映画後、氷雲城に収監された虚淮の話。
羅小黒戦記の公式イラスト二十四節気/霜降(2021年)の虚淮を見ていて、「もしこうだったらどうしよう、つらい、でも書きたい」という想いが湧いてしまったので書き留めたものです。以下大丈夫な方はどうぞご覧ください。
※個人的には前向きな着地をしたと思っているけど、しんどい度は高め
※方向性は虚淮死ネタです。苦手な方はご注意ください
※拙作「のこされたもの」「水生木」とは別の世界線
※妖精の死および虚淮の原型について捏造設定あり
@satomi8429
ある霜降1 / 虚淮、館の妖精
ここから見る空は、常に薄暗い。
大きな窓越しの空は、昼にはぼんやり明るくなるし、夕には徐々に翳ってくるが、基本的に常時厚い雲に覆われている。この窓の向こうがどこの空なのか、虚淮は知らない。氷雲城という場所が厚い雲の中にあるということなのか。それとも特殊な術でもかかっていて、中に居る者の心模様を映す空ということなのか。
別にどちらでも構わなかった。虚淮はただただ硝子窓の内側で、物言わぬ調度品に囲まれ、時々窓の外に視線をやる他はほとんどの時間を閉眼して過ごしていた。何も映らない暗い瞼の裏に、あの日に繋がるかつての物事が繰り返し映った。
風息本人が誰よりも忌み封印していた能力を、自ら使うと決意をした日。そのために仕組んだ綿密な計画。無限に邪魔をされてもなお揺るがなかった決意。早急に立て直した計画も、この状況で可能な限り完璧なものだった。あの日、全員が最善を尽くした。脇目もふらず達成のみを目指した。万が一達成できずとも、その時は自分が共に在れるはずだった。
それなのに、虚淮は途中から先を知らない。風息がどんなふうに戦ったのか。どんな形で無限に立ち向かったのか。どんなふうに足掻き、どんな表情で望みが断たれる音を聞き、どんな思いであの場所に没したのか。
虚淮は何度も何度も想像する。だが答えは解らない。それらは絶え間なく脳裏に去来して、痛み軋むはずのない胸を締め付けた。
なぜこんな仕打ちをした。なぜこんな結末になった。なぜ最後まで共に在れなかった。問いの答えはどこにもない。波のように押し寄せる怒りと後悔と喪失感に、心がねじ切れそうだった。怒りと悲しみに任せて、自分の身体も省みずに大暴れしてやりたいという思いが、ふとよぎったりもした。ただ一方で、現実を認識している自分も居た。現状を冷静に見ればここで大人しくしておくのが最善なのだ。自分がここで問題を起こせば、それを引き金に、まだどこかで生きている残された弟たちに類が及ぶ危険がある。
もう何百回と考えたことをまた繰り返し、虚淮はゆっくりと目を開いた。灰色に塗りつぶされた窓を見遣る。
先日、刑が決まった。罪状は、風息に対する教唆、作戦実行に関する共謀および幇助。
刑の内容は、氷雲城独房にて懲役。逃走および反抗防止のため、両角の切断を処する。刑期は二百年、ただし被告の追加供述によっては期間の短縮も考慮する。
黒衣の妖精が高い位置から見下ろして無機質に宣告し、虚淮は氷点下の双眸でそれを見上げた。灰色の簡素な上下を身に着け、部屋の中央に腰かけた虚淮の額から伸びる二本の角は、真冬の氷柱の如き冷気をまとい、今ではめっきり少なくなった空を舞う龍の角にも似た威風に満ちて、静かに天を指していた。これを切るのだと聞いても眉ひとつ動かさず堂々と座った姿を見た者は、ああこれはやはりかつて龍遊最強と言われた虚淮なのだと息を呑んだという。
しかし当の虚淮には、やれやれという思いしかなかった。刑が執行されるということより、取り調べだなんだという煩わしさがこれで終わるということの方が重要だった。
しかしまあ中途半端なことだ。追加供述すれば減刑も云々などと、まったくばかばかしい。おおかた、あまりにも無口を決め込み意識も口も閉ざした虚淮に手を焼いた館の妖精が、困った挙句にあんな判決にしたのであろう。
刑がどんなものであろうと、刑期が何年であろうと、虚淮は心底どうでもよかった。今となっては、そもそも生きていることがもうどうでもよかった。今の自分はからっぽだ。妖精用の施設の中で簡単に死ぬことはないのだろうが、死んだように生きているというのはまさにこういうことを言うのだろう。
判決の後、何か言いたいことはないかと聞かれたので、虚淮は訊ねた。
「その刑は、私が人間社会に危害を加えないように隔離する意味合いだと理解したが、間違いないか」
黒衣の妖精は首肯した。
「はい。妖精館はあなたを痛めつけたいわけではないのです。期間は長いですが、そのぶんそれなりの環境を用意します」
そうして虚淮が連れて行かれたのは、窓の大きなだだっ広い部屋だった。高すぎる天井が寒々しさを際立たせている。天井から床まである巨大な窓にはロールスクリーンがかけられ、半ばまで下されていた。やや曇った窓に、角の切断された自分の立ち姿がぼんやり映る。どおりで歩くとバランスが取りづらいわけだと得心した。窓のそばには薄墨で描かれた水墨画の衝立と、同じく墨絵の描かれた行灯が置かれていた。窓辺にある白い陶器の筒からは、活けられた大きな枝が張り出している。人間の単身住まいを模したようなこれは、どう考えても牢ではない。衝立と反対側に置かれているのは古風な造りの長方形の座卓で、案内の妖精はその焦げ茶に磨き上げられた卓面へ平べったい電子機器を置いて言った。
「なにか不足や希望あれば言ってください。当分は日に何度か館の妖精が来る予定ですので」
その日から、氷雲城での暮らしが始まった。
どんな仕組みか知らないが、霊力の補充は勝手にできるようだった。つまり、虚淮が生きていくためにしなければならないことはひとつもなかった。先の妖精が言ったように職員らしき妖精が日に何度かやってきたが、特になにをしろともするなとも言われない。だから虚淮は、がらんとした部屋にひとり座ってひたすら目を閉じているのだった。負の感情に苛まれ、時折目を開け現実を認識する。その繰り返ししか、ここにはない。
これに一体なんの意味があるのだろう、と常に思っていた。とりあえず生きている、ただ生きているだけという状態に。
自分の中には生きている理由なんて大してなかった。少し前に、このまま消滅しても良いと口にしたら、それでは洛竹と天虎が悲しむだろうと館の妖精に諭された。風息がいなくなって虚淮までいなくなったら彼らはどうなる、と。どの口がと思わなくはないが、理解はできた。だから、あいつらを悲しませないために生きる、というのが、虚淮がここに存在する最後にしてただひとつの理由だった。
ただ静かに時が過ぎた。
日課として職員の妖精がやってきては立ち去っていくだけの日々だ。ある日虚淮は、立ち去ろうとする妖精の背にぼそりと声を投げた。
「頼みがある」
「なんでしょう」
妖精が振り返る。虚淮はここのところずっと考えていたことを告げた。
「私の刑はここに居ることだと聞いた。物理的にここに存在すれば、他は自由だな」
「はい。霊力と術の使用は制限されますが、この部屋の中でしたら自由に過ごして頂けます」
「では頼みたい。館には他者の意識を操るような妖精がいるだろう。そいつに、私の意識を操ってほしい」
驚きの表情の妖精を見上げ、虚淮は表情を変えずに続けた。
「二百年前に私の意識を戻してくれ。偽りの現実を見せて過去の中にいるよう錯覚させるくらい、お前らなら造作もないのだろう」
これが虚淮の結論だった。
館が生を強制するのなら、物理的に生きていることはできる。ここに居ることであいつらが悲しまず生きていけるのなら、存在を維持させることはできる。だが、この現実を現実としたまま、ただ生きているというのは、どうにも耐えがたいのだった。
後日、案内の妖精が連れてきた妖精は、自分は心霊系なのだと名乗った。
「この術は、あなたのコンディションによって効果が変わります。すぐに目覚めてしまうこともあれば、数日間非現実の中を彷徨うこともあります。よろしいですか」
「承知した」
「では、戻りたい頃の記憶を思い浮かべてください。私がそれを取り込み、私の気としてあなたに戻します。あなたは普段霊気を集めるのと同じ要領で座っていてください」
心霊系の妖精は滔々と述べると、座を組んだ虚淮の頭上に両手をかざした。虚淮は目を閉じ、言われるままに瞑想の体勢を取った。
沈黙の中うつむき加減で閉眼していると、やがて瞼の外がうっすら明るくなってきた。朝のようだ。現実のほうは夕刻だったので、これはもう記憶の中なのだろうか。集中する意識の片隅でそう考えていると、すぐそばで派手な音が聞こえた。静かな牢には似つかわしくない、水に大きなものが落ちたような、ばちゃん、という音だ。虚淮は思わず薄目を開けてしまい、慌てて閉じた。中途半端なタイミングで目を開けて、術が解けてしまってはいけない。
外の明るさを感じながらもぎゅっと目を閉じていると、今度は顔に何かが当たる感触があった。これは水だ。水の飛沫が一滴二滴と顔にかかり、それから耳に飛び込んだ声に、虚淮は今度こそ目を大きく開いた。
「取れた! シューファイ、取れたよ!」
見れば幼い風息が、半身池に浸かりながら蓮の茎を掲げて満面の笑みをたたえている。あたりは明るい水辺で、水面を埋め尽くす蓮の葉と、隙間から伸びた茎に乗った蓮の花が揺れていた。かつての故郷の風景の中で、自分は手に小さな衣類を抱えて、その幼い妖精の傍らに佇んでいるのだった。
「早く上がれ。また溺れるぞ」
口が勝手に動き、風息の笑顔につられて頬がわずかに上がる。それから伸ばされた手のひらを取ると、ぐっしょり濡れた小さな重みを引き上げた。
この後はどうしようか。まずは身体を乾かさなくては。いい匂いのする草はらがいい。蓮の実が大好物の風息は、草の上を転げながら戦利品を堪能するだろう。シューファイも食べて、とひと粒渡してくるかもしれない。もしそうなったら食べてやろうか。
風息の片手をとって並んで歩きながら、虚淮は明るい気持ちになっていた。そんな気持ちは、もう百年ぶりくらいな気がした。
蓮の実を見るのも、それを取って喜んでいる風息も、なにもかもが久しぶりだ。
見上げると日差しが目に眩しい。
ああ、今日は、空が青いな。
ある霜降2 / 洛竹、虚淮
氷雲城で再会した兄は、別人のようだった。
事件後、舘の管理下に入ることを条件に比較的早い時期に釈放された洛竹とは違い、兄の虚淮は二百年という長い刑期の懲役囚として氷雲城へ送られた。洛竹との面会がようやく許されたのは、ずいぶん月日が経ってからであった。
牢と言うには豪勢な、しかし独りで暮らすには寂しすぎる広くて薄暗い部屋に案内された洛竹は、その窓辺に座る虚淮を見て言葉を失った。角を切られたことは聞いていたので覚悟していた。囚人であるのだから簡素な服であることも想定内だ。しかしそんなことよりも、根本的な虚淮の変化が洛竹を打ちのめした。
「虚淮……?」
瞑想の体勢を取っている虚淮に声をかけるが、虚淮はぴくりとも動かない。近づいて肩に触れる。動かない。虚淮の肩を掴んでゆすって顔を覗き込む。動かない。虚淮、ともう一度名前を呼ぶと、虚淮はようやく、ゆっくりと目を開いた。
虚淮は洛竹を捉えると、目を丸くして驚きの表情を浮かべた。子猫だと思って手のひらに乗せていたものが、実は自分の何倍も大きな虎だったかのような驚き方だった。
「洛、竹?」
掠れた声で虚淮が言った。次いで表情がいつもの虚淮に戻っていく。よく知っている虚淮の顔だ。涼やかな目元。冷静な表情。見た目で違うところは角と服装だけで、顔も体格も元のまま。気の補充もできる部屋なのだろう、気が枯渇していることもなかった。しかし洛竹には、虚淮の生気がほとんど失われていると感じられた。
両のてのひらで虚淮の顔をぎゅうと挟んで視線を合わせる。虚淮は確かにここにいるのに、霊質の輪郭はぼやけて色あせている。虚淮を形造っていた確固たるものが失われ、針の先でつついただけで全てが崩れてしまいそうに脆くなっていた。目が合っていても、喋っていても、肉体と精神が此処に存在するという確証がない。
「虚淮、なん、で」
声が震えた。なぜだ。これはどういうことだ。虚淮の核が削れに削れて、もうほとんど残っていないかのようだ。どうしてこんなことに。氷雲城は安全なんじゃなかったのか。隔離しているだけだと言っていたくせに。疑問はふつふつと湧く怒りに変わる。
お前ら、と洛竹は口の中で言い、振り向いて案内の妖精に声を荒げた。
「お前ら、虚淮になにをした!?」
俺の兄に。たったひとり生きている兄に。何をした。何を――。
「よせ、洛竹」
頭に血が上って掴みかかる勢いの洛竹を、虚淮が止めた。腹に響く虚淮の低音はいつも通りなのに。なのに。
「私は何も、変わらないだろ」
「変わらなくないよ! こんなになって……消える寸前みたいじゃないか」
口に出したら目が熱くなった。じわりと涙が滲んでくる。
「なんで、こんな」
洛竹は床に膝をついた。唇がわなわなと震えた。
「館のせいじゃない。私が頼んだ」
「どういうこと」
「意識を過去に飛ばしてもらっていた。偽りの現実に」
虚淮が洛竹を見てうっすら微笑んだ。めったにみることのない表情だった。それすらも、この世のものではないような薄寒さが感じられて、洛竹はきゅっと眉を寄せた。
洛竹が動けずにいると、微笑みにほんの少し困ったような表情を混ぜて、虚淮が洛竹の肩にそっと触れた。
「許せ。私がいなくなったら、お前たちが悲しむだろう」
洛竹の眼球を覆う涙が、虚淮の輪郭をゆがませる。いなくなったら俺たちが悲しむから? だから意識を飛ばしていたの? 存在を維持するために、自ら偽りの現実に身を置いていたと? 壊れないために? でも生きているために?
さっきまで怒りに燃えていた体が急速に冷えていく。溢れた涙が頬を伝って、ほとほとと床に落ちた。
「虚淮は、どうしたいの」
震える声で問いかける。虚淮が眉を下げ、虚淮の指が洛竹の頬の涙を拭った。いつも通り小さくて細くて、しかしいつもと違って冷たくない指だった。
「私は、お前たちが生きていけるなら、なんでもいい」
虚淮の淡々とした声が部屋に落ち、洛竹は思わず兄を抱きしめた。
なんでもいいなんて言うなよ。
俺にできることはないの?
俺たちと一緒に生きることはできない?
幾つもの言葉が頭を渦巻き、けれど結局、洛竹はそのどの言葉も選べなかった。自分が生まれるずっと前から存在した風息と、そのもっと前からいたという虚淮のことを思った。自分との絆とはまた別の、兄たち同士の強い強い絆を思った。
「もう、いいよ」
洛竹は虚淮に抱き着いたまま、目をゆがませてぽつりと言った。
ある霜降3 / 洛竹、潘靖、天虎
天虎に会わなければ。
街の中をぐるぐると歩きながら、洛竹は繰り返しそう念じていた。歩き始めた当初はまだ日が高かったのに、気づけばあちこちに電気が灯り始めている。
天虎のいる郊外の森は、近いといっても徒歩ではかなり距離がある。とはいえ熟知している最短距離を選択しないのは、洛竹の中に迷いがあるからだった。とにかく会って話さねばと思いながら、どう話すべきかまだ決めかねていた。話すことで事実が確定してしまう気がした。意味のない時間稼ぎをしているとわかっていた。兄なのだからしっかりしなければと奮い立たせてみるものの、本心では天虎に顔を埋め、二人で抱き合って涙と一緒にこの苦しい胸の内を共有てしまいたかった。遠い昔の、嵐の夜のように。
先刻、館上層部の妖精によって嫌な予感が肯定されてしまった。縋れる一点の光明すら見いだせず、洛竹の心には重石が乗ったようになっていた。
虚淮をどうする気なの、と洛竹が問うと、潘靖は相対したまま表情を固くした。
虚淮と会った後、同じ建物の中の応接室に案内された洛竹は、龍遊管轄の管理職という妖精に引き合わされた。初老の人間のような見た目で、白銀の頭髪を後ろに撫でつけた長身の妖精は、丁寧だが威厳のある口調で潘靖と名乗った。潘靖の話はこうだった。
元々は虚淮の希望で心霊系の妖精を介入させていた。だが、心霊系の妖精を介入させてから、明らかに虚淮の霊質の核の部分が削げていっている。使っている術は霊質を喰らうものではないし、何がそれを起こしているのか原因がわからない。現実を生きる気力がないからなのではという仮説はあるが推測の域を出ない。
「正直、我々も困惑しています」
潘靖が重い口調で言った。
「こちらとしても、収監中の妖精が衰弱していくのを黙って見ていることはできません。心霊系の介入が原因ならばとそれをやめさせてみましたが、なぜか中止すると消耗の速度が早まる。治癒系の妖精にも見てもらいましたが、残念ながら解決策は見つかりませんでした。介入をすれば核の消耗は避けられないけれど、術をやめれば消耗は止まるどころか加速する。生命を維持させるには術をかけ続けるしかないという現状です」
「そんな……」
口から漏れた言葉は掠れて、自分の耳にもほとんど届かなかった。
過去の中に生きたいという虚淮の願いは叶えるごとに命を削り、それに対して打つ手はないと言われているのだ。先程案内の妖精にしたように掴み掛かる元気はもうなかった。こんな状態にした妖精館への怒りはあったが、怒りよりもショックのほうが大きい。
「妖精の死とはどんなものか知っていますか」
いきなり振られた死という話題に、肩がびくっと跳ねる。
「霊力が十分に確保できない時、霊力の過剰放出によって霊力が生命維持量を下回った時、そして、霊力があっても生命を維持する力が足りない時です」
知っている。故郷が破壊され消滅していった妖精の多くはひとつめの理由によるものだった。それからおそらく、風息の消滅はふたつめの理由によるものであろう。洛竹は震えそうになる口に力を入れて唇を引き結んだ。
「妖精は精霊の凝集体です。死ねば精霊の凝集が解け、その個体としての存在が消滅する。自ら凝集を解く妖精もいます。そして、妖精は死後、人間や動物のように肉体が腐って土に還るなどという長い経過は辿らず、直接自然界の循環の中に戻っていく」
潘靖は洛竹を一瞥すると、指を組んだ手を膝に乗せて続けた。
「虚淮には私も何度か会いましたが、もう限界だろうと感じました。だから本人に聞きました。その身体を解いて自然に還りたいか、と」
もう限界? 自然に還る? 虚淮が?
さっきから腰かけている面談用の椅子がぐらぐらと揺れているように思える。両足は床についているのに、足元がおぼつかない。
虚淮が消滅する? そんな、まさか。
さっき会った虚淮の姿がよみがえった。それから自分が言った言葉が。
消える寸前みたいじゃないか。
「そうしたら虚淮は、それはできないと言いました。自分は生きていないといけないから、必要だから続けてくれと」
「生きていないといけないから……」
「これ以上弟たちに悲しい思いはさせられない、だそうです」
私がいなくなったら、お前たちが悲しむだろう。
洛竹の目から、止まっていた涙が再び溢れた。命をすり減らして生きる虚淮を、故郷も風息も存在しないこの世界に引き留めているものは、自分たちだった。
潘靖が真剣な顔をして、洛竹さん、と言った。
「このまま術をかけ続けても、術をかけるのをやめても、虚淮があのままでいる限り残念ですが終わりは見えています。虚淮に課した刑は、人間社会に害を及ぼさないために処したもの。今の虚淮を牢から出したとしてもそのようなことをする力はもうない。それを根拠に、減刑および釈放をすることもできます。ですが本人は、生きるには術をかけてもらうことが必要で、だからこれからも牢に居るという」
心が麻痺したようになって、感情がよくわからない。涙が頬を伝って落ちた。
「我々は、本人の意志を尊重したいと思っています。虚淮は、生きる目的は弟たちのためだと言っている。そのため弟であるあなたがたの意思を確認する必要がありました。洛竹さん、君は虚淮にどう在ってほしいですか」
潘靖が言葉を切った。洛竹はうつむき、その拍子にまたぼたぼたと涙が落ちた。
あの日、風息がいなくなった。それはこの世に誕生した当初から風息と共にいた洛竹の心に、大きな穴をあけた。喪失感も悲しみも未だ癒えることはない。それを踏まえて考えると、二百年もの間風息と共に生きてきた虚淮の心の穴の大きさは計り知れない。
残された自分たちにとって、この世界を生きることも、生きることを選ばないことも、どちらも残酷なことだった。洛竹は風息不在の世界を生きる残酷を選んだ。だがだからといって、過去の幻に身を置かざるを得ない虚淮に、同じことを強いることはできない。
「俺は、虚淮に苦しい思いをさせたくない」
洛竹にとって、風息も虚淮も大切な家族だった。大切な相手には、辛い思いをしてほしくない。思い悩むことなく、穏やかで、安らかであってほしい。
「生きていることが辛いのなら……風息のいない世界を生きるのが辛いなら、俺たちのわがままのせいで辛い思いをさせるのは、嫌だ」
結局、洛竹が天虎の住む森に着いたのはとっぷりと日が暮れてからだった。
森の入り口に立って決意を固め、深呼吸して足を踏み入れる。と、大きな音を立てて天虎が降ってきた。落下の衝撃で舞う落ち葉の合間から、弟の悲しい表情が見えた。
「どうした、天虎。いきなりそんな顔して」
反射的に明るい調子を作って言うと、天虎が沈んだ声を出した。
「ろじゅ、かなしそう」
洛竹は仕方なく苦笑した。
「参ったな。何も言わなくても天虎にはわかっちゃうんだ」
「いしんでんしん」
「それ、風息が?」
風息は里で仕入れた言葉を弟たちによく教えてくれた。こんな些細なことにまで風息が生きているというのに、風息はもうどこにもいないなんて。そしてまもなく、虚淮も。
眉をひそめて涙をこらえていると、天虎が頷きながら無言で両手を広げてくれた。
焚き火の前に並んで座り、一部始終を天虎に話す。天虎はずっと悲しい顔で聞いていて、話し終えてもただ悲しい顔で座っていた。お互い無言のまま、パチパチと焚き火のはぜる音だけが響いていた。
「天虎」
今度は洛竹が腕を広げた。洛竹の方が小さいので結局天虎が抱きしめる形になる。温かい、生きている弟。せっかく気を取り直して笑顔を作ったのに、また涙がこみ上げた。
抱き合って二人で静かに泣いた後、鼻を啜りながら洛竹は口を開いた。ずっと思い出していたことだ。
「昔さ、まだ天虎が小さかった頃、二人で留守番したことがあったろ」
天虎が頷く。
「虚淮と風息が出かけてる間に大嵐が来て、木のうろに逃げ込んだら閉じ込められて。昼間なのに真っ暗になって、風がびゅうびゅうごうごういって、雨が痛いくらいの強さで降って。夕方には帰ってくるはずだった虚淮と風息がいつまでたっても帰ってこなくて、そうこうしてるうちに夜になってさ」
あれは天虎がまだひと抱えの大きさだった頃、洛竹が、おれがおにいちゃんなんだ! と張り切っていた頃のことだ。
「俺たち夜じゅう抱き合って、きっともうすぐ嵐は止む、きっともうすぐ風息も虚淮も帰ってくる、って言い合って」
なつかしいな、と小声で言ったら、天虎にもほんの僅かに笑顔が戻った。
「俺さ、虚淮も風息もいないのがこんなに心細いなんて、あの時初めて知った。俺は天虎のお兄ちゃんだからさ、俺が天虎を守らなきゃって思って、でも怖くて。大丈夫大丈夫って天虎に言いながら、心の中ではお願い早く帰ってきて、って何度も祈ってたんだ」
うん、と天虎が頷く。
「いつの間にか二人とも眠っちゃって、気づいたら朝になって嵐が止んでて、虚淮と風息が帰ってきて。俺は安心してわんわん泣いて、風息たちがびっくりしてたな」
館に追われて戦ったあの日、風息がいなくなった。
嵐が来ても心細くても、もう風息は来てくれないのだ。でも自分たちにはまだ虚淮がいた。捕まっていても、会えなくても、いつかきっとまた一緒に暮らせるって思ってた。でも。
「俺たち、今度こそふたりっきりだな」
頭を天虎の身体に預けて言う。天虎も洛竹の肩をそっと支えた。目の前で燃える炎の端が、ゆらゆらと夜の闇に溶けている。洛竹は炎に向かって呟いた。
「なぁ天虎、俺たち、虚淮に、さよならしような」
その夜焚き火から立ちのぼった煙は、一晩じゅう森の上空を漂っていた。
ある霜降4 / 洛竹、虚淮、天虎
翌日、洛竹は再び氷雲城へと赴いた。
管理者との面会を申し入れると、すぐに潘靖がやって来て、館としても本人の意に沿えるよう全面的に協力しようと約束してくれた。
昨日と同じ手順を踏んで虚淮の牢へ向かう。洛竹は決心がぶれないよう、深呼吸をして扉を開けた。入口に背を向けて座っていた虚淮は、昨日と違って術がかかっていない状態だったのだろう。すぐに振り向いて洛竹に気づいた。
「洛竹か」
「うん」
ゆっくりと近づき、注意深く気配を探る。昨日と状態は変わらないように思えた。小さく小さくなってしまった虚淮の核。それでも背筋は凛として、それは洛竹のよく知る虚淮の姿だった。ずっと見てきた、小さくて大きな背中。虚淮の正面に回って腰を下ろすと、虚淮の目が洛竹の視線を捉えた。洛竹は微笑みながら、昨日は泣いちゃってごめんな、と前置きしたが、本当のところはとても緊張していた。
虚淮の口から、その思いを聞くのが怖かった。
虚淮の思いを尊重したいと思う一方で、自分たちの結論を肯定されるのが怖かった。洛竹は意を決して小さく息を吸い、率直に話を切り出した。
「ねぇ虚淮。俺たちはもう大丈夫だよって言ったら、虚淮はどうしたい?」
「なんだ突然」
「いいから。俺たちのことは考えずに、虚淮が本当にしたいことを聞かせて」
視線を落とすと、囚人用の着物の袖からのぞく手がずいぶんと小さく感じられた。洛竹はずいと近づいて虚淮の手をとった。洛竹の手だってそんなに大きな方ではないが、それでも全部を覆えてしまう。
虚淮は一瞬驚いた顔をして、それから思案するように目を伏せてからぽつりと言った。
「今の私にしたいことは何もないが……ただひとつ、後悔はある」
「後悔?」
「私は風息と共に戦うと決めたのに、辿り着けなかった。ひとりきりで戦わせてしまった。全部被って独りで逝かせてしまった」
洛竹は頷いた。
「だからもう、これ以上あいつを独りにしたくない。そばにいてやりたい。どんな姿になってもそばにいると言ってやりたい」
これが虚淮の望み。過去に生きることでもなく、現在を生きることでもなく、ただ風息のそばにいてやりたいという願い。
虚淮にとって風息は、風息が幼い頃から共に在る最も親しい他者であり、弟たちには打ち明けられないあらゆることを共有する相棒でもあったように思う。下の弟たちとは別の、深い絆が確かにあった。
「わかったよ」
洛竹は涙をこらえるために眉間に力をぎゅっと入れた。
わかったよ、と繰り返して無理やり笑顔を作る。覚悟はしていた。泣くんじゃない。
自分に言い聞かせていると、虚淮が洛竹の手をほどいて静かに押し返した。
「でも駄目だ。風息を失ったお前たちに、私まで失わせるわけにはいかない」
今度は洛竹が驚く番だった。手に力を込めて虚淮が続ける。
「大丈夫、ここでなら私は生きていられる。ここに居ればお前たちを受け止めてやれる」
宥めるような虚淮の口調に、洛竹は言いようのない嬉しさと同時にどうしようもない寂しさを感じた。ああ虚淮は、どんなになっても俺たちの兄さんなんだな、と思った。
――でも。
「気持ちは嬉しいけど、それで虚淮が苦しいのはもう嫌なんだ。……今まで、ごめんな」
「気にするな。私はこれからもここに居るから」
「虚淮、」
洛竹は言葉を重ねようとする虚淮を遮った。
「知ってた? 虚淮がつらい思いをしてるのは、俺がつらいんだよ」
虚淮の目が大きく開き、押し返す手の力が抜ける。洛竹はその手を支えて、ねぇ虚淮、と明るく言った。
「どこか行きたいところはない?」
「行きたいところ……」
「俺が連れてってあげる。そこでさ、さよならしよう」
虚淮が希望したのは、龍游の街が見下ろせる小さな山の上だった。
龍遊の中心地から割とすぐの場所にある小高い山は、頂上がちょっとした公園と展望台になっている。少し下れば住宅地で、山の中腹に住宅の屋根が所狭しと並んでいる――都心からも近く緑も適度にあるというので、住むには人気のエリアらしい――。昼間は散歩をする人間や観光客でにぎわう展望台だったが、夕方を過ぎた今は人間はひとりもいない、とても静かな場所だった。
牢を出ても、収監のためのあらゆる術を解いても、虚淮の状態に大した変化はなかった。妖精館が手配してくれた転送門で近くまで行き、それでも山頂まではまだ少し距離があったので、洛竹が虚淮を背負って行った。
背に乗せた虚淮は、嘘のように重さがなかった。
途中で天虎も合流し、三人で移動する。間もなく地平に消えんとする太陽が三人を横から照らしていて、世界に三人だけになったような錯覚に陥りそうだ。
頂上に着くと、昔ここには水源があってな、と虚淮が呟いた。
「私はそこで生まれたんだ」
「へぇ、そうなんだ」
虚淮がここでいい、と言った場所にそっと降ろす。
立ち上がって見れば、展望台の横に古びた石碑がひっそりと立っていた。昔は水が豊かに湧き出る地であったと示されている。洛竹は山の斜面に目を向けた。
ここに水源があった。そう思うと、眼下に広がる人工的で壮大な夜景に、緑豊かなかつての龍游が重なって見えるような気がした。
「洛竹、天虎」
虚淮が弟たちを見上げて言った。
「感謝する」
覚悟していたとはいえ、いよいよだと思うと胸がキリキリと痛む。言いたい言葉は色々あったはずなのに、喉に詰まって出てこない。
「私は氷だ。氷は水だ。水は死なない。見えなくなってもそこにいる」
「うん」
やっとのことでそれだけ言った。
見えなくなってもそこにいるなんて、そんなの嘘だと知っていた。水には再び出会えるが、虚淮という妖精に会えるわけではない。わかっているのに、もう頷くことしかできなかった。泣きそうなのを必死に抑えて横を見ると、天虎も涙をこらえている。虚淮だけが堂々としていつもの顔で、その変わらなさにどこか安堵する自分がいた。
「じゃあな」
そうして虚淮はほんの少しだけ微笑んだ。これは笑っているのだと、兄弟たちだけがわかるくらいの、微かな微かな笑みだった。
自分たちの頷きを確認した虚淮は、目を閉じて合掌をした。
虚淮が息を吐くと、それに乗って霊魚が出る代わりに、そこらの水蒸気が一斉に虚淮の周りに集まり、霧のようになって虚淮を覆い隠した。それらは竜巻のような渦を巻き、驚いて後ずさる洛竹と天虎に構わず、徐々に地面から浮き上がっていく。やがて渦からパキパキと小さな音が聞こえたかと思うと、集まった水蒸気は小さな氷の粒となり、僅かな星明りを反射しながら回転速度を速めていった。氷の粒は鱗のように組み合わさって、白い霧はいつのまにか消え、やがて虚淮の居た上空に一匹の小柄な龍が現れた。
「虚淮……?」
思わずつぶやくと、龍は透明な身体を翻して洛竹と天虎の目の前まで来ると、ふたりをじっと見つめた。立派な角と鋭い目を持つ、とてもきれいな氷の龍だった。
いつか虚淮の原型は龍だったと聞いたことを思い出す。故郷の地の奥深くに眠る水脈が虚淮を呼んだのだろうか。それとも虚淮の帰還に、故郷の水脈が応えたのだろうか。
「さよなら」
言いながら龍の顔に手を伸ばす。
触れた温度は、いつもの虚淮のそれだった。
次の瞬間大きな風が吹いて、龍はそのまま風に乗って夜景の上空をすべるように飛んでいった。龍游市街の公園にある、巨大な樹に向かっているのだろう。ここからは十数キロほどの距離だったが、空を飛べばきっとすぐだ。最後の力を総動員して飛び立ったであろう虚淮が、ちゃんと風息のもとに辿り着けるといいと願う。
氷の龍はやがて夜の景色に溶けて見えなくなり、残された洛竹たちの周りには元通りの静けさが訪れた。
「俺、龍の姿、初めて見た」
「はじめて」
顔を見合わせて言葉を交わす。どちらの顔も、いつのまにか涙でべしょべしょに濡れていた。天虎が洛竹の頬をふいてくれ、洛竹もお返しに天虎の涙を拭ってやった。
再び夜景に目を転じ、その先の暗闇にある公園の大木に思いを馳せる。
「虚淮、風息に会えたかなぁ」
「うん」
そうして二人は、いつまでも展望台から、兄の消えていった空を見上げていた。
〈了〉