@EmptySeat_
篝里。今から犬の世話をしに行くのだけれど、どうも躾のなっていない犬でね。噛みつかれてもいけないし、暇なら着いてきてくれないか。
唐突な御剣君の言葉に心の中で少し首を傾げて、しかし二つ返事で「勿論、お供させて頂くよ」と頷いた。
こちらから働きかけるのではなく、彼女から声を掛けてくるとは珍しい。いつだって自分で出来ると嘯いて、一人で全てをこなしてしまうのが彼女だった。
なにか心境の変化でもあったのか、──はたまた『巻き込みたい理由』でもあるのか? 思考を巡らすが、答えは出ない。頭の片隅にでも置いておくことにして、とりあえず彼女の指示を仰ぐことにした。
▶視点 篝里慎
告げられた行先は聞き覚えのあるもので、僕達は程なくしてそこに辿り着いた。ノックを数回、……普段はその程度では出て来ない人なのだが、今日はやけに簡単にドアが開く。
「………………三鶴」
不機嫌、どころではない。いつもの嫌そうな顔も、面倒くさそうな顔も、まるでどこかに捨て去ったかのような冷たい無表情。
「やあ、倉坂高明。──いい加減に、飼い主として躾をしに来たよ」
御剣君は挑発するように、煽るように、蔑むように、そんなことを言う。倉坂先生はそれを鼻で笑って、奥へ引っ込んでいった。自然と閉じようとするドアを手で押え、「行くよ」と笑う御剣君。僕は緩やかに笑みを深めて、答えるように車椅子を押す。
──さて、何が起きるやら。
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倉坂先生は奥のベッドにどかりと腰を預け、こちらを見つめていた。──正しくは、御剣君を。御剣君はそれをまるっと無視して微笑むと、ぺらりと1枚の紙を取り出した。
御剣君の後ろに立つ僕には見えないが、倉坂先生の表情が苛立ったような、面倒くさいものを見たような、そんな風に不快に歪む。
「これはね、解雇警告さ。まだ通知ではない。あくまでも警告。……これまでは随分甘やかしてきたけれど、いい加減に発破を掛けなくてはと思ってね?」
「……だから、別に解雇してもいいっつってんだろ」
「良くない。……あのね、僕は君にもう一度舞台に立って欲しいのさ。くっだらない情けない理由で舞台を降りやがって、あの舞台はこれから美しくなる所だったのに」
千秋楽が見たかったよ、僕はね。そう言って溜息を付く御剣君。千秋楽が見られなかった、あの公演──そう言われて脳裏を過ったのは、7年前に外国某所で行われたミュージカル「オペラ座の怪人」の事だった。……よく覚えている。良くも悪くも、印象的な舞台だったから。
一見単調でパッとしない主役。……しかしその印象は、歌を聞くことで一変した。腹の底から伸び伸びと響く、どこか物悲しげでどこか惹き付けられる歌声。歌詞に乗せられた感情が耳の奥で弾けるような、一度聞いたら忘れられなくなるような、そんな歌声だった。
しかし帰国後にその舞台について調べてみると、舞台の主演が失踪し途中からの公演が全て中止となっていたのだ。
「──お前には関係ないだろ」
そう、倉坂高明の失踪によって。
どうやら御剣君も僕と同じ舞台を見ていたらしい。ふてぶてしいその態度に再度ため息をつくと、「それが関係あるんだよ」と面倒くさそうに呟いた。
「それがあの人の願いだからね」
僕だって切り捨てていいならとっくに切り捨てているさ。僕が愛しているのはあくまでも演劇で、舞台に立たない君なんかどうだっていい。大体君、別に演劇の事なんか──……
立て板に水。叩きつけるように言葉を紡ぐ御剣君の言葉が、不意に不自然に途絶える。
「……今なんつった」
御剣君の足が、宙に浮かぶ。胸ぐらを捕まれ、立ち上がった倉坂先生の顔に引き寄せられた御剣君はそれでも柔らかな笑みを崩さなかった。ぐ、と喉の閉まるような声が聞こえて、咄嗟に体が動く。──それは、いくら何でも赦せない。
間に入り、胸ぐらを掴む手を下から強く払いあげる。外れた腕の勢いのまま小さくバランスを崩した隙に、その胸板を強く突き飛ばした。大きな音を立てて崩れ落ちるそれを、強く睨みつける。
「……先生とはいえ生徒に、ましてや御剣君に対して胸ぐらを掴む暴力を振るうとは、見逃せませんねぇ」
いつも通り穏やかに行ったつもりだが、やや感情的に響いてしまった気がする。いけないとは思うものの、──これ以上彼女に怪我をされて困るのはこちらなのだ。
強い舌打ちが聞こえたもののそれ以上何かをする気は無いようで、注意を払いつつも後ろを振り返る。御剣君は自分で着地したようだ。特に何事もなかったかのように、倉坂先生を見ていた。
僕を間に挟んだまま、彼女は続けた。
「……本当に、執着だけは一級品だな」
呆れたような顔で、ぽつりと呟く。
「あの人はもう迎えに来ないよ。もうこれ以上、迎えに来ないものに縋るのはやめたらどう? 僕には君の気持ちは分からない、そこまでして、人生を棒に振って、一体何がしたいの?」
「頭を冷やして、少しは考えてみるといい。思考停止はもううんざりだ、タイムリミットは近づいている。……あの人の思いを無下にするのはもうやめなよ。君がどれだけそれをわかっているのかは知らないけれどね」
帰るよ、と御剣君は言う。僕はそれに従って、黙って車椅子を押して廊下へ向かった。
最後、一度振り返る。倉坂先生は未だこちらを睨みつけるように見ていた。