@11_syzygy
「殿下。レナート殿下」
木漏れ日の午後。蒐書塔の離れにある寮の廊下で、魔導師長のセリウスは部屋の扉をそっと押し開けた。いくら声をかけても返事がないのだ。
「……失礼いたします」
整然と片付いた部屋で、レナートはこちらに背を向けて机に向かっている。開いた本を一心不乱に読んでいるようだ。十二歳、まだ幼さの残る体の輪郭は、いつものように背筋をしゃんと伸ばしている。
その姿はセリウスが外から見たときと変わらず、身動きひとつしていない。
セリウスは近づく前に、目を凝らしてその容姿をまじまじと見つめた。髪の毛から服、そして、足元を。腰掛けた椅子の下、革のブーツが微かに水面に反射する光のように揺らめいている。
「まったく……」
肺の底から重い空気の塊を吐きだして、セリウスはつかつかと部屋に入りこんだ。しゃがみこみ、椅子の下の空間に右手を差しだす。
なにも見えなかった場所で、指先がひやりと水に触れる。レナートの幻は一瞬だけ波打って、ふっと掻き消えた。椅子の下には、ビロードアオイの葉と魔法陣を書いた紙片を沈めた水と器があるのみ。
彼が初めて覚えた水鏡の魔法は、今やいたずらの常套手段。
本来なら日中、レナートは勉強をしている時間だ。たまたま今日のように、彼の従者であり教師を務めるグランが諸用で目を離さざるを得なくなった途端にこれだ。魔法で作った幻を身代わりに置くとは。今頃、レナート本人は蒐書塔の敷地のどこかで遊んでいるのだろう。
呆れながらも、セリウスはレナートの魔法の上達に感心せざるを得ない。
水鏡の魔法は想像したものを浮かびあがらせる。己の全身、特に後ろ姿まで克明に思い浮かべるのは大人の魔導師でも難しい。
とはいえ、鏡を工面したり、助言を行った小賢しい協力者がいるのだろうが。
セリウスが二度目のため息をつく寸前。風に乗って、どこからか二人の少年が朗らかに笑いあう声が聞こえてきた。