@saeki_f
第14回 お風呂
これが自分の選んだやり方だから後悔はない。だがやられたままでいると思うなよ。
強張る腕を無理矢理動かしながら、水の中で敬人はそんなことを思っていた。
何とか這い上がった砂浜で、敬人は動けなくなっていた。まだ死にはしないだろうが、このままじっとしていればそれも危ない。分かっていても冷たい体はガタガタと震えるばかりで、敬人の命令を聞こうとはしないのだ。
スマホはきっと持ち主より先に死んでいる。飲んだ水で咳き込みながら、仏の救いなどという非現実的な想像をしていた時、誰かの声が聞こえた。
「坊主!!」
それは仏ではなく吸血鬼のものだったが、普段は冷たいと感じるその肌でさえ今の敬人には温かく感じられた。
零は敬人に自分のジャケットを着せ、俵担ぎにして駆け出す。人ひとり担いでは歩くのとそう変わらないほどのスピードでも、はやる気持ちが零の足を動かした。
学校に戻り、真っ直ぐ宿泊施設のある棟に向かう。目指しているのは浴室だ。申請が無ければ使用できないが、今は緊急事態であるし、そもそも生徒会長にとってそんなことは何の問題にもならない。
零は次々と扉を開き、脱衣所に砂まみれの冷たい体を下ろす。間髪入れずに眼鏡も衣服も、敬人が身に着けているものは全て取り払っていく。
敬人はぐったりとしていたが流石に何が起きているのか気付いたらしく、目の焦点を零に合わせた。
「自分で、できる」
やっと動いた紫色の唇から出た声は、敬人自身も驚くほど弱々しかった。
「声まで震えてる奴が何言ってんだ」
実際、敬人は指先まで震えて制服のボタンどころかシャツの腕を抜くことすら危うい。恥ずかしかろうと何だろうと、今は零に全て任せるのが最善であった。
ここの風呂が湯を溜めながらシャワーを使える設備で良かったと零は思う。自分は制服を着たまま敬人を浴室内まで引きずり、シャワーから出る水が温かくなったのを確認するとその先を容赦なく敬人の体に向ける。
「熱っ……」
「お前の体が冷たすぎんだよ。我慢しろ、男の子だろ」
言われて敬人は押し黙る。互いに何も言わず、二種類の水音だけが空間を満たした。
熱くて仕方がなかった湯の感覚が少しはマシになった頃、零がシャワーを固定して備え付けてあったシャンプーを手に取った。水の出所が高くなり、零の制服をも濡らしていく。
「あんたも濡れるだろう」
「人のことなんか気にしてる場合か。どうせ何も見えてねーんだろ。黙ってないと泡食うぞ」
零は荒っぽく敬人の髪を洗い始めた。海水に浸っていた気持ち悪さがみるみる消えていく感覚に、敬人は人心地つく。零が何も言わないまま泡を流すものだから、少しだけ苦い思いをしたが。
浴槽が小さいお陰で湯はすぐに溜まった。零は敬人の腕を持って立ち上がらせ、そのまま湯船に突っ込む。動作がいちいち荒っぽすぎると文句を言えるほどには、敬人の唇は動くようになっていた。
「俺様が着替え取って来てやるから、お前は100数えるまで出るなよ」
「どこまで子供扱いする気だ!」
それだけ声が出るなら上等、と言い残して零は浴室を後にした。
残された敬人は、見えないながらに自分の掌を見つめる。湯から温度を貰って震えは止まり、指先まで動かせるようになってきた。もっと長い時間あのまま砂の上に転がっていたらと思うと、温まったはずの背筋も凍る。言われた通り心の中で100まで数えてから、敬人は自力で浴室を出た。
脱衣所にはタオルと青いジャージとスペアの眼鏡、そしてどこから調達したのか新品の下着まで並べてあった。それらをありがたく身に着け終わった頃、緑のジャージを着た零が再び入ってきた。
零はまた荒っぽくタオルでわしわしと頭を拭き、短い髪にドライヤーをかけてやる。敬人には零の髪がまだ濡れているのが見えたが、それについては黙っていた。
二人は脱衣所を後にして、空いていたレッスン室まで移動した。敬人の制服は洗濯場へ持って行ったので後日回収することになり、ひとまず全て落ち着いて床に腰を下ろす。
温かい体に乾いた服。そんな当然のことが今の敬人にはとてもありがたい。
「靴は今日中に乾かねーだろうから、体育用の靴履いて帰れ」
「そうだな」
「全く、天下の俺様ちゃんがここまでしてやるのは凛月とお前くらいだぞ」
ため息交じりの言葉に、敬人は同意しかねた。きっとこの男は誰にだって手を差し伸べる。そういうことができてしまう人だからと。俯く敬人に零が近付く。
「ほらよ、こいつもサービスだ」
差し出されたのはホットの缶カフェオレだった。普段の敬人はブラックばかり飲んでいるが、体力を使ってしまった今はその甘さもまろやかさも体に染み渡る。思わずため息をこぼしたところに、零は本題を切り出した。
「なんであんな所に倒れてた?……いや、なんで海に落ちた?」
「……」
放課後、敬人は学校裏の海に落ちた。咄嗟に眼鏡を庇ったお陰で岸の方向は見失わなかったが、冬の冷たい海は数分泳いだだけで簡単に体力と温度を奪っていった。何とか陸に上がった時点で力尽き、そこを零に助けられたのだ。
「言わなきゃお前がこっそり描いてる漫画を全校生徒に配るぞ」
「足を滑らせたんだ! 全く恥ずかしい!」
「……お前、ときどき間抜けだな」
「だから言いたくなかったんだ!」
零がけらけらと笑う裏で、敬人は今日あったことを思い出していた。
夢ノ咲学院の生徒が裏の海でたむろしているという噂を聞いて確かめに行ったところ、後ろから何者かに突き飛ばされた。
『朔間零のお気に入りだからってガミガミうるせーんだよ』
それは冷たい水の中で、敬人が途切れ途切れに聞いた声だ。
零に協力を仰いだ時点で覚悟はしていた。強大な力にすり寄る危険も理解しているつもりだった。近頃は嫌味を言われる回数も減って、油断した矢先の出来事だった。
(俺は、虎の威を借る狐だ)
原因が原因なだけに、一人で首を突っ込むからには自分で何とかしてみせる。そう思って敬人は零に何も言わなかった。犯人の顔は確認できなかったが、必ず突き止めてやるつもりだ。だがそれは明日からの話。体調のためにも今日はもう帰れと零に言われ、大人しく従うことにする。
「送ってやろうか?」
「結構だ!」
すっかり良くなった顔色で、敬人は元気に下校した。今は人を頼ることしかできないが、必ず実力をつけてやるのだと意気込んで。そして自分を陥れた相手をどうやって見つけ出すかを考えながら。
それを確認し、零はふらりと生徒会室に立ち寄る。棚から分厚いファイルを取り出してページをめくり始めた。在校生の名簿だ。
零は最初から全て見ていた。昼寝から起きた折、窓辺から見えた光景で即座に目を覚ました。偶然ではあったが、そのお陰で早い段階で駆け付けることができたのだ。
敬人は零の力を頼る割に、庇護を受けるのを良しとしない。零もそれを弁えているから、全て知っていても敬人の意志を尊重したのだった。
だが見てしまったものを丸ごと無かったことにできるほど、零は敬人との縁を蔑ろにはしていない。
(お前は虎の威を借る狐だ~とか思ってるんだろうし、まあ実際そうなんだけどよ。この虎は狐のことが好きだから一緒に居るんだぜ)
翌日、敬人を海に突き落とした犯人が学院から姿を消した。
第15回 クリスマスプレゼント
スタフェスという大きな荷物が一つ肩から下り、ひとまずは安心だ。S1は無事に終えられる度に多大な達成感を得られるが、同時に疲労がどっと押し寄せる。今も事後手続きの書類と向き合ってはいるが、正直なところ眠くて仕方がない。
残る年内の大規模イベントはSSのみ。そちらの準備は順調だ。だから少し気が緩んだのかもしれない。ふと力が抜けて、俺は机の上に突っ伏していた。
目が覚めると自室の布団の中だった。いつの間に帰ったのか分からないがまあ良いだろう。時計は見えないが辺りは真っ暗で、今はきっと深夜だ。
ならば寝直そうと再び布団に潜ろうとしたら、闇の中で影が動いた気がした。枕元の眼鏡をかけてよく見てみると、真っ赤な服を着た朔間さんが現れた。
「不法侵入だぞ」
この人が突然現れるのはいつものことでも、深夜に妙な格好でやって来たら通報されても文句は言えない。しかしこういう服は趣味じゃなかったような気がするんだが。
朔間さんはきょとんとしている。
「呼んだのはおぬしじゃろ」
「そうだったか……? それにしても朔間さん、何だその格好は」
「我輩はサクマではない。サンタじゃ」
暗さに目が慣れて、目の前の様子が見えるようになってきた。言われてみると確かにサンタクロースだ。でも顔は朔間さんだ。
クリスマスに縁のない人生を送ってきたものだから、サンタクロースには初めて会った。
「ああ、そうか。初めまして」
「うむ。良い子にしておった君にプレゼントじゃ。大豆の苗をあげよう」
サンタが担いでいた大きな袋から、丸い葉が揺れる小さな苗木を差し出された。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い……とまではいかないものの、それは俺には不要なものだ。
「悪いが俺は大豆が嫌いなんだ」
「そうかえ? ならこれはどうじゃ」
苗を袋に戻したサンタは代わりに何かを取り出すでもなく、天に向かって立てた人差し指をくるりと一回転させた。何が起こるのかと待ってみても、別段変わることはない。朔間さんが満足気に笑っているのを見る限り、俺には何かが与えられたはずなのだが。
「今のは?」
「君を助けるサンタの魔法じゃ」
サンタは魔法が使えたのか。魔法ならもっとキラキラしたり、かけられた側に何かあっても良さそうなものを。案外地味だ。
「何も起こらないぞ」
「その内分かる」
俺にはまだよく分からないまま、サンタは白い袋を担ぎ直して部屋の出口へ向かった。サンタは徒歩で玄関から入ってきたらしい。そもそも、うちには煙突が無いからな。
「では、我輩は次の子供にプレゼントを配りに行くぞい」
その背中を見送ったところで、今度こそ本当に目が覚めた。
場所は生徒会室に戻っていて、目の前には書きかけだった書類。焦って時計を確認すると、居眠りしていたのは20分ほどらしかった。
仮眠で少しだけ頭がすっきりした。仕事に戻ろうと机を見渡すと、おかしな点がいくつもあることに気付く。
まず、俺が下敷きにしていた以外の書類が全て片付いている。寝落ちする前に終えてしまった……いや、そんな記憶はない。この短時間の間に誰かが終わらせたんだ。誰が? という疑問は一度保留にしておく。
何より明らかに変わった点。俺が持ち込んだ覚えのない包みが一つ置いてある。仕事を片付けた人が置いて行った可能性は高い。深緑のラッピングに金色のリボン、どう見てもこれはプレゼントだ。誰に? 俺に?
考えられる可能性はかなり絞られている。生徒会室に俺しか居なかった以上、これは十中八九俺宛てのプレゼントなのだろう。では、誰から? 全ては包みを開いてからだ。
袋を開けて、あまりのことに言葉が出なかった。大きめの本だということは持った時に分かったが、これは俺が長年探していた画集じゃないか。絶版になっていて中古でもかなり値の張る品が、新品の姿で目の前にある。俺はまだ夢を見ているのではなかろうか。
感動の一方、これで可能性は更に絞られた。画集の話をしたことがある人物は、この学院に二人しか居ないからだ。
ラッピングを改めると、小さなカードがひらりと落ちた。さて差出人は天使か悪魔か。名前は書かれていなかったが、筆跡には見覚えがあった。何より決定的なのは「For Keito From Satan」の文字。
そこはサンタじゃないのかと思わず苦笑した。クリスマスに魔王からの贈り物とは、随分と洒落が効いたことをする。
そういえば、さっきは扉の音で目が覚めた気がする。寝ている間にあの書類を片付けていたのだから、まだそう遠くへは行っていないだろう。あの人のことだからきっと追いつくまで待ってくれる。
クリスマスでこんなにも心躍ったのは初めてかもしれない。自分が仏教徒だというのはこの際どうでも良い。18歳にして初めて現れたサンタクロースに礼を言わなければ。
まだ夢の中のような高揚した気持ちのまま、俺は生徒会室を飛び出した。
第17回 和装
元旦は紅白戦のために一日家を空けていたが、二日からは違う。赤い羽織を地味な着物に着替え、早朝から寺の手伝いが始まった。初詣だ。
三が日中は特に参拝客が多い。俺の仕事はお参りの列整理と駐車場の誘導。兄も似たようなもので、昨日がどれほど大変だったか顔を合わせる度に主張してくる。悪いが、俺も仕事だったからな。
午前中は生徒会の仕事に引けを取らないほどの忙しさだったが、午後には人波も引く。列の整理などが必要なくなったら、今度は明日のための掃除が始まる。人が多いものだからどうしても砂地は荒れるし、石の上も埃が乗るのだ。それでも人混みと対峙するよりはずっと楽な仕事で、ようやく落ち着きを取り戻した。
日が傾いてきて、そろそろ片付けて中に入ろうと思った時。長い影が俺の足元にぶつかる。
「その格好じゃと、本当にただの坊主じゃの」
和装の悪魔が夕陽を背に現れた。昨日の姿とはうって変わって、濃い灰色の羽織と着物に臙脂の帯。白い羽織姿も新鮮だったが、やはりこの人には夜の色が似合う。
「吸血鬼も着物を着るんだな」
「似合うかえ?」
「返事が分かっていることを聞くんじゃない」
この人が「似合っている」という言葉を俺に求めているのも分かっている。だから一層言ってやるのは悔しいじゃないか。「和」は紅月の専売特許だぞ。
「まあ、ゆっくりしていけ。こんな時間に参拝するのはあんたくらいだ」
「我輩にとっては今が朝みたいなもんじゃし」
昨日の日中に働いた分、今日はよく寝たのだろう。顔色も良いし声も元気だ。しかし朔間さんはまだ参拝に行かず、浮かない表情で訴えかけてくる。
「本当はな、この着物は凛月とお揃いなんじゃ。でも一緒に初詣に行こうと言ったら「一緒に外出なんて死んでも嫌。俺はま~くんと神社に行くって約束してるの」と振られてしもうてな……まあ、お揃いを着てくれただけでも我輩は感涙ものなんじゃけど」
正月早々、俺は何の話を聞かされているんだ。というか衣更を少しくらい休ませてやったらどうだ。どいつもこいつも俺が言って聞くような奴ではないから、言葉には出さなかったが。
「兄は寺で、弟は神社か。好きな所へ詣でれば良いとは思うが、どこまでも無宗教だな」
「そういう家なんじゃ」
「で、寂しくて俺の所へ来たということか?」
「半分正解じゃが、もともと我輩はここへ来ようと思っておったよ」
そうやってにこりと笑われると弱い。弟の代わりにするなと説教してやろうと思ったのに、不意打ちだ。
俺が負けを認めて満足したのか、朔間さんはようやく本堂へ向かって歩き出した。
「さて、せめて日が沈む前にお参りしてこようかの」
「そうした方が良い」
「蓮巳くんは初詣を終わらせたのかえ?」
「当然だ。昨日の早朝にな。というか、参拝は毎日行っている」
「何を願ったんじゃ」
「それを人に聞くか……まあ、一年の健康と仕事の成功だな。あんたは何を願うんだ」
「ううむ、愛し子たちの平穏かのう」
ああ、やはりこの人はこうなのだ。どんなときも与えてばかり。
「今年も他人優先なんだな」
「自分のことは自力で何とかできる。他人のことはどうにもならん場合もあるから、そこは仏様にお願いするしかなかろ」
絶対的な力を持つ者の言葉だ。羨ましくもあり、寂しいような気もする。あんた自身のことは確かに自力で何とかできるだろうが、それでは誰もあんたのために願ってくれないだろうが。
「……俺ももう一度参拝しよう」
「えっ、どうしたんじゃ急に」
「初詣でひとつ忘れていたことがあった。今ならまだセーフだろう」
「蓮巳くん、寺の子なのに結構アバウトになるときがあるのう……」
何とでも言うが良い。あんたのために願いを追加してやる。仏様だって、さすがに毎日参拝している子供の顔くらい覚えてくださっているだろう。
二人で並んで静かに手を合わせた。日が沈む、本当にギリギリの時間だ。
横に立っている男が与えてきたものが、良い形で帰ってきますように。
返礼祭が近い。俺の願いはきっと叶えられるはずだ。
第18回 節分祭
fineがレッスンで不在の生徒会室。敬人と真緒は静かに、しかし慌ただしく書類に追われていた。控えめなノックが聞こえたのはそのお陰だろう。
この忙しい時に新しい企画書が来るのでは。新設されたS3の企画書に忙殺されている二人にはそんな考えが過った。忙しいのが嫌なだけで、この活気づいた状態は嬉しい悲鳴といえるのだが。
「失礼するぞい」
そんな生徒会室内の空気をよそに、朔間零が入ってきた。二人の予想通り、その手には書類が握られている。
「朔間先輩、S3の企画書ですか?」
「うむ。ああ、天翔院くんらはレッスンじゃったな。では蓮巳くんに預けるとしよう」
零はすたすたと敬人が座る席へ歩いて、敬人の目の前に立つ。まるで最初からそうすることを決めていたかのような。
そのまま書類を机に置こうとしたところで、真緒が声をかけた。
「俺も結構ですけど、副会長かなり忙しそうなんで俺が預かっときますよ」
それは善意からの言葉。もちろん零もそれを理解しているだろう。だが、零はなぜか真緒を振り返らず蓮巳の方を見た。
真緒が不審に思うか思わないかギリギリのところで敬人が口を開く。
「……いや、これは俺が見よう。この男の企画だ。どこかに抜け道を作ってとんでもないことをする可能性がある」
「え、まあ、副会長が良いなら良いですけど」
「よろしく頼むぞ」
あっさりとした挨拶をして来訪者は去っていった。残された二人は再び仕事に戻る。朔間先輩がここに居るの、何か不思議な感じですねという真緒の雑談に、敬人はぼんやりとした言葉しか返せなかった。
零から受け取った書類を二度ほど読み返し、それを持ったまま敬人は立ち上がった。
「衣更、悪いがこれについて朔間さんに聞くことがある。30分ほど抜けるぞ」
「はーい、いってらっしゃい」
真緒は気付いていなかった。敬人の声が少し緊張していたのも、普段より早足だったのも、その手にある書類に敬人宛て付箋が貼ってあったのも。
(不自然に思われてはいないようだな……嘘は吐いていないが、これは内密に進めなければ)
零の居場所は分かっている。二人が秘密の話をするときにいつも選ぶ場所だ。
自然と早足になっているのは焦りなどではなく、ちょっとした高揚感から。
(しかし、あの人から助力を請われる日が来ようとはな)
不安はある。だが期待もしている。鼓動が速く、息も少し乱れている。そんな姿を見られたくなくて、敬人は目的地の手前で一呼吸置いてからそのドアを開いた。
「思ったより遅かったのう」
「こいつをじっくり読んできたからな。概要の説明はいらん」
「それは助かる。では単刀直入に、『節分祭』の実現は可能かえ?」
「企画としては申し分ない。あんたの発案ということで規模が大きくなりそうなのが懸念点だが、豆を撒くスタッフが多ければ転校生の負担も軽くなるだろうしな。あの内容なら英智も却下はしないだろう」
口うるさい敬人がそう結論付けたなら十中八九問題はないだろう。零は満足気に頷いた。
「問題は……というか、俺が聞きたいのはもう一つの企画書の方だ」
紙束を受け取った敬人がまず気付いたのは、通常の企画書よりも枚数が多いという点だった。半分ほど読み終えた時点で企画の内容は十分に説明され、一度そこで終わっていた。そして次のページをめくると、裏企画書とでも呼ぶべきものが現れたのだ。
そこには零の文字で敬人へ宛てたメッセージが貼られていて、こうして直接会いに来た次第だった。
「そうじゃろうな、何でも聞くが良い。蓮巳くんはある種この計画の要じゃ」
「企画の意図も仕組みも分かるが……なぜ俺なんだ? あんたの頼みなら聞いてくれる人間がいくらでもいるだろう」
この裏企画書にはいくつかの役割が書いてある。中心の葵兄弟を除いて、名指しでその役割が与えられているのは敬人だけだ。スタッフ側で鬼たちの誤情報を流す、いわばスパイとして。
「なるべく多くの生徒の目を欺く必要があるからのう。我輩に近しい人間は今回のスパイには向かん。それに何よりおぬしは我輩を理解しておるし、我輩はおぬしを信頼しておる。スパイというのはそういう相手にしか頼めんのじゃ」
けろりとそんなことを言われたものだから、敬人は数秒の間言葉を失った。そんなこと、一年前には言ってくれなかったくせに。気恥ずかしいようなむず痒いような、とにかく妙な気分だった。
「あんたに認めてもらうのは変な感じだ」
「おや、そうかえ?」
「全く……まあ、それだけ言われたら応えないわけにはいかんな」
そもそも、零が誰かを頼ろうとするのは中々珍しい。しかも大体の場合は相手を成長させるためにわざとやっていることが多いのだ。
今回は人手が必要という状況もあるが、力を借りるばかりだった相手から頼られるようになって悪い気はしない。
「期待しておるよ。くくく、愛し子らのためとはいえ、おぬしとまた手を組めるとはの。これは失敗できんわい」
零も同じ思いなのか楽しそうに笑う。自由になった魔物の、お節介で優しい悪戯。
「予定外に早くやられて足を引っ張るような真似はするなよ。そうだな……俺が表だって動かんように、運営は衣更に任せよう。次期生徒会長にも、こういう経験をしてもらわんとな」
敬人も意外と我が子を崖から落として鍛えるタイプらしい。可愛い後輩のための計画ではあるが、久し振りの悪だくみに二人の心は踊っていた。
卒業を控えた三年生は感傷的にもなるし、ときに凶暴にもなる。幸せな結末を目指して、魔物は愛しい子のために牙を剥くのだ。
第19回 バレンタイン
「ねえ……なんか箱が少なくない? 本当にこれで全部?」
「ああ。さっき他のユニットとも確認したし、箱の数も合っている。これで全部だ」
「いや、コレ……ぜって~足りねえだろ」
「そんなはずは……あっ」
「「「あ?」」」
ショコラフェス直前に発覚した配布用チョコレートの発注ミス。あまりにも少ない残り時間、UNDEADのメンバーが選んだのは不足分を自作するという、妥当かつ堅実な方法だった。
「うっうっ、すまんのう皆……我輩のミスでこんな目に遭わせてしもうて」
「いいから口じゃなくて手を動かしやがれ! こっちはテメ~がチョコ溶かすの待ってんだよ!」
「ショコラフェスじゃなきゃ絶対にサボってたけど、女の子に悲しい顔はさせられないからねえ」
「朔間先輩、疲れていたんだろう。全てのチョコレートを砕いたら俺もそちらを手伝う」
「我輩は良いメンバーに恵まれたのう……」
アドニスが業務用のチョコレートを細かく砕き、零がそれを湯煎にかけ、晃牙が他の材料と混ぜ合わせて冷やし、冷えた端から薫が成形する。小さな工場のごとき連携プレーである。
幸いなことに他のユニットは計画的に数を生産していたため、キッチンを自由に使うことができた。昼から始めた作業、そろそろ一般の生徒の下校時間が近付いてきたが、必要な数まではまだ半分ほど残っている。四人とも慣れてきたとはいえ、気が遠くなりそうだ。
そんなキッチンに、三つの足音が近付く。
「ややっ、これはあんでっどの面々。このような時間に何をしておられるのか?」
レッスンを終えて帰宅しようとしていた紅月の三人だ。チョコレートの香りに反応した颯馬が中を覗き込んできた。つられて敬人と紅郎も足を止める。
「神崎。実は発注ミスをしてしまって、足りない分を急遽作ることになったんだ」
アドニスはまだ元気だが残りの三人はげんなりとして、作業時間の長さが一目で窺える。その様子を見て紅郎が一歩前に出た。
「そりゃ大変だな。俺も手伝うぜ」
「我もである」
「いや、これは我輩のミスじゃ。他のユニットにまで迷惑はかけられん」
レッスンを終えたばかり、しかも明日は本番だというのに重労働はさせられない。手伝ってほしいというのが正直なところだが、こんな状況でもミスの後始末に巻き込むのは零の気が引けた。
だが紅郎も颯馬も引き下がらない。
「水臭えこと言うなって」
「うむ。『ぱふぉおまんす』のれっすんのお礼であるぞ」
「おい、貴様ら」
あくまで手を貸そうとする二人に、今度は敬人が口を挟む。その目は「明日は本番だぞ」というよりはむしろ、「それは良くないんじゃないか」と言っているようだ。紅郎がそれを察した。
「言いてえことは分かってるよ。俺らが手伝ったら『UNDEADの手作り』じゃなくなっちまうってことだろ? 心配すんな。流れ作業になってるみてえだし、その一部に手を貸すだけだ。俺達だけで完成させたりはしねえよ」
ファンを想う気持ちは互いに理解している。チョコレート作りももちろん大切だが、それで本番のパフォーマンスに支障をきたしては元も子もない。敬人はそう判断した。
「ふむ……分かった。生徒会としても、ドリフェスを円滑に進めたいしな。やり過ぎん程度に手を貸そう。朔間さん、良いな?」
「……うむ、そこまで言われて厚意を無下にはできん。よろしく頼もう」
朔間零が頭を下げる。頼む側であるのだから当然だが、敬人は心中ぎょっとしていた。
「じゃあ早速だが、俺は乙狩を手伝うぜ。力仕事だからな」
「心強い」
「我は成形をするとしよう。羽風殿がサボらぬよう見張らねば」
「今日はサボんないよ。ほんとほんと」
適材適所。紅郎と颯馬はそれぞれ自分が役に立ちそうな持ち場についた。残った敬人は晃牙と零を交互に見る。
「こっちは良いから吸血鬼ヤロ~を手伝ってくれ。さっきから待ってばっかだからよう」
「分かった」
零の傍には粉砕されたチョコレートが山になっている。ここがボトルネックになっているようだ。力仕事でもなく技術も要らないが、絶対的に時間がかかってしまう工程なのだろう。
「すまんのう蓮巳くん。お湯を沸かしておくれ。火傷せんようにな」
一口しか使っていなかったコンロをフル稼働させ、二人で次々に湯を沸かす。二月だというのに、この空間だけは暑いほどだ。
塊を残さないようヘラでかき混ぜながら、敬人が口を開いた。
「業者への発注はあんたがしていたな。こんな凡ミスとは珍しい」
「うう、返す言葉もない……」
零はまたしょんぼりとしてしまったが、敬人はそんなつもりで言ったのではない。
「知っているぞ。貴様、ユニットのレッスンで最近はずっと朝から活動していたのだろう。そんな時に俺達とのレッスンまで頼んで……悪かったな」
紅月に、そして敬人にはあまりにも不得手なテーマ。ふとした思い付きのようなものから紅月はUNDEADと合同レッスンを組んだが、その時から零の調子はあまり芳しくなかった。敬人にも寝不足で仕事のパフォーマンスを下げた経験が何度もあるため、普段はしないようなミスをしてしまうのもよく分かる。
「いいや、紅月の面々は何も悪いことなどしておらぬ。我輩の自己管理の甘さが招いた結果じゃよ。それにあのレッスン、我輩としては柄にもなく可愛らしい蓮巳くんを見れて元気が出たしのう」
こちらは真面目なのに茶化すなと敬人は言おうとしたが、零の顔を見て止めた。本当に、愛しいものを見ているような表情をしていたものだから。
「あれは忘れろ。明日があれだと思ったら大間違いだぞ」
「おや、打開策を思いついたんじゃな?」
「無論だ。UNDEADは俺達の後だったな? ファンを総取りしてやるつもりだから覚悟しておくんだな」
そう語る敬人は上機嫌だ。本当に良い打開策を見つけたのだろう。
UNDEADは客を魅了することに長けたユニットだからと心配などしていなかったが、これは明日何が起こるか分からない。明日のステージを元気に見るためにも、今この場を乗り切らなければ。零は気合を入れ直し、次のチョコレートが入ったボウルを手にした。