@11_syzygy
夕暮れに金木犀がふわりと香った。
どこからだろう。俯きがちに歩いていた碧は頭を持ちあげる。首の筋肉を動かしたことで、通学用のバッグの持ち手が肩にくいこんだ。中には受験用の問題集がぎっしり詰まっている。
「いってえ……」
顔をしかめ、漏れた声に嫌気がさした。
受験用の補習クラスなんて、荷物は重いわ退屈だわで、いいことなんて一つもなかった。疲れた体を引きずって、とぼとぼ歩いていると、しだいに惨めな気分になってくる。
高校には行ったほうがいい。
夏の終わり、雨織町から元の世界に戻る数日前。紅実や晶に言われたのだ。
「行かなくなった私が言うのも変だけど」
と、紅美は慎重に前置きしたうえで、中卒で就ける仕事の選択肢の狭さを説明した。教師がよく言う偏差値がどうの、いい大学がどうのではなく、純粋に碧の将来を案じてくれている。それらの忠告は優しく、正しい。
以前の碧なら反論しただろうが、この夏のできごとを踏まえて己をかえりみると、自立したい気持ちに甘えが含まれているのを認めざるを得ない。
「……紅実はどうするの?」
「今の学校をやめて、大検を受ける。通信制への編入も考えてるけど、ここに居ながら勉強するって、晶さんとも話しあった」
「大検?」
「大学入学資格検定。合格すれば高校をでたのと同じ資格になるの」
「ふーん」
おれもそれがいい、と口走りそうになったが、紅実の真剣な顔を前にして、軽率なことは言えなかった。
父親にも嫌々、高校受験する旨を話してみた。賛成も反対もなく、いずれ仕事を継ぐよう繰り返された。
確認したところ引っ越しの予定はしばらくなさそうだった。とはいえ、幾度も急に住居を変えてきたから信用はしていない。
幸い、近くの公立高校は、碧の成績でも少し頑張れば合格の見こみがありそうだった。お世辞にも頭のいい学校とは言えなかったが、通える候補があるだけありがたい。
担任に頼みこんで受験用の補習クラスに入れさせてもらえると、生活は一変した。
勉強について行くのが精一杯で、雨織町にはしばらく行けそうもない。なんだか自分だけこちらの世界に取り残されてしまったみたいだ。
紅実はどうしてるだろう。大きな瞳が印象的な、少し変わった幼なじみ。やっと仲良くなれたと思ったのに、夏はあっという間に終わりを告げた。約束通り、九月に連れていった次期おばけ金魚たちも気になる。
ぽつり。もやもやした思考をさえぎるように、鼻先につめたいものが落ちる。
「降ってきた」
碧は慌ててケータイを取りだした。
何度もチャレンジしていることがあるのだ。まだ成功した試しがないが、諦めていない。今度こそ、うまくいきますように。
メール画面を開いて宛先を選択する。ボタンをカチカチと連打して素早く本文を打ちこむ。メールなんか、いつもなら手元を見ずに打てるのに、今日は指が震えた。
「いけっ!」
強く念じながら送信にカーソルを合わせて、ボタンを押した。送信中の文字と共に、手紙が飛んでいく絵が三枚ほどのパラパラ漫画のように繰り返されるのを、手に汗握る思いで見守った。いつもここで弾かれてしまうのだ。
送信しました。
そっけない一文が表示され、元のメール画面に戻る。念のため未送信ボックスも確認したが、空っぽだ。メールは正常に送られた。
「よっしゃあ!」
バッグの重みも忘れて、碧は歓声をあげて飛び跳ねた。通行人が振り返ったが、気にならなかった。メールを打っているあいだに雨足は強くなっていた。濡れたアスファルトの匂いが、金木犀と混ざる。
返信はたぶん来ない。だけど、自分が繋がっている場所はある。それがわかっただけでも嬉しくなって、碧は道をまっすぐに駆けて帰った。
*
机の上でケータイが震えた。
数学の参考書に目を落としていた紅実は、はっとして視線をむけた。取り組んでいた数式の深い海から、急に現実に引きあげられた。空気に慣れるみたいに、二、三度まばたきをする。
雨織町は外の電波が届かないはずなのに。着信のランプは点滅している。ケータイを開くと、二匹の金魚の待ち受け画像に被さって、メール一件受信、と通知がきている。
一拍遅れて、町内放送の馴染みのノイズ混じりのメロディーが、少し開けた窓から流れてきた。
「雨」
それなら電波が繋がる可能性がある。ここはそういう町なのだから。
おそるおそるメールの受信ボックスを開いた。町に来てから、当たり前だが誰ともメールなんか交わしていない。
戸端 碧。表示された名前に、驚きと安堵が同時にやってきて、心臓が変な感じに跳ねた。そうだ。碧が向こうに戻るまぎわに、アドレスを交換していた。
『届いた、?げんきしてる?』
雨が降るタイミングに合わせたのだろう。打ち間違いもあるし、焦っていたのが伝わる。たったこれだけの文章なのだが、碧の屈託のない笑顔と声がそのまま送られてきたみたいだった。
『届いた。わたしも、みんなも、金魚も、元気。碧は?』
返信を送ってみたが、ケータイの電波を表すアンテナのマークは一本も立っていない。送信できませんでした、と無機質に突き返された。
繋がるのはわずかな間だけなのだ。何度か試してみたが、結果は変わらない。いつまでもアンテナとにらめっこしているわけもいかず、紅実はケータイを閉じて参考書のうえに突っ伏した。
すぐに続きに戻る気にはなれない。勉強は嫌いじゃないが、黙々と続けていると肩もこるし退屈に思えてくる。
大検を受験するという目標は、ある。しかし、いざ学校というレールから外れてみると、先の見えない暗い道を一人で歩いているのと変わらない。紅実を嫌い、無視と嘲笑を繰り返していたクラスメイト達は、同じレールのうえで団体行動できるという点においては、仲間と呼べる存在だったのだと今になって気がついた。
「碧、次はいつ来るんだろう」
自分から高校受験を薦めておきながら、ついそんなことを呟いてしまった。身勝手で、わがままだ。
彼は紅実の癖や話し方を気にならないとあっさり言ってくれた。嬉しかった。そのままの紅実を受け入れてくれたのは、家族を除けば幼少の頃から付きあいのある晶やミナセくらいだったのに。
構えずに碧と話してみると楽しかった。好きな音楽が似ていた。九月に入ってまたすぐ訪れたときに、金魚たちと一緒にたくさんMDを持ってきてくれた。だからあれ以来、紅実はラジオの電波を求めて雨の団地に行っていない。
MDの中で良かった曲。町であったおもしろい事件。次期おばけ金魚たちのお世話のこと。碧に話したいことばかり、日に日に増えていく。
突っ伏した顔をちょっと上げ、イヤホンに手を伸ばして耳につける。プレーヤーの再生ボタンを押す。軽快なロックが流れてくる。
しばらく聴いたあと、紅実は体を起こす。次に会うときのためにも、自分だって頑張らなければ。
再び参考書の海に潜るため、雨の匂いに満ちた空気を深く吸いこむ。どこかに咲いた金木犀が香った。