@torino_y

空にうっすらと明るい青がにじみ始めた早朝。真白は音を立てないよう、静かに比良坂家の玄関を開けた。
今日は町の宿屋を手伝いに行く日だ。宿屋の名前は「かじかや」と言った。「蛙塚」の地にふさわしい名前だと思う。
日が昇ってまだ少ししか経っていないというのに、町にはすでに活動を始めている人が何人もいる。町民たちは道を歩く真白を見つけると、みな親しげに挨拶をしてくれた。
「真白さん、おはよう!」
「おはようございます」
「あ、真白くん、おはよう」
「はい、おはようございます」
「おーい! 真白くん!」
少し離れたところから真白の名前が呼ばれた。振り向くと、昨日真白が手を貸した酒屋の主人が手を振っていた。品のある着物を身に着けた、白髪混じりの男性だ。
「酒屋のご主人。どうかしましたか?」
「いや、なに。昨日のお礼をしたくてね。積んでいた酒樽が店の外に転がってしまったときはどうしようかと思ったけれど、真白くんが樽を受け止めてくれて助かったよ」
「当たり前のことをしただけですから。助けになれてよかったです」
「真白くんは本当に良い子だね。あの後、樽を積み直すのも手伝ってくれたし。かなり重かっただろう」
「少し重かったですが、宿屋のお手伝いでも力仕事は多いですから、問題ありません」
「ああ、『かじかや』の。あそこの女将さんも、真白くんが手伝ってくれるようになってからとても楽になったと言っていたよ。今日も手伝いにいくんだろう? 昨日のお礼にうちの酒を渡したいから、仕事の帰りにうちの店に寄っておくれ」
「いいんですか?」
「もちろんだ。助けてもらったらお礼をするのは当然だからね。遠慮せず受け取ってほしい」
「わかりました。ではお言葉に甘えて、頂くことにします。ありがとうございます」
酒屋の主人と別れた真白は、再び手伝い先の宿屋に向かって歩き出した。
少し話をしている間に、町にはさらに人が増えていた。開店準備を済ませた店が徐々に営業を始め、朝ごはんを食べ終えた近所の子供たちが外を走り回り始めている。
その中で、家の屋根を見上げながらオロオロしている子供たちが目に入った。気になった真白は、彼らに声をかけることにした。
「おはようございます。あなたたち、どうしたんですか」
「あ、真白の兄ちゃんだ」
「兄ちゃんおはよう!」
「はい、おはようございます。みんなで何を見ていたんです?」
「えっと……あれ」
子供たちが指差した先には、家の屋根の上で動けなくなってこちらを見下ろしている、一匹のケロロデの姿があった。
「ケロロデ」というのは和の国でよく見られる、カエルに似た魔法生物の名称だ。本物のカエルよりも身体が大きく跳躍力も格段に高いので、何かに驚いた拍子に自分で屋根まで飛び上がって、そのまま降りられなくなってしまったのだろう。
「あの子を心配して、みんなで集まっていたんですね」
「うん……」
「真白の兄ちゃん、どうにか下ろしてあげられないかな」
「心配しなくても大丈夫です。私に任せて下さい」
真白は帯に差していた扇子を抜き取り、片手でぱっと広げた。今日の扇子は黒地に鮮やかな赤い紅葉を散りばめた柄で、真白のお気に入りの一つだ。
子供たちが見守る中、真白は広げた扇子を身体の斜め前に構えた。そして流れるように呪文を唱えた。
「《風よ 運べ ここに導け》」
真白は呪文に合わせ、扇子を仰ぐように一振りした。扇子で起こされた小さな風は、屋根の上でじっとうずくまるケロロデのもとへ向かって吹いていった。
風はケロロデを包むように優しく周囲を回ると、ゆっくりとケロロデの身体を浮き上がらせた。ふわりと浮いたケロロデの姿に、下から見上げていた子供たちから、わっと声が上がった。その様子にくすりと笑いながら真白は両腕を前に差し出し、風に運ばれて下りてきたケロロデをそっと捕まえた。
「はい、もう大丈夫ですよ」
「ケロ~」
「真白の兄ちゃん、すげー!」
「兄ちゃんありがとう!」
「はいはい。さ、この子を受け取って下さい。私はそろそろ宿屋に向かわないと」
「真白の兄ちゃん、本当にありがとう。またね!」
「またねー!」
「ケロケロ!」
子供たちとケロロデに手を振られ、真白は再び宿屋に向かって歩き出した。
比良坂家を出たときにはうっすら明るい程度だった空は、もうすっかり朝の輝きを増して太陽の光がまぶしくなり始めている。
真白がようやく宿屋に着くと、ほかの従業員はすでにせっせと働き始めていた。
「おはようございます。すいません、遅くなりました」
「真白くん、おはよう。いいのよ、まだ全然遅い時間じゃないしね」
「今日は何をすれば?」
「昨日から団体の旅の方がいらっしゃってて、朝食の準備が大変なのよ」
「では厨房を……」
「いえ、そっちじゃなくて配膳の方をお願いできるかしら? 真白くんは重いお盆も一度にたくさん運んでくれて助かるから」
「わかりました」
「ありがとう。今日もよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
真白はほかの従業員たちと笑顔で挨拶を交わしながら、宿屋の中へ入っていった。
こうして周囲の人たちから慕われる優しい人間、……のフリをした比良坂真白の一日が今日も始まった。