X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

サマー・ブルース

全体公開 6 8246文字
2022-11-27 22:44:16

鄧艾×司馬師と曹丕×司馬懿(現パロ)
曹丕より先に司馬懿が亡くなったりしています。

 その訃報は深夜、突然に届いた。
 着信音ですぐ目覚めた鄧艾に起こされ、不機嫌気味に司馬師は通話ボタンを押す。電話越しの声は即座に弟のものだと解る。そして、二言目を聞くや、司馬師の眠気は完全に 吹き飛んでいた。


 目まぐるしい午前を終えて、気付けば昼食も摂らず時刻は午後四時過ぎ。ようやく一服できる猶予を得た司馬師は、座敷に腰を下ろした瞬間、どっと疲労感に襲われた。
「お疲れ様です。兄上」
 穏やかな声と共に、湯気の立つ湯呑みを差し出してくれたのは喪服姿の司馬昭だった。つい、今し方まで休む間も無く働いていたのは弟も同じ。むしろ、喪主を務めている彼の方がずっと疲労していただろうに。
「お前の方こそ、少し安め」
「まだ、会葬者の方が残っておりますから」
 悪いな。出かかった謝罪の言葉を、司馬師は寸前のところで飲み込む。司馬昭は茶を置くと、すぐにまた忙しなく居間を離れた。
 母が亡くなった時も、喪主は弟が務めた。父の手前もあって、実家と疎遠な自分が取り仕切るより、その方が円滑に進むだろうという思惑だった。
……早いものだな」
 ぼんやりと障子窓の外を眺め、司馬師は独りごちる。父は八十を過ぎていた。いつ死んでもおかしくはない年齢だったが、やはり、死というものは予期せず訪れる。
 結局、軋轢を残したまま別れを告げることになってしまった。そのことに後悔がないわけではなかったが、どうしようもない。司馬師にも譲れぬものがあったから。
―――ちょっと、いいだろうか?」
 と、淹れたての茶に手も付けず感傷に浸っていたら、背後から聞き慣れぬ声がした。反射的に、司馬師は後ろを振り返る。そして、その視界に移った者の姿にハッとした。
……曹丕さん」
 少し長い髪を後ろで縛った、老人と呼ぶには憚られる美しい風貌の男。無個性な喪服姿で尚、そのオーラは常人とは違って映る。彼が誰であるのかを、司馬師はよく知っていた。
「休憩中のところ悪いな」
「あ、いえ……。どうぞ、お座りになって下さい」
 まるで見惚れているみたいな呆け顔で、司馬師は皺の目立つ微笑みを見上げていた。そして、ようやくご老人を立ちっぱなしにさせていた無礼に気付いて、慌てて対面へ座布団を敷く。
 曹丕は自前の杖を支えにして、勧められた場所へゆっくりとした所作で腰を下ろした。年齢の割に腰も曲がっておらず、姿勢が良い。足腰もまだ、随分と丈夫のような印象を受けた。
「すごい人だな。さすがは仲達の葬儀だ」
 思いの外、明るい声で曹丕は独り言のように呟いた。彼がどんな気持ちでその台詞を吐いたのか判断しあぐねて、司馬師はしばらく沈黙する。
「悲しいものか。父親が亡くなるというのは」
「いや……。あ、いえ。その……
 その質問に否定で返しかけて、司馬師は慌てて取り繕う。正直に回答するのは、いかにも親不孝者のように聞こえてしまう。
……そうですね。寂しくは思います。ですが、父上も歳でしたので」
 既に母も見送っていた。父の唐突な死は、長々と感傷に浸るほど、司馬師の感情を揺さぶらなかった。これは皆へ平等に訪れる、避けられぬ別れなのだから。
「わたしよりも貴方の方が……
「俺か?そうだな。もう、この世にあいつがおらんというのが未だに信じられん」
 言葉とは裏腹に、その表情は少しの曇りもなかった。少し、意外だった。もっと、悲しみに暮れているものだと思ったから。今朝、誰よりも先に芳名帳へ名前を記しに来た時も。彼の様子は終始、穏やかだったのを司馬師は記憶していた。
 父の恋人。世間的に言えば、愛人と呼ぶ方が正しいのかもしれない。けれど、彼は父の全てだった。家族よりもずっと、大切な存在だっただろう。
……だが、そうだな。想像したよりずっと、悲しみは少ない」
 伏せ目がちに語る曹丕の目は、どこか遠くを見つめているような気がした。亡き父に想いを馳せているのだろうか。その表情はひどく優しくて、自分の知らぬ二人の関係を想像させた。
「それどころか、嬉しいとすら思っているよ」
「嬉しい……?」
 途端、司馬師は怪訝な顔を彼へと向ける。それを至極、真っ当な反応であるという風に一瞥して、曹丕は言葉を続けた。
「仲達の最期を、今度は俺が看取ってやれた」
 そのセリフの意味を理解した瞬間、司馬師は初めて他人に尊敬のような念を抱いた気がした。愛する人を失った直後に、自分はこんな表情ができるだろうか。そんな風に思えるだろうか。答えはすぐに出た。
……あいつは淋しがりだからな。俺が先に居なくなったら、きっとまた、悲しみ続けるだろう」
 司馬師の知る限り、父に曹丕の語るような印象はなかった。彼にのみ見せる、別の顔。彼だけが知る父の生きた姿を夢想して、司馬師はわずかに目を細めた。
 幸せだったのだろうか。真実は、目の前にいる彼が証明してくれていた。
「幸せだよ。俺は」
 まるで亡き父がそこに居るかのように、曹丕は語りかける。窓は閉めていたはずなのに、フッと初秋の風が吹き込んできた気がした。多分、気のせいだったのだろうけど。
……父上も、幸せだったと思います」
 わざわざ口にする必要のないことだと知りつつも、司馬師はその台詞を代弁せずにはいられなかった。当然のことであるように、曹丕がフッと微笑んだ。
 絶対の自信があるのだろう。父を愛し、最後まで幸福で在らせたという自負。その堂々たる様を、司馬師は素直に羨ましく思った。
「お前達には、不自由させることもあっただろうがな」
「いいえ。そういう自由な父のことを、わたしは嫌いではなかった」
 建前ではなく本心から、司馬師は答える。父とは性格や価値観など合わないところも多々あったが、嫌悪しているわけではなかった。腹の立つ嫌味を言われたことなら、数知れないが。
「我儘の間違いではないか?」
 悪戯っぽく笑いながら、曹丕は司馬師の行儀良い言葉選びを訂正した。その通りだ。肯定するように、司馬師もクスリと笑って返す。こんな悪口を、父が生きていたならば絶対に言えなかっただろう。
 そして、彼とこんな風に笑い合って話す機会も、恐らくはなかっただろう。不思議な心地だった。けれど、決して悪い気はしなかった。
……君は仲達によく似ている」
「そう、でしょうか……
 和やかな雰囲気が落ち着いたところで、唐突に曹丕が呟く。その所感が思いがけないものだったせいで、司馬師の反応は曖昧になる。
 どちらかといえば、司馬師は母親似だと言われることが多かった。父とはあまり似ていない。自分ではそう思っていた。
「ああ。似ている。仕草だとか、話し方だとか……
 所作までは気にしたことがなかった。無意識に行っている行為までは自覚し難い。
「あと、執着心の強いところとか」
 彼がどういう意図でその台詞を吐いたか、司馬師は判断しあぐねた。彼の声音が、先ほどと何の変化もない淡々としたものだったから。そのせいで、嫌な沈黙が二人の間を漂った。
「君の話は仲達からも、よく聞いている。何を言っていたかは……まあ、伏せておこうか」
 含み笑いをしたのが、妙に気になったが。その物言いから察するに、碌な内容ではなかったことが想像された。
 執着心が強いという点は否定しない。自分の愛するものへの執着は少し、否、かなり重い。その自覚はあった。それは父も同様だった。
「やはり、父子なのだなと思ったよ。似ていると言ったら、仲達は露骨に嫌な顔をしたがな。今の君みたいに」 
 指摘されて、司馬師は反射的に口元を手のひらで覆い隠した。が、己の表情筋は強張っておらず。揶揄われたのだろうかと懐疑する。
「これは年寄りの戯言だが」
 そんな司馬師の心情など、意にも解さないといった様子で。曹丕は自分のペースで淡々と語る。その雰囲気からこちらを嘲るような意図は、少しも感じられない。
「悔いはないように生きろ」
 それどころか、その眼差しはどこか父親のようでもあって。途端、司馬師は妙な照れ臭さを感じてしまうのだった。
 ほとんど話したことも、会ったことすらない相手。父の話の内でしか知らないような人に、不思議と司馬師は家族の情のようなものを抱いてしまっていた。
……おっと。少し、長話をしてしまったかな。悪かったな。忙しい時に」
「いえ。とんでもない」
 何気なく、曹丕は腕時計を確認する。そして、思いの外、時が経ってしまっていたことに気付いて、いそいそと立ち上がる動作をする。彼はテーブルに片手をついて、大仕事のように時間をかけて腰を持ち上げた。司馬師が慌ててその背を支えれば、曹丕は短く謝辞を述べた。
 誰も老いには勝てない。あんなに一生くたばりそうにもなかった父でさえ、あっさりと亡くなってしまった。曹丕は歳の割に随分と若く見えるが、それでもやはり身体のあちこちは言うことを聞かないらしい。
「お帰りになられますか。でしたら、お見送りを……
「いいや、結構。すぐ前に迎えを待たせてあるのでな」
 右腕で杖を突きながら、曹丕は一歩、二歩と自らの足でしっかりと床板を踏み締めて、居間から廊下へと続く敷居を跨いだ。それから、緩く首を傾けて、所在無げに立ちすくむ司馬師へと振り返る。
「あいつの面影を探しながら、ゆっくり帰るとしよう」
 だから、門までの見送りも不要であると曹丕は告げる。その言葉に頷いて、司馬師は長い時間をかけてその背中が遠くなってゆくのを、その姿を視認できなくなるまで見届けた。まるで彼を愛おしく想う、父に成り代わったような心地で。
……さて」
 飲みかけの温くなった茶をそのままに、司馬師も居間を後にする。葬儀の経過はどうなっただろうか。もう、日が暮れてしまう。あらかたの会葬者は曹丕と同様、長居することなく帰路に着いた頃合いだろう。
 とは言え、まだ片付けや雑事が残っている。仮にもこの家の嫡男である司馬師がそれを手伝わないわけにはゆくまい。
―――司馬師さん。こちらにいらしたのですね」
 司馬師が重い腰を上げ、弟の手伝いに向かおうとした矢先のことだった。スーツの上着を片腕にかけた鄧艾が、ひょっこりと顔を出す。
 ワックスで整えられた前髪が、いつもと違う印象を与えて新鮮だった。父の葬儀の最中だというのに、そんなことを考えてしまう己の不謹慎さを、司馬師は心の内で自嘲する。
「皆は帰ったのか」
……あ、はい。まだ数人、職場関係の方々が残って、あちらで司馬昭さんとお話しされておりますが」
 恐らくは、会社の重役達だ。どうせ、こんな時にまで仕事の話をしているのだろう。ただでさえ忙しい弟の負担を、これ以上増やさないで欲しいものだ。
「なんだ。どうかしたのか?」
 司馬師がそう訊ねた理由は、鄧艾が何か言いたげな表情で司馬師の顔をじっと見つめていたからだった。そういえば彼は何故、わざわざ上着を携えているのだろうか。まるで、帰り支度を整えているかのように。
「あ、いえ……それが。司馬昭さんに何かお手伝い致しましょうか、とお尋ねしたのですが……
「断られたか」
……余所者が口を挟むなと」
 渋い顔をして、恐らくは司馬昭に言われたであろうそのままのセリフを鄧艾は復唱した。相変わらず、弟の彼に対する当たりは少し強めではあった。
「なるほど。それで居心地が悪く、逃げて来たという訳か」
「あ、いえ……
 鄧艾はこの家の中では、当たり前のように邪魔者扱いだった。故に、司馬師が彼を此処へ連れて来ることは滅多にない。
 今日も鄧艾は会葬者の一人として葬儀に参加してはいるが、扱いとしては当然、他人でしかないのだ。司馬師が彼のことをどう思っていたとて、その事実を変えることはできない。
「突っ立っていられると邪魔だから、さっさと司馬師さんを連れて帰れと……
 やはり渋い顔をして、鄧艾は司馬昭に言われたセリフをそのままに述べた。半ば追い出されるような形で、彼は自分の姿を見つけるまで廊下を彷徨い歩いていたのだろうか。迷子の子犬のような様を想像すれば、可哀想ではあるが、同時に少し可愛くて笑えた。
……なるほどな」
 笑いを噛み殺しながら、司馬師は一人、納得する。離れて暮らしていても兄弟だ。弟の思惑くらい、聞かなくとも解るという自負が司馬師にはあった。その辛辣な言葉には裏がある。
 司馬昭は自分に葬儀の後始末を手伝わせないつもりなのだ。直接、司馬師に帰るよう促したとて、素直に従わないだろうと彼は思ったのだろう。実際、それは当たっていた。
「どう、致しましょうか?」
 鄧艾がこちらの意向を確認する。彼は何をするに際しても、こちらの考えを伺う。その、まるで人形のような従順さが正直、司馬師は気に入らなかった。それももはや、近頃はあまり気にならなくなっていたが。
「ならば、子上の言葉に甘えさせて貰うとしようか」
 言い方のキツさは否めないが、弟は鄧艾を強引に追い返すことで、兄を共に帰らせようと考えたのだろう。なるほど。なかなか上手い策だ、と司馬師は感嘆する。
 わざわざ、そんな回りくどい手を使ってまで、こちらの手を煩わせまいとしてくれたのだから。ここは弟の気遣いを汲むべきだろうと司馬師は思い定める。
「終ぞ、嫡男としての役目は何も果たせなかったな……
 何もかも放棄したのは自分自身だ。非難を受けても仕方のない兄なのに、弟は常にその背中を強く押してくれる。だから、司馬師もうじうじと気に病むのは辞めようと最近は心に誓っていたのだった。
……だが、己で決めた生き方だ。後悔はしていないよ」
 悔いのないように生きろ。先ほど言われたセリフを、司馬師は胸の内で反芻する。鄧艾はぽかんと口を半開きにして、状況が飲み込めないと言った顔でこちらを見つめていた。
 自分はあんな風に清々しく、己の人生に後悔など無いと言い切れるだろうか。今はまだ、分からない。だけど、司馬師には一つだけ、はっきりと断言できることがあった。
―――司馬師さん?」
 何も考えていなさそうな間抜け面を、こちらも強く見つめ返す。何故、こんなにも愛おしく思えてしまうのだろうか。考えても、答えは出ないと知っている。だから、司馬師は言葉を紡ぐ。
「お前がいて、わたしは幸せだ―――
 緩くその身体を抱く。まだ、客人は幾人か残っている邸の中。いつ誰に見られるとも知れない廊下の真ん中で、けれど、今この瞬間の情動を司馬師は抑えることができなかった。
……帰ろうか」
 あと一秒だけ。そう心の中で言い訳しながら、結局、長らくの間そうしていた気がする。相手の温もりが幾分か己に移ったところで、司馬師は背中に回した腕を解いて、また、彼の目を見て告げた。
「はい」
 短く、けれど、確かな返事を得て、司馬師は緩やかに微笑む。今はまだ、直に触れて、その体温を感じていられる。それを幸せと思う。今はそれだけで充分だった。


 陽が落ちるのも、すっかり早くなってしまったものだ。敷地内に停車していた愛車に司馬師達が乗り込む頃には、すでに辺りは暗くなってしまっていた。
 近頃、急激に視力を落とした司馬師は夜になるとものが見えにくくなった。半ば手探りで助手席に座ろうとする自分のため、鄧艾は運転席より車内の明かりを灯す。
「悪いな」
 歳を取って、色々と不自由になってしまった。否。司馬師のそれは老化ゆえの症状ではない。持って生まれた病は、着々とその身体を蝕んでいた。
 だからこそ、司馬師は死を常に身近なものとして感じていた。多分、自分はまた、彼より先にこの世を去るだろう。そんな予感は半ば確信へと変わっていた。
「出しますね」
 言って、鄧艾は取り出した老眼鏡を慣れた手付きで装着する。司馬師と比べれば大したものではないが、彼も老齢のため視力は幾分か悪くなっている。運転の時だけは、鄧艾も眼鏡をかけていた。
 エンジンの掛かる音が聴こえてくるや、こちらの返事を待たずして車は動き出す。司馬師は窓の外に視線を遣って、ぼんやりと変わりゆく景色を眺めていた。
…………
 車内には穏やかな沈黙が流れる。鄧艾は必要に迫られない限り、自分から無駄に口を開くことはない。であれば、司馬師が話しかけない限りは、この静寂が続くのは必定。
 普段ならば、沈黙などさして気にすることもない。むしろ、その静けささえも心地良く思えた。だが、今は少しだけ息苦しい。
 司馬師は手持ち無沙汰にカーオーディオを弄った。なんとなく、静かすぎると感傷に浸ってしまいそうで居心地が悪かったから。適当に周波数を合わせれば、当たり障りのないラジオ番組が流れ始める。
…………
 窓から視線を外して、司馬師はすぐ隣を見遣る。真っ直ぐに前だけを見つめ、運転に集中する横顔を盗み見るために。なんの変哲もない、この一瞬をも当たり前と思えるようになった。多分、普通の人よりも、少し時間は掛かってしまったけれど。
 だからこそ、失うことを怖いと思ってしまうのだろうか。時間を掛けてゆっくりと、様々な困難を乗り越えて、あらゆるものを犠牲にして得た幸せ。だからこそ、終わりの予感に怯えてしまう。
―――鄧艾」
「はい」
 ラジオの声に混ぜて、司馬師がその名を呼ぶ。ちょうど良いテンポで、淡々とした声が返事をした。相変わらず、その視線が司馬師に向くことはない。
「お前ももう、仕事を辞めろ」
 途端、鄧艾が驚いたような反応を示す。一瞬、チラリとその目が司馬師を映した。が、また実直にその瞳は前を向く。
「定年後も好き好んで働くのは、実にお前らしいが」
 彼の好きにさせていたら、死ぬまで働いていそうだ。半ば冗談抜きに、司馬師はそう思っていた。
……わたしはもっと、お前との時間が欲しいよ」
 この命が尽きる前に。そんな後ろ向きの台詞は、喉の奥に飲み込んで。心無しか掠れた声で、司馬師は切なる想いを唐突に伝える。
…………
 いつだって、自分の方が我儘を言ってばかりだった。彼が拒まないのを良いことに、その人生を丸ごと思いのままにした。そのことへの罪悪感が無いわけではない。けれど―――
……承知しました」
 即答とはいかなかったが、幾分か悩むような沈黙の後、鄧艾は小さく頷く。内心、司馬師はホッとしていた。拒否された時のことなど、考えてはいなかったから。
 また、彼には自分のため、己の人生の先行きを決めさせてしまった。胸の奥がチクリと痛んで、だけど、それ以上の幸福感が司馬師の内には確かに存在していた。
「引っ越そう。どこかもっと、静かなところへ」
 職場に行く必要が無くなれば、都会に住み続ける理由もない。もっと喧騒から離れた、時間の流れの穏やかな場所に移住したいと司馬師は思う。
 この世界に自分と彼との二人しかいない。そんな風に感じられる所で、全ての終わりを迎える覚悟を決めるのだ。
―――恐らく、近い内にわたしの視力は失われるだろう」
 弾かれたように助手席を見た彼と、思いがけず視線が交わる。ちょうどタイミング良く、赤信号で停止していたらしい。
 人生のほとんどを鄧艾と過ごしてきたというのに、相変わらず、その感情はちっとも読めないのだから困ったものだ。彼は今、何を考えてそんな険しい表情を作っているのだろうか。
「瞬きの瞬間ですら、惜しい。残り少ない時間を、お前のその憎たらしい顔を記憶に焼き付けるためにわたしは使うぞ」
 白い歯を見せて、司馬師は笑う。そのセリフを冗談めかして言えたことに、自分自身が一番驚いていた。
 本当に、ごく普通の恋人達に比べれば、二人の関係はあまりにも歪だった。それでも、確かに少しずつ、自分達のペースで前に進んでいた。あの人のように何もかも、別れさえも幸福であると笑って受け入れられる。その自信は、司馬師にはまだ無い。
……信号、青だぞ」
 司馬師が指摘すれば、慌てて鄧艾はまた前を見る。そして、ゆっくりと二人を乗せた車はまた動き始めた。
 不安は尽きぬくらいにある。けれど、後悔はない。多分。目を閉じて、司馬師は真剣にこの先と向き合う決意を堅くする。車内には沈黙の代わりに、季節外れな夏の歌が流れていた。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.