@__zocll
「兄弟?」
自身を見下ろす片割れの酷く掠れた声に、エデュアルドは刹那意識を逸らした。手にした端末からは、今しがた連絡を取り合っていた友人の呼びかけが聞こえる。ああ、大丈夫だ、少し席を外すよ。そう応える筈の言葉は目の前の男を制止する音となり、乾いた部屋を響かせる。不釣り合いな電子音がやけに遠く聞こえた。
ウォルラベンにとって人生とは、兄弟とそれ以外、兄弟の傍で起こり得る事象でしかなかった。血肉を分けた唯一の片割れであり、自分に残された最後の家族であり、然すれば己よりも尊く大切な存在であるエデュアルドだが、彼にとっては残念ながら"そう"ではないと感じたのは、シルクのシャツに袖を通して二人で眠りについたあの頃からだろう。
エデュアルドはよく笑った。周りに声をかけ、時間を共有し、相手を喜ばせた。彼の隣へ人が集うには然程時間を要さなかった。ウォルラベンの半身は、子供ながら確実に自分の居場所を生み出している。彼とその友人達の笑い声が男にとっては鉄格子の落ちるサイレンのように聞こえた。
兄弟の世界は、兄弟だけでは足りないのだ。
それならウォルラベンもそのように。自分達は同じであるべきだから。
「それがお前の美徳だ兄弟。他人を気遣い慈しみ、誰にでも分け与える優しさは確かに素晴らしいものだ。尊敬するよ、お前は俺の誇りさ。ああ、当然だろ!? それが俺の兄弟なんだから! それでも、それでもエディ、今だけでもあいつらなんて放っておいてくれ。……わかるだろ、白いんだ、兄弟。目が」
「ウォル、落ち着いてくれ。俺なら大丈夫だ」
「何が"大丈夫"なんだよ! お前はわかってない。他人の無事だと?そんなに心配なら俺が! 俺が幾らだって稼いで来てやる……お前もだ、兄弟。観光客を殺せばお前も」
「兄弟! 馬鹿な事を考えるな」
エデュアルドはその鋭い目をいっそう細める。男にはどこか落胆したようにも見えた。
「どうしたんだ、観光客を殺して……それが何になる。今赤い目を得たところでこの実験とやらは終わらない。次も、その次も、繰り返し誰かを襲わなけりゃいけなくなるんだぞ。わかってるのか! 俺達が誰も傷付けなければ周りの協力だって仰げるかもしれない。殺すだなんて一瞬たりとも考えるな。この先そんな事ばかりしていたら、周りから誰もいなくなるだけだ」
「周り……?」
声を絞り出す。散々泣いて詰まった鼻に、この時ばかりは空気が通った。まるでせせら笑うように漏れた空気が彼の眉間の皺を揺らす。何もかも上手くいかない。最初からそうだ。
「周り、周り。お前はいつもそうだな。こんな時にだって気にするのは他の人間ばかり。誰もいなくなるだって? 何が悪い……兄弟、俺にはお前だけでいいんだ。お前だけでいいのに、どうして……!」
「ウォル、」
「兄弟も、俺を棄てるつもりなんだろ」
男は呆然と立つ、色を失った瞳を見る。驚愕だろうか、恐ろしさだろうか。ぽとりと呟かれたそれが彼の脳に届く頃、エデュアルドはその瞬間まるで大波に飲み込まれた小舟を眺める子供のようだった。
「な、なにを……兄弟、何を馬鹿な事を!」
荒々しく煮えくり返る怒声が彼の咽喉を吐いて出る。内臓の壁が震えるような、胃酸が逆流し食道が燃えるように熱くなる烈しい怒りがそこにはあった。胸倉に掴みかかり、耐え切れず叫ぶ兄弟を見るのはこれが生まれて初めてだろう。肚の底を揺るがす鋭さでエデュアルドは怒鳴る。
「お前はそれを、本気で言っているのか!? そんな事を思いながら、俺と過ごしてたっていうのかよ!?」
「違うか? だって、そうだろ? だからお前は自分の居場所を作ってるんだ。明るくて穏やかで心優しいエディ。俺はそんなお前の真似事しか出来ねえんだよ」
違う。息苦しさの中、彼は喘ぐ。違うんだ、兄弟。白の瞳に薄い膜が張る。伸ばされた手が一晩経っても止まる事のない透明な血液をなぞるので、男は水底に落ちこむような言いようのない寂しさを感じた。
「俺はただ、俺達二人で……暖かく、優しい人達に囲まれていたかったんだよ。棄てるだって? そんな事……俺はもう二度と兄弟が誰かに棄てられる姿なんて見たくない。棄てるわけないだろう。俺達は一心同体だって、そう言ったのはお前じゃないか」
昼間であるというのに、辺りはまるで何もかもが眠りについたような静けさで包まれていた。聴こえるのは耳の奥で脈打つ鼓動と互いの息遣いだけだった。