@EmptySeat_
電話の音が聞こえる。じりりり、じりりりり。……ああ、取らなきゃ。取らなきゃいけない。いくら気が重くとも、いくら無力感に苛まれようと、それを取るのは私の義務だった。
▶視点 後縫まつり
手を伸ばし、受話器に手を掛け──その上から、更に手を掛けられる。
「まつりクン」驚いて顔を上げると、そこには少し困ったような顔をした南天寺先生がいた。「鳴っていないよ、それ」
目線の先には電話がある。甲高い電話の音はいつの間にか消えていて、思わず惚けたようにそれを眺めてしまった。手を伸ばし一応履歴を確認するが、……確かに鳴っていない。
「あ、……あは、ごめんなさい! 寝惚けてしまっていたようですね……」
「アハハ、最近は夏合宿の準備もあって忙しいしね。仕方がないとは思うけれど、あまり無茶はしないようにしてくれたまえよ〜」
茶化して笑う彼に、つられて笑いながらこくりと頷く。無茶をしているつもりは無いのだが、必要以上の心配をかけてしまったようだった。
誤魔化すように仕事に取り掛かろうとして、ふと書類が一部消えている事に気がつく。それは夏公演の脚本で、春のように三鶴さんから校閲をお願いされていたものだった。……おかしい、確かにここに置いたはずなのに。
「探しているのは、もしかして脚本かな? それなら倉坂先生が持っていったよ。珍しく、赤ペン片手にね」
よく見てみれば脚本だけではない、合宿先の資料や公演関係の書類も消えている。
こういう風に、倉坂先生は時折私のデスクから勝手に仕事を持っていく事があった。それは大抵私の仕事が上手く回っていない時で、気が付くと仕事が終わっていて机の上ががらんと空いている。……それだけ処理能力が高いのなら、普段からやってくれればいいのに。そうは思うものの、そうやって都合よく動いてくれないのが彼だった。
もしかして、私は余程の顔色をしていたのだろうか。ぺたぺたと顔を触るが、いまいちよく分からない。後でトイレにでも行った時に確認してみようかな、とぼんやり思う。
「マア、兎にも角にも程々に」
ことんと置かれたのは温かいコーヒーで、どうやら南天寺先生は私が考え事をしている間に給湯室に行ってコーヒーを入れてくれたようだった。「ありがとうございます」と礼を言い、熱いカップをそっと唇に引き寄せる。火傷する程熱いそのコーヒーは、眠気覚ましにピッタリだった。
「そういえば、結局夏合宿はホテルでやるんだっけ?」
「はい。院瀬見琴子様よりお誘いを受けまして、無料で泊まらせて頂けることになりました。長年この学園を支えて下さってる一族とはいえ、演劇好きの先代様から代替わりしても尚支援し続けて下さっている様で……有難いですよね」
「庶民派のボクとしては、つい金持ちの道楽だなって言ってしまいそうになるけどね。48部屋を1ヶ月間無料で提供するってことだろう? 本当に、とんでもない入れ込み具合だな……」
「琴子様も演劇がお好きなようで全公演足を運んでくださっていますし、先行投資という事なのでしょうかね……? 先日も初公演にいらっしゃっていたようで、三鶴さんがご挨拶に向かっていましたよ。一応私も、少しだけお話をさせて頂きましたが」
「ふうん。マ、良いのであればありがたく使わせて頂こう。オーシャンビューの高級ホテルだ、生徒達にとってもいい経験になるかもしれないしね?」
「うふふ、そうですね。またとない機会ですから」
夏合宿に思いを馳せる。前年はとてもゴタゴタしていたから楽しむどころではなかったのだけれど、今年はどんな合宿になるんだろう。
少しでも楽しい思い出を作る事が出来ればいい。遊びに行くのではないと分かってはいるけれど、愛しい生徒達と優しい思い出を作る為に私はここにいるのだから。
……生徒達には演劇ばかりに囚われないで欲しいと思う。人生には様々な道があって当然だ。視野を広く保って、数々の経験を積んで欲しい。それこそ夏休みなんて、経験を積む良い機会なのに。
夏休みの計画表のほとんどを埋める夏合宿と公演練習の文字。これじゃあ遊ぶなんてもってのほかで、──まるで演劇以外見るなって押し付けているみたいだ。
「……」
ぐしゃり、とプリントが手の中で音を立てて歪む。ああ、いけない。物に当たるなんて最低だ。私は生徒の手本にならなくてはいけなくて、生徒を正しい道に導かなくてはいけなくて。
……ふと思い出したのは、当時1年生だった三鶴さんがこぼした言葉だった。最終公演もあと1ヶ月に差し迫ったある日、会議室にて。記憶の中の彼女は随分と弱った声で「……どうして、彼等は僕を離してくれないんだろう」と諦めたような顔をして笑っていた。「そもそも僕は、──……」
手元から、ビリッと破れる音がする。自分の分のコーヒーを片付けに行きかけていた南天寺先生がギョッとして「どうしたんだいまつりクン。書類を破るなんて、君らしくもない……」と戸惑ったように再度手を掴んだ。
それに対して曖昧に笑って、紙を手放す。紙は空気の抵抗を受けてゆらゆらと揺れながら落っこちる。おちる、おちていく。──ぐしゃり。頭の中で響いてもない音が聞こえた気がした。
ああ、ほんとうに。
演劇なんて、大嫌いだ。