@saeki_f
敬人の携帯の通知ランプがが赤く光る。音も鳴らなければ振動もしない。だが敬人はそれを見逃さなかった。画面を2秒ほど確認するとスマートフォンをポケットに仕舞い、書類を手にして立ち上がった。
「俺は職員室に行ってくる。伏見、姫宮が逃げないよう見張りを頼んだぞ」
「かしこまりました」
「ちょっとメガネ! いちいち弓弦に釘刺さなくてもボクは逃げないってば!」
「そう言って、昨日も転校生さんに協力させて行方をくらませてしまったのはどなたですか?」
「うう~!」
生徒会室には桃李と弓弦、そして黙々と仕事を片付ける真緒の姿があった。生徒会長は今日も欠席で、敬人が代わりに書類を職員室へ持って行くのは日常になっていた。
敬人が席を離れればこれ幸いと桃李が逃げ出そうとするのもよくあることだ。最近はそのテクニックも巧妙になってきて、弓弦も手を焼いているようだった。英智さえ在席していれば、むしろそこから動こうとしないのだが。
言い合う主従と宥める真緒の声と恨めし気な視線を背中に、敬人はやれやれとため息を吐いて生徒会室を後にした。
「はい、では確かに受け取りました。今週の職員会議に通しておきます」
「よろしくお願いします。では失礼致します」
椚はこの優秀で模範的な生徒を高く評価している。副会長としての仕事をこなしながら人気ユニットのリーダーを務め、そのどちらも疎かにはしていない。佐賀美もこれくらい勤勉に働いてくれたら、とさえ思っていた。
疲労が顔に浮かんでいるが、この後も生徒会室に戻って仕事をするというのだから、教師としてはいつか倒れてしまわないか心配になる。危なくなる前に声を掛けなければと思いながら、椚は姿勢の良い背中を見送った。
しかし敬人の足が向かった先は生徒会室ではなかった。
とある教室の前で足を止める。周りを確認してから静かに扉を開き、薄暗い部屋に滑り込んですぐに鍵をかけた。扉のすぐ横には、壁にもたれて座る男の影があった。
「悪いがすぐ生徒会室に戻らねばならん」
「副会長様は多忙じゃのう」
「5分だけ」
全ての窓が遮光カーテンで覆われた第二視聴覚室。ほんの十年前までは資料映像を見るために使われていたが、PCルームが充実した今となっては誰も使わない。来年度には改装して新たなレッスン室になるという話も出ている。
使われない教室には常に鍵がかかっているはずだが、そんなことは零にとって何の問題にもならなかった。
敬人は眼鏡を外し、零の横に座る。
「お疲れのようじゃの。よしよし、我輩が撫でてやろう」
「髪が乱れない程度で頼む」
大人しく零の肩に頭を預け、大きな白い手にされるがまま。敬人は静かに目を閉じ、このまま眠ってしまいそうなほどリラックスしている。
いったい誰がこんな図を想像できるだろうか?
この二人はむしろ、表立っては対立しているイメージが強い。かつて夢ノ咲学院で暴れまわった五奇人の頭目と、規律を乱す者を取り締まる生徒会の副会長。一般生徒の印象はそんなものだ。二人が並んで話す姿さえ珍しいと囁かれる。
それはあくまで周りののイメージで、実際は入学前からの知り合いであり、先代の生徒会長と副会長でもある。更に元は一緒にユニットを組んでいたのだが、もはやそれを覚えている生徒は少ない。
零は脱力し自分に体重を預ける敬人を見やる。こうして会うときは大抵いくつか言葉を交わすものだが、今日はそれもない。かなり疲れているのが見て取れた。
「おまじないが必要かえ?」
零が声を掛けると敬人は薄く目を開く。眼鏡を取ったため何も見えていないが、特に視覚情報を必要としてはいなかった。自分の隣に零がいる、それだけ感じられれば十分だ。
「……いや、大丈夫だ。まだそこまで消耗していない」
「知っておるか? 蓮巳くんがそう言うときは大体限界が近いんじゃよ」
髪を撫でていた手に力が入ったかと思うと、敬人の頭は零の方へ引き寄せられた。
互いの唇が触れる。零の肌は敬人のものよりも冷たく気持ちが良かった。唇を離す間も、額を合わせたり頬に触れたりして熱を逃がす。
そうして体温が移りきった頃、二人の頭が離れた。
「大丈夫だと言ったのに」
「まあ良いではないか。減るもんじゃなし」
いつでも零には何でもお見通しだ。時折それを悔しく思うこともあるが、今日のように安らぎを与えられることに悪い気は起こらなかった。立場や建前もあり、敬人が疲れたときに寄りかかれる相手は本当に少ない。だからこの時間は一瞬でも無駄にしたくないのだ。
もっとこうしていたいのは山々だが、タイムリミットは目前に迫っている。名残惜しみつつ敬人は眼鏡をかけて立ち上がった。零もそれに倣う。
「そろそろ行く。短時間で振り回して悪かった」
「なに、愛し子のためならどうということはない」
その呼び方は他の人と一緒のようで好きじゃない、と敬人が言ったことがあった。今思えばそれは幼い独占欲の表れで、思い出すだけで恥ずかしくてかなわない。零にとってはみな愛しい相手だから、そう呼ぶのは当然のことなのだ。
どんな呼び方であっても、敬人が零の恋人であることに変わりはないのだから。
「仕事をサボって会いに来る悪い子は甘やかしてやらんとのう」
「うるさい。鍵は閉めておけよ」
照れ隠しのため視線を逸らす敬人に、零はにこりと微笑んでみせた。仕事の合間を縫ってたった5分でも会いたいと言われたことが、零としても嬉しかったのだ。
これ以上は引き留められない代わりに、優しい声で囁く。
「またいつでもお呼び」
その言葉を最後まで確かに耳に届けてから、敬人は部屋を出た。生徒会室を出発したときよりもずっと軽い足取りで。
椚が今の敬人を見れば、過労の心配など不要だと判断しただろう。
触れられた感触を思い出すかのように髪を一撫でして、今度こそ仕事に戻っていった。
一人残された零はスマートフォンを取り出し、つい15分ほど前にやり取りしたメッセージを見返す。
『休憩したい』
『10分後、いつもの場所』
交わした文字はこれだけだ。
敬人が零を呼び出すときはいつもこうしたがメッセージが送られてくる。電子機器でまともに文字が打てない零だが、敬人によって定型文を登録させられているため、最低限の操作で済んでいた。
二人が付き合い始めてからずっと、誰にも気付かれないような隙間の時間に逢瀬を重ねてきた。往々にして敬人の方が自由時間が少ないので、「休憩」を所望するのはほとんど敬人からだ。零はどんな時もそれに応える。5分だろうと一時間だろうと、学院内にさえ居ればいつでも、どこからでも会いに来た。
(もっと頼ってくれて構わんのじゃけど、蓮巳くんはそれを良しとせんのじゃろうな)
どんなに肩の力を抜いていても決めた時間は破らない。一度会ったら少なくとも三日ほどは絶対に呼び出しが無く、敬人なりに自己管理しているのが窺い知れる。きっと今回もまた数日は二人きりで会えないのだろうと思うと寂しさはあったが、まったくストイックな男だと零は笑った。
(そういうところも愛しいのう)
零は携帯をポケットに戻し、再び無人となった第二視聴覚室に鍵をかけた。