@_yyyzzz_
▼諸注意
・この小説はゲーム『Charade Maniacs』のネタバレを含みます。特に陀宰メイ√および真相√の重大なネタバレを含みますので、お読みいただく際にはぜひ、ゲーム本編を終了してからにしていただきますようよろしくお願いいたします。
・夢主は公式ヒロイン(瀬名ヒヨリ)ではありません。
・真相√(ハッピーエンド)後の世界線の話です。なので瀬名ヒヨリは小説内では特に誰とも付き合っていません。
・ただしトモヒヨ(トモセ×ヒヨリ)を応援しているオタクが書いた文章なので、全体的にヒヨリとトモセが一緒に行動している率が高いです。
・陀宰メイの姉が登場します。それに伴いSwitch移植時のステラ特典冊子の内容バレを含みます。
・上記以外にも捏造を多分に含みますので、苦手な方はご注意ください。
01
「名前ちゃん」
少し離れた場所から聞き慣れた声に名前を呼ばれ、ディスプレイに向けていた視線を上げた。その途端、無意識にシャットダウンしていた周囲の音が、わっと流れ込むように耳に飛び込んでくる。教室の中には、夏休み気分を引きずるように浮ついた喧騒が満ち満ちている。
夏休み明けの試験が終わって、今日からいよいよ本格的に新学期がようやく始まった。午前の授業はとっくに終了している。ディスプレイ上に開きっぱなしにしていた教科書を手早くオフにしたところで、ちょうどヒヨリちゃんが机の隙間を縫って私の方へとやってきた。
瀬名ヒヨリちゃん。私の高校一年からの親友で、今のところ高校でただひとり、友人と呼べる相手でもある。
「一緒にお昼食べない?」
「それはもちろん、大歓迎、だけど……」
明るいトーンで響くヒヨリちゃんの誘いに答えながら、私はおずおずと、ヒヨリちゃんの背後に視線を向けた。
小柄なヒヨリちゃんの肩の向こうには、何とも言い難い表情をしている陀宰くんと、にこやかなのに何処か危なげな雰囲気を醸し出す凝部くんの姿がある。ふたりはまるでヒヨリちゃんの背後霊――もとい、守護神のように並んでいた。
「陀宰くんと凝部くんも一緒に、ってことだよね。それなら私、お邪魔なんじゃないかな……?」
「どうして?」
きょとんとした顔で、ヒヨリちゃんは首を傾げる。いつもお昼は私とヒヨリちゃんふたりで、あるいはほか数名の女子と一緒に食べている。今日も当然のように一緒に、ということだろう。
ただ、萬城くん以外の男子が一緒にというのは、これがはじめてのことだった。
元々ヒヨリちゃんは男女の垣根なく友情を築くタイプだし、私と違って人付き合いの幅も広い。もしかしたらヒヨリちゃんには、私のこの気まずさは伝わりにくいかもしれない。
どうか角が立ちませんようにと、半ば祈りじみたことを念じながら、私は答えた。
「だって私、凝部くんとはその、話したことがないし……」
もごもごと言い訳じみた物言い。その瞬間、シルバーグレーの長髪を優雅に流した凝部くんと目が合って、私の頬がひくりと引き攣る。
凝部ソウタくん。男子にしては小柄、華奢ともいえる体つきと、目を惹く長い銀糸の髪。
一学期中、登校拒否をしていた凝部くんのことを、私はほとんど何も知らない。夏休み明けから突然登校するようになった彼は、私だけに限らず、クラス全体からまだ扱いあぐねられ、浮いた存在になっている。
ここ数日遠目に観察していた印象としては、軽やかなノリのタイプに見える。だが、だからといって人懐っこく、取っつきやすいというわけではなさそうだった。
凝部くんは私の方を向いて、何やら怪しげな笑顔を浮かべている。背中をつうと嫌な汗が伝った気がして、私は慌てて凝部くんから視線をそらした。
そらした先にいるのは、やはりこちらも同じクラスの陀宰くん――しかもこちらの方が、私にとっては難敵だ。
「ええと、しかも陀宰くんも一緒に……?」
視線は陀宰くんに向けているが、言葉はヒヨリちゃんに宛てている。陀宰くんは私と視線が絡むと、視線をふいと横に逸らした。感じが悪いと言えば悪いのだが、そこに悪意がないのもまた、陀宰くんの照れたような表情から窺い知ることができる。
と、そんなふうに思いをはせていると、
「『名前ちゃん』っていうと……苗字名前ちゃん、か」
記憶のなかから何か情報を引っ張り出すような顔つきで呟いて、凝部くんは一歩前に進み出た。ヒヨリちゃんがわきに避けると、彼は空いた場所にひょいとおさまる。急激に距離を詰められて、私は椅子に座ったまま、さりげなく仰け反り距離をとった。
「凝部ソウタ、って僕の名前くらいは多分知ってるよね。はじめまして、どーぞよろしく。ヒヨリちゃんの友達? じゃあ急に僕が出てきてびっくりしたでしょ」
「まあ、うん」
「分かる分かる、びびるよねー。でもこのクラス委員ふたりは、夏休み明けから急に登校してきた引っ込み思案な僕のことを一刻も早くクラスに馴染ませたくて、それで僕を何処へ行くにも連れて回ってるだけ。だから僕のことは空気だとでも思ってさ、どーぞ気にせず過ごしてよ」
「はあ……」
自己紹介からお気遣いまでをいっぺんに並べられ、押し切られるように頷いた。そういえば陀宰くんも委員長のひとりなのだったっけ。ようやく追いついてきた思考で納得する。
それにしても、凝部くんの口のよく回ること。今のは会話というより、一方的に説明を受けただけだ。凝部くんの会話のテンポの目まぐるしさに、私は早々と圧倒されている。
そしてそんな私は、さぞ狼狽えた顔をしていたのだろう。私のリアクションに気をよくしたのか、凝部くんはさらに続けた。
「キミってヒヨリちゃんと違って、人見知りとかするタイプ? まあ、初対面の人間とお弁当とか、普通に気まずいと思うし、その気持ちはかなり分かるけど」
「いや、人見知りはあんまりしない、かな……」
「じゃあ男子と一緒にご飯なんて絶対イヤッ! 死んでも無理! て感じ?」
「凝部くん、名前ちゃんはトモセくんとも普通に話すし、大丈夫だよ」
ヒヨリちゃんが言葉を挟む。凝部くんは特に関心を示すこともなく、
「あ、そーなんだ。ふーん。てことは、じゃあ嫌がられてんのは僕じゃなくて、メイちゃんか」
そう言って、陀宰くんに視線を向けた。
「え……」
「ちょっと、凝部くん……!」
珍しく、ヒヨリちゃんから尖った声が飛ぶ。しかしそれも仕方のないことだった。さすがに今の凝部くんの発言はない。呆気に取られて絶句してしまったが、時間が経つうちに私もだんだんと舌打ちしたい気分に駆られる。
(なんだって初対面でこんなことに……?)
凝部くんが何を根拠にこんなことを言っているのかは分からない。けれどいきなりやってきて、さらには人間関係に無用な波風を立てるのはやめてほしい。
無用な誤解は招きたくない。ここは厳重に抗議をすべき場面だろう。
「凝部くん、あの、」
けれど、私が文句を言うより先に、陀宰くんが口を開いた。
「凝部、あんまり苗字を困らせるな」
そう釘をさしてから、陀宰くんは今度は私に顔を向ける。
「……俺が外したほうがいいなら、どっかいくけど」
「え、ええと……、ううん、大丈夫。そんなことないです」
「……そうか?」
「うん。もちろん」
陀宰くんの不信げな顔に、私は取ってつけたような微笑みで頷く。そんな私と陀宰くんの遣り取りを、ヒヨリちゃんは少しだけ不安げに、凝部くんは興味深げに口角を上げて見守っていた。
◇◇◇
四人で昼食をとるべく、私たちは固まって教室を出た。昼休みの校内には、そこかしこに生徒の集団が散らばって、おもいおもいに休み時間を楽しんでいる。
カフェテラスに移動する間、私はちらりと隣を歩くヒヨリちゃんを盗み見た。
夏休みの間、私はヒヨリちゃんとは一度も顔を合わせなかった。ヒヨリちゃんが行くと言っていた旅行にも私は不参加を表明していたし、何のかんのと日々に追われているうちに、ヒヨリちゃんに連絡をとるタイミングをすっかり失くしていたのだ。
夏休みが明けて数日。なんとなく、ヒヨリちゃんの雰囲気が変わったような気がする。どこがどうとは言えないのがもどかしい。けれど大人っぽくなったとか、凛としたたたずまいに強さが増したとか、とにかく私にはそんなふうに見えた。
(それに、陀宰くんもなんだか……)
と前を歩く陀宰くんに視線を移したところで、陀宰くんの隣を歩いていた凝部くんがくるりと振り向き、私に視線をぶつける。先ほどのやり取りが脳裏をよぎり、私は咄嗟に視線をそらした。
視線を前に戻したとき、凝部くんはもう、私の方を見てはいなかった。
カフェテラスは教室の喧噪と外の熱気から逃れてきた生徒で溢れかえっていた。席が空くのを待つ気も起きない混み具合だ。私たちは諦めて、中庭に出ることにした。
まだ夏休みがあけて数日とあって、日差しは厳しい。私たち以外には中庭に人影はなかった。それでも木陰に入れば、風が通って過ごしやすい。お弁当を食べるのにはうってつけの場所だ。
もっとも、凝部くんは「ええー、本気で外で食べるの? この暑いのに?」と文句を言い続けていたけれど、ヒヨリちゃんも陀宰くんも、そして私も、その文句は聞かなかったことにした。
ちょうど枝葉と校舎の影になっている場所を見つけ、そこに腰を下ろした。よく刈り込まれた芝生の感触が、スカートから伸びた肌にちくちくとこそばゆい。
私の両隣はヒヨリちゃんと凝部くん。車座になって、お弁当箱を開いた。
昼食を始めて早々、凝部くんが「名前ちゃん」と私を呼ぶ。どうでもいいが、いきなり名前にちゃん付けして呼んでくる馴れ馴れしさについて、私は突っ込んだ方がいいんだろうか。そんなことを考えていると、凝部くんが顔の前で手を合わせ、形ばかりのごめんねポーズをとった。
「さっきは急にセンシティブな発言しちゃってごめんね? 僕、思ったことがつるっと出ちゃう正直ものだからさ」
「つるっと……」
謝罪にもなっていない。だが、ひとまずはその謝罪を受け入れることにした。ここまで悪びれていないと、いっそ清々しさすらある。というより、この発言をしれっと繰り出せる人間相手に、いつまでも怒っている方が馬鹿らしい。凝部くんはこういう人なんだろう。そう思えば、諦めもつく。
人心地ついたところで、凝部くんが「そういえば」と発した。手には市販の菓子パンの袋。足元には風で飛んでいかないよう飲み物を重しに乗せた、真っ白いコンビニの袋。
「ヒヨリちゃんにも、トモくん以外に特定の友達いたんだね」
からかうような凝部くんの口調に、ヒヨリちゃんが律儀にむっとした顔をする。
「失礼な。私だって普通に友達くらいいるんだけど?」
「いやいや、ヒヨリちゃんって人当たりよすぎて、よっぽど特殊な状況にでもならない限り、逆に広く浅くタイプっぽくない?」
「それ、褒めてる? 貶してる?」
「ご想像にお任せしまーす☆」
ぺろりと舌を出した凝部くんを、ヒヨリちゃんが可愛らしく睨む。言い争いをしているというよりは、じゃれ合っているといった方が近そうだ。陀宰くんはもの言いたげにしつつも、ふたりの言い合いに口を挟むことなく黙々とお弁当を口に運んでいる。
「キミはどう思う?」
「え?」
不意に話を振られ、私は慌てて聞き返した。凝部くんが「だからぁ」と、パンの袋をくしゃくしゃにしながら繰り返す。
「ヒヨリちゃんの交友関係。というか、そもそもふたりってどういう友達?」
なるほど、それが聞きたかったのか。得心した私は、箸の先を弁当箱に置いた。
「私も凝部くんと同じだよ」
「僕と同じ?」
わずかに眉根を寄せられて、私は苦笑しながら頷いた。
「私、中学まで親の仕事の関係で遠方にいて。高校受験の直前にこっちに戻ってきて、この学校を受験して」
「『戻ってきて』っていうのは?」
「小さい頃はこのへんに住んでたんだよ。だけどこっちに戻ってきても、もう私のこと覚えてる友達なんかさすがにいなくて……、一年のときに隣の席だったヒヨリちゃんが、高校に入って最初の友達になってくれたの」
「へー。いかにも面倒見がよくてお人よしの、ヒヨリちゃんっぽい話だね」
そうだね、と相槌を打つ。「なんか棘があるんだけど」とヒヨリちゃんがぼやく。陀宰くんが苦笑し、凝部くんはへらへらと笑っている。
この街で、私は生まれてから六歳になるまでの日々を過ごした。今も昔も、私はどちらかといえば引っ込み思案な性質で、友達といえばマンションの隣の部屋に住んでいた、同い年の男の子たったひとりだけだった。
高校一年でこの街に戻ってきたとき、知り合いと呼べる間柄の人間はひとりもいなかった。昔住んでいたマンションの部屋は、引っ越しと同時に引き払っている。今は家族と一緒に、当時とは別のマンションで暮らしている。
「私に最初に話しかけてくれたのがヒヨリちゃんでよかった。そこから少しずつクラスにも馴染めたし、今年も同じクラスになれて嬉しい」
「私もだよ」
さっきまでのむくれ顔はどこへやら、ヒヨリちゃんが笑顔で私の手をとって、そっと握った。その小さくあたたかな手のひらに、ほっと心が和む。
「なるほどねぇ、それで僕と一緒、か」
含みがありげな凝部くんの声に、はっとした。視線をさりげなく凝部くんの方に戻すと、彼の甘い色の瞳が、まるで値踏みでもするように、私のことを見つめている。
「クラスに馴染ませるために手を引かれたのは、僕だけじゃなかったと」
その言葉に、ヒヨリちゃんが眉根を寄せた。
「別に名前ちゃんにも凝部くんにも、馴染ませてあげたいだとか、そんなつもりはないよ。友達になりたい子と仲良くなろうとしてるだけです」
「てことは、ヒヨリちゃんは僕と仲良くなりたいんだ? やだ、嬉しいこと言ってくれるじゃん。僕としては友達以上も大歓迎だよ」
ばちこん、と音が出そうな大袈裟なウィンクをする凝部くん。ヒヨリちゃんに無視されるもへこたれた様子もなく、
「ま、もうひとりの委員長のメイちゃんは、そこんとこどうか分かんないけど」
ね、と今度は陀宰くんに意味深な笑顔を向けた。
「なんでそこで俺に振る?」
「えぇー、だってヒヨリちゃんはともかく、メイちゃんは絶対、そういうつもりでここにいないでしょ。ざっと見て、委員長的使命感で僕たちに同行してるのが四、僕とヒヨリちゃんが一緒にいるなら目の届く距離にいたいのが六ってとこかな? もしかしたら三、七かもだけど。ど? 当たった?」
「俺がただ凝部と飯食いたいだけって考えはないのかよ」
「それでもいいけど、男にごはん誘われても僕はぜーんぜん嬉しくないね」
「そういうやつだよ、お前は」
陀宰くんが面倒くさげに溜息を吐き出す。その仕草がずいぶんと気心知れた間柄の相手に見せるもののように思えて、私は思わずまじまじとふたりのことを見てしまった。
私の視線に気付いたヒヨリちゃんが、
「どうしたの? 名前ちゃん」
と尋ねてくる。陀宰くんと凝部くんも私の方を向いた。私は慌てて、
「いや、大したことじゃないんだけど」と前置きしてから言った。
「ヒヨリちゃんも陀宰くんも、今まであんまり話したことないはずなのに、凝部くんと仲いいんだなぁと思って」
その瞬間、私以外の三人が、たしかに素早く目くばせをした。
素早く、何かを確認し合うような――言葉がなくても、伝わるような視線だけの遣り取り。目の前で交わされるそれを見た瞬間、私は唐突に気が付いた。
(ああ、そうなんだ)
この三人にはきっと、私が知らない共通項がある。そしてそれは、容易く部外者に――私なんかに、打ち明けられるようなたぐいのものではないのだ。
夏休みを越え、何処か変わった教室の空気。
僅かに変わったように感じた、ヒヨリちゃんと陀宰くんの顔つき。そのふたりと秘密を共有する凝部くん。
要するに、この場で異端なのは不登校だった凝部くんではなく、まして陀宰くんでもヒヨリちゃんでもあるはずなく。
(私だってことか)
そのことを察すると、何となく感じていた違和感もすっきりした。ヒヨリちゃんのことをよく知っているようでいて、交友関係についてはほとんど何も知らない凝部くんのちぐはぐさも、陀宰くんが嫌がる名前呼びを、凝部くんが黙認されていることも。
そこはかとなく感じられる、彼ら三人のリラックスした身内ノリも。
「……俺と凝部は、もともと面識あるから」
陀宰くんが、繕うように言う。それに凝部くんも乗っかった。
「そそ、浅からぬ縁ってやつだよね、メイちゃん」
「そういう言い方されると普通に嫌だな……」
「えっ嘘、傷つくんですけど……」
じゃれるふたりに同調して、ヒヨリちゃんも言う。
「私も、夏休みには凝部くんと知り合ってたから」
「――なんだ、そうなんだ」
私は頷いて、そして、三人の言葉を受け容れた。
無理に何かを話してもらうつもりはない。隠し事は誰にだってあるものだということくらい、私にだって分かっていた。
「なぁに? 妬けちゃう?」
凝部くんが私の顔を覗き込んで、悪戯っぽく笑う。ヒヨリちゃんと陀宰くんの顔にはぎこちなさが残っていたけれど、凝部くんからはそういう悪びれたところは、一筋だって感じられなかった。
「ふふ、少しだけね」
「いいねいいね、可愛い女の子の嫉妬は大歓迎。僕がその嫉妬の炎をやさしーく鎮火してあげる」
「妬いてるっていうなら、どっちかいうと瀬名をとられることへの嫉妬じゃないのか」
陀宰くんが呆れた声で割って入った。途端に凝部くんが抗議の声を上げる。
「えぇー、またそれ? 本当、トモくんといいメイちゃんといい、みんなヒヨリちゃんのことが大好きすぎない?」
「凝部おまえなぁ」
「そ、それより名前ちゃんのお弁当! 今日もおいしそうだねっ!」
ヒヨリちゃんが無理やりに話題を転換し、私のお弁当箱を指さした。目元はうっすら赤らんでいる。
「今日のは昨日の夜ごはんの残りを詰めただけだったけどね」
「それでも美味しそうだよ」
「ていうか、名前ちゃんのお弁当、もうほとんどおかず残ってないじゃん。ヒヨリちゃんは何を見て美味しそうって言ってんの?」
「凝部、おまえ本当黙ってろよ」
陀宰くんが凝部くんの腕を軽く小突く。わざとらしく「痛い! メイちゃんが殴った! ケイちゃんにしか殴られたことないのにっ」と騒ぐ凝部くんのおかげで、先ほどまでの気まずげな空気はいつのまにかすっかり払拭されていた。
◇◇◇
授業後、今年になってから始めたバイトを終えてから帰宅すると、父はまだ帰宅しておらず、母がひとりで何かどたばたと物の上げ下げに忙しそうにしていた。
「ただいまーぁ」
「おかえり。夕飯食べてきたんだよね?」
「そうそう、まかないをね」
制服を着替える前に、リビングを覗く。ドアを開けた途端、埃っぽいにおい鼻につく。室内に置かれた空気清浄機が、これまで聞いたことのないような大音量を立てながら稼働していた。
「ちょっとお母さん、これ何事なの? なんか埃っぽくない? それに何、この段ボール」
壁際に無造作に置かれた段ボールを、私は寄っていって指さす。
このマンションに引っ越してきてから、すでに一年近く経過している。それでも荷ほどきしていない荷物はまだ少しばかり残っていて、これもそうした荷物のうちのひとつのようだった。
「ああ、それ。片付けしてたら出てきたのよ」
見てもいいよ、と母が言う。
「中身なに?」
「名前の昔の写真をまとめたアルバム」
言われて箱の中を覗く。中には古ぼけた布表紙の冊子が数冊、とりあえずそこに入れておいたとでもいうような適当さで収められていた。
一番上にあった一冊に手を伸ばし、取り出す。大判のアルバムは、ずっしりとした重さを手に伝えてくる。
「写真なんかわざわざ印刷して貼り付けなくたって、データに残しておけばいいのに。本当お母さん、忙しいわりにこういうことするの好きだよね」
「いいじゃない。データが消えてから後悔しても遅いのよ。お父さんだって、何かのときのためにアナログでもバックアップとってるでしょ」
「それはそうだけど」
情報局に勤める父は保険として、何事においてもアナログな手段を併用する。だからなのか、我が家には古いアルバムや日記帳のようなものが、かなりまとまった量保管されていた。
手にしたアルバムをぱらぱら捲る。アルバムの最初は私が新生児の頃の写真から始まっており、日に日にふっくらと育っていく様子が、かなり詳細に記録されていた。
片付けをしている母が、片手間で話しかけてくる。
「こっちに戻ってきて一年くらい経ったけど、幼稚園の頃の友達に会ったりした? 連絡とったりしないの?」
「しないしない。ていうか今さら会ったところで、何話していいか分かんないし。お互い忘れてるでしょ」
「そう? 今の子ってクールねぇ」
そもそも当時の私は幼稚園児だったのだ。今のようにSNSで友人たちと繋がっているわけでもない。連絡しようにも連絡先が分からない相手がほとんどだし、たとえ連絡できたところで、別にしようとも思わない。
母の年寄りぶった小言を聞き流しながら、私はアルバムを捲り続ける。
と、何の気なしに開いたあるページで、ページを捲る指がぴたりと止まった。そこに貼り付けられているのは、幼稚園時代のクラス写真。揃いの制服を着た子どもたちが、二列に並んでカメラの方を向いている。
エプロン姿の先生の横には、今よりもっとおどおどと不安そうな顔をした、三歳の頃の私がいた。そしてその隣では、写真撮影の日だと忘れられていたのか、髪にあちこち寝ぐせを付けた黒髪の男の子が、口をきゅっと引き結んでいる。
「……とっくに忘れちゃってるよね、今さら」
自嘲めいた呟きが口から洩れた。自分の諦めの悪さにほとほと呆れ、溜息を吐く。
陀宰メイくん。メイくん――陀宰くんは、昔マンションの隣の部屋に住んでいた、私の幼馴染の男の子だった。
(お隣さんで、幼馴染で……私の初恋の、男の子)
アルバムを音もなく閉じ、段ボールの中にそっと戻す。
こんなふうに、私の恋心も箱に閉まって隠しておけたらいいのに。そんなどうしようもないことを考えて、私はまた溜息を吐き出した。
02
夕方の教室に、昼間とほとんど色の変わらない眩しい光が、燦燦と差しこんでいた。まだ秋は遠い。教室の自席につき、図書室から借りた小説をバングルで読んでいると、ふいに視界に影が差した。
ゆっくりと視線をディスプレイから上げる。シルバーグレイの髪を波間の光のように揺らめかせ、私の机の前に立った凝部くんがこちらを見下ろしていた。
「『駆け込み訴え』だよ」
聞かれる前に答えると、凝部くんがきょとんとした顔で首を傾げる。頭の動きに合わせて、長い髪がさらりと流れた。
「え、何が?」
「今私が読んでる小説のタイトル。聞きたかったんじゃないの?」
「いや? 別に。全然」
「あ、そう……」
手元を覗き込まれたから、てっきり読んでいる本が気になったのかと思った。どうやらそういうわけではないらしい。
本を閉じ、ディスプレイをオフにする。
教室には私と凝部くんのふたりきり。何をしているかと言われれば、特に何をしているわけでもない。
私はただバイトまでの時間をつぶすために、ここに残って本を読んでいただけ。凝部くんはその間ずっとバングルをいじったりしている。凝部くんの方から話しかけてくることもなかったから、特には気に留めていなかった。
「本が気になってるんじゃないなら、何か御用ですか?」
私が尋ねると、凝部くんが目を細める。
「なに、そのよそよそしい質問は」
「ここ数日で、凝部くんの人となりを少し、ほんの少ーし理解したんだよ。近づきすぎると、おちょくられるでしょ。だから、このくらいの距離が適正かなって」
「急に淡々とディスるじゃん」
「いやいや、褒めてる褒めてる」
「心こもってなーい」
適当な言葉の応酬。会話を楽しんでいるのかいないのか、それでも凝部くんは前の席の椅子を引き、そこに腰を下ろした。どうやら彼は、このまま私を話し相手に時間を潰すことに決めたらしい。
ちらりとバングルの時刻を確認する。バイトの時間まではまだまだ余裕がある。私は凝部くんの雑談に付き合うことにした。
ヒヨリちゃんと陀宰くんと凝部くん、それに私。夏休みが明けてから、なんとなくこの四人で一緒にいることが増えた。
もともとは私とヒヨリちゃんが仲良くしていたところに、クラス委員という括りで陀宰くんが加わり、そこに凝部くんが絡んでくる。元不登校児の凝部くんのことはクラス委員のふたりに一任されているようなので、そういう事情もあるのだろう。
一緒にお昼を食べたり、休み時間の教室移動をしたり。ヒヨリちゃんがあいだに入ってくれていることもあり、コミュニケーションは円滑だ。凝部くんの軽口にはたびたび閉口させられたが、ヒヨリちゃんと陀宰くんを見ていれば、あしらい方は自ずと分かるようになる。
もちろん、ずっとべったり一緒というわけではない。凝部くんがひとりでふらふらしていることもあるし、陀宰くんがほかのグループと一緒にいることもある。私はたいてい、ヒヨリちゃんと一緒にいる。流動的で、その場限りのメンバー。それでもなんとなくグループ感があるのは、ヒヨリちゃんを中心に、うっすらとした結びつきがあるからだ。
ヒヨリちゃんと陀宰くんと、凝部くん。彼らからはなにか、特別な親しさのようなものが時々伝わる。それはわざと滲ませているものではない。殊更強調しなくても、意図せず滲んでしまうものだ。
本当は、私が一緒にいない方がいいのではないかと思うこともある。ヒヨリちゃんたち三人はきっと、同じ秘密を共有している。私だけが、その輪に入っていない。
それでも、今のところは四人でいることに不便はない。私がいないところで三人が何をしていても、私には関係のないことだ。私だって、ヒヨリちゃんたちに話していない秘密を持っている。
不意に、ぎぃ、と金属の軋む音がした。何時の間にかぼんやりしてしまっていたらしい。不快で固いそれは椅子が軋むときの音で、そしてそれは凝部くんが私を現実に引き戻すため、わざと立てた音だった。
なに、と視線で問う。凝部くんはにやりと口角を上げて、「前から聞こうと思ってたんだけど」と軽やかな口調で言った。
「名前ちゃんって、メイちゃんのこと好きなの?」
「……え」
咄嗟のことに、反応が遅れた。私の視線のその先で、私の反応のひとつひとつを、凝部くんがつぶさに観察している気配がする。静かに、けれど取りこぼしのないように。とろりと甘い色のまなざしが、刺すように私をとらえていた。
凝部くんは、黙して私の返事を待っている。
一拍、二拍。三拍。
ごくりと唾を呑み込んで、私は凝部くんに問い返した。
「……どうして、そう思うの?」
「どうしてって、普通に見てたら分かるけど」
凝部くんは呆れたように柳眉を下げる。
「だって名前ちゃん、しょっちゅうメイちゃんのこと視線で追いかけてんだもん。そりゃ分かるでしょ。メイちゃんがヒヨリちゃん相手にあたふたしてたり、慈愛に満ちた顔してるの見て、あからさまに顔が曇ったりしてるし」
「うそ、私ってそんなに分かりやすいかな」
ついつい頬に手をやると、凝部くんが呆れ笑いをさらに深めた。
「メイちゃんやヒヨリちゃんは気付かないだろうけどね。だけど、見る人が見れば気付くんじゃないってレベル」
僕とかね。
そう言って凝部くんは、手首にはまったバングルを反対の手の指先で回しながら、へらっと笑った。
「ていうかさ、名前ちゃん、そこで誤魔化したり、否定したりしないんだ? てっきり隠すものかと思ったけど」
「うーん。そうは言っても……。だって凝部くん、結構な確信を持って言ってそうだったんだもん。だったら、誤魔化す意味もないかなと思って。それに今後、隠し通せる気もしないし」
凝部くんの観察眼の鋭さは、すでに薄々ながら察している。これからも同じグループで付き合っていくのなら、私が陀宰くんのことを好きだということは、遅かれ早かれバレることだ。それならば、こんなところで下手に誤魔化したり、見栄を張ったりする必要はない。
「メイちゃんとのこと、協力してほしいっていうなら見返りはもらうよ?」
「別にそんなこと思ってないよ」
素直に受け取ってくれない凝部くんに、私は首を横に振る。
「というか、今更どうこうする気もないよ。そっちの仲良しグループを引っ掻き回す気はないから、安心してください」
「仲良しグループねぇ……」
今度は凝部くんがぽつりと呟いた。
仲良しグループ。あるいは、秘密を共有する仲間。ヒヨリちゃん、陀宰くん、凝部くんのなかには、そういう閉鎖的な親密さが存在している。そこに部外者の私が何食わぬ顔で加わっているのだ。人のいいヒヨリちゃんや陀宰くんはともかく、凝部くんが気を揉んでいるだろうことは想像に難くない。
あるいは私の存在ではなく、私の恋愛感情をこそ、凝部くんは不安視しているという可能性もある。恋愛がグループの和を乱すなんて、ありふれた事象だ。
けれど私は、彼らのその和を乱そうとは思っていない。まして、その結束をどうこうしたいとも思っていなかった。
凝部くんの目が、あやしく鈍く光る。声を低めて彼は問う。
「……名前ちゃんは僕らの秘密、知りたいと思う?」
そのひそやかな声音に、これは試されている――と、そう思う。
けれどその問いの答えならば、私はすでに心の中に持っていた。
「聞かないよ」
「うわ、即答」
「だって、ヒヨリちゃんが話さないってことは、聞かない方がいいことなんでしょ」
この数日、幾度となく考えていたことだ。だから言い淀むことなく、言葉が口をついて出た。
「ヒヨリちゃんは、大事なことはいつでもちゃんと話してくれるもん。私がヒヨリちゃんの判断を疑ったことは、これまで一度だってないんだよ」
「キミ、狂信者みたいなこと言うね」
「何とでも言ってよ」
「ていうかヒヨリちゃんを信じるのはいいしても、僕とメイちゃんのこと眼中になさすぎない?」
凝部くんが不満げに、くちびるを尖らせる。そんな表情も、また様になっていた。
「眼中にないわけじゃないって。ただ、私が三人のなかで一番仲よくしてるのはヒヨリちゃんだから。そういう意味では、ヒヨリちゃん以上に信用してる人なんかいないってこと。分かるでしょ?」
「分かるけどさー。僕としてはそういうのって、信用してる人に隠されてるからこそ、知りたくなるものだとも思うんだけど」
「知りたくないとは言ってない。話されないから聞かないってだけ」
だからいつかもし、ヒヨリちゃんが話してくれる日が来たのなら。そのとき私は、喜んで彼女の話に耳を傾けることだろう。そのかわり、ヒヨリちゃん以外から秘密を聞こうとはしない。絶対に。
凝部くんは私の話を、納得したようなしていないような、どうとも読み取りづらい表情で聞いていた。私の考え方は、きっと凝部くんの考え方とは相容れないものなのだろう。分かってほしいとは言わないけれど、ここまで分からないという顔をされると、さすがに苦笑したくなる。
というかそもそも、最初は私が陀宰くんのことを好きだとか、そういう話をしていたはずだ。それなのに、気付けば話題は、彼らが抱える秘密の話に移っている。まるで恋愛話で私の意表を突くことで、私を無防備な状態にしたうえで本題に入ろうとしていたかのように。
(というか、実際そうなのか)
つくづく、凝部くんの食えなさを実感した。際どい恋愛話を前振り程度に使おうなんて高校生は、少なくとも私の周りには凝部くんくらいしかいない。
「凝部くんって、よく分かんないよね……」
「んー、よく言われる☆」
一切悪びれたところのないその態度に、呆れるのを通り越して笑ってしまった。
「私、てっきり陀宰くんのこと聞かれるかと思ったのに。そっちは全然聞かれないし」
「ああ、そのこと。僕ってそんなに他人の恋愛に興味ないから」
「ありがと、助かる」
「いやいや、真に受けないでよ。もちろん聞きたいとは思ってるよ? それが面白い話なら」
「面白くないから大丈夫です」
実際、別に面白い話というわけでもない。とるに足らない恋愛話が凝部くんの好みにかなうとは到底思えず、私は丁重にお伝えした。
「まあでも、名前ちゃんとメイちゃんの話が面白くないとは思わないけど?」と、凝部くん。
「でも、ドラマみたいな駆け引きやどんでん返しがあるわけでもないのに?」
「ドラマはお腹いっぱいだからいいとして……、そういう気がキミにはまったくないってこと?」
「そういう気って」
「メイちゃんにアピールしようとか、アタックしようとかって気持ち。全然ない?」
私はこくりと頷いた。
「それはどうして?」
凝部くんが問う。答えは単純だった。
「だって、陀宰くんがヒヨリちゃんのこと好きだって、知ってるし」
「だからメイちゃんに告白しないの? 失恋確定だから?」
「そりゃあね。困らせるだけの自己満足に酔えるほど、恋に恋してないもので」
「うわー、全世界の恋に恋する男女を敵に回しそう」
「凝部くんも敵に回る?」
「いやまさか」
軽やかに返事をされ、思わず笑ってしまった。
「だよね。凝部くんこそ可能性とかメリットもなく、告白するタイプじゃなさそう」
「……」
これまでつらつらと話していた凝部くんが、ふいに目を伏せ口を閉ざす。不思議に思い、私はしばらく凝部くんが口を開くのを待つ。と、そこでようやく私は、自分が不用意な発言をしたことに気が付いた。
いくら暫定の仲良しグループにいるとはいえ、私と凝部くんの付き合いはせいぜい半月かそこらだ。いくら何でも、失礼なことを言ってしまった。
「ごめん、知ったようなこと言いました。今のは忘れて」
素早く謝罪を口にすると、凝部くんがつと視線を上げ苦笑する。
「いや、いいけど。ただ、僕ってキミからそういうふうに見えてるんだ」
癖なのか、凝部くんは胸の前で指先を組み、
「キミからというか、キミからも、だけど」と付け加える。
「本当にごめん、なんとなくで適当言った。失礼いたしました」
「なんか急に弱気なんだけど」
「普通に反省したから」
「別にいいのに。気にしてないし」
凝部くんの声はあくまで軽い。本当にこだわりなく、気にしていないような声の調子だった。とはいえ相手は凝部くんだ。気にしていないという彼の言葉だって、どこまで本心なのか分かったものではない。
窺うようにじっと見つめていると、凝部くんはやれやれとばかりに溜息を吐き出した。
「いや、そこで疑われても。本当に気にしてないんだってばー」
「……そう?」
「そうそう。ただ、こっちの世界でもそういうふうに見えるんだなーと思っただけ」
凝部くんの言葉に、私は首を傾げた。
「こっちの世界?」
「こっちの話」
「だから、こっちってどっち」
「さて、どっちでしょう」
なんだか、煙に巻かれてしまったような気がする。けれど先に失言してしまった負い目もあって、あまり深くは追及できなかった。凝部くんもそれを分かっているから、杜撰な誤魔化し方をしたのだろう。本気で私を煙に巻こうと思ったら、おそらく凝部くんはもっとうまくやる。
会話が途切れ、ふたりきりの教室内に沈黙が落ちた。凝部くんも私も、沈黙を気に病む性質ではない。いや、これも私が凝部くんに対して勝手に抱いている印象だが。多分、そう大きくは外れていない。
しばらくして、また凝部くんが口を開いた。
「ひとつ聞いていい?」
「いいよ」
「キミっていつから、メイちゃんのことが好きなの?」
「それ、聞かれると思ったけど。なんでそんなこと聞くの?」
「質問に質問で返さないでよー」
凝部くんが不満げに言う。私がそれでも黙っていると、やがて彼は面倒くさそうに「まったく、キミたちみんなして、困るとすぐに黙るんだから」と恨めしげにこぼした。
「だって、メイちゃんがヒヨリちゃんのこと好きになったのって、今年クラスが一緒になってからなんでしょ。でもキミの性格考えたら、そもそも自分の友達のことを好きな男のことなんて、わざわざ好きになるかー? っていう」
「それはほら、恋愛感情なんてままならないものだから、そういうこともあるんじゃないの」
「なーんかしっくり来ないんだよねぇ」
軽い口調で呟いて、凝部くんはじっと私を見つめた。視線の重さと口調の軽さの落差からして、彼はまたしても私のことを揺さぶろうとしているのだろう。その視線を受け流して、私はしばし沈思した。
別に、隠すようなことでもないのかもしれない。けれど、私は心のどこかでまだ、凝部くんのことを信用しきれないでいた。
凝部くんに話したくないわけではない。ただ、凝部くんの口からヒヨリちゃんや陀宰くんに私の秘密が伝わる可能性は、けしてゼロではない。
「……ヒミツ」
沈思ののちに、そう答えた。てっきり凝部くんは鼻白んだ顔をするかと思ったが、意外にも彼は麗しの目をぱっと見開いて、驚いたようにまじまじと私の顔を凝視した。
「ん? どうかした?」
「秘密って。なんか不意打ちでドキッとした」
「あはは、色っぽかった?」
「いや結構まじめに。えー、まじか。ていうかこの際だしもうさ、メイちゃんのこと好きでいるのなんかやめて、僕と付き合わない?」
「そういう冗談、わりと真に受けちゃうからやめて」
「それも意外。名前ちゃんってもしかして、押せば押すだけ落とせる確率上がる感じ?」
机を挟んで向き合った凝部くんが、ぐっと机に身を乗り出し距離を詰める。にやついた顔は、完全に悪ノリに悪ノリを重ねようとしている構えのようだ。
「ねえ凝部くん、この話まだ続ける?」
「続けてもらっても僕は全然オッケー」
「ええ……」
と、その時。
「何の話だ?」
教室のドアががらがらと開いて、訝し気な声が私たちのあいだに割りこんだ。
視線を声の方へと移動させる。最低限の筆記用具だけを手にして立ち尽くす陀宰くんが、何処か気まずげな表情で私と凝部くんのことを見つめていた。
「メイちゃん、おつかれ」
呆気ないほどあっさり身を退いて、凝部くんは微笑んだ。「もう補習は終わったの?」
「ああ、どうにか試験で合格もらった。瀬名とおまえらのおかげだよ」
「陀宰くんが頑張ったからじゃない?」
私の言葉に、凝部くんが「そうそう」と調子よく合いの手を入れる。
「メイちゃんってば、頭から湯気出そうなくらい頑張ってたねぇ」
「つーか、俺より学校来てなかった凝部がなんで補習ないんだよ」
「それはほら、僕は自宅学習だけで余裕で高得点とれちゃうから☆」
「釈然としねぇ……」
「既存の教育の枠にとらわれない僕でごめんね?」
溜息を吐きつつ、陀宰くんは自分の席へと向かう。取り出した鞄を机にのせると、筆記用具を片付けた。
夏休み前にしばらく授業を休んでいた陀宰くんは、夏休み明けの試験の結果が悲惨だったらしい。追試だけではどうにもならなさそうだということで、急遽補習の日程が組まれ、今日がその最終日だった。
追試に自信がないという陀宰くんのため、私とヒヨリちゃん、それに凝部くんはここのところ放課後や授業の合間を縫って、代わる代わる陀宰くんの試験勉強につき合っていた。陀宰くんが試験をパスできそうだということで、私までほっと胸を撫でおろす。
ちなみに陀宰くんの言うとおり、一学期まるっと不登校を貫いた凝部くんは、あっさり夏休み明けの試験をパスしている。「そんなに必死にならなくても、学校の授業や試験をパスするだけなら、案外どうにかなるもんだよ? 満点とれってんじゃあるまいしー」と平然とのたまうあたり、進学校である月桂高のなかでも、凝部くんの頭脳は頭抜けている。
その凝部くんが、陀宰くんに尋ねる。
「ところでメイちゃん、ヒヨリちゃんは?」
「瀬名? 瀬名は補習受けてないけど」
「いや、あの子なら自分は補習受けてなくても待っててくれそうだなーと思ってたんだけど」
「ああ、そういうことか」と陀宰くん。
「瀬名なら萬城が連れて行ったんじゃないか。俺が補習に行くときにちょうど萬城と廊下で出くわしたから、多分間違いない」
「ああ、そっちに取られちゃったわけ……。メイちゃんが補習なんかしてるから」
「仕方ないだろ……」
と、そこで陀宰くんはおもむろに、私の方へと顔を向けた。
「で? 俺が補習で苦しんでたっていうのに、そっちはずいぶん楽しそうだったな」
ついさっき、陀宰くんが教室に戻ってきたときの話をしているのだろう。たしかにあのとき、私と凝部くんはわりと近い距離で、お互いに見つめ合っていた。陀宰くんの顔には、顔には微笑みと、ほんの僅かな気遣いが浮かんでいる。
「え、なに。男の嫉妬は見苦しいよ? メイちゃん」
「そういう話じゃねーよ」
「トモくんにヒヨリちゃんを取られちゃったからって、今度は名前ちゃんを僕からぶん奪るのよくないんじゃないの」
「…………」
「うーわ、無視。メイちゃんノリ悪ー」
「悪かったな」
凝部くんの軽口を適当にあしらいながら、陀宰くんは鞄を抱えてこちらにやってくる。そして私たちのすぐそばまでやってくると、一瞬だけ躊躇うような間を持ってから、陀宰くんは私の顔を覗き込んだ。
「苗字、こいつに何か変なこととか言われなかったか」
心配されているのだろう。凝部くんの言動は結構際どかったり、危うかったりすることがある。そしてそんな凝部くんのため、陀宰くんやヒヨリちゃんが眉をひそめたりしながら、さりげなく周囲をフォローしたりしている姿を、私もたびたび目にしている。
陀宰くんを安心させるため、常より大きめな動作で頷いて見せた。
「ん、大丈夫だよ」
「何、この信用のなさ」
すぐさま異議申し立てをする凝部くんに一瞥やってから、私は陀宰くんへと視線を戻す。
「いろいろ言われたけど、本当に嫌なことはスルーできるから」
「ああ、それで正解だよ」
「はーぁ、キミたち寄ってたかってさぁ……」
凝部くんがわざとらしく溜息を吐いた。
「何さ、僕がせっかくメイちゃんのこと待っててあげたっていうのに、この仕打ちってどうなの?」
「つーかそもそも、なんで待っててくれたんだ?」
「それはもちろん、名前ちゃんがいたから☆」
「そんなことだと思った……」
そして陀宰くんは、「帰ろうか」と促すように言う。時計を確認すると、ちょうどいい頃合いだ。私が椅子から立ち上がると、凝部くんが目を細めてにやりと笑う。悪戯っ子みたいな笑顔からは「メイちゃんと下校できてよかったね?」という言葉が透けて見えた。私は口角を上げて笑顔をつくると、口パクで「お気遣いどうも」と返事をした。
校舎を出ると、光の色がわずかに橙がかっているような気がした。空の色はまだ澄んだ水色でも、夕暮れが少しずつ空気に混ざり始めている。
市内はバスの交通網が発達しており、ほとんどの生徒はバス通学をしている。陀宰くんと凝部くん、それに私はのんびりとした歩調で、高校前のバス停へと歩いて行った。家の方角が違うので乗るバスは違うが、バス停まではみんな一緒だ。
「そういえば。名前ちゃんって小さい頃はこの辺に住んでたんだっけ」
雑談するのに丁度いい、だらだらとしたペースで歩きながら、凝部くんがふと思い出したように言う。この辺、というのはざっくりした表現だが、とはいえ間違っているわけではなかった。昔住んでいた家も、ここからバスに乗ればそう遠くない。
「そうだね、今も昔も父親の職場に近いところに暮らしてる」
「古巣に戻る、って感じか」
陀宰くんの言葉に、そういうこと、と頷いた。
十年ちかく前、父は情報管理局の本部に勤務していたが、さらに上のポストへの昇進という名目で、遠方の支部に転勤になった。こちらに戻ってきたのは、情報局本部での不祥事の事後処理にあたるためだと聞いている。
「名前ちゃんち、転勤族なんだっけ。引っ越しばっかって疲れない?」
「ばっかりってわけじゃないよ? ここから出て行って、十年くらい同じところに住んで、そのあと帰ってきただけから」
「あ、そうなんだ。へー」
「凝部くん、興味ないなら無理に聞かなくていいんだよ……」
父が情報管理局員であることは大っぴらに話すことではないし、そもそもこれは雑談だ。だから適当にされたところで別に構いはしない。だが、これでも一応は真面目に答えているのだ。そこまで露骨にどうでもよさそうにされると、さすがに多少はむっとする。
私がじとりと睨みつけても、凝部くんは「興味なくはないって」と笑っている。
「けどそこから話を広げるのって、結構無理があるなと思って。よその家の事情に首突っ込むのもなんだし」
「凝部くんにもそういう配慮とかあるんだ」
「あるある。常識も良識も普通にあるけど、発動しない方が手っ取り早いから、しない時の方が多いってだけ」
「なるほど参考になりまーす……」
「昔住んでたのもこの辺ってことは、市内ってことだよな。学区どの辺だったんだ?」
執り成すように、陀宰くんが会話に割って入った。
「ええー、どこだろう。というか市内、区画整理しまくってるよね? 戻ってきてびっくりしたんだけど」
私が笑って首を傾げると、陀宰くんもつられてか、口許をほころばせる。これもまた、雑談だ。私の学区がどこだろうと、それほど大きな問題ではない。たとえ判明しなくても、滞りなく会話は進む。
「幼稚園の名前とかも覚えてないのか」
「逆に、みんなそんなの覚えてるものなの?」
「俺は覚えてる」
「僕も」
陀宰くんと凝部くんが、声を揃えた。凝部くんは覚えているだろうと思っていたけれど、陀宰くんもちゃんと覚えていたのか。いや、そりゃあ通っていた幼稚園の名前くらいは忘れないか。そこで育み培った思い出の中身は、忘れてしまっても。
なんとなく意地の悪いことを考える。しかしすぐに、そんないじけたことを考える自分を恥じた。
「へえ、ふたりとも記憶力いいんだ」
笑顔でそう取り繕えば、にやりと凝部くんが口許を歪めた。
「いやー、それはどーだろーね? 僕は記憶力いい方だと思うけど、メイちゃんは別に普通じゃない?」
「あぁ?」
「だってそーじゃん。記憶力いい人は普通、補習なんか受けないでしょ」
「それとこれとは話が違うだろーが」
「僕には同じことに思えるけどね」
凝部くんに煽られて、陀宰くんがむっと眉根を寄せた。私の記憶している限り、陀宰くんの成績は本来それほど酷くないはずだ。追試を受けたのだって、今回がはじめてのはず。
「まあまあ、凝部くんの記憶力がすごいのはよーく分かったよ」
陀宰くんをフォローしようと口を挟むも、
「僕も名前ちゃんの記憶力がかなり頼りない、ってことはよく分かったよ」
呆気なく返り討ちにあう。通っていた幼稚園の名前も思い出せないふりしてしまった手前、反論のすべはない。
「まあ、そうだね。返す言葉もございません」
見ると陀宰くんも気の毒そうな顔をして私を見ている。舌戦で凝部くんに勝とうというのは、私たちには無謀な挑戦だったらしい。記憶力が良ければ頭の回転も早く、容赦がなくて弁が立つ。なるほど、凝部くんと渡り合っていくためには、それなりに覚悟が必要そうだ。
「まあでも、俺も苗字も、記憶力が悪いってほどじゃないだろ。凝部の物覚えがいいってだけで」
「そうだよね。うん、私もそう思う」
「あーあ、傷のなめ合いご苦労様」
「凝部……、お前そういう言い方やめろよ。俺にはともかく、苗字には」
「え、じゃあ今後はメイちゃんだけに照準を定めていいの?」
「……いや、それもやめてほしいけど」
「んもー、あれもやめろこれもやめろって、メイちゃんちょっとわがまますぎない?」
「お前が煽るのをやめればいいんだよ!」
しばらくそうして雑談で盛り上がる。五分ほど経ったころ、私が乗るバスが停留所にすべりこんできた。
「あ、私バス来たみたい。また明日」
「また明日。バイト頑張れ」
「じゃねー」
ふたりに手を振り、バスに乗り込む。座席について人心地ついてすぐ、ヒヨリちゃん以外とこうしてバスを待つのはずいぶん久し振りだったこと、男子とあんなふうにたくさん話したのははじめてのことだったことに、私は今更気が付いた。
◇◇◇
バイトを終えて、帰路につく。バス停を過ぎたあたりで、ふと視線の先を見知った背格好のふたりが歩いていることに気が付いた。
「ヒヨリちゃん? 萬城くん?」
遠慮がちに声を掛けるとすぐに、ふたりが揃ってこちらを振り向く。すでにとっぷりと日は暮れていたけれど、ヒヨリちゃんたちは私と同じく月桂高の制服姿だった。さっき学校の方から走ってきたバスとすれ違ったところだから、ふたりはそのバスに乗っていて、ちょうどバス停で下車したところだろう。
先を歩いていた二人は、足を止めて私を待ってくれた。互いに表情がはっきり分かるくらいの距離まで近づくと、ヒヨリちゃんはにこりと微笑む。
「この時間ってことは、名前ちゃんはバイト帰り? おつかれさま」
「お疲れ様です、苗字先輩」
萬城くんが浅く会釈をしてくれたので、私も「おつかれさまです」と頭を下げた。
一学年下の萬城くんとは、ヒヨリちゃんを通じて知り合った。帰宅部の私にとって、それなりに話をする間柄の後輩は萬城くんだけだ。萬城くんは形式にのっとって私を『先輩』と呼ぶけれど、ヒヨリちゃんがいなければ特に話す気のない相手だと私に対して思っていそうなことは、私も薄々感じ取っている。
「ヒヨリちゃんを萬城くんに連れていかれたーって陀宰くんが言ってたけど、本当に一緒にいたね」
「連れていかれたって。トモセくんの演劇部のお手伝いに顔出してたんだよ」
ヒヨリちゃんが苦笑する。萬城くんが不服そうに眉根を寄せた。
「俺からしたら、陀宰さんがこいつを待たせてる方が不自然ですけど。そもそも追試に引っかかるなんて……」
「トモセくん、陀宰くんにも事情があるから……」
どうやら萬城くんは陀宰くんに対し、いろいろと思うところがあるらしい。ヒヨリちゃんを巡る恋模様を思えば、その理由も容易に察することができる。長年ヒヨリちゃんの隣を死守してきた萬城くんにしてみれば、ぽっと出の陀宰くんがヒヨリちゃんに向ける好意は、面白いものであるはずがない。
ちらりとヒヨリちゃんを見れば、意外にも狼狽えたりすることもなく、萬城くんをなだめている。萬城くんと陀宰くんを含め、ここにもまた、私の知らないなにかしらの変化があったのだろうか。そんなことを思いつつ、私たちは並んで歩き出した。
私の家とヒヨリちゃんたちの家は、歩いて十分ほどしかかからない距離にある。小学校の学区が同じで、最寄りのバス停や生活圏もだいたい重なっている。
ファミリー層が多い地区ということもあって、市内でもかなり治安がいい地区に分類される。日暮れ後のこの時間でも、そこかしこに街灯が設置されており、女子の一人歩きもそう怖くない。
「ヒヨリちゃんと萬城くんは、この時間まで部活?」
街灯の白色に照らされながら、世間話がてら私は尋ねた。
萬城くんの所属する演劇部にヒヨリちゃんが駆り出されることは、そう珍しいことではない。私の質問に、ヒヨリちゃんがうん、と頷いた。
「衣装の相談をしてたんだよね。トモセくんたちが資料をたくさん用意してくれてたから、それを見ながら」
「衣装は購入もしますが、自分たちで用意できるところは用意しないと、予算が厳しいので。ヒヨリが手伝ってくれて、演劇部の先輩方も助かってるみたいです」
「そうなんだ。萬城くんはヒヨリちゃんを引っ張ってきてくれるうえ、演技も上手なんでしょう。すごいねぇ」
「……どうも」
珍しくも萬城くんが、少し照れたような返事をする。うんうん、とヒヨリちゃんが我がことのように頷く。
「トモセくんは幼馴染だから。できることは私も手助け出来たらなと思ってるよ」
いい話だな、と私は感心した。けれど当の萬城くんは、むっとした顔でそっぽを向いている。幼馴染だから、と言われたのがお気に召さなかったらしい。
「俺はヒヨリが幼馴染じゃなくても、困ってたら何だってしてやるけどな」
「もー、今はそういう話じゃなくて……」
こういう遣り取りも、最近では珍しくなくなった。萬城くんが過保護なのは以前からだとして、ヒヨリちゃんのあしらい方がうまくなったのかもしれない。
いつもの遣り取りに埒が明かないと思ったのか、萬城くんが溜息を吐いて言い合いをおさめた。癖のない黒髪が、彼の身振りに合わせてさらりと揺れる。
凝部くんも美青年といったたたずまいをしているが、萬城くんもまた、白皙の美青年という形容が似合う風貌をしている。少年と青年のあわいで、彼はいつも不安定に揺れている。
その整った顔に少しだけ疲れたような表情を浮かべ、萬城くんは今度は私に視線を向けた。
「苗字先輩は幼馴染とか、そういうのはいないんですか」
いるといえば、いる。が、その話を今するつもりはなかった。
「うぅーん、わたしは小さい頃に引っ越してるからね。小学生以来の友達とかなら、今も連絡とってる子はいるけど、ヒヨリちゃんと萬城くんみたいにもっと小さい時から『ずっと』一緒っていうのは、うん、ないかも」
ずっと一緒でない幼馴染ならばいる。私のことを忘れてしまった幼馴染、ならば。しかし幸い、ヒヨリちゃんも萬城くんも私の言葉を素直に受け取ってくれたようだった。
「引っ越していく前、このへんに友達とかはいなかったんですか」
「どうだろう。でもいたところで、向こうは覚えてないと思うよ」
「まあ、案外そんなものですよね」
萬城くんは納得したように、私の言葉に同意した。すると今度はヒヨリちゃんが、
「私もトモセくんが隣の家に住んでなかったら、今みたいに仲良くはなかったのかな」
などと聞き捨てならないことを言い出す。当然のように萬城くんが不満をあらわにした。
「は? そんなことないだろ。家が隣じゃなくても俺はお前の隣にいたはずだ」
「そりゃあ私もそうだったらいいなと思うけど。でも、トモセくん人見知りなところあるし」
「人見知りはもう直った。今はそうじゃなくて、付き合う相手を考えているだけだ。というかお前こそ」
「私は幼馴染じゃなくてもトモセくんと仲良くなりたいと思ったと思うよ」
「俺だってそうに決まってる」
気心知れた幼馴染らしい微笑ましい遣り取りを、私は頬をゆるめながら聞いていた。ヒヨリちゃんは基本的には優しい子で、誰に対しても分け隔てなく接する。けれど凝部くんには『あしらう』としか言いようがない対応をしていることがあるし、萬城くんとの距離には、凝部くんに対するのとはまた違う気安さがある。
陀宰くんに対しては、どうだろう。親しみを感じているのは伝わるが、それ以上の感情が伴っているのかは、正直言うとよく分からない。
陀宰くんに対して照れたりはにかんだりすることはある。けれど、それ以上はない。分かりやすい感情表現がない。
ヒヨリちゃんは、凝部くんのような読めない性格ではない。むしろその反対で、比較的なんでも顔に出やすい素直な子だ。それならば、そこから導き出される答えはただひとつ。
確認したことはない。けれど多分、きっと、ヒヨリちゃんと陀宰くんのあいだに存在しているのは、陀宰くんの片思いだ。
陀宰くんは私と同じ、結実の見込みの薄い恋に身を焦がしている。
(いっそのこと、付き合っててくれた方が良かったのかもな)
そうすれば、私もすっぱり気持ちを捨てられたのかもしれない。片思いなんて、中途半端に付け入る余地が残っているせいで、私はこうして往生際悪く陀宰くんを目で追ってしまう。
(そんなの、無駄なことでしかないのに……)
片思いの執念深さや重たさを、私はいやというほど知っている。私が抱えているのと同じだけの質量や湿度の感情を、かりに陀宰くんがヒヨリちゃんに抱いていたとしたら?
どう足掻いても、私がそこに入り込むことはできない。それなのに、陀宰くんからの片思いだからという、ただそれだけを理由に、私は期待を捨てきれない――
「でも、案外月桂高にも名前ちゃんの幼馴染というか、小さい頃に会ったことのある子がいるかもね」
「それはたしかに。結構いろんな学区から生徒が通ってるしな」
ぼんやりと話を聞いていた私の耳に、ふたりのそんな会話が飛び込んできた。
『それが、本当に幼馴染が同じクラスにいるんだよ。その幼馴染っていうのが、ふたりもよく知ってる陀宰くんなんだけど』
絶対に口にすることのない言葉を、半ば無意識に頭の中で呟く。その途端、胸の中をむなしさが埋めつくした。
夕方、凝部くんと交わした会話をふいに思い出す。
私はヒヨリちゃんの優しさを、誠実さを、真摯さを信じている。全幅の信頼を寄せている。
けれどもしもこの先、ヒヨリちゃんが陀宰くんを好きだと言ったなら。
私はそれでもヒヨリちゃんのその判断を、疑わずにいられるだろうか。ヒヨリちゃんを責めずに、祝福できるだろうか。ヒヨリちゃんを妬まず、笑顔で気持ちを捨てられるだろうか。
歩みはほとんど無意識で、ペースもヒヨリちゃんと萬城くんに合わせている。空っぽになった胸を持て余したまま、足を機械的に動かしながら、私はその問いの答えを考え続けていた。
03
恋愛感情というものがどういうものなのか、今もって私は、よく分かっていないような気がする。
好きだとか、付き合うだとか、結婚するだとか。
陀宰くんに告白したあの頃の私は、それらの言葉を、たしかに知ってはいた。けれど、その中身についてはまるきり無知だった。そして今も、そのことに変わりはない。
◇◇◇
グループ学習のため開放された特別教室は、付属の大学と一部施設を共有していることもあり、普段使用している教室よりも広々として自由度が高い。丸テーブルの中心に置かれた共同ディスプレイには、グループのメンバーであるヒヨリちゃん、陀宰くん、凝部くん、そして私が集め持ち寄った資料が、フォルダごとに分類され展開されていた。個人のバングルのディスプレイにも同じ画面が表示されているが、単純にディスプレイのサイズの大きさから、共同ディスプレイの方が使い勝手がいい。
「ていうか、グループ学習って。高校二年にもなってやること?」
指先ですいすいとディスプレイ上の情報を操作しながら、凝部くんが不満をこぼす。共同活動だというのに、個人的な不満を隠そうともしないその姿勢には、一周回って尊敬の念すら湧いてくる。
「文句ばっか言ってないで、凝部くんも作業してよ」
委員長然とした反論をするのはヒヨリちゃんだ。私などはこの頃では、たとえ凝部くんに不満を持ったところで滅多に口に出さなくなっている。それは単純に舌戦だと分が悪いうえに、わざわざ言い立てるほどの大きな不満でもないからだ。
だがヒヨリちゃんは持ち前のお姉さんらしさを発揮して、根気強く凝部くんに付き合っている。そういう熱意は私にはない、ヒヨリちゃんの美点だ。偉いなぁと、私はしみじみ感心してしまう。
とはいえ親身さと熱意があるからといって、凝部くんの手綱を握れるわけでもなく。
「してよっていうか、現状僕が一番グループに貢献してるんですけどー」
「それは、たしかに……」
「分業がうまくハマったよな。凝部と苗字が情報収集担当、俺と瀬名が資料まとめ担当」
「物は言いようだね」
「そうそう、メイちゃんの言うとおり。手を動かす作業はキミたち得意でしょ。僕は頭脳労働担当☆」
そう言って凝部くんは、個人のディスプレイをオフにしてしまう。まったく悪びれた様子もなくペン回しを始めてしまったその様子に、私たち三人は深い溜息を吐いた。
凝部くんの文句に同調するわけではないが、高校二年の秋にもなってグループ単位での調べ学習をしている高校は、全国的に見ても珍しいような気がする。進学校ならば尚更だ。
月桂高は、生徒の大半が付属の大学に内部進学する。だが月桂大はどの学部をとっても偏差値が高く、受験生からの人気も高い。当然、内部進学生であっても成績が振るわなければ、進学時の試験に落とされることもある。
それでも外部受験生に比べれば、いくらか気楽な心構えの生徒が多いことは否めない。そんな呑気さのあらわれが、このグループ単位の調べ学習ともいえた。
カリキュラム上は、情報処理の実習。が、必修というわけではないので、大抵の学校は映像教材をひとコマ見ておしまいにしている。うちの高校がこうも熱心にこの授業をやるのは、月桂高の卒業生が情報局の偉い人と昵懇だからだとか、そうじゃないとか。とにかく、噂だけは色々聞く。
閑話休題──
膨大な情報のなかから、課題に使えそうな部分をピックアップしていく。学外の公開資料は凝部くんがあらかた見てくれているので、私は学内に保管されている資料に深く目を通す役割を担っている。
古い資料のなかの、特に重要そうな部分をタップする。と、突然ディスプレイ上にアラートのウィンドウが開き、画面にざざっとノイズが入った。
「あ」
小さく声を洩らすと、作業をしていたヒヨリちゃんと陀宰くん、器用にペン回しをしていた凝部くんが、揃ってこちらに顔を向ける。
「どうしたんだ、苗字」
尋ねる陀宰くんに、私は腕を差しだした。バングルが示す砂嵐とアラートを見せると、陀宰くんは眉をひそめる。横から凝部くんが「データ破損?」と問いかけた。
「そうみたい。読もうと思ってたここ、データを開けないって。図書室に行かないと内容参照できなさそう」
「図書室? あそこだって、蔵書は全部データ管理でしょ」
「そもそも図書室って、どこにあるんだ」
「バングルでデータの貸出もしてくれるから、そういえば何処にあるのかは知らないかも」
凝部くん、陀宰くん、ヒヨリちゃんが口々にコメントする。私は高校に入学したばかりの頃に一度だけ図書室を利用したことがあり、たまたま場所を知っていた。
「大学部と隣接してるところにあるから、ここからなら歩いてすぐだよ」
「そうなんだ。使わないと分かんないね」
「ていうか、行ったところでその壊れてるデータが、修復されるわけでもないでしょー?」
「それはそうなんだけど。でも多分、原本になってる資料が図書室にはあると思うんだよね。結構古い資料みたいだし、そうそう破棄はしない気がする」
「へー、けどわざわざ原本見に行くなんて、なんともまあ面倒くさそうなことだね」
またしても凝部くんが協調性のない言葉を発した。とはいえ、ここで凝部くんと言い争うのも面倒だ。別にみんなでぞろぞろ図書室に行く必要もない。凝部くんのことだから、そこまで見越して腐しているのだろう。
「いいよ、私が行ってくるから」
私がそう言うのを待っていただろう凝部くんは、「はーい、じゃよろしく」とにやけた顔を私に向けた。なんだか、うまく使われている気がする。
釈然としない思いで椅子から腰を上げる。と、私が立ち上がったのとほとんど同時に、
「じゃあ私も一緒に行こうかな」
「俺も」
ヒヨリちゃんと陀宰くんも揃って椅子から腰を上げた。面倒見のいいふたりは、私に付き合ってくれるらしい。
ふたりに視線を向けられて、凝部くんはむすっと口を尖らせた。
「えー、なに? 僕以外全員図書室行くの?」
「凝部くんは待ってていいよ」
ヒヨリちゃんが、少しだけ意地悪く笑う。日頃の意趣返しだろうか。実際、別に凝部くんが来なくても困るということはない。
「珍しく瀬名が強気だな」
「そういうの嫌いじゃないけどさー……。それで『じゃーはいよろしく☆』とは、さすがの僕も言えないでしょ」
「言ってもいいと思うけど」
「いいよいいよー行きますよー」
「来なくていいって言った途端これか。本当、ひねくれてんな……」
「でもグループに一体感があるのは嬉しいね」
ほくほくと微笑むヒヨリちゃんに、私もつられて笑ってしまう。
テーブル上の荷物をまとめると、私たちは特別教室を後にして、四人で図書館へと向かった。
授業時間中の図書室は閑散としていて、建物自体がしんと冷えていた。数年前の改装以来、図書室は情報の集積および発信基地としての役割を強めている。わざわざ足を運んで紙の蔵書を読む学生も、今の時代はほとんどいない。
蔵書検索をしたところ、目当ての資料は地下の閉架におさめられているとのことだった。エレベーターで下層までおりる。到着した閉架には所狭しと書架が並べられ、そこには私たちを圧倒するように頭上まで、みっちりと資料が詰め込まれていた。
「これはすごいね。さすがにこの量の書物って、あんまり見ないよ」
凝部くんが辺りを見回し、感心したように言う。
「『あっち』の図書館もすごかったけどな」
「メイちゃーん」
「……ああ、悪い」
凝部くんに諫められ、陀宰くんが口をつぐむ。ヒヨリちゃんは曖昧な顔で、フォローすべきか決めあぐねているようだ。
と、凝部くんと目が合って、何やら意味ありげに微笑まれた。今の話はきっと、例の秘密についての話なのだろう。気になりつつも、私は資料探しに頭を切り替える。
目的の資料の在り処はすぐに見つかった。
よほど大切な資料なのか、それとも逆に処分のタイミングを逸しただけなのか。目当ての資料は、最奥の棚の、さらに最上段というかなり手に取りにくい場所に保管されていた。
「資料、あそこかぁ。あ、踏み台あるね。あれ乗れば取れそう」
すぐ近くに若干ほこりを被った踏み台を発見し、それを棚の前まで足で運ぶ。いざ資料を取ろうと踏み台に足を掛けたところで、「待った」と陀宰くんが私を制止した。
「いいよ、俺がとる」
「……陀宰くんでも踏み台使わなきゃ届かないと思うけど」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
「スカートの中身が見えちゃうかもーって、気にしてるんだよね、メイちゃんは」
「……お前、分かってても言うなよ」
陀宰くんのげんなりした声に、「え」と思わず呟いた。たしかに、踏み台に乗って高所に手を伸ばそうとすれば、スカートの中身が見えてしまってもおかしくない。私もヒヨリちゃんもスカート丈はそう短くないが、もしかしてということは十分にあり得る。
「こういうとき、陀宰くん優しいよね」
ヒヨリちゃんに言われ、陀宰くんはぷいっと顔をそらす。
「ていうか、見るからに資料重そうだし。女子に高いところの重いもの持たせるのは、普通避けるだろ」
目をそらしながらの言い訳も、陀宰くんの優しさを裏打ちするものでしかない。ヒヨリちゃんは見慣れているのか、にこにことあたたかな眼差しを陀宰くんに向けている。凝部くんにも特に驚いた様子はない。やはり、陀宰くんの振る舞いを『陀宰くんらしい』と受け止めているということだろう。
私だけがひとり、ぽかんとして陀宰くんを見つめていた。
その間に陀宰くんは踏み台を使って、目当ての資料を取り出す。中身はバングルのカメラで撮影し、データ修繕の依頼を出すため受付に持っていくことにした。
一連の作業はあっという間に終了し、私たちはさっさと図書室を後にする。すでに図書室での遣り取りは忘れ去られ、私以外の三人は課題の進め方について相談を始めていた。
「……変わったね、陀宰くん」
校舎に向かい歩く道すがら、思わず、そんな言葉が口をついて出た。
意思を持たずにこぼれ出た言葉は、幸いにして誰の耳にも届かず消えてくれたらしい。
「え? 何だって?」
首をかしげ、陀宰くんが問い直す。一番近くにいた陀宰くんに聞こえていないということは、ヒヨリちゃんたちにも聞こえてはいないだろう。
思考のゆるみを引き締めて、私は「別に!」と返事をした。
「ただ、陀宰くんは変わってるねって言っただけ」
「そうか……? 自分で言うのもなんだけど、俺、かなり普通の人間だと思う」
「逆に名前ちゃんはメイちゃんのどのあたりを見て変わってると思ったの?」
「どこっていうか……」
「陀宰くんは優しいよね」
「いやいや、今してるのはメイちゃんが変わってるかどうかって話だから、優しいっていうのはまた少し違うでしょ」
私の言葉を起点に、三人はまたわいわいと話に花を咲かせる。私が傍から見ていても分かるほどに、調和のとれたグループだ。
(やっぱり、三人で輪っかが閉じてるんだなぁ)
うっすらとした寂しさが、身体の中を隙間風のように通り過ぎていく。
分かっていたことだけれど、やはり私は、輪のなかの一員にはなれない。それを改めて突き付けられたような気がした。
ヒヨリちゃんや凝部くんが知っている陀宰くんを、私だけが知らない。それは当然だろう。私は今の陀宰くんのことを極力知らずにいられるようにと、一学期のあいだそれこそ死に物狂いで陀宰くんを避けていた。
これ以上惹かれることが怖かったのだ。一学期の最初には、陀宰くんはもうヒヨリちゃんに惹かれ始めていたから。
今の陀宰くんは、私が知っていた幼い頃の陀宰くんとは違う。少なくとも昔の陀宰くんならば、あんなふうに分かりやすい優しさを、平然と差しだしたりはしなかったことだろう。
昔の陀宰くんと今の陀宰くんが違うことに、落胆しているわけではない。ただ、自分で思っていた以上に、困惑はしていた。
私が好きだった陀宰くんは、小さな頃の少しぶっきらぼうな陀宰くん。けれどじゃあ、そんな陀宰くんが今もまだ彼の中に残っているのかと問われれば、私には分からないとしか言いようがない。それに、そういう陀宰くんのことが今もまだ好きなのかと言われても、やはり私には分からない。
十年来の思いはもはや、執着と呼んでもいいような代物に成り果てている。そのことは間違いない。
それなのに、さっき私は陀宰くんに分かりやすく優しくされて、不覚にも胸をときめかせてしまった。私の知らない陀宰くんに、心をぎゅっと掴まれた。
(だから頑なに、避け続けてきたのに……)
好意を感じてしまったことが苦しい。だからこんなふうに近づくべきではなかったんだと、後悔に駆られたところで後の祭りだ。
認めるしかない。私の知らない陀宰くん――ヒヨリちゃんや凝部くんが当然のように受け容れている陀宰くんに、私は寂しさを感じるのと同じだけ、心惹かれてもいる。当然のように差しだされる優しさを、これまで感じたことがないくらい嬉しいものと思ってしまう。
(……諦めるって、決めたのに)
身を退いて、せめて陀宰くんの幸せを見守りたいと、そう思っているはずなのに。今になって浮ついた恋心を持て余している自分に、私はひどく困惑していた。
◇◇◇
「まーた視線がメイちゃん追ってるよ?」
特別教室に戻り、作業を再開してしばらく。私の隣で椅子のキャスターをごろごろ言わせていた凝部くんが、つん、と私の肩を叩いた。
私の視線の先には、集めた資料の展示について、肩を寄せ合い相談し合う陀宰くんとヒヨリちゃんがいる。資料収集を中心に担当した私と凝部くんは、ヒヨリちゃんたちから具体的な指示が来るまで、いったん休憩していていいと言い渡されていた。
陀宰くんに視線が向いていたのは無意識だったが、指摘されてみるとたしかに、私はしっかり陀宰くんを視界におさめ続けている。むしろ無意識でやってしまっている分、何ともストーカーじみていた。
「……そうやって観察するのやめてほしいんだけど」
「それを言うなら、僕の目の前でメイちゃんばっかり目で追うのやめてくださーい」
精一杯の反論も、あっさり退けられてしまう。言葉を詰まらせた私に、凝部くんはこれみよがしに溜息を吐いて見せた。
「そんなにメイちゃんとヒヨリちゃんのことが気になるなら、分担作業をするってなった時点で、名前ちゃんがメイちゃんかヒヨリちゃんのどっちかと組めばよかったのに。メイちゃんに気でも遣ってるの? それ、多分メイちゃんに伝わってない自己満足だと思うけど?」
「……凝部くんって、本当に言い返しにくい嫌なこと言うよね」
「ま、ね☆」
そして癪なことに、凝部くんの言い分は間違ってはいないのだった。
分担して作業をしようと言い出したのは陀宰くんだった。もちろんそこに、下心などなかったことは間違いない。いや、あわよくばくらいには思っていたかもしれないが、そこで露骨にヒヨリちゃんと組みたがるような真似を、陀宰くんはけしてしない。
それならば、凝部くんの言うとおり、私がさっさと陀宰くんとのペアに立候補する手もあった。調べ学習に必要とされるスキルなど、そう大したものではない。凝部くんは別にしても、誰がどの役割を担当しようが、最終的に完成する提出物のクオリティは大体同じようなものだろう。
それでも、私は言えなかった。身を引いたつもりはなかったが、結果だけ見れば身を引いたとしか言いようがない。
グループ内に片思いしている人間がふたりいて、うちひとりが消極的な態度をとる。そうなれば、残るもうひとりの希望が――それがどれほどあけすけでないとしても――通るのは、至極当然の成り行きだ。
視線を陀宰くんから引きはがし、私は自分の指先を眺めた。放っておくといつまでも、未練がましく陀宰くんばかり目で追ってしまう。意識して他のものを見るようにしていると、指先についたインクの汚れが目についた。
「いい加減、秘密の話を教えてくれる気にはなった?」
凝部くんが声を低めて聞いてくる。声には面白がるような響きが、隠す気もないのかはっきり滲んでいる。
「そんな気にはなってないし、今後もならないよ」
「秘密にされるほど燃えるのはたしかだけど、少しくらいヒントとかないのー?」
「なんで明かしたくない秘密を暴かれようとしてるうえに、さらにヒントなんてあげないといけないの」
「ゲームはフェアじゃないと」
「私にデメリットしかないゲームのフェア性を担保する気はありません」
そっぽを向いて私が言いきると、凝部くんは意外にも「へえ」と思案深げな声音で応じた。思わず私は首を巡らせ、凝部くんの顔をまじまじ見返す。特別教室にはそれなりの人数の生徒が集まっているが、私たちふたりの会話に注意を払っている生徒は、教室内にひとりもいなかった。
「それって」と、凝部くんが続ける。
「逆に言えば名前ちゃんは、メリットがあれば秘密を明かしてくれるの? たとえば? メリットって物質的なもの? それとも情報とか、あるいはもっと別の何か?」
「うーん……。そうはいっても、凝部くんから何か欲しいわけでは……」
そもそも私は、メリットがあったら話す、などとは一言も言っていない。ただデメリットしかないゲームなんて嫌だ、と言っただけだ。なにかが欲しいというわけではない。強いて望みを言うのなら、凝部くんにはこの件はもう放っておいてほしいというくらいだった。
「じゃあ、僕ら三人が――厳密に言えば三人だけじゃないけど――共有してる秘密のヒントをあげるとかは?」
さすがに凝部くんは、いいところを突いてくる。さっきの図書館での遣り取りを思い返せば、凝部くんの提案は非常に魅力的なもののようにも思えてくる。
しかし、私は凝部くんからの提案を蹴った。
「……それは要らないって、前にも言った気がするんだけど」
「んー、でもそれって本心じゃないでしょ? 知りたくないとは言ってない、ってたしかキミ、言ってたし。教えてもらえるなら知りたいと思うのが人間じゃん」
「…………」
言葉尻をとらえてあげつらってくるようで、きちんと核心をついてくるところがまた恨めしい。私が返事をせずに黙っていると、凝部くんは「黙っちゃってー」と溜息を吐いた。
「別にもっと直接的なメリットが欲しければ、僕はそれでもいいんだよ? メイちゃんとの恋のキューピッドになってあげるとか」
「それは本当にやめて」
思わず鋭い声で返事をしてから、はっとした。瞬時に、失敗したのだと悟る。凝部くんが柳眉を下げ、意地の悪い笑顔を私に向けていた。
……してやられた。内心で歯噛みする。まんまと凝部くんの思惑に乗ってしまった。
「そんなマジの拒否とか、いよいよ暴きたくなっちゃうんだけど」
追い打ちを掛けるように、凝部くんが言った。凝部くんとふたりで話していると、こんなふうに追い詰められてばかりだ。私は大きく一度息を吐き出して、目を瞑る。そうして胸のうちのざわめきをしずめてから、改めて凝部くんと向き直った。
「陀宰くんは、ヒヨリちゃんのことが好きだよ」
周囲への配慮で声を低めたつもりが、発した声は無様に掠れる。まるで呻き声のようだった。
「そーだね。でも今のところ、ヒヨリちゃんにその気はないっぽいよ」
「……だからって、陀宰くんのヒヨリちゃんへの気持ちがなくなるわけじゃないし」
「そして、キミのメイちゃんへの気持ちも消えない」
間髪を容れずに打ち返され、私はまた返答に窮して黙った。
凝部くんの言葉はいちいち嫌味かと思うほど、どれをとっても正しい。少なくとも、私が諦めるだの諦められないだの、そんなことをぐだぐだ捏ねくり回しているよりは、ずっときっぱりしていて現実に即していた。
私は陀宰くんが好きで。
陀宰くんはヒヨリちゃんが好きで。
けれどヒヨリちゃんが陀宰くんの気持ちに応えるつもりがないのなら、別に私が身を引く必要はないわけで。
言葉にすればこうも単純なことだ。誰が聞いても、凝部くんの言い分にこそ正しさを見出すだろう。
けれど、凝部くんは致命的に間違えている。それは私が秘密にしている事情を、凝部くんは知らないから。どれだけ理路整然と正しさを振りかざそうと、前提条件を間違えているうちは、永遠に答えに辿り着くことはない。
「陀宰くんに告白する気はないよ」
もう一度、今度は声が掠れないよう力をこめて、私はきっぱりと言い渡した。
「できれば凝部くんにも、もう私のことは放っておいてほしい。私の、陀宰くんへの気持ちのことは」
凝部くんが、胸の前で組んだ指をゆるりとほどく。そして「……参ったね」と、彼にしては珍しく、本当に弱ったような真面目な声でぽつりと呟いた。
「僕は目の前にあからさまに怪しい嘘や秘密があったら、どうしたって暴いてしまいたいんだけど……。でも、そうだね。さすがにこれ以上は自分でも、悪趣味だって思うかも」
「……意外。凝部くんに、こうやって聞き入れてもらえるとは思わなかった」
「キミ、僕のことなんだと思ってるの?」
ひねくれ者の高校二年生、という返事は、胸のうちに留めておいた。せっかくこちらの言い分を呑んでもらえたところだ。不用意に凝部くんの機嫌を損ね、せっかくの譲歩を台無しにしてもらいたくはなかった。
ちょうどその時、授業終了を告げるチャイムが鳴る。陀宰くんとヒヨリちゃんが、くるりとこちらを振り向いた。私はヒヨリちゃんに向け、ひらひらと手を振って笑いかける。横顔には凝部くんからの、もの言いたげな視線が刺さっていた。
「分かったよ。これ以上キミのメイちゃんへの気持ちを、詮索したり踏み荒らしたりしない」
先程までよりもさらに声をひそめて、凝部くんが言う。ざわついた教室内でも、凝部くんの小声は不思議と聞き取りやすかった。
「約束してくれるの?」
「いいよ、約束する」
感謝してよね、と押しつけがましくも言う凝部くんに、私は素直にお礼を言った。
「ありがとう、凝部くん」
「……こんなことでお礼言われてもね」
自分からお礼を求めてきたくせに。なんだか釈然としないというような調子で、凝部くんはぼそりとぼやいた。
一緒に帰ろうと約束をしていたわけではないけれど、なんとなく教室を出るタイミングが重なって、私と陀宰くん、それに凝部くんは今日もまた、一緒にバス停へと向かうことになった。ヒヨリちゃんは今日も今日とて、演劇部のお手伝いに駆り出されている。
「あ、やばい。教室に忘れ物したかも。悪いけど、先行っててくんない? 適当に追いつくから」
という凝部くんの、本当なんだか分かったものではない台詞を受け、私は陀宰くんと肩を並べて歩く。昼間の会話があるだけに、凝部くんから余計な気を回されているとは思いたくないが、彼ならやりかねないとも思う。私と陀宰くんの事情をつっつかない、放っておくという約束は、一体どの程度期待できるものなのだろう。
(まあでも、ふたりきりが嬉しくないわけではないし……)
陀宰くんを避けていた一学期ならいざ知らず、今はもう避けることなどできずに流されるままになっている。もちろん諸手を挙げて大歓迎、というわけではないから、この状況を凝部くんに感謝するかどうかでいえば、感謝が四割、迷惑が六割といったところだ。それでも、四割の感謝は間違いなく私の胸に存在している。
昇降口で一応凝部くんを待ってみたが、彼が私たちを追いかけてくる気配はまだない。
「まあ、あいつは気まぐれだから。そのうち来るだろ」
陀宰くんは諦めたようにそう言った。なんでも今日はふたりで出掛ける予定があるらしく、その約束がある限りはそのうち戻ってくるだろう、とのこと。陀宰くんが凝部くんと、学校外でも一緒にいるということが、少しだけ意外だった。
校舎を出ると、運動部の発声がグラウンドから聞こえてくる。
「陀宰くんって、ふつうに凝部くんと遊んだりするんだ」
私が言うと、陀宰くんは変なものでも食べたような、微妙な顔で「いや、遊ぶっていうか……」と唸る。どうやらこれも、三人の秘密にかかわる話のようだ。どこに秘密の緒が潜んでいるか分からないから、なんとも難しい。
どうしたものかと思っていると、陀宰くんが「そういう苗字こそ」と、露骨に話題を変えた。
「苗字、なんか最近やけに凝部に絡まれてないか?」
「そうかな。そう見える?」
「そもそも凝部は軽いノリのわりに、誰とでも話すってわけでもないだろ。だから余計にそう見えるのかな」
「ああ、そういう感じはあるのかも」
凝部くんはノリが軽いし、当意即妙な返事もお手の物だ。だから人を食ったような性格のわりに、結構あちこちから人気がある。
それでも凝部くんには凝部くんの交友関係のレベルというか階層があるようで、陀宰くんやヒヨリちゃんとつるんでいることが圧倒的に多かった。私が凝部くんに絡まれがちなのは、単に彼の目につくところにいるからだろう。
「苗字は結構、うまく凝部をあしらってる? いなしてる? ……とにかくそういう感じだから。すごいなと思うし、絡まれて大変そうだなとも思ってた」
「思ってたなら助けてくれてもいいのに」
「助けが必要そうなときは割って入ってるつもりだが」
そう言われてみれば、たしかにそうなのかもしれない。以前放課後の教室で凝部くんとふたりきりになったときも、あやうい空気になったところで陀宰くんが割って入ってくれた。
「苗字は困ってる? その、凝部の扱いに」
率直な陀宰くんの質問に、私は首を傾けた。
「うーん、なんだろう。困ってるっていうわけではないんだけど……。なんか私、凝部くんに面白がられてるみたいなんだよね。よく分かんないんだけど」
「それは苗字が、」
と、陀宰くんがそこで言葉を途切れさせる。なんだろう。歩きながら陀宰くんの顔を覗き込むと、陀宰くんはうっすら目元を朱に染めて、おかしな方向に視線を飛ばしていた。
「陀宰くん? 私が、どうかした?」
「いや……苗字が」
「私が?」
「き……れいだからじゃないか」
途切れ途切れに紡がれた言葉に、思わず耳を疑った。
「えっ、と…………」
「だっ、黙るのやめろ……! 恥ずかしくなる、から……」
「いや、だって……」
きれい? 陀宰くん、今、私のことをきれいと、そう言っただろうか?
茹でダコも斯くやというほど赤くなった陀宰くんを、私はじっと見上げていた。私の隣を歩く、やや癖っけで三白眼の男の子は、本当にあの、私の知っている陀宰メイくんなのだろうか。
「ここにいるの、本当に陀宰くん? 影武者? 偽物? 立体映像?」
「本物だよ」
陀宰くんは疲れたように呟いて、それから長い溜息を吐き出した。両手をあわせて顔を覆う陀宰くんは、どうやら本当に心の底から、照れてしまって仕方がなくなっているらしい。
「あー、無理。キャラじゃないこと言った……」
その様子を、私はついつい、まじまじと観察してしまった。そうしていると、じわじわと照れと喜びが私の中にも満ちてきて、私までつられて顔が熱くなってくる。
私だって年頃の女子なので、たとえお世辞であろうと、きれいだと言われることがまったくないわけではない。ただ、それが陀宰くんから――十年来の片思い相手から発せられた言葉となれば、みすみす聞き流せるものではなかった。
嬉しい。嬉しい。浮かれてしまう。
陀宰くんの目にうつる自分が、陀宰くんにとって『きれい』だと思えるものであることが、嬉しくて、心が浮き立つのを止められない。
もちろん、深読みしすぎてはいけないのだということは、重々承知している。けれど、それでも。
胸の中を、濁流と嵐がごった返しになったような荒々しさが、勢いよく駆け抜ける。その激しい情動が外見に漏れ出てしまわないよう、私は必死で全身に力をこめた。うかうかしていると、口許がゆるんでしまう。にやけただらしない顔を、こんなところで陀宰くんに晒したくはない。
けれど自分を律することに必死になりすぎた私を、陀宰くんは怒っているのだと勘違いしたらしい。
「……嫌だったなら、謝る」
ふいに謝られ、私は驚き目を見開いた。
「え? 何が?」
「いや、急に外見褒められるのとか、気持ち悪かったかな、と」
「全然、むしろ嬉しかったけど!」
勢い込んで否定すれば、陀宰くんは顔に少しだけ安堵の表情を浮かべた。そして私の勢いがおかしかったのか、目元をそっと綻ばせる。
「嫌じゃないならよかったよ。いや、よかったっていうのも変なのか……?」
「変かなぁ。どうだろう、変と言えば変かもしれない」
「やっぱり変なのか……」
「陀宰くんぐるぐるしてるねぇ」
「慣れてないんだよ、こういうの……」
がくりと肩を落とす陀宰くん。その様子が微笑ましく、私はさらに嬉しくなってしまう。こうして陀宰くんと他愛ない話ができていることが、嬉しくてたまらない。
「いいんじゃないの? 女の子口説き慣れてるっていう方がどうかと思うし。慣れてないくらいでちょうどいいと思うよ」
「けど、俺の周りの大人はなんていうか、結構さらっと可愛いとかきれいとか言うぞ」
聞き捨てならない台詞に、今度は私が怪訝な顔をする番だった。
「……陀宰くんって普段、どういう界隈に出入りしてるの?」
陀宰くんは帰宅部だし、バイトもたしかしていない。先輩との交流は最小で、年上の知り合いがいるというのも初耳だ。まさか、良からぬ仲間とつるんでいるのではないだろうか。
にわかに不安が首を擡げ、私はじっと陀宰くんを見つめた。しかしそんな私の不安をよそに、陀宰くんは肩を揺らして笑い始める。最初こそ我慢しようと奮闘している様子がうかがえたものの、結局、陀宰くんはすぐに笑い声を堪えきれなくなった。
「ふっ、くっ……くく、ふは……っ」
「ちょっと……笑うところじゃないんですけど?」
大袈裟に肩を揺らしている陀宰くんを、私はむっつりと睨めつける。
「陀宰くんがいかがわしい界隈に出入りしてるんじゃないかって、私結構本気で心配してるのに」
「わ、悪い……でも、っふ、界隈……」
「ツボってるのそこなの!? 別に変な日本語じゃないでしょ。日常日本語の範疇だよ」
「そうなんだけど……けど、界隈……。あの人たち、何界隈の人ってことになるんだろうな、とか……くっ、くく、」
「じわっとツボの深みにハマってくのやめてよ」
陀宰くんはそれからしばらく、ひとりでじわじわウケ続けていた。私もはじめは面白かったり照れたりしていたが、次第に何を笑ってるんだと腹立たしいような気分になり、最後には「陀宰くんがこんな笑い上戸だと思わなかった」と文句を言った。
陀宰くんはそれでもしばらくは笑いの波が引かなかったが、笑いながらでもどうにか「大丈夫だよ、普通にちゃんとした人たちだから」と教えてくれた。私はもう『界隈』の人たちをほとんど疑ってはいなかったが、それでも陀宰くんの言葉を聞き、少しだけほっとした。
そんなふうに笑いながら歩いているうちに、いつのまにかバス停に到着していた。凝部くんはまだ追いついてこない。けれど陀宰くんがそれほど気にしていなさそうだから、私も気にしないことにした。困ったらバングルで連絡を取り合えるのだし、凝部くんだって子どもではない。それほど心配することもないだろう。
バス停前のベンチに腰をおろした陀宰くんは、笑顔で固まったままの顔を空に向け、天を仰ぐ。
「はー……笑った……」
「笑ってくださって、どうもありがとね」
「怒んなよ。心配してくれたのに、悪かったって」
「別に怒ってないよ。陀宰くんの笑いに貢献できたならよかったと思ってるし。一日一善」
「今のも善行カウントなんだな」
「あんなに笑っておいて善行にカウントしてくれないの?」
「いいよ、善行。立派な善行だと思う」
「適当だなぁ」
陀宰くんがあまりに適当なので、私まで笑えてきてしまった。しばらく思うままに笑いながら、陀宰くんとこんなふうに笑い合うのは、再会してからはじめてのことだと気付く。
思えば私は陀宰くんの前では、ひどく固くて重たい殻に閉じこもるようにしてばかりだった。殻の隙間から陀宰くんの様子をうかがっては、ひとりで一喜一憂していた。
(いっそ昔出会ったりしなければ。高校ではじめましてで出会っていれば、もっと気持ちも楽だったのかな)
今目の前にいる陀宰くんに、私はたしかに惹かれていた。もはや疑いようもない。十年来の片思いとは、まるきり別の感情だ。あの頃の陀宰くんではなく、今の陀宰くんに、私は恋をしようとしている。
けれど――
「苗字さ、最初の印象と実際の感じ、結構違うな」
唐突に陀宰くんが言う。どきりと、心臓が嫌な鳴り方をする。
(『最初』の印象……)
私は膝の上に置いた鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ「……そう?」と努めて平静を装った。
「なんていうか、最初はもっと、静かなタイプかと思った。気が弱そうというか」
「それでちゃんと合ってるよ? 静かで気が弱そうで、か弱くてお淑やかで可愛い女子でしょ」
「そこまでは言ってない」
わざとらしく呆れた顔をつくる陀宰くんに、私は「えぇ?」と抗議の声を上げた。……大丈夫、いつも通りにできている。
「そもそも陀宰くんの言う『最初』って……いつのこと?」
「高二でクラスが一緒になったとき」
「高二……」
分かっていたことだ。それなのに暗雲が立ちこめるかのごとく、落胆が胸を勝手に覆った。
陀宰くんにとっての私は、高校二年の春に現れた同級生のひとりに過ぎない。陀宰くんの記憶と世界には、高校二年の春より前に、私という人間は存在していない。そのことを、今になって目の前に突き付けられたようだった。
分かっていた、覚悟していたことだ。それなのに、頭を鈍器でがつんと殴られたような気分になる。浮かれていた気分が、みるみるうちに萎んだ。ベンチに座っていてよかった。気分の高低の落差から、立っていたらふらついていたかもしれない。
陀宰くんは、なおも話を続ける。
「苗字、クラスでもあんまり話さない方だろ。だから、最初は静かなタイプかと思ってた。というか、わりと最近までずっとそう思ってたかな」
返事を、しなければ。
まだショックの中にありながら、そのことだけがはっきりと頭に浮かんだ。浅い呼吸を知られないよう、注意深く呼吸を整える。沈黙に違和感を抱かせない、ぎりぎりまで心を落ち着かせ、私はようやく笑顔で言った。
「それは分かったけど、静かで気が弱そうで、ついでにか弱くてお淑やかで可愛いとまでは思ってくれなかったの? ていうか陀宰くん、さっき私のこときれいって言ってくれたじゃん。あれは嘘だったってわけ? いつから私のこときれいだって思ってたの?」
「……ノーコメント。つーかノリが凝部みたいになってる」
「さすがメイちゃん、ちょっと狙った」
「モノマネうまいな。いや、わりと真面目に」
感心した声を出してから、陀宰くんは「ていうかメイちゃんって呼ぶなよ」と思い出したように付け足した。その頃には私も表面的なショックからは立ち直り、冗談で誤魔化すだけの余力すら持っていた。
(最悪の気分だけど、最悪の事態にはならなくてよかった)
はからずも凝部くんに助けられてしまった形だ。別に凝部くんの真似で凌ごうとは思っていたかったけれど、咄嗟の極小キャパシティでは誤魔化す手段の引き出しも少ない。それに何より、凝部くんのあの口調は本心を覆い隠すのに物凄く便利なのだ。
ともあれ、安堵に胸を撫でおろす。と、そのとき。
「何なに、何をふたりで盛り上がってんの? 聞こえてきた感じ、僕の話で盛り上がってた気がするんだけど、人をだしにしていちゃつくのやめてくんない?」
いつからいたのか、凝部くんが笑いながら私たちのあいだに割って入る。私と陀宰くんは顔を見合わせて、
「本家だ」「本家だな」
と言い合った。
ほどなく、私の乗るバスがやってきた。ふたりに手を振り別れを告げると、私はさっさとバスに乗り込む。陀宰くんの笑顔をまっすぐ見つめるのが苦しくて、だからこそ私はバスが発車するまで、意地になって車窓から陀宰くんばかりを見つめていた。
バスが動き出し、ようやく陀宰くんを見つめなくてもよくなると、途端に全身から力が抜ける。身体がぐったりとしている。私はシートに体重をあずけ、目を瞑った。
今の陀宰くんに惹かれつつある気持ちには、嘘いつわりは一つもない。それはたしかに明言できる。
けれど今更、十年来の執着を捨てられるはずがなかった。だってその執着はすでに、私の身体の、心の、一部分に成り果てている。もともとあった私と混ざって溶け合って、分けて考えることができないほどに癒着してしまっているのだ。
芽生えかけの恋心と、煮凝った愛着。それらが上手く折り合わず、私の中でたえず喧嘩を繰り返している。私だけが、勝手にひとりで消耗して、勝手にこうして傷ついている。
(いっそ、私も忘れてしまいたかったよ)
陀宰くんと同じように、高校二年の春を、私たちの最初にしたかった。それならばこんなふうに、陀宰くんのかけた呪いで傷つき、苦しむこともなかったのに。
◆◆◆
「で? 忘れ物はあったのか」
名前が乗ったバスの後ろ姿を視線で追いかけながら、陀宰が尋ねた。陀宰の視界の隅で、凝部が「あー、ね」と長髪をかき上げるのが見える。
「そういや、そうだった。忘れ物ね」
「いいよ、どうせ嘘だろ」
溜息をひとつ吐き出して、陀宰は視線を凝部へと転じた。
「理由は知らないが、凝部が俺と苗字をふたりきりにしたかったんだろうなってことは、なんとなく分かる」
「あらー、メイちゃん勘がいい」
「ここまで分かりやすくされたら、誰でも分かるだろ」
ふたたび溜息を吐きそうになるのを、陀宰はすんでのところでぐっと堪えた。溜息を吐くと、幸福が逃げる。そんな子供だましを信じているわけではないけれど、とはいえ凝部のペースにのせられて溜息を連発していては、本当に幸福が逃げていきそうだった。
季節は秋。高校の二学期が始まって、すでにひと月半が経過している。十月半ばの風景には秋の色が濃厚で、そんな街並みのなかに自分が凝部と一緒に立っているということに、陀宰は何とも言い難い不思議な感慨を抱く。
陀宰が凝部と過ごした時間のほとんどは、季節の気配の薄い、異世界の偽物の夏だった。自分があの虚構から脱出できたことも、虚構から脱出した先で凝部やヒヨリと次の季節に進んでいることも、陀宰にとっては時々不思議な奇跡のように思えてしまう。
とはいえ、異世界での出来事が、完全に過去のものとなったわけではない。
廃寺の築き上げた月の裏の文明は、ほとんどこの世界との接触を絶ったがゆえの、ガラパゴス的文化進化だった。その技術のなかには、現行の社会では未だ到達し得ない未知の技術も存在する。
陀宰と凝部は二期続けてキャストとして参加したということもあり、もうひとりの過去参加者である獲端と一緒に、今なお情報局への情報提供を続けている。技術的な情報提供はほとんど役に立たない陀宰でも、廃寺ともっとも多くを語り合った身として、何かと呼び出されることは多い。
(それもこれも、瀬名が俺のことを思い出してくれたからこそ、だな)
もはや何度目になるか分からない結論に行きつき、陀宰は目元を綻ばせた。頭の中に浮かんだ少女の天真爛漫な笑顔を思い出し、心をほわりと和ませる。
異世界では恋愛云々どころではなくなってしまったし、帰還してからもあと一歩を詰め切れずにいる。だから陀宰とヒヨリの距離は、今もまだ仲のいい友人止まりだ。
だが陀宰は、今はまだ、それでもいいと思っていた。欲を言えば恋人同士になりたい。けれどヒヨリが笑顔でいてくれるのなら、極論それは相手が自分でなくてもいい――
「ていうかさー」
と、陀宰の思考を破ったのは、凝部の間延びした声だった。
「メイちゃんと名前ちゃんって、高校入って知り合いになるまで、本当に面識とかないんだよね?」
「何だよ急に」
「いいから答えて。はいさーん、にー、いーち」
いきなり脈絡のない質問をしておきながら、身勝手にカウントダウンを始める凝部。陀宰は眉根を寄せながらも、「そうだよ」と返事をした。
「面識もなにも、あいつ中学までは親父さんの仕事で遠方に、って言ってなかったか?」
「それはそうなんだけどー」
「一年のときはクラス違ったし、今年はじめて同じクラスになって喋るようになったってくらい。ちゃんと話したのは二学期になってからだから、俺もお前も、苗字との付き合いの長さで言えばほとんど同じだろ」
「ふーん……中学まで、……小学生から」
陀宰の話をどこまで真面目に聞いているのか、凝部は思案するように瞳を伏せ、胸元で指を組んだ。
思考するときの癖なのか、組まれた凝部の指先は、不規則に擦り合い、絡みあう。その指先を眺めながら、今度は陀宰が凝部に尋ねた。
「そういうお前こそ、やけに苗字に絡むよな。なんか気になることでもあるのか?」
「それって、名前ちゃんのことを好きなのかってこと?」
未だ思考のさなかなのか、凝部の返事は端的だ。それとなく暈した真意をずばりと明言され、陀宰は居心地悪げに身じろぎした。
「いや、そういう……まあ、いいか。それでも……」
「僕が名前ちゃんのことを好きだったら、メイちゃんはどうするの?」
「どうって……どうもしねーよ。応援くらいはするかもだけど」
相手が恋敵というのでもないかぎり、友達の恋愛を応援するくらいの度量は、陀宰も持ち合わせていた。凝部と名前ならば、似合わないこともない、というかむしろ似合うとすら思う。凝部はまともに付き合える人間がそう多くないので、名前は貴重な人材でもある。
しかし陀宰の思いに反して、凝部は深く深く、これ見よがしに重々しい溜息を吐き出す。陀宰の溜息五回分くらいの重さの溜息を吐いた凝部は、「本当メイちゃん、そういうとこだよ」とふんわりとしているわりに、ひどく鋭い一言を投げてきた。
「そういうとこって、どういうとこだよ」
「ちょっと考えたら分かるでしょ。話の流れ考えてよ」
「……凝部が苗字にやたらと絡んでるって話だろ?」
「そこまで戻ってどーすんの」
本当、メイちゃんってにぶちんだね。凝部はそう言うと、やおらベンチから腰を上げた。ふと見れば、ふたりが乗る予定の情報局行きのバスが、すぐそこの交差点で信号待ちの停止していた。
ほどなく停車したバスに、陀宰と凝部は連れだって乗り込む。バスの中はガラガラで、凝部は先に二人掛けの座席に座った陀宰の隣ではなく、その後ろの二人掛けシートに腰をおろした。空席が目立つ車内では、そんな振る舞いをしても咎める乗客は誰もいない。
ゆるりとバスが動き出す。陀宰がぼんやりと車内アナウンスを聞き流していると、
「ま、名前ちゃんのことを好きか否かって話なら」
凝部が先ほどのバス停での会話を、何食わぬ顔で再開した。
「残念ながらハズレ。恋愛感情とかそういうのじゃないよ。もちろん名前ちゃんのことは普通に可愛いなとは思うし、告白されたら付き合ってもいい……ていうか付き合っちゃうかもしれないけど」
「なんだそれ」
あまりにも軽い凝部の言い分に、陀宰はついつい顔を顰める。凝部は気にする素振りもない。
「まあまあ。だけど実際問題、名前ちゃんが僕に告白とか、ないでしょ」
「……分かんないだろ」
「分かる分かる。これは絶対」
やけにきっぱりとした口調で断言され、陀宰は言葉に詰まった。どうやら凝部は、自分よりもよほど名前のことを理解しているらしい――そう考えると、なんとなく釈然としないような気分になる。
(たしかに俺は、そこまで苗字と親しくないけど)
陀宰が名前と一緒にいるのは、ただただ名前とヒヨリが親しくしているから。それに尽きる。
ヒヨリがもとから親しくしていた友達を無下にはできないし、自分がヒヨリと一緒にいたいがために、ほかの友人から引きはがすような真似はできない。異世界の話をできない不便さは時折感じるが、とはいえグループで仲良くしていく分には、名前がそばにいたところで、陀宰にとって特段の不都合はなかった。
だからこそ、凝部と名前が仲良くしているように見えるのが、気になるのかもしれない。自分以上に人の選り好みの激しい凝部が、積極的に名前に絡みに行く様子は、はっきり言って物珍しさすら感じる。
(いや、それだけじゃないか……)
ふいにさっき見た名前の笑顔を思い出し、陀宰は考えを改めた。
名前とまともに話したのは、おそらくさっきが初めてだ。同じグループと言っても、陀宰が名前と個人的に親しくしたことは一度もない。名前の方もどちらかといえば、陀宰にはあまり話しかけないようにしているようだった。
それなのに、今はやけに名前の笑顔が気に掛かる。恋愛感情の始まりのような甘やかな感覚とは、多分違う。もっと何かもどかしくて、手の届かない部位の痛痒感にも似た、歯がゆい何か。
「メイちゃんこそ、名前ちゃんと今日仲良く話してたじゃん。今までふたりで仲良くしてるところなんて、ほとんど見たことなかったけど?」
凝部に言われ、陀宰は視線を逸らした。まさに今考えていることを言い当てた言葉だが、まるで痛くもない腹を探られているようで、そう気分がいいものではない。
「今日はたまたま……、タイミングが合ったから」
「タイミングねぇ」
「何が言いたいんだよ?」
「さっきメイちゃんが僕に言ったのと同じこと。ふたり、ずいぶん話が盛り上がってたみたいだけど、そもそもメイちゃんがあんな風に女子と笑い合ってるのって、ヒヨリちゃん以外に見たことないし。なんだっけ? 『なんか気になることでもあるのか』?」
陀宰が用いた言葉を使って、凝部がいやらしく笑う。
「お前、本当うざい……」
「自分が痛いところ突かれたからって、僕への攻撃で誤魔化すのよくないと思いまーす」
うざいと思ったのは事実だが、凝部の言い分に理がないわけではないところが、またさらに腹立たしい。
「つーか盛り上がってって、あれくらい普通だから」
「ふーん、それならそれでもいいけど。じゃあ最後の方、名前ちゃんのテンションが変だったのも? それも普通で、たまたま? 僕にはそうは見えなかったけどー」
凝部の言葉が、いよいよ陀宰を追い詰めつつあった。後ろ暗いことがあるわけでもないのに、と反感を抱く一方で、陀宰のなかに強く言い返せない気まずさがあるのもたしかだ。
「そもそも、お前のこと待ってたんだろ、あれは」
苛立ちと言い知れぬ焦燥で、ついつい鋭い物言いになった。それでもやはり凝部は何処吹く風だ。
「べっつに、照れなくたっていいんだよ? ヒヨリちゃんも好き、名前ちゃんも好き。思うだけなら別に、誰にも迷惑かけてないし」
「なんだそれ。だから、そういうのじゃないって言ってんだろ」
「じゃあ名前ちゃんのことは、何とも思ってないわけだ? そういうことだよね?」
陀宰は迷うことなく首肯した。はっきりと、間違いなく。
その問いの答えなら、自信を持って断言できる。
「苗字のことは、何とも思ってない。いや、何とも思ってないっていうか、友達だけど」
「友達ね。はいはい」
凝部は真剣にとらえていないのか、あしらうような返しをする。その適当さに苛立たしさを感じつつ、凝部が垣間見せた気迫のようなものが霧散したことに、ほっと胸を撫でおろしもした。陀宰も肩の力をふっと抜く。すると、ふいに名前の時折見せる不思議な表情が、陀宰の脳裏を光のように掠めていった。
陀宰は「……ただ」と、低い声で続けた。
「苗字を見てると、何か言いたいことがあるんだろうな、って感じは……時々、する」
そう言った途端、凝部が興味深げに眉を動かす。身体を前に乗り出して、凝部は陀宰の座るシートの背もたれに、腕と顎をのせた。
「言いたいこと、か。それって、メイちゃんに対して?」
「ああ。なんとなく、だけどな。そういうのは俺自身にも経験あるから、なんとなくだけど分かるんだよ」
「ああ、異世界での話」
凝部が独り言のように相槌を打つ。
かつて陀宰は異世界で、真相を話すことをルールで禁じられたまま、事の成り行きを見守ることしかできない苦しい『賭け』を経験した。結果を見ればその『賭け』には無事に勝利したわけで、勝利があるからこそ今、陀宰はここにいる。
「あのときメイちゃん大変だったもんねー。もう、必死すぎて怪しいどころの騒ぎじゃなかったし」
「うるせーな。必死にもなるだろ」
ヒヨリまで巻き込んだ『賭け』なのだから、陀宰も文字通り死に物狂いだった。けれど、必死で切実な心情と、現実のアクションが必ず結びつくとは言い難い。『したいこと』『言いたいこと』と『できること』『言えること』には途方もない隔たりがある。
「異世界にいた時の俺ってよくこういう顔してたよなっていうのを、苗字を見ると思う。変な話だとは、自分でも思うが……」
とはいえ異世界で陀宰が置かれていた状況は、ほかに例を見ないような特殊なものだった。そのことを考えると、まさか名前が陀宰と同じ心境にあるとは到底思えない。話しているうちに自信がなくなって、陀宰の言葉は尻すぼみになった。
「すまん、なんか俺、変な話してるよな……?」
「いやー、そういう勘って結構侮れないからね。案外、メイちゃんは言葉にならない部分で、苗字ちゃんが異世界でのメイちゃんと同じような立場だって信号を、キャッチしてるのかも」
「苗字がプロデューサーだってか」
「そこまで尖った特殊すぎな話じゃなくて。もっと普遍的な話でさ」
と、そこで凝部はふと何か思い付いたのか、視線を宙に彷徨わせた。
「普遍的……」
口許に片手を持っていくと、凝部は自分の言葉を繰り返す。思考のなかに深く沈み込んだ凝部は、時折ぶつぶつと聞き取れない声を発しながら、思索に没頭していた。
三十秒か、一分か。バスがその時停止していた停留所から出発し、最初の交差点で右折したとき。ようやく凝部の瞳の焦点が陀宰に定まった。そして、
「ああ、……なんとなく分かったかも」
独り言のように低くひそめた声音で、凝部はそうぽつりと呟く。
陀宰は「なあ、凝部」と凝部の意識を自分へと向けた。
「分かったって、何がだ? 考えるのを待ってたんだから、少しくらい教えてくれてもいいだろ」
「いや、待って。分かったっていっても、まだ細部まで詰めてないし。今の時点で僕からメイちゃんに言えることは、悪いけどなーんにもナシ」
「全然意味わかんねえ……。俺、なんか見落としてる?」
「それは多分、そうかも?」
「……苗字のことで?」
陀宰と凝部の視線が、シートの背もたれを挟んでぶつかる。
(凝部とこういう遣り取りをするのも、久し振りだな)
無言で見つめ合いながら、陀宰はふと思った。もっとも、異世界での自分はすべてを知っている立場だったから、凝部には一方的に怪しまれ、一方的に駆け引きを仕掛けられて追及されるだけだったが。
しかし今、こうして対等な立場で駆け引きを仕掛けたところで、陀宰は自分が凝部に勝てるとは、露ほども思えなかった。
だからこそ、凝部の目に迷いが浮かんでいることに、陀宰は驚きと意外さを感じる。凝部はおそらく、陀宰の見えていないところまで遥かに見通し、何か分からないが真実らしきものに肉薄している。それなのに、凝部の目には謎を解き明かす喜びよりも、複雑さばかりが顕れている。
もしかすると、凝部も異世界にいるときと変わったのかもしれない。あるいは、危機感のない世界だからこそ、非情に徹しきれない。無情になりきれない。もしもそうだとすれば、誰に対して情を消せないのか。自分か、それとも。
「ひとつだけほぼ確定していることがあるとすれば、メイちゃんが悪いって話ではないかな。……これも絶対ってわけじゃないけど」
迷いと葛藤を如実にはらんだ声で言われれば、陀宰は何か、自分がひどく心無いことをしているような気分になる。自然、発した声は焦れているような余裕のないものになった。
「凝部、俺にかかわることで何かあるなら、」
「あーあー、ごめん。メイちゃんの気分を楽にしてあげたいのはやまやまだけどね、こっちにもこっちの事情があるから」
「事情……」
「柄にもなく、約束しちゃったからね」
そう言って微笑む凝部の顔には、これ以上の追及を撥ねつけるという頑なさが浮かんでいた。陀宰はそれ以上何を言うこともできず、そこから情報局に到着するまで、無言で時間をやり過ごすしかなかった。
◇◇◇
たまにバイトがない日に限って、お遣いを言い渡される。帰宅して着替えをする間もなく、私は母から渡された荷物をたずさえて、バスを乗りつぎ情報管理局まで赴いていた。
情報管理局前のバス停でバスを下車し、バングルでメッセージを送る。ほどなく、父が情報局本庁の建物の中から、手を振りながら走り出てきた。
情報管理局はここ数年で立て続けに発覚した不祥事ののち、よりクリーンで開かれた組織であることをアピールするため、以前よりも来館制限をゆるめている。私も局員の家族なので、受付に言えば面会用のフロアまでは出入りすることが許されている。
けれど私は、情報局の建物の無機質さがあまり好きではない。それにバングルでの連絡で事足りるところを、わざわざ受付の人の手をわずらわせたくもなかった。それを知っているから、父は私を呼びつけず、建物の外まで出向いてくれたのだった。
「おつかれ、明日は帰ってこられそう?」
「どうだろうなぁ……。一応山場は越えたはずなんだけど」
局に詰めっぱなしの父は、目の下に隈をつくってどんより顔をしている。おっとりした口調とよれよれの風貌を見ると、仕事に忙殺される中間管理職というふうに見えなくもない。
情報管理局に出入りしている局員には、しゅっとしてスタイリッシュな風貌の人が多い。支局ならばともかく、本部では父は浮いているのではないか。娘の身として、職場での父が不安でならない。
ともあれ、忙しい父をいつまでも引き留めておくわけにはいかない。
「大変だと思うけど……はい、じゃあ頑張って」
母に持たされた弁当と着替えを手渡して、父と別れた。
バス停まで戻ると、街頭ディスプレイで時刻表を確認する。ちょうど前のバスが行ってしまったばかりのようで、次のバスまではまだ少し時間があった。
(少し歩くけど、別のバス停から帰った方が早いかな)
情報局の周辺には、複数のバスの路線が乗り入れており、歩いて数分のところにも別のバス停がある。バングルで検索すると、乗り換え時間を加味しても、そちらのバスの方が良さそうだった。
と、バングルから視線を上げて歩き出そうとしたその時。
遠く視線の向こう。先ほど父が戻っていった情報局の正門ゲートから、見なれた制服の二人組が出てくるのが目に入った。その姿を見て、私は咄嗟に街路樹の影に身を隠す。
「陀宰くんと凝部くん……?」
ふたりはゆったりとした足取りで情報局から出てくると、こちらに向かってくることなく、角を曲がって歩いていく。
(一体どうして、ふたりが情報局に……?)
私はふたりが歩き去った方角を、木陰に身をひそめたままの状態で、しばし茫然と見つめていた。
04
どうして陀宰くんと凝部くんが、情報管理局に出入りしていたのか。
今でこそ、かつての不祥事と醜聞にまみれた評判を『広く開かれた組織』という新イメージで塗り替えようとしている情報管理局だが、本来あそこは堅牢堅固で水も漏らさぬ管理体制を敷いた、国の第一級重要機関だ。間違っても一介の学生がそうそう容易く出入りできるような、そんな生易しい機関ではない。
(バイトとか、職場体験とか、……そんなわけないよね)
無論、情報管理局での学生バイトの話もまったく聞かないわけではない。部署によってはインターンだってあるだろうし、父からそんな話を聞いたことがあるような気もする。
しかし、さすがに高校生を出入りさせるような特例はないはずだ。あったとしても、陀宰くんと凝部くんがふたり揃って、とは考えにくい。
そういえば、と。
記憶のなかの一片を、思考がおもむろに拾い上げる。
陀宰くんは夏休み前の一時期、学校を休んでいたことがあった。その時は気にならなかったし、後から「そういえば休んでいたな」とふと思い出した程度の話だ。
しかし思い返してみれば、一体どうして、私は陀宰くんの休学を気にしていなかったのだろう。きっと大したことではないと、そう思っていたのだろうとは思う。けれどそもそも、大したことではないと、そう思うこと自体がいささか不自然だ。
私は陀宰くんのことばかりを視線で追っている。一学期中は特に、避けようと強く思っていたからこそ、陀宰くんの動向にはかなりの熱意をもって注視していた。そんな私が、彼の休みが長く続くことを気にも留めないなんて有り得ない。
凝部くんはそれよりも前から学校に来ていなかったから、クラスではそもそも、不登校児として扱われていた。良くも悪くも、休んだところで誰も気に留めはしない。登校してこないのが通常運転で、クラスにいないのがデフォルトだ。
しかし、陀宰くんは違う。彼は輪の中心にいるタイプでこそないものの、人気だってあるし友達も少なくない。私のように視線で陀宰くんを追っている女子もいるだろう。それなのに、どうして誰も彼の休学を気に掛けていなかったのだろう。
彼はどうして学校に来なかったのだろう。
どうして、来られなかったのだろう。
(……答えは『情報局が絡むような話だから』?)
そうしてその結論に至ったところで、私は思考を無理やりシャットダウンする。情報局が絡むなら、一市民、それもたかだか学生の身分に過ぎない私では、首を突っ込むだけ無意味だ。最悪、情報局にマークされる。そんなことになれば、情報局員である父にも迷惑がかかる。
私が陀宰くんたちを情報局の前で目撃してから、すでに半月近くが経過していた。制服の夏服は衣替えを経て冬服に変わり、朝晩の冷え込みは毛布がなくては凌げない季節へと移ろっている。
私と陀宰くんとの距離は相変わらず。陀宰くんが私を思い出す兆しはないが、それについてはもとより期待していない。最近ではようやく友達と呼んでも違和感がない、そのくらいに近くなっただろうかという距離感で、一緒にいて気まずくなるようなことはほとんどなくなった。
凝部くんは私との約束を守っているのか、この半月ほどのあいだ、一度も陀宰くん関係で絡んでこなかった。ヒヨリちゃんとも相変わらず。演劇部の手伝いが一段落したのか、最近はまた一緒に下校したり、休日に遊びに行ったりしている。
淡々としていて、波乱のない日常。
大きな障害も、乗り越えなければない難題もないかわりに、心躍る冒険も、奇跡みたいな出来事もない生活。
これはこれでいいのかな、と恙無い日々を送りながら思う。陀宰くんとの昔話も、自分の行き場のない感情も、ヒヨリちゃんたち三人が抱える、おそらくは情報管理局絡みの秘密も――全部、それなりにやり過ごしていれば、心おだやかに過ごしていけるのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はヒヨリちゃんたち三人と一緒に、放課後の街並みを歩いていた。店々のウィンドウは、すでに秋を通り越して冬の支度を始めている。クリスマスのことなんて、まだ考えられもしないのに、となんだか勝手に置いて行かれたような気分を味わう。
と、軒を連ねる店のうちの一軒に、ふいに視線が引き寄せられた。ほかの店と同じく気の早い冬装いを施したその店は、看板がわりの店頭ディスプレイに、次々とさまざまな写真を映し出している。
「名前ちゃん? 何見てるの?」
ヒヨリちゃんに声を掛けられ、はたと我に返った。「あれ」と視線の先を指さすと、ヒヨリちゃんだけでなく、先を歩いていた陀宰くんと凝部くんもまた、私の指の先へと顔を向けた。
「写真館か。こんなところにあったんだな」
「へー、これはまたアナログな」
凝部くんが呆れまじりにそう言ったのは、ディスプレイには画像のデータだけでなく、写真撮影の風景も映し出されていたからだ。
今ではあまり見ることのない、写真撮影以外の機能を持たない、単機能カメラ。撮影ブースに立たされた子どもが、カメラのレンズに向かってピースサインをしている。
「ただ写真を撮影するだけならバングルでも十分に事足りるけど、さすがにああいう機材を使うと、雰囲気が出るよな」
陀宰くんが誰にともなく言う。一昔前の携帯端末が担っていた機能のほとんどは、今や個人のバングルに搭載されている。カメラも標準装備されていて、より高画質や高機能を求める人間は、別途それらの追加機能を購入する仕組みになっている。
「今時、実物のカメラなんて触ったことある人間の方がレアなんじゃない?」
「私たちの親世代は、まだそうでもないんじゃないかなと思うけど」
「まあ、たとえカメラを持っていたところで、バングルの方が手っ取り早いよな」
写真館の前だというのに、何とも敬意のない会話を展開する陀宰くんたち。
実際には、単機能のカメラやビデオカメラといった機械も、完全に淘汰されたというわけではない。一部の好事家やマニアのような人たちからの人気は根強く、高価格な機種が発売されるたび、ひそかな話題になっている。
とはいえ最近ではプロの写真家であっても、バングルを使って被写体を撮影している場合が多いらしい。
(うちの父親は、フィルムカメラも使ってるけど)
それもずいぶん古い型なので、母や私には使い方すらわからない。
そんなことを考えつつ、私が黙って聞いていると、ヒヨリちゃんが「名前ちゃんは?」と私に話題を振った。
「名前ちゃんは写真撮るの好き?」
「いや、そういうわけでもないけど。あ、でもうちは父がカメラ好きで母が記録好きだから、撮られる機会は昔から結構あったかな」
さすがに最近は節目のイベントでもないと写真撮影の機会もない。それでも実家にはアルバムの冊子が残っているし、アルバムデータのチップも相当数保管されている。
「うちにもデジタルの記録だけど、小さい頃の写真ならたくさんあるよ」
「どーせトモくんが写りこみまくってるんでしょ?」
凝部くんの茶々に、ヒヨリちゃんが膨れっ面をした。
「うっ、だって、幼馴染なんだから一緒に遊ぶことも多かったし」
「仲が良くて結構けっこー」
「そういう凝部くんは?」
「僕は昔の写真とか全然ない。でも、特に欲しいと思ったこともない。記録は記録で、それ以上の意味なんかないでしょ」
「なんかクールだね」
「写真撮るから入って、って言われたら普通に写るけどね。嫌いなわけじゃないし」
凝部くんらしい回答だ。さまざまなことに拘りが薄く、頓着しない。とはいえ何にも愛着を持たないわけではない。薄情だとは思うけれど、非情ではない。
「俺も、昔の写真はそんなに残ってないな」
陀宰くんが会話を引き継いだ。
「そうなの?」
「俺、三人兄弟の末っ子だから」
「ああ、下の子になるほど放っておかれるやつ」
「家族と写ってる写真ならあるけど、俺個人のアルバムとかフォルダとか、たくさんはないんじゃないかな……。小中学生のときは友達と撮ったりするから、全然ないってわけでもないが」
陀宰くんの話を聞きながら、性懲りもなく胸がしくしく痛んだ。こんな雑談でいちいち傷つく方が馬鹿らしい、そう分かっているのに、こればかりは自分ではどうにもならない。
あと何回、陀宰くんの思い出のなかに自分がいないことを、突き付けられればいいのだろう。いい加減慣れてしまえばいいと思うのに、心はそれほど思い通りにはなってくれない。
私の手元にだけある、幼い頃の写真たち。
私のそばにしかない、陀宰くんとの記録たち。
思考が鈍り、気持ちが塞ぐ。鬱屈とした感情を振り払おうと、私は頭を振って顔を上げた。
と、こちらを見ていたらしい陀宰くんと視線がぶつかる。
「ん? 陀宰くん?」
どうかしたの、と尋ねると、陀宰くんは何か言いたげにくちびるを薄く開いた。言葉を選ぶように、陀宰くんの視線が左右に泳ぐ。
そして、
「……あの、さ」
ゆっくりと、けれど焦れているような陀宰くんのその声に、何故だか胸がざわりと騒めいた。
目の前の陀宰くんの発した声は、困惑の中にもはっきりと切実さを滲ませていた。
私の喉がごくりと鳴る。こんな陀宰くんの声は、一度も聞いたことがない。吸い寄せられるように視線を奪われ、目をそらすこともかなわくなった。
「……ぁ、」
何か言おうとして発した言葉は、喉に張り付き、締められたときの呻きのような苦しげな音になる。
陀宰くんが、ぐっと口を引き結ぶ。喉ぼとけが一度、ごくりと上下した。
そのとき、私には陀宰くんが発するはずだったなにがしかの言葉まで、一緒にまるごと呑み込んだように見えた。
ややあって、陀宰くんは溜息をひとつ吐き出す。そして視線を横にそらして切ると、
「……いや、何でもない」
小さく呟き、ゆるりと首を横に振った。
「そう……?」
「うん、何でもない」
深追いすべきか、そっとするべきか。陀宰くんの表情をうかがうと、貼り付いた固い表情のなかに、かすかにほっとするような、弛んだ色が混じっている。
(これはきっと、触れないでいた方がいい話なんだよね……?)
陀宰くんの心情が分からないなりに、私はそう推測した。最近でこそ仲良くなりつつあるとはいえ、私と陀宰くんはまだ何でも言い合えるような関係ではないのだ。ここで迂闊に踏み込み過ぎて、不躾な人間だと思われるのは嫌だった。
「でもアナログの写真ってなんだかよくない?」
そんなヒヨリちゃんの声が聞こえ、私は意識を引き戻される。何食わぬ顔で、私もヒヨリちゃんたちとの会話に戻った。
ヒヨリちゃんは隣にいる凝部くんに話しかけている。対する凝部くんは「そーかなー?」と、にやけて髪を掻き上げた。
「ヒヨリちゃんの言うそれって、データ改ざんの恐れがないから? でもさー、ここの店って、カメラ使って撮影はしてるんだろうけど、結局データで商品取引してるわけっしょ? そーんな中途半端なポーズだけで、アナログ名乗られてもねぇ?」
「別にこの店がアナログ名乗ってるわけじゃないでしょ」
「大体、データ改ざんの話するんなら、それこそ古式ゆかしいフィルムカメラでも使わない限り、出力した媒体が違うだけで改ざんの恐れはありまくるじゃん」
「そういうロマンのない話じゃなくて」
「というか別に瀬名はデータ改ざんの話なんかしてないだろ」
「たしかに」
しれっと会話に参入してきた陀宰くんの苦言を、凝部くんはあっさり認めた。どうやら本気でヒヨリちゃんを言い負かそうという気はなく、適当な御託を並べて遊んでいただけらしい。ヒヨリちゃんが目を眇め、凝部くんをひややかに睨んだ。
「さっきのヒヨリちゃんの話じゃないけど」
凝部くんを目で制しながら、今度は私が会話に割って入った。
「うちはアナログ写真に現像するよ。でも嵩張るし、どう考えてもチップでデータ管理の方が楽だと思う。データなら共有したり整理するのも簡単だし」
「苗字んちの親はまめなんだな」
「親というか、写真を撮りたがるのは主に父かな。そういう習慣がついちゃってるんだと思う。メモひとつとっても手書きも残したがるし」
「いっそ病的だね、このデジタル社会で」
揶揄するように口を挟む凝部くん。
「だってそーじゃん。それって要は、現行の社会システムとか生活基盤全般を信用していないってことでしょ」
「おい、凝部」
「いいよ、私もちょっとそう思ってるところあるし」
というより、私もどちらかといえば凝部くんと同じような考えの持ち主だ。アルバム一冊とっても、嵩張るうえに重たくて仕方がない。その点チップならば、アルバムの数倍、いや数十倍の容量を保存でき、保管にスペースもとらない。データのバックアップさえ取っておけば、のちのちデータが消えて困ることも滅多にない。
「まあ、僕もアナログゲームの愛好者として、まったく通じるところがないとは言い切れないけどさ」
と、凝部くんが会話をまたしても引っくり返す。ヒヨリちゃんが「もうっ」と可愛らしく呆れて見せた。
「それじゃあ結局、凝部くんはどっちの立場なの?」
「僕は確固たるポジションなんか持たない遊撃隊でーす」
「雑談してる友達を遊撃すんなよ」
「えー、でも攻めは最大の守りっていうし?」
「お前は一体誰を攻めて、誰から守られるつもりだよ?」
「それはもちろん世間の荒波とか、ケイちゃんの鉄拳とか。僕は日々、あらゆる者と戦ってるんだよ☆」
「もういい、勝手にやっててくれ」
突っ込むのにも疲れたのか、陀宰くんが会話を投げ出した。凝部くんの発言すべてにツッコミを入れていては、どれだけ頑張っても追いつかない。げんなり顔の陀宰くんに少しばかり同情を寄せながら、私は写真館のディスプレイに視線を向けた。
七五三の記念写真、入学記念、日常のささやかな風景。
いつか誰かの心を彩るであろう、あたたかな記録。
「だけど、記憶が伴っていなくっちゃ、記録だけあっても仕方ないのかもしれないね」
悲観的になるつもりはなかったけれど。
優しい写真の数々を見ているうち、自然とそんな言葉が口からこぼれた。
と、ふいに私の腕をヒヨリちゃんが取る。彼女は私の顔を覗き込むと、にこりと優しく微笑んで言った。
「せっかくだし、この四人で写真撮らない?」
「どーしたの? 今そういう流れだった?」
「流れかは分かんないけど、撮っちゃいけない流れでもないでしょ?」
「屁理屈じゃん。キミはまったく、いつも急だね」
私が返事をする前に、凝部くんとヒヨリちゃんのあいだで言い合いが始まってしまう。ヒヨリちゃんは「ね?」ともう一度、笑顔で首を傾げて私を見た。
「だってこの四人で写真って撮ったことないから。凝部くんは一学期学校に来てなかったから、クラス写真にも写ってないんじゃない?」
ヒヨリちゃんの言葉に、陀宰くんが「たしかに」と呟く。
「そういえば、クラス写真って僕、どういう扱いになってるんだろ?」
「さあ。どうせクラス写真もデータ配布なんだし、あとから合成できるようにパッチが送られてくるんじゃないか?」
「えー、さすがにそれは情緒なさすぎない?」
「撮影当日に来ない方が悪い」
「ていうかそんな対応されるなら、僕もう『消えたクラスメイト』扱いでいいんですけどー」
「ちょっとかっこよく言うなよ、『不登校児』」
「元、だから。元、『不登校児』だから」
そんな遣り取りをしながらも、三人はこの場での写真撮影にはそれなりに乗り気らしい。凝部くんはともかく、陀宰くんも意外にノリがいい。
「といっても、写真撮るって、こんな何もない普通の街中でか?」
「いいんじゃない? 特別な写真が欲しいわけじゃないし」
ヒヨリちゃんが返事をしながら、バングルのカメラを起動した。
「ま、たしかに日常のワンショットって感じで、これはこれで青春だね。――ど? 元不登校児が言うと含蓄ありげじゃない?」
「別にねーよ」
往来の真ん中では邪魔になるので、ちょうどよく置かれたバス停のベンチのあたりに移動した。背景になる店々のクリスマスの装飾が、なんだかいい感じに雰囲気をつくっている。
「うーん、バングルの搭載カメラで大人数自撮りって、結構難しいね」
「もう少しくっつけばいけるんじゃない? ほらそこ、寄って寄って」
「うわ、おい……」
凝部くんに押され、陀宰くんと私の肩が触れ合った。制服のジャケットごしなので、特に何ということでもない。けれどどきんと胸が騒ぎだし、知らず呼吸が浅くなる。
「悪い」
「……ううん、大丈夫」
声が震えそうになり、慌てて平静を装った。内心は狼狽えまくっているのに、そっけない返事しかできない。こんな自分の性格が、今は頼もしいような可愛げがないような、複雑な気分だ。
「ていうかこれ、いちばん腕が長いメイちゃんがシャッター押すべきだったんじゃない?」
「この状況で? 俺、身動きできないくらいお前らに押されてんのに」
「ちょっとくらい見切れてても味ということで」
「はい、じゃあ撮るね」
「瀬名も案外話聞かねーな……」
ヒヨリちゃんがバングルを操作して、連写モードでシャッターを切る。何度かの撮りなおしを経たのち、ようやく写真撮影は終了した。
制服ごしに温度を分けあった陀宰くんの肩が、名残惜しさの欠片もなく、すんなりと私の傍から離れる。
「よし、っと。画像データ送っておくね」
「これで眠れぬ夜はいつでも、ヒヨリちゃんの笑顔を慰めにできるわけで……」
「凝部くん、言い方……」
「凝部には送らなくていいよ」
「ヒヨリちゃん以外にも私と陀宰くんも写ってるから」
最後までわいわいと騒ぎながら、私たちはその場を後にする。歩きながら、ヒヨリちゃんから送られてきたばかりの画像データを確認し、すぐさま保護フォルダに入れた。
(高校生になってはじめての、陀宰くんとの写真)
虚しい執着だとは分かっている。それでも、たった一枚の画像がこんなにも、私の心を喜びで満たしていた。
◇◇◇
ヒヨリちゃんたちと別れ、バイト先に向かうべくバスに乗る。私のバイト先と陀宰くんの家は方角が同じらしい。今日は私と陀宰くん、ふたりで同じバスだった。もっとも私は数分で下車し、陀宰くんは終点近くまで行くそうだから、方角が同じというだけで近くはない。
二人掛けのシートに、肩や腕がぶつからない程度の隙間を空けて座る。
車内にはほかにも乗客はいるものの、気持ちとしてはふたりきりのようなものだ。先ほど写真を撮ったときの気分をまだ引き摺っているのか、どうにも気分がふわふわしていて落ち着かない。気を紛らわそうと車窓にちらちら視線を遣っていると、窓際に座った陀宰くんと目が合った。
「苗字のバイト先、こっちの方面なんだな」
「うん。今住んでるところからも、バスだと行きやすいから」
「バイトって、何の業種?」
「普通に飲食だよ」
「へえ。家の近所じゃないなら、何か珍しいバイトでもしてるのかと思った」
「全然そんなことない。うちの近所の店がバイトの募集してなかったから」
これは半分だけ本当の話だった。残りの半分については、陀宰くんに話すつもりはない。
私も当初は、もっと実家の近くでバイトを探すつもりでいた。けれど結局、いろいろと思うところもあったので、バイト先は家から少しだけ離れたところにした。
いろいろというのは端的に言えば陀宰くんとのこと。要するに、昔住んでいた家の少しでも近くに生活圏を持つことで、かつてとの陀宰くんとの思い出と、少しでも近くにいたい。そんな浅ましい下心があった。
思い出してもらえなくてもいいと思い、教室では避けてすらいたのに、どこかで繋がっていたいという思いは捨てきれない。未練がましいことこの上ない動機で、私はバイト先を選んでしまった。自分でも何がしたいのかよく分からない有様で、ほとほと情けなくなってくる。
「今住んでるのって、瀬名んちの方だっけ」
「そうそう。ヒヨリちゃんちとは学区が同じ」
「だったらバイト先も、家からそんなにめちゃくちゃ離れてるわけではないんだな」
ヒヨリちゃんちがどのあたりか知ってるんだ、とは言わないでおいた。せっかく一緒に帰っているのに、自分からこの空気に水を差したくはない。
「遅刻しそうなときとかは、うちからバイト先までなら、バスより自転車の方が早かったりするよ」
「苗字、自転車とか乗るのか?」
「いや、乗るからね。自転車くらい、普通に」
「なんか、イメージと違うな」
「陀宰くん私にどんなイメージ持ってるの……」
「苗字のイメージって、それはまあ……」
と、そこで陀宰くんは、以前似たような遣り取りをしたことを思い出したのか、眉尻を下げてふっと頬をゆるめた。あれはたしか、はじめて陀宰くんとふたりでちゃんと話した日のこと。あのときも陀宰くんは、私の印象、イメージの話をしていた。
陀宰くんの耳が、ゆっくりと赤く染まっていく。その様子から、彼が笑いを堪えているのが分かってしまい、私は目を眇めた。
「今陀宰くんが何を考えてるか、手に取るように分かってしまうなぁ……」
「ふっ、すまん……」
「いえいえ、いいんだけどね? その後どう? 『界隈』の皆様は御機嫌麗しくしていらっしゃる?」
「その喋り方なんだ、あと半笑いをやめろ……っ」
「半笑いって言うか、笑いそうなのは陀宰くんの方でしょ」
にやりと私が笑いかけると、陀宰くんはいよいよ肩を震わせ始めた。
自分だけに向けられた、陀宰くんの気の抜けた笑顔。あたかも気を許し、許された関係のような、くだけた会話。ヒヨリちゃんが持っていて、私が持っていないもの。それが今、私の手の届くところに無防備に存在している。そのことを思うと、私の顔が燃えるように熱を帯びた。
軽く握った手で口許をおさえた陀宰くんは、何か言いたげに口角の上がった口を開いては、閉じるのを繰り返す。話すと笑ってしまうから、それを堪えているのだろうか。そんな些細な仕草にすら、胸がぎゅっとときめいた。
(ああ、好きになっちゃうな……)
ごく自然に、そう思った。
陀宰くんの瞳が、私だけを映している。陀宰くんのくちびるが、私のためだけの言葉を紡いでくれる。たったそれだけのことに、どうしようもなく満ち足りてしまう。
(これ以上は、本当に危ない)
そう戒めていないと、あまりにも甘やかで幸福な感情に、目がくらんでしまいそうだった。泡沫の幸福に、溺れてしまいそうになる。
好きだけど、好きになっちゃいけない。ずっと大好きだったけど、諦めなくちゃいけない。今一度、私はそのことを自分に言い聞かせた。
未練を振り切るように、私は陀宰くんから視線を外す。逃した視線にあてどはなく、ひとまずは車窓へふたたび転じた。と、流れていく景色のなかに、ふと見覚えのある看板を発見する。
「あ、あそこ」
「ん?」
私の呟きに反応して、陀宰くんも顔を窓の外へと向ける。
「あの赤い看板の店、閉店しちゃったと思ってたけど、移転してたんだ」
「ああ、あの喫茶店」
「懐かしいなぁ。小さい頃、私、よく連れて行ってもらったんだ」
しみじみと思い出にひたるような気分で、私ははぁ、と息を吐き出した。
私にとってその店は、幼少期の思い出が詰まった馴染みの店だった。去年こちらに戻ってきてから一度、思い立ってひとりで来店してみたこともある。
しかしかつて店があった場所は、現在は別の飲食店に取って代わられていた。あの時、私はひどく肩を落としたものだ。ネット上の店舗情報ももう何年も更新されていなかったため、てっきり閉店したとばかり思っていた。
「閉店してなくてよかった。昔、こっちに住んでたときに、両親とよく行ったんだよ」
「俺もだよ。何度か行ったことある」
陀宰くんが、少しだけ懐かしそうに目を細めた。すでに車窓からは、思い出の喫茶店は消えてしまっている。けれど陀宰くんの頭の中で懐かしい記憶が呼び起こされているのだろうことは、彼の浮かべる表情を見れば明らかだ。
「静かな店だから、俺、連れて行かれるたび子供ながらに緊張してた」
「そうそう。でも子どもにはおまけで、ケーキの切れ端とか出してくれるんだよね」
「そういえばそうだった」
話をしているうちに、当時の記憶が色彩もあざやかに、頭の中に思い起こされる。
その店には昔、陀宰くんとも一緒に行ったことがあった。陀宰くんのお母さんとうちの母と、私と陀宰くんの四人だったと思う。一度きりのことではなく、何度かそういうことがあった。
もちろん陀宰くんは覚えていないだろう。けれど、私は全部覚えている。
陀宰くんがクリームのついたケーキを欲しがったこと。フルーツがのったケーキだと喜んだこと。自分のことよりも、私の対面で子ども用のいすに座っていた陀宰くんのことばかり、私は何でも覚えている。
「俺はクリームのついたのがよくて、でも滅多にそういうのは出てこないから、クリームがついた切れ端にあたると嬉しかったんだよな」
「ああ、……うん。分かる」
知っている。
あの時の陀宰くんの笑顔も全部、ちゃんと覚えている。
「あと、子どもが何人かいると別の味のケーキがそれぞれ出てくるから、半分こしたり」
「懐かしいね」
そう答えたあと、私は急いで「そういうのって、みんなやっぱりやるんだね」と言い添えた。陀宰くんは不思議そうに私を見てから、半拍置いて「だな」と頷く。
それからふと思い付いたように、陀宰くんは私に言った。
「つーか、苗字が昔住んでたのってこの辺ってことだよな?」
「ん?」
「いや、さっきの喫茶店も有名店ってわけじゃないし、むしろ地元の人間の溜まり場みたいな店だったから」
陀宰くんの言葉には、必要以上に疑うところも含むところもない。どこからどう聞いても、ただの雑談以上の話ではなさそうだ。
けれど、それでも。私の胸の鼓動は否応なく、強く、速く、どうしようもなく昂ってしまう。そしてその理由は、あまりにも単純で幼稚なことだった。
はじめて、陀宰くんが私について個人的な質問をしてくれた。たとえどんなに些細な内容であったとしても、間違いなく私の過去にふれる質問を。
そのことを意識した途端、ひときわ強く胸が高鳴る。心が激しく震えていた。
「えっと……」
それが歓喜によるものか、それとも困惑と恐怖によるものかも、私には分からない。陀宰くんの問いに、果たしてどう答えたらいいのか、分からなかった。
陀宰くんに対し、過去に私たちが知り合っていることをほのめかすようなことを言うつもりはない。言ってはいけないとも思っている。
一方で、陀宰くんに対して嘘を吐くのも嫌だった。嘘を吐けば、私まで陀宰くんとの過去を否定してしまうのではないか。そう思うと、嘘を吐くのはどうしても躊躇われた。
もちろん陀宰くんには私との過去を知る権利がある。本人が忘れているうちは何も言わないと決めているが、もしも彼が思いだしさえすれば、大体のところを話すことはやぶさかではない。その機会を奪おうとも思ってはいない。
(だからもしもこれで陀宰くんが私のことを思い出したのなら、それはそれで仕方のないことで……)
逡巡する私にかまわず、陀宰くんはさらに続けた。
「もしかしたら俺ら、小さい頃にどこかで会ってんのかもな」
「……っ」
今度こそ、私は言葉を失った。口をぎゅっと引き結ぶ。
そうだよ、陀宰くん。
私と陀宰くんは、もうとっくの昔に出会って、仲良くなってたよ。
私は陀宰くんのことがずっと好きだけど、でも、だけど、陀宰くんは――
胸のうちに湧きあがった感情が、たちまち身体の中をかけめぐる。伝えてしまいたい言葉があふれ出して、めちゃくちゃになってしまいそうだった。
膝の上でぎゅっと手を握ったのに、握りしめた指先には感覚がほとんどない。
息を詰め、私は陀宰くんを見つめる。
今は、今だけは、陀宰くんから視線を逸らしてはいけない。そう思った。
視線を逸らしたら、多分私は泣いてしまうから。
「……苗字?」
あまりにもまっすぐ見つめすぎて、陀宰くんがややたじろぐように身体を揺らす。目元がほんのり朱に染まっているのは、きっと夕日のせいだけではない。
それでも、赤くなっているのは見つめているのが私だから、というわけでもないのだろう。私じゃなくても、ほかの女の子でも、きっと陀宰くんはこうして顔を赤らめた。ヒヨリちゃんが相手だったら、きっともっと取り乱した。
そう思ったら、少しだけ心の中が静かになった。そのままゆっくりと息を吐き、徐々に呼吸のペースを取り戻す。
「……うん、そうだね」
私はゆっくりと、できるだけゆっくりと頷いて、微笑んだ。ひとつでも何かを間違えれば、どこかで足を踏み外せば、取り返しのつかないことになるような気がして怖かった。
「たしかにどこかで、出会ってるかもしれないね、私たち」
そう答えた瞬間、胸の奥で玻璃のように繊細な何かが音を立てて損なわれたような、そんな気がした。
05
ゆるやかに連むだけだったグループも、秋を辿り冬を迎える頃には、何時の間にかしっくり来るようになっていた。この頃では『馴染みのメンバー』のように、周りからも見られている。
時にはそこに、ヒヨリちゃんの幼馴染の萬城くんが混ざることもある。明言こそされていないものの、萬城くんは例の『秘密』の共有者らしく、陀宰くんや凝部くんとも学年の垣根を感じさせない交流をしている。
そんな秋のとある日。ヒヨリちゃんと萬城くん、陀宰くんと凝部くん、それに私の総勢五名は、揃って授業後にコーヒーショップに寄っていた。特に何かあるというわけではない。たまたまバングルで新商品発売のニュースを見たので、それじゃあということになったのだった。
夕方のコーヒーショップは、静かなざわめきに満ちている。テーブルふたつを近づけて、私たちはできるだけこぢんまりと固まった。
注文した季節限定のホットドリンクはほろ苦く、男子勢も私たちと同じものを注文している。マグカップを両手で包み込むようにすると、あたたかさに心がほっと和んだ。
「そういえばヒヨリ、今年のクリスマスプレゼントに何が欲しいか、もう考えたのか」
話題が一段落したところで、唐突に萬城くんがヒヨリちゃんに尋ねた。萬城くんの正面にはちょうど、クリスマス限定デザインのタンブラーとマグカップが、見本品として並べられている。萬城くんはおそらく、それを見てクリスマスのことを思い出したのだろう。
「ううん、まだ。トモセくんは?」
「俺もまだだが、早めに決めないと。今年はギリギリになって街中を駆けまわるのはごめんだ」
「あはは、たしかに去年はギリギリになりすぎて大変だったよね」
「ネットではどこも品切れだったからな。まあ、お前となら街中を駆けずり回るのも悪くないが」
「本当? どうだかなぁ」
「本当」
ふたりにしか通じない話題で、幼馴染組が思い出話に花を咲かせている。これはこれで微笑ましいので口を挟まず聞いていると、凝部くんが「ねーねー、クリスマスプレゼントって? それって、お互いに買って交換するの?」と質問を投げかけた。
「うん。うちとトモセくんちで合同のクリスマスパーティーをするんだよ」
「毎年の恒例行事です」
ヒヨリちゃんに続いて答えた萬城くんが、そこでちらりと陀宰くんを見て、勝ち誇ったような顔をする。陀宰くんがげんなりして「なんでそこで俺を見る……」と呻き声を上げた。
「陀宰さんはクリスマスに予定はあるんですか?」
「別にないけど」
「……パーティーには呼びませんよ?」
「そんな期待はしてないっつーの」
やいやいと言い合う陀宰くんと萬城くん。ヒヨリちゃんはそんなふたりを、苦笑いで見守っている。
と、そこにまたしても、凝部くんが割って入った。
「あっ、じゃあじゃあ、僕がメイちゃんとクリスマス過ごしてあげよっか?」
「は? 何が悲しくてそんなことになるんだ」
隣同士に座っている距離を詰め、すすすとすり寄る凝部くんを、陀宰くんが鬱陶しそうに押し返す。
「俺はいいんだよ、クリスマスっぽいことした方がいいって言うなら、なんか肉とか食べとくし」
「急に雑なクリスマスのイメージだね」
私が思わずそう言うと、陀宰くんにむっとした顔で軽く睨まれた。その視線を笑って躱すと、今度は溜息を吐き出される。
「つーか高校生にもなって、家族と過ごす方が少数派だって。瀬名んちは兄弟がいるから別にしても」
「だーからメイちゃんは、僕とメリークリスマス☆」
一度は陀宰くんに押し返された凝部くんが、ふたたびめげずに宣言した。
「お前、それまだ言ってんのかよ」
「けど、よくない? せっかくだしケイちゃんも呼んでさ。みんなでクリスマスパーティーとしゃれこもうよ。僕んちゲームならあれもこれもあるから、それなりに時間もつぶせるし」
「パーティーゲームすることを『時間もつぶせる』って、それはどうなんですか。もはやパーティーを楽しむ趣旨から逸脱してませんか」
萬城くんが呆れたように指摘するが、凝部くんは「それは揚げ足取りだって」と一笑に付す。
「結構いいと思うんだけどなー。あ、でもケイちゃん呼ぶと、名前ちゃんのことは呼べないか。ケイちゃんって女子ダメだし。というわけで、名前ちゃんはごめんね?」
「それは全然いいけども……」
別に凝部くん主催のパーティーに参加したいというわけでもないのだが、返事をする前に参加を断られてしまった。憮然とした気分になりつつも、たびたび出てくる名前があったので、私としてはそちらの方が気になる。
「そのたまに出てくる『ケイちゃん』って?」
「隣のクラスの口悪・態度悪・眼鏡の三拍子そろったインテリ男子」
「何も揃ってない」
ウィンクする凝部くんと、呆れ声を出す陀宰くん。陀宰くんの呆れ声も、凝部くんにはやはり響かない。
「まあまあ、メイちゃん。細かいことはいいじゃないの。名前ちゃんは知らない? 隣のクラスの獲端ケイト。通称ケイちゃん」
「うーん、知らない。私、あんまり男子の知り合いいないし」
「話しかけてもどのみち無視されるしね。ケイちゃんって極度の女嫌いなんだよ」
「獲端くんは女子とあんまり関わらないようにしてるから、名前ちゃんが知らなくても仕方ないよ」
ヒヨリちゃんがフォローするように言い添える。たしかに話を聞いていると、女嫌いの獲端くんと交友関係の狭い私とでは、まったく接点が存在しないように思える。そもそも男子の知り合いなんて、私にはこの場にいる萬城くん、陀宰くん、凝部くんくらいしかいない。
「まあ、縁があればそのうち会えるよ。ケイちゃんは僕と違ってちゃんと学校にも来てるし」
「ケイちゃんねぇ……」
知らない人を勝手にあだ名で呼びながら、私はまだ見ぬケイちゃんに思いをはせた。
それにしても、メイちゃんといいケイちゃんといい、凝部くんのつける呼び方は、やけに可愛らしいものが多い。もっとも陀宰くんは『メイちゃん』呼びを嫌がっているのだから、『ケイちゃん』という呼び方も、実際には獲端くんの意に沿わないものである可能性もある。
「というか、そのあだ名、呼んでるのって凝部さんだけですよね」
「呼びたいならトモくんも呼べばいいのに」
「誰も呼びたいとは言っていません」
「えぇー、トモくんに可愛く『ケイちゃん』って呼ばれたら、ケイちゃん喜ぶんじゃない?」
「絶対喜ばないだろ……」
気が付けば、クリスマスの話からずいぶんと話題が逸れていた。話題の軌道修正をはかるかのように、ヒヨリちゃんが私に問う。
「名前ちゃんは? クリスマスは何か予定あるの?」
「どうだろう、夕方までバイトは入れてるけど」
「えぇー、クリスマスまでバイト入れてんの?」
すかさず口を挟む凝部くん。
「名前ちゃん、それはさすがに女子高生として寂しすぎない? なんなら僕が慰めてあげよっか? 名前ちゃんのためならメイちゃんとケイちゃんとのパーティーなんかやめて、最っ高のクリスマスをプレゼントしてあげるよ」
凝部くんの絡みの矛先は、どうやら陀宰くんから私に移ったらしい。さてどうしたものかと考えるより先に、同じことを察したらしい陀宰くんが割り込んだ。
「苗字はバイトか。今年のクリスマスは休日だし、飲食店は忙しそうだな」
「うん、だから当日は絶対シフト入ってほしいって言われてる」
「ちょっとちょっと、キミら思い切りスルーするじゃん!」
「うるさい」
陀宰くんが溜息とともに悪態を吐き出す。それも大概ひどい扱いではあったものの、スルーされるよりは余程ましだとでもいうように、凝部くんは「なんだかんだ言いつつも、僕を完全スルーしきれないメイちゃんって……」と笑った。
「ちなみに夜は?」
「夜は決まってないけど、普通に家で過ごすんじゃないかなぁ」
「じゃあ僕と過ごす?」
またまた凝部くんが笑いかけてくる。何とも軽い、軽すぎるお誘いだ。私は目を細め、「だから、それはもういいって」と撥ねつけた。
しかし凝部くんは、顔にかかったおくれ毛をかきあげて、微笑みながら言う。
「いやいや、真面目な話。予定ないなら、たまにはそういうのもいいんじゃない? と思って」
「……どうして?」
「クリスマスの夜を友達と一緒に過ごすことに、理由が必要?」
「いや、だって凝部くん、陀宰くんとケイちゃんとやらと過ごすんでしょ」
「俺はまだ了承してないけどな」
「ま、別に僕も特別集まりたいわけではないけどね」
「おい」
「だからメイちゃんケイちゃんが名前ちゃんにチェンジしたところで、僕としては何の問題もなしってわけ」
一切悪びれることのないその言葉に、その場の全員が呆れた顔で凝部くんを見た。
とはいえ私としても、凝部くんの話に一切心を動かされなかったわけではない。パーティー云々はさておくとしても、凝部くんが自分の家に招いてもいい友人として、私のことをカウントしてくれているというのは意外だ。
彼は飄飄とした態度で誤魔化しつつも、どちらかといえば線引きをはっきりするタイプ。だからこそ、自分のテリトリーに入れる相手は慎重に吟味しているに違いない。
もしかすると、私が陀宰くんのことを好きだという、凝部くん以外には誰にも話していない秘密――言い換えれば弱味を、凝部くんが握っているからこそ、安心して関係を築けているのかもだろうか。そうだとすれば、これもいいような悪いような微妙なところだ。
凝部くんがつっつかないでいてくれるので、私も普段は私たちの間にあるパワーバランスについて、特には気にしないでいられる。しかし、いつかその弱味を理由に一発で優位をとられかねないのだと思うと、さすがに心穏やかではない。良くも悪くも今の私と凝部くんの関係は、凝部くんの気分次第なところがある。
が、もちろん私と凝部くんのあいだの『約束』を、ほかに知る者はいない。なので、
「凝部さん、苗字先輩のことは信頼してるんですね」
「たしかに、凝部くんがホームパーティーに誘うなんて珍しい」
萬城くんやヒヨリちゃんの目から見て、私と凝部くんが例外的に親しいように見えても、何ら不思議ではなかった。
「珍しいというか、はじめてだけどね」
一方凝部くんは、こちらに一瞥も寄越さずに平然と返事をしている。さすがの胆力というか、ポーカーフェイスというか。敵とも味方ともつかない相手ではあるものの、その動じなさにはある意味感心してしまう。
「それなら尚更です。家に入れてもいいというくらいには、苗字先輩のことを信頼してるということでしょう」
「信頼? そりゃあこんな平和な世界なら、僕はみんなのことを信頼してるよ?」
「嘘くさいことこの上ない」
「えー、ちょっとヒヨリちゃん見てみてよ。この僕の、澄んだ眼を」
「見るな、ヒヨリ。感染る」
「ちょっとちょっとー、トモくんそういうのは本当によくないからね」
そうして一通りのいじりいじられを片付けてから、凝部くんはまた、私へと視線を戻した。
「ということらしいけど、名前ちゃん」
甘いベリーのような色の瞳が、さてどうする? と私に問いかけてくる。
「何が、『ということ』なの」
「僕らがお似合いに見えるらしいよ、ということ☆」
「誰もそんなこと言ってないと思うけど?」
「ほぼほぼそう言ってるようなものじゃないの」
「えぇー、そうかな」
渋り口調で言いながら、私はこの後の会話の行先について検討した。
配慮された表現になっているというだけで、会話の内容自体は無責任な恋愛トークそのものだ。凝部くんは面白がっているだけなので、あまり頼りになりそうにない。ということは、良くも悪くも私の返答次第で会話の方向が決まる。
慎重に場の空気を探りながら、私は言葉を選び出した。
「お似合いって言われても、相手が凝部くんなのがなぁ」
呟いて、私は溜息を吐く。もちろん本心ではないし、凝部くんもそれは分かっているだろう。むしろこの場合、相手が凝部くんでよかったとすら思う。おかしな恋バナに巻き込まれる相手として、凝部くんは考えられる限りもっとも、こちらが罪悪感を抱かずに済む相手だ。
私と凝部くんの視線が絡む。束の間、そこには共犯めいた昏さが交わされる。
先に口を開いたのは凝部くんだった。
「僕は名前ちゃんとお似合いって言われて、普通に光栄だと思ってるけど? なんなら僕ら付き合っちゃう?」
「ありがたいけど、凝部くんにはもっと相応しい人がいると思うな!」
「えぇー、それ一番卑怯な断り文句じゃん!」
あくまで茶化して、誤魔化して。打たれた言葉を、淡々と打ち返す。
迂闊なことを口にすれば、余計なところに飛び火しかねない。もしも口を滑らすことがあるのなら、まず間違いなくそれは凝部くんではなく私。
と、視線を感じた方に顔を向ければ、陀宰くんが何かもの言いたげな顔で私を見ている。
「なに? まさか陀宰くんは変なこと言わないよね?」
「……悪い。正直、俺もまったく思わないわけではない」
「…………」
その言葉に、思わず絶句してしまった。
(陀宰くんまで、そんなこと思うんだ……?)
脱力して、呆然と陀宰くんを見つめる。
たしかに、そんなふうに思われてもおかしくないとは思う。何と言っても私たちは妙齢の男女だし、それ以上に相手はあの凝部くんだ。凝部くんとうまく付き合っているというだけで、もしかして、と勘ぐりたくなる気持ちはよく分かる。
けれど、よりにもよって陀宰くんに、面と向かってはっきり言われるとは。さすがに堪えるものがある。
ショックなものはショックだし、悲しいものは悲しい。何が悲しくて、初恋の男子に『あいつとお前、お似合いだよ』なんてことを言われなければならないのだろう。もしも私の腹が『陀宰くんには好意を明かさない』と決まっていなかったら、この場で取り乱してもおかしくないような悲惨な展開だ。
無論、陀宰くんに気持ちが漏れないようひた隠し、言動のすべてを取り繕っているのは私だ。私が陀宰くんを好きだと知らないのだから、陀宰くんがどんな憶測をしようと彼の自由。すべては私の自業自得というか、身から出たさび以外の何者でもない――ないのだが。
黙り込む私に、何を勘違いしたのか陀宰くんが慌てふためく。
「いや、別にお似合いとかは思ってないからな!? 思ってないよな!?」
「なんでそんなに狼狽えてるんですか。墓穴ほりますよ」
「萬城が最初に言い出したんだろ……!」
無責任な恋愛話を展開するのに、陀宰くんと萬城くんは善良すぎる。そんなふたりの遣り取りを見ていると、いよいよ気持ちは落ち込むばかりだ。
そのとき、不意にテーブルの下で、ローファーの爪先をこつんと軽く蹴られた。蹴られた方向からして、蹴ったのは凝部くん。視線を上げれば、にやにや笑った凝部くんが私を見ている。
口パクすらない。向けられたのはただ、視線だけだ。それでも、凝部くんが何を言わんとしているかは分かってしまう。
その瞳を見て、むしょうに胸が苦しくなった。
(こんなときだけ、優しくしてきてさぁ……)
陀宰くんには何ひとつ伝わらないし、伝える気もないし、通じあいもしない。そんな私がこうして、凝部くんとはアイコンタクトを交わし、はかりごとをしている。そのことが滑稽で、なんだか情けなかった。
凝部くんが言いたいことは、要するに、この場をおさめるためにはひとまず、凝部くんにすべて被ってもらえばいいということ。そうしてから、後は有耶無耶にして、誤魔化す――大体そんなところだろう。
このままではテーブル上の会話は、どんどんドツボに嵌っていくだけだ。一度言葉を失ってしまった私がどう取り繕ったところで、気まずさやいたたまれなさで場を白けさせるのは目に見えている。
もちろん凝部くんが泥をかぶったところで、彼には何の得もない。それどころか損しか残らない。
だからこれは多分、凝部くんの優しさ。もしかすると私の弱味を握っているからこそ、こういうところでバランスをとろうとしてくれているのかもしれないが。
どうあれ、考える時間もとれる手立ても、それほどない。
逡巡ののち、私はその提案に乗ることにした。
「凝部くん、私たち、ないよね?」
短く尋ねると、凝部くんは心得たと言わんばかりににやにや笑いをさらに深めた。
「それはどうだろう? 名前ちゃんが好きって言ってくれるなら、僕としては全然アリ☆」
「ないからね。本当に」
「うわ、すごい拒む……」
そうしてから、今度は私は陀宰くんを見る。
「ということだから。凝部くんと私がどうこうって、絶対ないからね」
「……あ、ああ。分かった」
半ば押し切るようにして、私は陀宰くんを頷かせた。これでいいのかは分からないが、少なくとも思い付く案のなかでは今のが最善だ。凝部くんの協力もあって場も白けずに済み、ひそかに安堵する。
そんな私と陀宰くんを眺め、凝部くんはぼやいた。
「はーぁ、メイちゃんさぁ。だから、本当にそういうところなんだって」
「何なんだよ? ときどき言う、お前のそれ」
「僕だって言いたくて言ってるわけじゃないでーす」
「まあまあ……」
ヒヨリちゃんに執り成しは任せきり、私は冷めたドリンクに口をつける。またしても凝部くんに借りが増えてしまった。借りの返済の見込みも立たず、私はひとり溜息を吐いた。
「あ、」
と、ふいに陀宰くんが、マグカップから口を離して声を漏らす。
「そういえばクリスマス、中学のときの友達がなんかやるって言ってたな」
「露骨に話を逸らしましたね」
萬城くんの冷ややかなツッコミに、
「話題を! 元に! 戻したんだよ!」
陀宰くんが顔を赤くする。私も萬城くんと同じことを感じたが、話題変更はこちらとしても望むところ。陀宰くんの言うように元の話題に戻っただけなので、私は特に言葉を差しはさむこともなく、冷えたドリンクをすすりながら会話に耳をそばだてる。
「なんかって何?」
珍しく軌道修正する凝部くんの質問に、陀宰くんは首を横に振った。
「知らん。けど昔からの友達だし、普通に集まって遊ぶんじゃないか? それこそゲームとかやって」
「ふーん。小中学生の時の友達とか、僕もう全然会う気しない」
突き放すように凝部くんが言う。その物言いに対して、ヒヨリちゃんと萬城くんは、
「私は今でも時々遊ぶけど」
「俺も」
と、仲良く口を揃えた。そもそも萬城くんは去年まで中学生だったのだから、今でも一緒に遊ぶくらいはするだろう。
「ヒヨリちゃんたちは牧歌的な地区出身でしょ。都会にはそういう文化ないんで」
「ちょっと、別にうちの近所は田舎じゃないんだけど」
ヒヨリちゃんがむっとして言い返す。ヒヨリちゃんや萬城くん、それに私が今住んでいる地域は、市内でも治安が良く、なおかつ子育て世帯が多い地域だ。小さな子どもだけでなく、ある程度大きな子でも、あちこちの公園で遊んでいるところをよく見かける。
凝部くんは比較的高校に近い都市部のマンション暮らしだというから、ヒヨリちゃんたちの学区とは事情が違うというのも頷ける。
「ていうかそんな小さい時の友達と会って、今さら何を話すっていうのさ? 純粋に疑問なんだけど。話題とかなくない?」
「幼稚園の頃の話とか?」
ヒヨリちゃんの返事に、凝部くんは「えぇー?」と、納得していなさそうな声を出す。
「そんな昔の思い出話なんか話すの?」
「うん。それに私は通ってた幼稚園の先生と、今でも新年のあいさつ送ったりしてるよ。だからあんまり『過去の人』って感じでもないかな。トモセくんもそうだよね?」
「ああ、年賀メッセージのやりとりくらいはしてる」
「うげ、信じらんない。だって他人じゃん」
「他人って……」
「男子三日会わざれば刮目して見よって言葉知らないの? 十年前の知り合いとか、僕からしてみれば見ず知らずの他人も同然だよ」
どうもこの話題では、凝部くんとヒヨリちゃん、萬城くんの意見は相容れないらしい。私は黙って三人の遣り取りに耳を傾けた。
どちらかといえば、私の考えは凝部くんに近い。けれど私は凝部くんほどすっぱりと、過去を過去と割り切れているわけでもない。何せ私の胸には十年来の執着が、今なお消えずに燃え続けているのだ。それを手放してもいないのに、凝部くんのように淡白にはなりきれない。
と、その十年来の執着の相手先である陀宰くんが、ぼそりと言葉を挟む。
「俺も、さすがに幼稚園の頃の知り合いとはもう遣り取りないな」
我が意を得たりと言わんばかりに、凝部くんが「だよねー」と笑った。
「そもそも僕、幼稚園の頃の記憶なんかほぼないし」
凝部くんの言葉にぎくりとしながら、私は笑顔で波打つ感情を押さえ込む。今のはあくまで、凝部くんの言葉。たとえ陀宰くんが凝部くんに同調しているからといったって、陀宰くん本人が発した言葉ではない。
けれど、続く陀宰くんの言葉を聞いた瞬間、すべての物音がふっと私の周囲から遠のいた。
「俺だってそうだよ。せいぜい小学校の四年とか、そのくらいからの記憶しかない」
ふつり、と。
その瞬間、私の身体と世界の接続がはずれたような――ぽんとひとり、孤独な世界に放り出されたような――そんな心許ない気分に、突き落とされる。
「え? それはメイちゃん、自我の形成が遅すぎない……?」
「そんなもんだろ。小学校以前の記憶なんてほぼない」
残りの会話は、ろくに頭に入ってこなかった。耳は声を音として拾っているものの、それを処理する脳が、正しく正常に働いていない。
(そっか、陀宰くん、本当に覚えてないんだ)
がつんと重たいもので頭を殴られたような気分だった。あるいは、胸にどろどろに溶けた鉛を流しこまれたような。
きりきりと、胸が痛む。
こんなこと、何度も何度も思い知らされてきた事実に過ぎない。陀宰くんは私のことを覚えていない。私のことを忘れている。それこそ何度だって受け容れてきた。それを今この瞬間もまた、反復確認しているにすぎない。
それでも今までとは、受ける衝撃の度合いがまるで違った。
陀宰くんの口からはっきりと、幼稚園の頃のこと――幼稚園のころに一緒にいた私のことをまったく覚えていないと言われた。陀宰くんの口から、はじめて。
本当の意味で、一条の希望すら残されなかった。完膚なきまでに、忘れ去られていることを突き付けられた。そのことに眩暈を覚える。
(ばかみたい、だけど……まだ期待してたってことか……)
ここに至ってはじめて、私は気が付いた。諦めると再三言いながら、私はまだ心のどこかで、陀宰くんに対して縋るような希望を持ち続けていた。
もしかしたら忘れたふりをしているだけかもしれない。私に言わないだけで、本当は覚えているのかもしれない。
それならそれで、本来ひどく悲しいことではあるけれど。
けれど、でも、それでも――。
「名前ちゃんは?」
「……え」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、はっとした。まるで私の周りに張ってた膜がぱちんと割れて消えたかのように、あるいは世界に再接続されたように、遠退いていた音が戻ってくる。
「名前ちゃん?」
私の顔を、ヒヨリちゃんが心配そうな表情でじっと覗き込んでいた。見ると彼女以外の面々も、視線を私に注いでいる。どの程度ぼんやりしていたかは分からないけれど、みんなから注目される程度には長く呆然としていたことだけはたしかなようだった。
「あ、えーと……なんだっけ。ごめん、ちょっとぼーっとしてたかも」
「大丈夫ですか? 先輩、なんだかあまり顔色が」
「いや、それは大丈夫。ありがとうね、萬城くん。ちょっとバイト詰め込み過ぎて疲れてるのかも」
その場しのぎの口から出まかせだったが、それほど怪しまれることもなかった。私がかなりバイトを詰め込んでいることは、この場にいるメンバーならば全員知っていることだ。
いつのまにか、窓から見える日が傾き始めていた。私の顔色をうかがったヒヨリちゃんが、ゆっくりとテーブルの上を片付け始める。
「そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなると、アステルがまた寂しがっちゃう」
「別に少しくらいいいだろ。あいつは少しヒヨリにくっつきすぎだ」
「もー、いいでしょ」
萬城くんとヒヨリちゃんが、全員分のカップをトレーに集めて片付けに立ってくれた。私は、置きっぱなしのヒヨリちゃんの鞄と自分の荷物を持ち、椅子から腰を上げる。と、急に立ち上がったせいで、足もとが覚束なくふらつく。
ぐらりと身体が揺れた。視界が傾ぐ。
「ぁ、」
「っと、――おい!」
その瞬間、ぐいと強く引き寄せられた。一拍遅れ、倒れかけた私の身体を、陀宰くんが咄嗟に片腕を伸ばして抱きとめてくれたのだと気付く。
前のめりになっているせいで、わずかに踵地面から浮いていた。重心を戻し、ぱたぱたとたたらを踏むように、数歩足踏みする。
はっと振り返れば、思ったよりもずっと近い距離に陀宰くんの顔があった。陀宰くんは驚いたような心配しているような、ちょうど半々な表情で私を見つめていた。
一度意識してしまえば、途端に身体が熱くなる。顔が火照り、身体の動きはぎこちなく軋む。
「苗字、大丈夫か?」
「あ、うん……、ごめんね……」
答えた掠れ声は、自分でも恥ずかしくなるくらい、妙な甘さを帯びていた。余計に顔が熱くなる。そんな自分の浅ましさが恥ずかしくて、私はなけなしの理性で叱咤した。
浮かれたところで、意味なんかない。
照れたところで、何が起きることもない。
自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も胸の中で同じ戒めを繰り返す。
そうしているうちに、私の身体から徐々に、すっと熱が引いていくのが分かった。足元の床に吸い込まれるように、熱が身体から抜け落ちていく。
私はゆっくりと、陀宰くんの腕から身体を離した。
この腕の温度を名残惜しく思う権利を、私はひとかけらも持っていない。いつまでもこの腕に支えられ、縋っているわけにはいかない。
「ごめんね、陀宰くん。もう、大丈夫みたい」
言葉を区切って伝える。すると陀宰くんは何故か、ぐっとくちびるを噛んだ。
(どうして、)
どうして、そんなもどかしそうな顔をするのだろう。なんで、陀宰くんが何かを堪えるような表情をするのだろう。
陀宰くんに忘れられてしまった私ではなく、どうして、私を忘れた陀宰くんが。
何を言えばいいのか分からずに、私はただ身じろぎもせず、陀宰くんの視線の前に晒されていた。言葉も、些細な仕草ひとつすら、何か大きなあやまちにつながりそうで恐ろしい。
喉はからからに乾いている。目蓋を閉じ、まばたきすることすらかなわない。
陀宰くんは一度、ぎゅっとくちびるを引き結ぶ。そして意を決したとでもいうように、視線に力強さを宿した。
薄いくちびるが、浅く呼吸をするように開く。吸い込まれそうな気分で、私はそのくちびるをじっと見つめた。陀宰くんの喉がごくりと動く。
「苗字、あのさ」
陀宰くんの声が、頭の中でわんわんと反響している。
「違ったら悪いんだが、」
陀宰くんの瞳が、私に答えを迫って――
「……その、お前、もしかして何か俺に――」
「ちょっとー、メイちゃんはいつまで名前ちゃんと見つめ合ってるわけ?」
そのとき、唐突に横から揶揄うような声を掛けられ、私と陀宰くんはほとんど同時に目を見開いた。はたと我に返った私は、慌てて陀宰くんから距離をとる。
「えっと、ごめんね、本当に」
「あ……っ、す、すまん……」
「ううん、それと、ありがとう」
陀宰くんから視線をそらし、ヒヨリちゃんたちの元へと駆け寄る。途中、すれ違いざまに凝部くんから掛けられた真剣な視線が、私を責め、苛んでいるような気がした。
ヒヨリちゃんと萬城くんは、これからクリスマスプレゼントを見繕いに、ぶらぶらと店を見て回ることにしたらしい。先に来たバスに乗るふたりをバス停で見送ると、残されたのは陀宰くんと凝部くん、それに私の三人きりだった。
バス停に設置されたディスプレイの時刻表と路線図を見比べて、次に来るのが凝部くんの乗るバスだと知る。ということは、凝部くんが行ってしまったあとしばらくは、私は陀宰くんとここでふたりきりになるということだ。
(正直、気が重いな)
陀宰くんと一緒にいることを憂鬱に思うのは、本当に久し振りのことだった。夏休み明け、ヒヨリちゃんを通じて陀宰くんたちと友達になるより前。私のことを覚えていない陀宰くんを見るのがつらくて、頑なに避けてしまっていたあの時期以来。
とはいえ、凝部くんにバスに乗るなとはいえないし、ここで私が違うバスに乗るのもおかしい。陀宰くんがさっき何を言いかけたのかも、気にならないわけではない。
気が重くはあるけれど、結局はなるようにしかならない。そう思うしかない――と、諦めにも似た気持ちで腹を括ったところで、やおら凝部くんが、私の腕をくいっと引いた。
「ねーねー名前ちゃん。悪いんだけど、今からちょっとだけ、僕に付き合ってくんない?」
「え?」
突然のことに、私は目を白黒させた。視界の端で、陀宰くんも驚いたように凝部くんを見ている。
「ちょっと、凝部くん、」
「いーから」
抗議の声を上げようとしたところで、凝部くんが私の耳元でこそっと囁いた。短く発せられた言葉に、私は息をのむ。一体どういうつもりなのか、凝部くんの考えていることが分からない。
けれど凝部くんのおかげで、はからずも陀宰くんと二人きりで過ごさずに済む可能性が出てきた。私は凝部くんに腕をつかまれたままで、陀宰くんをそろりと見る。
陀宰くんは訝しげに眉根を寄せていた。
「おい凝部……、こいつ調子悪そうなのに」
「分かってないなぁ、メイちゃんは。調子が悪そうだから言ってんの」
「は?」
「名前ちゃんは、俺の言うこと分かるよね」
甘い色の瞳で問いかけられ、私は返答に窮した。
正直に言えば、凝部くんの考えていることは分からない。少なくとも、今の行動の理由については、まるきり見当がつかない。
戸惑う私に、凝部くんは溜息を吐く。そして焦れたように「来るの? 来ないの?」と返答を急いた。
もう一度、私は凝部くんと陀宰くんを交互に見る。陀宰くんの顔に張り付いた、固い表情。もしも今この場で凝部くんの手を振り払ったら、きっと今度はもう何処にも逃場がなくなる。凝部くんの誘いは、私にとって最後の選択なのかもしれない。
正直に言えば、陀宰くんが言いかけた言葉を、聞きたくないわけではない。けれど今は、好奇心よりも恐怖が勝った。
逡巡ののち、私は躊躇いがちに答えた。
「……わかった、付き合う」
そう言って頷く私を見て、凝部くんは何故か一瞬、哀れむような微笑みを、あえかに口許に浮かべる。けれどその微笑は、瞬きのあいだに消えてしまった。
「そーいうわけだから」
バイバイ、メイちゃん。
ひらりと軽やかに手を振って、凝部くんはすたすたと歩き出す。私も陀宰くんに手を振ると、先を歩く凝部くんの後ろ姿を急ぎ足で追いかけた。陀宰くんは戸惑い顔をしながらも、けして私たちのことを追いかけてきたりはしなかった。
◇◇◇
凝部くんがどこへ歩いていくのかは分からないけれど、彼の提案に乗ってしまった手前、私は黙ってついていくしかない。
普段の気だるげな彼を思えば意外なほど、凝部くんの歩くペースは速かった。私は小走りになって、凝部くんを追いかける。
ほどなく凝部くんの行き先が明らかになった。何のことはない、凝部くんが向かっていたのは、私たちがさっきまでいたバス停から歩いて数分のところにある、別のバス停だった。
「あ、しまった。このバス停からだと僕んちにも名前ちゃんちの方にも、帰るバスがないや」
ディスプレイの路線図を見て、凝部くんが声をあげる。さすがの凝部くんでも、普段使わないバス停にどの路線が乗り入れているかまでは、頭に入っていなかったらしい。
ということは、先ほどのあれはやはり、突発的な行動だったということだ。私は早足で歩いたせいで乱れた呼吸を整えながら、凝部くんに声を掛けた。
「凝部くん、」
「感謝したいなら、いくらでもしてくれていいよ。メイちゃんと一緒にいたくなさそうだなと思って、ちょっと強引に引き離してあげたんだから」
すべて見透かされている。ありがとう、と私は溜息まじりにお礼を言った。
凝部くんがバングルに向けていた目を、私へと向ける。浮かぶ微笑はさまざまな感情を内包しすぎていて、凝部くんが今何を考えているのか、私に言い当てることはまったくの不可能だ。
びゅうと冷たい風が吹き、凝部くんの銀糸の髪を掻き乱す。防寒加工が施された制服のジャケットの襟もとを「おー、寒」と演技めかしくかき合わせ、凝部くんはベンチに腰をおろした。
「ああいうとき、強引なことや不可解なことをやっても何となく許される感じがするのは、僕の日頃の行いのおかげだね」
「日頃の行い……。まあ、間違ってはいないのかもしれないけど……」
「詮索する気はないよ。これで貸しはまた増やすけど」
飄飄と、しかしあながち冗談でもなさそうなことを口にして、それから凝部くんは「で、どうする?」と立ったままの私を見上げて問いかけた。
「名前ちゃんが一人になりたいなら、適当に送って僕は帰るけど」
「一人に……」
「……それとも、やっぱりメイちゃんがよかった?」
答えを待つ甘い瞳は、揺らぐことなくまっすぐ私を見つめている。切実――そんな言葉がふと浮かび、すぐに消えた。
凝部くんと一緒にいたいのか。それとも陀宰くんのところに戻りたいのが本心なのか。私は今、どうしたいのか。
シンプルなようでいて、実際にはたくさんの選択を迫られている。
私は躊躇い、踏み出せず、答えあぐねた。けれど一つだけ、今この場でどうしても確認しておかなければならないことがある。それだけは、鈍い私にもちゃんと分かっていた。
「凝部くんって、私のことが好きなの?」
何の勘違いも行き違いも起きないよう、最短で簡潔に、私は凝部くんに問いかけた。
以前、質問に質問で返さないでと言ったのは、たしか凝部くんだった。今も凝部くんは、彼の質問を無視した私に対して、わずかに眉をひそめている。けれど意外にも、その下にある瞳と口の端には、この会話を面白がっているような淡い笑みが滲んでいた。
「いや全然好きとかないけど。あ、ていうか待って、今のってもしかして『そうだよ』って言うとフラグ立つ感じ?」
「立たないね。全然立たない」
「じゃあ正直に言っていいか。名前ちゃんに対しては、そーゆーのはまったくないよ。一応、友達だとは思ってるけど」
「でもそのわりには、かなり面倒見よくない? 凝部くんってそういうキャラじゃなさそうなのに」
「あー、まあ僕本来のキャラではないかもね。たしかに」
胸の前で組んだ指を擦り合わせ、凝部くんは答えた。
「なんていうかな。情けは人の為ならずってところ?」
「何それ、全然わかんない」
「僕だって時々は、受けた親切をほかの誰かにも施そうかなと思うんだよ」
「……私、今、施されてるの?」
「ま、そういうこと」
飄然として掴みどころのない言葉は、結局どこまで本当なのかも分からない。凝部くんのことだから、適当に虚実織り交ぜて話をしているのだろうとも思う。うまく誤魔化されてしまった感も否めない。
けれど不思議と、凝部くんの今の言葉のすべてが口から出まかせだとは思えなかった。『情けは人の為ならず』という、およそ凝部くんらしからぬ言葉にすら、嘘や欺瞞はまるきり感じとれない。
もちろん、凝部くんの価値観や倫理観から出た言葉ではないのだろうとは思う。けれど、だからこそ、今のこの凝部くんらしからぬ行いには凝部くん本来の行動理念とは違う、別の何かが強く働いているのだという気がした。
そしてその行動理念を凝部くんに与えた誰かは、『情けは人の為ならず』というようなことを、ごく当たり前に実践できるに違いない。それこそ、誰のためとか、情けとか、そんなことを考えることすらなく。
脳裏に、ふたりの人間の顔が思い浮かぶ。無論、私のひねくれた推論だ。ただ、私の推論がもしも事実だとしたら、何ともずいぶん因果なこととしか言いようがない。
束の間、私は黙り込んだ。脳内でいろいろなものを天秤にかけ、様々な感情を推し量る。飽きっぽい凝部くんはバングルを操作して時間をつぶしながら、私の沈思の終わりを待つ。私の家にも凝部くんの家にも帰らないバスが、何台もやってきては、そのまま走り去っていった。
そうしてしばらく経ったのち、私はようやく心を決めた。
指の腹で手首のバングルを撫でさすり、私は凝部くんに向かって言う。
「凝部くんに見てほしい写真があるんだけど」
「写真?」
凝部くんが警戒したような目つきで首を傾げた。私は凝部くんの隣に鞄を置いて、さらにその横に腰を下ろすと、バングルでアルバムデータを呼び出す。私の手元を覗き込む凝部くんは「ヒヨリちゃんもだけど、キミも結構いろいろ急だよね」と苦笑した。
「ていうかもしかして、ついにキミの『秘密』を教えてもらえるの?」
「まあ、そういうことになりますね。知りたくないって言われても聞いてもらうつもりでいるけど、大丈夫?」
「ここまで引っ張られて、聞かないって選択肢はないでしょ」
凝部くんと話をしながらも、私はバングルを操作し続ける。アルバムデータの中でも、普段は一番奥底に隠している保護フォルダ。保護フォルダはいくつかあるが、そのフォルダはたった一枚の写真を保存しておくためだけに作った、特別なフォルダだった。
手早くパスワードを入力する。次の瞬間、手元に展開されたディスプレイに、一枚の画像がぱっと表示された。
紺色の制服をお揃いで着た小さな子どもたちが、ざっと十五人ほど、二列に行儀よく並んでいる。その脇には付き添うような恰好で、エプロン姿の先生が柔和な笑みを浮かべている。
「何これ、幼稚園のクラス写真?」
「そう。現像したものを撮影してるから、あんまり画質がよくないんだけど」
自宅にある幼稚園時代のクラス写真を、さらにバングルのカメラで撮影した写真だった。どういうわけだかデジタルのデータは紛失してしまい、手元にあるのはアナログデータを撮影した、この一枚だけだ。
さすがにフィルム写真を現像したものは劣化が激しく、デジタルデータより画質は大幅に劣る。それでも、子どもたちそれぞれの顔を容易に識別できる程度には、鮮明な画像だ。
その写真の、エプロンをつけた先生の隣でむすっと固い表情をしている女児を指さす。
「ここにいるのが私」
「面影あるー。何でこんな顔してんの? 写真嫌いなの?」
「写真が嫌いだったんじゃなくて、慣れない場所が嫌だったの」
この写真は年少の頃のもの。だからほかの写真と比べても、ひときわ仏頂面をしている。家にはほかの学年の写真も残っていたが、わざわざ私のバングルにデータを移しているのは、幼稚園時代の写真ではこれだけだ。
理由はたったひとつ。年中と年長の二年、私と陀宰くんは違う組だった。だから私たちが一緒の組だったことが分かるのは、このただ一枚きりなのだ。
そのとき、凝部くんが「え」と声を上げた。
「……ちょっと待って。これもしかして、名前ちゃんの隣にいるのってメイちゃん?」
「そうだよ」私は頷いた。
「それは幼稚園の頃の陀宰くん」
「じゃあ、名前ちゃんとメイちゃんって、幼稚園の頃に知り合ってたんだ」
「予想通りだった?」
「大体……、いや、でもさすがに、そこまではっきり縁があったとは思わなかったかな。どこかで知り合って、名前ちゃんが一方的に知ってるとか、そんなところだと思ってた」
私の問いに、凝部くんは嘆息とともに答えた。そして、「メイちゃんは覚えてないんだ。このこと」と独り言のように吐き出す。私はできるだけ悲壮感が漂わないよう、無理やりに笑顔をつくって頷いた。
目のまえを、自動車が次々に通り過ぎていく。もう何台のバスがここで停車し、そして私たちを乗せることなく去っていったのか、数えるのはとっくにやめている。
今が秋でよかった。これがもしも夏や冬だったなら、きっとこんなふうに屋外のベンチに腰かけて昔話なんて、とてもしていられなかっただろう。
「昔、私が小さい頃に住んでたマンションに、陀宰くんも住んでて……それで、部屋がうちと陀宰くんちで、隣だったんだよね。生まれたときから、というか、赤ちゃんのときから一緒だったって、母から聞いたことあるよ」
「うわー、なんだかどこかで聞いたような話」
「ヒヨリちゃんと萬城くんでしょ? 私と陀宰くんは、あそこまで仲良くなかったけどね。……というか、私は陀宰くんにべったりだったけど、陀宰くんはそうでもないって感じだったかな。どっちかいうと、多分陀宰くんは私のこと、面倒くさがってたと思う」
「メイちゃんが?」
「私、ものすごく人見知りもするし、どんくさい子どもだったから。そもそも小さい頃の陀宰くんって、今よりもう少しぶっきらぼうだったような気がする。もちろん、優しくはあったけど」
「ぶっきらぼうで優しいって矛盾してない?」
「してないよ。一緒に遊んでても面倒になると私のこと置いてっちゃうし、お姉ちゃん――陀宰くんのお姉ちゃんがいるときは、私のことお姉ちゃんに押し付けようとしたり。でも、置いて行ったら迎えに来てくれるし、泣いたらちゃんと手を握ってくれたし」
話しているうちに、胸がじんわりとあたたかくなった。そのときの情景まで思い出せるわけではない。けれどそのとき感じたあたたかさならば今もまだ、私の中には消えない熾火のように、たしかに残っていた。
それだけじゃない。陀宰くんとの思い出なら、いくらだって挙げられた。いつでもどこでも陀宰くんの後ろにくっついて歩いていた私だから、昔住んでいた街を歩けば、至るところに陀宰くんとの記憶が残っている。
一緒に遊んだ公園も、児童館も、マンションの中庭も。何処にでもあるようなただの道路ですら、私には陀宰くんと一緒に縁石の上を歩いた、思い出の場所だった。
「陀宰くんのこと、好きだったんだよね」
そう言葉にした瞬間、ついつい笑ってしまった。考えてみれば、陀宰くんへの気持ちをはっきりと声に出したのは、ずいぶん久し振りのことだ。
好き。シンプルな言葉だけれど、それ以上に言い換えようがない。愛しているなんて大仰すぎるし、大切だというには俗っぽすぎる。執着というのが正しい気もするけれど、それすらも『好き』の変容した結果でしかない。
好き。好き。陀宰くんのことが好き。
十年もの間、私はそれ以外に、自分の感情を、状態を、言い表す言葉を知らなかった。
いつのまにか膝の上に置いていた手に向けていた視線を、ゆるりと顔ごと持ち上げる。あんまり俯いて話していると、会話の中身が姿勢に引っ張られて、悲観的になってしまいそうだった。
お腹に力を籠める。そうすると少しだけ、身体に気力が戻ってきたような気がした。
「私は陀宰くんのことが好きで……、だけど当時はさ、好きなんて言えなかったよ。まあ、好きって言えないのは今も変わらないんだけど。だって、今はもちろんあの頃だって、陀宰くんが私のこと好きじゃないのなんて、分かりきってたし。そういうのって、子どもでも分かるものだよね」
「ていうかさっきのメイちゃんの自我の芽生えの話聞く限り、そもそも恋愛感情が未分化だった気がするけど」
「たしかに、それはあるかも」
私だって取り立ててませていた方ではない。けれど少なくとも、幼稚園の年長になる頃には、恋愛感情というものの存在は知っていた。その中身までは分かっていなくても、自分の両親や陀宰くんちの両親のように連れ添いたい相手を選び、その相手に抱く感情を恋と呼ぶのだろうと、その程度の認識は持っていた。
だから、引っ越しをして陀宰くんと離れ離れになると分かったとき、今こそ告白すべきときなのだと思った。好きだと伝えることへの躊躇いは、微塵も感じなかった。
たとえ陀宰くんが私のことを好きじゃないと、分かっていても。
今思えば、離れ離れになるからこそ、大胆なことができたのかもしれない。
「引っ越しが決まって、いよいよさよならってときに、陀宰くんに好きですって言ったんだ。恋人にしてくださいって」
「ませてるなー。それ絶対メイちゃん『うん』とは言わないでしょ」
「そうだね。うんとは言ってくれなかった」
というより、多分陀宰くんはそのとき、恋人とは何なのかすらよく分かっていなかったんじゃないだろうか。私だって、ふわっとしたイメージだけでものを言っていた。
だから、当然のことながら私の告白は断られた。生まれてはじめての告白は、無残な玉砕という結果になったわけだ。それでも、まったく希望がないわけではなかった。
「でも、ただふられただけってわけじゃなかったんだよ」
私の告白に否やを突き付けた陀宰くんは、それでもなお食い下がろうとする諦めの悪い私を見て、困ったような、面倒くさがっているような、照れているような顔をして、言ったのだ。
「『大きくなって戻ってきたとき、覚えてたらな』って、陀宰くんが」
そしてそれは、私にとってはまさしく福音だった。
たしかに振られはしたけれど、それでもどうにか、私の恋心は首の皮一枚つながって、潰えずに済んだ。そのときはもちろん、いつかこの街に戻ってこられるなんて話はなかったけれど、それでもいっこうに構わなかった。
家族で戻ってこられないなら、私ひとりが戻ってくればいい。私だけでも、陀宰くんに会いにくればいい。『大きくなって戻ってきたとき、覚えていたら』と、陀宰くんが言ってくれたのだ。たったそれだけの、約束とも呼べないような言葉ひとつだけで、私の小さな胸には十分だった。
「……で、戻ってきたはいいものの、肝心のメイちゃんがぜーんぶ忘れちゃってたと」
「まあ、そういうこと」
私の話はそれで全部だった。一番最後、オチになる部分は今、凝部くんが代弁してくれた。
期待に胸を膨らませ、いざ戻ってきたこの街で、陀宰くんのなかに私はもういなかった。高校の入学式の日、体育館ですれ違った私のことを、陀宰くんは多分見てすらいなかったんじゃないだろうか。
入学式の直前、私は体育館の前で待機する陀宰くんのすぐそばに、それこそ手を伸ばすまでもなく、肩がぶつかる距離に身を置いていた。気が付いてくれるだろうか。覚えていてくれるだろうか。淡い期待に胸をじりじり焦がしながら、私はそこに立っていた。
けれど陀宰くんの視線は結局、一度として私に向きはしなかった。
「メイちゃんさぁ……」
凝部くんが呆れ声で呟いて、弱ったように眉尻を下げる。
「昔からの知り合いかな? メイちゃんが忘れてるのかな? ってあたりまでは予想してたけど……、さすがに、ちょーっと庇いだてするのが難しいレベル」
「でも、私が言うのもなんだけど、しょうがない気もしない? だって、幼稚園の頃の約束なんて、覚えてない方が普通だし。まして、ずっと一緒に大きくなったんじゃなくて、私と陀宰くんはそれきり連絡を取り合ったりもしてなかったんだし」
いつか、萬城くんが話していた言葉を思い出す。
『家が隣じゃなくても、俺はお前の隣にいたはずだ』
あれは無論、徹頭徹尾ヒヨリちゃんに向けた萬城くんの愛の言葉だった。けれど、聞いている私の胸にちくりと鋭く刺さった言葉の棘は、そのまま今日まで抜けずにいる。
萬城くんの言葉は、所詮ずっと一緒にいられた幼馴染だからこそ言える、仮定の言葉。実際に離れ離れになったとして、その思いを貫けるかは誰にも分からない。
ならば、ヒヨリちゃんと萬城くんは、うまくいったかもしれない世界の、私と陀宰くんの『もしも』の姿なのではないか。
もしも私が引っ越しせず、ずっと家が隣同士の幼馴染で居続けたら。そしたら彼は今頃、私の隣にいてくれたのだろうか。
一度そう考え始めると、甘えた思考を止めることができなくなった。
陀宰くんが私を忘れてしまったのは、私のせいではないんじゃないか。悪かったのは距離と時間があったからじゃないのか。だとしたらこの現状は、私にはどうしようもない、悲しい不運だったんじゃないか――
歯止めのきかない思考回路は、益体のないことばかりを考えつく。そして私の惰弱な精神は、その甘くてやさしい幻想に、ついつい縋りつこうとする。
けれど本当は、分かっていた。そんなはずはない。そんなことは、ありもしない妄想だ。
『もしも』はこの世に存在しない。
萬城くんの言葉の裏には、彼が幼いころから変わらずヒヨリちゃんを思い続けているという、もっとも重大な背景が存在している。ヒヨリちゃんからも、恋心とまでは断言できないまでも、萬城くんを大切に思う心がたしかにあったはず。離れていてもという言葉は、そもそも一緒にいるときの絆がなければ成立しない。
私と陀宰くんの間には、そんなものはなかった。少なくとも、陀宰くんから私に、好意はない。だから幼馴染であり続けたところで、隣に並んでいられたかなど、分かりっこない。
「メイちゃんには言わないの?」
凝部くんが、囁きほどの声音で問うた。
やわらかくて優しい、気遣いの滲む声だった。
「言わないよ。この先も、ずっと」
「……思い出してほしいとは思わないの?」
「たぶん、思わないかな」
「どうして」
「だって、本当は私は、思い出してほしいんじゃなくて……」
そこで一度、私は言葉を切った。凝部くんが訝しげに私を見ている。まるで、もはや心の奥底まで渫うように手の内をすべて明かしてしまった私には、ここで言葉を途切れさせる理由などないだろうというように。
私は自分の迂闊さに、内心で苦笑した。事情はもうすべて話したし、凝部くんの知りたいことも大方は全部教えたはずだ。これ以上は何を言ったところで、私の個人的な感傷の話でしかない。そして私はその感傷を、凝部くんに晒すつもりはなかった。
「それに、陀宰くんはヒヨリちゃんを見つけちゃったしね」
取り繕うように足した言葉は、文脈としては繋がっていないかもしれない。しかし説得力だけは十分だ。その証拠に、凝部くんはもの言いたげな顔つきで私を見つつも、ぐっと口をつぐんだ。
これを好機と、私はさらに畳みかける。
「仮に、仮にだよ、私が陀宰くんに思い出してほしかったとして。だけど、なんとなく『ああ、もう無理かもな』っていうのが、陀宰くんを見てたら分かるでしょ。ヒヨリちゃんを見つけちゃった陀宰くんは、もうきっと、私のこと思い出したりしないだろうなーって」
「それでも、思い出してほしいのなら、思い出してほしいって言う権利くらいはあると思うけどね。それで思い出してもらえるかどうかは別としても」
真摯な言葉は胸を打つ。凝部くんに胸のうちと過去を吐露してよかった。今ここに至って、私は素直にそう思った。
凝部くんは肯定してくれる。私が利己的であってもいいと、たしかに認めてくれる。それだけで、自分でも驚くほどに救われた気分になった。
胸と、それから、バングルをつけた腕が軽い。私はひらひらと手を振って、笑いながら答えた。
「陀宰くんが幸せなら、私はそれでいいよ」
「……強がっちゃって」
「まあね」
「そういうとこばっかり、似てるよね。キミたちって」
「似てる? 誰に?」
「見てて嫌になるよ。そういうの」
私の問いに答えを差しだすことなく、凝部くんはくしゃりと顔を歪ませ笑う。端正な顔だちはこんな時でも麗しかった。
やおら凝部くんが立ち上がり、「行こうか」と切り出す。
「このバス停にいても、僕ら永遠に帰れないし。もうメイちゃん帰ったと思うから、さっきのバス停に戻ろう」
「そうだね、戻ろう」
長話をしていたせいで、身体はすっかり冷え切っていた。歩き始めると、身体が油を差し忘れたようにぎこちなく軋む。私の少し前を歩く凝部くんは、こちらを振り向かないまま言った。
「俺はこの話をこっそりメイちゃんに知らせるほど、親切じゃないよ」
「そんなこと全然期待してないから大丈夫」
「でも、メイちゃんは多分、忘れてるってことを知りたいだろうね」
それはそうだろう。陀宰くんはそういう人だ。
だからこそ、余計に話せない。凝部くんにだって、本当は話すつもりではなかった。
「……ごめんね凝部くん、こんな話して。秘密の片棒担がせちゃった」
私の本心からの謝罪に、凝部くんは「それこそ今更すぎ」と軽口で答えた。
◆◆◆
自宅のリビングのソファーにあぐらをかき、陀宰はぼんやりとバングル内の画像データを眺めていた。姉が入浴前に見ていてつけっぱなしのテレビからは、トーク番組の軽妙な会話が流れ続けている。しかし陀宰の意識は散漫で、テレビの発する音も光も、すべて陀宰を素通りしていった。
バングルのディスプレイには、以前凝部やヒヨリ、名前と一緒に撮影した写真が表示されている。
真っ先に陀宰の目を引くのは、やはりヒヨリの顔だ。見なれたつつましい笑顔が、撮影係で無理な体勢をとっているせいか、少しだけぎこちなく強張っている。次にヒヨリの隣の凝部に視線が向き、さらにその隣に名前が目に入る。
(苗字……)
普段はとくに気になるところのない友人のひとりだ。だが今日はやけに、意識に彼女が引っかかった。
理由はなんとなく分かっている。学校帰りに寄ったコーヒーショップで、彼女の様子は明らかにおかしかった。
(おまけに凝部のやつ、引き取るように苗字を連れて行ったし)
あそこまで露骨に引きはがされれば、さすがの陀宰でも何かあるのだと察する。その『何か』が名前と自分に関係することなのだろうということも。
凝部が『何か』についてどこまで踏み込んでいるのかは分からない。だが少なくとも、陀宰より精通していることは間違いない。
陀宰の胸が重たく沈む。
『何か』はある。
けれど、肝心の名前が抱えている『何か』が、陀宰には分からなかった。まるきり見当すらつかない。名前とは高校二年になるまで話をしたことはおろか、顔を合わせたこともほとんどなかった。
(そもそも『何か』って言われてぱっと思い付くことなんて、知れてるしな……)
陀宰は長く、息を吐き出した。
名前との関わりは、仲間内だと自分が一番薄い自覚がある。ヒヨリはもともと名前と親友だし、凝部もいつのまにか、すっかり名前と気の置けない間柄だ。
陀宰に対しても、名前は最初ほど警戒心をあらわにしなくなってはいる。だが、時折はっきり距離をとられることがあって、陀宰はひそかにその理由を気にしている。
嫌われているのかといえば、多分そういうわけではない。あくまで不自然な距離を保ちつつも、名前は陀宰に好意的だ。男子とそれほど接点のない名前がグループ単位でも一緒にいるという時点で、嫌われているとは思えない。
そうなると、考えられるのはその逆。
(苗字が俺を? けど、そんなことあるか……?)
ともすれば自意識過剰なことを考えて、陀宰は溜息を吐いた。
陀宰の目から見ても、名前の容姿は整っている。ヒヨリを可愛い系とするのなら、名前はきれいなタイプ。一見とっつきにくくはあるが、話してみればそれなりに気さくでもある。
もう少し態度が柔らかければ、さぞかしモテたことだろう。陀宰はひそかにそう思っている。だからこそ凝部と似合うだろうとも思ったのだ。凝部の前での名前は肩の力を抜いているように見え、よく笑う。
けれど、凝部と名前の間に色恋めいたものはないという。名前は凝部のことを「絶対ない」と断言しているし、凝部もまた、名前とはそういうのではないとはっきり言っている。今日のコーヒーショップでの遣り取りからして、凝部との仲を勘ぐられること自体を良く思っていなさそうだ。
(そういや前に、苗字が凝部に告白するのは有り得ないって、凝部自身言ってたっけ)
懐かしい会話を思い出し、また唸った。
もしも名前が陀宰を好きで、凝部が名前の気持ちを知っているのなら――それならば、名前が告白するのは有り得ないと凝部が断言したことにも、一応の説明がつく。
陀宰は視線を、写真のなかの名前に注いだ。撮影のとき、肩と肩がぶつかって、名前が息をのんだ気配がしたことは覚えている。そのときはそれほど気にもしなかった些細な仕草が、今になって気になって仕方がなかった。
(苗字は俺のことが好きなのか……?)
写真のなかの名前は目元をうっすら赤らめて、眉尻を下げて笑っている。
と、陀宰がひとり思索に耽っていると、リビングのドアがばんっと勢いよく開いた。
「メイぴょーん、風呂」
「単語で喋んなよ。つーかメイぴょん言うな」
「通じてんだからいいじゃん」
風呂上りの薄着でずかずか近寄ってきた姉は、無遠慮に陀宰のそばにやってくる。陀宰のバングルが写真を開いていることに目ざとく気付くと、姉は陀宰の横にどかりと腰をおろし、その手元を覗き込んだ。
「それ何見てんの? 写真? 見せてごらーん」
「あっ、おい……!」
ぐっと腕を握られて、拒む隙すら与えられない。ディスプレイの向きを陀宰の腕ごと調整した姉は、「ふーん、クラスの子かぁ」と物見高く言った。
陀宰は溜息を吐く。この姉に捕まったが最後、抵抗すればするだけ痛い目に遭うのは自分だ。こうなれば無駄に抵抗せず、姉が飽きるのを待った方が早い。
陀宰が早々に諦めるのを見越していたのか、姉は遠慮なくディスプレイを覗き込んだ。
「何これ、女子ばっかじゃん。メーたんて実はモテてんの?」
「普通だよ、普通。大体、この一番髪長いやつは男」
陀宰の言葉に、姉が目をまるくした。
「へー、美人な男子もいたもんねぇ。メイメイも昔は可ー愛かったのに、今じゃこんなだもんねぇ。昔はさ、スカートとか穿いちゃってさ」
油断していたところへ、とんでもない話が飛び出してくる。著しく尊厳を傷つけられた気がして、陀宰は反射的に吠えた。
「勝手に穿かせたの間違いだろ!?」
「そうは言っても泣いて喜んでたじゃん」
「泣いて嫌がってたんだよ! 記憶捏造すんな!」
正確には陀宰に当時の記憶はないので、記憶の捏造と断言することはできない。しかし残っている当時の写真データを見る限り、幼い頃から兄や姉のおもちゃになっていたことは間違いなかった。スカートを穿いて喜んだなんて記憶もないから、どうせ姉が自分に都合のいいように言っているに決まっている。
「泣いたのは事実なんだから、喜んでようが嫌がっていようが一緒じゃない?」
めちゃくちゃなことを言う姉に、陀宰はこめかみが鈍く痛むのを感じた。よくぞこの姉の支配下にありながら、ここまでまともに育ったものだと自分を褒め讃えたくなる。
そんな陀宰の苦悩を知らず――慮ろうという態度の欠片すら見せず、姉はまた写真に視線を注ぐ。
「で? メイメイはこの可愛い女子ふたりのうち、どっちが好きなの?」
「はぁあ!?」
「うるさ。だって、好きな女子の写真をひとりでじっくり眺めたくて、こっそりニヤニヤ見てたんでしょ?」
違うの? と聞かれ、陀宰はうっと言葉に詰まった。
今この写真を開いていたのは、なんとなく今日の名前のことが気に掛かっていたからだ。写真に陀宰の求める答えがあるわけではないけれど、ぼんやり考えているうちに、自然と写真を開いてしまっていた。
とはいえこの写真を、これまで何度かヒヨリの顔見たさに陀宰が開いていたことも、また事実。もちろんそこまで姉に知られているわけではないのだが、根が素直で嘘をつけない性分の陀宰は、露骨に狼狽え顔を赤くした。
「……どっちでもいいだろ」
絞りだすように呟いて、陀宰は顔をそっぽに向ける。これ以上おもちゃにされては堪らないが、そこは末弟の悲しい性とでも言うべきか。無理に姉の手を振りほどくこともできない。
「うわ、メイちゃんってば可愛くなーい。いいよ、それじゃああたしが当ててやるから見せてみなよ。ほら、バングル寄越しな」
「おい、やめろよ。でっ痛てててててて、痛ェよ!」
「メイたんが素直にバングル寄越さないからー」
半ば腕を捻り上げるように、姉が陀宰のバングルを毟り取ろうとした。
バングルは緊急時を除き、原則所持者本人にしか操作できないようになっている。しかし一時的かつ生体認証を済ませた所持者のごくそばで使用する分には、身体から取り外しても使用が可能だ。
バングルを奪おうとする姉に、さすがの陀宰も渾身の力で抵抗した。かわりにバングルをつけた手首を、諦めの境地で姉の方へと差し出す。バングルごと取り上げられて勝手にいじくりまわされるくらいなら、腕ごと差し出したほうがまだましだ。
姉は満面の笑みを浮かべると、空いた手で陀宰の頭を乱雑に撫でた。
「そうそう。そうやって最初から素直に言うこと聞いてれば、メイだって怪我しないのに」
「実の弟にその言いぐさ……」
腕を生贄のように差しだして、陀宰は溜息を吐き出した。今後しばらくは、姉がヒヨリとも名前とも出会わないことを祈るしかない。うっかり鉢合わせなどされては、ふたりまで姉の餌食になりかねない。
(こんなことなら部屋に戻ってればよかった……)
そう思っても後の祭り。仕方がないので、陀宰がぼんやりとつけっぱなしのテレビに視線を向けたところで、
「あれ」
姉が不意に、何かに気が付いたような声を上げた。「なに?」と不機嫌な顔を隠しもしない陀宰に構うこともなく、姉は名前の顔をズームアップした。
「やっぱりそうだ、これ名前ちゃんじゃん。うそ、いつこっち帰ってきてたの?」
「あ?」
「これ、名前ちゃんでしょ?」
「そうだけど、つーかいい加減腕放せよ」
姉の力がゆるんだ機を見逃さず、陀宰は腕を振り払う。姉はすでに写真そのものよりも名前に注意が向いているようで、あっけなく陀宰の腕を解放した。
陀宰は素早くディスプレイをオフにして、ほっと安堵の息を吐く。ひとまず目の前の厄介ごとをひとつ片付けたところで、ようやく先ほどの姉の言葉に取り合う余裕ができた。
「なんで姉貴が苗字のこと知ってんだよ。どこかで知り合ったのか? あ、バイト先?」
「はぁ? バイト先って何の話」
「いや、高校生の苗字と姉貴が知り合いになるって言ったら、バイトくらいしか思い付かないから」
「何をとんちんかんなこと言ってんの? あんた大丈夫?」
そう言って姉は訝しげな顔をする。だが怪訝に思っているのは陀宰の方も同じだった。
名前と陀宰の姉では、年齢も違えば性格のタイプもまるきり違う。とてもじゃないが、接点があるとは思えない。それに『名前ちゃん』だなんて、やけに馴れ馴れしい呼び方なのも気になった。
だが、陀宰の抱えた疑問のすべては、いとも容易く氷解した。
「知ってるもなにも、昔名前ちゃんがメイにくっついて回ってたときに、あたしも何回か遊んだことあるじゃん。え、なに? メイ覚えてないの?」
「は? なんだそれ……」
「だから、昔住んでたマンションの、隣の家の名前ちゃんでしょ」
何を当然のことを、と言わんばかりの姉の言葉に、陀宰は絶句した。
(何回か遊んだことがある? 隣の家?)
そんなこと、陀宰はまったく覚えていない。かろうじて引っ越し前に住んでいたマンションの内装くらいは薄ぼんやりと覚えているものの、当時の記憶はほとんど残っていなかった。
身に覚えのない情報に、陀宰は混乱した。姉はそんな陀宰に構わず、ひとり思い出話にテンションを上げている。
「うわー、懐かしい。ていうか今度、家に連れてきてよ」
「は?」
「だってこの写真、あんたと名前ちゃん、付き合ってるんでしょ?」
「ばっ……、つ、付き合ってねーよ……!」
俺が好きなのは苗字じゃなくて、とうっかり余計な事まで口を滑らせそうになる。すんでのところで失言せずに済んだのは、ひとえに陀宰が失言するより先に、姉が「えーっ!?」と声を上げたからだった。
「付き合ってないの!? じゃあなんで一緒に写ってんの!?」
「クラスメイトだからだよ!」
本当の本当に、それ以上でも以下でもない。姉が勝手にテンションを上げるのは構わないが、それで陀宰に見当はずれの嫌疑をかけて、大騒ぎするのはやめてほしい。
(なんで疲れてる日に限って、こうも面倒に巻き込まれるんだ……)
陀宰はがくりと肩を落として、わが身の不幸を嘆いた。
「もう嫌だ、姉貴と話すと本気で疲れる」
「あんたがデカい声出すからじゃん」
「出させてんのはどいつだよ……」
はあ、ともう一度大きな溜息を吐き出すと、横から姉に「ドンマイ」と肩を叩かれる。そっちはちょっとは気にしろよ、とは思うものの、言ったところで屁理屈が返ってくるのは目に見えていた。無駄な労力を割く気も起きず、陀宰はせめてもの意思表示として、もう一度溜息を吐いてから言った。
「つーか、苗字のやつ、俺と知り合いとか幼馴染とか、全然そんなこと言わなかったぞ。あっちこそ俺のことなんか忘れてるんじゃねーの」
「あんた影薄いもんねぇ……」
「余計なお世話だよ!」
何か言うたびに、一回は怒鳴らされてしまう。分かっているのに乗ってしまう自分が嫌だったが、十七年の弟生活で身に沁みついた習性は、もはやそう簡単に抜けるものでもない。
姉はやはり陀宰の怒号も何処吹く風でいる。そして平然と、「ふうん、そうなんだ」と面白くなさそうに呟いた。
「名前ちゃん、覚えてないんだ。あたしのことも覚えてないかな?」
「そりゃあそうだろ」
「でもメイのことは忘れてても、私のことは覚えてるかもしんないし」
「その自信はどこから来るんだよ」
あ、でも。と姉が思い出したように言う。
「それじゃあ、あの時してた約束も、もう無効になっちゃったのかな」
「約束?」
陀宰が首をひねると、姉はうん、と頷いた。
「まあ、約束っていうほど大層なもんじゃなかったかもしんないんだけど。小さい頃、大きくなったら結婚しようねー、みたいな、そんな話してなかった? あんたたち」
「は!?」
今日一番の大きな声が出て、陀宰は思わずソファーから腰を浮かせた。
「け、結婚? 何の話だ!?」
「だから、あんたと名前ちゃんの話」
「待て待て待て! 全然まったく身に覚えがねーよ!」
名前と昔の知り合いだったという時点で、陀宰にとってはかなりの衝撃なのだ。だというのに、その上さらに、陀宰の情報処理能力を凌駕する衝撃の情報が飛び出してくる。
たとえ子どもが交わした他愛ない冗談だったとしても、陀宰にはそんな話はとても信じられない。陀宰はただ茫然と、しれっとしている姉を見つめた。
「ていうか、名前ちゃんの方がメイに懐いていて、大きくなったら好きになってねーだかなんだか、言ってたんだっけ」
だっけ、と言われたところで、まったく覚えていないのだからどうしようもない。
浮かせかけた腰をふたたびソファーに沈め、深々と溜息を吐いた。膝の上に肘をつき、陀宰は頭を抱える。
「……ちなみだけど、俺、それ何て返事したか分かる?」
聞きたいけれど、聞きたくない。だが、何故か聞かなければならないような気がした。
姉は陀宰の様子をとくと眺め、にっと意地悪く口角を上げる。
「それはあたしの口からはさぁ~」
「そういうのは今いいんだよ!」
「ちょっと、それが人にものを頼む態度なのぉ?」
姉が顎を上げ、居丈高に陀宰を睨む。陀宰はぐっと言葉に詰まった。が、たしかに陀宰は姉に頼む立場だ。文句はぐっと堪えて呑み込むしかない。
ごくりと喉を鳴らすと、陀宰は浅く頭を下げた。
「……頼む、教えてくれ……」
「『教えてください』」
「……教えてください」
屈辱に耐えながら、陀宰は絞り出すように言った。
「んー、まあいいか。メーたんがそこまで頼んで、風呂掃除もおつかいも代わるって言うなら」
「それは言ってねえ」
「じゃあ教えないけどいいわけ?」
「……分かった、代わる。だから教えてくれ」
ずいぶん情報料が高くついてしまった。とはいえ、交渉は成立した。姉は組んでいた足を組みなおす。
「メイはねー、告白してくれた名前ちゃんに、めちゃくちゃ上から目線で『覚えてたらな』って言ってたらしいよ」
「っ!?」
「本当、本当。その場に居合わせたお母さんたちが何回か笑い話にしてたから覚えてる」
「最っっっ悪すぎる……!」
いよいよ陀宰は頭を深く抱え込み、めり込みそうなほど轟沈した。
当時の陀宰が名前のことを好きだったのか、それはこの際それほど関係ない。問題は何と答えたかどうかだ。そして幼い頃の自分ならば、もしかしたら大して何も考えずに名前の告白を了承している可能性もあるだろう。陀宰はそう思っていた。
しかし、まさかそこまで偉そうなことを言っていたとは。さすがに予想の範疇を越えている。事実だとしたら顔から火が出るほど恥ずかしいし、名前に対してもこれ以上ないほどに無礼な物言いだ。
「いや、まじか……まじか? 姉貴の話ってどこまで信用できるんだ」
「おいこらメイ。聞いておきながらその言いぐさはどういうことよ」
「つーか苗字が忘れててくれて、まじでよかった……。そんな恥ずかしい話覚えてられたら、どんな顔してあいつに会えばいいのか分かんねーよ」
ひどい話だが、今はそれだけが救いだった。
いくら昔の名前が陀宰を好きだったかもしれなくたって、そんな酷い言い方をする男のことなど、ずっと好きでいられるはずがない。十年の間に告白の返事の酷さに気付き、腹を立てるに決まっている。むしろ告白に対し「覚えていたら」なんて返された時点で、名前の恋愛感情が永遠に凍結した可能性だってある。
もしも名前が覚えていたら、まず間違いなく名前は陀宰に幻滅していただろう。だから、忘れていてくれて助かった。
けれど、陀宰がほっと胸を撫でおろしたのも、束の間のことだった。
「それ、名前ちゃんは本当に忘れてんのかな」
姉が何の気なしというように呟く。陀宰は「え?」と顔を上げた。
「忘れてるって、名前ちゃん本人が言ったの?」
当然のことを確認するように問われ、陀宰は困惑した。
「苗字から何も言ってこないってことは、要するに向こうも忘れてるってことだろ」
もしも名前が昔のことを覚えているのなら、黙っている理由などないはず。だから何も言ってこないということは、名前も陀宰のことなどとうに忘れ、忘れたことすら忘れている。そう考えるのが自然だ。
(本当は苗字は俺のことが嫌いで、昔の話なんか蒸し返したくもないって推理も一応成り立つが)
名前から嫌われてはいなさそうだという、根拠とも言えない根拠をもとに、陀宰はその推理を却下した。
姉は思案するように、顎に指を添えて唸る。
「うーん。でも、覚えてて黙ってるだけかもしれないよ」
「なんでそう思うんだ?」
「だって、メイが忘れてるなら、向こうからは言い出せないでしょ」
その言葉に、陀宰はぎくりとした。
「それこそメイの言うとおり、名前ちゃんにとっても、こっ恥ずかしい思い出でしかないわけだろうし。それなのに『メイくんは忘れてたけど私は覚えてるよ!』なんて、堂々と言えるタイプじゃなさそうじゃん、名前ちゃん。今の名前ちゃんのこと知らないから、そこは何とも言えないけど。そもそも覚えてたらなって言ったメイが忘れてるわけだし」
どうなの、と問われて、返答に窮した。
もしも、再会した陀宰が昔の約束など何もかも忘れていたら。あまつさえ、自分の親友に片思いなどしていたら。
(苗字は黙っているだろうな……)
なんとなくだが、陀宰もそう思った。名前ことをそれほど深く知っているわけではない陀宰ですら、そう思った。
「ま、本当に忘れてるならそれはそれでいいんだけど」
姉はそう言うと、組んでいた足をほどいて立ち上がる。
「いっそ、今のメイのことなんか全然好きじゃない、約束なんかなかったことにしたいーって理由で、名前ちゃんが忘れたふりしてるとかならいいんだけど。もし全部忘れてるメイに気を遣って何も言えないでいるんだったら、名前ちゃん可哀相だね」
言いたいことだけ言って去っていく姉に、陀宰は返す言葉もない。頭のなかでは今しがた投げつけられた姉の言葉と、名前の時折見せる切なげな、もどかしげな笑顔がぐるぐると回り続けていた。
06
クリスマス当日。今年は滅多にないほどの暖冬らしく、ホワイトクリスマスなど望むべくもないという。とはいえクリスマスにロマンチックな予定があるわけでもない私にとっては、せいぜいが雪で交通機関が麻痺しなくてよかったな、と思う程度だ。
バイトを終えて着替えを済ませ、さて家にでも帰るかとバイト先を出たところで、バングルが珍しく、メッセージではなく音声通話リクエストを表示した。
『いやー、ごめんね? 冗談半分でケイちゃんにリクエストしたクリスマスケーキを、まさかまさかで本当にケイちゃんが作ってきてくれちゃって』
バングルの内臓スピーカーから聞えてくる凝部くんの声。終業式ぶりだから、それほど久し振りでもないのだが、スピーカーを通して聞いているためか、私の知る凝部くんの声とは印象が微妙にずれている。
凝部くんの背後では『お前がクリスマスなのにケーキを一緒に食べる相手も、食べるケーキもないとかこれみよがしに言ってきたんだろうが!』という、聞き覚えのない声の、おそらくは正当であろう文句が響いている。
『あーもー、ケイちゃんうるさーい。とにかくそういうわけだから。今ケーキを食べるのに付き合ってくれそうな相手に、片っ端から電話かけてるんだけど、名前ちゃんもバイト終わったなら一緒にどう?』
「なるほど、それが本題」
『そゆこと』
そもそも、一体どうして凝部くんが私のバイトの終了時刻を把握しているのか、まったくもって不可解だ。だが、凝部くんならばそういうこともあるのだろう。私は勝手に納得した。
凝部くんの背後に聞こえる聞き覚えのない声の主が、噂に聞いたケイちゃんとやらか。何やら猛然と怒り狂っているが、凝部くんはどうやら受け流しているらしい。凝部くん相手にこうも真剣に怒り続けられるとは、かなり真面目な性格の男子なのだと推察する。
『名前ちゃん甘いもの好きだよね?』
「好きだけど」
道のわきに避けて足を止めると、ふむ、と私は思案した。
「……ちなみに聞くけど、私は電話、何番目なの?」
『七番目☆』
「ななばん……」
がくりと脱力した。思っていたより、かなり優先順位が低い。大体、凝部くんに私より先に思いつく友人が六人もいただなんて信じられない、驚きだ。いや、ケイちゃんとやらと私の面識がないこと、彼が女嫌いだという情報を踏まえれば、この優先順位はさもありなんというべきなのか。
気を取り直し、私はさらに質問する。
「それで、実際に参加してる人数は?」
『僕とメイちゃんと、今にも帰りたそうなケイちゃんと、名前ちゃんで四人だよ』
六人のうち陀宰くん以外の五人に振られ、私にお鉢がまわってきたということか。
ヒヨリちゃんは、と聞こうとして、そういえば彼女は萬城くんちと合同のクリスマスパーティーをするのだと思い出す。クリスマス当日にいきなり招集をかけられても、案外みんな捕まらないものなのかもしれない。自分のことを棚に上げ、そんなことを考える。
「行くのはかまわないんだけど、私、ケイちゃんと面識ないよ」
『あー、それ? 大丈夫大丈夫。話しかけなければ噛みついてこないから』
「ケイちゃんは猛獣か何かなの?」
『当たらずも遠からずってとこ。触らぬケイちゃんに暴言なしだから、お互いシカトし合っといてくれればいいよ』
「そんなむちゃくちゃな……」
そう言いつつも、話をしなくていいというのであれば、それはそれで気楽かもしれないと思う。少なくとも陀宰くんと凝部くんをあいだに挟むのだから、サシで会話をしなければならないということもない。
(うーん、どうしよっかな)
寒さに首を縮こませながら、私は行くべきか断るべきか、真剣に悩み始めた。
普通に考えれば、行かない。バイトが終わって疲れているし、ケイちゃんとやらと知り合いたいわけでもない。知らない男子のつくったケーキも、別に食べたいわけではない。
それに凝部くんの家にいけば、陀宰くんとも顔を合わせることになる。陀宰くんとはあの日以来うっすらと気まずく、その気まずさを拭うことなく冬休みに突入してしまった。新学期までにはどうにか気持ちを切り替えようと思っているけれど、今はまだ、陀宰くんと顔を合わせて心乱されない自信がない。
ただ、凝部くんには先日、話を聞いてもらった恩がある。恩はそのまま借りと言い換えてもいい。いつまでも借りを残しておくのはすっきりしない。今年のうちに返せる借りは返しておきたい気持ちもあった。
「……分かった。行くよ」
沈思ののち、私はそう答えた。すると凝部くんがスピーカーの向こうから『え、いいの?』と意外そうなリアクションを返してくる。
「なんで?」
『だって、男三人に女の子ひとりだよ?』
「え、今更? うちふたりが陀宰くんと凝部くんで、残るひとりとは話さないようにしなきゃいけないくらい女嫌いなんでしょ? じゃあ大丈夫なんじゃない? 行かなくていいなら帰るけど」
『いやいやいや、ようこそいらっしゃいませー』
調子のいい凝部くんだ。私は溜息を吐いた。そうこうしている間に、バングルがメッセージを受信する。確認すると本文はなく、住所だけが記されていた。
『それ、うちの住所。迷ったら辺りで一番高いマンション目指せば大丈夫』
屈託なく言われ、ついつい乾いた笑いが漏れた。殿上人の発言だ。
『名前ちゃんのバイト先からなら、三十分もあれば着くかな』
「そうっぽい。なんか行きがけに買ってくものある?」
『あー、ちょっと待って』
凝部くんが買ってきてほしいものあるー? と誰かに問いかけている声がする。数拍のあと、返事があった。
『何か飲み物お願いしまーす。チョイスは名前ちゃんに任せるよ』
「了解。嫌いなものある?」
『人参だって』
「飲み物の好みの話をしてるんだよ」
答えたのはたぶん、陀宰くんだな。そう思うとおかしくなってしまう。バングルでの通話をオフにすると、私はひとり笑いを噛み殺しながら、飲み物を調達すべくコンビニへと向かった。
◇◇◇
買い出しを済ませ、私はマップのナビゲーションシステムに従って、凝部くんの家へと向かった。バスの時間がちょうどよかったこともあり、凝部くんとの通話からニ十分かからず現地に到着する。
エントランスで開錠してもらい、エレベーターに乗り込む。目的階にしか止まらないエレベーターは、さすがに高級マンションという豪奢なつくりと内装だ。鏡張りになった壁面でそれとなく身支度を整えながら、こんなことになるのなら、もう少し可愛い恰好をしてくればよかったと思った。
「バイトおつかれー。いらっしゃい」
ドアを開けた凝部くんは、特段労わるつもりもなさそうな声で私をねぎらい、私を家の中へと招き入れた。
「あ、靴は脱ぐんだ。豪華マンションだから室内も土足なのかと思ってた」
「室内ははだしのが気持ちよくない?」
「そういう感覚的な話なんだ」
玄関には目を引くビビットピンクのスニーカーの横に、センスのいい革靴と、見覚えのあるスニーカーがきちんと並んでいる。
「ケイちゃんとメイちゃんならもう来てるよ」
私の視線の先を見下ろして、凝部くんが言った。私は靴を脱ぎ、そういえば、と手に提げていたコンビニ袋を凝部くんに手渡した。
「これ、飲み物。クリスマスだからシャンメリーと、あとお茶も買ってきたけど」
「シャンメリーって。もしかして思いのほかクリスマスに乗り気のかた?」
「だってケーキ食べるんでしょ? あと、はい。これはついでに買ったプレゼント」
コンビニ袋に手をつっこんで、むんずとそれを掴み取る。手にしたもののうちひとつを、凝部くんに渡した。
「何?」
「ガム」
私の返答に、凝部くんは「えー……」と残念そうな声をあげる。
「クリスマスにガムって。どういうチョイスなの」
「消え物で困らないかなと思って」
「それはそうだけど」
「陀宰くんとケイちゃん? にも買ってきたけど。ていうかケイちゃんの本名何だっけ」
「獲端ケイトくんだよ。花も恥じらう十七歳」
「獲端くんね。覚えた」
事前に聞いていた情報では、獲端くんはどう考えてもフレンドリーなタイプではない。あだ名で呼ぼうものなら、その場で切って捨てられかねない。
ともあれ、私はお呼ばれした側、ゲスト、客人だ。最悪、トラブルが起こればホストの凝部くんに全部どうにかしてもらおう。そんな無責任なことを考えつつ、私は凝部くんのあとについて部屋のなかに上がった。
凝部くんが開けてくれたドアから中に入ると、ドアの向こうは広々としたリビングダイニングだった。部屋の内装も調度品も豪華そのものだが、凝部くんの印象とはややちぐはぐな感じだ。親御さんの趣味なのだろう。
全体的に生活感は薄い。家族の私生活が透けて見えるものは、何も置かれていなかった。そのわりに乱雑な印象を与える――そんな部屋だ。
「お邪魔しまーす」
室内に視線を走らせながら言う。ダイニングテーブルには陀宰くんと、見たことがあるような無いような、茶髪に眼鏡の仏頂面の男子が向かい合ってついていた。
陀宰くんは「よう」と返事を返してくれるが、獲端くんは入室してきた私と目を合わせようともしない。これは凝部くんの言う通り、お互いシカトし合う感じになりそうだ。
「そのへん適当に上着とか荷物とか置いていいから。ハンガーとラックもご自由に」
言われるままに従っていると、ふと背後に視線を感じる。獲端くんは私を無き者として扱っているから、この視線はおそらく陀宰くんだろう。
ここに来るまでの道中、陀宰くんへの第一声は決めてきた。ごほん、と小さく咳払いをして、私は陀宰くんの方へと振り向いた。
「陀宰くんも大変だね、おつかれさま」
「ああ、うん。……そっちもおつかれ。バイトだったんだろ」
「うん。急に着信あって呼ばれたから、何かと思ってびっくりしたよ」
「俺もだよ。凝部から急にメッセージ来て、緊急事態だから今すぐ来いって呼びつけられた。俺は家にいたから、まだよかったけど」
「でも事情も聞かされずなら、それは災難だったね。私には一応事情の説明があったよ」
「さすがに女子相手だから、そこまでの無茶は凝部でもしないんじゃないか?」
「凝部『でも』って何よ、僕はいつでもジェントルメンなんですけど」
私と陀宰くんの会話に割り込む凝部くん。
「ジェントルメン、手洗いたいんだけど洗面所借りていい?」
「あー、いいよ。出てすぐ右ね」
はーい、と軽く返事をして、私はリビングを離脱する。後ろ手でドアを閉めた瞬間、はあぁ、と長い溜息が口から勝手にこぼれ出た。
(よかった、全然いつも通りにできた)
緊張が肩から抜けるのが自分で分かった。バスの中でも歩きながらも、何度も何度も陀宰くんとの会話のシミュレーションはした。それがすんなりとうまくいって、ほっとした。
(まあ、大丈夫か。というか陀宰くんとの気まずいこととか恥ずかしいこととか、全部なかったことにするのはこれで二回目だし)
自嘲めいたことを考えて、洗面所で手を洗い流した。水を吐き出す金色の蛇口が、高い天井の照明をやたらときらきらしく反射していた。
リビングに戻ると、さっきまで何も置かれていなかったテーブルの上に、コップと取り皿とカトラリー、それに立派すぎるほど立派な、市販品のようなクリスマスケーキがでん、とお出ましになっていた。
なんと豪華な二段ケーキ。側面を生クリームのデコレーションが華やかに飾りつけ、トップにはフルーツが美しい断面をあらわに彩っている。可愛らしいサンタクロースの砂糖人形まで載っているのだが、これは凝部くんのリクエストを受け、獲端くんがわざわざ買い求めたものなんだろうか。
想像していたより十倍くらい、しっかりしたクリスマスケーキだった。思わず顔を近づけ、まじまじと見てしまう。
「めちゃくちゃすっごい。売り物みたい……。これ手作りなんですよね?」
私が尋ねると、獲端くんは不機嫌そうに私を睨む。それでも質問にはちゃんと答えてくれるようで、
「……凝部からそう聞いてきたんだろ。知らん人間の手作りだし、食いたくなきゃ食わなくていい」
そう言って、今度はふいとそっぽを向く。
「ケーキ好きだから嬉しいです。いただきます」
正直、ここに来るまでは多少そういう気持ちもあった。けれど獲端くんは見るからに几帳面で清潔そうだ。何よりこの立派で美味しそうなケーキを前にして、食べないなんて選択肢はありえない。
私がテーブルにつくと、獲端くんはいそいそとケーキをカットし始める。こういうことは、手を出さない方がいいんだろうか。うかがうつもりで陀宰くんを見ると、無言で頷きを返された。なるほど、そういうことらしい。
そんな私たちの遣り取りに、凝部くんが言葉を挟んだ。
「ていうか、なんで名前ちゃんはケイちゃんに敬語なの? タメなんだし、別に普通に話せばよくない?」
「馴れ馴れしいのよくないかなと思って」
それを聞いた獲端くんが、ふん、と鼻を鳴らす。
「えー? でも僕には最初からタメ口じゃなかった?」
「だって凝部くんは最初から私に馴れ馴れしかったじゃん……」
「友好的とかもっと言いようあるでしょ」
「いや、あれは間違いなく馴れ馴れしいって感じだったよ」
夏休み明け、最初にヒヨリちゃんから紹介されたときの凝部くんを思い出し、私はしみじみ答えた。そもそも紹介はされていなかったような気もする。ヒヨリちゃんに紹介されるより先に、凝部くんが勝手に自己紹介をしたのだったかもしれない。
凝部くんの最初の印象は、正直に言えばあまりよくない。とはいえそれは向こうも同じだろう。なので過去の話はそのくらいに留めて、獲端くんのケーキに集中することにした。
「シャンメリー飲む?」
凝部くんが、およそ凝部くんらしくない気を回す。一応、今日のホストとしての自覚はあるようだ。
「ううん、私は飲みかけのコーヒーあるからいいや」
コンビニに立ち寄った時に買ったコーヒーがまだ残っているのでそう言うと、凝部くんが呆れたように顔を顰めた。
「自分でシャンメリー買ってきたのに?」
「洗い物増えるし、どうせすぐお暇するし」
「そう言わず一杯くらい飲んでいきなよ。みんなで乾杯しておかないとさ」
「しておかないと?」
「楽しそうなクリスマスパーティー風景を、あとから不参加だった人たちに見せつけるための、写真撮影ができないじゃん」
「誰が羨むんだよ、ケーキ食ってるだけの会を」
「だからシャンメリー開けるんでしょ」
獲端くんの鋭い舌鋒も、凝部くんにはまるで効果がないようだった。凝部くんは「まあまあ、とりあえず乾杯はしておこうよ」と席を立ち上がる。
「手伝おうか?」
私が声を掛けると、凝部くんはゆるく首を横に振った。
「ん、大丈夫だよ。ケイちゃんが手伝ってくれるから☆」
「はぁ? お前、ケーキ作らせて持ってこさせるだけじゃなく、給仕までさせんのかよ。そいつがやりたいっていうなら、やらせりゃいいだろ」
「でもケイちゃん、初対面の女子がいれた飲み物とか、絶対飲みたくないでしょ」
「くっ……」
獲端くんが、心底忌々し気に私を睨み、それから舌打ちした。別に毒なんか仕込んだりしないけど、という言葉が喉元まで上がってきていたが、どうにかぐっと呑み込み黙る。ここで言い返したところで、獲端くんがそれもそうだな、などと言ってくれるはずないことは分かり切っていた。
凝部くんと獲端くんが、揃ってキッチンへと消える。残されたのはカットされた獲端くん特製ケーキと、それを食べるための食器一式、そして私と陀宰くんだった。
私が部屋に入ってきたとき、陀宰くんと獲端くんはすでに向かい合って、テーブルについていた。獲端くんの隣には座るべきではないだろう、という私なりの配慮もあって、現在私と陀宰くんは隣同士でテーブルについている。
「陀宰くんも凝部くんに呼ばれたんだね」
さっきの話の繰り返しになるが、ほかに適当な話題も思いつかない。半ば惰性で話しかけると、陀宰くんは何故か驚いたように肩を揺らして「え、あ……うん」と曖昧な返事をした。着ているセーターの下で身体がぎこちなくなっているのが分かり、見ているこちらが居た堪れない気分になってくる。
「そういえば陀宰くん、クリスマスは友達と遊ぶって言ってなかったっけ」
「そっちは夜からになったから、昼間は凝部に付き合おうかと」
「付き合いいいんだね。予定のはしごって大変じゃない?」
「ああ、……いや、どうだろうな」
またしても曖昧な返事が返ってくる。心ここにあらずな様子の陀宰くんに、私はそれ以上話しかけるのをやめた。そういう時だってあるだろうし、そもそも陀宰くんもまだ、先日の気まずさを引き摺っているのかもしれない。
陀宰くんに話しかけるのを諦めた私は、そのぶん自分のなかで思考を重ねる。
陀宰くんのことを『付き合いがいい』と言ったけれど、どちらかといえば陀宰くんには『面倒見がいい』という方が似合うのかもしれない。面倒見がよく根気がなければ、あの凝部くんと付き合えない。私はといえば面倒見も悪く根気もないので、凝部くんとの付き合いはぐだぐだだ。
ヒヨリちゃんにしても陀宰くんにしても、驚くほどに人がよくて、他人に親身だ。凝部くんが親切でないとはいわないが、ヒヨリちゃんたちは年季が違うというか、自然体にそういう親切をやってのける。あれほど押しつけがましくならないのは、一種の才能だと思う。
きっとヒヨリちゃんは、小さいときからああいう性格なのだろう。幼馴染の萬城くんの言動を見ていれば、嫌というほど察せられる。そのことに悪感情を持ってはいない。私にはできないことをしているという意味で、ただただすごいと思うばかりだ。
陀宰くんはどうだろう。
少なくとも十年前の陀宰くんは、ヒヨリちゃんのような人ではなかった。けれど今の陀宰くんは、やはりヒヨリちゃんと何処か似ていると思う。
そんなことを考えぼんやりしていると、遠慮がちに声を掛けられた。
「……あのさ」
「ん?」
声につられて陀宰くんの方を向く。目線を向けた先には、固く強張った表情で私を見る陀宰くん。白目がちな眼が、言葉を探し、選ぶように視線をやや彷徨わせている。
「陀宰くん?」
呼びかけると、陀宰くんの喉がごくりと上下した。首を傾げて見つめる私に、陀宰くんは眉根をむっと寄せている。その表情がもどかしげで、苦しげで、私は思わず、目を瞬かせた。
(この間と同じだ)
思い出されるのは、あの冬休み前の夕方のこと。あのときも今日と同じく、陀宰くんは何かもの言いたげな表情をしていた。私を困惑させる切実な色の瞳が、ただならぬ気迫を奥底ににじませて私を見つめている。気迫が前面に出てこないのはきっと、陀宰くん自身がどうすべきか、まだ決めあぐねているから。
(だけど、陀宰くんに何を迷うことがあるんだろう……?)
一体全体、どうして陀宰くんがそんな顔をするのか。あの日も今日も、やはり私には皆目見当がつかなかった。陀宰くんがそんな表情をする理由なんか、どこにも、ひとつもないはずだ。いつだって、迷っているのは私の方なのだから。
それでも、切実な瞳で見つめられれば、否が応でも反応してしまう。本当はもう胸の奥底に沈めておきたい感情を揺さぶられ、全身がその感情の動きに引きずられてしまう。
心臓が徐々に鼓動を速めて、胸の中で暴れまわっている。鼓動を打つたび痛いくらいどきどきして、けれど見つめられている理由はやはり分からず、笑顔のままの頬が引き攣る。
「苗字――」
低く掠れた声で名前を呼ばれると、耳朶が燃えるように熱くなった。髪をおろしていてよかったと思う。千切れそうに赤く熱くなった耳の先を、陀宰くんにだけは見られたくない。
(凝部くんたち、まだ戻ってこないの……?)
自分が唾を飲み込む音すらやけに大きく耳につき、呼吸が勝手に浅くなる。これ以上は心臓がもたない。陀宰くんから視線をそらそうとした瞬間、薄く開いた陀宰くんのくちびるから、声がこぼれた。
「なぁ、あのさ、」
「……なに?」
「いや、なんていうか……」
俺、と陀宰くんが続ける。まさにそのとき、陀宰くんの声を遮るように、ポンッ、という軽やかな破裂音が唐突に響いた。
「ひえっ!?」
気の抜けた音が、張りつめていた緊張に穴をあける。私を見る陀宰くんは、大きく目を見開いていた。彼は私と違って悲鳴こそ上げなかったが、それでも結構な驚きだったに違いない。おそらく驚いた顔をしている私と、間違いなく驚いた顔をしている陀宰くんが、間の抜けた顔を突き合わせ、お互いを見つめ合う。
キッチンからは、「ちょっ、やばいやばい、待ってケイちゃんタオルタオル」「うわっ、おい瓶を揺らすな傾けるな! こぼれる!」「あははは、ケイちゃん靴下濡れた?」「最悪……」と何とも楽しそうで騒々しい会話が聞えてくる。
ふと、自分がぎゅっと手のひらを握りしめていたことに気が付く。ゆっくりと指を開くと、手のひらがじっとりと汗で湿っていた。陀宰くんの視線によって支配されていた全身が、はからずも今の漏れ聞こえてきた騒動のおかげで、緊張から解放されたらしい。
ほどなく、笑顔を貼り付けたままの凝部くんが、キッチンからひょこりと顔を出した。
「ごめーん、シャンメリーなんだけど、こっちで楽しく栓開けちゃった☆ でも楽しいところを独り占めしたケイちゃんを、どうか責めないでやって?」
「栓抜いたのお前だろーが」
キッチンから獲端くんの抗議が聞こえる。
「あれ、そうだった?」
凝部くんはわざとらしくすっとぼけた。ぺろりと赤い舌を出してのウィンク付きという、気前の良さ。もとの顔立ちが整っているだけに、ふざけた表情でもやたらと様になっている。
「名前ちゃんとメイちゃんも栓抜きやりたかった?」
「いや全然」「俺はいい」
ほとんど同時に声を揃えた私と陀宰くんに、凝部くんは不満げに口を尖らせた。
「ちょっとは羨ましがればいいのに。ふたり揃って、してやり甲斐がないってゆーか」
「『してやり甲斐』の意味間違えてないか?」
陀宰くんの冷静なツッコミに、凝部くんがまたしても「てへ」と笑顔をかました。もしかしたら凝部くんも、クリスマスパーティーに少しだけ浮かれているのかもしれない。普段から浮いたテンションの凝部くんでも浮かれることがあるんだな、と微妙に失礼なことを思う。
獲端くんに呼ばれ、凝部くんがふたたびキッチンに引っ込む。その隙に、私は疲れた顔で溜息を吐いている陀宰くんを観察した。
先ほどの痛いくらいに張りつめた緊張は、今やすっかり鳴りを潜めている。私のどきどきも治まって、表面上は私も陀宰くんも、まったくいつもの通りに戻っていた。
「陀宰くん、さっき何か言いかけてなかった?」
あえて軽い調子で蒸し返せば、陀宰くんは困ったように視線を左右に泳がせる。そして一度ぎゅっとくちびるを引き結ぶと、
「……いや、やっぱ何でもない」
そう言って、それきり口を閉ざしてしまった。
不揃いなガラスの皿を四つ載せ、お盆を持った獲端くんと凝部くんが戻ってきたのは、その直後のことだった。
「お待たせしましたー☆」
自分はちゃっかり手ぶらで戻ってきた凝部くんが、浮かれたように声を掛けてくる。獲端くんがテーブルに置いたお盆を覗き込み、私は思わず感嘆の声をあげた。
「わっ、何これすごい! フルーツポンチ?」
「僕が非常食としてため込んでるフルーツの缶詰があったから」
ガラスの皿の中にはしゅわしゅわと細かい泡をたてるシャンメリーが注がれ、そこに色鮮やかなみかんや桃、さくらんぼが沈んでいる。てっきりグラスにシャンメリーを注ぐだけだと思っていたら、こんなにも上等にアレンジしてもらえるとは。私だけでなく、陀宰くんも感心したように「すごいな」と呟く。
「別にすごくも何ともねーよ。こんなもん即席だ。大体シャンメリーなんて、普通に飲んでもそこまで美味しいもんでもないだろ」
「その発言はさすがに、買ってきてくれた名前ちゃんに失礼すぎない?」
「いいよいいよ、私もご相伴にあずかることができてありがたいです」
シャンメリーの味はともかく、普通に飲むよりフルーツポンチにしてもらった方が嬉しいのはたしかだ。獲端くんは満更でもなさげに、いそいそと皿を各自の前に並べる。そんな様子を微笑ましく眺めながら、私もケーキを取り分けた。
獲端くんにはケーキからフルーツポンチから、何から何までお世話になってしまったので、せめて後片付けくらいは私がさせてもらうことにした。「え? もしかして片付けって僕もやんなきゃいけないの? うっそ、めんどー」という凝部くんをキッチンに押し込み、ふたりで洗い物をする。
洗い物くらい、本当ならば私ひとりでもよかった。けれど、そうすると陀宰くんが「俺も手伝う」と立候補してきそうな気がしたのだ。
さっきの出来事があった手前、陀宰くんとふたりで洗い物をするよりは、やる気のない凝部くんとふたりの方がまだしも気楽だった。そもそも私は凝部家のキッチンのことなど何もわからないから、家主に同席してもらった方が気楽でもある。
「て言っても、キッチンの物の配置なんてどこの家でも大体一緒でしょ。名前ちゃんひとりで大丈夫だって。洗い物だってどうせ食洗器使うし」
「でも食洗器に投入するのは人間でしょ」
「ふたりも必要?」
「私が凝部くんと一緒にいたい……っていうのじゃ、だめ?」
「こういうときだけ僕を都合いい男扱いするんだからさー、もー」
凝部くんは文句を言いながら、キッチンに置かれた簡易椅子に腰をおろした。本当に手伝おうという気はないらしく、私に言われたからここにいるだけという姿勢を崩すつもりはないようだ。
仕方がないので、私ひとりが黙々と手を動かして片付けする。凝部家にはどうやら手洗い用の洗剤を備えていないらしい。凝部くんに聞くと、使用した食器はいつも予洗いせずに食洗機に突っ込んでいるとのこと。ここは凝部家のやり方に従い、さっと洗い流した皿やカトラリーを、食洗器の中にそのまま並べていくことにした。
リビングからは、ほとんど物音らしい物音は聞こえてこない。陀宰くんも獲端くんも、そう声を大きくして騒ぐタイプではないからだろう。
獲端くんはたびたび怒鳴ったりもしているが、それは凝部くんがやたらと獲端くんを煽るからだ。凝部くんが不在なのであれば、落ち着いていて静かな人なのだと思う。
「さっきメイちゃんとふたりで何の話してたの?」
その凝部くんが、おもむろに言う。特段潜めた声でもないけれど、リビングのふたりが聞き耳でも立てていない限り、向こうまで聞こえはしないだろう。
水で皿を洗い流しながら、「大した話はしてないよ?」と私は答える。
「強いていうなら、世間話かな」
「そのわりにはメイちゃんの表情が暗いんだけど」
「そうかな。そう言われるとそうかも……?」
とはいえ陀宰くんは普段から、そこまで表情豊かなタイプでもない。私はいまいちぴんと来ず、首をひねった。
「凝部くんに呼び出されたのが、実は面倒くさかったんじゃないの?」
「いやいや、メイちゃんは面倒くさそうな顔をしながら、結構自分からいそいそやってくるタイプだから。マブダチの僕には分かる」
「ふぅーん」
「拗ねないでよ。僕のがメイちゃんと付き合いが深いからって」
「拗ねてないですけど」
それを言うならむしろ、ぽっと出でヒヨリちゃんと旧知の仲のような顔をされていることの方が、私にとってはよほど業腹だ。萬城くんが何故、嫌そうにしつつも平然と受け容れているのか、はなはだ理解に苦しむ。
ヒヨリちゃんとの仲はともかく、私よりも凝部くんの方が陀宰くんと親しくしているというのは、紛れもない事実。そして凝部くんの観察眼は、実際のところ馬鹿にできない精度を持っている。
凝部くんをして陀宰くんの表情を暗いと評するのならば、多分それは正しいことなのだろう。
「あの時たしか、何か言おうとしてたんだよね……」
凝部くんと獲端くんが戻ってくる直前の会話を思い出し、私は記憶を遡る。
他愛のない世間話、雑談をしているうちに、陀宰くんが何か、真剣な表情になって。理由はよく分からないけれど、なんだか意味深な空気になったのだ。ぞわぞわして、落ち着かないような。
「何かって何?」
「分かんない。結局聞かなかったから」
もしかしたら陀宰くんは、私に何か言いたいことがあったのかもしれない。けれどその言葉を私が聞くことはなかったし、あとから一応尋ねなおしてみても、やっぱり陀宰くんは口を割らなかった。
過程がどうであれ、陀宰くんが話したくないというのであれば、私も無理に聞き出そうとは思わない。陀宰くんにだって、話したくないことのひとつやふたつくらいあるだろう。
「……もしかして、名前ちゃんのこと思い出したんじゃないの?」
凝部くんの思い付きを、私は軽く笑い飛ばす。
「いや、それはさすがにないでしょ」
「分かんないよ? なんてったって、クリスマスマジック☆」
「いらない希望は持たないことにしてるので」
「希望ねー」
思い出されることは、名前ちゃんにとっての希望なんだ? とは――デリカシーのないことこの上ない凝部くんではあるけれど、さすがにそこまでは言わなかった。ただ、彼がそう言いたげなのは浮かべている表情から明らかだ。
(失言、だったかな……)
自らの言葉と凝部くんのリアクションを反芻し、考える。そして失言というよりはむしろ、欺瞞という方が正しかったな、と胸中で結論づけた。
もはや私は陀宰くんに対し、思い出してほしいなどとは微塵も思っていない。また思い出されたところで、今になって何がどうなるとも思っていない。
「あ、でも凝部くんには感謝してるよ。クリスマスに陀宰くんに会えると思ってなかったし」
微妙に話題の向きをずらせば、凝部くんも心得たもので、わざわざ深追いしたりはしてこない。意地の悪い笑顔をにっと浮かべて、凝部くんは私に尋ねた。
「電話したのが七番目でも?」
「七番目でも」
たとえ七番目でも、何かあった時に思い浮かべてもらえるというだけで、私にとってはありがたい。微笑みを浮かべてそう言い返せば、凝部くんは呆れたとでも言いたげに鼻に皺を寄せた。
◇◇◇
結局私たちが凝部くんの家をお暇したのは、冬の日がすっかり沈み切り、それからさらに、数時間経ってからのことだった。「寒いから見送りはパス」という凝部くんに別れを告げ、私たちはぞろぞろとマンションを出た。
クリスマスの夜だけあって、街中は浮かれムードで満ちている。凝部くんの家は繁華な通りに近いため、人々の浮かれた喧噪が、冬風に乗ってかすかに聞こえてくるようだ。
利用するバス停が違う獲端くんとはマンションを出たところで別れ、私と陀宰くんはふたり並んで近くのバス停へと向かう。制服と違い私服には防寒処理が施されておらず、スカートからはみ出した足が凍て風に撫でられるたび、ぶるりと身体が大きく震えた。
「なんだかんだで結構楽しかったね」
バス停へ向かう途中、私がそう声を掛けると、隣を歩く陀宰くんは怪訝そうな表情を浮かべ、私を見下ろした。
「そうか……? 獲端とか露骨に、苗字に対して態度悪かったと思うぞ」
「でも獲端くんのことは最初から女嫌いって聞いてたから、思ったより大丈夫だったなって自分では思うよ。陀宰くんと凝部くんがうまく間に入ってくれてたし」
たしかに獲端くんには終始つっけんどんな――というかかなり冷ややかな態度を向けられたが、事前情報から覚悟していた甲斐あって、それほどダメージは受けなかった。会話をするしても、三人全員に話すように主語をぼかせば、獲端くんも最低限の返答はしてくれた。
何より食べるものに関して、獲端くんは常にこまごまと面倒を見てくれていた、という印象が強い。だからこうして振り返ってみても、獲端くんの印象は実際それほど悪くなかった。
「別に私個人が何かして嫌われてるわけでもないし、そういう人だと思えばね」
「お前、偉いな……」
「そう? 『女嫌いの人』って属性で見てるぶん、獲端くんからしたら逆に嫌だったかもしれないけど。まあそこはお互い様だね」
正直に言えば、こちらの苦手意識をものともせずにぐいぐい来る、初期の凝部くんの方が、私はよほど苦手だった――とはさすがに言わずにおいた。せっかく陀宰くんが少し感心してくれたのだ。わざわざ自分と凝部くんを下げる必要はない。
バス停に到着する。
ちょうど前のバスが行ってしまったばかりのようで、バス停には私たち以外に人影はなかった。それでも周囲には店も多く、街灯もそこかしこに配置されているおかげで、夜の暗闇のさなかにいる不安さはかなり薄い。むしろ夜闇が適度に互いの姿を覆ってくれているおかげで、ふたりきりであっても陀宰くんを意識しすぎないで済むのがありがたいくらいだ。
バス停のベンチに腰をおろす。プラスチックの座面から凍えるような冷気が染み入って、思わず自分の身体を抱き抱えるように腕を回した。寒さから気を紛らわすべく、私は口を開く。
「そういえば陀宰くん、夜から用事があるって言ってたけど、時間は大丈夫なの?」
たしか、中学のときの友人たちと遊ぶ約束があると言っていたはずだ。そのことを思い出し尋ねると、途端に陀宰くんは気まずげに視線をふいと逸らした。
「ああ、まあ、うん。というか、そっちは行かなくてよくなった」
「え? なんで?」
「いや、元々そういう感じのゆるい集まりなんだよ。せっかく凝部や獲端や苗字とケーキ食べてんのに、途中で切り上げてそっち行くとか、それもどうかと思うし」
「えぇ……」
そんなふうに言われてしまうと、なんだかこちらの方が恐縮し、申し訳ない気持ちになってしまう。自分で言うのも悲しいが、今日のクリスマスパーティーに、陀宰くんが昔の友人との約束を蹴るほどの価値があったとは到底思えない。
「そっちの、元々あった約束の方は、今からでも行けないの?」
「行けなくはないが……」
すでにこの時間だし、もう行く気はない、ということだろう。陀宰くんは語尾を曖昧に濁して、口をつぐんだ。
しんしん積もった暗闇を、車のライトが切り裂いては消えていく。重苦しくない沈黙が落ち、私はぼんやりと目の前の風景を眺める。
陀宰くんが両手を顔の前に持ち上げて口許に寄せると、はぁっと息を吐きかけた。寒々しいけれど少し可愛い仕草に、思わず口許がゆるむ。陀宰くんはにやつく私に気付かず、何か考え込むように視線を遠くに投げている。
視界いっぱいに広がる暗闇を、店先を彩る電飾が照らしている。今日は聖なるクリスマス。一年に一度の、大切な日。
陀宰くんがこうやって二人きりで一緒に過ごしたい相手は、きっと本当ならば私なんかではないはずだ。成り行きでふたりきりになってしまった私と陀宰くんだが、本来クリスマスに顔を合わせるような間柄ではまったくない。恋人ではないというだけでなく、友人としても、そのレベルには至っていない。
陀宰くんが今見つめている視線の先には、私ではない彼女がいるのだろうか。そんなことを、考えるともなく思う。
そのとき、唐突に私は思い出した。
「あ、そうだ」
ごそごそと鞄の中に手を入れて、中からあるものを取り出す。現実に引き戻された陀宰くんに、私はにやりと笑いかけた。
「陀宰くん、手だしてくれる?」
素直に手のひらを上にして、私に手を差し出す陀宰くん。少しだけかさついて、私よりも一回り以上大きな陀宰くんの手のひらに、私はそれを置いた。
「はい、これ。クリスマスプレゼント」
「え……?」
陀宰くんの白目がちの三白眼が、はっきりと戸惑いを示している。視線は手の上に置かれたクリスマスプレゼントに注がれていた。
私は苦笑した。陀宰くんが戸惑うのも当然だ。クリスマスプレゼントと称して、いきなりクラスメイトの女子からガムを手渡されたのだ。誰だって反応に困るに決まっている。あの凝部くんですら、やんわりと苦言を呈してきた。
「これ、ガム……、だよな……?」
「もちろん、見ての通りガムだよ。さっき凝部くんにも同じの渡したんだけどね。陀宰くんの方はほら、なんと限定のパッケージ」
猫でしょ、と教えると、陀宰くんがぱちくり瞬きをしてから「本当だ」と呟いた。
凝部くんにあげたものも陀宰くんにあげたものも、中身は同じ普通のミント味のガムだ。ただし陀宰くんの方は、猫の人気キャラクターとの数量限定コラボ商品を選んでいる。ちなみに値段もまったく同じ。
「獲端くんの分も買ってあったんだけど、絶対にいらないって言われるだろうなと思って、渡すのやめちゃった。これは私が食べることにするよ」
ケーキをご馳走になったお返しは、また後日考えればいいだろう。獲端くんに直接お礼をするのが難しければ、凝部くんか陀宰くんを経由すればいい。
獲端くんのためにと買っておいたガムは、凝部くんに渡したのと同じ、ノーマルなパッケージのものにした。単に獲端くんという人の好みがわからなかっただけなのだが、そもそもプレゼントをどうぞなんて空気にはならなかったので、結果的には普通のものにしてよかったと思う。限定版パッケージはひそかに人気があるらしいので、必要以上に買い占めるのもよくない。
「プレゼントって……俺、何も用意してないぞ」
「いいよいいよ、私もシャンメリー買うついでに買っただけだし。それにこれ、シリアルナンバーついてるでしょ。これでプレゼント応募できるんだけど、実は私、ひそかに応募し続けてて。陀宰くんさえよければ、そのシリアルナンバーで応募させてほしいな」
「もちろん」
陀宰くんにガムを差しだされ、私はバングルでシリアルナンバーを読みとった。そのまま応募画面が表示されるので応募まで済ませていると、隣から陀宰くんが私の手元を覗く。
「応募したいのってそれ?」
「そう。この一等を狙ってるんだ」
「一等だと何がもらえるんだ?」
「オリジナルマグカップだって」
陀宰くんは興味を引かれたのか、少しだけ私との距離を詰めた。
「へえ、マグカップはいいな。使い道あるし」
「だよね。写真あるかな」
「どれ? 見せて」
画面をスライドし、景品一覧を表示させる。猫のキャラクタ―とのコラボだけあって、景品はどれもこれもそのキャラクター一色だ。
ただし猫とはいってもかなりデフォルメされたデザインなうえ、コラボグッズの絵柄はお世辞にも可愛いとは言い難い。猫好きの人間には、却って思うところもあるのだろう。私の隣でも、陀宰くんがひくりと頬を引き攣らせている。
「陀宰くん的には微妙? もっとリアルな猫の方が、陀宰くんは好きかな?」
「いや、リアルとかそういう以前に……これ、本当に欲しいのか……?」
疑わしげに陀宰くんが問いかける。陀宰くんの視線は、でかでかとぶさいくな猫キャラがプリントされた、一際強烈なデザインのマグカップに釘付けになっていた。
疑念を蹴散らすように、私ははっきり頷く。
「本当に、めちゃくちゃ欲しいと思ってるよ」
「苗字の雰囲気とは違いすぎないか?」
「そうかな? まあマグカップなんて、何個あってもいいからね。少しくらいはキワモノっぽいのがあってもいい」
「いや、そう何個もはいらないだろ」
「何個もいらないけど、別にあっても困らないでしょってこと」
「苗字んちって兄弟いるんだっけ」
「ひとりっこだよ?」
「じゃあ、いらない」
「そんなことないってば。あ、じゃあペン立てとかに使おうかな」
「無理やり使い道を模索してるじゃねーか」
呆れた顔とくだけた口調でつっこまれる。なんだかそれが妙におかしくて、私は思わず声をあげて笑ってしまった。そんな私に、陀宰くんが一瞬呆気にとられた顔をする。それから数秒後、私の笑い声に釣られるように、陀宰くんもふっと噴き出した。
「っ、くく、っは……ふ、ははっ!」
「べっ、べつにっ……ふふっ、いいじゃん、ぺ、ペン立てにしても……! なに? な、なん……ふっ、ふふ……っ」
「いや、だって、……っく、はは……!」
肩を震わせ、陀宰くんが背をまるめた。顔を見合わせ笑っていると、なんだか余計におかしくなった。別に特別面白おかしい話をしていたわけじゃない。取るに足らない、他愛ないにも程があるような遣り取りだ。それなのに、たがいに変なツボに入ってしまったようで、どうにも笑いの波が引かない。
今日一日、私と陀宰くんの間には、絶えず緊張感のようのものがぴんと張りつめていた。それがはからずも、今の会話ですっかり溶けて、消え去ったようだった。
目尻に溜まった涙を拭い、細く長く息を吐く。陀宰くんの前でこんなに大笑いをしたのははじめてだったし、陀宰くんのこんな大笑いを見たのもはじめてだった。
クリスマスプレゼントとして、これ以上ないものを貰ってしまったような気分だ。
しばらく身体を震わせていた陀宰くんは、結構な時間をかけてようやく、笑いの渦の中から脱出した。一足先に平静を取り戻していた私を見て、陀宰くんはどこか照れくさそうに目元を擦る。
「なんで俺ら、こんなに笑ってんだ……」
「いや、本当にね」
「くそ……」
ぼやいた陀宰くんは、はあ、と区切りをつけるように、俯き、一度深く息を吐き出した。かと思えば、彼は背を丸めて顔を俯け、その姿勢のままでぴたりと固まってしまう。
「ん、陀宰くん? どうしたの? 疲れた?」
「いや、そういうわけじゃないだけどさ」
そこで陀宰くんは言葉を切り、口を閉じた。何一つ説明されないまま、会話はぶつ切りの宙ぶらりんになる。
陀宰くんはそのままかなり長い間、身動きせずにじっとしていた。顔もやはり俯けたまま。どうしたのかとおもったら、どうやら彼は、手に持ったままのガムを何やらじっと見つめているようだった。
「あの、さ」
と、陀宰くんが、俯いたままで切り出す。
「少し話をしたいんだが、苗字、時間いいか」
その声音に、ただならぬものを感じた。
陀宰くんが顔を上げ、私の瞳と視線を合わせる。さっきまでとは打って変わって、陀宰くんの表情に、ふざけたところはひとつもない。
笑って緊張が一度途切れたからこそ、引きずっていたものを吹っ切れたのだろうか。陀宰くんはいやに、腹の決まった顔つきをしている。
知らず、私の背中と肩に力がこもった。
「……私はいいけど、陀宰くんは、時間は?」
「俺も大丈夫……だから、苗字さえよければ」
もしかしたら陀宰くんは今日顔合わせたときから、私と話をしようと思っていたのかもしれない。不意にその考えに思い至った。だからこそ陀宰くんは、このあとに入っていた予定をキャンセルしたのだ。凝部くんの家で話そうと思っていたことを、あのとき話せなかったから。
(はぐらかせない……)
咄嗟に、心にその言葉が浮かんだ。それと同時に、全身からさっと血の気が引く。そのときはじめて、私は自分が陀宰くんとの話から逃げ出したいと思っていることを自覚した。
どきどきと、胸が嫌な鳴り方をしていた。それでも、目の前の切実な瞳から目を逸らすことはできない。陀宰くんと私の、視線が絡む。呼吸も忘れて、私は彼の瞳に見入った。
何か強い感情が、陀宰くんと絡めた視線から、絶えず流れ込んでくる。呼吸が、脈拍が、何もかもが陀宰くんに絡めとられていくようだ。
陀宰くんは、ひたすらに私の返事を待っていた。
もしも――もしも、私がここで断ったところで、彼は何も私に無理強いしないに違いない。何も強いることはないし、責めもしない。新学期には、今まで通りのグループ付き合いが続くのだろう。そしてその展開こそ、今の私がたったひとつ望むものだ。
それなのに、どういうわけか。
気付けば私は、陀宰くんに向け頷いていた。
「じゃあ……どっかお店、入る?」
私の返事に、陀宰くんは「えっ」と戸惑うような声を上げた。もしかして、私が頷くとは思っていなかったのだろうか。ついつい苦笑したくなる。
「いや、だって話をするのなら、ここじゃあまりにも寒いかなー、とか……。あれなら凝部くんちに戻るでも、いや、でもそれはさすがに迷惑すぎるしなー、とか……」
我ながら、妙に言い訳がましい言葉の羅列だ。陀宰くんは眉間に皺を寄せる。
とはいえ、このまま寒くて暗いこの場所に長居したくないという言い分には、陀宰くんも同意見のようだった。
「じゃあ、そこにカフェあるから……そこで」
「……うん」
陀宰くんに促され、私たちは揃って立ち上がる。寒さで強張った足をぎこちなく動かしながら、私たちは橙色の電球の光に引き寄せられるように、道向かいのカフェへと無言で歩き出した。
07
すでに夕食時をまわったコーヒーショップの中は、あちらこちらに空席が目立つ。クリスマスだからだろうか、いつもより店内はがらんとして見えた。
誰に憚るような話をするわけでもない。けれど陀宰くんと私は、壁際のしずかなテーブル席を選んだ。テーブルの上には手のひらサイズのスノードーム。正面には重たい空気を背負った陀宰くん。視線のやり場に困り、私は球体の中でひらひらと舞う銀色の雪を、ことさら関心ありげなふりをして一心に見つめた。
注文したばかりのコーヒーは、たっぷりと湯気を上げている。服のそでを指先まで伸ばし、手のひらでマグカップを包み込むと、バス停にいるあいだにすっかり冷え切っていた身体が、指先からゆるやかに温度を取り戻していくようだった。
陀宰くんはさっきから、口を開こうとしては閉じるのを繰り返している。
場所を屋内へ移したはいいものの、会話の緒がなかなか見つからない。私も陀宰くんも、互いに相手の出方を探っている状態のまま、かれこれ数分が経過しようとしていた。
話があると言ったのは陀宰くんだ。しかしどういうわけか、彼はほとほと困り果てたような顔をしている。
(うーん、どうしたものかな……)
私の方から何か話を振ったほうがいいんだろうか。マグカップの縁を指でなぞりながら、ふうむと思案する。
自分より必死な人間がいると、自分は逆に落ち着くことができる。陀宰くんの困り顔を見ながら、私は不思議なくらい落ち着いていた。
そもそも陀宰くんは、私に一体何の話をしようというのだろう。彼の切羽詰まったような顔を見る限り、何か深刻な話をされるだろうことは分かり切っている。それがどの程度深刻なのかは不明だが、適当な世間話でこの緊張感を曖昧にしていいものか分からない。
陀宰くんが私に打ち明ける深刻な話のたぐいといえば、過去のことか、今のことか、ヒヨリちゃんのことか。そのくらいしか私には思いつかない。すなわち、十年前のことを思い出したか、今の私の気持ちに気付いたか、ヒヨリちゃんとのことで相談があるか。
このなかで一番有力なのは、やはりヒヨリちゃんとのことだろう。陀宰くんとヒヨリちゃんの関係は、傍から見ていても膠着状態に見えた。進級してクラス替えする前にと、焦る気持ちは分からなくもない。
(その場合、私はどうしたらいいんだろうな……)
意中の相手に、自分の親友との恋愛相談をされるというのも、なかなか酷な話だと思う。もちろん私は陀宰くんの幸せを願っているけれど、今はもう夏休み前とは違うのだ。今ここにいる高校生の陀宰くんに対して、気持ちが大きくなってしまった。だから悲しいけれど応援するよ、なんて、殊勝な気持ちにもなりきれない。
そうなれない自分が、悲しい。
と、陀宰くんがおもむろに、伏せていた視線を宙に投げた。何かに気を取られたのか、耳を澄ませているように見える。
陀宰くんにならって、私も店内の音に耳を傾ける。そしてすぐ、陀宰くんが何に気を取られたのか理解した。
「クリスマスソングかかってるね」
「うん」
陀宰くんがてらいなく頷く。
流れているのは、クリスマスの時期になるとあちこちで聞く有名な曲だ。元の楽曲には英詞がついているはずだが、子どもたちの合唱曲として日本語詞もよく親しまれている。今流れているのは歌詞がなく、店内の雰囲気と合うジャズアレンジのバージョンだった。
「陀宰くんは、この曲が好きなの?」
「まあ、うん。好きというか、懐かしいなと思ったんだ」
「懐かしい?」
「昔、幼稚園で習って、歌ったから」
「……そっか」
そう答える以外に、言葉を思い付かなかった。陀宰くんがただの世間話として幼稚園といったのではないことが、はっきりと分かったから。
ポピュラーなクリスマスソングだから、たとえ幼稚園のクリスマス会で歌ったことがあったとしても、取り立てて特別なことではない。ただ、陀宰くんの声からははっきりと、言葉以上の含みが感じられた。もしも私が話題を振らなくても、遅かれ早かれ陀宰くんの方からきっと、ここを取っ掛かりに話を広げたことだろう。
幼稚園の頃の――私たちが隣同士の家に住んでいた頃の話を。
(バレたんだ……)
自分でも意外なほどに、冷静にそう思った。それ以上の感慨が湧いてくることはなく、ただ淡々と、粛々と、私は目の前の現実を受け容れていた。
思い出したんだな、ではなく、バレたんだな、と。
私の推測を裏付けるように、陀宰くんが続ける。
「うち、姉がいるんだけど」
「うん」
リアクションは頷きに留めた。陀宰くんは一瞬心配そうに瞳を揺らし、けれどそのまま言葉をつないだ。
「姉が苗字のことを、この間撮った写真で見て、……昔住んでたマンションの、隣に住んでた女の子じゃないか、って」
陀宰くんはまた、私の表情を窺った。顎を引き、どこか自信なさげな顔つきは、私の返事を待っているようにも見える。自分の記憶に自信を持てないゆえの、漠然とした不安もあるだろう。今の話を聞いた限りでは、陀宰くんは自力で私のことを思い出したわけではない。
陀宰くんは口を開きかけ、けれど呼気とともに、言葉をごくりと呑み込む。そしてそれきり彼は口をとざし、ふたたび沈黙の中に身を置いた。
宙ぶらりんになった話題を、一方的に私に委ねて。
(困った……)
視線を受け止めながら、私は眉尻を下げた。
どう考えても、陀宰くんの話はまだ本題に入っていない。私はまだ何一つ、陀宰くんから問われてはいない。「俺たち、昔会ったことがあるのか」とも、「姉の話は合ってるのか」とも。
彼の沈黙の理由。そんなもの、考えられる限り、たったひとつしかない。
陀宰くんはおそらく、私の意思を尊重しようとしてくれている。記憶の有無ではない。今現在の私の感情について、確認を求めているのだ。
覚えているかどうかは、きっと今この瞬間には関係ない。今この場で私がこの話をしたいかどうかだけを、陀宰くんは問うている。私が覚えていても、話したくないのなら話さない。そう決めている。陀宰くんはちゃんと、私に選択肢を用意してくれる。
(本当に、困ったな……)
目のまえの陀宰くんに向け、溜息を吐き出してしまいたくなる。そのくらい、困った。
困り果ててしまうくらい、私は陀宰くんのことが好きだった。
この数か月、幾度となく実感したことを、今もまた思い知らされる。何度も何度も実感しては、そのたび自分で自分の首を絞めるような思いに、泣きたくなった。こんなふうに思うのはやめてしまおう。金輪際やめてしまおう。これっきりで諦めよう。何度も繰り返しそう思った。
けれど結局、やめられなかった。こんな状況でもなお、私は陀宰くんのことを好きだと思っている。――好きだと思い、打ち砕かれる。
甘やかな恋心を自覚した数は、そのまま私が決意を挫かれた数でもある。私が陀宰くんに、敗北感を覚えた数とイコールだ。
むろん、馬鹿げた発想だ。覚えていたから勝ちとか、好きになったから負け、諦められたら勝ちとか、そんな考え方は当然ながら、けして正しいものではない。
分かっている。今の私にできること、求められた役割――唯一正しい、とるべき行い。
それは陀宰くんの誠実さに報い、こたえることだけだ。間違っても、自分の傷を見せびらかしたり、あるいは保身に走ったり、勝ち負けを云々と考えることではない。
言えないこと、言いたくないことは、私にももちろんある。言わずに済むのなら、それに越したことはない話も。だから一定のラインまでは誤魔化すことなく、はぐらかすことなく話をする。私が陀宰くんのためにできるのは、たったひとつ、それだけだった。
「懐かしいね、……お姉ちゃん元気?」
一呼吸おいてから、私は言った。陀宰くんは、はっと息をのむ。
陀宰くんの両手が持ち上がり、表情を覆い隠すように顔の下半分を包む。ぎゅっと目蓋を閉じた陀宰くんは、胸にたまった空気を根こそぎ押し出すように、深く長い溜息を吐き出した。やがて指の隙間から、呻き声に似た声をもらす。
「……姉貴なら、すげえ元気。元気すぎて俺が元気じゃなくなる」
「あはは、相変わらず仲いいね」
昔のことを思い出して笑えば、息を吐き出しきった陀宰くんが、意を決したように顔を上げた。目蓋を開く。瞳にまだわずかな躊躇いを残して、陀宰くんが私のことをまっすぐ見据える。
つきん、と胸に硬質な痛みを覚えた。私の存在が陀宰くんを思い悩ませている。目と目を合わせたことで、今更ながらにその事実を目の当たりにする。
「本当なんだな、姉貴が言ってたこと……」
絞り出すように、陀宰くんが言う。
「うん、本当。でも、そんなに落ち込むことかな? 私が昔の知り合いだったの、そんなに嫌だった?」
「そうじゃない。そうじゃなくて、今の今まで忘れてた……というか、今も思い出せない自分に、ちょっと嫌になってる」
「そんな気にしなくても」
「いや、忘れられるのって普通に嫌だろ……」
いやに頑固な物言いからは、何か私のあずかり知らない事情に裏打ちされていそうな雰囲気を感じる。別に罪悪感を持たれたかったわけでもないので、私はどうしたものかと苦笑した。
彼の躊躇いを、できることなら私がすべて、取り払ってあげたい。陀宰くんには私のせいで心を悩ませないでほしい。私なんかのために、躊躇や動揺を覚えないでほしい。それは掛け値なしの、私の本音だ。
陀宰くんの性格を思えば、それも難しいことかもしれない。だが好きな人に心やすらかであってほしいと思うことは、そうおかしなことではないはずだ。それならば、私はこのあとどうすべきか。
(どこにでもある『世間って狭いよね』という話に――つまらない話に、私自身が塗り替えれば。そうすれば、陀宰くんも少しは気が楽になるのかな)
私の感じるつらさを、陀宰くんが肩代わりしてしまわないように。私の託った不遇を理由に、陀宰くんが罪悪感を抱かなくていいように。
マグカップを掴んだ手に、ぎゅっと力を込めた。
「ま、忘れてても仕方ないよ。というか逆に、今こうやって再会してることの方が奇跡みたいなものだからね。うっかり再会してなかったら、お互いになかったことにして、大きくなってただけだろうし」
胸に痛みを感じながら、私はことさら軽い調子で言葉を紡いだ。
「懐かしいなー。私、いつも陀宰くんの後ろついて回って、お姉ちゃんにもたくさん遊んでもらったよ。お兄ちゃんは、さすがにかまってくれなかったけど。でも、たまにおやつくれたりしたっけ」
「俺は兄貴からおやつを貰ったことなんかないよ」
「そうなの? あ、でもたしかに『メイには内緒』って言ってたかも。あれもしかしたら、陀宰くんの分のおやつだったのかな」
「ああ、やりそう。すげえやりそうだよ、あの兄貴なら」
げんなりした口調で陀宰くんが言った。私の記憶にある限り、強烈な印象がもっとも強いのは、やはり陀宰くんのお姉ちゃんの方だ。だが実の兄弟の立場からすれば、兄も姉も程度は違えど等しく厄災ということなのだろう。陀宰くんの口ぶりには、その辺りの事情が強く反映されている。
兄弟の話をしたからか、陀宰くんを包んでいた緊張も、少しだけ和らいだように見えた。コーヒーを一口すする。苦みで頭がクリアになったおかげなのか、次に聞くべき言葉はするりと口をついて出た。
「陀宰くんさっき、お姉ちゃんに聞いたって言ってたよね。ということは、陀宰くんはまだ私のことを思い出してないってことかな」
別にそれでどうこうというわけではない。それでも、一応聞いておいた方がいいと思った。
予想していたことだが、陀宰くんはバツが悪そうに表情を曇らせた。せっかく和みかけていた空気がまたたく間に冷えてしまったが、これは予想していたことだ。どのみち避けては通れない話題なら、早々に片付けてしまった方がいい。
「思い出してはいない。……悪い」
「ううん、気にしなくていいよ。そもそもずっと覚えてるなんて約束、してないからね。本当のこというと、私も忘れられてるかもしれないなって覚悟してたし、だから大丈夫」
そりゃあ少しは寂しくもあったし、堪えもした。陀宰くんには言えないが、再会するまでは当然のように、陀宰くんが私を覚えていてくれると信じてもいた。
だが高校に入学して、もうじき二年だ。陀宰くんと同じクラスになってからは一年近く経とうとしている。すでにそうした痛みや感傷は鈍り、気にならないくらいになっていた。都度都度律儀に傷つきはしていても、同じ痛みの繰り返しなら嫌でもしだいに慣れていく。
「なんというか、陀宰くんにそんな顔をさせてることの方が、今はきついかな」
冗談めかして言った台詞に、陀宰くんはいっそう表情を険しくした。私が陀宰くんの手前、強がり、気丈なふりをしていると勘違いしたのかもしれない。
「……本当、ごめん」
「本当にいいんだって。それに、こうやってまた友達になってくれたわけだし。私はそれで、…………それだけで、もう十分だよ」
そう口にした瞬間、胸が一際強く、きりりと痛んだ。いつもの小さな痛みと違う、もっとはっきりとした疼痛だ。けれどその痛みすら、想像していたほど鋭くもなく、息が吸えなくなるほど苦しくもなかった。
覚悟していたより、痛みは小さかった。
(友達で十分だって陀宰くんに言うの、もっとつらいと思ってたのに)
耐えられる程度の痛みを胸に抱えながら、そんなことを思った。
陀宰くんと昔話をすることになったなら、私の失恋もまた、避けられなくなるだろう。ヒヨリちゃんを見つめる陀宰くんを見つめるたび、そう思い続けてきた。
いくら見て見ぬふりし続けても、陀宰くんがヒヨリちゃんに恋している事実は揺るがない。決定的な瞬間だけは先延ばしにできても、いつかは必ず受け容れるしかなくなる。
陀宰くんと過去の話をするのなら、そのときは私の失恋もセットになるはず。そして長年の恋を失恋として片付けるには、きっと相応の痛みを伴うはずだ。それこそ血を吐くような思いもするのだろう。これまで私は、漠然とそう思っていた。
十年来の思いをなかったことにされた話なんて、好んでしたいものではない。それを自ら口にして、そのうえ物わかりのいい良き友人のふりをしなければならない。そうしなければ、もうヒヨリちゃんとも陀宰くんとも一緒にはいられなくなる。果たして悲痛は、一体如何ばかりだろうか。私はずっと、怯えていた。
(だけど思っていたより、大丈夫そうでよかった)
ほっと安堵が胸を満たす。もうすでに、友達でいいと自分で線を引いてしまったからだろうか。少しだけ、心に余裕ができた。
その余裕ができた心で、思う。
(もう一歩、もう一歩くらいなら、踏み込んでも大丈夫かな)
どのみちもう、私に勝ちの目はないのだ。だったらいけるところまでいって、陀宰くんの荷物を取り払ってあげた方がいい。
陀宰くんはまだ、話したいことをすべて話し終えていない。短くない時間、陀宰くんを見つめ続けてきた人間として、私にはその確信があった。そしてこの期に及んで話しにくい、けれど話しておかなければいけなさそうな話題は、私と陀宰くんの間にはただひとつきりだ。
手元でマグカップがことりと鳴った。スノウドームは変わらず銀の雪をまき上げ続けている。
ごくりと口の中のつばを飲み込んで、私は陀宰くんに尋ねた。
「あのさ、陀宰くん。もののついでに、と言ったらなんなんだけど……お姉ちゃんから、ほかにも何か私のこと聞いた?」
「…………」
私の質問に陀宰くんは押し黙った。無言は何よりもの返答だ。陀宰くんの顔いっぱいに、申し訳なさそうな表情が貼り付いている。私は思わず、吐息を漏らした。
「聞いたんだね。察するに、私が陀宰くんのこと好きだった話とか、かな」
「……っ!」
「やっぱり。大丈夫、それで大体全部だよ。多分、陀宰くんがお姉ちゃんから聞いたことで全部。ほかにはもう、私に隠し事はない」
「隠し事って……」
「ごめんね、ずっと黙ってて」
できるだけ静かな声で、私は謝罪を口にした。そうすべきだと、謝るべきだと思ったからだ。
誓って言うが、この件に関して、私は陀宰くんに嘘を吐いたことはない。聞かれたことにはできる限り答えたし、過去や経歴について偽ったことはひとつもない。誤魔化したことくらいは何度かあるが、本当にそれだけだ。
ただし、私の知っていることを全部話しもしなかった。陀宰くんにはできれば何一つバレなければいいと思っていたし、今もまだ、本当はそう思っている。
もしも陀宰くんが私の恋心について知らなさそうな素振りをしていたら、私は絶対にこの話をしなかっただろう。何としてでも、陀宰くんの家の隣に昔住んでいた幼馴染、というところで話を止めたはずだ。
そんな私の胸中を知らず、
「もっと早く言ってくれたら……」
陀宰くんがぼそりと呟く。本人にそのつもりはないのだろうが、声にはやはり、咎めるような響きが滲んでいた。
「言えないよ」
私はそう答えるしかなかった。
店内にはいつのまにか、私と陀宰くん、それに数組の客しかいなくなっていた。最初に注文したコーヒーはとうに冷めている。凝部くんの家でたらふく食べてきたからお腹が空いているわけでもなく、おかわりのコーヒーを注文する気も起きない。冷めきった残り僅かなコーヒーで、どれだけ間が保つかは陀宰くん次第だ。
「言えない?」
私の言葉を反芻し、陀宰くんは訝しげに私を見る。「言えない」というその言葉の意味が、心底分からないという顔だった。こちらに向けられた眼差しが、明らかに私に説明を求めている。
……なんというか、遠慮とか斟酌とか、そういうものが陀宰くんにはまったくないようだった。普段の陀宰くんならばそんなことはあり得ないと思うのだが、少なくとも、今この場、この瞬間においては。
「陀宰くんさぁ……」
思わず私がぼやくと、陀宰くんは「なんだよ……?」とさらに困り顔で私を見つめる。本当に何も分かっていなさそうなその様子を見て、私の胸には痛みとは別の、苦みが迸った。
「さっきの話、聞いてたよね? あ、もしかしてお姉ちゃんから、私の告白に対して、陀宰くんが何て答えたか、具体的な言葉は聞いてないとか?」
それならばまだ、理解がいく。けれど陀宰くんは首を横に振った。
「いや、聞いた」
「聞いたんだ。それなのに、分かんない? 本当に?」
「悪いけど……」
「そっか……」
溜息は吐くまいと思っていたけれど、さすがにがくりと力が抜けた。無自覚なのだろうとはいえ、陀宰くんの求めは私にとって、あまりにも酷だった。
忘れてしまったのなら思い出させればいいというほど、これは簡単な話ではない。ただの知り合いならば、それでもきっといいのだろう。思い出すにせよ思い出さないにせよ、ひとまずは過去の時点で知り合っていたということを伝えられさえすれば、そこから何らかの交流が発生するかもしれない。
けれど私にとって陀宰くんとの再会は、そうやって簡単に失くした、復元した、ということをできるものではなかった。
忘れられてしまったら、その時点で私の勝負は終わりだ。第二ラウンドはあるかもしれないが、第一ラウンドの延長はない。そのことを、陀宰くんは分かっていない。
陀宰くんが悪いわけではないことは、私にだって分かっている。けれどどうしたって、気持ちは勝手にささくれだつ。よほど今の陀宰くんの問いを、まるっと無視してしまおうかと思ったくらいだ。
けれど惚れた弱みとでもいうべきか、あるいは目の前で困り果てていますという顔をされているせいか。私には陀宰くんを無視することなど、土台できはしないのだった。したくてもできないし、そもそもしたいと思えない。
陀宰くんは無自覚に、しかし絶対的に優位な立場に立っている。いや、無自覚だからこそたちが悪い。そういうところまで引っ括めて、今この瞬間だけ、陀宰くんはずるくてひどかった。
内心で溜息を吐く。外に溜息を吐き出さないだけ、私にはまだ理性と見栄が残っていた。
「言えるわけないよ」
苦笑交じりに、先ほどと同じ言葉をもう一度紡ぎなおした。陀宰くんの眉間の皺が、ぐぐっとさらに深く刻まれる。そんな顔をしたいのはこちらの方だ。私の方が絶対に、陀宰くんより顰め面したい気分になっている。
「陀宰くんは多分、ちょっと思い違いをしてるよ」
「思い違い?」
「私が陀宰くんと幼稚園のときに知り合ってるよって打ち明けたとして、じゃあ、それでそのあと何がどうなるの? 高校で再会したときの陀宰くんを見れば、陀宰くんが私のことを覚えていないことなんか一目瞭然だったじゃない。それなのに、そんなこと言ってどうなるの?」
「それは……」
「『忘れてたけど、これから頑張って思い出してみるよ』って? でも私は、そんなこと言われたいわけじゃなかったんだよ。それならまだ、何もかもなかったことにして、ここから新しく何かを始めた方がよほど建設的じゃない」
それだって、ヒヨリちゃんが現れたことで分の悪い賭けになった。勝ち筋などどこにもなく、一切の望みは絶たれたとすらいえる。
正直に打ち明けて手に入るものならば、私だってすぐに何もかも打ち明けた。だけど実際はそうじゃない。陀宰くんと再会したときにはもう、私の欲しいものは、世界の何処にも存在しないものになっていた。
「そもそも私は、思い出してほしかったんじゃないんだもん。陀宰くんに……メイくんに、ただ、覚えていてほしかったんだよ。忘れてほしくなかったし、ずっと覚えていてほしかった。だって最後に告白したとき、メイくん、そう言ったじゃない。『覚えてたら』って。最初から私たち、そういう約束――ううん、条件、『賭け』のようなものだったんだよ」
私の言葉に、陀宰くんの肩がぎくりと揺れた。今の言葉のどこに、陀宰くんが引っかかる箇所があったのだろう。よもや下の名前で呼ばれたくなかったとか、この期に及んでそんな話ではないだろうが。不思議に思いはしたものの、これもまた考えたところで分からないことなのだろう。私はあっさり思考を投げる。
言葉は次々に溢れ出し、思考はそのまま声になった。それでも頭の芯は冷めていて、私はずっと冷静だった。
言わなくていいことを言ってしまったな、と自分の発言を振り返り、冷静に評価している自分がいる。陀宰くんの荷物を軽くしてあげたかったはずなのに、結局のところ、陀宰くんに罪悪感を押し付けてしまおうとしている。陀宰くんの方から求めた話ではあるけれど、多分すこし、私は話し過ぎていた。
今日何度目かの沈黙が落ちる。これまでの沈黙はすべて陀宰くんが齎したものだったけれど、今この沈黙だけは、間違いなく私が作り出したものだ。気詰まりで、息苦しくて、重苦しい。何か言わなければと思ったものの、この場に適した言葉など、私は何ひとつ持ち合わせてはいなかった。そもそも言いたい言葉はさっき、すべて吐き出してしまったばかりだ。
「賭け……」
陀宰くんがぽつりと呟く。私に聞かせるというよりは、ついついこぼれた独り言のようなものだろう。彼の視線は私には向いていなかったし、表情もどこか心ここにあらずなうつろさを湛えている。
「うん、賭け」
陀宰くんのこぼした言葉に、私は頷き、繰り返した。
勝ち負けでいえば、私は負けたということになる。賭けには負けた。私は惨めな敗残者だ。
とはいえ私が負けた賭けの相手は、陀宰くんではなかったのだろう。この賭けで陀宰くんが勝ったところで、あるいは負けたところで、彼が得るものも失うものも何ひとつない。ただただ勝てば私が得をするだけの、ひどくいびつな賭けだった。最初から、こんな賭けは破綻していたともいえる。
それでも、私にとっては何より重要な賭けだったことに変わりはない。
いつか大きくなって戻ってきたときに、そのときに覚えていたら――
メイくんはたしかにそう言った。
だから私は信じていた。日がな願い続けていた。メイくんが私のことをずっとずっと覚えていてくれますように。願わくば、いつかまた再会したときに、私のことを好きになってくれますように。
十にもならない子どもの私にとって、その願いは自分の持ち得るほとんどすべてを賭けた、一世一代の祈りだった。慣れない環境のなかで、たったひとつたしかに縋れるよすが。他愛ない願いはいつしか、切実な信仰のような様相を呈していた。
どうかメイくんが私のことを覚えていてくれますように。
覚えていて、好きになってくれますように。
朝も晩も、同じことを思っていた。繰り返し繰り返し思っては、祈り願っていた。祈り続ければ夢は叶うと信じていたし、願い続ければ何もかもがうまくいくと、そう思い込んでいた。
この街に戻ってくるまで、私は賭けに負けるなんてことを、一度も考えたことがなかった。疑いすら持たなかった。だって、これだけ毎日願っていたのだ。それなのに叶わないなんてことがあるはずないと、子どもだった私は本気で信じ込んでいた。
「陀宰くんに今更、私のことを思い出してほしいなんて思わないよ」
「苗字、」
「嘘じゃないよ。本当にそう思ってる」
なぜなら思い出すということは、忘れてしまったからこそ行う行為だからだ。思い出してほしいと強請るのは、すなわち覚えていられなかったこと、忘れられたことを、これ以上なく認めることに他ならない。
現に私は、メイくんを『思い出した』ことなど一度もない。当たり前だ。そもそも一度だって、私はメイくんを忘れたことがないのだから。
途切れてしまった記憶はもう、つなげて紡ぐことなどできはしない。
記憶を途切らせ、気持ちを手放された時点で、私は負けた。
あの時メイくんの本心がどこにあったのか、少しでも私のことを好きでいてくれたのか、好きになってくれる可能性はあったのか。そんなことを考えるのは、もはや無意味なことになってしまった。
「私は『賭け』に負けちゃったってこと。だから、もういいんだ」
一息に言って、私は大きく息を吸い込んだ。
陀宰くんは言葉を失ってしまったように、しんと黙りこくっている。それもそうだ。こんな話をされて、言うべき言葉が即座に分かる人間などそうはいない。
重苦しい沈黙。そのさなかに身を置いて、私たちは互いに言葉を尽き果てさせていた。
陀宰くんの表情には、困惑と罪悪感が渦巻いている。言わなくてもいいことを言わせた罪悪感。唐突に持ち出された、受け容れにくい昔話。そりゃあそういう表情にもなろうというものだ。聞かなければよかったと、後悔するのも当然のこと。
カップに残っていた冷たいコーヒーを、私は一気にあおって飲み干す。そうして弾みをつけてから、私は笑顔を取り繕った。
「ごめんね、こんなふうに陀宰くんの心を乱すようなことを言って、陀宰くんも困るよね。本当は、こんなはずじゃなかったんだけど」
こんな話は言わない、言うべきでないと思っていた。けれど本心では、ずっと話したいと思っていたのかもしれない。その証拠に、陀宰くんにすべてを押し付けるという、絶対にすまいと思っていたあさましい行いをした直後だというのに、私の心はこんなにもすっきりしている。
(……それとも、開き直ってるだけなのかな)
自分の思考に自嘲する。もはや失うものはない。このすっきりとした気分は、投げやりになっているがゆえの、うっすらと危うい快さなのかもしれない。
けれどもう、それすらどうだっていい。
そんなこと、どうだっていいじゃないか。
「でも、もういいから。全部過去の話で、思い出で、とっくに終わった話だから」
最後まで、軽い調子を崩しはしない。たとえいたずらに陀宰くんの罪悪感をあおっただけだったとしても、ここで私まで深刻になってしまえば、いよいよ取り返しがつかなくなりそうな気がした。
「いや本当に。まさかこんな話をすることになるとは思ってなかったんだけど。しかもクリスマスだし。でもまあ、今までのことは水に流すというか……。できれば陀宰くんにも『まあ、いいか』って思ってもらって、それで、」
これからもやっていこうよ、と。
そう続けるつもりだった私の声を、陀宰くんがふいに遮った。
「よくないだろ」
「え?」
「全然、よくはないだろ」
突然のことに、私は戸惑い目を見開く。空気がぴしりと凍り付く、音まではっきり聞こえた気がした。
まさかこの場面で、陀宰くんから反論があるなんて。そんなこと、私はまったく思ってもみなかった。
低く厳しい陀宰くんの声は、苛立つように焦れて掠れていた。押し殺した感情をそのまま声として発しているようなその声の激しさに、私は思わず、びくりと身をすくませる。
「えっと……陀宰くん?」
一体どうして、陀宰くんが私の話を遮るのだろう。遮るだけならまだ分からなくもないが、彼は私の言葉を、決意を、完璧に否定しきっていた。ここまでの話を聞いておきながら、どうしてそんなことができるのか。
まさか、私が軽い口調で話しすぎたせいで、肝心なところが実際は何一つ陀宰くんに伝わっていなかったのだろうか。そんな懸念すら抱きかけ、しかしそれはさすがにないはずだ、とすぐに私は自分に言い聞かせる。
いくら一度忘れられていたとはいえ、ここ数か月のあいだ、私と陀宰くんは友人としてやってきたのだ。陀宰くんならば、私が軽い言葉の裏に隠した重たい感情に、気が付いていてもおかしくない。むしろ気付いていると思った方が自然だ。
そういう人だから、私は陀宰くんを好きになった。そういう人だから、諦めきれずにここまで来てしまった。
だけど本当は違ったのだろうか。本当は陀宰くんは、私の軽い言葉を軽いまんまで受け取って、軽々に否定できるものだと思っていたのだろうか。
それとも、そんなふうに陀宰くんを理解することすら、私が勝手に見る理想、幻覚だったのか。
あまりのことに、思考がうまくまとまらなかった。呆気に取られた私は、茫然と陀宰くんを見つめる。陀宰くんの顔色も、色を失ったように白い。けれど見つめているうちに、陀宰くんの頬には生気が宿るように、ゆっくりと朱が差していった。
「あの、よくないっていうのは……?」
「全然、よくない。よくないだろ。なんで、だってそれでいいわけ、ない」
どこか熱に浮かされるように、陀宰くんが言う。会話はいまひとつ噛み合っていない。けれどそれよりもとにかく、私は陀宰くんの苦しそうな声音ばかりに意識が向いていた。
こんなふうに感情を昂らせる陀宰くんを見るのははじめてだ。目のまえの彼の姿を、私は信じられない思いで見つめる。
「それでいいって、苗字は思うかもしれない。俺も似たような状況の時、同じことを思って……、でも本当はよくなかったんだ。そのことは俺が一番よく知ってる。それでいいわけない、いいと思えるわけがないって、本当はずっと思ってて」
「陀宰くん? ごめん、何言ってるのか、」
「本当は諦めたくなんかなかった。だから、そんなふうに諦めたって言われたら……っ」
血を吐くようなというのは、きっとこういう物言いをいうのだろう。声を荒げたわけでもないのに、陀宰くんはひどく苦しそうな表情を浮かべている。
「み、水、飲む……?」
「ごめん、……大丈夫」
「そう? あの、私が言うなって感じだけど、無理しないで……」
茫然とした私は、目を見開いて陀宰くんのことを見つめるしかできなかった。
おかしなことだと思う。忘れたのは陀宰くんで、忘れられたのは私。私に思いを向けていないのが陀宰くんで、思いを断ち切ろうともがいているのが私。それなのに、一体どうして陀宰くんがこんな顔をするのだろう。
忘れられ、諦めなければならない私より、そんな苦境に私を追い込んだ陀宰くんの方がずっとつらそうで、苦しそうで、そして――傷ついていた。
会話が途切れ、気まずい空気が流れ出す。時間を置いたことで少し冷静になったのか、陀宰くんは私の目の前で、みるみる表情を暗くした。もともと険しい表情をしてはいたのだが、そこから険は徐々にとれ、かわりに羞恥と申し訳なさゆえか、顔色を赤くしたり蒼くしたりとひとりで忙しなくしている。
「ご、ごめん。急に……」
しばしののち、陀宰くんが悄然と言った。がくりと項垂れた姿は、見ているこちらの方が申し訳なくなるほどの落ち込み具合だ。思わず手を差し伸べてあげたくなる。
「ううん、それはいいんだけど」
「俺のこと、やばいやつだと思った、よな……?」
「はい」
「即答……。いや、本当ごめん……」
いっそう肩を落とす陀宰くん。もはや撫で肩の極みのようになっていた。
やばいやつ、というよりは、はっきり言って意味が分からなかった。陀宰くんの中では正しく連想し、つながっている話だったのだろうと思うのだが、あいにくと私は陀宰くんと同じ文脈を共有していない。
ただ、陀宰くんが私の諦念に自分を重ねているのだろうということだけは、なんとなくだが理解した。
私の見る限り、陀宰くんがヒヨリちゃんのことを諦めている素振りはまるでない。だから一体どういう状況で陀宰くんが諦念を抱いたのかは分からない。しかし私の諦念が陀宰くんの中の何かに触れ、先ほどの反応を誘発したことはたしかだろう。
いずれにせよ、普段の陀宰くんらしからぬ行動だったことは間違いない。
「なんか、陀宰くんでも訳わかんなくなっちゃうことあるんだなと思った」
慰めるつもりで伝えたが、いまひとつ慰めの効果はなかったようだった。
「訳わかんなくなってそうに見えてたのか、俺……」
「訳わかっててアレだったらかなりやばいよ」
私が言うと、陀宰くんがかぁっと顔を赤らめた。可愛らしい反応だと思う。こんな状況でなければ、微笑ましさに胸をときめかせていたに違いない。
陀宰くんはテーブルの上で指を組み、深く重たい溜息を吐いた。
「冷静になってみると、俺、かなり恥ずかしいやつだ……」
「え、気付くの遅くない……?」
「おい」
陀宰くんが、むすっと私を睨みつける。私は笑って、その視線を躱した。
「冗談だよ。でも、さっきの陀宰くんはかなり熱かったね」
「言うな、恥ずかしくなる」
「もう恥ずかしがってるじゃん」
「そうだけど」
恥ずかしがるくらいなら言わなければいいのに、と思う。けれどさっきのは多分、自制しようと思ってできるたぐいの感情の発露ではなかったのだろう。そういう状況は、私にも分からないわけではない。
そう思うと、さっきの陀宰くんの熱い言葉の数々は、正確には私に向けられたものではないのだろう。陀宰くんが私に重ねていた、過去の陀宰くん自身への言葉。それをたまたま私が引き摺りだし、聞いてしまったという感じか。
(それにしても、切羽詰まってると言うか、かなり勢いがある台詞だった……)
陀宰くんの先ほどの言いぐさを思い出し、私はくっくと思い出し笑いをした。陀宰くんが、不満げに私をじとりと睨めつける。その視線のじっとり具合がまた面白くて、私はいよいよ笑いを堪えることができなくなった。
「おい、苗字、笑いすぎ」
「だ、だってなんかもう、陀宰くんめちゃくちゃだし」
「めちゃくちゃって」
「めちゃくちゃだよ」
店内に客が少なくてよかった。深刻になったり昂ったり、かと思えばこうして転げそうなほど笑ってみたり、私と陀宰くんは傍から見たらどう考えても情緒不安定だ。
目尻に滲んだ涙を指先で拭い、私ははぁ、と息を吐いて呼吸を落ち着ける。笑いで未だ肩を震わせながら、私は陀宰くんに視線を戻した。
「陀宰くんのさ、その自信って、なんなんだろうね」
「自信? 自信なんか、俺には全然ないんだが」
「ううん、そんなことないでしょ。だって陀宰くんのさっきの『それでいいわけない』って言い分はさ、それってつまり、私がずっと、今も陀宰くんのことを好きでいるはずで、好きでいなきゃおかしくて、諦めていいわけがないってことじゃないの? 好きでいるのをやめていいわけないって……、ふふっ、ものすごい主張だよ」
分かってる? と笑いながら尋ねると、陀宰くんは目元をうっすらと赤くした。
「あ、いや……」
「陀宰くん、結構、いやかなり、めちゃくちゃなこと言ってるんだけど。自分で自覚なかったの?」
責め立てるつもりはなかった。しかし陀宰くんの立場からすれば、耳の痛い話だろう。陀宰くんは気まずげに口の中でもごもごと何か呟いたあと、首に手をあて、目礼するように視線を下げた。
「悪い、さっきはなんていうか……、勝手なこと言った」
「勝手っていうか、横暴だね、ふふっ」
「返す言葉もない……」
どうやら反省しているらしい。落ち込む陀宰くんの姿は、叱られた犬のように頼りなかった。陀宰くんはかなり無類の猫好きだけれど、どちらかといえば彼は犬に似ているのではないかと私は思う。
マグカップの持ち手に手をかける。カップの底を覗き込み、そういえばさっき、勢いで全部飲み干したのだと思い出した。今更水をもらいに立つ気も起きない。私はくちびるを舌でちょっと舐めた。
「いいよ、陀宰くんの言い分はかなりめちゃくちゃだったけど、でも、間違ってるわけではなかったし。何より陀宰くん面白かったし」
「茶化すなよ……」
「茶化してないよ。新しい陀宰くんだなって感動したの」
新発見の気分だよ、と私が言うと、陀宰くんは微妙そうな顔をした。きっと今の私の言葉の裏側を、いろいろ考えていることだろう。そういうところが陀宰くんは繊細で、優しい。何気なく発した言葉の裏側まで、きちんと意味を探ろうとする。
空っぽになったマグカップを手の中でもてあそぶ。陀宰くんの丁寧さを前にして、今の私の正直な思いを打ち明けるべきか、打ち明けないべきか、今一度私は自分に問う。
束の間頭を悩ませて、けれど結局、私は打ち明けることにした。
「あのね、さっきの話だけど」
そう前置きをすると、陀宰くんが露骨に顔をこわばらせる。苦笑しそうになりながら、私はかまわず言葉を続けた。
「陀宰くんの言うとおりなんだよ。本当は私、まだ全然陀宰くんのこと諦められてないし、諦めたくなんかない。いろいろ言ったけど、全部本当は口だけ。かっこいいふりしたかったというか、物わかりいいふりしてるだけというか。……好きな人には見栄を張りたいものだから」
『好き』の言葉を口にしたとき、そこだけ不自然に声が震えた。きっと陀宰くんも気が付いているだろう。けれど声に滲んだ不安には見て見ぬふりをして、私は「陀宰くん」と彼に向かって呼びかけた。
「陀宰くん、私は陀宰くんのことが好き。昔からずっと。今もまだ」
そして本当は、今の方が昔よりも、もっと、ずっと。
陀宰くんに最初の告白をしたあのとき、私は恋愛感情というものがどういうものなのか、気持ちの中身をまるきり分かっていなかった。今だって、完全に分かったとは言い切れない。私が人生で好きになったのは陀宰メイくんただひとり。その一人への思いだけを引き合いにだして、恋愛感情すべてを知ったようなことは言えない。
けれど今の私は少なくとも、人ひとりを好きになった分くらいは、恋愛感情というものに覚えがある。恋愛感情がどういうものかも知らなかった私に、つらくて切なくて寂しくて、それでもまだ思いを捨てられなくて、焦がれて悶えて苦しむしかない、そんな気持ちを教えたのは陀宰くんだ。
おとぎ話や恋愛ドラマみたいな、甘くて優しくて、ふわふわしていて幸福な恋愛も、まるきり知らないというわけではない。陀宰くんの声を聞くたび、笑いかけてもらうたび、私の心に幸福は満ちるのだから。それだって、紛うことなく恋心のはず。
けれどその幸福は、必ず苦しさを伴っている。幸福が幸福なだけで終われたことなど、一度だってありはしなかった。私が陀宰くんから教わり、育て上げた『恋愛感情』は、苛烈で苦しいばかりのものだ。
それでも私は、陀宰くんのことを好きでいることをやめられない。自分の意志だけではどうにもできない。
相手が陀宰くんだから――私の『恋愛感情』を捧げた相手が陀宰くんだから、私は陀宰くんにだけ、執念深くてしつこい女になってしまう。
「だけど、陀宰くんは――」
視線を上げると陀宰くんと視線が絡む。真剣そのものの表情を向けられて、心が歓喜に打ち震える。
惜しむらくは、私にこの先を望む権利がないことだけ。
「陀宰くんは、ほかに大切な女の子を、見つけたんだね」
「苗字、」
「ヒヨリちゃんのことが好きなんでしょ?」
笑いながら尋ねると、陀宰くんはこの期におよんで視線を彷徨わせた。
分かっている。これは私のことを傷つけまいと、最善の返答を模索しているのだろう。そんなことをしたところで、あるいはしなかったところで、別に私はこれ以上傷ついたりはしないのに。
「別に今更、隠さなくたっていいよ。見てたら分かるし、ずっと知ってるし」
それこそ、陀宰くんとこうして話すようになるより前から、とっくに彼の気持ちには気がついていた。私がいうのもなんだが、陀宰くんはこれでなかなか顔に感情が出るタイプというか、はっきり言って分かりやすい。
「というか陀宰くん、自分はヒヨリちゃんのことが好きなのに、私に『諦めるな』なんて、そんなことを言ってていいの? 好きでもない人間からの好意なんて、ましてそれなりに近くにいる友人からの好意なんて、持て余して、扱いあぐねる腫れ物で、厄介で困るだけのものなんじゃないの? 『諦めるな』って陀宰くんは言うけれど、じゃあ陀宰くんは、諦めなかった先に、私の気持ちを無下にしないでいてくれるの?」
「それは……」
「意地悪いこと言ってるって、自分でもそう思うけど。でも、あんまり軽はずみに言わない方がいいよ。そういう、相手に期待を持たせるようなことは」
ぐっと陀宰くんが言葉に詰まった。
これを好機と、私はさらに畳みかける。
「私だってそんなの、諦めたくないよ。当たり前じゃん。今も、できることなら、この先も、諦めずにずっと好きでいたい。好きでいて、好きになってもらえるかもって思っていたい。だけど陀宰くん、諦めないってことは、諦めないでいるってことは、ずっと苦しいままでいるってことだよ。今だって、諦めなきゃいけないって分かってるのに諦められないから、……だから、ずっと苦しい」
別に誰から諦めろと言われたわけでもない。けれど、諦めなければ陀宰くんに迷惑がかかる。だから私は必死になって、自分の気持ちを捨ててしまおうとしている。
もしも高校ではじめて陀宰くんに出会っていたのなら、私はこの気持ちを諦めなかっただろうか。難しいと分かっていても、好きになってもらおうとしただろうか。
でも、現実はそうじゃない。ヒヨリちゃんより先に、私は陀宰くんと出会うことができたのに、それでも結局ダメだった。アドバンテージがあればあるだけ、負けたときに受ける罰は重い。
「私は陀宰くんを困らせたくない。これ以上、自分が苦しい思いもしたくない。そう思うのはだめなこと? 私が陀宰くんを好きでい続けることで、陀宰くんが喜んでくれるとか、笑ってくれるなら、それなら多少苦しかろうとも、私はいつまでだって諦めないでいてもいいけど。でも陀宰くんは、返せもしない好意を無責任に喜べるタイプじゃないでしょ」
良くも悪くも不器用で、誠実な人だ。他人に気持ちを向けられ、そのことを無邪気に喜んでいられるだけの鈍感さを、おそらく陀宰くんは持ち合わせてはいないだろう。
そういう陀宰くんだから私は好きになったのだし、そういう陀宰くんだからこそ、これ以上好きではいられない。
「ひどい言い方してごめんね。だから陀宰くんには、何も思い出さないで、知らないでいてほしかったんだ」
長々とした話をようやくどうにか締めくくり、私ははぁっと息を吐き出した。クリスマスだというのに、どうしてこんな話をしているのだろう。冷静になると、自分の置かれた状況に笑いたいような泣きたいような、よく分からない気分になってくる。
陀宰くんは神妙な表情で、私の一言一句を聞き逃さぬよう受け止めてくれていた。途中途中でもの言いたげにはしていたが、ほとんど口を挟みもしなかった。そのことに、胸がずんと重くなる。
陀宰くんにはおそらく、私に返せる言葉などなかったのだろう。なぜなら私の言葉の正さは、他でもない陀宰くんが一番よく知っている。
陀宰くんがヒヨリちゃんのことを好きだということ、ヒヨリちゃんを好きだから私を好きになったりはしないこと。忘れてしまった約束を、この先もおそらく思い出すことはないこと。全部ぜんぶ、私よりも陀宰くんの方がよく分かっているはずだ。
口を閉じると、店内に流れるBGMが耳につく。馴染みのクリスマスソングはとっくに終わり、今は聞き馴染みのないゆるやかな曲調の音楽が流れている。どこか物悲しい調べは、そろそろ閉店時間が近づいていることを暗に示しているのかもしれなかった。
と、陀宰くんが舌でくちびるを湿らせる。
「俺が苗字に諦めてほしくないのは、多分、俺が諦めたくないからで。俺がずっと、諦めるなって、そう言われたかったからだよ」
「……そうなの? というかそれ、どういう状況の話なの?」
「よく分かんないよな。でも、そうなんだよ」
陀宰くんが苦笑する。理解を求めているわけではなさそうで、それならばと私は深く追求することをやめた。
陀宰くんは、説明を足すこともせず続けた。
「俺は諦めたくなかったし、諦めてほしくもなかった」
同じ言葉の繰り返し。それは聞いているこちらの方が、切なくなって泣きたくなるような、抑制されすぎた声音だった。
諦めない、諦めたくない。陀宰くんはそう訴える。
けれどそれでは、陀宰くんは一体何にそこまで追い詰められ、何を諦めようと、諦めさせられようとしていたのだろう。諦めたくないと強く願ってしまうほど、どれほどの絶望を見つめてきたのだろう。
「……瀬名は、俺の恩人で、いいやつで……。苗字が言うとおり、俺は瀬名のことが、……好きで。離れても、あいつに忘れられてしまっても、俺は忘れられなくて。諦め、きれなくて……」
「うん」
「あいつは俺のこと、何とも思ってないんだろうけど……。でも、俺は瀬名に救われたし、あいつのためなら多分なんだってできるし、……瀬名のことが、好きなんだ」
「……その気持ちなら、私にも分かるよ」
痛いほどに、よく分かる。泣きたくなるくらい、私は陀宰くんの言うその気持ちのことを、よく知っている。
そして泣けなくなるくらい、泣いてもどうにもならないくらい、その気持ちが揺るぎ無くどうしようもないものだということも。
「なんか陀宰くん、変わったね」
「そうか? いや、でもそれ比較してるの幼稚園児の頃だろ?」
「うん。幼稚園児の頃に比べて変わった」
「そりゃあ変わっててもらわんと困る」
「すっごくかっこいいよ」
あの頃もかっこよかったけれど、今の陀宰くんの方がずっとかっこいい。
私の言葉に陀宰くんは気恥ずかしげに項を指でかき、素直にありがとう、と微笑んだ。
それほど長居しないつもりで入ったコーヒーショップに、結局私たちは閉店までしっかり居座ってしまった。失恋したばかりの私と、失恋させたばかりの陀宰くん。こんなふたりで一体何を話すことがあるのかとも思うものの、案外話題は尽きることなく、私たちはそれぞれコーヒーを一杯ずつ追加で注文してまで話をした。
昔の話は、ほとんどしなかった。そこに触れるにはまだお互い覚悟が足りていないと、陀宰くんも私も気付いていた。昔の話に触れれば私の真新しい失恋の傷をうっかり抉りかねないし、陀宰くんは陀宰くんで、何も覚えていないことへの罪悪感をあおられるだけだ。
横断歩道の白線を踏みつけて、道路の向こうのバス停へ向かう。途中、ぼんやりと考え事をするように夜景を眺めていた陀宰くんのコートの袖を、私はつと引っ張った。
「陀宰くん」
「なに?」
「陀宰くんに言われたこと、もう少し考えてみるね」
「俺が言ったこと……。今日俺が言ったことの中に、苗字が考えなきゃいけないような話、あったっけ」
照れと後悔が一周回って、悲しくなるような自嘲を始めてしまった陀宰くんに、私ははは、と乾いた笑いを漏らす。たしかに時間を置くほど、陀宰くんとしては自分のセリフが気恥ずかしくなるだろう。それは私も同じことだ。
そもそもシラフであんな話をしていたなんて、思い返せば返すほどとんでもないことだ。一秒過去はすでに黒歴史とでもいうべきか。
それでも、互いに半ば正気を失っていたからこそできた話ではある。そして恥ずかしい台詞の数々を含んでいたとはいえ、そこに示唆があったこともまた、同様にたしかなのだった。
「今までも考える時間だけはたくさんあったような気がしていたけど、もしかしたら私はまだ、全然考えが足りていないのかもしれないなって、さっきの話をして思ったよ」
何せ、十年もあったのだ。再会してからの年月だけ数えても、早いものでもうじき二年になる。考える時間、自分ひとりで抱え込んで思考をこねくり回す時間だけは、有り余るほどにあった。
「今までもいろいろ考えて、自分なりに答えを出して納得してたつもりだったんだけど。でも、あんなめちゃくちゃなこと、めちゃくちゃなのに強く言い切られちゃうとね。さすがに自分の考えもぐらぐら揺らぐっていうか」
陀宰くんが複雑そうな顔をする。事もあろうに、自分に見込みのない片思いをしている相手に「諦めるな」などと言ってしまった人間の顔として、これ以上なく相応しい表情といえよう。
私は笑いを噛み殺し、「目から鱗だったよ」と言った。
「たしかに私は『賭け』に負けたけど。でも、諦めなくてもいいのなら、諦めたりしたくないなって、陀宰くんの話を聞いて思った。陀宰くんのこと好きでいたいし、好きになってほしいし」
我ながらさっぱりした声というか、憑き物が落ちたような声だった。そのためか、陀宰くんが途端に「えっ」と慌てたように声を漏らす。
「俺は、」
「あ、待って待って、陀宰くん。今のは告白とかじゃないし、ノーカンでいい。だからこの場で断ったりしないで。さすがに一日二回フラれたら、ちょっと心折れるし。自分で立ちなおらせて延命させた恋心を、その場で殺そうとしないで。殺すために生かすみたいな、狂気の殺人鬼みたいになってるよ、陀宰くん」
笑いながら制止すると、陀宰くんが石を呑み込んだような顔をした。彼はしばらく困惑を示すように黙りこんだのち、「……ごめん」と小さく謝罪を口にする。私はまた苦笑した。
「謝られても困るけど。まあね、今日はクリスマスだし。手心とかね、ちょっとくらい考えてね」
冗談めかしておいたところで、バス停に到着した。時刻表を見ると、私の乗るバスも陀宰くんの乗るバスも、それほど待たずに到着しそうだ。そう思っている間に、バスのヘッドライトがスピードを落としてバス停に近づいてくる。
「とりあえず、覚えててもらえるのを信じるだけ、っていうのは、もうやめた。なんか結局、祈ったところで無駄だったみたいだし」
「身もふたもない言い方を」
陀宰くんの呆れ声に、私はにやりと笑って見せた。
「信仰が人を救うばかりではないということだね」
「大袈裟だ」
目を合わせて笑い合って、それから手を振りバスに乗り込んだ。座席に座って窓の外を見ると、陀宰くんも窓越しにこちらを見上げていた。ひらひらと手を振ると、手を振り返される。バスが発進するまでそうして手を振り合って、私たちは別れた。
(まあ、結構頑張った方だよね)
頬があたたかく濡れる感覚もそのままに、私は窓の外に視線を投げかけ続ける。外の闇を黒く塗り込めたようなバスの窓ガラスには、情けない顔をした自分の顔がはっきりと写っていた。
08
◆◆◆
クリスマスが終われば、新学期になるまで特に誰と会うこともないだろう――と思っていた陀宰だったが、ヒヨリから「みんなで初詣とかどう?」と招集がかかり、急遽年明け早々に馴染みのメンバーと顔を合わせることとなった。
ここで言う『みんな』とは、異世界配信をともに乗り越えたメンバーを指す。従って今回、名前は不在だ。さすがにまだ名前と顔を合わせるのは気まずい。ヒヨリに『久し振りにみんなに会いたい』という以外の他意がないとは分かっていつつも、陀宰はほっと胸を撫でおろした。
人でごった返す神社でさっさと参詣を済ませると、ぞろぞろと近くの公園に場所を移した。暖冬だというのは嘘だったのかというほどの寒さだ。剥き出しの耳が、あまりの寒さに千切れそうなほど痛い。ヒヨリの顔も寒さで赤くなっており、そばにいる萬城がしきりと防寒をすすめている。
今日の参加メンバーはヒヨリに萬城、射落、明瀬、それに凝部と獲端と陀宰。ヒヨリの肩にはアステルも同伴している。残るふたりと未だ連絡をとれていないのは今更だ。
(苗字に言わせれば『界隈』のメンバーなわけだが)
ずいぶんと長閑な界隈だ。しみじみとそう思った。
移動した先の公園も、やはり芋洗い状態だった。神社内は数年前から屋台の出店が禁止になっており、それに伴い出店のたぐいはすべて、神社の隣の公園に移動している。
広い園内では初詣に託けて、年明け早々商売に精を出す屋台が軒を連ねている。それらをぶらぶら冷やかして、各々目ぼしい食べ物を買い込んだ。
「それにしても、獲端が来るとは思わなかった」
陀宰が隣を歩く獲端に声を掛ける。買ったばかりのイカ焼きを食んだ獲端は、「あ?」と不機嫌そうに応答した。
「別に。正月なんて用事もねーし」
「人混みとか嫌いだと思ってた」
「嫌いだよ。すげー嫌い」
だったらなんで来たんだよ、とは思うものの、それを言うと獲端は確実に拗ねる。それに人数が集まった方がヒヨリが喜ぶわけで、陀宰としても、獲端に対しては何の文句もなかった。
「獲端、ほかに何か食いたいものはあるか?」
「なんで」
「いや、そういやクリスマスのとき、美味いケーキ食わせてもらったなと思って。その礼に」
「別にいい。凝部からなら礼を言われるべきだと思ってるがな」
「なになにー、僕がなんだってー?」
少し離れた場所で明瀬と射落と話していた凝部が、首だけ巡らせ、陀宰たちに振り向き叫ぶ。冬のあわい日差しをきらきらと銀糸で反射させた凝部は、妙に見る者の胸がざわつく笑顔を振りまいている。
「あいつ、めちゃくちゃ地獄耳だな……」
「メイちゃんそれも聞こえてるから」
「凝部はもうちょっとどうにかなんねーのかって話だよ」
「ケイちゃんは三つ子の魂百までって言葉知らない?」
「百までそのままとか終わってんな」
言葉でじゃれ合う凝部と獲端を陀宰が横目に見ていると、びゅっとひときわ強い寒風が吹き抜けた。あちこちで寒い寒いと悲鳴が聞こえ、陀宰も首を縮こまらせる。
指先が冷たくかじかんでいた。空いた手を上着のポケットの中にもぐりこませると、ふと指先に何か固いものがこつんと当たる。何かと思って取り出してみれば、クリスマスの日に名前からもらった限定パッケージのガムだった。
(そういえばあの日は気が動転していて、帰ってから上着のポケットを確認することすら忘れてたんだっけ)
取り出したガムを束の間ぼんやりと陀宰は眺めた。けれど直後、明瀬に「はぐれるぞー!」と声を掛けられて、はっと我にかえる。ポケットにガムをそのまま戻してから、陀宰は先を歩く仲間たちのもとへ駆け寄った。
個人主義なメンバーが多いとはいえ、一時に七人も集まっているのだから、まぎれもなく大所帯の大集団だ。ヒヨリの肩にはアステルまで載っている。移動したり食事の場所を探すだけでも一大事。仮設の飲食スペースに空きを見つけると、どうにかそこに腰を落ち着けた。
陀宰が買ってきたばかりのたこ焼きをつまんでいると、はす向かいに座ったヒヨリと目が合った。にこりと可憐に微笑まれ、心がほっと優しく和む。寒さでかじかむ指先まで温かくなったようで、新年早々得をした気分になる。
(冬休み中に瀬名の顔が見られてよかった)
陀宰がひとりひっそり喜んでいると、ヒヨリの隣を断固として死守する萬城にじろりと睨まれた。せっかくの幸福がみるみる萎む。げんなりした気分になって、陀宰はヒヨリから視線を外す。
そうしてお腹も落ち着いてきた頃、陀宰はいつになく楽しげに辺りを眺めている凝部を捕まえて、こっそりと彼を人の輪の外に連れ出した。できれば人に聞かれたくない話――特に、ヒヨリには絶対に聞かせたくない話だ。
「凝部、なあ、ちょっと」
上着をつまんで軽く引くと、凝部はほとんど抵抗することなく陀宰についてきた。こういうとき、凝部の察しのよさには舌を巻くのと同時に、ありがたさも感じる。
しかしながら、そこは凝部だった。ずるずると引き摺られるようなふりを細かく挟みながら「やだもうメイちゃん乱暴ー」などと哀れっぽい声を出し、陀宰をうんざりさせる。
「声がでかい。騒ぐな」
「それもう完全に暴漢のセリフ。おまわりさーん」
「呼ぶな!」
こめかみをひくつかせながら、陀宰は凝部を引きずった。黙ってついてきてくれれば感謝もするのに、凝部はわざわざその感謝を自分で台無しにしていく。そういうところが、凝部の凝部たるゆえんでもある。
「なんだい、クラスメイト同士で仲良く密談かな?」
「俺らの前じゃ話せないことかよ?」
射落と明瀬が目ざとく言うが、特に咎めるわけでもなさそうだった。凝部と陀宰は同じクラスだということもあり、つるんでいてもほとんど不審がられることはない。ヒヨリはヒヨリでアステルの質問攻めに答えるのに忙しく、ほかの面々もだいたいは似たり寄ったりの反応だ。
(基本的に協調性の薄いメンバーだよな)
特に協調性があってまとめ役にもなっていた、年長のふたりを今は欠いていた。射落は基本的には悪ノリする側だ。遊びの場でまで無理にまとめようとはしない。集団としてのまとまりはほとんどないと言える。
これ幸いと、陀宰は凝部を人混みの外まで一気に連れ出した。
ヒヨリたちから十分に距離をとってから、ようやく陀宰は凝部の上着を離した。第一関門を突破したことで気が抜けて、はーっと長く息を吐き出す。それほど遠くまで歩いてきたわけではないが、屋台の列から遠ざかるように歩いてきたこともあり、人影はかなりまばらになっていた。
凝部は特段訝しがることもなく、いつも通りの食えない笑みを浮かべて陀宰を見ている。
「なーに、メイちゃん内緒の話? ヒヨリちゃんたちを避けるってことは、……ハッ、分かった猥談だ?」
「違う!」
「正月早々、メイちゃんはお盛んで、いや結構結構」
「だから違うっつーの!」
陀宰が声を荒げても、暖簾に腕押し糠に釘、凝部にはまったく堪えた様子が見当たらない。陀宰はがくりと肩を落とした。寒風が吹き抜けて、陀宰の心をまた挫く。
こういう飄然とした態度こそが、凝部流の駆け引きや処世術だとは知っている。それでも巻き込まれる側の疲労感は尋常ではない。真面目な話をしようとした自分が、だんだん馬鹿らしくなってくる。
(クリスマスの晩のこと、一応凝部には話しておこうかと思ったんだが……)
あくまで陀宰の推測だが、凝部はおそらく名前の気持ちを知っているのだろう。それも多分、それなりに深いところまで事情を理解している。そうでなければ納得のいかない言動も、凝部にはちらほらと見られた。
となれば、陀宰の方からも一言は凝部に話を通しておくのが筋。名前がいないこの場ならば、話をするのにもうってつけだ――と、陀宰は思っていたのだが。
「あ、待ってメイちゃんが言いたいこと、僕が当ててあげる。……うーん、分かった。名前ちゃんに告白された?」
「……お前、なんで分かるんだよ」
自分から話題を切り出す前に、あっさりと本題を言い当てられてしまう。陀宰が眉間をつまんで顔を俯けると、凝部は「えっ、うそマジで?」と軽い調子で驚きをあらわした。
「絶対それだけはないって思って言ったのに。だって名前ちゃん、あんなに頑固に告白しないって言ってたじゃん。あっ、もしかしてメイちゃん、昔のこと思い出した?」
「ちょっと待て。凝部、お前どこからどこまで知ってるんだ……!?」
『思い出す』というワードは、名前と陀宰の過去の話を知っていなければ出てこない。そのうえ名前の気持ちを知っているとなれば、過去に陀宰たちが交わし、そして今では反故になった約束についてまで知っているということだろうか。
顔色を悪くする陀宰に、凝部はてへっとお茶目に舌出しウィンクまでつけて、止めを刺した。
「うーん。多分、メイちゃんが知ってることは大体全部知ってる、かなっ☆」
「最悪……」
がっくりと項垂れた陀宰の肩を、凝部が「まあまあ、そう落ち込みなさんな」と気安くぽんぽん叩いた。そう言われたところで、陀宰を項垂れさせているのは他でもない凝部だ。
「ていうかそんなに落ち込むことかなぁ。メイちゃんの立場で知られて困ることなんて、そんなのほとんどないと思うんだけど」
「そんなわけあるかよ」
「だって全部過去の話じゃん。今現在の問題なんて名前ちゃんの気持ちくらいで、それだって言ってみれば名前ちゃんの問題というか、メイちゃんには何の責任も非もない話だし。名前ちゃんの心情を慮ってっていうなら話は別だけど、そもそも僕、その名前ちゃんから全部聞いてる立場だよ?」
「…………」
そう言われると、たしかにそれもそうかという気持ちになってくる。だが、だからといっていきなり割り切れる問題でもない。陀宰はそこまであけすけな性格にはなれない。
打ちひしがれる陀宰を放置して、凝部は手近な木の幹に背をあずけた。真冬とあって葉はすべて枯れ落ちてしまっているが、園内にはそれでもいたるところに木々や草花が植えられている。
そうしてリラックスした体勢をとった凝部は「でもすごいね、メイちゃん」と、唐突に陀宰に褒め言葉をかけた。意味が分からず、陀宰は顔を上げて首を捻る。
「すごいって、何が」
「だって名前ちゃん、さっきも言ったけど、メイちゃんに気持ちを打ち明けないって、かなりしっかり決意キメちゃってたんだよ。その名前ちゃんに告白させるなんて、並大抵の衝撃では無理。一体何を名前ちゃんに言ったの?」
凝部に聞かれ、陀宰は口ごもった。さすがにクリスマスの晩のやりとりを、何から何まで凝部に明かすつもりはない。とはいえ凝部は名前と陀宰の過去の話も知っているようだったし、名前からもかなり色々と聞いているのだと頻りににおわせてくる。
「今更隠し事しなくてもいいのに。メイちゃんが言わないなら、名前ちゃんから聞き出すだけだし。名前ちゃんは多分、ぺろっと話しちゃうだろうね。一番知られたくなかったところを、もう全部僕に知られちゃった後だから。あとはもう、何を話しても恥の上塗りにもなんないっていうか」
「……っ」
あの晩のことを名前の口から語りなおさせるのは、いくらなんでもさすがに酷だ。しかも相手は凝部。凝部は多分、名前相手にも容赦なく追求するだろう。自分の知りたいことは何が何でも暴きたい、凝部の強みはそこにある。
「どーすんの。話が終わりなら僕、もうヒヨリちゃんたちのとこ戻るけど」
「……分かった。話す」
「そういうことなら聞いてあげる」
結局、陀宰はあの晩のことをほとんどすべて、洗いざらいぶちまけた。そんなつもりはなかったのに、凝部の巧みな話術にすっかり乗せられて。
あまりにもすべてをぶちまけたために、話し終えるのに思った以上の時間がかかった。凝部は途中で自販機に飲み物を買いに行き、ヒヨリたちには所用でちょっと抜けるから、先に帰ってもらって構わないという連絡まで入れた。
買ったばかりのホットカフェオレの缶を、手のひらで転がしながら聞いていた凝部は、一通りの事情を聞き終えると「なるほどねぇ」とやけにしみじみした調子で呟いた。
「ていうか名前ちゃん、よっぽどメイちゃんのことが好きだったんだねー」
「…………」
「ていうか名前ちゃん、よっぽどメイちゃんのことが好きだったんだねー」
「二回言われなくても聞こえてるし知ってる!」
陀宰の咆哮を、凝部がくっくっくと笑って退ける。
「で? そんな健気で一途な名前ちゃんの告白を? メイちゃんは冷淡に切り捨て、フっちゃったわけだ? 十年来の名前ちゃんの思い出を……」
「なんで傷口抉るような言い方をする」
「あれ、メイちゃんに傷口なんかあるの? 傷口があるなら、それは名前ちゃんの方じゃないの?」
痛いところを鋭く突かれ、陀宰はぐっと押し黙った。凝部は飄飄として気にした様子もなく、「ま、僕には関係ないことだけどねー」と平然と嘯く。
そして落ちる、互いに腹の内を探り合うような沈黙。凝部はやはり平然としてカフェオレを飲んでいた。陀宰だけが、ただただ気まずい気持ちにさせられている。
(だが、凝部は間違ったことは言ってない)
だからこそ、返事のしようがなかった。名前からの告白を受け、陀宰は困惑したし驚きもしたが、傷ついたりはしていない。傷口などと言ったのは完全に失言で、もしもこの場に名前がいたのなら、さぞや彼女を傷つけていたことだろう。
凝部は情に薄いところがあるが、だからといって情を理解していないわけではない。むしろ理解しているからこそ、意図的に酷薄にもなれるのだ。
そして陀宰の見立てが正しければ、凝部は彼にしては意外なほど――それこそ凝部本人も自覚していないかもしれないくらい、名前を気にかけ、肩入れしている。
今更ながらに、凝部がいてよかったと思った。この話に限っては、名前はヒヨリには相談できないはずだ。だから凝部がいてくれて、名前の感情を適度に聞き流す人間がいてよかった。
(まあ、俺が言えることじゃないんだろうが……)
と、陀宰が自分の思考に自嘲ぎみな気分に陥ったところで。
「メイちゃん」
凝部がふいに陀宰を呼ぶ。ぼんやりと遠景に投げていた視線を凝部に向けた陀宰は、凝部のその顔つきにはっとした。凝部の顔にはおよそ普段の彼らしくもない、真面目な表情が貼り付いている。
視線は合わない。凝部が意図的に、陀宰から目を逸らしていた。
「俺はメイちゃんの覚悟も諦めの悪さも、向こうの世界で全部見てきたからさ。そういう意味では、なんだかんだいっても心の底から名前ちゃんの味方にはなれないんだよね。メイちゃんに幸せになってほしいかもーなんて、俺らしくないことを考えてるのも本当だし」
「凝部……」
そこで凝部が、ゆるりと陀宰に視線を向ける。そして凝部はおもむろに、にやりと人の悪そうな笑顔をつくり言った。
「あと、ぶっちゃけ誰が誰を選ぼうがどうでもよくない? っていうのもある。高校生で付き合っただのなんだの言ったって、別に結婚の約束するわけでもあるまいし。呆気なく別れる可能性ぜんぜんあるよね」
「台無しにしやがって」
真剣になって損した、と溜息を吐く陀宰に、凝部はわざとらしくあっはっはと笑う。ばしばしと陀宰の背を叩く腕は男子にしては細っこく、叩かれたところでちっとも痛くない。激励したりからかっているというよりは、背中を押されている。そんな感じだった。
「ま、いいんじゃない? メイちゃんだって指名されるのを待ってるだけじゃ退屈でしょ。たまには選ぶ側に回ってみれば?」
あまりにも無責任なアドバイスだ。けれど名前とのことでずっと気を張っていた陀宰には、その気楽さ心地よく、そして何よりありがたいものだった。
「異世界配信の最後の一回、俺は選ぶ側だったけどな」
「そういえばそうでした」
09
◇◇◇
新学期。高校三年生に進級する前の、最後の学期。
生徒の大多数が内部進学で大学に進む月桂高といえど、三年生ともなれば否応なしに受験ムードを盛り上げられる。高二の三学期は、その直前の最後のあがきのような時期――ではあるのだが、それはそれとして、一、二年生には当然のように休み明けの試験がきっちり組まれている。
新学期の初日は始業式後から夕方まで、冬休みの課題から出題される試験が続く。陀宰くんのことで頭を悩ませたり、バイトに精を出したりとなかなか忙しい冬休みではあったものの、試験勉強はそこそこにこなしていた甲斐あって、今のところは大コケはしていなさそうだ。
めでたし、めでたし。
「いや全然めでたしめでたしじゃないから。なんでメイちゃんも名前ちゃんも、ふたりともそんないつも通りなの? 名前ちゃんがメイちゃんに告白したのって、もしかして僕が見た夢?」
試験の合間の昼休み、ヒヨリちゃんが席を外しているタイミングでこそこそと、いやそれなりの声量で文句を垂れてくる凝部くんに、私は抗議の一瞥を遣ってから陀宰くんに視線を向けた。
教室内は休み明けの騒がしさと試験日の緊張感に満ちており、私たち三人の会話に耳を傾けているクラスメイトなどひとりもいない。教室の熱気によって窓ガラスにうすらと白が刷かれ、寒々しい外の景色がぼんやりと曇っている。
「ごめんね陀宰くん、凝部くんに話しちゃった」
お弁当のウィンナーをつまみながら私は言った。陀宰くんの手元には単語帳が開かれている。昼食時でも試験勉強を迫られていることから、陀宰くんの試験勉強の完成度は推して知るべしだ。
陀宰くんは単語帳から顔を上げると、きまり悪げに眉根を寄せた。
「いや、俺は……」
「あー、それならメイちゃんも僕に言いふらしてたから。名前ちゃんが気にしなくても大丈夫だよ」
「おい! バラすなよ!」
陀宰くんが慌てて椅子から腰を浮かせ、凝部くんの口を塞ごうとする。はずみに単語帳が宙を舞い、私は慌てて腕を伸ばし、ばらばら捲れる単語帳をキャッチした。
凝部くんは陀宰くんの腕をひらりと避ける。にやにや笑いをいっそう深めると、うまく陀宰くんを制したまま凝部くんは言った。
「いやー、ね、自分のモテを声高に主張する男って、僕はマジでどうかと思うんですけどー。その辺、メイちゃんはどうお考え?」
あげつらうような揶揄い方が、非常にいやらしく悪質だ。陀宰くんが机の下で凝部くんの足を踏もうとする。しかしそれもやはり不発に終わり、陀宰くんがただただ地団太を踏んだだけに終わった。
さらには凝部くんから「ちょっと困るとすぐ暴力に訴えかけるんだから。メイちゃん最近、ちょっとケイちゃんに似てきたんじゃない?」と追い打ちをかけられる。その一言でもって、陀宰くんはあえなく轟沈した。
と、そんな攻防を見るともなく眺めていると、私の心にまでむくむくと悪戯心がわいてくる。凝部くんの追撃の手がゆるんだのを確認してから、ことさら大袈裟に、深刻そうに、私は大きく嘆息した。
「なんかさぁ……別に凝部くんの肩を持つわけじゃないけどさぁ……陀宰くんさぁ……あのさぁ……」
「ち、違う!」
俯けていた顔をがばりと上げた陀宰くんに、私はふぅ、と物憂い青色吐息を吐き出して見せる。
「振られた私が話すならともかく、振った側がそういうことをぺらぺら話すっていうのは……」
「だから違う! 俺は言うつもりなかったんだけど、こいつが、」
「メイちゃん、男の言い訳は見苦しいよ?」
「凝部お前ほんとにウザい!」
「語彙がない男って嫌だねー」
ぐぬぬ、と陀宰くんが言葉を詰まらせる。どうやらこの勝負、完全に凝部くんに軍配が上がったようだ。
まんまと言い負かされた陀宰くんは、じっとり怨念のこもった目で凝部くんを睨んでいる。そんなことをしたところで凝部くんは一顧だにしないだろうに。というより、今陀宰くんが睨むべきは凝部くんではなく、私だろうと思うのだが。
とはいえ、凝部くんと陀宰くんの間のパワーバランスはともかく、今の陀宰くんが私に対して強く出られないことも分かる。あんまりやりすぎるのもよくないだろうと、私は「うそうそ、ごめんね。冗談だよ」と悪戯心の矛をおさめた。
「ちょっと悪ノリしすぎました。ごめんね」
「……いいけど、本当に、喜び勇んで話したとかじゃないからな」
「うん、疑ってないから大丈夫だよ」
ねぇ、と凝部くんに話を振れば、「僕からはなんともー」と無責任な返事がぽんと返ってくる。途端に陀宰くんの瞳が剣呑な色を帯び、私は乾いた笑いをもらした。
「というか、あれかな。私が凝部くんに話したから、それで陀宰くんがつつかれた感じかな」
「いや、多分苗字が言うより俺が先に失言したと思う」
肩を落とす陀宰くんと、「正解☆」と元気いっぱいな凝部くん。
「僕はただカマかけただけだし、名前ちゃんから聞いたのはその後だよ」
「あ、そうなんだ。すさまじいまでの勘の良さだね」
ちなみに私が凝部くんにこの話を打ち明けたのは、正月の三が日が明けてからのこと。どういう風の吹き回しか、凝部くんが私のバイト先に食事をしにきたので、そのついでにちらっとだけ話をした。引きこもりの凝部くんにしては珍しいこともあるものだ、と思ったことだけ、やけに強く印象に残っている。
今にして思えば、あの日凝部くんが私のバイト先にやってきたのも、先に陀宰くんから話を聞いたうえで私がどんな顔をしているのか見てやろうという、野次馬根性だったのかもしれない。他人のことに関心が薄い凝部くんだが、時折妙に俗っぽいところがある。
「あれ? でも凝部くん、私が話したときびっくりしたリアクションしてなかったっけ?」
「あれはー、告白云々にびっくりしたんじゃなくて、名前ちゃんが僕にそんな大事な話を打ち明けてくれるようになったんだなー、ってことにびっくりしたんだよ。僕ってほら、信頼がないから」
「分かってんじゃねーか」
先ほどの恨みを晴らそうと言わんばかりの、地を這う声で陀宰くんが口を挟む。
「僕がメイちゃんよりも名前ちゃんからの信頼を勝ち得ているからって、そんなイライラしないでよ」
「してねえし、殴る」
「してないなら殴んないで」
男子二人のコミュニケーションは気安く大雑把だ。なんとなく見ていて微笑ましい気分になる。
このまま昼休みが恙無く終了するかと思ったところで、
「で? 片や告白しました、方や告白されました、で? それでどうしてキミたち何の変化もないの?」
すっかり逸れていた話題を、凝部くんが半ば無理やり軌道修正した。私と陀宰くんが顔を見合わせ肩をすくめ合っても、凝部くんは「何それ!」と何故か余計に気炎を吐くばかりだ。
「一応聞くけど、メイちゃんは名前ちゃんの告白を断ったんだよね?」
疑問というよりは文句を言い立てでもするように、くちびるを尖らせ申し立てる凝部くん。苦笑する私を見て、振られた側では意見を言いにくかろうと思ったのか、陀宰くんが「だから言うなって、そういうこと」とむすりとする。
「でも、事実でしょ。あなた、告白しました」
そこで凝部くんは私を指さして、
「で、あなた告白されました」
もう片方の手で、今度は陀宰くんを指さした。
「で、それで関係が変わらない方がどーなんだって感じじゃん? ねえ、名前ちゃん」
「うーん、そうは言ってもねぇ……」
私はそこでちらりと、陀宰くんに視線を向けた。私の視線に気づいた陀宰くんは、まるですべてを受け容れますと言わんばかりの、悟りを開いた顔をしている。
(いや、悟られても困るんだけど……)
その潔いばかりの表情に、私は内心苦笑した。むしろもう少し狼狽えでもしてもらった方が、こちらとしては余程嬉しい。もちろん物には程度というものがあるけれど……。
と、そんなことを思いつつ、私は凝部くんへの説明のための言葉を探した。
「そうだなぁ……、なんていうか、振られたからって、私としては現状が変わったわけではないというか。私は陀宰くんのことが好きで、陀宰くんはヒヨリちゃんのことが好き。私は今のところ『待ち』を選んで長期戦の構えだし……」
悟りを開かれては困るが、まったく意識されないのも考えもの。だが、ぎくしゃくするのは一番よくない。適度な緊張感を保ちつつ、表面上はそのまま。それが今の私の希望だった。
「じゃあメイちゃんの方は?」
「俺は、苗字が何も変わらないから……俺が変に意識したりとか、しない方がいいのかと思って」
「ありがとう、陀宰くん。あ、でも最低限の意識はしてね。じゃないと私の告白が無意味なものになっちゃうから」
「ど、努力はする……」
難しい顔をして頷く陀宰くん。難しいことを要求している自覚は、私にもある。けれど諦めるなと言ったのは陀宰くんなのだから、そのくらい要求することは私にとって当然の権利のはずだ。
「というか俺、意識しないとかは逆に無理な気がする」
「ああ、メイちゃん結構顔に出やすいもんね」
凝部くんが「前途多難すぎじゃん」と笑う。たしかに、と私も笑う。陀宰くんだけが目尻をかすかに朱色に染めて、むすりとそっぽを向いている。
「あと、気になってたんだけど、名前ちゃんがメイちゃんを好きって話、ヒヨリちゃんには言わない感じ?」
「絶対に言わない」
「うわ、即答」
私の返事に、凝部くんが引いたような声を出す。けれどこれだけは、最初からずっと決めている。考えるまでもない。
「だってさすがに、それはフェアじゃないでしょ」
「恋愛にフェアもそうじゃないもあるの?」という凝部くんの茶々は黙殺した。陀宰くんは薄々私の考えに気が付いていたのか、特に驚いた顔もしていない。凝部くんではないけれど、陀宰くんが思ったよりも私のことを信頼していることが窺えて、なんとなく妙な気分になった。
「ちなみに、なんで言わないの? ヒヨリちゃんに隠し事をするの、嫌じゃないの?」
「まあ、好きで隠し事したいってわけではないよね」
でも、と私は続ける。
「賭けてもいいけど、ヒヨリちゃんは私が陀宰くんのこと好きって知ったら、私のこと応援すると思うよ。そしたら陀宰くんには申し訳ないけど、陀宰くんがヒヨリちゃんと両想いになる可能性はゼロになると思う」
「おい。はっきり言うなよ」
「だから内緒にしておこうって言ってるんだよ」
「名前ちゃん的には、バラしちゃった方が有利なのに?」
「目先の利をとるか、長期的な利をとるかって話だよね」
ヒヨリちゃんが陀宰くんに恋心を抱いているわけではない以上、ヒヨリちゃんを味方につけることは多分、容易い。けれどそれをしてしまうと、陀宰くんからの信頼はほとんど失われてしまうだろう。
「ていうか、俺の前でそういう話していいのか?」
呆れた声で陀宰くんが言う。
「自分にかかわる話は聞いておきたくない?」
「いや、普通に気まずいから」
陀宰くんが表情を険しくして嘆息した。私と凝部くんは視線を合わせて笑う。ちょうどそのとき、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。教室の前の入口に、ヒヨリちゃんの姿が見えた。よく見るとすぐ後ろに萬城くんも立っている。なるほど、戻りが遅かったのは萬城くんと話をしていたかららしい。
ヒヨリちゃんが戻ってきそうな様子を見て、何とはなしにこの話はおしまいになる。そのまま解散になるかと思った矢先、陀宰くんがふと思い出したように「苗字、」と私を呼んだ。
「苗字、来週以降で暇な日あったら教えてくれ」
「いいけど」
「何なに、デートのお誘い?」
すかさず混ぜ返そうとしてくる凝部くんを、陀宰くんが「そういうんじゃねーよ」と面倒くさそうにいなす。
「そういうんじゃないなら何さ」
「……うちの姉貴が、苗字に会いたいって言ってて」
陀宰くんは苦い口調でそう言ったが、私は思わず笑顔になって椅子から腰を浮かせた。
「ああ、陀宰くんのお姉ちゃん! 私も会いたいな。ぜひ!」
「よかった。姉貴に言っておく」
「伺うなら休日の方がいい?」
「いや、最近はわりと暇してるみたいだから、放課後でも大丈夫だと思う。一応確認はするけど」
「分かった。そういえば私、陀宰くんの引っ越し先の住所知らないや」
「ああ、そうか。じゃあ住所も送っとく。当日は最寄りの駅まで迎えに行くし」
「本当? 助かる」
休み時間の残りが少ないため、手早く話を進めていく。そんな私と陀宰くんを交互に見ながら、凝部くんが訳知り顔で「ふーん」と口を尖らせた。
「なんかさー、ふたり、そういう感じなわけねー」
「何が?」「何だよ?」
私と陀宰くんの声がきれいに重なる。凝部くんはさらに白けた顔をした。
「長期戦の決着が見えちゃって、僕的にはあーあって感じ。結果が見えてるゲームなんて、全然面白くないんだけど」
そう言って凝部くんは、陀宰くんの肩と私の肩を、それぞれぽんと一回ずつ叩いた。
「ま、いいけどね。お幸せにってことで」
凝部くんの無責任かつ意味深な言葉に、私と陀宰くんは顔を見合わせる。ちょうどそこへ戻ってきたヒヨリちゃんが「どうしたの?」と天真爛漫な笑顔を陀宰くんと私に交互に向けた。
fin.
(次のページから陀宰視点の後日談です)
Ex.
●●◎●●
自宅の玄関を思い切り押して開くと、コートに覆われた肩を縮こまらせた苗字が「あ」と小さな声で漏らした。苗字の私服姿を見るのはこれで二度目。だが制服姿はもちろん、以前見たことがある私服姿とも少し雰囲気が違う気がして、はからずもごくりと喉が鳴った。
女子って、休日になると雰囲気違うよな……。
自分の家にもいる『女子』のことは考えず、そんなことを考える。
「名前ちゃん来た?」
そのとき背後から『女子』の忌々しい声がして、俺ははっと我に返った。
「来た。……ええと、上がって」
俺は半身を引くと、玄関の前で開かれたドアの前で俺を見つめている苗字を、家の中へと招き入れた。
厳寒のなかでも日脚が伸びつつある二月某日。かねてよりの姉の希望によって、俺は今日、自宅に苗字を招いていた。
両親と兄は不在にしており、自宅には俺と姉貴のふたりしかいない。別に謀ったつもりはなかったが、兄やら両親やらが揃っていると輪をかけて面倒なことになりそうで、丁度いい日取りだったのではないだろうか。
今日は朝っぱらから、自分が苗字を呼べと言ったわりには役に立たない姉に文句を言いつつ、家中をくまなく掃除した。その甲斐あって、普段の散らかり具合は影も形も見当たらない。
苗字を俺の部屋に上げることはないだろうが、念には念をとリビング、トイレ、洗面所に自室まで掃除していたら、あっという間に正午をすぎ、苗字との約束の時間の間際になってしまった。
本当は駅まで迎えに行くつもりだったが、苗字が「ナビ見たら何とかなりそう」というので迎えに行くのはやめにして、そのかわり近所で茶菓子を買ってくる。家中の最終チェックを済ませたところでチャイムが鳴り、そこでタイムオーバーになったというわけだった。
ドアを開ける前に、玄関の姿見を確認する。苗字を招いたのは姉だが、それでも俺は柄にもなく緊張していた。
何せ自宅に女子の友達を呼ぶなんて、小学生の頃に一回あったかどうかというレベル。それも苗字は俺のことを好きだとはっきり明言しているわけだから、ただ女子を招くのとは訳が違う。まったく何も感じないというわけにはいかない。
苗字にも「意識はしてもらわないと困る」と言われている。……そういう台詞をうまく使ってくるあたり、俺より苗字のが一枚も二枚も上手な気がする。
「名前ちゃん! いらっしゃーい!」
やたらと陽気に出迎えた姉に、苗字ははっと顔を輝かせた。
「あ、お姉ちゃん! ……って、呼んでも大丈夫ですか? だめ?」
「何を今更かしこまることがあんの? 昔と同じ『お姉ちゃん』で大丈夫だよぉ」
遠慮がちに窺う苗字の肩を、寄ってきた姉貴が気安くばしばし叩く。十年の空白をものともしないその遠慮のなさに、自分と血のつながった兄弟とは思えない粗雑さを感じ、げんなりする。
そんな俺の辟易とした態度を察したのか、「今じゃだーれもそんなふうに呼んでくれないしねぇ」と、わざわざ俺の方を向いて、あてつけがましいことまで付け加える。それから姉はようやく、苗字のことを解放した。
「あはは。おじゃまします」
「どうぞどうぞ、自分ちだと思ってくつろいで」
「スリッパはそこの適当に使ってくれ」
「うん、ありがとう。陀宰くん」
と、苗字がきっちりとお礼を言ったその直後、
「だーざいくん、だぁー?」
やっと静かになったと思った姉が、またしても大袈裟に声をあげた。今度はなんだ、と言うより先に、姉が俺の腕をひっ掴む。
「なに、あんたらもしかして、苗字で呼び合ってんの?」
なぜかやたらと憤慨する姉。ふと見ると苗字が困ったように眉尻を下げて俺を見ている。この場は俺がどうにかするしかないのだろう。
「苗字で呼び合って悪いかよ? 高校生だし、普通だろ」
「昔はメイくん名前ちゃんって呼び合ってたのに?」
「いつの話をしてるんだ」
「幼稚園の頃の話に決まってるでしょ」
「だから、俺はそんなの覚えてねえんだって」
売り言葉に買い言葉、の要領で言い返してすぐ、俺は自分の失言に気が付いた。はっと苗字を見れば、苗字はやはり困り顔を湛えたまま、おだやかに微笑んでいる。
覚えていないなんて、苗字の前で発するべき言葉じゃなかった。なんて、反省したところで後の祭りだ。
「あ、悪い……」
咄嗟に謝る。名前は微笑みを崩さないまま、「何が?」と軽く首を傾けた。
「いや……うん」
「急に謝られるからびっくりしちゃったよ」
そう言って笑う苗字の顔は瑕疵ひとつない笑顔で、あまりにも自然に取り繕うものだから、かえって罪悪感が胸にわく。
今はたまたま苗字が笑って誤魔化したことに気付けたからいいものの、これまで何度、俺は苗字にこうやって笑顔で誤魔化すことを強いてきたのだろう。そのことを考えると、自分の馬鹿さとにぶさに気が遠くなってくる。
微妙に空気がぎこちなくなった。そこへ姉が、ぎこちなさなどまったく気にせず、ずかずかと割って入ってくる。
「ごめんねぇ、うちの不肖弟が」
「もうどっか行けよ」
正直助かった、と思いつつも、ついつい憎まれ口を叩く。
姉は俺を見上げると、ぱちくりと何度かまばたきをして言った。
「いいの? あんたらが気まずかろうと思って、こうやって出掛けるの先伸ばしにしてあげてたのに……」
「別に、気まずいとか……」
たとえそう思っていても、苗字がいる手前肯定などできるはずがない。もごもごと言い返す俺に、姉はあっけらかんと笑った。
「そ? メイがそう言うなら、じゃああたし、バイト行ってくるわ」
「は!?」
思いがけない、というか普通に考えて思い付くはずもない突拍子もないことを言われ、俺は思わず目を剥く。苗字も「えっ」と声をあげたきり、絶句していた。当然だ。どこの世界に、客を招いておきながらその客を放置してバイトに行く人間がいるというのか。
しかし姉は俺たちの動揺を気にかける素振りすらなく、くるりと玄関に背を向ける。向かう先は廊下の向こうの階段で、そしてもちろんそれは自分の部屋に引き返すためだった。
「ちょっ、おい! 姉貴が苗字のこと呼べっつったんだろうが!」
「うん、だからもう会ったし。満足したし。メイちゃんにどっか行けって言われたし」
「お前……」
「女子とふたりきりだからって、悪さとかしちゃだめだからね。あとお客様にはお茶くらい出しなよ」
言いたいことだけ勝手に言いちらし、姉は足取り歩く階段をのぼっていってしまった。後に残された俺たちは、互いに困った顔を見合わせる。いや、困っているのは苗字の方か。俺は困るというよりむしろ、身内の恥を晒したことへの情けなさの方が強い。
「とりあえず……どうしたらいいかな?」
未だ靴すら脱いでいない苗字は、上目遣いに俺を見上げた。その姿には、普段凝部と言い合っているときの、口達者さはどこにもない。言葉少なに俺からの指示を待っている苗字は、普段よりも割増しでおしとやかな女子という雰囲気を纏っていた。
(女子だ……)
しかも、かなりレベルの高い、俺のことを好きな女子。
暴風雨のような姉の存在によって掻き消されていた事実をにわかに思い出し、俺は急速に顔が熱くなるのを自覚した。
「ええと、じゃあとりあえず上がってくれ。お茶くらいなら出せるから」
「あ、そうだね。お邪魔します」
そうだ、これおみやげ。と苗字が差しだした紙袋は、俺がさっき大急ぎで茶菓子を買いに行った店とまったく同じ菓子屋のものだった。
●●◎●●
有言実行の姉はその後、本当にバイトに出掛けてしまった。おかげで家の中には俺と苗字のふたりきりになる。ひとまず、予定していたとおりにリビングダイニングに通すと、苗字はさっそくテーブルの上の置物に目を留めた。
「この置物、昔家族旅行行ったときのやつでしょ。見たことある」
そう言って、懐かしそうに目を細めて笑う。たとえ相手が好きな女子じゃなくたって、女子の可憐な笑顔を見さえすれば、男というのは眩しく感じてしまうものらしい。俺までつられて目を細める。
それにしても、苗字は俺とは較べものにならないくらい記憶力がいいようだ。俺なんか家族旅行の記憶すらおぼろげだというのに、他人の家の置物の由来を未だに覚えていようとは。
そういえば以前瀬名から、凝部ほどではないにしても苗字の成績も優秀なのだと聞いた気がする。そう考えると、俺が苗字のことを覚えていなくて、苗字が俺を覚えているのは、一概に気持ちの強さの問題だけでもないような気がしてくる。
苗字に椅子をすすめ、俺はお茶の準備に取り掛かった。キッチンに向かう前、ふと見ると姉が見ていたドラマがそのまま点けっぱなしになっている。
テレビは点けておいた方がいいのか、それとも消しておいた方が静かでいいのか。悩んだすえ、ひとまず音量だけ下げて、そのままにしておくことにした。変に沈黙が続いたときに気まずくなりたくない。
キッチンで支度を整え、菓子盆と一緒にダイニングに持っていく。
「ええと……なんか、悪い。姉貴が身勝手で」
俺が声を掛けると、苗字はぼんやりと窓の向こうに向けていた視線を戻した。
「お姉ちゃん久し振りに会ったけど、ぜんぜん変わってなくて安心した」
「相変わらず傍若無人だろ」
「でもお招きしてくれたのお姉ちゃんでしょ。嬉しいよ」
招いただけで、もてなしているのは俺だ。顔だけ見ればいいというのなら、別にわざわざ家に呼ぶ必要なんかなかった。俺だって朝から掃除でへとへとになることもなかったし、緊張することもなかったし、苗字はわざわざ乗り慣れないバスに乗る必要もなかった。
つくづく姉の身勝手ぶりに腹が立つ。さらに腹立たしいのは、こうして自分で身勝手をしておきながら、あとから絶対「私が気を利かせてふたりきりにしてあげた」的なことを言ってくると、長年の経験からすでに分かり切っていることだ。恩着せがましいどころの騒ぎじゃない。
むかむかしながら、苗字が買ってきてくれたうぐいす餅に楊枝をいれた。まさか俺もさっきまったく同じものを買いに行ったとは言えないので、自分が買ってきたぶんはキッチンの奥の戸だなに隠してある。
「そういえば、陀宰くんは嫌じゃない?」
「何が?」
「私が、陀宰くんのお姉ちゃんのことお姉ちゃんって呼ぶの」
今更だけど、と添えて、苗字はうぐいす餅を口に運んだ。淡く色づいたくちびるが薄く開かれ、小さく切り取られた和菓子がそのなかに呑み込まれていく。
視線がいつのまにやら苗字の口許に吸い寄せられていることに気が付いて、俺は慌てて視線をそらした。幸い苗字には気付かれなかったようで、苗字は「これ美味しいね」とのんきなコメントをしている。
姉の呼び方について。俺はいまいちど先ほどの苗字と姉の遣り取りを思い返した。……まあ、うん。
「別に嫌ではないよ。変な感じではあるが」
「あはは、やっぱり変な感じするよね」
朗らかな笑い声に、少しだけほっとする。過去にふれる話題には、どうしたって少なからず緊張を伴う。
「けど苗字がそう呼んでて、姉貴もそれでいいって言ってるなら、そこは俺が口出すところでもないし」
「そっか。柔軟だね。陀宰くん」
「そうか?」
褒められているのかもよく分からず、俺は首を傾げた。頷いた苗字は、笑顔のまま、視線を手元の小皿に落とす。つられて俺も皿に目を向けた。半分になったうぐいす餅が、ぽてんと皿の上であんこを見せている。
「うぐいす餅って、見かけるとついつい買っちゃうんだよね」
「和菓子をわざわざ買うこと、あるか?」
「買わない? 私の家は結構、季節のお菓子を買うんだけども」
「へー、なんていうか、苗字んちは風流だな。雅っていうか」
「えぇ? 雅かな? 雅なのかも。お母さんに言っておくね。陀宰くんがお母さんのこと雅って言ってたよって」
「……いや、いい。言わなくていいから」
「そもそも、雅って褒め言葉なのかな」
「それはまあ、褒めてるだろ。貴族っぽいし」
「本当に? なんか今ちょっと馬鹿にしたニュアンス入ってなかった?」
「入ってない入ってない」
「……じゃあ『陀宰くんって貴族っぽいよね!』って言われて、陀宰くん喜ぶの?」
「……嬉しくはないな」
「やっぱりそうなんじゃん」
くすくすと苗字がおかしそうに笑う。会話のあまりのくだらなさに、俺もついつい笑った。
会話はゆったりとしたペースだが、空気が悪いわけではない。というより、穏やかでゆるやかな雰囲気が、俺たちの間の変な緊迫感を薄れさせてくれていた。
この雰囲気なら、苗字とふたりでもそれほど緊張せずに済むかもしれない。内心で俺はほっと安堵した。苗字にはいろいろと聞きたいこともある。そしてその聞きたいことのほとんどは、できるだけ人目のないところで話すべき話題だった。
半ば強引にセッティングされた会ではあるが、この機会を利用しない手はない。
と、そんなことを考えていたときだった。
「これいただいたら、私、帰ろうかな」
唐突にぽつりと呟いた苗字に、俺は「えっ」とうっかり狼狽した声を上げてしまう。直後はっとして苗字を見れば、苗字はあからさまに苦笑している。
「陀宰くん、きな粉飛んでるよ」
「えっ、うわっ」
苗字の言うとおり、俺の皿から飛び散ったうぐいすきな粉が、色鮮やかにテーブルにまぶされていた。慌ててキッチンから台拭きを持ってきて、テーブルのきな粉をふき取る。ようやく片付けを終えてから、俺はもう一度椅子に腰を下ろした。
「帰るって、なんで。わざわざ来てもらったのに」
もちろん、帰るなだなんて言う権利は俺にはないし、苗字が帰りたいのなら帰ればいい。高校生にもなって和菓子のきな粉をぶちまけているような男と、もはや一秒も一緒にいたくないというのなら、それはたしかにその通りだ。従うほかない。
けれど、苗字はどういうわけか困ったような顔をして、
「……なんでって、陀宰くんがそれ言うの?」
冗談のような責めているような、不思議な声音でそう言った。意味が分からず眉根を寄せかけたところで、俺はやっと苗字の言葉と懸念の意味に思い当たる。
苗字は俺のことが好きで。
俺は、けれど、瀬名のことが好きで。
俺のことを好きな、俺は別に好きじゃない女子とふたりきりなんて、どう考えても気まずいに決まっている。俺も気まずく感じていなければおかしいし、苗字だって当然気まずいはずだ。
これまでふたりきりになっても平気だったのは、苗字の気持ちも事情も、俺が知らなかったから。言ってみれば苗字がひとりで、気まずさを担ってくれていたからだ。
今は違う。俺はもう、苗字の気持ちを、事情を、すべて知ってしまっている。そして苗字は俺に気まずさや罪悪感を押し付けることを、多分、かなり根深く嫌がっている。
「あ、そう、だよな……。悪い、常識的に考えたら、そうなるか」
「まあ、うん」
苗字の気遣う顔を見ていたら、馬鹿みたいに空気が悪くないだのなんだの考えていた自分が恥ずかしくなった。苗字といると何故か、俺はひどく自分本位になってしまう気がする。
なんだかんだ言っても、いや何を言うまでもなく、苗字は俺のことを好きな女子なわけで。さっきまでだって俺が一方的に安心していただけで、苗字の方はずっと、きっと今も緊張がとれないまま、居心地の悪い思いをし続けていたのだろう。
そもそも本来は俺だって、女子とふたりきりなんてシチュエーションには慣れていない。異世界での生活を経て、瀬名とふたりでいることにも慣れ、それでなんとなくいろんなことが麻痺していたが、高校生の男女がこうして自宅にふたりきりでいて、気まずくないなんてはずがなかった。
「今更、陀宰くんと幼馴染に戻れって言われても、それもできなくて困るしね」
苗字がぽつりと呟く。もしも俺たちが幼馴染の距離を持てていたなら、今この瞬間だって気まずくなかったのかもしれない。けれど俺は苗字のことを幼馴染とは思えないし、理由は違えど逆もまた然りだろう。
「……なんか、悪かった」
「なんで?」
「いや、俺のデリカシーがなかったなと思って」
「デリカシーとか、陀宰くんや凝部くんにはあんまり期待してないよ」
「俺はそこで凝部と並ぶほどなのか……?」
「私にとってはね。優しいし、ほかの女子にはデリカシーあると思うけど」
ちくちくとした棘を含んだ言葉は多分、俺が必要以上の申し訳なさを感じないようにするため意図したものだろう。適当な棘で指先をつついた痛みで誤魔化して、本来抱くべきもっと重たい痛みから、目を背けさせてくれようという苗字の優しさ。
――と、そんなふうに高みから観察し、分析したような気分になっていたからだろうか。
「まあ、常識的に考えなくていいなら、私は陀宰くんとふたりきりで嬉しいけどね」
「う、えぇ……?」
予告なく直球の口説き文句をぶつけられ、俺は無様に狼狽えた。
苗字はさっきまでの困り顔はどこへやら、目を弓なりに細めてにやにや嬉しそうに笑っている。悪戯が成功した子どものような表情だ。
「あはは。陀宰くん照れた? 照れたよね」
「……不意打ちは、ずるいだろ」
「長期戦の構えだからって、何もしないとは言ってないよ」
この『してやったり』顔。まさか直前までの困り顔すらこのための伏線だったのか、と俺は頭を抱えた。なんだか疑心暗鬼になってくる。いや、さすがにそこまでの仕込みはないだろうけれど。いやいや、それでも苗字は凝部とやけにウマがあってるし、何より俺の幼馴染だと隠したまま数か月そ知らぬふりをしていたくらいだから、それもどうだか分からない。
「心配しなくても、さっきのは本当に困ってたよ?」
「おい。心、読むなよ」
顔を上げて俺が睨むと、名前はうふふと嬉しそうに笑った。
「陀宰くんって結構、考えてること全部顔に出るよね」
「それ、凝部にも言われる」
「言われてるね、知ってる」
楽しげにくすくすと笑って、苗字は残っていたうぐいす餅をぽいっと口に入れた。その仕草は女子らしくもある反面、子どもっぽくもある。そんな苗字を、俺はやや複雑な気分で眺めた。
教室ではどちらかといえば近寄りがたい雰囲気の苗字が、諸々事情があるとはいえ、俺の前でこんなふうに無邪気に甘いものを食べて笑っている。好意をほのめかせるどころかはっきり主張し、惑わすような微笑みをくれる。苗字のことを影で慕っているやつらにバレたら、俺なんか普通に袋叩きにされてもおかしくないような状況だ。
苗字はモテる。多分、俺が思っていた以上に。苗字から好きだと言われて以来、その手の話がやけによく耳につくようになった。
それとなく凝部に聞いてみれば、ここのところすっかり雰囲気がまるくなった苗字は今、静かな人気を集めているという。
もともと俺は苗字の恋愛事情に興味がなく、ゆえに話が耳に入ってこなかった――入ってきても、これまでは素通りしていたのだと思う。だがそのことを差し引いても、やはり今の苗字にそういう話が増えているらしいのはたしかだ。これだけ可愛いのだから、それも当然のことだと思う。
(いや本当に、俺さえいなければ、苗字って普通に彼氏がいてもおかしくないんだよな……)
しみじみ考える。と、苗字が「陀宰くん?」と湯呑を手に、首を傾け俺を呼んだ。何時の間にか苗字に無遠慮な視線を向けたまま、ぼんやり考え事をしていたらしい。悪い、と軽く詫びてから、俺は思い立って苗字に尋ねた。
「俺がこんなこと言うのはおかしいかもしれないんだが……、苗字は、どうして十年以上も、俺のことを好きでいられたんだ」
「ぶふっ」
途端に、苗字が大きく咳き込む。俺と違って吹きだしたりこぼしたりすることはなかったが、それでも苗字はげっほげっほと激しい咳き込みを繰り返し、ぜえぜえ肩で呼吸を繰り返した。
取り乱す苗字というのは珍しい。大きく情緒を乱されても、苗字はどちらかといえば静かなままのイメージがある。怒ったり泣いたり感情をあらわにするより、自分の中から感情を漏らさぬよう、ただ微笑んでいるというような。
「はぁ……は、げほっ、はぁ……」
「おい、大丈夫か」
気遣うつもりで声を掛けたら、咳のせいで顔を真っ赤にした苗字に、ぎろりと鋭く睨まれる。片手を突き出されて制止され、俺は浮かせかけた腰を椅子に戻した。
しばらくして、自力で回復した苗字は、むっつりとくちびるを尖らせ言った。
「ちょっと、飲み物飲んでるときにそういうこと聞くのやめてよ」
「悪い。けど、気になって……」
言いながらも、俺の視線は苗字の尖ったくちびるに引き寄せられていた。先ほどの咳き込みといい、苗字にしては分かりやすい感情表現だ。もしかして、自分では気づいていないのだろうか。大人びた彼女の意外な一面に、なんだか微笑ましい気分になる。
そんな気分の良さや優越感みたいなものが、何時の間にか顔に滲んでいたのかもしれない。苗字は訝しげに俺の顔をじろりと眺めまわしたあと、まるで負け惜しみみたいなふてくされた調子で言った。
「というか陀宰くん、そんなこと聞いていいの?」
「え。やっぱだめだった……?」
ついさっきも、デリカシーがないと言われたばかりだ。不安になって尋ね返すと、苗字は眉尻を下げて溜息を吐いた。
「だめってわけじゃないけども……。だって、私の側の事情とか気持ちとか、そういうのいろいろ聞いちゃったら、私に情が移っちゃうんじゃないの?」
「情って」
「告白を蹴るつもりなら、余計なことは聞かない方が身のためだと思うんだけどなぁ」
眉を下げたまま笑う苗字。俺はその顔を見つめる。苗字の言葉に、何と返していいか分からなかった。
俺のことを諦めないと苗字は言った。それは取りも直さず、苗字が俺と両想いになること、俺に好きなられることを諦めないということでもある。苗字の気持ちを知りながら、諦めないで欲しいなどと宣った不義理ものの俺が言うのもなんだが、見込みのない片思いはきつい。少なくとも、俺はそう思っている。
だから苗字は、最終的には俺と付き合えるだろうという、空想にも似た希望をよすがにしているはずなのだ。けれどその一方で、苗字は俺が苗字に対して情を抱くことを危惧してもいる。そうなれば儲けもの、苗字の立場ならば歓迎すべきことなのに、まるでよくないことのように、忠告の言葉を口にする。
ではそれは一体、誰にとってのよくないことなのか。
そんなのは、俺にとって、に決まっている。俺にとって、よくないこと。もっと言うのならば、苗字の考える、俺にとってよくないこと。瀬名を好きな俺にとって、よくないこと。
テーブルの上に載せていた手のひらを、俺はぎゅっと強く握った。
「余計なことなんかないよ」
苗字の目を見て、俺は言う。そんなふうに気遣われる自分が情けなくもあったし、多少腹立たしくもあった。苗字の優しさや、俺を好きでいることへの後ろめたさみたいなものが、苗字にこんなことを言わせているのだと、分かっていても。分かっていてもなお、苛立ちにも似た思いが、ふつふつと胸にわいてくる。
「余計じゃないの? 知らなくていいことなら、知らない方がいいって思わない?」
「俺のこと、す、……好きって言ってくれる相手の話なら」
「……照れるくらいなら、言うのやめたらいいのに」
「うるさい……」
威勢が良いのは最初だけで、後はしりすぼみになった俺の言葉に、苗字がくしゃりと目元を綻ばせた。そして一言、
「……本当、陀宰くんはずるいなぁ」
そう呟いて、口を閉ざした。
しばらくの間、会話が途切れて沈黙が落ちた。テレビからは音量をおさえた音声が聞こえている。何かのドラマの再放送のようだったけれど、番組を見ていないから内容は分からない。
(もしかして、泣く……?)
一瞬、そんな思考が脳裏をかすめた。続けて焦燥がほんの束の間胸にわき、しかしそれは自覚するのと同時に下火になり消える。
その思考に違和感を抱き、俺は内心で首を捻った。
これまで俺は恐らく、数限りなく苗字のことを傷つけてきた。そのことは間違いない。けれど俺は一度だって、苗字が泣いているところを見たことがない。
それなのに、俺はどうして今、苗字が泣くかもしれないと、そう思ったのだろう。思考を深め、自分のなかにその手がかりを探す。
けれど俺が違和感の正体に気付くより、苗字が重々しく口を開く方が先だった。
「まあ、いいか。私に損のある話じゃないし」
苗字は意図的に露悪的、打算的な言葉を選んでいるように見える。そしてそれもまた、俺が苗字にそうさせているのだろう。
苦々しさが胸に迸った。けれど、その感情には気付かないふりをする。ここで真に苦々しい思いをしているのは、まず間違いなく俺ではなく苗字の方だった。
苗字は菓子の載っていた皿を少しだけわきに避け、テーブルの上で両手の指を組む。束の間言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、苗字は「どこから話したらいいのかな」と恥ずかしそうに笑った。
「どこからでも、苗字の話しやすいところから」
「話しやすいところなんて一個もないんだけど」
「じゃあ、話してもいいと思えるところ」
「うぅーん……」
この手の話をする準備をしていなかったのか、名前は心底途方に暮れた顔をしている。そうしているうちに、だんだんと俺の方が申し訳ない気分になってきた。
どうして十年も好きでいられたのか、なんて、よく考えたらいくら何でも無茶ぶり過ぎたかもしれない。自分のことを好きな女子に対してぶつける質問でもないだろう。こういうところがデリカシーがないと言われるゆえんなのか、と落ち込む。
「苗字、やっぱりこの話は」
しなくていい、と言おうとした俺の言葉を遮るように。
「初恋、といえば聞こえはいいけども」
ひそやかな、それでいて淡々と抑揚の小さな話し方で、苗字が切り出した。
はっとして、俺は口をつぐむ。苗字の表情は、薄い笑みを貼り付けながらも真剣そのものだった。多分、思考しながら話を組み立て、語っているのだろう。苗字の頭の中がめまぐるしく働いているさまが、たわむところのない瞳から窺える。
「今になって思えば、引っ越しをして陀宰くんとも会えなくなって、それどころか連絡もとっていなくて……。会えない間に募らせてた気持ちは多分、恋愛感情というよりは何かに縋るとか支えを求めるとか、そういうものに近かったんじゃないかなぁ。といっても自分のことだから、今でも分かるようで分からないままなんだけど、自分でも」
「支え……ああ、それなら」
分かるかもしれない、と素直に思った。
もちろん苗字が十年に亘って抱えていた重いを軽々に分かるなんて言えないし、分かったつもりになる気もない。ただ、一度目の異世界配信のあと、瀬名をあちらの世界に呼び寄せるまで、俺も苗字と似たような思いをしたことがある。あのときのことを思えば、苗字の気持ちがまったく理解できないわけではない。
あのとき、俺のそばには廃寺が――アステルがいたとはいえ、あの世界に人間は俺ひとりだけだった。たったひとりきり。ひとりぼっち。言いようもなく俺は孤独だった。
その孤独を乗り切るためには、瀬名の存在は絶対に必要だった。その場にいなくても、瀬名のことを考えるだけでどうにか頑張ることができた。立ち上がることができた。希望を失わずに済んだ。
瀬名がいなければ、俺はきっと、とっくに孤独に膝を屈していた。
「こっちの幼稚園に通ってた頃の私って、本当に友達らしい友達がいなかったんだよね。家族以外だと、仲がよかったのってメイくんだけで。だから、メイくんだけだった。遠い場所で思い続けられるような、そんな相手が」
いつのまにか、苗字の俺への呼び方が陀宰くんからメイくんになっている。苗字にとって、過去の俺は今でも『メイくん』なのだろう。
いつもなら、下の名前で呼ばれるだけでむっとする。けれど今は、不思議と嫌な気にはならなかった。苗字からのその呼び名を、俺はごく自然に受け容れていた。
「会えない間、メイくんの写真を見て、いつも思ってた。『いつか、帰れる』『いつか、また会える』って。そう思ってれば、知らない場所でも、知らない子たちのなかでも、私は頑張れた」
脳裏に幼い日の苗字の姿が思い浮かぶ。不慣れな環境で、見知らぬ子どもに囲まれて、俺との約束をたった一本の杖にして、どうにか必死で歩こうとする苗字の姿が。
「とまあ、そういうわけだから、本当の意味でちゃんと好きになったのは、高校で再会してから、かな? 十年間ずっと好きでいられた理由は、大体そんなところで、今陀宰くんを好きな理由とはちょっと違うかも」
最低限の相槌しか返していない俺の表情を、苗字ははにかみながら窺った。可愛いと、素直にそう思う。もしも俺の心に瀬名がいなければ、そうしたら俺は多分、苗字の告白を受けていたことだろう。
「陀宰くんの、昔と変わらず優しいところ、昔よりもずっと優しいところ、笑った顔とか、男子同士でじゃれてるときの顔とか、そっけないけどちゃんと周りを見てるところとか……。他にもいろいろ、そういう、十年の間知らずにいた陀宰くんを見つけるたび、好きだなって思ってた」
「苗字、」
「だから、陀宰くんがヒヨリちゃんのこと好きになったときも、すぐに気付いたよ」
するりと紡がれた言葉に、俺の喉が凍り付く。
苗字は、視線をテーブルの上の、自分の指先に落とした。
「羨ましかった、ヒヨリちゃんのこと。私は陀宰くんに忘れられてしまったけど、ヒヨリちゃんは見つけてもらえる子なんだなって。過去なんかなくても、たとえいつ出会ったとしても、ヒヨリちゃんはちゃんと見つけてもらえる、陀宰くんから選んでもらえる子なんだなって。そう思ったら、ヒヨリちゃんのことが羨ましかったし……ずっと、苦しかった」
おまけに夏休み明けたら、お昼ご飯食べるのに陀宰くんのこと連れてくるし、と苗字がおかしそうに笑う。
「もうさ、びっくりしちゃうよね。だって私、それまでずっと陀宰くんのこと避けてたんだよ」
「避けてたのか」
「だって、私のこと覚えてない陀宰くんの近くにいたらつらくなるし。絶対に好きになっちゃうとも思ったし。好きになりたくないから、避けるしかなくて」
「……そういうことか」
「だからヒヨリちゃんが陀宰くんと凝部くん連れてきたとき、本当にどうしようかと思ったよ。あのとき多分、はじめてヒヨリちゃんのこと恨んだね。陀宰くんに見つけてもらって、好きになってもらえるだけじゃなく、このうえ見せつけてくるとか、無自覚に鬼すぎると思って」
「悪い……」
そういえば、一番最初に一緒に昼食を食べた日、凝部がそんなようなことを言っていた。――「嫌がられてんのは僕じゃなくてメイちゃんか」、だっただろうか。細部までは覚えていないが、印象的な言葉だったので覚えていた。ほとんど話したこともない相手に嫌がられるなんて、経験は今までの俺にはなかったから。
さすが凝部というべきか。あれは的を射たコメントだったということだ。二年に進級し同じクラスになってから、苗字は巧妙に俺を避けていたのだろう。よく考えれば分かることだった。瀬名とどうにかして話しをしたいと思っていた一学期の俺が、瀬名の親友で、瀬名にべったりの苗字と話したこともないなんて、普通に考えればそんなことはあり得ない。
苗字がふう、と息を吐く。俺が相槌くらいしか打たないせいで、苗字ばかりが話し続けていた。さすがに疲れたのか、苗字はすっかり冷めたお茶をこくりと一口飲み下す。
「話すの疲れたよな。悪い、いろいろ話させて」
「なんで? お茶してるんだから、話しくらいするよ」
屈託なく苗字は言う。
「まあ、たしかに? 話すつもりがなかったことまで話した感じは、ちょっとあるけども」
「苗字は、聞いたらだいたいのことは教えてくれるよな」
「聞かれなかったら教えないことばっかりだよ」
「……そうだな」
もしもボタンをひとつでも掛け違えていたら、今この場に苗字はいなかった。俺が苗字のことを忘れた時点で、たとえ瀬名のことがなかったとしても、苗字は俺と距離をとったから。きっとそのまま進級して、卒業して、俺と苗字は話したこともないまま別れ別れになっていたに違いない。
もしもそうなっていたら、苗字は俺との思い出も約束も、すべて自分ひとりで仕舞い込んだまま、何でもない顔をして俺の前からいなくなったのだ。俺にいなくなったことすら意識させないまま。すれ違っていたことすら、さほど記憶させないまま。
そのことを思うと、背すじがうすら寒くなった。
たとえ俺にそんなことを思う資格がなかったとしても、ぎりぎりのところで苗字と出会いなおすことができてよかった。掛け値なしの本心で、そう思う。
湯呑に残ったお茶を最後まで全部飲み干して、苗字がふうと息を吐く。俺と視線を合わせると、苗字は片頬を歪めて、わざとらしい意地悪な笑顔を顔に浮かべた。
「といってもさ、もし私が陀宰くんでも、きっとヒヨリちゃんを見つけたと思うんだよね。だから、なんていうか……仕方ないと思ったというか」
ま、それでも結局こうして諦め悪く家まで押しかけてるわけだけど。そう冗談めかして話を締めくくると、苗字は今度こそきゅっとくちびるを引き結んだ。
話すべきことはすべて話した、という意思表示だろう。
まるで次は、陀宰くんの番だよと言われているようだった。特に何を迫られているわけでもないのだが、なんとなくそう思う。おそらく、苗字が胸の内のかなり奥深く、普段ならばけして晒しはしないところまで、胸襟を開いて話してくれたからだろう。
俺も報いなければ。そう思った。
冷たくなったお茶を飲み、くちびるを湿らせる。どこから話すべきか。何を話すべきか。束の間緒を探す。
しかし考えてみれば、そもそも俺は苗字と違って、話すべき過去を持っていないのだ。
今の俺に話すことができるのは、そのまま今の俺についてだけ。それだけだ。そして今の俺を構成している要素のうち、もっとも苗字に話すべき要素は、間違いなく瀬名のこと。
「瀬名とのこと、話せる範囲で話そうと思うんだが……」
嫌じゃないか、と聞くより先に、苗字は深く頷いた。無論、嫌じゃないはずはないだろう。それでも苗字は聞くという。その返事を信じて、俺も腹を括った。
「……まず、大前提としてなんだが、俺は瀬名にはすごく迷惑をかけたんだ。まあ迷惑を掛けた相手は瀬名だけじゃなくて、凝部とかも、なんだけど……。とにかく、あんまり詳しくは言えない事情で、いろいろあってさ」
「うん」
「気付いてるよな?」
「詳しくは聞いてないし、陀宰くんから聞くつもりもないけど。でも、そうだね。陀宰くんと凝部くんが情報管理局にいるところを、前に一度、見たことあるから」
なんだ、見られていたのか。必死で隠していたことが馬鹿らしくなり、俺ははぁと溜息を吐く。苗字は「でも、詳しいことは何も知らないから安心して」と、微妙に的外れなフォローをする。
「いや、別にいいんだ。もう終わった話ではあるし。口外しちゃいけないことも色々あるが」
「うん、それは大丈夫。聞くつもりもないよ」
物わかりのいい態度は、苗字のもとからの性格だろうか。それともすでに多くを悩み抜き、そのうえで出した揺るがない結論なのだろうか。俺は苦笑し、苗字にお礼を言ってから話を続けた。
「俺はそのときに瀬名に恩があって、なんていうか……感謝してる。その前から、瀬名のこと好きだったのは、そうなんだけど……。というかそもそも、瀬名に迷惑かけることになったのも、俺が瀬名を、諦めきれなかったからで。瀬名なら、大丈夫かもしれないって、俺が勝手に、期待をかけたからで」
話しているうちに、自分の言葉が支離滅裂になっていくのが自分で分かった。言葉にするほどうまく気持ちがまとまらない。声に出したそばから、俺の実感から遠ざかるような気がする。
(こんなふうに話せるほど、俺はまだ異世界での出来事に対して、距離をとれていないってことか……)
はからずも向き合った内面に、俺は思わず自嘲した。
異世界での出来事も、瀬名を巻き込んだことへの罪悪感も。それらの過去を、俺は自分で思っていたほど過去のことにできていないのだ。苗字に話をしながら、そのことにようやく自分で気付く。
過去のことになど、なっていなかった。
俺の右目はもとに戻ったし、瀬名も笑顔で帰還した。
それでもまだ、俺の中にはあのとき感じた孤独がしぶとく蹲っている。あのとき抱いた、胸が張り裂けそうなほどの罪悪感が、今なお胸の内にこびりついている。
(ああ、そうか……)
瀬名に思い出してもらえて、この世界に戻れて。
それなのに俺が未だ瀬名に告白のひとつもできていないのは、異世界で背負ったものに、自分が未だ囚われ続けているからだ。たとえ瀬名が許してくれても、俺が俺を許せない。諦めないことと、前に進むことはこんなにも違う。
「大丈夫だよ、言わなくて」
ふいに、苗字の声が俺の意識を掬いあげる。俯けていた顔をあげれば、苗字は眉尻を下げて困ったように笑う、見なれた表情で俺を見つめていた。
「苗字、」
「言いたくないことは、何も言わなくていいんだよ。秘密をたくさん持っていたとしても、たとえたくさん嘘を抱えていても、誰を好きで、何を忘れられなくて、どんなことに苦しんでいたとしても。私はそれでも、陀宰くんのことが好きだよ」
声音はどこまでも優しいのに、語尾まで揺らがせることなく、苗字は言った。俺への慰めにも聞こえるし、苗字が苗字自身に言い聞かせているようにも聞こえる。
浅くなっていた呼吸を取り戻すように、深く息を吐きだし、吸い込む。あたためられた陽だまりのようなにおいの空気に、ふいに記憶の奥底の何かが刺激されて疼く。
顔を上げれば、苗字はまだ心配そうに俺を見つめていた。
「ごめん、――苗字、ありがとう」
掠れた声はみっともなかったが、不思議と気分は悪くなかった。
●●◎●●
なんとなく苗字は帰り時を見失ったらしい。結局テーブルを離れたあとも、なんだかんだと夕方まで話をしていった。
話しづらいことを腹を割って話したからか、俺も苗字も、憑き物が落ちたようにすっきりした顔をしている。途中からは苗字が自宅で見つけた幼稚園当時の写真を、バングルのデータにコピーしなおしてきてくれたものを、ふたりで一緒に眺めた。
写真のなかの俺は、なんというかクソガキらしかった。わずかに残っている家族写真よりもずっと、やんちゃな男児っぽい顔をしている。どの写真にも、苗字がたいてい一緒に写っており、苗字が持参したものなのだから当然のことだが、不思議な気分になってくる。
「なんか、本当に幼馴染なんだな……」
見知った喫茶店で一緒にケーキを食べている写真を見ながらしみじみ呟くと、
「ちょっと、今まで信じてなかったの?」
と名前が呆れ混じりに詰め寄ってくる。
「信じてはいた。けど、写真があると説得力が違うだろ」
「そういうものかなぁ……。でも、この頃の陀宰くん可愛いよね」
「そうか? 普通にクソガキって顔してないか」
「まあ、クソガキではあったんじゃないの? 私しょっちゅう泣かされてたらしいし」
「え、そうなのか」
「そういうところはヒヨリちゃんと萬城くんとは違うね」
「あそこを引き合いに出されても」
萬城の瀬名への過保護ぶりは常軌を逸している。どこからどう見ても付き合っていない高校生の男女の距離間ではなく、見ているこちらがやきもきしてしまう。やきもきする理由はもちろん、俺が瀬名を思っているからでしかないのだが。
と、思考が逸れたところで「そうだ」と苗字が呟く。
「今度、陀宰くんもうちに遊びに来てよ。うちのお母さん、陀宰くんに会いたがってたよ」
すっかり気の置けない友人のような物言いに、俺は喜ぶべきか困るべきか判断に困った。だが喜ぶも困るもなくてもいいのかもしれない。こうして写真を見ているうちに、苗字はなんとなく人格を過去に引っ張られたのだろう。それならば俺も俺で、そのまま受け止めればいい。
「苗字んちに行くのは構わないんだが……」
「だが?」
「いや、それまでに思い出せるかって言われると、自信ない」
正直に答えると、苗字は「なんだ、そんなこと」と俺の懸念を一蹴する。
「覚えてませんってはっきり言えば? 多分うちの母だし『あらそうなの』で終わると思うよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんでしょ。みんながみんな私みたいに思い詰めてるわけじゃないし」
「リアクションしにくいこと言うなよ……」
「ネタにでもしていかないとやってらんないよって気が付いたから」
「そんなことに気付かないでくれ」
開き直ったように言う苗字は、あははと楽しそうに笑い声をあげた。その笑顔にまた、救われる。
苗字が思い詰めていたのはきっと事実。そしてその思い詰めるということ自体が、俺を追い詰めるのだと苗字は知っている。思い詰めていることをなかったことにはできないうえ、俺のせいで隠すこともできなくなった。それならばせめて少しでも軽く、明るく扱おうとしてくれているのだろう。
同じ優しいのでも、瀬名とはまるで違う種類の優しさ。
どちらの方が正しいとか、崇高とか、そういうことはきっと、ない。
「苗字」
気が付けば、俺は苗字の名前を呼んでいた。苗字は笑いが残ったままの顔で俺を見て、「ん?」と軽く首を傾げている。
腹に力を込めた。俺は今から、姉にすら引かれるかもしれないレベルの、超ド級の身勝手を押し付ける。
「なぁに、陀宰くん」
「あのさ、むしのいい話だとは思うけど……。その、待っててほしい」
諦めないでほしい。
それはクリスマスの夜、苗字に伝えたのとまったく同じ言葉だった。しかし今、その言葉の持つ意味はあの晩とは大きく異なっている。ただの精神論として、半ばその場の勢いで発しただけの言葉ではない。
「諦めないでほしい。俺が区切りをつけられるまで」
俺がちゃんと、苗字と向き合えるようになるまで。
苗字はぽかんと口を半開きにして、目を見開いて俺を見ていた。
「……ど、どうしたの。え? ヒヨリちゃんにフラれちゃったの?」
「そうじゃねーけど!」
「うそうそ、冗談。ごめんね、ちょっとびっくりしちゃって。落ち着くまで、少しだけ待って」
苗字はぱちくりと瞬きを繰り返し、ゆっくりと普段の表情に戻っていく。すうはあと小さく深呼吸する音が静かに響き、それからさらに数秒後、苗字は「よし、落ち着いた」と微笑んだ。そして、
「今更だよ、陀宰くん」
苗字の綻んだ目じりがほんの一瞬、きらりと光ったように見えた。しかしそれは、俺の見間違いだったかもしれない。
俺を見つめる苗字の顔は、凛として涼しげだった。
「ずっとずっと、待ってるよ。待たなくていいって言われても、諦めろって言われても。もう、そうしようって決めてしまったから」
胸がぐっと熱くなった。何か大きな塊が喉にせり上がってくるようで、俺は慌ててそれを飲み下す。
目に力を籠め、くちびるをぎゅっと引き結ぶ。俺の締まらない顔のせいで、苗字のせっかくの言葉を台無しにしたくない。
と、思ったのも束の間。
「まあ、陀宰くんのこと好きでいることに飽きちゃったら、そのときは許してね」
「飽き……なんか、すげえ嫌だな……」
直前のいい感じのセリフを、あっさり台無しにするような苗字のセリフ。俺が苦々しげにコメントすると、苗字は今日一番の明るい笑顔で笑った。
「私も諦めないように頑張るから。陀宰くんも飽きられないように頑張ってね」