@G2AC0
アンがあまりお酒に強くないと言うことを語るのに調度いい話がある、とリンは笑った。
「この間ボスから貰ったシャンパンを家で飲んでいた時の事だ──」
アンとマイの結婚祝いとリンとリアの婚約祝いにアーチーは二本、上等なシャンパンをプレゼントしてくれていた。折角だから一本開けようと四人はダイニングテーブルを囲い、ワイングラスに一杯ずつ注いで乾杯する。
暫く談笑していたが、不意に隣で飲んでいたリアがリンの肩に寄り掛かってきた。
ついさっきまで楽しげに「これ美味しいね!」と、耳障りな程の陽気さを発揮していた彼女は、持たれられているリンが少しでも体を動かせばダイニングチェアから落ちそうな体勢になっている。
「リア?」
「うん……」
かろうじて返事は帰ってきたがその双眼は閉じられており、触れた肌は火照っていた。
「リアはあんまり酒飲まないから、アルコールに慣れてないんだよ。酔って眠くなったかな」
向かいでチーズを齧りながら頬を赤らめたアンが半笑いで肩を竦める。
「そう言うお前も大分酔ってるな」
「そうかぁ?」
心外だ、と言う顔をするアン。
そんな彼をその横で食い入るように見つめているのはマイだ。
「アンは顔にすぐ出るんやね」
「マジ?俺赤い?可愛い?」
「可愛いばい」
「今はやめろって」
可愛いと口にしながらおもむろに両腕を広げたマイに、アンは誘われるままその膝の上に席を乗り換えた。
リンは必死に込み上げてくる笑いを抑えたい。肩が震えるとリアが床に落ちてしまうからだ。
「酔っとるね」
「何でわかんの?」
「何でやろうね?」
完全に体を預け切ってマイの上に座るアンは、夫の頭を抱き締める様にして擦り寄る。
動画にでも撮っておいてやろうかとリンは慎重に空いている片手でジーンズのポケットに手を伸ばした。
「アンはマイのどこが好きなんだ?」
カメラで撮影してはマイにバレて怒られると判断し、リンはボイスメモを起動していた。
「何ね唐突に」
「こういう時しか聞く機会ないだろ?」
「別にリンは聞かんでもよか」
「ここ」
「兄弟とし、ん?何?」
「ここが」
好きかな、とマイの頭を再度抱き締めるアン。
一瞬何の事だと呆ける双子だったが、リンが先にひらめいたのか頷いた。
「腕の中が好き、な」
質問の意図はそういう事ではないのだが、酔っぱらいシムの答えとしては大正解だろう。
「世界一安全な場所だと思うんだよね……」
「へぇ」
「隕石が落ちてきても助かりそう」
アンの珍回答にリンは思わず吹き出してしまい、とうとうリアの頭が床にダイブしかけた。反射的に受け止めた為大事は無かったが、リアを机の上に伏せさせながらマイを覗き見るとこちらをじとりと見つめるエメラルドと目が合ってしまった。
「アン……、俺の前以外で酒飲んだらいかんばい」
その後アンを抱えたまま席を立って寝室に向かっていくマイの背中から、リンは後片付けを任された事を察するのだった。
「って話を聞いたらぶち壊したくなるだろ?」
イヴィーはワインラックを眺めながらその後方で壁にもたれ掛かるアーチーに問う。
今日はトレンディタワーのペントハウス、通称ギャングワイフのたまり場にて無礼講が催されていた。
「……この家はギャングワイフの持ち家だ。弁償できるならいいぞ」
「焼かれる事前提かよ」
「治療費は出さんが墓の供えくらいは付けてやる」
「冗談だって。ちょっとからかうだけだ」
めぼしいワインを選んだイヴィーはそれを手に取ると口角に笑みを描きながら、気だるげに片手を振って宴会中の部屋へと戻っていく。
アーチーは赤色の背を見送り切った後、ゆっくりと壁から体を離して口を開いた。
「エリオット」
「──……はいボス」
アーチーの傍に黒い霧が立ち込めたかと思えば、姿を現したのはギャングワイフの隠しダネとも呼べるヴァンパイアだった。
「犬をよく見てろ」
「承知しました」
エリオットは胸元に手を当てて頭を下げると、出現した時同様に霧だけ残して姿を消したのだった。
「アンー!トイレに俺のウイスキー置いてきちまったから取ってきてー!」
「何でそんなとこに忘れんだよ!てかここ部屋が多すぎてどこだかわかんねーよ!」
すぐ外のバーカウンターに座る同僚が声を張り上げて掛けてきた無茶ぶりに、アンは火照った顔で文句を垂れながらも気分が良いのか同じく声を張り上げて返事をする。
この馬鹿馬鹿しいやり取りを、アンから少し離れたシングルソファから見ていたのはイヴィーだ。
「そのウイスキーかは分からないが、確かに二階のトイレに角瓶はあったな」
「イヴィー知ってんの?なら一緒に行こうぜ」
場所だけ聞けば済む事を、わざわざ案内を頼んで来たアンにイヴィーは笑んで立ち上がる。
「立てるか?だいぶ飲んでたろ?」
「平気だよ。ちょっとフワフワするだけだって」
手を差し伸べようとするとアンはそれを制するように首を振り、直ぐに立ち上がって階段の方へと向かいだした。
途中で各々盛り上がっている同僚達と軽く絡みながら、やや不安定な足取りで階段を上っていく。
「……で?どこのトイレ?」
「顔に出るのは早いが、割と持ち堪えるんだな」
「なに?」
「でもコレでだいぶ酔いが回るだろ」
アンが階段を上りきってイヴィーへ振り向くと、鼻先が触れ合う程に間合いを詰めていた彼の瞳が眼前に迫っていた。
「っ、」
「危ねーな」
咄嗟に右フックが出るアンだったが、難なくイヴィーに受け止められてしまう。
階段を上った直後でアルコールを含む血液の循環に脳が揺れてしまい、反射的に繰り出した拳の速度が落ちていたのだ。
「近いって……」
「マイと初めてキスした時と似てるだろ?」
「……あ?」
アンは微かに揺れる視界の先でイヴィーが意地悪く笑んでいる事に気づく。
「冗談でもやめろよ……笑えねぇよ」
「この間のは良い結婚式だったよな。フラワーフレンドを頼まれてなきゃあんな式になんか行かなかったけど。お前も俺がどういう性格か分かってて頼んだんだろ?期待通り面白い絵面になった」
「……急に何だよ」
「なぁ、元カレの時も拠り所になったから愛して尽くした。今もそうだろ?」
「……やめろよ」
「甘えられれば誰でも良いんだ。なら、俺でも試してみてもいいよな?」
「やめろって!!」
アンを壁際に追いやるように躙り寄り始めたイヴィーは、確かにあの日を再現しようとしているようだった。
アンもそれを悟って壁を避けようとするも、脚取りを速める度に脳が感覚を鈍くしていく。
手を振り上げても今は大して脅威になり得ないだろう。
階下で笑い合っている誰かに助けを求めるなんてできるはずもなく、できてもその声が誰かに届く可能性すら低い。
「マイと付き合うのを渋った時、お前は俺と同じように他のシムを弄んで楽しむつもりだったんだろ?悪人で似たもの同士なんだ、仲良くしようぜ」
「ンな過去の事知らねぇよ!やめろって!俺はマイを裏切りたくない……!」
「その感覚自体妙な献身だろ。普段から勝手に嫉妬してるのは向こうだしな」
「アンタに関係ない!」
「元カレに出会う前はどうしてた?転々と移り住んだ先で何してた?」
「やめろ!!」
ふらついた瞬間にイヴィーに肩を掴まれ、またアンは反射的に近付いてきた顔面に頭突きをお見舞した。
さすがに至近距離過ぎて避けきれず、イヴィーは少し呻いて咄嗟に額を抑える。
そして気付いた。
眼鏡がない。
「俺はマイのものだ。マイだけの俺なんだ!!お前なんかに!お前なんかに……!!」
視界が歪む。意識が遠のく気配がする。体中の血液が沸いて熱いはずなのに、アンは背中が急激に冷えきって行くのを脳のどこかで冷静に感じていた。
このままでは気を失う。
そうなる前に────
「いけません!アン!!」
エリオットはアンの渾身の一撃を掴んで制止した。
振り絞った力でイヴィーの眼鏡を折り、その切っ先で自分の首を刺そうとしたのだ。
「……コイツは馬鹿なのか?」
「……」
イヴィーがどれだけ不遜でも、エリオットはアンから目を離せない。アンの指先の血流が止まる程に白んだ拳から、凶器の先端が突き出たままだったからだ。アンがアン自身に向けた殺意を、エリオットはその首筋に当たらないよう抑えるのに必死だった。
ヴァンパイアの自分が力を込め過ぎてはアンの指が折れてしまう。しかし止めなければもっと恐ろしい損失が待っている。力加減に集中するしかない。
「イヴィー?エリオットも何して……」
二人ともアンに意識を囚われすぎた為に階段を上がって来ていたリンに気づかなかった。
しかしその瞬間、リンの声を耳にしたおかげなのか、酔いが限界を迎えたのかは定かでないが、アンの手は力なく項垂れて眼鏡の残骸を手放し、彼はエリオットに支えられたまま意識を落としていった。
「お前らアンに何しよーたい!?」
「リン」
またその階下から、階段を伝ってアーチーの低い声が響いた。
「アンは潰れちまったようだな。リンも酔いが覚めただろうし、そろそろ帰ったらどうだ?」
「……ボス…」
エリオットは無言でアンを抱きかかえると、リンに目配せしてから階段を降りていく。
「そんな顔をするな、エリオットがお前らを家まで送りながら話してくれるさ」
リンの表情はアーチーからでは見上げる形となる為に照明の影になってしまい逆光でわからない。しかし怒りと戸惑いに震える彼の肩が、優秀に代弁していたのだ。
「……失礼します」
アーチーの横を通り過ぎる際、リンは何処か恨めしげに挨拶を零していった。
「……お前の眼鏡の破片でアンの手が血塗れになってたぞ」
「自業自得だろ?俺のせいじゃない」
イヴィーはロータリーの椅子に腰掛けながら、目に見えて憔悴していた。
「だから止めておけと言ったんだ」
「いや言ってなくね?」
「忠告しただろうが」
「……。まさかあんな馬鹿だとは思わねーだろ。あんな……」
イヴィーは言葉に詰まる。
あのひたむきで揺るぎない献身を、愛だと認めたくないのだ。
「裏切るくらいなら自分が死ぬ。……組織の部下としては良い模範回答なんだがな」
「……クソ喰らえだ。ただのエゴだよ」
もう二度と弄らねぇ、とイヴィーは項垂れて大きな溜め息を吐くのだった。
「夜分にすみませんマイさん。厚かましいとは思うのですがご協力願えませんか」
マイはアンがギャングワイフのパーティから帰ってくるのをずっと待っていた。だから家の前で車が止まる気配がした瞬間、玄関の扉を開いていた。しかし黒いベントレーが視界に入るよりも先に、扉の前に立っていた顔色の悪いヴァンパイアに迫られる。
「何ね……」
「アンが、その、僕らではどうしようもできず」
「アンが何ね!」
マイは半ば叫びに近い声を上げながらエリオットを押しのけてベントレーに駆け寄ると、乱暴に後部座席のドアを開いた。
そこには手前のシートに座るリンを避けるようにして反対のドアに対し異常に体を縮めて蹲るアンの姿があった。頭を抱えて何かを呟いている。パニックを起こしているようだ。その両手に大きな絆創膏が貼られているのが遠目でも見て取れた。
「リン!何があったと!」
「何て説明したらよかか」
普段は滅多に出ることのないリンの方言は、この状況に対する戸惑いの強さを物語っていた。
頼りにならないと判断し、マイはアンがもたれ掛かるドアへと回り込んだ。
「アン!俺がわかるか?」
急に開いてアンが落ちないように、今度はゆっくりとドアを開くマイ。思惑通りアンは背中が解放された事に戸惑ってシートの背もたれに体を預け直したようだ。そしてマイの声に顔を上げ、焦点の定まらない瞳で大好きなエメラルドを探す。
「マイ……」
見つけた、と一瞬安堵したように見えたが、次にはまた頭を抱えて「ごめん」と繰り返し始める。
「マイごめん、俺、ごめん俺、ごめんなさい」
「──!!」
声にならない怒りがマイの全身を駆け巡る。何故アンがパニックに陥っているのか、何でも良いから説明しろとリンを睨むようだ。
マイの剣幕に気圧されたエリオットは、彼に近付き吃りながら必死に声を振り絞る。
「簡潔に申し上げますと、イヴィーさんがアンを、その、からかいまして」
「はぁ!?」
「未遂ではあったのですが、どうもその辺の記憶が酒によってアンから抜けているのか、気を失っている間に不倫したと思い込んでいるようで」
「何でそげん事が起こる!?」
イヴィー!!と腹の底から唸るようにマイは吐き散らした。しかし彼は叫んだ後、煮え滾る激情をどうにか押さえつけようと目の前で謝り続けるアンを見る。
「アンはずっと抵抗していました。一度だって、イヴィーさんに気を許していません。そればかりか酔いで動かなくなる体を危惧して、自殺まで」
「エリオット!」
リンが怒鳴った。
ややこしくなるからその話はマイにはしないと言う旨を送迎中に話していたと言うのに。
エリオットが「しまった」と気付く前に、マイの拳がヴァンパイアの胸ぐらを掴む。
「お前、それを、ずっと見とったと?」
「……ッ、……そうです……」
言い訳はしない。しかし、ボスの言いつけである事も口にはしない。
マイはエリオットの白く光る瞳を睨みながら、奥歯を噛み締めて怒りを何とか逃がそうとする。
分かっているのだ。このヴァンパイアを殴る事は恐らくただの八つ当たりになると言うことを。
「……二人共家に入っとれ」
マイはどつくようにエリオットを離すと、一層低い声でそう言うのが精一杯だった。
リンは頷いて素直に車を降り、震えるエリオットの肩を抱きながら家の中へと誘導していった。
「………アン」
マイは必死に小さくなろうとする伴侶の手をそっと取る。手が触れ合った瞬間に大きく体を跳ねさせたアンだったが、おかげで再び目を合わせる事ができた。
「……マイ?」
「そうばい」
「……マイ、俺……」
「アン、怖い夢見たんやね。行く前に酒飲みすぎたらいけんって言うたのに」
「……夢……?」
マイは外からアンの体の向きを自分に向けさせて、自然とドアのヘリに足が降りるようにしてやった。これでしっかり見つめ合える。
「アンは俺を裏切ってなか。俺が言うとる事、わかるか?」
「……俺は、マイを裏切ってない?」
「イヴィーが悪戯したせいで、変な夢を見ただけばい」
「…………マイは、俺の事……」
「ん?」
「……俺の事嫌わない?」
アンのパニックの原因はこれに尽きるのだと、マイは理解する。
「愛しとうよ」
優しく頬を撫でて──少し体勢に無理が出ても構わない──震えるアンの唇を包むようにキスをした。
緊張しきっていたアンの中は乾ききっていて、マイはその痛ましさに思わず眉を顰める。反対に今度こそ本当に安堵したアンはマイのキスに夢中になり、表情に明るさが戻り始めていた。
マイはアンの体の緊張が解けた事に気が付くと、キスをしながらアンを車の外に連れ出してしっかりと抱き締め、再度深く熱を伝え続けてやった。
「…………マイ、好きだよ」
「知っとうよ」
「……愛してる、大好き」
「俺も愛しとうよ」
世界一安全で、何よりも安心する腕の中。
マイから顔中にキスを送られてすっかりいつもの甘えたに戻ったアンは、心地良い酔いだけ残してはにかんでいた。
「……それで?」
暖炉の火が揺れる中、マイはソファで眠るアンに膝枕をしながら、出窓側のソファに大人しく座るヴァンパイアに問い掛けた。
リンにはこの状況の発端を作った罪はあれど、今回の事は想定外とみて無罪放免を許された為、今はリアの隣で眠りこけている。
「アンの手が何で怪我しとると?」
「……それは、イヴィーさんの眼鏡を折った時に割れたレンズの破片や、フレームで切ったものと思われます……」
「自殺って何ね」
「……それは、イヴィーさんに襲われる事を恐れたアンが、貴方を裏切るくらいなら、と折れたフレームで首を刺そうとしまして……」
「自分の?」
「自分の……。恐らく、イヴィーさんを狙っても今の自分では当たらないと判断したのだと……」
「それをお前が止めたんやね」
「……そうです」
マイはアンの髪を撫でながら浅く溜め息を吐いた。
「……朝起きても記憶が残っとると思うか?」
「……どうでしょう。しかし、人間は悪い記憶を無意識にしまい込む、或いは忘れてしまう傾向にありますから、可能性は……」
「それはそれでイヴィーの影響っぽうて嫌ばい」
「……ですよね」
アンの愛がどこまでも深く誠実である事を知る反面、だからと言って死んで良いわけがないのでその判断を咎めたいマイ。
しかしその話をする際にイヴィーの事が思い出される事は必須であり、それがあまりにも気に入らない。
エリオットに関しても「ずっと監視していた」だけでも妬ましいのに、イヴィーの行為を止めなかった反面、アンの命は助けるという二律背反にマイは唸る。その全容にアーチーの息が掛かっているという点も恨めしい。
「……責めるに責められんから煮えきらんたい」
「……すみません」
マイは暫く揺蕩う炎を眺めていたが、不意にエリオットへ振り向いて静かに口を開いた。
「イヴィーが俺ん前から逃げようとしたら捕まえとってくれるか?」
「……はい」
「ペントハウスから逃げよったら何処に居るのか調べとって」
「……はい」
報復の熱は当然イヴィーに向かっていくのだろう。
エリオットは足元で揺らめく炎の影を目で追いながら、脳内でイヴィーへ合掌するのだった。
