@acht8811
あたたかくやわらかいものが、寝具の中をもぞもぞと這い回っている。
レィリダースはそれに手を伸ばし、乱暴に引き寄せた。肩口にあたたかい液体がつく。涎だ。腕の中の女は眠り込んだまま、まだもそもそとうごめいていた。
眠りの湿度と体温と、若い娘のもつ甘い香りが押し寄せた。
どうも日増しに寝相が悪くなっていっているようだ。多分、それも回復の証なのだろうけれど。しかし彼女の寝返りで叩き起こされたのはもうこれで何度目なのか。レィリダースは不機嫌で、仕返しとばかりにサテンの布地をがばと捲った。
包帯は新しく清潔で、もう血も滲んでいない。あざもすっかり消えていて、肌は白くなめらかだ。乱れた寝衣を整えてやり、レィリダースは眠る彼女を抱きしめる。
穏やかに鳴るそれを聞くたびに、嫌なくらいに安堵する。
心音。レィリダースが持たないもの。
吸血鬼の城が目覚めるのは、夕陽のひとすじも消え失せる刻だ。
「レイリはおっぱいがすきねえ……」
「は」
女がむにゃむにゃと喋る。眠りと湿《しと》りを湛えた目がうっすらと開く。
真昼の空の色の瞳。
「私が寝てるといっつもおっぱいに顔埋めてる……」
否定しようにも、ではなにをしていたかを言うわけにもいかない。プライドが、許さない。許さない、などと悠長なことも言っていられない。眠っている人の胸に顔を埋めていたことにされてしまうのだ。あと、いっつも、では、ないし。
……だいたい、気づいていて許していたのか。
混乱するレィリダースの頭を女はあろうことか、自分の胸へと優しく抱き寄せた。
「……やめろ、ルガダ」
ルガダは目を覚まして、朗らかに笑う。
「レイリのも触っていーい?」
「……やめてくれ」
レィリダースはルガダの腕を振り解き、自分のネグリジェを整えた。
誰かがそばにいる生活に慣れつつある自分に、驚きを覚えていた。
この人間が城に通うようになって、たったの一年も経っていない。
最初は、人間たちの使いとして、月に一度。
なんとなく来ることを許していたら、用もないのに週に一度。
大怪我をしたから傷が癒えるまで泊めろと、レィリダースの寝台を占拠し始めたのが一ヶ月ほど前になる。しかし人間のなんと脆いことか。
──脆いくせに、危険に身を置くのか、冒険者。
──怒ってくれて、ありがとう。
息も絶え絶えにそう微笑むから、仕方なく、ここにいることを許したのだ。
近頃はその怪我も治ってきて、彼女は本来の気質を取り戻しつつあるようだった。好奇心旺盛で騒ぎたがりで寂しがり。城や森を見回るレィリダースに、暇つぶしだと言ってはくっついてまわる。適当に口を出し騒ぎ回り、すぐに疲れては、勝手に寝台に戻る。
好き放題され、レィリダースはそれなりに苦情を言った。しかし本気で嫌がりはしなかった。ルガダもそれを分かっていて、奔放な振る舞いを見せている。
それが、そうだ、嫌ではなかったのだ。
まるで燭台のようだった。彼女がいると、不思議と周囲が明るいのだ。
永い生のさなかだ。ひととき、この城がたまに明るくなるくらいは良いだろう、とレィリダースは考えていた。
いずれ炎は燃え落ちて、穏やかな暗やみがまたやってくるだろうから。
今日もルガダはついてくる。背の低い彼女の、小さな歩幅に合わせてしまわないように意識している。石の床を違うリズムの靴音が鳴らしていくのが嫌いではない。
「レイリは足長いからいいよね。ちょっと待って!」
「ついてくるなら、勝手についてくればいい。だが文句はつけるな」
「けち!」
高貴な魔種のものでありながら、その寛容さを称えられてきたレィリダースだ。これまでの生で言われたこともないせりふに振り返ると、ルガダと目が合う。
そして彼女の顔は、いたずらっぽい笑みだ。レィリダースは目を細める。
レィリダースの長身のつくる影が、ルガダを覆い尽くすことはない。
暗い森に沈むこの城においてすら、彼女自身が輝いている。レィリダースの影は、後ろにただ長く伸びていく。
それは百年にも満たない、人の一生分、一瞬の出来事だ。
レィリダースはそう疑わなかった。この灯りを消すも点けるも、自分次第だと。
自分はこの灯りを随分と気に入っているようだから、油を注いで引き延ばすのも悪くはないだろう、そう考え始めてもいた。彼女が死んでも、肉体を縛ればよい。彼女を不死《アンデッド》へ、吸血鬼のものへと作り替える力が自分にはある。
レィリダースは、はじめて手に入れた人間の使い途を検討するのを楽しんだ。
「レイリは、私を自分のものにできると思って疑ってないみたい」
いつもと同じからっとした口調でルガダが言った。ティーカップの中の水面に、ルビーの波紋が起きた。ちらちらと月光が踊る。
レィリダースはなんと答えて良いかわからなくなった。否定も肯定もおかしい。そうじゃないのかと問いを返すのも。
そう思っているのは確かだけど。
いや。
もうとっくにわたしのものだ。そのはずだ。
レィリダースは自覚する。この女は自分のものだという考えを。そしてたった今、それが壊されようとしていることを。
ティーカップの中は、まだ揺らいでいる。ルガダはそれをさらりと飲み干した。それで、月は踊るのをやめた。
サンルームと呼ぶのは間違いであろうか。豪奢な硝子張りの構造こそサンルームのそれだ、が、垂れ下がる暗幕が用途の違いを示している。今ここを照らすのは、ただ月光のみだ。ルガダの側だけを蝋燭が照らしている。混じり気のない蜜蝋は、音を立てない。
闇に沈む森が彼女たちを取り囲むが、厚い硝子に阻まれて遠い。その向こうで、枝枝が強い風に揺さぶられている。得体の知れない怪物が、無音で蠢いているかのように。
午前の茶会に、静寂が降りていた。
「なんだかもう、遠い昔みたいだけど」
陶器と陶器がぶつかり、かつり、と音を立てた。ティーカップを置いたルガダは、肘をついてレィリダースを見る。レィリダースの纏う黒いドレスの、ほんの少しの衣擦れが鳴る。身じろぎをしている。
「私たち、よく生き延びたよね。あの時はさ」
それでルガダが何を指しているのかがわかって、けれど何を言いたいのかは全くわからなかった。レィリダースは目を伏せた。
「……みじめだった。あの時は」
「そうかもね」
遠い昔に思える。
広がる血と泥。
「どうぞ」
人間がそう言って両手を広げた。レィリダースは憤慨した。
「なにが、どうぞ、だ! 組み敷いて直接咬みつけとでも! わたしを獣だとでも思っているのか!」
「そこまで言ってないよ、吸血鬼さんたら」
人間はあろうことか頬を赤らめてはにかみ、吸血鬼はそれで余計に彼女を睨む。
「まるでわたしが言い出したみたいだ。やめろ」
「元気そうで何よりだよ」
ボロ雑巾のような女たち。片一方は軽口で正気を保とうとし、もう一方は怒りに痛みを忘れる。まだ彼女らは生きている。
真昼の太陽は木々の上か、崖の向こうか。いずれにしても、ここには届かない。周囲を彷徨くのは、血を嗅ぎつけた獣の気配だ。
レィリダースは立ち上がる。その足元をふらつかせるのは泥ばかりではない。
人間はまだへたり込んでいたが、口数は減らなかった。
「じゃあどうしたらいいかな。ナイフはあるけど、ワイングラスはないよ」
「用意がないなら要らん」
吸血鬼レィリダースは尊大に言い放った。
「そもそも、そもそもだ、こんな汚いところで食事をするのか、人間は」
「するときもあるよ」
人間は笑っている。
「生きなきゃいけないから」
笑みの、声の、そのあどけなさが背筋に違和感をもたらした。レィリダースは、それが恐ろしさだと気がついた。
人間は、レィリダースの表情に気づかない。
「さてさて、スーリ公は吸血鬼レィリダースの無実を認めたよ。討伐指示を撤回し、謝罪したいと言っています。私はそれを伝えに来た使いの冒険者です」
「さっきも聴いた。打ったか、頭」
「いいえ、整理したくて。なんか喋ってないと身体中痛すぎるし」
女の顔は朗らかだ。
「今の問題は、討伐班……私たちを襲った冒険者たちに、その指示が伝わってないこと。私が伝えなきゃいけないんだけど……。ただ私とあなたが一緒にいるとこ、見られちゃったから。私とあなたは通じてると思われてるでしょうね」
「でなければ、攻撃してこないだろう」
「そういうことね。ただ伝えても嘘だと思われるでしょう」
「おまえのヘマだ、人間」
「全くその通りよ」
ふたりの視線が絡み合う。
「わたしを油断させて騙し討ちにする方策か」
「ない。二人まとめてこんなところに落とされてるんだよ」
「攻撃を受けたのも打ち合わせのうちだろう」
女が突然口をガバリと開け、舌を見せる。粘膜の色。そこに黒々と紋様。上と下から唇がやってきて隠れる。
「スーリ公お抱えの術師の真の舌です。私は今、嘘をつけないんだ」
「[真の舌]か」
術師に特有の大仰な無声音がない。間違いなくこの女自身は嘘をつけない。
「……おまえがその情報を真実だと思い込んでいるときは、」
「その時は私も捨て駒よ。どっちにしろ私はあなたに協力するしかないの」
生きるために。からりと笑うこの女は、最初、ルガダと名乗っていたか。
「あのときなんで私を咬まなかったの」
「コップもないのに、泥だらけの果実の汁を直接啜るようなものだ」
「しない?」
「せんわ」
「そんなんだと干からびて死んじゃうよ」
と、ルガダは自分で自分のカップに紅茶を注いでいる。
「おまえは……」
レィリダースが言いかけて、ルガダが言葉を継いだ。
「生き汚いよね」
「……そうだ、本当に生き汚い」
レィリダースは、ルガダが言おうとしていることが分かりつつあった。けれど、それを改めてルガダの口から聞かないことには、納得できないとも感じていた。
ほんのすこし、息を吐く。吸血鬼には必要のない空気を。けれどその言葉を吐くために、新しい空気を使う必要がある気がしている。吸い込む。
夜の空気だ。
「……それだけ生きることを渇望しているくせ」
ルガダは穏やかに見つめ返している。
「あたしのものになるのは、永い命を得るのは嫌で、」
言葉が胸につっかえる。
「いつ死ぬともしれぬ冒険者であることは、続けるのか。またあんな怪我をして、今度は死ぬかもしれないのに」
……矛盾している。レィリダースは、それは声に出さなかった。
「私も思うよ。矛盾してるって」
ルガダがそれを十分に承知していると、分かっていたからだ。
「……おかしいよね。でも、それでも私、だめなの」
「命は限りあるからこそ美しいなど。あんな戯言を言うのか。お前までもが」
「……別の誰かに言われたの、それは」
ルガダの顔は穏やかで、悲しそうだった。同情とは少し違った。レィリダースがかつて置いていかれたこと、そして自分もいずれレィリダースを置いていくことを、ただただ、自らの悲しみとして感じていた。
「違うよ。限りある命の美しさなんかない。あるのは限り、だけよ。花の散り際が美しいならば、散り際だけがずっと続いたら良いんだよ。けどそうはならないんだ。たったそれだけよ」
ルガダは少しずつ紅茶で唇を湿し、少しずつ言葉を継いだ。
「生きなきゃならない理由も、死んじゃいけない理由も。……いずれは死ななきゃいけない理由も、十分な理由は見つからなかったんだよ、レイリ」
レィリダースは、永きを生きる吸血鬼は、ゆっくりと喋るルガダを悠長に思った。
余命に対して、悠長すぎるのだ。その短い命を、生きるべきか死ぬべきかなどという思考に費やすこと、そのものが。
人間は考えてしまう生き物で、ただ生きてくれはしなかった。
「だからね、理由はないけど生きることにしたの。……そして、理由はないけど、いつかは死ぬの」
「それは、……わたしと生きるのが嫌な理由にはならない」
「なるよ」
ぴしゃりと強く言ってから、ルガダはゆったりと悲しそうにほほ笑んだ。嫌なのではないよ。でもだめなの。
「でもレイリ、私。理由はないけど生きて死ぬ、って、決めちゃった。ずっと昔に。それを今更覆せないの。私が決めた決め事に、今更だめって言えないの。
必死に選んだのに、もっと良い方法があっただなんて、知りたくはないのよ」
私は弱いから。
二人は見つめあって、けどレィリダースはひとりだった。あまりにも、ルガダは、彼女の空色の瞳は、遠いところを見ているようだった。
限りある命の美しさなんてない。
ルガダ、醜いそれを見つめるおまえの眼を、きれいだなどとは思いたくない。
「賭けをしよう」
レィリダースはそう言い出す自分の声が震えないことを願った。
「おまえが戦いのうちに、暴力によって死ぬなら、おまえの負けだ」
けどそんな仮定を言うだけで、自分の臆病さを自覚させられるのだ。
「おまえが生き延びて、寝台の中で死ぬなら、おまえの、勝ちだ」
賭けをしよう。おまえの自由と、命と、わたしの想いで。
「負けたら、わたしのものになれ。けれど生き延びてみろ、ルガダ」
その生き汚なさで。
「吸血鬼から、逃げ切れ」
レィリダースの森は城は、静かだ。五年前、彼女の旅立ち以降は、ずっと。
封筒から便箋を取り出し、しまい込む音だけが、レィリダースの静寂を乱した。
おまえは生き延びた、ルガダ。ただ一通の手紙が、子どもができたこと、いつか会いにいくということを簡潔に伝えていた。
冒険者を辞め、暴力も、命の危険も遠い場所で生きる、と。
彼女は変わった。人間の五年は、長いのだ。
それは、吸血鬼にとっても。
繰り返し手紙を読み、思考を繰り返し、考え至った。それだけのことに数年を要した。ようやく、ようやく、レィリダースは、自分が待ち侘びていたことを知った。
自分が過去になったことを、知った。
自らの左胸に指を添える。忙しく動く理由などない、脈を持たない心臓。
もともと動かないものは、止まることがない。
しかし彼女の心臓は脈打ち続ける。彼女の体温はあたたかいままであり続ける。
そして、いつかは止まる。
そうであってほしかったのだ。
まず、冷たいものが体にねじこまれる感覚。
その感覚に懐かしさを覚えている。
次いで、熱さが、血が、心臓がはじけた。
爆発する、それは光だ。
意識がそれに溶けていくのを感じながら、ルガダは、死んだ。
それを痛烈に感じた
──まだ実感は湧かなかった
自分のことのように追体験した
──他人事のように自分の体を見下ろした
おまえは死んだ
──私は死んだ
どうして
──それもひとつの終わりかただ
どうして
──けれど、まだ死ねない
どうして
──息子がまだ奥の部屋にいる
どうして
──そして、私は立ち上がれる。死んで尚。
どうして。
トリガーは暴力による死。
賭けに、負けた。けど勝負は。
背後から急所を一発。君、ずいぶん慣れてるんだね。
そう、よくある強盗。よくいるごろつき。よくいる哀れな犠牲者。
──それが立ち上がって襲いかかってくるから驚いたでしょう。振り向いた胸を殴りつける。太い悲鳴、息子が起きちゃう。振り下ろされるナイフ。痛く、ない。もう一発。入らない、まだ体をうまく動かせない。めちゃくちゃに振り回される、ナイフが深々と手首に刺さったのが見える。冗談みたいに噴き出る血の、その手で顔を狙う。そいつは血で目をつぶされて、余計にナイフを振り回した。
馬乗りになる。殴る。ナイフが当たる。殴る。ナイフが、当たる。殴る。殴る。傷が増える。殴る。
殴りつける。男が動かなくなったと気がつくのが少し遅れたと、立ち上がり手を払いながら、ルガダは思った。しかしそれよりも、息子の泣き声がずっと気になり続けていた。レィリダースが、この身体のあるじが、帰れ、と呼んでいることも。その呼び声に逆らうことで、身体が締め上げられていく感覚も。
戦闘の熱から醒めて、彼女の迷いは短かった。
ルガダは服に手をこすりつけ、それを脱ぎ捨てて寝室に入る。
彼女の去った部屋で、一人分以上の血溜まりがじわじわと床を埋め尽くす。
火がついたように泣いていた赤子の声が、今は小さくぐずるものになる。
子守唄。
*
寝具は冷たく、その中を何かが動き回ることもない。しかし今、ベッドは確かに二人分の重さを支えていた。レィリダースは、隣で眠る女を見た。彼女らに体温はなく、そして今は、ルガダはあまりにも寝相が良すぎるようだった。
それは、死者さながらに。事実そうだとしても。
ルガダの見目は別れた時より大人びて、しかし殆ど変わっていない。それでもだ、たったの五年で、これほどまで変わるものなのだろうか。人間の早さにはめまいがするようだ。
五年、だった。この城を発って五年後に、この女は死んだ。
死んで、よみがえった。
そしてそれから一度たりとも戻らずに、三十年余りが経っていた。昨日、突然にこの森に踏み入った彼女は、いつかのように昏倒した。死者の体だからと、無理に突っ切るような旅をしてきたらしかった。
──ここに辿り着いて安心して、すぐ倒れちゃったみたいなんだ。
昔の、あの時の言葉が思い出されて、レィリダースは何も言えなかった。そして彼女を、ただ寝室に連れ帰ったのだ。
今シーツの中にいて、棺桶の中のような寝姿だ。彼女は微動だにせず、まぶたもかたく閉ざして、胸すら上下しない。もう一度彼女が動き出すという証左すらも、レィリダースは見つけ出すことができなかった。
それは、その体にも、その意志にも。
女の体を抱き寄せる。かき抱く。胸に耳を押し当てようと、あの愛おしい心音はもうそこにはない。肌は冷たく、あの甘い匂いも失せている。いま腕の中にある、それは死体だった。
実感が、恐れて閉ざしていたそれが、ぎりぎりと胸を締め付けた。
ルガダは、死んだのだ。
「知ってたよ」
レィリダースの耳元に、囁きが鳴った。
「レイリは、心臓の音が聞きたかったんだって。そうでしょう」
胸を締め付けていたものは、情けないくらいにたったそれだけで弾け飛んだ。
はっと顔を上げようとして、細い腕に引き留められる。抱きすくめられる。
「ごめんね。たくさん、待たせたね」
レィリダースは、ルガダに埋もれた自分の声がくぐもっていることに感謝した。
「四十年だ、四十年と……四十一日」
「数えてたの?」
ルガダの腕が、レィリダースが顔を上げることを許した。
ルガダは微笑んでいた。レィリダースはねめつけた。
「吸血鬼には、数を数える性質が……、」
「人間《わたし》も数えてたけどね。四十二日目ですよ、吸血鬼さん」
待たせたね。もう一度つぶやいたルガダが、レィリダースの背をとん、とん、と撫ぜる。それが人間が子を落ち着かせるときの仕草であることを、レィリダースは知らずにいる。
けれど、それが心音のリズムを真似ていることに気づくことはできる。
安堵を覚えつつある自分を、少しずつ受け入れることができる。
「……恋しかった」
項垂れ、呟く。
抱えていた気持ちを、吐き出すことができる、
「待ったんだ。ずっと。どうして、」
レィリダースは言葉を続けることができない。
どうして冒険者を辞めた。なのに、どうして死んだ。どうして、呼んでいたのに、帰らなかった。どうしてが溢れて、喉を詰まらせているようだった。
「死んで、帰ってきて、一緒に居てほしかった?」
ルガダは穏やかに質問を返した。。
「それとも、生きていてほしくて、いつかは死んでほしかった?」
それはどうしての先を促すものと、そして、新たな問い。
「──どうしてあのとき、どっちかを決めなかったのかな。
あなたは決めることができたのに。その力があったのに。
どうしてわざわざ、「賭け」にしたの?」
どの問いにも答えないレィリダースを見て、ルガダは小さく声を上げて笑う。
「あなたがそんなに寂しがりだなんて知らなかった。
一緒にいる人が必要みたい。私、賭けに負けて、よかったのかもね」
それは死んでよかった、などと、遠回しのふりであまりにも直截的なせりふだ。レィリダースは違う、と呟いた。その声は掠れていた。
「じゃあ、あなたが好きだったのは、生きている私だったんだ」
「違う」
「限りある命の美しさ、だっけ」
「違う、」
筈だ。
「じゃあ、何なら違わないの」
レィリダースは、自らと同じ色の瞳に射すくめられた。赤。
答えが出ない、とレィリダースはつぶやいた。
ルガダがレィリダースを問い詰めたのは、それきりだ。答えを求めもしなければ、新たな問いを投げかけることもなかった。かつてのように、二人は共に過ごした。
目覚め、城を森を見て周り、小さな茶会をして、共に眠る。
そして目覚める。その繰り返しだ。
繰り返し、だった。繰り返すことそのものに、レィリダースは違和感を覚えつつあった。「かつてのように」、なのだ。
かつてのように二人で居る。
かつてはこうではなかったはずなのに。
「あなたの呼び声には気づいてた。それに逆らうのは、苦しかったよ。
だけど帰ってこなかったのは、息子を育てなきゃならなかったから」
今日も森を歩くふたりの周りには、木々と静寂だけがある。光は枝葉に阻まれ、木漏れ日と呼ぶには弱すぎる。黒い森。不似合いなドレスと、不似合いな赤い外套。落ち葉を四本の足が揺らす。レィリダースは、ルガダに歩調を合わせている。
「子を連れてくれば」
「こんなところに? 簡単に言うね」
そもそも、とルガダは言う。
「あなたは、私をあなたのものにするって言ったよね。だから一度あなたに会えば、もう離してもらえないって思ったの。
子供のもとにも、帰してもらえないと思った」
「なら、そう思っていたなら。なぜ来たんだ」
「……もう子供もひとり立ちしたから、」
「おまえは、ひとところに縛られることをよしとする人間ではない。
外に未練がないわけでもない。
この森に留まるつもりで戻ったわけでも、ない」
「わかる?」
「それくらい分かる」
どちらからともなく、二人は立ち止まる。
「おまえには、わたしの支配を脱する算段がある」
レィリダースは見下ろす。ルガダは見上げる。
歩調を合わせていたはずなのに、ルガダはいつのまにか遅れている。少し離れたその距離のまま、それでも届く声で、ルガダははっきりと答えた。
「ないよ」
それはレィリダースにとって意外な返答だった。
「……ある、と答えるべきかもしれない。あった、かも」
「どういう意味だ」
「方法はある、と、思う。でも、それを使う気がなくなった」
「は」
レィリダースは立ちすくんだ。
自分のいちばん恐れていたことに、気がついたからだった。
「私は、この森を出ることを諦めたわけじゃない」
ただ、とルガダは続ける。
「けど。ただ出るのは、やめたの。ただあなたを置いて帰るのは。
そんなことをするには、あなたをひとりにしすぎた。あのあなたに、恋しかっただなんて、言わせてしまった」
ゆっくり、ルガダが歩く。
ふたりの距離を縮める。
「出ていくためにここに来たんだ。それも、なるべく急ごうと思ってた。けれど、まだだめなんだ。あなたの時間を埋めたいから。
寂しがらせて、しまったから──」
目が合った。
再会してはじめて、レィリダースはルガダに牙を見せた。笑った。
「ばかめ」
感情の正体が見えたのなら、もう恐れる必要はないのだ。
黒いドレスが翻る。ヒールを脱ぎ捨て、裸足が根を踏み締め、貴人は走り出す。背後に流れゆく木々と、驚いて飛び立つ鳥と隠れる獣。
その中で唯一、大きさを変えずについてくるのは赤い外套だ。逃げる。追われる。動くもののない森の中、二人だけが風を切る。追うものが名前を呼んで、その声も森が呑み込んだ。静寂のほうが大きいのだ。レィリダースの抱えた、静寂の方が。
レィリダースは、息を切らさない。ルガダも。心臓すら鳴らさずに、死者どもの足音だけが駆けていく。彼女は彼女が歩み寄った、その距離すらも突き放したくて走っていた。なびいた涙が、届く前に散る距離が欲しかった。
彼女そのものたる森だ。枝も、根も、レィリダースに味方する。その中を全霊で走る。だのに、ルガダはついてくるのだ。
それでいい、十分だ、とレィリダースはつぶやいた。
追ってこいと、わたしは、命じていない。
二人は走る。森の縁が、彼女らを迎えるまで。
レィリダースは止まった。ルガダは勢い余って飛び出した。黒い森が途切れて、その向こうは白だった。夏の、日差し。滑って止まったルガダの外套が広がって、光を受け止めて燃えるようだった。レィリダースは目を細めた。彼女が立ったのは、森の内側だった。光と暗がりの境目を、枝葉がぱっきりとふちどっていた。
二人はそれに分かたれた。
ルガダは光の中から、闇を覗いて目を凝らしているようだった。レィリダースはその視線を受け止めていた。
(きっと見えていない)
明るい方から、暗い場所は、見えない。
それでも、見つめ返していた。言葉は、視線に吸い寄せられるように集まるのだ。
そしていま、存在のためには必要のない息だ。それでも今は、言葉を形に変えるために必要だった。
吸う。
「お前の好きにしたらいい」
声は震えなかったし、笑みは体の底から浮かび上がった。黒いドレスは踵を返す。
黒く暗く冷たい魔の森だけが、レィリダースを迎える。永い時で肌に馴染んだ、親しげな静寂。今は足音がかき乱していく。
足音が。レィリダースは振り返った。
「好きにするよ」と彼女は言った。
「勝手にしろ」と彼女は答えた。自身の吐いたその言葉が、最後に残った違和感も拭い去っていた。
ルガダを残し、レィリダースは歩いていく。裸足で、大股に、足早に。ルガダが笑ってその後をついていく。ふたりがまた森をゆく。
「本当に好きにするよ。明日には発って、明々後日には戻るかもよ」
「勝手にしろ。ばか」
四十年前とは、違うかたちで。