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羅小黒戦記 単発SS6

全体公開 23607文字
2022-11-23 00:24:18

51. 洛竹が向日葵に出会った話 / 洛竹、紫羅蘭
52. 洛竹が向日葵を育てる話 / 洛竹、紫羅蘭
53. 洛竹が向日葵の種を取る話 / 洛竹、紫羅蘭
54. Pietà / モブ人間、虚淮
55. Pietà2 / 虚淮、モブ人間
56. 聖夜 / 虚淮
ーーー
57.  あいたまま / 虚淮
58. 死について / 虚淮、子風息
59. 雨水 / 虚淮
60. 龍神と童神 / モブ鳥、モブ村人
61. 龍神と童神2 / 虚淮、風息
62. 雨水2 / 虚淮、洛竹、天虎、風息

Posted by @satomi8429

51. 洛竹が向日葵に出会った話 / 洛竹、紫羅蘭

 洛竹が初めて向日葵に出会ったのは、釈放された年の夏だった。
 紫羅蘭の店で花屋の見習いをし始めた頃だ。その頃の洛竹は、紫羅蘭に言われるままにバケツの水を替えたり、鉢植えに水をやったり、窓を拭いたり、床を掃除したりしていた。色とりどりの花が溢れた店で、洛竹は孤独だった。洛竹は森や野原に咲く花しか知らなかった。それらは自由気ままに不揃いで、目の覚めるような鮮やかさはなくとも自然界の好ましい色を纏っていて、陽の光のなかでのびのび咲いていた。ひんやりと温度管理のされた室内に溢れる花は、綺麗だったがよそよそしかった。知らない世界から来たものという気がした。同じ店の中で、紫羅蘭は自分にも客にも愛想よく笑い、楽しそうに花束を作る。ぺかぺかと光沢のあるリボンを巻いた花束を紫羅蘭が渡すと、受け取った客の顔にも笑顔が開いた。それらのひとつひとつが、洛竹の孤独をいっそう深いものにした。
 そんなある日、紫羅蘭は早朝の配達に洛竹を誘った。なんでも夜明け時に大量の花を届ける仕事が入ったのだそうだ。断る理由のない洛竹は淡々と頷いた。
 薄青い夜明け前。準備しておいた配達用の花を、小型のバンの後ろに乗せる。花のあふれるバケツごと乗せ、振動でひっくり返ってしまわないように固定すると、紫羅蘭は運転席に、洛竹は助手席に乗り込んだ。固い座面に背中をつけて、銀色のつめたいシートベルトをかちんと嵌める。
 花を積んだ業務用のバンは夜明け前の街を抜け、長閑な田舎道を抜け、ひと山越えてまた田舎道に出た。しばらく行くと畑道にさしかかる。道の両側に畑が広がり、それをしんとした青い空気が静かに包んでいた。区画ごとに、濃淡や高さが微妙に違う植物が植わっている。地面を這うように広がったものもあれば、縦に長く細い葉を伸ばして揺れているものもあった。背の高い頭の大きな植物が首をうなだれているのも見た。窓を開けると朝のひんやりとした空気が、半袖の肌を薄く撫でた。
 配達を終え帰る頃には、太陽は東の空にのぼり、気温も徐々に上がってきていた。
 もと来た道をがたごと戻る。さっき青色を刷いたようだった畑は、太陽に照らされて本来の色を浮き上がらせている。窓枠に肘をかけてそれらをぼんやり眺めていると、景色が突然黄色になった。
「あれ、なに」
「ああ、向日葵」
 指をさす洛竹に、紫羅蘭がバンを止めてくれた。道でむやみに車を停めてはいけない、と以前教えたのは紫羅蘭だったが、この時間にここで車が止まっていたところで誰に迷惑が掛かる訳でもないという判断なのだろう。
 降りて畑の際まで行くと、その植物の全身は見上げるほどの大きさだった。洛竹の背よりも高く、洛竹の顔よりも大きな黄色い花は、よく見ればさっきうなだれていた巨大な植物なのだった。紫羅蘭が言う『向日葵』という植物の群れは一斉に東を向いて、太陽の光を享受しようと構えている。
 洛竹の口が開いているのに気付いた紫羅蘭が、向日葵はね、と持ち前の朗らかな声で言った。向日葵は太陽の方を向く花なの。小さいころは太陽を追いかけて東から西へ顔を向けるし、大人になったら一日中東を向いて太陽を待っているんですよ。
「太陽のほうを向くの」
 洛竹が呟くと、紫羅蘭はにっこり笑った。
「はい。いつも太陽を追いかけているんです」
……俺みたい」
 口をついて出た言葉に、洛竹は自分で驚いた。だがそれは、率直な感想だった。
 向日葵たちは、見上げる洛竹のことなんか少しも目に入らない様子で、ただまっすぐに太陽に顔を向けている。紫羅蘭が柔らかく目を細めて口を開いた。
「館の妖精から、洛竹さんはもともとよく笑う、太陽のような妖精だって聞いてました。向日葵って、英語ではサンフラワーって言うんですって。太陽の花。洛竹さんみたいね」
「違うんだ」
 洛竹はさえぎって言った。
「太陽は、風息なんだ」
 向日葵の視線の先へ目をやる。のぼった太陽が、世界のすべてに色をつけていく。世界が温度を取り戻していく。自分だけが世界から取り残されているように心細い。
「俺は偽物。俺は太陽の方を見て笑ってただけなんだ。太陽がいなくなったら、夜のこいつらみたいに俯いて地面ばっかり見てる」
 世界が何度朝を迎えても、自分は太陽に出会えないまま、いつまでも青い世界で俯いている。そんな気がした。
「洛竹さんは前を向いて歩いているでしょう?」
 いつのまにか隣に来ていた紫羅蘭がそっと言った。
 その口調は、叱咤でも慰めでもない、ただの現状確認だった。太陽が眩しくて目を眇めた洛竹の横で、ゆっくりでいいんですよ、と紫羅蘭が風のようにささやいた。


52. 洛竹が向日葵を育てる話 / 洛竹、紫羅蘭

 季節は春、ようやく安定して温かい日が続くようになったある朝のことだった。
 売り物にはしませんから、好きに使ってくださいね。
 紫羅蘭にそう言われた洛竹は、店の裏手にある花畑の一角に立っていた。
 紫羅蘭の経営する花屋は、表側こそ人の往来のある道路に面しているが、裏手には庭が広がっている。庭の外縁に沿ってぐるりと背の高い植物が繁茂しているおかげで、この庭の存在は外からは気づかれないようになっていた。なだらかな起伏のある地面の所々に樹が植わっており、初春には梅が、続いて桜が、夏には藤や百日紅が咲くらしい。花屋の庭らしく草花も溢れていて、日当たりを好む植物は日向に、日陰を好む植物は木陰に、季節ごとに様々な花がいたるところで咲き乱れていた。それらは時々紫羅蘭によって刈り取られ、店先に並ぶ。以前、自分が丹精込めて育てた花を切って売るなんて辛くないのかと聞いたら、紫羅蘭は笑って言った。悲しい思いをする子がいないように、いつもお花にお話するんです。ここで幸せに育ったからこそ、今度はあなたが幸せを分けてあげるばんよ。誰かを笑顔にするために、笑顔で行っていらっしゃいね、って。
 
 先日咲き終えた花の場所を整備したところで、紫羅蘭はそこを洛竹に明け渡した。紫羅蘭は、なんでも好きな植物を植えて育てて、と言った。
 木属性の妖精なのだから、別に畑がなくても植物を生やすことはできる。だが洛竹は、あえて能力を使わずに植物を育てることにした。
 考えた末、植えるのは向日葵にした。以前見た向日葵に圧倒されたことを思い出したからだ。背が高く、大きくて、常に太陽の方を向いている花。紫羅蘭にそう伝えると、紫羅蘭は店の奥にある、木でできた古くて小さな引き出しのひとつから種を出すと、洛竹の手のひらに乗せてくれた。それは、あの大きな花に似つかわしい大きさで、白と黒との不均等な縞模様をした種だった。
 きちんと耕した土に、指で穴をあけて種を落とす。向日葵は種の時分は日光が嫌いなのだと教わったので、ひとつひとつの穴の上にしっかりと土を盛り上げた。毎朝様子を見ては、ブリキ製のジョウロに汲んだ水をやる。芽はなかなか出なかったが、土の中で種がむくむくと成長しているのが感じ取れるのは、やはり自分が植物の属性を持つ妖精だからだろうか。三日経ち、一週間経ち、今日は出るか明日は出るかと待つことは、思った以上に新鮮だった。少し前までの自分は、どうやったら戦闘向きの植物が生やせるか、一秒でも早く巨大にするにはどうしたらいいか、瞬時に強い蔓を生み出すには、それを効率的に操るには、そんなふうに植物を使役することばかり考えていた。植物って本当はこうだったんだよな、と思い出す。ゆっくりゆっくり準備して、満を持して発芽する。こちらができることなんて、それを信じて応援することくらいだ。土と水と太陽の力だけでようやく顔を出した向日葵の芽を見た時は、ちょっと感動してしまった。
 梅雨の時期には虫に注意し、嵐の前には支柱を立ててやり、毎日少しずつ成長していく姿を見守った。水は欠かしてはいけないが、さりとて水をやりすぎても元気をなくしてしまうことにも気が付いた。来る日も来る日も、その微かな声に耳を傾けて世話をした。そうこうしているうちに、季節は夏になった。
 雨上がりの朝、すっきりと洗われた空気の中で雫を纏い、いきいきと濃い植物の匂いを放っている向日葵を見ているうちに、洛竹はふと風息の言葉を思い出した。
 森は妖精をはぐくみ、妖精は森を成長させる。
 互いの成長に互いの存在は不可欠で、どちらかだけでは成立しない。暗い暗い土の中で眠っていた種は、やがて水と太陽の助けを得、眩しく明るい世界へと出てくる。世話をしたのは洛竹だったが、それは種にほんの少し手を貸しただけにすぎない。むしろ、向日葵の真っ直ぐに伸びていくさまは洛竹の心に慰めと安らかさをもたらし、少しずつ花開いていく様子は洛竹の心に喜びという感情を思い出させた。向日葵をこの世界に迎えるつもりで育てていたが、それは逆で、暗い世界から明るい世界へ、自分が向日葵に引っ張り出してもらったように思われた。
 洛竹の背丈ほどになった向日葵は、今では揃って東を向いている。花がついたばかりの頃はけなげに太陽を追って顔を動かしていた向日葵だったが、いつの間にか太い幹を真上に伸ばして、深い茶色と鮮やかな黄色をぐっと上に向けている。夏の青空を背にした堂々たる向日葵たちに、誇らしい気持ちになった。
 日課の水やりを終え、大きくなったなと声をかけると、向日葵は嬉しそうに葉を揺らした。手のひらでひさしを作って空を見上げる。照り付ける夏の太陽が眩しい。
 太陽は向日葵を育み、向日葵もまた太陽に笑いかけている、のだろうか。
 もしそうなら、笑いかけた向日葵を、太陽もまた笑って見てくれているのだろうか。
 向日葵が笑っているのを見て、喜んでくれているだろうか。
 喜んでくれているといい、と思いながら、洛竹は小さく微笑んだ。


53. 洛竹が向日葵の種を取る話 / 洛竹、紫羅蘭

 月日は流れ、やがて季節は秋になった。
 盛りを過ぎた向日葵たちは徐々に頭を垂れてゆき、うなだれていく向日葵と連動して、洛竹の気持ちもしおしおとしぼんでいった。
 わかっている。植物なのだから寿命はある。向日葵はそれが、ひと夏という短いものだというだけだ。彼らは夏の間に精一杯咲き、秋になれば種を残して土に還るのだ。
「種を取ってあげましょうか」
 とうとうすっかり枯れてしまった向日葵を前にして、しょんぼりしている洛竹に紫羅蘭が言った。まだ暑さの残る夕方で、今を限りと最後の蝉が断続的に鳴いている。金色の西日が庭の木々に降り注ぎ、洛竹の頭や肩や背や腕を染めていた。振り向いてみれば、紫羅蘭も同じように全身を金色に染め、両眉を下げて微笑んでいる。
 洛竹がしんみり頷くと、紫羅蘭は一旦店に入り、銀色の大きな鋏を持って戻ってきた。
「私が花を支えていますから、上の茎のところを切ってくださいね」
「えええ!?」
 種を取るのにまず花を切り落とすなんて、と洛竹は狼狽した。しかし結局のところ、種を取ることに同意した手前拒むこともできず、洛竹は受け取った枝切り鋏を握りしめた。ずっしりと重く冷たい感触に、断頭台の指揮を任されたような重い気持ちになる。
 深呼吸して覚悟を決めて、じょきん、と太い茎を切る。切れ味の良い鋏はなんのひっかかりもなく仕事をし、その手ごたえは洛竹の指先をぞわりとさせた。自分が命を切断した。もう終える命だったとはいえ、この手で他者の命を絶ったという罪悪感は、指先から身体全体にじわじわと広がっては洛竹の胸を締めつけた。
 思えば洛竹は、自分の手を汚したのは初めてなのだった。あんなに大きな事件を起こした時でさえ、自分は手を下さなかった。代わりにそれをした兄たちのことを想った。
 あの時のことは、ことあるごとによみがえる。未だに過去にはならない、まるで今起きている出来事のようなリアルさで胸を刺す痛み。それは、兄が自分の願いを聞き入れてくれなかった悲しさと、そのせいで幼い妖精の命を危機に晒したこと、ずっと兄であった風息に対しても、新しい仲間であった小黒に対しても、どうすることもできなかった自分への悔しさとが、全部混ざった痛みだった。何より悔しく辛かったのは、こんなにも隣に居たのにその重さを分けてもらえなかったことだ。いや、そうするに値しない自分であったということが、不甲斐なかった。この胸をもっとも深く刺しているのは、兄でも妖精館でも人間でもなく、自分だった。
 鋏を持ったまま固まっている洛竹の横で、切り落とされた花を抱えた紫羅蘭が元気付けるように言った。命を繋いであげるのも私たちのお仕事なんですよ、と。
 花の首を切り落とすという恐ろしい時間が終わると、紫羅蘭はそれらを庭の軒先に並べた。もう数日太陽に当ててやり、ちゃんと乾いたら種を取るのだという。
「今のお花に何か声をかけてあげるとしたらね、弔いじゃなく労いの言葉がいいんじゃないかって思うんです」
 大きな丸い目を柔らかく細めて紫羅蘭が微笑んだ。
 
 次の店の定休日、洛竹は紫羅蘭と軒先に座って種を取っていた。紫羅蘭に教わった通りに平たい大きなザルを膝に抱えて、その上で枯れた花の上に指を滑らす。軽く擦ると、ぼろぼろと種が落ちてきた。植えた時と同じ模様の、ふっくらとした種が無数に取れる。少し前まで悲しかったはずなのに、軍手ごしにぼろぼろと取れるその感触はなんだかおもしろくて、洛竹は複雑な気持ちになった。ちょっと楽しくないですか? と顔を覗き込む紫羅蘭に、複雑な気持ちのまま、うん、と首を縦に振った。
 ひとつめの花の種を取り終えたところで、顔を上げて溜息をつく。視界に映る庭には夏の名残の花が咲き、秋の草花が小さなつぼみをつけて揺れていた。ずいぶん高くなった空に雲はなく、その風景をトンボが一匹横切った。
「向日葵の種は、食べられるんです」
 知っている? と、ふたつ目の花の種を取りながら紫羅蘭が言った。
「炒ってそのまま食べることもできるけど、料理やお菓子に使うこともあるんですよ」
「へぇ」
「とっても栄養があるんですって。秋には月餅に入れたりして」
「げっぺい?」
「そう、月餅」
 紫羅蘭は、このくらいの、と両手の指を合わせて丸を作り、空に掲げた。青い空が丸く切り取られる。
「家庭円満を願って、中秋節に家族で食べる秋のお菓子。小麦粉の生地に餡子や木の実を包んで焼いたものです」
 焼いたものと言われて、反射的に弟の天虎を思い出す。それは甘くて香ばしそうだ。
「中秋節の丸い満月に見立てたものらしいですよ」
……月見団子みたいなものか」
 月見団子なら知っていた。遠い昔、風息が人間の里で教わってきた。米の粉を水と混ぜて、手のひらで丸めて蒸して、それを月を見ながら食べるのだと。紫羅蘭は微笑んで頷いた。
「丸い月が団らんを象徴するから、『団らん節』とも言うようです。月見と一緒で、家族みんなで月を見ながら一緒に食べる風習なんですって。月見団子と同じですね」
「そっか」
 団らん。洛竹は胸の中で呟いて目を伏せた。手元にはバラバラと散らばった向日葵の種。考えてみればこいつらも家族なんだよな、と思う。あの種から生まれた子供たち。
 団子を作って月見をするというのは、風息が仕入れてきたから物珍しくてやってみただけだ。そんなことしなくたって月は毎日出ていたし、いつだって洛竹はそれを家族と眺めていた。月見なんて毎日していたし、団らん節なんて設定しなくても、自分たちは毎日一緒だった。
 今、洛竹の横に家族はいない。家族のうち二人は遠くに隔離されていて、一人はもっとずっと遠くに行ってしまった。そんな風習を知ったところで、再び家族と月見をするなんて叶わぬ願いなのだった。
「中秋節には、」
 すっかり手が止まってしまった洛竹に、紫羅蘭が控えめに言った。
「よかったらここで月餅を食べませんか」
「え、ここで?」
「はい。中秋節には毎年お客様も何人か来てくれて、一緒にお月見するんです」
 お客様という言葉に洛竹は警戒した。ここは館と連携している花屋だ――洛竹が働いているのだからそれはそうなのだが――。紫羅蘭と居ることには多少慣れたとはいえ、風息を攻撃し虚淮と天虎を牢に入れ続けている館の妖精には、良い感情は持てなかった。表情の曇った洛竹に気づいたのか、紫羅蘭が言い添える。
「あ、舘の妖精は来ないから安心して。この店の常連さんたちしか来ないから」
 ね、そうしましょう? と畳みかける紫羅蘭の、さりげない温かさが胸に沁みた。じっと見つめる紫羅蘭の目は、冬の間に凍りついた地面を溶かす春の陽のようだった。
「うん、そうする」
 ありがとう、と洛竹はその心づかいに礼を言った。


54. Pietà / モブ人間、虚淮

 うっそりと寒い冬の夕方、その男はやってきた。
 男だとわかったのは声が低かったからだ。見た目だけなら女性かと思うような、小柄で華奢な姿をしていた。整った顔立ちだったが寒々とした雰囲気で、怜悧な目つきでぼそぼそと喋る男だった。
 中を見たいと言われ、扉を開けて案内をする。大聖堂の見学者はさして珍しくはない。こんな季節のこんな時間に来ることはまれだったが、暖かい気候の昼間などは、ツアーバスが何台も駐車場に留まるほどなのだ。繁忙期なら説明して回る専門の職員がいるが、今は閑散期なので事務員の自分しかいない。ただの事務員なので、通常こまごまと説明することはない。繁忙期でない時期に来る者はたいてい放っておかれたがるので、説明する者がいなくとも問題はなかった。だが男は、自分が事務所に帰ろうとするたびにこれはなんだあれはなんだと指をさして聞いてくる。仕方がないので付き合うことにした。
 男はこの寒いのに襟巻も帽子もつけていない。薄手の外套を羽織ったのみのすっと伸びた背筋を、数歩遅れて追うような形で聖堂の中をぐるりと歩いた。
 ふと、聖堂の片隅で男の足が止まった。誰もが足を止める、ミケランジェロのピエタ像だ。薄暗い聖堂の中に浮き上がるような乳白色の彫刻を、男は黙ってじっと見つめた。しばしの沈黙ののち、男が振り向いた。これはなんだと言うので、この像が表す有名ないち場面について概要を話してやった。
 男は話を聞き終えると、表情を変えずにぼそりとひと言、そうかと言った。
 それから、この人間はしあわせだな、とも。
 棒立ちのまま彫刻のように動かない男の横顔を見遣る。触れればひやりと冷たそうな、大理石のような横顔だった。この人間、というのがイエスを指すのかマリアを指すのかわからなかったが、尋ねることはしなかった。
 聖堂の床は石造りで、こんな日は足元からじわじわと冷える。ストーブが猛烈に恋しくなったので、事務所に引き上げることにした。他の見学者へするのと同様、ごゆっくり、と告げたが、男は像を見上げたまま微動だにしなかった。
 男はその後、音もなく姿を消した。


55. Pietà2 / 虚淮、モブ人間

 教会といわれる場所に行ってみようと思ったのは、その男に興味が沸いたからだった。
 二千余年前に生まれ、人間から神の子と呼ばれ崇め奉られ、そして同じ人間に迫害され死に追いやられたという男。少し調べると、その男のことをよく知るには教会という場所へ行くのが良いらしいことがわかった。行くことに特段の意味はない。ただ虚淮は、少し聞きかじっただけのその男に、漠然とした親近感を覚えていた。自分と似ているという意味合いの親近感ではない。どちらかというと、あれとの近似性を感じ、それに親しみを感じているというのが正解だろう。それに、水面を覗き込んで自分の姿形を知るように、その男を覗き込むことで、あれに関する自分の中のもやもやしたものの形を知ることができるのではないか、と思ったというのもある。
 行くと決めたら早かった。与えられた電子機器に指を滑らせ、目的地を定める。交通機関を確認し、人間に見えるように見た目を調整し、季節に合った衣服を身に着け、公共の乗り物に乗る。こういうことを滞りなくやってのけると、館の妖精にずいぶん慣れたんですねなどと言われることがあるが、慣れたというのは心外だった。ここで生きるならこうしろと強いられたことを、無心に淡々と遂行できるようになっただけだ。
 虚淮が目的地に着いた頃には、夕方になっていた。来訪者は虚淮だけだったようで、窓口に座っていた男へ声をかけると、男は出てきて中にある扉を開けてくれた。
 扉の向こうには、がらんとした空間が広がっていた。天井が高い。足元を見ると、入り口から真っ直ぐに紅の絨毯が伸びている。視線の先には十字架を描いた大きな机が置かれており、その向こうは数段高くなっていて、巨大な十字架にかけられたイエスキリスト――調べた資料にはどれにも同じ彫像が載っていたので覚えてしまった――が掲げられていた。十字架像の左右にも、なにやら人間の彫像があるようだ。
 中央に敷かれた絨毯の左右には木製の長机と椅子が整然と並んでいる。机と椅子をぐるりと取り囲む壁には、墨だけで描いたような小さな絵が、等間隔にいくつもかけられていた。同じく等間隔に開けられた窓には、部分的に赤や黄色、緑や青の色がついている。初めて見る不思議な部屋だった。
 後ろからついてくる受付の男にあれはなんだと尋ねると、男は親切に色々教えてくれた。色付きの窓はステンドグラスというのだということ。無彩色の絵はイエスキリストの誕生から磔刑までを順々に描いたものだということ。この男は馬小屋で生まれたのだということ。しかし誕生の時は、馬だけでなくたくさんの動物や人間に見守らていたのだということ。やがて男はひとに神のことを教えたり、奇跡を起こしたりしたのだということ。なかでも虚淮の目を引いたのは、魚と丸いものが描かれた絵だった。聞くとそれは、少数の食料を数千倍に増やしてひとに分け与えた奇跡なのだという。魚が減ってしまった海で漁師に大量の魚を獲らせてやった時の絵もあった。虚淮は、あれも似たようなことをしていたな、と微笑ましく思った。他人に説教をするなんてことはなかったけれど、困っている人間がいれば、道を作ってやったり豊かな森の恵みを分け与えたりと手を差し伸べたがるやつだった。やがて神などと人間に言われてもてはやされるところまでも、やはり随分似ていると思った。そこまで考えて、多少浮上した気持ちが再び沈む。そうだ。人間はそうやってもてはやした後、かくも簡単に手のひらを返すのだ。
 足を進めるにつれ、壁に掛けられた絵も不穏な空気を帯び始めた。罪人と罵られて鞭を打たれ、自分が磔にされる十字架を担がされて歩くなど、酷い話だ。人間の残酷さは二千年前から変わっていないということなのだろう。やがて磔にされ息絶えたところで、その絵は途切れた。ふと気づくと、虚淮は聖堂の奥、祭壇の前まで来ていた。見上げれば、入口で見た時よりも巨大で、過程を追ったせいで一層胸に迫る磔姿が目の前にある。
 虚淮は像の正面に相対して考えた。人間はこの像を前に祈りを捧げるという。自分たちのせいでこんな姿になった男の像を前にして、何を祈るというのだろう。この姿を見て、何を想うというのだろう。虚淮の脳裏に、故郷に今も立ち続ける巨大な樹のことが思い浮かんだ。人間が、妖精が、あの樹を見て何を想うのか、虚淮にはいまだにさっぱりわからない。どころか、誰も彼もに怒りをぶつけたい衝動に駆られるというのに。
 それ以上見ていられずに、虚淮は目を逸らして歩みを進めた。と、一隅にひっそりとある別の彫像が目に入った。腰布だけを纏って仰向けになった人間の亡骸と、それを抱きかかえて見つめている布を被った人間の像だった。それは薄暗い聖堂の中でぼんやりとした照明を浴びて、白い表面が浮かび上がっている。
「これはなんだ」
 虚淮は案内の男に尋ねた。
「これは、かの有名なピエタ像の複製です。ピエタ像、ご存知ですか? 聖母マリアが、十字架から降ろされたイエスキリストを膝に抱いて悲しんでいる場面です。この像では二人きりですが、絵画などでは弟子たちも一緒に嘆き悲しんだ様子が描かれていますよ」
 聖母マリア。馬小屋であの男を産んだという人間だ。先の説明では、磔刑の場にも居て、死にゆく息子を見守っていたらしい。そう聞いた時、虚淮はこの人間に同情していた。この場にいて、大切な相手に危害を加える存在をぶちのめすこともできず、大切な相手を守ることも救うこともできず、ただ見ていることしかできないというのはどんなに胸を絞られるだろう。ところが、この像を見た時、虚淮は猛烈な嫉妬にかられた。たとえ死んだ後であっても、こんなふうに嘆き悲しむことが許されているなど。別れの時間を過ごすことができたなど。自分には許されなかったことがこの人間には許されたのだ、と思うと、虚淮は先の同情を撤回した。たとえ死にゆく運命であっても、その時そばに居られるというのはありがたいことなのではないか。ただ居ることしかできなくとも、見守ることで苦しみの一部を引き受けてやることはできる。ひとりではないのだと示してやることもできる。苦しかろうが、それは残される者の救いになる。
「この人間は、しあわせだな」
 虚淮の口から本音がふっと零れ落ちた。案内の男が怪訝な顔でこちらを見る。
 自分はあれが戦っている時、そばにいてやれなかった。苦しんでいる時、それを分かち合ってやれなかった。ひとりきりで最期を迎えさせてしまった。この手で亡骸を抱きしめてやることも、この口で労いの言葉をかけてやることも、なにひとつかなわなかった。そして自分は、その場面を目の当たりにしていないせいで、いまだにあれの不在という事実を受け入れられずにいるのだった。
 沈黙が場を支配してどのくらい経っただろう。いつの間にか案内の男はどこかへ行ってしまい、しんしんと冷える空気が夜の始まりを告げている。
 二千余年前の男の亡骸を前に、虚淮は風息、と小さく呟いた。
「風息、すまない」


56. 聖夜 / 虚淮

 夜の地上はあらゆる色の電飾で溢れていた。
 上空から見る夜の街は常に無遠慮な光に溢れていたが、それと目の前の風景は性質が違うようだった。背の高い常緑樹またはそれを模した形に、多数の電球をつけたコードがぐるぐるに巻き付けられている。枝には赤や青や金や銀に光る丸い球や人形や色々な形の何かが所狭しとぶら下げられ、それらがカラフルに光る電気に照らされ光を跳ね返している。ずいぶん騒々しい樹だな、と虚淮はそれらを見上げた。他にも星や贈り物をかたどった飾りが壁や窓や植え込みや店の内外のあちこちから光を放ち、道行く人間の目を引こうと躍起になっていた。耳をすませばどこからか楽し気な音楽が流れており、人々は連れ立って楽しそうに歩いている。
 これがクリスマスというものか。
 虚淮は両手をコートのポケットに突っ込んだまま、人混みでひとり立ち止まって空を見上げた。主張の激しい人工的な光に閉口して細めた目に、濃紺の空が優しい。しかし地上の星のせいで、虚淮の馴染みである月も星もここからは見えないのだった。
 クリスマス。イエスキリストの降誕祭。人々はイエスキリストの降誕を祝って樹を飾りつけ、贈り物を交わし、大切な者と共に過ごす日だという。子どもに贈り物を配るサンタクロースという老人がいて、それはクリスマスの妖精と呼ばれている――本当は妖精に扮した人間だと聞くが。
 イエスキリストと聞いて思い浮かんだのは、いつか教会という場所で見た男の姿だった。人間に親切にしてやり、神の子と呼ばれ、しかし恩を仇で返され、磔にされた男。のちに復活して人間から真に崇められるようになった男。
 やはり人間というのは信用ならない、と虚淮は思った。自分たちで迫害しておいて、のちに再び崇めるなど、手のひらを返す人間の常套手段だ。あいつらはいつもそうだ。揚げ句に自分たちがした仕打ちなどすっかり忘れたかのように、こんな風にお祭り騒ぎをする。調子がいいにも程がある。
 なあ、イエスキリストよ。
 虚淮は記憶の中の十字架の男に問いかける。お前が救ったという人間は、お前にしたことなどまるで忘れてバカ騒ぎをしているぞ。
 イエスキリストは答えない。記憶の中の男は、こけた頬のまま哀しい目をして十字架から見下ろしている。人間のことなどどうでもいいと愛想を尽かしたのか。それとももうこの世には存在しない人物だから口をつぐんでいるのか。
 物思いにふけっていると、いつの間にか赤い上下を着た老人――の扮装をした人間――が目の前に来ていた。彼はメリークリスマス、とだけ言って分厚い手袋をしたままの手で虚淮に何かを差し出した。反射的に手を出して受け取ると、人間はにっこり微笑んでまた次のターゲットを定めてそちらへ向かって行った。
 サンタクロースが贈り物をする相手は子供だろうにと思いながら、虚淮は持たされた贈り物を開けてみる。中身は、小さな鏡のような四角形がぎっしりと敷き詰められた、きらきらと光る紫色の球体だった。出ている紐をつまんでみると、球体はゆっくりと回転した。裏側には、なんとかボールという文字が印刷されている。目の前の騒がしい店に掲げられている文字と同じだったので、あの仮装した人間はこの店の店員で、この球は店の販促品かなにかだろう。
 まあいい、と虚淮はその球をポケットに仕舞った。
 人間への不信も理不尽への怒りも、自分が持っていればいい。例えば小さな風息ならば、この楽しそうな催しにきっと興味を示すだろう。夜中にクリスマスの妖精が来ると告げれば、じゃあちゃんと寝ると意気込んで布団を被るだろう。贈り物を見つけたら、目を輝かせて喜ぶだろう。
 そのままの姿でいさせてやりたかった。素直で明るい、ただのひとりの妖精のままで。
 虚淮は予定を変更して、風息公園へ足を伸ばすことにした。喧騒から少し離れたその公園は、ぎらぎらと電飾で飾られることもなく、時折思い出したように立っている街燈程度の明かりしかなかった。
 今日はクリスマス。神の子と呼ばれた者の誕生を喜ぶ日。
 のちになにが起ころうとも、誕生が喜ばしかったことは、なかったことにはなり得ない。
 虚淮は公園の樹のてっぺんまで登ると、ポケットから球を取り出し枝にそっとくくりつけた。



57.  あいたまま / 虚淮

失くすものなど何もないと思っていた。
自分の命すら失くすことは怖くなかった。
どうせ痛みなどないのだとたかをくくっていた。
自然に発生し、自然にまたそこへ還る。
恐るることなどなにもない。
それが自然の理だ。
それがどうだ。
今や自分は、なにも痛まないはずの己ごと失くしてしまった。
欠けた腕は痛まないのに、空いた胸の穴が痛む。
太陽の光が、水に揺れる緑が、風にはためく白が、闇に浮かぶ橙が、
あらゆる景色が、音が、温度が、その穴を軋ませる。
だがこの穴は、あいつがここに居た証。
だからこのまま。このままでいい。
このままでいい。

このままがいい。


58. 死について / 虚淮、子風息

「何を泣いてる」
 いつも遊んでいた森の一角で、啜り泣いている風息の背中に声をかける。長時間戻ってこないのを心配して探していたが、静かにうずくまっていたので発見が遅れた。
「あの妖精、いなくなっちゃった。どっか行っちゃったんじゃないんだ。ここで消えちゃったの。まだここに気が残ってるけど、呼んでも呼んでも返事がないの。ねぇ虚淮、あの妖精はどこに行ったの?」
 しゃくりあげながら振り向いた風息の顔は涙まみれの鼻水だらけだった。あの妖精とは、おそらくここに居た古い木の妖精だ。最近ではずいぶん気が薄くなっていたから、おそらく消滅してしまったのだろう。
「あの妖精は消滅したんだろう。今残っている気も、まもなく消えてしまう」
「消えちゃうの?」
 風息が悲壮な顔をして虚淮を見上げた。
「ああ。妖精は消滅すると自然に還る。どこにも居ないがどこにでも居る。自然がある限りそこにはあの妖精がいるんだよ」
「でも消えちゃうんでしょ。もう会ったり話したりできないんでしょ」
「そうだな」
 納得できずに首を傾げる風息に、なんと言ったものかと虚淮は考えた。
 腕を組んで思案していると、ふと以前聞いた『人間』の話を思い出した。寿命が短く儚い、人間という生き物。
……いつか、人間は墓を作ると聞いたことがある」
「墓?」
「死んだ人間も土に還る。自然に戻る。でもそいつと親しかった人間は、死んだ人間が自然に還ったとは受け入れ難い。森の中に、風の中に、雨や日差しの中にその人間がいるのだというふうには考えられない。だから墓を作って、そこに死んだ人間が居るということにして、話しかけたり祈りを捧げたりするらしい」
「そうなんだ」
「お前も、ここに思い出があるなら、ここを墓としてあの妖精を思い出したり話しかけたりするといい。そのうち、自然の中に居るのだという気持ちになれる時がくるかもしれん」
「そうかな」
「たぶんな」
 虚淮は近くに生えていた明るい色の花を手折って、地面に置いた。
「人間は墓にこうするらしいぞ」
 風息も虚淮に倣って花を供える。
「また来よう」
「うん」
 夕暮れの風が、ふたりの妖精の背を優しく撫でて過ぎていった。


59. 雨水 / 虚淮

 魚を模した巨大な紙風船の中に灯をともし、闇の中を人間が練り歩いている。虚淮はしばし高台からそれを眺め、ほんの気まぐれからその群衆の中に降り立ってみた。
 この場所はずっと以前も村があった場所だ。開発が進み、都会と似たような街並みになってきたものの、祭の日だけはかつての風習に倣うらしい。大通りの交通を止め、皆が魚の灯籠を頭上に掲げながら、大量の人間が白い息を弾ませて歩いている。
 いつか風息とこの祭を眺めたことがある。思い出のかけらを拾うように、虚淮はあの日の足取りを辿った。
 祭で多少の怪異は許されるとはいえ、異形が目立つといけないと思った虚淮は、幼い風息に逆向きでなら祭を歩いても良いと許可をした。なるべく祭に溶け込めるようにと人間風に新調した衣服に身を包んだ風息は、上下左右をきょろきょろしながら弾むように歩いていた。手は繋がなかった。普段から繋ぐ習慣がなかったからだ。風息の気は目立つのでどこにいてもすぐにわかる。人間のように迷子になることはないし、たとえなったとしてもすぐに見つける自信はあった。
 だから、あの日も今も、歩いている状態としては同じはずだった。にもかかわらず、提灯行列はいともあっさりと終わってしまった。暗い路地までやってくると、虚淮は思わず振り向いた。こんなに短かったかと思った。あの日は、進んでも進んでも人間と灯籠がひしめいていたのに。
 暗がりに佇む虚淮の前を、遅れて祭にやってきたのであろう人間の親子が通り過ぎていく。子どものほうは目をきらきらさせて、あれはなに、これはなに、と指をさしては親の顔を覗き込んでいる。
 ああ、そうか。
 すとん、と腑に落ちた。
 あれはなに。これはなに。
 ねえ、虚淮、あっちの赤いのはなに。
 人間てすごいね。夜なのに明るいね。
 ねえねえ、中には何が入っているの。
 袖を引いたり手を掴んだり、顔を覗き込んでは、ね? ね? と同意を得たがったり。
 だからあんなに時間がかかったのだ。
 あの時は永遠に続きそうな気がしていたのに、ひとりきりでは一瞬だ。
 今度は洛竹や天虎を連れてこようか。そうしたら、少しはあの日に近づけるだろうか。
 ひと足ごとに祭が遠ざかる。虚淮は振り返らずに、暗がりに姿を消した。



60. 龍神と童神 / モブ鳥、モブ村人

 つばめがこの村を再訪したのは、ようやっと雪が溶け、里山の枝に春を告げる梅の花がちらちらと開き始めた頃だった。つばめはこの季節になると大勢の仲間と南方からやって来て巣を作り、妻と共に子育てをする。子どもが巣立てばまた南方へ飛んでいく。
 ところでこのつばめには、気に入りの軒下があった。ここ数年は、毎年この村の同じ軒下に巣を構えている。この軒下は陽の具合もちょうど良く、天敵も来ないので、子育てには絶好の場所なのだった。去年の巣の跡が残っていたので、つばめの夫婦はそこを補修して使うことに決めた。藁と泥を集めてきては床や壁を作っていく。
 その日も、つばめは朝からせっせと巣に藁や泥を運んでいた。
 太陽が真上に来る頃になると、数人の人間がぞろぞろ建屋の中へ入っていくのが見えた。この建屋のことを人間は『寄り合い所』と呼んでいる。普段は静かな場所だったが、時々たくさんの人間がやってきては、ぺちゃくちゃと賑やかにお喋りをして帰っていく。どうやら今日は『寄り合い』のある日らしい。
 巣の材料集めのために藪と軒下をずっと往復していたつばめは、ここらで一度羽を休めて、人間たちのお喋りを聞いてみるか、と思った。
 つばめが軒と壁の隙間に開いた穴から顔を出して耳をそばだてると、板張りの床に腰を下ろした人間が十数名ほど、互いに話したり笑ったりして、代わるがわる誰かしらが立ち上がり、大勢を向いて何か喋っては座るのを繰り返していた。祭がどうのこうのという話をしているとこを見るに、終わった祭の反省会でもしているのかもしれない。そういえば去年もこんな話し合いがあったな、とつばめは思った。この村では、冬の終わりで春の初めに、大きな祭をしているらしい。そうこうしているうちに、ひとりの人間が立ち上がるとひと際大きな声で言った。
「では、今年の役員の皆さんお疲れさまでした。来年の祭の代表役員は陳さん、呉さん、周さんでよろしいですね。皆さんにはのちほど今年の代表から引き継ぎをしますので、よろしくお願いします。では、今日はお開きということで」
 お開き、の言葉を合図に、人間たちはざわざわと立ち上がり外へ出て、三々五々に散っていった。つばめが自分も仕事に戻ろうかと思ったその時、人がまばらになった室内でささやく声がつばめを引き留めた。
「なぁ、ちょっと聞いてくれよ」
 ひとりの男が、隣の男に話しかけている。ひょろりとした体躯に小ぎれいな青い服を身に着けた男は仕立て屋だった。仲間のつばめがこの男の店の軒下に巣を構えていたので、何度か見かけたことがある。
「なんだぁ李さん、またおかみさんと喧嘩したのかい」
 答えたのは、白い服を着た恰幅のいい男だった。肉付きの良い顔をてかてか光らせて、腰には白い前掛けをしている。こちらも仲間が軒下に居を構えているから知っている、仕立て屋の近所にある食堂の店主だ。
「こないだは売上が合わないってんでおかみさんと大喧嘩しとったろう」
 食堂の店主がからかうように言うと、李と呼ばれた男は違うんだよ、と神妙な顔で言った。
「俺さ、祭の時、警備係をやってただろ?」
「ああ、そうだったな」
「その時に、俺、見たんだよ。龍神さまをさ」
 李が声をひそめて言うと、食堂の店主がはぁ!?とすっとんきょうな声を出した。
「龍神さまは神様だろ。祠に像はあるけども、それが人間になって出てきたってのかい。そんな話、聞いたことねぇぞ」
「でもな、あの姿は間違いなく龍神さまだったんだよ。俺たちと同じように足が二本、手が二本あってな、でも頭に大きな青い角が生えてんだ。それでな、人間離れした青白い顔をしていなさった」
「角が生えて……? そりゃあ人間じゃねえな」
 それじゃあ本当に? と腕を組んで首を捻る食堂の店主に、李はますます声を顰めた。
「それでなそれでな、なんとその龍神さま、うちで仕立てた着物を着ていなさった」
 まさか! と食堂の店主がのけぞった。大きな顔が上気している。李のほうも小声ながら興奮して早口になっていた。でもなぁ、と店主が言う。
「百歩譲って龍神さまが祭に来られてたんだとしてもだぞ、なんだってお前んとこの着物を着てるんだよ。第一、なんでそんなことがわかるんだよ」
「いやな、最初はなんか似てるなと思ってただけなんだけどな。肩の、ここんところに白い紋を入れるのは、ここらじゃうちだけだ。それに、衿の飾り留め。あれはうちでしか扱ってない一点ものなんだ」
 紋や飾り留めの位置を指で示しながらひそひそと話しているところへ、腰の曲がった老人が割って入った。気づけば部屋の中はその三人きりになっていた。
「どうした二人とも」
「あ、村長!」
 村長と呼ばれた男は、その長くて白いひげを片手で撫でながら腰を下ろして二人の話を聞いた。話が終わると、村長は何度も頷いて言った。
「ふむ……それはお前さん、本当に龍神さまかもしれんぞ」
「やっぱりそうだろ!?」
「まさか!」
 ふたりの声が重なる。村長は二人の顔を見るとゆっくりと言った。
「死んだわしのじいさんが、子供の頃に見たことがあると言っておった。じいさんが見た時、龍神さまは水辺に立っておったそうじゃ。小柄ながらに額には立派な二本の角があって、青い長い髪を背中に垂らした、氷のような肌のお方だったと」
「それ! それだよ! ほら、やっぱりあの方は龍神さまだったんだ! 龍神さまが俺の仕立てた着物を着てくれた!」
「それってすごいんじゃないか!?」
 手を叩きそうに喜んだ李に、さっきまで訝しんでいた食堂の店主も同意を示した。
「李さん、あんた、同じ着物仕立てて、龍神さまが着ていた着物だと宣伝したら、爆売れ間違いなしだ!」
「そ、そうだな!やった!これでひと儲けできるぞ!」
 興奮して立ち上がるふたりを、村長が首を横に振ってたしなめた。
「いや、それはやめておいた方がいい」
「なんでだ?」
「龍神さまは人に見られるのを嫌がられる。そんなことをしたらどんなバチがあたるかわからん」
「バチ……?」
「ああ。龍神さまを詮索したり、宣伝に使ったりするなんてとんでもない。龍神さまは川の神であり水の神だ。深入りはしない方がいい。水難に遭いたくなければな」
「それは困る」
「そうだな」
「龍神さまが村の着物を着てくださったのか……ありがたいことだ……。お前さんたちも自慢などはせずに、心のうちでありがたがっておけばよい。くれぐれも言いふらすでないぞ。ありがたや、ありがたや」
 肩を落とすふたりをよそに、村長は目を閉じて合掌した。李はそんな村長の肩を揺さぶって言った。
「だがな、村長。もうひとつあるんだ」
 揺すられた村長が目を開き、食堂の店主がまだあるのかよ、と肩をすくめた。
「龍神さまはな、童神さまも連れていなさった」
「わらびがみ?」
「ああ。子どもの神様だ。龍神さまよりもっと小さくて子どもの見た目の……ちょうど王さんとこのせがれくらいの背丈でな」
 李が手のひらで、頭の位置を示してみせた。
「童神さまの方はな、暗い色の髪がぼわぼわーっとしてて、角はなくて、黒い耳としっぽが生えとった」
「ひぇ~。神様を二人も!新年早々すごいもん見たなぁ」
「それはお前さん、森の神様かもしれんな」
「なんで?」
「五行を知らんのか。水の神さまが童神さまを連れているなら、童神さまの方は木の神さまだろう」
「はー、なるほど」
 食堂の店主は天を仰いで、村長に倣って両手を合わせた。李も手を合わせて、眉をハの字にして小さく言った。
「龍神さま、来年も来なさるだろうか」
 それから李は、何か思いついたというように前のめりになり、食堂の店主と村長の顔を交互に見ながら言った。
「な、来年の祭前に、祠堂にうちで仕立てた服をお供えしたらどうだろう。また着てくれたりして……
「お前さん、もし着てくれたら、今度こそうちの服を龍神さまが着てくれたって言えるとか思ってねえだろうな」
……バレた?」
「まあ好きにせい。水難事故に気をつけてな」
 村長は呆れたように言い、すっかり乗り気になった李が興奮して言った。
「童神さまの分も作ろう!王さんちのせがれに合わせて作ればいいだろ? な?」
「ははは、楽しみだな」
「まったく……ほどほどにな」
 それから三人は連れ立って、寄り合い所を後にしていった。
 軒先で聞いていたつばめは、その後ろ姿を見送るとひそかにニンマリした。
 面白いことをきいたぞ。仲良しのあの妖精が神様と呼ばれているなんて。明日藁集めのついでに森へ行って、風息に今の話を聞かせてやろう。
 つばめはその時の風息の反応を想像してにこにこしながら、巣作りを再開しに飛び立つのだった。


61. 龍神と童神2 / 虚淮、風息

 それは、風息と出会って十何度目の夏だった。
「虚淮! 虚淮見てて!」
 息を切らせ顔を上気させて走ってくる風息に目を向け、耳と尻尾がしまわれた姿に、またかと思う。ここ最近、風息はヒト型に変化する練習に専心している。人間に似せた姿は上手にはなったが、想定外の事態に見舞われるとすぐに耳も尻尾も元に戻ってしまうのだった。アクシデントがなくても、他のことに気を取られていると変化への集中力が切れてしまい、やはりぴょこんと元通りになる。
「いくよ!」
 風息は言うが早いか、虚淮の立っている水辺にどぼんと飛び込んだ。
 風息は泳ぐのが好きではない。泳げないことはないが、苦手分野なのだ。俺は走るのが速いからいいんだ、と言っているが、小さい頃から水浴びが大嫌いだったのを虚淮はよく知っている。
 風息は向こう岸まで泳いで行って、向きを変えてまた戻ってきた。泳ぎは多少上達したが、泳ぐほうに神経を使うので、今までは毎度変化が解けてしまっていた。ぼたぼたと雫を垂らしながら、風息が岸に這い上がる。豊かなくせ毛が背に張り付いている。
「ほら、ね。泳いでも戻ってない!」
 歯を見せて笑う風息に、虚淮は溜息をついた。
 なんとしても人間と交流がしたいらしい。そんなものしなくても良いのに、と虚淮は思う。妖精は妖精だ。人間と対等にやりとりしようなどと考えるとろくなことはない。だが、言ってしまったことは言ってしまったことだ。
『何があっても変化が解けないようにできたら里に降りても良い』
 今の風息なら、許可せざるを得ないだろう。虚淮は顔を上げて、わかった、と言った。
 それから、話しておくことがある、と。
 
 夏の太陽はあらゆるものからすぐに水分を奪う。草の上に腰を下ろした風息の髪は、すでにいつものボリュームを取り戻しつつあった。ぴかぴかの顔をこちらに向けている風息の向かいに座り、虚淮はいつも通りの温度の顔で静かに語り始めた。
「昔、知り合いの妖精がいた。そいつはこの森の先の先の、随分遠くの河に住む妖精だった。私と同じく龍を由来とし、水場を好み霊魚を操っていた。私と違って社交的で明るい妖精だった。そいつは時折遊びに来ては、身の周りで起こったことを話してくれた。そいつは住処の近くに住む人間とずいぶん交流していたらしい。人間の前に出る時はヒト型を取っていたが、人間からしたら摩訶不思議に見えるであろう術も披露していたようだった。大抵は人間の役に立つ力の使い方――水に落ちた子供を助けてやるとか、日照りの時に田畑へ水を引いてやるとか――だったらしいがな。だからだろうが、それを見た人間からは、河の神様として崇められていたらしい。そいつは人間のように振舞いたがったし、それでいて親切に人間離れしたこともやってみせた。お礼に飯をふるまわれたとか、踊りを見せてもらったとか、色々言っていたな。ずいぶん長いこと、そいつは人間とうまくやっていたようだった。……だが」
 虚淮は言葉を切った。これをまだ若い風息に伝えるのはむごいだろうか。だが、知らせておかねばなるまい。風息が人間と和を深めたいというならば。
「虚淮?」
 楽しそうに話を聞いていた風息が、表情の沈んだ虚淮を訝しんで顔を覗き込む。虚淮は話を続けた。
「ある時、何日も続く長雨があった。河が溢れ、土地が崩れ、人間やその住まいが流された。我々妖精は自然に近い。とはいえ、大きな自然の流れを変える力はない。雨を止めることも、河を鎮めることも、一介の妖精には不可能だ」
 風息が頷く。あたりはしんとして、息を呑む音が聞こえるようだった。
「ようやく雨が止んだ時、村は水浸しの壊滅状態だった。人間を心配したそいつが村に様子を見に行った時、人間は寄ってたかってそいつを責めた。神様のくせに。お前のせいで。疫病神。そうしてそいつは、人間に捕まり縛り上げられ、散々責められながらこの世を去った」
「虚淮は、見てたの?」
 震える声で風息が尋ねる。
「見てはいない。おそらくそいつが最期に放った霊魚が、私にそれを伝えてくれた」
「そんな……
「風息。自然に近い我々からしたら、人間は非力だ。だからこそ強いものに縋りたがるし、人智を越えた存在を崇めて機嫌を取ろうとする。しかし縋ったものが自分たちを害するものだと認識すれば、一瞬で手のひらを返す。個々に見れば弱い人間だが、奴らは集団になると恐ろしいことをしでかす」
 それは虚淮の長年の観察結果でもあった。人間の性質は、決して妖精と同じにはなり得ない。
「お前はヒト型に変化できるようになった。想定外のことが起きても、もう変化が解けることはないだろう。だから私はお前が里に降りることを止めることはしない。だが、人間とどう付き合うかは、お前自身でよくよく考え、自分で決めろ」
……うん」
 風息が重々しく頷く。
「この森には妖精の同胞がいる。自分の行動が同胞にどう影響するか、考えることを忘れるな」
「わかった」
「わかればいい」
 虚淮は立ち上がり、風息の言葉を待たずにそばを離れた。
 
 この決断が正しかったかはわからない。
 だが、走り出したいと願う若い魂をいつまでも縛り付けておくことはできない。
 独り立ちをさせるなら、もう手を出して守ることができないのなら、せめてこの言葉が、風息を守る盾となるように。
 そう願いながら、虚淮はその夜長いこと寝つかれなかった。



62. 雨水2 / 虚淮、洛竹、天虎、風息

 翌年、虚淮は洛竹と天虎を祭に誘った。
 一緒に祭に行かないかと告げると、洛竹は二つ返事で了承した。懐かしいなぁと電話口で感慨深そうにしている洛竹に、虚淮は首を傾げる。そうだったか、と尋ねると、昔風息に連れてってもらったのだと洛竹は言う。虚淮と行くのは初めてだね、とも。
 ひとしきり世間話――もとい、洛竹の近況報告――を聞き、最後に当日の待ち合わせ時間と場所を確認すると、天虎にも伝えておく、と言われて通話が切れた。
 風息に連れてってもらったから。洛竹との祭が記憶にないのはそういう事だったのか。
 思い返せば、と虚淮は考える。そもそも祭に行ったのは自分も一度きりなのだ。風息があんまり行きたがるからと連れて行ったのが、そういえば最初で最後なのだった。祭に行った数日後、あの日の祭で人間に正体がばれていたことを動物づてに聞かされた。変化術の未熟な風息が人間に注目されないようにと思い、自分はあえて変化をせずにいたのだが、それではやはり目立ったようだ。人間は人間の営みに夢中なように見えて、案外周りをみているらしい――と解った時には遅かった。
 虚淮は、妖精が人間に近づき過ぎることを危惧していた。風息が人間に関心を持っていることはわかっていたが、我々は種族が違う。できることが違い過ぎる。上手くやれている間はいい。だが、あまり親しくすることは、何か誤解が生じた時に、その違いが憎悪や恐怖を引き起こしかねない。着かず離れず適当に距離を取る。それが虚淮の方針だった。正体がばれたなら、しばらくは大人しくしたほうが良い。目にしなければ、どうせ人間はすぐに忘れる。そもそも人間というのは寿命の短い種族なのだから。
 風息は翌年も祭に行きたがったが、虚淮はそれを許可しなかった。変化術が完璧になって人間のように思ってもらえるまでは行ってはいけない、と言い渡した。こそこそ隠れる必要はないが、わざわざいらぬ火種をこしらえることはない。
 その後、どうやら風息は洛竹と天虎を連れて祭に行っていたらしい。変化術が上手くなってからは、里へ下りるかどうかは風息に任せていたから、おそらく風息が自分の判断で連れて行ったのだろう。洛竹は元々人間のように変化できていたし、天虎は腕に抱えれば大きな猫に見えなくもないから。……まあ、昔の話だ。
 当日、洛竹は天虎を抱えて待ち合わせ場所に現れた。現代の若者風な衣服を身に着けた洛竹と、角を隠して人間に擬態した虚淮――先日妖精館に、人前に出る時はくれぐれも人間に擬態するのを忘れないようにと厳重注意を受けた――が並ぶと、関係性はよくわからないものの、連れ立って歩く人間同士に見えた。
「こっちだ」
 虚淮が早速歩き出そうとすると、洛竹が疑問を呈した。
「え? そっちじゃ進行方向が逆だよ。逆向きに歩くの? なんで?」
「なんでもいいだろ。今日は付き合え」
 ここまできちんと擬態しているのだから普通に歩いても問題はないのだが、虚淮はどうしてもあの時と同じ道を同じように歩きたかった。行列の半ばから合流する形の三人の前を、魚の形の提灯がぞろぞろと通り過ぎていく。何人もの人間が担いでいる、巨大な魚のハリボテもあれば、子供が一人一本で持つ小さな魚灯籠もあった。赤い魚に青い魚、所々に緑が刷かれた魚。丸みを帯びた魚、骨ばった魚。胴体が複数に分かれている魚、胴体と尻尾が分かれている魚。継ぎの部分を境に、前が揺れると少し遅れて後ろが揺れる。その動きが本物の魚のようで、漆黒の空を巨大な魚の群れが泳いでいるように見える。どの魚も内側から橙の光を発しているせいで、周りの人間の顔もぼんやりと朱く照らされている。
「すごいなぁ」
 それらを眺めて、洛竹が呟いた。洛竹の顔も天虎の顔も、灯籠の灯に染まっている。
「行くか」
「うん」
 洛竹と天虎を先に行かせて、虚淮はふたりの後を歩いた。灯籠を眺めたり指さしたりしながら歩いている彼らの歩みは遅い。大きな灯籠が通れば感嘆し、変わった色や形のものがあれば指を差し、小さな魚灯籠を持ってはしゃぎながら歩いている子供たちがあれば頬を緩ませている。ひとりで歩いた時よりも、なるほど歩行はゆっくりだ。早く歩けない分、周りを見る余裕ができる。虚淮の横を、見上げるほどの巨大な魚が通り過ぎていった。虚淮よりも背の低かったかつての風息も、こんなふうに見上げていたのだろうか。迫力のある魚の腹に、口を開けて見入っていた姿を想い出す。あの頃の風息には、大量の人間も、魚のハリボテも、夜を彩る灯の数々も、なにもかもが珍しく魅力的に映っていたに違いない。不思議に興奮した熱気に当てられて、いつしか自分の体温もつられて上がっているような気がした。
 と、片袖を引っぱられる感覚があり虚淮は歩みを止めた。迷子になった人間の子どもが、親と間違えているのだろうか。だとしたら運営のところへ迷子の届けをしなければならない。面倒だな、と思いながらそちらを見下ろすと、あろうことか小さな風息が虚淮の袖を引いているのだった。
 まさかと思ったが、顔面も体格も耳も尻尾もかつての風息そのままで、虚淮はその場で固まった。どういうことだ? 何がどうなっている?
 動けない虚淮をよそに、虚淮の視線を得た風息は声を弾ませて問いかけた。風息の指さす先にあるのは、金の縁取りをした赤い鱗に彩られた、ひときわ大きな魚灯籠だった。
 ねえねえシューファイ、あれはなに? すっごくきれいだね。
 そう言って自分に微笑みかける風息の顔に、朱い提灯の明かりが反射している。丸い頬はまるで、ぴかぴか光る林檎のようだ。
 虚淮が動けずにいると、前から洛竹が呼んだ。
「おーい、虚淮どした?」
 声につられて前を見ると、顔を上げた虚淮の目に、今度は大きくなった風息と、風息の片手に抱かれた天虎、反対の手を繋いだ小さな洛竹が映った。小さな洛竹は人ごみの中で気づかせようと片手をぶんぶん振っており、風息はそれを見て優しく微笑んでいる。まだ龍游の森で平和に暮らしていた頃の風息の姿だった。
 ありえない。幻か。
 虚淮は混乱する頭で考えた。あれはきっと幻だ。幻はまばたきをすれば消えてしまう。大きく目を見開いて、まばたきをするまい、するまい、と思っているのに、虚淮の両目はその意に反してまばたきをしてしまった。
 案の定、もうそこには大きな風息も小さな風息もいなくて、代わりに大きくなった――つまり元通りの大きさの――洛竹と天虎がこちらを見ていた。
 立ち止まっていたせいでずいぶん開いてしまった距離の向こうから洛竹が呼ぶ。
「虚淮、行くよー」
「ああ、すぐ行く」
 大股で洛竹のもとへ歩く。歩きながら、虚淮の心はここに在らずだった。
 この祭は新年を祝うものであって、死んだ者の霊魂が戻ってくるようなものではないと聞いていた。大きな風息も小さな風息も、どちらも幻だ。想い出の濃い風景の中にいると、そういうものが甦るのだろうか。祭という特別な夜が、遠い彼岸の者と会わせてくれているのだろうか。風息は人間の祭が好きだったから。
 気付けば、もう提灯行列の終わりが近づいていた。
「天虎が、あっちに点心の屋台があるって。寒いからさ、食べてこうぜ」
 洛竹が言い、鼻をうごめかせた天虎が「おにく」と洛竹の腕の中で跳ねた。
「ああ、そうだな」
 先を歩く洛竹の背を見ながら、虚淮は明るい気持ちになっていた。口元に薄く笑みが浮かぶ。
 また会えるなら、また来てみようか。
 遠ざかる祭提灯の熱気を背中で感じながら、虚淮は胸の中でそっと呟いた。


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