@shikanoko_aki
鄧艾の一日は規則的だった。朝は六時に起床する。目覚ましはかけない。毎日決まった時刻に目が覚めるから、必要がなかった。
顔を洗い、ほどほどに寝癖を整えたら、まずは庭に出る。春先の早朝はまだ少し肌寒かった。やたらと広い前庭には春の花が咲き誇っていた。長らく人手を離れ、荒れ放題だったものを鄧艾が土を育て、草花を植えて整えたのだ。ここまで美しくするのに五年かかった。
「今日はいい天気だ」
花壇隅の蛇口を捻って、ブリキ造のじょうろに冷たい地下水をたっぷりと溜める。庭園の花と野菜達の世話をする。それが鄧艾の一日のスタートだ。
水やりをしながら雑草の処理をし、作物の育ち具合を確認する。トマトはもう収穫して良さそうだった。
それから、浅い小皿に溜まった水を捨て、新しいものと取り替える。隣にある色違いの小皿には、パンくずと小さく切った林檎を幾つか入れておいた。
庭仕事はほどほどに切り上げ、手の泥を洗い流してキッチンへと向かう。たった今、摘み取ったばかりの新鮮なトマトは朝の食卓に並べるべく、流し台のザルに入れた。
「食パン、買い足さないとな」
戸棚から今朝の分の食パンを二切れ取り出し、トースターにセットした。明日の分は足りるが、明後日に食べるパンが無い。
必要な物は、日中に宅配の注文をしないといけない。自給自足できる野菜などを除いて、殆どの生活必需品は宅配に頼っていた。なにせ、此処から最も近いスーパーまで、鄧艾の脚でも歩いて三十分はかかる。外へ買い出しに出掛けることは、よほど必要に迫られなければしなかった。
チラリと時計を確認しつつ、コーヒーメーカーのスイッチをオンにした。ドリップされたコーヒーが滴り落ちる音と共に、心地よい香りが室内を満し始める。そこでようやく、鄧艾は寝室へと踵を返すのだ。
「―――司馬師さん、朝ですよ」
落ち着いた声音で名を呼んで、ゆったりと肩を揺する。少しだけ間があって、横たわる彼は小さな呻めき声と共に身じろいだ。そこから、重たげな瞼が開くまで、更に間がある。その時間を、鄧艾は彼の肌に緩く触れたままじっと待つのだ。
「おはようございます」
彼の瞳に自分の姿が映ったと同時、鄧艾はことさら丁寧に朝の挨拶をする。すると、その手が存在を確かめるようにこちらへと伸びる。彼の指が届くようにと、鄧艾がグッと顔を近づければ、手のひらが探り探りに頬へ接触した。
「……おはよう。鄧艾」
眠たげな声と共に口元が緩む。時刻は八時ちょうど。今日も寸分違わず、いつも通りの始まりだった。
身体を起こそうとする彼を介助するべく、鄧艾はその背中をしっかりと支えた。布団から這い出してベッド脇に腰掛けた彼は、欠伸を噛み殺しながらシャツのボタンを外し始める。それを確認するや、鄧艾はすぐ手の届く場所に用意していた着替えを司馬師へ手渡す。
「失礼致します」
断りを入れさえすれば、それ以上何も言わずとも意図は伝わる。司馬師がわずかに腰を浮かした瞬間に、さっと下履を脱がせ着せ替える。もはや慣れた手つきだった。
普通の人より幾分か時間をかけ着替えを終えたのち、彼は何かを探し求めるように手で宙を掻く。その腕をすぐさま握って、鄧艾は目的の場所へと導いた。
「悪いな」
彼はいつも同じセリフを吐く。返事をする代わりに、ひときわ強く手を握って応えて、鄧艾は彼がそちら側へと移るのを手伝った。
車椅子への移乗くらい一人でも出来る。不服そうに彼は言うけれど、つい心配が勝ってしまい手を出してしまう。その内、司馬師は何も言わなくなった。
歩けないというわけではなかった。ちょうどニ年ほど前、邸内で転倒事故を起こし脚を怪我して以降、司馬師はもうずっとこの生活だ。医師からはリハビリをすれば回復すると伝えられたものの、彼は首を横に振った。歩けなくとも充分暮らしていける。そう言って、穏やかに微笑んだ彼の顔を今でも時折、思い出す。
「今日の朝食は?」
「トマトのサラダと、オムレツを焼きました。トーストにはバターか杏のジャムを」
鄧艾はすらすらと先ほど準備した朝食のメニューを彼に伝えた。話しながら、ゆっくりと車椅子を押す。古い西洋造りの邸は、段差が少なくて助かっていた。
「ジャムがいいな」
「承知しました」
寝室を出てリビングを抜ければ、オープンキッチンと一体になったダイニングがある。窓の多いダイニングは朝の日差しが差し込んで、とても清々しかった。
二人用の大きめなテーブル。その定位置に車椅子を固定する。元はもっと背の高いテーブルだったのだが、車椅子の高さに合うよう鄧艾が手を加えた。毎回、座り替えるのは手間だから。
「窓、少し開けますね」
司馬師がこくりと頷く。彼の席のすぐ隣は庭園のよく見える窓があった。その窓を半分ほど開けば、心地良い風が室内へと吹き込んだ。
正面の花壇に植えられたポピーとアネモネがちょうど見頃だ。元々は全て畑に変えてしまうつもりだったが、こうして花が咲き誇る様を眺めると花壇を作って正解だったと思う。花を植えたいと言い出したのは司馬師の方だった。
「―――フフッ。今朝も来たな」
焦点の曖昧な瞳を壁に向けながら、不意に彼はフッと笑った。彼は目を細め、耳を澄ますような素振りをする。それに倣うように、鄧艾も耳をそば立てた。
窓辺に二羽の野鳥が止まり、可愛らしい声で囀っている。此処によく姿を見せるつがいの鳥だった。
「セキレイ」
ポツリと司馬師がその鳥の名を呟く。彼が最初に、その名前を自分に訊ねたのも今日のような暖かな春の日だった。正確にはお腹の黄色いセキレイは、キセキレイと呼ぶ。
「本当に仲睦まじいことだ」
セキレイはつがいで行動することが多いのだそうな。この二羽も、恐らくそうなのだろう。
山中に居を構えるこの邸には、野鳥が訪れることも少なくない。大抵の場合、育てた作物を狙っているので歓迎はできないが。
「今日の朝食は?」
司馬師が先ほどと同じ質問をする。物忘れが始まったというわけではない。先ほどとは、別の意味で訊ねたのだ。
「食パンくずと、林檎を少々」
邸を訪れる野鳥のため、窓辺には鄧艾自作の止まり木を用意していた。そこには餌場と水飲み場がある。
おかげさまで、止まり木は繁盛していた。用意したものを食べてくれるならば、畑が荒らされる心配も減るため安堵していた。彼は野菜の一つ二つくれてやれと言って、笑っていたが。
「我々も朝食をいただきましょう。トーストが冷めてしまいます」
「ああ。そうだな」
淹れたてのコーヒーを二人分、マグカップへ淹れる。火傷してはいけないので、そっと、慎重にそれを彼へと手渡す。彼もまた慎重に、使い慣れたマグカップの持ち手を指で探る仕草をした。
―――彼の目はもう何も見えてはいない
司馬師が全盲となってから、もう五年目になる。最初は苦労の尽きなかった生活にも、近頃はすっかり慣れた様子で。時折、本当は見えているのではないかと疑うほど、音と感触のみで状況を把握する術にも長けてきた。
一年目は食事をするのにも、ありとあらゆることを鄧艾が手伝った。ジャムを塗るのも、フォークを手に取るのも。ただ、ものを口に入れるのでさえ上手くいかずに、何度も自分が口の周りを拭いたのを覚えている。
「美味しいな。このトマト」
「今朝、収穫したばかりです」
今ではご覧の通り。何一つ不自由とは思えない所作で、彼は手慣れた所作で自らでジャムを塗ったトーストを頬張っていた。
他愛もない言葉を交わしながら、つつがなく朝の時間は過ぎてゆく。けれど、鄧艾は無意識に彼の一挙一動作をその目で追ってしまうのだった。もしも、何か起こった際に、一瞬でも早く行動できるようにと。
少し過剰とも思えるくらい、鄧艾が過保護になり始めたのは彼が脚を怪我してから。自分が目を離していなければ、防げた事故だった。今でもそのことを鄧艾は悔やんでいた。
ゆっくりめに朝食を済ませ、鄧艾が後片付けをしている間、司馬師はリビングで何をするでもなく穏やかに過ごす。リビングとダイニングの間にはドアが無く、ひと続きになっているため、キッチンの中にいても彼の姿は視界に入った。鄧艾は数分置きに彼の横顔を確認しては、洗い物を片付けていった。
時刻は十一時少し前。後片付けと、昼食の下準備を終えた鄧艾は、急ぎ足にリビングへと赴く。キッチンからの物音が止んだ時点で、司馬師の注意はすでにこちらに向いていた。
「お待たせ致しました」
鄧艾が自らの存在を知らせるように彼の肩へ触れれば、その上に彼の左手のひらが重なる。幾分か冷たいように感じられて、寒かっただろうかとまた心配を巡らせてしまう。
絡み合う指には、どちらも同じシルバーの指輪が嵌められている。此処に引っ越して来てから、彼がこの指輪を外したことは一度もない。寝る時も、風呂に入る時も、ずっと身に付けたまま。命令されたわけではないが、鄧艾も同様にしていた。なんとなく、そうするべきだと思ったから。
「カーディガン、持って来ましょうか」
「いいや。今日は暖かだからな」
上着は必要ないという彼の言葉に頷き、鄧艾はまた車椅子を押す。朝食後の日課は、庭で陽の光を浴びることだった。
司馬師はこの前庭より外には出ない。今はこの二人で暮らすには幾分か広い洋館が、彼と自分の世界全てだ。
「この潮風の匂いが好きだ」
玄関を出るや、司馬師は大きく息を吸いこんで感嘆するように呟く。庭から海を見渡すことはできないが、潮の香りがその気配を感じさせてくれる。
海からは少し離れているのだが、邸の裏側からは海が見渡せるようになっていた。寝室の窓からならば、遠く広がる蒼を眺めることができた。
「菩提樹の葉のざわめきが好きだ」
風で揺れた木の葉が音を立てる。庭の中央に、ひときわ立派な樹木が生えていた。インドボダイジュの木だ。唯一、この樹木だけは鄧艾が植えたものではなく、元から此処で育っていたものだった。聞いた話によると、築四十年近いこの邸が建つ前からそこに在るらしい。
菩提樹の真下で、鄧艾は車椅子を止める。大きく葉を広げた大木の下には大きな木陰が出来る。真夏であっても、この下で過ごせば心地良かった。強い生命力を感じさせるこの木が、自分も好きだった。
「セキレイの囀りも好きだ」
野鳥たちはすっかり朝食を食べ終えて、また何処かしらへ飛んでいってしまっていた。明日の朝にはまた、きっと此処へ戻って来るだろう。そしてまた、美しい囀りを聴かせてくれる。
この邸の内側に置いては、海の匂いや木々の音、鳥たちの声は娯楽のような存在だった。視覚を失った司馬師にとっては、余計に貴重な刺激だったに違いない。
「そして何より」
木の葉の隙間を縫って見える空の青を仰ぐように、彼はそっと上を向く。けれど、彼の眼球の先が映しているのは空でも木でもない。少し濁った瞳の奥に、鄧艾は自分の姿を見ていた。
見えていないはずなのに、本当に見えているみたいだった。彼の瞳は的確に、いつも自分の姿を映す。まるで、本能的にそうしているかのように。
「―――お前が好きだ。鄧艾」
年月を重ねる毎に、彼の言葉は真っ直ぐに洗練されてゆく。そう感じられるのは、彼の中の何かが変わったからだろうか。それとも変化したのは自分自身か。
同じ台詞をこの生涯でいったい何度、彼の声で聞いただろうか。人を愛する感情そのものが希薄な自分にとって、その言葉は何度聞いても同じ響きにしか感じられない。ずっと、そう思っていたのに。
「此処へ引っ越して来て良かった。お前との時間を、以前よりずっと濃く感じられる」
余計な情報がほとんど入ってこない世間と隔絶された環境は、互いの存在をより強く意識させた。すると、今までと変わらぬものさえ少し違って見えてくる。それが何とは言い表せないけれど。
「幸せだよ。わたしは。ずっと、此処にいたいと思えるくらい」
彼の傍に居ることが自分の当たり前だった。それ以外の人生など、今更考えられなかったし、考える必要性もないと思っていた。これから先も、ずっと。そう言えれば良かったものを、もはや、先は短いことをお互いに言葉で示さずとも理解していた。
「……わたしが死んだら、この場所に眠らせてくれ。ずっと、お前と居たいのだ」
まるで遺言のようなセリフ。けれど、その声に悲嘆はなく、運命をありのままに受け入れたように、彼の落ち着いた口調が望みを告げる。
「墓石など要らない。この菩提樹が墓標で良い」
彼の身分家柄を考えれば、こんな人知れない地で墓も無しに眠るなどあり得ぬことだ。身寄りのない鄧艾ならいざ知らず、司馬師は実家へ戻れば一族の眠る墓がある。
それでも尚、彼は自分の傍が良いと望む。その気持ちを今では素直に受け止めることができる。毎日、屈託なく笑う彼を見ていれば、誰だって、この日々に疑問や不安など抱こうはずがないのだから。
「―――承知いたしました」
彼は気付いているのだろうか。その笑顔が、今では鄧艾の生きる意味になっていたことに。生きる意味などという表現は、少し大袈裟すぎるかも知れない。ただ、自分も現在が何より心地良いと感じていた。
「だから、お前も一緒に……」
司馬師がそのセリフを最後まで口にすることはなかった。鄧艾は両手で優しく包むように、彼の手を握り締めていた。その熱は、言葉以上に感情を雄弁に語る。だから、彼は気付いたのだろう。これ以上、語る必要などないことに。
元より、鄧艾はそのつもりだ。ずっと、傍にいると誓ったのだから。その誓いは死が二人を別つ程度で、破棄されるものではない。終わりなどないのだ。終わりはいつだって、彼が決めることだから。
「……なあ、鄧艾」
しばらくの穏やかな沈黙ののち、司馬師は至極、優しげな声音でその名を呼んだ。鄧艾は返事の代わりに、少しだけ強く、その手を握り返す。
「わたしはどうしようもなく、我が儘な男だ」
自嘲じみた微笑みを浮かべて、彼が鄧艾の左薬指をそっとなぞる。そこにある、所有の証明を確かめるみたいに。
「いつも自分の幸福のために、お前を縛りつけてばかりだ」
自分はそんな風に感じたことなど、一度足りとてなかった。無茶な要求に戸惑うことはあっても、それを息苦しく感じたことなど決してない。
この指輪だってそうだ。それは鄧艾にとって、ただの装飾以上の意味を持たないものだったけれど。その存在を確かめて、口元を緩める彼の反応を見る度、そこには違う意味が生まれる。
「自分の死後くらい、お前には好きに生きて欲しい」
愛おしげな表情を向け、司馬師は見えぬ瞳で自分を映す。
そう言われても、困ってしまう。彼の死後のことなんて、鄧艾は何一つ考えていないのだ。死期が近いことくらいは解っている。すっかり飲む薬の量も増えたし、何より、お互いどうしようもなく老齢なのだから。
「―――そう思ったのだが、やはりダメだ」
幾分か間があって、司馬師は困ったように眉根を下げた。少し冷たい印象を受けるほど美しかった彼の容貌は、年を経て皺が増えたせいか、随分と柔らかい印象を受けるように変化した。
「死ぬことは、さほど怖くはないのだよ。それよりも、お前に忘れられてしまうことの方がずっと怖い」
けれど、どれだけ見た目が変わったとて、その内側はそう簡単には変わりはしない。彼はどうしたって彼だ。我が儘で独占欲が少し強い。時折、どうしようもなく感情的で手に負えないこともある。
随分と性格は穏やかになったとは言え、その片鱗は今でも稀に気配を見せる。それを感じる度、鄧艾は不思議と安堵する。
「死んでしまったら、お前の記憶から自分の存在が薄れてしまうのではないかと思うと、ひどく不安になる」
恐らく、彼は深刻に想いを告げているのだろう。なのに、鄧艾は口元を緩めてしまうのだ。そのどこか子供じみた悩みが可笑しく思えて。
両手は生憎、司馬師の手を握るのに忙しくて塞がってしまっている。綻んだ表情を隠す手段のない鄧艾は、彼の目が見えていなくて良かったと思う。見えていなくても、彼は気付いていたかも知れないけれど。
「なあ、我が儘だろう。わたしがこの世を去っても尚、お前にはわたしのことだけを想っていて欲しいと思ってしまうのだ」
それは我が儘とは少し違う気がした。だって、たとえ彼がそう望まずとも、多分、自分はそうするだろうから。
「生涯ずっと、わたしのことだけを考えていて欲しいと……」
自分の人生とて、あとどれだけ残されているのだろうか。五年、十年。百歳まで生きられたとて、残り二十年程度だ。今日までと彼と共に過ごしてきた時間を考えれば、それほど長いものでもない。
「―――司馬師さん」
今度は、鄧艾がその名を呼ぶ。その声が彼にはどのように聞こえているのか、自分ではよく分からない。自分が彼を大事に想っていることが、伝わっていれば良いと、ただ願うだけ。
「自分はずっと、此処におります。たとえ、貴方がいなくなっても」
彼がそう望んだからではない。自らの意思で、自分は此処を離れることはないだろう。この気持ちを、どうすれば彼に伝えられるのだろうか。感情に疎い鄧艾は、そんな単純なことさえ頭を悩ませてしまう。
「自分は貴方がいた時と、何一つ変わらぬ日々を送るでしょう」
手のひらが、わずかに汗ばんでいた。きっと、彼も気付いただろう。そして、彼は知っているはずだ。自分の手が汗ばむのは、困った時と緊張している時。それから、強い信念を胸に抱いている時と。
「それ以上に、望むものは何もないから―――」
紡ぎながら鄧艾は思う。言葉というものは、どうしてこれほど難しいのだろうか。口下手な鄧艾にとって、言葉で想いを伝えることは何より困難だった。しかし、彼の視覚が失われた以上は、それ無くして、意思疎通を図るのは効率的ではない。
故に鄧艾は善処した。その結果、以前よりは頻繁に口を開くようにはなったが。未だに言葉選びは得意とは言えなかった。
「だから、安心して……」
今もまた、ハッとして言いかけた言葉を飲み込んだ。「だから、安心して死んでくれ」だなんて、まるで彼の死を望んでいるみたいではないか。それは自分の意図とは異なる。慌てて別の言い方を考えるも、焦って言葉は上手く継げない。
「……フフッ。もう良い。分かったから」
その内に、待ちくたびれた彼の方が吹き出してしまう。慌てふためく鄧艾の様を想像したのだろうか。その可笑しそうに笑う姿は、一瞬にして、湿っぽい空気を和ませた。
「もう、悩むのは止める。そんな時間さえ、惜しいから」
残された時間は限られている。それだけは、変えようのない事実で。その時間をどう使おうかなんて、もう考える必要さえない。だって、これ以上求めるものなどない。現在以上の幸福などないのだから。
「お前は永遠にわたしのものだ―――」
果てのない欲望を曝け出す声はひどく優しく。その指は鄧艾の頬に触れ、やがて、唇は永遠を誓う。
潮の匂い、菩提樹のざわめき、セキレイの囀り。それから自分という存在が、彼を幸せだと言わしめる。その笑顔を見るために、自分は此処にいるのだろう。