@shikanoko_aki
何故、自分はこんなにも醜く愚かなのだろうか。真っ暗な部屋。微かな耳鳴りの音だけが聞こえる部屋の中で、ソファの肘掛けを枕にぼんやりと思考する。下らないことを真剣に悩み、落ち込み、そんな己をまた蔑む。終わりの見えない堂々巡りの苦しみを、断ち切ってくれるものがあるとするならば、それはただ一つ。その答えを自分は知っている。だのに、手に入らない。だから余計に、苦悩するのだ。
どれくらい、憂鬱に過ごしていただろうか。明かりの灯していない部屋でずっと目を閉じていたはずなのに、一秒たりとて眠れはしなかった。その内に、玄関の方からカチャカチャと金属が擦れる音が響き始める。そして、数秒とかからずドアが静かに開いて閉まる音。聞き慣れた生活音に、しかし、身体は反応を示さぬまま。足音が少しずつこちらへと近づくも、無反応に目を閉じていた。
「―――あ」
カチリと部屋の明かりが灯される。瞼を開かずとも、外側の光は知覚できてしまえる。目を閉じたくらいでは、完全な闇は作れない。
「帰っていらっしゃったのですか」
少し離れた距離で、彼は申し訳なさそうな声で言う。誰もいないと思い込んでいたのだろう。当然だ。灯りも点いていない無音の部屋は、無人のそれと変わらない。
「……司馬師さん?」
少しだけ、距離が近づく。それを声音の大きさのみで判断する。依然として、目を開ける気分にはなれなかったから。
気配が更に近くなって、すぐ傍にその存在を感じられるようになる。けれど、決して触れられることはなく。彼は一定の距離を保ったまま、恐らく、こちらの様子を伺っているのだろうか。
「…………」
結果的に、狸寝入りをする形となってしまった。それ以上、相手が行動を起こさないせいで、こちらも目を開けるタイミングを逸する。
この薄い瞼の外側で彼はどんな顔をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。確かめてみたいという欲求と、同時に、言い様のない不安があった。逆に言えば、目を開かなければ、そこに自分の望むものを夢想できたから。
わずかに彼の吐息が頬をかすめた気がした。それほどまでに、互いの距離は近いているのだろうか。触れて欲しい。そんな欲求が膨らんだ矢先のことだった。その気配が離れてゆこうとするのを察したのは。
「―――待て」
あんなに気怠く重たかった瞼が、パチリと一瞬の内に大きく開かれる。咄嗟に目の前の腕を強く掴むことに、司馬師は一切の躊躇いなどなかった。
捕えられた側は無表情のまま首だけをこちらに向け、振り返る。その反応はやはり、自分の望んだものではなかった。その現実にわずかながら、チクリと心が痛む。そんなこちらの心情など知る由もない男は、薄く開いた唇を動かした。
「す、すみません。起こしてしまいましたか?」
司馬師は切れ長の瞳を強く見開いて、彼を見上げて睨みつける。その腕を引き寄せるようにグイと力を込めるや、それを支柱に頭をソファより離す。解いたままの長い銀髪が、サラリと背中を撫ぜた。
さて、成人男性の体重を片腕で支えたにも関わらず、びくともしない体幹のこの男。そう言えば、今年で何歳だっただろうか。そろそろ、定年を迎えても不思議ではないはずではあるが。相変わらずの仕事人間ぶりを日々、発揮していた。
「こういうシチュエーションでは、キスくらいするのがお決まりだろう」
彼の問には答えず、司馬師は殊更に不機嫌さを露に、その行動にダメ出しをする。ああ。本当に何もかも、望む通りにはゆかぬものだ。
同棲して何年経ったと思う。三十年だ。共に過ごした時間は、実の親よりも長い。なのに、何故。この男は、何一つとして自分の気持ちを理解してはくれないのか。
「は、はあ……。で、ですがっ……」
言い訳の言葉を継ぎかけた唇を強引に塞ぐ。数秒、時が止まったかのような錯覚をする。本当に、このまま時が止まってしまえば良いのに。そう思っても、現実になるはずもなく。
息が苦しくなってきて、司馬師は自ら重ねた唇を離す。キスをしても無抵抗に受け入れる。だけど、離れてゆく温もりを引き留めることもしない。もっと強く求め、独占して欲しくとも。
「……本当にお前は変わらないな」
乾燥した唇、目尻の皺、少しだけ弛んだ首の皮。歳を重ね、見た目は当たり前のように変化してゆくのに、中身はちっとも変わらない。
時間をかけてゆっくりと、変わってゆくと思っていた互いの関係性。けれど、そんな期待は幻想でしかなかった。三十年経って、ようやく気付く。
「多分、この先もずっと……」
彼が自分を愛することはないのだろう。そう考える度、これまでの全てが無駄に思えてしまうのだ。馬鹿げている。これではまるで、彼が自分の全てであるようではないか。
その頬に触れる。帰宅したばかりの肌は、少し冷たい。好きだ。その体温を感じるだけで、どうしようもなく、その感情が沸き起こる。もはや、本能とさえ思えるほどに。
「……もう、良い。寝る」
これ以上は触れているのが辛くて、司馬師は指先を遠ざけた。重い体を無理矢理に持ち上げて、のそのそとソファから這い起きる。このソファも随分と古くなった。確か、珍しく鄧艾の方が気に入って購入した品だった。しかし、そろそろ買い替え時かもしれない。
「あ、あの……。夕食は……?」
今のソファは五代目。住居も二度の引っ越しを経て、現在のマンションへと至る。様々な物を新調し、古くなった存在は捨ててきた。
唯一、彼だけは捨てることも、誰かと取り替えることも出来ないまま。他に選択肢など、幾らでもあったはずなのに。
「……要らん」
冷たく言い放って、司馬師はリビングを後にする。無意味に募る苛立ち。そして、それを相手にぶつけるしか仕様のない自分に、すこぶる腹が立った。
こんな日は、ただ眠るしかない。眠れなくとも目を閉じて、消えることのない不安と折り合いをつけてゆくしかないのだ。
「……ばか、鄧艾」
そういう時は逆に、この男が邪魔なのだ。だって、絶対に欲しい言葉をくれないのだから。傍にいれば、余計に辛く、不安が増すだけ。同じ過ちを何十回と繰り返し、司馬師は学んだのだ。それは、諦めとも呼べた。
時々、波のように大きく感情が揺れることがある。恐らく、今回もそれだ。念のため、医者に掛かったら更年期障害の薬を処方されただけだった。
とは言え、大抵の場合このイライラは二、三日で収束する。そのはずだった。だが、今回は五日が過ぎても七日が過ぎても尚、司馬師の感情は少しも落ち着きを取り戻さなかった。
「お義兄さん!お夕飯の支度できましたよ〜!」
仏壇の前で手を合わせていたら、背後から元気の良い声が響く。弟嫁の元姫だ。彼女は幾つになっても変わらずな明るさで、義兄である自分の帰省を出迎えてくれた。
現在、実家で暮らしているのは司馬昭と彼女の二人のみだ。父は会社の経営を完全に司馬昭に継がせた後、家を出た。それ以降はずっと、いわゆる愛人の元に居る。という言い方をすれば、家庭崩壊のように聞こえるが、母も自分達も了承済みのこと。歪な関係性ではあったが、それが司馬家の普通だった。
「久しぶりにお義兄さんが帰って来てくれて、お義母様も喜んでるね」
「どうだろうか……」
にこりと微笑む元姫へ苦笑で返して、司馬師は写真立ての母と目を合わせる。
母が亡くなって、そろそろ二年になる。最後に実家の敷居を跨いだのは、一周忌の時だった。必要に迫られなければ、此処に来る理由がない。今や、この邸は弟夫婦の家であり、自分の帰る場所ではなくなっていた。
「……夕食だったな。行こう」
折りたたんだ脚を崩して、司馬師は仏壇の前より立ち上がる。それを見届けてから、元姫は先に居間の方へと戻って行った。
母は往生だった。亡くなる直前まで自分の好きなことをしていたし、それほど苦しむこともなく、眠るように息を引き取った。故に、寂しさはあったがそれほど悲しみを引きずることもなかった。
開け放しの障子戸を潜って、居間の畳を踏む。元姫はせっせと料理を食卓へと運んでいた。しかし、弟の司馬昭の姿が見当たらない。いつもならば、率先して妻の家事を手伝っているはずなのに。
弟の所在を気にしつつも、司馬師は促されるまま、自分用に準備された箸と茶碗のある席に座す。それから程なくして、ようやく司馬昭が食卓へと姿を現した。
「悪い、元姫。全部やらせてしまって」
「うんん。大丈夫!電話、もういいの?」
妻の言葉に司馬昭は頷く。どうやら、部屋の外で誰かと通話をしていたようだ。
「兄上も。お待たせしてしまって、申し訳ありません」
「いいや。わたしもたった今、呼ばれて来たところだ」
全員が卓に揃う。元姫の号令でいただきますを述べてから、彼女の手料理を頂いた。美味しかった。以前より、母の味に近くなったような気がした。
「そういえば。兄上……」
幾分か他愛の無い世間話をしてから、司馬昭がタイミングを見計らっていたかのように、前置きを述べた。特に返事はせず、司馬師は淡々と料理を箸で口へと運ぶ。
「何故、急に退職届など」
脈絡なく切り出された話題は、けれど、司馬師の予想通りの案件だった。一変、弟の表情は神妙になる。
丁度、一週間前のことだった。司馬師が職を辞したのは。年齢も年齢だったから、早期退職という形式を取った。司馬昭は急だと述べたが、実はそうでもない。いつでも辞められる準備は、水面下で行われていた。だから、こんなにもスムーズに退職して、呑気に暇を持て余していられるのだ。
「……まあ、色々とな」
「義兄さん、辞めてもお金に困ることなんかないもんね」
深刻そうな司馬昭の様子など意に介さず、元姫がのほほんと口を挟んだ。彼女がいると、空気が和む。その朗らかさに助けられたことは、幾度としてあった。
「……そうだな。わたしは子上と違って、蓄えがあっても残す相手もいない」
「あ、兄上……!!」
弟には子が沢山いた。だが、末の子も成人してしまって、もはや全員この家を出てしまった。今は夫婦二人で、のんびり暮らしているようだ。
「事実を言ったまでだ。わたしは独り身だ。生きていくだけならば、充分すぎる貯蓄がある。これ以上、あくせく働く意味もない」
「一人、じゃないでしょ。お義兄さん」
すかさず、司馬師の言葉を元姫が訂正した。それにはまた、苦笑いで返してはぐらかした。
自分は結婚していなければ、当然、子もいない。であれば、財産を残す必要もない訳である。というのは、建前に過ぎず、退職を決めた理由はもっと別にあった。
「さっきの電話。父上からだな」
一口、お茶を飲んでから、落ち着いた口調で司馬師は訊ねる。すると、司馬昭はあからさまに唇を一文字に引き結んだ。どうやら、図星のようだった。
「……悪いな。また、お前を父上の小言に付き合わさせてしまって」
「い、いえ!俺のことはいいのです」
大方、電話の内容には想像がつく。自分が仕事を辞めたことは、父上の耳にも届いていたことだろう。であれば当然、黙っているはずもなく。その矛先は、自分ではなく弟に向けられる。
色々あって、司馬師は父とほぼ絶縁状態だった。と言っても、それほど深刻なものでもなく。せいぜい、互いに口を利かない程度である。それでも、母が生きている内は緩衝材になってくれていたが、今はそれも無く。父の顔を最後に見たのは何時のことだっただろうか。
「兄上は家のことはお気になさらず。好きに生きて下さればいいのです」
本当に出来た弟だと頭が下がる。家は長男が継ぐもの。それも今や古い考えなのかもしれないが、大抵の場合は順当にそうなる。会社のこともそうだ。自分が素直に後を継いでいれば、弟に負担をかけずに済んだだろうに。
「……お前も好きに生きて良いんだぞ。子上」
そんな台詞、司馬師に言える資格はなかった。己の欲望を叶えるため、弟を犠牲にしてしまっているのだから。
どちらかが、家と会社を継がなくてはならない。その責務から、早々に自分が降りた。ただ、彼との生活を守りたいがために。
「俺は充分幸せですよ。兄上。元姫がいて、子供たちもみんな立派に育って。仕事はまあ、目が周りそうなくらい大変ですが」
「子上くんは働き過ぎだよ!ちょっとは休まないと。昨日も帰って来たの十二時だよ!?そんなんだと、早死にしちゃうんだからねっ!?」
ここぞとばかりに、元姫が愚痴を言う。その剣幕に気圧され、二人で口を揃えて謝罪を口にする。そして、兄弟顔を見合わせて苦笑した。
「そうだな。要らぬ心配をした。……幸せそうで、何よりだ」
見れば分かる。彼らがとても幸福なことくらい。司馬師が勝手に責任を感じてしまっているだけで、司馬昭は与えられた環境の中で、しっかり己の幸福を見つけていた。
「せっかくの夫婦水入らずに、わたしなどが介入して申し訳ないな」
「そんなことはありません!!」
弟の声に元姫の声が重なる。今度は、二人が顔を見合わせて仲睦まじく微笑んでいた。
「俺たちのことは気にせず、ゆっくりしていって下さい。兄上」
「そうそう!みんな自立しちゃって寂しいねって、子上くんとも話してたところだったから。お義兄さんが居てくれた方が賑やかで、私も嬉しい!」
本当に優しい弟と義妹なのだ。彼らと居ると、自分の心まで洗われる心地がする。
同時に、考えてしまうのだ。数多のものを犠牲にしてまで手に入れた、今の生活。自分は本当に幸せなのだろうかと。司馬師は何度も、己の胸に問う。けれど、その答えは出なかった。
「……そうか。では、お言葉に甘えるとしようか」
和やかな空気のまま、弟夫婦と過ごす久しぶりの実家での一日は幕を閉じた。そして、二日が過ぎ、三日が過ぎ。いつの間にか、一週間が経過しようとしていた。
二週間。これと言った娯楽のない実家で、何をするでもなくぼんやりと時間を費やした。初めてだった。これほどの長期間、彼と離れて過ごすのは。
父と疎遠になる前は、盆と正月、その他の行事には必ず召集されていた。しかし、それらの拘束期間は最長でも十日程度。二週間も彼の待つ家に戻らなかったことは、司馬師の記憶する限りでは一度も無い。
「連絡くらい寄越せ。……ばか者」
誰もいない部屋で、悪態を吐く。日に何度か届くスマホの通知は、辞めたはずの仕事に関するものばかり。司馬師の期待しているそれではなかった。
この二週間、鄧艾はただの一度も連絡をして来なかった。何も言わずに居なくなった自分のことなど、まるで気にもしていないように。
今、彼は何をしているのだろうか。考える毎に、苛立ちと悲しさと虚しさが同時に押し寄せる。会いたい。その気持ちもまた、溢れんばかりに沸き起こる。自分の愚かさにまた、苛立ちを募らせる悪循環から、司馬師は抜け出せずにいた。
「―――兄上。少し、いいですか?」
今日もまた、ぼんやりと物思いに耽っていたら日が暮れていた。ノック音と共に聞こえてきた、くぐもった声。それによって、司馬師は現実へと引き戻される。
「ああ。子上か。……入れ」
返事をしてから、部屋の灯りも点けていないことを思い出した。案の定、ドアを開いた弟は室内の暗さに驚く素振りを見せる。
「帰っていたのか。今日は早いな」
司馬昭が部屋の灯を点けたのと同時、司馬師は何事もなかったかのように口を開く。暗闇に慣れた目にその光は眩し過ぎて、わずかに目を細めながら。
見るからに帰宅したばかりなスーツ姿の弟は、少し躊躇いがちにベッド脇に腰を下ろした。膝上で無造作に組まれた手の指は、落ち着きなく動いていた。
「どうした。言いたいことがあるならば、遠慮せずに言え」
司馬昭は隠し事をするのが随分と下手だ。それとも、兄弟だからすぐに分かってしまうだけだろうか。落ち着きのない様子から、弟が言いにくい用件を切り出そうとしていることは、一目瞭然だった。
「いつまで居座るつもりだ。さっさと出て行け。という文句かな」
「ち、違います!そんなこと思っていません!!」
「フフッ。冗談だ……」
弟はそんなことを言わないし、思ってもいないことくらい知っている。今のは司馬師が自分自身に対して思っていることを口にしたまでだった。
「ですが、良いのですか。何時までも、その……」
歯切れの悪い物言いで、司馬昭はおずおずと口を開く。司馬師は弟とは目を合わさず、ぼんやりと古くなった壁の染みを眺めながら、想像通りの二の句が告げられるのを待った。
「あの男の元に帰らなくて」
未だに彼を嫌っているのか。それとも、意地になっているだけか。司馬昭は絶対に、鄧艾の名を出さない。それがなんだか可笑しくて、笑うような雰囲気ではないはずばのに、司馬師はわずかに笑みを零した。
「……別に。あいつは、わたしのことなど心配などしておらんよ」
それは憶測であったが、事実だった。連絡手段を絶っている訳でもないのに関わらず、安否の確認すらしないということは、紛れもなくそうなのだ。彼にとって、自分は居ても居なくてもさほど変わりはないのだろう。自分にとって、彼はなくてはならない存在であるというのに。
「何かあったのですか。喧嘩でもされたとか……」
「……喧嘩か。そう言えば、喧嘩など一度もしたことがないな。わたしが何を言っても、あいつは怒ることがない」
喧嘩にすらならない。良くも悪くも、彼は司馬師のため、そこまで感情を揺さぶることなどないのだ。平穏で穏やかな日々。裏を返せば、無感動で味気のない毎日とも言えた。
「―――愛されていらっしゃるのですね」
驚きの余り司馬師は瞬間、声を失う。まさか、弟の口からそのような台詞を聞く日が来ようとは、思いもしなかったからだ。
「違うな……」
しかし、それも束の間。司馬師は自重気味に口元を歪めて、無理に笑ってみる。すると、司馬昭はグッと唇を噛む。何故、そんな辛そうな顔をするのだろうか。まるで自分の苦しみであるかのように。
「ずっと、思っていたことがあります。兄上」
相変わらず、司馬昭は堅苦しい表情をしていた。茶化す雰囲気でもなくて、司馬師はただ、黙りこくるしかなくなる。
「兄上は人の気持ちを、勝手に決めつけ過ぎです」
「子上……?」
途端、その表情は険しくなる。その様は、まるで我が子を叱る父のようでもあった。そういえば、弟は既に立派な父親だった。
「この際ですから、はっきり言わせて頂きます。俺も元姫も、兄上のことを本当に歓迎しています。兄上のことが好きだから。ずっと此処に居てくれたって、構わないとさえ思っています」
語気を強めて、司馬昭は捲し立てるように早口で物申す。その圧は、まるで別人のようで、司馬師が思わず狼狽えてしまうほど。
「だから、勝手にご自身を邪魔者扱いなさらないで下さい。俺のことだって。俺は一度だって、兄上のせいで不自由した覚えなどありませんから」
そして、不意に今までの険しさが嘘のように、弟の表情は柔らかく綻ぶ。それは全てへの赦しのように、司馬師を温かく包み込んだ。
「俺は幸せです。本当に。だから、兄上にも幸せになって欲しい。それは俺が想う幸せでなくとも良いのです。兄上がそれで笑っていて下さるのなら」
「子上……」
優しい弟の声。誰よりも、自分のことを想ってくれていると解る。こんなにも愛してくれていると。だのに、司馬師は満たされない。自分の求める愛は、此処には無い。それが永遠に得られないものだとしても、やはり、追い求めてしまう。
「一人で悩まないで下さい。兄上。不安なら、ちゃんと訊いて欲しい。……あの男にも」
今更、何を訊ねろと言うのだろう。自分のことを愛しているかと?それで期待した答えが返って来なかったら、自分はどうしたら良いのだ。今より辛い気持ちになるくらいならば、いっそ今のまま、余生を過ごす方がマシだ。
「……帰らなくても、よろしいのですか。兄上の家に」
「…………」
帰りたい。会いたい。寄せては返す不安や悩み凌駕するくらい、それらの想いは止められないのだ。
「今日、あいつに連絡しました。すぐに迎えに行くと言っていました。……勝手な真似をして、申し訳ありません」
沈黙してしまった司馬師の顔色を伺いつつ、司馬昭はゆったりと知らせを告げる。その言葉を聞くや、司馬師は露骨に表情を変化させた。
「あいつがそう言ったのか?」
「そうです」
司馬昭はその質問を、一切の躊躇いなく肯定する。そして、考えるまでもなく、司馬師は確信する。嘘だ。間違いなく、自分の知っている彼は、そんなことを言う男ではない。だから、これは弟の優しい嘘。
大方、司馬昭が「どうして迎えに来ないのか」と司馬師の気持ちを代弁してくれたのだろう。その光景を想像すると、可笑しくて少し泣けた。
「恐らく、そろそろ到着する頃では無いでしょうか。……と、噂をすれば」
遠くから、来客を知らせるチャイムの音が届く。来場者は恐らく、二人の想像する通り。途端、胸の高鳴りを感じるのだ。不安は抱えきれぬほど未だこの内に秘められているのに、それを凌駕する感情。これを愛と呼ばないで、なんと定義付ければいい。
「し、司馬師さん……」
ほどなくして、部屋の外から愛おしい声が響いた。今すぐにでも、その扉を開いて彼を抱きしめたい。そんな衝動に駆られるも、感情とは裏腹に身体は鉛のように重く動き出せない。
「……入れ」
応えたのは司馬昭だった。了承を得て扉が開かれる。その瞬間、鼓動は最高潮に達した。が、彼の表情を見るや、緩やかに落ち着きを取り戻し始める。
何を考えているのか分からない、感情の面に出ない見慣れた顔。当たり前だ。二週間そこそこで、何が変わるわけでもない。
「……帰りましょうか?」
こちらの機嫌を伺うみたく、おずおずと鄧艾は提案する。何故、そこで断言できない。堂々と当然の権利であるように、この腕を奪って取り戻せば良いものを。
腹立たしく思う反面、司馬師は黙って小さく頷く。そして、所在無げに垂れ下がった彼の左手に自ら触れた。
幾分か呆れ顔の弟に見送られることを気まずく感じつつも、司馬師は素直に迎えの車の助手席に乗った。「また、来る」弟夫婦にそう伝えると、元姫が「今度は二人で」と返事をした。その言葉に、司馬昭は少しだけ嫌そうな顔をしていた。
「着きました」
次に運転手の男が口を開いたのは、実家を出発してから約三十分後のことだった。住み慣れたマンションの駐車場。車のエンジンが切られ、鄧艾がシートベルトを外す音を、司馬師は窓の外を眺めたまま聞いていた。
「し、司馬師さん……?」
いっこうに車を降りる気配のない司馬師。運転席から戸惑いの声が上がる。静止した面白味のない風景に飽き始めた司馬師はようやく、小さな溜息と共に感情を吐き出す。
「……何故、連絡を寄越さなかった」
「お、お忙しいのかと思いまして。邪魔をしては悪いかと」
「突然、何も告げずに居なくなったら心配しないのか」
取り乱さず、語気は荒げず。多分、感情的になってしまえば、司馬師自身の方が壊れてしまうから。しかし、その声には怒りや焦燥感が色濃く滲み出ていた。
「ご、ご実家にいらっしゃるであろうとは分かっておりましたので」
「……他に行く場所などないからな」
どうせ、自分には行くあてなどあそこしかない。けれど、居場所に検討が付くからと言って、ほったらかしにすることはないだろう。
「そ、それに……」
そんなの、寂しすぎる。心配して欲しかった。ただ、それだけなのだ。自分が消えたことに狼狽ている彼が見たかった。馬鹿げた願望だと、自分でも理解している。けれど、そうやって試す以外にどうやって愛を計る。
「―――あなたは帰ってくると思っていましたから。必ず」
弾かれたように、司馬師は窓から視線を外した。運転席の男は、真っ直ぐにこちらを見つめていた。一度、目が合ってしまえば、もう二度と逸らすことなどできなかった。
「……何故、そう思う」
微かに震えた声で、司馬師は問う。どうせ、望む答えなど返って来ないと分かっているのに。人はどうして、期待せずにはいられぬのだろうか。事、愛する人に対しては。
「こ、根拠を述べよと申されると困ります。でなければ、自分の務めが果たせないと申しますか……」
「務め……?何を言っているのだお前は」
あたふたと露骨に挙動を乱して、鄧艾は言葉を濁した。元々、無口で感情を言葉にするのが苦手な男だった。そのせいで、司馬師が苛立ちを募らせた場面は数知れない。
「―――ずっと、お傍におりますと誓いましたので」
「ああ」とか「えー」とか意味のない発語を繰り返した末に、ようやく鄧艾の思考は纏まったらしい。そうして導き出された返答に、司馬師は落ち着きを取り戻したはずの胸の高鳴りを再発させた。
「自分にはその誓いを守る義務がある」
覚えている。その台詞を、彼から告げられたその時の、声も、表情も、感情も。何もかも。それは何気ない会話のやり取りの中、特別な意味があって告げられた言葉ですらない。なのに、あんな戯れのような口約束を、こんなにも律儀に遵守しようとする男が他に何処に居ようか。
「馬鹿だなお前は……」
独り言のように、司馬師の口から悪態が溢れた。そのくせ、自分でも呆れるくらい声は甘く優しい。
誓いなどと、そんな仰々しいものではない。そこには法的縛りも、義務も責任も何もない。彼と自分との関係は、どちらか一方のたった一言で、一瞬の内に終わりを告げる。それくらい脆いものだった。
「他にもっと、言うことは無いのか」
その台詞もまた、ただの悪態に過ぎなかった。司馬師の求めているものなんて、もっと単純で簡単な言葉や行動なのに。彼にはそれが理解できない。故に、何もかも段階をすっ飛ばして、永遠などという大それたことを誓ってしまうのだろう。
「ええと、では……」
そして、その悪態にすら、彼は実直に応えようとする。馬鹿が付くほどに、真面目だから。
堅物で、人の気持ちなんてこれっぽちも理解しなくて、誰かを愛するという感情さえ知らない。それが鄧艾という男であり、司馬師が愛して止まない人。
「―――愛して、います……?」
そんな彼から紡がれたその言葉には、果たしてどんな意図が込められていたのだろうか。字面通りに受け取るには、司馬師は彼のことを知り過ぎていた。そんな台詞を吐く男ではないということを。
ならば、やはり司馬昭に何か吹き込まれたのだろうか。その可能性はかなり高い。冷静に司馬師が推測するまで、そう時間は要さなかった。
「……本当に、お前は」
自分の声に司馬師は驚く。同様に、目の前の男が慌てたように表情を変えた。咄嗟に顔を伏せたところで、司馬師の頬を涙が伝った。
彼の真意は問い詰めればすぐに白状するだろう。けれど、そんなことはどうだっていい。どうだっていいと思えるくらい、嬉しかった。
ああ。本当に愚かだ。こんな薄っぺらな一言で、単純に騙されてしまう。愛しているから。後のことなど、全部、全部どうだっていい。ただ純粋に、己の心に司馬師は従う。
「―――わたしも、愛している」
触れるだけのキスをした。無様な泣き顔を見られたくなくて、涙が止まるのを待とうとしたが無理だった。
好きという気持ちが抑えられない。愛する限り、その喜びと不安の天秤は揺れ動いて、司馬師の心を乱すだろう。だが、それで良い。その苦しみは決して消えない。だが、同時にその苦しみが、彼と一緒にいたいと想う気持ちを凌駕することも決してないのだから。
「なあ、鄧艾……」
「は、はい!」
愛していると言う前に、自分達には言うべき言葉も、為すべき行為もまだ沢山残されている。それら全ての段階を飛ばしてしまって、けれど、ずっと、共に居る。
だから、なんだ。それで満足できると思うか。もっと、確かに、強固に愛されたい。揺らぎも不安も何もかも、払拭するくらいに強く。愛という欲望を前に、人はどんどん愚かに欲張りになってゆく。司馬師とて、例外ではない。
「もう一度、言って―――」
でも、今は。ほんの少しの欲張りだけで我慢しておくとしよう。鄧艾は少し迷って、戸惑いながら、ゆっくりと唇を開く。自分の求める言葉を紡ぐために。