@shikanoko_aki
渡辺綱は目を見張るほどの美人だ。細く透き通るような絹糸の髪。健康的で瑞々しい、白く滑らかな肌。色素の薄い瞳は切れ長で、彼を構成する全ての要素はそれが完成形であるように整っていた。
渡辺綱はよく笑う。生来の素直な性分はその面によく現れていて、包み隠さぬ喜怒哀楽が分かりやすく彼の表情を変化させた。屈託ない彼の笑顔は、周りにも幸福を分け与える。そんな綱の笑顔に救われることが、自分にも多々あった。
渡辺綱はよく食べる。その細い身体のどこに大量の食べ物が収まっているのか不思議なくらい、彼は大食漢だった。その食べっぷりは、実に爽快で幸せそうなのだ。食事をする綱の姿を見守るのが、自分はとても好きだった。
渡辺綱は存外に可愛い。外見からは凛とした美丈夫という印象を受けるのに対して、その内面は驚くほど正反対だった。照れ屋なのか、些細なことでその色白い肌は赤く染まる。あからさまに狼狽えて挙動が不審になる様は、途端にあどけない印象を与えた。意味不明な言葉の羅列をしどろもどろに呟く彼は、しまいに自分を笑わせてくれる。
渡辺綱はとにかく優しい。老若男女問わず誰にも分け隔てなく親切で、自身よりも他人を優先してしまうような性格だった。悪さをする鬼には少し、いや、かなり厳しめではあるが、それもひとえに人間を思いやる故。人情と温かみに溢れる彼が、自分は大好きだった。
渡辺綱は源頼光の恋人である。自分の思い違いでなければ、多分それは確かなことだった。上擦った吃り声の、聞き取り困難な愛の告白を、けれど、確かに頼光はしっかりとその言葉を聞き届けた。耳の先まで真っ赤に染まった顔を眺め、自分の頬までをも同じく紅潮させながら。
渡辺綱はその恋人に、いつまで経っても手を出さない。口づけどころか、指一本でさえ、自ら触れることを躊躇った。だから、未だその関係に一切の進展はなかった。頼光が彼との恋仲に懐疑的感情を抱いてしまうのは、それ故のことだった。彼は本当に、自分のことを好いてくれているのだろうか。
源頼光は渡辺綱を愛している。それは自分の感情であるからして、間違いないと断言できる。そして、それは友情や主従としての愛情ではなく、恋人同士の情愛だという自覚も持っていた。だから、彼も同じ気持ちであると知った時、本当に心から嬉しかったのだ。
愛おしいと想う相手から、求められたいと思うのはおかしなことだろうか。彼に触れたいと、触れられたいと願ってしまうのは、ふしだらなことだろうか。自分の内側で燻る欲望が空回るたび、頼光は独り善がりな自分を恥じた。
渡辺綱は自分のことを本心ではどう思っているのだろか。知りたい。けれど、真っ向から訊くのは少し怖かった。もし、自分の抱く感情と彼の想いに乖離があったとしたら。そんな考えを巡らせては、頼光の胸はぎゅうと締め付けられるのだった。
源頼光の朝は早い。いつも、日の出より少し早いくらいに自然と目が覚めた。皆がまだ寝息を響かせている静まり返った邸の廊下を、足音を立てないよう慎重に歩いて大広間へと向かう。そこで朝食まで、各々が起き出して来るのを待つのが頼光の習慣だった。
「……はあ」
丁寧に足を折り畳んで、定位置に座すや否や、頼光は深い溜息を吐く。今朝は少しばかり、憂鬱な心地だったから。その原因は、自らの期待が外れてしまったことにあった。
渡辺綱は今夜も手を出さなかった。今日こそはという期待を抱いていた頼光は、何事もなく迎えた朝に落胆する。何を隠そう、昨夜、この邸には自分と綱の二人しか居なかったのである。
貞光はひと山越えた向こうにあると言う、幻の大根を探しに出かけた。二日は戻って来ないそうだ。金時は熊と修行で山籠りだそうな。いつ帰って来るのかは言わずに出て行ってしまった。季武は気付いた時にはもう居なかった。時折、彼はふらっと猫のように何処かへ行ってしまう。
「別に、約束を交わしたわけでもないのだが……」
何も言わずとも、二人きりならば、さすがに何か起きるのではないかと期待してしまうのは愚かな妄想だろうか。昨夜は布団に入ったのちも、そわそわとして落ち着かず、なかなか寝付けなかった。けれど、待てど暮せど誰も来ず、いつの間にか夢の中だった。
夜更かしをしたというのに、いつも通り目が覚めてしまった頼光は、眠たげな欠伸を一つ漏らした。それと同時に、言いようのない虚しさと羞恥心が同時に胸の内を襲う。
「また、一人で身勝手に浮かれて空回ってしまった」
追加でもうひとつ、溜息が漏れてしまった。淫らな想像をしていたのは自分だけだったという事実が、恥ずかしくて居た堪れなくなる。誰も見ていないと知りつつも、頼光は熱くなった顔を両の手で覆い隠した。
源頼光は聖人などではない。ありがたいことに、みな頼光のことを過剰に高く評価してくれるが。所詮は自分もただの男に過ぎず、浅ましい性欲を捨てることはできないのだった。
「おはようございます!頼光様!!」
堂々巡りな悩みを頼光が反芻していたら、元気な挨拶と眩しいくらいの笑顔が突如として介入する。その底抜けに明るい声は、強制的に頼光を憂鬱の最中から引きずり出した。
両手の指の隙間から、そっとその姿を盗み見る。確認するまでもなく、目の前に現れたのは頼光の悩みの根源その人だった。
「ああ。おはよう。綱」
平静を装って、頼光はいつも通りにこりと微笑み挨拶を返す。きっと、昨夜はぐっすりと眠れたのだろう。綱はいつにも増して健康的ではつらつとしていた。
彼のことばかり考えてしまって、自分はすっかり寝不足だというのに。そんな不満が一瞬、頼光の脳裏をよぎる。同時に、また身勝手な感情を膨らませてしまった自己嫌悪が襲う。そんな自分を恥じ、叱責するため、頼光は殊更に激しくぶんぶんと首を横に振って、悪しき感情を振り払った。
「そういえば、今日はみんな遅いですね」
きょろきょろと広い部屋を一望してから、綱は不思議そうに首を傾げた。まじまじと見渡すまでもなく、食卓には頼光ひとりしか座っていない。
「寝ぼけているのか綱。皆は昨日から留守にしているだろう。……今日は私とお前の二人だけだ」
「そうでしたっけ」
きょとんした顔をして、綱は頼光の斜め前に腰を落ち着けた。そこが彼の定位置だったから。頼光の右隣は金時。逆側には季武が座り、正面は貞光がいた。席順が決められているわけではなかったが、なんとなく、全員同じ場所に座るのが自然な流れになっていた。
だが、今日くらい隣に座ってくれてもいいのではないか。また、我儘な感情が頼光の内に沸き起こる。二人きりだというのに、この絶妙な距離感。焦ったくて仕方がなかった。
「……そうだ。白湯を入れようか」
「あっ、頼光様!自分がやります!」
頼光が腰を上げるや、綱が後を追うようにすくと立ち上がる。それを制して、頼光は一人台所へと向かい、茶の用意を進めた。一旦、この場を離れて冷静になりたかったから。このまま、綱と二人きりでいたら、嫌な感情が口を突いて出てしまいそうだったから。
いつもよりゆっくりめに湯の準備を整える。その間も、もやもやと綱のことばかり考えてしまう自分が女々しくて、頼光はわずかな苛立ちを燻らせるのだった。
「―――綱」
名を呼ぶと、弾かれたように綱はこちらを向く。その仕草はまるで子犬のようで愛らしかった。
台所から運んできた湯呑を卓の上にそっと置く。それから頼光は少し悩んで、綱の隣にすとんと腰を下ろした。肩と肩が触れてしまいそうな距離感。それを彼はどう思うだろうか。不安と戦いつつ、ちらりと横目にその表情を盗み見る。
「…………」
綱は黙していた。けれど、その頬は見るからに赤く、動揺が表情に現れている。彼はとても素直で分かり易い。それが幸いして、どうやら拒絶されてはいないと知り、頼光はほっと安堵した。
「なあ、綱よ」
「は、はい!?よ、頼光様!!」
過剰な上擦り声が返答する。それが可笑しくて、愛らしくて、頼光は少し勇気を貰う。そして、意を決し、胸の奥のつかえを吐き出す。
「お前は私のことを、どのように思っているのだ?」
「ど、ど、ど、どう……とは……?」
ずい、と迫るように綱へと顔を近づけた。近づいたのと同じだけの距離を綱が後退って、互いの距離は縮まらずに終わる。
「私のことを好いているのか?」
「それは勿論です!!」
さらに踏み込んだ質問を投げかける。もはや、やけくそだった。恥ずかしさで頬が熱くなる。だけど、うじうじと悩んでいるのに比べれば、一瞬の恥など堪えるに易かった。
「……ならば、そこに欲はあるのか?」
「―――!!?」
途端、綱は大きく動揺を示した。具体的に、どれくらい動揺していたかと言うと、卓を揺らして入れたばかりの白湯をひっくり返してしまうくらいである。
「あっ!?」
「綱!?大丈夫か?火傷していないか?」
反射的に立ち上がる綱。つられて、頼光も腰を浮かせた。倒れた湯呑から溢れ出た湯は、卓から畳へと流れ滴る。熱い湯が綱にかかってしまったのではないかと案じた頼光は、咄嗟に彼の方へと腕を伸ばす。
「―――あっ!?」
お互いに気が動転してしまっていたせいだろうか。頼光も綱も体勢を崩してしまって、そのまま絡れ合うように倒れこんだ。
さらりと頼光の長い髪が、簾のように綱の視界を遮った。まるで、自分が彼を押し倒してしまったような格好で、しばし時が止まったみたいに沈黙する。
「……綱」
先に静寂を破ったのは頼光だった。心臓の音がやけに煩くて、彼に気づかれていやしないだろうかと不安になる。
「私はお前にもっと触れて欲しいと思っている」
「よ、頼光様……」
だけど、それ以上に勝るもの。愛おしく想う者をこれだけ近くに感じられて、欲を抑え切れる男など果たしているのだろうか。
「は、はしたないと幻滅されるかもしれないが、私はお前と“そういうこと”をしたいと思って……いる」
言い出したはいいが、段々と羞恥が勝ってゆく。震える声は威勢を失って、語尾はか細く消え失せた。
「―――なあ。お前はどうしたいのだ。綱」
すっかり頭は沸騰してしまっていて、熱さでくらくらしそうだった。不安で濡れた瞳の中にはずっと、百面相を繰り返す彼がいた。
「頼光様……」
こうして視線が交わるだけで胸が高鳴るのに、頼光に触れない綱はそれを知ることすらない。もどかしさでおかしくなりそうだった。
「……まずは俺が奥手なばかりに、頼光様を不安にさせてしまって申し訳ありません」
そっと彼の腕が天に伸びて、その指が恐る恐る頼光の頬へと触れた。先ほどまでおどおどと頼りなげだった綱が、いつの間にか真面目な表情をしていて頼光は思わず目を奪われてしまう。
「すぐには無理かもしれませんが、俺も……その……よ、頼光様とち、契りを交わしたく…………!?」
真剣な眼差しと声音に反して、やけにたどたどしい口調。けれど、充分に誠実さの伝わるその言葉を、綱が言い終わるより先に、頼光はその身体をひしと抱きしめていた。
「よ、よ、よ、頼光様ッ!?」
「よ、良かった〜〜」
気の抜けたような声で、頼光は安堵の感情を吐露した。綱も自分と同じ気持ちだった。その事実を確認できたことが頼光は何より嬉しくて、ぎゅっと固く彼を抱きしめて離さなかった。
「お前はそういうつもりではないのかと、ずっと不安だった」
「そ、そんなこと決してありません!!!」
半ば狼狽気味に、綱はぶんぶんと強く左右に首を振って否定する。その必死さが可笑しくて、可愛らしくて、緊張の糸が解けた頼光はフッと笑ってしまうのだった。
やはり、自分は渡辺綱が好きだ。頼光は改めて確信を深める。こんな風に疑心暗鬼を抱いて不安になるのも、浅ましい欲望を抱いてしまうのも、相手を想うが故。
「だが、私も長くは待てぬ。もし、またお前がいっこうに手を出さないようであれば……」
だから、自分ももっと正直になろうと決意する。欲しいものは、きちんと自ら欲しいと言おう。まだ羞恥心は拭えないけれど、源頼光は渡辺綱を心から愛しているから。
「―――次は私から迫るから、覚悟しておくと良い」
抱負を高らかに宣言し、にまりと微笑んで口づければ、綱はまた百面相を繰り返す。しばらく、その目まぐるしい変化を頼光は愛おしいものを見る目で眺めていた。
「あ、」
が、どうやらそれらの刺激は綱の許容量を超えてしまったらしい。彼は頼光の目の前で、だばだばと大量の鼻血を垂らして昇天してしまったのだった。この有様では、我らの関係の進展は随分と先になりそうだ。