2021.07 ディストピアSF風ブロマンスのホー炎。火星を一人きりで耕してるエンデと、砂漠で暮らすホの話。
2021年7月発行の同人誌「Stargazer」に収録
@nanameru
1.
赤茶けた土に鍬を振り下ろす。
一歩後退し、また振り下ろす。単純な動作をただ繰り返す。
本日の気候は温暖、西風あり。平原より吹く風は砂塵を多く含む。額ににじむ汗を拭うと、ざらついた摩擦が肌をきしませた。この感触にもずいぶん慣れた。
この不毛の地に、己のほかに生命はない。
吹き抜ける風と、ざくざくと土を耕す音がすべてだった。
ふと気づくと足元の影は長く伸び、そろそろ頃合いかと作業の手を止めた。手首に取り付けた腕時計型のデバイスを見ると、画面の数字は日没の刻を示している。外での仕事は日没までと決めている。今日もこれで仕舞いにすることにして、縮こまった腰をぐいと伸ばす。
視界に広がるのは荒涼たる大地だ。
見渡す限り草木はなく、乾いた赤茶の地面がどこまでも続いている。その遥か先、遠い地平線に太陽が沈んでいく。
空は大地の色を写し取ったような橙色をしていた。その空が、夕焼けの色に染まっていく。深い夜のはじまりを思わせる、煙がかった青色に。
この星の夕焼けは青い。
ここは太陽系第四惑星。火星だ。
俺はこの砂塵の星を、ただ一人で開拓している。
俺に課せられた使命は、火星を地球の生命が住める環境に変えること。いわゆるテラフォーミングというやつだ。当然ながら火星の環境は、元のままでは地球の生命が暮らせるものではない。問題点は目下のところ三つあった。
一つ目は大気圧。火星の大気圧は地球の生命には低すぎる。
二つ目は気温。火星は地球よりはるかに寒い。
三つ目は大気の組成。火星の空気には酸素がほとんど含まれていない。
たとえばヒトが裸で火星の地に飛び出したなら、その身体は減圧障害きたし、凍てつき、窒息するだろう。宇宙服なしでの行動はすなわち死を意味する。
いま俺がこうして簡素な作業着で立っていても平気なのは、第一と第二の問題を解消したからに他ならない。
第一の問題は技術で解決された。火星全体の大気圧を変えることは不可能だ。だが手首につけている腕時計型デバイスの機能により、火星の大気圧下でも活動可能になった。
第二の問題。詳細は後述するが、今の火星はヒトが活動可能な気温に変化した。
第三の問題。これも後ほど説明するが、俺の個性の働きにより、機械などの補助なしで火星の大気のなかでも呼吸ができている。
ヘルフレイム。炎を操る俺の個性。
これこそが火星の寒冷な気温を変えた力の源で、かつてエンデヴァーと呼ばれていた男が火星に送られた理由だった。
炎とは、ものが燃える時に現れる。ものが燃えるには、発火点以上の温度と酸素が不可欠だ。簡単に言うと、ヘルフレイムは炎を操る個性に見せかけて、熱と酸素を自在に発生させる力だったらしい。意識すると炎を操るだけでなく、熱と酸素を個別に発生させられるようになった。こうして、必要な分だけ酸素を発生させて呼吸している。
この計画が始まってから火星の大気中の酸素量はわずかに上昇したが、地球の生命が呼吸するには程遠い。俺のほかに酸素を生み出せるものといえば、植物だ。
俺は一人で火星に樹を植え続けている。とはいえ成果は微々たるものだ。うまく育たない時も多くあるし、以前植えた分の保全に割かれる時間も多い。代わり映えのしない荒涼とした景色を見渡し、五〇年前の目覚めた日のことを思い返す。
火星で最初に目にしたのは、青い夕焼けだった。
ポッドの扉が開き、この惑星の大地を初めて自らの足で踏みしめた。吹きすさぶ風は乾いた砂の香りがした。見上げた火星の空は、地球の春空よりもかすみがかっていた。その空の端が、深くおぼろげな青に変わっていく。初めて見る奇妙な光景を、息をつめて眺めていた。
俺が火星に送り込まれた目的は、火星を暖める炉となることだった。一朝一夕で成し遂げられることではない。壮大で長期的な計画だ。
まずは出発前に老化遅延の処理を受けた。肉体年齢は四十代半ばが保たれ、活動可能期間はヒトの寿命を超越した。
次に特殊な生命維持ポッドに納まって、長期睡眠に入った。そして、そのまま火星に一人きりで送り込まれた。眠っている間に火星の適度な温暖化が完了する算段だ。
眠っている間、ポッドの補助を受けて個性を使用し続けた。大気や地に絶え間なく熱を与え、更には地中深くのマグマに働きかけた。
結果、長い年月をかけて火星は暖められた。
要した時間は、五〇〇年だった。
火星に送り込まれてから五〇〇年、目覚めて火星を耕し始めてから五〇年。
宇宙の規模で見れば瞬きするほどの時間だ。だがヒトにとってはあまりに長すぎる年月だった。数千万キロメートル離れた地球では、家族や仲間はとっくにいないだろう。
根城に戻って軽くシャワーを浴び、食事用のトレーに夕食を用意する。ボイスレコードに活動記録を残す。地球から定期的に送られてくる食料や機材をやりくりして、ここでの生活を続けている。
簡素なバラックと移動用に改造したローバーが、俺が持つ資産のすべてだ。木を植えては火星の各地を転々と移動し、五〇年過ごしてきた。かつて庭いじりをしたことすらなかった俺がこうして過ごしているなんて、おかしな話だと思う。
バラックの窓から外を見遣ると、青い夕焼けはとっくに過ぎ去っていた。空に宿った青色が消えてしまうことを、惜しむ感情がないといえば嘘になる。
青い夕焼けという奇妙な景色は、五〇年かけてすっかり日常になった。だが驚きを失った代わりに別の意味が芽生えた。
ひたすらに赤いこの星がほんの一時だけ見せる青。
その色に俺は地球の空を連想する。
この心の動きを、おそらくは郷愁というのだろう。
かつての家族や、近しかった者たちの姿を脳裏に浮かべる。飽きもせず故郷を懐かしむ俺を、彼らは柄にもないと笑ってくれるだろうか。
2.
広い砂漠の真ん中に、ぽつんと建つ施設があった。
小さな白い箱をいくつも並べたような棟々に、飛行機の滑走路。全体的に平坦なつくりの施設の中で唯一高くそびえ立つのは、ロケットの発射台だった。
砂漠の夜はひそやかに冷え込む。さえざえとした夜空のてっぺんに、銀色の月が昇っている。月の光に照らされた発射台の鉄塔は、青白く輝いていた。
人里離れた砂漠にひっそりと建つこの施設は、もうずっと人の気配がない。一見打ち捨てられた場所のように見える。だが、滑走路も発射台もきちんと整備されている。
人のかわりに施設を飛び回っているのは、数えきれないほどの赤い羽根だった。
『超常』の出現が突然だったのと同じように、消失も突然だった。
二〇XX年。『超常』は非日常になるという学説が発表された。
『個性』は世代を経るにつれ深化していく。複雑で強力になっていく個性に人の身体は追いつけない。やがて人は種の保存のために個性を持たずに生まれてくるようになる。つまり、この先個性を持つ人間は減っていき、数世代先には完全にいなくなるという内容だ。
眉唾という者もいたが、その年以降『無個性』の子どもの割合は急増していった。その学説が事実だと、人々は認めざるを得なかった。
同時に、地球の急速な資源枯渇が問題にのぼるようになった。
超常社会では様々な資源――たとえば木材、電気、燃料などを人々の個性で補っていた。それが将来的に個性が消えるとなると、どうなるか。当然、資源の消費が増える。
枯渇性資源の、可採年数激減という分かりやすい数字。
人類はこの先、限られた資源で生きていかざるを得ないという現実を突き付けられた。そんな状況下で強力な『個性』を持つ者が貴重な資源として扱われるようになったのは、抗いがたい流れだった。
「それが五〇〇と五〇年前のこと、だよね」
ころりと鳴る鈴のような声が管制室に響く。
大小多数のモニターがひしめく薄暗い部屋のなか、一つだけ稼働している画面がある。その正面、青白い光に照らされて声の主のすがたが浮かび上がる。
歳は十歳ほど。収穫前の麦畑のような金の髪。背中には一対の鮮やかな赤い翼がはえている男の子だ。
男の子は回転いすに腰かけて、気ままに脚をぶらつかせながら目の前のモニターを見つめている。
『その通り。このあと、人間はよその惑星に住む計画を思いついた。その最初の計画、火星を改造する計画の立役者にエンデヴァーさんが選ばれた』
幼い頃の自分とおなじ姿をしたこの少年に、俺は電子の音声で返事をした。モニターには俺の音声にあわせた波形が表示されている。
『超常』の消失後、強力な個性を持つ者に資源化の白羽の矢が立った。
かつてホークスの名で呼ばれていたヒーローである俺も、その一人だ。
剛翼には飛行などの能力もあるが、この計画で重要視されたのは羽根を媒介とした探査能力だった。俺は肉体の大半を捨てて、羽根と脳みそだけを残した。
かつての肉体のかわりに羽根を作り出す装置を作って、脳とコンピューターを繋いだ。肉体のくびきから解き放たれたことで、剛翼の探索可能範囲は飛躍的に向上した。剛翼は世界じゅうの航空レーダーや計測器の代わりを担い、大幅なエネルギー削減に貢献した。
肉体を捨ててから各地を転々と移って仕事してきたが、いま拠点としているのは砂漠の真ん中にある航空宇宙港だ。もとは小さな飛行場だったのを五〇年前買い取って、ロケットの発射台をたてた。
たくさんのコンピューターと、地下にある保護液に浸かった脳、施設じゅうを駆け回る赤い羽根。この航空宇宙港がいまの俺の身体のようなものだ。人の手がいる仕事も羽根がやってしまえるので、スタッフはいない。
ただ一人、この少年を除いて。
モニターの前に座っている少年は俺の複製体――つまりクローンだ。
いま地球に生きる人類はみな無個性だが、俺と同じ遺伝子を持つこの少年には当然、俺と同じ個性がある。肉体を捨ててから四百年後、俺の予備の身体を用意するという名目で無断で作られた。
表向きはそういうことになっていたが無断ということはつまり、別の目的があったということだ。俺は『超常』なくとも成り立つ社会の第一歩となるべく肉体を捨てたのだ。個性目的で過去の人間を複製するなんて前例を作らないためにも、計画とその研究データは破棄させた。だが時すでに遅く、俺のクローンはうまれていた。
俺は子どもの姿のままのクローンに凍結睡眠をほどこし、しばらくかくまうことにした。人間の複製禁止にまつわる法が整う頃合いをみて凍結をとき、この施設で養育しはじめたのが五年前のことだった。この子が成長してひとりでも歩いていけるようになるまでは、親のような先生のような、友達のような存在として一緒にいてあげたいと思う。
「火星にいったエンデヴァーのお話と、砂漠でくらすホークスのお話。何回きいても、歩いて夜を追い越そうとするような気持ちになるよ」
少年がモニターの前でほうとためいきをついて言った。外では空のてっぺんを月が通り過ぎる頃あいだ。眠りにつく前に、こうやって話をするのが習慣だった。
幸いというか、音声を出力するものさえあれば俺はどこでも応えてあげられる。
『夜を追い越すって?』
「ん……ぜんぜんかなわなくて、ぽかんとしちゃうってこと。夜がはじまるのと一緒にずうっと西に歩いていけば、ずうっと夜のなかにいられる。それどころか、まっさきに朝にたどり着けるんじゃないかって。僕がもっと小さい時にそう思ってたんだ」
『たしかに、それは難しいな』
俺と少年はふたりきりの施設のなかで、色んなことを話した。
『超常』が日常だった世界のこと、そこで俺が出会った人たちのこと。いまの砂漠の外の暮らしのこと。遠い星の開拓者のこと。
少年は俺のクローンではあるが、俺とは別の人間だ。物事をうがって見るくせがある俺と違って、彼は素直に心がとらえるままの見方をする。彼のこういったところに触れるたび、俺は木々の新芽を揺らすやわらかな薫風を思い出すのだった。
「どうしてふたりともこんな大変なこと、やるって決心できたのかなぁ」
『そうだな。俺は……』
口にしかけたところで少しまごつく。
エンデヴァーさんが火星に行き、俺が砂漠に暮らすようになったいきさつは何度か話している。けれど、そうすると決めた心境を聞かれたのは初めてだった。五五〇年も活動しているくせに、心の深く、核の部分を見せるのだけはどうも慣れない。えいと腹をくくって続きを言葉にする。
『……そうするしかなかった、他に選択肢はなかったんだって言う人もいる。だけど俺は、飛べる奴は飛ぶべきって思うから。俺は俺ができることをやった。それだけさ』
きっとエンデヴァーさんもそうだ、と続ける。
自分以外のだれかのために、できることをやると決めてエンデヴァーさんは火星に行った。
「うーん……」
少年はしばらくうつむいてうなっていたが、むっつりと口をとがらせて言った。
「分かんないや。僕だったらどうしたかなって考えてみたけど、僕にしかできないことなんてそんなにないし。だけどね」
きらっと満月のような瞳が光る。
表情をくるりと変えて、今度はとっておきの内緒話をするみたいな顔だ。
「だれかのためにっていうのは、ちょっと分かるかも。ぱちぱちって砂を運んでくる昼間の雲とか、夜のひんやりした水みたいな風とか。一番光ってる赤い星の話とか。僕が空の話をすると、ホークスはいつもよりうれしそうな声をする。これってホークスのためになってるってことだよね」
少年はそう言って、誇らしげに笑った。
3.
「……そうか、五〇〇年。予定よりは早く済んだか。
今地球はどうなっている? 家族の皆は……いや、答えなくていい。五〇〇年も経ったんだ、分かりきっている」
承知しました。ご家族の安否についての質問を棄却。本日をもって火星可住惑星化計画のフェーズ1が終了。あなたに課せられたミッションは完了しました。
計画表によると、フェーズ1の終了後は火星を離れ、地球への帰途につくことになっています。
「地球に戻る、か。……今の地球には俺が知る者はもういないんだろう。この任を受けると決めた時から、その覚悟はしていた。それにこの道を選ばずとも、別れの日はいつかやってくる。
だがいざその日を迎えると……俺を動かしていた希求のひとつがぽかりと欠けたような、緑が茂っていた土地がすっかり乾いてしまったような。このようなうつろな心地になるものか。
……そうだ、このままこの星で暮らすのはどうだ。幸い、土地だけはたくさんある。誰も手をつけていないまっさらな土地だ。これを耕すのはさぞやり甲斐があるだろう。木を植えるのもいい――
いや、庭いじりをやったこともないくせにおかしなことを言った。忘れてくれ」
……エンデヴァーさん。あなたの要求は承認されました。計画表を変更。地球への帰還を延期、新たなミッションを開始。以後は地球からの定期的な物資供給をもとに、火星の開拓を行ってください。基本的な物資については必要量を当局で算出。希望する物品がある場合は――
鉄塔のてっぺんにふわりと舞い降りると、思っていた通りの景色があらわれた。
宝石箱みたいな、きらきらの星空だ。
このところ吹き荒れていた砂嵐はすっかりおさまって、久しぶりの晴れた夜だった。砂嵐は空にただよう雲もぜんぶ吹きとばしてしまったみたいで、いつもなら見えにくい小さな星まで今日はくっきりと光っていた。
ロケットの発射台の隣に立っているこの鉄塔は、太陽に近すぎて焦げてしまいそうだからいつもはてっぺんにはあまり近づかない。だけど日が沈んでからは、星をながめるのにぴったりな場所だった。
鉄塔のはじに腰かけたとたん、冷たい夜風がひゅるりと走っていった。風邪をひかないように、ホークスが教えてくれた通り翼を体の前にまわして肩をつつむ。こうすると毛布にくるまったみたいにあったかい。
そうして、ポケットから一枚の赤い羽根をとりだして、話しかけた。
「ハロー、CQ。きこえますか」
『――ハロー。こちらホークス、聞こえているよ。これは……管制室じゃなくて俺の羽根かな?』
「正解!」
手のひらの中の羽根がスピーカーみたいに震えて、聞きなれた声が鳴る。ホークスと話すのに剛翼を使ってみたのは初めてだったけど、どうやら考えてた通りにいったみたいだ。いそいそとホークスの羽根を耳元に押し当ててみる。港のデータベースにあるムービーで見た、大昔の無線機のまねっこだ。
「今日の夜空はね、すごいよ。小さい星も大きな星もうんときらきらして、ほんとうに宝石箱みたい。今日くらい晴れた日なら砂漠のずっと向こうにあるっていう、街のひかりが見えるかもって」
そういいながら、街がある方角に目をこらしてみる。
五五〇年前と比べたら人が住める場所は減ってきてるとはいえ、砂漠の向こうには街があって、そこにはたくさんの人がいるらしい。
見渡すかぎり砂漠が続いたずっと先に、夜空が少しずつ淡くとけていく。いちばん遠くの地平線はすらりとまっすぐに伸びているだけで、街なんてものは影も形も見つけられなかった。だけどあの向こうにたくさんの人がいて暮らしているのだと想像すると、その方角の空はうっすらと光って見える気がした。
実はずっと、ホークスに言えていないことがあった。確かめないと、そう思いながら言えないままでいた。けれど今日、遠い街の気配を目にしてようやく心がかたまった。
「……ねえホークス。僕、調べたんだ。火星の計画のこと。この港のデータベースではホークスが話してくれたとおり、五〇年と少し前にエンデヴァーが目覚めてる。ここから出る火星行きのロケットは、エンデヴァーに食べ物とかを送ってるんだよね」
ホークスの赤い羽根がそうだね、とこたえる。
ここからが本題だ。僕はすうっと大きく深呼吸して、続けた。
「だけど外のネットワークにある情報は、これとは全然違う。まだ、フェーズ1が続いてることになっている。ええと、つまり……外の人たちはエンデヴァーは今も眠ったまま、火星を暖めてると思ってるってこと。これって――」
一息にしゃべって、さいごのさいごでつっかえてしまう。
本当に、言っていいのかな。ホークスはこんなこと本当は聞きたくないんじゃないか。まっくらな雲みたいないやな考えが次々に浮かんできて、のどに苦いかたまりが詰まったみたいに声が出ない。
こんなとき、どうすればいいんだろう。あせって考えてみるけど、分からない。
僕はホークスとのおしゃべりが大好きだ。ホークスがしてくれるお話は色とりどりの宝石みたいで、たくさんのことを教えてくれた。だから僕もホークスによろこんでほしくて、僕が考えたことや見聞きしたことをたくさん話した。
だけど、僕がこれから話すことは、もしかしたらホークスにいやな思いをさせてしまうかも。そんなふうに想像して、何も言えなくなってしまうのははじめてだった。
ホークスが聞きたくないのなら、僕がかたまっている隙に逃げてくれたっていい。
うまく声が出ないかわりに、すがるような気持ちでホークスの羽根を空に向かってかざした。
ところが、羽根はどこかに飛んで行ったりしなかった。
僕の手のなかに、僕の声がきこえる所にいてくれる。
それで、はっと気がついた。ホークスは僕が言うことにつまったとき、へんにせかしたりしない。いつも僕が自分から話しだすのをじっと待ってくれていた。今もそうだ。
とん、と背中を押されたみたいだった。
上にかかげていた手をおろして、ホークスの羽根を胸の前で両手でそっと抱きしめる。
のどを締め付けていた何かがなくなって、確かめたかったことがするりと声になった。
「エンデヴァーが目覚めたことを……ホークスが隠したの?」
『……うん、その通りだよ』
ホークスは僕の言ったことを認めた。
夜のいちばん深いときみたいな、今まで一度も聞いたことのない声だった。
『いつかは明かすべきことなのにずっと迷ってた。君が子どもだからって先のばしにして、言いづらいことを言わせてしまった。……ごめん』
そう言われて、小さな針でついたように胸の奥がちくんとした。
ホークスは僕にいろんなことを教えてくれるけど、かくしごとが多いことにはうすうす気づいていた。僕をこわいものからかばうみたいに、上手にはぐらかしたり、さりげなく遠ざけたりする。僕がまだ子どもだから仕方がないのかもしれないけど。
そういうことがあるたび、ホークスは僕のすぐ近くにいるのに、手の届かない遠いところにいるみたいで、少しだけさびしくなるのだった。
でも、ホークスは逃げ出さずに僕の言葉を聞いてくれた。
相手がほしい言葉はあげられないかもしれないけど、それでもちゃんと言葉にして話すことや、一歩踏み込む勇気をもつことにきっと意味はあるんだ。
「……僕は大丈夫。だから、ぜんぶ教えてよ」
ぐっと背すじを伸ばして言うと、ホークスはなにか納得したように「そっか」とつぶやいて、しずかに切り出した。
『実はね。俺はわるいことをしたんだ』
それからホークスは、五〇年と少し前にあったことをぽつぽつと話してくれた。
ホークスは資源化された当初は世界中の航空レーダーや計測機の代わりをやっていた。けれど、ずっとこのままという訳にはいかない。五〇〇年かけて少しずつ人間たちに仕事を返していって、さいごに残った仕事が宇宙との通信だった。
そして、五〇年前。
火星可住惑星化計画のフェーズ1――火星の温暖化が完了し、エンデヴァーが五〇〇年の眠りから覚めた。エンデヴァーが目覚めたというシグナルは、当然ホークスが真っ先に受け取ることになる。本当だったらエンデヴァーは火星を離れ、次のフェーズへの準備が始まるはずだった。だけど、ホークスはそのシグナルを握りつぶしたのだという。
『つまり俺は、あの人のためなら正しくないことをやってしまえるってこと。人類のためにできることをやるって決めたくせにね』
そういってホークスはひっそりと声をふるわせた。笑っているのかと思ったけど、少し違う気がする。ホークスに顔があったら今どんな顔をしているんだろう。
その時だった。
手のひらのなかのホークスの羽根が心臓みたいにどくんと震えて、すぐあとに大きな声のようなものが頭の中にわんと響いた。
こんなの正しくないって分かってる、もうすぐ終わりがくることも分かってる、あの人の個性はあと何年かで使えなくなる。老化遅延の処置を受けた肉体が終わる先に個性が燃え尽きるみたいになくなってしまう。そうなる前に少しの間あの人の好きにさせてあげたっていいじゃないか。エンデヴァーさんが知る人はもう地球にいない。五〇〇年の間に地球は遠い星になってしまった。それを目の当たりにするのはおそろしいことだ。帰ってきてほしいなんて、もう一度会いたいなんて、虫のいいこと言えない。だったら、地球とはかけ離れた場所に、あの人だけの星をあげたい。あの人の好きに過ごせる居場所を。こんなことが正しいわけがない、だけど俺たち人類があの人から奪った五〇〇年に比べたら五〇年なんて一瞬じゃないか!
「わっ!?」
びっくりして、きょろきょろとあたりを見回す。
だけど鉄塔の上には当然、僕のほかにだれもいない。
『どうしたの?』
「ホークスには聞こえなかったの? いまのおっきい声みたいな――そっか!」
僕には聞こえて、ホークスは気づかなかった声の正体。
これは、ホークスの心のなかの声だ。
僕とホークスの『剛翼』には探索の力があって、振動や温度を感知できる。けれど僕のからだはホークスの複製体だ。それで少し話が変わってくる。
同じ個性と、同じ遺伝子のからだ。
同じだからお互いのことは感知しやすくて、だから心のなかの声も聞こえてしまったのかもしれない。
お互いのことは感知しやすいという点には、実は心あたりもあった。
時々、ふしぎな夢を見ることがある。いつもの夢よりやけにリアルで、僕がぜんぜん知らないことまで出てくる夢だ。
今朝もちょうど、こんな夢をみた。男の人の低い声のボイスメッセージと、それに答えるチャット。話のなかみは難しくて分からない所もあったけど、ふたりは火星可住惑星化計画のはなしをしていた。
低い声はエンデヴァーさん、と呼ばれていた。そして、エンデヴァーのことをそう呼ぶ人を、僕はひとり知っている。
あれはたぶん、ホークスの過去の記憶。
ホークスのいう『わるいこと』をしたときのエンデヴァーとのやりとりだ。
『……考え中かな?』
ホークスの声が聞こえたけど、僕は返事どころじゃなかった。
一気にたくさんのことを知ったせいで、頭がくらくらする。砂漠の熱い風にもみくちゃにされるみたいだ。いっぱいいっぱいになりながら、以前ホークスから教わったことを思い出す。
分からないことはちょっとずつ考える。自分だったらって想像してみる。
それでも分からなかったら、今は分からないままでもいい。
教わった方法のとおりに、少しずつ考えてみる。
むかしエンデヴァーが地球にいたころには、彼にも僕にとってのホークスみたいな人がいた。家族、友人、仲間。そんなふうな名がついた人たちは、五〇〇年のあいだにみんないなくなってしまった。
空の色や見かけは変わっていなくても、今の地球はエンデヴァーにとっては知らない星も同然だ。だからエンデヴァーは火星に残ることにした。そしてホークスはその手助けをした。
引っかかるのは「地球には俺が知る者はもういない」とエンデヴァーが言っていたことだ。つまりエンデヴァーは、ホークスがまだ生きていることを知らない。ふたりはむかし一緒に戦ったこともあるって聞いている。こういうのを仲間っていうんだと思う。
だったらホークスの方から自分は今もまだ地球にいるって教えていてもおかしくないのに、どうしてか言っていないらしい。
……もしかしたら、言うのがこわい、なんてことがホークスにもあるのかもしれない。ちょうどさっきの僕みたいに。
「……世界中の人にうそをついたのは、確かにわるいことだと思う。けどホークスは正しくないことって分かってて、それでもやったんだよね」
嘘というものは、他人に言うよりも、自分に言う方がずっとむずかしいと思う。人に言う嘘と違って自分についた嘘は、自分は必ず嘘だって知ってる。それなのに自分でついた嘘と付き合っていかなきゃいけないんだから。
それと同じで、正しくないと分かっているのに『わるいこと』をやるなんて、すごくむずかしそうだ。ホークスはどうしてそんなことをしたんだろう。
ホークスが『わるいこと』について話していた時の声を思い出す。遠いむかしばなしを語るときみたいにしんとしてるのに、心のなかの声は炎みたいに燃えていた。
だれかのために、できることをやるって決めた。
エンデヴァーのために、なにかしてあげたい。
どっちも同じくらいほんとうで、どっちも同じくらい大事で。
「……あっ」
その瞬間、火花がはじけたみたいにひらめいた。
かんじんなことは笑ってはぐらかしてしまうホークスのひみつ。
ホークスのたからもの。
羽根を口元に近づけて、ないしょの話をするみたいにささやく。
「僕、分かっちゃった。僕が空の話をすると、ホークスはいつもよりうれしそうな声をする。それは、空のずっと向こうの星のひとつに、エンデヴァーがいるからなんだね」
『…………!」
ホークスが息をのむ音が聞こえた。どうやら当たりみたいだ。
ホークスが焦っているのはちょっとめずらしくて、だけどホークスが今までよりずっと僕の近くにいるように感じて、ひとりでに笑顔になっていた。
僕にはまだ分からないことがたくさんある。だけどこれだけは確かだ。今の地球と火星は、とても遠い。五〇〇年のあいだにすっかり遠い星になってしまった。
大事な人が手の届かないところにいるというのは、きっとさびしいことだ。
もう一度会いたいと強く焦がれて、嵐の真ん中でもみくちゃにされてるみたいに叫びたくなってしまう時もある。それでもなお、その人がずっと遠い空のむこうにいると思うだけで、いつもの空が魔法にかかったみたいにきらきらして見える。
それが、ホークスにとってのエンデヴァーなんだ。
今までの僕は、僕とホークス、それからデータベースで見聞きするいろんなお話だけの世界で生きてきた。だけどこの世界にはほかにたくさんの人がいる。
たとえば、砂漠の向こうの遠い街。海を渡ったよその国。
たくさんの人に会ってみたいと、そう思った。そしたら僕もいつか、ホークスにとってのエンデヴァーみたいな人に出会えるだろうか。
体じゅうの血がすこしずつ熱くなる。
心臓がどくんと鳴る。
血が通っていないはずの翼のすみずみまで熱が行き渡るような、どこまで飛べるのかを確かめてみたくなるような感覚。
「ねえ。僕、夢ができたよ。遠くにその人がいるだけで地平線がまぶしく見えるような、風が吹く向こうにその人がいるって思っただけで足取りが軽くなるような。そんな誰かに、僕もいつか出会いたい」
『……そっか、君はもうひとりでも歩けるんだね。だったら、ひとりでも歩けるからこそ、手をつなぎたいと思う誰かを見つける時が来た。望む場所に行くといい』
「ありがと、ホークス」
その時、ざあっと風が吹いた。りんと冴えた風は体のすみずみを吹き抜けて、いのちを吹き込むみたいに羽根のぜんぶを震わせた。
僕は風の流れにまかせて、体をくるんでいた翼をばさりと広げた。
「だけどね、その前に行かなきゃいけないところがあるんだ。僕にしかできないことを思いついたんだ」
4.
太陽系第四惑星・火星、エリシウム平原にて。
夕刻が近づく砂礫の大地を、エンデヴァーは黙々とローバーで駆ける。砂でざらついた窓の向こうに赤茶色の地面が続いている。進行方向のはるか遠くには、北方にそびえる山々が影絵のようにたたずんでいた。
今日の目的は補給物資の回収だ。物資供給は地球より送られてくるカプセルを定点に投下する形で行われる。日が高いうちに回収を済ませる手はずだったが、機材のトラブルがあり予定より遅くなってしまった。
探査機が示す座標をたよりに平原を進んでいく。代わり映えのしない平らな景色がどこまでも続くように思われたが、ほどなくして前方にカプセルらしき影がぽつんと現れた。その影を目指してまっすぐにローバーを走らせていく。ところが、はっきりとした形が見えてくるといつもと様子が異なることに気付いた。
数メートル離れた地点で停車する。ローバーから降りたエンデヴァーは、赤茶色の地面に降り立ったそれを唖然と見上げた。
いつもの物資供給のカプセルは球体に近い形をしている。だが、今目の前にあるのはすらりとした流線形のシャトル――すなわち有人宇宙飛行機だった。
およそ五〇年火星を開拓してきて、このようなことは初めてだった。いくつもの疑念がエンデヴァーの頭をよぎる。
火星可住惑星化計画は、温暖化の完了後はすみやかに次のフェーズに取りかかる手はずになっていたはずだ。だが自分は地球への帰還を拒み、いまだに火星に居座っている。
ひとりきりで火星を耕す日々は孤独と向き合い続けるようでいて、真の孤独からの逃避であった。
かつての家族や友人、仲間はもうとっくにいない。帰還することで、今の地球は知らない星も同然だと思い知るのが恐ろしかったのだ。
しかし、ついに誰かが火星にやってきた。
視察か調査か、あるいは送還か、嫌疑か。いずれにせよこの執行猶予期間もとうとう終わりかと嘆息した、その時だった。
前触れなくシャトルの側面にあるハッチが開く。
事態を飲み込むより先に、ハッチから小さな塊がまろび出てきた。ハッチは地上から五メートルの高さにある。通常ははしごを使って出入りするが、そのはしごが降りていない。
もし、あの塊が命だったら。
エンデヴァーの目には、塊が落ちていく様子がスローモーションのようにゆっくりと見えた。
もし、あの塊が命だったら。地面にぶつかってしまったら。
かつてヒーローであった頃にしみついた習性が、エンデヴァーを突き動かす。全霊で駆け、塊の下に滑り込む。
「……ッ!」
塊を受けとめ地面を転がる。石くれがごつごつとエンデヴァーの身体を打つが、腕の中のものは衝撃から守られた。
ほっと息をつき立ち上がる。一拍遅れて、じんとした重みが腕から体へと駆けていく。
腕の中の塊はあたたかく、やわらかだった。
およそ五五〇年ぶりに触れる、命だ。
エンデヴァーは信じがたい気持ちでそれを見下ろした。
小さな塊には、赤い翼が生えていた。
収穫前の麦畑のような金色をした頭がぱっと持ち上がると、大きな瞳が現れた。
ばちんと目が合う。猛禽の鋭さをたたえた眼だ。
その瞳がまたたく間に、星空を映したようなきらめきに彩られていく。
塊は、ころりと鈴が鳴るような声で言った。
「はじめまして、エンデヴァー」
エンデヴァーは塊をまじまじと見つめる。
喉はひりついたようにしびれて声が出なかった。
塊には目鼻があった。口があった。四肢があり、体温があった。
五五〇年ぶりに目にする、自分以外のヒトだ。
そして、赤い翼があった。見覚えのある顔立ちをしていた。
「……君は何者だ。君によく似た姿の男を、俺は知っている」
エンデヴァーの脳裏にはかつて共に戦った仲間の一人の姿が浮かんでいた。鋭くも表情豊かな瞳が印象的な男だった。髪は少しくすんだ金色で、背には大きな赤い翼が生えていた。
彼の歳は地球で最後に目にした時はたしか二十代前半だった。半分ほどの歳にしたら、ちょうど目の前の少年のような外見になりそうだ。
姿は非常に似ている。まったく同じといっていいほどだ。彼の子孫かもしれないと考えたが、この世にはまったく同じ『個性』は生まれない。子どもであっても多少は変化して受け継がれるものだ。
つまり、血縁者だったとしてもこの少年は彼に瓜二つすぎるのだ。
それに人類の無個性化が始まってから五〇〇年以上経った今、個性を持って生まれるヒトはいないはずだ。この少年には明らかに個性による器官である翼がある。
戸惑いの渦中にあるエンデヴァーに、少年ははきはきと告げた。
「僕はホークスの複製体。だけど僕は僕として生きるために、ここに来た」
それから少年は自分の出自をつまびらかに語った。
およそ五五〇年前、ホークスが資源化の処置を受け脳と羽根だけの体になったこと。自分は無断で作られたホークスの複製体であること。そしてエンデヴァーが目覚めた時、ホークスが独断で火星可住惑星化計画を改変したこと。
「……そうか、あいつが」
夕暮れの気配を帯びはじめた風の中、エンデヴァーはぽつりと言った。つい先ほど少年を初めて目にした時に見せた動揺とは打って変わって、静かな声だった。
ふたりは宇宙飛行機の周りをゆっくりと並んで歩いている。
少年がエンデヴァーの表情をちらりと覗き込むが、わずかに眉を寄せているだけでその胸中は推し知れない。
「やっぱり知らなかったの? ホークスの資源化のことも、計画のことも」
「資源化については俺が火星に行ったのが先だからな」
エンデヴァーは目の前に鎮座する宇宙飛行機を見上げる。
宇宙飛行機は大きな燃料タンクを取り付ける必要性からいかつい印象になりがちなものだが、見上げた白い機体は彼が知る五五〇年前のものよりすらりとした形をしていた。
隣を歩く少年の服装はTシャツにズボンといったラフな姿で、これでいて宇宙服としての最低限の機能は備えているらしい。
目で見て分かる形の技術の進化に、本当に五五〇年経っているのだとようやく実感した。
「宇宙飛行機は自分で操縦してきたのか?」
「うん。だけどほとんどは自動操縦だよ」
エンデヴァーの質問に少年は身振り手振りを交えて楽しげに答える。わざと不遜な振る舞いをしたりと食えない所があったホークスと違って、少年は素直で快活な印象だ。
何でも彼は、ホークス以外の者と直接話すのは初めてらしい。このような他愛ない会話にうっすらと頬を紅潮させるほど一生懸命になっているのも頷ける。
「……それで、僕がここに来たわけなんだけど」
一通り話し終えたところで、ちょうど宇宙飛行機の周りを一周した。少年はこっちに来て、と言うなりたっと駆け出し、少し離れた地点に停めておいたローバーの前にやってきた。エンデヴァーも早歩きで彼の後を追う。
少年がボンネットの上にぴょんと飛び乗り、立ち上がる。こうするとふたりの目線は同じくらいの高さになる。
何をする気かとエンデヴァーが問おうとすると、くるりと振り向いた少年と目が合う。
そして少年はおもむろに背中の翼を広げ、こう言った。
「ハロー、CQ。きこえますか」
エンデヴァーの目の前が赤い色でいっぱいになる。少年は何かを探るかのように、じっと目を閉じて呼びかける。ここではない、どこか遠くへ。
少年の羽根がさざ波のように震える。一枚一枚のざわめきが翼全体に伝播する。
ただならぬ気配にエンデヴァーはごくりと唾を飲んだ。平原をびゅるりと駆ける風がふいに静まった、その時。
聞き覚えのある声がエンデヴァーの鼓膜を震わせた。
『――聞こえてるし、見えてるよ』
「うまくいってよかった! 僕たちってやっぱり、お互いのことは感知しやすいみたいだね」
エンデヴァーは少年が喋る姿を見て目を丸くした。少年が子どもと男性、二つの声で話している――いや、違う。少年の口から二種の声が出ているのではなく、翼が振動して男性の声を発しているのだ。
耳当たりの良い柔らかな声。記憶の扉ががたんと揺さぶられる。
そのすきまから在りし日の思い出がどっとあふれ出す。
この声を、知っている。……ホークスの声だ。
『君の声ってこんな遠くからでも目立つんだな。驚いたよ。……ああ、ここが、あの人の星』
「……おい、これは一体どういうことだ。それに、その声は」
呆然と立ち尽くすエンデヴァーに、少年は今起こっていることをかいつまんで説明する。
簡単に言うと、航空宇宙港の中で少年がホークスの羽根を受信機のように使って会話していたやり方を、双方向に応用したのがこの通信だった。
少年は自身の声を無線通信の電波のように送信し、『遠くからでも目立つ』すなわち互いのことは感知しやすいことを利用して、遠く離れた地球にいるホークスに受信させた。それと同時にホークスの声を感知し、少年の翼をスピーカーのように使って声を再現しているのだ。
しかも少年は声だけではなく、自分の五感の情報を送信している。これによってホークスは肉体を失った身でありながら、少年の肉体を通して火星の景色を体感している。
同じ個性と、同じ遺伝子の身体。
普通ならありえない条件が揃ったからこそ叶った離れ業だった。
「これが僕が火星に来た理由。ふたりをつなぐ中継局になる。僕ならそれができる。だから、ね」
少年はそう言って、真向かいに立つエンデヴァーをじっと見つめた。
すなわち、ホークスにも今まさに同じものが見えている。
「ホークス。お前なのか」
『……エンデヴァーさん。お久しぶりですね。また、会えるなんて』
少年にほら、と促されたホークスがかすれた声をもらす。
こうしてふたりは、実に数百年ぶりに言葉を交わした。
平静を装っていられたのは最初の一言だけだった。
少年が見聞きするもの、感じるものがホークスのもとにどっと流れ込む。
果てまで続く大地の赤。見渡す限り草木はない。空は大地の色を映したような橙。霞みがかった地平線。長くたなびく雲が頭上を走る。つんと乾いた風、鼻の奥がひりつく。翼のすきまに砂粒が潜る。
そして、目の前の彼。常人より高い体温。かさついた肌。赤褐色の髪は砂のせいで白っぽく汚れている。簡素な作業着を着ている。剛翼で聴く鼓動。呼吸のたびに身体が揺らめく。そう、確かに呼吸してる。昔より少し痩せただろうか。明瞭な目鼻立ち。眉間の皺のあと。変わらない青い瞳。
肉体を捨てて久しいホークスにとって、五感とは情報の奔流だった。
まるで洪水のように、心の底に沈めていたものがぶわりとあふれ出す。
少年の翼がわななき、ホークスは一気に語り出した。
『俺……謝らないと。俺、エンデヴァーさんが火星に行くのを止められなかった、あなたから五〇〇年を奪った人類の一員だ。あなたが目覚めたとき、地球に帰るのを躊躇してると知ってそれでも戻ってきてなんて……また会いたいなんて、言えなかった。本当は地球への帰途につく用意をすべきだったのに計画を勝手に変更した。勝手にこんなことして、ごめんなさい』
「ホークス、」
『あなたはこんな星にいたんですね。ずっと遠くまで地面が続いてる。こんなに一面赤いなんて。空も地面を映したみたいな色。昔はつめたい惑星だった。だけど暖かい。あなたが暖めた。風が吹いてる、なにも邪魔するものがない、そのぶん同じ風に吹かれる人もいない。暖かくて、寂しい星だ』
「……もういい、分かったから」
ホークスは独白のように言葉を吐き出し続ける。そこにエンデヴァーがそっと割って入った。
『怒らないんですか』
ふたりの会話を少年はじっと見守っているが、大きく広げた翼はホークスの心と呼応するかのようにか細く震えている。エンデヴァーは長く息をつくと、火星で過ごした年月を振り返るかのように目を伏せた。
「……実は、お前が生きているのではという予感があった」
『……!』
「俺が目覚めた時、地球から通信があった。あのチャットはお前だったんだろう。俺のことをわざわざエンデヴァーさんなんて呼ぶ物好きなんてお前くらいだからな」
予感の根拠とするにはあまりにも弱い手がかりだった。だがひとたび可能性に思い至ってしまうと、それが影法師のように付きまとうようになった。地球に帰りたくないという要求が承認されたのも、ホークスが手を回しているのではないかと考えたりもした。直感に近い推察だったが、結果的にそれが当たっていたというわけだ。
「しかし、五〇〇年経ったにもかかわらず生きているとなると、それは普通ではない。つまりお前も俺と似たり寄ったりの境遇にあるのかもしれないと、そう気付いてぞっとした。だとすると、生きていたとしても一概に喜べることではない。確かめるべきと思っていたが、ずるずる先延ばしにしている間に五〇年も経ってしまった」
いつの間にか夕暮れ時が近づいていた。地球で見るよりも小さな太陽が傾きかけて、空の片側がほのかに青く染まり始めている。
ボンネットの上に立つ少年の影は長く伸びて、向かいに立ち尽くすエンデヴァーの顔に影を落としている。彼の外見はホークスが見慣れた四十代のものではあるが、それ以上の年月がずっしりとのしかかっているように見えた。
「……怒らないのか、と聞いたな。答えは否だ」
エンデヴァーは目をつむって言う。眉間の皺がぐっと深まる。ぽつりと落ちた声は沈んだ響きを帯びていた。
「かつての俺ならば怒っていたかもしれない。お前が肉体を捨てざるをえなかったあの時勢にも、多数の不利益になる行動を取ったことにも。だが……今の俺に怒りは最も遠い感情だ。この五〇年間、初めはあれこれ物思いにふけっていたが、しだいに故郷への希求ばかりが育っていった。確かめもせず遠くから焦がれるだけの郷愁なんて、そんな都合のいいものにひたって逃げていた俺を笑ってくれ」
エンデヴァーは唇の端をかすかにつり上げて、自身の情けなさ、煮え切らなさを自嘲する。
五〇〇年の眠りと五〇年の孤独。遥かな年月がエンデヴァーの苛烈な性格を変えてしまった。どうしようもない隔たりが沈黙となって横たわる。風の音ばかりが空を切っていくと思われた。だが、長い沈黙を苦しげな声が破った。
『……笑わないですよ』
ホークスだった。うつむいていたエンデヴァーが声を聞いてはっと顔をあげる。
ホークスの声はいつになく切実な響きで、少年が気遣わしげな顔をして聞いているのが目に入った。
『……五〇〇年の間に地球は遠い星になってしまった。それを目の当たりにするのは、おそろしいことです。そしてその先にはさらに、寂しさが待っている』
多弁なホークスらしからぬたどたどしい物言いだった。言葉をひとつひとつ手探りで拾い上げるように、ゆっくりと続きを紡いでいく。
『でも、エンデヴァーさんは逃げてるわけじゃない。本当に逃げてたんなら地球のことなんて思い出しもしないはずです。むしろ、寂しさに向き合うための第一歩なんじゃないかって思います』
「そうか。寂しさが待ってる、か。……俺は一人きりで過ごす孤独よりも、寂しさを恐れていたのか」
エンデヴァーがぽつりとつぶやく。その声は深い夜のような静けさをたたえていた。
『……その寂しさは簡単に埋められるものじゃありません。何より、五〇〇年という歳月の長さは自分が身をもって知っている。だから俺は、正しくない行いと分かっていても、あなたの寂しさに寄り添うための星をあげたいと思ったんです』
「ホークス、お前……」
『けどそれは、今日まであなたと言葉を交わすことから逃げてきたということでもあります。俺が話せるのはエンデヴァーさんにとって遠い星になってしまった地球のことだけ。俺の五〇〇年ではあなたの五〇〇年を埋められない。こんなこと聞きたくないんじゃないかって想像して怖くなって、ずっと黙っていた。……こんな愚か者を、笑ってくれますか』
「……笑えるものか」
エンデヴァーはそう言って、言葉に反してくしゃりと泣き笑いのような表情をみせた。
そうして、言葉を尽くしたふたりの間に沈黙が訪れた。
ボンネットに並んで腰かけて、火星の夕暮れを見送る。
すんなりとまっすぐに伸びた地平線に太陽が沈み、橙色の空が夕焼けの色に染まっていく。深い夜のはじまりを思わせる煙がかった青色に。
どれだけ言葉を尽くしても、起こったことは返らない。
エンデヴァーが失った時間を埋めることはできないし、ホークスの肉体は戻らない。
だがふたりの胸中には、不思議と昨日までとは違う風が吹いているような心地がした。
ホークスは地球で少年と交わした会話を思い出す。少年は行かなきゃいけない所があると言って、火星行きのロケットを求めた。もう一人でも歩いていけると認めた少年の旅路だ。詳しい理由を聞かずに手助けをしたが、こんな真意があったなんて。
ホークスは長い間、エンデヴァーと言葉を交わせずにいた。やろうと思えば通信を送ることはできた。
だが、現在の地球のことを知るのを恐れている彼に、ずっと地球にいただけの自分がかけられる言葉はないと思っていたのだ。
それでもだ。それでも話してほしいと少年は言った。
相手が欲しい言葉をあげることはできなくとも、言葉を交わす意味はあるのだと、少年はそう信じているのだろう。
『……言いたかったことはぜんぶ言いました。最後にひとつだけ。あなたの個性のことです』
ホークスが改まった口調で言う。
エンデヴァーは隣に座っている少年に向き直り、ホークスの声に耳を傾ける。
『火星に来る前にすでに説明を受けていると思いますが……星を温めるほどの膨大な炎を使い続けたあなたの個性は、あと数年でなくなります。あなたの炎が尽きたあとは、個性を持たない、ゆるやかに老いていくただの人になる』
「ああ、それは承知している。そうなっては火星で呼吸するための酸素も作れない」
『その通りです。でも俺は強制しません。ここに残るも、地球に帰るも、あなたがしたいようにして欲しい』
てっきり帰還を促されるものと思っていたエンデヴァーは目を丸くした。火星は大気中の酸素が希薄だ。個性の力で酸素が作れなくなるということはすなわち死を意味する。それを選んだとしても止めないとホークスは言っているのだ。
そして、ホークスはきっぱりと言い放った。
『五〇〇年の間に地球は遠い星になってしまった。……だけど。だけど俺は、今も地球にいますから』
それは、澄みわたる空のような声だった。言葉を尽くしたからこそ言えるようになった、彼がずっと心の奥に抱え込んでいた想いだった。
ふたりの会話を聞き届けた少年がやわらかに笑っている。その向こうでホークスも笑っているのだろうと、エンデヴァーは思った。
『それじゃあ、またいつか。会えてよかった』
ホークスとの通信を終えて、少年は読み終えた本をぱたんと閉じるように翼を折りたたんだ。少年が空を見上げてぽつりと言う。
「……ホークスがさ、飛べる奴は飛ぶべきって言ったんだ」
「だから火星に来たのか」
「うん。ホークスがそうしたみたいに、エンデヴァーがそうしたみたいに。僕も、僕にしかできないことをやろうと思ったんだ」
それは立派なことだとエンデヴァーが称えようとした所で、少年が矢継ぎ早に口を開く。
「だけどね。……そんなふうに遠くに行ってしまった人の背中をみて、さびしい気持ちになる人がいるってことは、忘れないでほしいんだ」
「……ああ。覚えておく」
エンデヴァーが頷くと、少年は満足げに微笑んだ。
「……さて、僕もそろそろ帰るよ。僕とホークスと、たくさん話してくれてありがとう」
「いや、礼を言うべきは俺の方だ」
「そんな、礼なんて」
そう言う少年の額には、じんわりと汗がにじんでいた。遠い地球と通信し続けるなど容易なことではない。多大な疲労を伴うはずだ。
「今日のことがなければ俺たちはまだ立ち止まっていた。それに肉体を捨てたホークスが再び五感をもって話すなんて、君がいなければ叶わなかった」
エンデヴァーの称賛に少年は眉をすこし下げる。
そして、とっておきの秘密を教える時のように、はにかんで言った。
「僕、ホークスの背中を押したかったんだ。それだけだよ」
「――そうか」
火星の夕日はいよいよ青く、空をなめらかに染め上げる。この五〇年間ですっかり日常になった奇妙な光景を眺め、エンデヴァーは言う。
「帰る前にひとつ頼みがある。……空を飛ぶ姿を見せてくれないか」
「そんなことでいいの?」
「ああ」
「分かった、見てて」
少年がボンネットからぴょんと飛び降りる。
軽く助走して翼をばさりと羽ばたかせると、小さな体がみるみる空へと昇っていく。青い夕焼け空に、赤い翼が舞う。
太陽はもうほとんど地平線の向こうに姿を沈めている。日の光が目を刺すことはないが、エンデヴァーはそれでもまぶしげに目を細めた。抱えていたなにかを吐き出した胸のうちに、新たに受け取った言葉たちが雨だれが落ちるように染み込んでいく。
届かないことは、寂しいことだ。
たとえば、少年はホークスの体に触れてみたくても、一生叶わない。たとえば、ホークスがエンデヴァーを支えたくとも、それぞれの五〇〇年が歩んだ隔たりに寄り添えない。自分はすっかり遠い星になった地球を目の当たりにすることを恐れていた。
つまり、みな等しく寂しいのだ。
長い長い時を生きて、ようやく飲み込むことができた。
夜へと移りゆく空を少年がのびやかに旋回している。遠目にも鮮やかな翼の向こうに、きらりと星が瞬く。
空のずっと向こうの星の一つに、地球がある。
寂しさをかかえた同士がそこにいる。
寂しさは呼吸に、鼓動に、血液に静かに溶け込んで、体じゅうを巡っていく。だが、暗い海をひとりきりで泳ぐような寄る辺のなさは、もう感じない。
ならばもう、地球は遠い星ではない。
エンデヴァーはしゃんと背を伸ばし、青天に光る星を見上げた。
終