@saeki_f
「……おやすみ、カルロ……」
その声を聞く前に、カルロの魂は深く沈んでいった。
いつまで落ちているのか分からない。ゆっくりと、しかし確実に下へ向かっている。光はとうに消え、どこを見ても真っ暗だった。
ただ、これから向かう場所だけは分かっていた。
(ああ……遂に俺も地獄行きか)
長生きはできなかっただろうし、するつもりもなかった。碌な死に方をしないだろうということも覚悟していた。
心残りはただ一つ。
(マキは、死ぬのか。殺されるのか、俺以外の奴に)
嫌だとどんなに思ったところで、既にカルロにはどうすることもできない。決闘に負けたのだから、部下達が暴れようと何だろうとマキの死は揺るがない。
力及ばなかった自分にも腹が立ったが、マキの命が他の誰かのものになり、そのために肌を切られるということが何よりも許せなかった。
(よりによってユーゴの野郎に殺されるなんてな……こんなことになるなら、俺がマキを殺せば良かった)
そう思ったが、すぐに目を伏せ自嘲気味に軽く息を吐く。
(いや、俺には出来なかった)
マキが自らのこめかみに銃口を向けた時、心臓にナイフを向けた時、カルロは思い出すだけでも情けないほど狼狽えた。
他の奴に奪われるくらいならと銃を突きつけたこともあったが、結局は引き金を引けなかった。
何の罪もなく、何事もなければ元気にその人生を続けられるのに、世界がそれを望まない。カルロとその周りの人間、そしてエシカだけが、心臓ではなくマキという人間を必要としていた。
(あいつはきっと、天国へ行くんだろう)
カルロは以前にマキから聞いた、至高の天を思った。一番高い空にある天。マキは心臓を奪われたら、そこへ向かうのだろう。
人を殺し、騙し、利用してきた自分と、純粋なマキと。行く先が同じはずがないとカルロは自分に言い聞かせた。
それでもなお、苦しげな言葉が口から零れる。
カルロとの別れから数日、マキの魂は宙に浮いていた。
真っ白な景色の中で、マキは自分が死を迎えたことを理解した。
(これでやっと、カルロのところに行ける)
カルロの死を確認した瞬間に、マキの心は決まっていた。どうせ心臓を奪われて死ぬだけなのだから、早くカルロの下へ連れて行ってほしい。ただその一心だった。
もう一度会えた時には、今度は自分がただいまと言って抱き締めてあげようと決めていた。だから、手術の日を迎えたことが何よりも嬉しかった。
大切な友人や、蛮区で知り合った人たちに対する心残りが無かったわけではないが、ユーゴが勝った時点でマキの運命は決まった。残る人たちについて、マキはどうすることもできない。
天高く浮いていき、心地よくなって瞼を閉じた。
ふと、かつてエシカに教えられ、また自分がカルロに教えた話を思い出す。
(シニシカント……この先で、見えるのかな)
至高の天へ辿り着くのかマキには分からなかったが、何となくそう思った。
(俺の、シニシカントは)
エシカと話をしていた時は、お腹が空かないことが何より幸せだと思っていた。
だが今は違う。マキはカルロと出会い、もう少し欲張りになっていたようだ。
(カルロと一緒に居られて、お腹が空かなければ最高だな。あいつ、全然ご飯食べないから)
マキが口元を緩めた瞬間、かすかな声が耳に届いた。
『また、俺を置いていくのか』
とても小さく、また短い言葉だった。しかしマキの耳にははっきりと聞こえた。
「カル、ロ……?」
マキは俺を置いていくのか、という言葉にはっとして目を開いた。彼は泣く子も黙るZENCAのボスだった男だ。蛮区でのし上がるため、何でもやってきた奴だ。カルロが天国へ行くなど、例え神が許しても彼が葬った人間達が許さないだろう。
せっかく会えると思ったのに、このままでは永遠に叶わない。そう思うや否や、マキの全身に力が入った。
肉体があるわけではないが、カルロから離れていくと分かった以上ぼんやりと上昇することには逆らいたかった。すると不思議なことに、緩やかにマキの上昇は止まった。
自分の意志で体を動かすことはできるが、浮き輪を付けて水に浮かんでいるように沈むことだけができない。
カルロは必ず下にいるのにと困っていると、マキの頭上に影が落ちる。
見上げると、何もなかったはずの空間の中に、残してきたはずの友人の姿が見えた。
「どうして止まるの、マキ。シニシカントはもうすぐだよ」
そう言って彼はマキに手を差し伸べる。この手を取れば、きっと楽園に辿り着けるに違いないとマキにも分かった。
けれど、どんな楽園もマキの前では意味を成さない。
「ごめん、俺はそっちには行けない。カルロを一人にはできないよ」
彼はそれ以上何も言わず、ただ困ったように笑った。島で過ごした時期を思い出し胸が苦しくなったが、瞬きをする間に彼は消えてしまっていた。
そしてマキの体は少しずつ重くなり、やがて引きずられるように落ちていく。
(行かなきゃ、カルロのところへ)
そこが地獄だろうと何だろうと構わない。カルロがいるなら、それ以外は何も要らないから。
落ちていくカルロは何もかも諦め、ただ奈落の底に触れる時を待っていた。
いつまでも訪れない終わりに、ここが既に地獄の中なのかもしれないと思っていた時だった。
自分の手も見えないような闇の中、白く小さな光を見とめた。
錯覚かと瞬いてみるが、瞼を閉じれば消えるし、開けばまた見える。そしてどうやら、カルロに向かって近付いているように見えた。
幼少時代を思い出し断罪の槍か何かかと構えるが、そうではなかった。
ぼんやりとしていた輪郭が少しずつはっきりとしてきて、その姿を捉えたカルロは驚きのあまり声も出なかった。
死ぬ間際、必死に探したその顔が目の前にある。
「カルロ!」
「マ、キ……マキ!」
カルロは柔らかな光に包まれたマキを引き寄せ、強く抱き締める。応えるように、マキもカルロの背中に回した手に力を込めた。
既に体は失われているのに、この何もない真っ暗な空間の中でマキだけが明るく、そして温かかった。
離れていた時間を取り戻すように、互いの存在を確かめるように抱き締め合う。
「お前、天国には行かなかったのか」
二人で沈み続けながら、顔を上げずにカルロが聞いた。
「あんたを置いて行けるかよ。あんたが居なきゃ、どんな楽園だって地獄と変わらない」
その答えに満足して、カルロはマキの額に口付ける。
カルロが居なくなった世界で生きていても意味がない。そう思ったからこそ、マキはユーゴ達に早く殺せと迫り、天国を手放したのだ。
そんなのは愚問だと、マキは愛しさゆえに少し拗ねた。
「あんたが言ったんじゃないか。また俺を置いていくのかって」
「聞こえたのか」
それはカルロが虚空に向かって呟いた言葉だった。マキに向けた言葉であることは間違いないが、聞かせようと思って言ったのではない。
呪いのような、あるいは悲痛な慟哭のような、か細い糸を手繰り寄せる小さな叫びがマキに届いていた。
生きていた間にも、こんなに嬉しいことがあっただろうかとカルロは思う。
思い返せば、少し前のカルロなら有り得ない所業だ。
たった一人の少年に振り回され、気付けば愛するようになり、彼を守るためだけに命を懸けた。欲を言えば華麗に勝利して蛮区とマキの両方を手に入れたかったが、叶わなかったのはエドの言う蛮区の嫉妬というやつだろうか。
完全に天には見放されたと思っていたが、マキは再び戻ってきた。今のカルロにはそれだけで十分だ。
「もう絶対に離さねえ。お前も地獄へ道連れだ」
「あんたらしいな……いいよ。どこへでも付いて行く。カルロのいるところが、俺のシニシカントだ」
マキはカルロと手を重ね、指を絡める。白い首筋に顔を埋めて、愛しい恋人を肌で感じた。
脈は聞こえないしマキには心臓も無いけれど、もうそんなことはどうでも良かった。
アイスブルーの目が細められて、カルロは再びマキにキスを落とす。
誰にも邪魔されない、二人だけの世界がそこにある。
「そうだ、カルロ」
「なんだ」
「ただいま」
それは嬉しそうにマキが笑う。
もう離れることはない。どちらかが傷つくことを恐れる必要もない。死すらも二人を引き裂くことはできなかったのだから。