41. 悪い夢 / 虚淮
42. 洛竹が風息に髪を切ってもらう話 / 洛竹、風息、虚淮
43. 無限が風息を救いたい話 / 無限、風息、小黒
44. 真実 / 虚淮
45. ある霜降 / 虚淮、館の妖精
46. ある霜降2 / 洛竹、虚淮
47. 誕生日 / 虚淮、洛竹、天虎、風息
48. 不再流浪 / 風息
49. 洛竹が虚淮と再会する話 / 洛竹、虚淮
50. 洛竹が虚淮と再会する話2 / 虚淮 ※攻撃的な虚淮がいます。解釈違い注意。
@satomi8429
41. 悪い夢 / 虚淮
あれから何度も同じ夢を見ている。
風息と最後に話したのは日没後の屋上で、
日没前の屋上でも、画龍の上でも、言葉を交わしたはずだった。
でもなぜか、最後の会話として思い出すのは朽ちた工場の一角だ。
何十年と耐えた理不尽の末、ようやく見つけ出した希望をあっさりと奪われたあの日。
我慢の限界だという風息に、わかったと答えたのは自分だ。
ゴーサインを出したのは自分だ。
そもそも自分に、風息の願いに添わないという選択肢はないのだ。
それなのに、何度も何度もその場面が繰り返される。
よろしくな、と言った固い笑みが最後のやりとりだった。
その後も会話はあったが、今思えばずっと無我夢中で、
気づいた時にはもう二度と会えなくなっていた。
行ったきり二度と帰ってこないなんて、薄情なやつだ。
二百年も情をかけさせた挙句、お前のいない世界に私を置いていくなんて。
夢にまで出てくるくせに、夢の中でも置いていくなんて。それも何度もなんて。
まったく薄情なやつだ。本当に。
本当に。
42. 洛竹が風息に髪を切ってもらう話 / 洛竹、風息、虚淮
昔人間が使っていた石造りの建屋の中には、いろいろなものが眠っている。
ほとんどは朽ちてしまっているが、銅や鉄でできたようなものはその形を保っていた。洛竹が見つけた鋏は、手に馴染む小さな大きさで、水と草を使って石で研いだら、ピカピカと光る鋭い刃がよみがえった。
「で、何を切るんだ?」
隣で気を集めていた虚淮が横目で言った。座って刃をためつすがめつしていた洛竹は、草の上に寝転んで空に鋏をかざした。
「うーん、研いではみたものの、切らないといけないものなんて別にないしなー」
持ち手を持ってチラチラ揺らすと、鋭くなった部分が太陽に反射する。鋏で切りたいもの。天虎の調理する肉は、鋏では足りないし。木の実を採る? 枝を切る? 前者は手で充分だし、後者は必要がない。
「何の話だ?」
後ろから近づいた風息が言い、逆さまに覗き込むその姿に洛竹はひらめいた。
「そうだ! 髪! 俺の髪切ってみてよ」
首に巻いている布を広げて、マントのように肩に羽織る。髪を解いて広げると、肩の下まで長さがあった。
「どのくらいにするんだ?」
チャキチャキと鋏の動きを確かめながら風息が言う。
「いつもぐらいで!」
振り向きながら威勢よく言うと、じっとしてろ、と風息が頭を指で押さえてたしなめた。大きく温かい手の、両の指が優しく洛竹の頭を前へ向かせる。
じょき、じょき、と音が鳴り、一拍遅れて髪束がひらり、はらりと落ちる。少しでも動くと「こーら」と頭を戻されるので、頭の位置は変えないないように気をつけながら、目だけで上を向く。雲ひとつない青空が目に染みた。
「ほら、できた」
「わー! 軽くなった! さすが風息、器用だな」
羽織った布を外し、ばさばさと振りながら風息が微笑んだ。
横で風息の手際を見ていた虚淮の長い髪が目に入り、洛竹は尋ねた。
「虚淮は? 切らないの?」
「必要ない」
「じゃあ風息は? 次は俺が切ってやるよ!」
「俺はいい」
やけにきっぱり即答する風息に、そ、そんなに俺の手が信用ならない……!? と大袈裟にショックを受けるポーズをしてみると、風息は笑って答えた。
「違うんだ洛竹。……俺は、願をかけてるから」
「がんをかけてる?」
風息が頷く。はるか遠くを見るような目をしながら。
「髪を伸ばし続けたら願いが叶うかも知れないっていう、人間社会の……まあ、迷信だ」
「めいしん?」
願いが叶う。風息の悲願は「妖精の楽園」だ。それと髪を切らないこととどんな関係があるのか洛竹にはわからなかったが。
「気にするな」
風息が笑って話を終わらせるので、洛竹も、それならいいか、と思う。髪なんか、長かろうが短かろうが、妖精の自分達にとっては些細なことだ。正直なところ、霊力でどうにでもなる。鋏があったから使ってみたと言うだけで。
人間社会に入り込んでから、人間は髪が伸びると専門家のやっている店へ切ってもらいに行くらしいことを知った。人間は自分で髪の長さを調節できない。不便なものだ。とはいえ人間社会で生きる以上、それに則っておいた方がなにかとやりやすいのだと紫羅蘭は言う。というわけで、ものは試しと、洛竹は美容室なるところに来てみたのだった。上下に動く椅子に座らされ、好みの長さを尋ねられ、それからタオルとガサガサいう布を首に巻かれる。巨大な鏡に映る自分は、人間が雨の日に窓辺に吊るすという照る照る坊主さながらだった。店の人間がシャキシャキと鋏を鳴らして、あの時の風息のように洛竹の髪を切っている。目を閉じたら、かつての風息の指が思い起こされた。動こうとするとたしなめるようにぐいと力を込められた温かい指。いつでも春の森のようだった、風息の匂い。
洛竹は頭を動かさないように、ちらりと横目で外を見た。ガラス張りのウインドウには店の名前が流れるような文字で書いてあって、その向こうを人がぽつりぽつりと横切っていく。彼らの頭の向こう側に見えるのは、雲ひとつない染みるような青空だ。
洛竹はそのもっと向こうにそびえ立つ大きな木のことを思った。
兄の名を付けられた公園の木も、今日は青空に映える緑の葉を茂らせて、気持ちよく風に揺れているのだろう。
43. 無限が風息を救いたい話 / 無限、風息、小黒
もうここから離れたくない。
そう目を伏せた風息の周りを、木々が取り囲む。コンクリートの地面を突き破り、壁を這い上がってきた幹が、部屋も窓もぶち抜いてやってきた枝が、風息を覆う。主である風息を守るように、隠すように、喰らうように。
無限は自分の顔中に血が集まるのを感じた。無意識に眉間に力が入る。
これがお前の望みか。共存を拒んだお前の。他の方法を探すことから顔を背けたお前の。幼い妖精を危険に晒したお前の。
無限は抱えた小黒を背後へ放り出すと、風息の周りに素早く金属板を打ち付けた。成長する木を切断し押さえつけ、自らの素手をも差し込みバリバリと枝を引き剥がす。木の力は強く、金属で阻んでも力負けしそうだ。何度も、何枚もねじ込んで抵抗する。
まだだ。こんな結末自分は望んでいない。妖精が自らの命を絶つところなど見たくはない。自分のしたことへの償いも、そこから先の未来も、放棄して良いわけがない。
歯を食いしばり四肢を使って風息から枝を剥がしていると、ふ、と木の成長が止まった。あたりが無音になり、そして風息がゆっくりと目を上げた。
「こんなことはやめろ。もう一度考え直せ」
刃を交わした時ほどの近い距離で食いしばるように言うと、風息は怜悧な目つきで見つめ返した。
「傲慢だな。自分が正しいと思っているのか」
「時代によって正しさは変わる。誰しも自分にとっての正しさがある。私は人間だが、ひとりでも多くの妖精を救いたい」
お前も、小黒も、ひとりでも多くの妖精を――。
風息はふっと目元を緩めると、ばかだな、と言った。
「ばかだな。お前に俺は救えないよ」
自分の傲慢さを突きつけられたようで、無限は言葉に詰まった。
風息が畳み掛ける。
「俺は絶対、お前に救われてなんかやらない」
風息がそう言うと、一時停止を解除したように、再び枝が成長し始めた。枝は寄り集まって幹となりさらに枝を伸ばして葉を茂らせる。
そうして風息はそれきり、木の中に飲まれて見えなくなった。
「師匠、師匠?」
目を開けると小黒が自分の腕をゆさゆさと揺すっていた。小黒の顔を見、それから辺りを見回す。そこは公園のベンチで、そこここに緑が溢れ、老人や子供や若者がにこやかに過ごしている。どうやら自分は座ったまま寝ていたようだ。
「師匠、どうしたの?」
まだ風息と対峙していた時の余韻が残っている。お前に俺は救えないよ。
無限は小黒の手をぎゅっと握った。白くなった髪の毛がふわふわと風に揺れている。緑色の大きな目が覗き込む。今の自分に使命があるとすれば、この手を離さないこと、なのだろうか。それは傲慢なのだろうか。たとえそうであったとしても。
「大丈夫だ。行こうか」
小さな足と大きな足が並び立つ。
ここは、人間と妖精が共存する街。
共存が成立している街。
彼の故郷、龍遊。
44.真実 / 虚淮
人間には家族というものがあるだろう。産まれた時から決められている、特別に親しい他者。妖精に血縁はないが、我々は龍游にいた頃、それに似た形で暮らしていた。特に何があったわけではない。なんとなく共にいて、気づけば二百年経っていたというだけだ。まず風息が現れ、そこへ洛竹が加わり、さらに天虎がやってきた。我々は親しい他者としてそこに在った。今思えば、人間でいう家族のようなものだったのだろう。
だが、風息には我々には立ち入れない別の関係があった。妖精の私が言うのもおかしな話だが、風息はおそらく、龍游の大地を父とし龍游の森を母としていた。幼いころから、風息は大地と会話し、森の唄を聞いていた。それは風息にしかわからないものだった。時折起こる大地のとどろきも、唸る嵐に呼応する森のざわめきも、風息にだけは真意がわかるようだった。風息は彼らを特別に愛していたし、おそらく特別に愛されていた。木属性の妖精はそもそも大地に縁が深いので、そういうものなのかと思っていたが、どうやら誰もがそうというわけではないらしかった。
龍游を出てから隠れ住んだ島で、いつか風息にぽつりと言ったことがある。ここもなかなか住みよい場所だと。その日は風も海も凪いでいて、森もいきいきと枝を伸ばして太陽を受け止めていた。だから大した意図はなかった。好ましい天気だなという感想を共有する程度の気安さしかなかった。だが風息は、一瞬傷ついたような顔をして、それからすぐに取り繕うように眉を下げて微笑んだ。風息は、ああ悪くない、と言った。それから立てた膝に腕をもたせ掛け、俯いて小声で言った。
――でも、ここはふるさとじゃない、と。
風息は本当に、まじめで真っ直ぐな妖精だった。朗らかで楽観的だが一度決めたら梃子でも動かない頑固さがあって、仲間が好きで故郷が好きで、なんでもかんでも黙って背負いたがる。どうしようもない。本当に。
だが、風息は故郷を愛していたし、故郷にも愛されていた。
我々も、そんな風息を愛していた。
真実は、それだけだ。
45.ある霜降 / 虚淮、館の妖精
例の事件の共犯である虚淮の刑が決まった。
罪状は風息に対する教唆、作戦実行についての共謀および幇助である。
気の遠くなるような長い取り調べの果てに刑が宣告された時、
虚淮はただ一言、そうか、と言った。
氷雲城独房にて懲役。逃走および反抗防止のため、両角の切断を処する。
刑期は二百年、ただし被告の追加供述によっては期間の短縮も考慮する。
それが判決だった。
黒衣の妖精が高い位置から見下ろして無機質に宣告し、虚淮は氷点下の双眸でそれを見上げた。灰色の簡素な上下を身に着け、部屋の中央に腰かけた虚淮の額から伸びる二本の角は、真冬の氷柱の如き冷気をまとい、今ではめっきり少なくなった空を舞う龍の角にも似た威風に満ちて、静かに天を指していた。これを切るのだと聞いても眉ひとつ動かさず堂々と座った姿を見た者は、ああこれはやはりかつて龍遊最強と言われた虚淮なのだと息を呑んだという。
しかし当の虚淮は、無表情を崩さぬまま、内心ではやれやれという思いしかなかった。刑が執行されるということより、取り調べだなんだというわずらわしさがこれで終わるんだという思いの方が強かった。しかしまあ、中途半端なことだ。事情聴取の際に虚淮があまりにも無口を決め込み、意識も口も閉ざしたことに手を焼いた館の妖精が、困った挙句にあんな判決になったのだろう。追加供述すれば減刑も云々などと、まったくばかばかしい。言葉にして伝わるものなど、自分の中にはもはや何もない。どんな言葉を紡いでも、現実はなにも変わらない。だから虚淮は、判決の場で即座に、自分の発した言葉は何ひとつ変えるつもりはない、と言った。黒衣の妖精は黙り、室内を静寂が支配した。
刑がどんなものであろうと、刑期が何年であろうと、虚淮は心底どうでもよかった。今となっては、そもそも生きていることがもうどうでもよかった。今の自分はからっぽだ。妖精用の施設の中で簡単に死ぬことはないのだろうが、死んだように生きているというのはまさにこういうことを言うのだろう。生きている理由なんて大してなかった。少し前に、このまま消滅しても良いと口にしたら、舘の妖精がそれでは洛竹と天虎が悲しむだろうと諭してきた。あいつらを悲しませないために生きる、というのが、虚淮がここに存在する最後にしてただひとつの理由だった。
判決の後、何か言いたいことはないかと聞かれたので、虚淮は訊ねた。
「その刑は、私が人間社会に危害を加えないように隔離する意味合いだと理解したが、間違いないか」
黒衣の妖精は首肯した。
「はい。妖精館はあなたを痛めつけたいわけではないのです。期間は長いですが、そのぶんそれなりの環境を用意します」
虚淮が連れていかれたのは、窓の大きなだだっ広い部屋だった。高すぎる天井が寒々しさを際立たせている。天井から床まである巨大な窓にはロールスクリーンがかけられ、半ばまで下されていた。やや曇った窓に、角の切断された自分の立ち姿がぼんやり映る。どおりで歩くとバランスが取りづらいわけだと得心した。窓のそばには薄墨で描かれた水墨画の衝立と、同じく墨絵の描かれた行灯が置かれていた。窓辺にある白い陶器の筒からは、活けられた大きな枝が張り出している。人間の単身住まいを模したようなこれは、どう考えても牢ではない。衝立と反対側に置かれているのは古風な造りの長方形の座卓で、案内の妖精はその焦げ茶に磨き上げられた卓面へ平べったい電子機器を置いて言った。
「なにか不足や希望あれば言ってください。当分は日に何度か館の妖精が来る予定ですので」
立ち去ろうとする妖精の背に、虚淮はぼそりと声を投げた。
「不足はない。希望はある」
「なんでしょう」
妖精が振り返る。虚淮はここのところずっと考えていたことを告げた。
「私の刑はここに居ることだと聞いた。物理的にここに存在すれば、他は自由だな」
「はい。霊力と術の使用は制限されますが、この部屋は集霊は十分にできるよう設定されています。この部屋の中でしたら自由に過ごして頂けます」
「では頼みたい。館には他者の意識を操るような妖精がいるだろう。そいつに、私の意識を操ってほしい」
驚きの表情の妖精を見上げ、虚淮は表情を変えずに続けた。
「二百年前に私の意識を戻してくれ。偽りの現実を見せて過去の中にいるよう錯覚させるくらい、お前らならできるのだろう」
もう現実を生きていたくない。
これが虚淮の結論だった。館が生を強制するのなら、物理的に生きていることはできる。ここに居ることであいつらが悲しまず生きていけるのなら、存在を維持させることはできる。だが、この現実を現実としたまま、ただひとり生きていくというのは、どうにも耐えがたいのだった。
後日、案内の妖精が連れてきた妖精は、自分は心霊系なのだと名乗った。
「この術は、あなたのコンディションによって効果が変わります。すぐに目覚めてしまうこともあれば、数日間非現実の中を彷徨うこともあります。よろしいですか」
「承知した」
「では、戻りたい頃の記憶を思い浮かべてください。私がそれを取り込み、私の気としてあなたに戻します。あなたは普段霊気を集めるのと同じ要領で座っていてください」
心霊系の妖精は歌うような調子で滔々と述べると、座を組んだ虚淮の頭上に両手をかざした。虚淮は目を閉じ、言われるままに瞑想の体勢を取った。
やや俯き加減で閉眼していると、やがて瞼の外がうっすら明るくなってきた。朝のようだ。現実のほうは夕刻だったので、これはもう記憶の中なのだろうか。集中する意識の片隅でそう考えていると、すぐそばで派手な音が聞こえ、虚淮は思わず薄目をあけてしまった。水に大きなものが落ちたような、ばちゃん、という音だ。続いて水しぶきが一滴二滴と顔にかかり、それから耳に飛び込んだ声に虚淮は目を大きく開いた。
「取れた! シューファイ、取れたよ!」
見れば幼い風息が、半身池に浸かりながら蓮の茎を掲げて満面の笑みをたたえている。
「早く上がれ。また溺れるぞ」
風息の笑顔につられた虚淮は、柄にもなくゆるゆると口角を上げながら言った。それから伸ばされた手のひらを取り、ぐっしょり濡れた小さな重みを引き上げる。
この後はどうしようか。まずは身体を乾かさなくては。いい匂いのする草はらがいい。蓮の実が大好物の風息は、草の上を転げながら戦利品を堪能するだろう。シューファイも食べて、とひと粒渡してくるかもしれない。いつもは不要と断るのだが、もしそうなったら食べてやろうか。今日くらいは。
ああ、今日は、空が青いな。
46.ある霜降2 / 洛竹、虚淮
氷雲城で再会した兄は、別人のようだった。
事件後、舘の管理下に入ることを条件に比較的早い時期に釈放された洛竹とは違い、兄の虚淮は二百年という長い刑期の懲役囚として氷雲城へ送られた。洛竹との面会がようやく許されたのは、何十年も経ってからであった。
牢と言うには豪勢な、しかし独りで暮らすには寂しすぎる広くて薄暗い部屋に案内された洛竹は、その窓辺に座る虚淮を見て言葉を失った。角を切られたことは聞いていたので覚悟していた。囚人であるのだから簡素な服であることも想定内だ。しかしそんなことよりも、根本的な虚淮の変化が洛竹を打ちのめした。
「虚淮……?」
瞑想の体勢を取っている虚淮に声をかけるが、虚淮はぴくりとも動かない。近づいて肩を腕をぺたぺたと触ってみる。肩をゆすって顔を覗き込み、もう一度名前を呼ぶと、虚淮はびくりと肩を震わせてからゆっくりと目をあけた。洛竹を一目見て、驚きの表情を浮かべる。子猫だと思って手のひらに乗せていたものが、実は自分の何倍も大きな虎だったかのような驚き方だった。
「洛、竹?」
掠れた声で虚淮が言い、次いで表情がいつもの冷静な虚淮のそれに戻っていく。よく知っている虚淮の顔だ。見た目で違うところは角と服装だけで、表情も体格も元のまま。気の補充もできる部屋なのだろう、気が枯渇していることもなかった。しかし洛竹には、虚淮の生気がほとんど失われていると感じた。虚淮の顔を両手で挟んで視線を合わせる。霊質の輪郭がぼやけていて、色あせている。虚淮を形造っていた確固たるものが失われ、針の先でつついただけで全てが崩れてしまいそうに脆くなっていた。目が合っていても、喋っていても、肉体と精神が此処に存在するという確証がない。
「虚淮、なん、で」
無言で見返す虚淮に、洛竹の声は震えた。なんでだ。これはどういうことだ。虚淮の核が削れに削れて、もうほとんど残っていないかのようだ。どうしてこんなことに。氷雲城は安全なんじゃなかったのか。隔離しているだけだと言っていたくせに。
疑問はふつふつと湧く怒りに変わる。お前ら、と洛竹は口の中で言い、振り向いた。
「お前ら、虚淮になにをした!?」
俺の兄に。たったひとり生きている兄に。何をした。何を――。
「よせ、洛竹」
頭に血が上って館の妖精に掴みかかる勢いの洛竹を虚淮が止めた。腹に響く低音はいつも通りなのに。なのに。
「私は何も、変わらないだろ」
「変わらなくないよ! こんなになって……消える寸前みたいじゃないか」
口に出したら目が熱くなり、みるみる涙が溜まっていった。膝をついて肩を掴む。
「館のせいじゃない。私が頼んだ」
「どういうこと」
「過去に飛ばしてもらっていた。偽りの現実に」
虚淮が洛竹を見てうっすら微笑んだ。めったにみることのない表情だ。それすらも、この世のものではないような薄寒さを感じて、洛竹は眉を寄せた。
「許せ。私がいなくなったら、お前たちが悲しむだろう」
洛竹の眼球を覆う涙が、虚淮の輪郭をゆがませた。いなくなったら俺たちが悲しむから? だからこんなになってまで生きていたというのか? 存在を維持するために、自ら偽りの現実に身を置いていたというのか。壊れないために。でも生きているために。
さっきまで怒りに燃えていた体が急速に冷えていく。溢れた涙が頬を伝って、ほとほとと床に落ちた。
「虚淮は、どうしたいの」
震える声で問いかける。
「私は、お前たちが生きていけるなら、なんでもいい」
虚淮の淡々とした声が部屋に落ち、洛竹は思わず兄を抱きしめた。
俺たちのためにこんなになるなんて。もうやめてよ。なんでもいいなんて言うなよ。俺にできることはないの? 俺たちと一緒に生きることはできない?
いろんな言葉が頭を渦巻き、でも一方で虚淮の気持ちは痛いほど理解できた。だから結局、洛竹はそのどの言葉も選ばなかった。選べなかった。だって、もう、どうしようもなかったのだ。
「もういいよ」
洛竹は虚淮に抱き着いたまま、目をゆがませてぽつりと言った。
47. 誕生日 / 虚淮、洛竹、天虎、風息
虚淮はどうする? と洛竹に聞かれたのは、ようやく夏の気配がなりをひそめ、乾いた風が金木犀の香りを運ぶ頃だった。
今年も小黒の誕生日会が催されるらしい。兄弟を代表して、洛竹が無限から招待を受けたようだ。気遣い屋の洛竹が、気が進まなければ俺と天虎だけで行ってくるよと先回りして言ってくれたが、そう言われて行かないというのも大人げない気がし、虚淮は行く、と返事をした。とはいえ虚淮は人間の文化にとんと疎い。行くだけでいいのか、行って何をするのか、何か持っていくのか、どんな格好ならいいのか。概要から些細に至るまで、まるでわからないのだった。そう告げると洛竹が、俺に任せて! と胸を張った。洛竹は花屋で働き出してから、人間の文化をぐんぐん吸収している。
会は昼からだが、虚淮と天虎は朝から洛竹のところへ集まって用意をした。虚淮が着いた時には焼き菓子の甘い匂いが部屋中に漂っていて、天虎がその飾りつけに腕を振るっているところだった。菓子が一段落すると、三人は新調した揃いの着物を着付け合い、贈り物を紙袋に詰め、虚淮だけは贈り物を手に持って出発した。
虚淮の贈り物は、洛竹が用意してくれた。風船の中に、更に小さな黒猫の風船が入っている珍しいもので、紐を持って頭をつつくとほよんと空中に浮遊する。外に出ると、澄んだ青空のもとふわふわと揺れる様はずいぶんと可愛らしく、道ゆく人間が振り返っては微笑んで通り過ぎた。
辿り着いた誕生日会会場は、すごい熱気に包まれていた。壁にはたくさんの飾りつけがなされ、天井からは色とりどりの紙で作った輪っかがたくさん連なって垂れ下がっている。すでにたくさんの人間や妖精がひしめき合っていて、それぞれ会話をしたり笑い声を立てたりしていた。テーブルの上には所狭しとご馳走が並び、昔ながらの茶菓子や麺、点心に混じって、若者らしいセンスの派手な彩色の菓子や、ジャンクフードの揚げ物の匂いが充満していた。部屋の奥では、紙の冠を被った小黒が頬を上気させている。各々が贈り物を小黒に渡し、目をきらきらさせた小黒がその包みを開け、そのたびに歓声が上がった。傍らでは無限が満足そうに佇んでいる。
「すごいな。小黒、嬉しそうだ」
洛竹が同じ光景を見ながら、自分のことのように目を細めて言う。
手渡される贈り物。『おめでとう』と『ありがとう』の応酬。そこら中に溢れる熱気と笑い声。それらを全身に浴び、虚淮は圧倒された。
誕生日おめでとう、というのは、産まれてきたことを言祝ぐものなのだと聞いた。産まれてきてくれて、今も元気にここにいてくれて、良かったと祝うこと。ここにいる者が一人残らず笑顔なのは、小黒の誕生を喜んでいるからなのだ。
洛竹のくすぐったいような笑顔に、虚淮はそうだなと返し、自分も薄く笑った。
誕生日か。考えたこともなかった。いつの間にか仲間になって、傍にいるのが当たり前だった。妖精は長命な上、怪我も病気もない。だから、年を重ねるごとに祝うなんて発想は自分にはまるでなかった。もしそんなことをしてやっていたら、もっと何か違っただろうか。帰れる場所が、自分を育んだ大地だけではなく、交流する他者の中にもあるのだと。産まれてきて、今も生きていることそれだけで、喜んでいる者がいるのだと。
その考えは、もう考えるのはやめようと決意したはずの虚淮の胸の奥を、きゅうっと絞るようだった。
「洛竹」
虚淮は、贈り物を渡す列のひとつ前にいる洛竹の肩をつついた。あと三組ほどで自分の番だとそわそわしていた洛竹と、その前に並んでいた天虎が振り向く。
「悪いが渡しておいてくれ」
虚淮は風船の束を洛竹の手に押し付けると、くるりと背を向け部屋を出た。え、虚淮!? と慌てるふたりを振り返らずに扉を閉める。
外はさっきと同じよく晴れた午後で、虚淮は軽い足取りでかの公園に向かった。
「へぇ、小黒の誕生日だったのか」
公園の大木のてっぺんで、虚淮と並んで座りながら風息が言った。
この木の上は見晴らしがいい。ここからは公園も、もっと遠くの商業施設も住宅地も、おそらく人間が植えたであろう点在する緑もよく見える。虚淮は時々ここへやってきて、こうして風息と話をしている。
「皆で小黒に贈り物をやっていた。誕生日とはそういう日らしい」
「小黒、楽しそうだったか?」
虚淮が言うと、風息が聞いてきた。どんなだったか気になるらしい。
「ああとても。小黒も、それから無限も、幸せそうだった」
「そうか。よかった」
猫のように伸びをしながら風息が言う。
「……私は、お前に何か贈ってやったことはなかったな」
虚淮がぽつりと言った。遠くを見ている虚淮の顔を風息が覗き込む。
「どうした、虚淮」
「人間の風習を見て、いいなと思った。お前の幼い頃にやってやればよかったと」
「贈り物を?」
「ああ。誕生日には、産まれたことを祝い、ひとつ季節が巡って成長した姿を喜ぶんだと。私はお前の傍にいたが、漫然と傍にいただけで何もしなかったから」
一瞬の間の後、風息はぷっと吹き出すと、なに言ってんだよと声を立てて笑った。笑うようなことを言ったつもりはなかったのでまったく心外だったが、風息には可笑しかったらしい。
「そんなことないよ、虚淮」
笑いが止むと、風息は虚淮に向き直り、虚淮の片手を取って言った。
「虚淮にはたくさんのものを貰った。ずっと傍にいてくれて、たくさんの時間を一緒に過ごした。最後まで俺を信じて、着いてきてくれた。もっと欲しいなんて言ったらバチが当たるよ」
「バチか。人間くさいな」
「はは、そうか?」
顔を合わせて風息が笑う。ふたりの乗った枝が揺れ、近くに巣を構えている小鳥が数羽、パタパタと羽ばたいていった。
傾いた太陽が地平線を金色に染め、やがて朱の境界が紫を経て薄紺色の空になる頃、虚淮はふと言った。
「お前の誕生日はいつなんだろうな」
風息が空を見上げて考える。
「うーん、虚淮と出会ったのは夏なんだろう?」
「ああ。お前が勝手に懐いてきて、私の寝床までついてきた」
あの日の風息は黒くて小さな獣の妖精で、気まぐれに撫でてやるとごろごろと喉を鳴らしていた。冷たい手が気持ちよかったんだろう。
「じゃあ夏が誕生日ってことにするか」
風息が思いついた口調で言った。
「適当だな」
「なんだよ、祝う口実がほしいんだろ?」
「確かに。じゃあそうするか」
意見が一致したところで、虚淮は首を反らして視線を空へやった。刻一刻と濃くなる紺の中に、ちらちらと星が瞬き出した。吹く風はもう秋で、夏の気配は残っていない。
虚淮は手の中に気を高め、それから氷で蓮の花をこしらえると、風息に差し出した。
「もう過ぎてしまったが。誕生日おめでとう、風息」
48. 不再流浪 / 風息
取り戻したはずの楽園が消える。
やめろ、やめてくれ。
ようやく帰ってこられたのに。
ようやく息ができるようになったのに。
こんなに無様な人工物に覆われてもなお、
その下の地面は温かく懐かしい。
おかえり、おかえり。帰ってきたね。
ずっとずっと待っていたよ。
疲れたでしょう。ここでおやすみ。
ああ、そうだ。
やっとやっと、帰ってきたんだ。
ただいま、俺の帰る場所。
49. 洛竹が虚淮と再会する話 / 洛竹、虚淮
薄暗い廊下の突き当りにある厳重な扉の前で、洛竹は立ち止まった。
ここは氷雲城、妖精館の管理する罪人の収容施設だ。牢と言っても普通の室内だから心配いらない、と他の執行人に聞いてはいたが、やはりこの雰囲気は重苦しい。この向こうに兄がいるというのに、久しぶりすぎて嬉しさよりも緊張が勝っている。
洛竹は意を決して冷たい扉に手をかけると、反対の手で扉を叩いた。
「虚淮」
返事はないが扉を開けると、重い手応えの後に目に入ったのは、事前情報以上にしっかりとした部屋だった。広々とした空間の向こう側に巨大な窓が並んでいて、一鉢だが植物もあり、衝立や行灯、卓の上にはタブレットのようなものまである。それらがなんの秩序もなく散らばって置いてある中心に、虚淮が背中を向けて座していた。
入るよ、と言いながら靴を脱いで上がると、虚淮が振り向く。かつては立派だった角が、額の近くで無くなっていた。短くなった角のことは聞いていた。聞いてはいたが、目の当たりにするとやはり胸がぎゅっと痛んだ。
虚淮は、大して驚いた様子もなく淡々と、洛竹か、と呟いた。うん、と答えながらぎこちなく近づく。今までに何百回と思い描き、何度となく夢に見た虚淮との再会は、描いていたような感極まったものではなく、至極あっさりとしたものだった。すぐさま抱き着きに行けないくらいには、二人の間には長い長い孤独な時間が横たわっていた。
「俺、執行人になったよ」
思い切って言ったら唇が震えた。本当のところ、虚淮がどんな反応をするか不安だった。罵倒されてもしかたないと思っていた。口数の少ない虚淮が誰かを罵倒するところなんて見たことはないけれど、そんな天変地異みたいなことが起こってもおかしくないと思っていた。あるいは罵倒されなくても、嘆かれるかもしれない。裏切り者と冷たく言われるかもしれない。口を聞いてくれないかもしれない。自分はそれだけのことをしたのだと思っていた。罵られても嘆かれても当然だ。でも、と洛竹は拳を握り、何度も反芻した考えも改めて握りしめた。それでもいいのだ、会えさえすれば。
「だからここへも来られるようになった」
震えそうな声でそう告げると、虚淮は表情を変えずに小さく頷き、扉の横にいる看守に、話しても? と許可を取った。看守が黙って扉を閉めると、虚淮は洛竹を座らせて自分は立ち上がり、壁際に置いてある小さな機械のスイッチを入れ、どこからか茶櫃を出して戻ってきた。洛竹の視線に気づいた虚淮が言った。
「囚人だというのに、至れり尽くせりだろう」
虚淮が茶器に葉をさらさらと入れると、青い香りがかすかに匂った。
「手付かずの茶葉なんて放っておけばいいものを、執行人が定期的に変えていくんだ」
それから窓際へ行き、ロールスクリーンを巻き上げる。見晴らしはいい、と言う後姿が以前よりも小さく見えるのは、囚人用の着物のせいか、それとも実際小さくなってしまったのか。
やがてさっきの機械のスイッチがかちりと切れると、虚淮は戻ってきて茶器の上で機械を傾けた。小さな機械は電気ポットだった。快い音を立てて湯が落ち、大きな湯気が立ち上る。
「もうずいぶんここに居るが、これを自分で使うのは初めてだ」
訪ねてきた人物のためにいそいそと立ち働く虚淮というのがめずらしくて、洛竹はなんだかそわそわしてしまう。うん、とか、へえ、とか当たり障りのない相槌を小さくうつことしかできない。あんなに待ち望んでいた再会なのに。話したいことはたくさんあったはずなのに。
そんなことを考えていたら、いつの間にか虚淮が横に座り、茶杯を差し出していた。受け取ると虚淮ももうひとつの茶杯を取り上げる。
白い湯気がふたつ、暗い部屋の中に揺れた。
「何年ぶりだ」
虚淮が尋ねる。
「どうだったかな」
ぼんやりと洛竹が答える。あまりにも忙しい日々だったので、もうそんなことは忘れてしまってた。
「執行人か」
「うん」
訥々とした会話に、差し挟まる沈黙。以前なら、口を挟めないくらいの勢いで洛竹が喋り、合間に虚淮がひと言ふた言話すのみだった。今日はすっかり立場が逆転している。
「天虎は、どうしてる」
「こないだ会ったよ。ずいぶん前に釈放された。今は館管理の近くの森に住んでる」
「そうか」
また沈黙。しかたがないので茶をすする。ほっと落ち着く香りが広がった。
やがて沈黙を破ったのは虚淮だった。
「お前が執行人を目指すと聞いた時は、驚いた」
「そう……だよね」
「舘の妖精に、洛竹は執行人になることを選んだのだと言われた」
虚淮が鼻に皺を寄せて言い、洛竹はうん、と小さくうなだれた。
「奴らはお前に、館の管理下に入り執行人になれば私や天虎と会えるのだと言ったそうだな。そう聞いた時は、奴らに対してはらわたが煮えくり返ったぞ」
「はら、わた?」
「……昔風息に聞いた。怒りが頂点に達した時はそう言うんだと。人間の内臓だというから、私にはそもそもない物だがな」
「はは、そうだね」
洛竹の掠れたような笑い声が薄暗い部屋に響く。虚淮の方を見ると、虚淮の表情もこころなしか柔らかくなったようだった。少しずつ少しずつ、部屋に温度が戻ってくる。
しばらくの沈黙の後、茶をすすってから虚淮が言った。
「執行人になるのって、大変なんだろ」
「うん、そうだね。いろんな修行をした。正直きつすぎて覚えてない」
「そうか」
「でも体より、気持ちの方がしんどかったな。俺なんで執行人になんてなるんだろうって、ことあるごとに思ってた。俺たちを故郷から追いやって、風息を追い詰めて、天虎と虚淮を閉じ込めた館の執行人に自分がなるなんて。俺たちがされたようなことを、俺も他の妖精に当然みたいな顔してするのかなって。あんなに憎んでた館の妖精に自分がなるのかって」
喋りだしたら止まらなくなった。
「そんなことを考えた日は、気持ちが悪くてこっそり吐いてた。食べてても吐いたし、食べてなくても吐いた。腹も胸も引き攣れて痛くて苦しくて、しまいには疲れて眠って」
孤独に修行した日々のことは、まだ生々しく自分の中に残っている。
へこたれるな。兄弟に会うんだろ。そう自分を叱咤してここまで来た。体も心もヘトヘトで眠ると、決まって昔の夢を見た。夢の中の自分は子供で、虚淮と風息がいて、遊び疲れて寝転がった俺と天虎を二人が撫でてくれて。背中を撫でる温かい手と額を覆う冷たい手に、俺はすっかり安心して眠ってた。でも起きたら現実で、その度に落胆した。
「執行人になった今でも思う。俺なにやってんだろって。風息を裏切ってるような気持ちになる。虚淮と天虎に会うためだって自分に言い聞かせてたけど、こんな俺を見たら虚淮が怒るかなとか、風息が悲しむかなとか、そんなことばっかり」
洛竹の口から、さっきまでのぎこちなさが嘘のように後から後から言葉が連なる。ずっと誰にも言えなかった想いが迸る。
「虚淮、俺のこと怒ってる? 裏切者だって思う?」
「いや……お前はよく頑張った」
洛竹の丸めた背を、虚淮がそっと撫でた。冷たいのに温かい、懐かしい手だった。
「洛竹は、強いよ」
虚淮の言葉に、鼻の奥がつんとして、目にじわりと熱い涙がにじむ。もうこのまま虚淮の手に甘えて泣いてしまおうか。そう思った時、虚淮が脈絡なく言った。
「ところで洛竹、舘に居場所はできたのか?」
「居場所? うん、部屋を用意してもらっててさ。あの、風息公園の近くなんだけど」
一瞬何を聞かれたのかわからず、それから慌てて言い直す。
「あ、居場所って周りの妖精とうまくやってるかってこと? ……うん、まあ、多少話す妖精は、いる……かな。何人か。そんなに深い仲ではないけど」
「困った時に頼れるか。嬉しい時にともに笑えるか」
虚淮が珍しくずいと踏み込んできたので、洛竹はたじろいだ。
「ええ? うんまあ、多少は、ね。もちろん虚淮や天虎とみたいにはできないけど」
当たり前だ。過ごしてきた時間も密度も違う。俺のことを誰よりわかってくれるのは、兄弟たちのほかにない。そんな気持ちを込めて言うと、虚淮はいつものように「そうか」とは言わずに、じっと顔を見つめてきた。少なくとも五秒は動かなかったと思う。こちらもつられて止まっていると、映像の一時停止みたいになっていた虚淮が、ふ、と笑った。兄弟たち以外にはわからないであろう、微かな微かな笑みだった。はるか昔に龍游の森で見た、穏やかな笑顔。
「そうか。よかった」
虚淮はそう言うと、両腕を広げて、おいで、と言った。
「洛竹、おいで」
途端に洛竹の両目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。弾かれるように腕の中へ飛び込む。しがみついた兄の背中は、相変わらず薄くて小さかった。漏れる嗚咽を抑えもせずに、洛竹は声を上げて泣いた。会いたかった。ずっと、ずっと会いたかった。あの日屋上で別れてからずっと。ようやくここまで来られた。もう二度と離れない。
幼い子どものようにわんわん泣く洛竹を、虚淮はその泣き声が小さくなるまでずっと抱きしめてくれていた。
「洛竹」
それからどれくらい経っただろう。涙は落ち着いたものの、まだ虚淮の背中にしがみついて顔を伏せている洛竹に虚淮が言った。洛竹は鼻をすすりながら、なに、と返事をする。虚淮は、よく聞きなさいと前置きをしてから、信じられないことを口にした。
「お前は、もうここへ来てはいけない」
思わず身体を離し、両肩を掴んで顔を見る。頭の中に疑問符が浮かぶ。なぜ? せっかく会えるようになったのに? やっとここまで来られたのに?
混乱が表情にも出ていたのか、虚淮はいつもの低音で、落ち着けとたしなめた。
「お前は兄弟に会いたいと願って、自分の努力でその権利を勝ち取った。お前は成し遂げた。誇っていい」
それから虚淮は、洛竹の胸に自分の両手を当てると、目を閉じて両掌を合わせ、その手をそのまま自身の胸元に引き寄せた。そして深呼吸をした後、その両手を自身の胸に重ねた。
儀式めいた謎の行為に洛竹が目を瞬かせていると、虚淮がその視線を捉えて言った。
「お前が先へ進むのを邪魔しているその罪悪感は、私が引き受けた」
「え?」
「舘を憎みながら館に所属する矛盾も、館にも心を許せる者がいることも、それを心苦しく思う気持ちも、全部私が受け取った。お前はもう、手離していい」
虚淮は真顔で言い、それから少しだけ目元を緩めた。
「お前は裏切ってなんかいない。お前がすまなく思うことなんて何ひとつない。お前が一所懸命に歩いてきた道を、私も、風息も、決して怒ったりしないよ」
一度止まった涙がまた溢れ出す。緩んだ涙腺から、ぼたぼたと大粒の涙が落ちた。
手離してはいけないと思っていた。手離すことそれ自体が裏切りのように感じていた。
「お前は、もう、選んでいい」
虚淮が含めるように言う。
「もうお前は、自分の居場所を自分で決めていい。兄弟のところでも、新しくできた仲間のところでもいい。両方でもいい。洛竹が洛竹らしく生きられる場所を選べばいい。お前が何を選んでも、誰も文句は言わないよ。だから、いい。お前は未来を選んでいい」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、虚淮が両手で挟んで言った。熱い頬に、冷たい冷たい手が温かい。洛竹は小さく頷いた。
「お前がどこでどうやって生きていきたいか、お前がちゃんと選んだら、」
虚淮は一旦言葉を切って、微笑んだ。
「その時はまた、ここにおいで。いつでも待っている」
うん、うん、と、洛竹は幼い頃のようにただこくこくと頷いた。
50. 洛竹が虚淮と再会する話二 / 虚淮 ※攻撃的な虚淮がいます。解釈違い注意。
日没頃、洛竹はひとりで帰っていった。
泣き腫らして赤くなった目を三日月の形に細めて、これからどうするか自分で考えてみるよ、と白い歯を見せて微笑んだ。なるべく早くまた来るからね、とも言っていた。子どものように手を振る洛竹に、つられてこちらも手を振り返した。
扉が重い音を立てて閉まる。連綿と続く果てしない暗闇に一瞬だけ光が射して、そしてまた元の闇に戻るのだった。ここは暗くて居心地が良い。自分にはこれくらいがちょうど良いのだ。あまりに強い光は何もかもを照らし出すから、欠けた穴もまた明らかになる。見て見ぬ振りができなくなる。
虚淮は先程座っていた場所に戻り、茶器と電気ポットをまとめると入口近くに運んだ。そのうち誰かが持っていくだろう。そうして振り返ると、洛竹が来たことなど嘘のように、そこはまたいつも通りの空間なのだった。
部屋の中央で座を組んで瞑想をする。が、意識を集中しようとしても、雑念が多すぎてすぐに目を開いてしまった。腕や胸に洛竹を抱きしめた感触がまだ残っている。洛竹の声も温かさも匂いも、涙の熱さも、すべてが懐かしかった。そういえば洛竹は、幼い頃はよく泣く子どもだった。派手に転んでは泣き、高所から落ちては泣き、暗闇で迷子になっては泣いた。よく泣くというと泣き虫のようだが、泣き虫とは違う。冒険心と独立心が旺盛でたいそうやんちゃな子どもだったので、泣くような目に遭う機会が多かったのだ。そこまで考え、虚淮は自らを戒めた。振り向いて思いを馳せてはいけない。過去に引き戻され、過去への未練がよみがえってしまう。
瞑想を諦めた虚淮は、さっきふたりで眺めた窓を見遣った。外はもう陽が落ち切って真っ暗だ。映る自分の姿もうるさく感じて、ロールスクリーンを床まで下ろす。
洛竹はまた来ると言っていたが、期待はあまりしないでおこう。洛竹が洛竹らしく在れる場所を、自分で見つけてくれればそれで良い。そしてその場所は、こんな厳重監視の囚人がいる薄暗い牢でないほうがいいのだ。洛竹には陽の光の中を歩いてほしい。それが何より似合う子だから。
虚淮は壁際に座り込み、首をそらして頭を壁に預けた。
洛竹が執行人になると聞かされたのは、もうだいぶ前のことだ。思い返せば、あの頃の虚淮は投げやりそのものだった。捕まった当初は怒りに任せて執行人に噛みついたり、隙を見ては術を使おうとして封じられたりしていたが、徐々にそういうこともしなくなった。時間が経ち、多少冷静さを取り戻すと、自分のすべきことはここに居ることなのだと思うようになった。洛竹や天虎の安寧のためには、そしてもういない風息のためにも、自分がここで捕えられていることが重要なのだと。とはいえ生きることは、億劫でもあった。物質霊である虚淮は、食べなくても生きられる代わりに集霊を必要とする。妖精用の収容施設である牢は、集霊が十分にできる構造にはなっていた。だが虚淮はそれをしなかった。しないことで緩やかな自死が可能なら、それもいいと思っていた。気を集めることをせず、一日中目を閉じて過ごす。それは一見静かなようだが、虚淮の胸の中には常に怒りが燃えていた。当初の燃え盛る炎のようではなかったが、燠火のように静かで、しかし消えることのない熱だ。初めのうちは代わるがわる妖精がやってきて、虚淮の気持ちや考えをどうにかしようと試みていったが、しばらくすると来るものはほとんどいなくなった。あまりの変わらなさに匙を投げたのだろう。それでいい。変わってやる義理などない。
そんなある日、虚淮の牢に執行人がやってきた。たまに来る執行人で、鑑定役だと言っていた。時折虚淮が閉眼しているところへやってきては、ひと言ふた言話をし、持参の電子機器になにやら書き込んで出て行く。退屈な日々のお決まりの出来事だった。だが彼はその日、洛竹は執行人になることを選んだと言った。
「嘘だな。あいつが執行人になどなるはずがない」
にべもなく言うと、相手は耳を疑うようなことを言ってきた。――嘘ではない。あなたたち兄弟に会いたいと言うので、執行人になれば会えると言った、と。
言葉の意味を理解した瞬間、虚淮は能力を解放していた。角を切られ術を制限された空間にも関わらず、部屋中の水蒸気が瞬時に凍る。壁から床から鋭い氷の棘が立つ。そして気づいた時には、執行人に掴みかかっていた。執行人は素早く自身の前に壁を作り、二本の指を顔の前に立てて術を発動した。虚淮の両手が見えない何かに拘束される。が、虚淮の右手はそれを引きちぎって自身の手を凍らせ、その鋭利な切っ先を相手の喉元に突き立てた。相手の守りと虚淮の刃がその攻防に震えている。
「お前ら……よくそんな卑怯なことができたな。兄弟を人質に取って、風息を殺したお前らの組織に入るように脅迫するなど。あいつが断らないことをわかっていて、よくも」
体の奥の燠火が瞬時に燃え盛り、腹の底から声が出た。相手は、ギリギリと殺気立った唸り声にも臆さなかった。相手が口の中で再度何かを小さく唱えた直後、虚淮の造った氷がすべて霧散し、形勢が逆転した。相手の術が今度こそ虚淮の四肢を拘束する。
「自分が何をしているかわかっているのか」
冷静な相手の言葉に、虚淮が唸った。許せない。許せない。許さない。睨みつけた視線の先に、かつての洛竹の笑顔が浮かんだ。奥歯をいやというほど噛みしめる。なぜ倒れた者を殴るような真似をする。風息を奪っただけでは足りないというのか。これ以上あいつらを傷つけるな。
虚淮は厳重な拘束に手足を震わせ、僅かに自由のある顔面を突き出して激昂した。
「出せ! 今すぐ俺をここから出せ! お前ら全員その場で氷漬けにしてやる!」
空気がビリビリと振動し、一旦消えた氷が再び薄く部屋中に広がった。執行人は無表情でこちらを見ると、手のひらを虚淮の顔に近づけた。やがて視界が暗転し、虚淮の意識はぷつりと途切れた。
今思えば、執行人が何かしたのではなく、突然の気の大量放出で自身の霊力が底をついたためかもしれない。ともかく次に気づいた時、虚淮は牢の寝床で横になっていた。目覚めて辺りを見回すと、そこはいつも通りの部屋で、自分の発した術の名残は全くなかった。全身が怠く、身の内にはただ落胆だけが残っていた。
洛竹の心が心配だ、とぽつりと思った。
その後も時折執行人はやってきては、短時間の会話をして去っていった。何事もなかったように。虚淮も静かに聞かれたことにだけ答え、執行人側もそれを受け入れた。あの時のことを言ってくる者は誰もいなかったし、自分もまた話題に上げることはしなかった。
そこでの日々は淡々と過ぎ、またそれが日常に戻っていった。ただひとつ変わったことといえば、集霊をするようになったことくらいか。洛竹のことが気がかりだった。執行人になることの是非はともかく、洛竹が執行人を目指す理由が兄弟に会うためならば、その日が来た時に自分がいないという事態は避けたかった。過酷な道を歩くことに決めた洛竹への、それが自分にできるせめてものことだったから。
そして今日。洛竹は想像通りの葛藤を抱えてやってきた。
苦しい思いをしているだろうことは察しがついていた。そこを取り除いてやろうと決めていた。この先、兄たちの示す道でもなく、舘に強要された道でもない、自分だけの道を探せるように。この葛藤さえ乗り越えられれば、洛竹はきっと自分で居場所を見つけ、そこで咲くことができるだろう。あの子は強い。あの子の素直さや率直な優しさは、周りの力を借り自分も力を貸しながら社会で生きる強みになる。
気付けば部屋は真っ暗で、灯りの灯った行灯がぼんやりと浮かび上がっていた。ここの行灯は暗くなると勝手に点灯する。四角い中に描かれている鳥の、一羽だけ離れて飛んでいるのを眺めながら、虚淮は風息に呼びかけた。
洛竹から受け取ったつらい苦しいやるせない気持ちの、現在の在り処である己が胸に両手を当てる。悲しくて苦しくて誰かに縋って泣きわめいてしまいたい小さな洛竹がそこにいる。
「洛竹はもう、大丈夫だ」
下の二人の弟たちには、健やかに明るい道を歩いてほしい。それだけが、自分に残された願いだった。ああ虚淮、と風息の声が胸に響く。そうだな、大丈夫だ。自分が造りだした幻の風息だと、わかっていても口がほころぶ。穏やかな気持ちで、虚淮はそっと両目を閉じた。
なぁ、風息。私たちは共に歩こう。いつまでも、どこまでも。月も星もない真っ暗な道だとしても、同じ罪を共に背負おう。もう二度と、お前をひとりにはしないよ。