@ryu_aoba
◆前提
ゼノブレイド3をクリアしました。ラスボスの正体とエンディングの展開について色々言われているのを知りましたが、私自身は極めて肯定的な立場をとります。
個人的好みを含めての評価をするなら2>3>1。ただし私はシナリオの評価において、「物語のテーマ」「そのテーマをいかに書き切ったか」「作劇上の必然性を伴ってそのテーマが語られたか」「そのテーマが自分好みかどうか」を極端に重視し、いわゆる熱い展開や演出、ノリ、台詞回しなどと言った要素はキャラ萌えのために消費するもの、という姿勢で物語に向き合う類の人間です。なのでよく言われる2のノリとか1の熱い演出とかを私はシナリオ評価の材料に使用しません。
そしてそのテーマに関する部分についてゼノブレイド3は見事に書き切ってくれたと感じました。これはそういう感想です。
◆本当の敵=メビウス=永遠の今を望むもの
公式では「命をテーマにした」と語られていますが、最終版で語られるテーマは正確には「永遠の今を望む者たちの否定」だと解釈します。
メビウスの中にはざっくり二種類いて、
・ゼットや観客席にいるメビウス=どう転ぶか分からない未来への恐れが実体化して「今」に固執する者たち
・ゼットによってメビウスにされた元人間=ゼット曰く「面白いから」メビウスにされた者たち
最終版でノアたちに真っ向否定されるのは前者です。時間を止めたりアイオニオンを作り出したり人間をメビウスにしたりやりたい放題してる割に特にゼットが小物過ぎる、という批判を結構見ましたが、私としては「永遠の今に固執する者」である以上、小物として作劇されてむしろ正解だと感じました。
1のザンザは「未来を閉ざす敵」でした。彼はビジョンで未来を見ながら自分にとって都合の良い未来になるようコントロールして、自分以外の命をその為に切り捨てる敵でした。そういう意味で今回のメビウスに似ています。違うのは、ザンザはまがりなりにも彼の世界の「神」であり、世界を好きに作り替える力は持っていたことです。
2のシンやマルベーニ、メツは「過去(の絆)に囚われた敵」でした。彼らは過去の悲劇からゆがみ、あるいはその影響を受け、過去の出来事を動機として、積極的にあるいは見殺しに近い方法で、世界を滅ぼす道を選びました。それは過去に囚われながらも、それを動機として未来を選択する姿でもあります。
3のゼット、及びメビウスたちは違います。彼らには「今」しかありません。「今」があればそれでいい。未来をどうこうしたいという思いはない。その力もない。あるのは自己の消滅の可能性のある未来を否定したい心だけ。そして彼らには動機となる過去もない。特別な出来事はいらない。今の自分を失うことが怖い。今日より悪くなるかもしれない、むしろその可能性の方がよっぽど高い(と、思い込んでいる)明日が怖い。小物で当然なのです。彼らには悪役として必要な、間違っていても大層な野望とそれを実現する力、同情に足る凄惨な過去と絶望、そんなものは持っていない。持っていないからこそ「永遠の今」に固着する。そういうテーマのための敵だから。
そういう役割を体現しているという意味において、私はゼットを評価します。
◆弱者と強者
そういう「永遠の今」に固執するゼットは、自身を「弱者」だと自認します。どうなるか分からない未来を受け容れられない弱き者の代表として(そして彼は実際その代表なのですが)自分たちはどうなると、強者と認定したノアたちに語ります。
同じ理屈を振りかざしたのはヨランとシャナイアですが、彼らの共通点は「自分は弱者である」という主張を、他人を犠牲にする・加害する自分の正当化のために使っていることです。本人たちにとって本心であることに間違いはないでしょうが。
物凄く平たく言って、彼らはいわゆる「弱者様」として書かれました。弱者様。弱者であることを自称し攻撃的に無尽蔵の救済を迫る類の人間を揶揄するミームです。それをゼノブレイド3は「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」と完全否定します。弱い自分のままでいいよ、という救いは用意されません。弱いまま救って貰う道はありません。救われたいなら自分で自分を認めて、憧れながら諦めている「強さ」、それは自己肯定感だったり、認めたくない現実を認めて歩いて行く覚悟を自分自身で身に付けるしかない、という、暴力的かつ現実性という意味では唯一の答えを無慈悲に突きつけます。
また、彼らは本当の意味で何も持っていない弱者とは描かれませんでした。ヨランとシャナイアは共に芸術系の才能が示唆されており、世界あるいは家庭環境が武力のみを評価する、その道以外を認めない世界でなければ、彼らは彼らなりの「強さ」を得ることが出来たかもしれません。そういう選択肢のある世界のために今の世界を壊す、というのがノアたちの主張の裏付けとして利用されていますが、それとは別に、弱いと思い込んでる自分にもそういう誇れる何かがあるはずだろう、というメッセージも感じます。
弱者たる自分を救うための答えと合わせて、このメッセージ部分を陳腐と感じるか優しさを感じるかどうかで弱者云々の部分は評価が分れるように思います。
◆フィクションとしてのアイオニオン
(ここは半分妄想入ってることを自覚してるので読み飛ばして貰ってもいいかもしれない)
そして最強の弱者様ゼットの持つ力は、アイオニオンを自由に出来ることです。アイオニオンをあのように作ったこと、と言い換えても良い。けれどその力は彼にとって救いにはなりません。なぜならゼット及びメビウス(元人間でない者たち)にとって、アイオニオンは自分たちの世界ではないからです。ゼットたちの世界の時間は止まっている。アイオニオンで流れる時間はゼットたちにとって意味を成さない。アイオニオンで語られる未来に価値はない。それはさながらフィクションの中でどれほど時間が流れようと今の私たちのこの時間に何の影響もないように。
劇場でアイオニオンを眺めるゼットたちにとって、それは正しくフィクションを眺める行為だったのでしょう。ただの娯楽。自分たちには影響しないもの。ラスボス戦の序盤の演出がそれを物語ります。フィクションのはずだった存在が自分たちの「今」を脅かしていると理解した後に拍車がかかる小物化は結構好きです。ただのフィクションとしてだから消費できていたのに、それが現実を変える力を持って現実をどうにも出来ない(したくもない)自分の前に現れるのはまあ怖いでしょう。
人間たちをメビウスに変えていたのは、ゼットにとってフィクションが自分好みのストーリーになるように介入する行為だと解釈します。わりと闇の腐女子がどうこうとキャッキャして二次創作してるオタクと行為は大差ない。命の輝きが云々も、このキャラ死に際超輝いてる! と目を輝かせてるオタクの理屈です。(冒頭に書いた通りそれがラスボスのムーブとしてどうなのという点を私は評価の俎上に乗せません)
ヨランやクリスをメビウスにした理由が「面白いから」なのもそういう意味で良い理由だと私は思います。何が面白いのかというと、彼らを物語における敵として配置することで、人間の醜い、救いのない、物悲しい演出になる。そしてその醜さを、自分の弱さの慰めに使っていたのではないかと思うのです。10年という限られた時間で目一杯生き抜く強い若者たちが傷つき歪み、弱者と何ら変わらなくなる。そうやって羨ましい他人を自分と同じ低さまで引きずり落とす被害者ムーブと、それを自分にとってのフィクションでやって満足するしょうもなさ。前述した「「今」しか無い敵」として満点の空っぽであると思います。
またそうやって強者から引きずり落とされて被害者・弱者側になったエヌがまだ強者側であるノアの無力さをあざ笑うところ最低の連鎖になっていて良いですね。
そして一番凄いなと思ったのは、そういうしょうもなさを楽しんだ私のような人間も、敵に魅力がないと批判的な人間も同時に批判しにかかってるの構造として無敵といって良い。敵に魅力がないという批判は「もっと面白い敵を配置するべきだった」という意見であり、それは「面白いから」という理由でノアたちの前に敵を配置したゼットと発想が同じになるから。
◆変化しない「今」を否定した先のエンディング
ゼットたちの端緒は、世界の消滅、ひいては自分の消滅の恐れだった。オリジンを用意してその日に備えたからといって、上手くいく保証はない。そのまま消滅するだけかもしれない。いや、きっとそうだ。消滅するに決まっている。だから未来はいらない。世界も自分も「今」のまま永遠に続けば良い。そんな願いの集合体をゼノブレイド3はラスボスとして配置しました。
ノアたちはそれを真っ向から否定する。それでも停滞した今よりマシだ。上手くいかなくても、それでも未来へ行くしかない。間違えるかもしれなくても選択の余地のある未来へ。その結果を受容しながら自分を変えていくしかない。その果てに世界も変わっていく、そう信じて歩いて行くしかない。この辺り、「酷い世界でもその中で生きていくしかない」と言った2と同じ、ある種開き直って諦めを見せながらの人間賛歌であり、そのようにしかならない現実の肯定として私は好きな理屈です。
そんな理屈でもってぶつかり、勝利したノアたちの結末がお別れエンドなのは、終わり方として美しいと感じます。文句のないハッピーエンドを見たかった気持ちは物凄くあるのですが、文句のないハッピーエンドの場合、結局ノアたちは自分たちにとって都合の良い未来だと分かっていたから進めただけだ、という図になってしまうから。
(お別れをどこで悟ったかが分かってないのでそこには言及しませんが)ノアたちがそれを覚悟していたらしき描写から、自分たちにとって都合の悪い未来だと分かっていても、停滞した今を壊して前に進むことを選んだ、という結末は、「永遠の今を否定して、どうなるか分からない未来を迎える」テーマの物語として最適なものであったと考えます。
そこから先の、スタッフロール後の笛の音からの再会匂わせ、もしかしたらDLCで描かれるかも知れない再会の物語、は、どうなるか分からない明日を選んでテーマを書き切ったゼノブレイド3のその後の話、望み通りじゃない世界で望みを叶える話として、別の物語として描かれることは悪くないんじゃないかなと思うのです。
◆「永遠の今の否定」と「命を繋いでいくこと」の食い合わせの悪さ
私がゼノブレイド3のストーリーで批判する部分があるとしたら、シティー関連で書かれる「人間本来のありよう」、「生まれて育って生んで育てて老いて、という、肉体を共にする命のサイクル」の部分が、「永遠の今の否定及びその結末」と食い合わせが悪かったなという点です。
巨神界とアルストの時間が動き始めたら、止まった時間の中の世界のアイオニオンが消えるというのはいいんです。そもそもアイオニオン自体、一体化する前に制止させられた二世界が無茶苦茶な秩序で融合した世界でしかないから、仮にそのまま二つの世界が二つの世界として続いていくせよ、本来の形で融合するにせよ、今のアイオニオンが一度消える必要があるとは思いますし、その消える世界と元の世界を繋ぎ、消える世界の魂の救いとなるのがオリジンに集積されていたのだろうアイオニオンの人間の想いだというのは理解します。ただ、最初からオリジンを通してひたすら輪廻転生を繰り返すだけの兵士はそれでいいとしても、肉体を通じて命を紡いできたシティーの人たちに訪れる結末もそれ、というのはちょっと違和感がある。
想いや記憶をデータ化してそれが魂だ、というのはクロスや2でもやっていたし、クロスや2は物語全体でそれを肯定していた。ただ3は肉体を伴う命のサイクルを賛美しておいて最後の救いとしてデータ化した魂があればいい、とういのはちょっと乱暴な転嫁に感じました。元の世界に戻ればそこでは当たり前のように肉体を伴って命が紡がれていると言えばそれはその通りなのですが。
命のサイクルが、ノアやミオが今とは別の選択肢のある、それが許される理の世界を望むようになるためのトリガーとしてしか機能してないように感じて、その辺りは残念なポイントです。
私が2をもっとも評価しているのは、「過去に囚われて未来を壊す者の否定」というテーマが、「ブレイドを通した想いの継承」を軸に、「どんなに否定したい辛い過去でも無駄なものはない」「絶えてしまったように見える想いでも、誰かに受け継がれながら、世界を良い方向へ変えていく」というメッセージが美しく噛み合っていた点です。想いを継承する相手が直接の血縁や直接顔を合わせた相手に限らないところがまた憎い。かつ個人的好みとしてその答えが最高に好きなので2のシナリオは素晴らしいと自信を持って言います。
3はその辺、大筋に破綻はなく纏まりながら、各テーマとメッセージが若干とっちらかってる感を覚えました。メインで語られるようなメッセージがかなりサブクエに散らされている印象があるのでそのへんやったらまた何か変わるかもしれませんが。
あと私の好みとして3でも想いの継承は書かれましたが、3の継承はかなり直接的に行われているなと感じます。この辺はストーリー一本全部使って書き切ったことがあって2の方がやっぱり綺麗かつ膨らみがあるなと思った。
◆まとめ
演出面で賛否両論なのは理解しますが、賛否を語るならシナリオそのものよりも「永遠の今の否定」をテーマに据えたこと自体かなと私としては思います。褒めてる私でも「でもお前テーマは「命」って言ったじゃん?」とは思っていますし。ただ、少なくともそのテーマに関しての答えはきちんと書き切っており評価に値する、というのがクリア後20時間弱時点での率直な感想です。それを無しにしてストーリーを評価しようとすると、その評価対象ってプロットやテーマではなく、演出や台詞回し、ノリといった表面的な部分を論じるのに終始してしまうと感じます。
あるいはゼノブレイド3が書きたかった「永遠の今の否定と命」のテーマ自体に受取手が興味がなくて、「ゼノブレイド1+2としての3」が期待されすぎたことの事故かなとも思います。ストーリーの事前開示において1と2ありきの部分はほとんど存在していなかったので私個人は想定の範囲内だし何なら思ったより語ってくれたとさえ思っていますが、まあ期待した人の気持ちも分かります。
それでもしばらくは1の「未来を阻む者の否定」、2の「過去に囚われた者の否定」に続く「永遠の今を望む者の否定」を見事な形で書き切ってくれたゼノブレイド3のストーリーに浸っていたいなと素直に思うわけです。そう思わせてくれたゼノブレイド3、良い話で、良いゲームでした。