだと知ったら、彼は、何と言うのだろう。

……ぼくは、そんなつもりじゃなかったんだ」

 二人の間に割って入るつもりなんて。障子越しから聞こえるコンコンとした咳に、かき消されるほどの呟きが、誰とも知れずに消えていった。

+++

 それから一年後。
 区画整理のため、亜双義の屋敷は取り壊された。


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