ブラネロwebオンリー「そういうことにしているつもり!」7 -Summer Carnval-展示作品
魔法舎軸メイン 元相棒と椅子を巡るゆるふわ話。
※他の魔法使いたちもよく出てきてしゃべります
※カップリング要素は薄めです
※捏造設定を多量に含みます
@utai_pxm
この席は少し緊張する。苦笑いと共に客が零したその言葉に、首を傾げて応えたことをネロは覚えている。雨の街で開いていた小さな飯屋での、厄災の光が降り注ぐ静かな夜の、ほんの些細なやり取りだった。
「この席」とは、厨房に面した席の中でも料理人が、盛り付けの仕上げをしたりとか置いてある調味料やグラスの類いを取ったりだとか、ちょっとした作業を行う空間の真ん前にある場所のことだ。それを認識して顔を上げれば、気恥ずかしそうな客と目があう。すぐにお互い逸らしてしまったが、なるほどと理解を示した。つまり、そういうことらしい。
とはいえネロも普段は忙しなく厨房を行ったり来たりしているから、この場所にずっと居るなんてことは稀だった。でも確かに手が空いているときは此処から客と簡単な会話をしていることが多いかもしれない。その客は常連だったが、座る席が一定していたという記憶はなかったから、たった数席のそれぞれの違いは何かと考えてしまったのだろう。ネロはその席との間にある物を少しだけ増やして、少しだけ配置も変えた。次に彼がそこに座るときには、肩の力を抜いてもらえたらいいと願っていた。
ネロがそんな些細な願いを思い出したのは、食堂の椅子が壊れたのが切欠だった。なんてことはない、とある日の昼食を準備している最中に、食堂から派手な音がしたから厨房から顔を出してみれば、そこにはミスラとブラッドリーがいて、二人とも妙な表情を浮かべながら足下に転がっている「椅子だったもの」を眺めていた。
ネロは早々に顔を出したことを後悔しそうになった。しかしもうすぐ昼食の時間で、ネロは厨房の番人である。そしてこれからこの場所には、お子ちゃまを含む昼食を求める客たちが、お腹を空かせてやってくるのである。無論、此処で「椅子だったもの」を前に沈黙している二人だって、腹を空かせた客には違いない。違いないからこそ、食堂を荒らしたことを番人として見過ごしてはならなかった。
「おいブラッド!何やってんだてめえは」
「おい俺だけかよ!?」
「俺もいますよ、ネロ」
「知ってる知ってる。何やってんだ?」
「てめえ」
「はぁ、この人が俺の席に先に座っていたので」
ミスラが「椅子だったもの」を一瞥してつまらなさそうに言うと、ブラッドリーが眉を顰めて、あ?と低く唸った。若干の緊張を覚えながら、ネロは状況を慎重に窺う。二人して機嫌が悪そうに思えたが、それだけではない妙な空気だったからだ。
「てめえの席だなんて決まってねえだろ」
「俺がそこに座りたい気分だったんだから、俺の席ですよ」
「待て待て。もう昼飯の時間なんだから、続きやんなら外行ってくれ」
再び小競り合いが発生しそうな気配を感じて、咄嗟に間へ入る。機嫌が悪いときに間の悪いことが起きると、特に北の魔法使いならそのまま喧嘩になってしまうことも多いから、今回もその類いなのだろうことはよくわかった。昼飯、という単語で二人の動きは一瞬止まる。ブラッドリーはそこから反応を示さない。ミスラの出方を観察しているのだとネロにはすぐにわかった。この男はそういう男だった。
ミスラはというと、わかりました、と聞き分けよく頷いたかと思うと、すぐに別の椅子を引っ張ってきて件の席に置いてそこに座った。はやく昼食を持ってきてくださいとネロに言うことも忘れない。昼飯を優先することにしたらしい、それをきちんと理解したブラッドリーは僅かに呆れたような息を漏らしたが、
「だから、てめえの席じゃねえっつの」
仕切り直すように突っかかった物言いをしつつも、そのまま隣の椅子にどかりと座り込んだ。休戦だけは成立したようで、ネロは改めて厨房に引っ込もうとしたところで、未だ床に転がったままの椅子の残骸が目に留まった。すっかり事の発端を無視してしまっていた。
魔法舎の食堂は、二十一人の魔法使いと賢者が食事に使う場所として相応の広さがあるし、椅子やテーブルのひとつやふたつは魔法で簡単に配置されて、さらに言えば他に人が訪れた場合も想定して物置に予備だってきちんと用意されている。ミスラが移動させてしまって不自然に椅子が欠けてしまっている箇所があるのはなんとなく嫌な感じもするし、予備を出してくるべきかとひとまず残骸を脇に避けようと近づいて少し屈めば、ブラッドリーが椅子に座ったままこちらを覗き込んでいた。
「なに?」
「てめえはよ」
魔法で直せや、と、言われてはじめてその発想に至った。首を緩慢に傾けてしまう。瞬間、ブラッドリーの指が鳴った。
たちまち元の姿を取り戻した椅子が、欠けた場所へと何事もなく収まっていく。ネロは眉を顰めるとわかりやすく咎めるような低い声で、てめえで壊したくせに、と悪態を吐いた。
「俺じゃねえ、ミスラだ」
「そうでしたっけ」
身体ごと此方に向けてミスラが返事をする。やはり、奇妙な空気が流れているようにネロは感じた。ほんの少しどこかのかみ合わせがうまくいかなくて、動かなかった歯車を見ているような違和感だった。
奇妙な違和感は、願いの他に、ちょっとした疑問もネロに残した。たくさんある食堂の席に違いはあるのだろうか?たとえば、いつもだいたい広い食堂の一番端っこ、入り口に近いところに座ろうとしがちなファウスト。食堂に人が多いと尚更その傾向が強いが、彼はときどき、厨房に近い席に座っていることがある。大抵は、あまり人が居ないとき。ネロが厨房に立っているとき。珍しく店に来て飯を待っている客のように振る舞っているとき。
そりゃあその状況なら厨房の近くで待つだろうなぁとは思うので、特に気にしてもいなかったが、よく見れば毎回同じところに座っていて、よく見れば先日ミスラとブラッドリーの喧嘩の発端になった席だったから。厨房に近い席は他にもあるし、今は特にどこにも人は座っていないわけで。椅子も、知っての通り件の喧嘩でもう入れ替わってしまっているし。
「その席って座りやすい?」
遅起きのファウスト用の朝食をテーブルに置いて、それとなく訊ねてみた。ファウストは意味深に笑って、ネロの顔を見る。
「キッチンに行ってみて」
「なんで?」
「僕の顔が見えるはずだから」
いつも厨房に立っているはずなのに知らないなんて、そんなことがあるだろうか。ネロが複雑な気持ちでキッチンの入り口を見ながら逡巡していれば、その様子がおかしいのかファウストはずっと笑みを浮かべたままで、結局そのときは確認をしなかった。でも、一度聞いたら気になるものなのだ。客がひっそりと店主に告げたあの席を思うのと同じで。
それから厨房に入るたびに、一度意識して食堂の方を振り返ってみるようにした。作業を始めてしまうと気を逸らしたくなくなってしまうから、その最初の瞬間だけで何度も何度も確かめて、時には振り返って見てみるタイミングを変えたりしてみて、ようやくあの席の謎をひとつ明らかにするに至った。
配膳をする直前、作業台に置いた料理の皿を持ち上げる、だいたいそのあたり。数歩あるけば食堂に出て行ける距離の場所。そこから振り返って顔を上げると、丁度あの椅子の背が見えた。誰かが座っていたらきっと椅子が少し後に引かれている、丁度、そこに座った人が視界に映る位置。
意識をしてみれば、いろんな魔法使いの顔がそこにはあった。遅起きのファウストだけではない、おやつ待ちのリケ、手伝いをするタイミングを見計らっているミチル、朝鍛錬を終えたあとのシノ。ときには賢者もそこに座って、こちらの様子を窺っているときがあった。しかし謎が解けてしまうと緊張もする。ほんとうに、ほんのすこし、互いの姿が確認できるだけの場所なのだが、気になってしまうと避けるのも堂々とするのも難しい。ネロはいつだって難儀な料理人だった。
自分が、そこに座って見ていたらどうだろう。飯のにおいが漂ってきて、料理人が皿を持ち上げる瞬間を、誰よりもはやくそこから見ていたら。幼い感傷が甦ったかのように夢想した。実際、なぜだか夢で見た。場所は魔法舎の食堂なのに、どこぞの貴族の家から盗んだみたいな東の国の調度品らしき精悍な木椅子に座っていて、緊張した面持ちで飯が出るのを待っている。ありえない光景だったからすぐに夢だとわかった。しかし細部は記憶をつぎはぎしているらしくて、何故か周囲には賢者の魔法使いではなく、盗賊団の仲間たちが居た。どいつもこいつも石になったのを確認したおぼえのあるやつらだった。
夢だから、自分の胸が期待に満ちていることも、指先で触れた先のうすい腹が情けない音を立てたことも素直に喜べた。いま自分は小さな子供の姿にでもなっているのかもしれない。そう思えば即座に反映されて、この身で口にする食べ物のことを思った。様々な料理が脳裏に浮かんでくる、浮かんできたということは、配膳されてくる。
ネロは厨房に目を向けた。入り口付近に何かがいるのはわかった、ぼんやりと輪郭だけがあるような、そんな人物が。それが料理人だというのもわかる。しかし料理を食堂まで運んできて姿を間近で見ても、「誰」なのかはよくわからないのだ。
首を傾けながら、ネロは出された料理を口にした。これは夢だ、願望なのかはたまた何かの懸念なのか判別はあまりつかないが。あたたかくておいしい。真っ先にその感覚が胸を支配したのがいかにもそれらしかった。ネロは再び顔を上げて、厨房の方へ目をやった。僅かに見えた料理人の輪郭が揺れている。実際にこんなふうに見えているかどうかをネロは知らない。昔どこかで見た光景と混ざっているのかもしれない。
どこで見た光景と?
同時に、ネロは強い違和感を覚え始めた。幼い感傷が形を潜めて、そのからだはすっかり今の自分と遜色なくなっている。石になった奴らの顔を順番に見た。どいつもこいつも見知った顔で、あったかくておいしい料理を頬張っているけれど、あいつの好物は魚だったのに肉を食ってるとか、あいつは豆が食えなかったのにとか。自分の夢の適当さに呆れを感じだした。精悍な椅子の上で、居心地悪く身動ぎをする。此処は、己の居る場所ではなかった。
朝。目覚めて朝食を作りに厨房へ行けば、ブラッドリーがパンを口に放り込む瞬間に遭遇した。思わず包丁を投げた。しばらくそこで悶着した。最終的に首根っこつかんで引きずって、食堂の例の席に座らせた。全く懲りてはいなさそうだったが、大人しく座ったのでようやくそこから作業に取りかかりはじめた。
ふと、途中で一度厨房から食堂を振り返ってみる。椅子の背を抱えるような格好で、ブラッドリーが厨房の方を見ているのが窺えた。もしかしたらこれまでもそんな風にしていたことがあったのかもしれないが、見てはいけないものを見てしまったような心地がして、さっさと奥へ引っ込んでしまう。遮りたいわけではなかった。遮れるものも存在していなかった。ただ居心地の悪さだけがそこにあった。そして、それは向こうも同じなのかもしれないと思った。
「座面が小さい」
そういえば、よくシノはネロの部屋にある椅子のことをそんな風に言う。シノが座ればぴったりに見えたから、そんなことないだろと思っていたけれど、シノはヒースクリフが座るならもう少し大きめがいいと口を尖らせるのだ。あとは背もたれの大きさとか、足の高さとか。
「ヒースは足が長いからな」
シノは誇らしげに言っているが、ここまでの発言をヒースが聞いたら恥ずかしがるだろう。あくまで身のうちにとどめておいてやるかと決心したところで、椅子の話だ。シノがここまで文句を言うのはこの部屋にきて座っていることが多いからで、何故座っていることが多いのかというと飯を食っていることが多いからだ。言っちゃあなんだがシノはちょっとお行儀が悪い。ブラッドリーみたいにつまみ食いすることもあれば、座って食べないこともある。ブランシェットの小間使いが、主人であるヒースたちと並んで食事をすることなどなかったに違いない。シャーウッドの森は彼の庭だし、好きなときに好きなところで食べていい。でもネロは自分が作ったものを落ち着いて食べてもらえないなんてのは嫌なので、此処で食うなら座れと椅子を勧めたのも自分だった。シノはヒースを基準に話をするけれど、それはシノの不満と同義なのだろう。
座らされた椅子の居心地の善し悪しは難しい。ネロにも覚えがある。でも少しでも長く座っていられるようにと、座面に柔らかなクッションを敷いて、手すりもつけて、広々とした座面と背もたれをつけたって、ネロは落ち着かなかった。椅子が悪かったわけではなかったのかもしれない。それらは場所ごととっくに失ってしまったから、今となってはもう確かめる術もないが。
きっと、ずっとそこに居てもいいと言ってもらえていた。それだけはわかっている。時間が経って今、自分がそう思っているからわかり始めた。店の客、魔法舎の魔法使いたち、自室に招く友人と呼べるもの。今自分は、ずっとそこに居てもいいと言うために、椅子のことを考えている。失ってしまったものを思って「ずっと」なんて本当はどこにも存在していないのをわかっていて、その言葉を使うために、取り繕っている。
シノが文句を言った椅子に今、ブラッドリーが座っていた。食堂の椅子に座っていたときのような手持ち無沙汰さもあるが、手足を多少放り投げて、まるで腹を見せる動物のような親しさを以て、そこにいる。機嫌はよさそうだったけれど、相変わらず飯が待てなくて今にも立ち上がって近づいてきそうだったから、本当に大人しくしているのができないやつだなと心中悪態をつきかけたところで、椅子の座り心地を思った。
「どれも同じじゃねえの」
訊ねてみても、まぁそうだろうなという回答だった。まぁそうだろう。
「どのみちずっと座ってりゃ、ケツは痛くなるしよ」
まぁそうだろう。座面に柔らかなクッションを敷いて手すりもつけて、広々とした座面と背もたれをつけたところで、こいつもすぐに立ち上がっていく。そのままいつか帰ってこないことを考えて、自分は嫌になったのではなかったろうか。
今はどうなのか。店の客も、魔法舎の魔法使いも、自室に招く友人と呼べるものも、ずっとだなんて思っていないのに、未だにこいつだけはずっとだなんて思っているのは都合が良すぎるとわかっていて、ネロは、ブラッドリーに合う椅子はどんな椅子だろうと思った。派手なヤツだから派手な方がそれらしいかもしれない。それこそ王様が座っているような玉座みたいなやつとか。思い描こうとしたけれど、何かが夢想を阻んでいるようでずっと目の前の、なんてことない椅子に座っているブラッドリーのことしか見えてこない。都合がいいんだなと思った。それでも今日は待ちきれなくて立ち上がることが最後までなかったブラッドリーが、ネロは決して嫌では無かった。
さて、ネロはそれから数日後には誕生日を控える身だった。六百年ほど生きていて誕生日とはさして重要なものでもないし、祝われるのも得意ではなかったが、諸々受け入れて任せていれば、何故だか食堂に豪華な椅子が用意されていた。天体を模したらしい意匠も派手だが、ところどころそれを無視した祝いの装飾がつけられている、奇妙な椅子だ。北の双子が笑顔で両脇を固め、ネロに座るように言い含めてくる。これは何の罰ゲームなのだろう?
「罰ゲームではないですよ、ネロからお話を聞きたくて」
リケの純真な言葉に促されて大人しく座ったものの、気持ちは尋問が始まる前の緊張感に満ちていた。こんなことしなくて別に尋ねられたら答えるのに、と思いかけて、いや果たして本当にそうだろうかと自身の振る舞いを反省した。リケは、ネロの座る椅子の向かいに別の椅子を置いてそこに座り、まるで信徒の懺悔や告発を聞く神の使徒のように背筋を伸ばして、ネロの目を優しく見詰める。反射で冷や汗が出た。尋問の内容を簡単に説明すれば、今食べたいものや最近困っていること、欲しいものなどを告白させられたのだが、尋ねられれば尋ねられるほど何も出てこなくて、リケがだんだん焦れているのを感じ取ってしまったから、咄嗟に目に留まった時計からおやつの時間を指摘して、菓子と交換に解放してもらうことに成功した。
「にしても、なんでわざわざあんな椅子を?」
「賢者さまから『お誕生日席』というのがあるのを聞きました」
ネロ、誕生日にはあれに座ってくださいね。僕も作るのを手伝ったんですよ。
ネロは笑って、了承をした。座らされた椅子の居心地の善し悪しは難しい。でもそいつは、一年でたった一日のためだけの特別な椅子だ。酔狂にも程があるが、たった一日のためにあるのなら、たった一日、そいつに座るものの顔を繕うことをネロは選べた。
その結果、そいつは何故か今、ネロの部屋の一角に存在している。
部屋にやってきたブラッドリーには一頻り笑われた。当日ネロが実際に座っている姿も遠目では見ていただろうに、誰の目も気にしなくていいとなるとこれだ。最低限の家具しか置いていない部屋の中に、そいつは如何にもちょっと派手で、言ってしまえば馴染んでいない。テーブルの椅子とひとつ入れ替えるわけにもいかないので、ベッドの向こうに使い途に悩まれたまま置かれている。
ブラッドリーは笑いながら、我が物顔でそいつに座った。見た目で少し引いてしまうが、元は結構いい椅子なのも、ネロは一日座ったから知っている。だから、なんとなく感想を待ってしまった。待ってしまったが、ブラッドリーにとっては相変わらず椅子なんてどれも同じなのかもしれない。
ブラッドリーはまるで何かをうらやむような、いとおしむような笑みを浮かべて、座った椅子の表面を撫でた。
「いい椅子なんじゃねえの、見た目は悪趣味だけどな」
それはもうわかりきっていることだ。悪趣味になったのは、誕生日を祝うという目的が椅子のデザインと喧嘩してしまっただけだということも。
「此処に置いとけよ」
「此処に?」
「俺様が使ってやる」
「飯食うのに使うんなら、そこと入れ替えっけど」
「いいよ。飯食うには気が散りそうだ」
「てかてめえ別におたんじょうびサマじゃねえじゃん」
「もう過ぎたんだから関係ねえだろ。お前だってもうおたんじょうびサマじゃねえんだし」
それでもなんだか、妙な気分だ。だってそれはリケたちが、誕生日に座る席としてネロに用意したものなのに、ブラッドリーが我が物顔で座っているのはなんだか。かといってやっぱりダメとも言いにくくて、窺うようにブラッドリーの顔を見た。目が合った。そんな顔すんなよと言われて、何がそんな顔なのかはさっぱりわからなかったが、次の瞬間には身体が持ち上がって、立場が逆転していた。肩を掴まれてお誕生日席に座らせられる。目の前にはこちらを見下ろすブラッドリーが居て、なつかしむような、いとおしむような笑みを浮かべている。
ここは自分の部屋だ。これは、自分に与えられた椅子だ。なんの居心地の悪さもないはずの場所で、ただただその存在にだけ緊張を覚えた。小さな杭が刺さっているみたいな、或いは、刺してしまったみたいな、磔にされた受刑者のような心持ちだ。
ずっとそこに居ていいと言いたかった。ずっとそこには居られなかった。ずっとはもはやありえないことを知っている。だけどもしもう一度、その居心地の悪さを伝えられたとして、ネロはきっと同じことを言うのだと思う。ずっとそこに居ていいと、ずっとそこには居られなかったと、ずっとはありえないのだけれど、きっとどこかにはあるんじゃないか。どこかで作れるんじゃないか。輪郭のぼやけた夢想だった。
今日はカナリアが食事を作ってくれた。子供たちが張り切って手伝いをしていたから、たまにはと思い久しぶりに食堂で彼女の配膳を待ってみた。他にすることもないからと、食堂近くのあの席に座って賑やかな厨房の声を聞いていれば、いつの間にか隣にオズが立っていた。びっくりしすぎて本気で椅子から転げ落ちるところだった。
「あ、な、なに?飯?今カナリアたちが作ってっから」
オズは無言だったが、話を聞いていないわけではないのか、厨房の方へ目を向けたり窓の外の様子を窺ったりしながら、そのままネロからは離れた別のテーブルの一席に座った。とてつもなく微妙な距離だった。近くに座ったって別にいいのに、と思う心と、いや近くに座られたらどうしたらいいかわかんねえなという気持ちとが交互に襲ってくる。一瞬にして冷えた肝には更なる不運が待っていて、次は凄まじい音を立てて食堂の窓が割れた。
「くっそ!オーエンの野郎!!」
窓から床を滑った人影が、すぐさま立ち上がって吠える。割れたガラスの向こうに翻る白いマントの端が見えた。表情まではうかがえなかったが、非常に良い顔をしていたのだと思う。昼の冴えた太陽の光が眩しかった。
吠えた口が忌々しげに舌打ちをして、頭から血を滴らせながらテーブルに近づく。そのままネロの隣の席の椅子を引いて、足をかっぴらき背もたれに腕を回して座り込んだ。
「おい、食卓汚すんじゃねえ」
「あ?」
「頭」
額を指してやれば、まるで子供のようにそこに手をやる。指先にべっとりとついた血を見て面倒そうに呪文を唱えた。カナリアが用意した綺麗なテーブルクロスが少し汚れてしまったのも、促してさっさとなおさせていたら、遠く離れた場所に座っていたオズと目が合った。沈黙が走った。蛇に睨まれた蛙、というたとえが賢者の世界にはあるらしい。要するに天敵と出会ったときに一度硬直してしまうみたいな状況のこと。いや、流石に気配でいることくらいは察してはいただろうにとネロは思うけれど、もしかしたら、本当にもしかしたら、オズが気を遣って気配を無くして、この食堂に鎮座していたのかもしれない。隣の蛙、ではない。ブラッドリーは、急に居心地悪そうに顔を顰めてネロに、飯まだかよ、と囁いた。厨房の方を見遣ると、派手な音に驚いたのかミチルが顔をだして、割れた窓ガラスに不安そうな顔をしていた。静かになった食堂に、オズの唱える呪文の声が響いてそれらはあっさりと何事もなかったかのように元に戻される。
いろいろ考えていたのに、真理というのはこういう、なんともない一日の小さな一瞬にあるものなんだなとネロは思った。或いは、わかっていたことを飲む込むのに必要な切欠かもしれないが。こんな気まずい時間だって、昼食をとるために集まった他の魔法使いたちによってあっさりと瓦解をするものでもあったのだから。
まるで仲良しみたいに並んで座って、カナリアの作った昼食を食べた。