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雨のあと

全体公開 3212文字
2023-01-10 22:31:36

【ロンルフ(マイユニ)】文字が読めないと声が出せないふたり

Posted by @wtnbear

 しとしとと空から落ちてくる雨粒は薄雲の隙間を溢れる暈けた陽光を受けて大地に降り注ぐ。霧同然のそれらは峰を隠し、山を降り、緑を濃くした木々を濡らし続けている。風もなく中空に漂う霧靄は窓硝子に張り付き、桟に溜まっては涙を流した。青く霞む景色は窓を這う水玉の中で逆さまに映り込む。思い出せばここ数日、ずっとこんな様子で曇天と降雨の日々が続いていた。今日に限らず、しばらく晴れ間は望めない。大陸の北限に近いこの国では、この時期に決まって雨が続く。叩きつける風雨などではなく包み込むような雨のヴェールが草木を撫で、朝晩には時折、雪の代わりに辺りを白く塗り潰す。晴れていればそれは穏やかな陽に微睡みを覚えるだろう。だが、ないものはない。雨に降り籠められる鬱屈な時期が今年も訪れたのだ。
 昼光の滲む窓辺に佇み、手持ち無沙汰な利き手を腰に当てる。得物と防具の手入れを終え、いつもであれば日が暮れるまで鍛錬に出ていようものを。腕が鈍らないように剣を振るいたくとも、屋根のある訓練場では煙たい兵士たちに手合わせをせがまれる。闘技場では連日の雨で暇を持て余した輩どもに決闘の真似事を挑まれる。街では歩いているだけで王の右腕だという好奇が付き纏って煩わしい。与えられたこの自室では剣を振るうには天井の高さが足りないうえ。男は静かに目を端に遣った。隣には三本足のスツールが陣取っており、丸い座面に灰色の髪の少女が男の方を向いて猫背に腰掛けていた。魔道書と同じ大きさの本を両の手でしっかりと持ち、熱心に文字を追ってこちらの目など気にする素振りもない。わざわざ丸椅子と本を持ってこの部屋にやって来たわけだが、本を読むだけなら自室で十分だろうに。隣に人がいなければならない理由など聞いたこともない。
 小さなため息のあと、名前を呼んだ。思ったより低く出た声音に少女は一瞬肩を竦め、翠の瞳を丸くして顔を上げた。少しの間を置き、呆けて少し開いた口がゆっくりと弧を描く。細めた目は悪びれもなく、傾げた首がどうしたのかを問うている。本は自分の部屋で読めという返しにイヤイヤと首を横に振ると、膝の上に本を広げたまま垂れ下げていたロンクーの腕を両手でがしっと掴んだ。にぃ〜っとゆっくり口角を上げながら、ウルフは読んでいた本を広げて男の眼前に突き出す。色鮮やかなカリグラフィーの下にびっしりと並ぶ黒いインクの文字。狭い文字間と行間のお陰で煤けて見えるその紙には何か小難しいことが書かれているのだろう。掲げた本から少しだけ、何かを期待して輝く瞳が覗く。ロンクーは黒い頭をわしわしと掻いた。
 「ウルフ、お前は知らないと思うが俺は文字が読めなくてな」
 口が利けない彼女の行動から思惑を読み取るのも随分と慣れたものだ。それも猫の目のようにころころと変わる表情があってのものだが、軍師としてそれで良いものなのだろうか。その話は一旦、保留としよう。とにかく、彼女の提案に乗れないのには理由がある。一緒に本を読むのはどうか、この本は面白いんだよと言われたところで、文字が読めない自分と声が出せない彼女ではお互いの負担と労力が常人とは桁違いに多いのだ。
 眉尻を下げる彼女から、結露して磨りガラスのようになった窓の外に顔を向けた。相変わらず空は泣き続けたまま、時折呻きのような風鳴りが聞こえる。この時期には珍しい強風が若葉を揺さぶり、伸びた枝がしなる。霧とも雲ともつかない灰や白の煙が水の中を泳ぐようにマーブルを描いては消えていく。穏やかな霧雨に騙されて森に入っていたならば、風雨を凌げる場所の確保に苦心したことだろう。それはそれとして、いよいよやることが限られてきた。
 くいくいと帯留めを引く方を見た。猫のようなアーモンドアイと目線が重なる。丸椅子から立ち上がった彼女はにこりと笑うと、ぶかぶかのベルスリーブから伸びる細い指で窓ガラスをなぞった。軌跡は曇りを取り払い、はっきりとした形を残す。筆がそっとガラスを離れたと同時に彼女は男の方を見上げた。
 「ロンクー。自分の名前だけは覚えさせられた」
 少女は表情を明るくして、その下に別の文字を並べ始める。書き慣れているのか、自分の名前よりも肩の力が抜けた曲線がするりと現れた。なんとなく似ている形があるのだが、それ以上のことはよく分からない。こんな微細な差で読み方が変わるのだというが、さて。自分の名前が溶け出し、知らぬ文字に垂れ落ちる。ふたつの文字を溶かす水滴は徐々に大きくなりながら、窓の木枠に吸い込まれていった。黙り込むロンクーの傍らで、彼女は手を背中側で組み、楽しげにゆっくり左右に上半身を揺すりながら彼の答えを待っている。
 「ウルフ……か?」
 彼女は大きな瞳をさらに大きく見開いて強く頷いた。ふたりの名前を囲うように描かれた大きな円。それはおそらく彼女の喜びの大きさだ。答えを期待し、体を揺するほどのそわそわを見れば少しでも付き合いのある人間はすぐ気付くだろう。だが、それをわざわざ今の彼女に伝える必要もあるまい。
 窓をなぞって冷えた人差し指が厚い掌にそっと触れる。子どものように小さな手に預けた左手を指が優しく滑り、くすぐったさに握りたくなるのを堪えて感触を辿った。文字であろう直線や曲線が幾度か重なったあと、恐る恐る顔を上げた彼女の頬の林檎色が普段よりも鮮やかに映る。今なにを書いたのかと問おうとした矢先、その気配を察してするりと指が逃げた。手に持つものを読みかけの本に替え、誤魔化しの言葉の代わりに歯を見せて笑ってみせる。さすがに何を言いたいのかが読めずに首を傾げても、彼女は恥ずかしそうにもじもじとするばかりだ。風につられて音の大小を変える雨音がしばしの沈黙を取り持ったあと、ウルフはロンクーに向けて小さく手を振った。つられて手を振り返す彼の姿を確認することもなく、彼女は少し駆け足気味に部屋を出て行ってしまった。
 蝶番が鳴き止んだあとも部屋には相変わらずばたばたと窓を叩く音が響き渡る。傍らに残されたスツールが目に入り、ロンクーは彼女が触れた掌をそっと見返した。そこには鍛錬で少しタコが出来たごつごつの手があるだけだ。窓の低い位置に書かれた二人の名前はすっかり薄れていた。それよりも先に消えてしまった掌の文字は一体何だったのだろうか。頬を染めていたのは見間違いだろうか。くすぐったさを堪えずに手を捕まえれば良かっただろうか。もし字が読めるようになれば、憶測ではなく彼女自身の思いや考えに直に触れ、受け止められるようになるのだろうか。少しでも彼女のことが分かるようになるのだろうか。
 取り留めもなく湧き出る疑問から気を逸らすように降り止まぬ雨の音に耳を傾けた。窓を叩きつける雨粒はまだ大きく、季節外れの荒天はまだ収まりそうにない。雨は季節が移り変わる合図だ。この雨が止み、空を塗りつぶす鈍色が再び青さを取り戻せば、日差しは強さを増して大地を焦がすだろう。では、彼女の指を濡らした滴はこの関係を次に進めてくれるのだろうか。あるいは、いずれ涙雨が降ることになるのだろうか。今一歩縮まらない距離を手繰り寄せるように、手を軽く握り込んだ。
 恋文を握りしめたということを、このときの彼は知る由もない。


『雨のあと』 おしまい

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【 小ネタや背景 】
◆ もしかしたらあの世界の識字率は高くないかも知れない、というところから書き始めた文章です。
◆ 王侯貴族やセルジュのような従者、魔道書を読む面々は読み書きができそうですが、ロンクーさんなどの武芸者はどうでしょうか?一方、ウルフは無言ルフレちゃんなので、本心を伝えるには文字を書くしかありません。もしロンクーさんが文字を読めないとなると、どうにかして歩み寄らないと本当に分かり合えない。そんなもどかしい関係が伝われば何よりです



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