@uraktei
ずっと見ていたから、知っている。
テデ井がいなくなってしまってから、くま谷は仲良しの車・シロモに頼み込んで魔女の森へと入った。魔女のお城に、望んだものが映し出される泉があると聞いたことがあったからだ。
そこなら、忽然と姿を消してしまったテデ井が見えるかもしれない。
テデ井の無事を確認するためなら、何だってやってやる。そう固く決意して、まだ繋いでいた彼の手のぬくもりが残る左手を、胸の前でぎゅっと握り込んだ。鬱蒼と茂る木々のせいで薄暗い森に怯えるシロモを励まし、ようやく辿り着いた魔女のお城。大きなお城にたったひとりで住んでいた彼女は、とても美しい金色の毛並みのクマで、くま谷とシロモを歓迎してくれた。森を進んでくる間に汚れてしまったシロモとくま谷をお風呂を用意してくれたのだ。
テデモット、と名乗った魔女は、お風呂の真っ白な泡が一瞬で茶色くなってしまうほど汚れていたくま谷たちを嫌がることもなく、ふたりが綺麗になるまで根気よく付き合ってくれ、その後はくま谷が初めて見る豪華な食事とお菓子で饗してくれた。そしてふたりが落ち着いてから、時間を掛けてゆっくりと事情を聞いてくれ、噂の泉に連れて行ってくれたのだ。
使い魔たちが手入れをしている美しい庭園の片隅に、その泉はあった。くま谷が恐る恐る覗き込むと、そこに映し出されたのはふたりと男と真っ白い犬に囲まれてわたわたしているテデ井だった。何が起こっているのか理解できないでいる様子にくま谷が心配そうに水面を見つめる。と、テデモットがくま谷のまぁるい頭を優しく撫でた。
「貴方の番は、人間界に喚ばれたのね」
「人間界……。あの、僕も行く方法はありませんか?」
この立派な庭園もお城も、すべてテデモットの魔法で維持されている。ここにいる中でテデモットの魔力なしで存在しているのは、客人であるくま谷とシロモだけだ。そんなすごい魔法使いである彼女なら、自分をテデ井の元へ飛ばすくらい簡単にできるのではないかと思ったのだ。しかしテデモットは申し訳なさそうに目を伏せると、緩く首を横に振った。
「あの世界はね、喚ばれないと行けないのよ」
ショックを受けるくま谷に、テデモットは優しく言った。
「可愛いベイビーちゃん。貴方が喚ばれる日か彼が帰ってくるまでここで暮らしなさい。そうすれば毎日彼の無事を確認できるわ」
その言葉で、くま谷はシロモと一緒にテデモットのお城で生活することになった。
だから、今くま谷が手にしている可愛らしいピンク色でクマのイラストが描かれたノートの中身を知っている。テデ井が一生懸命書いている様子も見ていたし、その現場だって見ていたのだ。最初はつらくてつらくて仕方なかった。
だって、テデ井と来たら、くま谷のことを覚えていなかったのだ。生まれた時から一緒にいた自分のことを綺麗さっぱり忘れて、持ち主になったふたりと一匹に大事にされて幸せそうなテデ井を見るのはつらかった。シロモは何度ももう見るのはやめようと言ってきたし、テデモットもあんな薄情なクマのことは忘れてしまいなさいと言った。ふたりの言う通りにすれば楽になれるとわかっていたけれど、くま谷はどうしてもテデ井の様子を見守るのをやめられなかった。
だって、番なのだ。この世界に生まれた瞬間から、手を繋いでいた。何をするのも一緒で、テデ井が消えてしまったあの瞬間まで、ずっと一緒にいたのだ。左手にはまだテデ井のぬくもりが残っている気がする。こんな状態でテデ井を忘れるなんてくま谷にはできない。心配するふたりの視線は気になったが、くま谷は毎日泉からテデ井の様子を窺っていた。
そして、彼が完全にくま谷んお存在を忘れている訳ではないと気付いた。テデ井はお世話になっている人たちに何かを買ってもらう時、自然とくま谷の分も選んでしまっているのだ。どうやらくま谷の顔も声も思い出せないが、誰かと一緒だったことだけは覚えているらしい。テデ井のぬい主となったニンゲンは随分と気前がいいらしく、使うモノのない食器や服をテデ井の分と一緒に買う。それを見てくま谷は、何としても彼らの元へ行かなくてはならないと思った。
泉に行くのは朝・昼・晩の食後の三回にして、お城の図書室でテデモットの蔵書を読み漁る。テデモットは喚ばれない限りあの世界に行くことはできないと言っていたけれど、テデ井と触媒にすれば行ける方法があるのではないかと思ったのだ。きっとそれは大魔法に違いないが、テデモットならできるに違いない。その一心で魔法書を片っ端から読んでいったくま谷は、とうとう見つけた。テデ井のいる世界に、くま谷を飛ばす方法を。それは思った通り大魔法だったけれど、必要な物はこのお城に揃っているし、テデモットなら行使できるであろう魔法だった。飛び上がって踊りだしてしまいそうな心を抑えて、くま谷は魔法書を手にテデモットの元へ向かう。そして自分にこの魔法を掛けてくれ、と訴えたくま谷だったが、テデモットの答えはノーだった。理由は、危険すぎるから。
「あの世界で私たちはニンゲンが言う妖精や精霊みたいなモノ。入り込める媒体《からだ》がない以上、もし存在に気付いて貰えなかったら徐々に生命力を失って消えてしまうし、否定されようものなら、一瞬で消し飛んでしまうわ。そんな場所に私は貴方を送ることはできない」
きちんと理由を説明して、テデモットが言う。だが断られた事実にポロポロと涙を零してしまったくま谷を彼女は優しく抱き締め、こう言った。
「貴方たちが真の番ならきっと彼は貴方を思い出すし、あの世界に貴方の媒体《からだ》も用意されるはず。お願いよ、可愛いベイビーちゃん。今は我慢して、その日を待って頂戴」
すぐにテデ井の元に行ける方法があるのに行けなくて、くま谷は悲しい気持ちで泉を覗くだけの日々を送るしかなかった。テデモットの言うその日は、本当に来るのだろうか? もしも来なかったら帰ってこないテデ井を、自分はここから彼が幸せに暮らしているのをただ眺めるだけの日々を送ることになるのだろうか。
テデモットとシロモに見守られながら、くま谷が沈んだ日々を過ごしていると、泉に映る世界で大騒ぎが起こった。テデ井がお世話になっているお家の家主が興奮した様子で小さな機械をテデ井に見せると、彼は頭を抱えて泣き出してしまったのだ。その口から、「テデ谷くん」と叫びながら。
テデ谷というのは、テデ井がくま谷を呼ぶ呼称だ。何度自分は「くま谷」であって「テデ谷」ではないと言っても治らなかった。そのたびにちゃんと呼んで欲しくてイライラしたのだが、今はとても嬉しい。テデ井が、自分のことを思い出したとはっきりわかったから。
泉に映るテデ井に釣られて泣き出してしまったくま谷に、シロモが慌ててプイプイと慰めるように鳴く。使い魔が慌ててテデモットを呼びに行き、こちらはこちらで大騒ぎだった。くま谷はあの日以来ずっと塞ぎ込んでいたけれど、こんな風に泣くことはなかったからだ。くま谷はシロモと使い魔たちに宥められ、わんわん泣く。困った様子のシロモと使い魔たちに、テデモットは呆れたように溜め息を吐くと、いつもと同じように優しくくま谷の頭を撫でた。
「ほら、よく御覧なさい。向こうでの貴方の媒体《からだ》ができるようよ」
ひっくひっくとしゃくり上げながらテデモットに促されるままくま谷が泉を覗き込むと、テデ井が手にしている機械の画面に、くま谷そっくりのテディベアが映し出されていた。あれなら、くま谷が宿るには最適な媒体《からだ》だ。テデ井のお家の家主は予約販売のそのベアを既に予約済みらしく、あちらではくま谷を受け入れる準備は万端だ。
「あんなに喚ばれて、行かない訳にはいかないわね?」
こくり、とくま谷が頷くと、テデモットは綺麗なハンカチでくま谷の顔を拭いてやりながら言葉を続けた。
「では、あちらのことを勉強しなくてはね? 家主さんやワンちゃんではなく、彼らの名前もきちんと覚えなければ、ちゃんとご挨拶できなくてよ?」
何事も最初が肝心なのだ、と言うテデモットに、くま谷はちょっと不安そうな顔になる。
「こうやって、みんなの生活を覗き見していたとバレないでしょうか?」
「貴方、見ていたのを隠して彼らと接することなんてできないでしょう? だったら最初から言ってしまえばいいわ。消えてしまった番が心配で、魔女のお世話になってましたって」
でもでも、と不安がるくま谷に、テデモットはころころと鈴を転がしたような声で笑う。
「そんなことでガタガタ言うようなニンゲンの元に、私たちは最初から喚ばれないわ。でもそうね。心配ならひとつだけ魔法を授けてあげる。彼らに受け入れてもらえなかった時、貴方が帰って来られる魔法の言葉」
そう言って耳元で囁かれた言葉に、くま谷は頬を真っ赤に染めた。くま谷にとって、とってもありがたい魔法の言葉は、同時にとっても恥ずかしい言葉だった。だから言わなくて済むように、彼らに気に入って貰えるよう、くま谷はその日からテデ井だけでなく、お家の人たちのこともきちんと見ていたのだ。
だから、書かれている内容は全部知っていた。それでもテデ井が一生懸命書いてくれたものだから、何度も何度も読んだ。そうしてくま谷はある結論に達し、ピンク色のノートを手にぽてぽてと歩いておやつの用意をしている降谷の元へ向かった。彼の足元から作業のじゃまをしないよう、細心の注意を払って声を掛ける。
「あの、れーくん!」
「なぁに? おやつならもう少し待っててくれる?」
おやつの催促かと思われてちょっぴり心外だったが、今はそれに抗議している時ではない。くま谷はこの家の財布を握るれーくんに、とっても大事なお願いがあるのだ。
「おやつじゃなくて、というか、おやつの支度はお手伝いします。えっと、他にもいっぱいいっぱいお手伝いするので……」
「するので?」
言い淀むくま谷に、降谷がしゃがみ込んで視線を合わせる。と、くま谷はぎゅっと目を瞑って勢いよく頭を下げた。
「お手伝いするから、お小遣いをください!」
くま谷たちは基本的に物欲がない。そんな彼がお小遣いを必要としたのは、どうしてもやりたいことがあって、それに必要な物を買いたかったからだ。びっくりした降谷が何も言わないので、くま谷は恐る恐る顔を上げる。我儘なクマだと思われてしまっただろうか? 不安を顔に貼り付けたくま谷に、降谷は優しく笑った。
「何が欲しいの? 別に必要な物ならちゃんと買ってあげるよ?」
「あのね、あのね!」
お手伝いなんかしなくたって、言えば降谷は買ってくれるとわかっていた。だけど、これは自分の我儘だから、ちゃんと自分で稼いで買いたいのだ。くま谷はそう言って、降谷の耳元に恥ずかしくて小さくなってしまった声で望みを言う。
テデ井と交換日記をしたいから、日記帳を買いたいんです――