カルみと(要素薄め) 名前付モブあり
シナリオ世界観にフォーカス
いつもよりキャラ解釈強め
シナリオネタバレあり
@popo_trpg_ss
警視庁から移動すること十数分、都心から僅かに離れた住宅地の片隅で、神無はバイクを止めてヘルメットを外した。
「深夜自宅から聞こえる物音……ディーノはどう思う?」
背後を振り返りながらそう問えば、腰に手を回して座っていた相棒のパートナーロボットであるディーノが、小さく頷いてバイクを降りる。
「…ドロ課の管轄外かと。」
「それは本当にそうなんだよなぁー…」
ディーノの声に項垂れた神無も、ハンドルにヘルメットを引っ掛けて座席を降りた。
あの事件以降、アンドロイドが関与する目立った事件は発生していない。時々小さなトラブルの対応を任されることもあるが、それも本当に稀なことだ。
持て余されたドロ課は以前の功績のおかげで存続こそ堅いものの、パトロールや庁内の雑用、挙句には今日のような所轄警察の仕事が回ってくることが日常となっていた。
「お化けでもあるまいし……住民がちょっとはしゃいでただけだろ…」
「…お化け、怖いんですか?」
呟く神無の顔をじっとディーノが覗き込む。
真意を探るようなその視線から逃れるように、神無は頭を掻きながらふいと顔を逸らした。
「…天才がそんなもの恐れるわけない。」
「ふぅん?」
心拍と呼吸の上昇と、逸らされた視線。それらからディーノの脳内で導き出される答えは、神無が嘘をついているということだ。
ふとディーノは、幼い頃に二人で怖い映画を見て眠れなくなった神無のことを思い出した。泣きながらベッドに潜り込んで、自分のことをぎゅうと抱き締めて眠っていた彼を覚えているのは、おそらく自分だけだ。
「な、なんだよ…」
「なんでもないよ。」
きっとこの話をしたら、神無はそんなこと覚えていないと顔を真っ赤にして怒るだろう。調査前に彼を怒らせるのは得策ではないと考えたディーノは、首を横に振って歩き出す。
明らかに何かを言いたげだった彼の姿に首を傾げながら、神無はその隣を歩く。手の中の端末に視線を落とせば、間も無く目的地であることを伝えていた。
顔を上げた神無は、きょろきょろと辺りを見回す。静かな住宅街には一軒家が立ち並び、そのどれもが質も良く規模も大きい。この地区には富裕層の人間が暮らしているのだろうということが伺えた。
「……神無、あれ。」
「ん?」
ふと、ディーノが声を上げる。指を指す彼の視線の先を辿ると、そこには小さな人影があった。
それは偶然にも、調査対象の家だ。玄関の前に膝を抱えて座る少女の姿に、神無はそちらへと足を向ける。
「調査対象の住人だ、話を聞くぞ。」
「…わかりました。」
神無の後にディーノが一拍遅れて頷く。
神無がそっと歩み寄れば、それまで俯いて爪先で石を転がしていた彼女が顔を上げた。腰まで届く長い黒髪を揺らして、曇りない黒の瞳が神無を見上げる。
「…お兄ちゃん、だぁれ?」
「ハロー。俺の名前は三十一、ちょっと頼まれてこの辺りの人に話を聞いてるんだ。」
少女の年齢は10歳に満たないように見えた。警察手帳を見せても怖がらせるだけだろうと考えて身分を咄嗟に隠した神無の背後で、ディーノもその意図を汲み取って端末を閉じる。
「……みとい…?」
「そうだよ。君の名前は?」
そばに歩み寄った神無が腰を下ろせば、少女は少しだけ緊張した様子で肩を揺らして神無の顔をじっと見つめた。
そんな彼女に向かって笑みを浮かべながら、神無は少女に名前を問う。その人懐っこい笑顔に僅かに警戒を解いた彼女が、おそるおそる口を開いた。
「…ゆき」
「ゆき?」
「幸せって書いて、ゆき。」
「幸か。いい名前だな。」
幸と名乗った少女は、神無の言葉に照れた様子で俯く。玄関の扉へと視線を向けながら、神無は幸に問い掛けた。
「幸は最近、家で物音を聞いたことはないか?」
「…物音……?」
「そうそう。近所の人がな、大きい音が聞こえたけど大丈夫かなーって心配してるみたいなんだ。」
その言葉を聞いた幸は、首を傾げて記憶を振り返るような仕草を見せる。しばらくそうして悩んでいた彼女は、やがてふるふると首を横に振った。
「しらない。」
「…そっか。」
少女の瞳を見つめた神無は目を細める。
泳いでいない彼女の瞳は、おそらく嘘は言っていない。しかし、彼女が知らないだけの可能性もまだ十二分にあり得る。
そういえば、と神無はサングラスに時間を表示した。画面端に映る日付と曜日を確かめた神無は、僅かに違和感を抱く。
「幸、お前学校は?」
現在は平日の昼過ぎ、彼女くらいの年齢であればまだ小学校に居るはずの時間だ。
神無が尋ねると、幸は不思議そうな表情で首を傾げる。
「行ってないよ。」
「…行ってない……?」
昨今では高校までが義務教育化しており、親の収入に関係なく地区の学校に通うことが定められているはずだ。
彼女は思っている以上に幼いのだろうか、そう考えて首を捻る神無の肩をディーノがそっと叩く。
「神無、あの…」
「ん…どうした?」
ディーノが気付いたらしいことを共有しようとしたその時、立ち上がった幸の姿を横目に見ていた神無は顔色を変えた。
ワンピースの袖の隙間から見えた彼女の素肌には、夥しい量の痣が残されていたのだ。
「っ…悪いディーノ、話は後でもいいか?」
「…分かりました。」
情報共有も重要だが、目にした光景を見逃すわけにもいかない。一度ディーノに断ると、神無は腰を落としたまま幸の顔を見つめた。
「その痣、何があった?」
神無の言葉を聞いた瞬間、幸は青ざめた顔で服の袖を強く引っ張る。
腕を隠すように布を引いたことによって持ち上げられたワンピースの裾から覗く足にも、腕と同じように痣があることに神無は気がついて顔を顰めた。そのどれもが服の下に隠れる位置にあることから、人為的なものであることが伺える。
「…あ、えと……これは……」
「怒ってるわけじゃないよ。ただ、もしよければ誰にやられたのか、教えてほしいんだ。」
狼狽えて後ずさる幸に向かって、刺激しないように彼女に触れないままで神無はそう尋ねた。
困ったように視線を彷徨わせた彼女は、ちらりと背後の玄関扉を振り返る。その視線だけで、神無には大体の合点がいった。
「幸、俺たちは……」
このまま彼女を放ってはおけないと、神無は更に声を掛けようと口を開く。そんな神無たちの背後に、人影が現れた。
「…おいお前ら、うちの前で何してんだ。」
神無が振り返れば、そこに立っていたのは中年の男性だった。
そばに立つだけで香る強いアルコールの匂いに、神無は眉を顰める。酔いが回って赤い顔の男は、警戒した様子で神無たちを睨むと玄関の前に立っていた幸へと視線を向けた。
「おい幸!!!外には出んなって言っただろうが!!!!!」
男が声を荒げ、幸がびくりと肩を跳ねさせる。ディーノと神無を押し退けた彼は、怯えた表情で震える幸へと詰め寄った。
「俺の言うことが聞けないってか?!あぁ!?」
「ご、ごめんなさいパパ、ごめんなさい…っ」
必死で謝る幸の腕を、男は乱暴に掴んだ。痛みに顔を歪めた幸に構わず、男はそのまま玄関へと彼女を引き摺っていく。
神無は咄嗟に踏み出すと、そんな男の肩を掴んだ。ようやく神無のことを振り返った男を、神無は警察手帳を表示しながら睨み付ける。
「なんだお前…?」
「警察だ。近隣の住民から、深夜に聞こえる物音について報告が来てる。話を聞かせろ。」
警察という言葉に少しだけ驚いたような表情を浮かべた男は、神無のことを頭から爪先までじろじろと眺めた。
そうして彼は馬鹿にしたような笑みを浮かべ、神無の手を振り払う。
「任意だろ?忙しいから後にしてくれ。」
「っおい待て!まさかお前この子に…!!」
さっさと家の中に向かおうとする男の後を追って、神無は無理矢理幸を掴む腕を解こうと動いた。
刑事として一通りの体術が叩き込まれた体は、最低限の動きで男の腕を無力化すると幸の手を引くことに成功する。
奪い返した幸は目を丸くしてそんな神無を見上げていたが、すぐに目の前の父親の表情を見て顔を青くした。
「ぁ…あ……」
「この…っ何するんだテメェ!!!」
神無に向かって、怒りを露わにした男は拳を振り下ろそうとする。幸を抱えていた神無は、彼女を庇うように目を閉じて衝撃に身構えた。
「神無っ!!」
そんな彼の姿を見て、ディーノがその場を駆け出そうとする。彼の怒りは攻撃を行おうとしている男に向けられており、拳を振り下ろす前に男を仕留めかねない勢いだった。
「ディーノやめろ!!」
神無の声にディーノがぴたりと動きを止める。男が手を出すより先にディーノが攻撃を仕掛けたら、それは過剰防衛として処理される可能性があった。
人間であれば始末書の数枚と謝罪で済むかもしれないが、アンドロイドならば最悪廃棄される可能性がある。相棒を失うことだけは避けたい神無が声を上げると同時に、拳が振り下ろされた。
しかし、どれだけ待っていても痛みは訪れない。
そっと目を開けた神無は、こちらに手を伸ばしたまま驚いた表情を浮かべるディーノの姿を視界に収めた。
彼の視線の先へ顔を向けた神無は、そこに立っていた予想外の人物に目を瞬く。
「…アサギリ……?」
そこには、見知った仲間のアンドロイドが相変わらずの無表情で男の腕を掴んでいたのだ。
攻撃を阻止した彼の姿に、男は表情を歪め唾を飛ばして怒鳴り声を上げる。
「なんだお前!!!アンドロイドのくせに、何しやがる!!!!!」
「あぁ、すみません。そのように指示を受けたので。」
淡々と呟いたアサギリは、男が手を振り解けば大人しくその手を離した。
アサギリに指示を飛ばす人間など、一人しかいない。神無が周囲を見回すと、道の向こうからこちらへと歩く男の姿があった。
彼…縞斑狩魔は、底の読めない笑みを浮かべたまま神無たちの元へと歩み寄る。
「アサギリちゃんありがとうね。」
「どういたしまして。」
アサギリはそんな彼の側へと戻っていった。
男は拳を止められたことに対して再び怒鳴り声を上げているが、その声はまともな言語にすらなっていなかった。
酒に酔って思考もほとんど回っていないのだろう。神無が呆れた様子でため息をついていると、縞斑はそんな男の肩に手を置いて口を開く。
「君の気持ちはわかる。けど、相手は警察だよ。やめておいたほうがいい。」
「あぁ!?」
「公務執行妨害で捕まりたくないだろう?通りすがりの一般人からの忠告だけど、聞いといた方が身のためじゃない?」
縞斑が手に力を込めた。痛みとその言葉の圧に押された男は、手を振り払うと縞斑とアサギリを睨み付ける。
気にした様子もない彼らを問い詰めるだけ無駄だと諦めたらしい男は、神無の腕の中で震えていた幸の手を掴んだ。
「っおい!!」
咄嗟に手を伸ばそうとした神無だったが、今度はそんな彼の手を縞斑が捕まえる。
「君も、憶測だけで行動したらいけない。」
「憶測って、あんた…!!」
手に入れた情報から導き出される答えなど、ひとつしかない。どうして止めるのかと縞斑を見上げる神無だったが、知り合いだと知られるわけにもいかずそれ以上噛み付くことはできなかった。
男はその隙に、幸を連れて家の中へと戻っていく。扉が閉まる直前、幸がちらりと神無たちを振り返った。
何かを言いたげに口を開こうとした彼女だったが、すぐに諦めたように目を伏せると扉の向こうに消えてしまう。
扉が閉まり、鍵が掛けられた。遠ざかる人の気配を見届けると、縞斑は息を吐いてようやく神無の手を離す。
「………なんで、止めた。」
「あそこで君が抵抗しても、証拠が足りないからだよ。」
「でも…っ!!」
「今この場で騒ぎを起こしたら、不利になるのは君だ。このことが理由であの子が更に殴られる可能性もある。落ち着いて。」
食い下がろうとする神無だが、長年刑事を務めていた縞斑の意見は的確だった。
父親らしいあの男は間違いなく幸に暴力を振るっている。しかし、それには確固たる証拠が存在しなかった。
幸本人の証言しか期待できない状況だったが、怯えている彼女からでは情報を聞き出すことも難しい。証拠不十分のまま男に必要以上に絡めば、刑事側に問題があるとして咎められる可能性もあった。
理屈では理解できる神無だが、感情が追いつかなくて俯いてしまう。そんな彼を横目に、縞斑は閉ざされた玄関扉へと視線を向けた。
「ま、君の考えで7割くらいは正解かな。」
「7割……?」
「いやぁ〜……ビンゴだったねぇアサギリちゃん。」
「そうですね。」
中途半端な評価点に首を傾げる神無を他所に、縞斑は隣のアサギリへと声を掛ける。
完結しているらしい二人の会話に言及したい気持ちは山々だったが、それよりも解決しなければいけない目先の問題を思い出した神無は慌てて端末を取り出した。
「あんなの、ただの児童虐待だろ…!」
生活安全課と連携を取って、すぐにでも幸を保護するために動かなければならない。そうメッセージを起動させようとする神無に向かって、縞斑が口を開いた。
「生活安全課じゃ無理だよ。」
「え…?」
ビンゴって言っただろう、そう呟く縞斑の顔を見上げていた神無はふと、なぜ彼らがここにいるのかという今更の疑問を抱いた。
犯罪組織スパローとして活動を行っている彼らは、よほどのことがなければ地上へ顔を出すことはない。
例えば、傷ついたアンドロイドの保護のためでもない限り。
「……CR700。」
それまで黙っていたディーノが、ぽつりと口を開いた。そんな彼の言葉の続きを引き継いで、アサギリが声を上げる。
「彼女はCR700。子供型の、家庭用アンドロイドです。」
スパローのアジトに招かれた神無とディーノは、応接室として設けられた一室のソファに腰を下ろしていた。
アサギリが端末のデータを空中に投影すると、VOIDの公式ホームページの商品リストが表示される。そこには、つい先ほど出会った幸と同じ顔立ちの少女が、笑顔を浮かべて立っているページがあった。
「ほんとにアンドロイドだったんだ……」
そのページを見るまで半信半疑だった神無は、ようやく納得した様子で頷く。その隣に座るディーノが、しょんぼりと肩を落として口を開いた。
「すみません神無、もっと早く伝えるべきでした。」
ディーノは、玄関先に彼女が腰掛けていた時点で、彼女がアンドロイドであることに気がついていた。
人間として接している神無の様子に気が付いたディーノが訂正するより早く、やってきた父親によってトラブルが発生してしまったのだ。
落ち込むディーノの頭を撫でて、神無はそんな彼のことを慰める。
「ディーノは悪くない。」
「…でも、そのあとだって僕は神無が止めなければ、男を殴っていました。」
「俺を守ろうとしたんだろ、嬉しいよ。」
もしもアサギリが止めに入らなければ、神無は間違いなくあの男に殴られていただろう。
想像しただけで体が消えてしまうような恐怖を覚えたディーノは、自分の頭を撫でる手のひらに両手で縋る。
「僕は、神無に傷ついてほしくない。」
「…うん、もう大丈夫だから。よしよし。」
ディーノのことを宥めながら、神無は斜め向かいの席に座るアサギリへと視線を向けた。
「アサギリも、ありがとうな。助かった。」
「いいえ。間に合って良かったです。」
通報を受けて現場に向かっていた縞斑とアサギリは、家の前で揉めている神無たちを目にしたのだ。
不穏な雰囲気を感じ取った縞斑は、すぐに男を止めろとアサギリに指示を出した。それを受けてアサギリが足を踏み出して間も無く、逆上した男は神無を殴ろうと拳を振り上げたのだ。
縞斑の指示が少しでも遅ければ、神無は殴られていただろう。間に合ってよかった、という言葉はアサギリの心からの発言だった。
アサギリの抱く心底の安堵を感じ取った縞斑は、まだ感情表現が不器用な相棒の横顔を眺め、改めて口を開く。
「さて、本題に入ろうか。」
その一言で、部屋の空気に緊張が走った。
神無は端末を操作すると、ドロ課で受け取った任務内容を表示する。画面を見つめながら、神無は今朝の出来事を説明した。
「任務を受けたのは今朝。数ヶ月前から、あの家から深夜になると物音がするっていう近隣の通報があった。」
「…こっちも似たようなものかな。物を壊すような音が聞こえるから、家のアンドロイドに暴力を振るっているんじゃないかって相談を受けた。」
神無たちが任務を受けた同時刻に、縞斑たちの元にもその話は舞い込んだ。
少しでもアンドロイドが関与して、そこに危険が及ぶのであれば、スパローとしては確かめる必要がある。そう考えて彼らも現場へと赴いたのだ。
「あの子の…幸の服の下には痣があった。アンドロイドなのにそんなことあるのか?」
「子供型のアンドロイドは、特に人間の体に近づけて作られていますからね。血液こそ青色ですが、肉体への影響は私たちよりもずっと人間的に現れるそうです。」
アサギリの説明曰く、家庭用アンドロイドの中でも子供型は人気が高く、子供に恵まれない夫婦や、子を成すことができない同性愛者、老夫婦などの間で多く購入されているらしい。
アンドロイドの中でも特に人間的な振る舞いや肉体を優先して製造された彼らは、怪我を負えば傷ができるし、ウイルスを模倣して風邪をひくこともあるのだという。
神無が触れた幸の手は温かかった。人と変わらない温もりを持っていたように感じる。
そんなどこまでも人に似せて作られた彼女が、暴力を振るわれて傷ついているという事実に神無は唇を噛んだ。
「…ドロ課に戻って、青木に連絡する。」
「無駄だよ。青木ちゃんも何もできない。」
「なんで…!」
神無を宥めた縞斑は、薄く目を開き表示されたデータを睨み付ける。静かな怒りに燃えるその瞳に、神無は小さく息を呑んだ。
「…アンドロイドへの暴力行為は、児童虐待には該当しない。彼女は所有物、この国の法律では物という扱いになる。」
「……、」
「例えあのまま破壊されたとしても、あの男は罪に問われないよ。所有物であれば器物破損にもならない。」
法の改案を求める声が高まっているとはいえ、アンドロイドと人間を隔てる壁はまだ厚いままだ。
あくまでアンドロイドは物という扱いで、所有者である人間が絶対的な権利を持つ。この場合、男が幸を所有する限り警察は手を出せない。
それはまるで、自分のおもちゃを乱暴に扱って壊してしまうようなものだ。その壊れたおもちゃを直して再び振り回そうとも、捨てて新しいおもちゃに手を出そうとも、それを咎める人間はいない。
「そんな…っスパローでどうにかできないのかよ…!!」
「俺たちはあの組織を追いながら、変異体となったアンドロイドを保護する組織だ。相手が手を伸ばさない限り、持ち主からアンドロイドを奪うことはできない。」
強引にアンドロイドを変異させて連れ出せば、それはあの日有馬たちが実行した暴走と同じ行為となる。
縞斑の警察時代の繋がりを頼りに、地盤を固めている最中である不安定な組織が、窃盗犯というレッテルを世間に貼られることは避けなければならなかった。
「でも!!あのままじゃ、幸は…!!」
席を立った神無は声を荒げ、拳を強く握りしめる。
放っておけば、幸は確実に男によって破壊されるだろう。しかし、神無たちドロ課にも、縞斑たちスパローにも、彼らの家庭へ介入する権利は無かった。
「幸は…殺される……」
「…神無。」
隣に座るディーノが、悲しげに目を伏せて神無の手を引く。膝から力が抜けた神無は、その手に引かれるままソファへと沈んだ。
縞斑の隣に座るアサギリは俯いたまま何も言わない。しかし、その表情には確かな怒りと悲しみが見て取れた。
三人を見回して、縞斑は浅く息を吐く。
「…子供型のアンドロイドは、特に知能が低く設計されてるから……自ら変異する可能性は極端に低い。」
スパローに避難しているアンドロイドたちの中にも、子供型のアンドロイドは一体も居なかった。
彼らは知能を低く設計し、成長する中で知識を蓄えていくように作られているのだ。そんな彼らへの暴力行為は、事件となる前に対象が破壊されて終わってしまう。
アンドロイドがその状況に疑問を抱くこともなく、仮に抱いたとしても子供の姿をした彼女たちには抵抗の術がない。
「……でも、幸は怯えてた。」
「子供型アンドロイドには、痛覚も導入されていると聞きます。おそらく、その痛みの中で暴力を恐ろしいものだと学習はしているのでしょう。」
「変異…とは少し違うかな。限りなく近いけれど、おそらく今の彼女には人に助けを求めるという発想がないだろうね。」
痣について神無が尋ねた時、彼女はそれを隠そうとした。父親に腕を引かれても抵抗をしなかった。
神無に一度も助けを求めることがなかった彼女は、その手段や方法を学習していないから分からないのだ。
「……そんな….」
「よくある話だよ、悔しいけれど。」
なす術もなく俯く神無に向かって、縞斑はそう呟く。
重い空気が流れる部屋の中、ディーノと神無の端末が同時に音を鳴らした。視線を落としたディーノは表示される画面を確かめて、神無の手を引く。
「青木からです。戻りましょう。」
メッセージの内容は青木から、帰りが遅い二人を心配するものだった。
スパローと協力関係にあることは知っているとはいえ、今日この場所に来ていることを知らない係長の彼に、これ以上迷惑を掛けるわけにはいかない。
立ち上がった神無は、沈んだ表情のままディーノを連れて歩いて行く。その背を見送った縞斑は、彼が部屋を出る直前に呟いた。
「少なくとも、ドロ課の刑事と犯罪組織のリーダーとしては、できることは何も無いよ。」
その言葉に一瞬神無は手を止める。
咄嗟に振り返れば、縞斑と視線が絡んだ。
彼の瞳をじっと見つめた神無は、小さく喉を鳴らすと何も言わずに再び背を向けて部屋を出て行く。
彼らの背中を今度こそ見送った縞斑が息を吐けば、隣のアサギリのじっとりとした視線が刺さった。
「なぁに?アサギリちゃん。」
「…マスターの決定に逆らうつもりはありませんが、ディーノさんに怒られても知りませんからね。」
「あはは、そこはまぁ…上手くやるつもりだよ。」
からからと笑うその瞳は笑っていない。
彼は怒っているのだ。腹の底から煮え立つほどに。
辺りに人やアンドロイドたちの気配がないことを確かめて、縞斑は口を開いた。
「さて…アサギリちゃん。ただの縞斑狩魔に、協力してくれる?」
ちらりと視線を寄越せば、アサギリは呆れた様子で深い深い溜め息を吐く。理不尽な同志への暴力に対する怒りに揺れる心を抑えて、最良の手段を選び取るために彼はひとつ頷いた。
路地の暗がりで、神無は深くフードを被ってぼんやりと立っていた。
ディーノと共に帰還し、滞りなく仕事を終えて、彼をメンテナンスに見送った後、衣服を着替えて今朝の住宅街へと戻ってきたのだ。
見送ったディーノは、神無の不審な気配を察した様子で、くれぐれも無茶はしないように、と言い聞かせてメンテナンスに向かった。勘のいい相棒に、明日はどう説明をしたものかと悩む。
そんな神無の耳に、コンクリートの地面を踏む音が届いた。そちらに視線を向ければ、長身の男が長い髪をフードの下に押し込んで立っている。
「やっぱり、来たんだね。」
驚いた様子のない縞斑の呟きに、神無は彼と視線を合わせないまま口を開いた。
「だらだら先輩があんな言い方したから。」
「あれ?俺のせい?」
「言葉の綾だよ。ちゃんと俺の判断。」
帰り際縞斑は、刑事やスパローのリーダーとしては動くことができないと言っていた。
それはつまり、一般人としてであればまだ行動の余地はあるということだ。例えそれが、正義に背くことになっても。
「念の為確認しておくけどさ、神無ちゃん。」
「なに?」
神無は返事をするが目的の家から視線を逸らさない。幸の暮らす家には、リビングらしい部屋に明かりがついている様子が確認できた。
そんな神無の姿を見つめ、縞斑はゆっくりと口を開く。
「ここに来たということは、最悪の場合は法を犯す覚悟があるってことでいいのかな?」
縞斑の言葉にぴくりと肩を揺らした神無は、そこでようやく彼へと顔を向けた。
フードの隙間から覗く紫の瞳が、暗い路地の中でぼんやりと光る。その光に揺らぎがないことに気付いた縞斑は、僅かに眉を動かした。
「これがバレたらただでは済まない。君だけじゃなく、君を斡旋した黒田先輩もね。」
我ながら意地の悪い聞き方だ。けれど、その覚悟はここで決めてもらわなければならない。
神無は刑事として、警視庁でキャリアを積むことを決めている。あの場所からこの国を変えることを強く望んでいるのだ。
そんな彼がもし、法に触れる行為に及んだとしたら。出世の道はもちろんのこと、ドロ課や相棒のディーノ、未だ目を覚まさない黒田への批判も避けられないだろう。
「まだ、今なら俺だけに任せられるよ。心配しなくても、上手くやってみせる。」
縞斑はもう、失うものはほとんど無い。
スパローのリーダーであることさえ割れなければ、表の世界の縞斑狩魔という存在に泥を塗ることなど造作もないことだった。
そんな縞斑の顔を見上げていた神無は、ゆっくりと首を横に振る。そうして彼は口を開いた。
「半分背負うって、約束しただろ。」
「……、」
「そりゃ分かってるけどさ。子供が…あんな怪我して、辛そうな顔してたのに、それを無視して人の上に立つ人間にはなりたくない。」
アンドロイドだろうが、人間だろうが、そこに違いは存在しない。そうあってほしいと、今の神無は強く願っている。
「きりがないことは分かってるし、その度にこんなことしてられないことも分かってる。」
傷ついたアンドロイドを目にするたびに、こうして行動していたら身が持たないだろう。
この国には未だ、アンドロイドをただの道具としてぞんざいに扱う人間が少なくない。それは縞斑たちスパローの活動を見ていれば、良くわかることだった。
「…それでも、この手の届く範囲の人を救いたいんだ。背負うことを…諦めたくない。」
胸の前で神無は手のひらを握りしめる。
人ひとりが救える人間の数など限られているだろう。傲慢に手を伸ばせば、指の隙間から大切なものが零れ落ち、自らの身を焦がすかもしれない。
しかし、そうだとしても神無は手を伸ばすことをやめない決意をしていた。
もう二度と、あの日のような後悔はしたくないのだ。手を伸ばすことを躊躇ったばかりに、大切なものを失う恐怖を神無は痛いほど知っている。
神無の瞳をじっと見ていた縞斑は、やがて目を伏せると肩を竦めた。
「…ごめん、君のことを見くびってた。」
「まぁ……そう思われるくらいのこと、した覚えあるし。」
「そうだね。でも今は、安心して半分を託せてる。」
縞斑が思う以上に、神無はこの短い時間で前に進んだのだ。もうあの日の無力に泣いていた小さな彼の姿は見当たらない。
協力者としても、想いを通じ合わせた大切な人としても、隣に立って先を見据える彼の姿に、敵わないなと小さく声を漏らした縞斑は降参するように声を上げた。
「俺も付き合うよ。最後まで。」
「……ありがと。」
「いいよ。…とは言っても、俺もできる限り穏便に済ませたいから、現場を押さえてあの子を引き渡すように説得を試みよう。」
縞斑とて叶うのであれば必要以上に罪を重ねたくはない。それがどんな形で、スパローの仲間たちに影響するか分からないのだ。
彼の立場を重々承知している神無は、こくりと頷いてふと首を傾げる。
「そういえば、アサギリは?」
「あぁ、彼は今俺の部屋でデータ改竄を行なってくれてる。」
さらりと不穏な言葉を言ってのける縞斑に、思わず神無は怪訝な表情を浮かべた。その視線を受けた彼は、にこりと笑みを作り口を開く。
「今頃俺たちは、俺の家で甘い時間を過ごしてることになってるよ。」
「……甘くある必要ある?」
「恋人が過ごす夜なんだから必要でしょ。それに途中でデータが途切れても、セックスしてたから気を遣いました、で通るし。」
「通るかそんなもん!!!!!!」
思わず声を上げた神無は、すぐに路地に響いた自分の声に気付くと慌てて両手で口を塞いだ。
既に夜も遅く、近隣の迷惑にならないように声を抑えなければと思い直した神無は、怒りを抑えて深呼吸する。そんな彼の姿をからからと縞斑は笑った。
「冗談だよ。簡単なアリバイ工作は頼んであるからねって話。」
「なら最初からそう言えよ……」
「ごめんごめん。とはいえ、顔を見られたら意味がないから気を付けて。」
周辺の監視カメラを避けて移動し、二人に夜のアリバイがあったとしても、目撃情報が上がってしまえば言い逃れできない。
アサギリのデータについても、自ら改竄しているため形跡はほとんど残されていないが、疑いの目を向けた人間が細かく調査すれば簡単に暴かれることである。
どの道危険であることに変わりはない、神無は頷いてフードを深く被り直した。
二人は家からの物音に耳を澄ませながら、路地の壁に身を預けて立つ。腕を組んで隣に立っている縞斑を見上げ、神無はぽつりと口を開いた。
「改めて…強く思うんだよね。」
「…何を?」
「アンドロイドも人も、何も変わらない。」
あの事件以降、神無はその考えがより強まった。
事件の中で出会った多くのアンドロイドたちの浮かべる表情は、どれも本物だ。彼らにも心があるのだと知るには、十分過ぎる時間だった。
それを認め、期待することが以前は怖かった神無だが、その考えも寄り添う幼馴染や隣に立つ彼とそのパートナーと走ることで少しずつ形を変えている。
「有馬のやり方は間違ってた。…けど、考え全てが間違ってたとは……俺は思えない。」
縞斑が伏せていた瞳を薄く開き、ゆっくりと顔をこちらに向ける。
彼にとって、有馬は全ての悲劇の元凶であり、日常を壊して大切な者たちを奪った仇だ。
じっと神無の言葉を待つ彼に、神無は独り言のように俯いて口を開く。靴先で転がした石が、地面に小さな音を立てて転がった。
「…俺も、大切な人を奪われたら…同じことをするかもしれない。あんな風に、いろんな人を傷つけるかもしれないから。」
現にもし、決戦前夜に縞斑の部屋で話をしていなかったら。あの時、縞斑から呪いを与えられていなかったら。
神無は、有馬の言葉に同意をしていたかもしれない。感情なんて邪魔なだけだ、必要がないと、彼の手を取っていたかもしれない。
そんなあり得たかもしれない未来が、招かれたかもしれない悲しい結末が、神無はどうしようもなく怖かった。
「………君は、あんなことはしないよ。」
それまで黙って神無の言葉を聞いていた縞斑が口を開く。震えていた神無の頭に手を置くと、彼は不器用に撫でながら言葉を続けた。
「何故なら、君は馬鹿だから。」
「ば、」
「馬鹿みたいに真っ直ぐだから、正面から正々堂々ぶつかって、相手と同じかそれ以上に傷ついて、その上で方法を探して足掻く。」
神無はあまりにも優し過ぎる、そう思う時が縞斑にはあるのだ。
外面だけでなく、相手の内情まで押し図ろうとする。人の痛みに誰よりも共感する。例えそれで、自身まで傷つくことになっても。
「それがどれだけ苦しいことだと分かっていても、自ら茨の道を選ぶんだから……神無ちゃんは愚かだねぇ。」
「……否定したなら、責任持って慰めろよな。」
大天才を捕まえて馬鹿呼ばわりした挙句、愚かという言葉まで頭の上に降ってきた神無は、不服を前面に押し出して不貞腐れた。
そんな彼の頭を撫でたまま、縞斑は小さく笑みを漏らす。
「あはは。話せば話すほど、なんでこんなに面倒臭い子好きになっちゃったのかなーって思ってね。」
「俺だってこんないつもやる気のない先輩好きになりたくなんかなかったよーだ。」
べ、と舌を出す神無だが、撫でられる手のひらを払うつもりはないらしい。そんな彼の甘え上手なところが堪らないと言ったら、きっと飛び退ってしまうことだろうと縞斑は言葉を飲み込む。
「そんな俺がたまにやる気を出すところが好きでしょ?」
「毎日出せるなら出せよな。この前アサギリが、あんたが仕事サボってニトとリト甘やかすって溜め息吐いてた。」
「わぁ、アサギリちゃんついに神無ちゃんに言いつけることを覚えちゃったかぁ。」
神無さんからも何か言ってやってください、と呆れ顔のアサギリは、スパローで管理職が板についているようだった。
自分がとやかく言うよりも、恋人に知られて恥をかけばいいと思ったのだろう。彼は相変わらず、縞斑の使い方を良く知っている。
相変わらずらしい縞斑とアサギリの様子に、神無は笑みを漏らした。自分とディーノとの関係とは少し違う、言葉も要らない背中を預け合う二人のことを、神無は心から尊敬している。
だからこそ、神無は今起こっていることに胸がつきりと痛んだ。再び表情が曇ってしまった神無の顔を横目に、縞斑は口を閉ざす。
「…こんな風に、なれると思うんだけどな。血の繋がりなんかなくても、人間とアンドロイドだって………家族になれる、はずなのに。」
神無が誰のことを思い浮かべてその言葉を口にしたのか、尋ねるまでもない。
指示を受けて監視という名目で共に暮らしていた兄のような存在の彼は、確かに神無やその父親のことを愛おしいと思っていた。
しがらみのない世界で、もしも彼に出会えていたなら、今も三人は笑顔で食卓を囲めていたのかもしれない。
「…彼のスタックは?」
「………見つからなかった。」
探さなかったのか、それとも探せなかったのか。踏み込むつもりはない縞斑は、小さく頷くと神無の頭をぽんと一度撫でて手を離した。
「君に事情があったように、あの家にも事情があるのかもしれないね。」
「…ん。」
頷いた彼は、撫でられていた頭に手を置いてくしゃりとフードを握りしめる。
小さく震える彼を上手く慰める方法を、まだ縞斑は知らない。ただ抱き寄せるだけでは、彼の失った家族の穴を埋めることは叶わない。
嫉妬という言葉だけで処理をするには複雑な、心を掻き混ぜる名前のない感情を吐き出す代わりに、縞斑は細く長い息を吐いた。
そうして縞斑が神無へと恐る恐る手を伸ばした、その時だ。
「ーーーー、」
唐突に、夜の住宅街に何かが砕けるような音が響く。
顔を上げた神無は、音のした方角が彼女の家であることを確かめると、迷わずその場を駆け出した。遠ざかる彼の背を見つめ、縞斑は薄く瞳を開いて歩き出す。
「最も……どんな事情があったとしても、あの男の行為を許す理由にはならないけど。」
※
家の前まで辿り着いた神無は、玄関扉に鍵が掛かっていることを確かめると庭へと回った。
光の漏れる窓の隙間から部屋の中の様子を伺った神無は、そこに広がる光景に息を呑む。
大きな影が、拳を振り上げて小さな影に迷わず振り下ろした。重い物のぶつかるような音と共に、小さな影が床に転がる。
窓越しでは声は聞こえないが、大きな影の吠えるような動きに合わせて、小さな影がびくりと震えた。
「…、なんで」
あの事件以降、神無は多くのアンドロイドたちに出会ってきた。非道な扱いを受けて、まともなメンテナンスもされず、傷ついた体と虚な瞳の彼らを思い出す。
アンドロイドにだって、感情があるのだ。傷つけられたら痛む心や体が存在する。それを知っている人間が、この世界にはまだあまりに少ないのかもしれない。
「やめろ…」
震える手で神無は窓に触れる。
小さな影が、大きな影から逃れるように部屋の中を駆けた。しかし、狭い室内ではまもなく追い詰められて逃げ場を失ってしまう。
「やめろ…っ」
拳を振り上げるその姿が、あの日の記憶を消せと怒鳴った自分に重なった。
彼を押し倒した手のひらも、自分を見上げていた青の瞳も、どちらもが痛かった。どちらもが同じだけ傷ついた。
暴力は互いを傷つける悲しい行為だということを、記憶を失った彼を見た時に神無は思い知ったのだ。
「やめてくれ…!!」
少女の手のひらが虚しく空を掻く。その小さな喉から、弱々しい言葉が発せられた。
たすけて。窓越しに確かに聞こえたその声に、神無は側に転がる空の植木鉢を掴むと大きく振り被った。
「ーーッやめろ!!!!」
叫びと共に神無は窓硝子を叩き割る。
「な、っ?!誰だお前!!?!」
砕け散った硝子の先に立つ男が、音に驚いた様子で振り返った。そんな男を押し退けて、神無は部屋の中に走ると床に倒れた幸の体を抱き寄せる。
「……み、と…い…?」
腕の中で、彼女がぽつりと呟いた。
涙の溢れる瞳が驚いたように見開かれる。そんな彼女を庇うように抱き締めたまま、神無は男へと声を上げた。
「もう、やめてくれ…っ!!このままじゃ、あんたも幸も壊れちまうだろ!!!!」
腕の中の幸は、目の上が大きく腫れて鼻から青の液体を流している。
顔を殴ったらしい男の拳には血が滲んでいた。アンドロイドのボディを力一杯殴れば、人間の体もただでは済まないだろう。
そこまでして男が彼女に暴力を振るう理由が、神無には分からない。けれど確かに神無は、幸を殴る男の表情にストレスを発散するような素振りが一切無かったことに気付いていた。
「お願いだから!!!これ以上自分を痛めつけるのも、幸を傷つけるのもやめてくれよ!!!!!」
必死で訴えるフードを深く被った神無の存在に、男はひどく動揺している様子だった。
強盗を疑った男だったが、彼は幸だけでなく自分まで傷ついていると指摘するのだ。
男が咄嗟に抱いた感情は、自身の心の内を暴こうとする存在への恐怖と怒りだった。
「お前に!!何が分かるんだよ!!!」
男が怒鳴り声を上げて足を振り上げる。
咄嗟に神無は、幸の体を抱えると男に背を向けた。神無の背に振り下ろされた足が直撃し、彼の体が大きく軋む。
「っ、う…」
「お前に!!!何が分かる!!!お前に!!お前なんかに!!!!」
ぐらりと体が傾いた神無に向かって、逆上した男は何度も足を振り下ろした。襲う激痛の中で、それでも神無は腕の中の少女に攻撃が決して当たらないように歯を食いしばって体を丸くする。
「どうして…っ!!!ただ!!ただ俺は!!!見返してやりたかっただけなのに!!!!」
神無に攻撃を加えながら、男は吠えた。
「あいつがいなくても!!俺は人を幸せにできるんだって…!!なのに、なのに…ッ!!!」
男の言葉は支離滅裂で、もはや神無に向けた罵倒ですらない。抱えていた理不尽を叫び散らす男の姿に、神無はせめてと幸の両耳を塞いだ。
男の声が遮られた幸は、腕の中で神無を見上げる。痛みに顔を歪め、それでも自分を離そうとしない神無の姿を見上げた幸は、小さな手のひらを彼へと伸ばした。
「…みと、い……はなして」
「いやだ…っ」
「みといが、いたいよ…?」
「絶対に離さない…!!!」
男の怒りを受け止めることで、幸に暴力の矛先が向かないのであれば、いくらでも我慢ができる。
不安げな幸を抱き締めた神無は、予想できてしまった続く男の言葉が決して彼女に聞こえないように耳を塞ぐ手に力を込めた。
「ーーー全部アンドロイドのせいだ!!!!お前らのせいで!!!俺は!!俺たちは!!!!」
「がは…ッ!」
男の振り抜いた足先が、神無の脇腹に直撃した。その痛みに耐えきれず、息を吐いた彼は抱えた幸ごと床に転がる。
彼のフードが倒れた拍子に暴かれた。部屋の明かりが照らす金色の髪と、苦しげに歪められたその表情に、男は目を見開く。
「お前、今朝の…?!」
男が更に言葉を続けるより早く、背後に忍び寄っていた縞斑が男の後頭部を目掛けて拳を振り下ろした。
家具を巻き込んで盛大に床に転がった男は、朦朧とした意識の中で自身を見下ろす冷たい瞳の男を目にする。
「…自分が世界で一番不幸だと嘆くのはお前の勝手だけど、それに他人を巻き込むなよ。」
縞斑の言葉を最後に、男の体はずるりと床に崩れ落ちた。男が確実に意識を失ったことを確かめた縞斑は、部屋の中央で倒れる神無へと慌てて足を向ける。
「三十一ッ!!!」
「みとい、みとい…!」
神無の腕の中で、幸が懸命に頬に手を当てて声を上げた。二人の声に薄く瞳を開いた神無は、ふらりと体を起こす。
咄嗟に手当てをしようと神無に手を伸ばす縞斑だったが、その手を神無は拒んだ。
「今、あんたが優先すべきなのは…俺じゃないだろ。」
その言葉に手を止めた縞斑を見上げると、神無は幸を腕の中からそっと解放した。
背を軽く押された幸は、困惑の表情を浮かべながら自身の前に立つ縞斑の顔を見つめる。
今この場所には、神無にはできなくて、縞斑にはできることが存在する。そのために来たのだろうと訴える神無は、今の状況においては縞斑よりも大人だった。
無茶をした恋人を目にして冷静さを欠いていた縞斑は、一度深呼吸をすると彼女と視線を合わせるように腰を落とす。
「…幸、だったよね?」
「う…うん。」
「俺たちは君の味方だ。望むなら、君をここから連れ出すことができる。」
彼女の丸い瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。それを手を伸ばして掬い上げた縞斑は、柔らかく笑う。
「このままここに残るかい?それとも…俺と一緒に来る?」
「わたしは…えっと、でも……」
幸は躊躇うような表情を浮かべると、縞斑の顔と倒れる男、背後で上体を起こしたまま様子を見守っている神無の顔を何度も見ていた。
アンドロイドとして幸に設定されている自宅に留まる指示が、変異によって解かれようとしている。先ほどの出来事によって変異を起こしたらしい彼女は、まだ馴染まない自身の意思で選択を下すことを迷っている様子だった。
そんな幸の背を神無がそっと撫でる。顔を上げた彼女に緩く微笑めば、彼女の不安に揺れる瞳が僅かに凪いだ。
「…大丈夫だ。このお兄さんは、幸のことを絶対に傷つけたりしない。」
肌を伝う幸の青い血を、神無は一瞬躊躇った後袖で拭った。
青く染まる服から目を逸らし、幸の頭を撫でる。自分が黒田にしてもらった時のように、抱く愛情を込めて。
その手のひらを受けて、幸は神無の顔を見つめおずおずと口を開いた。
「……いっしょに、行けば…」
「うん?」
「お兄さんといっしょに行けば、パパ…もう苦しまない……?」
幸がこの場所から逃げ出そうとしなかった理由は、変異していないからだけではなかった。父親として自分を引き取った男が、自分に暴力を振るいながら苦しんでいることを知っていたからだ。
小さな彼女には、それを解決する方法がわからなかった。誰かに助けを求めることもできなかった。
それでも確かに、男のことを家族だと思っていたのだ。
彼女の体を神無は、もう一度強く抱き締める。腕の中の少女は、泣き出すのを堪えるように小さく震えていた。
「きっと、パパも元気になる。」
「ほんと……?」
「あぁ。絶対に助けてみせるから。」
神無の言葉に背を押された幸は、体を離すと縞斑の元に歩いていく。両手を広げて縞斑の胸に飛び込めば、慈しむように髪を撫でた彼は目を伏せると少女を抱え上げる。
「撤退しよう。現場の処理はさっき通信した仲間に任せるから。」
「…わかった。」
自力で立ち上がった神無は、額に伝っていた血を拭うと痛む体を押さえる。手を借りることなく歩き出した神無は、ぽつりと口を開いた。
「勝手に動いてごめん。顔も、見られた。」
傷つく幸の姿に耐えられなかった神無は、感情のままに強行突破を行ってしまった。
縞斑が現場に駆けつけるのが遅れたのは、恐らく近隣住民の人払いや仲間のアンドロイドたちに処理の応援を頼んでいたのだろう。
家に侵入して変異したアンドロイドを連れ出した、その事実はどんな事情があったとしても変わらない。
男が神無を目撃したことを証言すれば、神無だけでなく縞斑にも疑いが向くに違いない。スパローに批判の目が向けられることは避けられないだろう。
「…いいよ。君が行かなかったら、多分俺が行ってたからさ。」
自分の傷や立場よりも、幸の傷や縞斑たちの立場を気にして謝る神無の姿に、縞斑は困ったように笑った。
「路頭に迷ったら拾ってあげるから、ひとまず今は戻って傷の手当てをしなさい。」
「…………あんたの部下は、やだな。」
縞斑なりの慰めの言葉に、どうにかいつも通りを繕った笑みを返して、神無たちは家を後にするのだった。
後日、男の家での事件は強盗の侵入とアンドロイドの盗難という形で世間に報道された。
しかし間も無く、近隣の住民がネットに投稿したらしい彼が幸に暴力を振るう動画が出回り、加えて男の家から薬物が発見されたことから、世間の糾弾は男へと傾くことになる。
暴力を振るわれたアンドロイドが、意志を持って逃げ出したのだと、姿を消してしまったアンドロイドを擁護する団体も動き出しているらしい。
神無とディーノは、人目を避けて地下への階段を下っていく。神無の後ろを歩くディーノは、ぽつりと悔しそうに呟いた。
「僕も呼んでくれればよかったのに。」
「俺の我儘に、ディーノまで巻き込むわけにはいかないだろ。」
ニュースを目にしたディーノは、真っ先に神無のことを問い詰めた。前夜から嫌な予感をずっと抱いていたらしい彼に誤魔化しは通用せず、ドロ課の仲間たちには黙っていてほしいと口止めをして神無は事件のあらましを話したのだ。
危険な行動を取った神無や縞斑に対して、ディーノは腹を立て心配をしたが、同時にメンテナンスを受けていて自分が駆けつけられなかったことを悔やんでいた。
「……僕は神無のパートナーなのに。」
「夜にお前が抜け出したら、青木が困るでしょうが。」
「でも、」
「それに、ディーノのデータが調査されたら証拠になる。言い逃れできない。」
神無の言葉にディーノはぐっと押し黙る。万が一の事態に、罪のない幼馴染が巻き込まれることだけは避けたい神無は、彼がアンドロイドであることを理由にしてどうにかその場を宥めた。
まだ納得していない様子で頬を膨らませるディーノは、だらだら先輩ばっかり、という独り言を溢しながら神無の後に続く。
地下の扉を開けると、そこには薄暗い空間が広がっていた。見慣れたその場所を見回している神無の元にぱたぱたとひとつの足音が駆けてくる。
「みとい!!!」
神無の胸に飛び込んだのはアンドロイドの少女、幸だった。両手を広げて受け止めた神無は笑顔を浮かべて彼女を抱きしめる。
「幸!元気にしてたか?」
「うん!あのね!今日はね!ニトとリトとお絵描きしたの!!」
明るく今日あったことを話す彼女は、リトのものらしいノースリーブのワンピースに袖を通していた。
彼女の肌には、痣や火傷の跡はもう見当たらない。縞斑に連れられて辿り着いたこの場所で、ニトのメンテナンスを受けて部品も取り替えたのだろう。
入り口で幸と話をしていると、そんな彼らの元に縞斑とアサギリ、ニトとリトが歩いてきた。神無は顔を上げると、鞄から取り出した袋を渡して幸の背中を押す。
「お菓子持ってきたから、みんなで食べてきな。」
「ありがとう!!ニト!リト!お菓子もらったー!!」
ぱたぱたとニトとリトに駆け寄った彼女の手には、神無が贔屓にしているケーキ屋のクッキーの袋があった。
歓声を上げた子供たちは、口々に神無に礼を言うと広場へと走っていく。その背を笑顔で見送る神無に、縞斑は口を開いた。
「ありがとうね、いつも子供たちにお土産持ってきてくれて。」
「別にいいよ。俺がやりたくてやってるだけだし。」
スパローで暮らすアンドロイドや人間たちが地上に顔を出す機会は殆どない。特にニトとリトは地下に引きこもっているため、外の世界の食べ物に飢えているのだ。
育ち盛りの子供たちがお菓子のひとつも摘めないのは寂しいだろうと、神無はスパローに顔を出すたびに彼らに何か土産を買っていた。
楽しげに袋を開く子供たちを見守りながら、アサギリは口を開く。
「警察の間では、例の事件はどのように処理されているんです?」
「アンドロイドの盗難はもちろんだけど、それよりも薬物が見つかったことの方が大事になってるかな。入手ルート探ってるらしい。」
男は調書で、犯人については殴られた衝撃で顔を覚えていないと話した。
警察も、変異したアンドロイドの脱走であると判断しているらしい。それ以上に、室内から発見された薬物に注目しており、現在は男のアルコール中毒や薬物後遺症の治療を行なっている最中だった。
念のために直前に調査を行っていた神無は事件当日の夜の行動について話を聞かれたが、アサギリから渡された縞斑の家での偽造データで疑われることなくやり過ごすことができたのだ。
「にしてもさ、その…映像作ってくれたのはありがたいんだけど……あの映像いちゃつき過ぎだろ。」
確認した神無は、縞斑の自宅で肩を寄せ合って話をしているらしい二人の映像に顔から火が出る思いをしたのだ。
縞斑の顔は写っていなかったし、恋人と過ごしていたと明言こそしなかったものの、言い逃れのできない映像に、ドロ課では神無に恋人がいるというささやかな噂が広まっている。青木とレミの微笑ましげな表情が忘れられない。
助けてもらった手前強く言えず、もごもごと文句を漏らせば、アサギリは不思議そうな表情で首を傾げた。
「あの映像は、お二人の数日前を、そのまま投影したものですが。」
その言葉に、ぴしりと神無の体が固まる。背後を振り向けない神無の肩に手を置いて、ディーノが不貞腐れた声を上げた。
「捏造だって、こんなにいちゃいちゃしてないって、言ってたのに。」
「いや…それは、その」
「アサギリがいるのにこれなら、二人きりの時はどうなんですか。」
「そりゃあもう、神無ちゃん結構甘えん坊だからぴったりくっついてきてそのまま」
「やめろって!!本気にするだろ!!!」
楽しげに話す縞斑の口を、神無は慌てて両手で塞ぐ。もごもごと手の中で話す彼の言葉を正確に聞き取ったらしいディーノは、ショックを受けた様子で大きくよろめいた。
「…酷いです、神無。小さい頃は僕と結婚するって言ってくれたのに。」
「そうなの神無ちゃん。俺のことは遊び?」
「俺で遊ぶなぁ……!!!」
頭を抱えて唸る神無を縞斑は楽しげに笑う。そんな彼らの姿にディーノも表情を緩め、アサギリも呆れた様子でため息を漏らした。
そんな彼らの元に、あっという間にクッキーを食べ終えたらしい子供たちが走ってくる。彼女たちは笑顔で神無とディーノの手を引いた。
「みといもいっしょにあそぼ!!」
「ディーノも!!その足と尻尾の設計僕に見せて!!!」
「ちょっとニト!!ディーノのことはバラしちゃだめだからね!!」
賑やかな子供たちに囲まれた神無は、困ったような笑みを浮かべる。
その姿に、縞斑は僅かな違和感を覚えた。
笑っているけれど、無理をしている。そんな彼の姿に、ディーノは気付いていない。相棒に気付かれないように、どうにかいつも通りを装っているのだ。
そうして彼がディーノと共に輪の中に足を踏み入れようとした時、気がつけば縞斑は手を伸ばして神無の腕を掴んでいた。
「待った。」
「わ、っ?!なに?」
驚いて振り返る神無の顔をじっと見つめた縞斑は、隣のアサギリに向かって声を掛ける。
「アサギリちゃん、神無ちゃんの代わりに遊んであげてくれる?」
「…わかりました。」
アサギリはひとつ頷くと、何も聞かずに子供たちの方へと歩いていく。そんな彼の背を見て、神無はますます困惑の声を上げた。
「えっ?ちょ、なんだよだらだら先輩?」
「神無ちゃんは俺の部屋に来て。」
「は?!なんで!?」
二人の会話を聞いたディーノは物申したげに頬を膨らませていたが、そんな彼を宥めるようにアサギリが肩に手を置く。
「行きますよ、ディーノさん。」
「…むぅ……ずるいです。いつもだらだら先輩ばかり。」
縞斑を恨めしげに見ていたディーノは、ふいと顔を逸らすと諦めたように子供たちの方へ歩いて行った。
子供たちは神無が来ないことを少しだけ寂しそうにしていたが、代わりに普段遊びには参加しないアサギリの登場に盛り上がっているようだ。
広場に戻っていった子供たちと、ディーノとアサギリを見送ると、縞斑は笑顔で神無の手を引く。
「それじゃあ行こうか、神無ちゃん。」
「……わかった。」
しっかりと掴まれて離れない手を見下ろした神無は、渋々と言った様子で縞斑の後を歩き出した。
縞斑の私室に神無が訪れる機会は滅多にない。最新型のアンドロイドには集音機能が搭載されている者たちが多く、この場所で恋人らしいやり取りをすることを神無が嫌がるからだった。
それを知っている縞斑が、神無と二人きりで話したいと思った理由について、心当たりしかない神無は頬に手を当てながらぽつりと呟く。
「…上手く隠したつもりなんだけど。」
「ディーノちゃんとアサギリちゃんや、子供たちは気付いてなかったと思うよ?」
「じゃあ、なんで」
神無が抱いている沈んだ感情は、数日前から心の底に居座っていたものだ。
感情表現が豊かな神無だったが、その感情だけは表に出してはいけないと思っていた。心の内でどうにか昇華しなければならないと、いつも通りの笑顔で振る舞っていたのだ。
そんな立ち回りにも慣れて、縞斑やアサギリにも分からないだろうという自信を持ったから、神無は今日幸に会うためにここにきたのである。
そんな神無の沈んだ心を見抜いた縞斑を、疑問を込めて神無は見上げた。すると彼は得意げに扉に手を掛けながら口を開く。
「そりゃあ愛でしょ。」
「きも………」
「シンプルな罵倒は傷つくなぁ。」
照れ隠しの罵倒に苦笑いを浮かべながら神無を部屋に招いた縞斑は、設置されたベッドの縁へと腰を下ろす。隣に座った神無の顔を、縞斑がそっと覗き込んだ。
「それで?浮かない顔してどうしたの?」
「……それは…」
口を開こうとした神無は、迷ったように視線を泳がせて俯いてしまう。
そんな彼の肩に手を置くと、縞斑は自身の胸に引き寄せた。穏やかな鼓動の響く胸の中で、頭を預けた神無は口籠る。
「…今は、君を優先したいんだけど。」
ここにいるのはスパローのカルマではなく、神無の恋人である縞斑狩魔だ。そんな思いを込めて神無の肩を撫で、額に唇を落とせば、躊躇いながら神無はぽつりと呟く。
「あの人の、調書…見たんだ。」
「うん。」
男の調書の結果が気になった神無は、青木に頼んで内容を見せてもらった。
そこに綴られていた彼の過去は、一言で言えば『よくあること』だったが、神無はその言葉で片付けることができなかったのだ。
「アンドロイドが普及して、職を失って…酒に溺れるうちに奥さんは出てっちゃって、薬に手を出した。」
アンドロイドに仕事を奪われて路頭に迷う人間は、この世界には少なくない。あの男もその例外ではなく、数年前に仕事を失ってからは日雇いの仕事で食い繋いでいたらしい。
その頃から浴びるように酒を飲むようになった男の豹変に耐えられなくなった妻は、彼を置いて家から出ていった。
憔悴しきった時に売人に声を掛けられて、薬に身を落としてしまったのだと男は話した。
「幸を買ったのは、奥さんのこと見返したかったから……自分でも、人を幸せにできるんだって証明したくて。」
神無は、暴力を振るう男を目にした時から疑問を抱いていたのだ。どうして彼は、彼女に幸せという名前を与えたのだろうか、と。
男は幸と家族になろうとした。それが例え、最初は妻を見返すためや、寂しさを埋めるためだったとしても、彼女を欲した理由は決してストレスの捌け口などではなかった。
「…でも、アンドロイドのせいだって、そう思ったり、薬や酒に溺れるうちに、幸を。」
幸に拳を振り下ろすよりずっと前から、男に助けを求めるサインはあったはずだ。彼がその道に進む前に、警察にできることがあったのかもしれない。
「多分、犯人の顔を忘れたって言ったの…嘘だと思う。その証言だけ曖昧だったから。」
男は神無や縞斑と夜に出会ったことも、二人が幸を連れ出したことも覚えているのだろう。
それでも彼がそう証言して、幸を探そうとしないのは恐らく。
「……あの人はずっと、誰かに止めて欲しかったんだ。」
自分では止めることができなくて、酒と薬に飲まれて幸に暴力を振るってしまうから、夜以外は家に帰らなかった。
アンドロイドの普及に伴って失業率が上がる一方、政府ではそれを支える制度が未発達のままだ。路頭に迷い、非合法の仕事に手を染める者も数えきれない。
「幸には間に合ったかもしれない。…けど、あの人には……間に合わなかった。」
強盗犯の被害者である以上に、違法薬物の所持が判明した男への風当たりは強いものだった。ネットに投稿された動画による批判の声も大きく、彼のデジタルタトゥーが消えることは二度とない。
治療やカウンセリングを行い、日の下をもう一度彼が歩けるようになったとき、そこに彼の幸せや居場所が存在するのか、神無には分からなかった。
無力に俯く神無の頭を撫でながら、縞斑はそれまで閉ざしていた口を開く。
「俺たちは、神様じゃない。だから全てを救えるわけじゃない。それは傲慢だよ。」
「………わかってる、けど、」
仕方のないこと、よくあること、そう呟けばきっと、自身の心は守られることだろう。数々の事件と向き合う刑事という職に就いているならば、そんな自己防衛も大切な仕事の一つだ。
それが出来ないのは神無の弱さであり、刑事たちの世界において何よりも得難い優しさであることを縞斑は知っている。
「俺たちは間に合わなかった。けど、それはまだ最悪じゃない。」
「……。」
「人が出会いや別れで変わることは、君が一番よく知ってるだろう。」
「…うん。」
男は幸を壊し自らが壊れる前に、強引な手口とはいえ止まったのだ。
その先で再び前を向くことができるかは、彼を取り巻く人間たちにも掛かっているだろう。
「まだ変われるよ。そこには、君たちが関与することができる。」
「そう…だよな。ありがと。」
スパローのカルマにはできない、刑事の神無三十一ができることがまだ残っている。正しい治療を経て、生活の補佐を行うことができれば、彼の心を救うことができるかもしれない。
いつか、再び幸と男がふたりで暮らす未来も叶うのだろうか。
本当の家族のように笑って過ごす彼女たちの日々を見守ることができたら、それ以上の幸せはない。自分には、叶えることができなかった夢だから。
過去の幸せな時間が脳裏に蘇り、思わず俯いてしまった神無へ縞斑が手を伸ばす。不思議に思った彼が首を傾げると、その手はするりとシャツを捲り上げた。
「わ、」
「ちょっと失礼。」
驚いて咄嗟に逃げ出そうとした神無だったが、そんな彼を宥める声音には甘さよりも心配が強く含まれている。
誘いではないのだろうと納得した神無がされるがままに力を抜くと、縞斑の手は制服を脱がせて神無の肌を部屋の明かりの下に晒した。
健康的に焼け、日々の鍛錬で引き締まった体をじっと見つめた縞斑は、背中や脇腹に指を這わせる。
「っ…なに?」
縞斑にそういった意図がなくとも、情事の記憶が蘇えらずにはいられない神無は、小さく声を漏らして首を傾げた。
そんな神無の反応に気がついていないらしい縞斑は、尚も真剣に肌を撫でるとやがて安堵したように呟く。
「…痕にならなくて、良かった。」
縞斑が触れて確かめていたのは、男に蹴られた場所だった。
数日前までは青痣が体を這っていたが、レミの適切な治療のお陰で痕が残ることもなく完治したのだ。
階段から落ちたのだという無理な嘘に対して、彼女は何も尋ねることなく治療を行なってくれた。彼女の優しさに感謝しながら、神無は明るく口を開く。
「にゃはは、ボコボコにされたからにゃ〜」
「幸を庇ってて、受け身も取れなかっただろう。体はもう痛くない?」
幸を守ることを最優先した体は、男の攻撃を正面から受け止めたため、しばらくは痣だらけになっていた。
動くたびに軋む体に数日は悩まされたが、痣の残る体で縞斑に会えば確実に心配されると判断した神無は、完治を待ってからここに来たのだ。
「平気だよ。俺よりあの人の方がきっと、体も心も痛かっただろうし。」
「…それは、君が怪我をしていい理由にはならないからね。」
神無が今日まで会いに来なかった理由に薄々気がついているらしい縞斑は、ぽつりと呟くと白いその背中に口付けた。
びくりと身を揺らす神無に構わず、彼は痣のあった場所に舌を這わせると強く吸い付く。鬱血痕が残ったことを確かめて体を離すと、神無が赤い顔で唇を寄せられた場所を押さえた。
「誰かに見られたら…!!」
「服で隠れるよ。」
「だからってこんなとこで吸うな!舐めるな!発情するな!!」
「ごめんごめん。続きはまた今度にして、みんなのところに戻ろうか。」
縞斑が差し出した手を、神無は服を整えてからおずおずと握り返す。
地下とはいえ外にも構わず指と指を絡めた縞斑は、部屋を出ると並んで廊下を歩き出した。
隣を歩く神無は、最初は文句を言ってやろうと口を開いていたが、彼の指先がまるで自分に縋っているようだと気付く。
目の前の男は、懐に入れた人間が傷つくことを極端に恐れている。彼の過去を思えばそれは当然のことで、飄々と振る舞うその心のうちに人間らしい感情を秘めていることに、神無は時々安堵を覚えるのだ。
離れるつもりはないというように握り返せば、縞斑は安心したように小さく笑って神無の手の甲を指先で撫でた。
「人間とアンドロイドが笑っていられる世界、作れるかな。」
あの事件の日から、世界は少しずつ変わり始めている。
その先に見えるものが、二つの種族が手と手を取り合う平和な世界であることを神無は願わずにはいられない。
人間はちっぽけで、救えるものには限りがある。いくつもの間に合った存在と間に合わなかった存在を重ねることで、本当に世界をより良いものに変えられるのだろうかと不安に思うのだ。
「そのために俺たちや、君たちがいるんでしょ。」
それに、と呟いた縞斑が広場に続く扉を押し開ける。そうして目の前の景色を促した彼に、神無は伏せていた顔を上げた。
そこでは、ニトとリトと幸がディーノやアサギリと共に楽しげに駆け回っている。戯れ合う彼らの姿を、周囲のアンドロイドたちも微笑ましげに眺めていた。
アサギリにまとめて捕まった子供たちは、はしゃいだ声を上げて腕の中で笑っている。その笑顔には、人間とアンドロイドの垣根などなかった。
「俺たちが、君のお父さんに未来を託されたように、俺たちの託す未来を…きっとあの子たちが繋いでくれるよ。」
天城が託した未来を、今神無たちは歩いている。彼がそうしたように、いつか神無たちも未来ある若者たちに未来を託す日が来るのかもしれない。
人間とアンドロイドの軋轢がなく、しがらみもない、平等であることに疑問も抱かない今を生きる子供たちが平和な世界を築けるように。
数十年後の治安は、今の神無たちに掛かっているのだ。
「あの子たちの笑顔を守るためにも、俺たちはまだまだ頑張らないとね。天才刑事君?」
「…そうだな。」
頷く神無に微笑んだ縞斑は、彼の手を引いて輪の中へと導く。二人の姿に気がついた子供たちが歓声を上げ、結んだ手を見たディーノが不満げに頬を膨らませる様子をアサギリが宥めていた。
そんな彼らの姿を見つめ、神無は笑う。
あの日、父が託した未来を、父と呼んで慕った男や兄のような存在とアンドロイドが願った未来を、自分が守れているのか不安に思う日は数えきれない。
それでも、パートナーや共にあの事件を駆け抜けた仲間と共にならきっと大丈夫だと、彼らの笑顔に背中を押されたような気がしたのだ。
終