X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです

コハルブルー

全体公開 31570文字
2022-12-24 20:42:32

2010年に発行した同人誌の再録です。
古キョン+SOS団の表記で出していた気がするのですが、「古キョンをふくむSOS団」のお話というほうが正確なような。くりかえしくりかえし、古泉のハルヒからの卒業を書いていたんだなあとしみじみします。以下は、発行当時の後書きです。

SOS団に幽霊(の)部員がいたらいいのになー、でもSOS団はあの5人でこそSOS団だしなー……と、ぼんやり考えていたら、それ以前に思いついていたネタをいくつか巻き込み、こんなお話になっていました。
《神人》かわいい、と思っていただけたら幸いです。ハルヒの無意識なんだから、女の子だと思うんですよね。

 十一月も末だった。秋の訪れとともにはじまった怒濤の日々も文化祭をゴールとして幕を下ろし、しばらくぶりに戻ってきた平穏な日常に身体がなじんできた頃合いだ。
「うーっす」
 俺がノックもせずにノブを回したのは、ドア越しに古泉の声が聞こえたからだった。あいつが中にいるのであれば、朝比奈さんのお着替えタイムまっただなか、ということはありえない。
 だが、いつものように部室に一歩踏み入れたところで、俺はぴたりと動きを止めた。廊下に片足を残したまま、目の前の光景を唖然と眺める。
 ──ああ、ちょっと油断しすぎていたかな、という感想が真っ先に浮かんだ。SOS団長涼宮ハルヒが、そうそう長いこと平穏に甘んじているわけがないのだ。
 部屋のほぼ中央を貫くように、段ボール製の砦が築かれていた。みかん箱を横向きにして四段重ねに積んだもので、俺の胸下ほどまで届く高さだ。奥行きは、どうやら団長机のあたりまでありそうに見える。本来そこに置かれていた長机は、窮屈そうに本棚のほうへ寄せられていて、いつもの俺の定位置は、椅子を充分に引くことも難しそうだった。
……こりゃ、何だ?」
 廊下に置き去りの右足を回収し、後ろ手にドアを閉めつつ、俺は訊ねた。入り口をまたいだ瞬間から、異様にぴかぴかした笑みがこちらに向けられているのには気づいていた。狙いどおりに質問してやるのも癪ではあるが、まずは話を聞かないことには一歩も前に進めない。現実でもRPGでも同じ、基本中の基本だ。
 ふふん、と得意げに鼻を鳴らし、ハルヒは胸をそらした。
「これはね、アドベントカレンダーよ!」
「はァ?」
 俺が素っ頓狂な疑問の声を上げると、何よあんたアドベントカレンダーも知らないの? と呆れたような声が返ってくる。
 バカにするなよ。由来や詳細までは知らないが、どんなものなのかは知っている。クリスマスまでの四週間、毎日ひとつずつ日付の入った小窓を開いていくという、有無を言わさずクリスマス気分を盛り上げるしくみを持った日めくり装置である。妹が、幼稚園に通っていた頃だったか、友だちの影響を受けて我が家にその風習を持ち込んだ。
 以来、毎年この時期になると母親がいそいそとカラフルな絵本のような大判のカードをリビングに飾るのが恒例になった。わりと飽きっぽいところのある我が妹であるが、アドベントカレンダーについては毎年ほぼ完走を遂げている。各小窓にかわいらしい絵が隠されていたり、小さなプレゼントが仕込まれていたりするのが、モチベーションの維持に繋がるようだ。
 確かに、今年もそんな時期に差しかかってはいる。だがしかし。
「カレンダー……
 俺は思わずつぶやいて、もう一度、積み上げられた段ボール箱をしげしげと眺めた。
 なるほど、言われてみれば、入り口を背にした俺からは右手方向、ホワイトボードに向き合った側には、みかん箱のひとつひとつに厚紙でできた扉が取り付けられ、日付らしき数字がカラフルなマーカーで記されている。そのお世辞にも上手いとは言いがたい筆跡を見て、俺は、ハルヒの向こう側でご満悦顔の男に目を遣った。古泉は、俺の視線にすぐ気づいて、にっこりと肯いてよこした。
「ふふ。お察しのとおり、僕もお手伝いさせていただきました」
 その肩にハルヒがぽんと手をかける。
「今回、古泉くんの副団長としての活躍ぶりはめざましかったわ! 何せ、これだけの段ボール箱を秘密裏に校内へ運び込んでのけたんだから。職員室も生徒会の目も欺いてみせたってわけよ、さすが見事な手腕よね。もう副団長だから、これ以上は昇格させてあげられないのが残念なくらいよ、さすがに団長の椅子を譲るわけにはいかないし。でも、将来SOS団に支部ができることになったら最初の支部長を、ゆくゆくは総支部長をまかせてもいいわ」
「それは光栄なお話です」
 ふたりは、顔を見合わせて何やら楽しげな笑みを交わした。こいつらは時たま思わぬほど仲が良さそうに見える。ハルヒは古泉をずいぶん高く買っているようだし、古泉のハルヒびいきは、今やどう見ても例の「お仕事」上の範囲にとどまるものではない。
 そういや、昨冬の合宿でもふたりですごろくを作ってきていたっけ。少なくとも、目の前の成果物を見る限り、工作関係に古泉というのは人選を間違っている気がするんだがな。ハルヒなりの基準が何かあるのかね。料理と癒しが朝比奈さん担当なのには、諸手を挙げて賛成するが。
 黙り込んだ俺の表情をどう解釈したのか、再びこちらへ振り返ったハルヒがにんまりと笑う。
「あら、そんな顔することないのよ? あんたにもちゃーんと仕事の割り当てがあるんだからね。ちゃきちゃき働きなさい!」
 そして、ぐるりと部室を見渡して、高らかに号令をかけた。
「さあ、みくるちゃんも有希も! これからみんなでこのアドベントカレンダーを完成させるのよ。もっと派手に、じゃんじゃん飾り付けましょう。それからプレゼントを持ち寄って、わりあての箱にひとつずつ入れること。ひとりあたり五、六個ってとこかしら。くれぐれも、自分以外の人には中身がわからないようにこっそりね。何が入っているのかばればれじゃ、ワクワク感が半減だもの」
 プレゼントを入れるためとはいえ、カレンダーと言うよりむしろコインロッカーみたいなバカでかさは、あまりに強欲で豪快すぎやしないか。しかし、それが何ともハルヒらしく、俺は思わず込み上げた笑いを、どうにか喉で押しつぶした。
「仕方ねえなあ」
 やれやれと肩をすくめると、同じように肩をすくめて苦笑する古泉と目が合った。窓辺では本を閉じた長門が音もなく立ち上がり、朝比奈さんはさっそくハルヒから飾り付けの材料を受け取っている。
 うん、まあ悪くない。こんな巨大なものが一か月近くも部室を占拠するのかと思うと多少のめまいは感じるものの、このくらいなら、SOS団としては平常運転のうちだ。充分平和な日常風景だ。
 そう思った。
 だが、俺はまだまだ油断していたのだ。
「完成するのが楽しみだわ。毎日これをひとつずつ開けながら、一日ずつクリスマスに近づいていくのよ。パーティの準備も始めなくちゃね。去年以上に盛大にやるわよ? 力いっぱい十二月を楽しみましょ。SOS団六人でね!」
 ハルヒのよく通る声が、きっぱりと言った。
 四つの視線が、一斉にハルヒに注がれた。
 ……六人?

 これはツッコむところだろうか。
 それとも様子を見るべきか。
 ──俺はただそれだけを考えていた。



 灰色の街を僕は駆ける。
 近頃は、閉鎖空間へ入る頻度もずいぶん落ちていて、おおむね月に一、二度というところだ。それも、涼宮さんが眠っている最中、つまり理性の働かない時間帯にほぼ限られている。
 今日は久しぶりに「急なアルバイト」という言い訳を口にして部室を後にしたが、迎えの車の窓ガラス越しに十一月の青空を見上げ、日のあるうちに駆けつけるはめになったのはいつぶりだろうかと、しばらく考えてしまったくらいだ。
 彼女は変わりつづけている。その変化は行きつ戻りつで、全体としてはゆっくりしたものだったと思う。だが、SOS団結成から一年半が過ぎた今、彼女の目に映る「世界」の色は、もうそれ以前とはまったく異なっているはずだ。
 そして彼女の変化につれて、閉鎖空間も少しずつ変わった。今や僕は、閉鎖空間内で赤い光球に変じることも、宙を飛び回ることもなくなっている。
 その代わり、僕は灰色に沈む街を駆けずり回る。体力の消耗という点ではあまり変わらないのだが、以前よりも注意深く、機転を利かせないとならなくなっているぶん、難易度は上がっているのかもしれない。
 ちかちかと街灯がかすかな明かりを震わせる。まるで僕を導くように順番にともる水銀灯を追いかけて走る。
 相変わらず、人影ひとつ、風ひとつないこの場所で、こんなふうに舞台装置が動きだしたのは、最近のことだ。高層ビルの窓明かりがでたらめな記号を描き、公園ではブランコが音高く揺れ、車のクラクションが僕を呼ぶ。
 ──そして、今日は街灯、か。
 どのくらい走った頃だろうか。ふいに、前方でひときわこうこうとした光があふれた。光源に誘い込まれるように十字路を右へ曲がると、途端にふっつりと消えてしまう。僕は仕方なく足を止める。葉擦れの音にも似た笑い声が、背後から聞こえた。そっちじゃないよ、と言いたげだ。からかわれている。
 思わず、小さな笑みがこぼれた。
「ずいぶん、知恵がつきましたね」
 振り返り、暗闇に向かって声をかけるが、答えはない。いずれは言葉で意思の疎通がはかれる時も来るのだろうかと考える。じっと目を凝らしていると、電柱の影か路地口なのか、ぼんやりと薄青く光る姿が一瞬だけちらりとのぞいて、すぐに隠れた。
 何となく、このまま学校に向かうのじゃないかなという気がして、僕は先回りをすることに決めた。今日の涼宮さんは部室での出来事から閉鎖空間を発生させているから、部室にこだわるのではないかという推理である。
 何とかしてあの青い後ろ姿に追いつかなければ、閉鎖空間は消滅しない。あちらが満足して歩をゆるめるのが先か、それとも僕が出し抜くのが先か。
 今や、小学生ほどの身の丈しか持たないちいさな《神人》との鬼ごっこが、閉鎖空間での僕の仕事になっている。

 思い出すのは春先のことだ。春休み中のあれこれを原因として、涼宮さんが中学時代に戻ったかのように閉鎖空間を多発させていた頃である。
「お前さっき、閉鎖空間の様子がおかしいとか言ってたけど……
 舞い散る桜も夕陽に染まる帰り道の途中だった。先を行く涼宮さんの耳に入れないためにか、ボリュームを落とした声で彼が言った。たしかにその日の放課後、新入生向けの部活説明会会場だった中庭で、僕はそのような会話を彼に仕掛けていた。
「正確には、《神人》、または涼宮さんの無意識が、と申し上げたはずですが」
 同じように声をひそめて答えると、同じことだろ、と彼は不機嫌そうに切り捨てた。
 同じことなのは解っている。僕としては、彼がより婉曲な表現をわざと選んでいる(と推測される)ことへの異議をとなえたつもりだったのだが、遠回しすぎて伝わらなかったようだ。あるいは伝わっていないふりなのかもしれない。どちらでもいい。本題ではない。
「あれな、戸惑って、悩んでるように見えるってんなら、一概に悪い兆候とも言えないんじゃねえか? そういう複雑さを覚えた、って意味じゃ、成長してるとも取れる。まあ、お前の出勤回数が増えていることには、お疲れさんと言うしかないが」
……成長?」
 彼の言葉が意外なものだったので、僕は思わずオウム返しにくり返した。閉鎖空間が? ああ、つまりは《神人》が、そして涼宮さんの無意識が、ということか。
「成長ですか……。どうでしょうか。今のところ、『機関』では、そのような分析結果にお目にかかったことは皆無ですね。単なる仮説としても、です」
「皆無だと?」
 今度は彼が意外そうに僕の言葉をくり返した。心底あきれた表情で肩をすくめる。
「あれか、お前のお仲間ってのは、独り身か、そうでなくとも子どもはいなくて、なおかつ兄弟では下の方だったり一人っ子だったり、そういう人材ばかりなのか? もしくは研修が足りてないんじゃないか?」
「どういう意味です? おっしゃることがよくわかりません」
「小さい子どもを見たことがないのか、お前らは、と言っている。一度、閉鎖空間に連れて行かれたことがあったよな。そっくりだったじゃねえか、あの《神人》とやらは。不満でいっぱいで、けどそれをちゃんと言葉にすることも我慢することも知らなくて、手足ばたつかせて泣き喚いてるガキにさ。それが、自分でもどうしたらいいか解らないような感情を抱えるていどには、進歩したってことなんじゃないのか? ちゃんとお守りをしてやれよ」
 僕は、あっけに取られて彼の横顔をただただ見つめた。驚いた。直感的に、彼の理屈は真実を言い当てているように思えたからだ。そして同時に、かなわないな、とも思った。
 『機関』は、もう四年も涼宮さんを観察し、分析しつづけていた。わけても僕たち能力者は、《神人》に、ひいては涼宮さんの無意識に、もっとも近くあってきたはずで、それなりの自負もあった。だが、だからこそ、自分たちの四年間が、彼が涼宮さんに出逢ってからのたった一年に太刀打ちできそうにないことがよく解った。まるでかなわない。
 ちり、と首の後ろあたりが焼けるように疼いた。つい足の動きが鈍くなり、途端に、涼宮さんのよく通る声に急き立てられる。
「後ろのふたり、ずいぶん遅れてるわよ! ちょっとぐずぐずしすぎじゃない? いったい何の話にそんなに夢中なわけ?」
「ああ、すまん。あー、何だ、うちの妹の思い出話をだな」
 さらりと言い訳して速度を上げた彼の背中を追いながら、なるほど、と心の中で深くうなずいたものだ。実体験からの仮説、ということかと。ならば、直感だけでなくあるていどの根拠あるものとして、検討する価値は高そうだった。

 結論から言うと、彼の推測は見事すぎるほどに的を射ていた。
 どう筋道をたてて説明すれば、『機関』の解析チームが彼の説に耳を傾けてくれるだろうか、と僕がぐずぐず思案しているうちに、《神人》はどんどん様子を変えた。
 どうしていいのか解らない、とでも言いたげにぼんやり立ち尽くしていたのが、やがて、僕たちに向かっておずおずと手を伸べてきた。荒々しく破壊的なふるまいではなく、まるでコミュニケーションを望んでいるかのように。そのうち、ビルのような巨体では不都合が多いことに気づいたのかサイズが縮み、縮みすぎて少し戻った。そして、ナイーブな子どもが少しずつ少しずつ打ち解けるみたいに、後ろから上着の裾を引いたり、物音を立てたりするようになった。
 能力者たちのあいだでは、はじめは戸惑いの声が強かったが、しばらくすると、悪い変化ではないと状況を歓迎し、受け容れる空気に変わっていった。
「何にせよ、飛び回ったり切り裂いたりする必要がなくなったのが本当に嬉しい、肩の荷がひとつ下りた気分だ」
 と誰かが言い、皆が一斉にうなずいた。
 一方で人間離れした強大な力を力でねじ伏せるような物騒なことをしながら、もう一方で穏やかな日常生活を抱えていくというのは、実のところとても骨が折れる。何かの拍子に、日常には強すぎる衝動が込み上げ、翻弄されてしまいかねない。バランスを保つのが難しいのだ。実際、私生活が破綻しかけている能力者も存在していた。
 僕の場合は、北高転入後、涼宮さん本人に接する時間が長くなってからが大変だった。無意識の感情の発露とはいえ彼女の一部を織りなすものを、この手で滅ぼすということに、罪悪感がつきまとったからだ。
 けれど《神人》の変化とともに、それも薄れた。そして何より、あの春の日以降、彼の言葉が強く僕を救いつづけてくれていた。
 お守りをしてやれ、と彼は言ったのだった。
 自分がしていることは涼宮さんの身を切り裂くにも似た行為ではないのか、と思い悩んだこともあったのに、それを「お守り」の一言で包み込んでくれた彼の偉大さと言ったらない。
……実際、お守りになっちゃったしな」
 ひとけのない旧校舎の階段を昇りながら、僕は小さく独りごちる。しかも、驚くべきことに専属だ。
 ちいさな《神人》が、かくれんぼや鬼ごっこめいたゲームを仕掛けてくるようになってすぐに、僕にしか感知できない気配や手がかりがあることが判明した。その場に四人も能力者がいたのに、《神人》の姿が僕にしか見えていない、という事件すら起こったのだ。
 『機関』の報告書を眺めながら、
「ご指名ですってよ、古泉」
 と森さんは言って、目元ににじんだ涙を拭った。いかにも楽しそうだった。
……笑いすぎですよ、森さん」
「ふふ。『彼』の説によって立つなら、これもまた成長の一過程ということになるんでしょう。遊び相手を選り好みするようになったということだわ。幼稚園児くらいの情緒かしらね」
「幼児の発達段階には詳しくありませんが、僕は、このご指名を喜ぶべきなんでしょうかね」
 大仰に肩をすくめてみせると、森さんは「あら」とつぶやき、丸めた報告書で僕の頭をぽこんと小突いた。
「あなたの大好きな団長様から選んでいただいたのよ、古泉くんと遊びたい、って。もっと喜びなさいな。どうせもう、たいした頻度じゃないでしょう? そんな面白い困り顔なんかして見せても、わたしの娯楽にしかなりませんよ」
「だっ……
 僕は思わず頬に手を遣った。森さんは、再びころころと声を上げて笑った。僕が『機関』のエージェントという立場を越えて涼宮さんや彼、そしてSOS団に肩入れしていることなど、森さんはとっくにお見通しだったんだろうな、と思った。
 それからすぐ、閉鎖空間発生時の運用規定に修正が加えられた。召集がかかるのはたった三名、古泉一樹は出動必須、それ以外は輪番制とのお達しである。
 当初は他の二人も閉鎖空間に入ったものの、あまりにもできることが限られているため、結局は単なる待機人員とされた。閉鎖空間内部の僕と、外部の『機関』とを繋ぐ連絡係、兼、非常時の対応人員である。つまりはほとんど電話番みたいなものだ。
 とうとう、閉鎖空間まるごと全部、僕ひとりの手にゆだねられてしまったのだった。だがそれを、理不尽だとは思うまい。白羽の矢が立ってしまった不運を嘆きもすまい。
……まだかな」
 やがてやって来るはずの《神人》を待ちながら、僕は部室の扉に背中をつけて、薄暗い室内をぼんやりと眺めた。『団長』と書かれた三角錐、ポットと急須、窓辺のパイプ椅子。長机を挟んで向き合った座席と、そのあいだに置かれたオセロ盤。設置されたばかりのアドベントカレンダーも、ちゃんとある。灰色一色に染まっていても、ここは紛れもなく、涼宮さんの生み出したSOS団の本拠地なのだ。そしてそれは、僕の居場所の名前でもある。
 ひたひたと小さな足音が近づいてきて、ドア越しに僕の背後で止まるのがわかった。音もなくノブが回る。ゆっくりとドアが押し込まれるのに合わせて、音を立てないように背中を起こす。
 するりと侵入してきた青白い姿の、その冷たい腕にそっと触れた。
「つかまえました。ゲームオーバーですよ」
 ちいさな《神人》は、コバルトブルーに発光するのっぺらぼうの顔をかすかにあおむけてこちらを見た、ような気がした。待ちぶせに引っかかってしまったことを、きまり悪く思っているようでもある。表情というものを持たないので、すべて憶測にすぎないけれど。
 比較的はっきりしているのは、逃げるそぶりがない以上、どうやら鬼ごっこには満足したらしいということくらいだ。
 ──もう、ご気分は晴れたでしょうか?
 今夜、涼宮さんがぐっすり安眠できますように、と願う。そして、目の前のあなたももう、おやすみなさい。
 右手に意識を集中させると、手のひらにじわりと赤い光がにじむ。そこからエネルギーを放出するイメージで、握りしめた《神人》の腕に伝わせる。肌が触れているところから、じわじわと光は流れ込み、赤い光と青い光がせめぎあってスパークした瞬間、まるで空気に溶けるように、《神人》の姿はかき消えた。
 今日のお守り役は終了だ。
……さようなら」
 いつもこの瞬間は、ほんの少し寂しい。これはおそらく、《神人》の背丈やふるまいが人間に近づいてきているせいだと思う。破壊の巨人を相手にするのとはわけが違う。どうしても情が湧いてきてしまうのだ。
「まあでも、どうせまた会えることですしね」
 屋内なので空の様子は見えなかったが、窓から入る月明かりで閉鎖空間の消滅を知った。すっかり夜になっている。さっきまで見ていた室内と構成要素は変わらないのに、淡い光に浮かび上がる光景は、とても優しく、あたたかく見えた。
 やはり、こちらのほうがいい。灰色の冷たい世界より。きっと彼は賛成してくれる。
 涼宮さんもそう思ってくれたらいいなと思いつつ、僕は部室を後にした。



 閉鎖空間で一仕事終えた帰り道、夜の街をひとりで歩くのが好きだ。『機関』の車を断って、しっとりと湿り気をおびた空気を胸一杯に深呼吸しながらのんびり歩く。
 同じように薄暗くとも、灰色に塗り込められた閉鎖空間とはまったく違う。夜闇の奥に色彩の透けて見えるリアルな街並みに安堵を覚える。たぶん、こうして歩きながら、僕は何かを取り戻しているのだろう。具体的にはわからないけれど、異空間には存在せず、日常空間には存在する何かを。
 そうやってたどりついた自宅アパートの玄関先、おおむね八割の確率で、僕は、ドアのバーに引っかけられた白いコンビニ袋を発見する。中身は必ずホットの缶コーヒーだ。銘柄は時によりばらばらである。熱々のこともあれば、人肌ほどにぬるくなっていることもある。けれど、冷え切ったものに遭遇したことは一度もなかった。
 閉鎖空間の発生が突発的であること、いったん発生した閉鎖空間がいつ消滅するかは、僕と《神人》の知恵比べ次第であることを考え合わせると、これは、ほとんど奇跡みたいな贈り物だ。あまりのタイミングの良さに、僕は最初、『機関』からの特別手当的なものかと思ったほどだった。すぐに、そうではないことが判明して、首をひねることになったのだが。
 そして、今夜も僕の目の前には、定価百二十円のファンタジーが出現していた。ビニール袋の上から触れると、ひときわ熱い。かさかさと音を立てながらそれを取り上げ、カギを回してドアを開ける。
 当然のことだが室内は暗く、空気はしんと冷えていた。まだ夕方と言っても通じるくらいの時間帯だが、十二月も目前のこの時期、陽が落ちればぐっと気温も下がる。帰宅するたび「ひとり暮らし」を否応なしに実感する季節なのだ。
 だが僕は、すみやかに電灯をつけることも、エアコンのリモコンを手に取ることもせず、まっすぐ窓際に歩み寄った。ひんやりと冷えたカーテンに身を寄せて、隙間からこっそり外をのぞき込む。
 二階の窓から見下ろす路上、いちばん近い電柱の根元の「いつもの場所」に目を凝らした。街灯に薄められた闇の向こうに潜んでいる人影を確かめる。──やはり、いる。
 僕はほうっと息を吐き出した。窓に背を向け、半ばカーテンに身を埋めるようにしてしゃがみこむ。床にかばんを手放すと横倒しになってしまったが構いはしない。コンビニ袋からそろそろとコーヒーを取り出して、タブを引き起こしひとくち飲んだ。じわじわと胸を温めるものは、たぶんコーヒーの熱ばかりじゃない。
 あの人影を見るのは初めてではなかった。誰であるのかも、知っている。このコーヒーの贈り主、ささやかな奇跡の演出者だ。
 僕は、小さなスチール缶を大事に大事に両手で包み込んだ。と、ブレザーのポケットで携帯電話が震え出す。何気なく発信者をチェックして、僕は慌てて立ち上がった。コーヒーをドアにかけてからずっと、あそこで様子を窺っていたなら、僕の帰宅は知られているのが当然だ。いつまでも明かりのともらない窓を不審に思われているのかもしれない。
「こんばんは。どうされましたか?」
 通常どおりの自然な挨拶を心がけながら部屋の入口まで戻り、壁のスイッチをパチリと押す。室内がまぶしい白に染まった途端、スピーカーから「あっ」という声がこぼれたが、僕は聞こえなかったふりをした。
 疑う余地もない。「彼」は今、この部屋の窓を見上げながら話しているのだ。
……いや、うん。そろそろお勤めも終わる頃かと思ってな。お前が途中抜けしなきゃならんような事態もずいぶん久しぶりだったから、ちょっと気になってさ。ご苦労だったな』
「ありがとうございます。タイミングばっちりですね。少し前に帰宅して、玄関先でひと休みしていたところでした」
 部屋を暗いままにしていたことの言い訳を、と考えたのだが失敗だった。
『玄関先で?』
 と、どこか厳しい調子で彼は言った。
『んな、家にたどりつくのがやっとみたいなハードな状況だったのか?』
 抑え気味の声に、ああもしかして心配されているのかな、と思い当たる。彼は、優しい言葉ほどぶっきらぼうに口にする。
「いえいえ、そういうわけでは。規模も平均的なものでしたし、特別に骨が折れたということもありません。以前お話しした近頃の傾向そのままですよ、かわいいものです。ただこの時期は……寒いので」
『あぁ? 寒い?』
「ひとり暮らしですからね。自分でエアコンを入れない限り、帰ってすぐはどこもかしこも寒いのです。寒いと身体を動かすのが億劫になります。ついつい、靴も脱がずに座り込んで、あたたかい缶コーヒーをいただいていた次第です」
 右手に握りしめたコーヒーの温度が、しみじみと身体にしみてくる。
 一瞬の沈黙を置いて、
『あー……コーヒーか。うん、コーヒーな』
 彼は歯切れ悪く口ごもった。
 そういえば、あれも半年ほど前、彼の「お守り」発言の少し後くらいだったな、と思い出す。

 その日、夜半過ぎに閉鎖空間への対処を終えて帰宅した僕は、ドア前で贈り主不詳のコンビニ袋を発見し、それを片手に引っかけて部屋に入った。
 閉鎖空間への出動時は、それが何曜日でも何時でも、必ず制服姿で通学かばんを持って出る。万が一、処理が長引けば、直接学校へ向かわなければならないこともあり得るからだ。かばん、ブレザー、ネクタイ……と、結局は無駄に終わった身支度を順番に床に落としながら、僕は、ベッドの上に放りだしたコンビニ袋に目を遣った。都合三度目になる贈り物だった。
 一度目も、二度目の時も、結局口を付けてはいない。『機関』の対抗組織による何らかの罠という可能性もなくはないかなと思ったし、そうでなくとも、誰が置き去りにしたのかわからないものを口にすることに抵抗があったからだ。
 だがその夜は、飲んでしまおうかという気になった。疲れていたし、のども渇いていた。何より、ついさっき買ってきたばかりのように熱いのが魅力的だった。
 ──ついさっき買ってきたばかりのように?
 僕は、急いで窓辺に歩み寄りカーテンを開けた。「ように」ではない。現実に買ってきたばかりでなければ、このような温度を保っているはずがない。まだ贈り主は近くにいるはずだと考えた。
 見下ろした深夜の住宅街は、しんと静まりかえっていた。走り去るテールランプとか、自転車のブレーキ音とか、懐中電灯の明かりなどという、僕が期待するようなミステリ的な要素は何ひとつ見当たらなかった。当然だよなと軽く自嘲して、僕は無造作にカーテンを引いた。だが、あきらめた矢先に、求めるものは現れたのだ。
 落ち着いたベージュの分厚い布地が、外の暗闇を覆い尽くしてしまう寸前だった。手を止める余地もありはしなかった。もう十センチも残っていなかった隙間から、僕はたしかに人影を見た。いちばん近い電柱の影から、ひょこりと半身をのぞかせてこちらを見上げる人影を。それは紛れもなく「彼」だった。
 驚きに息を飲む一方で、すとんと腑に落ちる感覚もあった。彼は何ひとつ特殊な能力を持たないけれど、洞察力と判断力は人並み以上と言っていい。恐るべき勘の良さも備えている。何ひとつ気づかないような顔をして、その実、涼宮さんの感情の動きにも敏感だ。
 『機関』の人間でも宇宙人でも未来人でもなく、閉鎖空間の発現をあるていど予想できる人間など、彼以外にそうそういるとは思えない。最初から、犯人の候補者は限られていたのだ。
 完全に閉ざされたカーテンの前に、しばらく呆然と立っていた。
 おそらく、カーテンが開いたことで身をひそめ、それが閉じられたから顔を出したのだろう。先ほどのあのタイミングなら、僕に目撃されたことには、気づいていないかもしれない。彼が隠れていたいなら、あえて暴くのは悪趣味だ。明日それとなく様子を探って、できれば素知らぬふりでいよう、と決めた。
 無糖ブラックのコーヒーは舌には苦く、けれど胸にはほの甘く、僕の内側をあたためながら胸の底へと流れ落ちていった。

 あの時のコーヒーの味がよみがえり、思わずくすぐったい笑みが込み上げた。電話でよかった、と心から思う。この感情を抑え込んでポーカーフェイスを貫くなんてもったいない。
 僕がおおよそを察していることには、彼も薄々気づいているのだろうとは思う。だが僕は、彼から秘密を明かされるまでは、知らないふりをしつづけるつもりだ。今でさえ、たった一言、たったコーヒー一本に、ばかみたいに救われてしまっている。彼の優しさが僕の前にオープンになった時、甘えすぎずにいられる自信がない。いつかは面と向かってお礼を言いたいけれど、まだしばらくは、自戒のための枷が必要なのだ。
 それでも、どうにか感謝の意を伝えたくて、精一杯、許される範囲の言葉を尽くす。
「『バイト』帰りのホットコーヒーは、とても有り難いアイテムなのですよ。生物としての本能でしょうね、身体があたたまると人心地がついてほっとします。それに、閉鎖空間にはおおよそ熱と呼べるようなものが存在していませんから、あたたかさというのは、僕を日常に引き戻してくれる重要なファクターであると思うんです」
……そっか』
 彼の返事は短くそっけないものだったが、ほんの少し笑みを含んだ柔らかな声は、僕をおおいに安堵させた。
「何にせよ、ご心配には及びませんよ。《神人》も順調に成長しているようです。だいぶ知恵がついてきていますが、今日もしっかりとお守り役を務めさせていただきました」
 電話の向こうで、彼がほっと息を吐く。お返しというわけではないけれど、こちらからも安堵のカードを提供できるなら何よりだ。
『うん、まあアレだ。特に問題があったわけじゃないなら、それでいいんだ。何せ、今日のは、俺が要らんことを言ったせいのような気もしたから、久々にやっちまったかと思って。悪かったな』
 言われて、わざわざ彼が電話をしてきたのは、それを気にしたせいだったのか、と気づく。
「そのことならば、あなたのせいではないでしょう。謝らないでください。あのような場でこそ、僕が何とか涼宮さんに話を合わせるべきでした。日頃もっとも言葉数が多いくせに、いざというとき一言もなくなるとは、情けないにも程があります。申し訳ありませんでした」
『いや、お前も謝るな。文化祭がやっと終わって、油断してたのは俺も同じだし、長門も朝比奈さんも似たようなもんだったろうさ。ただ、あまりに予想外すぎたんだ、だってあんな……なあ?』
 SOS団員として過ごしてきたこの一年半、僕たちは何度も何度もくりかえし非常識な事態に対面してきた。それなりの耐性もついていたはずだ。けれど、それでも、今日の涼宮さんが僕たちに与えた衝撃は、馴れや予想をはるかに越えた途方もないものだったと思う。
「SOS団“六人”で」
 それは、僕と彼と長門さんと朝比奈さんの四人を、根本から揺るがす言葉だった。
 年度はじめの、対抗組織と新入部員をめぐる大騒動を経て、それでも結局は元どおり「五人」に収まったSOS団に、再び突き付けられたアイデンティティ・クライシスだ。
 朝比奈さんはかろうじて悲鳴をこらえ、小さく息を飲み込んだ。長門さんのまぶたが驚きに見開かれるのを見たのも初めてだった。(とはいえ、〇.一ミリにも満たない微細なレベルでの話だが)
 僕は言葉を選びかね、そして、彼は、ツッコんでいいのか悪いのか、という微妙な表情を浮かべていた。
 数秒の沈黙と逡巡ののち、冗談と判断してツッコミを入れた彼に対し、涼宮さんは予想以上に不機嫌そうな顔を見せた。
「五人って、何? あんた何言ってんの? あたしはね、誰かの存在そのものを否定するような、そういうタチの悪い冗談は大ッ嫌いよ! 覚えておきなさい。ここまで六人一緒にやってきたのに、どうしてそういうことが言えるのかしら? 信じらんない!」
 らんらんと不穏に輝く目が、真正面から彼を睨みつけていた。ぎゅっと寄せられた眉、とがったくちびる──掛け値無しに本気の様子だった。
 では六人目とは誰なのか?
 涼宮さん以外の全員が、それを疑問に思っていたはずだ。しかしとても、それを質問できる雰囲気ではなかった。涼宮さんの怒りを映し、空気がびりびりと帯電するような緊張感が文芸部室を支配していた。日頃、涼宮さん相手に一歩も退くところのない彼でさえ、「すまん」と謝罪の言葉を口にしたほどだ。
 ほどなく、僕は閉鎖空間の発生を感知し、すみやかにかかってきた『機関』からの電話連絡にしたがい、部室を離れねばならないことになった。
「申し訳ありません、涼宮さん。急なバイトが入ってしまいました。今日はお先に失礼させていただきます」
 怪我の功名と言うべきか、その場の問題にいっさい無関係な僕の言葉は、ひりつくような沈黙をひとまず破ることに成功した。涼宮さんは毒気を抜かれたような表情で、ぱちぱちと何度かまばたきをした。
「あら。古泉くん、まだバイトつづけてたのね。最近、団活中に抜けることもなくなってたから、てっきりやめたのかと思ってたわ」
「以前のように仕事量が不安定ではなくなったので、近頃では、臨時シフトとはご無沙汰していたんですよ。久しぶりに呼び出されてしまいましたね。アドベントカレンダー作りがまだ途中なので、非常に残念なのですが……
 しょんぼりとしたポーズはいささか大仰に飾ったものだが、残念なのは本当だった。とびきりのアドベントカレンダーを作りたいから協力して欲しい、まだみんなには内緒で、と涼宮さんに明かされたときから、僕はこのプロジェクトをとても楽しみにしてきたのだ。
「それは仕方ないわよ。SOS団の副団長たる古泉くんが、バイト先でも信頼厚く頼られている存在だっていうのは、悪いことじゃないわ。誇りを持ってきっちりお仕事してきてちょうだい。ひいては、それがSOS団の名声にもつながるんだからね」
 にっと笑った涼宮さんに背中を押され、僕は部室を後にした。少しは機嫌が上向いてくれたのだろうか、だとしたら、閉鎖空間も早めに収束するかもしれない……。そう思った次の瞬間、先ほどよりはソフトな調子ではあるものの、再び彼を詰問する彼女の声が響きわたったのだった。
『──まさかあんなに怒るとは、まったく予想が付かなかっただろ。いったい何が気に障ったのかね?』
 イチ抜けをした僕には、最終的に彼がどれほどやりこめられたのかは知るよしもないが、彼の疑問の答えなら、ぼんやりとした憶測は持っていた。
「それは何となくわかりますよ。僕たちには予想すらつかない『六人目』ですが、涼宮さんにとっては、大事なお相手なのでしょう。存在を無視されるのが我慢ならないくらいにね。どちらにせよ、この件は明日に持ち越しです」
 『機関』からの指示も、ひとまず様子見、とのことだ。涼宮さんが待望の地底人を連れてきたとか、団員の誰かがふたりに増えたとか、そういった報告は受けていない。
 今後、彼女の無意識が事態の解決を望むのであれば、そのうち僕たちの目に見える形で何らかの異常事態が発現するだろう。その時を見計らって動けばいい。これまでだってそうだった。
『ま、そりゃそうだ。つーか、そうならないと動きようがない。今日のところは、長門も首を傾げていたしな』
 長門さんがお手上げなのでは、完全に処置無しだ。
「では、手のつけようがあるお話をしましょうか。プレゼントの準備をお忘れではありませんか? 今日、お達しがあったはずですよ。アドベントカレンダーの完成が遅れるようなことがあれば、それこそ、涼宮さんをがっかりさせてしまいます」
『ああ。「ひとりあたま五個前後。手作り可。リサイクル可。ナマ物は不可」とか言ってたっけな』
 僕があらかじめ聞いていた案と相違なかった。今週いっぱいを期限として、僕たちはあの段ボール箱に中身を詰め込まなければならないのだ。数が多いのは大変だけれど、未来の自分たちに夢を送る作業だ。楽しくないはずがない。
 そして、発案者の涼宮さんがこれからクリスマスまでの四週間を楽しみにしているのは言うまでもなく、そうである以上、今回の事件に関しては、具体的な異常事態に展開するとしてもそれほど大事にはならないのではないか、と僕は踏んでいた。
『それは俺も同感だな。そんじゃ、せいぜい、プレゼントのネタに頭を捻ることにしますかね。それじゃあな』
「はい。また明日、部室でお会いしましょう」
 寒いですからお気をつけて、などと余計なことを言いそうになり、僕は慌てて口をつぐむ。彼が窓の外にいることを、僕は知らないはずなのだ。
 彼は、ナマ物不可じゃあシャミを持ってくわけにもいかんしなあ、とつぶやき、通話を切った。
 カーテンを開けて後ろ姿を見送りたかったけれど、それは危険だ。彼がうっかり振り返らないとも限らない。じっとこらえて、僕は、少しぬるくなった缶コーヒーを一気に飲みほした。



 我らが文芸部室にアドベントコインロッカーとでも言うべき物体が出現した翌朝、俺は盛大な雨の音で目を覚ました。
 この時期の雨は空気を冷やす。ぶるりと肩を震わせて鼻先まで毛布にもぐりこんだ。あと何分、惰眠をむさぼれるだろう。眠い以上に寒さがこたえる。起き抜けに布団のぬくもりを手放しがたく感じるのは、そういや、この秋では最初かもしれないな。
 おのれの身体感覚で季節の移り変わりをしみじみと実感していると、
「キョーンくーん」
 わびさび季節感などというもののいっさいを断ち切るように、のんきででたらめな歌声が室内に侵入した。
「あっさだよーご飯だよー。ねえ、起きてぇー」
 敵はカーテンを開け放ち、身体に巻き付けた毛布をぐいぐいと引っぱる。ただでさえ薄い俺の装備は、じきに妹の手によってはぎとられ、晩秋の冷たい空気の中に身ひとつで投げ出された。
「あっはは。キョンくん、虫みたいー」
「む……
「いーもーむーしーごろんごろん」
 くるくると踊るように部屋を出て行く妹の姿を見送りながら、あいつのあの無尽蔵の動力源はいったい何だ、と益体もないことを考える。それから仕方なく起きあがり、寝ぐせのついた後頭部を撫でつけながら、俺は窓の外に視線を向けた。
 無数の垂直線がはっきりと見て取れるような雨だ。
 通学かばんの傍らに置いたデパートの紙袋にちらりと目を遣る。昨夜、妹を巻き込んで大騒ぎの末に集めた、アドベントカレンダー用のプレゼントである。だが、部室に持ち込むのは明日に延期したほうがよさそうだ。この雨ならきっとずぶ濡れになっちまうからな。言い渡されている期限は今週末だし、そう焦ることもないだろう。
 ハルヒのSOS団六人発言の件は気になっているが、昨夜古泉と話したとおり、具体的な異常がなければ対策の取りようもないし、何も起こらないのなら、それがいちばんいいに決まっている。
 今日みたいに雨に閉ざされた日の放課後は、朝比奈さんの淹れてくださるあたたかいお茶を飲みながら、古泉相手にカードで五連勝をもぎ取るような、そんな過ごし方をするべきなのだ。

 濡れたズボンの裾を気にしつつ教室に入ると、珍しくハルヒがもう席に着いていた。プレゼントの準備についてやいのやいのと言われるのではないかと身構えていたのに、
「よう」
 声をかけた俺をちらりと見上げ、頬杖をついていた右手をこちらに向けて開いてみせる程度で、いつもよりだいぶ静かな様子だ。
「何だ、大人しいじゃないか。もしかして寝坊して朝飯抜きか?」
「あたしは朝ご飯は絶対抜かないわよ。一日を充実してすごすために、もっとも大切なエネルギー源じゃないの。ガソリン入れずに走ろうったって、ムリな話なんだから」
 もっともなことを言って、ふいっと顔を窓のほうへ向ける。
「そうね、ちょっとアンニュイなのは確かかも。別に、雨が嫌いってわけじゃないのよ? でも、何となく、今日は青空が見たい気分だったのよね」
 ああそうかい。
 その小さな頭をぐりぐりと撫で回してやりたいような気がしたが、子ども扱いするなと怒られるのは目に見えており、谷口あたりに妙な誤解を与えそうな気もしたのでやめておいた。
 見たところ顔色もいいし、どこかが痛いとか具合が悪いとか、この世に不満を抱いているとかいう印象もない。つまり、例のトンデモ空間を発生させそうな気配はゼロだ。放っておいても問題はなかろう。
 俺は古泉とは違って、妙な超能力は持っちゃいないが、一年半も一緒にすごしているうちに、おおむね、ハルヒの機嫌は読み取れるようになってしまった。今夜あたりやらかしそうだな、と思うことが何度もあって、その翌朝、古泉の様子を観察し、目の下のくまのできぐあい、あるいは直接のインタビューによって答え合わせをすることで判明した事実だ。
 日常生活を送るうえでは、何の役にも立たない特技である。が、この特技が身に付いて良かった、と思えることがひとつだけある。古泉を、ねぎらってやれるようになったことだ。
 ヤツのおもな活躍の場が、通常俺には見えない場所であるのは不運だったし、最近ではそうでもなくなってきたが、面と向かえばわざとかんに障るようなことを言ってくるところがあるのは最悪だったと思う。
 とにかく、俺はこれまで、長門や朝比奈さんの尽力に対しては、何度も感謝の言葉を述べることができたが、古泉に対してはそうではなかった。殴るぞとは言えてもありがとうと言えない。それがずっと気にはなっていたのだ。
 今も、直接、感謝の意を伝えられているわけではない。けれど、古泉が閉鎖空間から戻ってくるのを見計らい、「ご苦労さん」と言ってやる代わりに、コーヒーを一本差し入れることができる。
 贈り主を明かさないままのその行為は、言ってしまえば単なる自己満足だ。それでも、現実問題として、そのくらいが関の山だと思った。だってさ、深夜に疲れて帰宅したら、家の前にわざわざ待ちぶせしていた顔見知りが突っ立っていて、「よう、今夜もご苦労だったな。これは感謝の気持ちだ」とか言い出したら、どう考えても不気味なのだ。確実に引く。
 ドアに缶コーヒーが一本ぶらさがっているくらいなら贈る方も受け取る方も気軽だし、古泉の手元に物理的にコーヒー一本増えるだけでもいいじゃないか。
 ──昨夜あいつ、「有り難い」っつってたよな。
 思い返してつい、表情がゆるむ。
 下手人が俺だってことは、とっくに気づかれていると思う。普通に考えて、他にそんなことをする理由のあるヤツが見当たらないからな。
 俺にとって予想外であり、とても有り難かったのは、古泉が「あなたですよね?」などと言い出さなかったことだ。あいつはミステリかぶれなので、下手をすると犯人捜しに躍起になるのではないかと心配していたのだが、杞憂だった。
 古泉が素知らぬふりをつづける限りは、俺は気づかれていないと思っているふりで、コーヒーを届けることができる。それこそハルヒあたりに言わせれば、まどろっこしくてバカみたいな線引きなのかもしれないが、たぶん、俺や古泉のようなあまり素直でないタイプの人間には、線引きこそが必要なのだ。
 ──さて、踏み越えなければこのままでいられる、その線とはいったい何を指すのかね?
 何となく、「こじらせちまったかなあ」というような気がした。

 事態が動いたのは放課後だった。
 とはいえ、SOS団に関して言えば、おもな活動時間が放課後であるからして、たいていの事態は放課後に動く。ああ、結成に関しては、あれは授業中のことだったか。
 雨にも負けず、さっそくプレゼントを持参なさった朝比奈さんが、かわいらしくラッピングされた色とりどりの包みを段ボール製アドベントカレンダーにおさめている。ハルヒはそれにいちいち口を出し、俺はそんなふたりの様子をただぼんやりと眺めていた。古泉が日直のためまだ顔を出しておらず、どうにも手持ちぶさただったのだ。長門はいつもどおり、窓際で本の虫になっている。目に見える異常はなさそうだ。
「ああ、みくるちゃん、そのピンク色のは何となく、十七日に入れるのがいいような気がするわ」
「はぁ~い。でもどうしてですかぁ?」
「ぴったりくるような気がするからよ。単なるイメージよ。フィーリング。でも直感っていうのは大事なのよ」
 そういや、出会って間もない頃、月曜は黄色だとかゼロだとか、そんな話をしたこともあったな。もしかしたらハルヒの中では、一か月すべての日付にも、イメージカラーとかイメージ図形なんてものが決まっていたりするのかもしれない。
「ところでハルヒよ」
「なによ?」
「アドベントカレンダーっつーのは、毎日ひとつずつ開けるもんだよな? 土日は、どうするつもりなんだ?」
 わざわざ聞かなくても答えは明白、とは思ったのだが、やはりはっきりさせておきたくて、俺は訊ねた。
「土日だって部活やってるんだから学校は開いてるでしょ。来ればいいのよ。土日もここに」
 ほらな。
「じゃあ、十二月は休日なしか? 再来週には期末テストだってあるってのに?」
 ちなみに、SOS団が定期テストを理由に活動を休止したことはない。だが、俺の言葉に、ハルヒは予想外の回答を寄越した。
「じゃあ、今週末は休みにするわ。それでいいでしょ?」
「へっ?」
「言っておくけど、だらだら遊ぶための休みじゃないのよ? 今のうちから試験勉強やっときなさいっていう意味よ? あんた中間ひどかったじゃないの。期末はあれより平均十点は上げないと許さないから」
 ああ、まあ、中間がひどかったのは認めるが、ありゃ文化祭の準備にかまけすぎたのが主たる敗因だ。期末がアレよりひどいってことは、たぶんない。……たぶん。
「この土日できっちりスタートダッシュかけとくことね。来週からはクリスマスを待ち焦がれつつ、その準備に全力で勤しまなくてはならないのよ。これはSOS団員すべての義務であり、同時に特権なんだから」
……団員すべて、ね。つまり六人でってことか」
 ちょっとしたジャブだった。朝比奈さんと長門の視線がこちらに集まるのが何となくわかった。ハルヒは口元をアルファベットの「v」の字の形にして「んん?」と意味ありげな笑顔を作った。
「なぁに? 昨日はあんなひっどい冗談言ってたのに、今日はずいぶん素直じゃないの。そうそう、団員同士、無駄な揉め事なく、仲良く楽しくやらなくちゃね。もちろん、馴れ合えってことじゃないのよ? 切磋琢磨が基本よ?」
 俺は曖昧に肯いておいた。まだ具体的には何も起こっていないが、ハルヒにとってのSOS団は「六人」であるという状態はつづいているようだ。
 そいつは今どこにいるのか。もしや、見えていないだけで部室にいたりするのだろうか。それも探ってみたかったが、うまい質問がひねり出せない。
 「そこにいるのか」と言って、いなかったらバカみたいだし、「どこにいるんだ」と言って、ここにいるじゃないと言われるのもバカみたいだろう。そして、どちらもハルヒを怒らせる可能性が高い。やれやれ。未だかつて、こんなにも「異常事態の発現」を待ち焦がれたことはなかったぜ。
 どうしたものか、と思っていると、ドアの方から軽いノックの音がした。
「どうも、遅くなりました」
 いつもの如才ない微笑を浮かべた超能力者のお出ましである。だが、古泉は、部室に一歩踏み入れた途端、その笑みをかすかに凍らせた。眉根が微妙に内側に寄せられ、目尻の下がったまま、瞳の色が鋭くなる。こいつのポーカーフェイスなら、長門の宇宙的無表情よりは、読み取るのがはるかに容易い。
 古泉は、壁際に追いやられている長机に歩み寄り、いつものように通学かばんを置いた。ハルヒの不審を買わないよう、注意深く部室内を観察しているのがわかる。俺にも朝比奈さんにも、長門でさえ気づいていない何らかの異常があるのだろうか。それを察知しているのだろうか。
「ねえ、古泉くん。古泉くんは、プレゼント持ってきてる?」
「いえ、僕はまだ──」
 ハルヒに呼びかけられ振り返った古泉は、非常に珍しいことに言葉を詰まらせ、息を飲んだ。
……コハル、さん?」
 呆然とつぶやいて、それからまるで、自分の口にした言葉に驚いたように、「えっ」と言う。その目が見ているのはハルヒではなく、その傍らの空間だった。
 からからとハルヒが笑う。
「そうだけど。古泉くん、何をそんなに驚いてるの? コハルちゃんなら、昨日もいたし、今日も最初からいたじゃないの」
「えっ、あっ。それもそうですね」
 ──六人目か?!
 俺は思わず立ち上がった。だが俺の目にはその存在が映らない。何もない、誰もいない虚空を視線が泳ぐ。
 俺は朝比奈さんを見た。彼女はふるふると首を横に振る。長門の黒い瞳もまた「わからない」と言っている。
「あー、古泉」
 俺はできるだけ長閑な声を出すように心がけながら、古泉を呼んだ。
「お前ちょっと付き合え。たまには連れションもいいだろう。さっきハルヒに週末の試験勉強を申し渡された。ついてはお前に協力を要請しようと思って待ってたんだ。いろいろと相談したいこともある」
「あら珍しい。キョンにしてはやる気出してるじゃないの。連れションってのはどうかと思うけど。古泉くん、よろしく頼むわね」
 古泉は何を思ってか、器用にも笑顔を張り付けたまま、ためらうように部室をぐるりと見渡した。
 だがすぐに、覚悟を決めたように肯くと、
「ではお供します。お手柔らかに」
 と言った。

 ふたりで連れ立って部室を出たが、もちろん、向かった先はトイレではない。あの場所は、意外と人の出入りがある。秘密の話には向かないのだ。
 だが雨が降っているため中庭は使えない。渡り廊下は個人練習をおこなう吹奏楽部員に占拠されている。しばらく右往左往した挙げ句、俺たちは外階段の踊り場に落ち着いた。時たま横なぐりに雨が吹き付けてくるが、この際しかたがない。
 周囲に人影がないことを確かめると、おもむろに古泉が口を開いた。
「見えないのですか?」
「見えねえな。朝比奈さんと長門にも見えてないらしい。コハルってのは誰だ? そいつがハルヒの隣にいるのか?」
「かわいらしい女の子ですよ。小学校の中学年くらいの。涼宮さんによく似た、利発そうな顔をしてらっしゃいます。中学時代の涼宮さんのように、髪を長く伸ばしていますね。──実を言うと、僕も彼女を存じ上げているわけではないのです。ただ、見た瞬間に、そのお名前が『わかってしまった』」
「わかってしまった、って……
 たしか古泉はこれまでに何度か同じような言葉を口にしている。自分に与えられた能力とその使い途について、それからハルヒの精神状態について、閉鎖空間の発生について。理由はわからないが、わかってしまうのだ、と。
 俺の表情から何を読み取ったのか、古泉は薄い笑みを浮かべた。
「ええ。お察しのとおり、彼女の存在は我々能力者と『機関』の専門分野のうちにあるものでしょう。おそらく、涼宮さんとは切っても切れない関係にあるのだと思いますよ。だからこそ、『五人』と言われてコハルさんの存在を否定されたように感じ、涼宮さんはあれほど怒った」
「つまりそのコハルさんとやらは、ハルヒが生み出した存在だってことなのか? 閉鎖空間みたいに?」
「ええと……そうですね、ひとつ手がかりを提供しましょう。見た目はまったく変わっていませんが、今現在、あの部室は空間としての質が変わってしまっています。ああ、他の場所より構成要素が多様で混沌としているのはいつものことですが、そうではなく。いつもなら重なり合って存在していても決して混じり合うことのない他次元との壁が曖昧にほどけかけているような状態です」
……どこが手がかりなのかもよくわからん。簡潔に言え」
「現在、文芸部室は、半ば閉鎖空間化しているのですよ。我々能力者だけに感知できる……そうですね、閉鎖空間の気配とでも言うべきものが一定の濃度で混入しているのがわかるのです。そしてここからは、『わかってしまった』部分ではなく、あくまで僕の推測になりますが──」
 古泉は、これは困りましたね、とでも言うかのように苦笑した。
「コハルさんはおそらく、《神人》です」



 《神人》の様子がだいぶ変わってきているというのは、古泉から何度か聞かされていた。どうも、だいぶ前に俺の言ったことが偶然にも真実を突いていたらしく、それにいたく感心した古泉は、俺への報告義務を感じているらしかったのだ。聞いて不快になる話でもないので、いつも古泉の話すままにすべてを聞いてやっていた。
 小学生ほどのサイズにまで小さくなったとか。一度に一体しか現れなくなったとか。古泉にしか見えないことがあったとか。細かいことをいちいち話してくれる。親戚の子どもの近況を聞かされるのに似ていたかもしれない。
 最初は暴れるばかりだったのが、戸惑うことを覚え、コミュニケーションを希求し、遊び相手を選んで知恵を尽くして鬼ごっこ、だ。微笑ましささえ覚えるエピソードである。
 それが閉鎖空間を飛び出して、現実世界に現れた、となると、どういう意味を持つのだろうか。
 影のような存在がオリジナルとは別の自我を獲得して入れ替わり、または独立を計る、なんてのは、マンガや小説ではよくある話だが、もしや、そういうことなのだろうか? だとしたらハルヒはどうなるんだ?
 俺の妄想めいた懸念に対し、古泉は「はて」と首を傾げた。
「たしかによくある話ではありますが、僕の実感としては、それはない、と思います。まだ、そこまで強い自我を獲得してはいないと思うのですよ。昨夜までは、数時間の鬼ごっこで満足して、そのたびに消滅していたくらいですからね」
 とりあえず様子見でいかがでしょう、と古泉は言い、俺は、専門家の意見に逆らうほどの主張を持たなかった。
 ちなみに、踊り場で雨を避けながら、朝比奈さんと長門にはメールで現状を送信していた。ハルヒの目を盗んで朝比奈さんに意見を求めると古泉に一任すると言い、それは予想どおりだったのだが、何と長門も同意見だったのには少し驚いた。
「まかせる」
「えっ、それは僕に、ということですか?」
 古泉は俺以上に驚いていた。
「そう。今回のケースについて、もっとも多くの知見と経験を持つのは古泉一樹、あなたである。あなたが解決にあたるのが妥当。わたしでは、少し強引な手段を用いることになる。それは、あまり良くないこと」
「そうですか……責任重大ですね」
 SOS団の最終兵器から事態を託された古泉は、緊張した面持ちで背筋を伸ばした。俺が同じような事を言ったときには、「では、おまかせください」などと笑っていたくせに、ずいぶん態度が違うじゃねえか、この野郎。
 俺は、しゃちこばった背中を叩いてやった。
「あんまり固くなるなよ。『お守り役』」
「ああ、そうか。そうですよね」
 古泉は、ふっと息を吐き、
「いつもどおりに『お守り役』として、精一杯を尽くさせていただきます」
 と、まじめくさった顔をして言った

 とはいえ、閉鎖空間での《神人》と違い、「コハル」はなかなか動かなかった。古泉によると、ハルヒのそばでじっとしているか、窓辺で外を見ているかのどちらかなのだそうだ。
 その日はそれで解散となり、そして翌日も同様だった。
「また、外を見ていますね。おとなしいものです。長門さんの席のすぐ横です」
 ハルヒの目を盗んで古泉が囁く。ちなみに『機関』からの指示も、様子見で古泉に一任、というものだったらしい。近頃の『機関』は、古泉ひとりが働いているように思えるな。状況的に仕方のないことではあるが。
 現在ハルヒは、長門と古泉の持ってきたプレゼント包みを段ボール箱に詰め込む作業に夢中である。ちょっとやそっとの内緒話を気にするような様子ではなく、俺は安心して古泉との会話をつづけることができた。
「表に出て遊びたい、ってわけでもないのか?」
「どうでしょうか。積極的に外に出て行こうとする様子はありません。半閉鎖空間化しているのは部室の内部だけですね。もっと行動範囲を広げたければ閉鎖空間自体を拡大するのでしょうが、今のところその気配はありません。まあ、外は雨が降っていますけど」
 左様、本日も雨である。
「雨模様ばっかり見てても、飽きるだろうになあ」
 おかしなことに、姿の見えない「コハル」という少女に、そこはかとない情を抱きつつある。古泉から聞かされる年格好が、妹とそう違わないというのもあるのだろうか。我が妹とは段違いにおとなしい性格をしているようだが。
 この子に満足してもらうには、何をしてやったらいいのかね。
「キョン! そういえばあんたの分はどうしたの?まさか忘れたとか言わないでしょうね? 今日が期限だって言っといたでしょ? あたしも今朝イチで入れといたわよ。あとはあんただけになっちゃったわよ」
 どうやらプレゼントを仕舞い終えたらしく、ハルヒがつかつかと寄ってきた。
「いや、今日も雨だろ」
「雨だわね。でも、だからどうしたっていうの?」
 きつく腕を組み、言い訳は許さないとばかりに睨みつけてくる。ヘビに睨まれたカエルの気持ちはきっとこんなだろうと思ったが、俺にはちゃんとした理由があった。プレッシャーをはねのけて言い訳をする。
「結構でかいっつーか、雨に濡れたらまずそうなもんが入ってるんだよ。仕方ねえだろ。まあ、聞け。この週末、どうせ部室で古泉に勉強教えてもらうことになってるんだ。明日か明後日か、晴れたら持ってきて自分で入れておくからさ」
 団長様のありがたいお心遣いにより試験勉強用に与えられた貴重な二日間を無駄にはすまい。というか、昨日、古泉を部室から連れ出す言い訳にしてしまったのがあだとなった。古泉の積極的な申し出により、二日間びっちりのマンツーマンコースという予定が決まってしまったのだ。
「それなら、まあいいわ。あとで何日のボックスが空いてるかメモってあげるから。それを見て詰めておいてよね。でも、月曜日の朝にチェックして、ちゃんと入ってなかったら罰ゲームだからね。覚悟しなさい」
「へいへい」
 おれは即座にてるてる坊主を作り、部室の窓に吊すことにした。雨が止まずに罰ゲームというのも困るし、かと言って土砂降りの中を大荷物抱えて歩くのも嫌だ。それに──。
 見えないけれど「コハル」がいるらしき場所をじっと眺める。
 この子に晴れた空を見せてやりたいな、なんてことも思ったのさ。



 俺のてるてる坊主が効力を発揮した……のかどうかはわからんが、十一月最後の土曜日は、雲ひとつない晴天だった。絵に描いたような小春日和である。
 数学と英語の教科書、問題集、参考書。それから、忘れちゃならない、アドベントカレンダー用のプレゼント一式を持って家を出た。
 昼飯は自宅で済ませたい、という俺の意向により、部室での待ち合わせは午後イチ、十三時ということになっていたが、出がけに妹に捕まった。遅れを取り戻すべく猛烈に自転車を漕ぎ、慌ただしく駐輪場にぶち込み、息を切らして坂道を駆け上がったが、えんえんと上り坂のつづく通学路は攻略し難く、結局、到着予定時刻に若干遅れた。
 これで相手が谷口ならば、お互いに多少の遅れは承知の上だ。しかし何せ、古泉である。日頃、SOS団の集合場所に、何分前から来ているのかもさっぱりわからない男だ。あまり待たせるのも悪いと思い、俺は相当焦っていた。
 大荷物を両手に抱え、旧館の階段を二段飛ばしで昇っていく。たぶん、勢いが付きすぎていたのが悪かった。ちょうど三階に到達したところで、部室のほうから足早に出てきた古泉とあやうく激突しそうになり、うまくブレーキがかけられなかった。
「わっ」
「あぶな……ッ!」
 すんでのところで身を捻り、よけたところまでは良かったのだが、うっかり足を滑らせた。あわや階段落ちかと覚悟を決めかけた時だった。伸びてきた手にぐいと手首を掴まれて、俺の身体は落下を止めた。古泉は勢い余って尻餅をつき、俺は片手を引かれたまま、階段にへばりつくようにくずおれた。膝をしたたか打ったものの、他には外傷もなさそうだ。
「す、すまん。助かった」
 何とか上半身を引き起こしながら見上げると、驚くほど必死で蒼白な顔をして、古泉がこちらを見下ろしていた。まぶたを見開き、わなわなとくちびるを震わせている様子は、まったく普段の古泉らしくない。初めて目にする表情だった。
「古泉?」
 俺の呼びかけにはっと興奮を収め、長いため息を吐き出しながら、片手で顔を覆ってしまう。
「勘弁してください……
 つぶやく声もどこかかぼそげだ。
「あなたにとっては捏造された歴史かもしれません。でも僕たちにとっては……僕にとっては、一年前にあなたが階段から落ちて意識不明の重体になったのは確固たる事実なんです。あの三日間のことを思い出すだけで背筋に怖気が走る……
 かすかに震える声に、胸の内側をむずむずと撫でられるような感覚が込み上げた。握られたままの右手首を少しずらして、古泉の手のひらをそっと握りしめる。大丈夫だ、と伝えたかった。俺のことでそんなに心を乱しているのなら、きっと収めてやれるのも俺なのだろう、俺であって欲しい、俺でなければならない、と思ったからだ。
 ああ、随分とこじらせたもんだ。最初はただ、ありがとうと伝えたかっただけなのに。
 古泉が、顔を覆っていた手のひらを外す。乱れた前髪のあいだから、今にも泣き出しそうな瞳がのぞいた。そのくちびるが小さく開いて、何ごとかを言おうとした時だった。
 何か大きな圧力が、古泉の背後、部室方面の廊下から、またたく間に迫ってくるのがわかった。
「何……
 次の瞬間、世界は灰色に染まっていた。



 とっさに彼の手を放せば良かったのだろうけど、間に合わなかった。ちょっと放すのがもったいない状況だったせいもある。おかげで、閉鎖空間に彼を巻き込んでしまったのが情けない。
 まるで堤防が決壊するみたいな勢いで、文芸部室を中心に閉鎖空間が一気に拡大した。今まで部室を変質させていた、境界のあいまいなものではなく、完全なる閉鎖空間だ。見馴れた灰色の世界が広がっている。
「おい。もしかして、コハルか?」
 にわかに厳しく硬い声音で、彼が言う。相変わらず手を繋いだままだったが、むしろこれは、解き忘れているのだろう。緊急事態に意識を奪われ、それどころではないということだ。
「だと思いますよ。さっき、彼女が部室を出ました。初めてのことです。僕はそれを追いかけようとして、あなたとニアミスを演じてしまったんです。……やっぱり、鬼ごっこがしたいのかな?」
 だとしたら、昨日も一昨日も部室から動こうとしなかったのに、なぜ今になって? という疑問は残る。
「とにかく、コハルさんを探します。それ以外にやりようがない」
 名残惜しいが、さりげなく彼の手を解いて立ち上がった。今ひとつコハルさんの意図が読めないが、ここが閉鎖空間である以上、僕は、僕の役割を果たすだけだ。
「俺も行く」
 驚いたことに、そう言って彼も立ち上がった。
「何ですって?」
「巻き込まれたのも何かの縁だろ。それに、閉鎖空間の中だったら、俺にもコハルが見えるかもしれない。会ってみたいんだ」
 にやりと笑ったその顔は、これまで何度もSOS団と世界のピンチを切り抜けてきた、世界一頼れる一般男子高校生の顔だった。信頼できる味方の存在が、どれほど有り難く心強いか──それは、僕がSOS団を通じて知ることができたいちばん大きな真実だと思う。涼宮さんはもちろんのこと、朝比奈さん、長門さん、そして彼。
「それでは、ご助力お願いします」
 僕は心から微笑んで見せた。

「最初に現れたのが文芸部室で、そのまま丸二日閉じこもっていますからね。学校の外にまで出ることはないんじゃないかと思うんです。比較的、範囲が限定されているので、しらみつぶしも有りですが、あちらも移動はするでしょうから、できればヤマは張っていきたい。最近、涼宮さんが気にされていた場所やものごとなんかがあれば、ぜひとも、教えていただきたいんですよ」
 とりあえず二年五組の教室に向かいながら、僕は《神人》との鬼ごっこのコツについて、ざっと彼に説明をした。
「って言われてもな」
 彼は難しい顔で首を捻る。
「最近ハルヒが気にしてたっつったら、そりゃ例のアドベントカレンダーなんじゃないか? でもコハルは部室を出て行ったんだよな?」
 そうなのだ。僕の意見も彼と同じだ。もし、この閉鎖空間がいつもような発現の仕方をしていたら、おそらく僕は文芸部室で《神人》を待ち伏せたことだろう。ちょうど三日前の夜のように。けれどもコハルさんはその部室から外へ出て行った。
「何か他に、か……何にも思いつけねえな」
 重い扉をがらりと開け、五組の教室に侵入する。
 窓際の一番後ろが彼女の席だ。一年生の時とは校舎が変わり、パノラマ写真のように見事な風景を望むことはできないが、それでも、中庭を見下ろすことができ、空を見上げることができる。特等席と言えるだろう。ただし今は、すべてが灰色に閉ざされているが。
「そういや、お前、コハルが窓の外ばかり見てるって言ってたけど、ハルヒも結構そんな感じだな。ただし、この席に座ってりゃ誰でも外を見ていたくなるだろ。特に退屈な授業中なんかは」
 それは確かにそうかもしれない。僕自身、席替えで窓際を引き当てた時には、空を見上げることが増えていた気がする。涼宮さんとセット状態で常に窓際に座る彼は、そうそう、と笑って言った。
「何でだろうな。やっぱ空見るよな。いちばん変化があっておもしろいからなのかね。今日なんかは、雲ひとつない青空だったから、逆につまらないかもしれないが……って、あっ」
「何です? 何か思い出しましたか?」
「そういや、おとといの朝だったか、青空が見たい気分だとか言ってたな、あいつ」
「青空、ですか……
 部室の窓辺にぽつんと座って、じっと雨模様を眺めていた、コハルさんの後ろ姿を思い出す。もしかしたらあれは、青空を待ち焦がれる姿ではなかったか。
「なるほど、青空の見える場所を探しましょう」
……探さなくても、そんなの山ほどあるんじゃないか? 逆に、絞っていった方がいい」
「ではまず屋上からです。次に新館のベランダと窓、それから中館のベランダと窓、旧館は最後でいいかもしれない。とにかく、眺めがいいと思われる順に……
『──古泉くん、早く!』
 やにわに、僕の言葉をさえぎって、誰かが僕を呼んだ気がした。涼宮さんにとてもよく似た、けれどもだいぶ幼い声が、どこからともなく降ってきた。僕はきょろきょろと天井を見上げた。
「どうした、古泉?」
 彼が心配そうにこちらを見ている。どうやら僕にしか聞こえないようだ。
「呼ばれました」
「呼ばれた? コハルに?」
「おそらくそうです。たぶん方向性は間違っていません。とにかく急いで屋上に上がりましょう」

 さて、北高には校舎が三つある。つまり屋上も三つということだ。旧館はもっとも校舎が低く、面積も狭い。何より手すりがついていないため、基本的に屋上侵入禁止となっている。
 残るは新館と中館で、これはどちらも四階建て、その他の条件にも大差はない。少し迷ったが、校庭側、つまり開けている方に面している新館を選んで階段を昇った。
 ぐるぐると無言で昇りきり、突き当たりの重たい扉を開く。閉鎖空間の便利なところはこういうところだ。たとえば、あらゆる場所のカギというカギが機能しておらず、どこでも好きなように出入りができる。
 灰色の空の下、灰色の屋上は、やたらと平板でだだっ広く見えた。その中央に、ちいさなちいさな背中が見える。ウエストあたりまで伸ばした長い髪も、ひざ丈の薄地のスカートも、風になびけばさぞかしきれいに見えるだろうに。残念ながら、ここは風の吹かない世界である。
……あれが、コハルか」
 ひっそりと彼がつぶやいた。
「見えましたか。よかった。会えましたね」
「ああ。そっくりだ」
「涼宮さんに?」
「そうだな」
 僕たちがゆっくりと近づいていくあいだ、コハルさんは一度も振り返らなかった。逃げ出すこともなかった。僕が左に、彼が右に、ぴたりと彼女の両脇に立つと、ようやく順番に僕たちを見上げる。
 僕は、右手を差し伸べた。赤い光はまとわずに、だ。おずおずと彼女の左手が伸びてくる。同じように彼の左手とも手を繋ぎ、彼女は嬉しそうにほんのりと笑った。
「残念ながら、このままここで待っていても、永遠に青空は見えません。ほんの少し、境界をゆるめてみませんか? 部室でやっていたように、です。あれより規模が大きいですから、もし難しいと思ったら、部分的にでもいいですよ」
 こくり、とコハルさんは小さく肯いた。
 そして──。
 灰色の空間に、小春日和の青空が滲んだ。
 それは美しい風景だった。圧倒的な空の青が広がりだし、沈んだグレイへのグラデーションになる。
 まぶしさに目を細めつつ、僕は思う。《神人》たちとて、そろそろ灰色には飽きていたのじゃないかな、と。塗り込められた世界に閉ざされて鎮魂されるのを待つよりも、普通に開かれた世界の中に解放されたいと思い始めたのかもしれない。
 視線を落とせば、空からの光と風を浴びて、コハルさんもとてもきれいだった。さらさらと穏やかになびく髪、瞳は空の色を映してきらきらと輝き、頬はうっすらと紅潮している。
 やがて彼女は僕たちの手をほどき、一歩、二歩と前に出た。それから両手を空へと伸べる。あっと思う間もなかった。二本の腕を通路として、空の青が彼女の身体に流れ込む。みるみるうちに彼女の身体はブルーに染まった。
 それは、灰色の世界の中で冷たく発光するコバルトブルーではなく、太陽の光を抱き込んだあたたかな青だ。彼女は生まれ変わったのだ。
 コハルさんはこちらへ振り向き、どうかしら? とでも言うかのように、くるくると二、三度回って見せた。それからどこかいたずらっぽく笑い、ふわりと軽やかに走り出す。微笑ましく見守っていた僕は、すっかり油断してしまっており、すぐ脇を擦り抜けていく青い少女の髪の先すら、つかまえることができなかった。
「あっ、待ってください!」
 慌てて追いかけようとする僕を、まあ待て、お前こそ待て、と引き止めたのは彼だった。
「《神人》との鬼ごっこのコツってやつを、さっき教えてくれただろ? あれに間違いがないのなら、コハルが向かった先はひとつしかない。そうだろ、『お守り役』?」
 持つべきものは、信頼できる味方である。僕はにっこりと肯いた。

 僕たちが部室へ向かうあいだにも、閉鎖空間はどんどん規模を縮小した。もちろんその中心部には、我らが文芸部室がある。彼の示してくれたとおり、コハルさんの行き先はあの場所で間違いない。
 ドアは開け放たれていた。それでも室内へ入るとき、僕はうっすらと「境界」を感じた。昨日、おとといとまったく同じだ。この部屋は灰色ではなく、いつもの僕たちの部室だが、半分だけ閉鎖空間と化しているのだ。
「あっ、チクショ」
 背後から入ってきた彼が、残念そうに舌打ちをする。
「しまったなぁ。……いるんだろ?」
「ああ、もう見えませんか。残念ですね。ちゃんといらっしゃいますよ。すぐそこに座り込んで、アドベントカレンダーを見ています」
 美しい青色に染まったコハルさんは、アドベントカレンダーの真正面で、床にぺたりと座っていた。色とりどりに飾られたクリスマスまでの四週間、僕たちの楽しい未来のスケジュールを、熱心に熱心に見つめている。
 僕は彼の背を押して、彼女のすぐ隣に座らせた。そうして僕は逆側に座る。屋上で手を繋いだ時と、同じ配置だ。コハルさんはにこりと微笑んで、左手を僕と、右手を彼と、繋ぎ合わせた。
「今、あなたもコハルさんに手を繋がれているところです」
 そっか、と彼はくすぐったそうに肯く。その笑顔に、僕は泣きたいような気持ちになった。
 彼に言っていないことがある。
 もう部室に入った瞬間から気づいている。
 コハルさんの青は、どんどん色を薄めている。
 僕が赤い光を押し当てているわけでもないのに、どんどん薄くなってしまう。
 見たくて見たくてたまらなくて、二日も窓辺で待っていた。青空を見るためにやって来た彼女は、きっともう心から満足したのだ。閉鎖空間もろとも消えるために、僕の力など必要ないくらいに。
 ──きっと、僕はもう会えない。
 涼宮さんの作り出す灰色の世界にも、その中に閉じ込められた青白い子どもたちにも。『お守り役』はもう、そのお役目を終えてしまった。
 僕はコハルさんの手をぎゅっと握った。もう手ごたえもあやふやだったが、それでもぎゅっと握りしめた。
 ふいに口をついてこぼれ出たのは、幼い頃に聞いた子守歌だった。深い理由があったわけじゃない。ただ、最後まで何かしてあげたかっただけだ。彼女のために。僕のために。
 気づけば彼の低い声が、僕に合わせて歌っていた。土曜日のひとけのない部室棟に、男子高校生ふたりのちぐはぐでおかしな子守歌がゆったりと流れる。十一月の晴れた空に、穏やかなメロディが吸い込まれていく。
 そして、コハルさんは空気に溶けた。閉鎖空間も消え失せた。最後の最後に笑った顔は、コハルさんではなく涼宮さんだったかもしれない。どちらでもいい。コハルさんは涼宮さんで、涼宮さんはコハルさんだ。
 彼女は確かにこう言ってくれた。
『さようならじゃないのよ。わたしはいつでも、ここにいる』、と。



 いつのまにか、古泉は歌をやめていた。それで俺は、コハルが消えたことを察知した。
 こっそり古泉の横顔を窺うと、頬には涙が伝っている。俺にだって、理由はなくともわかってしまうことがある。たとえば、古泉がこんな顔をしているのは、きっと『お守り役』としての役目が終わりを迎えたからなのだろう、ということなんかだ。
 ふと、コハルが座っていた(らしき)あたりに目を遣れば、そこには小さな青色の花が落ちていた。花びらの色はブルー。それは紛れもなく屋上で見た青空のブルー、コハルを染めたきれいなブルーそのものだった。
 俺はその花を拾い上げ、古泉との距離を詰めて座り直した。そして、握手の形のままからっぽになっている古泉の手に、俺の左手を重ねてみる。
 古泉の視線がゆっくりと動いて、俺の横顔に当たるのがわかった。俺は正面を向いたまま、右手で花を差し出した。
……え?」
「コハルのいたところに落ちてたんだ。餞別だろ、きっと」
「そうですか」
 古泉の片手が伸びてきて、ていねいな仕草で花を受け取る。
「これは、部室に飾っておきましょう。何となく、普通の花よりは長持ちするような気がします。それに朝比奈さんにお願いしたら、ドライフラワーにしてくださるかもしれません」
「ああ、いいんじゃないか。賛成だ」
「はい……
 それからしばらく沈黙がつづいた。あまりにも古泉が静かなので、寝てるのかなと思った矢先、おずおずと手のひらを握られる。同時に左肩が重くなった。古泉の髪が頬に触れてきてこそばゆい。俺は思わず立ち上がって走り出したいような気分になったが、ぐっとこらえて、その髪を二、三度、撫でてやった。
「すみません、しばらく……このままで……
……うん」
 じきに、古泉は今度こそ寝息を立てはじめた。四年半に及ぶ大仕事を終えたところなのだ。ほっとして眠くなってもやむを得まい。
 横目で様子を窺うと、口が半開きになっている。まぬけな顔だが好感は持てる。ゆるんでいるのは顔だけではなく、花を取り落としそうにもなっているので、それはひとまず奪い取った。さてどこに置いておこうかと考えて、結局頭にさしてやったが、意外にもかわいく見えて嫌になった。かわいく思えてしまう自分が嫌だ。とことん、古泉をこじらせている。風邪もこじらせたら命にかかわるって言うだろう。きっとそういうレベルだ。

 ──ひとまず古泉が目ざめたら、コーヒーなしでも部屋を訪ねていいかどうかを訊いてみよう。俺は、こじらせすぎた脳みそで、そんなことを思った。

 それからコハルの青い花は、アドベント・カレンダーに仕込むとしよう。コップに水を入れて挿してやれば、数日は保ってくれるだろう。
 月曜の朝、俺のプレゼントをチェックするためにハルヒが部室にやって来る。そうして最初に開くのは、きっと当日の日付のはずだ。一番左の一番上のボックスの、その奥でひっそりと咲いているのは、十一月の空の色だ。


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.