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照月短文集(仮)

全体公開 9455文字
2023-02-07 19:37:57

Twitterに載せた短い文のまとめ。

  透明な嘘

「お前も何か嘘をついてみろよ」
 月が魅上に向けて発したのは、ただそれだけだった。
 日付を確認せずとも、それがただの戯れ言だということは魅上にもわかっていた。しかしそうであったとしても、彼が神と崇める相手からの指示ならば、例え意味のないことであっても忠実に果たしたい、果たそう、果たすべきだ、そう捉えてしまうのがこの男の性質だった。
 さて、彼はどう出るのだろう。
 そういう男の口からどんな嘘が飛び出すのか、少しばかりの好奇心と期待を携え、月はその時を今か今かと待ち構えていた。
「どうぞ、コーヒーです」
「ありがとう」
 ふわりと漂う湯気の甘い爽やかな香りが、心地よく鼻腔をくすぐる。加えて、気の利く男の間の良い振る舞いに、自然と口角も上がりがちになる。
「随分と色の薄いコーヒーだね」
「今日はアメリカンにしてみました」
 一瞬間の沈黙の後、二人同時に笑い出す。それが、月が待ちに待った瞬間であったことは言うまでもない。
「精一杯?」
「すみません、無理でした」
 互いに止まらない笑いを噛み殺し合いながら、濃い赤橙の液体の揺れるカップに口をつける。男がコーヒーだと言って差し出したのは、いつだったか彼が持ち帰った貰い物の紅茶だった。
 華やかな香りで口内が満たされる。甘味料を加えずとも、ほんのりと感じられる甘さが優しく月の心を満たす。
 なんて愉快なんだろう。
「お前にしては、よく頑張ったね」
 テーブル越しに伸ばした手で、子供を褒めるようにそっと頭を撫でてやれば、嬉しそうに目が細められる。月の期待に応えられたということが、魅上には何よりも喜ばしいのだ。
 最初から最後まで、全く意味のないただの戯れだった。けれど、そんなただの戯れにさえ真剣に取り組む男の様子は、何とも可笑しくて、妙に愛らしく思えて、月は優しく撫でる手のまま、そっと掴んだ髪を軽く引っ張った。


  キス

 はしゃいだ後の沈黙が、隣にいる相手を妙に意識させる。いつまでも慣れることのない居心地の悪さに、魅上は視線を逸らすことで抗おうとしていた。
「キスしようか」
 そんなささやかな抵抗を気にも留めず、マイペースに月が囁きかける。その呼びかけに魅上がぎこちなく視線を向ければ、弧を描く唇に釘付けになる。
「一回だけだよ」
 愉快そうに一言だけ告げて、戸惑う唇に月が優しく触れる。ただ一瞬、重ねられただけの短い口づけだった。情欲を感じさせるようなものでも、魅上の抱く静かな劣情を掻き乱すようなものでもない。
 しかしそうであっても、まるで相手が自分から離れて行くことが受け入れがたいとでも言うように、魅上は珍しく強引に更なる口づけを求めた。
「ダメだよ」
 その動きを綺麗な手が遮る。
「一回だけって言っただろう」
 それでも魅上は離れまいと月の腰に片腕を回したまま、聞き分け悪く頭を振る。
 何を必死になっているんだ。直接そう問うことも可能ではあった。が、滅多とない光景は、口にした条件の撤回を月に意識させた。
「悪い子だね。僕に嘘をつかせるなんて」
 魅上の頑なな態度を咎めるどころか、むしろ褒めるかのような優しげな声が蠱惑の唇からこぼれ落ちる。そしてすかさず、月は相手の望みに応えてやると言わんばかりに、多少の強引さを含んだ口づけを浴びせた。


  笑顔

 初めて抱き締められた時、それが何であるのか私には理解できなかった。だから、と言うのも言い訳に過ぎないが、私は抱き返すことはおろか、何一つその人の行動へ応えることができなかった。
 呆然として、ただ棒立ちしていた男の姿はさぞ間抜けだったのだろう。私から離れた瞬間のあの人の顔が忘れられない。
 思い返す度に胸がざわつくのだ。
 その顔は、神というにはあまりにも純粋な、あまりにも無垢な顔をしていた。


  stigma

 あの人が背中や腕に残す爪の痕が好きだ。例えそれが気まぐれの産物でも、激しいまぐわいの結果であっても、何であろうと等しく愛しいのだ。時折、疼く傷に気を取られては、堪らなく嬉しいと思うことも、そう珍しくはない。
 肩や内腿に残された歯形も然り。その行為は愛咬というらしい。赤黒く痛むその部分に優しく重なるあの人の唇が、癒すように触れる舌先が、ひどく心を掻き乱すのに、どうしようもなく好きなのだ。
 だからといって、被虐性愛の趣味がある訳でもない。あの人が意味もなく手を上げることなどありはしないが、そうなったとして、この痕と同じように喜べはしないだろう。恐らくは……
 私自身があの人に何か痕跡を残すということは滅多にない。許しを得られて尚、絶対にそうしないという訳ではないのだが、それは罪悪感を伴う背徳的な行為に他ならないのだ。私にとっては良からぬ痛みだ。そんなことは、あの人もとうに見抜いているだろう。
 こんなことを言っておきながら、私は今日、一つだけ彼にキスマークを残した。促されて渋々そうした部分もあったが、左胸のその痕を彼はとても喜んでくれた。
 もしもその喜びが私のそれと似たものであるのなら、どんなに幸福だろう。
 全ては私の戯言に過ぎない。



  I wanna be your dog.

 彼が時折見せる寂しげな横顔を私は知っている。
「もし、叶うなら――
 彼のその顔を見ると、余計なことだとわかっていても私は口を挟まずにはいられなかった。
「いつまでも、貴方の傍に居たい……
 間接照明の薄明かりの中、映し出される彼の姿は神と呼ぶにはあまりにも儚く、人と呼ぶにはあまりにも曖昧に見えた。
「僕もそれを願ってるよ」
 寂しげな笑みで彼が私の頭を優しく撫でる。額に口づけを落とし、瞳を見つめながらそっと私の髪を耳にかける。それから少しだけこの身を抱いて、彼は何も言わずに部屋を後にした。
 また余計なことをしてしまった。
 触れられていた部分から彼の悲しみを分け与えられたかのように、体が凍てついて行くような気がした。
 彼が見ている暗闇の正体を私は知らない。ましてや、それを自分などが癒すことも満たすこともできるとは思っていない。
 それでも。それでも、少しでも彼が安らぎを感じてくれるのなら、私は喜んで愛玩動物になりたかった。


  冷蔵庫の夜

 浅くなった眠りの中、魅上は不意に肌寒さを感じ、薄手の布団を手探りで引き寄せた。しかしそれだけでは足らず、手では届かない部分は器用に足先を使い、布団の端を巻き込むようにして温もりを確保する。
 季節外れの行動だ。だが、もう何度繰り返したことかわからない。
 原因は突き止めるまでもなかった。単純に男の右隣で眠るその人が、いつの間にかエアコンの設定温度をやたらと下げてしまっているのだ。
 しかしそれは暑さが原因という訳ではないらしい。早速もぞもぞと動き始めたその人の様子からも、そのことは明らかだった。
 布団が動くのを待っていたかのように、その人が急に体を擦り寄せてくる。冷え切った足を絡め、当然のこととでも言いたげに魅上の腕の中に収まろうとする。それに応え、魅上も自然とその人の身を包み込む。するとすぐに人肌の温もりが互いに混ざり合う。
 口に出すことはなかったが、それは魅上にとっても幸せな時間だった。


  夢のおんせん旅行

 湯上がりの心地好い時間をその人に快適に過ごしてもらう為、部屋の温度や飲み物へと気を配る。もうすぐ浴衣を身につけたあの人が、ほんの少し暑そうにしながら戻ってくるはずだ。時間を確認しつつ、テーブルの上にグラスとつまむものを並べ、観光案内の書かれたうちわもそこへ添える。
 十分なもてなしだ。しかしそれでも魅上は、何か足りないものはないだろうかと、その人が現れるぎりぎりまで思いを巡らせた。
「お先に。とても気持ちよかったよ」
「それは何よりです」
「お前も入っておいで。僕はお前が用意してくれたビールで先にやっておくから」
「では、失礼して」
「ああ、行っておいで」
 プシュッと小気味の良い音を立てる缶をクスクス笑う声を背中で聞きながら、必要なものを抱え、脱衣所へと移動する。引き戸は開けられたままだ。お陰で嫌な熱気は残っていない。その人の気遣いを有り難く思いながら戸を閉め、眼鏡を外し、手早く衣服を脱ぎ捨てる。
 冷静な装いをしていても、やはり魅上も期待しているのだ。
 浴場へと繋がる扉を開ける。到着時に、すでに確認済みではあるが、広さも申し分ない。
 まずは湯加減を見ようとその場所へと足を踏み入れる。皮膚に触れる濡れた石の床が、この瞬間が日常ではないことを感じさせる。
 そこでようやく魅上はあることに気付いた。
「あれは……
 ゆらゆらと黄色い玩具が揺蕩っている。
……アヒル?」
 そう、湯船に浮かぶそれは、間違いなく押せば音の鳴る玩具だった。
 確かにその場所に似つかわしいものではある。だが、それほど似つかわしくないものもない。そう言ってしまえる程度には、この空間では異質の存在だった。
「神が……これを?」
 疑問符ばかりが魅上の脳内を占める。一体何の意図があってこんなものを。
 しかし、いつまでもそうして悩んでいる訳にもいかず、渋々洗い場に落ち着く。手早く洗髪を終わらせ、体を洗い上げる。
 そうしてようやく待ちかねた瞬間が訪れる。
「はぁ……、気持ちいい……
 湯加減は少しぬるいくらいだろうか。ゆっくりと浸かるには丁度いい温度だ。
 アヒルの玩具をもてあそびながら、心地好い揺らぎに身をまかせる。大浴場も温泉の醍醐味ではあるのだろうが、このプライベートの確保された部屋風呂も悪くはない。しかも露天風呂まで味わえるとは、なんと贅沢なことだろう。しばらくしたら次は外へ出よう。
 目蓋を閉じ、静けさに耳を傾ける。
 ゆっくりと湯に浸かることなどほとんどない日常を送ってきた彼等にとって、旅先で迎えるその夜はとても特別な時間のように思えた。



  迷い子

「帰り道を忘れてしまったみたいなんだ」
 キイキイと、彼が動く度に腰掛けているぶらんこが悲しい音を立てる。日が暮れてからもう短くない時間が経過しているというのに、その人はそこから動こうとしなかった。
「ねぇ、照。連れて帰ってよ」
 揺れながら地面を見詰めたまま、そんなことを呟く。その姿は夜に咲く白い花のような優美さと儚さに満ちていた。
「僕を連れて帰ってよ」
 俯いていた顔が上げられ、何よりも美しい双眼が男の胸を打つ。
 何処へ――その短い一言すら、魅上は発せずに開きかけた口を噤む。行動で示すことすらも叶わず、ただその場に立ち尽くすしかない。
「はは、お前の方が捨て犬みたいだ」
 返答に苦しんで見詰め返す男の困った表情に、その人の笑みに熱が蘇る。きっとこれが最良の答えだったのだ。
 愉快そうに揺れるぶらんこがキイキイと鳴る。
 煌々と輝く街灯によって、二人の帰路は何処までも明るく照らされているようだった。


  不幸

 このまま永遠にこの月を見ていたい。そんな愚かな考えが頭をよぎってしまうほど、その満月は美しく輝いてそこにあった。
 不吉さすら感じさせるような、ほんの少し赤みを帯びた黄色が、特別な色として心に刻まれる。欠けることのない完全な形は、木々に遮られたところでその存在を隠すことはできないらしく、ただその方角を見れば、必ず美しい光を捉えられた。
 それは何か、私を見守る尊い存在のようであった。
 それでいて触れられない幻影に恋い焦がれてしまったかのような目眩をも覚えた。魅了されるというのは、こういうことなのではないかとさえ考える始末だった。
 だが、それもほんの十分程度のことだった。高度の変化と共に、その禍々しささえ感じさせたはずの存在感は徐々に小さくなり、狂おしいと思えた色もただの巨大な星が如く何の変哲もない光へと姿を変えていたのだ。
 失望にも似た感覚だった。今も満月は変わらずそこにあるというのに、たった十分という時間の経過によって、私の月は永遠に失われてしまったのだ。
 なんと残酷な仕打ちなのだと立ち尽くしてみたところで、冬空は何も語りはしない。
 私は少しだけ月を憎く思った。


  恋ごころ

「お前なんか嫌いだよ」
 情交を結びながら、そんなことを告げてみた。あまりにも真っ直ぐに僕を見るその目が忌々しかったのだ。
 翌朝の魅上の態度は極端にぎこちないものではあったけれど、酷く傷付いた顔をしていた割には案外普通だった。
 だが、それからは日に日に窶れて行くのがよくわかった。
 一晩中眠れずにいることも、すっかり胃を痛めてしまっていることも僕は知っている。夕食時の本人だけが笑顔だと思い込んでいる顔に涙が滲んでいることも、食べながらこっそりとそれを拭っていることも僕は知っている。
 だから僕は何事もなかったかのように振る舞い続けた。魅上の努力を認めてやらないなんて、そんな非情なことは、僕にはできなかった。理不尽な仕打ちに耐え、一言も不満を漏らすことなく、それどころか未だに僕を気遣い続ける姿はとても健気なものだった。
 その姿を見ているうちに、初めて僕はこの男を愛しいと思えた。


  君にあげる

「ほら、照。星を取ってあげたよ。口を開けてごらん」
 寒空の下、彼は天に伸ばした手を握ったまま、そんなことを言って笑った。
 何の疑念も抱くことなく魅上が素直に従う。すると、綺麗な指先によって舌の上に何かが載せられる。
……?」
 口の中で転がしてみると、それは丸く、沢山の突起を持った甘い菓子であることがわかった。
「金平糖、ですか」
 思い当たる名前を声に出してみる。もう長く口にしていないものではあるが、その独特な造形を間違えるはずがない。
 しかし彼はそれを聞いてまた笑った。
「星だよ。それは僕が照に取ってあげた星だ」


  

 また、夢を見た。いつもと同じ、ろくでもない夢だ。
 だからこれは、今さっき見た悪い夢がそうさせているだけであって、これといって深い意味があるのではない。
 隣に眠る熱に体を押し付ける。ほんの少しでいい。それだけで反射行動のように、必ず相手の腕がこちらに伸ばされる。
 あとは朝まで、黙って抱き枕の役を演じていればいいだけだ。



  

「お前は蝉のようだね」
 いつにも増して唐突な言葉だった。
 その比喩が何を意味しているのかわからず、魅上は曖昧な表情でそれに応えた。わからない言葉はそのままでいい。それは魅上に与えられた居心地の悪い特権だった。
 真意を伝えるつもりが相手にあるのなら、その続きに優しく噛み砕いた言葉があるはずなのだ。そうでないなら、そのまま会話にするつもりのない会話が続くだろう。どちらの言葉が放たれるのか。どちらであっても期待に応えられるよう、注意深く耳をそばだてる。
 そんないじらしい努力も気に留めず、彼は男の頬を親指の腹で優しく撫でながら、何処か翳りのある笑みを見せた。
「僕は好きだよ。生命力を感じられて」
 そのまますらりとした指先が魅上の髪を耳にかける。今日は伝えるつもりはないらしい。魅上は曖昧な表情のまま、静かに続きの言葉を待った。こうした展開は想定の範囲内だった。よくあることだと容易に割り切ってしまえるほど、彼にはそういった言動で魅上を翻弄する癖のようなものがあった。
「僕に出会うために、必死で鳴いてただろう?」
 翳りこそあるものの、慈しむような優しい笑みが男の視界を独占する。真っ直ぐに瞳を覗き込まれ、その不思議な魔力によって動けずにいる魅上の顎を、綺麗な手がそっと持ち上げる。
「やっと土から出て来たんだ、短い夏を楽しむんだよ」
 そう言って彼は、男の後頭部に手を添えながら、物を言おうとする唇を長いキスで塞いだ。
 いつのことだったか、透明な翅を目にしたことがあった。繊細な、色のないステンドグラスのような、そういう翅だった。
 彼が見せた笑みは、遠く幼い日に目にしたそれによく似ていた。


  味見するにはまだ早い

 犯したい。邪念などは何もなく、ただ純粋にそう思ったことは、月にとって想定外の感情だった。
 真剣に書類と向き合う横顔をただ眺めていただけだった。それがどういう訳か、一体何処に眠っていたのか、存在していたことすら忘れていた情欲が、突然呼び起こされたのだ。
 今、ここで無理矢理に手を出したとすれば、彼はどんな顔をするだろう。横から手を伸ばし、顎を掴んで強引にこちらを向かせ口づけを与えたら、どんな抵抗を見せるだろう。頭を押さえつけたまま舌を捩じ込んだとしたら、息継ぎさえ許さないで咥内をまさぐり続けたら――
 犯したい。その感情の前では、上とか下とか、男役だとか女役だとか、そんなことはどっちだって良かった。ただ純粋に、自分の手によって与えられる快感に、身悶えることしか敵わない彼の姿が見たいと思った。
……照」
「どうかしましたか?」
「あ……いや、何でもないよ。気にしないで、続けて」
「そうですか?」
 心の声が音になっていた。
 月が何を考えているのか、魅上に悟れるはずもなく言われた通り作業へと戻る。その横顔を再び盗み見ながら、月は気を紛らわすようにペットボトルの水を飲み干すと、何も言わず空になったそれを手に部屋を後にした。ほんの短い時間であったにもかかわらず、向けられた視線によってまた更に劣情が掻き立てられる気がした。
 後ろ手でドアを閉じ、込み上げる笑いを静かに噛み殺す。
 魅上は月を慕っている。それは事実だ。月が素直に真情を吐露したとすれば、相手は戸惑いながらも全てを彼に差し出すのだろう。だが、それでこの不可解な欲が満たされるはずもない。
 決して悟られてはいけない。それが抱いてしまったこの感情を清算するための、唯一のルールなのだ。
 辿り着いたキッチンで、手にしたペットボトルのラベルを剥がしながら、月は盗み見た男の顔を頭の中に思い描いた。端整な顔立ちが他を寄せ付けない冷たさを放っていた。それは月にとっては新鮮なものだったが、それこそが本来の、長らく彼が他人に見せ続けて来た姿なのだろう。
 まるで鎧か何かだ。
 月は自分すらも寄せ付けないその冷ややかな顔貌に、ますます好奇心が駆り立てられるのを感じた。


  5月に咲いた白い花

 それは白い花だった。
 名前は知らない。けれどもその特徴的な八重の花弁は、はっきりと記憶に刻まれている。
 そう、忘れるはずがない。六月七日、初めてその人に祝福された私の誕生日、その日もこの食卓の上には、この花が飾ってあった。その時は特別その意味に気を留めることもなく、ただ自分のために用意されたその飾り付けを喜んでいたように思う。
 それから一年近くが経過したある日、それは再びこの食卓の上に飾られていた。
 見覚えのある白い花を前に、私はその人に向かって好きな花なのかと問いかけてみた。個人的な趣味嗜好を詮索するようなことをしない私からの問いかけに、その人は少し驚いていたように見えた。が、それも一瞬のことで、彼はただ笑って、これはお前のための花だと私に告げたのだった。
 おかしな話だ。
 私は花を愛でる人間ではない。それはこの花の名前すら記憶していないことからも明らかである。それを見て美しいと思う感性こそ持ち合わせてはいるが、花は花でしかない。街中で見かけたとしても、それは流れて行く名もなき風景の一部でしかないのだ。
 であるのに、その人は私のための花なのだと笑う。
 写真を撮って花屋にでも駆け込めば、花の名前も、返された言葉の意味も、容易に解答は得られるだろう。パソコンでも書物でも、方法はいくらでもある。だが、私は敢えてそういったことはしなかった。
 私の問いに対し、その人は答えへと導く手掛かりすら与えはしなかったのだ。つまりそれは私がその意図に辿り着くことを、積極的には望んでいないと言えるのではないだろうか。しかし、だからといって追究自体を全く禁止された訳でもない。何かの機会に気付くことがあれば、それはそれで良いのだ。
 以来、私はいつか辿り着くのであろうその答えに想像を巡らせた。この不思議な花の存在を楽しむと決めたのだ。幸か不幸か、未だその答えには辿り着けていない。
 そして今日も、この白い花は食卓の上で静かに佇んでいる。


  素敵なディナー

 鍵の開く音が家主の帰宅を告げる。
 今日も予定通りの時間だ。食器棚から二人分のディナープレートを取り出しながら、月がその正確さに笑みを漏らす。
 判で押したような生活。平穏な日常。束の間の休息でなければ欠伸の出るような、変化に乏しい暮らし。新しい日々は、毎日毎日同じことの繰り返しだった。けれど、彼にとってそれは、まだ苦痛や退屈をもたらすまでには至っていない。ともすれば、愉快であるとさえ思えるようになっていた。
「ただいま帰りました」
「おかえり。丁度、夕食が出来上がったところだよ」
 いつものように男が喜ぶ言葉を選択し、微笑を携えて音にする。面倒くさいはずだった仮面選びさえ、今は惜しむ気持ちもない。
「あ、そうだ。コルク抜きは何処だったかな。料理に合わせてワインを冷やしておいたんだ」
 恐らく引き出しを開ければ、そこに目的のものはあるだろう。綺麗に整理された彼の持ち物が、予想する場所で見つからないなどということはない。それでもわざわざ頼ってやるのは、相手に合わせた意味のないサービスに過ぎない。
「こちらに」
 月の思惑など知る由もない男は、喜んで言われたものを引き出しから取り出す。やはりそこにあったらしい。
「何か良いことでも?」
「ん?」
 男が目にしたであろう場所を視線で追えば、容易にその言葉の理由が理解できた。
 テーブルには普段は使われない大きな皿が二枚。それは何か特別な料理の日に使用されるようになったものなのだ。例えば、誕生日であったり、クリスマスであったり、大抵意味のある日だった。
「ああ。うん。記念日かな」
 記念日――その単語と結び付いた光景に、自然と口元が緩む。
 そんな月の姿に、それはとても良いことなのだろうと可愛らしい勘違いをした男が、つられて嬉しそうに笑う。余計なことは問い糺そうとしない態度が好ましい。
「ケーキも買ってあるんだ。後で食べようね」
 こんなことを言えば、男は勘違いし続けるだろう。想像するだけで愉快で堪らない。
 月は柔らかな笑みを湛えたまま、フライパンの中で盛り付けを待つ料理を迎えるため、再びコンロへ向き直った。



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