あの……ホントすみません……🟦さんお借りしてます……ハイ……幻覚です……
https://privatter.net/p/7822812のつづきかも
@acht8811
届かないものの象徴に、本当に手が届かないというのは、ひとつの幸運だ。
寄りかかった石壁すら陽に熱されていて、おれは小さく悪態をついて離れた。しかし離れすぎると日向に出てしまうから、文句を言ったくせ石壁に頼っているのだった。
空は青い。持ち上げた顎を汗が伝う。
肌を陽がチリチリと焼いて、それで、おれは自分が手を伸ばしていたのだ、と気がついた。引っ込めて、さする。肌の上で尚、夏がひりついて主張する。
届きはしない空が昨日も今日も、おれを見下ろしすらせずに頭上を覆っている。おれはひとり、小さくなって影に隠れている。
散々な待ち合わせだった。人波は熱波となり、寄せては返す。目を凝らしても、その中に待ち人は現れない。
大嫌いな季節の中、待ちぼうけが時間を引き伸ばした。伸び切ってようやく、愛想をつかしてもいいかという気分になる。もう、待ちすぎた。あいつめ、今度会ったらどうしてやろうか。潰れた予定はなかったことにして、もう行こう、とおれはゆっくり顔を上げた。
それは雑踏のうねりの隙間。
ぽつんと立ってそこにいた。
目は合わなかった。
日陰から出る。ひしめく人々の隙間を縫う。海を泳ぐように。泳いでいるかのように、うまく進めない。人の熱気が蒸して、太陽が背を焦がす。焦がれている。届かないものの象徴に、手が届くのではないかと錯覚してしまうというのは酷い不幸だ。まだいる。届くかもしれない。まだ間に合う。
まだ落ちていない。
どんっと、衝撃に襲われる。罵声。ぶつかった男が舌を鳴らして去っていく。おれは現実に引き戻されている。ごった返す人と人とが、白昼夢を洗い流す。
そいつは、いなくなっている。
おれは人波に乗って歩き出す。人とぶつからないよう意識していれば、自然と視線は下を這う。噴き出す汗すら下を目指す。下。焼け付く地面。しかしそこに用はない。おれは目線を、持ち上げる。
視界には人、人、人。空は青。そこにそいつはいない。
いないでいてほしい。暑さの見せた錯覚であってほしい。
おれは、見失ったそいつを探して歩き出す。探したいわけではなかったけれど。そう、探したいわけではない。強いて言うのであれば、あれを錯覚だと確かめるためだ。きっと高台だ。街じゅうの高いところでも見に行こう。見て、それで、何も見つからなくて、安心して帰ろう。
けど、いるとすれば、たぶん、間違いなく。
空の近い場所に、いる。
日陰。氷の塊のすべやかな肌を、白い指がくるくると滑る。瓶詰めの果実水を氷の上で転がして、冷やしているのだ。果実水売りはたぶんはにかんでいたし、そこの方おひとつ如何、と言った声も涼やかなものだったろう。
それを受け取ったおれはもう、暑さの塊みたいだったろうけれど。
流れる汗が髪を伝う。歩き、歩いて、陽に焼かれた額に瓶を当てる。きいんと、痛みのように冷たい。瓶を開けて渇き切った喉に流し込めばそれも痛いようで、けれどその痛みごと飲み干していた。
瓶のつめたさの名残を頬に押し当て、ぼうっと日向を見る。一歩先の陽射しは痛烈とすら呼べそうで、今居る影の縁に、きついコントラストを作り出していた。
随分歩いた。なにせ、目指すものは高台ばかりだ。階段をのぼり、坂をくだり、のぼり、くだり、繰り返し。時計塔が一番ひどい。どうせなら一息にと駆け登り、息を切らしてたどり着いた展望台はがらんどう。
肩を落として──残念がってはない、ただ虚無感で──降る階段の長いこと。
聞き込みももちろんした。だが遠目から見ただけで、背格好も服装も定かではない。聞こうにも、情報がなさすぎるのだ。
どちらにせよ、探すのはおれの脚だ。ズボンの上から太腿をさすって、小さく、ため息をついた。近場の高台は公園がひとつ、すぐそこの階段を登るだけ。早く確かめて、いないのだと分かるようにして、終わらせたかった。
すぐそこ、と言っても。見上げる。長い長い階段。陽射しは容赦なく満遍なく照らし、登る前から辟易するようだ。
また溜息が漏れている。
「よ。お疲れだな」
するりと隣、おれが占領していた日陰に滑り込んだ少年がいる。果実水を傾け、気持ちよさそうに息をつく彼も汗だくだ。服装からして同業者か。
「こんの暑い中で、依頼?」
「や……。今日はオフ」
背の高い彼と目が合う。
「にしてはかけずり回ってるじゃねえの」
「見てたのか」
「何度かすれ違ってんな。おまえ目立つもん。黒くて」
目を逸らす。陽の射す方を見ていたほうがマシに感じる。
「何探してんだ」
「……人」
「どんな」
答えようがなくて、おれはちらりと少年を見た。少年はまだこちらを見ていた。
「おめー、ひっでえ顔してるぞ」
「うるさい」
「ほんとにひでえ顔」
「ほっとけ」
「ほっとけるか。ただ疲れてるつーより追い詰められてる顔だ。休め」
面倒なのに捕まった、と思う。
「……あと一箇所だけ見てくる。そのあとに」
「ったく。熱に中らないように気ぃつけな」
瓶を返して、日向に出る。その階段行くのかよっ、と少年の声が背を追う。
軽く手を振って、一段目に足をかけた。
長い長い昼が、ようやく終わろうとしていた。傾き始めた陽が、それでも強く肌を灼く。空も薄らと赤らんで、けれどまだ青かった。汗はいくらでも噴き出してきたし、足も足以外も痛くてしょうがない。家路に着く子供たちとすれ違い、最後の段を踏み締める。
公園は無人だった。
ため息とは言い難い声が漏れた。これが安堵からくるのか落胆から来るのか、自分では判断がつかなかった。
いないのだ。やはり。そう思うより他ない。いるはずが、ないのだ。
子供の頃一度だけ会ったそいつが、十年を超えて同じ街に居るだなんて。
目を瞑る。開ける。何度見ても、誰もいない公園だ。また吐き出すため息は、今度こそ安堵のものだった。
過去はおれを追ってきはしない。
おれもまた、過去に追いつけはしない。
それでいい。
踵を返す。貴重な休暇の一日を潰し、汗をかき疲れ切って、何も見つけられず、得たのは過去との決別だ。それでいい。錯覚を錯覚だと分かってしまえば、もうきっと惑いはしないだろうから。
疲れでふらつく足元を見て、落ちないようにゆっくりと階段を降りる。疲れの重さがおれを、下へ下へと引っ張ってゆく感じがする。それは心地良くもあって、今夜は久々によく眠れそうだと思った。
靴が視界の端を登っていった。
白いシューズに青い絵具。
おれは顔を上げる。振り返る。
すれ違ったその人は、淡々と登ってゆく。遠ざかる。
「おい!」
叫んでいる。
振り返らずに遠ざかる。
「おい!」
怒鳴っている。重い重い足に力を込める。駆け上がる。駆け上がろうとする。体が重い。水の中を進もうとするかのようにうまく足が動かない。おい、ともう一度呼ぼうとして、声が掠れて咳き込んだ。
待ってくれよ。
おまえの名前も知らなくて、呼びようがないんだよ。
追いつく。引き止めようと、手に手を伸ばす。掴んだ左手首は震えもしない。振り返ったその人と目が合わない。数拍置いて、ほんの少し首を傾げるだけだ。何が何だかという顔だった。当然だ。急激に頭の内が冷えていく感覚があった。
おれは絞り出した。
「人違いだ、……すみません」
見紛うはずなど、ないのに。
手を離す。
二、三言葉を交わしたようにも思うけれど、覚えていない。冷えた頭はけれど冷静では全くない。嫌に冷え切っていて、うまく動かない。ただ足を動かして、階段を降りるのが精一杯なようだった。そう認識したのは降り切ってからだ。
ただひとつ、頭に焼き付くものがあった。たしかに、見た、あれは。
振り返ったあの人が右手に持った、小さな四角形。カンバス。
切り取られて、落ちてきて、手の中にある空。
絵。
届かないものの象徴に、本当に手が届かないというのは、ひとつの幸運だった。確かにそうだったのだ。届きようのない空に、届かないから耐えられた。
けど。
おまえのせいだ。空は、落ちてきてしまった。