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蛇神様の処るところ

全体公開 1 11334文字
2022-11-23 01:54:29

捏造頼光四天王話

「神様はどうやって生まれてくるの?」
 幼子が素朴な疑問を口にした。それに老婆が優しい口調で答える。
「神様はねえ。わしらの信仰心で生まれるんだよ」
「しんこう……しん?」
 老婆の言葉はまだ少し、幼子には難しかったようだ。その小さな頭をくしゃりと撫でてから、老婆は同じ台詞をもう一度、言葉を変えてその子に伝える。
「神様を信じる気持ちのことだよ」
 人々がその存在を信じることで、神はこの世に生まれ、皆を救ってくれるのだ。だから、人は神に祈りを捧げる。
「わたしも神様のこと、信じてるよ」
 少し舌足らずな口調で、幼子は力強く宣言する。老婆は優しく微笑んで、もう一度、その頭を撫でた。
「信じていれば、きっと神様はお前を助けてくれるよ」
 老婆の言葉に幼子は元気良く頷く。この時代、子供に限らず皆が当たり前に神様の存在を信じていた。信じる者が多ければ多いほど、神は何処にでも存在する。
 その山にもまた、古くから棲まう神様がいたそうな。神様は山の麓に暮らす人々をよく護り助けたと言う。人々はたいそう感謝をして、神様に祈りを捧げた。

―――これはそれからいく年も後のお話


「大蛇、ですか」
 淡々として、けれど、どこか高貴さの伺える口調で、男はたった今、耳にした単語を復唱する。老人らは各々に頷き、必死の様相で話を先へと進めた。
「はい。それはもう恐ろしい妖魔でして。既に村の者が何人も……
 恐ろしげに震えながら、老人の一人は言葉尻は濁す。恐らくは行方不明。或いは、死亡したのであろうと予測できた。
「どうかお願いします。頼光様のお力で何卒、大蛇を退治して頂けないでしょうか」
 皆が一斉に深々とこうべを垂れるものだから、源頼光は恐縮してしまう。
清和源氏という高貴な血筋に生まれた者として、下々に傅かれることなどそう珍しくもない。しかし、性格上、頼光は人に頭を下げられるという行為がむず痒く感じられ、あまり好ましく思っていなかった。
「勿論。私でお力になれるのでしたら」
 それ故もあって、頼光は二言返事に彼らの頼みを承諾する。元より、断るつもりであればこんな地まで徒労して来ない。
「ああ。誠に、誠にありがたく……
 ほろほろと涙を流し、老人は頼光の手に縋る。しわがれた小さな手は頼りなく、自分が護ってやらねばという決意を頼光は堅くする。
「顔を上げて下さい。困っている方々をお助けするのも、我らの勤めにございます故」
 ごく平凡に、頼光は柔和な微笑みを向けただけだった。なのに老人達はまるで神や仏の御前であるように、頼光を祈り、崇め、平伏するのだった。自分は神様なんて、大層なものではないのに。


 人々を苦しめる妖魔退治も我々、官吏の勤めである。そう、頼光は信じていた。下々の生活を安んじるためならば、大蛇退治もさしたる徒労ではない。
 人が良過ぎる。他者が頼光を評して述べる形容の一つである。それは決して、褒め言葉とは呼べなかっただろう。けれど、頼光はそう揶揄されることに誇りを持っていた。
「此処か。大蛇に現れる山というのは」
 麓の村を出たのは、まだ空が白む早朝のこと。ようやく頼光が峠にたどり着いた頃には、すっかり日は高くなってしまっていた。
 頼光は周囲を見渡す。山頂は静けさに包まれていて、実に穏やかだった。特別、変わった様子は見当たらないように思える。
……静かすぎる」
 その静寂に、頼光は違和感を覚えた。こんな山中でありながら、鳥や獣の鳴き声はおろか、草木の揺れる音すらしないのだ。道中では、確かに緩やかな風が吹いていたはずなのに。
 明らかに何かが居る。姿は見えずとも精神を研ぎ澄ませれば判る、その圧倒的な存在感。頼光は深呼吸をして、己の気を引き締めた。
『此処になんの用だ。人間』
 その瞬間であった。どこからともなく、強く威圧するような声が響いたのは。それは聞こえると言うよりも、脳に直接流れ込んでくるような声で。頼光は瞬時にそれが人ならざる者であると悟った。
「ああ。人に悪を成す妖魔が居ると聞いたので、少々退治に参った」
 朗々と、頼光は姿の見えぬ相手へと受け応える。すると、何処からともなく悍ましい笑い声がこだました。
『ハハッ。俺を退治するって?笑わせてくれる』
 こちらを見下したような声音。人に恐怖心を抱かせる気配。数多の妖魔と対峙してきた頼光でさえも、一瞬、指先が小刻みに震えるのを止められなかった。それだけ、今回の相手は強敵ということだ。
―――面白い。やってみろよ』
 突如として、周囲の温度が一気に下降した。が、それは頼光の錯覚で、実際は強い寒気に襲われただけだった。ほんの一瞬、瞬きのため瞼を閉じた間に、それは目の前に現れた。
 人間の何倍もの大蛇。鱗は血のように赤く、瞳は黄金のように光り輝く。ただ存在するだけで、それは人を恐怖させるに充分たり得る力を秘めていた。
「そちらから姿を現したこと、すぐに後悔させてやろう」
 本能からの震えはすぐに止んだ。一切の恐れがないわけではなかったが、頼光はそれを凌駕する強い使命感を有していた。人々を守るため。自らが勇み妖魔に立ち向かうという強い正義感は、頼光から全ての躊躇いを打ち消してくれた。
 相手から仕掛けてくる前に、と頼光はすかさず刀を抜く。よほど、負けぬ自信があるのだろうか。大蛇は少しも怯まない。黙って、頼光をただ見下ろしていた。
……参る!」
 気合を込めて、頼光は柄を強く握った。相手は巨体であるが、裏を返せば的が大きいということ。こちらの攻撃は当たり易かろう。
 頼光の見立て通り、こちらの初手は大蛇の長く太い胴体の一部に触れた。手応えは大いにあった。しかし、刃は通らなかって。
―――くっ。堅い」
 そう。大蛇の鱗は想像以上に堅く、頼光の刀では傷一つ付けられなかったのだ。妖魔は避けなかったのではない。最初から、避ける必要などないと知っていたのだ。
『どうした。威勢のいいことを言っておいて、その程度かよ』
 挑発的な言葉で、大蛇はこちらの心を揺さぶろうとする。だが、そんなものに惑わされるほど頼光の芯は弱くない。
 一様に怪異と言っても、大蛇のように人や獣といった姿かたちのあるものから、霊体のような実体のないものまで様々である。数多の妖魔を退治してきた頼光にとって、刀で斬れぬ相手の存在は想定内のことであった。
「ならば、これはどうだ?」
 頼光は懐より、懐紙のようなものを取り出す。それの表面には、墨で奇怪な呪文のような文字が記されていた。
 いわゆる、呪符という品だ。懇意の陰陽師より貰い受けた、対魔用武具と言ったところだろうか。物理攻撃の効かぬ妖魔であっても、大抵の場合、呪符は絶大な効果を発揮してくれた。
―――はっ!」
 強い気を込めて、それを大蛇の胴に貼り付けた。怪異は変わらず動じぬ様子で、頼光を迎え撃つ。
 呪符は黒い煙を立て、燃え上がった。やがて、それはただの灰となって地に落ちる。そこまで、ほんの瞬きひとつ程度の出来事だった。
「なっ―――!?」
『何を驚いている』
 飄々とした口調で、大蛇が問う。頼光は答えることができず、ただ唇の端を強く噛んだ。
 その美しい鱗を纏った身には、傷の一つも見つからなかった。大抵の妖魔はこの呪符に触れただけで、酷い火傷を負うはずなのに。この大蛇には何の効果もなかったのだ。
『お前の心を読んでやろうか』
 楽しげに大蛇が言う。ただの人間など、恐るるに足りない。圧倒的な実力の差を、その言葉の端々から頼光は感じ取った。
―――恐怖している。お前は既に、俺には勝てないと理解している。そうだろう?』
 それは半分図星であった。頼光は強い。数多の妖魔を倒してきた経歴が、それを物語っていた。しかし、だからこそ、この大蛇が自分の及ばない強さを秘めていることを即座に理解してしまったのだ。これは今までの相手とは違う。妖魔と呼ぶには強大すぎるくらいの脅威。
……だが、退くわけにはゆかぬ!」
 そう。半分は当たっていた。だが、もう半分は違う。頼光は恐怖などしていなかった。敵わない相手と知っていて尚、それに立ち向かう。それほどの精神力をその身に宿していたから。
『馬鹿め。……死ぬぞ?』
 殺気の篭った冷たい声が脳に直接響く。それでも頼光は決して揺るがなかった。勝算がある訳ではない。けれど、人々を苦しめる災厄を残し、むざむざと逃げ去ることは断じて出来ないのだ。
―――構わぬ!」
 その言葉は本音であった。勿論、無駄死になどするつもりはなかったが。戦って、僅かでも大蛇に傷を残す。そうすれば、次の誰かがこの妖魔を消し去ることが出来るかもしれない。
 頼光は死を恐れてなどいなかった。誰が為、己の任を全うする。その結果、命を落とすことに躊躇いはない。彼は大蛇の予想を超える、高潔たる人間だった。


 それから、どれだけの時間が経過しただろうか。静まり返った山中は、時に流れを曖昧に感じさせた。
 頼光は明確に疲労していた。あらゆる手段を講じて、大蛇を倒そうとした結果である。依然として、妖魔は目の前に存在していた。その事実が、頼光の努力が無駄であったことを証明していた。
『もう、諦めたらどうだ』
 肩で息をする頼光へ、大蛇が言い放つ。その声音からは、先程のようなこちらを嘲る気配は感じ取れなかった。
「笑止。そちらこそ、諦めさせたいのならば私を殺せば良いだろう」
 頼光が放ったどの攻撃も、その怪異には通用しなかった。が、大蛇が反撃してくることは一度もなかった。これだけの実力差である。その気になれば、それは今すぐにでも頼光を亡き者にできたはずだ。
 なのに、何故。大蛇は頑なに動こうとしないのか。その真意は不明であった。しかし、頼光の気持ちには少しの変化が生じていた。
「お前の目的は何だ」
 この怪異は自分の考えるような、悪とは違うのではないか。現に大蛇からは頼光を害する意志が見られない。人々は妖魔であると怯えていたが、頼光はまだハッキリとそれの悪意をこの目で目撃した訳ではなかった。
『それを聞いて、何の意味があるって言うんだ?』
 飄々と大蛇は問い返す。もはや、頼光にそれへの敵意は無い。
「お前が害を成す者でないのならば、退治する理由が無くなる」
 朗々と力強く、頼光は答えた。自分が倒すべきは悪のみである。妖魔と言えど、悪事を為さぬ者に刃を向けることは出来なかった。
……あんた。つくづく、お人好しなんだな』
「よく言われる」
 何の気なしに返答すれば、大蛇から呆れを交えた溜息が漏れた。蛇も溜息を吐いたりするのか。呑気にそんな下らないことを考えられるくらい、頼光はすっかり心の余裕を取り戻していた。
『色んな人間を見てきたが、あんたはその中でもとびきり馬鹿だ』
 誹謗されたというのに、不思議と少しも嫌な感じはしなかった。それどころか、頼光は目の前の怪異に親しみすら覚えていた。
『その人間の愚かさってやつを、俺はどうしても嫌いにはなれねえ……
 ポツリと独り言のように大蛇は呟いて、巨大な胴体をぐにゃりと折り曲げた。つい今し方まで見上げていた、人間一人分くらいはあろうかという頭。それがぬるりと頼光の目線と同じ高さに下げられる。
 大きな金眼がギョロリと動いて、頼光を映す。思わず足がすくみそうになるほど強い眼差しは、けれど、敵意を宿していない。
『ここまで粘ったご褒美だ。一つ、あんたに昔話を聞かせてやろう』
 大蛇は寛ぐように、その場でとぐろを巻いた。折り畳まれると、あんなに巨大に見えていた大蛇の威圧感も幾分か薄れる。完全に緊張の糸を解いた頼光は、その語るに耳を傾けるため、その場に腰を落ち着けた。

 ―――それはずっとずっと昔の話。


 その山には蛇神様が住んでいたそうな。山の麓に棲まう人々は、それはそれは信心深く、蛇神様を守り神として崇めていた。蛇神様もまた、そんな人間たちをたいそう大事にしていた。
 蛇神様は人々の祈りを聞き届け、その願いを手厚く叶えてやった。村が不作に困っていた時は実りの雨を降らせ、災害や疫病からは護ってやった。その度に、人々は感謝し、神様を崇め奉った。
『神様ってのは、人の信仰心によってこの世に生まれる』
 人間が何かを願い、祈ることによって神はこの世に顕現する。だから、神様ってやつは人の願いを叶えてくれるのだと大蛇は述べる。それが神様の存在する理由だから。
『人間から必要とされることこそが、神様にとっちゃこの上ない幸せなんだ』
 大蛇はまるで、神様の気持ちを分かったような口振りだった。人を脅かす妖魔など、その対照的存在であるはずなのに。
『でもな。人間ってのは酷く脆いんだ。些細なことで、その感情は虚い変ってしまう』
 長い長い年月が過ぎて、やがて蛇神様の存在は伝承に近いものへと変化していた。人間の中には、その存在を忘れた者、信じない者も増えた。それでも蛇神様は、変わらず人々を護り、未だ信じ祈り続ける者の願いを叶えた。
 しかし、そんなある日のことだった。村に災厄が舞い降りた。最初はほんの、小さな災いだった。山に立ち入った老人が、足を滑らせ死んでしまった。
 かつての蛇神様であれば、その事故を未然に防ぐこともできただろう。しかし、信仰心の薄れとは、そのまま神様の力の衰退を示す。力の弱まった蛇神様は、もはや全ての人々を隈なく見守ることが叶わなくなってしまっていたのだった。
―――それが、全てを狂わせる始まりだった』
 不意に大蛇の声が暗く翳りを見せる。喜怒哀楽など存在しないはずのその表情に、頼光は強い悲しみを見た気がした。
『誰が最初に言ったんだっけか。これは“祟りだ”と』
 ほんの些細な不幸が、村全体を恐怖で支配した。脆い人間達は、根拠のない祟りをあっさりと信じきってしまった。それが大きな災厄の発端となるとも知らずに。
 しばらくして、村を飢饉が襲った。幾日も続いた日照りが、全ての作物を枯らせてしまったせいだった。
『信仰心を失った蛇神様には、雨を降らせるだけの力が無かったのさ』
 飢饉は多くの村人の命を奪い、その心を弱らせた。ますます、皆は祟りを強く恐れるようになった。
 もう、誰も蛇神様の存在を信じる人など居なくなってしまった。神様は変わらず、そこの処るのに。けれど、信仰を失った蛇神様にはもはや何の力も残ってはいなかったのだ。
『忘れられてゆくことが、どれだけ悲しかったか。何もできない自分が無力で、どれだけ悔しかったか』
 まるで自分のことのように、大蛇は熱の篭った弁舌を続けた。否。これは彼の物語なのだ。それを悟った頼光は、困惑の瞳で大蛇を見つめた。
『神様ってのは、人の信仰心によってこの世に生まれる。じゃあ、神様はどうすれば殺せると思う?』
 その視線に気付いた大蛇が、頼光へと問いかける。掛ける言葉の正解が分からなくて、頼光は唇を空虚に薄く動かすだけ。
―――人々から、忘れ去られればいい』
 悲しい答えを、大蛇は自らの口で伝える。その言葉を彼に言わせてしまったことを、頼光は心の内で悔いていた。
『どうだ、簡単だろう?そうやって、必死になって刀を振るうよりずっと楽だ』
 自嘲めいた口調に、頼光の心がズキリと呻いた。彼の苦しみが自分の痛みであるかのように感じられて、その胸は今にも張り裂けそうだった。
……もう、分かっているんだろう』
 大蛇が淡々と頼光へ問う。その質問に答える代わり、反射的に頼光は首を横に振っていた。彼が何を問うているのかを理解した上で、それを拒否した。だって、そんなの悲しすぎるから。
『あんたは俺を退治した、と村人達に知らせてやればいい。そうしたら、妖魔の大蛇はいなくなる。彼らから忘れ去られて』
 ようやく、全てに合点がいった。何故、この大蛇があれだけの強大な力を有していたのか。何故、妖魔に対する如何なる攻撃も通じなかったのか。そして、何故、彼に頼光を害する意志がなかったのか。
―――お前は、神なのか」
 頼光の言葉に、大蛇はニヤリと笑った気がした。沈黙は肯定を物語り、それ故に、頼光はやるせなさを募らせる。
 大蛇の正体は、人々を苦しめる妖魔ではなく、信仰を失った神様の成れの果て。彼自身に悪意など無いのだ。ただ、変わってしまった人々の恐怖によって生み出されただけの悲しい偶像。
『俺が何であるかを決めるのは、俺じゃない。人間達だ』
 達観したような口ぶりは、ずっとこの日を待ちわびていたようにさえ聞こえた。人々に求められ生まれた神様が、自らの死を望む。そんな惨いことがあって許されるのだろうか。
『さあ。殺れよ。あんたは俺を退治しに来たんだろう?』
 そうだ。頼光は人々に請われ、怪異を討ち滅ぼしに来た。けれど、それは正義のため。
 この場に妖魔は存在しなかった。在ったのは死を待つ神様だけ。それを殺すことに大義はない。頼光にできるわけがなかった。
『どこに躊躇う必要がある。もう、此処に神はいないんだ』
 頼光は迷い、苦悩していた。人々の願いは怪異が消え去ること。そして、大蛇の望みは己の死。両者の利害は一致している。彼の言う通り、躊躇う理由は何処にも無いはずなのに。
―――駄目だ。私にはできない」
『何故だ。あんたの目的は、人に悪を成す妖魔を退治することだろう?俺はもはやそれと同義だ。人間達がそう信じる限り』
 強く頼光が首を横に振れば、すかさず大蛇が畳み掛ける。彼を打ち倒し、己の使命を全うせよと。
「いいや。できない。何故なら、お前の理屈が正しいのであれば、私にお前を殺すことは不可能だからだ」
……どういう意味だ?』
 それでも頼光は頑なに不可を示した。する、しないではなく“できない”のだ。彼の死が“忘れられること”である限りは。
「私が知ってしまったから。お前という神様を。もはや、それを忘れることなどできぬ」
 どうして、忘れることがあろうか。この哀れで優しい大蛇のことを。たとえ、この世の全ての人々が彼を忘れてしまったとて、頼光だけは憶えている。永遠に。
「だから、お前は殺せない。私が死なない限りは、な」
 それは大蛇にとって、幸福か不幸か。どちらであるのか判断することができず、頼光は曖昧に微笑む。たとえ彼が死を望んでいたとしても、頼光は生きて欲しいと思ってしまった。こんなにも人を愛する神様に。
―――ハハッ。こりゃあ、とんだ失策だな。つまり、俺はあんたが死なない限り、怪異として此処に顕現し続けるってワケだ』
 束の間の沈黙を破って、大蛇は自嘲気味に大笑する。その様は少なくとも、生き永らえることを喜んでいるようには見えなかった。
『滑稽だな。……ならば、いっそ本当になっちまうか。此処であんたを殺して、人に悪を成す妖魔ってヤツに』
 不意に、鋭い殺気が頼光の肌を刺す。穏やかな神様の表情は消え、大蛇は再び、妖魔の様相を現していた。
 しかし、頼光は動じない。それが彼の本心ではないことに気付いていたから。何があろうと、大蛇が自分を殺すことはないだろう。
―――一緒に来ないか。私と」
 頼光はそっと、大蛇へ手を差し伸べる。やはり、自分の意志とは無関係にその指先は小刻みに震えていた。彼がそれほどまでに強い恐怖心を抱かせようとするのは、拒絶の表れか。それとも……
『冗談だろう。俺に人間と共に生きろって言うのか?』
 深く考えて述べた台詞ではなかった。ただ、こんな寂しい山奥で一人きり、皆に忘れられゆくのを待つなんて悲しいと思っただけなのだ。ならばせめて、自分が共に居てやりたいと。
「良いだろう。どちらにせよ、現時点で私にお前を殺す術はない」
…………
「ならば、どこに居ても同じだとは思わぬか」
 頼光があけすけない微笑みを向ければ、大蛇の殺気はまた鳴りを潜めた。ゆっくりと頼光の面前へと接近する大きな頭。ギョロリとした金眼を真っ直ぐに見据えて、頼光は更に言葉を継いだ。
「お前の望みが自らの消失ならば、私が死してお前を忘れるまで、私の傍に居ればいい」
…………
 彼の意思は彼のものだ。頼光にそれを捻じ曲げることは不可能である。どんなに大蛇の生を頼光が望んだとて、決めるのは彼自身だった。
 人の一生など神様からすれば、ほんの一瞬のことだろう。もしも、彼の気持ちが変わらないのであれば、頼光が老い果てた後、望み通り、誰も彼もから忘れ去られて消えればいい。それからでも、遅くはないだろう。そんな想いを込め、頼光は再び大蛇へと微笑みかける。
……本当に。あんたは想像以上の、馬鹿愚かな人間らしい』
「そうかもしれぬな」
『だが……
 成れ果てても神様を相手に、突飛な提案をしている自覚はあった。もしかすると、とんでもなく無礼な振る舞いをしている可能性すらある。だとしても、頼光は困っている者に手を差し伸べずにはいられないのだ。それが人間であろうと、神様であろうと。この気持ちが変わることはない。
―――俺はあんたを嫌いじゃあない」
 やはり、ほんの瞬き一つの間だった。頼光が大蛇から目を離したのは。その一瞬の内、その巨体は忽然と姿を消した。
 代わりに、頼光の目前には一人の見知らぬ青年が立っていた。綺麗な銀髪と、強い眼光の金眼が印象的だった。
「いいぜ。あんたの提案に乗ってやるよ」
 青年は大蛇と同じ声で、頼光に答えた。そして堅く、差し出された手を握る。彼の手は爬虫類のように、少しひんやりとしていた。
「今更だが、あんた。名は?」
「源頼光。“ライコウ”と呼ぶ者もいる」
……ヨリミツ。いや、ライコウの方がしっくりくるな」
 教えられた名を反芻してから、青年は一人納得したように頷く。そして、人の姿となった大蛇は、頼光にも判る表情でニッと笑った。
「よろしくな。ライコー」
 その呼びかけに応えようとして、ふと、頼光は困ってしまう。彼をなんと呼べば良いか知らなかったからだ。
……お前の名は?」
「名前など無い。皆が呼ぶ名が俺の名だからな」
 それでは不便だ。頼光がそう述べれば、すかさず彼は軽薄な笑みを浮かべて提案する。
「だったら、あんたが名付けてくれよ」
 それはなんとも、想定外の申し出だった。神様に名を授けるなど、畏れ多い行為である。なのに彼は期待に満ちた眼差しで、こちらの返答をにやけ顔で待っているのだ。
―――碓氷。碓井貞光というのはどうだろうか」
「此処の峠の名か。悪くないな」
 安直ではあるが、大蛇の棲まう場所をその名とした。彼はこの山の神様だから。
「じゃあ、その貞光ってのは?」
「“貞”は私からお前への印象。“光”は……私の名から取った」
 少し照れ臭そうに、しかし正直に、頼光は返答する。たとえ自らが忘れ去られようとも、村人達を堅く守る蛇神様。それは人々にとって、まさしく光であっただろう。
……気に入った。んじゃあ、今日から俺は碓井貞光。あんたの家臣だ」
「それは困る」
 貞光という名を得た大蛇は、突然、とんでもない申し出をする。頼光は驚いて、食い気味に困惑の意を示すのだった。
「構わないだろう。別に」
「だが、お前は神……
「それはもう、あんたしか知らないことだぜ。ライコー」
 その通りではあったが、いきなり家臣になると言われても受け入れ難い。彼を配下に据えるだけの実力が、果たして自分に有るのだろうか。
「それはあんたが決めることじゃない。俺が決めることだ」
 まるで頼光の心の内を見透かしたように、貞光は言う。幾分か悩んでから、頼光はようやく躊躇いがちに頷いた。
 相応しいかどうかは、彼が決めてくれる。頼光はただ自分が望んだ通り、己が死ぬまでその傍に居るのみ。


 険しい峠を二人で降り、麓の村へと向かった。村人達は、一人で出向いたはずの頼光を不思議そうに見つめていたが、事実は曖昧に濁した。本当のことを伝えても、信じて貰えないだろうから。
「ご安心下さい。妖魔は無事、退治致しました」
 嘘の報告を、隣で貞光が笑いを噛み殺しながら聞いていた。村人は頼光の言葉にホッと安堵し、涙を流して感謝した。
 彼らを騙していることにわずかな罪悪感を覚えながらも、頼光は下手な演技を続ける。それが村人達と、そして、隣に居る彼の為に最善だと思うから。

 お礼に宴を開くと息巻く村人達を説得し、頼光は日が暮れる前に村を出た。帰り道、再びあの山の裾を通る。簡素に舗装された道は、ほとんど人通りがなかった。
「お礼くらい貰っておけばいいのに」
「実際は何もしていないのだ。貰えぬよ」
 曖昧に微笑んで答えれば、貞光はお堅いなと言って頼光を揶揄した。今日、出会ったばかりだというのに、不思議と互いは既に打ち解けていた。
 まるで元より友人だったかのように語らいながら歩いていたら、ふと、小さな人影に二人は気付く。
「ご老人。どうなされましたか。もうすぐ、日が暮れてしまいますよ」
 そこには老婆が一人、膝を付いて蹲っていた。困り事かと頼光が声を掛ければ、老婆はこちらを見て柔和に微笑む。
「あらあら。旅のお方かい。ご心配ありがとうね。でも、大丈夫。もう帰るところだから」
 よく見れば、老婆の前には小さな祠のようなものが在った。それはもはや、古びてしまって崩壊寸前の様相をしていた。どうやら、この老婆はそれに祈りを捧げていたらしい。
「それは……
「ああ。この祠かい。これはね、あの山に棲まう蛇神様を祀っているんだよ」
 目の前の山を指差して、老婆が教えてくれる。ハッとして、頼光はチラリと隣の男に視線を遣った。貞光は黙って、祠に手を合わせる老婆を見下ろしていた。
「昔ねえ。わたしはこの神様に命を救われたのさ。それから毎日、お礼を言いに来ているの」
 村からそう離れた場所ではないとは言え、年寄りの足で此処まで通うのはなかなかの徒労だろう。それを毎日続けているのだと、老婆は述べる。
―――いるではないか。ちゃんと、お前のことを憶えている人が」
…………
 小さく、彼にのみ聞こえる声で頼光は呟く。老婆が祈りを捧げているのは紛れもなく、碓井貞光として頼光の隣に居る彼に対してであった。
 もはや、神様としての自分を憶えている者はいない。彼はそのように言っていたけれど、蛇神様は今もちゃんと信仰されていた。その声は、今やほんのわずかであるかもしれないけれど。目の前には、小さな祈りが確かにひとつ存在していた。
「なあ、ばあさん。そんな意味のねえことしてないで、さっさと家に帰んな」
―――貞光!!」
 急に貞光が邪険な物言いを老婆にしたせいで、頼光は思わず声を荒げた。だが、彼は悪びれる様子もなく、ぶっきらぼうに言葉を続ける。
「わざわざ、こんなとこまで来なくたっていい。祈りなんて、どこで捧げたって一緒なんだよ」
 頼光は黙りこくった。貞光の表情は、その冷めた態度とは裏腹にとても穏やかで、慈愛に満ちていた。それはまさしく、神様の様相。
「何処に居たって、ちゃんと聞こえてるからよ―――
 少し口早に言い残して、貞光はどこか照れ臭げにフイと老婆から視線を逸らした。
 言葉足らずな優しさは、しかし、ちゃんとその人に届いていたようで。老婆はゆっくりと腰を上げ、頼光らに一礼をすると、村へと続く道を歩いて行った。
……んだよ。その顔」
「どんな顔だ?」
……にやけてる」
 指摘されたら堪えきれなくなってしまって、頼光はクスリと笑う。そうしたら、貞光の頬が少し赤くなったような気がした。
 照れ隠しのように、貞光の歩がわずかに早まる。頼光は置いていかれないようその歩調に合わせて、蛇神様の隣に並んだ。


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