@shikanoko_aki
出社する必要がなくなった途端、曜日の感覚が曖昧になった。毎日が休日のような日々は、気を抜けば己を堕落させてしまいそうで。鄧艾は朝と夜、一日二回のランニングを日課に定めた。
業務の引き継ぎ等に手間取っていたら、退職は伸びに伸びて十二月となった。形式的な送迎会は忘年会を兼ねて催され、鄧艾も一次会にだけ顔を出した。
「花、もう捨てないといけませんね」
その時貰った花束を花瓶に生け、テレビの脇に飾っていたのだけれど、それもすっかり枯れてしまった。
「んー……」
すっかり水分の失せた枯れ草を花瓶から、そそくさと取り上げてゴミ箱へと移す。そんな鄧艾の声を聞いているのかいないのか。司馬師は生返事をしながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。
最近、頓に彼はぼんやりすることが増えた。これといった趣味を持たない司馬師は、日がな、特別興味もないテレビ番組を見て過ごしていた。
「お茶、淹れましょうか?」
「……ん」
得られたのは、イエスかノーか判断のつかない曖昧な返答。どうするべきか迷った挙句、鄧艾は自分が飲むついでという名目で、二人分のお茶を淹れるためキッチンへと向かった。
自分にも、老後を楽しむためのこれといった趣味はない。だが、日々の日課と家事をこなしていれば、それなりに充実した日常を送れていた。
司馬師は今日も起床してから、ほとんど定位置を動かない。八十五インチテレビの前。座り心地抜群なソファの中央。
―――もう、ずっと元気がない
という印象を、鄧艾は彼から受けていた。意欲的に何かを成そうという意思が、司馬師からは一切感じられなかった。
以前は、読書をして静かに余暇を過ごしている姿をよく目にしていた。けれど、最近は本を開きさえしない。
一ヶ月ほど前だっただろうか。苛立ち気味にハードカバーの本を壁へと投げつける、彼の姿を目にしたのは。恐らくは、もう文字がよく見えないのだと思う。
「お茶、こちらに置いて置きますね」
テーブルの上。司馬師の右手側へ、マグカップに淹れたお茶を置く。どうやら左側よりは幾分か、右の方がよく見えるらしかった。
今度は返事すらなかった。テレビに集中しているという訳ではないだろう。流れているのは、彼の興味を惹かなさそうな情報系のバラエティ番組のようだった。
思考の邪魔をしないようひっそりと、鄧艾はその隣に腰を落ち着けた。二人で座ってもこのソファは充分な猶予がある。
『見て下さい!この綺麗な海!』
鄧艾は自分のお茶を啜りながら、テレビの声に耳を傾ける。どこかで見たことがある女性芸能人が、大袈裟なリアクションでリポートをしていた。
最初は司馬師同様、鄧艾もぼんやりと画面を流し見ていただけだった。けれど、太陽の光を反射してキラキラと輝く青い海が映されたと同時、その内容に関心を寄せる。
『それでは、今から海中の旅に向かおうと思います!』
場面が切り替わり、リポーターの女性が一瞬のうちにダイビングスーツ姿に変わっていた。機能性のみに特化したその格好に、鄧艾は若干の懐かしさを覚えた。
昔は趣味で海に潜ることもあった。一人で山に登ったことも、自転車で本州を縦断したこともある。それらを趣味と呼ぶならば、どうやら自分も昔はそういう類のものを持っていたらしい。
『わあ〜!すごいすごい!!綺麗な珊瑚礁!!』
やたらとテンションの高いリポートに耳を傾けながら、鄧艾は考えていた。いつから、余暇を一人で過ごさなくなったのか。答えにはすぐ辿り着いた。司馬師が定期的に実家へ帰るのを止めた日からだ。
それ以降、よほどのことが起きない限り二日以上、彼と離れて過ごす日はなくなった。自動的に、鄧艾が趣味に割く時間は消え失せた。
『あ、魚!しましまのオレンジ色で、すごい!可愛い!!』
女性の周りを泳ぐ鮮やかな魚は、クマノミの一種だろう。その奥にはスズメダイと、クロベラと。気が付けば思いの外、テレビに熱中してしまっていた。
そこで気配を感じ、鄧艾はハッと左隣を見る。ずっと上の空だったはずの司馬師が、いつの間にかこちらをじっと見つめていた。
『いいですね!海!雄大な大自然って感じで』
度が強い眼鏡レンズのせいで、彼の輪郭はわずかに歪んで見えた。若い頃から視力の悪い司馬師の眼鏡姿は特に珍しくはなかった。が、少し前まで眼鏡を着用するのは家の中だけで、外出時にはコンタクトを用いていた。しかし、今は彼の目に合う度数のコンタクトレンズは存在していなかった。
分厚いレンズ越し、司馬師は瞬きもせず真剣な眼差しで、鄧艾の瞳を魅入られたように見つめる。その視線は何か言いたげに感じられたが、何を伝えようとしているのかは皆目検討もつかない。
『こんな綺麗な海のある街に私も住みたいな〜!!』
明るい声がBGMのように流れる最中で、鄧艾は途方に暮れる。何十年と共に過ごしていたとて、他人の感情を読み取るというのは実に困難だ。全てを言葉で伝えてくれたら、どんなに楽か。
けれど、司馬師は口を開くことはなく。代わりに、緩く広角を上げた。同時、ソファの横、乱雑に積まれた数冊の雑誌が視界に映った。それらは彼が新居探しに使っていた物件の資料だった。
もっと静かな場所に新居を構える。司馬師がそう決めてから、随分経った気がする。理想の物件が見つからないのか、その活動は難航し、今となっては一時中断されていた。
『それでは、コマーシャルの後はお待ちかね!海の幸特集です〜!!』
テレビの音声は既に鄧艾の耳を、右から左へと通り抜けていた。思考は目の前の、司馬懿のことだけに支配されている。近頃、よく彼のことを考える。これも余暇が増えてしまったせいだろうか。
「鄧艾」
不意に声をかけられたせいでか、鄧艾は返事する声を上擦らせてしまう。すると、司馬師がクスリと笑うのだ。そんな他愛のないやり取りを積み重ねて、今があった。
ああ。何の前触れもなく、今、唐突に気付いてしまう。どうして、彼の気持ちを以前よりも気にするようになったのか。それは多分、司馬師が昔のように、要求を自分へ伝えなくなったからなのだろう。
「出掛けようか」
「今から、ですか?」
鄧艾が問い返せば、司馬師はゆったりと頷く。その拍子にズレた眼鏡を、やはり、彼はゆったりとした所作で手直していた。
司馬師が外出を求めたのは久しぶりだったから、少し戸惑ってしまっていた。近頃では鄧艾が買い物に出掛けるのにも、彼は滅多に付き添わない。昔は意味もなく、一緒に着いて行きたがっていたのに。
「……それは構いませんが、どちらへ?」
外出をするのは良いが、目的地は何処なのか。時刻は午後二時過ぎ。遠出をするには、少し遅い時間だ。日が暮れてしまうと、目の悪い司馬師は歩行での移動が困難になってくる。
彼が望むならば、何処へだって連れてゆく。鄧艾の意思に揺るぎはなかったが、状況は刻一刻と変化する。あらゆる制約が、些細な司馬師の我儘さえ叶えることを困難に変えた。
「―――海」
うっかり、聞き逃してしまいそうなくらい静かに。テレビの音量に紛れて、司馬師は呟いた。海に行きたい。思いつきのような望みを口にして、今更ながら、彼は鄧艾の淹れたお茶に手をつける。
そんな一連の動作を眺め、鄧艾は考えていた。何故、急に海など行きたがったのだろうか。今し方、流れていた番組に感化されたにしては、随分と上の空で視聴していたように思う。
「……なんだ。行くのか、行かないのか。返事くらいしろ」
返答を催促する、司馬師の声。しかし、口調の厳しさに反して、そこに苛立ちの色はなく。それどころか、答えなど最初から分かっているという余裕さえ伺えた。
「い、行きましょう!」
そのやり取りが司馬師の意地悪だと知りつつも、鄧艾は彼の機嫌を損ねる前に、と反射的に返事を急いた。自分の反応が想定通りのものだったらしく、司馬師は満足げにフッと笑った。
厚手のコートを羽織って、冷え切った車内に乗り込んだのは一時間ほど前のこと。司馬師の要求通り、海沿へ向かうべく鄧艾は冷えたエンジンをふかした。
目的地を東京湾方面に定めて走ること十数分。助手席から窓の外を眺めていた司馬師が、道路標識を見て呟くように提案した。
「高速に乗ろう」
行き当たりばったりな提案に困惑しながらも、鄧艾は言われた通りに進路を変更すべく、慌ててウインカーを光らせた。そうして何処へ向かうかも曖昧なまま、ひたすら高速を走らせた。
「―――降りるぞ」
高速に乗ると言ったきり、ずっと無言だった司馬師が再び口を開き、述べたセリフがそれだった。かと思えば、またもやそれは急な要求で。やはり、鄧艾は慌てて次のインターチェンジで降りる準備をする。ただ海へ行くだけのはずが気付けば、とっくに県境を越えてしまっていた。
国道に降りれば、そこは海どころか周囲を草木の囲む山中だった。カーナビの地図を頼りに、鄧艾は更に山道を進む。もう少し先へ行けば、海岸沿いに出るはずだった。
「…………」
再び、沈黙が訪れていた。すぐ隣に居る彼へ視線を向けることすら躊躇われて、鄧艾はひたすら運転に集中した。
こんな時、気さくに何気ない話題を振ることさえできない。それは自分の生まれ持った性分であるが故、そこに引け目や疑問を抱いたことはなかった。だが、時折考えることはあった。果たして、自分は彼の隣に必要なのだろうかと。
「……あ、」
下らない思考に囚われていたところへ、司馬師の小さな吐息のような声がやけに響いて、鄧艾は現実へと引き戻される。視線の端に助手席を映せば、先ほどよりも熱心に窓の外を注視する彼の姿があった。
景色が変化し始めた。木々の緑に遮られていた風景は、やがて開けて青に変わる。海だ。少し先、一面に広がる静かな水面を司馬師は食い入るように見つめていた。
「もうすぐ、着きます」
鄧艾の声はその耳に届いているのかいないのか。彼からの反応は何も無かった。
そこから更に数分、車を走らせれば民家や店の建ち並ぶ開けた道に出た。鄧艾は可能な限り海の近くへと向かう。すると、海沿いの道が見えてきた。そこが終着点だった。
「こちらでよろしいですか?」
広めの車道で車を脇に寄せて、鄧艾は一旦サイドブレーキを踏んだ。高台になっている横の歩道に出れば、すぐ下はもう砂浜だった。
浜辺まで降りるというならば、何処か駐車場を探さなければならないだろう。そう考えていた鄧艾が口を開く前に、司馬師はすでに助手席のドアを開けていた。
「あっ。お、お待ちを……!!」
ドアを閉めるバンという手応えのある音に、静止を促す鄧艾の声は遮られた。窓の向こうに、司馬師が歩道と車道を隔てるガードレールを悠々と飛び越えてゆくのが見える。
慌てて車エンジンを切り、シートベルトを外して、鄧艾は運転用の眼鏡をケースにしまう。それから、後部座席へ無造作に放り投げられた彼のコートを手繰り寄せ、一目散にその後を追う。
司馬師は歩道の防潮堤に肘を付き、身を乗り出して海を見ていた。そのやけに熱心な姿は、鄧艾を唖然とさせる。
「司馬師さん、コートを。風邪を召されますよ」
大股にガードレールを跨いで、鄧艾はその肩へ後ろからそっとコートを被せた。司馬師は依然として海へと視線を向けたまま、肩に触れた鄧艾の手に自分の右手をそっと添える。
ただでさえ、ここ最近の寒波は激しいのに。海風はより一層、冷たさを感じさせた。きちんとコートを羽織ろうとしない司馬師に困り果てた鄧艾は、不自然さの無い程度にその背中へ身を寄せた。少しでも寒さが和らぐことを期待して。
「……あの、これから何を?」
潮風に髪を靡かせ物思いに耽る横顔に、鄧艾をおずおずと声をかける。海に行きたいと言う願いは叶えた。だが、それからどうするのか。その指示は一切受けていないのである。
「別に。ただ、海が見たくなっただけだ」
その質問への返答は、実に簡素で素気なかった。そして、妙だとも思った。鄧艾の知る限り、彼はさほど海や自然に興味関心は深くない。“ただ、見たくなった”という理由は、司馬師の性格上あまり納得のいく回答ではなかったからだ。
「好きだろう、海」
不意に、その瞳が鄧艾を映す。少し腰を屈めた格好だったから、司馬師の視線は自然とこちらを見上げるような形になった。
新鮮な目線の高さと思いがけないセリフに、鄧艾は困惑して言葉を詰まらせる。その問に対して、イエスかノー以外の答えなどないはずなのに。何故だか、鄧艾は無意識に別の言葉を探していた。
「……は、はい。確かに好きではありますが」
けれど、結局は無難な返答を述べただけ。彼の言う通り、海は好きだった。しかし、その問答が一体何の意味を成すというのだろうか。
なんの変哲もない鄧艾の受答の後で、彼はわずかに白い歯を見せ微笑む。司馬師吐く白い息がやけに鮮明で、どこか不安を感じさせる美しさを覚えた。
「…………」
また、沈黙が二人の間を流れる。司馬師が視線を逸らさないから、こちらも同様に、見つめ合うことを止める訳にはいかない。
視線をそのまま、鄧艾は少しだけ周囲の様子に気を配る。薄暗くなり始めているとは言え、時刻はおおよそ四時過ぎ。未だ人通りは少なくはなく、当たり前のように自分達の後ろを通行人が横切って行く。
老齢の男が二人で、寄り添いあって海を眺める。客観的に見て、その様子はどのように映るだろうか。時折、感じる第三者の視線を察知していた鄧艾はそれを気にせざるを得なかった。
「……なあ。鄧艾」
「は、はい」
どのような印象を持たれようが、自分は構うことはない。しかし、司馬師は違う。彼は家柄もあってか、体裁や世間体を強く気にする性格だった。故に、鄧艾も自分達が周囲にどう見られているか、自ずと注意するようになっていた。
だから、互いに外で過剰には接触しなかった。なのに、今、自分はその背へ身を寄せている。これは明確な失策だ。そう思い至った鄧艾は、咄嗟に司馬師からわずかな距離を置いた。その、矢先のことだった。
「好きだああぁぁーーッ!!」
仰天した。生涯でこれほど、心臓が飛び出そうなほど跳ねるのを感じたのは、多分初めてだっただろう。
まるで気でも狂ったかのように、司馬師は海へ向かって声の限りに叫んだ。それも愛の告白である。咄嗟に鄧艾は彼の口を塞ぐよう、両手を顔の前に回していた。
「し、し、しっ……司馬師さんっ!?」
自然と鄧艾の声音まで大きくなってしまっていて、当然、周囲の視線はほぼ全てと言っても過言ではないほど二人へ向けられていた。
条件反射気味に彼の口元へ腕を回したせいで、側から見ればその光景は、自分が司馬師の身体を後ろから抱き締めているように見えてしまっていただろう。まさに藪蛇である。この緊急事態に鄧艾は、何時になく焦っていた。
「……ふっ、は、ははははッ」
なのに、司馬師は笑い出してしまうのだ。それも心底、楽しげに。二人きりの時だって、彼がこんな風に声を上げて笑う姿を鄧艾はほとんど目にしたことなどなかった。
いよいよ、鄧艾はまたしても途方に暮れてしまうのだ。今日の司馬師は、その行動のほとんどが実に突飛で、いつもの彼らしくなさすぎたから。もはや、積み重ねてきた自分の経験で対処するのは不可能に近かった。
「し、司馬師さんッ!?その……ひ、人が見ていますので……ッ!」
今更、声を潜めても無意味と知りつつも、鄧艾は声を小さくして司馬師に事の重大さを伝えようとする。
「ああ。知っている」
けれど、そんなことは百も承知であることを、司馬師は笑い混じりに答えた。では、何故。分かっていて尚、彼はこのような愚行に及んだのか。
外野の大半は、自分達への興味を早々に失ったようで、再び視線を戻して各々歩き始めていた。しかし、ごく数人は未だ、こちらをじろじろと観察しているような素振りがある。さて、どうするべきか。その答を出すのは自分ではなく、腕の中に居る彼。
「気にする必要がどこにある?」
司馬師は口元の皺を濃くして笑った。至近距離から改めて眺めると、その変化は鮮明になる。彼は歳を重ねて変わった。それは目に見えるものだけの話ではなく、その内側も含めて。
いつから変わったのだろうか。司馬師の髪に白髪が混じり始めた頃。ほうれい線が目立つようになった頃。すぐ近くのものさえ視認するのが難しくなった頃。全部、全部、鄧艾はその変化をすぐ傍で見届けてきた。
「もう、わたし達に失うものなど何もないのに」
そのセリフはどこか悲嘆めいていたのに、不思議と悲しさを感じさせなかった。一般的幸福という概念に疎い鄧艾が客観的に見ても、目の前の彼はとても幸せそうに思えたのだ。
「……あ、あの。司馬師さん」
「ん」
意を決したような、やたらと神妙な口調で鄧艾が口を開けば、小さく吐息のような返答がある。いつの間か、自分も周囲の目を気にしなくなっていた。相変わらず、幾人かの奇異の視線は感じられた。しかし、己の瞳には彼しか映らない。
「海に行きたいと仰った、本当の理由は何だったのでしょうか」
ぽつりと鄧艾が尋ねれば、司馬師は一旦微笑みを引っ込めて、わずかに驚く。そんな質問をされるなんて、思いもしなかった。そう言った表情をしていただろうか。
その反応は至極、当然と言えた。だって、鄧艾自身ですら困惑していたのだから。自分の内側で、彼の気持ちの断片に少しでも触れたいという感情が生まれたことへ。
「……さあ。何故だろうな」
司馬師はまた、フッと笑ってはぐらかす。そして、くるりと身体を反転させ、再び海へと視線を向けた。彼の白い頬が茜色に染まる。その色で陽が沈み始めていることを知った。
「テレビ画面に映る海を眺めるお前を見ていて、思ったのだ。お前は今、どんな気持ちでいるのだろうかと」
水平線へ沈みゆく太陽を見届けながら、司馬師は物思いに耽るように呟いた。キラキラと陽の光を集めて輝く美しい海。その目を奪われるほどの景色を前に、彼が考えるのは長年連れ添った自分のこと。
「同じものを見れば、それが分かるような気がして……」
司馬師は遠くを見つめたまま、おもむろに片手で眼鏡を外した。それ無しで、もはや彼の視界は太陽と海の境界線も判別することは叶わないだろう。
「……なんてな。そんなことで、お前の気持ちが理解できるのならば、この四十年苦労などしていない」
「申し訳ありません……」
咄嗟に鄧艾が謝れば、こちらへ振り返らずに司馬師はまた、クスリと笑った。こんなやり取りを、その長い年月の中で幾度繰り返しただろうか。
「せめて、見るものくらい同じものを見ていたかったが。もはや、それも叶わぬのだな……」
曖昧な表情を作った彼の瞳は、やけに夕陽で輝いているように思えた。涙が滲んでいるとさえ錯覚してしまうほど。
「―――鄧艾」
熱の籠った声が名を呼んで、鄧艾が返事をするより早く、彼の腕が頭の自由を奪う。その指が眼球のすぐ前を横切って、一瞬、鄧艾は反射的に目を閉じざるを得なかった。
そのわずかな合間、耳に何か無機質なものが触れて、同時に唇へも、温かな感触が触れた。後者の正体はすぐに察しがついた。
「やはり、よく見えないな。お前の顔さえ」
そう言った司馬師がどんな表情をしていたのか、鄧艾には分からなかった。何もかも、ぼやけて鮮明に見えない。強い度が入った彼の眼鏡が、自分の視界を歪ませていた。
鄧艾にはキツすぎるレンズが、何もかもを滲ませて色を混ぜる。彼の輪郭さえ曖昧で、鄧艾は手探りでその距離感を測る。触れた唇の体温は、すでに海風の冷たさでかき消されていた。
「自分にも見えません。貴方の顔さえ」
触れた頬がひんやりと冷たくて、痛々しかった。ぼやけても尚、美しい茜色の景色を前に、鄧艾の脳裏を過ぎるのは、彼の身を案じる言葉ばかり。
「貴方の気持ちなど、いつだって不明確で自分を困らせてばかりだ」
司馬師が苦笑したのを、鄧艾は頬のわずかな振動と気配で察知する。何もかも手探りだ。視界を遮るものが無かろうと、彼の感情を推し量るのは、自分にとってぼやけた世界を歩むのと同じくらい困難であった。
「うんざりしているか」
「いいえ。少しも」
意地悪く吐き出された問いかけに、鄧艾は即答する。手のひらを伝う体温が、少しだけ熱くなった気がした。
「分からなくとも、不安はありませんから」
「……お前は強いな。わたしとは大違いだ」
そう述べるからには、彼には不安が大いにあったのだろう。その不安を与えたのが自分であるという事実に、鄧艾は若干の罪悪感を覚えるのだった。
「だが、わたしも変わったよ。……少しはな」
「はい。知っています」
またしても鄧艾が即答で返せば、司馬師の表情筋がわずかに固くなった気がした。どうやら、こちらの反応に驚いたらしい。
「司馬師さんは変わりましたね。以前よりずっと、雰囲気が柔らかくなられました」
「昔は面倒臭かったとでも言いたげだな」
「そ、そういう意味では!?」
「フフッ。冗談だ」
自分が厄介な性格であることくらい承知いていると戯言のように付け足して、司馬師は独り言のように呟いた。どこか、愛おしげに。
「……そうか。思いの他、お前はわたしのことを見ていたのだな」
そう言葉にされて、鄧艾も自覚する。いつだって、視界には彼の姿を収めていたことに。それは意識的ではなかった。もうほとんど癖のように、ごく自然に。
「少し、安堵したよ」
司馬師の頭が鄧艾の胸へ寄せられて、幾分か体重を預けられる。先ほどの触れるような口付け以降、周囲の視線はぼやけて見えない。
「ずっと、傍にいます」
頭に浮かんだセリフをそのまま、口に出して述べた。同時に、その背中にそっと腕を回して、鄧艾は肩に掛けた上着ごと、前より痩せた身体を緩く抱き寄せた。ごく自然に己の身体が動いたことに、ハッとしながら。これもまた、自分の身に染み付いた習慣だろうか。
「たとえ、同じものが見れなくなろうとも。ずっと」
この滲んだ絵具のような景色ですら、彼は近い内に見ることが叶わなくなる。その瞬間も、自分は司馬師の隣に居るだろう。必要か不必要であるかは己の決めるべきことではない。この腕の中にいる彼。気付けば、車内で感じていた奇妙な不安はすっかり消し飛んでしまっていた。
不安なのは司馬師の方だ。なのに、自分が揺れてしまっていて何ができる。ここ最近の己を振り返って、鄧艾は叱咤する。彼の気持ちなど分からぬ自分にでき得ることなど、元より知れていた。
「……車へ戻りましょう。司馬師さん。陽が落ちきってしまう前に」
黙りこくってしまった身体を辛抱強く抱き締めていたら、小さく頷いたのが分かった。そこで、ようやく眼鏡を外し、それを元の持ち主へと返す。が、彼は拒絶するように、フイと顔を背けてしまう。その面はさらに強く、鄧艾の胸ぐらへと押し付けられた。
「―――司馬師さん?」
司馬師の指が強く鄧艾の服を握り締めていた。そこへ鼻を啜る音が微かに混じって、彼が泣いているのではないかと推測された。どうしていいか分からず途方に暮れた鄧艾は、そのまま微動だにもせず、大人しく次の指示を待つ。
「……なあ。鄧艾」
一向に顔を上げない司馬師を抱き締め続けながら、鄧艾は所在なさげに沈む夕陽を眺めていた。美しい情景は心を揺さぶる。なのに今、自分の感情を動かしているのは紛れもなく彼なのだ。毎度のように鄧艾を困らせるこの戸惑いは、けれど、決して嫌なものではなかった。
その理由を多分、鄧艾は知っている。けれど、言葉で説明がつかないものだから分からないと嘯いているのだ。どうせ、知らなくとも不便はないのだから。
「此処に住もうか」
顔を上げた司馬師の目尻は、少し赤くなっていた。潤んだ瞳に映る鄧艾の姿は、わずかに滲んでいた。そして、自分瞳に映る彼は、背景を彩る夕日より輝かしいほどの笑顔だった。
「―――いいですね」
ほとんど反射的にそう返答した鄧艾の口元もまた、無意識に緩んでいた。突発的なドライブはどうやら、思いの外に功を奏したらしい。
司馬師の視界に映る滲んだ世界の夕焼けと、鄧艾は同一のものを見ることはできない。だけど、この手を握っていることはできるから。ただ、自分にでき得ることを成していれば良いのだと思う。あとは彼の仰せのままに。自分は戸惑わされたり、困らされたりしていれば良いのだ。
そんな他愛のないやり取りを積み重ねて、現在があるのだから―――