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ストーリー:ノー・タイトル

全体公開 8 207 176579文字
2023-01-03 23:07:58

2021年4月24日発行のムーンショットデイドリームに収録のタイトルなしのお話53編です。
書き下ろしは48,49,50,52,53です!

ストーリー:ノー・タイトル
1

「ガネーシャさんは騎乗Aだけど、これはない。何でボク? ここはラクシュミーさんの出番じゃない?」
「ラクシュミーではない理由はお前も承知のはずだが」
「わかってるッスよ! ラクシュミーさんはボクが守るッス!」
王妃をここに連れてくることはできない。わかっている。しかし、自分である必要性もまた見えない。
「カルナさん。ボクは部屋に戻りたいッス」
「戦わねば戻れないと知れ。そしてガネーシャ神よ。オレはお前を放すつもりはない」
「い、言い方」
闘志をみなぎらせるカルナに、ガネーシャ神は若干引いた。彼女はさっさと降参したいのだが。
身じろぎを察したのだろう。カルナがしっかり捕まっていろと言う。
「オレにはお前が必要だ」
「そりゃまぁ、そうッスけどね? ひとりじゃ無理だし」
ガネーシャ神はカルナの背で項垂れた。何故に自分はカルナに背負われているのだ。ほぼ裸のような格好、もとい水着姿で。
(太陽が眩しいッス)
ハハッと彼女は空を仰いだ。
誰が作ったかは知らないが、やって来たよトンチキ特異点。
キラキラ水面がサンシャイン。水着騎馬戦なんていつの時代だ。ジナコはアーカイブでしか見たことがない。「ポロリもあるよ」なんて、マスターの教育に悪すぎる。
そのマスターはマシュに背負われているのだが。「先輩はわたしが守ります!」両手を握って意気込むマシュが優勝でもう良いじゃないか。
しかし、そこはタダで負けるわけにはいかないのだ。それが仕様。彼女としては不戦敗といきたいが、カルナがやる気なのだ。
太陽が頭上にあるからだろうか? 水浴びというシチュエーションだろうか? それとも――
「準備は良いか?」
「良くはないけど行くしかないでしょ! ランチャー組、出陣ッス!」
水着も真夏の太陽も、眩い水面もとことんパリピでガネーシャさんの中の人的に辛いしかない。でもだがしかし。
ジナコさんは、カルナとコンビで戦わない、というわけには、ちょーっといかないのだ。




理由はない。あえて言うなら楽だから。
他のサーヴァントもしているのだし、咎められることではないはずだ。だいいち、カルナだって同じなのだ。
ガネーシャ神は、両肩におかれた腕を見る。彼女の肩を包んでしまう手は、しっかりと力が込められていた。振りほどける予感はまったくない。
何なのだ。自分は良くてガネーシャ神は駄目なんて、横暴が過ぎないだろうか? ガネーシャ神は、自らを抑えつけてくるサーヴァントを見上げた。
「カルナさん。手、どけて。今のボクはもう一歩も歩きたくないんスよ」
「駄目だ。許容できない」
「駄目って、おかしいでしょ。何でカルナさんの許可が必要なんスか! マスターならわかるけど、マスターは良いって言ったもん!」
ギャンッと彼女は叫んだ。カルナは揺らがず、駄目だの一点張りである。
「が、頑固。そして理不尽! どーしてボクはダメなんスか! カルナさんだって同じじゃん! 浮いてるじゃない!!」
ガネーシャ神はカルナを上から下まで見ると、「ほら!」とその足を指さした。
地面からほんの五センチ程度だが、カルナは浮いていた。これはサーヴァントには珍しいことではない。エーテル体であるサーヴァントに、物理法則などあってないようなものである。
カルナは戦闘時、あるいは日常においても浮いていることがあった。月ではそうではなかったので、魔力が十分に供給されているからこそなのだろう。依り代的に思うところは大いにあるが、今はそれは横においておく。
あれ、便利そう。
音もなく移動する姿に、ガネーシャ神はフムフムとガネペディアを検索した。それは神霊の疑似サーヴァントである彼女にも可能だった。
戦闘時は神霊のサポートに頼っているが、魔力操作のコツを覚えれば意外とできる。使う魔力も微量で、彼女自身で補える量だった。最初は上手くいかずにひっくり返ったりなんだりしたが、終わり良ければすべて良し。
彼女は人類の夢ともいうべき、空を飛ぶ――というには低空飛行と言ってはいけない――を満喫していた。それがカルナにバレた。
本日、カルデアにて。カルナは宙に浮いているガネーシャ神をマジマジと見ると、ガッと肩を掴んで来た。ものすごい距離の詰め方だった。敏捷Aすごい。縮地かと思った。
「何をしている」
ガネーシャ神は「?」と疑問符を頭上に大量生産した。
「何をって、部屋に戻るところだけど。今日のボクは完全オフッ! カルナさんも知ってるでしょー」
「それは知っている。怠惰を極めることに熱意を傾けるあまり、歩くことを忘れたのか」
「ははーん? 唐突に何言ってるの? ガネーシャさんはそんな天然キャラじゃないッスよ。ボクまでボケに回ったらインドのツッコミがいなくなるじゃない」
「ならば何故、歩いていない」
「何故も何も……浮いてる方が楽だから?」
答えたガネーシャ神に、カルナは「諾しがたい」と言った。諾しがたいのはこちらである。どうしてカルナの許可が必要なのだ。彼女の返事はもちろんお断りである。
それからずっと議論は見事な平行線だった。そろそろ結論を出したい。何故なら今日のガネーシャ神は完全オフ。明日はまた周回が待っているのだ。タイム・イズ・マネーである。彼女は両肩を抑える手をペチペチと叩いた。
「なんでそんなに頑ななんスか。便利だし、使わないとかもったいなくない?」
「オレが運ぶ」
……何ですって?」
「利便を求めると言うならば、オレがお前を運ぶ。いつでも呼ぶと良い」
「いや、意味わからん」
「オレにもわからない。だが、お前が神霊のように振舞うのは――
カルナはそこで言葉を切ると、ガネーシャ神を見つめた。
(アタシが誰かわからないくせに)
カルナは〈ジナコ〉に話すのだ。
まったくカルナは容赦がない。「ガネーシャさんは神霊サーヴァントッスよ?」なんて、おどけられなくなってしまったじゃないか。
「意味はミリもわからないけど、わかったッスよ。歩けばいいんでしょ。歩けば!」
「オレが運ぶという選択肢もある」
「それはない。お断りッス」
言い切ると、カルナは「何故だ」と首を傾げた。何故も何もない。ジナコはカルナの言うことを一つ聞いたのだ。二つはない。
まぁ、空を自由に飛びたいなーとなったら頼むかもしれないけれど。カルナは自分が浮くのはアリなのだ。
(一回くらい、見てみたいし)
カルナが見ているモノを、同じ高さで、同じ視点で。ほんの少しだけ。
それはでも、最後の楽しみに取っておこう。

せっかく練習したけれど、空を飛ぶ生活は終了である。




大変だ。カルナが引きこもった。由々しき事態である。
引きこもりはガネーシャ神たちオタクサーヴァントの専売特許であり、大切なキャラづけである。トップサーヴァントが手を出して良いものではない。
「カルナさんは十分すぎるぐらいにキャラ立ってるから、引きこもり要素とか要らないでしょ。ほら、早く出てくる!」
ガネーシャ神は床にデデーンと出現したピンクの塊――黄金の鎧のモフモフに話しかけるという珍事に見舞われていた。どういう事態だ。そもそも何故にカルナは引きこもったのだ。彼女にはまるで心当たりがないのだが、マスターがガネーシャさんに頼みたいと言うのである。
なぜぇ……? となったが、本日の周回免除となれば受けようものである。もういっそ放っておこうか。存在感はすさまじいが。
「ていうか、ここボクの部屋なんスけど、人の部屋で引きこもるって自由が過ぎない……?」
彼女はううんと天を仰いだ。
カルナのことである。いつまでも引きこもってはいまい。だが放ってもおけない。
彼は基本的に思考回路が根暗である。人知れず、ズゥンと落ち込んでいたりする。表情筋が仕事を全放棄しているのでわかり辛いけれども。しかたがない。それがカルナさんである。キャラが立っている。
サーヴァントは誰も彼もがキャラが立ちすぎ摩天楼だが、カルナが埋没する気配は微塵もない。現在進行形で新しい属性を獲得しようとしている。本人にその意図があるのかどうかは知らない。
しかし、カルナに引きこもり属性を習得させるわけにはいかない。オタクサーヴァントの立つ瀬がない。こちとら陰キャである。新規属性の獲得など無理にもほどがある。
別にキャラを立てたいわけではないが、色々と困ることもある。マテリアルとか。ただでさえバグっているのに、カルナのコピペになったらどうしてくれる。
「引きこもってちゃ、スーリヤパパにも会えないッスよ~」
ガネーシャ神はモフモフに説得を試みた。
炎のように揺らいでいるが、これはモフモフだろう。
一見、柔らかそうに見えるカルナのモフモフだが、絶対防御を誇る黄金の鎧の一部分である。彼女が引っぱった程度ではビクともしない。カルナはガネーシャ神が石像に籠城を決め込むと、いとも容易く流れるようにかち割ってくるというのに。
「カルナさん。ほんと、どうしたんスか」
尋ねても返事はない。カルナはガネーシャ神の独り言にすらガチでレスをしてくる。本当にどうしたのだ。
まさかと思うが冬眠か? いや、今の季節なら夏眠だろうか?
ガネーシャ神の脳裏にハリネズミの飼育方法が唐突に舞い降りた。
寒すぎても寝る。暑すぎても寝る。それがハリネズミである。カルナとの親和性も高い気がしないでもない。白くてトゲトゲしているところとか。
「ヤバッ……ツボに来たっ」
ブフッとガネーシャ神は噴き出した。
今のカルナはモフモフに引きこもっているし、もう何かそうとしか思えなくなってきた。お腹を抱えて笑う彼女は、本当はカルナが引きこもる理由に心当たりがあった。
昨日のレイシフトで彼女はカルナを庇った。
それはマスターの指示であったし、彼女も最善ではないが最良だと思った。カルナを戦闘不能にするわけにはいかなかった。ガネーシャ神の性能は、単騎決戦に適していないのだ。
マスターを失いたくない。ジナコだって死にたくない。だから彼女は身を盾にした。次の槍が届くと信じて。
「拗ねてないでさ、いい加減出てきてよ。今ならガネーシャさん独り占めッスよ?」
ぶっちゃけずとも、引きこもりたいのはジナコなのだ。死に近づいた恐怖は背中に張りついて、いつかいつかと、襲いかかる時を待っている。でもカルナがこの状態なのだ。
笑ったことで浮かんだ涙を拭うと、彼女は籠城を決め込むカルナの隣にぺたりと座った。
「ねぇ、カルナさん。怖かった?」
――怖かった」
「そう。一緒ッスねぇ」
黄金の鎧が正規の位置に戻る。出てきたのは、なんだか触れるものすべてを傷つけるぞと言わんばかりのハリネズミのような英雄。さすがカルナさん。属性渋滞に余念がない。だけれど、彼のトゲは全部自分に向かっているのだろう。
ようやくまみえた人に、その表情に、彼女はへにゃりと笑ったのだ。




ギュッと寄せられた眉。引き結ばれた唇。榛の瞳は一度もカルナを映さない。
険しい顔をしたガネーシャ神を前に、カルナの万策は尽きつつあった。元より、人を喜ばせることに長けているとは言えないカルナである。
場を華やげるような芸事は持たず、軽快な話術も豊かな話題も持ち合わせていない。人並みにできることと言えば戦うことで、しかしそれが彼女の歓心を買うとは思えなかった。カルナが少し負傷しただけで、顔を蒼褪めさせる相手だ。
『少しって、なに、言ってんの……? 現界ギリギリなのに大したことないって。冗談も休み休みにしてよ! 我慢強いにも限度があるんだから!!』
ガネーシャ神は全身でカルナを責めた。
魔力の供給に問題はない。すぐに損傷の修復は終わる。教えても、ガネーシャ神は癇癪を起した幼子のように身を戦慄かせた。
『いつもいつもカルナはそう! 勝手ばっかり!! 見せつけられる身になってよ……っ』
その『いつも』とは果たして『いつ』の話であるのだろう。
カルデアにある今か、インド異聞帯か、それとも――
カルナに耐えているという意識はなかった。もしかしたら、と感じることはあった。だがそれは戦場にあれば当然のことだ。怯むことはカルナの矜持が許さなかった。できるならば、それは果たすべきだった。英霊として刻まれ、サーヴァントとして召喚されたならばなおこのこと。
彼女はカルナを見ない。頑なに俯いている。息を殺して、じっとカルナが去るのを待っている。薄暗い部屋には青白いディスプレイの明かりと、電子機器の排気音だけがあった。
彼女の膝の近くには、ロールケーキがひとつ置かれていた。料理を得手とするサーヴァントたちが作ったものではない。個包装されたそれは、彼女と同クラスのサーヴァントに対価を払って手に入れたものだった。■■■と話すには必要なものだった。
「オレは戦うことしか能がない。お前がオレを厭うのは当然だ」
俯いた肩が震える。カルナは彼女の笑う顔よりも、泣く顔を知っていた。
春の花のようなふてぶてしい笑みを施されるには、カルナはきっと何もかもが足りていない。
カルナはマスターのように、彼女に日常を与える感性を持たない。刑部姫たちのように、喜びを共有する嗜好も持たない。欲しいと思うのは、過ぎたことだ。
戦うこと以外はカルナには何もない。それで良い。それ以上はカルナの手に余る。生きている間で十分に知ったのだ。それなのに――おかしなことだった。
カルナは彼女から離れたくなかった。戦うことしかわからない愚かさで、戦いを恐れる相手を欲しがっている。
「オレは身勝手だ。お前を傷つけると知っているのに、望んでいる。オレは、キミの傍にいたいんだ」
淡々と告げるはずだった。でも唇を割ったのは、思うよりもずっと弱い声だった。死者の影が願うには、人肌の感情があった。
……いていいよ。いてくれなきゃ、困る。ねぇ、カルナさん」
名を呼ばれ、カルナは怯んだ。震える声に心臓を掴まれるような、ゾッと背筋が粟立つ気さえした。
それは恐怖と名づくのだろう。でも呼ばれたならば、答えたい。彼女がカルナを呼ぶということ。その得難さをカルナは知っていた。
「何だろうか」
「アタシはあなたが怖いよ。あなたはおいていくことに慣れ過ぎてる。少しは、怖がってよ」
大きな瞳がカルナを見上げる。
恐れは知っている。
カルナは彼女をおいていくことが怖い。傍にいられないことが怖い。逢えないことが怖い。
いつか、我が身を惜しんでしまいそうで怖い。

――彼は、カルナを変えるジナコが怖かった。




嬉しげに撓む双眸に、ガネーシャ神は視線をさまよわせた。前々から感じてはいたのだが、これはやっぱりおかしいと思うのだ。
「あの、ジュナオ君」
「なんでしょうか?」
「ガチ見が過ぎると思うんだけど」
恐る恐る告げると、アルジュナ・オルタはパチリと黒目がちな瞳を瞬いた。
「いけませんか?」
「ガネーシャさんは、基本引きこもりなんスよ~。ジュナオ君は自分の顔面が宝具であることを理解してくださいッス」
……私の宝具は蘭陵王とは異なるのですが、わかりました。彼に神性はありませんが、できないことはありません」
「なにが!? 詳しくは知りたくないから聞かないけど、それはストップ!! インドvs中華は断固拒否ッス。あとシレッと論点をずらしてこない!」
意識して厳しい顔をつくったガネーシャ神に、アルジュナ・オルタは瞳を揺らした。叱られた幼子のような姿に、ささやかな良心が白旗を上げそうになる。
「私は貴女に供物を捧げました。少しもいけませんか?」
「供物って……
その供物が困りものなのだが。
ガネーシャ神は、自らとアルジュナ・オルタの間に視線を合わせた。
カルデアのオープンスペース。椅子とテーブルだけのこじんまりとした空間で、彼女はバーサーカーと向かい合って座っていた。
テーブルの上には籠に入ったきつね色のスコーン。アルジュナ・オルタが授かってきたものである。異聞帯でもやはりアルジュナ。彼は良くお菓子をお裾分けされていた。おばあちゃま系サーヴァントや、キッチンカルデアの面々、マスターからの時もあった。
お菓子を手にした彼は、ガネーシャ神にそれを横流し――もとい、供物として捧げてきた。当初は意図が読めずに警戒したが、アルジュナ・オルタが渡してくるのは本当に普通のお菓子だった。
『君がもらったんでしょ。食べないのは礼を欠くってやつッスよ』
『それは、そうなのかも知れません。ですが私はあらかじめ、貴女に渡すと告げています。私は貴女に食べて欲しい』
『いや、なんでよ』
『貴女はとても美味しそうに食べるから』
だからと、アルジュナ・オルタはガネーシャ神に甘いお菓子を渡した。チョコレートの挟まったバタークッキーだった。
今日のスコーンもとても美味しい。さっくりしっとり、ほのかな甘みが美味だった。クロテッドクリームとイチゴジャムをのせればまさに至福。
手挟んだ甘いお菓子に、彼女は小さく歯を立てる。その姿をアルジュナ・オルタは見つめてくる。ポワポワと花が見えるような上機嫌に、ガネーシャ神は恐れを覚えていた。
これはもしかせずとも、そういうことなのでは? ガネーシャさんの体積もとい神性を増やして、そういうことなのでは?
「ジュナオ君。ボクは食べても美味しくないからね?」
……? 私は、貴女は食べません」
「おふぅっ。貴女『は』って」
硬直した神霊に、アルジュナ・オルタは指を伸ばした。親指で、小さな唇についた汚れを拭い去る。
赤い、あぁ、まるで血のような。
彼は彼女だけは食べない。食べたくない。どれだけ餓えようと。
何故なら――
「ガネーシャ神。私は貴女に食べて欲しい」
それが過ちを犯した神の終焉。善であると思うのだ。




星が駆ける。夜を目覚めさせるように、眩い軌跡が流れ燃え尽きていく。いくつもいくつも。
流星群。それは不吉の前兆であり、祈りの象徴だった。
ほうっと隣に佇むサーヴァントが息を吐く。白く凍えた息だった。
それは、雪嵐が晴れた一日のこと。カルナはガネーシャ神を連れて外に出ていた。雪晴れの夜空には、星が降るように瞬いていた。
今宵は流星群であるという。奇跡のように晴れた一夜に、マスターもデミ・サーヴァントの少女も夜空を見見上げていた。冬鳥のようにその影は丸みを帯びている。
彼らと同様に、ガネーシャ神も簡易的にだが冬衣を纏っていた。そして彼らと変わらず鼻先や小さな耳は赤くなっていた。尊い、生きている者の色彩だった。寒いかと尋ねると、首が横に振られた。
「大丈夫ッスよー。今のボクは神霊サーヴァント! なので、黄金の鎧はノーサンキュー。油断も隙もない。カルナさんも飽きないと言うか。このやり取り何回目?」
「数えてはいないが、……そうだな。飽きることはないだろう。そう拒まれると、是が非でも施したくもなろうもの」
「是が非でもって、ボクの意思は? カルナさんはホウレンソウって知ってる?」
「野菜だろう」
「そっちじゃないッスよ。知ってるくせにしらばっくれるとか。カルナさん、意外と図々しいッスね?」
フヒヒと、心からおかしいというように彼女が笑う。
「オレが傲慢な男であることなど、お前には今更だろう」
「そうッスねぇ……
榛の瞳がカルナを見つめて細められる。薄いガラスの上を星が流れる。月のない、だが明るい夜だった。
「でもカルナさんの我がまま、ボクは嫌いじゃないッスよ? 腹は立つけど」
「腹は立つのか」
「そりゃ立つッスよ。ってか、いつまでボク見てるんスか。今夜はご褒美みたいな流星群! この絶景、見ないなんてもったいなーい!」
「あぁ、見事なものだ」
彼女に倣い、カルナも空を見た。夜空を星が翔けていく。
勝ち抜いた人類史を祝福するように、呪うように、寿ぐように、涙するように。太陽でも月でもなく、雪原に星が瞬く。
「カルナさん。お願い事、した?」
「オレは……
「死者の影だから無意味とか、そういうのはロマンがないッスよ? カルナは今、ここにいるんだからさ」
綻んだ唇が息を吐く。白く温かな吐息だ。
彼女は生者だ。カルナは死者だ。それでも同じ星の光は降り注ぐ。
朝日が昇れば、カルナも彼女も世界を去る。それが定命にして定理。カルナは記録となる。彼女は――生きていく。
「オレはお前を見送ろう」
「別に良いけど、泣かないでよ?」
「どうだろうな。もらい泣きはするかもしれない」
「なんでボクが泣くのが前提なんスか」
震える声がカルナに笑う。目の奥が熱を帯びる。痛いと、思う。
カルナは太陽のない夜を憎む日があった。夜が明けねばいいと思う瞬間が、確かにあった。それでも当たり前の生を駆けた。
カルナは星の翔ける空を見上げる。美しいと思った。鮮烈に、泣きたくなるほどに。
「ジナコ。振り返らずに生きていけ」
「うん」
自由でいてくれ。幸せであってくれ。
色のない息が震える。夜空を駆ける星に願いをかける。
でもひとつ。星ではなく、カルナはジナコに願いたい。
「カルナさんは謙虚なんだか我がままなんだか。でも、アタシはそんなあなたが嫌いじゃないんだから、しかたない。ほんと、しょうがない人」
「お前の思う時で良いんだ」
「わかってる」
願い事をしたカルナに、ジナコは笑った。春のような笑みだった。嗚咽は雪原に消える。
彼は、彼女に想いを重ねた。傲慢にひとりを願った。二人の愛も恋も、カルナが連れていく。隣にいないとしても想っている。だけれど。彼女が今のすべてを忘れても――
約束、と柔らかな指がカルナの小指に絡む。
「カルナ。あなたの願いは、叶う」
きらめく瞳に星が翔ける。それは、燃え尽きることのない輝きだ。
「信じている」
キミの思う時でいい。
いつか、今日のように。キミがカルナを思い出してくれれば、もう願うことはない。




「だからっ、痛いんスよ! その、シてる時に、カルナさんの腰骨が当たって痛いの!!」
ボフリと顔面に当たったのはクッションだった。それは情事の際に彼女の腰の下に敷くもので、気づいたジナコの顔が一気に赤くなる。
「きっ、今日はしないから! 痛いのまだ治ってないんだから!! カルナさんは、それ持って帰ってくださいッスッ!!」
それとはつまりクッションで、でもカルナは帰るわけにはいかなかった。
クッションを手に寝台に乗り上げたカルナに、ジナコはますます顔を赤くした。警戒するように、じりじりと後ろににじり下がっていく。
警戒心の強い野生動物のようで、実際には寝台の上にいるのだから俎上の鯉である。指摘はしない。それはカルナの旗色が悪くなる。ジナコは両手両足をアルマジロのように丸めると、カルナを睨み据えてきた。
「しないッスよ。ほんとにしないんだから!」
「どこを痛めたんだ」
……へ?」
「腰骨と言ったな。ならば臀部か。それとも腿の裏か?」
「なななななっ!」
「気づかなかったのはオレの至らなさだ。だが、ジナコよ。知ったからには二度はない」
「二度も何も、何ドヤッてるんスか! ジナコさんはしないって言ってるじゃない!」
「それは、困る。ジナコ、痛い思いはさせないと誓う」
「いや、カルナさん。そういう話じゃなくて……
そういう話でないなら、どういう話なのだ。
カルナはサーヴァントだ。体型はいくら食べても変わらない。自らの腰を確かめる。骨は出ている。ジナコのように肉に隠れてはいない。
「オレに身を許すのは耐え難いと、そういうことだろうか?」
「飛躍が過ぎるっ! そうじゃなくて、頻度が高いの!! 跡が消えるより次とかっ! もう全部言わせないでよ!? どんな羞恥プレイッスかぁ!!」
「つまり、腰骨はオレを拒む口実と言うわけか」
「口実って言うか、本当なんだけど……。なんでジナコさんが責められてる風なの?」
「責めてはいない」
「そんな拗ねた顔で言われても、説得力が皆無ッス」
「拗ねてもいない」
「完璧に拗ねてるじゃない! あといい加減、そのクッション放してよ!」
「断る」
カルナはクッションを持つ手を強くした。カルナが今夜をどれだけ待っていたと思うのだ。無理を強いるつもりはないが、受け入れられないことは寂しい。
「が、頑固。頼まれたら施すカルナさんはどこに行っちゃったんスか?」
「本日の営業は終了した」
「なんてこった! って、こらぁっ! 押し倒そうとしない! 今日は本当にしないから!」
「だが、お前は部屋にいた」
……うぐっ」
「ジナコ、機会が欲しい。腰骨は気をつける」
「気をつけるって、どうやって」
「これからは、奥までいれることはしない」
そうすれば、カルナがジナコに痛みを与えることはない。
「それ、絶対無理なやつ! 我慢した分だけ、大変なことになるやつッス! エロ同人誌みたいに! エロ同人誌みたいに!! ジナコさん知ってるんだから!!」
「だが……
胎の奥まで入れれば腰骨が当たる。突き上げなければいいのだろうか? だがそれは難しい。ジナコの胎が下りるように、男の本能のようなものなのだ。
「生々しいこと言わないでよ! どうしてそんな高度な焦らしプレイ思いつくんスか!? インドはすぐに何でも苦行にする! するなら普通にして! そうじゃないと――今の、なし」
「聞けない」
カルナはボフンッとクッションをベッドに勢いよく置いた。ジナコはビャッとなった。
「あの、カルナさん?」
「悪く思え」
「それ言えばなんでも許されると思ってない?」
「苦行にはしない」
「されて堪るかぁ!!」
ジナコがカルナに向けて両腕を振り上げる。
無防備なそれを捕らえると、カルナはジナコをクッションの上に見事に落としたのだった。




可哀想なガネーシャ。
確かな哀れみをもって零されたそれに、アルジュナは神霊を見返した。愛と堕落を司る神霊は、今は幼い少女の姿をとっている。
「カーマ神。彼女のどこが哀れだと?」
自分が踏み込むことではない。そう理解しながら、口は神霊を問いただしていた。馬鹿な真似をしている自覚はあった。
彼女を哀れだと思う。それは、アルジュナにも覚えのある感情だった。それでも彼は問わずにはいられなかった。神霊とはいえ、他者が彼女を哀れと評す。そのことに、アルジュナは抑え難い感情を覚えたのだ。それがカーマの望みなのだと理解しながら。
「だって可哀想じゃないですか。施しの英雄に見初められて、あのガネーシャは愛する喜びも愛される悦びも知ったんですよ?」
愛くるしくも、どこか退廃を宿した神霊が笑う。
罠にかかった獲物を褒めるように、哀れむように、嗜虐と憐憫を込めた微笑だった。その視線はアルジュナではなく、哀れと評された神霊に添えられている。
ガネーシャ神は今日のレイシフトに編成されていた。それは珍しいことではない。カルナがその帰還を待っていることも。
アルジュナとカーマが同じ場に居合わせたのは、アルジュナがガネーシャ神と共に編成されており、カーマは次のレイシフトに呼ばれていたからだった。カルナとガネーシャ神は向かい合っている。正確には、カルナが神霊の腕を掴むことでその行動を戒めていた。
カルナが触れているのは、先の戦闘で彼女が負傷した箇所だった。平穏を象ったような肌から伝い落ちた鮮血は、アルジュナも覚えていた。
「カルナさん、ガネーシャさんは神霊サーヴァント。そんなに心配してくれなくても大丈夫ッスよ。怪我って言ってもかすり傷。過保護が過ぎない?」
「過ぎていない」
「そ、即レス乙。本当に大丈夫なんだけど。全然、痛くないし」
「嘘だと、そう暴くことをお前は望まないのだろうな」
「もう言ってるも同じじゃん。カルナさんのバーカ。イジワル。唐変木。ガネーシャさんは平気なんだから」
腕を掴むのとは逆の手が差し伸べられる。ガネーシャ神は伸べられた手にほんのわずか、丸い頬をすり寄せる仕草を見せた。
「ほら、ボクは大丈夫ッスよ。……ちょっと怖かったけど。本当に少しだけだし」
ガネーシャ神は、口ではカルナを素気無く扱う。だが、その心の在り処は誰にも明らかだった。
榛の瞳に安堵が満ちる。蒼褪めた頬に色が宿る。マスターやパールヴァティー、刑部姫たち。他の誰も、カルナのように彼女の感情を引き出すことはできない。彼らの間にある感情をアルジュナは知らない。興味もない。ただ、互いに特別であるのだろうとは感じている。
あきらかに戦いを恐れる彼女がそれでも戦場に立つのは、マスターを助けようという意志もあるだろう。だが、根幹として彼女をサーヴァントたらしめるのは、カルナだった。
「施しの英雄は容赦がありませんね。貴方もガネーシャを可哀想だと思うでしょう?」
……そうですね。彼女は哀れではあるのでしょう」
アルジュナの答えに、カーマは笑みを深くした。
「もしかして、同属ができて嬉しかったりします? ガネーシャは貴方と同じ。もう他の愛では満足できません。いつか他の愛を求める日が来ても、最初に最高の愛を味わってしまったんです。その愛を量る器は、かの英雄が与え形作ったもの。どんなに他に思いを寄せても、満たされることはない。これからずぅっと。いついつまでも。――可哀想な人たち」
複数形で語られたことに、アルジュナは薄く笑んだ。それは神霊への守るべき礼節であり、同時に警告であった。
「カーマ神。貴女が私を哀れと言うのは自由です。ですが、それを彼女に告げることは望ましくない。余計な騒動が起きるのが目に見ている」
ガネーシャ神に何かあれば過剰に反応する男だ。マスターの手を煩わせることは許し難い。釘を刺すと、カーマは呆れたような視線を寄越した。
「言いませんよ。私は愛の神。どんな愛のカタチも否定しません。それに、もったいないじゃないですか」
「もったいないというのは理解しかねますが、黙し続けてはいただきたいものだ。私もシヴァの怒りを再び貴女に振るうのは本意ではない。さぁ、カーマ神。刻限です。マスターのサーヴァントとしての務めを果たしますよう」
「はいはい。わかりました。興覚めです。でもほんと、貴方も可哀想な人ですね。貴方は誰を前にしても満たされない。誰と戦っても、渇きがある。かの英雄を思い出してしまう。貴方は施しの英雄でなければ。――そうでしょう?」
「それこそ、彼女に訊ねれば良いのでは?」
「言うなと言った口で、貴方も大概です。貴方こそ、ガネーシャに言ってあげたらどうです? 手遅れになる前に……あぁ、もう手遅れでしたね」
言い捨てると、神霊は姿を消してしまった。
神霊は気紛れだ。アルジュナが気を損ねたことで、マスターに迷惑をかけてしまうかも知れない。それでも言わずにはおれなかった。我ながら未熟なことだった。
カルナとガネーシャ神はすでにいない。部屋に帰ったのだろう。
アルジュナは、英雄に向けて微笑む神霊を思い出す。彼女は神霊の権能を宿しただけの平凡な人だった。
(貴女は哀れな人だ)
サーヴァントは泡沫の存在だ。必ず別たれる時は来る。だが永訣を経ても、その心が英雄を忘れることはないのだろう。
彼女はカルナに愛を注がれる。無慈悲なほどに、その心はあの男に形作られ満たされる。そしてそれは。
「今に始まったことではないのでしょうね」
いつ、どこでカルナと彼女が出会ったのか。アルジュナが知ることはないだろう。だが、思うのだ。
いつか満たされぬ器に喘いでも、狂おしいほど悔いたとしても、彼女はカルナを選ぶだろう。
知らぬ前には戻れない。知らぬ方がよほど恐ろしい。心を焼きつけていくような――
彼は弓を握り、宿敵と向かい合った過日を思い出す。

カルナは、そういう男だった。




これは一体全体、どういう状況だ。
ジナコは自問自答した。答えはもちろん出てこなかった。なにせ彼女にはここに至るまでの記憶がない。
(どうしてボクはカルナさんをホールドしてるんスか)
わからない。彼女は胸に抱え込んだものを見た。
真っ白な髪が胸の谷間に埋もれている。どういう状況だ。微動だにしないカルナは息をしているのか。いつからこの状態なのだ。意識はあるのか。
(ボクは普通にお昼寝してただけッスよね?)
今日の彼女は一日完全オフだった。二度寝は至福。
フカフカベッドで惰眠を貪る彼女の部屋に、カルナはいなかった。まぁ、勝手に入って来たのだろうが。カルナには良くあることである。
今のジナコは、ガネーシャ神の疑似サーヴァントである。
カルナの認識として、彼女と特別な所縁はない……はずである。性別も男女。神霊とはいえ、妙齢の女性の依り代をもって現界している相手の部屋に入り浸るのはいかがなものか。
ジナコはカルナを窘めた。割としっかり直截に。
しかしその辺はカルナさんである。ジナコが拒否ることを諦める方が早かった。何故ならカルナさんだから。意思が固いし納得させるのは骨が折れるどころの話ではない。あと表情差分はミリだが、悲しそうな顔をしないで欲しい。道理はジナコにあるはずなのに、気づけば部屋のロックは全スルーである。
もっとも同じ部屋にいても甘い雰囲気は皆無だ。そういうのはジナコの担当外である。カルナも要介護生命体の世話をしているような心持ちだろう。どんな心持ちだと思わないでもないが。
なので、一緒にベッドに寝転がっていてもそういうことではない。この体勢は月の裏側からこちら、初めてではあるけれども。
「カルナさん。起きてるッスよね? これ、どういう状況?」
ジナコはピクリとも動かない英霊に尋ねて、これでは答えられないだろうと思い直した。
彼女は両腕でカルナの頭を胸に抱き込んでいる。ジナコの胸部は中々のものだ。そして今の彼女は神霊の疑似サーヴァント。筋力B。普通の人間なら窒息待ったなしである。下手をせずとも首がポッキーしてもおかしくない。カルナが英霊で良かった。
「えっと、大丈夫?」
腕をほどくと、カルナは無言で体を起こした。乱れた髪に隠れて、表情がまったく見えない。
「あの、カルナさん? もしかして、どこか痛めてたり」
「問題ない」
「そ、そうッスよねー。カルナさんモヤシだけど、それは見た目だけ……
「ジナコ」
「はひぃ!」
認識阻害がオヤスヤした。
何故このタイミング。ジナコはビクゥッと肩を跳ね上げた。長い前髪の向こう側から、赤と青の双眼がジナコを見ていた。ちょっと怖い。そして恨みがましげ。
「記憶にはございませんが、なんかごめんなさい」
「構わない。ジナコよ。状況を知りたいのだったな。お前は上掛けを床に落として惰眠を貪っていた」
「うっす。……もしかしなくても、タオルケットをかけようとしたカルナさんを寝惚けたボクが引きずり込んじゃったり?」
「明察だ」
なんと言うテンプレート。
ジナコが起きるまでホールド状態が維持されたのは、カルナさんだからである。寝ているジナコを起こさないようにとでも思ったに違いない。
「それもあるが、それだけではない」
「別に起こしてくれても良かったのに」
「それができれば苦労はない」
カルナは立ち上がると、何故か壁に激突した。ゴチンッと痛そうな音に、彼女は慌てた。
どのくらいの時間かはわからないが、ジナコはカルナを遠慮も容赦もなく胸に抱き込んでいたのである。今のジナコさんは筋力Bの神霊サーヴァント。そしてカルナの「問題ない」ほど当てにならないことはない。
「カルナさん。大丈夫……じゃないッスよね! ボクのベッドどーぞ使ってくださいッス。なんならジナコさんの膝枕つき。あははー、いらない?」
「ジナコ。正気か」
カルナが壁に向かって話しかける。ジナコさんはそちらにはいないのだが。あとシレッと正気を疑ってくれたが、正気に決まっている。どちらかというと、おかしいのはカルナである。頑なに壁に話しかけている。
ジナコはベッドの上に座り直すと、ポフポフと膝を叩いた。今のところマスターには全拒否されている膝枕だが、カルナはどうだろうか?
「はい、準備オーケー。カルナさん。こっちにおいで~」
ちらりとジナコを見ると、カルナはもう一度壁に頭をぶつけた。
どうした。本当にどうしたのだ。「スーリヤよ」って、スーリヤパパがどうしたのだ。
「ジナコよ」
「な、なんスか」
「お前は自分が何をしたかわかっているのか?」
「わかってるに決まってるでしょ。寝惚けてホールドしたのは悪かったッスよ。でもそれはほら、カルナさんだからだし。他の人なら起きました。なので、ジナコさんの生存本能についての考察はノーサンキュー。今日がたまたまで、毎回そんな寝惚けないし。ところでカルナさんはいつまで壁とお話ししてるの?」
「ジナコ。お前は本当にそういう、そういうところだぞ」
「そういうところって、どういうところ……ってちょっと! なんでまた頭突きを試みる! カルナさんはボクの部屋の壁になんか恨みでもあるの!?」
ジナコはカルナを今度は後ろからホールドした。ビクリとカルナの背が震える。そんなに慄くほど力を込めたつもりはないのだが。
ジナコはギュウとカルナにしがみつきながら、ううんと首を傾げた。胸を押しつける形になっていることには目を瞑ることとする。力を緩めるとカルナは壁にぶつかろうとするのだ。もしかせずとも、霊基異常だろうか? これはマスター案件なのか?
「ほら、こっち来て! カルナさんは横になる!」
ジナコは力ずくでカルナをベッドまで引きずっていった。
彼女は筋力Bだが、カルナも同じ筋力Bである。そして戦士である彼の方が、力の使い方はもちろん心得ている。普段ならば、引きずられるのはジナコである。おそらくジナコがホールドしている間に、カルナはダメージを負っていたのだ。
「ちょっと休んでてくださいッス。マスター呼んでくるから」
「必要ない」
「いや、あるでしょ。奇行種みたいになってたじゃない」
「霊基は問題ない。オレがおかしいのは、お前のせいだ」
「それはわかってるけど」
元は正さずとも、カルナがバグッたのは寝惚けたジナコのせいだろう。
「わかっていない」
そう言うと、カルナはジナコの腕を引っ張った。あっという間に視界が反転する。ボフンと結構な弾みをもって体がベッドに落ちる。ジナコは身を跳ね起こそうとして、でもそれは叶わなかった。
頬にぺたりと触れる温もり。目の前に紅く澄んだ石がある。思わず息を詰めたジナコに、クツクツと笑う声が届いた。
「仕返しッスか?」
「オレだけ施されるのは、不公平だろう」
「意味わからん」
ポソポソとジナコは小さな声で話した。
吐息がカルナに触れると思うと、なんだかとても落ち着かない。カルナが微動だにしなかったのも納得しかない。
(ボクとカルナさんはそういうのじゃないけど)
一応は男女であるわけで?
身を強張らせた彼女に、カルナは「わかったか」と問う。わかったとも。
「寝惚けてもホールドはないッス。この距離感、ヤバいしかない。カルナさん、次回は遠慮不要。起こしてくださいッス」
……そうだな。遠慮などしている場合ではなさそうだ」
「そうそう。あの、カルナさん? なんでジナコさんをホールドする」
「遠慮は不要と、オレを許したのはキミだろう」

男の腕の中だというのに、恐れを抱かない。
無防備な姿は得難いけれど――コトリコトリと柔らかな胸から伝わる鼓動をカルナは逸らせたいのだ。
望めるならば、カルナと同じほどに。


10

こんな話が昔話か童話であった気がする。
ジナコはドアの前にちんまりとおかれたカップケーキ(紙袋タッパー入り)に「誰かはすでにバレている」と独り言ちた。
周囲にひと気はない。霊体化しているという可能性も拭えないが、今はジナコもサーヴァントである。多少の気配はわかる――と言うか、このカップケーキをおいて行ったであろう人物に限って言えば、ジナコは察しの良い方だった。
ジナコの目視できる範囲にカルナはいない。そもそも、彼が立ち去ったのを確認したうえでジナコは部屋から出てきたのだ。
「せめて声をかけていけ、って言えるわけがないッスよ。それが困るんだし」
カップケーキは手作り感あふれる形が不均等なものだ。
風の噂によると、本日のカルデアキッチンではお菓子づくり教室が開かれているとのことだった。カルナは今日もみんなのお父さんで、お手伝い的なことをしていたのだろう。
「あの格好でエプロン……、裸エプロンの進化系みたいなもんじゃない?」
カフェエプロンならセーフ、ではない。インドサーヴァントは布面積について考えた方が良い。ジナコだってエプロンをつければ裸エプロンのようなものである。
もっとも、ジナコに自ら進んで手伝いをする殊勝な心掛けはないので、ガネーシャさんエプロンver.が陽の目を見ることはないだろう。今後とも食べる専門を強く主張していきたい。万一の時には割烹着を所望する。肌はなるべく隠していきたい。
「今更感パないけど、ほんとこの格好ってどうなんスか」
ジナコはスゥスゥする腹回りに難しい顔をした。
深く考えずとも、ガネーシャ神の装束はアラサーの心にダイレクトアタックだった。再臨ごとに布面積が減ることについては、一言どころでなく物申したい。
ジナコよりも布面積が僅少、もとい服と言う概念すらふっ飛んでいるサーヴァントもいるが、彼らは英霊。ジナコは一般ピープルである。三十路を手前に、そんな神様ぶるなんて無理である。
……陰キャには、攻撃の時のセリフだけでも辛いんスよね」
マスターの指示に従って、サーヴァントは攻撃を組み立てる。場合によっては一騎のサーヴァントが四撃まで可能だ。攻撃の際には決まったセリフと魔力が連動するのだが、アラサーに決め台詞を言わせるなど、何の罰ゲームである。ガネーシャ神の決め台詞には、若気の至り&黒歴史を突き刺す造語やドイツ語がないので救いがある。ちょっとおどけた感じで良かった。
戦闘中は必死だ。躊躇いはデッド・オア・デッドなので意識の片隅にも上がらないが、一日の終わりに冷静になるとダメなのである。突然始まったサーヴァント生活は、陰キャ特攻だった。
「ボクがサーヴァントなんて、セレクトミスにもほどがある」
ジナコは紙袋を掴むと、部屋に引き返した。
タッパーにはご丁寧にプレーン、ラズベリー、チョコとラベルが貼ってあった。
「カルナさんも飽きないって言うか、なんでジナコさんに持ってくるんスかねぇ」
もしかして、同郷の神霊への捧げものか。そんなわけはないだろうが、そうだとしたらちょっと困る。
崇め奉られたって、ガネーシャさんの中の人はジナコさんである。ご利益的なものは何もない。ないけれど、今のジナコはインドの超有名神霊ガネーシャさんなのだ。ランクはSSR。クラスはムーンキャンサー。
修行的なことは何もしてない。普通にご飯食べて寝て起きたらこうなっていた。意味わからん。しかし、そんな彼女の内実はおいてきぼりだ。
カルデアでは、誰もが彼女を神霊として扱う。あまりに神様らしくないジナコに戸惑いながらも、少しおっかなびっくり、という感じに。神霊サーヴァントはそういうもの。ギリシャ、メソポタミアその他の神霊サーヴァントを見ると良い。
神霊は気まぐれで、どうしようもなく慈悲深くて残酷だ。彼らは人の言うことなどまず聞きはしない。思考の階層からズレている。疑似サーヴァントは人が混じっているから少しはマシだけれど、油断は禁物。
人知の及ばぬものは怖い。ジナコだって怖いと思う。その怖いものに自分が数えられることを、ジナコは上手く割り切れないでいる。
「ジナコさんは神霊サーヴァントッスけど、ジナコさんなんスよ~。気軽にガネーシャさんって呼んで欲しいッス」
おどけたって、ジナコの本当は誰かに届く前に消えてしまうのだ。カルデアにいるのはジナコではなく、ガネーシャ神の疑似サーヴァント。神様だ。
「ボクが神様なんて、世の中、何でもありッスね。どーせなら、ガワだけじゃなくてナカも神様だったら良かったのに」
それは許可が下りなかったらしいのだ。どこの誰の許可が必要なのだ。
「シヴァパパさん?」と聞いたら、違うと否定された。「もっとガチでヤバいやつ」誰それ怖い。
『依り代、心当たりないの? マ? それマジで言ってる?』
むしろどうしてあると思った。こちとら寝て起きたらサーヴァントだ。波長が合うからやれと一方的に押しつけられた身の上だ。
『無自覚こわい。そしてあっちがザマァ。あー、こっちの話。ぶっちゃけ、母上たちみたいに人格は依り代から離した方が楽。サーヴァントって普通の人間ができることじゃないし? でも、我も命は惜しい。だから依り代に任せる一択。結果、どこぞのAIの干渉が必要だった的な?』
的な? ではない。結果がヤバすぎやしないか。
ガネーシャさんよ。あなたは何故にあえてリスクを取ったのだ。面倒くさがりのメタボ象のくせに、ジナコ以外にも依り代をできる人間はいたと思う。
『それはインドの事情』
どんな事情だ。丸投げされたジナコさんの身になって欲しい。
『そこはガンバ! 汝、なんだかんだ言ってできてるし。見た目以上に頑丈。図太い』
見た目以上言うな。図太いとか放っておけ。それは自分でもびっくりだ。限界ギリだけど。
『そこは我も思うところある。ガチでヤバくなったらさ、呼べばいいんじゃない? あ、我以外で』
「ボクはガネーシャさんの依り代なんでしょ? バトンタッチはガネーシャさん……
『依り代、象頭神の丸焼き見たいの? ま、戯言は聞くけどさー。汝、我のことなんて呼ばんでしょ』
象頭の神はニンマリと含みたっぷりに笑った。神様なんて、ほんとどうしようもない。
ジナコはタッパーを開けると、まずは王道プレーン味からと、ハクリと口を開いた。優しい甘さのカップケーキだった。
カルナがジナコの部屋の前に食べ物をおいて行くことは割と良くある……どころか日常風景だった。今日はないけれど、小さな花が添えられていることもあった。お供え物感マシマシだ。理由は聞いていないのでわからない。対引きこもりの生存確認か何かだろう。
ジナコさんは引きこもりサーヴァント。神霊の我がままはデフォなので、マスターに頼まれても断る様式美は大事にしている。
「マスターも物好きッスよねぇ。なんだかんだでボクに貢いじゃってさぁ。霊基再臨までしちゃうし」
せっかくだからカルデアライフを楽しみたい。それは本当。神様って崇め奉られるのだって悪くない。本当だ。戦闘だってガネーシャさんのサポートがあるから大丈夫。頼もしいムシカ君だっている。マスターもマシュもいい子だ。
そして今のジナコは神霊サーヴァント。どんな英霊にだってビビる必要はないのだ。BBと英雄王は御免だけど、あちらもジナコに興味なんてないだろうから、無問題。でも、ジナコは引きこもっている。
カップケーキを持つ指には、キラキラとした指輪が嵌っている。お腹は丸出しだし、胸部は心許ないどころの話ではない。アラサー陰キャ特攻がむごい。石像で行動したいジナコだが、マスターは石像の中の人に会いたかったそうなのだ。
何故だ。クエスチョンマークを飛ばすジナコに、マスターは笑った。張りつめた笑みだった。今にもパチンッと弾けて消えてしまいそうな……
インド異聞帯の記録は、彼女にもダウンロードされていた。
「石像がなくても、ボクはSSRの神様サーヴァント。だから、まぁ大丈夫。貢がれたし、お願いを聞くのもやぶさかではない」
ジナコは食べかけのカップケーキをもう一口かじる。甘くて、チクリと胸の奥に茨が生える。
……美味しい。カルナさんもやればできるじゃない」
笑う唇が零したのは、幾度も練習したセリフだった。
「フヒヒ、我ながらどうかと思う」
タッパーの蓋を閉じると、ジナコはぺたりとテーブルに頬をつけた。冷たいガラスの感触が心地よかった。
本当に練習をしていたのだ。無意味でも、ジナコがカルナに一度だって告げたことのない言葉を、繰り返し口の中で転がしていた。ずっと、月から帰ってから、ずっと。
信頼も喜びも、何も共有されない主従だった。過去はやり直せない。人生にリセットボタンはない。
わかっている。だからジナコは夢を見た。月から戻った未来で、どうしようもない自分とどうしようもないサーヴァントとの会話を繰り返した。
ちゃんと話せば良かった。早く教えて欲しかった。そうしたら、それでもきっと何も変わらなかっただろうけれど。
もしも、また会えたなら――「良くできました」とか「ありがとう」とか、言ってみたいとか言われてみたいと思っていた。
「今もニアと言えばそう。あくまでもニアだけど」
ジナコはカルデアでカルナに会うことはできた。ジナコが神霊の疑似サーヴァントになると言うすさまじい変化球だ。
でも今のジナコは神様だから、カルナは、ジナコをジナコと認識できない。
「インドの事情か何か知らんけど、なんでジナコさん百パーにした」
自分を自分と見つけてもらえない。そういうものと割り切るのは、ジナコには自分が神様であることよりも難しかった。
石像の間は良かった。ジナコじゃなかった。今は違う。格好がどんなにアレでもジナコなのだ。どうしようもなく――だから、彼女は引きこもる。カルナに会うことが怖かった。
カルナが何を思って、ジナコの部屋の前に甘いお菓子をおいていくのかはわからない。開かないドアに何を感じているかなんてわからない。
カルナに期待する自分が怖い。カルナはジナコをジナコとわからない。彼にとって今のジナコは縁も所縁もない神霊だ。
カルナに「ガネーシャ様」なんて呼ばれた日には笑ってしまう。パチンと虚勢が弾けてしまう。きっと呼んでしまう。そこに彼はいるのに。
ジナコはテーブルに頬をつけたまま目蓋を閉じた。
夢を見たかった。疑似サーヴァントになってから、ジナコは夢を見なくなっていた。眠ることだって、本当は必要ないのだろう。だって今のジナコは神様だから。だから、現実に夢を見る。
ジナコはやぼったいカーディガンとくたびれたタンクトップと、ジーンズで、そうしたら。そうしたら?
(そこにあなたはいないけど)
ジナコは、早く元の世界に――ジナコ=カリギリに戻りたかった。


11

ジナコの部屋には、ごきげんな感じの太陽が描かれたクッキー缶がある。彼女の私物ではない。カルナが置いていったものだ。
「頼みたいことがある」と真剣な顔で言うから何かと思えば、ごきげんな太陽缶を見せられたジナコさんの心情を答えよ。
「もはや一部の余地もない部屋だとは承知している。だがそこを頼みたい」
缶ひとつ置くスペースぐらいある。なくても作る。ド真面目に心苦しいという顔をするな。その遠慮深さが逆に失礼。
「無理にとは……すまない。無理だったな」
何を勝手に判断してくれているのだ。ジナコさんの部屋はちょっと散らかりやすいだけなのだ。
ジナコはテキパキ……とは言えないが、それなりに思い切りよく缶ひとつ分のスペースをつくった。ジナコが使うには高い棚で、薄い棚板にはいつか読もうという本が積んであった。
本を下ろす際に結構な埃が舞い上がったのは余談。くしゃみを連発して、カルナに鼻を拭われたのはもっと余談だ。
「はい、どーぞ。この棚、カルナさんだったら使えるでしょ」
「良いのか」
パァッと見るからに喜んでいるカルナに「好きにしたらァ!?」とキレたのは理不尽ではない、と思う。


あれから、それなりの時間が経った。
缶にも棚にも埃が積もる気配はない。今日も缶を手に持つカルナに、ジナコは近づいた。
「それ、何が入ってたの?」
……開けなかったのか?」
「当たり前でしょ。カルナさんはボクを何だと思ってるんスか」
「お前は人の家屋に臆面もなく侵入し、戸棚を物色していくだろう。薬効のある草を家主の断りなく持ち出したり」
「それはゲームの話! リアルでそれやったら犯罪ッスよ?」
「本当に見ていないのか?」
「だから見てないって言ってるじゃない。なんでそんな不満そうなの。ここは見なかったジナコさんを褒めるターンじゃない?」
「そうだな……褒める、と言うのに値するかはわからないが」
中途に言葉を切ると、カルナはジナコにごきげんな太陽缶を渡してきた。
「今、見ると良い」
「見て欲しい、の間違いじゃなくて?」
意地が悪いと承知で言う。もちろんカルナには通じなくて、そうだと躊躇なく頷かれてしまった。
「オレはお前が知っているのだと思っていた。それでも許されているのだと思っていた」
「そんなの、言ってくれなきゃわからないッスよ」
缶はジナコの両手よりも少し大きいくらいで、円形。中身は本当に不明だ。
カルナは定期的に確認をしているので、貴重品的なものが入っていると思っていた。人の部屋にそんな大事なものおいて行かないでよ、とは思ったが預かることに異論はなかった。ノウム・カルデアに部屋を持っているサーヴァントは限られていたのだ。でもそれはきっと建前で。……認めてしまおう。本当は別にあった。
ジナコは缶の蓋を取ると、ニッとカルナを見上げた。
「空っぽじゃない」
「空ではない」
カルナは愛おしむように缶を見つめる。
「ジナコ。これからも預かっていてくれるか」
「いいッスよ。カルナさんが面倒見てくれるなら」
高い棚の埃を落とすのは、ジナコではちょっと骨が折れるのだ。
「わかった。必ずと約そう」
「大げさッスねぇ。でもまぁ、今まで通り。いつでも良いよ」
「あぁ」
カルナが目を細める。その目蓋が震えているように見えたのは、きっと気のせいではない。ジナコの息が震えるのだって同じこと。
今日、ジナコとカルナはカルデアを退去する。マスターの旅路が終わった。こんな日はこれで最後。それは、とても素晴らしいこと。
別れの前まで他愛ないことを取り決めて、それで笑い合うことができるのだ。
「バイバイ。カルナ」
「ジナコ。いつか、また逢おう」
……うん」
ジナコは両腕でからっぽだった缶を抱き締める。
大丈夫だ。失くさない。ちゃんと持っていく。

二人の間で、にっこりと太陽が笑っている。
何もないけれど、空っぽじゃない。
当たり前みたいだった、一緒の時間が詰まってる。


12

頭に花が咲いた。比喩ではなくガチで。
いきなりサーヴァント生活からこちら、ちょっとやそっとのことでは驚かないとドヤッていたジナコさんだが、調子に乗っていましたごめんなさい。魔術こわい。神秘の多様性ヤバい。謎クオリティが突き抜けている。
「いったいボクが何したって言うんスかぁ」
場所はカルデア食堂。
テーブルの上には本日のデザート、ロールケーキ三種セットがジナコに食べられることを待っている。ドリンクはシュワシュワレモンスカッシュ。いろいろお察ししたキッチンサーヴァントの心遣いだった。
「何をしたかと言えば、何もしなかったというのが正しいだろう。ナマケモノのごとく体表に苔むすのも時間の問題とは思っていたが、よもや……
「よもやじゃなーいっ! ガネーシャさんは被害者ッスよ!? ボクは魔力たくさん貯めとけるし、動かないし、疑似サーヴァントだし? 条件バッチリだったのかも知れないけど、効率的な食物生産ってその発想が怖い。思いついたら実行しちゃうところがマッドにすぎる」
うぅ、とジナコは項垂れた。
奔放に跳ねているココアブラウンの髪は、いまは枝垂れ落ちてくることはなかった。くるくると濃緑のツタが絡まっているからだ。ところどころに星のような黄色の花が咲いている。実がついているものもある。まだ青いそれは、丸くとても見覚えのある形状。いずれは赤く熟すであろう――トマトである。
ジナコは頭からトマトが生えていた。言語化するとどういうことなの感がすごい。体から花が咲くというシチュにありながら、儚さは微塵もない。
だってトマトだ。美味しい野菜だ。食料生産だ。苗床だ。エロ漫画か。ディストピアか。残念、魔女の善意120パーセントだ。栽培期間はまさかのワンデイ。収穫が終われば自然に枯れるので、宿主にも安全――なわけがあるか! 精神面が安全ではない。
朝一で絶叫したジナコの部屋のドアは大破した。もちろんぶち破ったのは彼女ではない。隣の施しの英雄である。
今は感情の窺えない顔をしているカルナだが、部屋に入ってきた時は瞳孔がかっ開いていた。
ジナコは涙目になった。安堵とヤバインドのハーフ・エンド・ハーフだった。後の騒動は推して量れ。
カルナはロールケーキを小さく切り分けると、唇に寄せてきた。
「口をあけろ。今のお前は何もせずとも魔力を消費する状態だ。少しでも補っておけ」
「お気遣いどーも」
ロールケーキは美味だった。さすがキッチンカルデア。少ない食材からこのクオリティ。
美味しいご飯のためなら、トマトを育てるぐらい――できるわけがない。疑似とはいえ人から生えた野菜でご飯。メンタルが死ぬの一択である。第六特異点の後は絶対にダメである。ディストピア飯にも限度がある。
「今回のことはマスターの英気を養ってやりたいという善意に基づいている。許せとは到底言えないが、魔女たちもカルデアの食糧事情を憂いた結果なのだろう。二度はしないと約している。だがあれらは、お前も聞いてはいるだろうが、己の探求心や思いつきを試さずにいられぬ性だ」
「つまり?」
「一度あったことは二度あると思え」
「二度もされてたまるかぁ! お外こわいっ! ボクは引きこもるッス!!」
ギャンと叫んだジナコの口に、カルナは手際よくロールケーキを放り込んでくる。餌付けか。
ジトリと目を据わらせると、カルナはわずかに困ったように眉を下げた。
「冗談だ。魔女たちも二度はすまい」
「そりゃそーでしょうよ」

『私としたことが、まったく君が理想的過ぎるがゆえに、目眩まされてしまったよ』
ケラケラと笑ったオケアノスの魔女に反省の色があったかと言えば否だが、二度はないだろう。暴れるパンケーキもこんがり焼き上がったことだ。
(待ってよ。このロールケーキ……
もしかして。もしかせずとも?
生産ラインは考えないが大正解である。美味しいことは事実。そしてジナコさんは、キッチンカルデアを信じている。
ロールケーキをジナコに運び終えたカルナは、食器を戻してくるという。いつもは自分で片づけろというのに、今日はちょっと甘いというか世話焼きだ。
レモンスカッシュの爽やかな酸味と弾ける炭酸を楽しんでいたジナコは、しかし頭頂部に圧を感じていた。カルナが一向に食器を返しに行く気配がないのだ。
「カルナさん。どしたの?」
……根がはっている」
「やめろ。言語化するな。オタクの想像力なめんなッス」
二次元でよく見るアレが我が身に起こっているのだ。特異点アタック・オブ・ザ・キラー・トマトが爆誕したらどうしてくれる。
カルナは「あたっく……?」と頭上にクエスチョンマークを大量に浮かべた。今夜は不朽の駄作の上映会を決行する。
「わかった。ガネーシャ神。この実はどうするんだ」
「どうもしないッスよ」
……食べないのか?」
「あははー、究極の自給自足ッスねぇ。誰が食べるか!」
「では、腐らせるのか」
「腐る言わないでよ。枯れた後とか、考えるだけでアンニュイッス。食べたきゃカルナさんがどーぞ。普通のトマトらしいッスよ。テキトーにもいでってくださいッス」
「熟したら考える」
「考えるんかい!」
「フライドポテトにケチャップは必要だろう」
「やーめーてー」
ジナコはびったんとテーブルに倒れ伏した。カルナはジナコの髪をしげしげと眺めると、畑のようだな、と頷いた。
「収穫は任せると良い。これでも腕に覚えがある」
「わぁー、すごーい」
棒読みで褒めたジナコに、カルナはドヤッた。
ちなみにこの英雄、トマトを秒で焼き払おうとした。魔力回路と繋がっていることに気づいてすぐに鎮火したが……その後はまぁ、大変だったのだ。
何故、彼女だったのか。魔女は悪戯げに笑った。
『それは当然さ。彼女は本当に理想的だったんだぜ?』
植物を栽培してなお、戦闘に支障ないレベルで魔力を保有できること。植物の生育に最適な環境から動かない性質であること。人ではなく、しかし有機的な存在であること。
そして、何よりも――太陽がいること。
私の目に間違いはないだろう? にこりと笑った少女のような魔女に、マスターは「オールアウト!!」と両手で顔を覆ったのだった。
なお、ジナコとカルナはトマトケチャップを作った。
「ちょっ、この美味さヤバくない? ボク、才能あるかも……
「あぁ、この出来は稀世と言えよう」
フライドポテトを片手に頷き合う。
彼らは図太かった。


13

「はい、カルナさん。あーん」
明らかにこちらの反応を楽しんでいる相手に、カルナはどうしたものかと思案した。
小さな手に握られたスプーン。その上には氷菓子があった。
「食べないんスか? バニラアイス、冷え冷えで美味しいッスよー?」
……お前はオレの熱を上げたいのか、下げたいのか、どちらなんだ」
「看病してるんだから、下げたいに決まってるじゃない。ほら、早く口を開ける」
「これ限りにしてくれ」
「それはカルナさん次第ッスねぇ」
口を開けば躊躇なくスプーンが差し込まれる。甘く冷たい氷菓子が口内で溶ける。
「はい、もう一口。なんて顔してるんスか。いい加減、観念したら?」
見つめられ、カルナは視線を彷徨わせた。
今日のカルナはベッドの住人だ。彼は滅多に休息を取ることがない。常に誰かに呼ばれ、その人に応えることを良しとしていた。今日はガネーシャ神以外に会っていない。
気づけばカルナはベッドに横になっており、枕元には彼女がいた。そしてカルナは厳めしい顔をした相手に、絶対安静を言いつけられたのだった。
「めちゃくちゃびっくりしたんだから。カルナさんが部屋にいるのは割といつもだけど、床にぐでーんって倒れてるんだもん。呼んでも唸るだけで起きないし、つついたらめちゃくちゃ熱いし」
「つついたのか」
「そりゃつつくでしょ。カルナさんもいつもボクのことつつくじゃない」
それはそうだった。寝ている彼女には、抗いがたい引力があった。頬はいつまででもつつける柔らかさだった。
「淑女のほっぺをつつくな。ボクのほっぺはスクイーズではない」
カルナはスクイーズを知らなかったが、彼女の肌の方が好ましいに決まっていた。
「うーん。これは重症ッスねぇ。いつも以上におかしなこと言ってる」
「事実だ」
「出たよ謎自信。寝てる相手の頬をつつくのって、だいぶアウトじゃない?」
……? お前もしたのだろう?」
「そうだけど、ボクは非日常。カルナさんは日常」
「起きている時ならば良いのか?」
「何故に良いと思う。ボクはいつもやめてって言ってるでしょ。貧者の見識やめい!! どうして大人しく寝てられないんスか!」
叱られ、カルナは渋々と枕に頭を預けたのだった。
カルナは霊基異常だった。彼だけではない。太陽系と呼ばれるサーヴァントたちのことごとくがオーバーヒートを起こしていた。熱負荷から少なからず意識を喪失していたことに愕然とするカルナに、ガネーシャ神は「カルデアでは、何もない日の方が少ないッスねぇ」とカラカラと笑った。
「今日のカルナさんはベッドから出るの禁止なんで、どうぞよろしく。専属看護としてボクが付きます。いやー、誰得。当たり前ッスけど、ナース服のサービスはない。ほっぺモチモチもなしッスよ? カルナさんの手、火傷レベルで熱いんだから」
ひらりと振られた手のひらは、ほのかに赤くなっていた。硬直したカルナに、ガネーシャ神は「すぐ治るから大丈夫」と笑うと
「このアイスを食べればね!」
とカルナの前に、一人分と言うにはいささか無理のある氷菓子を見せたのだった。
「これが今回のカルデアの叡智! ナイチンゲールさん監修、みんなの夢。甘ーいお薬ッス。と言うわけで、カルナさん。口開ける!」
問答無用でスプーンを口に突っ込まれ、それからカルナは彼女に手ずからアイスを食べさせられている。
必要なことだとはわかっている。今のカルナはスプーンを持つことができない。発熱した体はアイスを溶かしてしまうどころかスプーンから溶解させた。
一度試して「だから言ったでしょ?」と窘められ、カルナは少なからずへこんだ。寝台が燃え落ちないのは、魔術障壁を幾重にも張り巡らせているからであった。寝台の保護でカルデアの魔術リソースは限界なのだと知っている。だが、幼子のように匙を向けられることには羞恥がある。
「それ、ほんと人の振り見て我が振り直せってやつだから。カルナさん、いつもボクに食べさせてくるじゃない」
……そう、だったか?」
「無自覚か! 餌付けだ飼育員だ何だと言われるボクの身にもなって下さいッス。だから貧者の見識やめい!」
勢いよくスプーンを突きつけられる。口に含めば甘く冷たく、かすかに馴染んだ魔力の味がした。
カルナに触れても溶けないようにと、彼女が施した魔力の味だった。体に熱がこもるのは、霊基異常だけではないはずだ。
食べ終えたスプーンを唇から離すと、すぐに次のひと匙が寄越される。
「はい、あーん」
「十分に体温は下がったはずだ。あとはお前が食べると良い」
顎を引くと、ガネーシャ神はやれやれと芝居がかった仕草で肩を竦めた。
「そろそろ言い出すとは思ってたけど、カルナさん、今の自分の状態わかってる? リアル人体発火しそうなんスよ? 気合で何でもどうにかできると思ったら大間違いなんだから! ほら、大人しく口開ける! 今日のカルナさんのお仕事は、アイス食べてクールダウン。おかわりもあるッスよ~。ストロベリー、チョコミント、チャイのフレーバーも選びたい放題! おもしろ系ではコンポタとナポリタンもあるし……カレー味は、誰セレクト?」
ガネーシャ神はカレーと手書きされた蓋を躊躇なくとると、サフランライスのような色をしたアイスにスプーンを突き立てた。
……玄人好みの味ッスね」
小さく唇を動かすと「クセになると言えば、なるような?」と、何かを判ずるように首を左右に傾げる。横髪が揺れて、丸い頬があらわになる。そこに特別な色はない。こちらは頭が茹だるようだというのに。
「お前は本当は、オレの熱を上げたいのではないか?」
「はぁ? そんなわけないでしょうが」
スプーンを食んだまま、彼女がカルナを見る。それは先ほどまでカルナが使っていたものなのだが。
丸くふくらんだ頬が愛らしくも憎らしく。引き寄せられるように近づいた指先は、しかし大仰にかわされてしまった。
「ダメ。ボクに触りたかったら、早く熱下げること。と言うわけで、次はチョコミント!」
「そこはカレーではないのか?」
「あえて行く? カルナさん、チャレンジャー。フヒヒ、感想聞かせてよね」
どーぞ、と大きな瞳が笑う。
彼女が持つスプーンはそう言うことで、それが彼女に触れるために必要だというならば――
「はい、あーん」
熱が上がっても、カルナは大人しく口をあけるしかないのだ。


14

ガネーシャ神は事態の打開を図っただけなのだ。
それが思いもよらない方向に飛び火したのは、ここがカルデアだからなのだろう。この人類史最後の砦ともいうべき天文台は、トライアル・アンド・エラーが基本である。何故なら現在進行形で前代未聞なので。過去に学び、未来を予測し、現在に立ち向かう。
サーヴァントとして、その姿を目の当たりにしてきたガネーシャ神である。マスターをはじめ、何らかの手立ては見つけてくれるだろうとは思っていた。しかし、あえて言おう。ガネーシャ神は誰にも何も言っていない。少しぼやいたかも知れないが。
彼女の打開策とは引きこもることで、具体的に言うとカルナと距離を取ることであった。
ガネーシャ神はカルナが嫌いではない。疎んじてもいない。その真逆だが、距離を保ちたい理由はしっかりとあった。ガネーシャさんの中の人――ジナコさん的にヤバいしかないのだ。
現状を見てみよう。距離を取るどころの話ではなくなっている。
彼女は遠くを眼差した。見上げる天井は見慣れたものではなかった。とても広く、そして明るい部屋だ。
部屋は石造りで、天井も床も温かみのあるミルク色をしている。壁には等間隔に薔薇色があった。あでやかな赤が象るのは幾何学の花だ。床には複雑な意匠の絨毯が敷かれている。
部屋に調えられた家具にも細かな装飾がある。小さなテーブルには象嵌が、その上に乗る銀色の水差しにも動物の図像が浮き彫られていて、彼女は唸った。
「このクオリティ必要だった……?」
ジナコは小さく疑問を呈した。答える声はない。部屋には彼女しかいなかった。脳裏に、彼女をここに連れてきたサーヴァントが過った。
『楽しみにしている』
そう、カルナは言った。薄く綻んだ顔は楽しそうで、ジナコにクリティカルを決めてきたが、冷静にならずともこれはおかしい。
「絶対これじゃない。この解決策はない。むしろ何を解決するつもりなんスか?」
あれよあれよとここまで来てしまったが、ジナコはカルナと距離を取りたいのだ。しかし、彼はあと幾許もせずに彼女の許を訪れる。距離とは……? 本末が激しく転倒した上に行方不明だ。
「マスターはナイスアイディア! みたいな顔してたけど、これ罰ゲームじゃない?」
少なくとも自分には苦行だ。
広い部屋をジナコはペタペタと歩き回る。落ち着いてなどいられない。
部屋の一角には一段高い場所があり、大小さまざまのクッションが積み重なっていた。転寝に最適のスペースだが、今は眠っている場合ではない。そういう気分でもない。
彼女を追うように壁に薄い影が動く。薄く色のついた影だった。光が部屋の隅から隅へ渡された布を透過するためだ。薄ら氷のような布だった。フワフワと風に揺れる薄布は金属糸が使われているのか、揺れるたびにキラキラと光を輝かせた。
カルデアに自然風はない。つまりここはカルデアではない。ではレイシフト先かと言えば、それも違う。シミュレーターに構築された疑似的な空間――なのだと思う。霊子の再現と言うには、魔力濃度の桁がいくつも間違っているけれど。
「お任せしたのはボクだけど、神性持ちが本気を出すとこうなるの見本市ッスね」
天井で自然に揺れる薄紅は、カルナを思い起こさせた。彼が背に纏う炎に似た鎧に似ている。カルナはあとどれくらいでやって来るのだ。
「今からでも引きこもりたい。石像出したい! でも出せないとかっ! マスター権限の無駄遣いッス!!」
ジナコは人類最後のマスターに物申した。
返事はない。そういう野暮はしないと、彼女よりもずっと若い人は微笑んだわけだが、野暮でもなんでも是が非でも一緒にいて欲しかった。
「ひとりは無理。だってカルナさんッスよ? 無理。無理しかない」
ジナコはこれから勝負に臨むのだった。戦う相手はカルナだ。
意味がわからないだろう。ジナコさんも意味がわからない。あと勝てる気がしない。ジナコが完敗する未来しか見えない。今までがそうだったのだ。だから彼女は引きこもろうと思ったのだ。
彼女は立ち止まると、壁に首を傾けた。
そこには楕円形の鏡があった。大きさはちょうど彼女の上半身を映すほど。木製の額に嵌め込まれた鏡面は曇り一つなく、そして飴色の額には大ぶりな花が飾られている。見事な彫刻だった。向日葵に似た花は精緻で、彩色がされれば本物と見紛うだろう。
ガネーシャ神は美術品を鑑賞するような心地で、満遍なく鏡を見つめた。その本来の役割はなるべく意識しないように。
鏡に映り込むココアブラウン。平凡な容姿の――今は神霊のサーヴァントと認識される彼女は、依り代と一つの狂いもない。でも今は少しだけ違っていた。
生来よりも色づき艶めいている唇。肌は磁器のような滑らかで、目蓋は榛の瞳に馴染む橙色を刷いていた。
幼い容貌をした彼女にあわせた薄づきのものだが、ジナコは化粧をしていた。サーヴァントとしても依り代としても、はじめてのことだ。
装束も違う。今日の彼女はガネーシャの被り物をしていない。露出もほとんどなく、今日のためにと準備した衣装はインドの民族衣装でもっともポピュラーなもの。サリーに似ていた。いささか裾を引き摺っているが、それは彼女が歩き回った時点でのご愛敬である。
落ち着いた深紅の美しい衣装だった。歩くたびに裾を飾る丸い金の板が連なった装飾がシャラシャラと鳴る。着ているのがジナコさんでなければ、見惚れる一択だっただろう。
奔放に跳ねている髪も今は丁寧に梳られ、三つ編みにされていた。ジナコからは良く見えないが、後頭部には小枝と赤い花を組み合わせたヘッドドレスがついている。
ジナコの勝負を知った神妃と王妃、そしてオタ友たちの競作だった。気合がすごい。ジナコは右から左にベルトコンベアーだった。
……意外性はある。でもこの格好の必要性と言うか、そもそもボクがここにいる意味と言うか、勝負やる意味あるの?」
彼女がカルナと競うのは、戦闘ではない。当然である。だってカルナさんですよ? それ以上の説明はいらないだろう。
では何の勝負をと言えば――なんなのだろうか?
「あえて言うなら、ギャップ勝負?」
いつもと違う格好で相手をノックダウン? ジナコがカルナを? 無理だろう。逆は大いにあるが。
……もしかせずとも、今日がボクの命日?」
今までを思い返し、ハハッと彼女は笑った。
彼女がいつもと違う衣装であるように、カルナも変えてくるのだ。駄目だ。耐えられる予感がしない。
カルデアにおいて、霊基を変えるサーヴァントは珍しくなかった。そしてカルナは意外なことに、衣装持ちであった。浴衣でもブレザーでもパリピでもマフィアでもカルナさんは尊い。ボクの人生の最推しがすごい。
どうだろうかと過去の衣装を見せに来るカルナに、ジナコは硬直した。人間(今はサーヴァントだが)真実、感動すると声も出ないのだ。
そしてそんな(推しの尊さに)石化した彼女をカルナは覗き込んでくるのである。ついこの間も危うく倒れるところだった。CBCが襲来したのだ。
「どうした。何故、震えている。笑うならば笑ってくれてかまわないぞ。滑稽なことは承知している」
おかしくなどない。完璧だ。震えているのは、言語が絶滅しているだけ。
……そうか。自分では良くわからないのだが、お前を楽しませることができたならば良し。ガネーシャ神よ。味見に興味はあるか?」
「ひゃいっ」
「食べないのか? ショコラケーキはお前も好むところだろう」
白い指が赤いベリーを摘まみ上げる。首を傾げて見つめられ、彼女の魂はまろびでかけた。
尊い。すごい。ギャルソン。意味がわからん。
魂の緒を心の中で必死に掴みながら、彼女はカルナに聞いたのだ。
何故、ガネーシャ神に衣装を見せに来るのかと。答えはほのかに喜色を滲ませた声とともに教えられた。
「オレはお前に、お前がいない間のことを聞いてもらいたい」
…………むり」
限界を感じた彼女は引きこもることにした。適度な距離感が欲しい。
話は人から聞くぐらいでちょうど良い。カルナの衣装替えは大いに見たいけれど、それは遠くから見守るような、そういう感じでお願いしたいのだ。――だというのに、どうしてこうなった。
彼女が逃げ回ったからか。そうなのか。にっこり笑ったマスターにカルナと一緒に呼ばれて、あれよあれよと言う間に、シミュレーター(仮)に放り込まれていた。
素晴らしい手際だった。おかげさまで、ジナコは退去してしまいそうだ。


「意味わからん。どうして、そのどこに売ってんだかわからないパリコレもびっくり紫のボーダー着こなせるんスか。しかもダッフルってどういうこと? ポニテとか何考えてるの?」
ジナコは「意味わからん!」と繰り返した。推しが尊い。
彼女はカルナを格好いいのだと思う。だが新たな境地がやって来た。可愛いとはどう言うことだ。可能性が無限の錬成か。
ジナコはインドの民族衣装を予想していた。パールヴァティーたちもそうであろうと言っていた。甘かった。現代服だった。
カルナ以外では事故しか起こらない。おそらく他のサーヴァントが選び終わって、余った服を合わせたらこうなった系。全国のお母さんだって、もう少しマシな服を買ってくる。だが尊い。
口を両手でおさえて戦慄くジナコに、カルナは何故か難しい顔をした。
「お前は、そうか。そう来るとは……
「こっち来ないで。無理。ちょっ、近づいてくんなって言ってんでしょうが!」
本当に退去したらどうしてくれる。
オタクは公式供給に弱いのだ。村はえげつなく燃えるし、温度差にはグッピーよりも繊細なのだ。
両腕を突き出すと、カルナは戯れと思ったのか両手でしっかりと握ってきた。そうではない。近づくなと言う意味だ。誰がゼロ距離にしろと言った。
「お前がオレの時代の装束を選ぶとは思わなかった」
「他に何があるって言うんスか。ガネーシャさんはインドの神霊サーヴァントッスよ? 意外性とかないでしょ」
化粧をしたり着飾っている時点でレアではあるが、カルナほどではない。まったくない。
「そんなことはないぞ。オレはお前と同じ時代の服にしたつもりだった」
……はい?」
「並ぶならば、その方が良いと思ったんだ」
カルナはジナコを頭の天辺から爪先まで眺め降ろすと、パヤッと花を飛ばした。
「だが、その姿も悪くない。安心すると良い。意外性はある」
……そりゃどうも」
彼の中のジナコは、神霊の衣装でもなく、美しい民族衣装でもなく、平凡な洋服を着ているのだ。
それは、ギャップもあるだろう。
「そう言えば、これってどうやって勝敗つけるの?」
「わからない。だが、此度はお前の勝ちだろう」
「え、カルナさんじゃなくて?」
「お前だろう」
「カルナさんでしょ」
ばちんと視線がかち合う。
「次も勝負してみる?」
「お前が許すならば」
「その聞き方はズルいッスよ」
ジナコは喉を震わせるようにして笑った。
完敗だ。きっとお互い、勝てる要素はない。
カルナは現代服だ。ジナコは神代の衣装だ。
ちぐはぐで、でもどうしようもなく得難いのだ。その理由は、わかっている。気づいている。

泡沫でも、仮初でも――同じ時代を生きる二人になってみたかったのだ。


15

ガネーシャ神がカルナに近づいてくることは、皆無ではないが少なかった。
彼は自分が面白味のない男だと承知していたし、言葉も拙い方だという自覚があった。人は愉快でないモノと関わりたいとは思わない。彼女はカルナを見ると、あからさまに逃げていく。
身を翻していく姿に傷つかないと言えば嘘になる。カルナの何が良くないのか、教えて欲しいとも思う。
だがそれは過ぎた欲だ。カルナ自身が気づき、改めるべきことだ。幾度も彼女に――■■■に教えられることに甘えていては、あまりに情けない。
そう自戒するというのに、不意に彼女はカルナとの距離を狭めることがあった。今も無防備にカルナを見上げてくる。
カルデアの廊下で、カルナはガネーシャ神に呼び止められた。彼女は「カルナさんに、ガネーシャさんからのありがたーいお告げッス」と、厳めしい顔でまったく意図の見えないことを言った。
低めた声で曰く「このゲームのこのボタンをポチポチっと連打して下さいッス。今日のカルナさんのラッキーアイテムだから」と。
それは単調な工程を繰り返す電子遊戯だった。どう幸運に繋がるのかはわからないが、任されることに否やはなかった。だが、その役目にカルナが相応しいとは思えなかった。それは彼女も承知のことのはずだった。
「そういう訳だから、どうぞよろしく。やり方はこの間、教えたからできるでしょ?」
「あぁ、問題ない」
「よっし! クリック要員ゲット!! これでガネーシャさんは心おきなく、パールヴァティーさんのお手伝いに行けるッス。でもおかしいなー、体が重い。全ガネーシャさんがお布団を求めてる。うぅ、姫さんたちと合宿しただけなのに……
「それは自業自得というものだろう」
その合宿とやらはカルナの記憶が確かならば、三日間行われていたはずだ。パールヴァティーとの約束は一日であったはずで、先に約言を反故にしたのは彼女である。
「辛辣ぅ! カルナさんはいいッスよねー。花丸優等生だもん」
大仰に項垂れる姿に、カルナは落ち着かぬ心地になる。カルナは優等生なわけではない。彼女ほど熱意を傾けるものがないだけだ。
ガネーシャ神には後で労すると知っていても、楽しみたい時間がある。それを共にできる者がいる。その結果、神妃の手伝いを課せられたのは自業自得だ。だが、彼女が刑部姫たちと過ごした時間は得難いものなのだと思う。
彼女はこれからも同じ轍を踏むだろう。それはパールヴァティーも承知しているに違いなかった。彼女たちの打てば響くような会話は好ましい。カルナには軽妙な話術の持ち合わせがないのだ。
「ガネーシャ神。お前に任せられるのは、オレでは足りぬように思う」
「ただのクリックゲーッスよ。誰でもできるというか、むしろできない人はいない。虚無にはなるけど」
「他者に時間をあえて無為に使えと課す。その考えは理解しかねるが、お前とて承知のはずだ。オレには時間がない」
「なんで今にも死にそうな言い方をする。知ってるッスよ。カルナさん、今日はレイシフトでしょ?」
「知っているならば、他の者を当たると良い。オレではお前の望む結果は出せまい」
彼女の求める成果を出すには時間が必要だ。カルナはマスターより午前午後とも編成を通達されていた。費やせる時間は多くはない。
「別に良いっスよ。帰ってきてからで」
「だが……
「ボクが良いって言ってるんだから良いの! カルナさんがヤダって言うなら別だけど」
「嫌ではない」
少なくともゲームを持っている限り、一度はカルナは彼女を訪ねることができる。彼女から今のようにカルナを呼ぶこともあるだろう。
「なら、なんも問題はないッスね! それじゃあ、カルナさん。ボクはこれで! 任せたッスよー」
ひらひらと丸みを帯びた手を振られる。立ちつくすカルナを置いてあっさりと向けられた背に、少しの寂寞を覚える。それを気取ったわけではないだろう。
だが彼女は廊下の角を曲がり切る前に、くるりとカルナを振り向いた。
「今日のボクは食堂のお手伝いなんスよね。帰ってきたらなんか一品、サービスしてあげるから、考えといてくださいッス」
……承知した」
「じゃあ、いってらっしゃい」
カルナに笑いかける声は、朗らかと言うには感情を孕んでいた。
何かを祈るような、繋ぎ止めようとするような。
蒼褪めた頬に「■■■」と、掴まえきれない名前が喉奥にせり上がる。
「そんな顔をするな」
「そんな顔ってどんな顔? なんちゃって。フヒヒ、大丈夫ッスよ。カルナさんは嘘つかないって、ジナコさんは知ってるんだから。だから――
榛の瞳がカルナを見つめる。柔らかく、痛みすら溢す眼差しを彼は知っていた。


白々とした廊下で、カルナは手に預けられたゲーム機を見る。彼女の姿はない。おそらくカルナと彼女、どちらかが役目を終えるまで今日はもう会うことはないだろう。
カルナは任せられたことを、考えておけと言われたことを思い出す。すべては帰ってきた後のことだ。
彼女がカルナに近づいてくることは、少ないが皆無ではなかった。彼女は小さな約束を手にカルナを呼ぶ。それは決まってカルナが戦場に行く時だった。何故と尋ねることは、いまだにできていない。無意味だということは容易いだろう。
マスターのために在るのがサーヴァントだ。
カルナという取るに足らない男を英雄だと、そう語り継いできた人の子たち。彼らの助けとなるならば、カルナは自らを費やす。躊躇う日はないだろう。
彼は得難いと、そう抱く理由を知ることすらもどかしい人を目蓋の裏に描く。その瞳を、その声を、その微笑みを。彼女と交わしたその言葉を。
それはもう、約束のようなものだ。だから――
「約束は、果たす」
彼女が待つという。ならば、カルナは帰るまでだ。


16

良く見ている人なのだ。
ガネーシャ神は――その依り代はカルナと目が合うたびに、嬉しいような、申し訳ないような、大丈夫だと告げてしまいたいような、さまざまな感情を覚えている。
(ほーんと、カルナさんはお父さんなんだから。心配性の貧乏くじ引きまくり。本人は全然、気にしてないけど)
カルナにとって、それは特別なことではないのだろう。できるからしている。それだけなのだと知っている。気負うこともなく、見返りを求めるわけでもなく。カルナはそういう人で、そんな人だから、彼女は、ジナコ=カリギリは救われた。信じられる――信じたい。彼女は英雄に出会ってしまった。
(英雄も神様も、大っ嫌いだったのに)
ジナコは神様も英雄も信じていなかった。憎んですらいた。
助けてと叫んだ声は、伸ばした腕は、誰にも気づかれなかった。それどころか、神様も英雄もジナコを苛んだ。
ジナコが悪い子だから、神様は罰を当てたのだと言う。ジナコの前世の業が、報いが、パパとママを殺したのだと、誰とも知れない人々は教えた。
地獄であなたの大切な人たちは苦しんでいる。
見てきたかのような顔で、口々に救い主を、英雄を求めろと言う。
真摯に祈るだけではならない。ジナコには罪がある。彼女の家に、血に、前世に。ひとつも身に覚えのないことだった。覚えようもないことだった。
両親を救いたくはないのか。そのための手段はある。賢しげに彼らは言う。パパとママのお金に穢れだと微笑む。現世の禊を。浄財を。どこから嗅ぎつけてくるのか、人の不幸は金になる。うんざりだった。
神様も英雄も嘘だ。人は死んだらそれでおしまい。救いなんてない。それが幼い日。彼女が見つけた真理で現実だった。
もしかしたら、と考える時はあった。昼に夜に、もしも本当に――それは、その想像は地獄だった。
何もしたくない。何も考えたくなかった。いつか必ず終わるのだ。何をしても、しなくても。
逃げてばかり。嘘ばかり。自分が大嫌い。
でもお節介な人たちに散々に構い倒されて、英雄に救われて、ジナコはどうしようもない自分を生きようと思ったのだ。だがしかし。
(これは予想外ッス)
今の彼女は神霊の疑似サーヴァントだ。英雄は信じるジナコだが、神様はまったく信じていなかった。ところがナントイウコトデショウ。寝て起きたらジナコは神様の依り代になっていた。
カルデアには彼女の他にも多くの神霊が現界していて、彼女に神様の実在を見せつけてきたわけだが、ジナコは自分でもどうかと思うほど「そういうこともある」と受け入れることができた。
ジナコの世界に神様がいるのか、天国と地獄があるのかはわからない。パパとママがどこにいったのか、どこにもいないのか。前世も来世もわからない。ジナコは今を生きることしかできない。それでいい。
彼女は神様を信じない。ジナコを依り代にしたガネーシャ神は理不尽の塊だし、カルデアのトンチキ時空には高確率で神霊サーヴァントが関わっていたりする。
神様は自分本位で気まぐれだった。振り回されるマスターを見て欲しい。彼らなりの好意の発露なのかもしれないが、神様に祈ってもしょうがないしかない。つまり。
ガネーシャ神は、ピッと険しい顔をしたサーヴァントの鼻先に指を突きつけた。
「カルナさん。もう何回言ったか忘れたッスけど、ガネーシャさんは神霊サーヴァント。つまり神。神様は超絶気まぐれなのです。ボクに祈願とか、空ガチャ回すようなもんッスよ。お願いは120パーセント叶わないと思って欲しいッス!」
「いつか気が向くかもしれないだろう」
「いや、いつかって……
「お前の気まぐれを待つのは悪くない。だが早く受け入れて欲しいとは思う。できるならば、今すぐが良い。ガネーシャ神。オレの願いを聞き届ける気はあるか」
「お、圧しが強い。そしてお願いされている気がまったくしない。どっちかと言うとこれ、脅しのレベルじゃない?」
「圧せば頷いてくれるのか?」
「お断りッスねぇ」
彼女は肩を竦めた。カルナは唇を引き結んだ。力のこもった目元に、ジナコは気の抜けた笑みを浮かべた。
カルナの願いを受け入れることはできる。心のどこかでは、頷いてしまいたいジナコもいる。
彼女は今、ベッドの上にいる。自室ではない、医務室のベッドだ。
ジナコは今日のレイシフトでヘマをした。軽いとは言えない損傷で、ピコッと大変だったと聞いている。他人事なのは、ジナコが意識を失くしていたからだ。恐慌を起こす前に、神霊のガネーシャさんのサポートが入っていた。
白い薄掛けに隠れているジナコの体に不足はない。うっすらと取れかけたような気がしないでもないような手足はちゃんと繋がっているし、目だって両方とも見えている。長い髪だって寝癖がばっちりついていた。痛みはない。徹ゲーだってバッチこいだ。
唯一、問題があるとすればそれはカルナだった。
「カルナさん。ボクは大丈夫ッスよ。繰り返しになるけど、ガネーシャさんは神霊サーヴァント。ボクの耐久性能、カルナさんも知ってるでしょ?」
「知っている。オレよりもお前の方が耐えられるということも、そのためのスキルがあることも。それでも、オレは――
カルナがジナコの手を取る。柔らかく、壊してしまうことを怖がるように、ジナコの手の甲に額を押しつける。彼女は下げられた頭を見つめた。
震えているのはジナコだろうか。それとも、カルナだろうか。きっとジナコだ。そう思っていたい。でも、そんなズルい逃げを許してくれる相手ではないのだ。
「オレは、お前が傷つくことが耐えがたい」
「それはボクも同じ。カルナさん、無茶ばっかりするんだもん。でもしょうがない。サーヴァントって、そういうものでしょ?」
サーヴァントはマスターの道を拓く手段だ。使うことを恐れてはいけない。惜しんではいけない。疑似サーヴァントであっても、それは変わらない。
「カルナさん。ガネーシャさんは、サーヴァントッスよ」
彼女はカルナの願いに首を振る。俯いた背が大きく揺れた。手を握る指が少しだけ強くなる。
本当は隠れていたい。ジナコに戦う覚悟は欠片もないのだ。
神様なんて理不尽だ。ジナコの都合なんてこれっぽっちも考えてくれない。痛いのも怖いのも大嫌いだ。でも、それでも、戦う世界に放り出されても、逃げる選択肢をジナコは蹴っ飛ばしたのだ。そこに英雄がいたから。ジナコはカルナの力になりたい。月では叶わなかった隣で――今のジナコは、カルナのマスターではないけれど。それは誰にも教えていない、彼女ひとりの欲だった。身に過ぎた願いだった。カルナの願いとは相反する思いだった。
「どうしてお前なんだ」
「どうしてッスかねぇ。神様の気まぐれじゃない? たまたまいい感じに波長が合ったとか、そういうやつ」
「そんな理由で……
「そんな理由がちょうどいいんじゃない」
途惑う視線に、ジナコは不敵に笑った。
ジナコがいるのは運命とか、宿命とか、そんな大層なものじゃない。
「だからカルナさんも気にしないで、とはいかないんスよねぇ」
「当然だ」
「アタシはサーヴァントで、マスターじゃないんだけど」
「知っている。だが、それでも望みたい。譲れないんだ」
「そろそろ諦めたら?」
「断る」
間髪なし。頑固と言うか、執念深いと言うか。一念岩をも通すにも限度がある。
カルナはマスターのように、ガネーシャ神を庇護したいと欲しがる。後ろにいろと、声を荒げられたこともある。理屈ではない。理由を探すことすらもどかしい。同じサーヴァントに抱くにはおかしな衝動を、彼は神霊の疑似サーヴァントに求め続けている。
(ガネーシャさんの中の人は、一般ピーポー。エリートニートのジナコさん。ガネーシャさんのサポートがあっても、不安の要素しかない。わかりみしかない)
ジナコとカルナの視線が一番重なるのは戦闘時だ。カルナはいつもジナコが戦場にいることが信じられないと言うように、恐れるように彼女を見る。
ジナコはカルナと目が合うたびに、嬉しいような、申し訳ないような、大丈夫だと告げてしまいたいような、さまざまな感情を覚えている。
「アタシは、あなたの背中にはいられない」
だって、ジナコはそれを自分に許せない。
「お前は惨いことを言う」
「神様ってそういうものでしょ?」
「神霊以前だ。お前は人を試すことばかりを言って、そのくせオレの欲しい言葉は一度もくれない」
……それ、いつの誰の話?」
「今のお前の話だ」
「そうと言えばそうのような? ――いや、違うでしょ!」
「違わない。お前はオレに戦えとも勝てとも言わなかった。スレ監視や購買には良く行かされたが……
「それは悪かったって! でもアタシじゃカルナを戦わせることはできなかったよ。カルナさんだってそう言ってたじゃん。アタシが圧しかかった方が威力があるとか何とか」
思い出すだに失礼しかないが、ジナコは令呪すら小石に躓くレベルのマスターだったのだ。
しかし本当に普通に話しているが、カルナの霊基はどうなっているのだ。サーヴァントの記憶は引き継がれない。そのはずなのに……カルナはジナコの手の甲に額を押しつける。意識していなかったがそれは右手で、さすがカルナさん。規格外がすごい。ヒエッとする。
慄くジナコにカルナは「何となくだ」と言う。何となく。この英霊、気合で万事解決し過ぎじゃないだろうか?
「ジナコ」
「うぎゃっ! もう、普通に呼ばないでよ」
それは見つかるはずのない名前なのだ。
「ジナコ。オレはキミに助けを求められる者になりたかった」
「また普通に呼ぶし。って、え!? カルナさん、アタシに助けてって言って欲しかったの?」
答えは、きつく握られる手で返ってきた。
「身の程知らずの願いだ。だが、求められたい。オレはキミのサーヴァントだったんだ」
「だーかーらっ! 今はジナコさんもサーヴァントッスよ。って言っても聞かないんだろうけど。カルナさんはしょうがないッスねぇ」
震えて蹲るだけだったジナコが「助けて」と、己のサーヴァントに告げたなら、月の結末は変わっていただろうか? ガトーのおっさんは、はくのんさんは――意味のない仮定だ。カルナもわかっている。あのどうしようもない最後でなければ、ジナコは万の歳月を越えられない。
ジナコはカルナに掴まれていない左手で、頭の天辺をコツリとした。大仰に跳ねた肩がおかしくて、ジナコはクスクスと笑った。
カルナは知らないのだ。ジナコは「助けて」と叫んだことがある。
インド異聞帯。神の空岩。終わりの見えない孤独の中で「殺して」と願った。神霊の加護があっても、発狂して当然の歳月だった。でも、ジナコは狂わなかった。
そんな顔をするなと、また逢えると――約束したから。
「あなたはアタシを助けてくれたよ」
月でも、異聞帯でも。だから、ジナコはここにいるのだ。あなたの隣で戦えるのだ。
ジナコは、今はもう何もない手に額を押し当てるサーヴァントに囁く。カルナの願いにジナコは頷かない。幾度、願われても。
マスターじゃないからとか、サーヴァントだからとか、なんて言い訳は言わない。ジナコがそう願うのだ。
「カルナ。アタシはアタシの好きなように生きたい」
いつか必ず終わるなら、ジナコは笑っていたいのだ。
それはきっと、カルナの欲しいものとは真逆で――しょうがない。諦めて欲しい。ジナコは彼らに、カルナに、それで良いと送り出されたのだ。生きろと祝福をかけられてしまったのだ。
幼子がむずがるように、カルナが首を左右に振る。「お前はズルい」とジナコを詰る。
それはしかたない。今の彼女は神霊サーヴァント。神様は気分屋で自分本位なのだ。
「アタシは生きてるよ。だからさ、カルナさん。笑ってよ」
……難しいことを言う」
「無茶ぶりは神様の十八番ッスよ?」
「本当にキミはオレをサーヴァントとして求めない」
「ふひひ、そりゃそうッスよ」
彼女は神様よりもずっと自分本位で我がままで、でもそれでも。
ジナコはカルナを――英雄よりも信じている。


17

インド異父兄弟は、放っておくとヤクザかマフィアかチンピラになるらしい。
「これ、絶対に近づいちゃヤバいヤツじゃん。陰キャの天敵。良くわからないけど、やたらに声がデカい人たちのアレ。アシュヴァッターマンさんはどこ? 絶対いるでしょ。馴染み過ぎて見えないだけで」
ジナコはマジマジと某赤白ボーダー絵本のように、その画像をためつすがめつした。
日本は大阪。通天閣。大阪城と双璧を成すであろう観光名所の雄である。
細目になった彼女に、チンピラの兄の方が「アシュヴァッターマンは来ていないが」と即レスをかましてきた。
……梅田ダンジョンではぐれたの?」
「はぐれていません。そもそも彼は今回の旅には来ていない。それは貴女も承知のことのはずですが」
今度はチンピラの弟の方がガチレスしてきた。知っているとも。
「まず、私はこの男が来ることから予定外でした。マスターに四十七の地からオオサカを選んでいただく。そのためのリサーチ。プランニングも完璧でした。それをこの男が、最後の最後に……お好み焼きだと? 夜は串カツと決めたはず。貴様は何のためにむやみやたらに食べ歩いていたんだ」
「むやみには食べていない。評価はつけていただろう」
「すべて花丸二重丸だったがな!」
そういうチンピラ(弟)の手には三つ折りの食べ歩きガイドマップが握られていた。チンピラ(兄)はわずかに首を傾げた。鼻にかかったサングラスがまさにチンピラだった。
しかし、何故に彼らはジナコさんを挟んで会話をしているのだ。体積的にほどよい壁だとでも思っているのだろうか? 勘弁して欲しい。
今日の彼女は何かと構ってくるチンピラ(兄)の不在に、自堕落を満喫していたのだ。姫路城にいる刑部姫と通信しつつ、のんべんだらりとしていたのだ。そこにドヤドヤと兄も弟も入ってきた。
正確には兄――カルナに、弟――アルジュナがついて来た形だが、二人とも早急にお帰り願いたい。彼らは部屋のロックの意味をそろそろ知るべきだ。ゴーイングマイウェイが過ぎる。
カルナはアルジュナが突きつけたガイドマップを広げると、ふむとひとり首肯した。
「何が問題だ」
「問題しかないだろう。百歩、否、千歩譲りたくはないが譲ってすべて評価が同じなのは良い。どれも甲乙つけがたい店であったことは確かだ。だが、この欄外は何だ」
「それはオレにもわからん」
「書いたのは貴様だろう!」
眉を吊り上げるアルジュナに、ジナコはどれどれとガイドマップを見るために背を伸ばした。
……ふ、やはり興味があるか」
「どうしてそこでドヤる」
慣性でツッコミ、ジナコは差し向けられたガイドマップに目を落とした。
■■■が好む甘味が豊富。■■■の食べ過ぎが危惧される。エトセトラエトセトラ。■■■の大盤振る舞いだった。どういうことだ。食べ物・イコール・ジナコさんなのか。認識阻害さんは無事なのか。ダメか。そうなのか。
「今のオレに、これを読み解くことはできないが」
ジナコは隣で同じようにガイドマップを見てくるカルナに、ヒエッとした。本当にこのサーヴァントはどうなっているのだ。
「これはオレの個人的な感想だろう。貴様には関係のないことだ」
「確かに、貴様の感想など大したものではない。マスターには私が最高のプランを提案する。対するはあまたに手ごわくあれども、選ばれるのはオオサカ。そして夜は串カツです」
「お好み焼きだ」
「貴様はそう言って豚まんを食していただろう。たこ焼きを食べ串カツを食べ手羽先を食べ、どういう腹をしているんだ」
「ガネーシャ神には負ける」
「唐突にボクを巻き込まないでくれます!? まず、これそういう話だっけ? そんな四十七都道府県バトルロワイヤルだった?」
そして投ぜられる票は、マスターの清き一票しかない。
サーヴァントがマスターのかわりに現代日本を旅する。まず候補地が四十七であることでガチバトル。勝ち残ったインドサーヴァントには大阪がダーツ旅をされた。アルジュナが「狙わずとも!」と日本地図をぶち抜いたのは余談である。ただでさえ漂白されているのに、アナログ地図上でも消さないで欲しい。
では、インドサーヴァントの誰が大阪に行くのか。
ジナコはもちろんパス。現代日本を見てメンタルが無事である予感がしない。パールヴァティーは食堂の切り盛りがある。アシュヴァッターマンは神妃を重んじ辞退。カーマは表面上は興味なし。ラクシュミーは幸運値的にひとりでは不安。ラーマはシータと行きたいと譲り、アルジュナ・オルタは尾と角的に難しい。
となると、残るのはカルナとアルジュナである。宿痾な二人である。
もちろん彼らが譲り合うわけもなく、結果として仲良く――ではなかったが、二人で旅立ったのだった。
チンピラになって帰ってくるとは思わなかったが。ガイドマップの欄外に、ジナコ評価表がつくとはもっと思わなかったが。
ジナコは食べ歩きガイドマップをカルナに返すと、退室の気配が微塵もないインド異父兄弟を見上げた。
このチンピラ異父兄弟、いつまでいるのだ。旅行から帰ってきて、浮かれているのだろうか?
カルナは表情筋が長期休暇中で、アルジュナは自律が強すぎるので表面からはさっぱり窺えないが。まぁ、ジナコはインドは箱推しである。彼らの話は聞かないこともない。
「食べ歩きの他には何かしたんスか? 通天閣に上ったり、大阪城に行ったり」
「他はどこにも。この男が地図の端から端まで食べ歩くので、早々に路銀が尽きました」
「どんだけよ」
「オレだけと言うのは心外だ。メニューの端から端まで持ってこいと言ったのはアルジュナ、貴様であったはずだ」
「二人揃って何してんの。アクセル以外に踏むものないんスか」
「必要なことです。すべてを確かめねば正しい評価はつけられない」
「真面目か」
こんなチンピラな見た目をしたでかい男二人に、メニューすべてを持ってこいと言われる。戦慄待ったなしである。実際はお行儀よく食べてきただけなのだが。フードファイターとは思われたかもしれない。何にせよ、店員さんはお疲れ様である。
「すべてはマスターに最高の旅を提案するため。そのための務めです。ガネーシャ神。申し訳ないのですが、貴女にお土産を用意することはできませんでした」
「それは良いけど」
「あと、神妃パールヴァティーにはこちらを捧げようと思うのですが」
「お母様にはあるんかい!」
……当然では?」
とても澄んだ目で見つめられ、ジナコはハハンッと肩をすくめた。
「そうッスね。ガネーシャさんのお母様なら当然ッス。では、アルジュナさん。そのお土産、ガネーシャさんがチェックして進ぜよう。なに買ってきたんスか?」
絶滅危惧種の三角タペストリーか、黄金の大阪城のペーパーウェイトか、はたまた機能性ガン無視の通天閣ボールペンか。
「カルナはともかく、私が神妃に捧げるものです。その選択はあり得ません」
「アルジュナよ。貴様が最初に選んだのは、オレの記憶が確かならばの通天閣のペンライトではなかったか?」
「それは貴様だろう」
「オレは温度計のついた黄金の通天閣だ」
どちらにせよ、イヤゲモノである。お金が足りなくて良かったとしか言えない。
「なに買ってきたのか、本当に見せてくれる? あとペンライトはないから。温度計もないけど」
……かまいません」
どこか悔しげなアルジュナが袋から取り出したのは、ストラップだった。良くあるご当地キテ〇ちゃんである。しかし。
「これ、なに」
「たこ焼きです」
アルジュナがドヤる。大阪と言えばたこ焼きだろうと。それはわからないでもない。
「オレはお好み焼きだと言ったのだが、アルジュナは串カツだと言う。だが購う金銭は一つ分だった」
「どんだけ食い倒れてきたんスか。あとアンタたちは、とりあえず対立しないと気が済まないんスか」
落としどころがたこ焼きだったのだろう。だが、たこ焼きデザインを選ぶにしても、もっと可愛いものはなかったのか。
キテ〇ちゃんがタコになってたこ焼きに絡みついている。通天閣もセットだ。そしてやはり通天閣にもタコ足が絡みついている。怪獣か。さすが世界のキ〇ィ。仕事を選ばない。施しの英雄に通じるところがある。
「どうです。これは神妃に捧げるに足るでしょう」
「この世界の〇ティとたこ焼きと通天閣の闇コラボが? 本気で言ってる? 古代インド的にこれはアリなの?」
「お前にはないのか?」
……うっ」
カルナさんよ。何故に悄然とする。
今のカルナの見た目はチンピラだ。指にはなんか刺々したごっつい指輪がついている。耳にもヤバいのがついている。しかし、カルナさんである。髪にメッシュが入っていても、キ〇ィちゃんを宿痾とガチで意見を戦わしたうえで選んでくる人である。
「悪くないんじゃないッスか」
パールヴァティーさんも驚くかもしれないが、二人が選んだ心を喜ぶに決まっていた。トリシューラにつける可能性もある。むしろつける未来しか見えない。だってストラップとはそういうもの。
「そうか、ならばいい。今回は叶わなかったが、次はお前にも贈りたい」
「まさかのお母様とお揃い宣告!?」
「む。他の意匠ならば……
「カルナ。通天閣ならば、お好み焼きのものがあったはずだ」
「そうか。ならばそれにしよう」
おい、インド異父兄弟。アイコンタクトをとるな。それはどんなトンチキなストラップなのだ。
「ストラップではない。ぬいぐるみだ」
「なん、だと」
「この程度の大きさだったな」
カルナが両手で大きさを示す。ジナコが両手で抱えられるか否かと言うサイズだった。
「どうだろうか?」
「いや、どうもこうも」
本当にどうしろと?
「それはお前の思うようにすると良い。だが、そうだな。望むことを許されるならば、部屋においてくれないか」
通天閣とお好み焼きとキテ〇ちゃんの闇コラボビッグぬいぐるみを?
困惑するジナコを哀れに思ったのか、アルジュナが助け舟を出してきた。
「黄金の通天閣の文鎮の方がガネーシャ神には良いのでは? なにせこの部屋です。スペースが……
「スペース言うなァ! あと本命は粉ものでもキ〇ィちゃんでもなくて、通天閣なの!?」
「ペンライトの方が良いですか? 七色に光ります」
アルジュナが記録画像を端末に表示させた。
文鎮もペンライトも謎ハイクオリティだった。そして闇コラボぬいぐるみは、想像以上のカオスだった。カルナが腕に抱えているところがより混沌みを深めている。
誰が見てもチンピラ。チンピラ(あるいはヤンキー)とキ〇ィちゃんはある意味、親和性が高いけれど、抱えているのが無表情のカルナだ。攻撃力が高すぎる。
授かりの英雄よ。あなた、これどんな顔をして撮ったのだ。そして施しの英雄よ。何故にそんなに上機嫌なのだ。尊いじゃないか。
「ガネーシャ神。オレはこの旅で深い感銘を受けた。通天閣、この塔を見ると良い。安心と信頼。極東の地にも、我が父の威光は届いていたのだな」
「スーリヤ神ならば当然でしょう。今回は叶いませんでしたが、次はマスターと共に拝したいものです」
「そうッスね。安心と、信頼」
インスパイヤー・ザ・ネクスト。
ジナコはいま一度、展開された画像を見た。
安心と信頼の日〇グループは、そういう意味ではない。社名の由来的には、あっているのかも知れないけれど。
「もうダメッス、限界!」
ジナコは噴き出した。お腹が痛い。
インド異父兄弟が、きょとりと瞳を瞬く。大阪で強化されたのか。インドのボケは今日も冴えていた。しかたがない。
ジナコは笑い過ぎて滲んだ涙を拭うと、頭に「?」マークを浮かべている英雄たちに笑った。
「次はボクも、マスターも、みんなで一緒に行くッスよ」
いざゆかん、お笑いの聖地。
ツッコミ要員であるジナコにも、強化クエストは必要なのだ。


18

こだわりを持つのは、悪いことではない。
興味がないよりはるかに健全であると思う。ジナコはオタクだ。その辺りの理解はあるつもりだ。しかし、限度はある。
(どうしよう。止めるタイミングが見つからない)
むしろこれは止まるのだろうか? 無理ゲーだ。人間諦めも肝心だ。内なるジナコさんが囁いている。
彼女は明後日の方向に魂を飛ばそうとして、いや待てよ? それは相手の思うつぼだと思い直した。
人は学習する生き物である。ここで惰性に流れようものなら、ジナコは直視しがたい現実に見舞われることを知っていた。生存本能が漂白されていると、誰とはあえて言わずとも評判のジナコさんだが、さすがに同じオチを繰り返せば学習しようものである。
(あ、危なかったッス)
ジナコは危うく「好きにしたらァ!?」と毎度おなじみの丸投げスタイルを披露するところだった。
見るがいい。ちょっと残念そうな顔をしているじゃないか。ほんの少しだが、眉が寄っている。「あと少しだったのに」そんな副音声が聞こえてきそうである。意外と策士か。
コホリとわざとらしく咳ばらいをすると、彼女は目の前に立つサーヴァント、カルナに向けて満面と笑った。パヤッとカルナから花が飛んだ気がするが、ジナコが笑ったのは肯定や好意ではない。彼もなかなかどうして学習しなかった。
「カルナさん。それはどっちもなしッス」
「そうか。では……
「では、じゃないッスよ! なんでそんなにこだわるんスか! あとどんだけ候補があるんスか!!」
ジナコは叫んだ。カルナは律儀に候補を指折り数えた。両手の指を二往復以上した。どういうことだ。誰か止めなかったのか。
彼女は脳内で彼の異父弟に物申した。イマジナリー授かりの英雄は「冗談も休み休み言ってください」と回答した。イマジナリーだというのに、その目は完全に死んでいた。対ガネーシャ神、もといジナコにおけるアルジュナの基本だった。
どんな基本だと言ってはいけない。そして彼の目からハイライトが消える理由もわかるのだ。
「カルナさん。ボクの体はひとつしかないんスよ。こんなにあっても、着ていくとこないし」
「問題ない」
「いや、問題以外ないでしょ」
ジナコは腰に手を当てると、フンスとカルナを振り仰いだ。
カルナとジナコ。その間に置かれる――をはるかに越えて、ひしめくショップバッグ。中身はすべて洋服だった。
本日、カルナがガサゴソと両肩に提げて持って来たものである。ジナコ的には、薄い本の方が馴染み深いスタイル。しかし出てきたのは、陽キャの塊のような服だった。
ペンキを盛大にこぼしたようなパーカーなど、ジナコの人生には一度も割り込んできたことのない代物である。だが、出てくる服すべてが同じ調子。ズンドコ重低音が流れている店で売って良そうなものばかりだった。
どこで買ってきたの。大阪ですかそうですか。知っていた。今度はインドサーヴァントで行くことになっていた。なので洋服。オーケー理解した。
食い倒れには大いに興味がある。カルナたちと外出するのだって、悪くはない。だがそこはジナコである。素直に楽しみだと言えるわけがない。そういうのはジナコのキャラ設定にはない。
「着ていく服とかないし」とお前はシンデレラかと言うような理由で渋った瞬間に、カルナが「オレに任せると良い」と頷いた。後は施しの英雄による『ジナコさんのお出かけスタイル提案会』である。
止める隙はもちろんなし。頼んだ覚えだってない。しかしカルナは押してきた。彼はジナコがあれこれ理由をつけて、外出を渋ると把握していたのである。カルナにジナコをプロデュースするつもりは皆無だろうが、外堀から埋めていこうという意志は感じる。
そんなに押して来なくてもお出かけはする。本当は楽しみなのだ。そう素直に言えれば苦労はない。
「どれも陽キャ。ボクにはキツイ」
そろそろ決めたいとは思う。だが、カルナが持って来た服はパリピが過ぎて、ジナコには似合うか否かもわからない。あと量が多い。是が非でも連れ出そうという圧がすごい。
「窮屈を厭うならば、これならばどうだ。お前の腹も十分に覆えると思う」
……ねぇ、何でまずお腹に着目した?」
「そこが入らねば意味がないだろう」
「おおっと、これは訴えたら勝てる。カルナさん。ここは言っておくッスよ。ボクが洋服で困るのは、お腹より胸だから! 胸が入るかどうかが最難関で一番大事なんだから!」
「ならばなおのこと、これにするといい。生地に伸縮性もある。着るのも楽だぞ。頭から被ればいいだけだ」
「お気遣いどーも! でもそれもなし!!」
カルナが手にしているのはユニセックスなパーカーだった。黒地にピンクが攻めている。着こなせる人間など……いたんだなー、これが。
「む、これもならないか。楽であることはオレが保証する」
「楽でもなしッスよ。それ、カルナさんが着てたやつじゃん」
「お前ならオレと同じものでも問題あるまい」
「そうそう。ボクの我がままボディはメンズでも大丈夫って、放っとけーっ! ボクが太ましいんじゃない。カルナさんがモヤシなだけなんだから!」
あとカルナと服のシェアはない。着れる着れないの可能性以前。無理である。平静が保てない。
何故なら、カルナさんだから。それ以上の理由が必要だろうか? ないだろう。カルナとシェアするなら、ジナコはパールヴァティーさんとお揃いコーデで事故ることを選びたい。
「承知した。ならばこれはどうだ」
カルナが力強く頷いた。その意気込み、本当に何なのだ。
次にショップバッグから出てきたのは、ゆったりとしたTシャツだった。黒地に黄色のペンキが撒かれたような、としか言いようがないデザインである。
悪くはない。まず丈が長いのが良い。体型カバーは大事だ。長袖だが、袖口が広がっているのもジナコ的にアリである。下をどうするにせよ、この辺りで手を打ちたい。ジナコさんはそろそろお休みしたい。カルナさんはお帰り願いたい。
「あー、良いんじゃない? それにする。はい、決定」
「では、着てみると良い」
「ここで!?」
カルナの前で? それは何という罰ゲームだ。
「オレの前である必要はないが、試着しないというのは……
「だーかーらーっ、腹を見るな腹を! 違う。胸を見ろという意味ではない。ほんと、訴えるッスよ!!」
話しながら、ジナコは装飾品をポイポイ外していく。
ガネーシャ神の衣装は、上着と装飾品がなければ下着のようなもの。深く考えてはいけない。上着は最後にぶん投げた。カルナがキャッチしたのは見なかったこととする。だが、そうは問屋が卸さないのが施しの英雄である。
「これは、畳んでおいた方が良いか?」
「なんでよ。またすぐに着るのに、畳む必要とかなくない?」
「ないのか」
「ないでしょ」
……オレは山のような洗濯物も畳めると思う。何故かはわかないが」
「あははー、なんでッスかねー」
ジナコは首を傾げるカルナからTシャツをふんだくると、頭から被った。
洗濯物の山云々は、できるなら忘れておいて欲しい記憶である。何故に覚えているのだ。カルナさんだからか。そうなのか。それ以外のアンサーが見つからない。さすがカルナさんである。容赦がない。
動かないジナコを案じたのか、カルナが「そこは袖だ。さすがに頭は出ないぞ」と教えてきたのは聞かなったこととする。
「手伝った方が良いか?」
「カルナさんの中のボクは、どんだけ要介護生命体なの!? 自分で着れるに決まってるでしょ! はいっ、これで良い?」
襟から髪を抜き終えると、ジナコはカルナを見上げた。さぁ、どんなキレキレコメントがくるか。
受けて立つと胸を反らしたジナコに対して、見下ろすカルナは無言だった。突然の沈黙である。
……あの、カルナさん? ノーコメはやめて」
ジナコはおずおずと訊ねた。カルナは口を開かない。わかり辛いが、困惑しているようだった。思う以上に似合っていないのか。
「そうではない。似合う似合わないは、オレの判ずるところではない。ただ、縮んだか?」
「はぁ? ボクは縮んじゃいないッスよ!」
「だが、着丈があっていない」
袖口をひかれ、ジナコは何を言っているのだと渋い顔をした。
「そりゃそうでしょ。ボクよりカルナさんの方が大きいんだから。オーバーサイズになるのは当たり前」
ジナコはカルナにつままれていない方の袖を振った。ちんまりとしか指先が出ていないのは、ジナコが縮んだからではない。仕様だ。
「そういうものか」
「そういうものッス。なんスか。ボクはピコッとマシュマロボディだけど、腕とか足の長さは標準だから。カルナさんがモデル体型なだけ! ボクは、普通!!」
「そうか。そうなのか。常のふてぶてしさに忘れていたが、こうして改めて見るとわかるものだ。お前はオレより小さい。お前のふてぶてしさは大したものだ」
「しみじみ言うな!」
あと、ふてぶてしいを二度も言う必要はあっただろうか? 一度だってないはずだ。
カルナはジナコの袖口からのぞく指を見ると、再び小さいと言う。
今更だが、カルナはどれだけジナコをふてぶてしく思っていたのだ。ジナコがカルナより小さいことなど、こちらが見上げて、そちらが見下ろしてくる時点でわかるはずなのだが。
――意識することがなかった」
「さようで。まぁ、ボクのサイズ感とか誰得情報だし」
なので、そんなじっくり確かめないでよろしい。袖の上から手を握られて、ジナコは居た堪れないことこの上ない。
「必要なことだ」
「デッドデータになるのが目に見えてるんだけど。……そう言えばカルナさんは今度の旅行、どうするの?」
「前回と同じにする」
「えっ、お着替えしないんスか!?」
カルナが黒地にピンクのパーカーを取る。似合っていたけれど、他の格好も見てみたいという欲もあったりなかったり。
「お前は、変えた方が良いのだろうか?」
「いや、カルナさんが良いなら良いけど」
あのチンピラスタイル、そんなにお気に入りだったのか。でも、こだわりを持つのは悪いことではない。興味がないよりはるかに健全であると思う。
だから、そんなしょんぼりした顔で見てこないで欲しい。ジナコはオタクで、その辺りの理解はあるのだ。
ジナコはカルナを見上げると「好きにしたら?」と笑ったのだった。
彼女は知らない。カルナがジナコに提案した黒地に黄色のペンキを撒いたようなTシャツ。それはストリート系ファッションの定番。バックプリントTシャツだった。
もちろんデザインの本命は背中にあり――

ジナコがそれに気づいたのは、旅行が終わった後。
何故か部屋で洗濯物を畳んでいたカルナが、Tシャツを広げた時である。


19
政略結婚パラレル 

ジナコの部屋には、嫁入り道具として持って来た化粧箱がある。
布張りで花の刺繍がされたものだ。布は染められておらず、刺繍に使われている糸も意匠も凝ったものではない。それは高価でも希少でもない、市場で売っているものだった。
では母から娘へ贈られるような情の通ったものかと言えば、そういう由来もなかった。化粧箱は、彼女が自分で購ったものだ。
まずジナコには両親がいない。幼い頃に死に別れ、二人を惜しむものはすっかり彼女の手から去っていた。彼女に残ったものと言えば、ジナコという名前ぐらいだ。家名すら失くして久しい。
それを寂しいだとか、不自由だと思うことはなかった。ひもじい思いも、渇き狂う暑さも、肌が裂かれる寒さも知らない。孤児となった彼女は、誰に損なわれることもなく長じた。恵みとも言える厚遇の下に生きてきた。
「蓄えは多ければ多いほどいい。いざと言う時に使えるわけだし」
ジナコは、自分の性が女であったことに感謝するべきなのだろう。
孤児となった彼女は、後宮に納められた。彼女の生まれた国では、庇護者のいない女はそういう決まりだった。容姿も生まれも関係はない。何故なら、女は使い道がある。特に幼ければ、養い育てるだけの価値がある。世継ぎを生む、慰み者としての価値ではない。それは本当の妃たちの役目だ。ジナコにあったのは報奨、あるいは貢物としての価値だ。
王の妃――内実はどうであれ、妃を嫁されるというのは名誉なことだ。たとえその王の名も顔も知らない女だとしても、女を贈ること、そして妃を手にすることに男たちは価値を見る。
贈られた女たちが幸せに暮らしているのか、ジナコは知らない。生きているのかすらも。
元は孤児であった娘たちだ。消息を伝える術はなく、案じる者もまたいない。そして、自分たちの末路には誰もが気づいていた。女たちが嫁される理由はざまざまにあったが、目的はひとつだ。死をもって、嫁いだ男に咎を負わせるのだ。王の妃を蔑ろにしたと、攻め滅ぼす理由を作るのだ。
今回はジナコの番であった。それだけのことなのだ。
そのために、彼女は飢えも寒さも知らずに生きてきた。悔しいとか、怖いとか、寂しいとか、いらないことを考えてはいけない。死んだように生きて、そのまま終わるのだ。どうせジナコは外では生きていけない。ジナコは何もしてこなかった。
「櫛ぐらい、買っておいた方が良かったかな」
ジナコの化粧箱は空っぽだ。
何も用をなさない箱は自分を表しているようで、彼女はクスクスと本当に小さな声で笑った。
化粧箱が欲しかったわけじゃない。何でも良かったのだ。
誰とも知れない男に贈られることが決まって、ジナコには外に出る自由が与えられた。嫁入りに必要なものを購うためにと、孤児に与えるには過分な金貨を渡された。護衛はついていたが名ばかりで、その気になれば逃げだすことだってできただろう。
金貨を元手に生きる術を見つけることができるならば。生きたい場所があるならば。
でも、ジナコにはわからなかった。これが最後の機会だとわかっているのに、どこにもいけない自分に気づいてしまった。
何もない自分。何もできない自分。親を失くしてから、その死を見てから、ただ息をしていただけの――
ジナコは立ち止まった店先にある化粧箱を手にして、そうして「これは最後の心を折るためだったのだな」とようやく気がついた。
久しぶりに見た太陽の光。咽返るような人々の熱気。雑多な匂い。声、生きている音。そのすべてがひどく遠かった。
自分たちは、市場で買われることを待っている豚や鶏と変わらないのだ。


彼女が贈られたのは同国の男ではなかった。
隣国を越えた先にある国で、くわしくは知らされていないが王族に連なる男ではあるという。
ジナコは立場上は正妻だが、妻としての役目を果たしているかと言えば否だ。まったく何もしてない。ジナコは日がな一日、部屋にこもっている。
名目上は彼女の夫である男は何も言わない。おおかた、大人しくしているならそれで良いと思っているのだろう。一応と教えられてきた閨の作法など無用の長物。学び直す機会もないので、忘れはじめている始末だ。なにせもう三月だ。
まぁ、ジナコのような厄介者に手を出す理由など皆無に違いなかった。下手に孕みなどしたら目も当てられない。ジナコはその辺りの体のつくりだけはしっかりとしていた。
「ボクは押しつけられたもんスからねぇ。カルナさんも損な性分というか、何と言うか」
ジナコを贈られた――というか、引き取ったのはカルナという男だった。
彼女は元はその異父弟行きだったのだが、それは問題があるとなったらしい。
どんなやり取りがあったのか、そもそもどんな理由があってジナコの生国は彼らに妃を贈ったのか、いまだジナコに詳しいことは不明だが、世継ぎは異父弟の方であるようなのだ。
それは拙いに決まっていた。ジナコにだってわかる。女を贈る目的はひとつだ。異父兄だから良しということにもならないと思うが、世継ぎよりはマシだろう。
「お前はオレがもらい受けることになった」
身の回りの品と化粧箱と一緒に、文字通り荷物のように屋敷に運ばれてきたジナコに、夫となる男は言い放った。もらうとは、まさにモノ扱いだった。
ジナコはポカンと男の美々しいかんばせを見上げていた。カルナは凄みすら抱かせる美貌の男だった。炎の明かりに金の装飾が煌めいていて、それは太陽にかざした金貨のようで、フツリと喉奥が熱くなった。
「オレが今のお前に妻の役割を求めることはない。誰かと会うこと、この屋敷から出ることは許可できないが、他は好きにすると良い」
放り出されて、そうして三月だ。
カルナは日に一度、ジナコの部屋を訪ねて、そうして何もせずに帰って行く。今日もその予定だろう。チリチリと突き刺さる視線は、この上なく居心地が悪いけれど。
……なんスか。ボクの顔に何かついてる?」
「いや、いつも通り丸く何かを食べているとしか思えない頬があるだけだな」
「あっそ」
ジナコは顔を背けた。カルナとどう会話をして良いかがわからなかったし、彼が何を考えているかはもっとわからなかった。あと純粋に、人の頬を丸いとのたまう感性にイラッとしたのもある。今日のジナコは何も食べていない。ここでもきちんと食事は用意されていた。甘いおやつも。
ジナコは飢えも暑さも寒さも知らずに生きるのだろう。最後の日まで。――きっと、それは幸せなことだ。
怖くても、寂しくても、不安でも、しょうがない。ジナコは何もしてこなかったのだ。何もできないままで、今まで生きてきてしまったのだ。
カルナはそう長くは留まらない。会話がないことだって珍しくはなかった。今日は良くしゃべる方だ。部屋から出ることのない彼女は、カルナ以外に話す相手がいない。
ジナコが過ごした後宮のかしましさ。その裏にある空虚と厭世。それと今の沈黙。どちらが心優しいか、わかることはジナコには荷が重い。だから、彼女は顔を背ける。俯ける。長い髪で外と自分の間に檻を作る。
知らない方が良いことは、世の中にたくさんあるのだ。そうわかっているのに。
「ジナコ」
名を呼ばれるとダメだった。彼女は少しだけカルナを見てしまう。それはジナコだけに向けられた声だからだ。
青く澄んだ瞳と視線が重なる。身を強張らせたジナコに、カルナはわずかに眉を寄せた。
「どうした」
「な、なんでまだ見てるんスか」
……? 何か問題があるのか?」
「カルナさん、いつもそんなにボクのこと見てこないじゃない」
ジナコがまだ自分の管轄下にいると、それを確かめるとカルナは去っていく。
彼はジナコに死なれては困るのだろう。ジナコだって、死にたくはない。痛いのも怖いのも嫌だった。だから、ジナコは引きこもっている。
カルナに言いつけられるまでもなく、彼女は誰にも会うつもりはなかった。そもそも、ジナコが会いたい人はもうこの世界のどこにもいないのだ。このままぼんやりと生きて終わればそれでいい。厄介者を押しつけられても、カルナがジナコに辛くあたることはなかった。
(ボクは、運が良い)
父母が横転した馬車に轢かれて死んだ時も一人、生き残った。それが王族の馬車であったから、ジナコはすぐに後宮に納められた。飢えも暑さも寒さも知らず、誰に損ねられることもなく長じた。
カルナはジナコから視線を外さぬまま、薄く唇を開いた。
「そのようなことはないと思うが、お前が言うならば心に留めるとしよう。ジナコ。お前がここに来て三月経った」
「それがどうかしたの?」
「今夜から、閨はひとつにしたい」
「ボクはどこにも行かないッスよ。今日も明日もずっと」
ただしくは「行けない」だが、それを言葉にするのは惨めだ。それに閨まで同じにするのはどうなのだ。
ジナコはカルナの正妻だが、それはあくまで名目上のもの。彼の子を生むのはジナコではない。彼女は贈答品だ。それもきっと裏のある――カルナと家族など育めない。なりようもない。
夜まで一緒に過ごすのは問題があるだろう。彼の本当の妻となる人にも引け目を感じる。だが、強く拒むこともできない。
カルナは三月と言った。その時間が長いのか短いのかはわからない。ただ、ジナコの生国はしびれを切らしているのかも知れなかった。カルナが毎日、様子を見に来るのもそういう訳だろう。
ジナコは俯けた視線を指先に落とした。幼子のような指。労働を知らない、白い肌で柔らかな爪だった。
(ボクがいても、何にもない)
カルナはわかり辛いが良い人なのだと思う。厄介者のジナコを自ら引き取った人だ。
彼に迷惑をかけるのは、少し嫌だった。ジナコにも恩義を感じる心はあった。でも彼女にはカルナに返せるものが何もないのだ。部屋に引きこもっているだけ。いつか終わる時間を消費しているだけ。
あえて言うなら、女という性があった。子を育める胎があった。でもそれも価値がない。カルナはジナコに何も求めない。だからジナコもカルナに何も求めなかった。
「そうか。今日も明日も、絶え間なくお前はオレのもとにいてくれるのか」
……カルナさん?」
その声はひどく甘いものを、喜びを噛み締めるように聞こえた。
幻聴だ。ジナコがいて何が嬉しいというのか。彼に利など何もない。歓喜などジナコの願望だ。求められたいという、呆れるほど他力本願な欲だ。市場で屠殺を待つ豚や鶏が、野に生きる明日を信じるような。
(馬鹿みたい)
ジナコは自らの幼さに、愚かさに、疲れたように笑んだ。
今が嫌なら変えれば良いと、そういう人もいるだろう。
でも、そうするだけの理由がジナコにはわからない。言い訳なのだと心のどこかではわかっている。何もできない自分を見せつけられるのが怖いだけ。市場で金貨を手に立ち竦んだ日のように。
「ジナコ。閨を共にするにあたり必要なものはあるか。オレはあまり気の利く性質ではない」
「特には。布団と枕があれば……
「それは当然だろう。オレにもその程度の弁えはある。だが、そうだな。寝台は重要だ。努めはするが、万一ということもある。今夜は先に閨に入っていろ」
「別に良いッスけど。ボクの部屋、二つも寝台は置けないッスよ」
カルナの部屋は違うのだろうか。となると、ジナコはカルナの寝室に引っ越すことなるのか。それは大丈夫なのだろうか? 余計な誤解を生みはしないだろうか。
「寝台は二つ、必要なのか?」
「あれ、もしかしてジナコさんは床で寝るんスか?」
愕然としか言いようのないカルナに、ジナコは「それもそうか」と思い直した。
布団と枕があれば、床でも問題はない。後宮では寝台などという上等なものはない。ジナコたちは、床に雑魚寝であったのだ。ジナコは体が痛くならない寝方を心得ている。
「そうではない。何故、そうなるんだ。お前はオレの寝台を使えばいい」
「そうすると、カルナさんが床に……?」
「ジナコ。戯言はほどほどにしてくれ」
困ったように窘められて、ジナコは唇を結んだ。
カルナの言いたいことなどわかっている。もうほとんど作法も手管も忘れかけているが、これはジナコの性を使うと、そう言うことだ。怖いとか、嫌だとは不思議と思わなかった。
(カルナさんならいっか)
元よりそれだけの身の上だ。それだけの恩義は受けてきた。
(上手くできる予感は皆無だけど)
でもジナコも無知ではないのだ。カルナがジナコの性を求めるならば、布団よりも枕よりも必要なものはある。
ジナコは幼子ではない。孕まぬための処置もされていない。カルナの情を受ければこの胎は子を宿す。
「カルナさん、避妊具とかってある? 薬でも良いけど、その、カルナさんが必要と思う分だけで良いから」
「何故?」
「何故って、困るじゃない」
「それは、お前が困ると、そういう意味だろうか?」
固い口調で問われ、ジナコは首を傾げた。
どうしてジナコが困るのだ。ジナコの胎が膨らんで困るのはカルナだろう。形だけでもジナコは正妻だ。生まれた子はカルナの跡目を継ぐことになる。
カルナは不思議そうな顔でジナコを見た。思うよりも幼い表情だった。思えばジナコは、カルナが年下なのか年上なのか、それすら知らなかった。
「妻であるお前がオレの子を宿す。それのどこが問題なんだ」
「だって、カルナさん。前にボクに妻としての役割は求めないって言ってたじゃない」
「それは三月前『今』のお前には、と言ったはずだが」
「そう言えば、そうだったような……?」
ジナコはハタと目を見開いた。でも三月も前のことを正確に覚えてなどいない。
誰かに会うこと、どこかへ行くこと。それ以外ならば好きにして良いと、そう言われたことは覚えている。ジナコを「もらう」と、淡々と告げた声も忘れていない。
もしかしたら、ひとりでなくなるかも、なんて他力本願な自分を笑った声だって痛いぐらいに思い出せる。カルナはジナコを見ると、迷い子のように視線を揺らした。
「オレは、お前を待たせすぎてしまったのだろうか」
……へ?」
「不義理な男だと思われて当然だ。オレはお前にオレの母のような思いを味わって欲しくはないと、言い訳をつけていた。本当は、オレの狭量だというのに」
「きゅ、急に何の話? カルナさんのお母さんが、どうかしたって……
「オレは父親のわからない子供だ。そういうことになっている。母が嫁ぐ時に、オレを孕んでいたのか否か。オレとアルジュナは似ていない。つまりはそういうことなのだろうが、確かめる術はなかった。……ジナコ、オレはお前を妻とするのは、待てと言われていた。オレはそれに頷いた。その胎に宿るものがいないとわかるまで。ゆえに、三月待った」
「そう、なんだ。それは、そっか」
カルナがそんなことを考えていたなんて知らなかった。言葉が足りなすぎる。でも、彼が待てと言われた理由もわかる。
ジナコは形だけだが後宮にいた。王の妃だった。
だがジナコは処女だ。他の種など仕込まれた覚えもこともない。でも、それを証明する方法はひとつしかない。だから、三月。
「ジナコ。どこにも行かず、待っていてくれるか」
指先を取られ、ジナコはヒクリと喉を震わせた。
待つなど、この男は何を言っているのだ。ジナコには何もない。女だと、その性だけで生きてきた。生かされてきた。
「アタシは、何も持ってないよ」
ジナコの化粧箱は空っぽだ。今まで生きてきた時間だって空っぽだ。金貨を手にしたって、どこにも行けなかった。この国に贈られてきた理由だって、碌なものではない。
ジナコを妻にしたって、カルナには何もない。
「何もないなど、そんなことは言ってくれるな。三月、待ったんだ。ジナコ、もう一度聞く。今夜に必要なものはあるか」
……櫛」
「くし? それは、髪を梳かす櫛であっているか?」
「それ以外に、どんな櫛があるって言うの」
笑ったジナコの背で、長い髪が揺れた。平凡な茶色の、手入れの届いていない荒れた髪だ。
それでも今宵は梳るだろう。後宮では、誰もが髪を結っていた。

夜には、優しく解かれることを夢に見て。


20

夏のイベントが近づいてくる。
年に二回のオタクの祭典的なアレではない。毎年やって来る夏のネジのふっ飛んだ特異点だ。
マスターから過去のあれそれを聞いたガネーシャ神は「ソシャゲかな」と思った。エイプリルフールに、サマーにハロウィン、クリスマスにバレンタイン。季節ごとのイベントが手厚い。
もっともガネーシャ神にお呼びがかかることはない――と言いたいところだが、石像のキャッチーさか、なにげに出番が回ってきた。単純に暇をしているサーヴァントだからでは? と言ってはいけない。それはニートの心に刺さる。
何はともあれ、今年の夏イベにもガネーシャさんの出番があるかも知れないのである。
ないに越したことはないが、あっても端役やられ役で即退場だろう。今までもそうだった。あと石像スタイルなら、中のジナコさんは快適空間でモニタリングだ。怖いものなどない。本当である。なので特訓とかおよびでない。
「ガネーシャ神よ。夏の特異点は一筋縄ではいかないものだ。今までに甘んじることなく、今年は中身で勝負することも想定しておくといい」
「中身って」
思わず鸚鵡返しにしたジナコに、彼女に謎の訓戒を語る男――カルナは重々しく頷いた。
「今年はお前も水着サーヴァントとなるかもしれない。そのための心づもりはあるか」
「あるわけないでしょ」
あったら自意識過剰以外の何ものでもない。
まず水着枠はガネーシャ神ではない。オタク鯖では刑部姫がいる。ムーンキャンサーならBBが、インドサーヴァントと言うなら、ガネーシャ神よりはるかに需要の高いサーヴァントがいる。ラクシュミーさんとかラクシュミーさんとか。
「夏の特異点を甘く見るものではない。想定外が起こるのが夏だと心得ておけ。オレとて無人島を開拓する日が来るとは思わなかった。得難い経験ではあったが」
「そうッスねー、カルデアライフはいつでも想定外。想定できたためしがない」
ジナコの突然サーヴァント生活からしてそうである。人生、何が起こってもおかしくなさすぎる。たとえば、ベッドでぐっすり寝ていたはずなのに、起きたらいきなりお外とか。
(ほんと、ここどこ)
水面に太陽が煌めいている。ジナコはカルナと湖畔に佇んでいた。
彼女が望んだことではない。特異点発生でもない。夢遊病でもなかった。原因はカルナである。彼がジナコを抱えて、シミュレーターにログインしたのだった。
なぜ誰も止めなかったのか。起きなかったジナコもジナコだが、普通に見送ったらしい人たちもどうかと思うのだ。いつもの風景だったなんて、それはない。その時空は特異点だ。
顰めつらしい顔になったジナコに、カルナもまた厳しい顔になった。
「今年はお前も水着サーヴァントになるかもしれない。その可能性は皆無ではない。オレがお前を連れ出した意味もわかるはずだ」
「いや、わからないッス。寝ている人を俵担ぎにして外に連れてくる意味とか、ホームズさんクラスの名探偵じゃないと無理」
「ガネーシャ神。夏と水着だ。今年の夏を迎える前に確認しておきたい。泳ぐことはできるか?」
…………オヨゲマスヨ」
中学生までならば。それ以降、現在は不明。何故ならその後のジナコの人生で泳ぐ機会など皆無。
でも、人体は浮くようにできている。特に脂肪は浮くとも言う。つまりジナコは泳げると言っても過言ではない。
カルナは彼女の反応ですべてを察したらしい。「泳げないのか」と確認してきた。ジナコは泳げないアザラシでマナティーでトド――かもしれない。何か文句あるかと言うのだ。
「文句はないが、今からでも遅くはない。その身を運べるだけの泳ぎを習得しておくと良い。得手、とは言い難いが、オレも泳ぐことはできる」
「身を運べるだけって。……ん? もしかしなくても、カルナさんが先生なの?」
「そのつもりだ。オレでは不足だろうか?」
「不足って言うか……
ジナコは上から下までカルナを見た。
脂肪など皆無だが、彼は泳げるのだろう。あまり想像がつかないけれど。
「カルナさんは泳ぐより、どっちかって言うと水の底、歩いてきそう」
それか水蒸気爆発を起こしながら、浮上してきそう。インドサーヴァントはそういうところある。
「それもあるが、オレは泳げるぞ」
「それもあるんだ」
ならばガネーシャ神も石像でいいじゃないか。水陸両用も対応問題なしのはず。
「そうであればいいが、今年は中身で活動する可能性もある」
「だから中身言うな。しかも活動って……
「石像を励起できない可能性も視野に入れておくことだ。夏の特異点では何が起きてもおかしくはない」
むしろ何も起こらない方があり得ないのだと、カルナは真顔で言う。
経験者の言葉は重い。だが、ジナコが水着サーヴァントになる可能性などあるだろうか? 霊基に細工でもされない限り――脳内に、某後輩系AIが過った。
……カルナさん。ボクが水着鯖になる可能性、あると思う?」
「ない、と言うことはできない」
「そうッスね。何が起こるかわからない。それがカルデアライフ」
だがしかし、水泳の特訓は必要だろうか? まずサーヴァントは溺れるのか?
通常のサーヴァントならば現界を解けばいい。ところが、ガネーシャ神は疑似サーヴァントである。霊体化は不可能。混乱して魔力操作を誤れば、溺れるかもしれない。
「カルナさん。一回だけ試してみてもいい?」
「かまわない。……待て。何をしている」
「なにって、このままだと泳げないし」
ジナコは装身具と上着を脱ぐと、次に水色の巻きスカートをたくし上げた。裾をお腹の前で結べば、足さばきはぐっと良くなる。
「よっし、これでいける。ガネーシャさんは、自分のマシュマロだけじゃないボディを信じてるッス。カルナさんは監督お願い。万一溺れた時は――カルナさん、何してるの?」
……お前が気にすることではない」
「気になるでしょ」
なんでしゃがみ込んでいるのだ。飛び込みの準備だろうか? ジナコはまだ溺れる以前。水に入ってすらいないのだが。
訝る彼女に、カルナは深々と溜息を吐いたのだった。

ちなみに、ジナコは浮くことはできたが泳ぐことは忘れていた。
「カルナさん、手ぇ、離さないでよ!? 絶対だからね!?」
「わかっている。だからあまり激しく足を動かすな」
「無茶言わないでよ! 動かさないと沈む!! カルナさんはボクが溺れても良いって言うんスか!?」
「そうではない。そうではないが。しがみつくなっ、自分の格好を思い出せ」
「わかってるッスよぉお! ここ足、つかないじゃん! カルナさんの馬鹿ぁああっ!!」
彼らは真剣。
だがその光景は、誰が見ても一足早いサマーバケーションだった。


21

ジナコは定期的に脳内会議を開いている。
神霊の方のガネーシャさんとの打ち合わせではない。そんな細かなフォローがあのメタボ象にあるわけがなかった。インド異聞帯の時はさすがに相談に乗ってくれたが、それ以降は一切音信不通である。ジナコへの丸投げがエグい。
しかし、神様には期待しないジナコさんである。ガネーシャ神がどれだけアレだろうとも、非常に腹は立つが割り切りは早かった。ジナコと相性がいい時点で、推して量れるものがあり過ぎた。
ムシカ君という頼もしい騎獣もいるし、快適ダラダラ空間の石像もある。第二宝具を使うような事態にでもならないかぎり、ガネーシャ神が出張ることもないだろう。そしてジナコとガネーシャ神が奮起する時など、インド異聞帯レベルでカルデアの戦力がジリ貧の時である。そんな事態は二度はご遠慮願いたい。一度あることは三度あるとか、そんなことは決してない。
マスターのサーヴァントとして、新たにカルデアに召喚されたガネーシャ神――もといジナコは、霊基再臨こそ第二まで済ませたが、サーヴァントとして大活躍することはもちろんなかった。なにせ現界するのが遅かったもので。権能も十分に解放されていないので、NP配布要員としても微妙と言う次第。
諸葛孔明や、可能な限り近づかないようにと、現界当日にマスター直々にお達しのあったマーリン(と書いてグランド・クズと読むそうだ)には、意味深に死んだ目で微笑まれたが、ジナコのNP配布率はそんなに高くないので過度な期待は禁物である。
宝具に全体無敵がついたらお終いとか、NP配布が25%になったら脳死周回要員まったなしとか、怖いことは言わないで欲しい。
後出サーヴァントのジナコに強化クエストは早過ぎる。幕間だって心の準備ができていない。ジナコは適切な対人距離がわからないのである。マスターのことは好きだけれど、どの程度お話すれば良いのか。何かと背負いこみがちな人を困らせたくはない。でも、少し聞いて欲しいこともある。そしてジナコの話で、マスターがピコッと笑ってくれれば万々歳。
……どのくらいが適切なの?」
ジナコの第何回脳内会議が暗礁に乗り上げた。
彼女はいつか来るかもしれない幕間、あるいは強化クエストに向けて、開示情報の事前準備を行っていた。自意識過剰乙と言うなかれ。世の中何が起こるかわからないのである。普通に考えれば、ジナコ――ガネーシャ神に幕間も強化クエストもないだろう。彼女は霊基情報がバグっている、つつかれれば痛いところしかないエセ神霊サーヴァントである。
しかしインド異聞帯が切除されてより、一年が過ぎた。そろそろ来るかもしれない。来ないかも知れない。たぶん来ないし、ジナコよりもアシュヴァッターマンやアルジュナ・オルタ、ラクシュミーを強化してもらった方が、インド箱推しの依り代としては嬉しい……と、心から思っているのだが、ソワァッとしているサーヴァントが約一名いるのである。
「って言うか、幕間も強化クエストもマスター専用イベントで、カルナさんは関係なくない!?」
だがしかし、事実は小説よりも奇なり。あのランサー、自分が出るとまったく疑っていないのである。どういうことだ。強化クエストでは自分がファイナルバトルのボスだと思っている。ジナコに頼んだ覚えはない。
そこはクラス的にアヴェンジャーではないのだろうか。もしくはルーラー。同クラスのムーンキャンサーは勘弁して欲しい。それはつまりBBなので、理由は以下略である。アルターエゴもお呼びでない。
あれ? カルナさんの方が良い気がしてきた。
「あぁ、任された」
……何でいるし」
半眼になったジナコに、カルナは「声はかけたぞ」と言う。そうなのかもしれないが、返事がないのに人の部屋に入らないでいただきたい。あとカルナさんなので今更だが、独り言にガチレスは禁止である。羞恥で蒸発したらどうしてくれる。
「恥と言うならば、お前はとっくに蒸発しているだろう。我が身を思い出すといい」
「そうッスねー。消えたくなるくらいの恥の多い人生を歩んできたジナコさんでからねー。今さら独り言聞かれたぐらい、どうってことないッスけどね? って、そんなわけあるかい!!」
恥ずかしいものは恥ずかしい。カルナがフンスと意気軒高となっているのがより居た堪れない。
「オレはクラス適正としてはアーチャーとライダーもある。ランチャーは最後にするべきだろう」
「えっ、ファーストもセカンドもファイナルも全部、エネミーカルナさんなの?」
そして全部、クラスが違うの? そんなの鬼じゃない。しかもランチャーって、体力ゲージの◆が五つある未来が見えた。ブレイクしても毎回ガッツがつく予感がする。何という高難易度クエスト。
「それで強化されるのはボクなんでしょ? ハイリスク・ローリターン極まりない。お手柔らかにしてよ」
「できない。お前の心に触れようというのだろう。ならば、力を尽くす。当然だ」
表情は変わらないのに、悔しそうな、拗ねたように見えるものだから。

……なんだかなぁ」
マスターには悪いけれど、もしそうなっちゃったら、しょうがないか。
なーんて、ジナコは笑ってしまうのだ。


22

さぁ、今こそ練習の成果を生かす時。
(覚悟は、一応だけど決まってた)
 胸中で自分に自分で確かめる。ガネーシャ神はマスターに向き直ると、固唾を飲む人に向かって、ニヤッとふてぶてしく笑った。
「マスターも困った人ッスねぇ。こんな色物サーヴァントに貴重なリソース使っちゃって。もう、ガネーシャさんもこんなに尽くされちゃったら、さすがにさよならできないッスよ」
 彼女は、仮加入と言う形でカルデアに召喚されたサーヴァントだった。仮加入とは何ぞやと言えば、一定の期間内に十分な魔力とマスターとの信頼関係が構築できなければ退去すると言う、何それ限定イベキャラ? という存在であった。
 しかも仮加入するサーヴァントは最高位階の中から指定できた。どんな触媒を使えば、そんなことができるのだ。ガネーシャ神は慄いた。
 そしてマスターよ、あなたは何故にガネーシャ神を選んだ。他にもっといたはずである。たとえば施しの英雄とか。カルナはすでに現界していたのだが。
 不安定な霊基をもって現界したガネーシャ神だが、マスターは躊躇なく彼女に種火と再臨素材を注いだ。まだ現界が確定したわけではないのに、最終再臨まで一気に解放された。気合がちょっと怖いと思ったのは秘密である。
 だって待ってたんだと言われてしまえば、彼女は「ガネーシャさんは人気の神様ッスからね」とツンデレ乙な発言をするしかなかった。
 そしてマスターとの信頼関係を構築するために、彼女はレイシフトに臨んだ。初っ端がぐだぐだ時空で、ノッブとノッブがノッブでノッブとか、ツッコミどころが満漢全席だが、エネミーは存在した。主にノッブだけれど。だがノッブだからと侮ってはいけない。特に神性特攻を持つノッブは危険である。インドサーヴァントの天敵である。
 しかし、マスターはノッブ相手にカルナを編成した。どうして? 控えのガネーシャ神も神性Bなので、当たったら痛いどころではないが、カルナはその上を行く神性持ちである。彼は半神半人なのだ。
「問題ない。マスターの望みとあれば、応えるまでのこと」
 カルナは猛然と戦った。槍を構える姿、格好いい。呵成に戦う姿、凄い。宝具、言葉もない。全部が尊い。言語が絶滅する。最推しが最推し過ぎて意味がわからない。気をつけていないと泣いてしまいそうだった。実を言わずとも、泣いた。
「ガネーシャさん。当カルデアはいかがですか?」
って、マスターやり手! 悪い人!
「マスターぁ。これはずるいッスよ」
 カルデアにいれば、つまりそういうこと。ニマーッと笑うマスターに、ガネーシャ神は「悔しい。でも延長希望」と周回について回った。絆はガンガンに上がった。
 カルナは神性特攻にも一歩も引かずに戦った。でも、カルナさんってガッツあったっけ……
「インドっていつもおかしいけど、今日は特におかしくない? 永続無限ガッツとか、さしものわしも意味わからん」
 マスターは「最強バフがあるんで!」と胸を張っていた。さすが人類最後のマスターである。ガネーシャさんの中の人よりも、ずっとマスターをしている。カルナもわかり辛いけれどドヤッていた。
「今のオレに敗北はないぞ」
 カルナは素晴らしいマスターに出会ったのだ。
 元気なカルナさんを見られるなんて、ぐう尊い。世界ありがとうである。実際の世界はヤバイだが、怖いことがいっぱいでも、彼女はこの世界にいたいと思ってしまった。
 そして本日。霊基は安定し、いよいよ本召喚となった。
 もしも今を迎えることができなければ、彼女は泣いたことだろう。いやだと弁えなく泣きじゃくった。でも、そうはならなかった。
「じゃあ、マスター。あらためて初めましてッスね」
「待て。ガネーシャ神。何故、石像を出す」
 間髪なく問われ、ガネーシャ神はきょとんとした。と言うか、カルナさんは何故にここに? 彼を前にして口上を述べるのは、ちょっと恥ずかしいのだが。
 カルナは「何故」と言葉を重ねると、真剣な顔でガネーシャ神を見つめてくる。
「何故って、それはガネーシャさんの召喚はそういうものだから……?」
 ガネーシャさんの中の人が直で召喚されることはないのである。なので、召喚の挨拶は石像で行うことになっていた。
 彼は石像を見ると難しい顔をした。
……納得できない」
「納得も何もないッスよ。デフォ」
 よいしょと石像に入ろうとする彼女の腕を、カルナは掴んだ。
「お前のままでは駄目なのか」
「駄目って言うか、それだと無理っス。って、カルナさん、何でそんな不満そうなんスか。ちゃんと召喚を成立させないと、せっかくのリソースが水の泡になるッスよ? それでもいいの?」
「それは困る。お前に退去はとても諾せない。……すぐに、出て来てくれるな?」
「その予定ッスよー。ガネーシャさんは、カルデアライフを楽しみたいですし?」
「ならば良い。待っている」
 カルナが手を離す。彼女は石像に入ると、大きく息をついた。
「カルナさんの馬鹿」
 くしゃりと震える手で顔にかかる髪を握りしめる。待っていると告げたカルナの表情が、声がよみがえる。切実な、少しの不安と期待と――戦っている時とは、まったく違う声で表情だった。
 召喚の口上はずっと練習してきた。この言葉を言えるようになりたいと思っていたから。でも、その後のことは考えていなかった。カルナがジナコの手を掴むなんて思わなかった。
「これからは、一緒にいられるんだ」
 どんな顔で石像から出ればいい。何を言えばいい。
 わからない。笑うことも泣くことも上手くできそうもない。でもカルナに約束をしてしまった。
ジナコは、石像に引きこもれないじゃないか。先手を打ってくるなんて。カルナに、その意図はなかったのだろうけれど。
 ジナコはモニター越しにマスターと、そして英雄を見る。
……よくぞ我を召喚した」
 彼女は、練習してきた言葉の最初の一音を、唇に乗せた。


 その声は感情を抑えつけたもので、だからこそ彼は彼女を見たいと思う。
 どんな顔をしているのか。泣いていないか。不安を覚えていないか。あぁ、でもその声に喜びを感じるのはカルナの欲だろうか。見たい。彼女に会いたい。痛切に思う。
 カルナは、一心に彼女を見つめる。
(これからは共にいることができる)
 彼女は去らない。カルナと明日もいてくれる。理解していてなお、焦燥する。ほんのひと時。それすら遠く思える。何故なら、ひと時も早く。ひと時も長く。
「オレはお前に逢いたい。オレはお前といたいんだ」
 カルナはジナコを求める。無意識下に、彼女を呼ぶ。淡々とした口上が不規則に途切れ、震えた。捉えることの出来ない言葉が、共鳴した。
(キミは、オレの、大切な――
 いるだけで、カルナの喜びとなる人。いつか、必ず、再会を求め続けた。
 言尽くせぬ感情が、胸に灯る。早く早く。逢いたいと急く心が抑え難くなるより早く、カルナの前に。
 ずっと、待ち続けてきた。だから、彼女がそこにいるのなら――
 カルナは、もう待てないのだ。


23

わかっていたのだ。
 彼女は疑似サーヴァントであり、カルナよりも有機的な面があるのだと。霊体化もできず、おそらくその魔術師としての才も特出したものではないのだろう。魔力を操ることも苦手のようだった。その戦闘能力は、彼女自身ではなく神霊による。
 騎獣であるムシカをはじめ、攻撃のほとんどにガネーシャ神が関わることはない。宝具ですら、彼女は途中で転んでいるのだ。初めて見た時は失敗したのかと、駆ける足すらもどかしく思えた。敵前で無防備に身を晒すなど、総毛立つと言うのも生温かった。
 実際には宝具は発動しており、彼女自身には無敵効果と体力の回復と言う加護が付与されていた。
 転んだことでズレてしまった眼鏡を直したガネーシャ神は、カルナに気づくと「どうしてカルナさんがボクの前に?」と心底、不思議そうな顔をした。
 自分がどういう状況にあったのかも気づいていない。カルナの心情も知らずに「どーよ!」と胸を張るのだから言葉もない。
 現在においても、ガネーシャ神の戦闘技術は一切向上していない。彼女は神霊の依り代であり、その神威を揮うのは彼女を通した神霊だった。彼女の手は、武器を握るにはあまりに脆く柔らかい。
 石像のままでも良いのでは、と言う者もいる。だが、それでは彼女がわからない。どんな顔をしているのか、見えないのだ。声だけで大丈夫だと言われても、頷くことなどできない。
 だから――
「カルナぁ、やだよ。目、閉じちゃやだ。アタシをひとりにしないでよ……っ」
 ボタボタと音が聞こえるのでは、と思うほどの雫が顔に滴り落ちる。盛夏の雨のような大粒で温い雫だった。
カルナは彼女に答えようとして、代わりに息を痞えさせた。気道に血が詰まっている。そしてそれを吐き出すだけの力もない。酸素はサーヴァントに必要ない。カルナの意識が朦朧とするのは、魔力が足りていないからだ。正確には、エーテル体を維持できるだけの素地が損傷している。
 現界を解くべきなのだとはわかっていた。今のカルナは戦力的に何の役にも立たない。無様な姿を晒して、彼女を傷つけるだけだった。ガネーシャ神は血を恐れる。役割は果たしただろう。敵性存在はすでにない。その代償がカルナと言うならば安いものだ。
 マスターは無事だ。彼女も無事だ。カルナが凡夫でなければ、もっと上手く出来ただろうが。
「何よぉ、何で笑ってるのっ!」
 震える小さな手が、カルナの頬に触れる。半ば掴むような手のひらは今日も柔らかい。榛の瞳から涙が落ちてくる。とても近い距離で、鼻先すら触れ合いそうだった。
 眼鏡はと思うも、それはカルナが吹き飛ばされた時に、どこかへ行ってしまったのだろう。彼女まで巻き込んでしまったのは痛恨だった。
「アタシはサーヴァントなの。神霊、なんだから、カルナに守ってもらわなくても、大丈夫なんだからっ!」
 そうなのだろう。依り代には神霊の加護がある。カルナが彼女を庇護する必要などどこにもない。
 理解してなお、体が動く。衝動がある。彼女を護るのは――
(お前の、サーヴァントは)
 顔に盛夏の雨のような涙が降る。魔力を分けようと言うのだろう。白い手の甲に血が伝っていた。違う。彼女の右手に在るのは、その赤ではない。
 泣かないで欲しいと思う。カルナは彼女に泣かれると、どうして良いかわからない。だが、もっと泣いて欲しいとも思うのだ。
 涙も血もカルナと同じ供給源の魔力でしかないはずなのに、違うと感じる。人のようだと思う。
 カルナは、彼女の魔力を知っている。
――ジナコ)
 もっと泣いてくれないか。
 そうしたら、カルナは神霊ではない彼女を掴まえられる。


24

 同じ依り代でも、違いはあるらしい。
 ガネーシャ神は、古代メソポタミア神話に出典を持つ女神たちに「まぁ、そういうものか」と頷いた。
 イシュタルとエレシュキガルは、容貌は瓜二つだ。しかし髪の色が違う。瞳の色が違う。性格はもっと違うが、それは降ろしている神霊が異なるのだから当然だろう。
 パールヴァティーとカーマも同じだ。顔は同じだが(そしてその顔はBBである。どういうことだ)イシュタルたちと同様に、髪や瞳の色は異なった。
 では、ガネーシャ神はどうだろう。依り代のジナコと違うところはあるだろうか?
 彼女は、鏡に映った自分を上から下まで眺めた。
 肌の露出が過ぎる装束には目を瞑ろう。これが仕様と思えば恥も何もない。もっと目のやり場に困る格好をしたサーヴァントは両手の指では足りない。
 チャイナインディアの中では、ガネーシャ神は露出が少ない方である。武則天は、ほぼ紐だ。彼女を見て、ガネーシャ神は自らの胸当ての面積について考えることをやめた。
 女性に限らなければ、インドサーヴァント(男性)を見ると良い。五人中三人が上半身裸だ。カルナに至っては、着ているのか着ていないのかすわからない。
 男性の体などほぼ見たことのないジナコである。最初は目のやり場に困ったが、人とは慣れる生き物だった。気づくと、アルジュナ・オルタが服を着た時には違和感を覚えるようになっていた。
 初見時は、思わず「君って服着るんスね」と言ってしまった。アルジュナ・オルタは「脱いだ方が良いですか?」と聞いてきた。
 別に脱げとは言っていない。彼の隣にいたアルジュナは「ガネーシャ神。それはパワハラです。貴女は一応、神霊なので」と真顔で窘めてきた。「一応」の部分に、含みしか感じないのは何故なのか。
 とにもかくにも、ほぼ下着のような格好にもジナコは慣れた。上着とズボンがあるだけマシである。誰得感はパないが。
「うーん。どこまでもジナコさんッスね。このまろみ、そしてこのまろみ。別にサーヴァントになったからって、美少女になるとか思ってませんし? アラサーをそのまま起用とか、本当に誰得しかないけど。百歩譲って、ジナコさんは良いっス。でも眼鏡とリボンが謎。このクオリティ必要だった? ボク=まろみ&眼鏡&リボンだとでも言いたいのか」
 そんな存在主張をした覚えはない。まろみだけで存在感は抜群だろう。どこぞのランサーが真顔で言いそうだ。
「あって困るものじゃないけど、インドの神様的にはナシじゃない?」
 だって黒縁眼鏡と赤いリボンである。他の装飾品とのミスマッチがすごい。ファッションチェックで、いの一番にダメ出しを食らうだろう。何故なら馴染み感ゼロ。浮きまくりである。
「こっちの方が、ありと言えばあり」
 ジナコは眼鏡と髪留めを外すと、ふむ、と鏡の中の自分と睨めっこをした。
 彼女の眼鏡は、サーヴァントである現在は視力を補正するためのものではない。完全なる伊達眼鏡である。髪留めについては言わずもがな。
……神様っぽさが上がった気がする」
 気のせいとは言わないお約束。しかし、悪くはないのではないだろうか?
「今日はこれで行こう。ガネーシャさんは、ありがたーい神様なんスから。誰とは言わないけど、一応神霊なんて言わせないッス」
 ジナコは、よっしと意気込むとマスターの元に向かうことにした。
 今日も周回である。NP配りである。泣いてなどいない。
 なお、眼鏡とリボンを取ったぐらいではガネーシャさんの扱いは変わらなかった。むしろ「貴女の正気を疑います」と失礼みが増した。どういうことなのだ。


……こういうことだったんスね)
 その先見の明は賞賛に値するが、ならば教えて欲しかった。早急にジナコが折れれば良いのだろうが。
(それは何だか悔しい)
 目の前に突き出されたものに、ガネーシャ神は半眼になった。
「忘れものだ」
「忘れものじゃないッスよ。自主的においてきたんス」
――忘れたのだろう」
「だーかーらーっ、ガネーシャさんは神霊サーヴァントなんで、眼鏡なくても大丈夫なの!」
 言い切ると、彼女に眼鏡を突き出していたサーヴァントは、ムッと視線を険しくした。
「髪留めは」
「それはガネーシャさんの衣装と合わない」
「ならば、その装束を変えればいいだろう」
「どうしてそうなるんスか」
「お前こそ、何故そう頑なに拒む。これはお前だろう」
 これとはつまり、その手の上にあるもの。眼鏡とリボン。
「そう、眼鏡とリボンがガネーシャさんのアイデンティティ。ってボクは、眼鏡とリボンになった覚えはありませんけど!? 何? カルナさんの中では、ボクはこれが本体何スか!? 今おしゃべりしているボクは何!?」
……お前はガネーシャ神だろう?」
「何故にボクの正気を疑う風なのか。失礼が過ぎる」
 ガネーシャ神はカルナが持つ眼鏡とリボンを見た。どうして彼が持っているのだとは問うまい。彼女の部屋にカルナがいるのは割とデフォである。
 と言うか、今がその部屋の中である。カルナはフカフカクッションに寝そべり、漫画全巻制覇に勤しむ彼女に眼鏡とリボンを着けろと言うのだった。
 ちなみに、このやり取りは初めてではない。眼鏡とリボンのないジナコに、カルナが気づいた瞬間から発生した謎ミッションである。
 霊基的には問題ないとマスターたちからもオーケーをもらっているのに、カルナはぶすくれている。
(カルナさんの中のジナコさんは、眼鏡とリボンしか記憶にないんスか)
 このまろみがあるだろうに。何故にそんなにゴリ押す。実はメカクレ的熱意があったのか?
 カルナは、違うと首を横に振った。
「オレは眼鏡にもリボンにも特別、興奮は覚えない。だが、これだけは別だ。お前が拒むというならば、オレにも考えがある」
……カルナさん?」
「オレは、この眼鏡とリボンをお前に欠くことができないものだと感じる。このもどかしさがお前に伝わらないのは、オレが至らぬからだろう」
「は、はぁ?」
 何だか話が壮大になってきたな、と慄きつつガネーシャ神は曖昧に頷いた。
「お前にこの欠落感がどうしたら伝わるのか。オレは考えた」
「そ、そうなんだ」
「そうだ。オレは考えたんだ。ガネーシャ神よ。言葉でわかり合えぬならば、もはやその目で見てもらうより他はあるまい」
……なるほど?」
 これっぽっちもわからないが、意気込むカルナに嫌な予感しかしない。
 カルナはガネーシャ神の傍らに腰を下ろすと、彼女の手の前に眼鏡とリボンを置いた。
「これは黄金の鎧だ」
……うん?」
 いや、絶対にそんな大それたものではない。魔力で構成されてはいるが、普通の眼鏡であり髪留めである。
「すまない。言葉が足りなかったな。この眼鏡とリボンは、黄金の鎧と同じと言うことだ」
 まったく言葉が足りていない。疑問符を浮かべるジナコに、カルナは困ったように眉を下げるとさらに言葉を足してきた。
「眼鏡とリボンのないお前は、黄金の鎧のないオレと同じと思え、ということだ」
 黄金の鎧のないカルナさん。
 それは確かに違和感があるだろう。依り代的に、さすがに二度は見逃せない。しかし、カルナの中のジナコは、眼鏡とリボンにどれだけ比重があるのだ。
「比重ではない。これは、言葉では言い表し難い感覚だ。……お前に伝わると良いのだが」
 伝えるってどうやって? カルナは言葉でわかり合えないならば、目で見てもらうと言っていた。結局、物理。
――いや?)
 どうやって見ろと? ジナコはカッと目を見開くと、フカフカクッションから跳ね起きた。
「カルナさん。まさかと思うけど、黄金の鎧、解くつもりじゃないッスよね?」
「そのつもりだが」
 ジナコの脳内で、宝具発動前のカルナの呻き声が甦った。
……痛いんスよね」
「問題ない」
「問題あるって!」
 冷静になろう。
 まず、黄金の鎧のないカルナさんとは、それつまり裸じゃない? ジナコはカルナを上から下まで見た。宝具の時、どうだった?
「この姿のままだが」
「そ、そうなんだ。良かった」
 ほっと息をつくジナコに、カルナは、うろりと視線を彷徨わせた。
……そうか。一部だけと思ったが、全て解いた方がわかりが良いのか」
「誰が全部解けと言った! そもそも解くのなし! もう、それパワハラどころの話じゃないからっ!」
何が楽しくて、最推しにストリップをさせるのか。ジナコの情緒が爆発四散などと言うレベルではない。
「だが」
「だがもかしこもない! はい、いつものジナコさんです!」
 ジナコは叫ぶと、速やかに眼鏡とリボンを装着した。
 カルナは、それで良いとパヤッとしたのだった。


25
現代設定 

 何を言っているのだこの男は。
 ジナコはマジマジと意味のさっぱりわからない主張をするカルナを見た。
――と言うわけだ。オレはお前に対し待遇の改善を要求する」
 言いたいことは言ったと、すっきりしているところ申し訳ないが、言われたジナコは混乱の真っ最中だ。
 待遇の改善とは、一体……
 ジナコはカルナにおつかいを頼んでいない。周回ゲームをひたすらにクリックする作業もだ。今朝のゴミ出しは頼んだが、それはカルナが出勤のついでに持っていくと言ったからだ。
 カルナがジナコとの生活について物申したいというのはわかる。彼は年が片手で数えられる時より、ジナコの生活に物申してきた。カルナ曰く、ジナコは要介護生命体なのだそうだ。そう思われることには心当たりがあり過ぎる。互いに成人して後も、カルナはジナコの様子を見に来る。昨日がその日で、今日もカルナはジナコの家にやって来た。
 これは珍しいことではない。彼は週に四日はジナコの家から出勤する。理由はただひとつ。ジナコの生活があんまりだからだ。
 彼女は引きこもりだった。放っておくと、ひと月は平気で家から出ない生活をした。ステイホームの極致である。カルナはジナコに外に出ろとは言わないが、生存は割と本気で危ぶんでいる。
「待遇の改善って言われても、それって張り合うこと?」
 ジナコは両手にクッションを抱え込んだ。ネット通販で購入したネズミのクッションである。これは買って大当たりだった。携帯ゲームをする時に、腕に抱えているとちょうど良い。抱き心地抜群のジナコのベッドのお供である。
 カルナは、ムスゥっと言う擬音が聞こえそうな顔で彼女を見下ろしてきた。とてもご不満であるらしい。
 何故だ。何が不満なのだ。ジナコはカルナの主張を一から十まで思い返した。カルナが突拍子もないことを言うのは今に始まったことではないが……
「いや、さすがにない」
「ジナコ。それがあるんだ」
「あるのぅ!?」
「あるに決まっている。オレはお前がそのネズミのクッションを重用することについて、名状しがたい感情を覚えている」
「重用って」
 思わず呟いたジナコに、カルナはしているだろうと言う。
 確かにしているが、お気に入りのクッションができたからといって何だというのだ。たまには天日に干せとでも言いたいのか。
「そうではない。日に干さずともオレは温かい」
「温かい」
「オレにはお前に抱えられるだけでなく、お前を抱えて運ぶ機能もついている」
「機能」
「オレはお前の重量を受けても、平らになることはない」
「平ら」
「ジナコ。オレはお前に待遇の改善を要求する。そのネズミのクッションよりも、オレの方がずっと有用なはずだ。今から試してみると良い」
「だから、それなんの張り合いなんスか!」
 ジナコはギュッとネズミのクッションを抱き締めた。カルナはますます顔を険しくした。
……お前は良くオレを抱えていただろう。最近は無沙汰だが」
「それは小さな時の話でしょ。今のボクたちに当てはめてどうするんスか」
 確かにジナコは小さな頃、カルナを良く抱きかかえていた。彼らには六つの年の差があった。
 カルナはジナコの腕にすっぽり収まるサイズで、体もふくふくとして柔らかかった。高校に上がる前まで、ジナコはカルナを抱きかかえて眠っていた。
 彼女は十四で天涯孤独となった。赤い冬の夢を見たくなかった。眠ることが怖くなったジナコだが、カルナを抱き締めていると不思議と眠れた。人肌の効果は絶大だった。しかしそれはカルナが十歳までのこと。
 今のカルナを見てみよう。ジナコの腕のおさまっていた少年はすくすくと育ち、身長差二十五センチ。クッションがわりに抱かかえるには、大きすぎる。余分なお肉は一切ない。とても硬そうだ。しかし――
 ジナコはネズミのクッションを手放すと、カルナに両腕を広げた。久しぶりのポーズに一瞬羞恥を覚えたが、可笑しなことを言い出したのはカルナだ。この痛ましさ、刮目すると良い。
「カルナさん、ボクに抱っこして欲しいの?」
「そうだと言っている」
「ちょ、ほんとに来るとかある!?」
 長躯の男に圧し掛かられ、ジナコはコロリと後ろにひっくり返った。
重たい。硬い。でも温かい。胸にグリッと白い額が擦りつけられる。
 ジナコは「なんだかなぁ」と体の力を抜くと、天井を仰いだ。
 
 すっかり手足もジナコからはみ出しているこの男、どうやらジナコに甘えたかったらしい。


26

 何かあったのか、と尋ねられた。
 マスターにも、友にも。今日にいたっては、宿業の男にすら聞かれた。不快だという前置きがついだが、アルジュナが問うほどには、今のカルナはおかしいのだろう。
 アルジュナすら問うに至ったカルナの変調。それが何に因るのか、彼は正確に把握していた。理由のすべては彼女にある。
 神霊ガネーシャの疑似サーヴァント。カルナが不思議と気を惹かれる存在。大切な誰かのような、名状し難い感情を抱かせる女。彼女との邂逅は、カルナに喜びを与えた。彼女と過ごす日々は幸福だった。
 だけれど、カルナは知ったのだ。彼女の喜びは、幸福は、カルナにはないのだと。


「ねぇ、カルナさん。まだなの?」
「まだだ。ダ・ヴィンチたちの観測によれば、あと十五分は要する。……先ほども告げたはずだが、五分と待たずに同じことを問うとは」
「何その可哀想な者を見る目! 別に忘れたわけじゃないから! これは会話のテンプレッ!」
「わかった。オレには理解できないが、同じことを繰り返すのはお前の習性とも言える。五分後にまた同じことを問うといい」
「きーっ! 習性言うな! ボクだって好きでテンプレってるわけじゃ……。ほんとその顔腹立つしかないわー。はぁ、もう良いッス。どーぞ、五分後をお楽しみにー」
 ガネーシャ神は大仰に息を吐くと、唇を閉ざしてしまった。丸い頬がより丸みを帯び、白い眉間にも浅い渓谷が生まれる。
 彼女が話さなければ、互いが交わすのは足音だけになる。隣をつかず離れず揺れるココアブラウン。カルナはその丸い頭頂に視線を下ろした。
 普段であれば、カルナとガネーシャ神の身長差、そして珍妙な象の被り物により、彼女がカルナを仰がない限り、その表情を窺うことはできない。だが今、神霊の覆いはカルナの手にある。とても被れる状態ではないのだ。象を模した部分のことごとくが青黒く変色している。魔獣の血を滴らせたものは、いかに彼女と言えども頭に頂かなかった。そして、しとどに血を浴びたのは、装束だけにあるはずもなく。
「うぅ、ベタベタして気持ち悪いッス。霊体化できれば良いのに、こういう時、疑似サーヴァントは不便ッス」
「もうじき着く」
「わかってる」
 こくりとココアブラウンが揺れた。普段は奔放に跳ねている髪も、血でところどころが固まってしまっていた。
 今、カルナは彼女とともに一つの泉を目指している。
 マスターの指示の下、カルナたちは素材と資源の回収のための戦闘に挑んでいた。行く先はインド異聞帯。切除された異聞史だが、わずかな残滓は存在した。その素材を求めての戦闘で、ガネーシャ神は正面から魔獣の血を浴びた。彼女の騎獣が主を守るために突撃し、魔獣の腹を突き破ったためだった。
 小さく愛らしい姿をしていても、ムシカは神霊ガネーシャの従者だ。その力は並みの魔物では足元にも及ばない。総身に血を浴びた彼女は悲鳴を上げることすら出来ず――戦闘が終わって後も、彼女は戦斧を握り続けた。
 マスターとマシュが肌から血を拭い去っても、彼女は蒼褪めた顔で荒く息を吐く。神霊であっても戦神ではないガネーシャ神に、血は望ましいとは言えない。マスターは、ガネーシャ神に沐浴を提案した。カルデアに戻ることはできなかった。
 他の時代よりも異聞帯は観測が難しく不安定だった。次に同じ戦闘ができるとは限らない。安定しているうちに可能な限りリソースを回収する。
 カルナは彼女の護衛を申し出た。普段であれば、心配性だ過保護だなんだと言う口は、今回は閉ざされたままだった。どこか遠くに心を置いてきたような姿に覚えたのは不安だった。カルナを見て欲しい。彼女の気を惹きたい。
 カルナは地面に置かれた被り物を手に「被らないのか?」と確認した。ガネーシャ神は呆気にとられた顔をして、
「この状態で被れると? お前ならあり得るって、誰が被るかぁあッ!」
 と噴気を上げたのだった。
「そうか。それは良いことだ。もしやお前ならばと思ったが……理が克つこともあるのだな」
「もしやって、カルナさん。その安心、失礼しかないから!」
 カルナは安堵の息を吐き、ガネーシャ神はジトリと目を据わらせた。その目元は青白く、頬に血の気はなく、だけれど、体の震えは止まっていた。
「マスター。ボクはちょこっと行ってくるッス。カルナさんは……
「マスターの許しは得ている」
「うぃっす。マスター、ちょっとカルナさん、お借りするッスね」
 ガネーシャ神がマシュから櫛やタオルなどの道具を受け取っている間に、マスターはカルナを手招いた。
「やっぱりカルナじゃないとダメだね」
 そうマスターが笑った理由に、カルナは上手く頷くことができなかった。

◆◇◆

「いやぁー、さっぱりするぅ! 天国天国って言いたいところだけど……あの、カルナさん? なんでこっちガン見なの。フツー、ちょっと距離とったり、背中向けたりするもんじゃない?」
「それでは護衛の意味がないだろう」
「そうですけどー」
 パシャリと泉につけられた足が水を蹴り上げる。転げ落ちるぞと言えば、そんなに鈍くはないと睨まれた。彼女は泉のほとりに腰かけ、カルナはその隣に立っていた。
 ダ・ヴィンチが指定した泉は浅く、彼女の腰にも届かない深さだった。溺れる心配はないだろうが、泉には穢れが溶け出している。カルナは槍を励起し、その切っ先を泉に沈めていた。ガネーシャ神はカルナのすることに気づくと、難しい顔をした。
「ガネーシャさんは神霊サーヴァントッスよ。そんなに過保護にしてもらわなくても大丈夫ッス」
「オレは余計なことをしているのか?」
「そういう訳じゃないけど」
 榛の瞳が困ったように笑う。
 今、彼女の手には淡い黄色の花があった。大ぶりな花は甘い匂いがした。泉に向かう途中でカルナが摘んだものだ。香気の強い花は邪気を祓う。
「毎回毎回、どうして茎がないんスか。これだと花瓶にも活けられないんですけど」
「それがお前に似合いだ」
「この首ちょんぱされた花が!? 確かにガネーシャさん的には……いや、ないわ。首ネタはアウトッスよ! ボク的にもカルナさん的にも!」
「オレは気にならないが」
「そこはもっと気にしてあげて下さいッス。ガチでデリケートなところだから。アルジュナ君とかアシュヴァッターマンさんのSAN値直葬案件だから」
「さん……? 何を言っているのか皆目見当もつかないが、考慮する。だが、お前まで気にする必要はあるまい。お前は、首を落とされたことなどないだろう?」
 それは依り代である彼女ではない。神霊の話だ。
「そこはお答えできません。禁則事項ッス。カルナさんは、本当にどうなってるんスかね? フラットに認識してこないでよ。認識阻害のSAN値がヤバイ」
「お前は何を言っている」
「さぁ? カルナさんがボクにお花って、不思議だなーって思ったんスよ」
「オレがお前に花を贈ることの何がおかしい」
「んー。何だろう。ガネーシャさんにも良くわからないッス」
――理由はあるのだろう」
 答えはなく、代わりに紅で彩られることのない唇が笑った。
 カルナが贈る花は、茎を払った花冠だった。複数を集めて糸を通せば冠になる。彼の国では女の装いに日常として見られるものだ。だが、彼女が花を髪に飾ることはない。カルナの言葉が拙いこともあるだろう。だが、それ以上に。
(オレがお前に渡すものは、何ひとつとしてオレには返らない)
 わかっていて、カルナは花を贈ったのだ。彼女は贈れば受け取ってはくれる。白い手に花をのせて、困ったようにカルナを見上げるのだ。
 カルナには、まだ彼女に渡していない花があった。彼女が手の持つのと同じ、茎の払われた花だった。カルナは甘い匂いのする花冠を手の中で潰した。
 祝福を施すように、彼女の頭上で指を開く。濡れた髪に薄い花弁が絡みつく。
「カルナさん?」
 彼女がカルナを振り仰ぐ。水を浴びた肌は白く透き通るようだった。そこに不安はない。恐れはない。純粋な好意と信頼があった。
 奇跡のような邂逅だ。彼女がカルナを見る。話す。笑う。カルナを信じていると、カルナを英雄だと教える。あまりの幸福に眩暈がした。
 でも、もはやカルナはその幸福に酔うことができない。彼女の信頼は、好意は、英雄は、カルナにはないのだ。彼女に不思議だと、違和感を与えた理由。彼女にそう感じさせたのは――
 大きな瞳がカルナを見つめる。眩いものを見るように、視線がカルナをすり抜けていく。じわりと心が妬ける。いつか、限界が訪れることはわかっていた。
「お前は、オレが見えていないのか?」
……? ガネーシャさんは眼鏡キャラッスけど、今はサーヴァントなんで、視力に問題はないッスよ」
「言葉を変えよう。キミは、オレに『誰』を見ている」
――え」
「この姿は、そんなに似ているか?」
 カルナは、彼女の瞳に映ることが嬉しかった。彼女がカルナを求めることも幸せで、安寧を施せることは喜びだった。カルナは彼女に近づきたくてたまらなかった。もはやその欲に従えない。
「ジナコ。今のお前の『カルナ』はオレだ」
……カルナ?」
 カルナの影が彼女を覆う。立ち上がろうとした体を背に腕を回すことでとどめる。抱き締めるような体勢に、びくりと白い肩が震えた。動揺を示すように、足元で水音が立つ。
 彼女が何を思おうとも、それは彼女の自由だ。カルナが干渉できることではない。気づいて欲しいと求めるならば、口に出すべきだ。
「カルナは、カルナでしょ……?」
「そうだな。お前は何も間違ってはいない」
 まろい頬に手を添える。指の腹で、揺れる瞳の縁をなぞる。水を含んだ肌からは、咽返るような甘い花の香りがした。
 彼女がカルナに見つけるモノ。それも彼ではあるのだろう。カルナがガネーシャ神に彼女を見るように。でも。
「オレは寂しいよ」
 カルナはずっと不満だった。不愉快だった。不安だった。寂しかった。ジナコがカルナを見ないことが。彼女が、彼ではないカルナを自らの中に探すことが。
 カルナはジナコの瞳に映る自分を思う。
 マスターがカルナにかけてくれた信頼。限界まで開放された霊基は、カルナの姿を変えた。それは誇らしいことだ。幸福なことだ。あぁ、でも。それでも思ってしまうのだ。
 
 ――この赤い瞳が、彼ではないカルナを彼女に見せるというならば、抉ってしまおうか?

「どうしたの、カルナ。おかしいよ」
「そうだな。オレは、おかしいのだろう」
 だが、カルナがおかしいというならば――その理由は、彼女にある。


27
現代設定 

 つい、とジナコの前に差し出されたチラシ。
 どこにでもあるコピー用紙に印刷された情報は読むまでもなく、ジナコは代わりにチラシを持って来た相手を見上げた。
「今年もやってるんスね」
「あぁ、今年もだ。ジナコよ。覚悟しておくと良い」
「何言ってるんスか。そっちこそ、去年の自分を思い出すと良いッスよ」
 ふふんと笑うと、相手はムッと難しい顔をした。
「確かに去年は後れを取った。だが、今年は今年だ。去年までのオレと同じと思ってもらっては困る」
「ブハッ! カルナさん、それ完全なフラグだからっ!」
 肩を震わせるジナコに、チラシを持って来た人物――カルナは「笑っていられるのは今のうちだ」と言う。とことん、フラグを立てていくつもりらしい。
 ジナコは眦に浮かんだ涙を拭うと、よいしょと寝そべっていたソファから体を起こした。
「じゃあ、ジナコさんは準備してくるッス。カルナさんは――
「オレも用意をしよう」
 澄んだ双眸が真っすぐにジナコを映してくる。その虹彩は、窓の向こうの空と同じ色をしている。
 今年も夏がやって来たのだ。


 ジナコ=カリギリは、一年に一度、夏にひとつの勝負をしている。
 勝負の相手は襁褓の頃からの付き合いの幼馴染、カルナだ。勝負の内容は実に単純で、かくれんぼであり、追いかけっこだった。
 追いかけっこだけであれば、軍配はカルナに挙がっていただろう。だが、かくれんぼとなれば話は違ってくる。ジナコは隠れることが得意だった。自慢ではないが、かくれんぼで見つかったことは一度もない。彼女は誰にも見つからない場所を見つけることが得意だった。
 そしてジナコとカルナの勝負の舞台は、かくれんぼと追いかけっこ、どちらに比重があるかと言えば、それはジナコが勝ち続けていることからわかるように、圧倒的に前者であった。
「今年で十回目って。……毎年毎年、ボクもカルナさんも良くやるッスよ」
 独り言ちるジナコは、小さな椅子に腰かけている。足の低い小学校にあるような椅子で、座り心地はお世辞にも良いとは言えない。だが、歩き回るのはジナコの性に合わない。というか、体力が持たない。
 ジナコは麦わら帽子のつばを持ち上げると「夏空ッスね~」と棒読みで呟いた。
 視界いっぱいに広がるのは、藍玉を刷いたような蒼穹。白い入道雲はモクモクと、日差しは燦燦と地面に降り注いでいる。蝉は四方八方で鳴いていて、うるさいぐらい。時折、人の歓声が聞こえる。頭上からは「走らないで下さい」と注意する声も。ここには監視員がいるのだ。ただし、ジナコがいるのはプールや海ではなかった。
彼女は青空と入道雲、そして太陽を背景としているモノ、もとい植物を見上げた。
 太い幹に、大きな葉。頭頂に咲く花は大きく、その花弁は明るいイエロー。ジナコの身長を優に超える丈を持つそれは、向日葵だった。
 ジナコとカルナは毎年、向日葵畑、正確には向日葵の迷路でかくれんぼと追いかけっこをしている。賭けているのは……
「今年もボクの勝ちッスかねぇ」
 ジナコはこめかみを伝って来た汗をタオルで拭うと、ラムネの瓶に口をつけた。由緒正しくビー玉で栓をされたそれは、ここに来る前に買ってきたものだ。
 カルナも同じものを買っている。これも毎年恒例のことだ。
 ジナコとカルナが勝負を始めたのは十年前。冬生まれの彼女は八つで、夏生まれのカルナは九つだった。
 当時のジナコはカルナと距離をとっていた。周囲の目が気になる年頃になっていたのだ。カルナと一緒に遊んでいると、からかわれたり囃し立てられたり。
 カルナは誰に揶揄われても、ジナコの優先順位を変えなかった。一緒に遊ばないと言えば、何故だと真っすぐに聞いてきた。
「カルナと遊んでると、いっぱい大変なの! カルナは男の子なんだから、女の子と遊んでちゃおかしいんだよ」
「オレはジナコといるのが一番楽しい。ジナコは違うのか?」
「違くないけど、ダメなの」
「意味がわからない」
「わからなくても、おかしいんだもん! アタシはカルナとは遊ばないって決めたんだから!」
「いやだ」
「やだじゃないのっ! みんな、アタシとカルナが一緒にいるとおかしいって笑うんだもん。カルナも笑われるのイヤでしょ?」
……オレはお前の言う『みんな』の言うことは気にならない。だが、お前がオレといることで嫌な気持ちになるなら、離れるべきなのだろう」
「う……。そんな落ち込まないでよ。カルナのことが嫌いになったとか、そういうことじゃなくて」
 顔を暗くした幼馴染に、ジナコの胸はチクチクと痛んだ。
 ジナコもカルナと遊ぶのは楽しいのだ。彼はとことん言葉が足りないし、表情も滅多に変わらない。
 クラスメイトは、カルナが何を考えているかわからないと言う。先生もちょっと困っているようだった。ジナコは不思議だった。カルナほど信じられる男の子はいないというのに。
 ジナコもパパもママもクラスメイトも先生も、みんな嘘を吐く。本当を言うことはいっぱい勇気がいるのだ。でも、カルナは嘘を吐かない。いつも本当だけを教えてくれる。
「そうか。オレはお前に嫌われたわけではないんだな」
「そうだよ。アタシはカルナのことが好きだけど、でもカルナは男の子だからアタシと一緒にいちゃダメなの」
「ジナコ。それはおかしい。オレが男であることは、お前と共にいられない理由にはならない」
……そうなの? でもみんな、おかしいって言うよ?」
「それはみんながおかしいんだ。オレとお前の親は男と女だが、一緒にいてもおかしいとは言われない」
「あれ? そう言えば……
 ジナコのパパとママが一緒にいても、誰も意地悪に笑ったりしない。では、どうしてジナコとカルナは駄目なのだろう?
 ジナコの疑問に、カルナは「思い当たることはある」と頷いた。
「オレとお前は結婚していないからだ」
「けっこん」
「ジナコ。オレと結婚してくれ。そうすれば、オレたちが一緒にいても笑われない」
……結婚は、ヤダ」
…………何故だ。お前はオレを好きなのだろう? オレもジナコが好きだ。何の問題がある」
「だってカルナ、もやしみたいにヒョロヒョロじゃない? アタシより小さいし、腕相撲もアタシより弱いし、この間まで泳げなかったし。ちょっと頼りないかなって」
「足はオレの方が速い。追いかけっこはいつもオレが勝っている」
「かくれんぼは、アタシがいつも勝ってるでしょ」
 ああだこうだと言い合って、ならば勝負だとなり――対決の舞台に選ばれたのが、当時の二人で行ける最高の遊び場、向日葵畑の迷路だった。
 小学生以下は入場料金無料。中学生から高校生までは五十円。とてもリーズナブルである。ちなみに今は百円だ。
 入場料金を払う時に「今年も来たんだねぇ」と受付のおばさまに微笑まれたのは余談である。


 ラムネを飲み終えたジナコは、特に何をするでもなく風に揺れる向日葵を見ている。
 青空を背景にした向日葵はSNS映え抜群だろう。見慣れた光景だが、心が擽られるものはあった。でも今はスマホを構えようとは思わないのだ。電源も切ってある。
 それは位置情報がバレるから、などと言うものではなく(そもそもカルナはそんな真似はしないだろうが)幼いジナコが持たなかったモノを手にしたくないから。呆れるような感傷だった。
「来年はどうなるんスかね」
 ジナコはラムネ瓶越しに向日葵を見る。薄いブルーに向日葵が横長に伸びている。幼いジナコのお気に入りの光景だった。背の高い向日葵の上には、防災無線のスピーカーが見える。あれが正午のチャイムを鳴らせば勝負は終了だ。
 二人の勝負は三十分。先にジナコが迷路に入って、五分後にカルナが追いかける。彼女の戦術はここだと思うところを見つけて隠れることで、十年間、ジナコは無敗だった。
 毎年の敗北にカルナは「来年は負けない」とフラグを立て、ジナコは「しょうがないなぁ」と年に一度の勝負を受けてきた。
 夏の一度以外で、ジナコとカルナが遊ぶことはなくなった。もやしヒョロヒョロだったカルナは、絶世と言っても過言ではない美形に成長した。お互いの家では普通に過ごしているけれど、外では人目が気になるのだ。それに、今のカルナはジナコ以外にも友人がいる。これからはもっと増えるだろう。
 ジナコは、歩きやすいレモンイエローのビーチサンダルを履いた足を見る。その足にかかる白いワンピースを見る。赤いリボンのついた麦わら帽子も含め、これがジナコの勝負服だった。正確に言えば、最初の勝利からの験を担いだ結果である。
 今年、十九になるジナコとしては乙女度を抑えたいのだが(白ワンピは幼女ないし美少女だからこそ許されるのだ)今更変えるのも何だかなぁと今年も同じような格好になってしまった。
 この格好も、今年限りかもしれない。来年もカルナが勝負を挑んでくるとは限らないのだ。
……帰ってくるかもわからないし」
 ジナコとカルナは高校までは一緒だったが、その先の進路は別になった。
 カルナは地元を離れて進学することを選んだ。ジナコがカルナに会うのは、早春に見送ってより半年ぶりだった。
 ジナコはカルナが帰って来ても、自分のところに来るとは思っていなかった。ましてや、向日葵畑のチラシを持ってくるなんて、予想外だった。
「意外と負けず嫌いなんスよねぇ。でも、ジナコさん的に敵に送る塩はない」
 つまり、今年もジナコは勝つ。
 うむと瞑目し、あとどれくらいかなー、と暢気に構えたジナコは、視界の端に白いものを見た。
――カルナさん。何してるんスか」
「何を言われれば、お前を探していたとしか言いようがない」
「いや、それはわかるッスけど」
 向日葵の垣根越しに、麦わら帽子と白い髪と青い目が見える。カルナは背が高い。だが、それでも向日葵の方が高かったはずで――よく見ると、カルナが立つ前だけは生育が悪かったのか、向日葵の花が少し低い位置に咲いていた。
「ジナコ。この向日葵をかき分けていくのは」
「なしッスねぇ。ショートカットは迷路のルール破りッス」
「わかった」
「そんな悔しそうな顔しなくても。ほんと、負けず嫌いなんだから」
 けらけらと笑うジナコに、カルナはますます不貞腐れた顔になった。
「悔しいのは当然だ。オレは――
 カルナの手が向日葵に触れる。重たい花を抱えた茎が大きく揺れる。
……まだ間に合うかも知れないッスよ?」
「お前は、本当にそう言うところだ」
 向日葵と麦わら帽子に隠れて、カルナの表情は見えない。何かの感情を孕んだ声にジナコは答えなかった。
蝉がうるさかったから。暑気に逆上せていたから。言い訳はいくらでも思いついた。ジナコは嘘つきだ。
 カルナが次の言葉を繋ぐことはなかった。あと少しでジナコが捉まると知っていても、俯いた幼馴染が向日葵の垣根を越えてくることはなく。
 正午のチャイムが鳴る。今年もジナコの勝ちだった。


 ちりんちりんと頭上で風鈴が鳴る。
 休憩所として設けられたテントにこれでもかと吊り下げた風鈴は、ガラス製、陶器製、金属製と、種類も形も多種多様だ。扇風機の風に揺らいで、もはや合奏と言っても良いレベルである。
 ジナコはその賑やかなテントの下で、パリポリとキュウリを食べていた。隣にはカルナがいて、同じようにキュウリを食べている。互いの間にはキュウリの刺さった氷バケツがあって、毎年のことながら情緒も何もないものだった。
「運動の後の冷やしキュウリは美味い。アイスも良いけど、浅漬けの塩分が五臓六腑に染み渡るッス!」
「運動と言うほど、お前は動いていないだろう」
「汗はかいたッスよ。カルナさんだってそれ二本目じゃん。毎年恒例、キュウリのやけ食い」
 指摘すると、カルナは手に持ったキュウリを見つめ、また食べ始めた。強に設定された扇風機の風に、白い前髪が盛大にはためいている。
 割りばしが刺さったキュウリを食べていても、前髪が滅茶苦茶でも絵になるとは、美形とは得なものである。ジナコは、汗に濡れた髪が百舌鳥の巣のようになっている。家に帰ったら即シャワーだ。
 スカートの中にも扇風機の風を入れたいところだが、そこは外であるので自重する。カルナはTシャツをパタパタとしているが。男は気楽なものである。あと。
(今年もカルナさんのTシャツのセンスがヤバい)
 白地に赤いラインが斜めに入ったTシャツは、どういう訳かど真ん中に「おてもと」と達筆にデザインされていた。カルナは全体的に色素が薄いので、割りばしの擬人化と言われても納得できる。
 しかし「おてもと」である。商店街のブティックでも早々見かけないデザインである。少なくともジナコは見たことがない。
 去年は「鮗」だった。カルナが水族館で買ったTシャツでジナコも渡されたのだが、彼女は「鰆」だった。勘亭流フォントの圧が強い一品だった。ジナコは部屋着にしているが、カルナは普通に外で着ていた。
 さらに言うと、去年のジナコは鮗Tシャツ(背面には鮗の生態が明記されている)のカルナと向日葵畑を訪れていた。
(夏はカルナさんも浮かれるんスかね)
 いつの間にか、夏のカルナはオモシロTシャツを着こなす男になっていた。
 ジナコはプラプラと足を揺らす。レモンイエローのビーチサンダルは、その足先に。隣にはオレンジのビーチサンダルがある。カルナのものなのだが、去年も今年も素晴らしいビタミンカラーである。夏のカルナ限定色とも言える。
「カルナさんって、服とかにあんまりこだわりなさそうだけど、実は意外とあったりするタイプ?」
……あると言えばあるし、ないと言えばないな」
「なんスかそれ。禅問答?」
「時と場合によると言うことだ」
「わけわからん」
 肩を竦めたジナコに、カルナは「お前と理由は変わらない」と言う。ジナコにおてもとTシャツを着て歩く度胸はないのだが。
 キュウリを手に持ったカルナは、とても物言いたげにジナコを見つめてきた。
「な、なんスか」
「今年はあと少しだった。来年は覚悟しておくと良い」
「またそうやってフラグ立てる。って、来年もやるの?」
「駄目なのか?」
 間髪入れずに問い返され、ジナコは言葉に窮した。駄目と言うか、困るのだ。怖いとも言える。来年を待って、そうしてジナコは一人で向日葵畑を見るのかもしれないのだ。
 彼女は夏日に揺れる花畑を見る。
 地面は陽炎のように揺らいでいて、空は青くて、雲は真っ白で――夏の色彩は、どうしてこうも鮮烈で、心を締めつけるのだろう。ジナコに感傷を与えるのは、晩夏ではなく盛夏だった。
「来年は他の人を連れてきたら? 向こうでも仲良くなった人、いるんでしょ?」
「いるかいないかと言えば、親しくしている人間はいる。だが、オレはお前と来たい」
 駄目だろうかと、もう一度問われる。
「駄目ってわけじゃないけど」
「ならば、ジナコ。来年もオレと勝負をしてくれないか」
「こだわるッスねぇ」
 カルナが勝ったら、彼はずっとジナコと一緒にいることになるのだが。もっとも、それは今を待たずに無効になった約束だろう。
 幼いというのはすごいことだ。一緒にいたいから結婚しようなんて、ジナコにもカルナにも可愛い時代があったのだ。今年で十年目だ。笑い話にするにはちょうど良いだろう。
「しょうがない。ジナコさんは来年も受けて立つッスよ。それでまぁ、カルナさんがもしも勝ったら、結婚してあげる」
「元よりその約束だろう」
……へ?」
 ポカンとしたジナコに、カルナの視線がさまよった。
「お前こそ良いのか。オレが勝ったら――
 じわりと白い頬に朱が上る。それは、幼い頃から良く見てきた色彩だった。
 カルナは、血が通っているとはとても思えないような姿をしていて――でも、汗もかくし、涙も流すし、頬を火照らせてジナコを追いかけてくることもあった。
 向日葵の迷路で、ジナコが見つからないと半泣きになっていた少年。大きな麦わら帽子をかぶっていて、ビタミンカラーのビーチサンダルを履いていて、あの夏の日も、カルナはオモシロTシャツを着ていたのかも知れなかった。
「勝負は来年ッスよ。それはとらぬ狸の皮算用。あと、ジナコさんにそう簡単に勝てるとは思わないように!」
「狸。……確かに、お前の見せる鈍さは狸に通じるものがある。無論、狸の方が生存に秀でていることは言うまでもないが」
「ボクは狸を自任してないッス! もーっ、真面目に何考察してくれてんスか!」
 ジナコは氷バケツから冷やしキュウリを掴むと、大きく一口にした。
 カルナも三本目のキュウリをとると、パリポリと食べだした。彼は絶対に嘘を吐かない。本当だけを話した。
 青空を背に向日葵が揺れる。
 来年も勝つのはジナコだが、負けても悲しみはないだろう。


28

 彼女が笑う。ふわりと花の蕾が綻ぶように、甘い喜びを滴らせて。
「悪くない」
 小さな唇が息を吐く。それは素直ではない人の最大の賛辞だった。
 独り善がりの欲だと思っていた。
 ガネーシャ神はいつも呆れたようにカルナを見て、「しょうがない」と溜息を吐く。差し出される小さな手のひら。あるいは眼差し。彼女の寛容によってカルナは許されている。
 その許しに不満を持つなどありえない。そう考えること自体が本心の傍証なのだとわかっていた。
 不要ならば教えて欲しい。適うならば求めて欲しい。カルナは彼女の心を知りたい。許されるばかりではわからない。満たされない。愚かなことだった。
(オレは度し難い)
 ドクドクと仮初の心臓が脈を打つ。
 その衝動を歓喜とわかったのは、彼女がカルナを見た時だった。榛の瞳がカルナを見上げる。いとけない、無防備な表情だった。淡い甘さを宿した――目の前で火花が弾けた気がした。
「うぎゃっ! カ、カルナさんっ!? また勝手に人の部屋に入って!! もうっ、ボクは一応だけどレディなんスよ? ガネーシャさんが神霊サーヴァントでも、その辺は考えて欲しいッス」
……良かった」
「何が良いんスか。ボクにレディの自覚があることについて? あり余るほどあるッスよー。カルナさんこそデリカシープリーズ。ガネーシャさんの中の人は女の子ッス。いきなりドアガチャとか、出て行けと言われてもしかたない案件」
「声はかけた。お前は返事をしなかったが」
「返事がない時点で帰ってよ。なに普通に入って来て普通に居座ろうとしてるんスか」
 ガネーシャ神が芝居がかった仕草で首を横に振る。パサリとココアブラウンが左右に揺れる。長い髪が柔らかな頬の左右で揺れるたびに、カルナの鼓動は逸った。
 これほど高揚したのは、いつが最後であっただろう。生前にも数えるほどしかない。死後はどうだろうか? 考えようとすると思考が揺れる。
「オレは出て行かなければいけないのか?」
 カルナを見る瞳が細められる。小さな唇が弧を描く。次に彼女が象る言葉をカルナは知っている。
「その聞き方はズルいッスよ。その通りって言ったら、ガネーシャさんが酷い人みたいになるじゃない。勝手に入って来たのはそっちなのに。カルナさんはしょうがないッスねぇ」
「そうなのだろう。オレはしょうがないんだ」
「どうしたんスか。なーんかちょっと浮かれ気味? 良いことあったの?」
「あった」
「ふぅん。それ、ボクに聞いて欲しかったりする?」
「聞いて欲しい。オレはお前に話したい」
 肯定を返すと、ガネーシャ神は笑みを深めた。
「しょうがないッスねぇ。ガネーシャさんは偉い神霊サーヴァントなので、お願いは無碍にできないッスよ」
 呆れたような眼差しは、カルナにもどかしさを与えるものだった。今は感じない。「悪くない」そう甘くほどける声を、笑みを、知ったからだ。
 カルナはガネーシャ神の前に膝をつく。彼女は寝台に腰かけていた。その手にゲームのコントローラーはない。かわりに小さな手鏡が握られていた。
 彫金の施された鏡は、カルナが磨いて作ったものだ。
 カルナは器用な性質ではないが、細かな作業は嫌いではなかった。彼は時折、細工物を作っていた。使うのは黄金の鎧ではなく普通の金属だ。そうでなくば受け取れないと言われていた。
「使ってくれているんだな」
「まぁ、他に鏡持ってないし」
「そうか。それも悪くないと感じてくれたなら、嬉しい」
「それ、も……?」
 カルナの視線を追い、ガネーシャ神が手鏡を見る。
 榛の瞳が瞠られる。サッと朱を刷いたように頬に色がついた。カルナから耳を隠そうというのだろう。白い手が顔の横に流れるココアブラウンを掴む。
「これは、違う! 違うの!!」
 厚みのある髪の狭間からも黄金の光は零れる。カルナの耳輪は一回り小さくしても、彼女には大きなものだった。
「これは魔が差しただけ! 二度は、ないっ!!」
「わかった。ジナコ。次は何が良い」
「次って、そうじゃなくて。ちょっ、カルナさん。そんなに見ないでよぉ」
 恥ずかしさからだろう。潤んだ瞳がカルナを睨む。見るなと、彼女が震える声で訴える。でもそれは――
 ドクドクと胸の奥で火が燃えている。
 悪く思ってくれてかまわない。聞くことは、できないそうもない。


29
現代設定 

 カルナが救急箱を開けている。どこか怪我をしたのだろうか?
 ソファに寝そべってポチポチとスレ監視をしていたジナコは、少しだけ体を起こした。カルナ曰く「給餌待機のアザラシのような姿」である。まったく一体全体どんな例えだ。
 若干どころでなく物申したいが、カルナのジナコに対する表現が独特なのはいつものことだった。慣れれば愛嬌に思えなくもない。イラァッとはするけれども。ジナコもカルナをモヤシのようだと思っているので、お互い様ではあるのだろう。
(カルナさん白いし、見た目がひょろっとしている)
 しかし実際のカルナが薄っぺらボディかといえば、そんなことはなかった。神様ちょっと気合入れ過ぎじゃない? と言う造形美もとい肉体美であった。
 なぜジナコが知っているかと言えば、現在進行形で当の本人が上半身裸でウロウロしているからだ。カルナがジナコをアザラシに例えるのと同じぐらいには、日常の風景である。絶世の美形が半裸で部屋にいる。どんな日常だとは思うが現実である。
 なお、誤解などされようもないだろうが、エロスなことがあったわけではない。
 今日のカルナはガーデニングに勤しんでいた。晴天真夏日、ジナコは空調のばっちり効いた部屋から出る気はまったくなかったが、カルナは違った。彼は朝食を終えると、いそいそと麦わら帽子と首タオルで庭に向かったのだった。
 今はレースのカーテンが引かれた窓の向こう。荒れ放題だった庭は、カルナの手により生命力に溢れたものになった。
 しかし、炎天下での作業である。汗とは無縁というような顔をしているカルナだが、彼も汗をかく。当然である。カルナは鉱石でできていると言っても納得の容姿だが、生きているのだ。
 ジナコは彼を幼少期から知っている。涙や鼻水でベショベショになった顔を拭いたことは一度や二度ではない。それはカルナにも言えたことだろうけれど。
(パパとママよりも長く一緒にいるし、いろいろ雑になるのはしかたない)
 お昼を前に戻ってきたカルナは、汗みずくでバスルームに直行だった。そしてさっぱりとして出てきた。ゆえの半裸である。暑いのかも知れないが、上も着て来て欲しいものである。
 干物を通り越して化石のような身の上だが、ジナコの性別は女性である。それなりに知った仲とはいえ、デリカシーは大事――と言いたいのだが、カルナは「お前がそれを言うのか?」となぜかジナコを責めるように見てくるので、最近は口にしていない。
「カルナさん。何探してるんスか?」
「かゆみ止めだ。虫に刺された」
「へぇ。カルナさんが虫刺され……ほんとに? すごくない!?」
「何がすごいんだ」
「だってカルナさん、すごい気配に敏感じゃない。背中に目がついてるのかっていうぐらい気づくし、隙がない」
 カルナは輪ゴム一本でハエを射落とす男である。反射神経も動体視力も抜群に良い。そのカルナの隙をつくとは。
「できる虫もいたもんスねぇ。どこ刺されたの?」
「首の後ろだ。自分では見えないのでわからないが」
「どれどれ。あ、ちょっと赤くなってる」
「背後をとられるなど、ここは不覚と言うべきだろうか」
「知らないって言うか、ド真面目にレスしないでよ」
 ジナコはカルナからかゆみ止めを受け取ると、半眼になった。
「屈んでくれない? ギリ手が届くけど、立ったままは塗り辛い」
 ジナコとカルナには二十五センチの身長差があるのだ。
 昔はカルナの方が小さかったのだが、気づいたらこのザマァである。横はジナコの方が勝っている。ジナコはわがままマシュマロボディなのだ。少しだけ。嘘じゃない。本当にピコッとだ。ジナコのなかでは。
 なのでカルナはジナコがロールケーキを食べていると、それは三つ目だと取り上げなくて良い。身長差をいかして高く上げる必要などまったくない。
 地団太を踏むジナコに、カルナが楽しそうなのがより解せない。ジナコはもちろん諦める気などないのでタックルを試みるのだが、カルナがモヤシなのは本当に見た目だけだ。体幹が強すぎる。
(小さい頃は、このくらいだったんスよね)
 ジナコはカルナのつむじを見下ろし、時の流れを思うのだ。
 シャワーを浴びてきたカルナの髪はペタリとしている。顔に添うように流れる白い髪は艶々としていて、絹のような、などと例えられるのだろう。特別、手入れをしている様子もないのに。
 ジナコの髪は量も多く癖も強い。一時に比べればマシになったが、膝裏まで伸びた髪は荒れたものだった。その荒みようは庭と良い勝負で――まことに不本意ながら、手入れをしたのはどちらもカルナだった。
 ジナコが頼んだことではない。ジナコは構うなと言ったのだ。家に来ることも、ジナコに会うことも。どれもカルナは聞いてくれなかったけれど。
(たまには、ジナコさんがお世話をしないこともない)
 世話と言うには些細なものだが。
 かゆみ止めを指に出すと、ジナコは赤くなっている箇所にめいいっぱい塗りこめた。ちょうど頸椎の上なので、骨の感触がおもしろい。
……ジナコ」
「なぁに。他にかゆいとこあるの?」
「そうではないが、そうでもある」
「つまり?」
「こそばゆい」
 身じろぐ相手に、ジナコはパチリと目を瞬いた。肩越しにカルナが振り返る。青い眸と視線が重なる。
「あまり戯れないでくれ」
「まだ昼間ッスよ?」
「意地の悪いことを言う」
 低く唸られ、ジナコは肩を揺らした。
「そんな拗ねなくたって良いじゃない」
「オレがどれだけ堪えていると思っている」
「さぁ?」
 とぼける彼女に、カルナは不満げに鼻を鳴らした。いよいよ拗ねている。そんなに堪えさせは――したかも知れなかった。
 カルナはうなじも白い。背中も白い。彼の肌から、ジナコの痕はすっかり消えてしまっていた。
 だってカルナが悪いのだ。ジナコの言うことをまるで聞いてくれない。カルナがモヤシなのは、本当の本当に見た目だけなのだ。
 一度許せば、ジナコはベッドから下りることもままならなくなるだろう。でも、うなじに虫刺されだけというのは、少しだけおもしろくない。
「夜になったら、考えないこともないッスよ」
 まだ水の気配のする背に手のひらを当てる。青い眸に熱が滲む。こくりと小さく喉が鳴る。頬に熱が灯るけれどしかたがない。
 ジナコはカルナの肩甲骨の大きさも、背骨の位置も知っている。汗に濡れた肌も、その熱も覚えてしまったのだ。


30

 カルナが不満げなことには気づいていた。
 でも、ジナコさんの第六感が言うのである。ここで「どうしたの?」というお姉さんムーブは危険だと。そんな余裕がないということもあるが。
 ムゥッと寄せられた眉根に、ジナコは左右に視線をさまよわせた。
「ガネーシャ神。そろそろ、知らぬふりはやめてくれないか。少し、寂しい」
 耳元でささやかれ、彼女は肩を竦ませた。このサーヴァント、自分の声の良さをわかっている。顔は好みではないが声は抜群に好み。そうジナコが言っていたと誰かがリークしたのだ。
 誰だ。思い当たる相手が多すぎて、誰もが黒い人影ニヤァ……になってしまう。
 とりあえず、思い当たる全員に神権濫用で神罰を落としたい。むやみやたらにファニーボーンをぶつけてしまえ。ジナコは明後日の方向に魂を飛ばそうとして、それどころではないと、ギリで意識を現実に戻した。
 ここで現実逃避してみよう。気づいたら霊基が変わっていた未来一択である。突然のサーヴァントだけでも驚きなのに、霊基まで変わるとか意味わからないしかない。
「カルナさん。よーく考えるッス。今年はなかった。それはつまり来年もないということ。それ以外ないでしょ」
 彼女は自らの両肩を抑えるサーヴァントを見上げた。
 今日もジナコは怠惰にベッドに寝転がり、作業ゲーと漫画を同時進行していた。そこにカルナがやって来て、あとは以下略である。
 ジナコはカルナに両肩を掴まれ、今にもプラーンと持ち上げられそうだった。カルナは気軽にジナコをヌイグルミのように抱えてくれるが、もう少しこちらの性別的なものを慮って欲しい。無理か。カルナさんとジナコです。わかりみしかない。
「何ごとも備えておいて憂いはない」
「いや、その備えはいらない。ボクが水着サーヴァントとか、誰得」
「需要はある」
「どこに!?」
 ギャンと叫んだジナコに、カルナは白い頬に朱を上らせた。そのパヤパヤはどういう意味だ。この男、まさかと思うがジナコの水着が見たいのか? 視覚から修業したいのだろうか? インドの苦行、良くわからない。
 今朝からカルナの様子がおかしいことには気づいていた。具体的に言うと、そろそろ夏の例の特異点がくるかも……? というあたりからソワソワとしていた。アルジュナの目は死んだと言いたいが、彼は彼でスキル強化を授かりまくった上に、マスターとの旅行が楽しみ過ぎて宝具をサクッと叩き込む練習に余念がなかった。『破壊神の手翳』はもっと慎重に運用して欲しい。シヴァパパも承認が忙しいとぼやいているとか何とか。
「水着サーヴァントとなった場合、クラスが変わるのが定石だ」
「そうッスねぇ。姫さんもアーチャーになってたし」
 話をぐいぐい進めてくるな、と思いながら、ジナコは相槌をうつ。カルナはジナコが会話にのったのが嬉しいのか、パァッと表情を晴らせた。傍目にはさっぱりわからないが、テンションが大変なことになっている。
 夏だからだろうか? カルナは太陽神の息子である。夏は彼の天下だった。ジナコはエアコンの効いた部屋でのアイスを愛している。
「お前が水着サーヴァントとなった場合、クラスはランサーだろう」
………なんて?」
「項羽から妻に槍を貸し与えたと聞いた」
「そうなんだ。ぐっちゃんパイセン、さすがッスね。ラブラブひゅーひゅー」
 今年は虞美人なのか。そして彼女は旦那様から槍を借りたのか。あとカルナの交友関係が広くてすごい。最近はギリシャの女神様とも親交があると判明した。ボクの推しが尊い。
「お前の槍は、オレが与える」
…………ううん?」
「今から慣れておくと良い」
 そういうと、カルナはジナコから腕を離した。
 彼に持ち運ばれる未来は回避したが、魔力が収斂するのは何故なのか。ピリピリと肌をうつ神威に、ジナコは「あ、これヤバインド」とこれから起こることを演算なしでも把握した。とりあえず、その長身を越える槍は室内で励起して良いものではない。天井に突っかかりそうになってるじゃないか。
「あの、カルナさん? それは」
「インドラから賜った槍だ」
「それは知ってる。なんでジナコさんに持たせようとするのかを聞きたい!」
「ランサーとなれば、槍は必要だろう」
 パラソルを持っているランサーもいるが、アーチャーに比べればランサーの槍の所持率は高い。
 もはやカルナのなかで、ジナコが水着サーヴァントでランサーになるのは確定事項なのか。その未来予測はないのだが。
「カルナさん。ボクが水着サーヴァントとかないから。ほら、ボクは疑似サーヴァントだし、ほいほい霊基は変えられない……
「そう、なのか?」
「あるかも知れない。汎人類史の多様性はなんかこう、すごい。ボクがサーヴァントになっちゃうぐらいだし、可能性はミリあるかも?」
 あっという間の手のひら返しは、カルナのしょんぼり顔がジナコ的特攻だからである。だが、その神殺しの槍はしまって欲しい。
「他にあてがあるのか」
「ないけど、ボクには大き過ぎるかなって」
 ジナコはカルナが携えた槍を見上げた。黒と金の煌めきが格好いい。だがしかし、ジナコではどうやっても、身長的に引きずる未来しか見えない。
 今のジナコがガネーシャ神の疑似サーヴァントでも、引きずって歩くのはさすがに神々の王的にアウトだろう。インドラ神の了承は取っている? カルナは意外と根回しができた。
「鎧だけでなく槍をお前に使う良い機会だと思ったのだが……確かにお前の憂慮も一理ある。お前は自らの身すら持て余し、何もないところで転ぶのが常だ。身丈を越える槍を扱うのは困難を極めるだろう」
「そうそう。なんか聞き捨てならない単語がいろいろ聞こえた気がするけど、気のせいということにしておく」
「ならば、お前が槍を必要とするならば、オレが振るえば良いだけのこと」
「うひゃっ!?」
 突然の浮遊感は悲しいかな。馴染みのあるものだった。とっさにカルナの頭にしがみついてしまったのは、致し方なきことである。
「もう、なんなんスか」
 カルナさんよ。あなたは何故にそう気軽にジナコさんを抱えるのだ。さすがの重量だと言いながら、パヤパヤしないで欲しい。イベントも始まっていないのに、特攻が200%を超えている。
 カルナの頭につかまったまま、ジナコはもぞもぞと安定するように体を動かした。お尻の下にはしっかりとした腕の感触がある。この状況は、つまりどういうことだ。
「これならば問題あるまい」
「なにが?」
「お前がランサーとなった場合、オレが槍を振るう。オレはお前の備品だ。アルジュナの抱えた猿のようなものだ」
「なんて!?」
「この場合、お前が猿の位置になるのか……?」
「真剣に考えないで」
 ジナコの脳裏にアルジュナの旅装が過った。彼は片腕にお猿をのせていた。神弓にはアヒルと猿の抱っこ人形がついていた。共に編成されたジナコは三度見した。
 今の自分たちは、あの状態……? いくら夏でも、浮かれすぎじゃない?
 真顔でジナコはカルナを見返した。カルナは力強く頷いた。
「案じることはない。片腕がお前で塞がっていようとも、問題はない。不思議と胸に沸き立つものがある。我が槍に曇りはないぞ。否、槍すら不要かも知れん」
 じわりとカルナの瞳に赤が滲みだす。その色をジナコは知っていた。あぁ、もう! とジナコは天井を仰いだ。
 神殺しの槍が、微妙に突き刺さっている。カルナは戦士なのに、どうにも互いにいつも通りになれない。
 これが夏か。夏の魔物なのか。
「真の英雄は目で殺す! もうっ、知ってるッスよ」
「そうか、そうか。……そうなのだな」
 ギュッとジナコを支える腕が強くなる。
 しかたがない。たぶんそんな未来はないけれど。多様性が汎人類史と言うならば、それもアリ。
「ボクとカルナさんじゃ、ランサーって言うより、ランチャーじゃない」
 元より、ジナコは例外中の例外サーヴァントである。
 クラスを変えるなら、突き抜けてしまうも良いだろう。


31

 言葉もない。これはどういうことだ。
 ポカンとしたジナコに、カルナは意を決したように近づいてきた。何となく油の切れた機械のような、と例えられそうな動きなのは、緊張しているからだろうか?
(カルナさんが、緊張……?)
 それはあるのだろうか? いつでも落ち着いているのがカルナさんである。
 先ほどアルジュナにシャンパンシャワーを(意図せず)降らせた時も落ち着いたもので「何をしている」とキレッキレに煽っていた。
「この程度の襲撃(シャンパン)を避けられぬなど、酒を過ごしたのではないか。祝宴を楽しむのは良いことだが、後で醜態をさらしたと落ち込むのは貴様だろう。ほどほどにしておくがいい」という心配が集約された「何をしている」である。言葉のショートカットがすごい。
 アルジュナは無表情にカルナを見返した。単純に驚いたのだろう。彼は幸運値A++というチートだが、カルナは授かりの英雄にすらアンラッキーを施せる。さすがカルナさん。ラクシュミーさんと一緒に行動すれば、それはもはや一つの災害。
 彼らが共に編成された時は、アルジュナ、ジナコ、アシュヴァッターマンのインド幸運値チートで囲むのが定石である。
(遅れたのは悪かったけど、ラクシュミーさんは別行動だし)
 アルジュナさんがいれば大丈夫かなー、と思っていたのだ。彼にもその自負があったのだろう。
 女性の支度は時間がかかると、役割分担をしたのは彼である。カルナはジナコについて来たがったのだが、それはマナー違反だと断固拒否した。女の支度の過酷さを甘く見ないで頂きたい。ジナコはいつもの格好で無問題だったのだが、そうはガネーシャさんのお母様が許さなかった。
 今日のジナコはいつものお腹丸出しの神霊スタイルではない。霊基はベルトコンベアー式に変更済み。ネイビーのパーティードレスは誰監修か。フリルスリーブとカシュクールデザインが気になる部分をさりげなく曖昧にしてくれるのだとかなんとか。胸の切り返し部分には同じくネイビーのリボンがついている。もさもさココアブラウンはハーフアップに。髪に天使の輪ができる日が来るとは思わなかった。
 本日一夜限りの微小特異点。テーマパークのように煌めくそこは、チェイテ・ピラミッド・姫路城がちゃんと独立した建造物になっていた。それだけでも素晴らしいことである。
 アルジュナも珍しくジナコの味方にまわって「楽しみはあとにとっておくべきです」と、カルナに説得めいたことを言っていた。
 マスターとの絆の深まった彼の精神は安定EXである。カルナも負けていられない。次はカルナさんの幕間2である。小麦おつかいイベも悪くなかった。だがもっとこう、劇的にお願いしたい。
「わかった。ロールケーキだな」違う。そうではない。施しの英雄(おつかい2)になってしまう。カルナさんはおつかいから離れて欲しい。
 なお、ジナコがカルナの幕間について考えている間、インド兄弟は小競り合いをしていた。
「貴様は楽しみはとっておくべきだと言ったが、オレは見逃すのが常だぞ」
「何のために私が貴様と行動すると思っている。A++とDを二分すれば、C程度にはなるはずだ」
 どれだけカルナは運が悪いのだ。ジナコはC+くらいはいけるのでは? と思ったのだが甘かった。
 現実を思い出してみよう。カルナはシャンパンを床にダバダバ溢しているし、アルジュナは髪からボタボタとシャンパンを滴らせていた。
 双方ともに超絶美形である。照明に煌めいて夢のように美しい光景だったが、店に入って一番、その光景とエンカウントしたジナコが回れ右をしたのは致し方なきことである。
「ようやく来たか」
「あ、うん」
「何度迎えに行こうと思ったことか。お前が待てと言うので待ったが……む?」
「待て、カルナ! 貴様、浮かれすぎだろう!?」
「ぎゃーっ、カルナさん!?」
 カルナはジナコしか見ていなかった。彼がぎこちなく歩く理由なんて、ジナコが遅れて彼が礼装であることで推して量れ。
 カルナが濡れた床に足を滑らせたのは、もうどうしようもない。モードレッドとフランケンシュタインと同じシチュがインド兄弟で爆誕するとは……
「ここは貴女の出番では?」
「無理。ボクにその反射神経はムリ」
「オレはこの場合、どのようにするのが最適なのだろうか?」
……何も言わずに立ち上がれ。そして即刻記憶を消去しろ。私も忘れる」
「カルナさん。手、貸してあげるから早く立って。……どうして頬染めた」
「それは、そうだろう」
 なにがそうでどういうわけだ。
 ジナコは、白皙をほわりと染めた男を見て、次に宿敵を抱えるという地獄を自分で現出した英霊を見た。精神安定EXのアルジュナでも限界はある。今、マスターいないし。
「はいはい、カルナさん立ってくださいーっと」
 ジナコはカルナの手を掴むと、グイッと引っ張りあげた。神霊の筋力Bは伊達ではない。お姫様抱っこだってどんとこいである。
「どこも痛めてない? 我慢しちゃダメだかんね。アルジュナさんは大丈夫……じゃないッスね」
 予想はしていたが、黒々とした目からハイライトが消えている。
「あー、マスターは広場にいるッスよ。マシュっちの後のダンスの待機列がすんごいけど、夜明けまでには順番回ってくるでしょ。アルジュナさんは幸運値A++だし」
……そうします。その男は確かに届けましたので、あとはご自由に」
「受領したッスよ~」
 ヒラヒラと手を振り、ジナコは大股で去っていく男を見送った。頬にチリチリと視線が突き刺さってくる。
 視線を上向けると、物言いたげな双眸とぶつかった。
「ボクたちはどうする? アトラクションも今なら空いてるかもよ?」
 ガネーシャ神の幸運値はAである。カルナと割ればD+くらいにはなるだろう。観覧車が天辺で止まるかも知れないが、カルナが良いならそれもアリだ。
「それともなんか飲んでく? シャンパンはカルナさんが駄目にしちゃったけど」
「不要だ」
 端的な言葉は相変わらず切れ味で、ジナコを楽しい気持ちにさせる。
「手を、いいだろうか」
「やっぱ、足捻ったの?」
「そうではない。オレと踊ってくれないか」
 カルナがジナコに手を差し出す。彼は最初からそのつもりだったのだろう。わかるとも。こちらだって同じなのだ。ぱっと見は無表情に見える男に、ジナコはふてぶてしく笑った。めかしこんでも、霊基を変更してもジナコはジナコ。可愛げなど期待するだけ無駄なのだ。
「ジナコさんは、ダンスとかしたことないんだけど」
「オレもない。だが、そう難しいこともない。離れたら、抱き寄せる。それだけで良い」
「ふひひ。それだけなら、アタシたちにもできるかもね」
 ステップもターンもできなくても、離れたら、抱き寄せる。それだけなら。
「誰もいないところじゃないとイヤだからね」
「オレにだって、独り占めにしたいことはある」
「奇遇ッスね。アタシもそういう気分だよ」

 扉の外は夢のように煌めく舞台。
 でも、そこは自分たちのステージじゃない。そういうのは私たちにはむいてない。スポットライトも、観客も、音楽も、不格好なダンスにはちょっともったいない。
 光の後ろで手を取り合い、お互いだけにお辞儀をする。
 今宵一夜のダンスには、離れたら抱き寄せたい。あなただけで充分だ。


32

 不満があるというわけではないのだ。
 ただ少し、そう、ほんの少し。証明が欲しいと思ってしまったのだ。
 何度目とも知れず胸に去来した感情に、カルナは「愚かなことだ」と口にした。言わずにおれなかったのだ。
……カルナさん」
「何だろうか?」
 彼は隣に立つサーヴァントを見下ろした。ガネーシャの被り物をした女の顔に笑みはない。カルナは逡巡した。
 今回の編成に彼女は組まれていない。カルナも同様だ。虚数潜航訓練に同行するサーヴァントの選出は、膨大な演算の末になされた。自身が選ばれなかったことに不満はない。彼女――ガネーシャ神については、どこか安堵している。虚数の海というのが、どうにも胸に引っかかるのだ。
「安心安定の言葉が足りてないアレなんだろうけど、愚かって、今それここで言う?」
「愚かなことを愚かと言っただけのことだ。問題はあるまい」
 カルナは、目にして思ったことを口にしただけだ。まったく度し難いことだった。彼は想像したのだ。もしも、と――それは愚考としか言いようがないことだった。
「火に油を注いできた。って、ギャーッ! 虞美人さんめっちゃこっち見てるじゃん!」
 柔らかな手がカルナの腕を掴む。その力の強さに、カルナは己の言動が誤解を招いたことに気がついた。
 ゆらりと幽鬼のように一騎のサーヴァントが立ち上がる。食堂のテーブルに突っ伏していた影響だろう。黒髪が前面に落ちかかっており、いつか彼女と見たホラー映画の怨霊のようになっていた。
 虞美人――現界しているサーヴァントの中でも、特殊な立ち位置にいる存在だ。生来的に言えば精霊であり、元はマスターと敵対するクリプターでもあった。今はサーヴァントとして現界している。中華異聞帯で怨霊となりかけた女を、始皇帝が言いくるめたらしい。カルナには逆立ちしてもできない芸当だった。
「お前、私を愚かだと言ったの? 項羽様との別れを惜しむ私を愚かと言うならば、それは私を愛しんでくださるあの方への侮辱も同じ。つまり死になさい。今すぐここで腸をぶちまけて詫びなさい。それ以外ないわ」
「カルナさんは虞美人さんを愚かとか言ったわけじゃなくて、そこには足りてない言葉が前後左右に測定不能なぐらいにあったり……
「愚かに極まる」
「カルナさんっ!?」
 カルナは虞美人を見て、心から思った。まったく愚かだ。言葉もない。虞美人は顔に落ちかかっていた髪を肩に払うと、口角を吊り上げた。
――爆散するわ。もちろんお前も同じよ。私は死なないけれど、英霊に過ぎないあんたは霊核が私と同じだけ砕ければ死ぬんじゃないかしら? いえ、死になさい。死ねるんだからいいでしょう」
「無為はやめておけ」
 不死性という意味では、黄金の鎧を持つカルナも同一だ。
 虞美人の宝具は、魔力の暴走に伴い自らの肉体を砕け散らせる。精霊にどの程度の痛覚があるのかは不明だが、いたずらに体を痛めつけるものではない。
「カルナさん! その気づかいはわかり辛いッス!! 虞美人さんやる気満々じゃん! ほらぁっ、落ち込んでないで、キレッキレにする前のこと全部言う! 足りてないって気づいてるんでしょ!!」
「はぁ? その男のどこが落ち込んでるのよ」
「これでも落ち込んでるんスよ……。表情差分ミリだけど、ビミョーに眉間に皺が寄ってる。声のトーンもピコッと暗い」
 彼女がおどけたように笑う。その笑みに、カルナの胸は引き絞られるように痛んだ。何を羨んでいたのだろう。榛の瞳がカルナを見上げる。窘める眼差しに、どうしようもなくなる。
「愚かだ」
「もう一声!」
「オレは、愚かだ。他者を羨み、自らにある幸福の得難さを忘れていた」
 そう、カルナは羨ましかったのだ。虞美人を見て、項羽を羨んだ。
 項羽は虚数潜航訓練に選出されたサーヴァントだった。一人残された虞美人は不機嫌であることを隠そうともしない。共にいたいのだと身も世もなく訴える姿に、誰にも知らしめられる情愛に、カルナは思ったのだ。彼女も、カルナを惜しんではくれないだろうか? と。
 いつだって彼女はカルナにそっけない。いつだって別れを告げる。さようならと言う。仮にカルナが今回の訓練に編成されたとしても、見送りにも来てくれなかっただろう。思われているのだという証明が欲しい。
 虞美人が眉根を寄せる。項羽以外のサーヴァント――特に男性体に対しては険しい顔をしていることの多い相手だが、今は怪訝の様子が強いようだった。
「お前それ、本気で言ってるの? その神霊もどきが、お前がいない時どれだけ……
「あぁああああっ、虞美人さんッ! 航海訓練中も音声会話できるかも知れないッスよ。ダ・ヴィンチちゃんたちに――って、早っ!! 嵐のような人ッスね」
「情が強いのだろう」
 星霜を揺蕩えども、忘却しない。焦がれ続ける。その情愛を羨んだわけではない。
 彼女はカルナにつれないから、証明が欲しかった。■■■は、カルナを見ていてくれたのに、愚かなことだ。
「まぁた、落ち込んでるし。泣いて暮らすも一生、笑って暮らすも一生って言うでしょうが。カルナさんはどっち派?」
 笑って生きる方がいいに決まっている。泣いて終わるよりも、笑って終わりたい。いつか必ず終わりはくる。その時は――今、この時と同じように、カルナは彼女と向かい合っていたい。いつかのように、虚数の海で向かい合った日のように。
「お前は――
「そんなの決まってるじゃん。せっかく会えたんだし? 色々あるし、あるだろうけど」
 ギュッと掴まれたままの腕に力が込められる。
「アタシは泣くのはうんざり。後は、そういうことッスよ」
 あぁ、カルナは愚かだ。本当にどうしようもなく。

 証明は、ここにある。


33

 フェチズムという言葉がある。通常よりも性的な興奮を引き起こす特定の状態やものを示す言葉だが、昨今ではもっとフランクな意味に用いられている。
 ジナコはイケボに弱い。いわゆる声フェチと呼ばれる人間である。「声だけで興奮できるとは倒錯しているな」と、どこをどう切り取っても失礼以外の要素がない言葉で感心を教えてきたのが誰とは言うまい。良い声でした。ありがとうございます。ではない。
「誰だって好きなものはあるんスよ! カルナさんだってきっとあるはず! そうに決まって――いや、あるのかな……?」
 何故ならカルナさんである。
 人の美醜わからない。人を見る目は自分にはない。万民等価、みんな違ってみんな尊いのカルナさんである。尊いのはあなただと声を大にして言いたいが、言っても当人は「気は確かか?」と、こちらの正気を心配して終了である。その危惧、腹立たしいけど、ぐう尊い。
 ジナコはベッドに寝転がったまま、ううんと唸った。
「カルナさんの好きなもの、なんだろなー。テンプレでは乳・尻・太腿の三派閥にわかれるんだけど」
 カルナがどの派閥に属するのか。そもそもあの男、乳・尻・太腿に興味があるのかも怪しい。
 サーヴァントは美形の宝庫だ。しかしどんな美女、美少女に囲まれても、いつものカルナさんなのである。女のジナコも目のやり場に困るような、たわわ♡がいっぱいなのに。羨ましいとか思っていない。
 この間など「あの男、どうなってるんですか!」とカーマに苦情を申し立てられた。カルナの無反応っぷりはジナコもどうかと思うので安心していただきたい。というか、何故にジナコに言うのだ。カーマは「なに言ってんだコイツ」という顔でジナコを見た。
『そこはもっとこう、ほら、あるでしょう!? なんで感心してるんです!?』
 カルナを誘惑しようと思った。その心意気はすごいと思う。ジナコには無理である。どうやっても無表情に見下ろされる未来しか見えない。ジナコのハートはガラス製ではないが継ぎ接ぎばかりなので、ちょっとの衝撃で大破する。嘘つきなジナコだが、これは約束できる。
 ばらけた心を継ぎ直すのはできないことはないだろうが、やりたいかと言えば答えはもちろんイイエである。不格好に修復されることが目に見えている。「もうこれでいいか」と。ジナコは壊れたものを直すのが得意ではないのだ。
 そもそも、ジナコは失恋以前の段階だ。ハートがブロークンするかはまだわからない。99.99999999%の確率で大破するとは思っているが、彼女は0.00000000001%の確率に賭けてしまうこともあるのだった。賭けどきがわからないのが悩ましいところだが。
「あーっ、もう! なんでカルナさん!! 楽に流れるのがニートじゃないんスかぁ」
 ボスリと枕を叩く。うぅ、と呻いたジナコは、哀れ恋をしている。愛の神の誘惑に、眉筋一つ動かさない男に、である。
 苦行がインドのデフォでも、あんまりな初恋である。ジナコは日独ハーフで、インドとは縁も所縁もないと言ってはいけない。その割には名前が……と言うところにはもっと触れてはいけない。偶然である。
『そうなのか? 私はてっきり……
 首を傾げたラクシュミーさんはプライスレス。でもその考察は深読み穿ち過ぎである。ジナコはそういう特別なモノではないのだ。
 ラクシュミーは「うん。そうだな。貴殿がそう言うなら、そうなのだろう」と何とも言えない、初めて大いなる石像神を見たときのような顔をした。言うなれば呆気にとられた的な? わかる。ジナコも身の程知らず乙と思う。
……無理。ワンナイトラブもない。そもそもあの人、性欲あるの? そもそもボクは、カルナさんとそういうことしたいの?」
 もはや哲学である。ジナコは性欲について哲学していた。
 フェチズムもその一環である。カルナが特定の部位に性的興奮を覚えるなら、そこを攻めればワンチャンあるかも? というわけである。恋と性欲と哲学が三鼎会談だった。
 しかし、ジナコの業は深かった。そんなフェチズムがカルナさんにあるわけないと、オタク特有の解釈違い戦争が脳内で勃発していた。これは恋心を自覚した際にも起きた大戦争である。だが、恋心を認めているように、ジナコは自分に甘かった。今だって、カルナの好みが知りたい。乳か尻か太腿か。声でも手でも、これというモノが知りたい。しかし知りたいと思っても手段がない。
 ここでお呼び出しをするのはインド男子である(ラーマとアルジュナ・オルタは除く)。公式カプのいるショタと概念ショタにフェチズムなど聞けない。ジナコは節度あるショタコンなのだ。
 アルジュナには「……は?」と低い声と一瞥で終了。アシュヴァッターマンには、嗜みについて懇々と説教された。双方とも良きイケボだったが、ジナコの知りたい情報は行方不明である。カルナさんに性欲。ツチノコ以上に実在が危ぶまれる。
 なおジナコは観察の結果、アルジュナは胸、アシュヴァッターマンは足だと推理している。カルナはわからない。本当にわからない。
 彼は見つめる(というよりは睨むに近い)ジナコに気づくと、飴やチョコを手に握らせてくる。大阪に旅行した結果、カルナは飴ちゃんを施す技を習得してきたのだった。みんなのお父さんからおじいちゃんにクラスチェンジか。インドはどこまでも属性を極めていく。
 その祖父みたいな男に恋情を抱くジナコは何なのか。エディプスコンプレックスの変異種か。わからない。恋とは心の誤作動とも言うらしいが、心理学はガネペディアの適応範囲外だった。
『カルナさん、孫に甘いおじいちゃんみたいッスね』
……孫。お前はオレを何だと思っているんだ』
『え、カルナさんでしょ』
 カルナは無言でジナコの口に飴玉を押し込んで来た。コントローラーで両手が塞がっていたからだとわかるが、唇に触れた指はジナコを悩ませてくれた。
 あの男、いつかジナコに襲われても知らない。今の彼女は神霊サーヴァント。筋力Bである。押し倒そうと思えば押し倒せる。たぶん。しかしそれは最終手段だ。いや、できないだろう。それで施された日には、ジナコの心は継ぎ接ぎの仕方もわからなくなる。
(ボクには高嶺の花どころじゃないってわかってるッスよ。でも、カルナさんに好みがあるなら、少しぐらい望みがあるかも知れないじゃん)
 ジナコはカルナが乳か尻か太腿か。それ以外でもなんでも、知りたいのだ。ワンチャン、琴線に触れるモノがあれば、なけなしの勇気だって出てくるはずだ。……おそらく。
 彼女は考えた。ジナコは神霊の依り代になるという反則技で、カルナと再会した。次はもうないだろう。恋だってできるかどうかわからない。
 ジナコは、マスターの旅が早く目的地に辿り着いて欲しいと思っている。できるかぎりのハッピーエンドで――その心の裏側で、お終いの日を少しでも遠くに、長く一緒にいたいと思うのはジナコの我がままでしかない。
 そう猶予はないだろう。でも、ただいま一分一秒も無駄にできないと思ったのは、カルナがジナコの口にまた飴、ではなく、チョコを押し込んで来たからだった。透明なフィルムにキャンディ包みされた徳用チョコである。特別感のない、日常の延長線だ。
「なにするんスか」
 ジナコは口を動かしながら、首を右に傾ける。ジナコに二つ目のチョコを施そうとしている男は、わずかに目元を和らげた。おおかた、チョコを咀嚼する姿がエサを食べるトドかマナティーかアザラシのようだとでも思っているのだろう。チョコに罪はないが、喉に絡みつく甘さが少し腹立たしい。
 読んでいた(正確には眺めていた)漫画を閉じると、ジナコはカルナに向き直った。
「カルナさん。ちょっと聞きたいことあるんだけどいい?」
「かまわない」
 カルナが頷くのは想定の範囲内である。これからジナコが聞くことは想定の範囲外だろうが。カルナの驚く顔を思うと、ジナコは胸が空く思いだった。スゥッとした感覚は、どうせと言う寂しさではないのだ。
 ここはジナコの部屋で、何故カルナがいるのかと言えば――ジナコにも理由はいまいちわからない。彼は父親か祖父かはたまた弟か、そういう感覚で、手のかかる姉か娘か孫のような女をかまっているのだと思う。
 ジナコの捩れた恋心がさらに拗れるので放っておいて欲しかった。しかし実際にカルナが他をかまうと寂しくなるのだから我ながらどうしようもないことだった。
「カルナさんに性欲があると仮定して」
……それは仮定が必要なことなのか?」
…………必要じゃないの?」
「お前はオレを何だと思っているんだ」
「えっと、カルナさん?」
 なんか似たやり取りをした覚えがあるな、と思いつつ、ジナコは答えた。カルナは「オレは『カルナサン』という生物ではないぞ」と言う。いや、知っているけれど。
「わかっているならば、オレに性欲があるか否かなど問うまい」
「性欲あるの!?」
「あって悪いか」
 そう言うと、カルナは何もない指で彼女の唇を押したのだった。


34
現代設定 

 ジナコから『なんでもいうこときいてあげる券』を貰った。バレンタインから半年以上経った日のことだった。
「これ、お返し」
 渡されたメモ紙をカルナは買い物リストだと思った。彼女は極度の出不精だ。放っておくと、日がな一日カーテンの閉じた部屋にいる。ジナコを太陽に干すことは、カルナの日課だった。
「ボクは布団ッスか!」とジナコは丸い頬をますます丸くしたが、カルナは単純にジナコが太陽の下にいる姿を見るのが好きだった。日向で微睡む姿は無警戒で無防備で、カルナの胸を擽るのだ。ほのかな優越のような、少しの後ろめたさを含んだ熱だった。
 眠ることで弛緩した手のひら。陽で温もった肌に触れる。指先を握り返されると、自分が素晴らしい存在になった気さえした。カルナは凡夫なので、すぐに調子にのってしまうのだ。
『カルナさんが凡夫って……。人類のハードル上げ過ぎ』
 自戒を込めたカルナの言葉に、ジナコは呆れたように息を吐いた。だが、実際にカルナは眠っているジナコに触れてしまうのだ。肌を撫ぜても起きない。握り返してくれる。彼女が微笑んだような錯覚すら抱くのだ。
ジナコの意識は現実にないというのに、独り善がりなことだった。
『確かにボクは寝てるけど。……凡夫でもなんでも、ボクにはカルナさんの手は良い感じッスよ。温かいし、掴み心地がいい』
 ジナコはカルナの手を両手で握ると、ギュッと力を込めた。
『うん。悪くないッスよ』
 それはつまり、これからも触れていいということだった。眠る女に腕を伸ばす。それは甘やかなことだろう。
 だが、カルナはジナコと暮らしているが、夫婦でもなければ恋人でもなかった。二人の関係をもっとも正確に表すのは「幼馴染」だった。過ごした歳月は四半世紀近くになる。
 彼は薄いメモ紙に書かれた文字を見た。アナグラムだろうか? 脳内で文字をばらしてみるが、上手く文章が組み立たない。
「これはどういう意味だろうか」
「そのまんまの意味ッスよ。なんでもいうこときいてあげる。そういうわけなんで、どーぞよろしく」
 ジナコがおどけたように笑う。カルナは紙をもう一度見ると「わかった」と頷いた。
 手のひら大の紙には見慣れた筆跡が並んでいた。『なんでもいうこときいてあげる券』。ジナコは調律したような美しい文字を書く。
 彼女は「お返し」と言った。ジナコから何かを返されることなどあっただろうか? 逆ならばいくらでもあるが。カルナの問いに、ジナコは「言うと思った」と肩を竦めた。
「バレンタインッスよ。忘れたんスか」
「忘れてはいないが、そうか。バレンタインか」
 カルナは暦を見た。すでに九月も半ばだった。
 今年と言わず、カルナは毎年、ジナコにチョコを贈っていた。物心がつき、バレンタインというイベントを知ってから欠かしたことはない。つまり年数にすれば二十を越える。ホワイトデーには何もない。元よりカルナが好きでしていることだ。そもそも、彼はジナコから何かを貰ったことがない。物という意味においては。
 カタチに残らないものはたくさんもらっているので、カルナは充分だった。
 たとえば、ジナコがカルナの用意したチョコを食べている時の蕩けそうな顔だとか。視線に気づいてプイッと背けられた頬のふくらみだとか。そういうジナコの一つ一つがカルナを満たした。
「使ってもいいし、使わなくてもいいし。全部、カルナさんの自由にしていいよ」
「使う」
「お、珍しいッスね。てっきり自分には過分だとか、そういうのをわかり辛くキレッキレに言うと思ったんだけど。一応言っとくけど、他の人にあげるのはなしッスよ?」
「あげない」
 口調が幼くなるのは、カルナが焦った時の特徴だった。ジナコが「よろしい」とにんまりと笑う。
 誰がやるものか。カルナはジナコを少しも分けたくないのだ。
 日向で微睡む姿も、指先を掴む熱も、寝床から引きずり出す時のしかたのないやり取りも。今、カルナに笑う顔も、待ってくれる姿も。全部、独り占めにしてみたいのだ。カルナはジナコが与えた文字を見る。
 なんでもというならば「一生傍においてくれ」と頼むこともできるだろうか。バレンタインや誕生日。ことあるごとにカルナが渡そうとして、巧妙にはぐらかされ続けている指輪を受け取ってもらうこともできるだろうか。
 でもそれは、ジナコの差し出した手を無心に掴むのは、ほんの少し、カルナのあるかないかわからないと言われる矜持が邪魔をするのだ。
「そんなに悩まなくても」
「悩むに決まっている」
 カルナはジナコには「欲しい」しかないのだ。
「なんでも、思いついたこと言ってみたら?」
「短慮はできない」
「真面目か。それがカルナさんだから良いんだけど。カルナさんがカルナさんだから、ボクもこんなものを作ってしまったわけです。はいっ、そういうわけで、ここに注目」
 ジナコが『なんでもいうこときいてあげる券』の裏側を突く。
「それが用法容量ってやつなんで、ちゃんと読んどくこと」
………これは」
「書いてあるまんまッスよ」
 じわりと白い頬に朱が上る。カルナも同じようなものだろう。
 使い方・ジナコ=カリギリにしてもらいたいことを直接、言うこと。期間・無期限。回数・無制限。
 調律したような文字。それが少しだけ乱れている。
「当たり前だけど、誰かにあげたら許さないからね」
「ジナコ。最初の一回を。――待っていてくれ」
 カルナはジナコに渡したいものが、告げたい言葉があるのだ。


35

 不安であったのだと思う。約束を守ってもらわなければと、その意識が先行して――自分が何をしでかしたか。そこの考察するのをジナコはすっかり忘れていた。よく忘れていられたな、と思う。
……カルナさん。忘れてくれたりは」
「無理だ」
「デスヨネー」
 ジナコはツヤツヤ、と言う擬音がぴったりの顔をした男に背後から抱え込まれていた。
 互いが真っ裸であるのは、そういうことだ。足の間というか、体のナカというか、胎の奥というか、自分では届かない場所が熱を帯びているのも、そういうことだ。
 それはかまわないのだ。元から今日はそういう予定だったのだ。だがここに至る工程は大いに問題だった。彼女は、フニフニと我が物顔で胸を揉んでくる手を掴んだ。
「いつまで揉んでるんスか」
「いつまででも揉める」
「渾身のドヤ顔で言うことか」
「好ましいものは好ましい」
「だからドヤるなし」
 カルナさんはおっぱいが好きである。とにかく揉む。あと吸う。おかげさまでジナコのちょっと陥没気味だった乳首はちゃんと顔を出すようになったが、抓むのはほどほどにしていただきたい。
「胸だけと言われるのは心外だ」
「そういって流れるように腹を揉まない。その下もダメ!」
 ムゥッと不満げな顔をしても、駄目なものは駄目。いつも絆されるジナコさんではないのである。しかし、この人元気だな。
 ジナコは身じろいだ。そろそろ放していただきたい。だが、体を抱え込む腕は小動もしない。断固たる意志を感じる。背中が温かいを越えて、汗ばんでいる。
 この流れはアレである。今日は無理だ。本当に無理なのだ。体力はまだあるけれど、精神がオーバーキルなのだ。
 彼女は殊更に難しい顔を作ると、ムニモニと飽きもせずに人のたわわを揉んでくる手を掴んだ。
「もうしないッスよ。カルナさんは怪我人なんだから」
「その怪我人に圧し掛かってきたのはお前だろう」
――うぐっ」
 そうなのである。戦闘で負傷したカルナに性行為を求めたのはジナコなのだった。
 しかもカルナの怪我は軽度ではなかった。霊核に罅が入るほどで、彼は歩くこともできなかった。魔力が長時間遮断された結果、下半身の感覚が欠落してしまったのだ。
 霊核が修復され、魔力が十分に回れば問題はないとのことだったが、ジナコは「どうしよう」と頭の中が真っ白になった。
 ジナコは追いつめられると、自分がとんでもないことをするという自覚はあった。だが安静を言いつけられている人を本人が「かまわない」と頷いたからとはいえ、掻っ攫うのはどうなのだ。こんな時に神霊の筋力Bが憎い。ただのジナコ=カリギリであれば、カルナを抱えていくことなどできなかったのに。
 カルナさんもカルナさんである。施すにも限度がある。でも悪いのはカルナなのである。何故なら、彼はジナコと約束をしていた。
「こっ、今回は、カルナさんが悪いんだから! 約束破ろうとするし、うぅ……っ、責任とってくれなきゃいけなかったの!!」
「わかっている。責任はとる」
 カルナが頷く。ジナコは「やっぱなし」と言おうとして、すでに履行済みであることに呻いた。
 カルナとの約束。それは、今夜エッチをするというものである。数時間前のジナコに聞きたい。どうしてお前はそこにこだわったのだ。相手がカルナさんだからです。
……カルナさん。なんか」
 お尻の間にあるモノが芯を持ち始めている気がする。首筋に額が擦りつけられる。キュウッとお腹の奥が、腰の裏が切なくうずいた。これはアレだ。カルナさんのカルナさんだ。
「げ、元気ッスね」
「お前のおかげだ」
「ソレハ、ヨカッタデス」
 ジナコはカタコトになった。本当にあの時の自分はどうかしていた。
 数時間前のカルナさんのカルナさんは、元気がなかった。それはそうだ。下半身の感覚がないのだから。普通はそこで諦めるだろう。カルナは霊核を負傷しているのである。エッチをしている場合ではない。だがしかし、その時のジナコは「カルナとエッチをする」という約束を守ってもらうことで頭がいっぱいだった。
 カルナは嘘を吐かないのである。つまり、今夜ジナコとすると言ったなら、してくれなくてはダメなのだ。
 人は非常事態に日常を求めるという。普段と変わりないことをすることで、精神の安定を保とうとする。普段と変わりない。ここを深く考えてはいけない。
『カルナさん、元気ないじゃん。どうするんスかぁ!』
『ジナコ。いくら感覚がないとはいえ、掴まれたままというのは』
『口ですればいいの? それとも挟む!?』
『落ち着け。今のオレに不屈は難しい』
『それじゃエッチになんない! 最後までしてくんなきゃダメなの!』
『泣かないでくれ。オレはお前に泣かれると困るし、この状態で泣かれるというのは、さすがに』
『カルナさんは約束したら守ってくれなきゃいけないんだから! いつものガッツはどうしたんスか!!』
 無茶苦茶である。
 カルナは上半身は問題ない。腕は使える。口も使えると代替案を出してきたが、それはジナコのなかで性行為にカウントされていなかった。指や口で気持ち良くなることは、彼女がカルナを受け入れるまでにしてもらったこと。ジナコひとりが気持ち良くてもダメなのだ。
 ジナコは考えた。思考回路が大混乱していたが、それでも目的を果たすべく行動した。
 今のジナコは神霊の疑似サーヴァント。魔力供給だ。これしかない。皮膚接触より体液、体液よりも粘膜接触。すべてをコンプリートするのが性行為である。しかし、カルナさんのカルナさんは元気がない。下半身も動かない。交接――粘膜接触は難しい。キスでも魔力は交換できるが、それは微々たるものだ。ならば次点。体液だ。
 カルナさんのカルナさんが元気になったのは、ジナコが腰を揺すって擦りつけたからだ。今もカルナが腰をゆるく揺するたびに、体の奥から溢れるもの。
 誰とは言わない。記憶ごとパージして欲しい。
 カルナは元気だ。腰だって問題ない。下半身だって問題ない。カルナさんのカルナさんも元気だ。ジナコが保証する。
「ジナコ。責任はとる。だから、お前も」
 責任を取ってくれ。小さく耳に口づけられる。
 カルナが元気なのは嬉しい。大事な人には健やかでいて欲しいものだ。彼の怪我が治るのは、最低でも三日はかかると言われていた。早期治癒。その理由。
 責任はとる。そのかわり。
 明日は、絶対に外に出ない。


36

 ジナコは気が向いた時にだけ、日記をつけている。
 毎日つけてこそ日記というなかれ。そういう高い志とは無縁なのがジナコさんである。気構えずに、気楽にできるぐらいでないと心が折れる。昨日書かなかった。明日、今日の分も書こうを繰り返して、あっという間に夏休みの絵日記(夏休みは終わった)が爆誕する。
 気が向いた時なら、昨日書かなくても気にしなくて良い。いつやめてもいいし、一冊の日記帳をどれだけ長く使ってもいいのである。エコだ。
 その日、ジナコが日記を書こうと思ったのも、特別な理由はなかった。あえて言うなら最近やり込んでいるオンゲがアプデ&メンテで、ゲー友の刑部姫と巴御前はマスターと周回で、なんとなく一人ゲーの気分ではなかったというのがある。
「んーっと、たしかこの辺りにしまったはず……
 ジナコは本棚に平積みされたうちの一冊を引っぱり出す。
 彼女の日記帳は、アナログノートタイプだった。電子化が基本のカルデアでは紙媒体はレアである。でもブログのようなものは、ジナコ的に微妙なのだ。誰にハッキング、もとい見られるかわからないし。日記をつけていることがバレたら面倒は必至である。
 見せろとは言われないだろうが、今日はつけたのかと言われる気はする。誰にとは言わないけれど。ジナコの日記は、不定期更新なのだ。
「前はいつ書いたんだっけ」
 ジナコは日記帳の三分の一ほど。前回の日づけを見ようとして、そうだったと思い出した。それぐらい前だったのだ。
「我ながら、これってどうか思う」
 文章は日づけも含めて三行ほど。そのすべてが懇切丁寧に解読不能だった。恐怖の怪奇現象と言いたいところだが、安心安定。認識阻害の一つである。
 ジナコの書く文字は、誰にも読むことができない。ジナコ自身にすらも、日づけを越えれば何を書いたかわからなくなる。当然かと思う。
 文字は言葉よりも強い伝達手段だ。言葉は録音しなければ、そのとき限り。記憶にだけ残される。そして記憶は、時とともに忘れられていく。文字は違う。カタチとして現実に残るのだ。
 ジナコが誰かに伝えたい何かがあるとして――たとえば、どうしようもなく寂しくなって「自分が誰か」なんて書いてしまったとして、それを読んでもらうことは、できないのだ。
「ボクも懲りないッスねぇ」
 パリンパリンと誰とは言わず破られている認識阻害だけれど、意外とそつがない。ジナコも読めないということは、諦めろということなのだと思う。
 でも、ジナコは別に伝えたいわけではないのだ。寂しいけれど。もしかしたら、そういう日記もあるのかも知れないけれど。少なくとも、今のジナコが書くのは「そういうこと」ではない。
 彼女は読めない文字の下に、今日の日付と、はじめの言葉を書いた。
 きっと、過去のジナコも同じことを書いている。そんな、しかたのない予感があった。


 ジナコが書いているのは、正しくは日記ではなかった。
 彼女はひとりの英雄の名前を書いている。自らの母語と、神霊の知識から引っぱり出した古代の言語。何のために、と聞かれたなら、ジナコが悔しいからと答えよう。
 サーヴァントには、マスターと意思の疎通ができるように聖杯から知識が渡されている。紀元前を生きた人でも、現代に問題なく適応できる。言葉も、風習も、文化も。でも、変わらない、変えられないモノも存在した。
 最初は知りたかったのだと思う。ジナコの世界では、それは途絶えてしまったものだから。彼女は日記帳となる前のノートを手に、彼に聞いたのだ。
「カルナさんの名前って、どう書くの?」
「それは、マスターの国の言語で、ということだろうか?」
「そうじゃなくて……えっと。カルナさんの時代の言葉でって意味」
 ガネペディアにアクセスすれば、調べることはできた。でも、ジナコはカルナから教えて欲しかったのだ。彼の書く文字を見てみたかった。浅はかなことだった。カルナが顔を翳らせた理由。ジナコは彼の生涯を見たのに、忘れていた。
「オレは書けない。オレは、それが許される身分ではなかった」
 身分。カルナの生涯に枷をかけ続けたモノ。今のカルナは英霊だ。身分なんて関係ない。それは真実で、少し嘘なのだった。
 サーヴァントは死者の影だ。英霊は生者のように成長しない。霊基再臨を進めれば、能力は向上する。でもそれは本来、発揮可能な力を解放しただけなのだという。
 生前のカルナが文字を書くこと、読むことができなかったというならば、そのまま生涯を終えたというならば、それはサーヴァントである今も変わらない。変えられない。
「教えようという者もいたのだが、反発する者も多かった。……オレ自身、必要と感じることもなかった。自分の名は、呼ばれればわかった」
 だから、諦めたのか。
 カルナはジナコの前に膝をつくと「お前が気にすることはない」と、ひどいことを言った。
 この男はジナコに謝らせてもくれないのだ。でも、ごめんなさいと口にするのはジナコの自己満足だ。彼女がそれにまた嫌悪を覚えると知っているから、カルナはジナコの言葉を先に塞いでしまったのだ。本当にどうしようもない。ひどい人だ。
「おかしな顔をしている」という相手に、ジナコは「誰のせいッスか!」と力いっぱい訴えた。
「オレのせいか」
「カルナさん以外にないでしょ! ここには、ボクとカルナさんしかいないんだから!」
「そうか。それは悪くないな」
「なんでそんな上機嫌なんスか。意味わからん」
「お前はオレも書くことができると、当たり前に思った。その感性をオレは得難く思う。オレは、自分の生きた時代の文字はわからない。だが、マスターの国の言語ならばわかる。読むことも、書くこともできる」
「そうじゃないってわかってるのに、誤魔化すの、ボクは良くないと思うッス」
 ジナコが知りたいのは、それではないのだ。聖杯から与えられたモノでは、満足できないのだ。
 それは、その思いは、とても我儘なことだろう。でも心のどこかで思うのだ。この人ならきっとなんて、思ってしまうのだ。
 カルナはジナコを見ると、何故か深々と溜息を吐いた。どこかおかしげな、おどけるような吐息だった。
「お前こそ、そういうのは良くないと思う」
 そういうのも、どういうのも、カルナがジナコを甘やかすのがいけない。
 ジナコの減らず口に「本当にそういうところだ」とカルナは声を和らげた。
「ジナコ。オレの名は、■■■と言う。お前が教えてくれないか」
「アタシが書いたって意味ないよ。カルナさんも知ってるでしょ」
「意味はある」
 読めなくても、書いたという事実すら忘却されてしまっても。
 カルナが意味があると約束するのなら、ジナコは彼の名前を書こう。
 今日のジナコが何を書いたか忘れても、カルナの声は、教えられた名前は憶えている。


 彼女は毎日ではないけれど、日記を書いている。
 ジナコは英霊の座がどこにあるか知らないので、最後の日。日記帳は、日当たり抜群の大地においていこうと思っている。
 でもきっと、それより前に。
 指先で、明日には読めなくなる名前をなぞる。忘れてしまうカタチを見つめる。
「■■■」
 馴染んだ音階を確かめる。火が灯るように、切なく甘やかに、胸に満ちるモノ。
 それは期待。あるいは確信。
 ジナコは知っている。いつか訪れるお終いよりも早く。
 彼はその名のカタチを彼女に教える。


37

 おかしいな? とは思ったのだ。
 何度ランサーのマークをタッチしても、選択肢が一つ、正確には一騎しか表示されない。もしかしたら、そういう編成制限なのか? ならばこれはジナコの勝ちである。
「ランサーはカルナさんでっと。ふひひ、次はアーチャーッスね。アルジュナさんかアシュヴァッターマンさんか。夢のマハーバーラタ&ラーマヤナパーティーを組むッスよ!! マスターには悪いけど、コストはこっちの方が上だし。概念礼装もSSRにできちゃうんだから。カレスコいっちゃう? ……あれ?」
 コストがオーバーしている。
 ジナコはタブレットを両手に「ううん?」と首を傾げた。
 シミュレーター内に再構築された聖杯戦線。第何回と銘打たれた舞台で、彼女はマスター役を仰せつかっていた。Mr.Mの代打である。他には諸葛孔明や司馬懿がいた。軍師である彼らの采配に間違いはないだろう。シレッと混ざっていた陳宮については不問とする。
 ジナコはダ・ヴィンチにインドサーヴァントの編成不可をお願いした。諸葛孔明も同じようなことを頼んでいた。推しと妹と弟子のいる英霊は大変だ。あとマーリンにマスター役を頼んだのは誰だ。人の心がないのか。賢王の目が死んでいる。
 迎え撃つという立場上、編成条件はゆるゆるである。ゲームは無理ゲーぐらいがちょうどいい。
「一回、カルナさんは外して、先にアーチャーを。……こうきたか!」
 アーチャーの一覧にランサーがいる。霊基グラフが心なしかドヤッて見えるのは気のせいか。
 隣に並んだアルジュナの目から光が消えている。アシュヴァッターマンは「あきらめろ」と首を横に振っている。とりあえず言いたい。霊基グラフって、ライブだったっけ?
「セイバー……うん、適正あるもんね。でも、バーサーカーとアサシンはないでしょ! カルナさん、あなた何してるんスか!!」
 ドヤッとしているのではない。アサシンにカーマちゃんさまはいないし、バーサーカーはブラックアウトしていた。なにこれ怖い。
 そして当然だが、ランサーはランサーの枠にしか編成できない。カルナがセイバーにいても編成不可である。当たり前だが。
 何となく予感をしつつ、ジナコはセイバーにラクシュミーを選択した。ブッとエラー音が鳴った。ラクシュミーが「私の不運ではないぞ」とジェスチャーで訴えてくる。カルナはジト目でジナコを見てくる。何故にジナコさんが微妙に責められている風なのだ。
「どうしろと?」
 ジナコがマスターとして迎え撃つ聖杯戦線は、七騎士を編成するというものだった。七騎士どころか三騎士もない。ジナコはランサー一騎だ。しかも概念礼装はなしだ。ランサーにカルナを選択すると、コストがぴったり限界値になる。
 つまりジナコはカルナとマスターを迎え撃たなければならないわけだ。それは、とてもアレである。ジナコさんの心にクリティカルを決めてくる。
 ムムムッとジナコは顰め面をした。本当は、ちょっとピコッとやぶさかではないと大いに思っていたり、そんなこともあるわけなくもないわけで?
……カルナさんだし、なんとかしてくれるでしょ」
 ジナコは『開戦』の表示をポチリとした。

「ガネーシャさーん! サーヴァントの行動は、三回までじゃなかったっけー!!」
「知ーりーまーせーん! カルナさんの行動値は二十四回あーりーまーす!!」
「七×三は二十一だよー!」
「ボクの行動値も入ってるんですぅ!」
 ジナコは大声でマスターに答えた。その背には槍をたずさえたランサーが近接していた。
 なお、八倍は行動値だけではない。◆の数も同様である。カルナ一騎の編成に、マスターは「なるほど」みたいな微笑ましい顔をしたが、今となってはアレだ。なんかごめんなさいね? と言うものである。
 ジナコはタブレットでマスターのサーヴァントのステータスを確認する。マスター役とはいえ、今のジナコに令呪はない。指示はインカムを通じてになる。
「カルナさん。次のターンでセイバーが来るッスよ。単体宝具で決めてくる。『無冠の武芸』使って」
「承知した」
 楽しそうだ。カルナが楽しそうだとジナコも楽しい。
 機械越しの声に、ジナコはクスクスと肩を震わせた。
「どうして『貧者の見識』にNP上昇とスターがついてるのっ!? それガネーシャさんのだよね!? 『魔力放出(炎)』にはタゲ集中と攻撃力&防御力アップだし! だから『無冠の武芸』には無敵効果! わかりやすいけど、どうなってるの!?」
「マスター。それはボクにもわかんないッス!」
「悪く思え。そういう仕様だ」
「どんな仕様!?」
 ペチペチペチと三回、マスターが攻撃……もといタッチされると聖杯戦線は決着である。
 次は勝つ! とテンプレなフラグを立てたマスターに、ジナコはお待ちしてますよー、とヒラヒラと手を振った。とはいえ、ジナコのマスターミッションは終幕である。次は人の心がないのか編成を組んだマーリンが待っている。マスターは頑張って欲しい。
 聖杯戦線は様々な戦況を経験するため。少し寂しいけれど、ジナコに次の戦線はないだろう。あまり参考にはならなかっただろうし。だって、こちらはカルナひとりだ。聖杯戦争においては、それが正しいのだけれど。
 城壁に腰かけたジナコの隣に、カルナも座った。珍しい。
「さすがに疲れた?」
……いや、そうではない」
 ジナコはフラフラと足を揺らした。スウスウと足先を通る風が心地いい。高揚に火照っていた体が、ゆっくりと落ち着いていく。
「己が身を弁えろ」
「そんなバランス崩さないし。このくらいの高さ、落ちてもどーってことないッスよ。……どうして指を絡めてきた」
「ほどけたら困る」
 ほっそりや繊手とは程遠い丸みのある指に、柔らかく力がこめられる。硬い男の人の手だ。この手なら、何があっても大丈夫だ。そう信じる以外の選択肢が見つからない、困った手だ。
「カルナさん。今回は、ちょーっと大人げなくなかった?」
 ジナコはカルナを見た。文字通り縦横無尽の働きをしたランサーは、ハタリハタリと何度も大きく目を瞬いた。
「そう、だろうか? 抑えられていたと思うのだが」
「カルナさん、抑えてたの?」
 あれで?
 食い気味に問い返したジナコに、カルナはコクリと頷く。
「会戦ごとに、宝具は撃たなかった」
……撃てたんだ」
「撃てたんだ。実は、オレは。だが、それはさすがに大人げがないと思ったんだ」
 気づいていなかったのかと、言外に訴えてくる。
「言ってくれなきゃ、わかんないッスよ」
 色々と。
 カルナ以外に選択肢がなかった理由とか。ジナコがそれで良いと思ったわけとか。お互いだんまりがどうにも多いのだ。
 肩を竦めたジナコに、カルナは動揺したようだった。躊躇いを飲み込むように、薄く唇を開いては閉じるを繰り返している。
「言ってもいいのか?」
「カルナさんこそ、ボクでいいの?」
 戦闘の高揚は冷めている。今、体が熱いと思うのは、カルナがジナコを見ているからだ。どうしようもなくちっぽけな女の手を、やっとだと言うように直向きに握っているからだ。
「ジナコ。オレは、どうだった」
 そんなの、決まってるじゃないか。
 今日じゃなくて、昨日じゃなくて、ずっと思っていた。明日だって思っている。
「あなたは私の――
 ジナコは、カルナに言いたかったことを最後まで告げる。
 そうして、ほどけてしまわないようにと絡められた指に、ギュッと力を入れたのだ。


38
現代設定 

 会って欲しい人がいる。
 こちらの様子を窺う妹に、アルジュナは鷹揚に頷いた。
「私はいつでもかまいませんよ。先方の事情に合わせます」
「良かったぁ。早めにお願いしたかったから、どうしようかと思ってたんスよ」
 目に見えて安堵する妹に、アルジュナは思った。
 今回も腕が鳴ると。

 アルジュナには、因果がこんがらがり過ぎて、いっそ一本筋が通ったと言われる妹がいる。
 どんな因果だと言えば、彼の妹の名が『ジナコ』であると伝えた時点で、大概の人間は「あぁ~」と趣深い呻き声をあげる。
『ジナコって、テメェ、ソイツはアレだろ? アイツの……その女が妹? テメェら一体どうなってんだ』
 それはアルジュナが知りたい。
 アルジュナは、詳細は省くが英雄だった。とんだ自意識過剰の気配がするが、事実である。
 彼は古代インドを生きた半神半人であり、後世に叙事詩に謳われる男であり、人類の守護者――英霊だった。
 あらためて考えてみても、中学生男子の黒歴史の域を脱しない。しかし、重ねるが事実である。今は人間だが。ここはそういう世界線なのだ。サーヴァントが人間として生きる世界もある。
 何の意味があるのかはわからない。答えは「神のみぞ知る」というものだろう。神と人の子であった経験から鑑みるに、何も考えていないという可能性も捨てきれないが。
 英霊の記憶の所持は、個人による。アルジュナは覚えているタイプで、彼を心底案じてきた男――アシュヴァッターマンも同じだ。妹――ジナコは覚えていない。彼女自身が英霊ではないからか、それとも他の要因があるのかはわからない。
 只人に前世の記憶(この表現が正しいかは不明だが)など不要極まりない。アルジュナはそう思っている。アシュヴァッターマンは、両手で頭を抱えた。
『テメェ、もしかせずとも妹が可愛いだろ』
『可愛いですよ。当然では?』
 アシュヴァッターマンはテーブルに額を打ちつけた。新しい苦行だろうか?
 アルジュナは妹が可愛い。宿痾の男が彼女にいかなる感情を抱いていたかなど過去のこと。今は些事。彼女はアルジュナの妹である。
 ジナコに神霊の依り代であった記憶はない。記憶があれば、アルジュナの心情も変わっていたかもしれない。彼女もアルジュナを兄と呼ぶことはなかっただろう。
『オイ、なんで目頭おさえてんだ』
『お兄ちゃん、と呼ばれる幸いについて考えていました』
……テメェ、ガネーシャサマにお兄ちゃんって呼ばれてんのかよ』
『私は彼女の兄。お兄ちゃんと呼ばれるのは必然では?』
『俺は今から頭が痛ぇんだが』
 アシュヴァッターマンの憂慮はアルジュナにもわかっていた。
 カルナだ。あの男がアルジュナの妹に気づいた時、どう行動するか。だが、いまだカルナはこの世界で確認されていない。
 生まれていないのか、それとも、とうに生まれて人生を終えたのか。今この時も彼女を探しているのか。
『自分もカウントしとけ。ったく、誰だか知らねぇが、コイツにガネーシャサマをつけた奴は良い趣味してやがる』
『えぇ、まったくです』
 妹は可愛い。
 アルジュナは全承認を返した。アシュヴァッターマンは瞑目した。


 アルジュナと妹は血の繋がりのある兄妹だ。容姿はまったく似ていないが、この世界では珍しいことではなかった。
 一年のほとんどを海外で過ごす――もとい秘境に旅立ったまま帰って来ない両親に代わり、彼は妹を愛育した。ちょうど年は十、離れている。
 彼はジナコを立派な淑女にすべく、時に厳しく、時に優しく、最高の教育を授けようとした。結果から言うと、彼は年の離れた妹に甘く、ほとんど甘かった。アルジュナは妹を叱ろうとして、ギュッと目を閉じる姿に「できるものか!」と膝から崩れ落ちるタイプの兄だった。兄妹ゲンカなど論外。
 生来、自堕落であるはずの妹は「ダメだこの兄、早く何とかしないと」と早々に自立した。アルジュナは十四を前に手のかからなくなった妹に、シスロスになった。
 だが、一人で何でもできるようになった妹だが、アルジュナを頼ることがある。


「私のプリンセスに告白を試みるなどいい度胸です。一国一城の主になってから出直してくるといい」
「私のプリンセスって、そういうこと素で言うから、お兄ちゃんは残念って言われるんスよ。しかも一国一城って」
「一国一城は最低条件です」
「姫さんから『アルジュナさんの難易度ナイトメア過ぎて、ジナッちゃんの恋人は二次元にもいない』って言われてるんだけど」
「ジナコ。結婚するなら私の屍を越えていきなさい」
「それはまだ先でいい。恋人とか結婚とか、良くわからないし」
 両手の指を突き合わせる姿に、アルジュナは「そうでしょう」と大きく頷いた。ジナコに恋人などまだ早い。妹は十六である。いつか送り出す日は来るだろう。
 妹の伴侶となる者は、アルジュナ、アシュヴァッターマン、オデュッセウス、ゲオルギウス、オリオン、イアソンを(物理で)倒し、かつキルケーの試練を(知力で)乗り越えたものであることが第二条件だ。
『至極自然になんて条件を……っ。お前、妹を嫁に出す気が皆無じゃないか。そんな試練、ヘラクレスでもない限り――はっ! ヘラクレスは駄目だぞ!?』
 嫁に出す気はある。ただ、ギリシャは親戚関係が気になるところだ。
『わかる。ギリシャはヤバイ』
 頷くオリオンは、今生も熊だった。月女神の強い意向だろう。彼らは全員、英霊の記憶がある。
 アルジュナは妹が「ジナコは○○先生と結婚する!」と宣言した日から、婿候補の選定基準の精度を上げ続けている。
 アシュヴァッターマンには、妹が五歳、相手が女性(既婚)であったことで「冷静になれ!!」と両肩を揺さぶられたが、アルジュナは冷静だった。少し驚いたが、何事も用意をしておいて損はないと思うのだ。
「断る、ということでかまわないんですね?」
「うん。ボクもお断りはしたんだけど、すごいガッツのある人で……
「わかりました。この兄に任せておきなさい」
 胸に手を当て、アルジュナはニコリと笑った。妹は「お手柔らかにお願いします」と控えめに訴えた。
 アルジュナは、ジナコと連れ立って待ち合わせの場所に向かっていた。
 相手が、どうしても妹を諦められないのだという。へにょりと眉を下げた姿に、アルジュナのなかでその輩の評価は地を抉った。
 手心などありえない。可愛い妹に言い寄る輩など、骨も残さない以外に何がある。
 ジナコは、一人の人間に執着される傾向があった。日常の他愛のない会話や態度が、刑部姫曰く「刺さる」のだという。
『姫的には、普通なところがいいんだと思う。自分でも手が届きそう、みたいな? あ、なんか捕まえられちゃいそうって感じが……あの、生徒会長? その笑顔、完全アウト。みんなのトラウマだから!!』
 アルジュナは「その話を詳しく」と刑部姫に定期で話を聞いている。情報は力だ。

「ジナコ。ここでいいんですか?」
「うん。ここで待ってるって言われたッス」
 ジナコが足を止めたのは児童公園だった。ゾウの滑り台がある、アルジュナも何度も妹を連れてきた公園である。平日の昼間ということもあり、人影はまばらだが……
 アルジュナは両の目蓋を押さえた。彼は今生でも視野が広かった。ゾウの滑り台の上に、白髪が見えた。
 アルジュナが、その男を見紛うことはあり得ない。それは相手も同じだ。わずかに瞠られた双眼と視線がぶつかる。
 出会えば殺し合うと、互いに抑え難い衝動を抱く相手だ。だがアルジュナの手に弓はない。妹と手を繋いでいた。相手は小さな花束を手にしていた。殴り合うには互いに分が悪い。
「お前は何をしている」と、一瞬だが意思が通った気がした。あの男とアルジュナがわかり得ることなど、あるはずがないのだが。
 ジナコは硬直するアルジュナを他所に、ゾウの滑り台の上に立つ相手に紹介を始めた。
「お待たせッス。この人がアタシのお兄ちゃんのアルジュナ。ジナコさんは、お兄ちゃんが認めた人じゃないとお付き合いはできないのです」
「お前の兄が、アルジュナ……?」
「ジナコ。貴女に求婚してくる男と言うのは、カルナだったんですか」
……へ? お兄ちゃん、カルナ君知ってたんスか?」
 ジナコがアルジュナを振り返る。その瞬間、アルジュナの視界の端で白い人影が文字通り消えた。トスンッという軽い衝撃音に、カルナが滑り台から飛び降りたのだとわかった。
 しかしこの男、どういう足をしているのだ。
 アルジュナはジナコの手をしっかりと握っている男――否、少年を見下ろした。皓々と青い双眼がアルジュナを見上げてくる。
 アルジュナの因業とも言える男。カルナは、アルジュナよりもジナコよりも背が低かった。年齢は、就学にあるのか否かというところだろう。
「と、飛び降りちゃダメッスよ! 怪我したらどうするんスか!!」
「問題ない」
「問題あるから! 滑り台は飛び降り禁止!! ルールは守るものッスよ?」
 ジナコがカルナを窘める。カルナはパッと雰囲気を華やげた。「承知した」とコクコクと頷く。
 強い既視感にアルジュナは眩暈を覚えた。容姿は幼いが、もはや言葉は不要。カルナは覚えている。
「でも意外。お兄ちゃん、カルナ君のこと知ってたんスね」
「えぇ、否が応にも覚えのある相手です」
「ジナコ。オレはカルナ君ではない。カルナだ。君は不要だ。何度言ったら覚える」
 カルナがジナコの腕をひく。アルジュナは繋いだままの妹の手を離すべきか否か、一瞬考えすぐに不要と判断した。青い目がアルジュナと妹の手を見る。グッと幼い眉間に皺が寄った。
「うえぇえ。カ、カルナ?」
「そうだ。……アルジュナよ。不可解な因果だが、今この時まで彼女を庇護してきたこと、その労は筆舌に尽くせぬものだろう。ジナコは生存本能が退化している。見ず知らずであるオレにも、無防備に近づいてきたほどだ。彼女の善性は得難く尊いが、危うくも感じていた。お前の庇護下であれば、ジナコがふてぶてしくあるのも道理だ。だが、その役目は今日までと知れ。これからは、オレが彼女を庇護する」
「断る。私はジナコの兄。妹の伴侶は我が身命の命題。まずは一国一城の主になって出直してこい」
「現代において国を獲れとは、争乱を起こせと言うのも同義だぞ」
「比喩に決まっているだろう! 妹に求婚するならば、生涯、安寧を授ける家と養う甲斐性を持ってから来いという意味だ!」
「ふへっ、そうだったんスか? ボク、ガチの方だと思ってた。アシュヴァッターマンさんもそうだって言ってたし。城一つ国一つなら、誰かクリア見込みあるかもって……
「アシュヴァッターマンとは、後で話し合うことがあるようですね。――カルナ、妹を育ててきたのは私です。妻にと望むのであれば、私の提示する条件を越えるのは至極当然。貴様に一国一城はあるか」
「このゾウの滑り台半径五メートルはオレの領土であり城だ。近くには食料、グミの木もある」
……幼児期は、そういうこともあったな」
「貴様にも覚えがあるのか」
「不本意だが、ある」
 アルジュナの場合はウサギとネコの雲梯だったが。棒切れ片手に領土争い――暴れまわるのが男児である。
「アルジュナよ。オレが幼くあることは事実。ジナコとは十の差がある。貴様とは二十か。だが、お前たちに相応しくあるために進むことに迷いはない。思うところはあるが、貴様を兄と呼ぶことも諾そう」
「私に貴様に兄と呼ばれるいわれはない」
「カルナ君は諦めないッスねぇ」
「ジナコ。カルナ君ではない。カルナだ。もう忘れたのか? ふっ、さすがと言うより他はない」
「お兄ちゃんっ! 何なんスかねこのショタ!?」
 妹がグイグイとアルジュナの腕をひく。何かと言うならば、それは「カルナ」としか言いようがない。
 カルナは妹の手を掴んだ逆の手に、小さな花束を持っている。黄の小花を束ねた拙いブーケだった。
 アルジュナは妹が可愛い。易々と渡すつもりはない。だが一つ、困ったことができた。
 アルジュナが妹を送り出す必須条件――カルナに等しく彼女を想い愛しむこと。

 カルナは、その最難関条件を確実に越えてくるのだった。


39

「ジナコ。オレはオレにできることならば応えたいと思っている。だが、お前については制限を設けたいと思う」
……制限?」
 ジナコは無防備にカルナを見上げた。ビクゥッと肩が跳ねたのは、カルナが思う以上に怖い顔をしていたからだった。
 絶世の美形に凄まれる。ある意味ご褒美だが、ジナコにそういう嗜好はなかった。あとこれが緊張からの凄みだとか、さすが幸運値D。誤解される要素しかない。
「えっと、カルナさん。制限って、どういうこと」
「お前が訝るのも当然だ。オレは凡夫に過ぎぬ身だ。足りぬことが多くあることは承知している」
「そうッスねー。とりあえず、言葉は足りてない」
 まったく意図が見えない。カルナは眉間に皺を寄せた。とても剣呑。凄みが増した。この男、表情差分が僅少だと言うのに、何故にこういう人に誤解を与える顔のバリエだけは豊富なのだろうか?
 険しい顔をした男に、ジナコもまた思案する。言い辛いのか、それともどう言えばジナコに伝わるのか考えているのか。どちらにせよ、教えてもらわなければジナコも困るのだ。
「制限って、なんでジナコさんはカルナさんの施しに制限がつくの?」
「オレがお前の言うがままにした場合、問題が発生する。いや、すでに発生しつつあると言うべきだろう」
「そんなに……?」
 ジナコは愕然とした。カルナが負担に思うほど、ジナコは彼を求めていたのか。彼女は今までを思い返した。自律できていると思っていた。ジナコは、カルナにもっと施して欲しかった。
 たとえば、こうして二人で過ごす時間。たとえば、手を少し伸ばせば触れられる距離。それはあくまでもジナコの主観。カルナが異なるのは当然だった。
(カルナさんだからって、甘えてたんだ。嫌なこととか、あったはずなのに)
 ジワリと視界が滲んだのは、羞恥と自己嫌悪だった。言われてようやく気づくなんて、ジナコはどうしようもない。今までカルナにどんな思いをさせていたのか思うと、息が苦しくなった。
 ヒクリと喉を鳴らしたジナコに、カルナは大きく目を見開いた。
「どうした。何故、そんな泣きそうな顔を。待て、泣くな。どうしたんだ」
「カルナさん。嫌なことはイヤって言ってくれなきゃわかんない」
「嫌なこと? 何の話だ。お前に泣かれるのは困るが……
 温かい手が頬を包む。眦を慰撫するように擽られて、ジナコは堪らなくなった。
 彼女はカルナと並んで座っていた。どこにと言えば、ベッドの上にである。何故かと言えば、その方が都合が良かったのだ。二人きりだし距離も近い。頬を撫でる指に、ジナコはグズグズと鼻を鳴らした。
「カルナさん。これは施しアリなんスか?」
……これ?」
「ほっぺ撫でてくれるの」
「あ、あぁ、問題ない」
 頷いた男に、ジナコは安堵した。
 カルナはジナコに施すことに制限を設けると言った。つまり、制限値までは施してもらえるということである。
「わかったッス。これからカルナさんの施しは制限性。一日の施しポイントと、各施しの消費ポイント教えてくれる?」
 ジナコはポイントをぴったり使うのは得意だ。カルナにお願いすることはどれも選び難いけれど、ゼロではないのだから大丈夫。
……減るのはイヤだから、使い切らない方がいいかな)
 ギリギリまで強請るのは、浅ましい。彼が制限を設けたのはジナコだけだ。
「施しポイント?」
「ほっぺは、施しポイントいくつ?」
 ジナコは頬を包む手のひらに、手を重ねようとして躊躇った。手を繋ぐことで、今日の分がお終いというのは困るのだ。
「ジナコ。そうではない。オレが言いたいのは、そうではないぞ」
「一日一個までとか、回数制になるってこと?」
 一個だと、頬を撫でられたことでお終いになってしまう。頬はジナコからお願いしたことではないから、ノーカウントにならないだろうか。
 頬を挟む手が震えた。ジナコの狡さにびっくりしたのか。今更である。施しをゼロにしないカルナが悪いのだ。うろりと彷徨う空色に、ジナコは今日はお終いなのかと思う。明日からはもっと考えてお願いしないといけない。毎日、同じお願いというのは大丈夫だろうか?
 おずおずと尋ねたジナコに、カルナはかまわないと頷いた。さすがカルナさんである。内容を確認する前に頷くなんて、迂闊が過ぎる。
「仮に一個までとした場合、お前は何を求める」
「一緒に寝て欲しい」
 ジナコはベッドにいるのは、そういう訳だ。
 悪い夢を見ないように抱き締めて欲しい。額におやすみなさいのキスも欲しい。ジナコが眠るまで、他愛ないことでいい。話して欲しい。これを一個ワンセットでお願いしたいのだ。
 カルナが唸るように息を吐く。求められたら応える。その信条との葛藤だろう。
「それはできない」
「じゃあ、ギュって抱き締めて」
「無理だ」
「おやすみなさいのキス」
「難しい」
「アタシが眠るまで、お話をして」
「それは苦行だ」
 ジワリと大きな瞳に涙が滲む。
 悲しませたくはない。求められることは嬉しい。カルナはジナコに応えたい。だが、それは問題があるのだ。
 頬を手挟んでいた手を肩に下ろす。柔らかな体だった。腕の中にすると、堪らない気持ちになる。無防備に重なる肌の意味を、今はカルナだけが持っている。
「カルナ?」
「ジナコ。制限が必要だ。オレは、お前が求める以上が欲しいんだ」
 一緒に眠るならば、夢の隙間もないほどに。口づけるならば、額だけで終われない。語らうならば、声は甘く濡らしたい。
 カルナが施したいのは、そういうものなのだ。


40

 不得手なことがある。だが、どうしても抑え難いのだ。
 カルナは、自分がお世辞にも器用とは言えぬ性質だと承知していた。まず、カルナは人を不快にすることにおいては天賦の才がある。それは言動において顕著だ。カルナは座に刻まれた英霊――人理の守護者だが、現実においてはその規格を抑えたサーヴァントとして現界する。聖杯戦争で魔術師たちが使役する使い魔だ。
 召喚頻度はわからないが、彼には一度に限らず召喚されたという記録があった。カルナがそのアーカイブを閲覧することは少ない。カルナは死者だ。その性状は生前と同一。否、逸話や伝承が拍車をかけているとも言えた。
 彼は自らを召喚したマスターの不運を思った。バーサーカーでもないのに、意思の疎通ができないサーヴァントのなどハズレ以外の何ものでもない。なるべく言葉を選んでいるのだが、話をしているうちに、相対する人間の雰囲気、あるいは心証とも呼べるものがひどく硬質に変化する。信用できない。何を考えているのかわからない。唯一の勝利に至る手段がこんなモノだとは、という失望。
 それはカルナにとっては必然とも呼べる反応だった。カルナは一度か二度は記録を閲覧し、自分はモノのように振舞った方がマシだろうと言う結論に至った。下手に話して感情を見せるよりも、はじめから何もないということにする。その方がマスターも扱いやすいだろう。
 サーヴァントとして現界するカルナは、生前よりもさらに言葉が少なくなった。余計なことを言わないように、カルナを召喚した運の悪いマスターを煩わせることがないように。黙っていることぐらいはカルナにもできる。――はずなのだが、どうにもそれができないマスターがいた。
 ジナコ=カリギリ。月の聖杯戦争で、カルナと召し合わされた不運な女。
 怠惰で厭世的。皮肉と虚言で自らを守り、傷つけている。人を厭いながら、人を拒み切れない善性がある。目が離せない。放っておいたら、この女はどうなるんだというようなマスターだった。
 カルナはジナコを前にすると言葉が生まれる。黙っていることができない。それは、サーヴァントとして彼女をどうにかしなければというよりも――
 パチンッと思考が弾ける。カルナはハタリと目を瞬いた。
「ふぅん。色んなのやってるんスね。サーヴァントごとに集計できるとか、ドクターの仕事できる感がパない」
 カルナの目の前には、一騎のサーヴァントがいた。神霊ガネーシャの疑似サーヴァント。ココアブラウンの髪を背に流した女は、榛の瞳にカルナを映すと、ふと笑みを溢した。
「カルナさんの見てもいい?」
「かまわない。有益なものはないだろうが、お前が望むならば好きにするといい」
「こういうのは、意味がないくらいがちょうどいいんスよ」
 小さな、見るからに柔らかいとわかる手がディスプレイの上を滑る。タブレットの形状をしたそれは、彼女がカルデアから借り受けたものだった。画面に表示されているのは、過去にカルデアでされた調査の集計結果だった。
 カルデアでは定期的にアンケートが行われていた。内容は戯れに近いもので、たとえばサーヴァントごとの印象を一言で表すならば、などというようなものだった。それは娯楽であり、カウンセリングだった。
 カルデアは人的にも空間的にも狭い中で運営されている。閉鎖空間で不満や不安が臨界点に達するとどうなるか。映画や小説、ゲームのなかで繰り返し使われてきたテーマだ。
 人間は善性の生き物ではない。終わりの見えない緊張は理性を麻痺させる。極度の疲労は感情の手綱を脆弱にする。些細な行き違い、あるいは小さな悪意。それが発火点になる。
 定期的に行われるアンケートは試金石だ。サーヴァントは出身地、年齢、人種だけでも多様だ。ある一定の属性を持つサーヴァントに対し、人間がどのような印象、感情を抱くか。ロマニ・アーキマンは調査結果を分析し、人員のバランスをとっている。
 カルナが割り振られたのは性格の調査だった。闊達や物静か、冷静や情熱的。基本的に好印象の項目が並んでいる。カルナには寡黙の数値が最も高く出ていた。
「寡黙。へー、断トツぶっちぎりッスね」
「意外か?」
「意外というか、カルナさん、寡黙キャラなの? 言葉選びはキレッキレでめちゃくちゃ下手だけど、カルナさん、良く話すじゃない?」
「そうだろうか」
「そうだと思うけど? 今日だって食堂から部屋に帰るまで、しゃべりっぱなしだったじゃない」
「そうか。そうだな。……そう、だったのか」
 思えば、カルナは話すことに夢中で、ガネーシャ神には話す暇すら与えていなかったように思う。彼女にも話したいことがあっただろう。
 ガネーシャ神は、レイシフトから戻ったカルナを迎えに来ていた。彼女が自ら部屋から出ることは滅多にない。その理由すら、カルナは聞いていない。離れていた間に見たこと、聞いたこと、起こったこと。彼女に伝えたくてどうしようもなかったのだ。
「お前の言う通りだ。オレは寡黙という評に相応しくない」
「そんなショック受けなくても。別にイヤとかそういうのはないから。引きこもりのボクよりカルナさんの方が話題は絶対に豊富だし、毎日、波乱万丈すぎて『これが英雄補正か!』って感じで悪くないッスよ」
 カルナは俯きかけた視線を持ち上げた。丸い肩が揺れている。彼女が笑っている。悪くはない。その肯定の甘やかさ。じんわりと眦が熱を帯びた気がした。
「ガネーシャ神。何故、お前はオレを迎えに来た」
 マスターもカルナも問題はないと、知っていたはずだ。何かの行き違いがあったのだろうか?
「そんなの、理由なんて一つでしょ」
「オレは、お前に不安を与えたのか」
「違いますー。ふひひ、カルナさん。わかってるのに言わないの、どうかと思うッスよ?」
 ガネーシャ神が唇を噤む。それは、カルナに次を話していいのだという合図だった。それはあまりにカルナに都合が良い。
 カルナは他者の話を聞いている方が性に合う。彼女はカルナの方が話題に富むと言ったが、そのようなことはないのだ。だけれど、カルナは彼女を前にすると言葉が生まれる。黙っていることができない。何故か。答えは知っている。
 コトコトと仮初の心臓が跳ねている。心地よい高揚に、カルナは自らを恵まれていると思う。
「お前はオレに会いたいと、望んでくれたのか」
「んー。惜しい! それも無きにしも非ずだけど、ガネーシャさんは、会うだけじゃ満足できないんスよね。ボクはお休みが大好きだけど、楽しいことはその限りじゃないのです」
「オレもお前に早く会いたかった。キミと話すことは楽しい」
 そう。楽しいのだ。彼女と話すことは、言尽くせぬほどに楽しい。
 寡黙になどしていられない。聞くだけでは我慢できない。カルナも話したい。言いたいことだけではなくて、他愛のないことも話したい。
 ずっとそうだった。
 百に九十九は怒らせた。不快にさせた。厭わせた。それでも、百の中に一つがあった。
「それで、どうしんたんスか。カルナさん」
 俯けられていた顔がカルナを見上げる。榛の瞳が笑みに揺れる。甘い声が柔らかにほどける。温かな火が灯るような――

 過去も、今も、ここではない遥かな未来も。
 カルナは、ジナコと話すことが楽しいのだ。


41

 そのレイシフトは間も悪かったし、運も悪かった。今にして思えば、転移時点で予兆はあった。地表に固定したはずの座標が空中にズレたのである。特に理由もなく。
 着地自体は頼れる後輩のおかげで問題なく、そして藤丸自体、レイシフトに例外はつきものとすぐに立ち直った。原因究明は後方に任せ、マスターはマスターにしかできないことをする。微小特異点の修正である。
 その後も魔獣の群れに遭遇したり、坂の上から転がってきた巨石と徒競走をしたり、ヤクザにからまれたり、防犯用と言うにはちょっと殺意が高めの落とし穴に落ちたりしたが、特異点の原因特定までは至った。聖杯の在り処もわかっている。しかし、そこからが問題だった。
「すまない。マスター、本当にすまない。だが、不運も幸運も心の持ち方次第だ。どん底まで落ちれば後は上がるだけだとも言う」
 これからだと頷くのは、竜殺しの英雄――ジークフリート(幸運値E)。
「そうよ、マスター。暗い顔をしては駄目。悪いものを呼んでしまうわ。でもそうね。上がることができれば良いけれど、それができない時も考えた方がいいと思うの。私、殿方を魅了するのは得意よ?」
 暗に自分を囮にしろと微笑むのは、陽の眼を持つ女――マタ・ハリ(幸運値D)。
「貴女の魅力は誰の目にも明らか。その微笑の前には千の花も恥じらい花弁を閉じましょう。ですが、いかにサーヴァントと言えども、女性を残して行くなど騎士の名折れ。マスター。残れと言うならば私に命を。必ず、我が二槍で道を切り拓きましょう」
 さらりとまたそういうことを……ということを力強く進言したのは、フィオナ騎士団の槍兵――ディルムッド・オディナ(幸運値E)。
「撤退を前提に話すのは尚早だ。まだできることはある。私が聖杯の前に立つというのはどうだろうか? 女神の神核の出力を最大値まで上げれば、確実に当たると思う」
 何がどう当たるのか。不運を武器にしようと頷くのは、ジャーンシーの王妃――ラクシュミー・バーイー(幸運値Eマイナス)。
「今において必要なのは無謀ではない。それがわからない身ではないだろう。マスターたちの気を和らげるにも、他に言い方はないのか?」
 他に言い方がないのかは貴方です。そして、メキッと人体からしてはならない音がしているのは何故なのか。
「黄金ならば、我が身にある。オレは凡夫だが、我が父の威光は確かだ」
 ドヤッとしているところ申し訳ないが、その黄金はない。神性がヤバすぎる。そうかと悄然としたのは、施しの英雄――カルナ(幸運値D)。
 もうおわかりだろう。今回の編成は幸運値の低いサーヴァントで構成されていた。ちなみにマシュの幸運値はCである。
 今回の特異点は、ラスベガスに酷似――を通り越して、完全にパクり、もとい模倣したものだった。水着剣豪不在の劣化版である。
 享楽の街に規律を齎していたのは、七つのカジノを支配する水着剣豪。特にカジノ・キャメロットの裁定者、アルトリア・ペンドラゴンによるところが大きい。彼女が不在のラスベガスは、悪性隔絶魔境新宿だった。ベガスなのに、新宿。
 チェイテ・ピラミッド・姫路城を知る藤丸にとって、ラスベガスと新宿が融合しても「そういうこともあるよね」である。しかし、この融合は性質が悪かった。
 この特異点で物を言うのは金だった。聖杯の所有権すら金で動く。特異点を生み出した誰かすら、聖杯の所有権を奪われ以下略。今は挑戦者としてカジノに廃課金しているとか何とか。聖杯の所有者であるには、日毎につり上がっていく金額を支払わねばならないのだ。誰にといえば聖杯に。どんな聖杯だ。悪徳金融業者か。なお、利率はトイチを越える。
「聖杯とは器だ。万能であるがゆえに指向性は存在しない。定められた金額を支払うことができなければ、所有を維持できないというのは不可解だが、それがこの特異点で聖杯を所持した者たちの願いなんだろう。いずれ聖杯を手放すことを含めてね」
 ダ・ヴィンチちゃんは一応の見解を示したが、藤丸の所感は「ギャンブル怖い」である。
 聖杯が欲しいという名目がある。なので、ギャンブルを続けても無問題。身持ちなど崩しっぱなし。目的と手段が激しく翻っている。なお、カジノを経営する者も、他のカジノで浪費している。経済が循環しているのか、滞っているのか良くわからない。少なくとも、カジノ以外の経済活動は破綻している。
 ラスベガスにはホテルやアミューズメント施設、食事処があったが、この魔境ベガスにはカジノしかない。食べるよりも寝るよりも打つ。スロットを回しながら眠り、腹が空けば自分よりも弱っている人間をという――新宿も悪人しかいなかったが、この特異点はディストピアに近いものがある。
 聖杯の在り処はわかっている。街のど真ん中に堂々と置いてあった。しかし、確保することができない。
 この特異点のルール。聖杯を所有には、所定の金銭を支払う。単純かつ唯一のルールであるがゆえに、抜け道がない。なお、今の金額(通貨単位はQP)は5000兆QPである。どれだけギャンブルをしたいのだ。
「業が深いな」
 カルナが短く的確に、この特異点を評する。
「えぇ、本当に。ギャンブルには気をつけなくてはいけないわ。賭け事と恋は理性を失くすもの。やめ時がわからなくなるのよね」
 溜息を吐いたマタ・ハリに「賭け事で国を追われた者もいたな」とカルナが返す。
「理性を維持するのは難い。心に留めておこう」
「神話の英雄に覚えていただけるのは光栄よ? でも私は、貴方は理性を少し失くしたぐらいでちょうど良いと思うわ」
「留意しておく」
 その理性が賭け事か恋か、どちらにかかるかは野暮というものだろう。藤丸は早く聖杯を確保して、施しの英雄と神霊の疑似サーヴァントのあれそれの進展を見守りたい。
 今日も管制室に少しだけ顔を出したガネーシャ神は、早口に何かをカルナに告げるとピャッと身を翻した。彼女の声を聞くために身を屈めたカルナと相まって尊さプライスレス。互いにだけ話す距離感。あれでお付き合いしていないとか嘘だと言って欲しい。
 ガネーシャ神の司る加護には富もある。彼女がいればこの特異点の攻略は格段に楽になっていただろう。現実に彼女は編成されていないので、幸運値C~E(マイナス)のメンバーで攻略方法を検討中である。マイナス×マイナスはプラスと習ったのだが、世間はそうはいかないらしい。
「マスター。私たちの幸運値では、5000兆QPを得ることは時間がかかる。敵性存在を倒せば幾許かのQPを得ることはできるが、それを元手に増やすことができない。私は地道に資金を集めることは苦ではないが、猶予があるとは言い難い」
 ラクシュミーが「不甲斐ない」と項垂れる。
 彼女はカジノに入店する前に(何故か落ちていた)バナナの皮を踏み、バランスを崩した拍子に全QPを側溝に落とすという不運を発揮したばかりだった。
「確かに俺たちは全員、幸運値が低い。一度、カルデアに帰還することができれば他のサーヴァントと交代することもできるのだが。もしやと思い霊衣を変更してみたが、叡智の結晶があっても幸運値は変わらないようだ。すまない」
 キラリと眼鏡が輝く。幸運値は低いが、全員が全員、特異点攻略のためにQPを稼ぐことに腐心していた。結果は素寒貧であることで察して欲しい。努力が報われるとは限らない。だいたい幸運の女神さまはそっぽを向いている。
 そして一度入ったら抜け出せない。それがギャンブルだと言わんばかりに、カルデアへの帰還も不可。食料は持って来ているが、それが尽きればどうなるのか。
「先輩。ダ・ヴィンチちゃんたちが、こちらに物資を転移できる方法がないかスタッフの皆さんと頑張ってくれていますので、魔境ベガスで食べられる魔獣リストを確認するのはまだ早いのではないかと」
「あ、マシュ。ゲイザーがいるからなんとかなるよ」
「ゲイザーがいるなら大丈夫ですね。マシュ・キリエライト、第六特異点の味は忘れていません。空腹は最高の調味料と教わりました」
「いや、大丈夫じゃないでしょ。マスターもマシュっちも何言ってるんスか。良い子は美味しいご飯を食べて、ぐっすり眠って下さいッス」
「ガネーシャさん!?」
「おおう、ガネーシャさんですよー」
 それは、ここにいるはずのないサーヴァントだった。
 ポカンとした藤丸に、ガネーシャ神は隣を見上げた。カルナ早くないか。ディルムッドが「なるほど」と頷いている。さすが、フィン・マックールで鍛えられている男は違う。
「カルデアのガネーシャさん、だよね?」
「そうッスよ」
 コクリとガネーシャ神が頷く。大きく頷く動きに合わせて、長い髪が揺れる。いつもなら象の帽子がずれて、それを両手で直す動作が入るのだが、今日はそれがない。
「あれ、もしかしてニセモノ疑惑あり……?」
「それはないけど。ガネーシャさんじゃなかったら、そこにカルナがいるわけがないし。ガネーシャさん、帽子とか色々どうしたの?」
「忘れてきたのか?」
「違うッスよ! なんで第一候補が忘れたなんスか。これはそういう仕様なの! ボクが追加でレイシフトするには、演算能力的にコスト削減しなくちゃいけなくて、帽子とか、金属器とか、ムシカ君とか、そういうのは極力外さなきゃいけなかったんスよ。忘れたんじゃなくて、置いてきた。ここ間違えないでよね! あとマスター。さらっと当たり前に言ってたけど、ボクの真贋鑑定はカルナさんなの?」
「一番確実だし、信頼できるよ?」
 ガネーシャ神は自らをカルナの強火担だというが、カルナもかなりのものである。
 パールヴァティー曰く、ガネーシャ神に依り代の女性の精神が強く出ているのは(インドサーヴァントによると、神霊は混じっていない可能性もあるらしい)争いを避けるためだそうだ。依り代の人格に干渉しないこと。それが最低条件。他にも細かい取り決めはあるらしい。
 誰との取り決めかと言えば、ガネーシャ神には興味がないが、カルデアにいる彼女には不思議と気を惹かれる。大切なことを打ち明けるように語った英霊以外に候補がいるなら教えてもらいたい。
「ぐっ、なんて揺るぎのない目を……! カルナさんには貧者の見識があるッスからね。わからなくもない」
「オレは偽者を見抜くことには長けていない。その者が自らを真実そうだと思っている。嘘を吐いているという自覚がなければ、わからないからな。推理はオレの領分にはない」
「ガチレスどうも。この格好のガネーシャさんは省エネモードッス。だがしかし、富の神さまの権能は問題なし! 他のは運用できないけど、ガンガン財運回すッスよ~。あ、戦闘力は皆無なんでどうぞよろしくッス」
「承知した。お前の加護があれば、オレの幸運値はEXだろう」
「カルナさんの幸運値への信頼感は、本当にどっから出てくるんスか。まぁ、今のボクは富の権能特化型ガネーシャさんなので、幸運値DのカルナさんでもEXにできちゃうかも? しかーし、稼ぐQPは5000兆。フツーに稼いでたら、マスターたちはディストピア飯ッス。というわけで!」
 ガネーシャ神が両手をパチンと叩く。カルナは次に来るのが誰か。すでにわかっているのだろう。ぐっと雰囲気を剣呑にしたサーヴァントに、藤丸はどうしたものかと思う。
 彼が来れば確実に事態は好転するだろう。神々に寵愛され、何ものも不足することがないという逸話を持つ英霊に、富の権能に特化した神霊の加護がつく。倍プッシュも生温い。一夜でエゲツない額のQPを稼ぎあげてくる予感がする。
 聖杯を獲得できれば、この特異点は修正される。藤丸には、ギャンブルを続けるよりもしたいことがある。作戦としては問題がないのだが、宿業の相手に気を惹かれる女性が加護を授けるというのは、施しの英雄とはいえどうなのだろうか。
「マスター。恋にはスパイスも必要よ」
「効き過ぎないか心配なんだけど。……あ、大丈夫そうだね」
 藤丸は大いに頷いた。わずかな魔力反応と共に、ガネーシャ神の背後から一騎のサーヴァントが出てくる。
 癖のある艶やかな黒髪。深い色の肌。黒々とした瞳。白い上着のない姿は召喚当時を思い出させる。が、サイズ感が違う。小さい。小柄なガネーシャ神の胸ほどまでしか背丈がない。
……アルジュナ、か?」
「それ以外に見えると言うならば、貴様の眼は洞ということだな」
 育ちが良い、としか言いようのない少年が顔を上向ける。ガネーシャ神が「ヘボァッ!」と奇声を発した。
「ガネーシャ神。その反応は何回目ですか。いい加減になさい」
「うぅ、悔しいッス。アルジュナ君だってわかってるのに、上目遣いが尊いしかない。このパーフェクトなショタが、どうして君なんスか!」
「私が完璧であることなど今更でしょう」
「普段のアルジュナ君ならまったくどうでもいいし、ついでに言うと腹立つわーなのに、くりくりお目目とまんまるほっぺがヤバイ。ショタ補正が憎い」
 ガネーシャ神が地団太踏む。アルジュナはニコリと笑った。確かに可愛い。とてつもなく可愛らしい。
 しかし、藤丸は授かりの英雄の愛らしさ以上に、その隣の施しの英雄の方が気になるのだ。鋭い目が据わりきっている。とりあえず、アルジュナにはこちらに来てもらいたい。姉弟のように言い合う姿は和むが、背景が重たい。
「アルジュナもガネーシャさんと同じ事情?」
「はい。通常と同じ姿でのレイシフトを試みたのですが、難しく。今の私は見た目通りの力しかありません。ですが、この姿でも私の幸運値はA+と測定されています」
「ぶっちゃけ、今のアルジュナ君の幸運値は測定不能ッスよ~。神々の授けっぷりがエグイ。でもわかる。悔しいけどわかりみしかない。これは貢ぎたくなる」
「必要と思えばすべてが用意される。かつての私であれば、ウタウダと悩んだことでしょう。ですが今はかまいません。使えるものは使います」
「頼もしーい。というわけで、マスター。元手になるQPが欲しいッス」
 はい、と装飾のない手のひらが差し出される。小さな手である。モチモチとしたくなる柔らかさがある。
 実際にはしないので、カルナは視線の圧を緩めてもらいたい。ガネーシャ神におけるカルナの察しの良さは、意味がわからないレベルだ。彼には彼女の警備システムが実装されているのだろうか?
 なお、ガネーシャ神の言う元手とは魔獣を倒した際に確保できるQPである。雀の涙ほどに集めたQPは、ラクシュミーが側溝に還元している。彼女は知っていると頷いた。
「ガネーシャさんはマスターたちに、もう一回QPを集めてきて欲しいッス。初期投資は多ければ多いほどいいんで、魔獣狩りヨロッす。あとはボクとアルジュナ君にお任せ。5000兆QP、耳揃えて聖杯に叩きつけてやるっスよ!」
「なるほど。QPを集め、お前に渡せばオレは用済みというわけか。それも道理やも知れんが。……オレも運の良い男だぞ」
――は?」
 アルジュナが唖然とした。大きな瞳が零れ落ちそうだ。その表情を言語化するならば「この男、大真面目に冗談を言っているのか、いやまさか」と言うところだろう。
 カルナは自らを幸運だと言う。だが、彼の測定値はDである。つまり運が悪い。マハーバーラタにおいても、彼は悲劇の英雄として語られる。だが、彼が自分を幸運だと思うならば、それが真実なのだろう。
 カルナは、どうだとガネーシャ神に問う。当のガネーシャ神は、進化後がなんでもショタは尊いと肩を震わせていた。彼女に少年の姿をしたアルジュナは相当に趣き深いようだ。
「ガネーシャ神。お前の嗜好が特殊であることは承知している。だが、さすがに面白くない」
 カルナは震える彼女の肩を掴んだ。彼には珍しい距離の詰め方である。ムッとただでさえ剣呑に見える顔がより近寄りがたくなっている。
 ガネーシャ神は自らの肩を掴む手を見ると、芝居がかった仕草で息を吐いた。そのふてぶてしいと、カルナが常々語る表情に、一瞬だけ痛みのような、羨望のような色が過る。藤丸にすらわかるのだ。カルナにも当然伝わっている……はずなのだが、不可解な様子なのは何故なのか。ディルムッドは「彼は朴念仁なのか?」と真顔で考察しないで欲しい。ジークフリートが困っている。
「はいはい。わかってるッスよ。アルジュナ君もアレだけど、カルナさんも何だかんだで強火担だもんね。自重は大事」
「わかっているならば良い。賭場に行くならば、オレも連れていけ。役に立つ」
「はぁ? なに当たり前のこと言ってんスか。連れてくも何も、カルナさんもカジノに行くの一択に決まってるでしょ。戦闘能力皆無なボクとアルジュナ君で、世紀末魔境カジノでどうやって安全を確保しろって言うんスか。ボクはともかく、今のアルジュナ君はパーフェクトショタッスよ!? 浚われてオークションにかけられたらどうするんスか。二次元ではありだけど、現実のショタはノータッチ! エスコートしてくれないと困るッス」
「当たり前。そうか、当然とお前は言うのか。アルジュナであることに思うところはあるが、こうしていれば家族に見えるのではないか?」
「見えるも何も、カルナさんたち兄弟じゃん。お兄ちゃんはとっととQP集めてきてくださいッス」
「オレはお前の兄ではないぞ」
「そりゃそうでしょ」
 訝るガネーシャ神に、カルナはならば良いと頷いた。
 彼らは相性がいい。ズレていても噛み合っている。遠回りしても、理不尽に引き裂かれても、ハッピーエンドが待っている。そんな不思議な安心感がある。

「アルジュナ。マハーバーラタにあの人っているのかな」
「記憶にありませんね。少なくとも、私の知るかぎりでは」
 付き合いきれないというように、今は少年の姿をしたサーヴァントが溜息を吐く。しかし彼の本番はまだ始まっていない。
「大丈夫です。マスター。私は貴方の最優サーヴァントです。たとえあの男に兄ムーブをされようとも、どこまでも自分を除外して考える神霊の依り代の発言に頭が痛くなろうとも、耐えてみせます。えぇ、問題はありません」
 そういう時はだいたい問題があるのだが。藤丸はアルジュナの突然の高笑いを忘れていない。
…………あれは、若気の至りです」
「インドは今、青春なの?」
「コメントは控えさせていただきます」
「カルナさん。今のボクはガネーシャさん的アイテムが皆無なので……って、言ってる傍から、人のことモチモチしてこなーい! もうっ、何なんスか。首飾りとかその辺ないから、くすぐったいんですけど!?」
「問題ない」
「問題以外なくない?」
 カルナはガネーシャ神を撫ぜたりつついたりしている。その都度にガネーシャ神は頬を膨らませている。
 あれでお付き合いしていないなんて、本当に嘘だと言って欲しい。

 なお、神霊の疑似サーヴァントと授かりの英雄のエゲツない幸運により、5000兆QPは普通に集まった。


42

 初めて見えた日を覚えている。
「歓迎されるのは悪くないけど、逃げられない労働の気配がするッス! やめてーっ! 商売繁盛だけでもスキルマにって、ボクの運用が、否が応にも知れてくる!」
 それは、とても神霊とは思えないサーヴァントだった。人間の女を依り代にしているからだろうか? 神性を感じるのが不思議なほど、平凡なありふれた言動を見せる女。
「あれが、ガネーシャ神……?」
 アルジュナは戸惑っていた。
 種火と呼ばれる魔術素材で霊基が強化されると同時に、文字通り石像から転げ出てきたサーヴァント。
 ココアブラウンの長い、お世辞にも手入れが届いているとは言い難い髪と、福徳を示すにしても(女性に対して言うにはいささか憚られる)控えめに言ってふくよかな体。言動は召喚時から今に至るまで、頭の痛いところしかない。働きたくない。引きこもると往生際悪くごねている。
 神霊ガネーシャ。インド神話でも屈指の知名度を誇る神だ。司る権能は、障害除去、福徳、知恵と多岐に渡る。その信仰の篤さゆえだろう。折った牙で、マハーバーラタを書き記したとも言われる神だった。
 英霊よりもはるかに高次元の存在とされる神霊は、魔術師たちの英霊召喚式では現界不可能だ。その定理を覆すのが疑似サーヴァントだった。
 生者を依り代とした前例のない召喚。インド神話を出典とする疑似サーヴァントは、彼女の他にも二基存在するという。人理焼却という未曽有の危機においての処置――例外だった。
(何故、ガネーシャ神なんだ)
 彼は心のどこかで、ガネーシャ神に会うことを恐れていた。マハーバーラタを書いたと信仰される神には可能性があった。
 マスターから紹介されるよりも早く、幼子のように大きな瞳がアルジュナを見る。
……あ」
 小さく息を飲む気配。アルジュナは笑んだ。
「初めてお目にかかります。私はアルジュナ。此度はアーチャーでの召喚となりました。マスター。シヴァの長子である彼女を迎えられたことに、まずは言祝ぎを。人理の守手として応えた貴女の慈悲には感謝を。慣れぬ人の身です。不自由を覚えることも多いでしょう。これからは、このアルジュナに申しつけください」
「ボク、そういうのは大丈夫」
「私がそうしたいのです」
 臆する神霊に、アルジュナは言葉を連ねた。
 逃すわけにはいかない。目の届く場所にいてもらわねば安心できない。
 この神霊は、アルジュナを知っている。


 ガネーシャ神はアルジュナを知っていた。アルジュナが目を逸らし続けた「黒」にすら勘づいていた。だが、彼女はアルジュナに驚くほど興味がなかった。
 失望しないのか。論いたいとは思わないのか。ガネーシャ神の答えは簡潔だった。「メンドイ」。まさかの四文字だった。
「ぶっちゃけ、ボクは君はどうでもいいッス。全人類が自分に興味あると思ってる。その自意識過剰はどうかと思うけど」
……全人類とまでは言っていません」
「言ったも同然じゃない? ガネーシャさんは、諸事情で君にはちょこっと詳しいかもしれないッス。でもボクの推しは君じゃない。なので、興味がわかないんスよね。君、ショタじゃないし」
 ガネーシャ神は上から下までアルジュナを見ると「リリィ実装希望」とのたまった。
「この私はどうでもいいと?」
「えっ、どうでもいい以外の選択肢ある? 気づいてると思うけど、ガネーシャさんの推しはカルナさんッスよ? 宿敵は推しを輝かせる舞台装置。それ以上も以下の意味もないッス。ふっふーん。君、ガネーシャさんが舞台裏をいつぶっちゃけるか心配だったと見た。そんな野暮はしないッスよ~。……脇腹小突くのナシ。ガネーシャさんは一応女性ッスよ。恥ずかしいのはわかるけど、ヒエッ! ガネーシャさんのまろみは繊細なんスよ! もうっ、何なんスか!」
 何なのだとは、アルジュナが言いたい。
 アルジュナは英雄だ。悪性など在り得ない。在る訳がない。
 認めたくない。気づかれたくない。見つけられたなら、殺すしかない。アルジュナの懊悩すらも、彼女はどうでもいい。
「だって君、カルナさんじゃないし」
 ぐうの音も出ない。この上なく、明確な判断基準だった。
 アルジュナがカルナではないから興味がない。英雄の背面が白でも黒でもどうでもいい。至極当然で、天地が逆さまになるよりも、覆りようのない事実だった。
「というわけで、君がガネーシャさんを気にする必要はないのです。その掃除道具一式はお持ち帰りくださいッス」
「それとこれとは別問題です。掃除はします。貴女は目を離すとすぐに混沌を形成する。……まさかと思いますが、急速な汚染区域の拡張をもって、カルデアを侵蝕するつもりではありませんよね?」
「ボクは少し部屋の片づけが下手なだけッス! 汚染って、後でやろうと思ってたんだからね!!」
 その後がないから、足踏み場もない部屋ができるのだが。
 箒を片手にアルジュナは唸った。前にも後ろにも退けない。アルジュナの根幹とも言うべき話をしたつもりだが、畢竟、彼は掃除道具を持ったままだった。ガネーシャ神は、唇にポテトチップスを挟んでいる。
「期間限定って、つい買っちゃうけど微妙な味が多いッスよね。チョコなしのミント味のポテチとか、何で商品開発部はゴーサイン出したのか。これは永遠の命題」
 お裾分けだと口に放り込まれた菓子は、独創的な味がした。
「宇宙的ですね」
「言えてる」
 パリポリと小気味の良い音に、アルジュナは安堵よりも何よりも、徒労感に襲われたのだ。

◆◇◆

「アルジュナ君! ヘルプ!! 具体的に言うと、匿ってくださいッス!!」
「私に貴女の体積を隠せるだけの幅はありませんよ」
「あるかも知れないじゃん!」
 言うよりも早く、ガネーシャ神がアルジュナの背に回る。
 場所はアルジュナに与えられた自室だった。アルジュナの部屋に他者が入ることはない。マスターであっても、その一線は変わらなかった。自らの黒を晒して後も――根幹的に、アルジュナは自領域に踏み込まれることを好まない。彼は定期的に人に会うことが億劫になる時がある。他者の評価や目が気になってしまうのだ。
 ガネーシャ神は例外中の例外だ。アルジュナがそう彼女を仕向けたのだ。今にして思えば、我が身の浅慮が悔やまれた。
「今日は誰から逃げ回っているんです。マスターであれば引き渡します。神妃パールヴァティーも同様です。ラクシュミー、他のサーヴァントの場合も私が貴女の味方になることはありません」
「全裏切りを予告とか! 困ったことがあれば頼って欲しいって言ってくれた君はどこに行ったんスかぁ!」
「ガネーシャ神。過去は過去。今は今です。それで、今回は誰ですか?」
「カルナさんッスよ。君、わかってて聞いてるでしょ。性格悪い」
「今更でしょう」
「なに笑ってんスか」
 背中を結構な力で小突かれる。手のひらで口元を抑える。確かに、アルジュナは笑っていた。
 アルジュナがマスターのサーヴァントとして現界して、相応の月日が流れた。少年が青年に成長するほどの歳月だった。
 喜びと悲しみ。どちらが多い日々であったのか。一つでいい。喜びの数を多くして終わる旅であればいい。いつからか祈っていた。
 その祈りの終を知る術を、アルジュナは持たない。ただ――アルジュナに限って言うならば、悪い日々ではなかった。
 心から信頼に応えたいマスターに出会えた。英雄としての本懐も果たせただろう。最優のサーヴァントであるという自負もある。
「君、その自信ほんとどこから出てくるんスか。自己肯定感高すぎない?」
「それだけのことを果たしてきたという自信がありますので。ガネーシャ神、貴女との付き合いも長くなりましたね」
 アルジュナは背に往生際悪く隠れようとするサーヴァントの腕を掴んだ。ヒエッとガネーシャ神が息を飲む。丸い頬が強張っている。ニコリとアルジュナは微笑んだ。「完璧すぎて逆に胡散臭い笑顔」であることは、百も承知だった。
「あのー、なんでガネーシャさんをホールド?」
「言ったでしょう。マスターや神妃、他のサーヴァントであっても、私が貴女の味方になることはないと」
「つまり……?」
「そこにはあの男も含まれます。――毎回毎回、面倒くさい」
「メンドイって、ふんぎゃーっ!!」
 アルジュナはドアを開けると同時に、神霊を放り投げる――のは、さすがに女性に対して礼がないので、押しつけるにとどめた。
 黒い腕の持ち主をアルジュナは知っている。だが今さら、語ることがある訳でもない。見当違いの悋気など食傷み気味だ。
「覚えてろッスよ! 後でマスターに言いつけてやるんだから!!」
「えぇ、覚えておきましょう。今日この日が終わる瞬間までは」
 これを最後と言うならば、仮初の体が記録となるまでは覚えておいてもいい。
 手間がかかる、世話が焼ける。放っておくと、一人で毛布を被ってグズグズと泣いている。
 アルジュナの部屋の一角には、いつの間にか神霊の巣のようなものが構築されていた。ムーンキャンサーに陣地形成のクラススキルはあったのだろうか。
 興味がないという相手のことを知るのも癪であるので、アルジュナは彼女が話す以上のことを知らない。過去には把握に努めたこともあったかも知れない。身に覚えがないのでわからないが。
「マスターに挨拶をしなければ。……いけませんね。どうしても惜しくなる」
 彼女の顛末について話すのは、ちょうど良いきっかけになるだろう。
 思えば、過去と言うには近い日を語る時、アルジュナの日常には呆れるほど彼女がいた。いつの間にか、そういうことになっていた。互いがどうでもいいから、気にする体面もなかった。過ごした時間は、あの男よりも多いだろう。
「会いに来た、というのはあり得ない。そんなものでしょう」
 後ろは振り返らない。
 それは、アルジュナの知りえない顔だろうから。


43

 果たしてこれはどうしたらいいのか。
 ジナコは先ほどから微動だにしないサーヴァント(クラス・ランサー。性別・男性。出典・マハーバーラタ)の前に立っている。
 立っている彼女に対して、ランサーは長い手足を折りたたんで寝転がっている。床で寝ると体を痛めると言ったのはどこの誰だったか。
 顔は見えない。腕に抱えたマナティーのヌイグルミに埋めている。息苦しくないのか。微動だにしないが寝てはいない。ジナコは前衛オブジェのようになっている男を見下ろした。
 普段はあまり気にしない足首が目に留まる。形の良い踝である。踝フェチがいたら垂涎だろう。擽ってやろうかその足の裏。寝転がっているので、普段は見えないつむじも良く見える。艶々とした白髪が眩しいばかりだ。
 ジナコは彼の髪に指を通すのが、それほど嫌いではない。たまに膝にのってきた時など、ちょいちょいといじってしまうぐらいには、悪くないと思っている。
 ――膝枕。ジナコは沈思した。
 それはアリなのかナシなのか。相手はマナティーに顔を埋めている。長い手足を折りたたんだコンパクトスタイルだ。ジナコの雑多な部屋でも幅をとらない、などということはもちろんない。あくまでも彼――カルナは成人男性であるので。
(ボクからいくの? それってどうなの? まず、この人はなんでボクの部屋でいじけてるんスか)
 理由はわかっている。ジナコは少しカルナを放っておき過ぎた。悪気はない。すべてはゲームがいけない。新規配信されたイベがいけない。だが、カルナもカルナである。
 普段であれば、彼は放っておいてもジナコを思うままにかまいつけていく。具体的に言うと、頬をプニッたり、体を抱き込んだり、膝に頭を乗せてきたり。無言の存在主張が抜群なのだ。
 今日は何もないな、とは思っていた。そういう日もあるだろう……と思っていたら、これである。カルナはマナティーに浮気している。放っておいてもいいが、何となく面白くないのも事実である。
「カルナさん。ジナコさんのここ空いてるッスよ~」
 ジナコはカルナの前にぺたりと座り込むと、膝をパタパタと叩いた。今ならお腹に顔を埋めてきても引き剥がさない。くすぐったくても耐えるとも。
 もぞりとカルナが身じろぐ。が、膝にはのってこない。頑なである。ならばと、ジナコはマナティーを抱えたままの男の隣に寝そべった。状況的には添い寝だ。いつもなら、ジナコが何も言わずとも腕が伸びてくる。背に手のひらを添えられて、抱き寄せられるのは悪くはない。温かいし、体が安定する。
 マナティーを抱く腕が少し緩んだ。マナティー越しに青い目が見える。乱れた前髪と相まって、いつもより雰囲気が幼い。ジナコはペチリとカルナの腕を叩いた。
「ヌイグルミは抱っこできても、抱っこはしてくれないッスよ? だがしかし、ジナコさんならその両方ができる。お得だと思うんだけど、いかが?」
 ほらほら~、と腕を広げる。カルナはムゥッと眉間に皺を寄せた。
「床に寝るのは感心しない」
「どの口が言ってるんスか。で、いるの? いらないの?」
「お前に、いらないものはない」
 と言いつつ動かないのだから、この男は言外の自己主張が強い。
 ジナコは少しカルナを放っておき過ぎた。ジナコもまぁ、カルナがずっと他に気をとられていればつまらないと思うだろう。
「しょーがないッスねぇ」
 ここは(外見年齢)年上の見せ所だ。ジナコはカルナを抱き締めようとした。マナティーのヌイグルミごとなのは致し方ない。カルナが手放さないし、ジナコが取り上げるのもアレである。
……カルナさん。マナティーはいいんスか」
「これ以上は不要だ。お前は釣れた。十分だ」
「釣れた言うな」
 そして人の谷間で話すな。
 でも、しかたがない。カルナ・ウィズ・マナティーでは、背中まで腕が届かないかも知れない。
 なので、年上のジナコさんが譲歩してあげないこともないのである。


44

 突然、後ろからホールドされた。レクリエーションルームから自室に戻る途中である。
 ジナコは床につく様子のない足を見て、次に胸下に通された腕を見た。「なるほど」と、頭の天辺で頷く声を聞く。なにが「なるほど」なのだ。
「カルナさん。どーしてボクを掴まえた」
「検証だ」
「何の」
「今後の運用についてだ。……善処する」
「まったく意味わからないけど、人のことを問答無用でとっ掴まえておいて、困ったな~って雰囲気出すの、どうかと思うッス!」
 ジナコは胸下を抱える腕を叩いた。早く放して欲しい。
 ガネーシャ神の衣装は胸の谷間が丸見えだ。胸の下に腕を通されれば、否が応にも寄せて上がって谷も深くなる。カルナはジナコの胸など気にしないだろうが、彼女には人並みの羞恥心があるのである。
……カルナさんだけど、男の人だし)
 意識する必要はないとわかっていても、体がゾワゾワとする。
 ジナコの対人免疫はゼロである。自分ではない体温がどういうものか、彼女は長らく忘れていた。もっとも戦闘になれば、担ぐことも担がれることもある。小脇にカルナを抱えて退避したことだってある。
(カルナさんは、必要ないの一点張りだったけど)
 退去瀬戸際のサーヴァントが、神霊の筋力Bに勝てると思ったら大間違いである。
 カルナはジナコより背が高い。足をガンガンに地面に引きずって走ったのは悪かったと思っている。ついでに言うと、あとちょっとの距離が惜しくてマスターの前にぶん投げてしまったのも、瀕死の相手には少ぅし悪かったと思っている。
 でも、ジナコは戦闘続行だったのだ。タイム・イズ・マネー。一分一秒が惜しい。敵は待ってくれない。要するに、ぶん投げたのは戦闘hack。帰還後に不満げに見つめられても困る。ジナコはマスターの指示に従っただけ。私情がなかったとは言わない。彼女はカルナが消滅する姿を見たくない。
「オレは……
「なんスかー。検証終わったなら、放してー」
 この姿を誰かに見られたら、怖いしかない。避けられない面倒の予感がする。
 しかし放すどころか、腕の力を強めてくるのがカルナであった。グエッとジナコは呻いた。本当は苦しくないが、恥ずかしさを綯交ぜにするための道化である。
「今しばし、時間をくれ」
 カルナはジナコを右腕に持ち替え、次に左腕に戻し、最後に両腕に抱えた。もはや意味不明以外の要素がない。この男、何を検証しているのだ。
「ほんと、何してんスか」
……オレは、お前をトウテキすることができるだろうか」
「トウテキ?」
 そのトウテキは、どの「トウテキ」だ。カルナは懊悩しているようだが、ジナコにはトウテキの予測変換すらできていない。
「先の戦闘で、お前はオレをマスターの下まで退避させた。不甲斐ないことだ」
「まぁ、そういうこともあるでしょ。あの時はガネーシャさんが一番余力あったし。……ん? トウテキって、もしかしなくても、投げるやつ?」
 ジナコの脳内で「投擲」と変換が完了する。背後でカルナが頷いた気配がする。
「お前を確保し、マスターの下まで退避させる。お前のように投げ飛ばすと言うことが、オレには困難に思える。無論、必要とあれば果たす。それが、どれほど耐え難いことであろうとも」
「はいぃいい!? 困難って、それはボクのまろみがアレだって言いたいの!? そりゃ、ボクの方がピコーッと豊かな重みはありますけど? カルナさんも筋力B! 耐えるまでもなくない? できるに決まってるでしょ!」
 投擲されたいとはまったくこれっぽっちも思わないが、重さを確かめるように抱えられての発言はスルーできない。
「なんだったら今、ここでぶん投げてくれてもいいッスよ!」
 実地で検証するといい。ジナコは両腕をあげて抗議した。
……断る。不要なことをする意味がない」
「なんで不機嫌になるぅ。カルナさーん、ボクのこと抱えてるのも意味なくない?」
「意味はないが、意味はある」
「禅問答か」
 そういうのはジナコの苦手分野なのだが。
 頭の天辺で「度し難い」と自戒する声を聞く。
 検証するまでもなく、カルナはジナコを投擲可能である。単純な膂力という意味においては。
 彼女は、今は自由な両腕を動かしてみる。
 ジナコだって、カルナをぶん投げるのは大変だった。なにせ、手放さなければならないのだ。死ぬか生きるか瀬戸際の人から、離れなければいけないのだ。でも、ジナコが抱え込んでいても何にもならない。
 マスターではないジナコにカルナを助ける力はない。元からなかった。探そうともしなかった。だって意味がない。そう思っていたから。今は、できることはしてみたい、なんて思っている。
 ジナコは解ける様子のない腕を思いっきり叩いた。
「カルナさん。ボクは少しだけ投げづらいかも知れないから、しっかり確認しといてよ」
「元よりそのつもりだ」
 ギュッと囲う腕が強くなる。ジナコは「何だかなー」とプラプラと揺れる足先を見た。
 放り投げる間際、弱く掴まれた腕を覚えている。生と死の境界で、カルナはジナコに何を求めていたのだろう? 理性の外にある本当は――
 それでも、そんなあなただから。
(失くしたくない)
 そのためだけに。
 彼女は一秒を惜しんで、カルナを力いっぱい手放したのだ。


45

 ジナコはカルナを睨んだ。対する男は、凪いだ湖面のような目でジナコを見下ろしてくる。
「カルナさんって、意外と悪戯好きなんスか」
「いたずらに人を混乱させ悦に入る癖は有していないが、お前に関しては手を緩めるつもりはない」
 確かにカルナの手は緩められていない。比喩的にも、物理的にも。彼女は緩められる予定がないらしい手をジト目で見た。
「意気込んでるところ悪いけど、カルナさん、自分が何してるかわかってる?」
「承知している。オレはお前の装身具を奪った」
 そう言うと、カルナはジナコの前髪を掬うように撫ぜた。揺れるココアブラウンに赤いリボンはない。それはカルナの手の中にあった。
 今日のジナコは休みだった。休息の場にシミュレーターを選んだのは気分転換だ。
 ノウム・カルデアには、リラクゼーションを目的とした仮想空間が常時解放されている。ジナコは昼寝をする予定だったのだが、そこにカルナがやって来た。腕を伸ばしてきたのは、髪に葉っぱがついているとか、そういうモノかと思ったのだが。
(いつもそうだし。でも、たまに違うんスよね)
 カルナがジナコからリボンを奪うのは、これが初めてではなかった。実を言わずとも、その「たまに」は良くあった。カルナの意図はわからない。
 ジナコは梳られた前髪を抑えると、握られたままの手を見た。
「奪ったって大仰に言ってるけど、リボンは本当に装飾品。加護なら指輪とかの方があるッスよ?」
 神霊の装束の一部にカウントされているが、リボンは神器の類ではない。ただのジナコ=カリギリに由来するモノだ。
「不要だ。他と言うならば、眼鏡が良い」
「良いって、眼鏡も加護はない……って、こらっ、眼鏡もなし! さらっと取るなーっ!」
「お前の警戒心のなさはどうかと思うぞ」
「どうかと思うのはカルナさんッス!」
 耳に指が触れた、と思った瞬間の早業である。なんて手慣れた犯行だ。
「お前は眼鏡をしたまま眠るからな。オレでも、繰り返せば習熟することもある」
「渾身のドヤ顔どうも! くぅ……っ、カルナさん、いい加減返してよ!」
「それは受け入れかねる」
「あーっ、なんで腕上げるんスか。届かないじゃん! それ、ボクのなんスよ!?」
「そうだな。これはオレのものではない」
「わかってるなら、返す!」
「できない」
「なんでよ!?」
 ジナコは手を伸ばした。届かない。指先がかすりもしない。ジナコが小さいのではない。カルナが大きいのだ。
 神霊の力を使えば、宙に浮くことはできる。でも、それもできないのだ。ある意味、進退が極まっている。
「もうっ、どんだけボクは鈍いんスか」
「自覚があったのか」
「その驚き、失礼しかないんだけど?」
 身じろごうとすれば、より自由に動ける範囲が狭くなる。かすかな息苦しさは、胸が押しつぶされたからだろう。トクリトクリと逸る鼓動が伝わるし、伝わっている。背中を支える腕に、ジナコは前にも後ろにも行けない。踵を浮かせたジナコが転ばないか危ぶんでだろうが、それならば早く返せというものだ。
「カルナさん、ちょっと離れて。というか放して」
「断る」
……これ、悪戯より意地悪の気がしてきた」
「オレにお前に苦痛を強いて喜ぶ嗜好はない。だが、悪くはないとも思う」
 リボンと眼鏡を奪ったまま、カルナが言う。肌に吐息が触れる。この距離感、傍から見たらどう見えるのだろうか。
(誰もいない、よね?)
 たとえば、ガネーシャさんのお母様とか。
 間の悪いことに定評のあるジナコである。もしやの予感に彼女は周囲を窺おうとした。が、それもできなかった。
 背に強い腕を覚える。鼓動が伝わる。仮初とは思えない心音だった。カルナは無言だが、言外の要求が強い。でも、それを真正面から受け止めるのはジナコにあまりに都合がいい。
「どんだけ返したくないんスか。しょうがないッスねぇ。カルナさん。リボンも眼鏡も後で返してくれればいいから」
「いやだ」
「いやだって、欲しいの?」
 カルナはジナコを見ると、途方に暮れたように瞳を揺らした。
「あげることはできないッスよ?」
「わかっている。だが、オレは、どうしようもなく独り占めにしたくなるらしい」
……どうして、そこでちょっと困った風になるんスか」
「困るだろう。オレは、返したくない。お前を困らせるとわかっているのに、今が得難い」
 背を抱く腕が弱くなる。返したくない。言葉とは裏腹に、リボンと眼鏡は戻ってくる。
「悪いことをしている」
「そうッスね」
 ジナコは頷いた。
 カルナは悪いことをしている。だって腕は優しくなったのに、ジナコの息はちっとも楽にならない。これからもずっとそうだろう。心臓は痛いほどだし、体は寒い。腕はカルナを抱き締めたいだなんて思っている。
「カルナさんは悪い人ッスよ。意地悪ばっかり」
「自覚はある」
「そんな落ち込まないでよ。ボクがイジメてるみたいじゃない。ほーんと、しょうがない人。カルナさんなら、そうッスねぇ。……悪いのも、たまにならいいよ」
「悪いのはどちらだ」
 息に喘ぐような男に、ジナコは両腕を伸ばした。カルナが首を傾ける。それは背の高い人に届くために必要なことで、でもジナコは仕返しをしたいのだ。だって、しょうがない。カルナはジナコも悪いと言ったのだ。
 指先で白い髪を梳る。零れ落ちる光に視界が滲む。
「これ、ちょっと借りてもいい?」
「ずっとでもかまわわない」
「それはない。少し独り占めにしたいだけなんだから、ちゃんと取り返しに来てよ」
「それがキミの望みならば」
 カルナが目蓋を閉じる。薄く弧を描いた唇に、ジナコも笑った。
 カルナはジナコからリボンと眼鏡を奪った。なら、ジナコは?

 黄金の耳輪。私はあなたの欠片を隠してみたい。


46

「カルナさん。ボクは本当の本当に大丈夫だから! カルデアに戻れば元通りだし……
「そうだが、そうではない」
 淡々とした口調に滲むのは、悔恨だった。カルナの手がココアブランに伸ばされる。
 意図はわかっている。先の戦闘で、ジナコは髪を切られていた。右の横髪が肩口からバッサリとなくなっている。戦場に身をおけば、怪我も髪が短くなるのも、珍しいことではない。ただ、今回は事情があった。
「触れてもいいだろうか」
「どうぞ。ほら、何でもないでしょ」
 ジナコは胸を張った。
 本音を言えば、カルナに触れられるのは恥ずかしい。いつもであれば、あれこれと理由をつけて逃げている。でも今はダメだ。
 恐る恐る、という表現がピッタリの速度で、カルナの手がジナコの髪に触れた。頭と頬も一緒に確かめられる。たどたどしい手つきは擽ったい。ふるりと肩が震えた。
……あ」
 しまったと思った時はだいたい遅い。頬を撫で下ろした手が硬直した。物憂げに伏せられた瞳に、ジナコは「この人、本当に根暗だな」と思う。
 カルナの思考回路は基本的には前向きだが、時たま、どうしようもなく後ろ向きに拗れる。今がまさにそう。原因はジナコだった。
 ジナコの髪が短くなったのは、カルナの槍が掠めたからだ。それは、ジナコの後ろにいたエネミーを討つために必要なことだった。カルナも理解している。ジナコに怪我はないし、髪は魔力が充足すれば元通り。では、何がカルナの気を塞がせているのかと言えば――
 そろりと臆病な動物にするように、カルナの手が離れていく。
「無理をさせた」
「無理じゃないから。これは、そういうのじゃなくて、くすぐったかったの! いつもみたいに、しっかり撫でてくれないと困る」
「だが、お前は……
 中途半端に言葉が途切れる。
 揺れる瞳に、ジナコは「もうっ!」とカルナの手を両手で掴んだ。
「カルナさんが怖いとか、そういうのはないから! そりゃ、真正面から見たことなかったし、ちょっとびっくりしたけど、それだけなんだからね!」
 ジナコは掴んだ手に頭を擦りつけた。ただでさえまとまりのない髪が絡まっていく。
「本当に、怖くないんだから」
 言葉を重ねる。しっかりと、誤解なんてしようがないほどに、伝わるように。
 ジナコの髪がバッサリと短くなったのは、カルナが彼女の背後にいるエネミーを討つためだった。目の前に立ったカルナは、怖い顔をしていた。見たことのない顔だった。
 恐怖よりも先に、ジナコは後ずさった。気圧されたとも言える。彼女は戦士であるカルナと向かい合ったことがなかった。
 カルナの目に、ジナコは怯えたように見えただろう。動揺もしたらしい。途切れたココアブラウンに、誰よりも驚いていたのはカルナだった。
 ピクリと両手に掴んだままの手が震える。
「いいのか。オレは、これからもキミに触れても」
「ダメだったら、こんなことしてない」
 ジナコは臆病なのだ。怖いモノからは逃げるに決まっている。
「カルナさんも撫でてよ。アタシばっかりじゃ不公平じゃんか」
 早くと、ジナコはカルナの手に頭をすり寄せた。


47

 この英雄、意外と引き出しが多い。
 自分は凡夫だ何だと言いながら、毎回毎回、どういうことだろうか? 規格外もほどほどにして欲しい。ガネーシャ神の中の人と言うか、ガワの人と言うか、神霊に色々と丸投げにされているジナコさんは大変だ。
「カルナさん、それ、どうしたんスか」
……? オレはどうもしないが、それとはどれのことだ」
 カルナが首を傾げた。不思議そうな顔の横を白い髪が流れる。ウッと彼女は呻いた。
(カルナさんは意外とネコっ毛。知ってはいた)
 基本的に、カルナの髪はフワフワとしている。その背に纏った黄金の鎧――のピンクのモフモフと同じぐらいにはフワフワとしている。それがどうやら魔力放出に由来しているらしいと気づいたのは、つい最近のことだ。
 炎は風を生じさせる。燃焼による真空化や温度差、理由は複数あるらしい。とりあえず、カルナは常時上昇気流、簡単に言うとドライヤーの温風を浴びているようなものだった。日常としてカルナの髪はフワフワとしている。あの髪はセットしているのではない。天然でああなのである。
 では、魔力放出――温風を止めるとどうなるか。ツヤツヤストレートになる。どういうこったい。
 情報としては知っていた。ガネーシャ神はジナコにマル秘情報として、別の世界線に召喚されたカルナの霊基情報を提示していた。オタクは推しの情報に弱い。あの神霊、ジナコにはカルナ関連を与えておけば懐柔できると思っている。その真偽のほどについては、黙秘を行使したい。
 ガネーシャ神がドヤァッと提示してきたのは『梵天の神装具』。それはジナコの知る英雄とは異なり、青を基調としていた。髪もツヤサラだった。あとカルナが服を着ていた。カルナが服を着る世界線もあるのだ。
『カルナさん、服着れたんじゃん!』
 思わずジナコは叫んでしまった。
 月の聖杯戦争でカルナを召喚した当初、ジナコは彼をすごい格好をした英霊だと思っていた。この人、ほぼ裸じゃない? と。
 その後のキレッキレワードの数々に格好(自分のサーヴァントほぼ全裸疑惑)など吹き飛んだが、あれがカルナのデフォルトではなかったのだ。月ではジナコの魔力が底辺過ぎて、服まで回すリソースがなかっただけなのだ。いくら男性とはいえ、なんと言うことを。
 ジナコはカルナに申し訳なくなったが、カルデアに現界したカルナも月と大差のない被服面積だった。
 当人曰く、黄金の鎧と槍を同時に励起した結果とのこと。人理の危機を前に、戦闘能力にリソースを全振り。さすがカルナさんである。施すことに躊躇がない。
 それは『燃える三神の衣』でも変わらなかった。肌色は増えた。スーパーなカルナさんは格好いい。
 でも、スーリヤさんもシヴァパパも、ヴィシュヌさんも、カルナさんに服を着せてあげて欲しい。アルジュナは着るのに、何故にカルナは脱ぐのだ。梵天の神装具レベルの服でもダメなのか。
(英雄礼装は一時的なものだし。まぁ、カルナさんだけじゃなくて、サーヴァントって、どういう訳か霊基再臨すると男女問わず肌色率高くなる人が多い)
 ジナコも胸当ての面積が紐とは言わないが帯ぐらいまで細くなる。「誰得!?」と慌てふためいた彼女は基本的に第二再臨である。
「ガネーシャ神。何故、オレは睨まれているのだろうか。……まだ熱いか?」
「へ?」
「だが、これ以上はオレの元からの体温と言うことになる」
 力のない声に、ジナコは丸く目を見開いた。白い髪が頬に落ちかかって儚げ――と言いたいところだが、カルナであるので諦めない気配。ガッツしか感じない。
「お前はオレに近づくなと、そう伝えたかった。そういうことだろうか……?」
「そういうことだろうも、どういうこと?」
 ジナコは予感を感じつつ、カルナを見た。
 今日も今日とて、日課のようにジナコの様子を見に来た男である。近づくなも何も、近い距離にいる。今もほんの少し手を伸ばせば、頬にかかる髪に手が届くのだ。
「お前は、オレに熱いから近づくなと言った。だがそれは、お前がここにいるのに離れろと言うのは、苦痛だ」
……全然、離れてなくない?」
「遠い」
 カルナが手を持ち上げようとして、止めるのが見えた。そういえば、とジナコは気づく。今日は一度もその手の温度を知らない。
 差し伸ばされた手に、イヤだと言ったのはジナコだ。何故と聞かれて「熱いから」と答えたのも確かだ。
「カルナさんは、素直ッスねぇ」
「ままに受け入れるより他はなかった。お前は嘘は言っていなかった。本当に嫌がっていた」
「そりゃ、嫌だったッスよ」
 ジナコは唇を尖らせた。『貧者の見識』は、こういう時に困ると思う。
 近づかれると、本当に熱くて困るのだ。今だって、ジワジワと炙られたように頬が熱い。カルナの手は熱い。手挟まれると、ジナコはいつだって燃えそうになる。カルナがほとんど服を着ていないも同然なのも良くない。ジナコも布面積は少ないし、誰得でも思うことはあるのだ。
――今より体温を低く保つ方法を会得してくる」
「意味ないと思うけど」
 これも本当。
「そう、か」
 カルナがわずかに俯く。ツヤツヤサラサラの髪が頬に影をかける。
 この人は、どうしてそんなにガネーシャ神――ジナコに近づきたいのだろうか。きっとこの人は熱くないのだ。そう思うと、少し胸が冷える。同時に、ジワリと燃えるモノがある。
「ほんと、意味ないんだから」
 ジナコは踵を浮かせると、その頬にかかる髪を耳にかけた。触れた指先が震えたのは、しかたない。
 空色の瞳が見開かれる。澄んだ虹彩には、困ってしまうほど鮮明にジナコが映っていた。
「熱くはないのか」
「熱いに決まってるじゃない」
 指先が覚えたのは、カルナの元からの体温だ。
……そうか」
 噛み締めるようにカルナが頷く。白い頬がほのかに色づく。
「オレも熱い」
 こんなの、のぼせてしまうに決まっている。


48
書き下ろし 

 カルナにネコミミが生えた。カレンダーは今日から三月だと言うのに、時間差ネコの日である。
 真っ白な髪の合間から生える真っ白なネコミミに、ガネーシャ神の疑似サーヴァント――の依り代を諸般の事情にしているジナコ=カリギリは「ここはショタの出番では?」と思った。カルナは世界三大美女に並んでも遜色のない美形だが、成人男性であるのでネコミミはちょっとした事故だった。
 カルナの容姿は甘さが皆無である。顔が整い過ぎている上に表情筋が年中無休でストライキを起こしている。黙って立っていると怜悧で近寄り辛い。端的に言うと「怖い」以外の印象が発生しない。
 実際のカルナは冷酷とは真逆なのだが、とりあえずネコミミという萌えアイテムは空前絶後のミスマッチだった。ギャップ萌えで「キュン♡」というのもアリかもしれないが、初見のジナコの感想は「……うわぁ」だった。カルナはしょんぼりと肩を落とした。
 カルデアの診断は安心安定の霊基異常。原因は不明。カルナ以外にネコミミが生じたサーヴァントは現時点では確認されていない。今後はわからないので各サーヴァントは注意されたし。
「寝て起きたらネコミミが生えてるって、どういう気持ち」
「名状しがたいものだったとしか言いようがない」
「なるほどー。さすがのカルナさんもネコミミにはビックリしたんスね」
「驚きよりも羞恥が勝ったな。我ながら度し難いことだ」
「そんな落ち込まなくても」
 寝て起きたらネコミミが生えていたら誰だって驚くだろう。ジナコだったら絶叫する自信がある。「これは夢」と現実逃避を試みるかもしれない。
 彼女はチラリと白いネコミミに視線を向けた。短い毛で覆われたそれは、間違いなく触り心地抜群だろう。ジナコはペットと暮らしたことはないが、動物嫌いというわけではない。ムシカは言うに及ばす、フォウやカルデアにいる各動物たちにも興味津々であったりする。
 カルナはネコミミを左右に動かしている。ネコの生態には詳しくないが、何となく落ち着きがないように感じる。
「カルナさん。こっち」
 ジナコはペシペシと自らの真横を叩いた。彼女は床にクッションを敷きつめてゲームをしていた。座面の余裕はカルナ一人分なら十分にある。ジナコの意図を理解したのだろう。硬質な面に驚きに似た色が過る。
「いいのか」
「良いも悪いもないでしょ。いつも後ろから見てるじゃない」
 今日のカルナは警戒心の強い猫よろしく、壁際に寄っていた。これはジナコの反応もとい対応も悪かったのだろう。
 寝て起きたら目の前にネコミミの生えた男がいた。彼女はもちろん「ヒエッ」となったし、ノータイムで布団に引きこもった。最近、寝て起きたら事案が多すぎる。
 布団に籠城したジナコに、カルナは「駄目か」とポツリと言った。何がどう駄目なのかはさっぱりわからないが、カルナが落ち込む理由には少しだけ心当たりがあった。まさかと言うのが本音だが、現実としてカルナは悄然としている。
(ボクは悪くない……けど、カルナさんもそんなに悪くはない……気がする)
 ジナコはコントローラーを操作する手を止めた。ゲームがロード画面に移行したのである。このRPGはロード時間が長いのが玉に瑕だった。今のうちにコーラとポテチを補充しておこう。真横で足を抱えて座っている男に頼んでもいいけれど。
 ジナコの視線にカルナが所在なさそうに目を彷徨わせた。ネコミミもカルナの心情に応ずるように忙しなく動く。
「これはオレの未熟の証明であり、己が欲望を果たした結果でもある。滑稽とはわかっている。浅ましいことだ。だが、喜ばしくも思ってしまう。常であれば、昨日の今日でお前がオレに会うこともあるまい」
……別に、ボクは怒ってないッスよ」
 それは嘘ではなかった。初めからそんなに怒ってはいなかったのだ。単に引っ込みがつかなくなってしまったというだけで。いつもジナコはそうなのだ。
 彼女はすぐに意地を張る。ちょっとのことで意固地になる。癇癪も起こす。そしてあとで後悔する。明日からどんな顔をして会えばいいのか、自己嫌悪で暗澹とする。対人スキルがレベル1未満。長年引きこもっていたツケとも言える。
 それはカルナに顕著を越えて、現実には彼限定だった。マスターたちには、イロモノキャラとして、おどけたり、拗ねたり、つつがなくコミュニケーションができるように、大人なジナコさんで対応できている。ではどうしてカルナは駄目なのかと言えば、甘えているのだろう。カルナにはダメなジナコもアリなので。
「オレがお前の時間を無駄にしたことは事実だ」
「また大げさに言う。ゲームデータが駄目になっただけじゃない」
 それも不可抗力で。ジナコは大仰に嘆息した。カルナはネコミミをヘニョリと平らにした。
 ジナコはカルナに呆れても怒ってもいないけれど、それを素直に口にできないのだった。我ながらイヤになるほど可愛げのない性格である。
 昨日、カルナは今日と同じようにジナコの部屋に来ていた。特に何を求めるでもなく、ゲームをする彼女を後ろから見ていた。ジナコはそんなカルナに冷蔵庫からコーラを持ってきて欲しいとパシリ――もとい、お願いをした。
 カルナは「自らは一歩も動かず我が身を鈍重とする糧を摂取しようとは、恐れ入る」と心配と感心がハーフ・エンド・ハーフなお小言を言った。ジナコは慣性の法則のように「ほっとけーっ!」と手近なクッションを投げ、それを避けたカルナが珍しく、本当に珍しく床に縦横無尽に配線されたコードに躓いたのだ。弘法にも筆の誤り。クシャトリヤだって時には転ぶ。
 そしてカルナが足を引っかけたのは、ジナコがプレイしていたゲーム機の電源コードであった。旧式も旧式な機械にバッテリーなどというものはなく、さらに言うとセーブという概念も存在していなかった。つまりゼロからリスタート。
『カルナさんのバカーっ! もうっ、どうしてくれるんスか!! 電源コードを抜いても許されるのは猫様だけッスよ!?』
 あらためて振り返るまでもなく、どうもこうもなかった。
 カルナにコーラを頼んだのもジナコなら、クッションを投げたのもジナコであり、配線を床にのた打ち回らせていたのもジナコである。カルナに落ち度は微塵もなかった。彼はどちらかと言わずとも被害者である。
 だがそうと理解していても、理解しているからこそ、引っ込みがつかなくなるのがジナコだった。彼女はカルナの謝罪を受け入れず、一方的に部屋から追い出した。
 携帯端末には「すまなかった」と謝るアザラシのスタンプがついたが既読スルーした。ロールケーキを食堂に頼んだとも教えられたが、彼女は応答しなかった。どうしてジナコはいつもこうなのだという自己嫌悪と羞恥と、なんでカルナは怒らないのだという八つ当たりでその日は疲れて果て、気づいたら眠っていた。
 そして翌日、目覚めると目の前にネコミミの生えたカルナがいた。霊体化して部屋に入るのはマナー違反では? と言うテンプレートはもちろん吹っ飛んだ。
 口を引き結んだジナコに、カルナは「度し難い」と自らの頭上に手をやった。三角耳がピルピルと動いている。
「オレはお前に猫のように尊ばれたいわけではないが、何をしても許容される。その質を羨んだ。その結果がこの姿だ」
 猫は何をしても許される。何故なら猫だから。人は猫の前には無力である。つまり、人類とは猫様の下僕。そう、偉い人は言ったとか言わないとか。
「お前はオレを追い出さなかった。いつもであれば、一週間は出てこない。無断で部屋に入れば怒る。だが、今日はそうではなかった。オレに猫の耳が生えているからだ」
「すごい理論出してきた」
「ネコミミの功名だ」
「それ、どんな功名よ」
「効果はあっただろう。お前はオレが傍に寄ることを許している」
「そんなに簡単に霊基って変わるものなの?」
「あえて言うなら、気合いだな」
 カルナが真顔で頷く。ネコミミも得意げにピンッと正面を向いていた。
「気合でネコミミって……っ、ふひひっ、気合の無駄遣い極まれりッスね!」
 ケタケタと肩を震わせて笑うジナコに、カルナは思案するように首を傾げた。
「お前はこの姿の方が好ましいと思うか?」
「んー、悪くはないけど困るッスね。カルナさんが猫様だと、神様系サーヴァントのボクでも下僕にならないといけないし、そういうのはちょっとなー」
「オレはお前を虐げたいわけではない。……わかっている。これは欲だ。至らぬのはオレだ。だがお前に拒まれるのは、少し堪える」
「だからネコミミ?」
「オレとて、そういう時はあるんだ」
 カルナが拗ねたように言う。「ふぅん」とジナコは唇を尖らせた。
 ネコミミはきっかけにはなったけれど理由にはなっていない。だが、カルナにはネコミミ以外の要素はないらしい。
 ジナコは猫様なら電源コードを抜かれても許す。許す以外ない。「しょうがないにゃー」の未来一択だ。猫様のロードに電源コードを挿した人類が悪いのである。
 だが、当たり前だが、ネコミミが発生してもカルナは猫ではない。死者の影だが人間だ。
「ネコミミは今日限りにしてよね。カルナさんが猫様だと、甘えられないじゃない」
「それは、どう言う……
 呆然とした声音にじわじわと頬が熱くなる。しかたがない。ちっともわかっていないカルナが悪いのだ。
「あと当たり前だけど、ボクは猫様じゃないんで何でも許さなくていいし、……たまには、我がまま言ってくれたって良いんだからね。白髪のランサーを猫可愛がりしたいなーって気分の時もあるし」
「今は」
「そういう気分!」
 プイッと顔を背けたジナコに、熱いくらいの腕が絡む。
 頬をくすぐる白い髪に、ジナコは照れ隠しに「フンギャーッ!」と色気皆無な声をあげたのだった。

 なお、ネコミミはいつの間にかなくなっていた。カルナのことである。気合でどうにかしたのだろう。


49
書き下ろし 

 これしかない。ジナコ=カリギリは決意した。
(やっぱり正攻法が一番ッス)
 あれこれと策を弄しても、上手くいく気がしないのだ。ならば、最初から正面突破で行った方が良い。攻略方法は決まった。あとはいつ仕掛けるかだ。
 虎視眈々と様子を窺うジナコに、カルナは深々と溜息を吐いた。
「何を考えている。いや、仔細は不要だ。その思いつきは早々に放棄するといい。お前の閃きは端的に言って目に余る。いや、この場合は目に苦しいというのが正確だろうか?」
「ノータイムで失礼! ボクはまだ何にも言ってないッスよ!?」
 あと端的に言って、目に余るはこちらのセリフだ。
 目に苦しいは見苦しいの言い間違いか、それとも見ていてハラハラするの意味か。おそらく後者なのだろうけれど、単語チョイスが誤解を招き過ぎである。今までなら「カルナさんだから」で済ませていた。だってカルナさんだから。だが、それは昨日までのジナコだ。
「言葉はなくとも十分だ。黙っていてもお前は騒々しい」
……黙ってても煩いって、カルナさんじゃなきゃ強烈なディスだかんね?」
 黙っていても騒々しい。これは、言葉がなくても表情が雄弁と言う意味だろう。カルナはジナコの表情が豊かだと褒めたのだ。だが、第一印象はどうあがいても否定である。
 不機嫌な顔を作ったジナコに、カルナは神妙な顔になった。何とも言えない沈黙がジナコとカルナの間に落ちる。
(ここはカルナさんが一言足す場面じゃないの?)
 ジナコの内心を知ってか知らずか、カルナは口を噤んだままだった。
 場所はカルデアで彼女に与えられた部屋。ジナコはベッドに腰かけ、カルナはその視界を塞ぐように立っている。完全に父親に叱られている子供の風情である。あらかじめ言っておくと、ジナコはカルナを怒らせたわけではない。彼はジナコを案じているのであり、怒っているのはどちらかと言わずともジナコだった。
(目に余るとか、煩いとか、もうちょっと言い方ってものがあるでしょ。キレッキレはカルナさんの味わいだけど、一言が全然足りてない)
 この男、『とあるマスター』にアドバイスを受けてより、一言足りるように心がけているらしいのだ。マスターには、出来ているかと確認までしたとか。
『カルナさん、そんなこと言ってたんスか。珍しいッスね。あんまり自分のこと話す人じゃないのに』
『うん。少し不安そうだったから気になってさ』
 気遣う相手に、ジナコは「何かあったんスかね~」と空惚ける一択だった。マスターはガネーシャ神――ジナコと何かあったと考えたのだろう。
 カルナはジナコを良くかまう。アルジュナ以外に積極性を見せてこなかったサーヴァントが、自分から他者に、それも女性に話しかけている。生前に因縁があったのかと言えば、そういうわけではないらしい。
『あの男、好みがないどころか完全に一点物じゃない』
 コノート女王は呆れたようにアルジュナに告げたそうだ。
 彼は結構な頻度でメイヴやキルケー、時々ヴリトラに付き合わされている。授かりの英雄は女難も授かっているのだろうか? ジナコはその場面を見ていないが、アルジュナの目から光は消えたそうだ。
 まぁ、宿敵で異父兄の女の趣味がジナコのようなイロモノでは、彼も絶句だろう。カルナとアルジュナが妻にと争った女性は、絶世の美女であったと言う。容姿だけでなく、心映えも素晴らしい女性であったとか。
 少し前、ジナコはカルナにどんな女性であったのか尋ねていた。ほんの少しだけ、気になっていたので。
「度を越えて人の噂になる女だったな」
「目にした人が語らずにおれない女性でした」が、どうしてそこまで傍若無人な表現になるのか。
「言い方がアウトーっ! 度を越えた上に噂って、普通に聞いたらそれ悪口ッスよ?」
 頭上に「?」を浮かべたカルナに、ジナコは「もう一言!」と訴えた。
「人の噂になるぐらい美人だったんでしょ? ひと目見たら忘れられないくらい……
 ボソボソと話すジナコにカルナは「オレに人の美醜はわからないが」と前置いた上で、視線を合わせてきた。細められた目に、ジナコはイヤ~な予感がした。
「目にした者が姿を忘れ得ぬという点においては、お前も負けていないぞ。オレとしてはどうかと思うが」
「はいぃい!? どうかと思うのはこっちッスよ! ボクはピコッと我がままマシュマロボディなだけの一般人ッス!」
 ジナコはそんな見た人が忘れられないような姿はしていない。石像のインパクトは大だろうけれど、中身は平凡なジナコさんである。驚くほど怠惰かもしれないが、あくまでも凡人レベルだ。
 キーッと地団太を踏んだジナコに、カルナは難しい顔をした。
「泣きを見たくなければ弁えを持て。神霊の権能があるからと図に乗るものではない」
 これが心配からの発言だというのだから、カルナという男は本当に言葉が足りない。
 目立つということは良いことばかりではない。むしろ悪いことの方が多い。ジナコは身をもって知っている。平凡なジナコについた両親の死と多額の遺産という事象。それは彼女の手に余る世界を連れてきた。
 可哀想と会う人会う人に言われること。力になる。助けてあげる。自分の手を取れと、選択を求められること。目まぐるしく毎日が動いていく。一時も気は休まらない。寝ても覚めても選ぶことばかりが積み重なっていく。
 これからどうするのか。当時のジナコは未成年だった。後見人は誰がなるのか。どれか一つを選ぼうとすると、誰かがそれは「悪いことだ」と言う。
 ジナコの前に提示される「パパとママが安心できる幸せ」は、どれも違うカタチをしていた。
 両親に甘やかされて育った彼女は、物を知らないと思われていた。それは誤りではないが、正しくもなかった。彼女は周囲が思うよりも人間を見ていた。
 誰も彼もウソツキだ。元に戻りたい。パパとママに帰ってきて欲しい。それだけでいい。パパとママがいるなら、お金も家も宝石も何もいらない。誰もいない家は怖い。ジナコは独りぼっちだ。どうしたら良いかなんてわからない。何をしても「それは違う」と言われるのだ。誰かの手を取ろうとすれば、誰かがその手を跳ね除ける。
 ジナコを家族にしたい人はたくさんいた。彼女にはそれだけの価値があった。終わらない非日常に、ジナコは疲れてしまった。現実なんて見たくない。
 彼女は愛されて、そして愛した家族がいなくなった。その時間で心を止めた。それは思考の停止であったのだろう。でも、疲れていたのも本当だった。
 ジナコは人目が苦手だ。月の聖杯戦争を経て、多少は前向きになったジナコだが、十年来の臆病は変わらない。だが現実は容赦ない。現在のジナコは神霊の疑似サーヴァントだ。そして召喚された世界は未曽有の大危機だった。
 サーヴァントは戦うためのモノ。生者を依り代とした疑似サーヴァントでもそれは変わらない。逃げ出したいと思う瞬間はたくさんある。それでも、どうせみんな死んじゃうのに一生懸命に生きてバカみたい。動けない自分に目を背けて、虚言で自己を塗り固めていたかつてを思えば、この非日常は悪くはない。
 マスターやマシュ、所長もカルデアのスタッフたちは良い人たちばかりだ。ゲームを通じて、刑部姫や巴御前とも気安い関係を作ることができた。パールヴァティーやラクシュミーは、何かとジナコを気にかけてくれる。彼女たちと過ごす時間をジナコはひそかに好ましく思っている。
(カルナさんにも会えたし)
 これが一番、嬉しいことだ。だが、何が起こるかわからないのがカルデアライフ。サーヴァントは善人だけでは構成されていない。
 マスターの下には、人類史に名を刻む英雄、聖人だけなく、悪人も犯罪者も復讐者も狂人も平等に現界している。気づいたらデッド・エンド。血みどろの惨劇ルート、二人だけの箱庭ルートの種はそこら中に……
 人類悪・ビーストであったサーヴァントが少なくとも二騎現界しているカルデアに隙は無い。カルデアにはBBもいる上に、メルトリリスたちも健在だ。最近では、異星の使徒に仕えていたサーヴァントと同じアルターエゴまで召喚された。地雷原の多重建築が止まらない。カルデアに平穏が保たれているのは、ひとえにマスターの善性とバランス感覚の賜物である。
「はいはい、大人しくしてればいいんでしょ。ボクに目をつける物好きなんて、カーマさんぐらいだと思うけど」
 召喚当初、カーマはガネーシャ神に両親への復讐を持ちかけた。だが、頑なに石像にこもるジナコを使えないと思ったのだろう。彼女は早々に「つまらない」とジナコに見切りをつけている。
 トラブルに巻き込まれないに越したことはないが、ジナコにどんな使い道があるというのか。神霊サーヴァントでもジナコはジナコだ。「自意識過剰乙w」が目に見えている。そう思っているのが顔に出ていたのだろう。カルナは重々しく頷いた。
「この退化しきった生存本能、刮目に値する」
 どこをどう切り取っても失礼だが、これも心配で目が離せないという意味だった。
 カルナの言語変換はちょっとレベルが高すぎる。でもどんなに言葉が足りなくても、カルナに気にしてもらえるのは嬉しい。胸が温みを帯びる。しかし、それを素直に口にも顔にも出せないのがジナコである。不貞腐れた顔を作ったジナコだが、そんな彼女にカルナもどういう訳か拗ねていた。
(普通に心配なんだって言ってくれれば、ボクだってもう少し……
 いや、無理だ。何故ならジナコであるので。余計に天邪鬼に捻くれたことを言う気がする。
 なお、カルナがジナコをかまうのは、当たり前だがジナコがカルナの好みだからではない。ジナコがあまりにもジナコなので、彼の霊基に残っているかも知れない『とあるマスター』のダメさ加減がゴーストのように囁いているのだ。その神霊の疑似サーヴァントは、要介護生命体だと。放っておけというものである。実際放っておかれると、寂しくなるのはジナコである点についてはシークレットである。
 ジナコには、一言足りないカルナさんで丁度いいのかもしれない。――と思うのだが、それはそれでモヤッとするのだった。かくもしらじな、心とはままならない。ジナコのものであるはずなのに、いつでも予測不可能な動きをする。
(なんで寂しいなんて思っちゃったのよ)
 マスターは「よろしくね」とジナコに頼んでいったが、カルナとは何もない。まず、ジナコはカルナが一言足りるようにしていることを知らなかったのだ。
 カルナは言いたいことを最後まで言わない。言っていいのか。自分には過ぎたことではないか。我を通して、相手に不愉快な思いをさせないか。ジナコが「それで全部じゃないでしょ。もう一言!」と言って、ぽつぽつと言葉を足すのが常だった。カルナは考えすぎなのだ。ジナコに遠慮する必要などないのに、損な性分の人だと思っていた。
(アタシのこと、忘れちゃったんだ。少し、ほんの少しだけ引っかかるモノはあるみたいだけど。……当たり前じゃない。サーヴァントは記憶を引き継がないんだから)
 第五特異点、終局特異点、インド異聞帯。カルナには召喚の記録がある。でも、カルデアにいるカルナはその記憶を保持していない。サーヴァントは死者の影法師。死者が新たに記憶を得ることはないのだ。三回も「そうか」と繰り返していたのに。切なくなったジナコだが、まさかのジナコ以外には一言足していた疑惑である。
 本日、ジナコはカルナを観察した。普段ならば視界の端っこに入るのも臆するが、知りたい欲求が先に立った。
(言葉選びは激ヤバだったけど、それがちゃんと誤解にならないように話してた)
 カルデアでの様子を見るに、カルナは一言足りるカルナさんになっていた。アルジュナにも言葉を継いでいた。当のアルジュナは毛を逆立てた猫のようになっていたが。ただし、ジナコは実感できていない。
 今も不機嫌な顔で間を開けてみたが、フォローは一切なし。一言足すどころか、カルナは眉間に皺を寄せている。どういうことだ。ジナコが不機嫌になった理由を考えているのか、それとも彼女の「思いつき」を危惧しているのか。それとも両方か。
 目を据わらせたジナコに、カルナはますます剣呑な顔になった。傍から見たら、ガンのつけ合いになっているだろう。幸いにもここはジナコの私室で、他に人はいないのだが。今さらだが、どうしてカルナはジナコの部屋にいるのだ。
(ボクが一言足りてるカルナさんを見てて、それにカルナさんが気づいて)
 マスター、カルデアの職員。サーヴァントたち。ごく当たり前に会話をしている姿が最初は面白くて、微笑ましくなった。『とあるマスター』としては、大満足のはずだった。
 ピコッと面白くないなと思ったのは、カルナがジナコには言葉が足りないままだからだ。彼はジナコには最後まで言いたいことを言ってくれない。
『どうした。……おかしな顔をして』
『おかしな顔って、ボクは普通ですけど?』
 おかしな顔を言うなら、それはカルナだ。言いたいことがあるのに我慢をしている。寂しさを誤魔化すために軽口を叩いたジナコだが――無情かな。カルナには『貧者の見識』というデリカシー皆無なチートがあるのだった。詳細は省くが「その虚勢に意味はあるのか」、「何があった」、「何もないと言うならオレを見ろ」。ジリジリと壁際に追いつめられ、ジナコはキレた。彼女の数ある悪癖の一つ。その場しのぎの逆ギレである。
『何もないって言ってるでしょうが!』
『見破られると承知で嘘を吐くのは、お前の性癖か?』
『性癖言うなぁ! 人を勝手にドエムにしないでよ! ボクは本当に何でもないんだから!!』
 逃走したジナコをカルナが追いかけ、後は以下略。
 たまにカルナは押しが強くなる。そして部屋に逃げ込んだのは完全に悪手だった。逃げ場がない。
 だが、好機だとも思うのだ。ジナコは言いたいことを我慢しない、一言足りるようになったカルナさんを見たいのである。
「考えを改める気はないのか」
「ないッスね。別にカルナさんが気にすることないじゃん。危ないことはしないし」
「お前が自信に満ちている時は、多くの場合において痛い目を見る」
「ちょっ、それどこソース!?」
「どこと言われれば、今までを顧みろというところだ」
 水着剣豪が活躍したラスベガス、その後に発生したスペースギル祭。キルケーの恋心を昇華したアイアイエー島。
「お前は意気揚々とマスターの前に立ち塞がり、後は言うまでもないな」
 口では言っていないが、カルナも顔が騒々しい、もとい雄弁だ。
 ラスベガスもその他特異点も、やられキャラよろしく退場したジナコを回収したのはカルナだった。頼んだ覚えはないが、気づいたらお迎えが常設になっていた。おかしい。最近ではマスターも「カルナに連絡しておいたから、ガネーシャさんはここで待っててね」とカルナが来ることが当たり前のように……。何故? カルナもカルナである。溜息を吐くぐらいなら、迎えになど来なくていいのだ。
「何を考えているかは知らないが、次はオレも連れていけ。その方が手間が省ける」
「いやッス! それって、保護者同伴って言われるのがオチじゃん!」
「オレはお前の保護者ではないぞ」
「何よ。そんな不貞腐れなくったっていいじゃない」
 ムスッという擬音が聞こえてきそうな顔に、ジナコも唇を尖らせた。
 彼はジナコを姉のように感じるらしいので、保護者というのは(外見)年齢的に思うところがあるのかも知れなかった。ジナコがカルナを弟のように思うかと言えば、わからないとしか言いようがない。彼女にとってカルナはカルナでしかないからだ。
「ボクは大丈夫なんで、毎回毎回、律儀にお迎えに来てくれなくてもいいんスよ」
「他の者を迎えに求めるということか。あえて手間を増やすとは、大したものだ」
「いや、一人で帰りますけど?」
 カルナはコトリと首を傾げた。正解のないナゾナゾを出されたような顔である。
「ならばオレでいいだろう」
「ならばの前提が行方不明ッス」
「担ぎ方については考える」
「誰が運搬方法について考慮しろと言った! 大体担ぐって……。そう言えば、どうしていつも俵担ぎなの? おんぶじゃダメなんスか」
 カルナのジナコの持ち方は、完全に荷物を運ぶスタイルである。お姫様抱っこをして欲しいとはまったく微塵も思わないが、米俵のように運ばれることは遺憾である。
 ではどのように運搬されたいのかと言えば、どんな持ち方をされてもジナコは「……ムリ」となるだろう。持ち運ばれる。それつまり、推しとの距離が近い。顔が見えないという点において、背負うというのがジナコ的に「かろうじてアリ」なだけである。
「お前は自らを省みることだ。オレがお前を背負った場合、非常に困難な事態が発生する。我が父スーリヤに誓って、運びきってみせよう。だが……
「ボクのまろみは、そんな決死の覚悟をするレベルなの!?」
 カルナは迷いなく頷いた。ジナコは腹部に腕を回した。
 彼女は自らの体重が平均よりも豊かであることは自覚していた。だが、カルナはサーヴァントである。羽のようとは言えないだろうけれど、確実にイヴァン雷帝よりは軽い。比較対象がおかしいのは百も承知だが、ジナコはカルナがかの雷帝を背負って帰還した姿を見ている。カルナがモヤシなのは見た目だけなのだ。
「もしかしてガネーシャさんの神性が重たいとか、そういう感じ?」
 ガネーシャ神はインド神話において、屈指の知名度を持つ神霊である。ジナコにはさっぱりわからないが、霊基再臨で増えまくった神性が負荷になったり……
「神霊は無関係だ」
「そんな食い気味に言わなくても」
 神霊は無関係。それはつまり、ガネーシャ神から神性をマイナス・イコール・ジナコ。
 フニリと腹部のお肉を抓んでみる。思うところがないわけではないが、少なくともサーヴァントである今は、体型は変わらない。
「ボクはピコッとまろみが豊かなだけだもん」
「己を過小評価するものではない。お前を背負うことは苦行に等しい。……腹を揉むな」
 揉むなと言われれば揉みたくなるのが人の性である。そして今のジナコはカルナの言うことは聞きたくないのだ。元から素直に聞いたことなどないだろうというのは禁句である。
 ジナコはフニフニと腹部を揉んだ。温かく滑らかで柔らかい。自分で言うのもなんだが、このまろみ、悪くない触り心地である。ニッチ向けだが、需要は皆無ではない……と思う。胸だってそれなりにある。それ以外の部分もそれなりにあるが。ジナコの体はどこもかしこも白くてモチモチとしている。
「ちょっとモーダカっぽい」
「まさかと思うが、腹が空いているのか?」
「まさかじゃなーい! そのハッとした顔、失礼しかないから!!」
 瞠目した相手にジナコは両腕を振り上げて叫んだ。ベッドが軋んで後ろにひっくり返りそうになるが、カルナが寸でのところで腕を掴んでくれたので転がることは回避できた。フッとカルナが吐息交じりに笑う。
「お前は丸い」
 言うに事欠いて丸い。ジナコは丸いだろう。容姿をあげつらうなど最低である。でも、カルナは例外だ。カルナがジナコを「丸い」と言ったのは、容姿を哂ってではない。
(だってカルナさんだもん)
 カルナは人の欠点よりも美点を見つめる人である。
 人類史に名を刻む英雄でも、最後までダメなままかもしれないジナコでも、命の価値は変わらない。それがカルナの人生の結論なのだろう。人間、生きているだけで偉いのである。
 カルナは人を貶さない。蔑ろにしない。その人間の在るがままを受け入れ、かつ認めるに値する部分があれば肯定する。その存在がどんなに悪辣で救い難いモノであったとしても、彼は否定しないのだ。
 でも「丸い」で完結されては困る。ジナコは二の腕を掴む手をペチリと叩いた。
「もうっ! 前々から聞きたかったんスけど、カルナさんはボクを何だと思ってるわけ? ガネーシャさんは詳細希望ッス! 具体的に、わかりやすく、最後まで言って。『とあるマスター』に言われたんでしょ。カルナさんは一言多いんじゃなくて、少ないんだって。……その人のこと、ガッカリさせちゃダメッスよ」
 ジナコは胸をそびやかした。カルナはものすごい勢いで目を逸らした。どうしたのだろうか。そして何故に黄金の鎧を押しつけてくるのか。
「お前は自らを知るべきだ」
「だーかーらっ! それって、どういう意味よ」
「言ってもいいのか」
「そう言ってるじゃない。遠慮は不要ッスよ!」
 どこか唖然とした様子の男に、ジナコは胸を張った。ドクドクと心臓がうるさい。カルナはうろりと視線を動かす。ほのかに朱色を上らせた顔に嫌悪はない。
 ジナコの作戦。それはカルナの信条を利用するというものだった。
 カルナはジナコに最後まで言いたいことを言わない。だけれど、彼は施しの英雄である。頼まれたら断らない。
 ジナコのなかで、カルナに「頼む」というのは禁じ手だ。カルナは、それがどんな理不尽でも応えようとする。知っているから、ジナコはカルナにお願いをしない。断られることを前提とした軽口が精々だ。でも、今回は我慢できなかった。マスターたちには一言を足しているのに、面白くない。本音を言えば寂しかった。
 もっとも「ジナコをどう思うか」と聞いたのは予定外だ。ジナコは、そんな「面倒な彼女か!」と言うようなことを聞くつもりはなかった。勢いに任せ過ぎた。策士策に溺れるとはこのことか。でも言ってしまった言葉は戻らない。
 それに、ジナコをどう思っているのか。知りたくないと言えば、嘘になる。カルナはジナコに視線を合わせると、重々しく唇を開いた。
「承知した。それがお前の望みならば、オレは応えるべきだろう」
「受けて立つッスよ」
 ジナコが丸くて転がる姿が和むと言うならそれもアリ。腹は立つけれど、最後まで教えてくれるならジナコは許す一択だ。
 ジナコは一言足りるカルナさんを見たいのだ。それは、どこかの『とあるマスター』を心強くしてくれるから。
ニッとふてぶてしく笑ったジナコに、カルナは眉根を寄せた。
「お前は、目に余る」
――はい?」
 その目に余るはどういう意味だ。
 語尾を跳ね上げたジナコに、カルナは「目玉を抉りだしたい」と言い出した。突然の物騒である。
「抉るって、どうしたんスか」
「どうもこうもない。もはやそれしかないように思える。抉ったとしても無為は承知だ。だが、オレが見たものをお前にも見せてやりたい」
「目にもの見せてやるってこと? カルナさん、もしかしてオコ?」
 目を抉りたいと思われる。ジナコは一体、何をしたのだ。身震いした彼女に、カルナは長息した。
「違う。そうではない。オレは怒ってはいない。だが、見せてはやりたい。お前は目に余る。オレは凡夫だが、今までお前を見逃してきたことは、称賛に値するのではないかと思う」
「どれだけボクは目溢しされてたんスか」
「期間と言うならば、現界してよりだな。不思議とそれ以前からという気もするが」
 現界以前からとは、思い当たるフシが多すぎる。ジナコが思う以上に、ジナコ=カリギリは見逃されてきたらしい。
「我ながら執念深いことだ。……呆れたか?」
「カルナさんこそ、イヤになったんじゃないの?」
「まさか」
 笑みを含んだ声に、ジナコは頬を丸くした。
「そんな困った顔してるのに?」
 彷徨う視線に、下げられた眉根。表情差分が少ない男のささやかな主張だった。
「それは困りもする。お前は見苦しいんだ。一目で息が途絶える時すらある。他の者が目にしたらと思うと気が気ではない」
「そんな風に思うの、カルナさんぐらいッスよ」
 見苦しいを好意と解釈できるのも、カルナぐらいだろう。フスリと笑ったジナコにカルナは渋い顔をした。
「ジナコ。お前は本当に、そういうところだぞ」
「カルナさんこそ、そういうとこッスよ」
 サラッと認識阻害に休暇を約束する。「見ていると心配で胸が苦しくなる」を「見苦しい」に集約する。
 時々、カルナはジナコを見ると、信じられないものを目にしたような顔をした。時間が止まったように瞠目して、唇は『誰か』を探した。いつもより少しだけわかりやすい表情が、ジナコは嫌いではなかった。
 今のジナコは神霊の疑似サーヴァントだ。サーヴァントである彼女は、マスターのために行動する。カルナが『とあるマスター』がどういう人間であったかを少しでも思い出したなら、納得の表情だった。
 ジナコは良いマスターではなかった。願いのために戦う意志も、強さも、何もなかった。死という絶対のお終いを前にした彼女の選択は「何もしない」。それが彼女の人生で自己防衛だった。見苦しかったであろうし、目に余ることばかりだっただろう。
 カルナはそんなどうしようもないマスターを見守っていた。比喩でなく、カルナは在るがままのジナコを見て、最後まで護り通したのだ。
「カルナさんは心配性ッスねぇ。見てると苦しくなるぐらい、ボクのこと心配なの?」
「心配に決まっている。お前は可愛いんだ」
 その「可愛い」は、手がかかる子ほど可愛いという意味に違いなかった。パパとママがジナコを愛したような、温かな感情。ジナコが女性として可愛いわけではない。そうとわかっていても、顔は火照る。
「ふぅん。カルナさん、ボクが可愛いんだ」
「あぁ、オレはお前が可愛い」
「ふひひ、ボクでも可愛いって言われるのは悪くないッスね」
 耳がくすぐったい。ジナコはカルナの顔は好みではないが、声は抜群に好きだった。顔も声も含めたカルナについては言うまでもない。
 ジナコはカルナに取られたままの腕を振った。何かをしていないと恥ずかしさと嬉しさで身悶えてしまいそうだった。カルナは律儀にジナコの成すがままに腕を振られながら「そういうところだ」と繰り返した。
「お前は目に困る。コロコロと変わる表情も、無防備な姿も、憎らしいほど可愛い。今も逃れようともせず、当然のように身を晒す。可愛いが、オレとて男だぞ」
……へ?」
 ジナコは目を丸くした。そんな彼女にカルナは「いいか」と窘めるように言葉を継いだ。
「オレはお前が可愛いんだ。気を惹かれる女が目の前にいれば、思うこともある」
 カルナの手がジナコの肩を温めるピンクのモフモフ――もとい、黄金の鎧を胸の前で掻き合わせる。脂肪は筋肉よりも冷えやすい。ジナコの体が冷えるのを思いやってと考えるには、カルナの視線は直截だった。
 ガネーシャ神の装束は上半身の布面積が少ない。腹部は露わだ。胸を隠す布地も心許ない。
「獣に成り下がりたくはないが、見逃すにも限界はある」
……えっと、カルナさんも男の人ッスね?」
「言葉もない」
 白皙が頬から目元、耳までじわじわと紅く染まっていく。それはジナコも同じだろう。
 谷間が見えていようが際どかろうがジナコである。イロモノ枠のサーヴァントだ。その言い訳はカルナには通じない。何故なら、彼はジナコが可愛い。
「自覚したか」
「そういう訳じゃないッス」
「往生際が悪いことだ」
 往生際が悪いのはお互い様だろう。カルナは言葉が足りない。昨日までなら「カルナさんだから」と見逃していた。ジナコは自他ともに認めるダメ人間だが、今までこの男を目溢してきたことは称賛されてもいいはずだ。彼がジナコの弟枠を自認するならば、お姉ちゃんムーブもやぶさかではない。
 でも今からはダメだ。
「カルナさん、『とあるマスター』をがっかりさせちゃダメッスよ」
「わかっている。オレはお前が可愛い」
 目に余るほど、目に苦しいほど、見逃し続けるのが試練に思えるほど。
 どうしてとは聞かない。いつからも必要ない。言いたいことを最後までと欲しがったのはジナコだ。
 大きな手が頬を撫ぜる。カルナの手は温かい。しっかりとした手のひらはジナコを支える。でも今は少しだけ頼りない。
「笑わなくてもいいだろう」
「だって可愛いんだもん」
「キミの方が可愛い」
「そんなことないと思うけど」
「そんなことはある」
 ならば、カルナがジナコを「可愛い」と言うならば。
 彼女は彼に最後まで「可愛い」の理由を言って欲しいのだ。


50
書き下ろし 

 これが補正か。コクリとロールケーキを飲み下すと、ジナコは難しい顔をした。
 テーブルの上には、丸いお皿に盛りつけられたロールケーキが二切れ。卵色のスポンジに淡雪のクリーム、色とりどりのフルーツが宝石のように眩しい一品だった。口にすればまさに至福。だが、彼女は気づいてしまったのだ。
(このままだと大変なことになる。もう手遅れかもしれないけど)
 傷は浅いに限る。これは今回で最後にしなければ。
 決意したジナコの目の前で、ロールケーキが一口大に切り分けられる。その手際はまさに匠。切り口は鮮やか。スポンジが崩壊しクリームが流出、フルーツがお皿の上を漂流していたのは過去の話。
「どうした。口を閉じたままでは食べられないぞ」
 小さく笑う気配に、ジナコはしぶしぶ唇を開けた。スポンジとクリーム、フルーツを均等に乗せたフォークを手にしているのはカルナだ。食べるのはジナコである。現状は整理せずとも不思議だが、これがカルナとジナコの日常だった。
 ゲームや漫画に夢中になっているジナコに、カルナがスイーツを食べさせていく。きっかけはジナコだ。ハマりにハマったゲームの攻略に忙しく、すっかり寝食をおろそかにした。
『ガネーシャ神、いい加減食事を摂れ。お前は疑似サーヴァントだ。過ぎた苦行は身を損ねるぞ』
『無理! 今がクライマックス! つまり手が離せない!! くぅっ、あと少し……っ』
『そのあと少しが待てないと言っている。口を開けろ。水分を摂れ』
『だーかーら! ボクは手を離せないの! そんなに言うならカルナさんが食べさせて!』
…………承知した』
『助かる!』
 助かる、ではない。
 その日から、カルナはジナコの口まで食事を運ぶ係を拝命した。自主的に。文章にするとおかしいところしかないが、ジナコはカルナの施しを甘受していた。特に違和感もなく。何故なら、カルナさんだから。安心安定の距離感バグ。ちなみに、今日はロールケーキだが昨日はプリンだった。
 ロールケーキを飲み込むと、ジナコはカルナに向き直った。左隣に座っているカルナは、いそいそと言う擬音が聞こえそうな雰囲気で、次の一口を切り分けている。これは良くない。本当によろしくない。
「カルナさん、フォークちょうだい」
「これより大きく切り分けろと言うことか? その食への貪婪さはさすがと言えよう。だが、これ以上は食べこぼすぞ」
 口元に寄せられたロールケーキは、ジナコが食べるのにちょうどいい大きさだった。
 カルナが切り分ける一口の大きさに、ジナコが食べこぼしたのは最初だけ。もっとも、その最初がアレだったのだが。
 口いっぱいのロールケーキに目を白黒させるジナコに、カルナは「この程度も入らないのか」と驚愕していた。ジナコは「どうして入ると思った!」と無言で両手を振り上げることで抗議の意を示した。
 ジナコは黙々と口を動かし、カルナはその様子をハラハラと見守る。ジナコがいつ息を痞えさせるか気が気ではなかったらしい。
 吐き出してもかまわないと言われたが、カルナの前で一度口に入れたものを吐き出せるほど、ジナコの情緒は鈍くできていなかった。
(お腹も空いてたし)
 一生懸命に口を動かしたのはそういう訳だ。
 無事に食べ終えたジナコに、カルナは落ち込んだ。
『オレはどうしようもない』
 自己嫌悪を滲ませる相手に、ジナコは「次。ロールケーキはまだまだ残ってるッスよ」と告げたのだった。
――いいのか?』
『いいも何も、食べさせてよ』
 カルナとジナコの一口は違う。そのことに気づかない不器用さが微笑ましかった。
 きっと、その最初がよろしくなかったのだ。口いっぱいに食べたロールケーキは美味しかった。食べ飽きた個包装のロールケーキであったのに。

「カルナさん、早く」
 フォークを受け取るため、ジナコは右手を上向ける。カルナはその手のひらとジナコを交互に見た。
「無理に食らえば苦しむことになる。それは看過しがたい。お前の食欲に応えられないのは忍びないが……
「カルナさんの中のボクはどれだけ食いしん坊なんスか! 何も忍びなくないからね!? この手は、自分で食べるんでフォークちょうだいって意味! なに不思議そうな顔してるんスか。……頼んだのはボクだけどさ。カルナさん、どうして普通にボクのご飯係してるんスか」
「給餌をされているという自覚はあったのか」
「言うと思った! 絶対に給餌って言うと思ったッス!!」
「早く口を開けろ。クリームが落ちてもいいのか。ほら、あーんだ」
「約束された、棒読み!」
「む。オレとて抑揚をつけることはできるぞ」
 不満げな様子はポーズだ。カルナは控えめに言って上機嫌。フンフンと鼻歌を歌い出してもおかしくないし、実際、ロールケーキを切り分ける時には歌っていた。しかし、抑揚。
 脳内に淡々とクリスマスソングを歌うカルナが再生される。今も「へいよー」で締めくくられたジングルベルは見事な一本調子だった。どうだと言わんばかりに見つめられても、抑揚は絶無。
 ジナコはカルナの鼻歌を好ましく思っている。ひそかに可愛いな、とも思っている。でも抑揚はない。尊いけれど、無から有は生まれない。
「カルナさんって『え、そこなの……?』ってところで自己肯定感高いッスよね? もっと他にあるでしょ」
「他と言うのはわからないが、わかることもある」
……? ドヤられてもボクにはイミフなんスけど」
「オレのことは気にするな。疾くとロールケーキを食べるといい」
「だから、自分で食べるって言ってるじゃない」
「何か不調法があったか?」
 カルナが声を沈ませる。今度は本気で気にしている。チクリとなけなしの良心が痛む。カルナが悪いことは何もないのだ。これはジナコの事情である。
「そういう訳じゃないけど、補正が……
「補正?」
 鸚鵡返しにする男が憎らしい。そう、すべては補正が悪いのだ。
 ジナコは困っている。カルナに食べさせてもらうロールケーキが美味しい。同じロールケーキでも、一人で食べていると味気ないと感じる。コンビニのおにぎりと唐揚げも、ピクニックのランチになると美味しくなる。いつもと違う非日常感が味覚に作用するのだろう。
「美味く感じることの何が悪い」
「悪いでしょ。ボクはカルナさんとずっと一緒にいられるわけじゃないんスよ」
 カルナと一緒に食事をする。「美味しい」と伝える。共有される感情と時間。それだけでジナコはいっぱいいっぱいだ。それなのに手ずから甘やかされるなんて、どうしたら良いのかわからない。彼女は現実を知っている。見ないふりも辛いのだ。ジナコ=カリギリの世界にカルナはいない。
「元に戻った時、寂しくなるのがわかるんスよ。絶対に比べちゃうし、大好きなロールケーキが美味しくないなんて、そんなのあんまりじゃない」
「それはお相子だ」
 一口分のロールケーキが唇に触れる。柔らかく甘く、口にすれば幸せになれる。カルナが施す甘さは、一粒食べれば戻れない果実のようだ。
 本当は、もう手遅れだと気づいている。ジナコはカルナが隣にいることに慣れてしまった。補正は逆だ。日常はカルナがいることで、いないことが非日常になった。
「お相子だなんて、そんなことない。ボクは何もしてないでしょ」
「お前は自惚れを知るべきだ」
「いつもは調子に乗るなって言うくせに」
「時と場合による」
 存外、調子がいい男だ。
 唇を引き結んだジナコに、カルナは「食べてくれ」と言う。
「オレだけというのは不公平だ」
「そんなことないって知ってるのに、ズルくない?」
「諦めろ。オレはそういうモノだ」
 悪びれもしない。でも、カルナの狡さがジナコは嫌いではないのだ。
 律儀に口元に寄せられたままのロールケーキに、ジナコは笑った。食べてしまいたい。日常と非日常が逆転する。カルナも同じと言うなら、こんなに優しくひどい「いつも」はない。
「こんなの、どう責任とってくれるんスか」
「責任をとれと言うなら、それもお互い様だな。オレはお前と出逢う前のオレには戻れない。戻りたいとも思わないが。……何を見ても、何を食べても、オレはお前を思い出す。以前からそうだったが、今はどうしたものかとも思う。この後、オレはどうなるのか。想像もつかないんだ」
 訥々と話す姿を、ジナコは夜を怖がる子供のようだと思った。そこにはジナコの欲もあるのだろう。自分だけというのは不公平だ。だからあなたも、と。
「怖いの?」
 問う声にカルナは不格好に笑んだ。
「あぁ、怖いよ」
 カルナは結末のある命だ。英霊に喪うモノは存在しない。恐れなど生者を擬した自惚れだ。そう、余人は言うだろう。
 だが、カルナは死後の出逢いを座に刻み込んだ。カルナは■■■がいない自分に戻れない。戻りたいとも思わない。誰に求められても、彼女は施せない。カルナは『かつてのマスター』を記憶した。ゆえに思うのだ。「どうしてお前がここにいるのだ」と。彼女は死者ではない。英霊ではない。今を生きる人間だ。
 いつか再び出逢うとしてもそれは、「今」ではない。これは在り得ざる邂逅で再会だ。だが彼女と同じ場所で、同じものを食べ、感情と時間を共有する。現実が幸福であればあるほど、カルナはわからなくなる。
 カルナはこの幸せを手放せるだろうか? 忘却できるだろうか? 記憶だけで満足できるだろうか? わからない。神霊の依り代である女に、カルナは可能性を探してしまう。
「お互い様なら、しょうがないッスね。もう、本当にしょうがない」
 榛の瞳が目蓋に隠される。まろい頬に睫毛が影をかける。
「食べさせて」
 薄く唇が開かれる。カルナは一口分のロールケーキを彼女に食ませた。甘く、甘く、忘れられぬ美味になるようにと思う。上下する喉に、ドクリと仮初の心臓が脈を打つ。
「美味いか」
「うん。怖いぐらいに甘くて美味しいよ」
「オレもだ」
「食べてないのに?」
 途方に暮れたような、覚悟を決めたような大輪が障壁を凌駕する。
 ジナコがここにいる。カルナと生きている。非日常が日常になる。
 彼女はひと度手にすれば戻れない、カルナの不帰の果実だった。


51
現代設定 

 趣味があることは良いことだ。人生に潤いが生まれる。
 カルナは、ジナコがオタクという人種であることを肯定的にとらえていた。もしも彼女がオタクでなければ、外に世界に出ようとは思わなかっただろう。
 カルナは彼女が太陽を見ることすら厭った歳月を知っている。ジナコが世間から見ればわずかであっても仕事をしているのは、彼女に趣味があるからだ。
 趣味を充実させるには金銭が必要だ。ジナコは両親が遺した遺産を趣味に注ぐことを良しとしなかった。彼女はそう言うところは潔癖だった。
 カルナはジナコの趣味を理解できずとも尊く思っていた。嘘偽りなく。今は少し自信がない。
……ジナコ」
「んー、なんスか」
 見事な生返事を返され、カルナはムッと唇を引き結んだ。
 目の前には大型ディスプレイ。その前にジナコ、その後ろにカルナという配置だった。背中にはフカフカのクッション、腕の中にはフカフカのジナコ。カルナのなかで五指に入るシチュエーションだが、彼女の意識がまったくカルナにないのは良くなかった。
「ジナコ」
「くぅ、何度見てもここのアングルいい! まさに神!! 最高じゃないところとかないけど、視線がヤバイ。この二人の世界感がヤバい。薄い本が厚くなる」
「ジナコ」
「ナマモノは取扱注意だけど、これは無理だわ。公式がキャンプファイヤーしてるんだもん」
「ジナコ」
「限定版特典のクオリティもえげつない。最初はどうしようかと思ったけど、やっぱコンプリは間違いない。予約戦争に勝てて良かったぁ! さすがジナコさん、幸運値A!」
 満面と笑うジナコの腕の中には大ぶりなクッション――というには、いささか無理のあるものがあった。
 カルナはそれをジト目で見た。同じ顔をした男が見返してきた気がするが、気のせいだろう。あちらは無機物。カルナは有機物だ。
 ココアブラウンのつむじに頬をつけると、カルナはその髪を乱すように擦りつけた。先ほどからカルナはジナコの気を惹こうとあの手この手を尽くしているのだが、反応は皆無だった。ジナコはオタクだ。好きなモノに集中している時、その意識が外に向けられることはない。
 ディスプレイの電源を落としてしまいたい誘惑に駆られるが、それをした時のジナコは怖い。本当に怖い上に、容赦もなかった。オタクは趣味の侵害に対して徹底抗戦なのだ。
 カルナは幾度か抑えが利かずにジナコの趣味の邪魔をした。ディスプレイの電源を落とす、再生機器の停止ボタンを押す、ヘッドフォンを取り上げる、腹を揉む、耳を塞ぐ、胸を揉む、視界を塞ぐ、エトセトラ。
 カルナは男でジナコは女だ。力に訴えれば一時的な勝利を手にすることはできる。だが戦争がそうであるように、戦いは起こすよりも起きた後の方が難しい。
 彼女はカルナを懲らしめる一等を知っている。まず、ジナコは部屋に引きこもる。柔らかい体を抱き締めることも、「カルナ」と甘く手招く声も、蕩けるように微笑む顔も、文字通り影も形もカルナの日常からなくなる。ジナコを取り上げられることは堪える。仕事に支障が出るほどにはダメになる。
 カルナは凡夫だが、さすがに繰り返し痛い目を見れば学習する。だが理性と感情は別ものだった。
「ジナコ。オレもあれと同じことができる」
 大型ディスプレイのなかには、二人の男が映っていた。
 凄まじい熱量の照明の下、定められた工程で歌を歌い、決められた順序で踊りを踊る。現在のカルナの仕事である。紆余曲折あって、好敵手であり異父弟である男と同じ舞台で競い合っている。
 同じ曲を歌うと、黒縁眼鏡越しの榛色がカルナを見た。この手は有効なのだろうか? パッと雰囲気を華やげたカルナにジナコは、
「邪魔」
 と単語で黙っているようにと通告した。
 同じ曲だ。同じ声だ。格好は違うが、中身は同じだ。照明や音響、臨場感は再現のしようもないが。
 アルジュナを連れてくれば違うのだろうか? だがあの男はカルナの家には来ない。カルナも招いたことはなかった。今後もないだろう。何故なら、家にはジナコがいる。彼は彼女を女と意識するようになってから、縄張り意識が強くなっていた。
(オレはオレが羨ましい。贅沢な悩み、というモノなのだろうが)
 生業を厭われることなく、応援されているのだ。
 ジナコはオタクだ。今はカルナとアルジュナを主体としたアーティストユニットにハマっていた。仕事で得た金銭はすべて趣味に消費している。いわゆるダメなオタク。だが、誰に迷惑をかけるわけでもない。カルナは多大な迷惑をこうむっているけれども。
 カルナはしょんぼりと丸い肩に額を預けた。鑑賞の邪魔をしなければジナコは寛容――もとい、カルナを放っておく。だが、もう六時間だ。ドームツアーを収録したDVDは舞台裏、オフショットと称されるものに移っていた。カルナの寝姿など見ても滑稽なだけだろうに、随分と尺が取られている。
 この時のカルナは眠ってはいなかった。目を閉じていたのは、引きこもるジナコをいかに連れ出すかと考えていたからだ。アルジュナがブランケットを持ったまま、カルナを中点に周回する姿は見ごたえがあると思う。見事な真円だった。ステージ上では体間距離を正確に把握することが求められる。
 ジナコが「トウトイ」と天を仰ぐ。カルナはジナコを抱え込む腕を狭くした。カルナも真円で歩ける。走ることもできる。第一として、オフショットと言うならば。
「ジナコ。このオフショットは動くし触れる。しかも随時更新だ。……オレの方が良いとは思わないか?」
「カルナさんのは、プライベートショットって言うんスよ。門外不出。だから比較はできないッスね」
「そういうものか」
「そういうものッス。と言うわけで!」
 フンスとジナコが再生ボタンを押す。
 鑑賞はまだ続くらしい。カルナは粛々とジナコを抱え直した。
 抑えが利かずに痛い目を見る前に、部屋に戻るべきかとも思う。だが、離れがたいというのも本音だった。逡巡する間に、柔らかい手が手に重なる。
「座椅子係は逃げちゃダメッスよ」
……承知した」
 ココアブラウンの狭間、白い耳がほの紅くなっている。頬も同じ色をしているのだろうか? 瞳は?
 趣味は人生に潤いを与えてくれる。
 カルナの趣味は『ジナコ』である。


52
書き下ろし 

 これは良いのか悪いのか。
 カルナはこの次第を素直に喜ぶことができなかった。湧きたつ心を腹立たしいとさえ感じる。情けなくもあったし、単純すぎやしないかとも思う。これでは相手の思うつぼである。カルナは望またことに応えることに否やはないが、思うところはあるのだった。
「思うことがあるなら言ったらいいじゃない。後から実は、って言われる人の身になってよ」と彼女は言うが、カルナとて明かす相手は見る。カルナは凡夫だ。失望は苦しい。それが当然の評価だとしても。
 彼は自らを聖人とは思わない。打算も欺瞞も相応にある。『施しの英雄』と語られる所以にも気づいている。
求められたならば施す。カルナを必要とする裏にあるのが、善意でも悪意でも選ばない。カルナは人よりも多くを戴いて生まれた。ならば、より優れた生の証明を。それがカルナが自らに課したことだった。カルナは自尊心だけは一人前だ。
 渋い顔をしたカルナを他所に、一騎のサーヴァントが部屋を物色していく。ココアブラウンの髪を背に流した女は、神霊の疑似サーヴァントだった。ガネーシャ神――カルナが不思議と気を惹かれる相手である。
「あっ、また新顔が増えてる! もう増やさないって言ってたのに、ベッドの上がアザラシのコロニーになってるじゃない。カルナさんはどこで寝てるんスか」
「どこと言えば、この部屋では寝ていないな」
「あー……、そういえばそうだった」
 素っ気ない反応は、カルナが含めたものに気づいてと思いたい。
 サーヴァントにとって、眠るという行為は食事と同じく嗜好だった。カルナは一人で眠ることには楽しみを見いだせない。寝台の上がガネーシャ神が評するところの「アザラシのコロニー」であっても問題はなかった。
「お前が眠るならば眠るが、それ以外では理由がない」
「ボクはいつでもお布団と仲良くしたいッスけどね」
「なるほど、浮気か。お前が毎朝、布団と結婚するとのたまうのもそういう訳か」
「そういう訳もどういう訳ッスか! お布団は紀元前からの全人類の恋人。これは未来永劫変わらない真理。カルナさんだってそうでしょ?」
「それはそうだが。……そうなると、オレは間男だったということか」
「間男」
「お前と布団の間に入り込むとは、そういうことだろう」
「なぁに上手いこと言ったみたいな顔してんスか」
 呆れた口調とは裏腹に、唇は弧を描いていた。
 常であれば、ガネーシャ神に一喜一憂するのは幸福だ。それは彼女が傍にいるがゆえに在ることだ。恵まれている。恵まれ過ぎていて怖いぐらいだった。彼女がいる。その事実はカルナを無条件で高揚させる。だが、今日はその限りではない。ガネーシャ神が部屋に来た。その時点でカルナは自戒も警戒もしていた。
「いいッスよ。間男上等。何度カルナさんが間に入って来ても、お布団が選ぶのはボク。いい加減、野暮はやめて下さいッス」
「それは不可能だ。オレは幾度でも間男になるぞ」
「ドヤ顔で言うことか」
 カルナは「お前と布団の仲を裂くためならば致し方ない」と言いかけ、グッと顎を引いた。ガネーシャ神はムズムズと唇を動かしている。噴き出す三秒前という副音声が聞こえてきそうだった。
……オレは、そんなにわかりやすいだろうか?」
「んー、わかりやすいと言えばわかりやすいかも? カルナさん、顔には出ないけど雰囲気には出るし。そんな不貞腐れた顔しなくてもいいじゃない」
「不貞腐れてはいない。不甲斐ないとは思うが」
「人のことは全肯定なのに自己評価がこれだから、カルナさんは困るんスよねぇ」
 細められた眼差しに、ジワリと胸が熱を抱く。
 カルナがガネーシャ神の部屋にいるのは日常だが、彼女からカルナを訪ねるのはひと月に数えるほどだった。そのことに不満はない。彼女の部屋に――領域に存在することを拒まれない。傍にいることを許されている。それだけで充分だった。
 だがカルナ個人の欲を重ねれば、彼女が部屋にいると満たされるモノがあった。マスターの善意で与えられた部屋だが、ここはカルナの領域だ。
 カルナには身の程知らずの欲がある。彼女を独占したい。秘匿したい。誰にも奪われることがないように、腕の中に仕舞い込んでおきたい。仮初でも欲望が満ちれば喜悦を抱く。
 彼女がカルナを訪ねて来てくれた。嬉しい。満たしてはいけない器に欲が注ぎ込まれる。ガネーシャ神はカルナの欲を知っている。
 彼女はカルナを聖人だと言う。からかうように、眩しいものを見るように。知らないのだと思った。だから釘を刺した。ガネーシャ神は「ハンッ!」と鼻で笑った。
『深刻な顔してるから何かと思えば、ボクの心配を返せってパターンじゃない。そういうのって、誰でもあるモノでしょ。……ボクにだってありますし? なんスかそのポカーンとした顔は! これだからカルナさんは、もうっ、そこは普通に安心してくれないと困るんですけど!? って、夢じゃないから頬抓らない! 突然の幼女ムーブは禁止だって言ったでしょうが! これ以上属性増やさないでよ。心臓がいくつあっても足りないって言うか……。はぁ? 霊基異常かも知れんって、いつもの全肯定はどこにお出かけしたんスか! ほんと自分だけって思わないでよね!!』
 頬を掴まれたカルナは、頷くまでまろい手に撫で回された。彼女は仕置きだと言ったが、あんな甘い罰はないだろう。
 ガネーシャ神はカルナを困った男だと評する。それを言うなら、彼女も同じだった。ガネーシャ神がカルナの部屋に来た理由。今も他愛のない会話を施す意味。カルナは不機嫌だったのだ。
 カルナは人目に見える情動が少ない。日のほとんどを凪いだように過ごしているが、その心が年がら年中、同じというわけではない。感情を持てば、落ち込む日も苛立つ日もある。カルナは感情が見え辛いだけであり、その中身は割り合い人並みだった。
 今日も、本当にカルナは不機嫌だったのだ。ガネーシャ神が部屋に来るまでは。
「またそういう難しい顔をする。素直じゃないッスねぇ」
「オレは元からこういう顔だ」
 完全に拗ねた子供の物言いだった。口を引き結んだカルナをガネーシャ神は揶揄しない。こう言うところが彼女はいけない。
 一昨日の出撃でカルナは敵性存在に後れを取った。部隊は辛勝と言う形で帰還したが、久しぶりに霊基修復を受けることになった。
 連勝続きで自惚れていたのではないかと、まずは自己嫌悪に陥った。次には何故あそこで突出したのだと、他のサーヴァントに苛立ちを覚えた。そして、今度は他に責任をつけるのかと再び自己嫌悪。一旦それで納めようと思うも、いやだがと怒りがぶり返し、そんな益体もないことに苛立つ自分に幾度目かの嫌気が差す。
 マスターがカルナの疲労を気にして、出撃を控えさせたのも堪えた。レイシフトも周回もなしとなれば、カルナはカルデアで自己嫌悪や苛立ちを往なす術を模索せねばならない。鬱々苛々と考え、カルナが見つけた解決策は実に簡単なものだった。こういう時は体を動かすに限る。
 だが相手を願ったサーヴァントたちには、アシュヴァッターマンを筆頭に酷く雑な理由(持病の癪)で断られてしまった。アルジュナには応じる気配があったが、マスターから周回要請によりいまだ帰還の目途は立っていない。若干の作為を感じるのはカルナの気のせいだということにしている。
 自らを律することは戦士の基本だ。精神の均衡を保てぬのはカルナの未熟以外の何ものでもない。わかっていてなお、心はささくれ立つ。
 見苦しい自分を隠すように、カルナは部屋に引きこもった。他者に会えば醜態を晒すだろう。不快な思いをさせるのは本意ではない。その程度の弁えと自恃はあった。それに感情の昇華には覚えがあった。
 他者に理解を求めるよりも、カルナは自らの裡で儘ならぬモノに折り合いをつけてきた。もっと俗的に言えば、彼は自分で自分の機嫌を取ることができる男だった。それが最近、難しい。これは一種の退行現象なのだろうか?
「さすがカルナさんセレクション。このモチモチ感、どれも甲乙つけがたい」
 ガネーシャ神が寝台から彼女曰く「新顔のアザラシ」を抱き上げる。
「前々からピコッと気になってたけど、いつもどこから見つけてくるんスか。リボンモチーフもそうだけどさ」
「どこと言えばレイシフト先でだが。……そうしていると見分けがつかなくなりそうだな」
「ド真顔でなに言ってんスか。ボクとアザラシは全然ニアじゃありません!」
 ほら、とガネーシャ神がアザラシのヌイグルミに頬を寄せる。パッと目の前が明るくなった。条件付けされた獣でも、ここまで単純ではないと思う。
 これは良いのか悪いのか。顰め面になったカルナに返ってきたのは、ふてぶてしい笑みだった。
「ガネーシャ神」
「んー、なんスか」
「お前のそれは、『あざとい』というやつではないか?」
「ふひひ、嫌ならやめるけど?」
「嫌ではない」
「ならいいじゃない。今ならアザラシのコロニーに混じってあげてもいいッスよ?」
 ヌイグルミたちの居所は寝台だった。そこに混じるとはそういうことだ。
……オレを手玉に取るのは楽しいか?」
「楽しいッスね。悪くない気分ってやつ? たまにはいいじゃない。コロッとアタシに転がされちゃってよ」
「今更だ」
 カルナは不機嫌だった。過去形だ。
 寝台に腰かけたガネーシャ神が次に誘うこともわかっている。彼女の常套手段だ。
「膝枕、いる?」
「いる」
「おおう、食い気味……って、まだボクは来て良いって言ってないんですけどぉ!?」
「許可は得た」
「これは膝枕じゃありませんーっ! 単純に圧し掛かってるだけ!」
「布団がある。お前がいる。オレは間男だから、何も問題はない」
「間男の前提が崩壊している。『間』がないじゃない!」
「気のせいだ」
 コロリと寝台に転がった女をカルナは両腕で抑え込んだ。胸に頬を押し付けると、ガネーシャ神が「ヒエッ」と息を飲む。カルナは唇を緩めた。
「心音がうるさいな」
「しょうがないでしょ。……もう、負けず嫌いか」
「それも今更だな」
 責任をもって存分に転がしてくれと思う。だが、自分だけというのは悔しい。
 望まれるように振舞うことに否やはないが、カルナにも思うところはあるのだ。


53
書き下ろし 

「カルナさん。ボクは教えないって言ったはずだけど?」
「確かに言われたな。だが、オレにも退けぬ理由がある」
「これ、退くとか退かないとかそういう話じゃないと思う」
「オレにはそういう話なんだ。いい加減、白状したらどうだ」
「お断りッスよ! そっちこそ、いい加減諦めたら?」
「断る」
 にべもない。
 ウンザリ顔になったジナコに、カルナは「諦めが悪いことだ」と言う。
 その主語がカルナとジナコ。どちらにあるのかは不明だが、カルナに退く気配はない。むしろ、断れば断るほど闘争心に火がついているような……
「ボクじゃなくて他の人に聞いたら? その方がきっと早いし楽ッスよ」
 それはシークレットデータではなかった。オープンソース、とまではいかないが、暗黙の了解ぐらいにはなっている。
「オレはお前から聞きたい」
「それは無理! 断固拒否ッス!!」
 ジナコは胸の前でバツを作った。
「いいだろう。意志をもって口を閉ざすならばそれも良し。音を上げさせるまでのこと」
「何がそれも良しッスか。音を上げさせるって」
 脳内に、キュウッと吊し上げられるアザラシの映像が浮かんだ。
「オレはお前に無体を働くつもりはない。……聞けば、締め上げたいとは思うかも知れないが」
「締め上げたい時点で無体ッスよ!」
 一歩退いたジナコに、カルナは当然のごとく一歩詰めてきた。逃す気が皆無。言葉以上の雄弁さがすごい。
「真名だけでかまわない。オレは、それがどういうモノかまでは問わない。いつからとも、何故とも聞かない」
「そんな不承不承極まりない顔してるのに?」
「押して駄目なら引いてみろと言われた。真名がわかればこちらのものだろうとも」
「それ、ボクにバラしちゃダメなやつ」
 指摘したジナコに、カルナは「そういうものか」と首を傾げた。そういうモノである。
 ジナコは、ある一つの事柄についてカルナに自白を求められていた。字面にするとアレだが、彼女が悪事を働いたわけではない。
 カルナはガネーシャ神――ジナコの『英雄』を知りたい。
 ジナコにはヒーローがいる。思うだけで心を支えられるような、そういう相手だ。
(カルナさんにだけは無理。教えられない)
 その理由は明白。本人に「私のヒーローはあなたです」と告白する。どんな罰ゲームだ。オタクには二種類いる。推しに認識されたいオタクと、されたくないオタクである。ジナコは後者のタイプだった。
 もっとも、彼女がカルナを英雄と胸に温めている。誰よりも信頼していることは、マスターや交流のあるサーヴァントたちにはバレている。ジナコの隠蔽力などそんなもの。
 カルナがジナコのヒーローは自分なのだと気づかないのは、灯台下暗しというものか。はたまた、自分のような凡夫がという安心安定の自己評価の低さか。おそらく後者なのだろうけれど、どちらにせよ現状は行き詰っている。
 ジナコはカルナに『彼女のヒーロー』を教えることはできない。好きなものを好きだと公言するのは気力も体力も必要なのだ。特殊バフでもない限り、ジナコには不可能だった。
 たとえば、インド異聞帯で霊基を変化させたカルナに「スーパー悪くなーい!」と称賛した時のような、あのレベルの高揚が要求される。超高難易度ミッション間違いなし。陰キャのコミュ力なめるなである。
 カルナは自分が『ジナコのヒーロー』だとは夢にも思わない。何故なら彼にとってカルナはジナコと同じ、特別ではない存在だからだ。ゆえに、彼は彼女の英雄には足り得ないと考える。思うところはあるけれど、それがジナコのヒーローだった。気づかないのは想定内。だけれど、困惑はある。カルナの熱意だ。
(どうしてそんなに気になるんスかね。ボクのヒーローが誰でも良くない?)
 マスターやアルジュナならわかる。でも、相手はジナコだ。話のネタにはなるだろうが、あえて知る必要があるとは思えない。だが、カルナはどうにか聞き出そうとあの手この手――というには、直截に言葉を(キレッキレに)重ねていた。ジナコとしては「何故に?」以外の感想がない。
 カルナはマスターや他のサーヴァントの会話の中で、ジナコにヒーローがいると気がついた。教えて欲しい。知りたい。唐突にゼロ距離で問い詰められたジナコさんの心情を答えよ。
 その時、彼女は自室でダラダラとゲームに勤しんでいた。壁ドンは二次元にありて良きもの。逃げ場を物理で封殺されたジナコは「ヒエェ……!」と竦み上がった。
『■■■、お前の心を掠奪した者の名を教えろ』
 認識阻害は安らかにオヤスヤ。ジナコは石像を召喚。カルナは槍を現出。あとは様式美。石像から取り出され、ジナコはジタバタと藻掻いた。
『無様だな』
 後から思い返せば、その「無様」はカルナを評したものだったのだろう。ジナコの英雄を知りたい。知らない自分が無様だと。だが、進退窮まったジナコに気づく余裕はなかった。彼女は自己防衛としてカルナを煽った。
『ボクは、カルナさんにだけは、絶っ対に教えない!!』
『そうだな。オレに教えられぬと言うのは道理だ。オレは「お前の英雄」に思うところがある。だが、オレとて多少の弁えはある。いきなり噛みつきはしない。……おそらく、だが』
『おそらくって何!?』
『お前は、オレは嘘を吐かないと言う。だからだ』
 ムスリと口を引き結んだ顔には、不満と大書きされていた。唖然としたジナコに、カルナはどうも他の反応を予想していたらしい。
(自分だけ仲間外れなのがイヤとか?)
 みんな知っているのに、カルナだけがわからない。それは面白くないと思うだろう。だからと言って、教えられるかと言えばそれはまた別の話。
 なお、今日は策が尽きたのかそれとも単に閃いたのか、現界しているサーヴァントの真名を片端から読み上げていった。ジナコは黙秘権を行使。下手に反応を示そうものなら、カルナの『貧者の見識』で見破られること請け合いである。
「いずれかには反応すると思ったが、お前の厚顔を甘く見ていた」
「そういう訳じゃないッスよ」
 単に該当する英霊がいなかっただけの話である。あと厚顔は褒め言葉ではない。面の皮が厚いも同じく。
 互いの間を穏やかな風が流れていく。空は晴れ、日差しは暖かい。絶好の午睡日和だが、今は素材集めの只中だった。すでに数度の戦闘を終え、ジナコは後衛に下がる予定だ。彼女の代わりに前衛となるのがカルナである。
 サーヴァントの入れ替えに必要な時間は、マスターの休憩も兼ねている。時刻はちょうど昼時。木陰ではマスターとマシュがランチタイムだ。
 疑似サーヴァントであるジナコも食事は必要だが、マスターたちに比べれば優先度は格段に下がる。ジナコの食事にリソースを割くならば、魔術礼装やオルテナウスに使った方が良いに決まっている。カルデアに帰還したら同じメニューを食べるけれど。
(今日のカルデアランチはサンドイッチかぁ。カツサンドいいなー)
 人の食べているご飯は、どうしてあんなにも美味しそうに見えるのだろう。特に今は野菜以外は食べられないとわかっているからなおさらだ。
「料理は得手ではないが、狩りはオレにもできる。焼くことにも覚えがある。今はこれしかないが、小腹……を満たすことはできるだろう」
「ねぇ、なんで小腹の部分で微妙に間を開けた上にボクのお腹を見たの?」
「小腹であれ満たすは過言だったな。その容積を満たすにはいささかも足りない」
「足りますぅ!」
 ジナコはカルナに手を突き出した。
 カルナは童話に出てきそうな木の籠を腕に下げていた。中身は木苺他、各種ベリーだ。カルデアから食料は持ち込んでいるが、何があるかわからないのがレイシフト。食料と水の確保は基本だった。
 今回のメインはマスターたちのデザートだが、ジナコも少しなら食べても大丈夫と言うことだろう。だが、カルナに籠を渡す気配がない。
「ボクの小腹、満たしてくれるんじゃないんスか」
「満たしたいとは思う。だが、約言が欲しい」
「全部食べないって? そんなの当たり前じゃない」
 平凡以下のジナコでも優先するコトを間違えはしない。ちょっと口寂しいのが慰められればいいのだ。彼女はカルデアでは一日三食とおやつを欠かさない。
「すべて食べてかまわない」
……へ?」
 ポカンとしたジナコに、カルナは苦々しい顔をした。
「マスターたちの分はすでに必要以上に確保している。約言も不要だ。お前が充分と思うまで貪るといい。お前がわずかでも満たされるならば、それは無為ではない」
「貪る言わない! これだけあれば十分だから。カルナさんって、ほーんとそういうとこッスよねぇ」
 手渡された籠をジナコは胸元に引き寄せた。瑞々しいベリーは宝石のようだ。特に赤く熟したものが良い。口にすれば、甘酸っぱい幸せがあるのだろう。
 疑似であってもジナコはサーヴァントだ。食事も睡眠も生命維持ラインの最低限以下にまで省略することができる。そうでなければ、人と同じでは意味がない。わかっていても、ふとした時に立ち竦む。
 英雄の隣で戦える。『私』は本当に〈ジナコ=カリギリ〉なのだろうか? と。人は変わる。だとしても、彼女の変化は劇的だった。
 カルナはジナコの不安を見つけた。心臓に熱が注がれた気がした。カルナがいるから、ジナコはどうしようもない事実を現実として認められる。
「本当に食べちゃって良いの?」
 意地悪を承知で問うと、カルナは視線を揺らした。
 すべて食べて良いというのは本当だろう。ベリーは充実している。今回の編成にはアルジュナが編成されている。カルナがベリーを摘むならば――後の説明は不要だろう。ダ・ヴィンチちゃんは、加工して持ち帰ることができないかと創意工夫をフルスロットルしている。
「食べ尽くすことは問題ない」
「食べ尽くす以外だと?」
「問題は、ある。オレは過ぎていると知りながら果実を集めた。お前を懐柔するためだ」
「懐柔」
「絆すためとも言い換えられる」
「隠しとけばいいのに、バラしちゃうのがカルナさんッスよねぇ。食べ物で釣るのは古典的だけど、間違いない」
「見下げたことだ」
 食べるという行為の重さが、カルナとジナコでは異なる。そのことに気づかなかった。彼女から約言を得ようとした。度し難い。浅ましい。自己嫌悪に歪む面に、ジナコは笑った。
「別にいいッスよ、懐柔されてあげても。ベリーの分ぐらいは、言うこと聞いてあげないこともない」
「奸計を弄そうとしたオレが言うのも滑稽だが、オレは半神半人なんだぞ。神への言葉は誓約となると知れ」
「でもカルナさんじゃん」
 そして奸計とはまた大げさだ。
 カルナはベリーの対価にジナコから言質をとろうとした。内容はおそらく、ジナコに英雄について。ちょっとした悪巧み、とも言えないだろう。
「カルナさんが聞きたくないって言うならいいけど。あ、真名を教えろっていうのはナシだから」
「承知した。お前が口を滑らせるよう留意しよう」
「オブラート! 誘導尋問は宣言したら意味ないッスよ?」
「その心配は無用だ。お前の迂闊さはただならぬものがある」
「ボクなら予告されてても引っかかるって? そんなわけあるかー!!」
 噴気を上げたジナコに、カルナは「この自覚のなさ、大したものだ」と真顔で頷いた。
 実を言うと、会話の流れでさりげなく言えそうだったら、ジナコの英雄はカルナなのだと伝えても良いかと思っていた。ついさっきまでは。誰が教えるものか。ジナコは引っかからない。
「どーぞ何でも聞いて下さいッス。答えるかはボク次第ッスけどね!」
「お前の英雄は、カルデアに現界している者だと聞いた」
「おふぅ」
 誰だ、カルナにリークしたのは。心当たりが多すぎる。
『焦らすのは姫的には超ありだけどさぁ。ガッちゃん、そろそろネタバレいっとかない? 最近、施しさんの視線がヤバイ。このままだと、理不尽なもらい火の予感がする。姫も神性持ってるけど、どうしてその属性だけ教えちゃったの?』
 とは刑部姫。
『あの男の愚考に貴女が付き合う必要はありませんよ。ここは智慧の神でもある貴女が教授すれば良いだけの話。それはできないとは可笑しなことを。私にすら明白なことをあえて伏す必要などないでしょう? インドという情報だけを開示したことについては怒っていません。えぇ、怒っていませんとも』
 とは授かりの英雄。
「カルナさん、本当はわかってるんじゃないの?」
「自信がない」
 訥々と話す姿に、ジナコは庇護欲よりもイラッとした。この自己評価の低さ、一周回って高度な煽りである。
「お前が果実の対価に能うと思う分だけでいい。情報が欲しい。どんな英霊なんだ」
 どんなも何も、目の前にいるのだが。本人を前に何を言わせようというのか。
 頬を引き攣らせたジナコに、カルナはソワソワとした。ほのかな期待が透けて見えるようで、ジナコは「ウググッ」と呻いた。勘づいているのに、言葉を求めるのはどうかと思うが、もしかして相手がジナコでも嬉しかったりするのだろうか?
(カルナさんだから、からかったりはしないだろうけど。問題はボクのメンタルが耐えきれるかッス)
 気合と根性でいけるだろうか?
 ジナコはチラリと上目遣いでカルナを窺う。カルナは完全に待ちの体勢に入っていた。
 真名は無理だ。ジナコの羞恥メーターが完全に振り切れる。カルナが自覚する方向にしたい。そうすれば、恥ずかしさはイーブンになる気がする。たぶん。
「すごい人ッスよ。あっちはボクのことなんて覚えてないけど、いるといないとでは大違い」
……そうか。覚えていないのか」
「覚えてないッスね。サーヴァントってそういうモノだし。でも、たまーにボクに気づいてくれるんスよ。もう『本当にそう言うところ!』って感じ? こっちはしょうがないって納得してるはずなのに、やっぱり寂しいなって思っちゃう。……あの、カルナさん? 顔、怖い」
 カルナは険しい顔で口元に手を当てていた。眼光が鋭い。眉間の皺が控えめに言ってヤバい。泣く子もさらにギャン泣きしそうだ。
「カルデアに現界していて、神性がある。インドに関係する英霊。かつお前を忘れている……
 ピコンッとカルナの頭上に古典的電球が灯ったように見えた。
「バーサーカーのアルジュナか」
「ちっがーう! ジュナオ君はボクのこと覚えてないけど」
 だが、アルジュナ・オルタの場合は忘れる以前。彼はガネーシャ神を認識していなかった。記憶していないものは忘却できない。
「だが、他に該当する者がいない」
……いるもん」
 どうして自分を外すのだ。
 ジナコのヒーローはカルデアに現界しているし、神性はAランクだ。インドに出典があって、時々彼女が『誰』なのか見つけるけれど、瞬きの間に忘れる。
「絶対に、いるんだから」
 ジナコは籠からベリーを一粒抓むと、口に放り込んだ。水で洗った果実はひやりと冷えていた。張りのある皮を歯で破れば、甘酸っぱい果汁が味覚を刺激する。
「ん。美味しい」
 二粒三粒と次々と食べる。諦めきれない現実を閉じ込めるように。寂しさを口寂しさで上書きする。
 ザワザワと頭上で梢が鳴る。木漏れ日がカルナの上で揺らいでいる。明るい水中にいるようだ。はるかの月。深海の終わりを思い出す。
 どこにも行けない。深く深く、沈んでいく。閉塞した中で終わるのだと思っていた。自業自得だった。ジナコは自分で泳ぐことをやめたのだ。
 海面には届かない。息継ぎのしかたはわからない。泳ぎ方は忘れてしまった。
 ならばと、英雄はジナコを海面に押し上げた。海獣が溺れる仲間を下から全身で支えるように。引き上げるのではなく、自分のできる全てで彼女を息継ぎができる場所まで支えていく。深海から太陽の届く明るい海まで。たとえ、その対価に自分は海底に沈むのだとしても。
(アタシがマスターで、自分がサーヴァントだからって、限度ってモノがあるでしょ)
 ザッパーンッと深海から急浮上したジナコは、今は神様サーヴァントをしている。死滅回遊したらどうしてくれるという環境だが、ジナコは何だかんだ言いつつ、大丈夫だろうという気がしている。
 今のジナコは英雄の隣に立てる。感傷的に言えば、泳ぐことができるのだ。速度はEだけれど。支えることもできる。ジナコは海底には沈まないけれど。彼女は、ヒーローを知っている。――それが怖くても、嬉しい。
「ガネーシャ神」
「なんスか。真名は教えないッスよ」
 ベリーを指に、ジナコは不機嫌に聞こえるように声を低めた。カルナは逡巡するように視線を俯ける。
「オレは、カルデアに現界している」
「そうッスね。そうじゃなきゃ、お話できないし」
「神性もある」
「さっき自分で言ってたじゃん。半神半人だって」
「出典はインド。マハーバーラタだ」
「知ってる」
「だが、オレはお前を覚えている。もしやと思ったが、自惚れるものではないな」
 カルナはジナコの腕から籠を取り上げると「食べ過ぎだ」と窘める。
「食事は楽しむものだ。飲み下すのは美味いと思うものだけにしておけ。腹にため込むのも同じく」
「しょうがないじゃない。ボクにも色々あるのです」
 本当に、色々とあるのだ。
「言いたいことを色々とまとめるのは、どうかと思う」
「全部言ってたらキリがないんスよ」
 この唐変木とか、根暗もいい加減にしておけとか、寂しいとか、気づいてとか、忘れないでとか、もう少し一緒にいて欲しいだとか。ジナコは平凡だから、すぐに欲が出る。
 カルナがいれば大丈夫だと思う心の裏側で、ジナコはもっともっとと彼を欲しがっている。
「お前を忘れるような粗忽者だ。何を言われても文句は言えまい。締め上げるならば手を貸そう。神性持ちにオレは有効だぞ」
 意気込む姿に、ジナコはその通りだと思った。ジナコのヒーローに、カルナほど有効なサーヴァントはいない。
「じゃあ、これから悪巧み……じゃなかった、作戦会議ッスね」
 手招くと、カルナは素直に腰を折って来た。強張った面に、ジナコは何だかなぁと思う。
 カルナは律儀に腕に籠を抱えている。ベリーはまだまだ沢山ある。ジナコを懐柔しようとして、でも、彼女の不安に気づいて落ち込んでしまう。
「カルナさんだから言うんだからね」
「あぁ、お前の信に応えよう。大丈夫だ。締め上げるだけだ。たぶん、できる」
「たぶんじゃ困るんだけど」
――絶対と約する」
「カルナさんは嘘つかないから、安心ッスね」
 カルナはぎこちなく頷いた。言質は得た。ならば、責任をもって締め上げてもらおう。ジナコの首も締まるけれど、彼女が自分で自分の首を絞めるのはいつもことだ。
 今だって、ジナコはカルナに近づかなければいけない。踵を浮かせて、金の耳輪の傍まで唇を近づける。陽光を弾く黄金は、本当に太陽みたいだった。
 風が吹く。梢が囁く。白い肌の上で、木漏れ日が水面のように揺らいでいる。
 俯いて、深海だけを見ていた。ジナコはカルナが怖かった。空はこんなにも美しいのだと思い出してしまいそうで――太陽の届く場所にいたい。行きたい。自分の本当に気づいてしまいそうで。
「ジナコ?」
 ゆっくりと白い睫毛が瞬く。紅く戦化粧の刷かれた目が瞠られる。明るい青にジナコが映っている。
 あぁ、もうどうしようもない。
 ジナコの心を支えて、かき乱して、占有していく。彼女のヒーローは、傍若無人だ。
「大好き」
 ポカンとしたヒーローに、ジナコはフフンと笑った。
「アタシのヒーロー、締め上げるの、手伝ってくれるんスよね?」
 さしあたっては、その頬を抓らせろというものである。
 キラキラと青が輝いている。空の青。海の青。ジナコの大好きなヒーローの青。
「やめた方が良い。顔が発火したように熱い。お前の指は柔い。何かあったらどうする」
「大丈夫」
 安心するといい。ジナコも同じ温度をしている。


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