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潮汐

全体公開 18 61 4837文字
2022-08-06 11:34:45

5巻ごろのにっぴきが夜の海に行って、ロナルド君の誕生日を祝う話です。

Posted by @ldq480

「海に行こう」とドラルクは言った。
ロナルドはドラルクを一瞥する。住居スペースへとつながる扉から現れた存在自体が迷惑千万な居候は、うきうきと踊るような所作でロナルドのデスクへと近寄ってくる。目の前に立った痩身の男を無視する意図を込めて、ロナルドは目を閉じる。伸びと欠伸を済ませてから目を開けると、脚の生えた災難はまだロナルドの返事を待ち構えていた。
「勝手に行ってろ」
その日のロナルドは、退治人の仕事こそ休みを取っていたものの、原稿の直しや書類の整理、メールのやり取りなどの事務作業に追われていたのだ。疲れていた。あれやこれやとバカなことばかりやるお騒がせ吸血鬼に付き合う気などさらさらなかった。そんなことよりも、風呂に入ってとっとと寝たい。
ドラルクはといえば、どうやらロナルドの返答に不満なようだった。
「この間はビキニ野郎のせいでさんざんな目に遭って、貝もろくに拾えなかったんだぞ」
「知らねーよ」
「ジョンも行きたいよね」
「ヌヌヌイ~」
ここでロナルドの気持ちが揺らいだ。邪悪な面構えをした痩せぎすの男ではなく、その腕に抱かれた愛らしいアルマジロに目をやる。ふかふかで丸くて世界一可愛いジョンは、ロナルドを見て「ヌッヌヌヌヌ~ヌ!」と言った。何を言っているのかロナルドには皆目見当もつかなかったが、可愛かった。疲労も吹き飛ぶ愛らしさだ。ロナルドはがばりと身を乗り出す。
「ジョ~ン♡♡♡ 嬉しいぜ♡♡♡ 明日の昼にでも海行こっか! 焼きそばでもかき氷でもいくらでも買ってやるよ」
「ヌ……
ジョンとロナルドだけの世界に身を屈めたドラルクが割り込んでくる。
「おい若造、昼だと私が行けないだろうが」
「ついてくんな、これはジョンと俺のお出かけなんだ」
「ヌヌヌヌヌヌヌ……
「ジョンは私と一緒がいいんだもんね~」
「ヌン!」
元気よく返事をしたジョンにロナルドは顔をしかめる。ドラルクなどクソでカスでバカでろくなものではないというのに、なぜかジョンは一心に主人を慕っているのである。そのさまはあまりにも健気で、時折見ていられないことがあるほどだった。もしもいつかジョンの目が覚めたら、ロナルドはなんとしてでも彼を保護してやるつもりだ。しかし、今のジョンはどうしてもドラルクと一緒がいいらしい。ロナルドは聞こえよがしに大きな舌打ちをひとつしてから「仕方ねーからお前も連れてってやる」と言った。ドラルクは片眉をぐいと上げる。
「少々腑に落ちんが、まあいいだろう」
そして、吸血鬼はまるで悪魔のようににんまりと笑った。
白い手袋にぴったりと覆われた手がぱん、と眼前で打ち鳴らされる。
「さあ行くぞロナルド君!善は急げだ!」
芝居がかった仕草でマントを翻したドラルクの発言にロナルドはぎょっとする。
「おいまさか今から行くってんじゃないだろうな」
「何か不都合でもあるのかね」
「あるわ! 俺今から寝ようと思ってたんだけど」
「種族の違いの悲しいところだな」
まったく悲しいなどとは思っていないだろう口調で言ったドラルクは「早く早く」と急かす。有無を言わせない強引さで促されるとつい流されてしまうのは、ロナルドのいくつか存在する欠点のうちのひとつだった。半分行く気になってきてしまったロナルドにドラルクは「お弁当とお茶もあるぞ、取ってくるから先に降りていたまえ」と至極楽しそうに言った。
マントの端を翻しながらくるりと背を向けた吸血鬼は「あ、そうそう」と足を止める。
「君、もちろん免許は持っているだろうね?」


戸籍もないのに何をどうしたのかは知らないが、レンタカー会社でドラルクが予約していたのは銀の軽自動車だった。当たり前のように後部座席へ滑り込んだドラルクは嬉しそうに車内を見回しながら「ちいさ~い! 狭い! 狭いところだいすき!」とはしゃいでいた。渋々運転席に乗り込んだロナルドは受付でもらった鍵を差し込んでエンジンを起動させる。そして、後部座席で意味もなく窓を開けたり閉めたり「膝がつっかえる」と大騒ぎしているドラルクに呆れながら「車乗ったことねーのかよ」と言った。
「軽自動車に乗るのが初めてなだけだ。タクシーとかなら乗ったことあるぞ」
「ムカつく」
普段はバカなことばかりやっているので忘れがちだが、この吸血鬼は城ひとつ壊されても痛くもかゆくもないような家の御曹司なのだ。背後から身を乗り出してきたドラルクはぎょろりと大きな目を好奇心に輝かせながら「ラジオをつけてくれ」と言った。
「はしゃぐなおっさん。引っ込んでろ」
ロナルドがラジオをつけたのはドラルクの要望に答えたからではなく、海水浴場に着くまで、テンションの上がった吸血鬼のおしゃべりに付き合わされるのが嫌だったからだ。
スピーカーからはCMなどでよく耳にする女性シンガーのしっとりとしたバラードが流れてきた。少し雰囲気にそぐわない気もしたが、ラジオなのだからそのうち流れる曲も変わるだろうし、構わない。ロナルドはゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


新横浜から車で四十分ほど行ったところにはいくつか海水浴場がある。夏ともなれば、昼から夜早い時間にかけて多くの人で賑わっているようだ。しかし、さすがにそろそろ日付も変わろうかという頃に浜辺を歩いている人間はいなかった。
靴底越しにさくさくと崩れる砂の感触を楽しみながら、ふたりと一匹はぽつぽつと言葉を交わす。月はまだ細く、遥か彼方まで広がり夜空と曖昧に溶け合う海はどこか不気味なまでに黒々としていたが、海面を吹き抜けていく風を浴びながら歩くのはなんとも心地よいものだった。
「海の匂いがするねえ、ジョン」
ドラルクの腕の中で鼻をひくつかせているジョンはえもいわれぬ愛らしさで、隣を歩いているロナルドの顔もつい綻んでしまう。
「きれいな貝殻やガラスを拾うのもいいけど、まずはちょっと休もう」
「お前は何もしてねーだろうが」
「下男を労わってやるのも城主の務めだからな」
持たされていたレジャーシートを敷いてからおもむろにドラルクを殴ると、安っぽい縞模様の上に灰色の塵がさらさらと落ちた。悪態をつきながら復活した吸血鬼に「砂と混じらんようにしてやっただけありがたく思え」とロナルドは言った。
籠からクロスに包んだサンドイッチと水筒が出てくる。灯りらしい灯りが近くにないため、ロナルドの視界ではすべてが闇に沈んでぼんやりとしか見えなかったが、ドラルクの手つきには迷いがなくてきぱきとしていた。吸血鬼の目には何もかも見えているのだ。一通り準備を終えてロナルドを見上げた目が、わずかな月明かりしかない闇の中で赤く光った気がした。
そう、これは人間ではない。
太陽を嫌い、夜に生きる魔性のものだ。
ドラルクはしばらくロナルドの顔をじっと見つめていたようだったが、何も言わずに籠の中から古びたランタンを取り出した。マッチを擦って火を点ける一連の動きにロナルドは混乱する。
「んなもんなくても見えてんだろ」
ゆらゆらと揺らめく橙色の灯りを受けて影のできたドラルクの顔は、いつもよりもずっと年嵩に見えた。聞いた話によれば、ゆうに二百年は生きているのだという。ロナルドは初めてその話を信じられるような気がしていた。
とくに表情らしい表情もない顔のまま、ドラルクは静かに言った。
「君には見えないだろう」
続けて「紅茶にシロップはいるかね」と聞かれたので「ああ」と返して、そのまま話は流れてしまった。紅茶の注がれたカップを差し出してきたドラルクは「薄切りのレモンがあれば最高だったのにな」とひとりごちた。まったく知らない相手と一緒にいるような気がし始めていたロナルドは、ドラルクの雰囲気がいつもと同じものに戻ったことにひっそりと安堵した。
喉を滑り落ちていった冷たい紅茶は、シロップの甘みとよく合うかすかな渋みとともに品のいい香りが広がり、とても美味しい。スーパーで売っている安物のティーバッグではないのは確かだ。
「サンドイッチもどうぞ」
きれいな三角形に切りそろえられたドラルクお手製のサンドイッチは、言うまでもなくすばらしい味がした。ロナルドはサンドイッチなら卵のペーストがたっぷりと挟まっているものが好きで、癪なことだが、今夜口にしたものがいっとうお気に入りになりそうだ。ドラルクはろくでなしだが、料理だけは店でも開けそうなほど上手いのである。ハムと野菜の入ったサンドイッチをむしゃむしゃと食べているジョンがこぼさないように世話を焼いているドラルクからは、いつものような根性の悪さや人を小馬鹿にしたような様子はまったく見受けられない。
ずっとこうならいいのに。ちらりと頭をよぎった考えにロナルドは動揺する。いいのにも何もない。弱くて何もできないくせに邪悪でわがままでクズでいつも迷惑ばかりかけてくる嫌なやつが、たまたま今は大人しくしているだけだ。馬鹿馬鹿しい。確かに料理は上手いが、それ以外は本当に最悪なのだ、こいつは!
やってられない気分になったロナルドはレジャーシートの上に寝そべる。街中よりはたくさん星が見えた。ささやかにゆらめく灯りを視界の端にとらえながら、ぼんやりと星空を見上げて寝転がるというのはなかなか悪くないものだ。動揺した気分が安らいでいくのがわかる。
「あ」と不意に声を上げたドラルクに目をやると、スマートフォンの画面を見ていた吸血鬼は画面を伏せるや否や満面の笑みでロナルドにこう告げた。
「お誕生日おめでとう」
「ヌヌヌヌ!」
一瞬遅れて、ロナルドは気づいた。八月八日になったのか。成人して、事務所を構えてからしばらく誕生日を祝う機会もなかったので、すっかり忘れていた。そしてようやく、どうやら吸血鬼と使い魔が強引に開いたこのイベントが自分の誕生日を祝うためのものだったということに思い至る。
「え、これってパーティーだったのか」
「おい馬鹿にするなよ青二才、私の開くパーティーはこんなものではない。やるならもっと全力を出しておもてなしの限りを尽くしてやるわ」
「じゃあなんなんだこれは」
「お誕生日……ピクニック?」
「聞いたことねーわ」
ロナルドは体を起こした。どうにも落ち着かない。不思議そうな顔でこちらを観察するように見つめてくるドラルクと目が合った。わずかに首を傾げた吸血鬼は、邪気のない表情で「人間は誕生日を祝うんだろう?」と言った。胸の奥を柔らかい羽根で撫でられるようなくすぐったさを覚える。返事をよこさずにいると、ドラルクは「違うのか?」といささか不安そうな、困ったような顔をする。「映画なんかでもよく見るぞ、Happy birthday to you♪ Happy birthday to you♪」
おもむろに始まった調子外れの歌を「やめろや」と笑いながら制止すると、吸血鬼は自分の誕生日でもないのに「楽しくて仕方ない」という顔をしながら口を噤んだ。ロナルドは小さく「いや、まあ……ありがとよ」と礼を言う。どうやらそれが嬉しかったようで、バースデーソングの続きを歌い始めたドラルクの聞くに堪えない歌唱にジョンが「ヌアーッ」とうめいているのをよそに、ロナルドは海へと目をやる。
黒々とした海はひとつの生き物のように蠢き絶えず波を生む。生まれた波は浜辺を訪ない、また海へと戻っていく。白い砂を洗う水は、よく目を凝らして見てみれば、太陽のもとで目にするのと変わらない色をしていた。
ロナルドのバースデーソングを歌い終えたドラルクは満足げに紅茶を飲んでいる。楽しいことが大好きで、気まぐれな吸血鬼。白目ばかりが大きな赤い目は、ランタンの灯りを受けてちらちらと光っている。
吸血鬼の目に、この夜はどう見えているのだろうか?
人間であるロナルドには知り得ない領域である。

ロナルドは生まれて初めてそれを、残念だと思った。


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