書いてるうちに2月15日が近くなってきたので、日付を会わせる事にしましたとも。
アニメ凛ルートのトゥルーエンドで、朝焼けを見て帰った二人のその後を妄想して書きました。
そして、最後はほぼ趣味に走りました。
「クサイかな~、クサイよな~、でも書きたいしな~」って、恥ずかしさで死にながら書きました。
そして縦読み推奨。
1
衛宮士郎は、あまり夢を見ない性質の人間だった。
そんな自分が、寝ている間にすることは、これまでに学んだ知識を振り返り。言うなれば、過去の反芻だ。
しかし、ここ直近の二週間は、今までの通例には当てはまらなかった。
二週間の間に、自分はたくさんの夢を見たと思う。
それも、誰かの心や記憶を垣間見る夢が多かった。
───例えば、視界いっぱいの草原を駆け抜ける騎士。
───あるいは、その生涯を剣として生きた男が行き着いた世界。
───またあるいは、ある少女に刻まれた黄昏の校庭。
契約というカタチで、魔力のパスを繋げる事が多かったからだろう。
遠坂が言うには、魔力を供給するパスを通して、繋がっている相手の記憶が自分に流れてくることがあるそうだ。
なので、自分に判っているかぎりで、俺は三人、他者の心を夢として見ていた。
なんだか覗いているようで、振り返ってみるとあまりいい気分ではない。
けれど、それと同時に、自分と彼女たちとの間に、確かな繫がりがあった名残のようにも思え、暖かい気持ちになる。
という訳で、この二週間の間で、奇妙な夢を見る事が多かった。
その中には、誰の記憶でもない、俺自身が見た夢もある。
なにもない荒野の中で、片腕が剣そのものになった悪夢。
その時は妙にリアルな夢で、なにも分からなかったが、今なら理解できる。
あれは、いま目の前に広がる荒野が見せていたものだ。
遮るもののない赤い空。
数えきれない無数の剣が突き立つ荒野。
この剣だけの墓場こそが俺の世界。俺が直視した剣を無限に複製し、貯蔵し続ける世界。
この世界が様々な副産物を持つ事は感覚として判っている。
俺の“強化”や“投影”の魔術も、この世界から零れ落ちたものだ。
そして、その副産物の中には、剣による負傷の応急処置なんかもあったりするようだ。
あの夢を見た夜、俺はアーチャーに背中から斬りつけられていた。その時には、セイバーと契約状態だったからか、朝起きたら治っていた。
しかしどうも、俺の体にはそれ以外にも怪我の応急処置の方法が備わっているらしい。
ケガをした箇所を剣に置き換えて、傷を縫い合わせていく。
体が剣で出来ている、と詠ったアイツはよく言ったものだと思う。こんな剣だけの荒野しか持ち得ない俺らしい怪我の修復方法だ。
ただ、当時、輪をかけて未熟だった俺にと って、それはとても危険な事だった。
この応急処置は、言ったように固有結界から派生した副産物だ。
その時点での俺は、固有結界の展開はおろか、“投影”だってまともに扱えていなかったのだ。そんな状態で、体を剣になんて置き換えてみろ。調整を一歩でも間違えたら、固有結界が暴走して、体の内側から剣で串刺しだ。
今思えば、ゾッとする。
それまで、命に関わる怪我をすれば、体が勝手に治そうとして、一歩でも調整を間違えれば、何が起こっているかも解らないまま、串刺しになって死んでいたかもしれない。
ただでさえ、この二週間は生きるか死ぬか常に綱渡りだった。
未熟な自分が生き残れただけ奇跡みたいなものだっていうのに、その奇跡の重さは増していくばかりだ。
だから、今こうして命の危険を考える必要もなく眠れる。そんな平和な日常に帰ってくることが出来た幸運に、なにより感謝すべきなんだ───
2
「…………、ん」
目が覚める。
陽射しが眩しかった訳ではない。
時計を見れば、時刻は午後の三時。日なんてとっくに屋根に隠れている。
そもそも、俺が眠ったのは、日が登り切った後だからだ。
どんなに夜遅く寝ようと、五時半には起きているのが自分の長所ではるが、そもそも寝る時間がそれを過ぎていれば、五時半に起きるなんて不可能だ。一日中寝れば可能かもしれないが、それこそ寝坊としては致命的すぎる。
「……いや、今でも十分寝坊か……」
思わず自嘲と苦笑が零れた。
今日は二月十五日、金曜日。真っ当な学生なら、朝から学校に通い、勉学に励んでいるなか眠るのは気が引けたが、背に腹は代えられない。別に惰眠を貪っていた訳ではなく、必要な休息だった。
今はとにかく体が万全ではない。
肩が裂けかけたのはつい数日前だ。それに関しては、遠坂の塗ってくれた軟膏で繋がり始めているが、他の傷だって決して軽くない。遠坂が応急処置をしてくれたとはいえ、体の多くの刀傷が残っているし、台風みたいな風圧に晒された後に地面に叩き付けられて、体の至る箇所が歪んでいるのが分かる。
それだけではない。万全ではないのは、体の内側も同じだ。
固有結界を展開した反動だろう。魔力もすっからかんだし、魔術回路にも負荷がかかっている。特に回路は、幸運にも焼き切れて二度と使えない、なんてことはないが、普通に動かせるようになるまで、あと数日はかかるだろう。酷い筋肉痛みたいなものだ
使われないまま放置されていた回路すべてに魔力を流し、全開で稼働させたんだ。回路が焼き切れたっておかしくなかったし、前みたいに半身が麻痺しないだけでも奇跡である。
「さて、起きるか」
全快していないが、動けないわけではない。
こういう時は多少無理しても動かないと、容赦なく体は鈍っていく。
「よっと」
布団を剥いで立ち上がる。
そうして一呼吸。冬の冷たい空気が肺を満たし、意識が冴えていく。
「……はあ」
襖を開けて、思わずため息を吐いた。
空は、眠る前に見た日の出のまま、青く澄み渡っていた。
少し歩いて、居間に辿り着いた。
怪我の具合に反して、体は思いのほか好調で、部屋から居間まで特に痛みもなく居間まで歩くことができた。それどころか、冬の冷気に急かされて、思いのほか早足になっていたと思う。
「よかった」
体が動くことに安堵が漏れる。
この調子なら、朝の日課の筋トレのような本格的な運動は無理でも、日常的な動作は問題なく行えそうだ。
さて、昼飯を作るか。既に昼食時を完全に過ぎてしまっているが、少しでも腹に何かを入れて活力を得なければ、治るものも治らない。
そう思ったが早いか、すぐに掛けてあったエプロンを装着して、冷蔵庫を開けた……までは良かったのだが、冷蔵庫の惨状を見て、寝起きで思考が働かなくなっていることを自覚した。
「そうだった。冷蔵庫の中身、使い切っちまったんだ」
昨夜。
三人で過ごした最後の夜。
それをいつも通り過ごそうと、冷蔵庫の中身を全て使い切る勢いで、とびっきり豪勢な夕食にしたんだ。
冷蔵庫の食材の大半を使って、残り少なかった食材も、今朝使ってしまった。
柳洞寺を後にして、彼女の願った通り、二人でこの家に帰ってきた。
遠坂に怪我の手当てをしてもらって、二人で朝食を作った。それで分量を間違えて三人分作ってしまったので、分けて食べた。それで冷蔵庫の中身は本当になくなってしまった。
「……仕方ない。買いに行くか」
エプロンを脱いで、代わりに財布を手に取る。
とりあえず今日の夕飯分の買い出しと、昼食の分は、今川焼きでも買って食べよう。
夕食時も間もなくやってくる。小腹を満たすには、その程度が最適だ。
3
「ふう……」
ベンチに腰を下ろして、一息つく。
衛宮邸を後にして、三十分と少し。
冬木市の商店街、マウント深山で買い物をした後、こうして帰り道にある公園のベンチに座って休んでいる。
学校をサボっている身分な為、できるだけ早く買い物を終わらせて帰りたかったんだが、体はまだ本調子ではない。体に障らないように急ぎはしたんだが、今みたいに力尽きてしまった。
戦利品のレジ袋を隣において、帰り際に買った今川焼きを口に入れる。
「うん。美味い」
温かい生地の優しい食感と控えめな甘さ、中の餡子の上品な甘さが掛け合わさって、とても美味い。夕食の前の小腹を満たすのには、これ以上ないぐらいだ。
続けて、今川焼きを二口食べて、空を仰ぎ見た。
「はあ」
吐いた息は白く、空の中に消えていく。
今日起きた時と変わらない。空は清々しい青色だ。
ただ、それもあと少しの話。
あと二時間も経てば、日は沈み始め、空は赤く染まる。
あの戦いが終わって、早くも半日。
必死で駆け抜けた二週間の果て。
冬木の町は、何事もなく巡っている。
アイツが去った丘で、遠坂と合流して、まず最初にしたことは電話を使って救急車を呼ぶことだった。
柳洞寺の本堂は俺とギルガメッシュの戦いで半壊してしまったが、電話だけは無事だったので、遠坂の言う、魔術協会縁の医院に直接連絡を取って救急車を寄越してもらい、慎二を引き渡した。
強引に聖杯から切り離したから、何かしらの後遺症が残る可能性もあるし、聖杯の器にされた負担から、しばらくは入院が必要だろう、とのことだ。あれだけのことがあったのだから、命があるだけ儲けなのかもしれない。
そのあと、彼女の願い通り、遠坂と二人で衛宮邸に帰ってきた。
帰ってからは、とりあえず腹になにか入れよう、ということになった。とはいえ、俺も遠坂も疲れきっていたので、トーストと賞味期限ギリギリの卵を使った目玉焼き、という非常に簡素なものになった。
そのとき、二人して分量を間違えて三人分作ってしまい、冷蔵庫の貯蓄が切れてしまった、という訳だ。
そして、作ってしまったものを残す訳にはいかない、という二人の意見の合致により、一人分を半分に分けて食べた。
朝食を食べたあと、遠坂は身辺整理のために一度帰宅した。
……具体的に言えば、藤ねえのことである。
なんでも、藤ねえはキャスターに魔術を掛けられ、眠り姫になっていたかもしれないらしい。遠坂が処置してくれたから、一週間眠っていても問題はなかったようなのだが、まさか本当に今日まで眠っていたとは……
あの日からずっと眠っているのなら、もう五日は経っている筈だ。
忘れていた、なんてことは勿論ないが、その五日間で色々あって、そっちに意識を払う余裕が全くなかった。
そんな訳で、遠坂は藤ねえを起こす為に自分の家に帰っていった。
「しかし、藤ねえが五日間寝たきりか」
まあ、一ミリたりとも想像できない。
そんな重症な藤ねえなんてお目に掛かったことはなかったし、ライダーが張った結界に倒れながら、一日と経たず復活した、溢れんばかりの生命力が溢れ出しちゃってるのが、俺の知る藤ねえだ。
そんな藤ねえが五日間寝たきりだった。何もなければ、同じ場所に十秒だっていられない、あの藤ねえが。深く考えるまでも無く異常事態である。
「……遠坂のやつ、どう言い訳すんだろ」
そう。異常事態なんだ。
それは藤ねえから見ても同じで、藤ねえにしてみれば、起きたら自分は五日間眠っていて、目が覚めた場所は遠坂の家ときている。
それで平静を失うであろう藤ねえを納得させることは容易ではない。そして、納得できなければ、しこたま暴れる。そのバーサーク状態の藤ねえの凶暴性は、バーサーカーもかくやというほどに見境がない。
まあ、急に家に押しかけて藤ねえを説き伏せた遠坂だし、今回もなんとか言い含めるだろうし、俺が心配する必要はないのだが。
「……と。少し休み過ぎた」
時計を見れば、時刻はもうすぐ四時だ。
物思いに耽りすぎた。
早く帰って、夕食の支度に取りかからないと。今日からは藤ねえが復活して、我が家の食卓はもとの姿を取り戻し始める。いつまでも、今みたいに呆けてはいられない。気を引き締めないと。
4
坂を上がりきって、我が家に到着した。
「ん?」
門を抜けると、屋敷の中に明かりがある。
家の合い鍵を持っているのは、藤ねえと桜の二人。ただ、藤ねえに関しては遠坂の家で眠っている筈。もし藤ねえなら遠坂も一緒だろうか。桜の可能性もなくはないが、この時間帯は弓道部の練習中だろう。
泥棒の線も考えたが、だったら不用意に家の明かりを付けたりはしないだろう。なにより、隣にヤクザの家がある武家屋敷に盗みを働くなど、少しでも真っ当な神経があるならリスクの高さから断念する。
「ただいま」
家の中の人物に辺りをつけ、玄関を開ける。
すると居間から、音もなく歩いてくる人影が一つ。
「おかえり。勝手に上がらせてもらってるわよ」
ゆったりとした、それでいて決して遅くはない優雅な歩み。
帰宅した俺を出迎えたのは、遠坂だった。
遠坂は玄関にいる俺の前まで歩いてきて、俺の体を少し見まわした後に。右手に持った買い物袋に目をやった。
「なに。買い物?」
「あ、ああ。冷蔵庫の中身、朝飯作ったのでなくなったろ? せめて今日の夕飯ぐらいの分ぐらいは必要だったからな」
買い物袋を少し上げて、遠坂に中身を見せる。
「ふーん。それだけ動けるなら、心配しなくてもよかったかな」
「心配って、なんのさ」
「魔術回路を全開で動かしたから、体にも反動が来てるんじゃないかってこと。それに士郎は回路のほとんどが錆びついてたワケだし、前みたいなことになってるんじゃないかってね」
興味なさげに振り返って、そんなことを言う遠坂。
成る程、俺が心配でわざわざ戻ってきてくれたのか。
「ありがとな、遠坂」
「別にどうってことないわ。元々そうなったのは、わたしが士郎に提案したからだし、それでシロウになにかあったらわたしの責任だもの。協力者として当然のことよ」
「ああ。そう言うと思った」
けど、心配してくれたのは本当なんだから、それに対して礼を言うのは当然だし、感謝はいくら言っても罰は当たらないと思う。
さて、動けると言っても、立ち話なんてできるほど回復はしていないんだし、俺も靴を脱いで居間に向かおう。
居間に付いたら、とりあえず上着を脱いで台所にあがって、買い物を冷蔵庫に入れたあと、緑茶を淹れて遠坂に差し出す。。
「ありがと」
差し出された湯飲みを取って、緑茶を啜る遠坂。
俺も向かいに腰を下ろして、自分の分の緑茶を飲む。
凍えた体に温かい緑茶が沁みる。
「それで、遠坂。一つ訊きたいんだけど……」
「なに?」
「そのだな、なんで俺の家にいるんだ?」
遠坂に俺の家の合鍵は渡していない。
窓から入るにしても、戸締りはちゃんとしたし、窓を割って入ろうものなら、家の結界が作動する。
なんで、家のセキュリティに目の仇にされない入り方は、玄関から堂々と入るしかない。
その方法で家に入れる人間は、家主である俺、合鍵を持っている藤ねえと桜の三人だけ。遠坂が入るには、この三人の誰かの協力が不可欠だ。
「ああ、そりゃ気になるわよね。藤村先生に入れて貰ったわ」
湯飲みを置いて、答える遠坂。
「でも藤ねえ、今いないぞ」
「藤村先生なら、学校に行ったわ」
「ああ、成る程。一応訊くけど、藤ねえどうだった」
「藤村先生にしては、珍しく気が重そうな顔をしてたわ。まあ、無理もないけど」
うん。無理もない。
事情があったにしても、五日間の無断欠席は事実な訳だ。
藤ねえが嘘をつくような人ではないことは知られているだろうし、事情を正直に話せば大丈夫だとは思うが、そのことと藤ねえがどう思うかは別の問題だ。
この家での顔はともかく、生徒の前での藤ねえは紛れもない人格者だ。教師としての藤ねえが、五日間の無断欠席をどう思うかは言うまでもない。
「まあ、藤ねえなら大丈夫だ。明日になったらケロっとしてるだろ」
「そうね。あの人はこれぐらいでへこたれるってイメージ湧かないし。さすが士郎、藤村先生のこと、よく判ってるのね」
悪戯っ子のような微笑みで、俺の言葉に同意する遠坂。
「まあ、ガキの頃からの付き合いだしな」
平静を努めて、緑茶を飲む体で遠坂から視線を逸らす。
……なんというか、今のは反則だ。
で、最初は雑談を交わせてはいたんだが、これ以降を会話はめっきりなくなってしまった。というのも、お互いに何を話せばいいのか解らず、気まずい沈黙が広がってしまった。
考えてみれば、聖杯戦争という事情もなく遠坂と向かい合うのはこれが初めてで、一体何を話せばいいのか、見当もつかない。
だが、沈黙というのは時間が経てば経つほど圧し掛かる重さを増していく。
……まいったな。
こうなったら、多少ぎこちなくても会話を取り繕わないと。
「なあ遠坂」
「衛宮くん、ちょっと」
声がはもった……そういえば、いつかの屋上で、こんな場面を出くわした気がする。
「あ……衛宮くんからでいいわ。なんの話?」
「いや、俺は沈黙に耐えかねて声を掛けただけだから、遠坂から話してくれ」
ただ、お互いにそこでの経験が活きたらしい。
あの時ほど動揺せず、俺は事情を説明して、遠坂の話を促すことに成功している。
遠坂は少し驚いたあと、ティーカップの紅茶を含んで一息つく。それでリラックスしたのか、俺に促された遠坂は口を開いた。
「じゃ、じゃあわたしから話すわね。士郎、今日、その……藤村先生と大事な話があるの」
「藤ねえと、話? なんのさ」
「その、わたしと士郎の関係について」
「俺と遠坂の関係?」
俺が遠坂の言葉を繰り返すと、遠坂は顔を赤く染めてから頷いて、それっきり俯いてしまった。
一応俺も、遠坂の言葉と様子から、どういう意味か察し取れないほど鈍くはない。
ということは、つまりだな、そういう……
「えっ。遠坂、本当に話すのか⁉」
「ええ。士郎には悪いけど、もう話をしたいって藤村先生に言ってて、その件でこの屋敷に入れて貰ったから……」
「ってことは、もう後戻りはできないってことか」
ここまで来て誤魔化す、なんて手は残念ながら藤ねえには通じない。
いや、それより訊いておくべきことがある。
「その話はひとまず置いておいて、なんで急に藤ねえに話があるなんて言ったんだ。昨日の今日だぞ」
「うっ。判ってるわよ。我ながら軽率だったと反省してるわ。けど、このタイミングを逃したらダメだって思ったのよ」
「それは、なんで?」
「だって、藤村先生は士郎の保護者だもの。わたしたちの関係を今後どうしていくにせよ、藤村先生には報告しておくべきだって思ったの」
そこまで聞いて、納得した。
だって、遠坂はこういうヤツでなきゃ張り合いがない。
きっと遠坂は、なあなあにしておくのがイヤだったんだ。聖杯戦争の時だって、貸しだとか借りだとか、そんな事を気にして、何度も俺を助けてくれた。
容赦はないし、手加減なんて全然してくれなかったけど、いつだって公平を望み、通すべき筋が通っていなければ気が済まず、その信条の為に、本来敵である筈の俺を何度も助けてくれた。
そんな、とびっきりに甘くてヤツが遠坂凛なんだ。
「ハハ」
知らず、笑いが零れていた。
「な、なに笑ってるのよ⁉」
「いや、悪い。遠坂らしいって思って」
「だから判ってるって言ったでしょう。けど、仕方ないじゃない、筋は通しておかないと落ち着かないもの」
「……ああ、そうだな」
遠坂の言っていることは正しい。
俺たちの関係をこれから続けていくうえで、俺が世話になっている人に了解を取っておくのは、必要な事だ。
「よし!」
そうと決まれば話は早い。
すぐに立ち上がり、自分の分の湯飲みを持って台所に向かう。
「ど、どうしたのよ」
「飯を作ろうと思って、そういう大事な話は、お互いに一度腹を一杯にしてからの方がしやすいだろ?」
それに、藤ねえのことだし、腹を一杯にすれば意外に早く納得させられるかもしれないし。
「遠坂が決めたことだからな。文句なんてないし、俺は俺でできる限り遠坂をサポートするよ」
エプロンを装着し、さっき冷蔵庫にしまった食材を用意していく。
今日の主菜は鶏もも肉の唐揚げだ。
藤ねえにとっては久しぶりの食事になる訳だし、できるだけ早く本調子になるようにっていうのが理由だ。
昨日ほどではないが、今日もできるかぎり豪勢にいく。
まずは包丁とまな板を取り出して、もも肉を皮ごとぶつ切りに。次にビニール袋に調味料を入れ漬けダレを作り、切ったもも肉にもみ込んで、その後は少なくとも三十分以上は冷蔵庫で漬け込む。
その間に副菜と汁物を作る。
「わたしも手伝うわ」
作業に取りかかろうと、冷蔵庫の野菜室に手を掛けたときに、遠坂からのそんな声が聞こえてきた。
「え。いいよ。今日の遠坂は客人なんだから、くつろいでてくれ」
「そうしようと思ってたけど、気が変わったわ。性に合わないし、わたしが作った品が美味かったら、藤村先生もわたしたちの関係を認めてくれるかもしれないじゃない?」
「あ、あはは」
遠坂の事だから本気なんだろう。
前回の遠坂と藤ねえの対決では、俺の心の平穏のために藤ねえの応援をしたが、今回ばかりは遠坂の味方をせざるを得ない。
笑うしかない。
藤ねえ。申し訳ないが、せめて復活早々死なないことを祈る─────
5
夕飯もいよいよ仕上げ。
遠坂も副菜のポテトサラダと汁物の卵を使った中華スープを作ってくれた。
中でも中華スープは味見した時はとても美味かった。遠坂にとっても会心の出来らしい。
みそ汁の作り方を知らないと言っても、こと中華に限っては遠坂に一日の長がある。これまで中華に対して偏見を持っていたが、これを機に色々教えてもらってもいいかもしれない。
そして、残る今夜の主役の唐揚げのみだ。
もも肉に卵、小麦粉、片栗粉で衣をまとわせ油に投入。
パチパチと油を弾ける音が徐々に澄んだ音になってきたらいよいよ頃合い。パットに上げて油を落としたら、盛り付けるだけ。
油の弾ける音に何げなくリラックスしていたところ、玄関の扉がガラガラと引かれる聞こえた。
その人物は疲れているのか、足音もいつもより小さく弱々しい。
「……」
これは思っていたより重症だな、と嘆息しつつも、鍋の前からは移動しない。
今は油を扱っていて、おいそれと離れる訳にはいかない。藤ねえの対応は、遠坂に任せよう。
「ただいま~」
そう思っていた矢先、当人が弱々しい帰宅の声とともに居間に入ってきた。
意外な事に、足音の弱々しさと少なさに反して、玄関から居間に入ってくるまでの時間は、特段遅くなってはいなかった。
声のした方に視線を向けてみると、声の弱々しさに比例して、表情もいつにないほど曇っていて、疲れ切っている事がわかる。
「おかえり。藤ねえ、随分疲れてるな」
「そりゃあ疲れるわよ。起きたら遠坂さんの家で、最後に寝た日から五日も経ってて、病院で検査受けて、学校に事情を説明してたらねえ。もうヘトヘト……だから、今日はヤケ酒よお!」
寝ていた四日間のツケを支払わされるように濃密な一日を過ごしたと語る藤ねえ。
そういう藤ねえの手元を見てみたら、ビニール袋にはかなりの量の缶ビールが入っていた───今夜は無理矢理にでも荒れ狂う気らしい。
この人、ホントに遠坂の話を聞くつもりはあるのだろうか。
「でも、目立ったケガとか病気がなくてよかったじゃないか。俺だって心配したんだからな」
「うう。心配させてごめんよお士郎」
「うひゃ。冷たい手で急に抱きつくな。いまは油使ってるんだからな⁉」
油の弾ける音は、水分を失って既に澄んでいる。もう頃合いだ。
さっさとパットに上げて盛り付けてしまいたいのだが。
「コホン」
と。俺と藤ねえの間に割って入る咳払いが一つ。
「藤村先生。これから丁度夕食なんです。盛り付けと配膳はわたしたちで行いますから、どうぞ座ってお寛ぎになっていてください」
柔らかで、それでいて凛とした場を制する声。
相手を尊重し、決して不快にはさせず、かといって一歩も退かない。
「はい。了解しました」
故に相手は逆らえず、藤ねえは元々弱っていたのもあって、お酒を冷蔵庫にしまったあと、借りてきた猫のように座って小さくまとまってしまった。
ある意味、我が家のヒエラルキーの頂点に位置する筈の藤ねえは、いとも容易く突き崩される。
「今日は鳥の唐揚げだそうです。わたしも二品ほどお手伝いさせて頂きました。お口に合うとよいのですが」
「はい。とても楽しみです」
意識して、あの光景には触れないよう心掛ける。
安心するべきなのか、戦慄するべきなのか。
遠坂凛と藤村大河の力関係は、未だ覆る気配はない。
ならば、遠坂に敵わず、藤ねえを御しきれない俺に出番はない。
ここは冷静に、努めて冷静に、夕飯を盛り付けていく。俺にできるのは、盛り付け終わったあと、配膳の呼びかけで二人の会話を一度断ち切って、楽しい夕食になることを祈る事ぐらいである。
「そういえば、セイバーさんは?」
ちょうど盛り付けが終わった頃。
キョロキョロと周りを見まわした藤ねえの言葉。
それは、何気ない一言にして、不意に落ちた落雷だった。
「セイバーなら、丁度今朝帰ったんだ」
不自然に聞こえないように答える。
いつかこうなると判っていたのだから、そのときの為の説明ぐらいは用意していた。
「えっ。なにそれ。わたし聞いてないわよ⁉」
「そりゃ、藤ねえが起きた頃にはもう帰ってたからな。セイバーも残念がってたよ、藤ねえにお別れが言えなくて」
そんな事を訊いている暇はなかったけれど、きっとそう思ってくれている。
「そっか。まあ、もう会えないって訳じゃないしね。セイバーさんだって気が向いたらこっちに来るわよね」
「……そうだな」
6
夕食は終わり、食器を洗って、ついに勝負の時は来た。
「はあ~。食った食った」
げっぷする勢いで腹を叩く藤ねえ。
夕食を食べてる間にすっかり調子が戻って、ご飯なんか四杯もおかわりしやがった。
これまで五日間まともに飯を食べてなかったのだから、当然と言えば当然かもしれないが、普通は四日間も飯を食べてないと逆に食欲なんか湧かないと思う。
まあ、藤ねえが普通だった時なんかないので考えるだけ無駄なんだろう。
大体、いつまでも大人しい藤ねえなんか見てたら、こっちの調子まで狂うので、こっちの方が精神衛生的にはいいのだが。
「いや、遠坂さんの中華スープ美味しかったわ~。士郎が中華を作らないから、ウチって中華でないのよね」
「お口に合ったようでなによりです」
藤ねえの感想に、和やかに答える遠坂。
しかし、遠坂の作った人参と玉ねぎの中華スープは確かに美味かった。
溶き入れた卵はフワフワで、鶏がらと胡椒の旨味と僅かな辛さのバランスはが絶妙だった。
なにより、胡椒によって冷えた体がじわじわと温まり、他のおかずの箸まで進んだ。
きっと遠坂も、本調子じゃない藤ねえが負担なく夕飯を食べられるように気遣ってくれたのだろう。
「あ。勿論、士郎の唐揚げも美味しかったよー」
「そりゃどうも」
────さて。
この温かい食後の雑談も程々に。
本題を先送りにしてもいい事は何もありません。
「では、藤村先生。昼の件ですが」
「……ん。ああ、話があるって言ってたね。いいよ、可愛い生徒からの相談ならなんでも乗っちゃうわよー。なんなら介抱してくれた礼も合わせて、五割増しで親身になっちゃうわよー!」
ドン、と胸を叩く藤ねえ。
いつも親身になって、生徒の相談に乗る藤ねえの五割増し。
頼もしいが、恐ろしい。
藤ねえの目の輝かせぶりはなんだかもう、生命力に溢れすぎている。
これがもし学校で行う生徒相談ならば、相談する内容によって、この家を飛び出して相手方の家に赴き、そっちからも話を聞いて、問題解決を徹底的にする勢いだ。
もしかしたら、これからする話と進み方によっては、むしろ藤ねえが俺にとっての山場になるような気さえする。
「いえ、その件なんですが……」
遠坂には、まずは藤ねえの認識の訂正から入った。
「いま、わたしは“生徒”として藤村先生に相談があるのではなく、衛宮くんの“保護者”としての藤村先生にご挨拶に参ったんです」
単刀直入。
それでいて奇襲な訳でもない。遠坂はあくまで、導入からこれ以上ないほど自然に本題へと入った。
「この度、わたしは衛宮くんとお付き合いをさせて頂くことになりましたので、衛宮くんの保護者である藤村先生にご挨拶に参りました」
遠坂は声と姿に一切の曇りはなかった。
堂々としているが、同時に誠実に、藤ねえに俺たちの関係を認めてもらおうという思いが伝わってくる。俺が保護者の立場として、こんな振る舞いをされたなら、二つ返事で任せてしまうだろう。
藤ねえの方は、一瞬驚いた顔をして、すぐに学校で見る真面目な顔つきに変わる。
それで、藤ねえも、遠坂の話を真剣に捉えていることを確信する。
つまり、ここからが本番ってことだ。横目に盗み見た遠坂の目つきは、より一層真剣になっていた。
「……」
それから、少しだけ沈黙があった。
遠坂は、藤ねえの出方を窺っているのか、言葉の続きを止めていた。
その藤ねえは何も語らず、宝石を質を見定めるように、俺たちの顔を交互に見る。そして、湯飲みのまだ冷めていないお茶を一口飲んで、湯飲みを机に置いた。
「……そっか」
言って、藤ねえはゆっくりと頷いた。
「遠坂さんとか、これは予想外だったな」
「藤ねえ……?」
藤ねえは微笑んでいる。
その顔は、これまでに見た事がないような、あったような、とにかく不思議な顔をしていた。
ただ一つ言える事は、俺のことを真剣に案じている、保護者の顔がそこにはあった。
「つきましては、わたしと衛宮くんの交際を認めていただこうと───」
「はい。判りました、認めましょう」
遠坂が言い終わる前に、藤ねえは答えていた。
この返しは遠坂にとっても予想外だったようで、一瞬横目に見た時には、珍しくキョトンとした顔をしていた。
「……あの、いいんですか?」
「まあね。士郎が決めたことなら、最初から口出しする気はなかったわよ……まあ、危ない子だったなら、さすがに止めるように言ってたけど」
「む」
腕を組みながら、困った表情で言う藤ねえ。
なんか釈然としないぞ、今の。
すぐにでも抗議したいところだが、それでは遠坂の頑張りが無駄になる。ここは、思わず出た不満の声だけで収めておくしかない。
そして、俺の不満もどこ吹く風の藤ねえ。
既に真面目な顔に戻った藤ねえは、遠坂をもう一度見据える。
「それに、遠坂さんなら心配いらないと思うしね!」
微笑みはそのまま、力強く言い切った。
「……」
「……」
その、なんだ。
藤ねえは、おそらくは遠坂以上に、遠坂の事を信頼している。
そんな風に確信を持って言われると、俺が言われている訳ではないのだが、なんだかこそばゆくなってしまう。
藤ねえの言葉にどう返したらいいかお互いに判らず、俺たちは二人で顔を見合わせた。
「遠坂さん」
ピシャリと、顔に冷水を浴びせかけられるような一言。
これまで少しずつ間に緩んでいた空気が一気に引き締まる。
顔を見合わせていた俺たちが、ほぼ同時に藤ねえの方を見ると、笑いをしまって、真剣にまっすぐと、遠坂の顔を見ていた。
「はい」
遠坂が返事をする。
「こちらの方こそ、士郎のこと、よろしくお願いします」
言って、藤ねえは深々と頭を下げた。
「……はい。この頑固者と付き合うんですから、わたしも全力で受けて立ちます」
遠坂は偽りのない言葉で応える。
無意識なのか、ちょっと猫被りが剥がれていた気もするが、そうした本音の方が、藤ねえは喜んでくれると思う。
「うん。ありがとう遠坂さん!」
思った通り、藤ねえは満面の笑顔で顔を上げる。
遠坂の答えに満足してくれたみたいだ。
「ふう」
事が終わった事を感じて、安堵の息を吐く。
始まる前は色々と不安があったものだが、終わってみれば案外、なんてことはなかった。
「しかし、ふーん、そっかー。士郎もついに彼女持ちかあ。青春ですなあ」
「う」
しまった。
何事もない、と判断するには甘かった。
真面目な藤ねえの時間が終わったって事は、もとの藤ねえに戻ったってことだ。
「これまでバイト三昧で浮いた話一切ないから、心配してたけど、わたしの知らないところでやることやってたのね~」
「俺のこと言えた立場か⁉ 藤ねえこそ、その年で浮いた話一つも聞かないのはどうなんだ」
「ぬわっ⁉ 人が気にしてる事を……ホントに可愛げないわねえ」
「男に可愛げなんて求められても困る……ったく、ちょっと元気になるとすぐこれだ」
言って、湯飲みの緑茶を啜る。
やっぱり、藤ねえは俺のことを冷やかしたかったらしい。
元気がないとこちらも調子が出ないが、平常運転だと、それはそれで扱いに困るのが藤ねえらしいといえばらしいのだが。
「ふふ」
不意に、隣にいる遠坂の笑い声が聞こえた。
「おい遠坂、ここ笑いどころじゃないぞ」
「いえ、ごめんなさい。衛宮くんと藤村先生が仲がとても良さそうで、面白くてつい」
……伏兵は、すぐ隣に潜んでおりました。
クスクスと口を押えて笑う遠坂を見て戦慄する。
どうしよう。この家の平穏はもう訪れないのかもしれない。
「遠坂さんは素直でいい子だねえ。士郎とは大違いで、お姉ちゃん悲しいよお~」
ヨヨヨ、と目を押さえて泣くジェスチャーをする藤ねえ。
俺の隣の遠坂は、穏やかな笑みでそれを受け止める。
さっき少し剥がれはしたが、依然、遠坂は学園のマドンナ、文武両道の優等生として猫被りを継続中であるので、藤ねえは遠坂の本性には気づいていない。
「ホント士郎には勿体ないぐらい良い子よねえ、遠坂さん。どっちから告白したの?」
ん。それは─────
「俺から、の筈だけど……」
藤ねえの言葉で、俺は問題を認識した。
仮に、俺たちの関係で、告白に相応する行為を行ったのは、俺の方からだと思う。
確かに、夜の外人墓地で、俺が「遠坂が好き」だと伝えた。
けど、あれが告白だったかと言われると、断言はできない。
実際、遠坂もランサーに指摘されるまで、俺たちの関係にそういったものではないと思い込んでいたみたいだし─────
「……」
だから、告白といった恋人の開始を意味する儀式を、俺たちが通過したとは、いえないのかもしれなかった。
答えられなかった遠坂と、答えに言い淀んだ俺の姿を見て、藤ねえは再び真剣に俺たちを見る。
「ごめんね。遠坂さん、悪いんだけど、さっきの言葉は少し保留にします」
遠坂は答えられない。勿論、俺も否定できない。
これは必要な過程を疎かにした代償。やらなければいけなかった課題を先延ばしにした、負債の追及だったのだから。
「二人なら、わたしが何を言いたいのかは判ってると思うし、二人の気持ちも判ってるから、撤回じゃなくて保留ね。まずは“ソレ”を済ませること」
「はい。わかりました」
「わかった」
藤ねえの保護者としての指摘に、二人で答える。
思わぬところで、急所を突かれてしまった。
「ああ。それと、士郎は少し外してくれれない? わたし、遠坂さんと二人きりで話したいから」
「え?」
ここで、意外な提案があった。
どうやら藤ねえは、遠坂と二人きりで話したいらしい。
「俺はいいけど、遠坂はいいのか?」
「わたしは大丈夫です、藤村先生」
遠坂の答えを聞いて、俺は居間を後にした。
「さて、風呂でも沸かすかな」
藤ねえと遠坂の秘密の階段が終わる頃に、二人が風呂に入れる状態になっているのがベストだ。
そう判断して、俺は洗面所に向かった。
幕間₋二人きりの女子会。あるいは二者面談。
少年が去り、居間には少女と保護者の二人だけとなった。
「……」
二人は何も語らず、約二分が過ぎた。
少女・遠坂凛は姿勢を崩さず、少年の保護者である藤村大河から顔を背けない。
話を切り出すならば、二人で話がしたいと少年を今から追い出した大河からだ。その大河が声を発するまで、姿勢で誠意を見せ続ける。
それが現状、凛にとれる最善である。
「……」
対する大河は、視線をどこかに置き続けることはなかった。
既にぬるくなった緑茶を啜り、右に左に視線を動かしながら、凛を様子を窺うようにチラッと見やる程度。
話を切り出すタイミングを計っているのだろうか。
「遠坂さん」
緑茶を飲み干し、湯飲みを机に置いた大河がようやく口を開く。
コトッ、と机が出す小気味のいい音が静かな部屋の中に響くが、二人は気にも留めない。
「もしかしてだけど、結構余裕なかった?」
続く言葉は、痛々しいまでに本質を突く一言だった。
「……そうかもしれません」
少し間を置いて、凛は答える。
実際、今の自分は本調子ではないと、凛は考えていた。
普段の自分であれば、保護者への挨拶だって、もう少し様子を見て、最適なタイミングを図ったのだろう。
だが、諸々の理由から疲れていて余裕がなく、さらに慣れないことに焦って、結果は上首尾とは言えないものだ。これを絶不調と呼ばずしてなんという。
「随分と素直ね~、学校だとのらりくらり躱すのに」
「今のわたしで藤村先生相手に誤魔化せるとは思えませんし、誤魔化すのは不誠実でしょう」
偽らざる本心を告げる。
多少、いや大幅に予定と狙いを外れたが、やるべき事は変わらない。
遠坂凛と衛宮士郎の交際を、保護者である藤村大河に認めてもらう。彼女に、自分になら、少年を任せられるという信頼を勝ち取る。
いくら進捗が想定を外れていても、それに関しては一つの問題を除いて、概ね果たせているといっていいが、せっかく手に入れた信用を失う、なんて結末はご免だ。彼女に対しては、変わることなく真正面から向き合う。
「学校では文武両道の優等生でも、苦手分野はあったのね」
ニシシッ、なんて笑い声が聞こえてきそうな、猫のような笑顔で語る大河。
────これは、からかわれている。
凛は心の中で苦い顔をしながら、どれだけ自分が不調なのか改めて身に染みる。普段から悟らせさえしないだろう弱点を察されている。一丁前に強がることすらできていない。
それとも、あるいは……
「ええ。これに関しては経験不足で……なにしろ初めてなものですから」
自嘲からか、心底から漏れた苦笑とともに、本音で答える。
「お。もしかしてわたし、遠坂さんの弱点見つけちゃったかな~」
「っ……茶化さないでください」
気づけば、大河がこの家に帰って時から維持していた臨戦態勢。優等生の仮面も剥がれかけていた。
先ほどの通り、誠実な対応を心掛けている、というのもある。しかし、それと同じぐらいに、目の前の女性に対して強がるのが馬鹿らしくなってしまった。
常に自然体の彼女を前にして、自分は何を身構えているのか、と。
要は、絆されはじめているのだ。
「だけど、今の遠坂さんの方が好きだよ、わたし。なんていうか、人と話してる、って感じがして」
「まるでわたしが、鉄面皮の冷血漢のように語りますね」
「ん? ああ、ごめん。そういう意味じゃないのよ。ただ、学校での遠坂さんは年齢にしては落ち着きすぎてるなって。なんというか、過ごしているなかで自分の事を上から捉えて操縦してるみたいな」
その言葉に対する答えまでには、少し間が空いた。
大河の言葉に、凛は少なからず衝撃を受けていた。
先ほどから彼女の言葉は、全て的を射ている。少なくとも今の凛には全弾命中。蜂の巣である。
「その通りです。藤村先生は鋭いですね」
「よしなさい。照れるでしょうが」
「ええ。わたしにはやりたい事があって、今まではそれを最優先に行動していました。学生としての生活も楽しいには楽しいのですが、やっぱりそれを優先してしまうんです」
「へえ……」
自然と、自分の身の上話まで始めてしまっていた。
勿論、重要な部分はぼかしてある。話す訳にはいかないし、大河に理解してもらうにはこれぐらいで十分な筈だ。
「“今まで”ってことは、“今”は違うの?」
「……判りません。ただ、今はそれ以外に、やりたいコト兼託されたコトがあるというか」
「それってどんなのか、訊いてもいいヤツ?」
「黙秘します」
「むむ。やっぱり手強いわね、遠坂さん」
凛の姿勢はさっきとは語らない。
嘘や誤魔化しはできるだけ避ける、話せないこと以外は、できるだけ本音で答えて誠意を示す。
なので、話せないコト、話したくないコトも正直に伝える。黙秘する、と。
───なんだ。わたし、調子戻ってきてるじゃない。
誠意を示す。話せない、話したくないコトがある。その二点を満たすものとして、黙秘を選んだ。遠坂凛の冷静さが僅かながらも戻ってきている。
一言で言えば、肩の力が抜け始めている。
それは何故か、なんて、考えるまでもない。
「……ありがとうございます。藤村先生」
感謝を口にする。
そこでようやく、今まで曖昧な理解だった、彼女がどうして慕われるのかが、明確に掴めた気がした。
彼女は“教師と生徒”、“大人と子供“といった枠で人間を見ない、どのような者も一人の”人間“と捉えて真剣に向き合っている。
教師として、保護者として、生徒や少年を『自分が守るもの』として心配していても、彼や自分や生徒たちを『何もできないモノ』として侮らない。ある意味で、相手以上に相手を信頼している。
「ん? なんのことだか判らないけど、遠坂さんには感謝されるのは嬉しいから、どいたしまして」
今だってそうだ。少女の感謝を、心から受け止めて喜んでくれている。
その様子を見て、破顔する凛。
満面の笑みで返されては、こちらの顔も綻ぶというもの。
さて、これで会話は一段落。小休憩の時間になったと凛は判断して、居間に設置された暖房設備の上で温められたお湯を急須に注ぎ、再び湯飲みを注いで、熱い緑茶を飲んで一息───
「それで、士郎のどこが好きになったの?」
「ブフッ⁉」
あ、なんて前置きして、急に思い出したように発された、何の脈絡もない一声。
故意か無意識か、こちらが油断していたタイミングを正確にとらえた一撃は見事に命中。おかげで少女は飲んだ茶が気管に入って噎せる。
「い、いきなり何を訊いてくるんですか⁉」
「あら。遠坂照れてる、珍しいなー」
ゲホゲホッ、と気管に入った液体を追い出しながら、言い返す凛。
対する大河はケラケラ笑いながら、余裕に満ちた振る舞いだ。この状況に於いて、両者の力関係は逆転した。
「別に話したくないなら話さなくていいよ。個人のプライバシーだしね」
依然、大河は悪い笑顔を浮かべ、凛をからかう。鬼の首を取ったようである。
「……彼に内緒なら」
「勿論。これでも口は堅いほうなんだから」
恥ずかしさから目を背けて、一瞬俯いて考えてから、せめてもの情報を求める少女に、彼女はフフン、なんて声が聞こえそうなほど胸を張って答える。
それは信頼できる、と凛は思った。
今向き合っている女性は、人の弱みを無闇に広める人ではないと理解している。
その誠実さへの返礼だ。今は心からの言葉を伝えよう。
「彼と正式な交流を持つようになったのは最近です。わたしと彼にある共通点があることがわかって」
そうして、少女は語りだした。
先ほどの身の上話と同じく、具体的なところはぼかして。
少女にとっても、保護者にとっても、今必要なのは、少女の彼には“共通点”があって、それで親しくなった、というところだ。
「彼と関わるうちに放っておけなくなって。藤村先生はわたしよりよくご存じでしょうが、危なっかしいでしょう、彼」
「……そうねえ。昔から士郎はそうだったわ」
言葉にしながら、少年との記憶が頭の中で再生され続ける。
夜の廊下、教会からの帰り道、夕暮れの我が家での語らい、星空の下の外人墓地、廃墟となった城、魔術刻印の移植、朝焼けの帰路────そして、黄昏の校庭。
その一つ一つを思い返す度に、体が熱くなって、心臓が裏返るような痛みと浮遊感が離れない。
───うん。やっぱりわたし、士郎のコト好きだ。
遠坂凛という人間は、もうどうしようもなく、衛宮士郎という男の子に心惹かれてしまっている。
今更になって、ようやく実感できたソレを自嘲する。こんなコトもできないで、何が挨拶だろう。自分はまだそんな出発点に立つ準備さえできていなかったというのに。
「でも、彼はそれでいいとも思っています。そのままの彼に救われているんです。ああいうヤツがいてもいいんだ、って」
だから今は、ようやく確認できた感情を、目の前の彼女に伝える。
順番は逆になってしまったけれど、これだって少年が隣にいてくれた時に伝えるべきだった事だ。
余裕のなかった自分は、そんなことにすら思い至らなかった。まずはそんな未熟な自分を、色恋に振り回されている自分を自覚し、それを受け入れる必要がある。これはその為の通過点でもある。
「でも、それだと彼は幸せになれない。彼は不器用で、どこかで道を踏み外すかもしれませんから、それが放っておけなくって……そんなところです」
これは自分にとっての気持ちと決意の再確認だったらしい。
あの朝焼けと赤い騎士に向かって誓った言葉。そんな面倒なコトを引き受けてしまうなんて、我ながらどうかしている。
ただ、後悔はしていない。
きっと胸を張れている筈だ。
遠坂凛はあの頑固で、不器用で、感じなくてもいい罪の意識に苦しむぐらい、どうしようもなく優しい少年の幸せを、心の底から願っている。
「おお、これは……」
聞き終えた大河は、驚いたように口を開けて、そう漏らした。
その後、少女の言葉を噛みしめるように目を閉じて、少し間を空けて開かれた彼女の顔は───これ以上ないほどニンマリしていた。
「な、何か問題でも⁉」
恥辱から、一瞬で顔を赤くした凛が
「いや、別に~。でも遠坂さんって、意外とロマンチスト?」
「……知りません!」
ダメだ。この話題で、遠坂凛は藤村大河に勝てない。
これから彼女と関わるなかで、しばらくはこの話題に持っていかれないように立ち回る必要があると、肝に銘じる凛。
本調子ではないなかで、既に目の前の相手にリベンジする準備をしている。
───この屈辱は、明日にでも倍にして返してやる。
心中でこんなことを宣うあたりが、転んでもただでは起きない、遠坂凛が遠坂凛たる所以である。
「いい話聞けたわー。これだけで五歳は若返るわね~」
「お役に立てたならよかったです」
最後の意地で、せめてもの文句を言い捨てる。
「でも、やっぱり遠坂さんで安心した。遠坂さんが傍にいてくれるなら、士郎は大丈夫ね!」
今度は邪気のない笑顔で何の疑いもなく、断言する大河に凛は驚く。
「そうですね。そうできたらといいのですが……」
───そんな顔で断言されたら、こっちだって否定できないじゃないですか。
否定する気なんて最初からないけれど、目の前の女性のあまりに綺麗な笑顔を裏切ることなんてできなかった。
そして、一瞬間が空いた時。
「おーい」
呼びかける少年の声で、会話が途切れる。
「二人とも、風呂沸いたけど、入るかー!!」
遠く離れた場所から聞こえる張り上げた声が居間に届く。
風呂、という言葉からして、彼は今、洗面所にいるのだろうか。
「じゃあ、生徒相談はこれでおしまい。一番風呂、貰っていい?」
「はい。相談に乗ってもらったお礼ということで」
「やったー! 風呂上がりの一杯は最高なんだなー!」
歌うように言葉を発し、踊るような動きで、居間から出ていく大河。
数秒後、入れ替わりで居間に入ってくる少年。その顔は、浴室のある洗面所の方、要はすれ違った大河の見た後、不思議そうに少女を見る。
その顔を見て、さっきまでの会話が早送りで再生される。
「藤ねえがえらくご機嫌そうにスキップしてたんだけど、なにかあったのか?」
素朴な声で、訊ねる少年。
赤い少女は耳まで赤くなった顔を見られないよう顔を背けて、
「知らないわよ、馬鹿……」
7
「……ふう」
時刻は午後九時。
藤ねえが帰ったあと、俺も最後に風呂に入って、体が芯まで温まった。
まだ鍛錬ができるほど魔術回路は回復していないし、明日からまた学校に通い始める訳だし、今日は早く寝よう。そう思って、自分の部屋に戻るために縁側を通る訳なんだが────
「少し話さない?」
なんて言って、縁側に座って俺を待っていた遠坂がいた。
その誘い文句はあまりに完璧で、断ることなどできない。
ないのだが、あまりに完璧すぎて、生半可な言葉では、その完璧さを掠めてしまいそうだ。
結果として、言葉ではなく行動で答える事にした。無言で遠坂の隣に座る。
冬の夜だ。それなりに冷え込んでいるが、この縁側はやはり少し肌寒い程度だった。
「前にもこんなことがあったわよね」
「そうだな」
言われて、数日前に雪が降る夜の、縁側で話した事を思い出す。
あの時も、俺は風呂上りだったっけ。
それと、あの時は遠坂が中々話を始めず。結局俺の方から話を切り出した。
それで、遠坂がこの家に切嗣が張った結界のこととか、学校に通う理由とか、これまでに魔術師として積み重ねた時間とか、とにかくお互いのことを語りあった。結局、最後は遠坂が怒りだしてしまって、夕暮れの校庭を続きをするなんて言ったもんだから、身構えていたんだけど。
「まさか次の日にはデートに行くことになるとは思わなかったな」
朝食を配膳していたら、いきなり「デートに行く」、なんて言われたら、どうしていいか判らない。結局、こちらの講義も虚しく連れ出され、いろんなところを連れ回された。
まあ、その前に遠坂の寝起きを見てしまったりして、色々と余裕がなかったりもしたのだが、それを言ってしまうと、また面倒なことになってしまう気がするので、もうしばらく俺の胸の内に仕舞っておく。
「いい息抜きにはなったでしょう? まあ、最後は雨とキャスターのせいで散々だったけど」
公園で遠坂の用意してくれた弁当を食べて、遠坂の予定では午後も俺を連れ回す予定だったようだが、雨になって中止になった。帰りのバスの中で、キャスターの作った結界の中に囚われた。
あの結界はどういったものなのか、俺には皆目見当もつかなったけど、遠坂ならあの結界がどんなものなのか判るんだろうか。今はそういった事を訊く場ではないと思うが、いつか機会があったら訊いてみてもいいかもしれない。
それで、キャスターの宝具でセイバーを奪われて─────
「まさか肩に穴があくとは思わなかった」
「そういえば、もう肩は繋がったの?」
「ああ。もう大丈夫だよ。まだ少し痛みはあるけど、問題なく動くよ」
左肩を回して、もう大丈夫とジェスチャーしてみる。
と。
「ん」
「どうしたの? もしかして、まだ痛むの?」
「いや、なんでもない。けど、まだ違和感があるみたいだ」
肩に穴が空いた場所が、異様に硬く感じた。
「気を付けなさいよ。治ってるのが奇跡みたいな傷なんだから、また悪化させたら許さないわよ」
「む。判った。もう少し安静にしてるよ」
遠坂には要らない心配をかけてしまった。
実際のところ、肩の違和感は後遺症ではない。快方に向かっているものなんだと、今の俺には理解できる。
けど、今は肩以外にも体はボロボロなのは事実なんで、肩の件だけを訂正しても仕方がない。それに、遠坂は俺の体の心配をしてくれているので、その気遣いを無碍にはできない。
「そうしなさい」
それきり、前回の振り返りの話題は終わってしまった。
だから今度は、俺から話題を振ってみる。
「そういえば、藤ねえの話聞いてから、疑問に思ったんだけど」
「なに?」
「藤ねえが病院で検査を受けたって言うけど、遠坂が連れて行ってやったのか?」
「ああ、その事ね」
藤ねえは、遠坂の家で起きて、病院で検査を受けてから、事情を説明しに学校に行ってきたと、今日一日のスケジュールを文句のように言っていた。
まあ、十中八九遠坂が病院に連れて行ってくれたのだろうと思っていたが、この際なんで訊いてみようと思う。
ちなみに藤ねえだが、遠坂の話が終わって、一番風呂を浴びた後、おつまみとお酒で晩酌してそれなりに騒いでから帰っていった。
帰り際に、
『言い忘れたけど、二人とも不純異性交遊はダメだよ! くれぐれも節度を持って、清く正しいお付き合いを心掛けること!』
なんて伝言を遺していった。もう完全に元の調子を取り戻した藤ねえである。
また明日から、騒がしい日常が帰ってくるに違いない。
「そうよ。体に問題がないのは判ってたけど、念の為ね。他にも藤村先生を納得させる為とか、慎二の様子を見に行く為とか、色々目的はあったけど」
「なるほどな。これで合点がいった」
いくら遠坂が、藤ねえの体に異状がないと判っていても、藤ねえには自分が健康かどうかなんて判らない。普通に五日間も眠っていたとしたら驚くし、それまでの記憶がないとなれば、見たかぎりは健康だとしても、体の内側がどうなっているかと不安が拭えない。
だったら、病院という専門機関で検査を受けて、自分の体に問題はないと証明してもらったほうが早いし、診断表でももらっておけば職場にも理由は立つ。
「そうか……改めて、藤ねえのことありがとな。遠坂」
目を見て、遠坂に今日何度かの礼をする。
遠坂が藤ねえの処置をしてくれなければ、藤ねえは死んでいたかもしれない。そうならなくて、本当に良かったと思う。
だから、できる限りの感謝を込めて、それが伝わるようにお礼をした。
「そう? じゃあ、素直に受け取っておくわ」
「ぐ」
顔を傾けながら、穏やかな笑みを見せられて、反射的に目を逸らす。
まったく、今のは強烈すぎる不意打ちだ。卑怯すぎる。
鏡を見るまでもなく、顔が紅潮してるのが判ってしまう。ついさっきまで夜風で少しずつ下がってきた風呂の熱が、一気に戻ってきたみたいだ。
「お。照れてる照れてる。少しだけ素直になった甲斐があったわね」
「わざとかよ……ったく、心臓に悪いぞ」
「え? ああ、そういう訳じゃないわよ。この庭を見てたら、なんとなく穏やかな気持ちになってきて、それだけよ。まあ、その顔を見れたのは思わぬ収穫だったわね」
「……そうかよ」
チラッと一瞬だけ見るが、さっきとは邪悪な笑顔をしていた。
やっぱりこいつ、根っからのいじめっ子だ。
しかも悪気がないなんて、余計質が悪い。それじゃあ皮肉の一つだって返せないじゃないか。
「……」
顔に溜まった熱を冷ますために、遠坂から目を離して庭を見る。
空に雲はなく、冬の澄んだ空気によって、宝石みたいに光る星が散らばっている。
吐いた息を白く染まる。雪は降ってもいなければ、積もってもいない。
雪がないとしても、冬の夜は冷え込むということだろう。
冷たい息を吸って、同じように吐く。
それだけで、体に溜まった熱は噓のように消え失せ、自分と世界の温度が入れ替わったように感じられた。
「──────────」
それから、会話はなくなって静かになった。
話題がなくなったのなら、お開きにしてもいいのだろうが、そうはならない。
きっと、お互いに言っておきたい事が残っているからだろう。
「──────────」
お互いに、話を切り出せずにいる。
多分、片方が先に切り出してしまえば、もう片方も応えざるを得ない。そうなれば、この時間も終わって、一日も終わってしまう。
それを、俺も遠坂も名残惜しく感じている。
今日という日が終わってしまえば、彼女たちとの接点も遠くなってしまうと判っているから。
「遠坂、ちょっといいか」
胸の中の未練を晴らすように、俺から切り出した。
「ん。なによ、改まって」
大事なお願いなんで、姿勢を正して遠坂を見る。
あの戦いを生き残って、先に進むために、やっておかなきゃいけないことがもう一つ残っている。
「俺に魔術を教えてくれないか?」
「……一応訊くけど、理由は?」
「俺は切嗣の跡を継いだ訳だし、なにより魔術を学んでおけば、人の助けになれるかもしれない」
「でも貴方は固有結界を扱えるでしょう? あれは魔術師の到達点の一つよ。その意味で言えば、貴方はもう十分にお父さんの跡を継いでいると言えるんじゃない?」
「そんなことあるもんか。俺なんてまだ半人前だし、遠坂から見れば半人前以前のへっぽこなんだろ」
「……そうね。よく判ってるじゃない」
「む。だから頼んでるんだ」
相変わらず、魔術に関しては本当に容赦がない。
遠坂の答えは、呼吸一つ間が空いた
「いいわ。衛宮くん、貴方の弟子入りを認めます」
「本当か。本当にいいのか、遠坂⁉」
嬉しさで、思わず声が弾んでしまう。
「いいもなにも、最初から貴方が嫌といっても弟子にするつもりだったわよ。そもそもね、貴方には遠坂の魔術刻印の一部を譲り渡してる訳だし、今更逃がす訳にもいかないわ」
「ああ、そういえばそっか」
「それにね。貴方の魔術特性を理解してるのはわたしだけなんだから、わたし以外のところで学べるわけないでしょう」
───返す言葉もございません。
「という訳で、貴方の魔術回路がもう少し回復したら、鍛錬を始めるわよ。言っておくけど、へっぽこの貴方を短期間で矯正する訳だから、厳しい鍛練になるわよ。覚悟なさい」
「ああ。そっちこそ、どれだけきつくても食らいついてやるから覚悟しろよ」
師匠がかけてくる発破に、こちらも挑発的に応える。
これも売り言葉に買い言葉の一つなんだろうか、と答えてから思った。
「じゃあ、今日はもうお開きにしましょうか。お互い疲れてるでしょうし、明日からは学生に戻るんだから、早めに休みましょう」
「そうだな。おやすみ、遠坂。あったかくして寝ろよ」
こんな感じで、この時間は終わった。
明日から、また学生としての日常に戻る───いや、新しい日々が始まる。
彼女らのおかげで生きていける幸福に胸を張って、前に進もう。それだけが、今の自分にできる精一杯の礼なんだと理解している。
立ち上がって、自分の部屋に身体を向けて、歩き出「ちょっと待って」……そうとしたのを、一つの声に呼び止めれらた。
「ん。なんだ、言い忘れてたことでもあったか?」
遠坂は答えない。無言で靴を履いて、中庭の真ん中まで歩いて行く。
その背中と俺に見せている背中を、「こっちまで来い」というメッセージだと察して、自分も靴を履いて遠坂のもとまで行く。
「そこで大丈夫。これ以上近づかれると、心臓が持たない」
遠坂まで三メートル辺りの所で、背中を見せたままの遠坂によく判らない理由で制止された。
まあ、遠坂がそう言うなら、今は俺に近づかれると困るんだろうと思って、言われた通りに、遠坂から三メートルの距離を保って止まる。
「遠坂……?」
呼びかけてみるが、返事はない。
中庭の中心に立つ遠坂は、なにも語らず、俺の方にも振り返らない。
まるで、何かを待っているみたいに。
その立ち姿は優雅そのもの。遠坂の黒い髪が夜空の星の光を受けて、艶やかに光って、尋常じゃなく絵になっている。
俺が遠坂を好き、という贔屓目をなくして見ても、こんな絵画があったなら、きっと人が大勢集まってくるに違いない。
それからしばらく───遠坂に見惚れていた自分には随分と長い時間に感じられた───してから、遠坂が俺の方へ向き直る。
「──────────」
俺を見る遠坂の顔は、真剣な面持ちだが、頬を赤く染めていて、とても愛らしいものだった。
さっきまでも遠坂に見惚れていたが、今の遠坂は次元が違う。先ほどよりもさらに、遠坂から目が離せない。
「衛宮くん」
遠坂が呼びかけてくる。
遠坂の声は凛としつつも、僅かに震えていた。目だけでなく、耳も遠坂の声しか聞こえなくなる。
それだけ遠坂に意識を集中させて、遠坂が今、精一杯強がっているのだと判った。
「大事な話があるんだけど、聞いてくれるかしら?」
「……ああ」
それは、遠坂にとってどれだけ大事な話なのか。
判らないけれど、ここまで頑張っている遠坂の気持ちを、無碍になんてできない。
次の言葉まで、さらにしばらく時間があった。言葉はなかったが、遠坂は何度も深呼吸をしていて、俺もそれにつられて、徐々に正常に呼吸ができなくなる。俺と遠坂の緊張がないまぜになってどこまでも濃くなってみたいだ。
そして、遠坂は言葉を紡いだ。
「衛宮くん。わたし、貴方が好きなの───」
なんて事だ。
その一言は、俺にとって致命傷だった。
「わたしと、お付き合いしてくれないかしら」
次いで、とどめの一言。
俺の心を奪う一撃を見舞って、手を差し出してくる遠坂。
それは、俺たちが先延ばしにしていた通過点。これから二人の望む方向に進んでいくための出発点だった。
「……」
言われたからには、どんな形でだって、その想いに応えなくては。
俺の答えなんて、決まっている。決まっているけど、その前に─────
「……じゃあ、俺からも言わせてくれ」
俺だって、言っておかなきゃならないことがある。
いつか背中合わせで言った言葉を、今度は正面から。
「遠坂さん。ずっと前から、貴女のことが好きでした。こちらこそ、俺と付き合ってくれませんか」
遠坂に聞こえるように、できるかぎり声を張って、頭を下げて右手を差し出す。
一度頭を下げた手前、遠坂が応えてくれるまで顔は上げられない。
時間にして、どれぐらいはあったのだろう。俺の感覚で、永遠にも似た時間が過ぎて、冬の風に悴みはじめた右手が温かな感触に包まれる。
「はい。よろしくお願いします、衛宮くん」
手の感触で顔を上げた先には、極上の笑顔で、俺に応えてくれた遠坂の姿があった。
「あ」
漏れた声はどちらのものか、それとも両方か。
お互いに緊張が解けたので、ほぼ同時にガクッと膝から崩れ落ちて、それで逆に支えあえて倒れなかった。
「なによ、情けないわね。こういう時はしっかり支えなさいよね」
ほぼ反射で憎まれ口を叩いてくる遠坂だが、その顔は俺と同じく苦笑いだ。きっと、あまりに奇妙で馬鹿馬鹿しい今の状況に笑いが零れてしまったんだろう。
「む。不甲斐ない。次から努力する」
「……こんなこと、そう何度も起きちゃ堪らないわよ、馬鹿」
「違いない」
それから、支えあって縁側まで戻った。
告白の一つぐらいでまともに歩けなくなるなんて、二人ともどれだけ初心なんだと呆れて、縁側に腰を落としてから、再び苦笑いを浮かべる。
座ってしまったので、しばらくは歩けない。なんで、もう少し、縁側での時間は続くことになった。
「……で、わたしの方の返事がまだなんだけど」
少し間を置いて、お互いに呼吸を落ちつけた後、不機嫌そうに遠坂が聞いてきた。
「あ、そうか。悪い……こんな俺で良ければ、よろしくお願いします」
「よろしい」
次の言葉まで、またしばらく静かになった。
凪いだ気持ちで、なにかを言うであろう遠坂の言葉を待つ。
さっきまでの揺り戻しだろうか。まだ筋肉の痙攣が消えそうにないが、心だけはひどく穏やかになっていた。
「……藤村先生には感謝しないとね」
「そうだな」
藤ねえが、なんだかんだで俺の保護者なんだと思い知る。
あの人は、これが俺たちに必要なものだったから、課題を出してくれた。普段は家でタダ飯を食べていく半居候だが、真面目な時は大人として、必要な助言をしてくれるのだ。
……俺はその課題を明日あたりに片付けようと思ってたのだが、今終わらせることができてよかったと思う。課題の先延ばし、ダメ、ゼッタイ。
「……」
何気なしに空を見上げて、感嘆の息を吐いた。
夜空は変わらず、輝く星が満ち満ちている。それは何も変わっていない筈だが、なぜだかさっきよりも、何倍も煌めいて見えた。
「綺麗ね」
「ああ」
それを見て、安心した。
アイツが、地獄に落ちても、あの月の夜の誓いを忘れなかったように。
俺も、この星空の夜を忘れない。
だから。
この星に満ちた夜空を、少しでも焼き付けておけるように。
俺たちは、星の光を見上げていた。
封神演義(5) [ 藤崎竜 ] ![]() |