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傷痕

全体公開 8075文字
2023-01-10 22:50:33

トレガレンの古傷のお話 ※やんわり怪我やモブが死ぬ描写あり

Posted by @wtnbear

 涛風が閉じきった雨戸を叩き、滝のような雨がスレートの屋根を叩きつける。ごうごうという音が建屋に響き、時々吹きつける強い風に建物が揺れるような錯覚に陥る。近くの村々から小さな依頼を数多く請ける傭兵団にとって、この時期によくある嵐は貴重な休息の時間というよりも、寝食以外に出来ることがなくなるために結果として休息の時間となると言う方が正しい。嵐のなかで出かけることは命を捨てることに等しく、実際、悪天候の翌日は川辺に死体やその一部が転がっていることも多い。こんな日にやってくるのは怨恨を肩代わりした暗殺者か、面倒ごとを持ってくる王宮からの密使などの日陰者くらいなものだろう。前者が来ないこと、可能であれば後者も来ないことを思いながら、シノンはベッドの上で転がっていた。
 服の上から古傷の場所に手を当てる。やはり痛むのはここだ。過日、自分が敵国に属してアイクと対峙し、斬られたときの傷。それは痕となり、とがとしてこの身に残っている。裏切りと敗北を刻みこまれたこの場所はあるタイミングで――と言っても明確な原因はまだ分からないが――どうしようもなく痛むことがある。斬り裂かれたそこが再び開くかのように引っ張られる感覚。斬られた痛みがぶり返し、つられてあの時のアイクの顔が、怒りと悲しみと悔しさがぐちゃぐちゃに混ざったような悲愴な顔が蘇る。ちょうど胸部を一直線に横切っているせいか呼吸の度に収縮しては痛みが上書きされるせいで、結局、うずくまって痛みが引くまで時間が過ぎるのを待つことしか出来ない。大概の傷は跡形もなく消えるというのに、この傷が消えずに残ったのは本当に罰としか思えなかった。
 相変わらずズキズキと煩わしい疼きは収まらず、当てた手の下で蠢いている。今が何時とも知れない暗闇のなか、痛みを堪えて起き上がった。こういう時は酒でも飲んで気を紛わしたいのだが、生憎、自室の棚に置いているお気に入りを切らしているために貯蔵庫まで行かなければならない。棚に置かれた空き瓶を恨めしく思い舌打ちをした。こうなると知っていたら、もっと先に酒を持ってきていたのに。ベッドからゆっくりと立ち上がり、棚の瓶をひったくるように掴むと重たい体を引きずりながらドアをくぐった。

 ◇◆◇

 食堂という名の軍議室、その地下に貯蔵庫はある。地下室独特の湿り気と冷えた空気が満ちる石造りのそこは、これから向かう夏の盛りにはよい避暑地だ。団の拠点は近隣の村落に迷惑をかけないよう、敢えて人里から少し離れた場所に位置している。頻繁に調達に出るには手間だが、かといってまとめて買い出しに行けるだけの人員がいつも確保出来るとは限らないため、少しでも多く備蓄が出来るように貯蔵庫は広めに造られ、その片隅で食用には不向きな麦や古いパンを使い自家製のビールを作っていた。大した量は出来ないうえ味も酒場のものから幾分劣りはするが、多少なりとも腹は膨れるうえ、長雨などで水を汲みに行けない時の飲み水として常備しているものだ。今であれば自分で仕込んだ分が潤沢に残っている。味見も兼ねて少し拝借しても問題はないだろう。
 木製の階段を降り、奥に並ぶ酒樽の上にランタンと瓶を置く。蓋を開ければ発酵した麦とハーブの香りが広がり、レードルで掬い上げて瓶に移せば濁ったオレンジ色がランタンの光を薄く透かせていた。今回の仕込みは悪くなさそうだ。味に少々の期待が出来たことで少し気が紛れ、腰の高さほどの酒樽から嬉々として瓶にビールを移していると、目の前の壁にうっすらと自分のシルエットが浮かび上がった。木の板が静かに軋む音と、こちらを伺うような人の気配。ちょうど背中側に階段があることを思えば、後ろから灯りを持った誰かが降りてきたのだろう。まだ胸の疼きは続いている。こんな弱った姿は誰にも見られたくなかったが、降りてきたのはよりによって一番知られたくない相手だった。
「シノンか。腹でも減ったのか?」
……てめえと一緒にすんな」
 振り向きもせず、シノンは不機嫌そうに一蹴する。相変わらず棘のある言葉に、人影を確認しに来ただけなのに、と少ししょげながらアイクは頭を掻いた。そんな様子はお構いなしに、男は着々と手元の瓶に酒を注ぎ続ける。ビールが瓶を満たす頃、背中から聞こえる足音が木製の階段から石の床を叩く音に変わった。樽に蓋をし、振り向くと彼奴と目が合った。あどけなさを残す面をしているくせに図体ばかりが大きくなり、少しばかり顎を上げて見上げるようにしないと目線を合わせられないのが若干、頭にきた。いや、この唐変木が何をしても苛つくのだが。
「どこか悪いのか?」
「あぁ? その目は節穴かよ」
 隠せていると思った事実を問い質すような言葉に一瞬目を丸くしたが、すぐに顰めっ面に戻る。そうだろうか、と手元や肩や足元へ動く疑いの視線に見透かされるような感じがして、勘付かれたくないがゆえに悪態が口を衝いて出た。こういう時の青年の勘は妙に鋭く、このまま真っ向から疑問を受け止めればボロが出るような予感がして気が急く。ジロジロ見るなと言葉を付け加え、焦燥感に後押しされるままこの場所から逃げようと酒樽の上のランタンへ手を伸ばした刹那。
――ッ!」
 ランタンへ向けた指先から古傷までが引き攣るように痛みが走った。その鋭い痛みに思わず詰まった声が出る。左腕の腱がじんじんと痺れて震え、つられるように胸元もじくじくと痛み始めた。最悪のタイミングでぶり返した痛みを堪えて伸ばした手は青年のそれに阻まれた。やはりどこか悪いんだな、という確認に男は押し黙る。表情を窺い知ろうと覗き込む顔から逃げるように顔を背けた。斬られた傷が残っていることも、それが時々痛むことも、彼が知れば責任を感じて傷付くであろうことは容易に想像出来る。ただ、そんなことは自分の知ったことではない。気に食わない男からの配慮や遠慮は借りを作るように思え、そのことは自分にとって自尊心が傷付けられるような受け容れ難いことだった。だからこそずっと隠し通してきたのだが、本当に間が悪い。なんでもないで濁すには無理があるが、それ以外で咄嗟とっさに思いつくもっともらしい理由は出てこなかった。
……なんでもねぇよ」
 見え透いた嘘で心配を突っね、再びそっぽを向いた。左手の痺れは未だ取れず、手首を掴む手を振り解くことは出来ない。この青年の馬鹿力に敵わないならば、手を離して貰えるよう無抵抗である方が賢明だ。とにかく今は一刻も早くこの場から離れてひとりになりたかった。古傷の痛みが平静を装える限界に近いことは何となく理解している。弱っている姿を見せてたまるか。早くひとりにしてくれ。早くその手を離してくれ。
 願いが通じたのか、ふと手首の圧迫が消えた。痺れた腕に上手く力が入らず、左腕がだらんと垂れた。逸らした目線を正面へ戻すと、青年が目の前で少し屈んでいる。何をするのか理解できぬうちに青年の右肩が自分のへそのあたりに押し付けられ、視界が石畳に変わったかと思えばそれはあっという間に遠ざかった。腰の辺りは青年の腕が周ってしっかりと掴まれている。ちょうど肩に担がれるような格好になっていることは想像に難くなかった。確かに自身は体格がしっかりしている方とは言い難いが、うに成人した男である。それがいとも簡単に担がれた。しかも、触れられたくもない男に。痛みなどそっちのけで顔がかぁっと熱くなる。触れる場所のそこかしこから伝わってくる体温に嫌悪感を隠しきれなかった。
「おい、てめえ! アイク! 何でも、ねぇっ て、…………ッ!」
 不意の出来事に狼狽うろたえ、名前を叫んだところで思い出したように胸の痛みへ限界がきた。それでもなお気力で声を振り絞ったが言い終わる前に息が苦しくなり、言葉を最後まで吐ききることは出来なかった。苦し紛れに青年の服の裾を握り締める。
「こんなに涼しい部屋で額に汗をかくわけがないだろう。現に辛そうに喋っているんだ」
 気付くなと言われる方が難しい、といつもの窘めるような口調が神経を逆撫でしたが、反論を口にする余力はもう残されていなかった。部屋まで送ってやるという言葉が、ランタンと瓶が動かされているであろう物音越しに耳へと届いた。

 ◇◆◇

 真夜中で寝静まった廊下を進む足音は建屋全体に反響する嵐の音に掻き消され、誰に見つかることもなくシノンは自室に送り届けられた。のしのしと歩く青年の振動をいなすことも出来ず、全身で揺れを受け止めたせいで痛みが引くことはなかったが、自力で戻るよりも早く部屋に戻れたとは感じていた。ただ、彼にはどちらが良かったかを判断するだけの余裕はなく、ベッドに降ろされて履き物を脱がされたあとは古傷を抱えるようにうずくまった。あれだけ弱みを見せたくないと意地を張った相手がまだこの部屋に残っている事実すら抜け落ちるほど疲れきった身体で、今はただ痛みの波が早く引くように耐え続けていた。
 その痛みに歪む顔はランタンに照らされ、部屋に戻ろうとしたアイクの足を引き止めた。ベッドの側にしゃがみこみ、丸まった彼の顔を覗き込む。胸の辺りに置かれた手。呼吸は浅く、その間隔は短い。うっすらと汗を滲ませる額へ熱を測るように手を当てると痛みに引き攣った顔で睨みつけられる。が、特に何を言われる訳でもなく彼はまた瞼を伏せた。ああ、またそんな眼をするのか。青年は手を戻し、哀情に眉尻を下げた。
 この状況はあの時、自分が眼前の男を斬った時によく似ている。霞んでもなお戦う意志を宿した瞳に睨まれ、二言三言交わしたあとに気を失って倒れこむ彼を抱き留めた。耳元に彼の浅い呼吸が聞こえ、お互いの汗は混ざり合って首筋を伝い落ちる。胸元に染みる血が妙に温かく感じられる一方で冬の空気に冷えていく頬が死人のそれに思えて、心の奥底、知覚したことのない暗闇から湧き上がってくる恐怖に胸が騒いだ。彼を信頼出来る仲間へと託したあとも手加減を過信したかも知れないという懸念が頭をもたげ、それを振り払うために立場すら忘れて先陣を駆った。立ち塞がる者を片っ端から斬り伏せ、血で血を塗り潰す。それ以外に考えていることはなかった。いや、そもそも考えること自体を放棄していたかも知れない。
 記憶の中で振るった剣が敵兵のくびねると同時に、大木が折れて倒れるようなけたたましい音が身体を揺らした。その衝撃に過去から引き戻される。近くに雷が落ちたのだろうが、この天気ならば山火事にはなるまい。暴風雨の轟音は衰えることを知らず部屋に響いていたが、そんな音すら聞こえないほど、あれこれと思い出しては考え込んでいたらしい。雷鳴に驚いて上げた顔を彼の方へ向けた。彼は微動だにせずベッドの上で丸くなったままだ。手はずっと胸元に置かれ、その場所は頭に焼き付いた自分が斬ったところとぴたりと重なる。ここに連れて来るまでは胸の病気に罹っているのではないかと考えていたが、熱も咳もないのだ。今、彼を苦しめているのは自分のつけた傷が原因なのではないか。そんな考えが降って湧く。先程まで鮮明に思い出していた記憶に引っ張られているのだろうか。いや、きっとそうではない。確証はなかったが、確信に近い何かがあった。
 騒音のなか、彼の様子へ深く意識を向ける。ベッドへ降ろした直後よりも呼吸は整い、眉間の皺も少しばかり薄れている。それでも苦しそうなことに変わりはなかったが、出来るだけ優しく、仰向けになるように肩を押して転がした。
「てめえ……なに、して……
 絶え絶えの息に乗せられた言葉が聞こえた。姿勢が変わったことで痛みが増したのか、眼下で滲んだ緑青ろくしょうの瞳が自分を捉えている。今から自分がすることに気付いても狸寝入りが出来るタイプではないと思ってはいた。言葉を紡ぐことすら辛そうな彼に、今度は心に負担を強いる質問をすることを心苦しく思いながらも伸ばした手を引っ込めるわけにはいかず、青年は先程まで彼が手を置いていた場所へ自分の手をそっと当てる。
……痛むんだろう、俺に斬られた傷が」
 少し間を置いて静かに答えると、着込まれたリネン越しの掌にとんとんと伝う脈が大きく、早くなったような気がした。落ち着かない脈とは裏腹に彼は顔色を変えることもなく、への字が癖付いた口を開く。
「あぁ、そうだよ。てめえがあの時、下手に加減したからな」
 知られたことが多すぎると降参したのか、あるいはもう余計な問答はしたくないのだろう。彼はこちらの憶測を吐き捨てるように認めると、青年の手首を掴んだ。分かったろ、だから離せ、触るなと、まるでそれ以上は踏み込まれたくないかのように男は拒絶の言葉を並べる。露骨なまでに分かりやすい要求だ。だが、それを飲んでこの手を離せば築き上げられた心の壁の外に放り投げられ、傷を確かめる機会を逸してしまう気がしてならなかった。そんなのは嫌だ。どうしてか彼に対しては遠慮を差し置いてわがままになってしまう。殺せと言った彼にとどめを刺さなかったことも、嫌だと曰う彼をどうにか説得して連れ戻したことも全部、自分の身勝手だ。たもとを分かった日、家族と信じていた人が離れていくことの寂しさを知った。その寂しさを思い出したくなくて無理を言う自分本位な言動は彼の機嫌を損ねると分かっているのに繰り返してしまう。
「傷がどうなっているか見せてくれないか」
「やだね」
「見たら出て行く」
 その返答を聞き、苛つきを隠せない瞳が逸れた。ごろごろと雲の中で反響する雷鳴が同じように部屋へ響く。隙間風にランタンの灯りが揺れ、伏せがちな目蓋から伸びる長い睫毛の影を踊らせる。しばしの沈黙のなか、アイクは手を退けて辛抱強く彼の返答を待った。思案をする瞳がこちらを端目がちに捉える。まるで真偽を問うような目線を怖気付くことなくじっと見つめ返すと、彼は目を瞑り、わざとらしく大きなため息をついて至極面倒臭そうに上着を鎖骨の辺りまで捲り上げた。
 そこにはあの時の一閃がそのまま、胸元にしっかりと刻まれていた。薄闇のなか見開いた目を凝らすと、少し色の濃い傷と肌の境目は樹皮のように少しでこぼことしており、開いた傷口を被う皮膚は少し窪んでいるように見えた。杖で治しきれない傷があると聞いたことはあったし、何より実父の傷だらけの体を知っていた分、そういうものは当然のように受け容れていた。だが、これはそうもいかなかった。残ってしまった。場が許さなかったとはいえ仲間を、家族を、自分が斬り裂いたという事実が、こんなにもはっきりと。
 あまりにも痛々しいそれに思わず手が伸びた。冷えた体の下の拍動がそっと触れた指先に伝わる。それを斬った方向へとなぞるように動かすと、先程よりも強く手首を掴まれた。
……分かったろ。さっさと出て行け」
 ぶっきらぼうに投げかけられた率直な言葉に首を横へ振る。こんな傷痕を隠しながら普段通りに振る舞い、時にこんなに苦しい思いをしても、誰に吐くわけでもなくずっと抱えさせていたことが、それに気付けなかったことが心に重くのしかかった。戻ってきてからの技は衰えるどころか一層冴えわたり、何かを理由に依頼や任務を断ることもなく、成果も期待を上回るものだったことを考えれば、逆に手負いということを疑いたくなる。だからこうして目の当たりにするまで傷が残っていることなど考えもしなかったのだ。まだ揶揄からかいとしてぼうやと呼ばれているのも、こうした察しの悪さゆえなのかも知れない。先の言葉に嘘はなく、本当に見たら立ち去るつもりだったが、加害者としての後悔か、それとも団長としての責任感か、まだ触れる手を離せずにいた。
 見たいと言った傷を見せた途端、文字通り固まってしまったアイクにシノンは冷笑を浮かべた。戦場で容赦なく剣を振るうくせに、その相手が自分と関係があったというだけでこの落ち込みようだ。旧知や見知った顔を手に掛けた経験がないからと言えばそれまでだが、その甘さはいつか隙を生み、命を落とすことになる。傭兵が顕著というよりは露骨なだけで、多くは利によって動き、今日の仲間が明日の敵となることは日常茶飯事だろう。この傭兵団はどちらかと言えば正規の軍に近く、利害ではなく双方に信頼関係を持ち、実利よりも名を重んじる気質がある。そんなお人好しに囲まれ、団長の考えに間近で触れて育まれた感性は無知とも取れるほど無垢だ。特に、この優しさは隙になる。実力が伴わなくなったときにあっさりと本人に牙を剥くだろう。この先、名を取った結果にかつての仲間と剣を交えることになるかも知れない。そうなったときに太刀筋が迷うようではこちらが困る。歪まない程度に世間の厳しさへ慣らしてやるのも大人の役割かも知れない。それが今、自分が生き永らえている意味だとでも言うのだろうか。
 あの日、死地と定めた場所で死ねなかった。あの人の剣技であの人のところに逝けるならそれこそ本望だったのに、目の前の阿呆は生きることを強要した。そもそも自分が生きている理由など惰性以外の何者でもなかったのに、理由をつけて生きなくてはならなくなった。それがこの青二才に傭兵の割り切りなり、他のお優しい面々には分からないことを教えてやることなのだと言うのか。その役目が終われば自分は解放されるのだろうか。その時までお互いが生きていれば、いつか分かるだろうか。
 手が当てられた部分が温かい。陽だまりのようなそれが嫌いな男の手であったことを思い出し、らしくない自問自答を投げ捨てた。
「いつまでぼーっとしてるつもりだ?」
 その声にハッとしてアイクは顔を上げる。シノンがゆっくりと上体を起こしているのに気付き、手を取って優しく引っ張った。大丈夫なのかという問いかけにぞんざいな返事があったかと思えば、胸に拳が軽く当てられる。
「次はお前がこうなるって覚えておけよ」
 その拳はすぐに捲れ上がった上着を整える手に変わった。普段からよく聞く皮肉とよく見る顔に安堵して少し顔を綻ばせると、そのことが気に障ったのか、彼は怪訝な顔の眉間をさらに深くする。わかった、と返答すると、今度は素直に認めたことが面白くないのか、まるで機嫌を損ねた子供のようにブランケットを被って丸まってしまった。本当は何かをしてやりたかったが杖を使えるわけでもなく、痛みを和らげる方法も知らない。いま出来ることは彼の不興をこれ以上買わないよう、早々に退散することくらいだろう。
 雨の音は心なしか小さくなっている気がした。いま嵐が峠を越したのであれば、日が昇る頃には嘘のように晴れて近隣からあれやこれやと頼まれごとが舞い込むに違いない。青年はゆっくりと腰を上げ、ベッドサイドに置いたランタンを持った。
……おやすみ、シノン」
 雨垂れに消えていった返事が聞こえたかは知らない。ぎしぎしという音が遠ざかり、静かに閉まるドアの音がした。痛みの引かない胸にじんわり残るあの手の温度。それに自分の手を重ね、抱えるようにして眠りに就いた。



 ◇◆◇

ちょっとしたtips

ビール:
中世ヨーロッパ社会では一般的に、ビールは家で作って飲むもの。
それが次第に麦を集める教会で作られるようになった。
飼料に使われる麦やパンなどを水に浸し、濾過等の工程を経て作られる。
液体は濁り酒のような不透明度を持ち、アルコール度数も8%前後あったらしい。

ハーブの香り:
中世ヨーロッパで醸造されていたビールはホップよりもハーブが使われることが多かったため(cf. グルートビール)。
具体的にどんなハーブが使われていたか、その調合率については残っている文献が少なく想像の範疇を出ない。



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