@saeki_f
深夜、黒蓮会本部。見張りの者以外はほとんど寝静まった屋敷の中、まだ明かりが消える様子のない部屋がある。千冬がよく雑務処理に使用する書斎に、乾いたノックが響いた。
「組の事務処理かな? 大変だねえ、もう若くないのに」
「もうすぐ終わる。というか、何だその露骨な嫌味は……」
ノックの返事が終わる前に入室する人間は、ここには数えるほどしかいない。そもそも千冬には誰が入ってくるか大体の予想がついていたので、さして問題はなかった。しかし開口一番に歳のことを言われるとは思わず、手元の書類から目を離さずに溜息を吐くことになった。
机に向かっていてさえ上機嫌なのが感じ取れるほど、シュウの声は喜びの色を帯びていた。シュウだって千冬と同じく連日やってくる書類に囲まれているはずなのだが、こんなところで油を売っていて良いのか。
「そういうお前は忙しくないのか」
「俺? ぜーんぜん。可愛くない方の上司が俺の仕事をちょっとだけ引き取ってくれてね。まあ、あの人が必要な案件だったから当然だけど。可愛い方の上司は疲れ果てて寝ちゃったし」
ほんと、まだまだ子供だよねえとシュウは笑った。マキのことを話すときの彼は、少しだけ優しい顔になる。
それにしても、当分はデスマーチが続くと思っていたシュウの仕事がひと段落するとは。なるほど上機嫌にもなるわけだと千冬は納得した。
件の爆発事件から時は進んだ。少なくとも、その話題が蛮区の市民達の口から滅多に出なくなる程度には。黒蓮会もようやく落ち着きを取り戻し始めたとはいえ、式典に関わった各所はまだ事後処理が残っており、幹部たちの様子はまだせわしない。
そんな中、可愛くない方の上司……鴻上がシュウの仕事を引き上げてくれたというのだから、千冬にとっては羨ましい限りだ。出来ることなら自分の分も誰かに肩代わりしてほしいと思うほど、千冬の所には様々な仕事が集まっていた。
今日まで同じ境遇にいたからか、シュウは温かい湯呑を差し出すという気遣いを見せた。暇を見せつけに来たわけではなさそうだ。
「はい、お茶」
「ああ、悪い……変わった味がするな、これ」
「そうかな? 祖国では割と一般的なんだけど。一息ついでに、少し俺の話に付き合ってくれないかな」
「? 構わないが」
差し出されたお茶を飲みつつ、千冬は書類から目を離さない。残りの資料に目を通せば、後はユーゴに説明して判を貰うだけで済む。ユーゴは明日の昼からしばらく外出になるから、これは明日の朝までに揃えておかなければ。
「最近、外国からの物の出入りが増えたじゃない」
「そうだな。爆発事件があったとはいえ、未だ蛮区が世界の注目を集めている証拠だ」
他所の組、あるいはマフィアが輸入する怪しい荷物も黒蓮会が目を光らせている。休戦して以降何かと協力せざるを得なくなったZENCAは別段問題も無さそうだが、西の中小勢力が混乱に乗じて小細工をしようとしていたこともあった。
そう言われればそろそろ審査のタイミングで、千冬はまた頭が重くなった。そんな様子をよそにシュウは続ける。
「俺個人としても、結構良い事が多くてね。今まで手に入りにくかった本や、情報が入ってくるようになった」
「そりゃ良かったな」
話の先が中々見えないので、千冬は半分流しながら聞いている。シュウもそれは分かっているはずだが、気にしてはいないようだ。
千冬は記述の手を止めないまま茶をもう一口飲んだ。やはり変な味だが、無いよりは良い。
「祖国で使ってた漢方とか、珍しい植物もね」
「へえ……っ!?」
不意に千冬の右手に収まっていたペンが滑り出た。机から落ちはしなかったものの、千冬がそれに気付くまでにはいつもより時間がかかった。
気のせいかと思ったが違う。千冬は確かに、自分に起こっている異変を自覚しつつあった。手だけではない、体全体に力が入らない。原因はすぐに分かった。
シュウの上機嫌も、よく分からない世間話も、ここに通じていたということか。
「どうしたの? ちー」
「どうしたじゃない、お前、何を飲ませた?」
「『珍しい草』だよ。いつもはユーゴに試すんだけど、あの通りめちゃくちゃ丈夫だからね。一般的な体の人に試してみたかったんだ」
この頃は大人しくしていたから千冬もすっかり忘れていたが、シュウは油断のならない人物なのだ。隙あらばオリジナルブレンドの薬を試そうとしてくるという迷惑な行動は、千冬も何度か体験済みだ。料理の際に台所で妙な小瓶を見つけることさえあった。
連日の疲れもあり、疑う暇もなく湯呑に口をつけてしまったことを悔いた。そもそもなぜ身内に気を付けなければならないのかは考えたくない。
だが、こんなに症状が重いのは初めてだ。量を間違えたのか? シュウに限って?
「今、どんな感じ?」
「体に力が入らねえ……軽く目眩もする」
「おや、ちょっと量が多すぎたかな。参考になるよ」
わざとらしく話すシュウに対し、千冬は鋭い一瞥を向ける。ヒラの者であればそれだけで竦み上がる視線だが、ヒラどころか組の者ですらないシュウはものともしない。
やはり薬の量を間違えたのではないのだ、シュウとしては。殴りかかりたくても、今の状態では立つことすら危うい。机に肘をつき、何とか倒れないように支えている。
「ふふふ、大丈夫。死にはしない」
「当たり前だ……っ、後で覚えてろよ……!」
ゆっくり話さなければ呂律も回らなくなってきた。
一体シュウが何をしたいのか、千冬には皆目見当もつかない。何か恨みを買うような事をした覚えもなければ、ここまできて裏切ったなんて重大な事件でもなさそうだ。
ただの悪戯にしては性質が悪すぎるし、シュウが千冬にこんなことをする意味が分からない。
「もちろん覚えておくよ。こんなに弱った君なんて、そうそう見れるものじゃない」
シュウは至極自然に、千冬との距離を詰めてきた。腕を伸ばされて千冬は身構えるが、抵抗らしい抵抗もできずあっさりと肩を押され、ソファの背もたれに体を預けることになった。
抗えないのを良い事に、シュウは千冬の顔の横に手を突くほど近付く。長い前髪が、千冬の眼鏡を掠めた。
こんなに接近したのはおそらく千冬が胸倉を掴んだ時くらいだろう。今のような状態でとるべき距離ではない、はずだ。
千冬は動けない。そこに迫るシュウはまるで。
「シュウ、何を」
「後で存分に殴ってくれて構わない」
次の瞬間に千冬が感じたのは零距離の息遣いと、唇の柔らかい温度。
思わず千冬は息を詰めたが、シュウに頭を撫でられてゆっくりと呼吸して、つい目を閉じてしまった。
恋人でもない、ましてや男にキスされているのだと分かっているのに突き放せないのは、果たして薬のせいだけなのだろうか?
千冬がそんなことを考えていると、少しだけ唇が離れた。その隙に抗議しようとすると、シュウは開いた唇に一層深く口付ける。いよいよ声まで奪われて、千冬はシュウの好きなように堪能された。
好き放題されるならせめて表情くらいは見てやろうと、千冬は半分前髪に覆われた顔を垣間見た。そして目が合った瞬間、電流が走る。普段の彼からは考えられないほど野性的なキスなのに、目はほのかに謝罪の色を帯びている。
そんな目をされたものだから、千冬の方が勢いを失ってしまった。
(ずるいぞ、シュウ)
力が入らないとはいえ、千冬が拒絶しようと思えばいつでもできた。微力でも胸を押し返すとか、顔を背けるとか。体格差があるから少しはどうにかなったかもしれない。それをしなかったのはなぜか。その答えから、千冬はまだ目を背けていた。
追ってくるシュウの舌に応じてしまうなんて、とても自分では認められない。
やがてシュウは名残惜し気に体を離した。随分長い間口付けていた気がしたが、実際は数分しか経っていない。
一度の瞬きでシュウの目から熱っぽさが消え、いつもの涼しい顔に戻る。
一方の千冬は、まだ気持ちを切り替えられないでいた。唇の感覚が、至近距離の息遣いが、千冬の唇にまだ色濃く残っている。
「その草はね、即効性はあるけど持続性はあまりないんだ。あと10分もすれば元気に俺を殴れるようになるよ」
そんな千冬の様子など素知らぬ顔で、シュウは淡々と語る。
出されたお茶を飲んでから約10分ほど。確かに症状が出てすぐの時よりは目眩もマシになったように感じる。まだとても立ち上がれる状態ではないが。
何事もなかったかのように冷静なシュウを見ていると、千冬の方も今起こったことが夢だったのではと思えてくる。しかし唇の感覚がそれを否定する。
先ほどまで一方的に食らい尽くさんばかりのキスをしていたくせに、なぜそんなに落ち着いていられる?
混乱する千冬を置いてシュウが部屋から出る様子を見せ、堪えきれずに名前を呼ぶ。
「シュウ」
「今は、何も聞きたくないよ」
シュウは人差し指を口に当て、それ以上の千冬の言葉を拒絶した。もはや千冬は黙るほかない。
切れ長の片目は、ほんの少しだけ目が合った時と同じ色を宿していた。
殴っていいと言っているあたり、悪い事をしたとは思っているらしい。しかし言葉で謝る気は無いのだろう。
「じゃあ、おやすみ。ちー」
そう言うとシュウは静かに扉から出て、自室に戻っていった。残された千冬は呆然と座るのみだ。
いつものように愛称で呼ばれたのが、無かったことにしてくれと言っているような気がした。あの計画的犯行を忘れろだなんて、到底無理な話だ。
数分後、体調が元に戻ったら、とりあえず書類を片付けなければ。
その後シュウを殴りに行くべきか? それともキスを返しに行くべきか? 千冬の結論は、とっくに出ていた。