@cuoria7721
始まりは、ミスラの呪術だった。
『あの人、いつも言ってるじゃないですか。『僕は僕のことに詳しくないんだよ』って。だからオーエンの怖いものを見せてあげたら、喜ぶかなと思ったんですが』
殺し合いを伴う友人?のために使われたその呪術は、相手の最も恐ろしいものを出現させる、心に干渉する呪術だと言う。魔法舎で突然オーエンに向けて行使された最大強度のソレは、<大いなる厄災>の奇妙な傷から戻ったばかりの彼に直撃し――
「うわ、なにこれ……?」
「???」
魔法舎五階の廊下でオーエンから小さいオーエンが分裂するという、魔法舎の歴史に残る珍事を発生させた。
***
「あれ、失敗しましたかね?」
きょとんと首を傾げるミスラに気づかず、オーエンは小さな自分を見て固まっていた。
オーエンと同じものを縮小した服。枯れ木のように細い手足。真っ赤な両目がやけに大きく見えるのは、痩せているからだろうか。ぺたりと座り込んでいて、立ち上がる様子もない。
小さいオーエンはしばらく目をぱちくりとしていたが、眩しがるように手で目を覆った。零した独り言は随分と古い言葉で、『まぶしい』と言っていたように聞こえる。
「俺の時はすごく口も利けて魔法が使えて精巧に動くチレッタが出てきたんですけど、これはほとんど話さないし」
オーエンがミスラに何を起こしたのか聞こうと思っても、舌が口の中に張り付いたかのように声が出なかった。目線も、小さいオーエンから外せない。ミスラはその様子に気づいていないようだったが、止まった事態を動かしたのは駆け込んできた双子だった。
「妙な呪術の気配がしたと思ったら!」
「ミスラ、そなた一体、何、を――オーエン?」
両方のオーエンが名前を呼ばれて反応する。大きい方のオーエンの顔にいつもの笑顔はなく、途方に暮れた顔をしていた。
『まぶしい、だあれ』
北の国訛りの古語に気づいた双子が、小さいオーエンの前で少しかがみ、同じ言葉で『どこから来たのじゃ』と尋ねる。小さいオーエンは3歳くらいに見える姿で、眩しそうに目を細めたまま『わかんない』と答えた。きゅ、と骨ばった手が双子の片方の服を掴んだ。
「少し魔法で楽にしてやろうかの……<ノスコムニア>」
魔法で柔らかい暗がりをオーエンの周りに展開してやると、彼は安心した様子で目を開いた。
「なんで、馬鹿な僕がいるの。ミスラ、僕に何をしたの?」
「知りませんよ。俺はただ、あなたの一番怖いものを出す呪術を使っただけです」
呪術の実験台にされて不満げな顔をしている大きなオーエンは、小さなオーエンに顔をしかめる。頭痛もするのか、こめかみを手で押さえて小さく呻いていた。
『僕のこと、外に出してくれるの?』
『ここにいれば、我らが守ってやるからの。安心するんじゃよ』
『我らはいい魔法使いじゃらかの』
もう双子が一度呪文を唱えると、小さいオーエンが現代語を話せるようになったことにミスラは気づいた。通訳の魔法だろう。
「小さい自分が、オーエンの『恐ろしいもの』なんですか?」
というミスラの呟きに言葉はなかったが、青ざめた顔がその証だった。
「妙な呪術の気配がする。お前か、ミスラ」
「うわ、何この状況……?」
魔法舎五階で起きた妙な呪術の気配にオズとフィガロが来た時には、カオスが広がっていた。小さいオーエンを撫でまわしてご満悦の双子、壁にもたれて調子の悪そうな大きいオーエン、そして「何か間違えましたかね……?」と呪物を出して魔法陣を書いているミスラ。
双子とミスラから話を聞いたオズから見ると、小さなオーエンは呪術の塊のようなものだった。身の内に持っている魔力が尽きるまで、この小さいオーエンは稼働する。ミスラが無駄に魔力を込めているため、それなりに長い時間の活動が可能な代物だった。
「俺が昔にこの呪術を喰らった時は、チレッタが出てきたんですよね。ガチギレしてた奴が。そのチレッタは俺のこと呪った魔法使いと俺をぶっ飛ばして消えていって、はた迷惑な呪術でした」
「そんなものを魔法舎の中で使ったのかお主は」
「というか何をやったらチレッタをそう怒らせたわけ?」
ん-、とミスラは魔道具の水晶髑髏をいじりながら過去に思いをはせる。
「確か、蘇生に手を出して死にかけた時の顔でしたね。物凄く怖かったです。多分、生まれて初めて怖いと思った瞬間でしたね」
「師弟愛じゃのう」
「まあチレッタが出てきたこと、何故か本人にバレてて……後で本人からもぶっ飛ばされましたがね。思い出したらムカついてきました」
「チレッタらしいのう」
双子の相槌をスルーしながら、ミスラは小さいオーエンに目線を向ける。
「こんなのが出るはずないんですがねえ。オーエンが弱ってる理由もわかりませんし」
「僕だって知らないよ……」
小さいオーエンからほぼ目線が動かない大きいオーエンのおかしな挙動が、ミスラには気味悪かった。
小さいオーエンの存在は、すぐに皆の知るところとなった。一人で部屋で待たせようとすると「ここから出して!」と甲高い子供の声で泣き喚くものだから、大きいオーエンが魔法で眠らせた時には下の階の魔法使いにバレたのだ。東の国の魔法使い達と任務に出ていた晶と、城に行っていたカインが戻った時には、小さいオーエンは存在が魔法舎中に知れ渡っていた。
「えーと、これは……」
「すまんのう賢者ちゃん、ミスラちゃんの呪術が傷のオーエンを出してしまいおった」
「我らのことをあまり覚えておらぬようだから、時々出てくる傷の人格とは記憶が繋がってるか怪しいがの」
こそっと双子が晶に囁く。食堂で小さなオーエンは、南の魔法使いに囲まれて固まっていた。大きなオーエンはその様子を、壁にもたれながら眺めている。少し顔色が悪そうなのが、晶には気になった。
「おかえりなさい、皆さん。この小さいオーエンさんと今、お話してたんですよ」
「騎士様!」
カインの腰に提げている剣に気づいて、小さいオーエンが駆け寄る。その小さい体が触れた時、カインの目に小さいオーエンが映った。
「えーと……オーエン?」
「絵本の騎士様だ!」
ケルベロスをけしかけたことを忘れているのか、その記憶を持たない人格なのか。カインにくっついて甘える姿は、何度か大きいオーエンの体に表出した人格のそれと同じだった。枯れ木のように細い手足は、栄光の街で見たことのない子供の姿だ。
「カインさんに懐いてますね。少し意外です」
オーエンの奇妙な傷の振る舞いを知らないルチルがのんびりとそう言うのを、晶は気が気でない思いで聞いていた。
「ところでこのオーエンは何歳くらいなんでしょうか。小さいし……3歳くらいかな?」
「僕は5歳だよ! もう絵本もちょっとなら読めるんだから!」
「いやどう考えても5歳の体型じゃないだろ……」
「ボクもそう思ってるんですが……」
カインの呟きにミチルも賛同した。栄養状態の問題じゃないかな、と察しがついたが、レノックスは口にしない。そんな彼の鞄から羊が一匹飛び出して、小さいオーエンの足元に擦り寄った。
小さな手が小さな羊を抱き上げて、こけた頬で頬擦りをする。
「もこもこ。もこもこ。あったかいねぇ」
楽しそうに羊を撫で回す姿は、いつかにオーエンが傷の人格になった時の反応によく似ていた。
「……なんだか、前にも似たようなことがあった気がします」
「気のせいじゃない? はぁ、馬鹿な僕が馬鹿なことを言わないか心配で気が休まらないよ……」
東の魔法使い達は小さなオーエンにしばらく固まっていたが、最初に動き出したのはネロだった。
「お前、腹減ってないか? なんか食うか?」
魔法舎のキッチンを取り仕切るネロが屈んで話しかけると、羊を抱っこしたまま小さいオーエンは「わかんない」と答えた。
「とりあえず、他の奴らに飯を作るからな。お前も食べられそうなら食べてくれ」
頷いた子供の腕の細さと肉の薄さに、ネロは他の魔法使い達の食事に追加して柔らかいパンや食べやすいものをいくつか用意することにした。
「あー、大きい方のオーエンは何か食えそうか?」
「クリーム」
「クリームだけかぁ……」
まあ仕方ない、と言いながら、手際よくネロはパンケーキを焼いた。食堂に集まっている人数分パンケーキを焼き、柔らかめのパンをいくつかと北の甘いルージュベリーを用意し、生クリームを泡立てる。ヒースやシノ、晶も手伝う姿を、小さいオーエンはじっと見ていた。
「騎士様、騎士様、あれは何をしているの?」
「みんなのご飯を作ってるんだ。もうすぐ食べられるからな」
「僕も食べていいの?」
「さっきネロがそう言ってたろ?」
小さいオーエンがカインに話す言葉が聞こえたのか、シノが一瞬目線をそちらにやる。けれどすぐに、ネロの手伝いに戻った。
「はい、お待ちどう。パンケーキだ。小さい方も食べられそうだったら、後で他のみんなのようにパンケーキ焼いてやるからな」
魔法使い達がそれぞれ食べ始める中、小さいオーエンは不思議そうにパンを見つめていた。
何の変哲もない、普通の、どこにでもあるパンだ。取り立てて高級な材料を使っているとか、製法に魔法が絡んでいるなどもない、ごくごく普通のパンである。温められたパンに触れたオーエンの手が、びくりと弾かれたように引っ込められた。
「これ、パンなの?」
そうですよ、と言ったのはリケだ。少し懐かしそうな顔をしているのは、自分も温かいパンを食べられるようになったのが魔法舎に来てからなのを思い出しているからだろう。
「ネロのパンはおいしいんです。ほら」
割ってあげると見知ったものになると思ってちぎってやると、ますます小さいオーエンは怪訝そうな顔をした。
「なんでこれ、白いの?」
「え」
魔法舎の空気が固まった。基本的にどの国でも、パンは白いものである。具入りであるとか、何らかの野菜等を練り込んで色付きのパンを焼くことはあるが、それを常食とすることはあまりない。
「じゃあ、いつもどんなパンを食べてたんだ?」
ん-と、えーっと、と小さいオーエンがやけに時間のかかる思い返し方をして答えた。
「パンはね、もっと黒くて、硬くて、冷たくて、もさもさしてるよ? 雪みたいに白くて、ふわふわしてて、あったかいの、パンじゃない」
(ライ麦パンかな?)
晶は元の世界で一時期食べていた味を思い返していた。そういえば、この世界ではあまり黒パンを聞かない。
「そりゃあ黒パンだな。ちょっとすぐには出せないから、それ食ってみてくれ」
「……うん」
ネロの言葉に(この世界にも黒パンってあったんだ)と晶は思ったが、今は言わなかった。恐る恐ると言った様子で小さくパンを齧った小さいオーエンの顔が、ぱあっと輝いた。
「すごい!」
「うん、よかったよかった。そっちはわかるか? 北のルージュベリーの甘い奴」
「んと……甘いって何?」
きょとんと首を傾げた小さいオーエンの言葉に一同が固まる横で、大きいオーエンは平然と甘い生クリームを頬張っていた。
大きいオーエンは生クリームのボウルを途中で放り出し、気分が悪くて蹲っていた。小さいオーエンを放置して自室に戻ることもなんとなくできなくて、魔法使いに常識を試されている幼い自分を眺めている。
「なあ、普段は何を食べてたんだ?」
「黒いパンと、ルージュベリーと、マーシアの実だよ。果物はね、動物たちが持ってきてくれるんだ」
小さいオーエンも動物と話ができるらしいな、とファウストがつぶやいた。
甘いルージュベリーを食べてみた小さいオーエンが、『甘い』という味を理解できなくて「へんなあじ…」と言って口から出してしまった。乳児が嫌いなものを吐き出すような仕草に、いくつも用意していたベリーは他のことに使おうとネロは考えを変える。
「じゃあ僕がもらう」
少し青い顔のまま、大きいオーエンが魔法で甘いルージュベリーの盛られた籠を小さいオーエンの側から取り上げた。
「ちょっとオーエン、そのベリーはネロが小さいあなたのために用意したものですよ!」
「だって甘いのが欲しいもの。それにこの馬鹿な僕に用意したって言うなら、僕が食べてもいいでしょ。これが食べられないなんて、もったいないし」
その動きにカインが少し訝しげな顔をしているものの、指摘する言葉は出なかった。
「あっ」
甘味を知らなくても、自分にと渡されたものを取り上げられたことは理解した小さいオーエンが声を上げた。
「人のものを取っちゃいけないんだよ!」
オーエンがこんなまともなことを言うなんて。その場にいた者達は、小さいオーエンの抗議に思わずそう思ってしまった。
「うるさい、お前は僕の顔してるからいいんだよ」
「いやオーエン、あんたの分も用意してるからそっちは小さいのに返してやれないか?」
ネロの言葉を無視して、大きいオーエンは北のルージュベリーを頬張った。あっという間に、その唇が紫に染まる。
「お前みたいな悪い魔法使いなんて、騎士様がやっつけてくれるんだから!」
「え、俺!?」
急に話を振られたカインが驚いて小さいオーエンを振り返ったのと、大きいオーエンの魔法の氷柱が飛んできたのはほぼ同時だった。カインが咄嗟に剣を抜いて砕くと、思っていたよりも脆い氷が粉雪のように舞い散る。
「あ、雪」
そう呟く小さいオーエンの細い腕を、シノが咄嗟に引っ張った。随分と久しぶりに感じる骨張った感触は、昔の自分もそうだったものだ。だから、力加減もわかる。
「あいつらの邪魔になる。こっちにいろ」
「う、うん」
何人かの魔法使いが結界を張り、巻き込まれないように若い魔法使いと小さいオーエンを守る。
ファウストの目にはちらりと、糸のようなものが一瞬見えたような気がした。だがそれを追いかけるより早く、大きいオーエンが使った氷柱の魔法がカインに砕かれて視界に散った。
(おかしい。そもそもこんなに簡単に、オーエンの魔法の氷が砕けるだなんて)
仮にも、文字通りに桁違いに長く北の国で生きた魔法使いの作った氷である。刃が立たない可能性だって考えていたのに、あまりに簡単に砕けてしまったのはカインにとっておかしいことだった。
「おい、オーエン! 何かおかしい、魔法を止めてくれ!」
「うるさい……」
ゆらり、ゆらりと動くオーエンの歩き方は、いつもと違う。体調が悪いのかふらついていて、常にある自信や自負のようなものが感じられなかった。こんなの、北の魔法使いの戦い方ではない。それは、カインにもわかった。この戦いには、彼らが重んじる矜持がない。
「カイン、オーエンを気絶させた方が早い。魔法はダメだろうから、いっそ殴って意識を飛ばしちゃって」
「さらっとひどいこと、言うな、フィガロ!」
とはいえ、それしか方法がなさそうなのも確かだった。
カインはなんとか近づいて、鞘に入ったままの剣でオーエンの腹を殴りつける。
「ぁ……」
殴りつける直前に、オーエンがすでに倒れ掛かっているような気がしたのはカインの気のせいだろうか。糸の切れた操り人形のように倒れた大きいオーエンを受け止めて、カインはその軽さに驚いた。本当に成人男性の体格なのだろうか。
「すごい騎士様! 本当にやっつけてくれたんだ!」
にこにこと笑顔でカインに賞賛の声を上げる小さいオーエンの姿が、カインには少し不気味だった。
「小さい方のオーエンは?」
「リケ達が面倒見てる。意外とシノがお兄ちゃんぶってるな」
「大きい方は?」
「さっき、フィガロが部屋に放り込みに行ってた。もう戻ってくるだろう」
400歳以上の大人達が集まって、話す議題は大小のオーエンのことだった。
「俺が使った呪術をちゃんとさらってみたんですが、やっぱりあんなのが分裂するものじゃなかったんですよね。あの小さいのが『オーエンにとっての恐ろしいもの』だということになります」
「……あれだけの魔力を込めて作られた魔法生物だ、消えるまで数日はかかるだろう。あのオーエンが魔法を使えば、消耗して消えるのも早くなるだろうが」
オズの呟きに「とはいえあのサイズだと、大した魔法は使えぬじゃろうな」とスノウが返した。
「自然消費で消えていくのを待つのがよいかの。所詮、元は呪術じゃ。食事で魔力が回復するわけでもなし、心を豊かにして魔力が回復するわけでもない。オーエンなら悪意じゃろうがな」
「オーエンであってオーエンでないなら、ぶっ殺したら消えるだろうが……やるか?撃てば一発だろ」
「東の先生としては、シノとヒースにそういうものは見せたくない。あと、個人的にはあのオーエン達を見ていて、気になることがある」
その時、ちょうどフィガロが戻ってきた。シャイロックから受け取ったドリンクを口にしつつ、「何が気になるんだい?」とファウストに尋ねた。
「……大きい方のオーエンが、カインを襲った時のことだ。うまく言えないが、何かが妙だった。そこに、何かがあるのかもしれない」
「ああ、いきなり食堂で魔法を使うほど暴れたのは初めてだったよね。さすがに俺も驚いたよ。咄嗟に殴れと言っちゃったけど、あれで大人しくなってくれてよかった」
「カインが、少し訝しげな顔をしていた。後で確認しよう」
北の魔法使い達とオズが魔法に関する考察の話を始めた横で、ふと思いついた内容を聞こうとファウストはネロに「ちょっと聞きたいことがある」と尋ねた。
「黒パンってなんだ」
「え。あ、あー……そっか、先生は知らないのか。北の国以外にはあまりない……らしいからな」
ファウストにそれを聞かれた反応は、妙に渋ったような顔だった。ブラッドリーがその様子を見て何かを言おうとしたのを目線でそれとなく止めて、ネロは答える。
「北の国って、魔法使いがいないと作物もまともに取れないのは、知ってるよな。魔法使いの力が弱いと、もっちり銀河麦が作れないかあまり実らないんだってさ」
「寒すぎてか……待て、それなら何を食べているんだ」
北の地と精霊は、生きる覚悟がないものを生存させない。魔法使いの加護は当人の力量に左右されるから、当然、あまり強くない魔法使いの元では麦のひとつもうまく実らないということがあった。
「なんて名前だったかな。挽いたら黒っぽい粉になる麦は、銀河麦より寒さに強いらしいんだ。それで作ったパンは、普通に作ってもうまく膨らまない。だから小さいオーエンが言ってたような、『黒くて硬くてもさもさする』パンになるんだってさ。けど、そういうものしかない、と」
ネロが生まれた家にいた頃、ろくでもない家庭で少ないパンを奪い合っていた。それは黒くて硬くて、ネロもそれが普通だと思っていたことを思い出す。白くて柔らかいパンを知ったのは、盗賊団に拾われてからだ。あれが最初に食べた白いパンだった。
「……食べ物のことになると、やっぱり君はすごいな」
回顧が少しだけ、ネロの目に滲んだのを、ファウストは見ないふりをした。この新しい友達は、嘘が下手だ。
「それなら、あのオーエンは貧しい育ちの可能性がある、と」
「クロエには、あまり会わせたくありませんね。あの子が辛いことを思い出すかもしれませんし。後、ムルは責任持って近づけないことにします」
「おや、クロエを心配してくれてありがとう、シャイロック」
柔らかく笑うラスティカのカップに、シャイロックは新しい紅茶を注いだ。
任務の入っていない時期だったこともあり、大きいオーエンと若い魔法使い達の何人か、そして年長者の誰かが小さいオーエンを見ていることになって、一日が過ぎた。小さいオーエンと大きいオーエンは、なんだかんだと(主に大きい方が)言いながら、一緒にいることが多かった。
『なんで僕が世話を焼かなきゃいけないわけ。僕はこの馬鹿な僕が何かしでかさないか、見張ってるんだよ』
そんなことを言いながら、いつもより死人のような顔で大きいオーエンはそう言っていた。顔色が悪いから休めと言われても嫌がり、小さいオーエンと同じ部屋にいる。何かを話すでもなく、ただそこにいた。
時折、大きいオーエンは小さいオーエンに文句を言った。いつもよりは毒気の抜かれた、少しだけ棘のある言葉。それを言われると小さいオーエンは嫌そうな顔をして、「やっぱりあれが大人の僕なんて違うもん!」と言うのであった。
「オーエン、お前、小さいお前のことが嫌いか?」
カインに聞かれて、大きいオーエンはわかりやすく顔を顰めた。
「きらいだよ。お前たちはこの馬鹿な僕に絆されてるみたいだけど、僕はあいつが嫌い。僕がこいつを好きになるなんて、ないよ」
その冷たい視線は、すやすやと眠る小さいオーエンに向けられていた。事実、何度かひどいことも言っている。
消し去りたいほど嫌いだと、吹雪のように冷たい瞳が語っている。なのに、その割にいつも小さいのを見ている。それがカインにはわからなかった。嫌なら見なければいいのに同じ空間にはいるし、小さいオーエンに魔法を使うこともない。ボタンを掛け違えたような違和感があった。
「それなら、なんで小さいお前の近くにいるんだ?嫌なら、姿を消してしまえばいいだろう」
「……騎士様は、小さくて馬鹿な自分が出ても平気なんだね。それがどんなに愚かで恥ずかしい振る舞いをしても、関係ないんだ。自分もまだ赤ちゃんだもんね」
なるほど、とある程度は納得できた。オーエンにそんなことは言われたが、カインにだって赤面するような幼児期の思い出のひとつやふたつ、ないわけではない。それを恥ずかしいと思えていない当時の自分が分裂したら、常ならぬ気分になるのも無理はないだろう。傷の人格が出ている時は常のオーエンはその言動を知らないが、今は自分の目の前で小さい自分が話しているのだ。それで、いつもと違う対応になる、のだろうか。
「少し、マナエリアに行くか横になったらどうだ? 小さいお前が出てきてから、いつもより顔色悪いぞ」
「関係ないでしょ、お前達が赤ちゃんらしく寝た後に行ってるよ」
カインは小さいオーエンのことも、大きいオーエンのことも知りたかった。この小さいオーエンが彼の傷だと、知っている数少ない一人として。けれど、大きいオーエンは今日もカインの手を拒絶する。気味の悪い笑顔にも、いつもより不気味さがなかった。北の祝祭の時を思い出す……おそらく本当に、具合が悪いのだろう。
「騎士様……迎えに、来て……」
二人のオーエンにどう接していいのか、カインは答えが出せなかった。
シャイロックに依頼されていた服を完成させ、数日ぶりに部屋から出てきた気がするクロエは中庭を見ていた。今回は技術が必要な服だったため、しばらく籠らざるを得なかったのだ。マナエリアが裁縫部屋のクロエにとって、服作りのために部屋に籠ること自体はいいことだった。
(あのドアは俺が開けようと思えば、いつでも開けられるわけだし……あれ?)
中には何人かの若い魔法使いがいるのが見える。その中心には、小さい子供がいるように見えた。誰だろう、何の用があって魔法舎にいるんだろう、と好奇心を刺激されたクロエは、服をシャイロックに渡す前に自分も中庭に降りることにした。
「みんな、何してるの?」
「あ、クロエ!」
リケにヒース、シノ、ルチル、ミチル…そして、小さい子供は、オーエンと同じ色彩と服をしていた。目は両方赤かったが。
「何このちっちゃい子。どこから来たの?」
「そういえばクロエはここ数日、ずっと服を作るって言って籠ってたもんね……この小さい子も、オーエンだよ」
「え」
簡単にヒースから事情を聞いている間、小さいオーエンは花びらを地面に埋める遊びをしている。
白い服を土で汚して、手で掘った穴に花壇で散った花びらを敷き詰めている姿は楽しそうに見えた。
軽く見まわしてみると、顔色が悪いながらも不機嫌そうな顔をした大きいオーエンが日陰で壁にもたれかかっているのがクロエにも見えた。話しかけてくれるなというオーラが全面に出ている。
「こんにちは、俺はクロエっていうの。オーエン、何してるの?」
「お花を埋めてるの!」
ニコニコと笑う小さいオーエンはかわいらしいけれど、枯れ木のように細い手足と不健康な白い肌がクロエの胸に痛みを与えた。ああ、自分も昔はこんな子供だったな、と。ラスティカに連れ出されなかったら、きっと、今も。
「ご機嫌だね、楽しいの?」
「うん!お外に出ていいって、みんな言ってくれたの。ここのみんなは、良い人たちばっかりだね。だけど、大きい僕は意地悪するから嫌」
何かあったんだろうな、とは普段のオーエンの言動を知っているクロエにもなんとなくわかった。
クロエはしばらく小さなオーエンと大きなオーエンを観察していたが、部屋を出た理由を思い出してシャイロックの元に向かうことにした。
だから、クロエはオーエン達の違和感にはあまり気づけなかった。
「そういえば賢者様。オーエン達を見ていると、前の賢者様が仰っていたことを理解できたんです。あれが『ツンデレ』というものなのですね!」
オーエン分裂事件から少し経って、『小さいオーエン』に魔法舎が慣れてきた頃。食堂で何気なくアーサーがかけてきた言葉に、晶は飲んでいた紅茶を噴き出しかけた。
「えっ…………と、アーサー、前の賢者様はなんて説明していたんですか……?」
「はい。『ツンデレ』というのは、好きな相手への好意を素直に表に出せない人だと。立場や身分上で公にできないと言うより、気恥ずかしくなったりしてできない、とおっしゃってました。小さいオーエンが得意でない甘いものを代わりに食べたり、それとなく守るようなこともしていましたが、小さい自分を好いているとは口にしておりませんから」
「ああ、えっと……。……間違っては、ないでしょうね」
晶も何度か、それに近い光景は見ていた。小さいオーエンが困ったり戸惑ったりすると、いつの間にかその様子を大きいオーエンが見ている。それとなく助けたり危険から小さいオーエンを遠ざけてもいる気がしていたのは、晶の気のせいではなかったらしい。
「ツンデレだなんて言ったらオーエンも戸惑うでしょうし、俺とアーサーとの内緒話にしておきましょうか」
「わかりました、賢者様」
いたずらっぽく笑って話をなんとか収めたものの、晶としては違和感があった。
ツンデレというには、オーエンの行動は好意がない。直感のままに言うのであれば、反射的に動いているように見えていた。
小さいオーエンに利する行動をした後、少し不思議そうにしているのを晶は見ていた。
自分の今の行動がわからない、と首を傾げて己の手を見つめる姿は、この状況を楽観視してはいけないような気にさせてくる。
『僕も僕の話がしたいけれど、僕のことをよく知らないんだよ』
最初に会った時に言われた言葉が真だとするのなら、オーエンが自分を知るきっかけが増えるのは喜ばしいはずだ。けれど、自分の手を見ていたオーエンの目が、そうだとは思わせてくれない。
まるで、足元が崩れかけていることに気づいたかのような。
(早く落ち着いて欲しいな……)
魔法の使えない晶には、ただそう願うことしかできなかった。
小さいオーエンが分裂して三日目になると、呪術によって彼に込められていた魔力は翳りを見せていた。それは眠気という形で現れて、魔法使い達に構われていても小さいオーエンは眠そうに目をこするようになった。
『これは俺の呪術でできた魔法の産物なので、体内にあった魔力を使い切ったら消えますよ。そもそも日を跨いで存在できてることに、俺も驚いてます』
ミスラはそう言っていたが、ミチルとしては何かをしたかった。相手は子供の頃らしき姿とはいえ、あの『北のオーエン』である。当然怖い。でも、自分が魔法使いだとも知らないで簡単な魔法にも目を輝かせる子供の姿は、嫌いではなかった。
(小さい方のオーエンさんが、ずっといてくれたらいいのに。シュガーをあげたら、少し元気にならないかな)
綺麗にできたシュガーを瓶に詰めてプレゼントしようと彼の元を訪れてみると、そこには先客がいた。
うつらうつらと眠り込む小さいオーエンを荷物のように抱える、大きいオーエン。
「あ、オーエンさん……えっと」
「出かけるから」
小さいオーエンの姿を見てることは多くても、大きいオーエンが小さい自分に触れることはあまりなかった。抱えるなんてミチルが見てる範囲では、まったくしてこなかった。
聞きたいことはいくつかあったし、そもそも呪術の産物である小さいオーエンは魔法舎から出さないという話になっていたはず。
それを指摘するより早く、大小のオーエンは空間転移で消えてしまった。
「に、兄様!フィガロ先生!レノさん!オーエンさん達が!」
二人ともいなくなった後にミチルができることは、頼れる大人達を呼ぼうと声を上げることだけだった。
「ねぇ、大きい僕。どこに行くの?……ふぁ」
「市場」
普段は饒舌なオーエンは珍しく一言で答えて、中央の国の都に転移した。
いつもなら、カインやミスラに甘いものを奢らせたりすることで来る場所であり、マナエリアに近いところがあってオーエンは時折散歩にも来ている。
本物のマナエリアである『とある市場』に行くのをやめたのは、探されることでマナエリアを見つかりたくないという思いからだった。
和気藹々と行き交う人々。多すぎて聞き取れないほどの声に、鼻を刺激する雑多な臭い。
『あらオーエン!その小さいのはあなたの小鳥かしら?』
「違うよ」
『同じ感じがするのに、変なの。それよりもうすぐ雨になるから、気をつけてね』
「そう」
オーエン達の耳には人間の声だけでなく、動物達の声も意味のある言葉として聞き取れている。
小さいオーエンを見ると、オーエンは自分が自分でなくなるような感覚になる。だと言うのに心は離れることを望まず、ザラザラとした気分の悪さの中で市場にまで連れ出していた。
「うわぁ、人がいっぱいいる…!」
北の国で一番大きな市場よりも、中央の国の市場はもっと広くて人通りがあった。
「ねぇ大きい僕!お外に出してくれてありがとう!」
そう言うや否や、小さいオーエンは大きいオーエンの手を振り解いてあっという間に駆け出してしまった。カインやレノックスに比べれば非力とはいえ成人男性の肉体を持つ大きいオーエンは、本来ならば子供に振り解かれるような力の入れ方をしない。過去におもちゃにした子供よりその力は弱いから、容易く抑え込めるはずだった。
「ぅ……っ」
だが、ひどい目眩と共に気分が悪くなって手から力が抜ける。マナエリアに来ればある程度は回復するはずなのに、それがうまく働いている気がしなかった。小さいオーエンが手を振り解いて走り出すのを、見ることしかできない。
「あれ…オーエン!どうしたんだ?」
小さいオーエンを見つけたのは、カインとクロエだった。オーエン達がいなくなっていることは知らないまま、たまたまクロエの買い出しにカインが付き合っていたのだ。
カインの視界は、<大いなる厄災の奇妙な傷>でその日に触れた人しか映らない。だから、人混みの声だけが聞こえていても視界はすっきりとしたものだった。その目に見覚えのある小さい子供を見つけて声をかけると、小さいオーエンは「騎士様!」と笑って駆け寄ってくる。
「あのね、大きい僕が連れてきてくれたの!僕、お外に行ってみたかったから嬉しい!大きい僕はいつも意地悪なのに、今日は違うの!」
「よかったなぁ、オーエン。人が沢山いて危ないから、俺が抱っこしておいてやる。ほら、おいで」
「わぁい」
ぴょこぴょこと跳ねて喜びを表すオーエンを抱き上げると、高くなった視界に子供ははしゃいだ声をあげた。
「そういえば、大きい方のオーエンはどうしたの?ここに連れてきたの、大きい方のオーエンなんでしょ?」
カインに抱っこされた小さいオーエンに目を合わせてクロエが聞くと、「いなくなっちゃった」という単純な返事が返ってきた。
「はぐれたか……小さいお前を探してるかもな。一緒に探して、四人で魔法舎に帰ろうか」
「お買い物はいいの?」
「もう必要なものは買ってあるから大丈夫!」
クロエの欲しい布地やボタンの荷物持ちをカインが引き受けていたのだが、荷物の一部をクロエが持って小さいオーエンをカインが抱え、大きい方のオーエンを探し始めた。
しばらくして、市場の外れでしゃがみ込んでいた白い影をクロエが見つける。
「あ、いたいた! オーエン、小さいオーエンとこっちに来てたの? 具合悪そうだけど大丈夫、シュガー食べる?」
返事より早く手の中に作り出したシュガーを大きい方のオーエンの口に入れて、クロエはじっと大きい方のオーエンを見る。息はあるように見えた。
「……なんでいる、の」
ゆるゆると目を開けて最初にそう言われ、クロエは「オーエンと小さいオーエンがはぐれたって聞いて」と返す。
「具合が悪いんなら、魔法舎で診てもらおう。フィガロなら、なんとかしてくれるはずだ」
うるさい、と返す声には覇気がない。それでも他人の手を借りることを是としない姿は、さながら誰にも懐かない野良猫のようだった。
「騎士様、そんなに僕に構いたいなら、僕じゃなくてケルベロスに構ってやってよ。ねぇ?」
オーエンがニヤリと笑ってトランクの金具に手をかけるのを、クロエはオロオロと見ることしかできなかった。
「ま、待て街の近くでケルベロスはダメだ!」
カインが止めるのも構わず、オーエンはわざとらしくゆっくりと留め金をひとつ外し、もう一つに手をかける。
「……っ、騎士様を困らせちゃダメ!!!」
小さいオーエンの叫びに、オーエンの動きが止まった。驚きで目を見開く大きいオーエンの手が震えながら、留め金をかける。彼がやりたくてやった動きではないことは、狼狽を隠せない表情が示していた。
「お前、僕に何をーーーっ!」
「す、《スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク》!」
小さいオーエンの胸ぐらを掴みあげようとした大きいオーエンの体がぐらりと傾ぎ、倒れる。クロエが咄嗟にかけた仮死魔法だった。
「クロエ、小さい方のオーエンを頼む。こいつの方が重いからな。意識がないなら、このままフィガロの元に連れて行く」
「……うん」
今の奇妙な一幕は、若い魔法使い達には理解できるものではない。
だから、わかりそうな大人を頼るしかなかった。
「さて、小さい方はそろそろ消えそうだけど……大きい方は妙なことになってるね。ファウスト、心当たりあるかい?」
「……何故僕に聞く」
「肉体は医者の領分だけど、心は呪い屋の方が詳しいだろう?」
フィガロにこっそりと呼び出されたのに応じてしまったことを、ファウストは少し内心で後悔していた。
とはいえ、知っている呪法で心当たりがあるのも事実。
「クロエとカインの証言と、うちの子達の見ていた姿からして……恐らく、『心裂き』の呪法が絡んでいる」
フィガロは「あれか」と呟いているが、ファウストはフィガロからその呪いのことを習ってはいない。自分で見つけたのだ。アレクに裏切られて、石にされかけて、苦痛と恐怖と絶望と怒りの中から……自然と、『こうすればできる』と悟った。結局、それら全てを呑み込んだ呪い屋になることを選んだために使わなかったが。
「大きいオーエンの恐怖の象徴が、小さいオーエン。知識の偏り具合からしても、あまりいい育ちをしていると思えない。それにこの子の存在が皆に知られたのは、部屋に閉じ込められたこの子が異様に泣き叫んでいたからだ」
「そうだね……続けて、ファウスト」
フィガロに魔法を習っていた頃に、こういう問答をしたことがあった。今のフィガロはあの時の、答えを確かめる顔をしている。
「小さいオーエンが無自覚に『心裂き』を使って、大きいオーエンに苦痛な記憶や負の感情を押し付けたと見るべきだろう。負の感情から魔力を吸い上げる体質は、そうやって生まれたから。後からできた人格であることは、オーエンの不死性にも関係があるかもしれないな……聞いて答えてくれるような者ではないが」
乞うても泣いても叫んでも閉じ込められる。北の国で魔法使いにそんな扱いをする土地があるなど、ファウストが生きてきた年代では信じられない。だが、オーエンの幼少期となるとファウストの子供の頃よりはるかに昔のことだ。食べていたパンの色が違うように、常識が違っていてもおかしくはない。
「俺も、こうして並んでるのを見るとそう思うよ。本来の小さいオーエンがどうしてるかはわからないけれど、俺やオズが知るオーエンはずっと大きい方のままだ。戻り方がわからないのか、あるいはまた何か別の理由があるのかもしれないね」
二人はオーエンの奇妙な傷を知らない。ヒースクリフの傷の情報を握られているから、シノもオーエンの傷を話していなかった。だから、幼い人格の心当たりは全くなかった。
「『心裂き』で創り上げられた第二の人格は、第一の人格……自分を作った創造主に絶対服従となる。第一の人格に危害を加えることはないし、第一の人格の望みを叶える動きをする。第一の人格が持つ、無意識の願望を読み取っての行動になるはずだ。本来であれば『心裂き』の呪術で作った第二の人格を盾にしている以上、二つの人格が同時に会話することはほとんどないからな」
小さいオーエンからの絶対指令、恐らくは……『北の国で生きていけるかいぶつ』。奪わねば奪われる、殺さねば殺される。生きる覚悟のない者を淘汰する北の国で生きていくためには、人格を切り分けなければいけなかったのだろう。誰かの監禁を示唆する言葉を聞いたという証言を考えると、それだけではないようだが。
「今のこの小さいのはミスラが出してきたものだけれど、『心裂き』の第一の人格でもあるなら話は分かりやすいよね。こいつは本物の、オーエンの生殺与奪権の持ち主だ。そりゃあ『怖いもの』にもなるさ」
このことは誰にも言えないな、とフィガロは呟く。大きい方の……第二の人格のオーエン自身、理解しているのか怪しいことだ。証明する呪具の類があるわけでもない。事態の収拾だけなら、簡単だ。小さいオーエンはミスラに注ぎ込まれた魔力を順調に失っているから、明日くらいには消えている計算になる。
「明日には、このオーエンも消える。そうしたらオーエンはいつも通りに戻るだろうけれど……フィガロ、『心裂き』で分かれた心が長く戻らないとなると、どうなってしまうんだろうな」
二人のオーエンは何処かあどけない表情で、静かに寝息を立てている。ファウストがなんとなくその手で小さいオーエンの頬に触れてみると、本当に生きている人間のようだった。
小さいオーエンは次の日、魔法使い達の見守る前で消えた。少しずつ透き通る状態を本人はよくわかっていない様子で、ぼんやりとした顔で魔法使い達に構われていた。
「ここは、絵本の楽園みたいないいところだよね。お外に出してくれるし、騎士様もいるし、あったかいし、パンは白くてふわふわだし、綺麗なお服も着せてくれたし!楽しいなあ、ずっと、夢の中みたい。眠いけど、寝たくないなあ」
段々と眠そうな顔になってきて、うつらうつらと小さい頭が舟をこぎ始める。
「眠っちまえ。しっかり眠ったら、またたっぷり遊べばいいさ」
ブラッドリーに乱暴に頭を撫でられて、「あぅう」と小さく声を上げるオーエンの姿がおかしくてブラッドリーは笑った。
「それがいいよ。沢山眠ってしまえばいい。ね?何も怖いことはないから」
ヒースクリフに頷かれて、小さいオーエンはこくりと頷く。そのまま目を閉じて―――小さな光の粒子を残して消えてしまった。
後にはクロエの作っていた服と、小さな赤い宝石が残される。
「あれ、何してんの?その宝石と子供服は何?」
宙返りをしながら姿を現したのはムルだった。夢の森にナイトメアストーンを取りに行くと言って少し前から姿を消していたのだが、無事に見つかったらしい。綺麗な石で膨らんだ袋を持っていた。
「あ、ムルお帰り!ちょっと色々あったんだよ」
「ふうん……その石はナイトメアストーンとも違うみたいだけど、インクルージョンが入ってるみたいだね。何の石かな?クロエ見せて!頂戴!調べたい!」
クロエの手から赤い宝石をひょいと取り上げたのはオーエンだった。小さい自分が消えたことで安定したのか、いつものニヤニヤ笑いを取り戻している。
「だめ、これは僕のだよ。お前になんてあげない」
周りが止める間もなく赤い宝石を呑み込んで、オーエンは姿を消してしまう。大切なものを、腹の内に収めて守るように。
宝石のことも、あの小さいオーエンに何があって今のオーエンになったのかも、どうして小さいオーエンが『怖いもの』なのかも。
すべてオーエンが吞み込んでいつも通りに笑っていたものだから、誰も聞けないまま全てが日常に戻っていった。今も時々、傷のオーエンはオーエンの身体に現れ続けている。