カルみと
シナリオネタバレあり
@popo_trpg_ss
草木も眠る、ある日の夜のこと。
神無は、窓を叩く雨音を聞きながら目の前のモニターを見つめていた。必要だと感じた情報を自身の頭に片っ端から叩き込み、同期するために接続しているサングラスにも送信していく。
薄青色の画面にぼんやりと照らされる紫の瞳は、バイカラーの宝石のように美しく輝いていた。
「…今日はこの辺にしとくか……」
ふと、目や体の疲れを覚えた彼は呟いて体を伸ばす。凝り固まった関節が音を立てる様子に苦笑いを浮かべ、彼は温くなったココアを飲み干すと席を立った。
モニターの電源を落とそうと手を伸ばした彼だったが、その時画面に一通の着信が表示される。
「ん…?」
画面右下の時計を確認すれば、現在時刻は午前2時だ。
こんな深夜に一体誰だろうかと神無は身構える。刑事という職業柄、必要とあらばどんな時間でも呼び出されることのある神無だが、今日の当番は人が足りていたはずだ。
そう考えながら通信相手を確認した神無は、そこに表示された文字に目を瞬いた。
「…だらだら先輩……?」
縞斑狩魔、彼は以前警視庁で共に事件を追っていた刑事だ。現在は訳あって、アンドロイドの保護を主とした犯罪組織のリーダーとして活動している。
そんな彼からの電話であれば、緊急事態に違いない。普段の彼は仕事がある神無に気を遣って、こんな時間には決して電話を掛けてこないのだ。
神無は慌てて通話の応答を選択すると、端末を手持ちに切り替えて耳へと押し当てた。
「もしもし…だらだら先輩?」
恐る恐る声を掛けると、スピーカー越しに小さく息を呑む音が聞こえた。どうかしたのだろうかと更に声を掛けようとした神無の耳に、安堵したような縞斑の声が届く。
『…神無ちゃん、』
「そうだけど…どうしたんだよ。」
『いやぁ…今何してるのかなぁと思って。』
事件を警戒する神無に向けて縞斑が呟いた言葉は、当たり障りのない、更に言うならば友人以上の関係の人間に投げるようなものだった。
思わず硬直する神無の様子に気付いているのか、いないのか、彼は申し訳なさそうに口を開く。
『ひょっとして、起こしちゃった?』
「あ…いや、起きてた、勉強してたから、」
珍しく落ち込んだ声音を隠さない様子に、神無が慌てて言葉を続ければ、よかった、と彼の笑う吐息をマイクが拾った。
『それじゃあ、少しだけ話そうよ。』
「…眠れないの?」
『まぁ…そんなところかな。』
曖昧に言葉を濁す彼は、普段は飄々と振る舞っているがひとりの人間であることを神無は知っている。彼にも、思いや苦しみに押し潰されて眠れない夜があるのかもしれない。
そんな彼の不安を慰めることができるのは、思いの半分を背負った自分だけかもしれない。話し相手に、相棒のアサギリではなく自分を呼んだということもその証拠だろうと神無は内心意気込んだ。
「いいよ。話そう。」
『…ありがとう。じゃあ、そうだな……何の勉強してたの?』
嬉しそうに笑う縞斑は、話題まで考えていなかったらしい。しばらく思案してからそう尋ねた彼に、神無は表示したままになっていたいくつかのモニターを眺めながら口を開いた。
「VOIDについて。」
画面に表示されていたのは、アンドロイドに関する情報だった。構造や形状、細かいシステムやメンテナンス方法まで、神無はありとあらゆる情報をかき集めていたのだ。
『それは……』
神無の応えに、縞斑は心配の声を漏らす。
アンドロイドにトラウマを持つ神無のことを、あの事件に立ち会った仲間たちは良く知っていた。
神無はそんな彼が安心するように、穏やかな声音でモニターを撫でながら口を開く。
「まだアンドロイドは少し怖いけど……知識が欲しいんだよ。傷ついたディーノを治せるように。」
戦いの中で、ディーノは何度も神無のことを攻撃から庇って大きく肉体を損傷させていた。
飛び散るブルーブラッドと彼の部品を目の当たりにした時に、神無は強く思ったのだ。もう二度と彼を失いたくない、そのためには今の自分のままではだめなのだ、と。
「ディーノを、いつか守れるように……俺のこと、何度も守ってくれたから。」
幼い日のディーノの勇気がなければ、神無はこの世界にいない。そんな彼に少しでも恩返しができるように、彼が傷ついたときに癒せるように。
「まぁでも、これが結構難しくてさ。」
これまでアンドロイドを苦手としていた神無は、必要最低限の情報しか取り入れてこなかった。
そのため、覚えなければならない知識や技術が膨大な量存在し、ここのところ帰宅後に地道に勉強時間を設けているのだ。
神無は神無なりに、トラウマに向き合って前へと進もうとしている。そんな彼の姿を眩しそうに笑った縞斑が、口を開いた。
『君ならできるでしょ。』
「まぁ、なんたって俺は…」
『天才だからね。』
神無の声を遮って、縞斑は悪戯っぽく笑う。
いつだって天才を豪語する神無を呆れたように笑っていた縞斑が自分を褒めることは珍しく、神無は楽しげな笑い声を上げた。
「その通り!だらだら先輩も、ようやく俺が天才であることを認めてくれた?」
『そこで調子に乗るから可愛くないんだよなぁ、撤回してもいい?』
「だめだめ、言った言葉は戻らないよーだ。」
言葉の応酬に棘はなく、心地良い温度のやり取りに神無は頬を緩める。
一年前には考えられなかった関係だった。その穏やかな温度を幸せに思う心の片隅に居座る、少しの物足りなさから目を逸らして、神無はくすくすと笑う。そんな彼の様子に、縞斑も声を潜めて笑った。
『それじゃあ……今日はもう少しだけ、調子に乗らせてあげる。』
「なに?」
今日はいつになく縞斑が自分に甘い、神無は意外に思いながらモニターの電源を落として、部屋の明かりを落とした。
ベッドに腰掛けて両手で端末に手を当てると、縞斑の声を聞き漏らさないように耳を澄ませる。
前から伝えたかったことだけど、と前置きをして、縞斑は穏やかな声で話し始めた。
『君の手は、誰かを殺したり、不幸にするものじゃない。』
「……え、」
『誰かを生かそうと頑張る、そんな手だ。』
縞斑の言葉に、神無は声を詰まらせる。
あの事件の時、不甲斐ない自分は多くの命を犠牲にしたと神無は思っている。自分が迷わなければ、躊躇わなければ、縞斑の親友は死ぬことはなかったかもしれない。
お前のせいじゃないか、そう神無を問い詰めた縞斑の言葉は鋭く、未だ神無の心に刺さったままだった。心のどこかで、縞斑は自分のことを恨んでいるのだろうと思っていたのだ。
そんな神無の不安と動揺を察してか、縞斑は更に言葉を続ける。
『君が真っ直ぐに伸ばす手のひらの温かさに救われるひとが…今までも、これからも、沢山いるんだよ。』
きっと彼は、あの日のことを許してはいない。けれど、その場所に囚われてもいないのだ。
『…変わったね、神無ちゃん。もちろん良い意味で。』
目を閉じる神無には、通話越しに縞斑がどんな顔をしているのかが分からなかった。言い聞かせる彼の声は穏やかに、神無の心を包み込む。
「…そう……かな。」
『そうだよ。』
心地良い温度に揺られた神無は、ベッドに体を預けて呟いた。すぐにきっぱりと返された返事に、普段は強がりで口にできない素直な言葉がするりと唇から漏れる。
「もしそうなんだとしたら、俺をこうしてくれたのは……間違いなくあんただよ。」
『…俺?』
縞斑が通話越しに不思議そうな声を上げる。
何度も神無を叱り、前を向くよう背中を押したのに、神無を変えた自覚はないらしい。
神無は胸に手を押し当てて、今度は縞斑に言い聞かせるために言葉を続けた。
「あの日、あんたが半分を背負ってくれたから……だから、俺は今ここにいるんだ。」
背負ったものは重く、一人では押し潰されて逃げ出してしまいそうだった。
それでも、逃げる事は許さないと縞斑が呪いで神無を縛ったお陰で、歯を食いしばって立っていられたのだ。
あの夜がなければ、神無は仲間たちと共に最後まで駆け抜けることができなかったかもしれない。
「…俺を神無三十一に繋ぎ止めてくれて、ありがとう。」
神無の声に、縞斑が小さく息を呑んだ。
やがて深い溜め息を吐いた彼が、通話越しに髪を掻き混ぜる音を拾う。照れているのだろうかと小さく笑っていれば、そんな神無の鼓膜を次に揺らしたのは、想定外の言葉だった。
『君が好きだよ。』
「…………は?」
告げられた言葉はまるで現実味を帯びていなくて、神無は閉じていた瞳を思わず見開いた。
慌ててベッドから飛び起きる神無の耳に、あー、と唸る縞斑の声が届く。
「な、なん、」
『言わないつもりだったんだけどなぁ…』
「それは、その…友情的な……?」
『この状況でそんな勘違いをするほど、君は鈍くないと思うけど。』
神無が慌てて口にした逃げ道は塞がれた。ならばその言葉が意味するものは、考えた神無は顔から火が出るような熱を感じる。
どうして急に。今までそんな片鱗は全くなかったのに。上手く隠していたのだろうか。一体いつから。混乱する頭に浮かぶ思考は止めどなく、眠気の覚めてしまった神無はうろうろと部屋の中を歩き回った。
「おれ、が……ほんとに…?」
『冗談言ってるように見える?』
「……どんな顔してるか、わかんないだろ」
『あはは、そりゃそうだ。』
いつものように飄々とした様子で笑う縞斑は、もう緊張を取り去っているようだった。
未だ赤い顔で落ち着かない神無は、火照る頬を片手で押さえて深呼吸を繰り返しながらベッドに再び腰掛ける。
そんな動揺を露わにする神無を楽しげに笑った縞斑が、口を開いた。
『…神無ちゃんは?』
「ぅえ!?!」
『返事、聞いてもいい?』
その言葉に、神無はようやく自分が告白されたことを思い出す。想いを告げられたのだから、その想いに返事を返さなければならない。
端末を耳に押し当てた神無は、おろおろと言葉に悩みながら視線を彷徨わせる。
「おれは、その…えっと……」
『うん。』
縞斑のことが、ずっと前から好きだった。
けれど、縞斑が自分と同じ想いを抱くことなどあり得ないと思っていたのだ。
想いを告げて距離を置かれてしまうくらいならば、このまま心地良い協力者という立ち位置にいるだけでいい。そう割り切って、神無は必死で恋心を昇華していたのだ。
そうして諦めていた神無の前で、捨ててしまった気持ちを丁寧に拾った縞斑が愛を告げた。喜びのあまり死んでしまいそうだと、神無はきつく目を閉じる。
「…返事、会った時がいいん…だけど、」
『会った時?』
「ちゃんと…顔見て言いたい。」
このまま電話で想いを伝えることのほうが、ずっと簡単で確実であることだろう。
しかし神無は、せっかく同じ想いを抱いていた大切な人に、顔も見ないまま返事を返したくなかったのだ。
神無の提案に対して、縞斑は笑い声を上げた。ひとしきり笑った彼は、納得した様子で何度も頷く。
『そっか……ちょっと残念だな。』
「ご、ごめん、ちゃんと次会った時に話すから。こういうの、簡単に済ませたくない。」
『いいよ。そうして人の気持ちを大切に扱うところも、俺は好きだから。』
羞恥を吹っ切ったらしい縞斑の追撃に、神無はこれ以上ないほど顔の温度を上げる。
ここまで直球で愛を伝える人だとは思わなかった。縞斑の意外な一面を見た神無は、口から飛び出してしまいそうな心臓を押さえて深呼吸を繰り返す。
そうして神無がどうにか心を宥めたその時だった。窓の外が数度瞬き、部屋の中を一瞬眩い光が照らす。
「うわっ…?!」
『どうしたの?』
思わず悲鳴を漏らした神無の耳に、心配する縞斑の声と遠く雷鳴が鳴り響いた。
別の理由でばくばくと跳ねる心臓を押さえ、神無は窓の外に視線を向ける。
気付けば、雨足は先ほどよりも一層強まっていた。土砂降りの雨の中で、雷の光が町を何度も照らしている。
「雨、強くなってきたな。」
『あぁ…そうなんだ。』
地下で生活を行っている縞斑には、先ほどの雷鳴や雨音は聞こえていないのだろう。納得した様子の縞斑は、神無へと心配の声を漏らす。
『大丈夫?雨の日、苦手だろう?』
神無にとって、雨の日は悲しい記憶の溢れる日だ。
母親が殺されてディーノと共に瀕死に陥った日も、義父である黒田が刺された日も、こんな風に雨の降る夜のことだった。
窓を激しく叩く雨粒を眺めているだけで、あの日々を思い出して心が不安定になる。縞斑に打ち明けたことはないが、仲間たちは薄々気がついていることだった。
帰り際に、今夜は早く寝るようにと念を押したディーノはおそらく、この雨を予報していたのだろう。優しい彼らの存在に内心で感謝をしながら、神無はベッドに身を預ける。
「大丈夫…では、ないけど……この前、ディーノと話したんだよ。悲しい記憶に負けないくらい、嬉しい記憶を作ろうって。」
それは、二人で話して決めたことだった。
ディーノも神無と同じように、雨の日が嫌いだ。いつもより反応が僅かに遅くなるのは、おそらく聴覚の感度を上げて雨音を遮断しているのだろう。
青木伝手にそんなディーノの話を聞いた神無は、二人で話をした。
二人は生きている。悲しい記憶は消えないけれど、嬉しい記憶を重ねていくことも可能なはずだ。一人では難しいかもしれないけれど、仲間と共にならきっとそれができる。
「今日のおかげで、少しだけ…雨の日が好きになれそうだなって思ったから……だから、大丈夫。」
通話越しの縞斑が沈黙した。
僅かに訪れた眠気に身を任せて、思うままに話をした神無はふと、そんな彼の様子に自分の言葉を脳内で反芻する。
そうして神無は、自分の発言が盛大な墓穴を掘ったことに気がついて再び顔を真っ赤にした。
『…ねぇ、神無ちゃん今のさぁ』
「違うんだ、これは違う」
『実質の返事…』
「違うっつーの、自意識過剰」
『顔真っ赤でしょ今』
「赤くねーし!!ねぇよな?!」
混乱したまま枕に顔を埋めて叫べば、俺に聞かないでよ、と縞斑が笑う。
穏やかな彼の笑い声を聞いているうちに、神無はどうにか動揺を落ち着かせた。寝返りを打った神無の耳に、笑い疲れたらしい縞斑のため息が聞こえる。
『はぁ……楽しかった。』
「俺をおもちゃにして楽しかったなら何よりですぅ。」
『拗ねないでよ。最後のは自滅でしょ。』
「…………。」
正論に押し黙る神無の姿を笑った縞斑は、ふと小さく声を漏らした。そうして溜め息を吐いた彼は、残念そうな声を上げる。
『…そろそろ時間切れみたいだ。』
縞斑の言葉に、ふと端末に表示された時刻を確認した。3時前を表示する画面を見つめ、おそらくアサギリに仕事に戻れと怒られたのだろうと神無は笑みを漏らす。
「アサギリにあんま迷惑掛けんなよ。」
『そうだね。殴られないように気を付けるよ。』
激しい雨音よりも、縞斑の優しい声を選んで拾った。今夜はこのまま眠れそうだと、神無はゆっくり目を閉じる。
「それじゃあだらだら先輩、またな。」
『……うん、おやすみ。神無ちゃん。』
よほど仕事に戻ることが憂鬱なのか、名残惜しげな縞斑の声が届いた。そんな彼の姿をくすりと笑った神無は、訪れた微睡みに身を委ねる。
『…ごめんね。』
最後に呟いた彼の声が、意識を手放した神無の耳に届くことはなかった。
※
翌朝も、雨は降り続いていた。
低気圧によって気怠い体を引きずって出勤した神無は、欠伸を噛み殺しながら今日もドロ課の本部へと足を運ぶ。
「おはようございまーす。」
慣れた様子で同僚たちに挨拶を交わして、自分のデスクへと向かえば、そんな彼の元にばたばたと駆け寄る人影があった。
顔を上げた神無は、それが自分の相棒であり、元幼馴染でもあるパートナーロボットのディーノであることに気付く。
「おはよ、ディーノ」
「…神無……」
ぽつりと呟いたディーノの顔を見た神無は、彼の異変に眉を顰めた。
落ち着きなく揺れる瞳と、小さく震える体からは、不安が滲み出ている。そんな彼に駆け寄った神無は、ディーノの背に手を当てて撫でてやりながら首を傾げる。
「どうかしたのか?」
「……こっちに、来てください。」
口を開けたり閉めたりを繰り返したディーノは、神無の手を取るとドロ課本部から廊下に出た。
近くの空き部屋に入った彼は、神無を中に促すと扉に鍵を掛けて振り返る。その瞳はうろうろと居場所無さげに彷徨っていたが、やがて意を決したように神無を見つめた。
「…神無、落ち着いて聞いてください。」
「わ、わかった。」
神無の顔をじっと見つめた彼が、恐る恐るその口火を切る。
「昨晩……スパローが、襲撃されました。」
雨音が、五月蝿いほどに耳元で木霊する。
神様なんて元から、信じちゃいなかった。
けどさ、そりゃないだろ。
そんなにあんたは、俺のことが嫌いなのか。
嗚呼、やっぱり、雨の日は嫌いだ。
時間が止まったような気がした。
それはあくまで神無の錯覚で、現に彼の耳元では相変わらず雨音が五月蝿く鳴り響いている。
「僕も今目を覚ましたばかりで、さっき青木から話を聞かされて……」
雨音が乱暴に頭の中を掻き回して、目の前のディーノの声すら上手く聞き取ることができない。
呆然と立ち尽くす神無の脳裏に、いくつもの映像が蘇った。
忘れたくても忘れられない、血だまりの中の母親。自分を庇って刺された幼馴染。苦しげに逃げろと声を上げた義父。
フラッシュバックを繰り返す脳内はやがて、青と赤の血の海に沈む仲間たちの姿を映し出す。その中に、彼の姿を見つけてしまった。
「みん、なは……」
「……神無…?」
ふらりと、一歩を踏み出した神無は目の前のディーノに縋る。不安と絶望を映すその瞳に、ディーノは息を呑んだ。
「みんなは…!ニトは…リトは…!アサギリは…!!…っだらだら、先輩は…!?」
スパローに度々足を運ぶ神無は、ニトやリトはもちろん、所属している多くのアンドロイドたちとも顔見知りだった。
彼らは無事なのだろうか、血の気が失せた顔で必死にそう声を上げる神無の両頬を、ディーノの手のひらが包む。
額を合わせて呼吸を促すように、澄んだ青の瞳が至近距離で神無の揺らぐ瞳を見つめた。
「落ち着いてください、神無。」
「でぃ、の……」
ディーノの目から見ても気の毒なほど動揺している彼に、無責任に大丈夫などという言葉は掛けられなかった。
せめて少しでも神無の心が落ち着くように、ディーノは彼の頬を撫でながらゆっくりと話しかける。
「僕も…さっき目を覚まして話を聞いたばかりなので、詳細は分かりません。」
「……うん、」
「青木が神無を呼んでいます。一緒に行きましょう。」
「…うん、うん……っ」
今にも涙を零しそうな紫の瞳を拭うと、神無は何度も頷いた。先程よりも僅かに落ち着きを取り戻したらしい神無の手を握ると、ディーノは部屋を出て歩き出す。
解析室の扉を開けば、沈痛な表情を浮かべて話をしていた青木とレミが振り返った。
二人の表情を見た神無は、嫌な予感が止まず体が震え始める。気を抜けば崩れ落ちてしまいそうな足を必死に踏ん張って、神無はディーノと共に彼らのそばへと歩み寄った。
「神無さん…!」
「…状況を、教えてくれ。」
神無の冷静を装う声に、顔を見合わせた彼らは部屋の奥へと視線を向ける。
そこには、毛布に包まって身を寄せ合いながら眠る二人の子供の姿があった。
「ニト…リト…?」
「もう少しだけ、眠らせてあげてください。安定剤が効いて明け方にようやく眠ったので。」
思わず駆け寄ろうとした神無を、レミがそう言って引き留めた。
目の端を真っ赤に染めて、疲れ果てた表情で眠る二人の姿は痛々しい。起こすのは酷だろうと頷いた神無は、声を抑えて青木へと向き直る。
「何があったんだ。」
「僕らもまだ、詳しいことは分かっていませんが……あの子たちが昨日の深夜に、僕らのところにやってきたんです。」
昨晩、メンテナンスが長引いて庁内で仕事を行っていた青木とレミの元に、ニトとリトはどこかから忍び込んだのか突然転がり込んできた。
何があったのか、動揺して泣きじゃくる二人から詳しい話を聞くことは叶わなかったが、断片的な言葉を繋いでスパローが襲撃されたことを知ったのだ。
「これが、お二人の荷物です。」
そう言って青木は二つの大きなリュックサックを机の上に置く。中身を覗き込んだ神無とディーノは、ぎくりと顔を引き攣らせた。
「これ…」
「……スタック、だよな。」
そこに大量に詰まっていたのは、アンドロイドたちの命とも言えるスタックと呼ばれるチップだった。
二つの鞄の中身を合わせれば三桁にも達することだろう。その量は、スパローに所属するアンドロイドの数に重なる。
「おそらく、ボディを持ち出せない状態だったので、スタックだけ抜き取ったんだと思います。」
「スタックさえあれば、データをそのままに復元ができますから……」
襲撃の中で、組織のアンドロイドをそのまま逃がすことは不可能だと判断したのだろう。
狭い通路を使って追っ手を掻い潜ることができる子供たち二人に、縞斑はアンドロイドたちの命を託したのだ。
「襲撃されたのは、お二人がここに来た時間から逆算すると…おそらく午前2時頃です。」
青木の言葉に、神無はぴくりと肩を揺らす。
昨晩、午前2時を過ぎた頃に縞斑から着信があった。もしもあの時、既に襲撃を受けていたのだとしたら。
「…その時間に、だらだら先輩から電話が来た。」
その言葉を聞いた三人の視線が、神無に集まる。目を丸くしていた青木は、慌てた様子で神無へと問い掛けた。
「ど、どんな話をしたんですか?」
縞斑は神無に救助要請を行っていたのだろうか。そう考える青木だったが、神無は首を横に振る。
「いや…内容は普通で……今、何してるのかって、ちょっとだけ話をして……」
青木に説明をしながら、神無はふと昨晩の縞斑の様子を思い出した。
用事もないのに縞斑が夜明け前に連絡を寄越すことなど、一度もなかった。昨晩の彼はいつも以上に優しく、神無に温かい言葉を与えてくれた。
思えば、違和感は至る所に散らばっていた。
最後に彼が告げた、好きだという言葉。
その返事を今聞きたいと急かしたこと。
名残惜しげに呟いた、時間切れという言葉。
そして何より彼は別れ際に、いつもは言うはずの「またね」という挨拶を口にしなかった。
それはまるで、最後の別れのように。
「っ、」
神無は端末を取り出すと、縞斑の名前を表示した。祈るように着信を行い、コール音が部屋に響く。
必死に端末を握りしめる神無の思いも虚しく、通話は繋がることなく相手の端末の電源が切れている旨を伝えた。
「そん、な……」
神無の目の前が暗くなる。呼吸が浅くなり、その場に立っていられないような眩暈を覚えた神無の体がよろめいた。
「っ神無!」
「神無さん…!!」
隣に立つディーノが、神無の体を支える。
取り乱す彼の様子を心配そうに見守っていた青木とレミは、ふと背後から聞こえた小さな唸り声に顔を上げた。
「ん…ん、」
「…みとい……?」
ニトがぽつりと、神無の名前を呼んだ。その声にリトも目を擦りながら顔を上げる。
ディーノに支えられた神無は、青い顔のままニトとリトへ視線を向けた。そんな彼の顔を見た二人は、毛布を跳ね除けて飛び起きると彼の元へ駆け寄る。
「みといっ、みといっ…!!」
「みんなをたすけてぇっ!!!」
神無に縋る二人は、大粒の涙を流しながら必死でそう訴えた。言葉の間に漏れる嗚咽に、唇を噛んだ神無はディーノの支えを解いて膝を折る。
二人と視線を合わせると、神無はその肩に手を当てて努めて優しく問いかけた。
「…何があったか、教えてくれないか。」
神無の落ち着いた声に、二人は鼻を啜りながら震える口を開く。まだ混乱しているらしい二人の頭を撫でて、神無はゆっくりと言葉を促した。
「僕らが寝てたら…っ急に、アジトの入り口が壊されて…カルマが、みんなのスタックを持って逃げろって言って」
「私たちも残るって言ったけど、だめだって、三十一のところにいって、渡してほしいものがあるからって……」
「…渡して欲しいもの?」
神無が尋ねると、リトが服のポケットからハンカチに包まれた何かを大切そうに取り出す。そっと中身を確かめれば、それはアンドロイドのスタックだった。
「これは?」
「レオのだよ…!最後に、カルマが僕らに渡したんだ…!!」
彼らがレオと呼ぶのは、アサギリのことだ。
相棒であるアサギリのスタックまで抜き取って、縞斑は二人に託したらしい。それがどれほど切羽詰まった状況であったのか、神無には想像もできなかった。
「ごめんなさい…っ、ぼくら、何もできなくて…!!」
「どうしよう……カルマが、レオが…みんなが…っ」
震える手でアサギリのスタックを受け取った神無を見つめて、ニトとリトは啜り泣く。
その姿は、年相応の頼りない子供だった。普段、大人も顔負けの技術を駆使する二人だが、彼らはまだ幼い子供たちなのだということを神無は思い知る。
神無はニトとリトの肩をそのまま引き寄せた。労うように頭を撫でれば、それまで耐えていたらしい二人の嗚咽が大きくなる。
「…もう大丈夫だ。」
小さな背中に沢山の仲間たちの命を背負って、ここまで必死で逃げてきた二人を、神無はきつく抱きしめる。
「あとは俺たちに任せてくれ。よく頑張ったな。」
神無の声を聞いて安堵したらしい二人は、泣き声を上げて彼へとしがみついた。ごめんなさい、繰り返し呟きながら嗚咽を漏らす二人の姿に、神無は唇を強く噛み締めたのだった。
※
泣き疲れたのか、投与した安定剤が効いたのか、再び眠りについたニトとリトをレミに預けた神無は、ディーノと共にスパローのアジトへと向かった。
路地裏の出入り口へと足を向ければ、ニトの話通りその場所は爆発によって崩壊している。
「…ひどい。」
今にも崩れ落ちそうな地下への入り口を見つめ、ディーノがぽつりと呟いた。
見張りのアンドロイドたちを巻き込むために、必要以上の火薬を用いたのだろう。地下の出入り口を無理に破壊すれば、フロア全体が崩落する可能性もあり得るはずだ。
中にいた人間やアンドロイドの命など気にもかけていないのであろうその攻撃に、ディーノは顔を顰める。
神無は何も言わずに、刀に手を掛けて警戒したまま階段を降りていった。後ろのディーノもショットガンを構えてそれに続く。
階段を降りて広場へと辿り着いた二人は、そこに広がる光景に息を呑んだ。
大きな青い血の海に沈む、いくつものアンドロイドたち。その誰もにスタックを狙って攻撃された形跡があり、機能が完全に停止している。
名前は知らなかったが、幾度か顔を合わせたことのある、神無やディーノに明るく声を掛けてくれたアンドロイドたちの姿も、そこには沈んでいた。
彼らから目を逸らしたディーノは、室内へと視線を向けて瞳を光らせる。センサーを起動したままぐるりと部屋の中を見回した彼は、神無に向かって報告を行った。
「神無、生体反応は周囲にありません。」
「……そうか。」
人の気配が一切ない空間に、神無はその答えを予想していたのだろう。頷いた彼は細く息を吐くと、振り返らないまま背後のディーノに声を掛ける。
「検索範囲を…死体まで広げてくれ。」
「…神無、」
神無の言葉に、ディーノは身を強ばらせた。
その言葉が何を意味するか、どんな覚悟を持ってその言葉を口にしたのか、言及をする必要もなく、神無の肩は小さく震えている。
「頼む。」
「………わかりました。」
頷いたディーノは再び瞳を周囲へと向けた。
熱源は相変わらず存在しない。倒れるアンドロイドたちは既に物という認識となっている。
その中で、更に検索範囲内に人間の肉体を探したディーノは、小さく口を開いた。
「…反応、ありません。」
「……わかった。」
固い声で神無は頷くと、ありがとうと呟いて部屋の奥に足を向ける。
この場所に人間の死体はない。けれど、安堵などできるはずもなかった。襲撃者が追跡を警戒して死体を処分している可能性も、十二分にあり得るのだ。
警戒は怠らないまま、神無は広場を抜けて廊下を進むと、最奥の扉の前に立った。その場所は、縞斑が私室として利用している部屋だ。
「…開けるぞ。」
「はい。」
扉越しに物音や気配がないことを確かめると、神無は息を止めて扉に手を掛ける。
そっと扉を押し開けた彼らの鼻を、立ち込めていた硝煙の臭いがひどく突いた。
室内は荒れており、倒れた家具にはいくつもの弾痕が確認できる。室内に立ち入った神無は、足元に転がる空の薬莢を拾い上げた。
「これ……だらだら先輩の弾だ。」
彼の言葉を聞いて、隣のディーノも手元を覗き込む。彼の手の中にあったものは、確かに縞斑が愛用するサブマシンガンの薬莢だった。
この場所で彼は戦ったのだ。周囲を見回した神無はふと、机のそばに赤色が散らばっていることに気付く。歩み寄って腰を落とした彼は、そこに血痕が残されていることを確かめた。
「ディーノ、血液鑑定してくれ。」
「わかりました。」
隣に腰を下ろしたディーノが、床に落ちた乾き始めている血痕に触れる。そっと口に含んだそれを、ディーノは自身の持っているデータと照らし合わせて、やがて重い口を開いた。
「縞斑狩魔の血液と…一致しました。」
「……そう、だよな。ありがとう。」
床に落ちている血痕は、おそらく全て縞斑のものだ。これだけならば致死量ではないが、怪我を負っていることは間違いない。
覚悟していた答えを受け取った神無は、拳を握りしめて視線を床に落とす。そうしてふと、神無はその血痕がぽつぽつと部屋の奥に続いていることに気が付いた。
「……?」
不審に思った神無は、刀を構えたまま部屋の奥へと血痕を辿る。小さな血で作られた道は、隅に設置されたクローゼットの前で途切れていた。
背後のディーノを振り返り、目配せをした神無はゆっくりと扉を開ける。
その瞬間、がしゃんと音を立てて大きな人影が神無へと覆いかぶさった。
「うわっ!?」
「神無!」
重さに耐え切れず後ろに倒れ込みかけた神無だったが、その背を慌ててディーノが支える。二人が顔を上げて正体を確かめれば、それは彼らも見慣れたアンドロイドの白い機体だった。
「アサギリ…!?」
クローゼットの中に押し込まれていたらしいアサギリの体には、目立った傷は見当たらない。血痕から推測するに、縞斑がこの場所に彼を隠したのだろう。
二人掛かりでアサギリの体を床に座らせれば、彼の頬を透明な液体がいくつも流れ落ちた。アサギリは、スタックを抜き取られた状態で尚、涙を流し続けていたのだ。
「アサギリにスタックを戻す。暴れるかもしれないから、もしもの時は手伝ってくれ。」
「わ、わかりました。」
ニトとリトから渡されたスタックを取り出すと、神無はそうディーノに声を掛けてアサギリの後頭部へと手を伸ばす。
手探りで見つけた接続口にスタックを嵌め込むと、アサギリの体から起動音が鳴り響いた。橙黄色の瞳に光が宿った瞬間、彼の体がびくりと跳ねる。
「…スター…ッマスター!!マスター!!」
動き出したアサギリは、大きく目を見開くと両手を宙に伸ばして叫び声を上げた。暴れようとするその体を、神無とディーノは両腕で押さえる。
「アサギリ!アサギリ!!」
「しっかり、してください…っ」
「マスター!っ、やめてください!!お願いします!!お側に…ッ!!」
アサギリに二人の声は届いていなかった。虚空を見つめて必死に声を上げる彼を見兼ねた神無は、彼の頭を引き寄せて胸の中に抱える。
「マスター……!!マスター、お願いします!!お願いします!!!」
「アサギリ…!!」
アサギリの流す涙が、神無の服に滲んでいく。彼を抱えて二人が声を掛け続けるうちに、ようやくアサギリの瞳がゆるりと神無を捉えた。
「か、みな…さん……ディーノ、さん…」
「…アサギリ、よかった」
ぽつりと呟いた彼の言葉に、ディーノは安堵して声を掛ける。しかし、アサギリはそんな彼らに向けて震える声を上げた。
「ッ…マスターは……どこですか…?」
その言葉に、神無とディーノは言葉を詰まらせる。目を伏せるディーノと、何も言わない神無を見上げたアサギリの瞳に、絶望の色が滲んだ。
「マスターは、ご無事ですか…!!」
「…まだ、分からない。ごめん。」
彼を宥める言葉が見つからなかった神無は、正直にそう打ち明ける。震えるアサギリの両手が、縋る場所を探して神無とディーノの体を抱き締めた。
きつく二人を抱きしめたまま、動かなくなってしまったアサギリの背を撫でながら、神無は小さく口を開く。
「アサギリまで泣かせて…何やってんだよ、あんた」
アサギリがこれまで、感情を露わにして取り乱したことなど一度もなかった。職場では後輩にあたる二人に縋ることなど、決してなかったのだ。
そんな彼がひどく傷つき、動くことすらできない姿に、神無は思わずここには居ない彼の主人へと文句を零す。
ディーノも同意するように小さく頷くと、アサギリの頬や目元を拭いながら口を開いた。
「アサギリ、立てますか。」
「……はい。機能に、問題はありません。」
アサギリはディーノと神無に手を引かれ、震える足で立ち上がる。そんな彼の背を支えた神無は、これ以上の調査はできないと判断すると無線に声を掛けた。
間も無く聞こえた青木の言葉に返事を返すと、ディーノに視線を向ける。
「残りはドロ課に投げる。一度戻ろう。」
「分かりました。アサギリ、行きましょう。」
こくりと小さく頷いたアサギリと共に、二人は地下を後にした。青に染まる見慣れていたはずの広場を視界の端に、神無は目を伏せる。
また、間に合わなかった。そんな絶望を飲み込んで、三人は青木たちの待つドロ課本部へと戻るのだった。
※
ドロ課に戻った神無たちを出迎えたのは、ようやく落ち着きを取り戻したらしいニトとリトだった。
「レオ…!!」
「レオっ!!よかった…!!!」
アサギリに駆け寄った彼らは、その体にしっかりと抱き付く。二人の姿に安堵したアサギリは、その場に膝をつくと子供たちを強く抱きしめた。
「ニト、リト…ご無事で…」
「僕らは平気だよ、レオやカルマが逃してくれたから…!」
再会を喜ぶ三人を見守りながら、神無は手短に青木へとアジトで見た情報を共有する。
私室で見つけた縞斑の血液について、青木は暗い表情を浮かべてひとつ頷いた。まもなく彼の手配で、数人のドロ課の人間がパートナーロボットを連れて部屋から出て行く。
信頼できるメンバーに、アジトの詳しい調査と処理を任せたのだろう。あの事件以降より頼りになる存在になった彼は、落ち着いたらしいアサギリの元へと歩み寄った。
「あの…アサギリさん、貴方の見たものを共有してもらっても良いですか。」
「……わかりました。」
青木の言葉に、顔を上げたアサギリが頷く。
不安げに見上げるニトとリトの頭をそっと撫でたアサギリは、自身のデータをモニターに映像として表示した。神無たちが画面を覗き込むと、映像は再生を始める。
そこに映る映像は、神無たちの想像を遥かに上回る壮絶なものだった。
出入り口の爆発と共に、侵入者たちはアサルトライフルを斉射した。広場にいた縞斑とアサギリは咄嗟に物陰に隠れるよう指示を出したが、間に合わない。
多くのアンドロイドが倒れていく姿を見て、歯を食いしばった縞斑が物陰から飛び出す。
アサギリが止めるまもなく、彼はまだ息のあるアンドロイドたちからスタックを抜き取った。
左肩を銃弾が掠めた彼は、傷口を押さえてアサギリと共に侵入者に応戦を続ける。しかし、それもみるみる不利に陥っていく様子に、煙幕を張った二人は縞斑の私室に隠れているニトとリトの元に向かったのだ。
そこでは、襲撃直後の縞斑の指示で、スパローに所属する無事なアンドロイドたち全員のスタックを回収した二人の姿があった。
「ニト、リト、この通路から地上に逃げるんだ。」
縞斑は言いながら、部屋の奥に設けられていた脱出口を開く。万が一のために設置されていた細い通路は、道なりに進めば警視庁付近の地上に出られることを縞斑は知っていた。
状況が分からないまま、こくこくと頷いた子供たちは通路へと足を向ける。そんな二人を急かしたアサギリは、扉の前に立つ縞斑を振り返った。
「マスター、貴方も早く行ってください。」
縞斑の後を務めるつもりだったアサギリは、いつまでも通路に向かわずにサブマシンガンを握る縞斑の様子に眉を寄せる。
彼の指先から伝い落ちた血液が、ぱたりと床を叩いた。それを見下ろした縞斑は、アサギリに小さく笑みを向ける。
「俺は、ここに残る。」
「…なに、を」
アサギリの視界が、動揺によってぐらりと揺れた。言葉を失うアサギリに構わず、彼は通路の前で立ち尽くすニトとリトの頭を撫でた。
「いい?地上に出たら、ドロ課の青木ちゃんを頼るんだよ。そうすれば確実に、神無ちゃんたちと合流できるはず。」
「カルマは…?!」
「一緒じゃだめなの!?」
今にも泣き出してしまいそうな子供たちを抱きしめて頭を撫でた縞斑は、二人に言い聞かせる。
「俺までここから消えたら、確実に追手が来る。」
「でも…っ」
「この通路は俺が絶対に守るから、今から渡すものを確実に神無ちゃんに託してほしい。」
進行を続けているらしい侵入者たちは、アンドロイドには目もくれず人間を探しているようだった。おそらく彼らの狙いは、縞斑狩魔なのだろう。
この通路から縞斑まで逃げ出せば、確実に地上まで追手が出てくる。万が一地上で彼らが暴れれば、無関係な人間に被害が及ぶ可能性があった。
自身の身が危ない状況にも関わらず、名前も知らない誰かの身を案ずる縞斑の姿に、アサギリは唇を噛む。
「馬鹿なことを言わないでください!!早く避難を…!!」
彼が無事ならば、他の顔も名前も知らない他人などどうでもいいと、アサギリは思ってしまった。キョウが守ってきたこの場所を捨てることを迷っているのならば、自分が残ることにだって躊躇いはなかった。
力尽くでも逃そうと、アサギリは動こうとしない縞斑に手を伸ばす。その指先が縞斑に触れようとした直前、彼は一歩下がると固い声を上げた。
「ーーーX000、動くな。」
その言葉を聞いた瞬間、アサギリの動きがぴたりと止まった。どれだけもがいても、体が硬直して動かない。
それは、彼がアンドロイドであるが故に、アサギリという名前以上の意味を持ってしまうもう一つの名前の鎖だった。
動けないアサギリに、縞斑はゆっくりと歩み寄る。その瞳には、紛れもない相棒に向けた強い情が滲んでいた。
「…いや、です、マスター……」
「……ごめんね。こうでもしないと、君は絶対に言うことを聞いてくれないだろうから。」
どうにか動く口だけで必死に懇願するアサギリだが、縞斑の意志は固い。彼は両腕を持ち上げると、動けないアサギリの体を抱き締めた。
アサギリの体が縞斑の鼓動の音を拾う。
大切な人のその音が潰える瞬間を、アサギリは既に二度味わってきた。心とキョウを失ったアサギリにとって、縞斑が下した選択は耐え難いものだったのだ。
ぽたりと、アサギリの頬を伝った雫が縞斑の服に滲む。驚いたように目を開く彼に、アサギリは必死で震える手を動かして縋ろうとした。
「お願い…します、置いていかないで…ください、連れて行ってください。」
「アサギリちゃん…。」
「嫌なんです、また……何もできないまま…貴方を失ったら、私は…もう、」
今のアサギリにとって、縞斑という主人が唯一にして全てだった。もちろん仲間たちのことも大切だったが、その中でも一等輝く、絶対に失ってはいけない存在だった。
縞斑の目を見た時に、アサギリは気が付いてしまったのだ。彼が、ここで死ぬ覚悟をしていることに。
「お願いします……っお願いします…」
「…聞いて、アサギリちゃん。」
アサギリを抱きしめたまま、縞斑は子供に言い聞かせるように柔らかい声色で呟いた。
全てを拒絶して縞斑の命令を跳ね除けたいアサギリだったが、そんな気持ちとは裏腹に彼の声をひとつも聞き漏らさないように、全て機能が彼の声に集中する。
「おそらく、相手はあの組織…EMCだ。」
「………、」
アンドロイドに見向きもせずに縞斑を探すその様子や、彼らの人としての心が欠落した瞳を目にした縞斑は、例の事件の発端となった組織に目星をつけていた。
感情操作機関EMC。彼らが有馬と共に発明した感情抑制剤は、まだ全て押収されずこの世に残っている。彼らの拠点は未だ分かっていない。
「有馬の件や、病院で神無ちゃんに声を掛けたことを考えると…あいつらの拠点のひとつは、ここからそう遠くない場所にあるはず。」
その場所が本拠地であるとは考え難いが、拠点の一つを押さえることができれば、今後の調査によって足取りを辿ることができるかもしれない。
今縞斑がやるべきことは、出来る限り多くの手掛かりを神無たちに残し、組織の仲間を一人でも多く守ることだった。
「警察の管理する監視カメラなら、あいつらが改竄する前に辿れるかもしれない。……そのためにも、一刻も早く神無ちゃんたちにこの情報を届ける必要がある。」
縞斑の指が、アサギリの後頭部に触れる。
その手が何を探そうとしているのか、気がついたアサギリは必死で首を横に振り体を離そうともがいた。
「マスター…!!やめてください!!お願いします!!」
命令に逆らうことのできないアサギリの体は、依然として動かない。縞斑の指先は滞りなく、アサギリのスタックが埋め込まれた場所を探し当てた。
「…ごめんね、アサギリちゃん。」
「嫌です…ッ嫌です…!!マスター!!」
アサギリの視界が滲んでいく。
スタックを引き抜く音を聞き届けた途端、意識にノイズが掛かり、強制終了を促す体は叫ぶことすらままならなくなった。
アサギリの頭を撫でた縞斑は、体を離す直前にぽつりと口を開く。
「後を……頼むよ。」
ノイズに溺れて遠くなっていく意識の中、最後に見たのは自分を振り返らない主人の背中だった。
その時アサギリは、自分を作った二人の神様を強く憎んだのだ。
ねぇ。どうしてですか、神様。
何度願っても、大切な人を救えない。
この体は、命令ひとつで動かなくなる。
こんなにも辛い思いをするのなら。
こんなにも悲しい思いをするのなら。
それならどうして、私に心なんてものを与えたのですか。
アサギリの映像を確認した後、直ちに監視カメラの解析が行われた。
青木はニトとリトが警視庁に逃げ込んだ時点で、アジト周辺の監視カメラのデータを一通り回収していたらしい。
改竄前のデータを確保することができたドロ課は、まもなく襲撃後にアジトを出てバンに乗り込み走り去る数人の姿を発見したのだ。
撤退した男たちの内、ひとりは大きな袋を抱えていた。人一人が入れるほどの大きさのそれは、画像が荒く解析が追いつかなかったが、縞斑の可能性が高いとされた。
映像だけでは、彼が生きているのか、死んでいるのか、判断ができなかった。ドロ課はひとまず、割り出された拠点の制圧と縞斑の救出を目的に動くこととなったのだ。
「…では、以上をもって解散します。」
捜査会議を終えて夜から行う拠点突入の戦力として命じられた神無は、青木の号令を聞くと席を立った。
隣のディーノが慌てて後を追えば、彼は廊下をあてもなく歩き始める。
しばらく黙ってその背を追っていたディーノは、勇気を出して一歩踏み出すと神無の腕を掴んだ。
「…神無、」
「ッ…!!」
しかし、その腕を神無は乱暴に振り払う。
払われた腕を上げたまま呆然と立ち尽くすディーノの姿に、はっと我に返った神無が慌てて背後を振り返った。
「わ…悪いディーノ、考え事してて、」
申し訳なさそうに謝る神無は、緊張の糸が張り詰めている。今にもそれが切れて壊れてしまいそうな危うい状態の彼に、ディーノはもう一度その手を取って口を開いた。
「少し、休みましょう。」
「……でも、」
「お願いです。休んでください。」
仮眠室はおそらく、同じように突入に備えたドロ課のメンバーが休んでいることだろう。
ディーノは廊下を見回すと、使用していない会議室に目星をつけて神無の手を引いたまま歩み寄った。
認証を行なって開いた扉の先に神無を促すと、扉を閉めて使用中の文字を表示させる。室内を進んだ彼は、神無を側の椅子に座らせた。
「眠らなくてもいいですから、せめて座って目を閉じてください。」
「………わかった。」
疲弊したままでは、突入時に足手まといになるかもしれない。ディーノの心配を素直に受け止めた神無は、隣に座るディーノの肩に頭を預けて目を閉じる。
二人の会話が途切れると、窓の外の雨音がより一層大きく聞こえた。その音から逃れるように、神無は片耳をディーノの肩に押し付ける。
「……雨は、嫌いだな。」
「…そうですね。」
身を寄せ合って薄暗い室内で聞く雨音は、ディーノの幼い記憶を呼び起こす。
振り下ろされるナイフを庇って受け止め、二人の運命を大きく変えたあの日。雷の光に照らされた神無の怯えた顔を、ディーノははっきりと思い出した。
二度と神無のあんな顔を見たくなかったディーノだったが、今朝の彼の表情にはそれと同じかそれ以上の絶望が浮かんでいたのだ。
縞斑に出会ったら、拳の一発や二発は抑えられないかもしれない。そんな不穏なことを考えながら、雨音を紛らわせるためにディーノは口を開く。
「……大丈夫、ですか。」
呟いてからディーノは、失言に気が付いた。
今の神無が、大丈夫なはずがないのだ。
ディーノは、彼の密かな恋心を知っている。そんな彼が、大切な人を再び失う恐怖に苛まれているのだから、苦しくて当たり前だ。
咄嗟に謝ろうとしたディーノだったが、頭を預けたままの神無はぽつりと呟く。
「……大丈夫だ。」
大丈夫なわけがないだろう、と怒鳴られる可能性も考えていたディーノだったが、その返事は思いの外落ち着いていた。
驚いて目を瞬くディーノに向かって、神無は言葉を続ける。
「悲しいのも、苦しいのも……俺だけじゃないから。…泣いてる暇なんかないよ。」
その言葉は、ここにはいないアサギリたちのことを指していた。
アサギリは映像を見た後再び取り乱し、レミのケアを受けることになったのだ。
その後はニトとリトと共にドロ課で休んでいたが、突入にあたって自分も任務に参加すると言って聞かなかった。
一刻も早く主人の安否を確かめたいアサギリの意志を、青木は拒絶することができなかった。神無の指示に従うという約束を行なって、アサギリは今回の任務への参加が許可されたのだ。
「神無、それは……」
縞斑のことを心配しているのは神無だけではない。その主張を否定するつもりはないディーノだが、彼の口振りが以前の感情を切り離そうとした不安定な姿に重なった。
ディーノの不安を汲み取ったらしい神無は、頬をそっと彼の肩に寄せる。体温を預けるようにして目を閉じる彼は、ゆっくりとディーノに声を掛けた。
「大丈夫だよ。あの時みたいに、自暴自棄になってるわけじゃない。」
今の神無は、以前のように悲しみや苦しみを遮断するために感情を殺そうとしているわけではない。
ただ、嘆くよりも自分にできることがあると信じて動くことを止めなかったのだ。
「呪いも、約束も…まだ終わらせたりなんかしないから。」
神無は、まだ縞斑のことを諦めていない。
半分を背負うと告げてくれた彼が、こんなところで荷物を下ろして神無を置いていくはずがない。
今はただ、そう言い聞かせて歯を食いしばるしかなかった。
「…そう、だね。」
目を閉じる神無の目元を手で覆い、ディーノは小さく頷く。せめて彼が少しでも休めるようにと動いたディーノだったが、そんな彼の手を神無が唐突に捕まえた。
「神無…?」
「……お願いだ、ディーノ。」
太陽が沈み、電気のついていない薄暗い室内には、雷の光だけが時々差し込んでいる。
「俺のそばから…離れないでくれ。」
その光に一瞬照らされた神無の瞳を目にしたディーノは、小さく息を呑んだのだ。
「今の俺は犯人を目にしたとき、何をするか分からないから。」
彼は怒っているのだ。
腹の底から、深く煮え滾るほどに。
怒りに震える手のひらを必死で抑えようとする神無の手を握り返して、ディーノは神無の頭を抱く。
黙って腕の中に抱かれる神無は、少しでも体を休めるために目を閉じた。そんな彼の頭を撫でながら、ディーノはひとつ頷く。
「…絶対に、離れないよ。」
「………ありがとう。」
自分は、縞斑の代わりにはなれない。
ひとではなくなってしまった自分に、半分を背負うことはできない。
けれど、彼のパートナーロボットは他でもない自分なのだ。譲れないものだって存在する。
穏やかとは言い難い呼吸を繰り返す神無を抱きしめながら、ディーノは心の内でぽつりと独りごちた。
もし、本当に神さまがいるなら。
全ての悲しい偶然を繋いで、僕らを運命に仕立て上げてみせたように。
彼とあの人のことも、離れぬ運命でもう一度強く結んでくれませんか。
そうでなければ、彼があまりに可哀想だ。
彼は、こんなにもあの人を愛しているのに。
※
2051年6月24日 PM22:00
装備を身につけた神無は、ディーノとアサギリと共に割り出した拠点の裏口らしき扉の側に待機していた。
青木が率いるドロ課の面々は、組織の制圧を担当している。一方神無たち三人は騒ぎに乗じて施設内に侵入して、縞斑を捜索、可能であれば保護を行う手筈だ。
「…こちら神無、B地点に到着。」
『了解。2205から、突入を行います。』
青木の固い声に三人は頷くと、突入に向けて身構える。扉は突入と同時に、青木とレミがハッキングを行なって解錠する手筈になっていた。
「…問題は、どうやってだらだら先輩を見つけ出すかだな……」
辿り着いた拠点は、二階建ての白い箱のような建物だった。本拠地ではないのだろうその場所はしかし、人一人を探して無策で走り回るには厳しいほどの広さである。
呟く神無に同意したディーノは、ふと何も答えないアサギリに気が付いた。
「…アサギリ、どうかしましたか。」
顔を上げたアサギリは、そんなディーノの声を聞いても振り返ることなく、驚いたように見開いた瞳をじっと建物内に向けている。
そうして彼は、小さく声を漏らした。
「………マスターの、声が」
アサギリの言葉を聞いた瞬間、ディーノと神無は口を閉ざして周囲に耳を澄ませる。
ところが、どれだけ意識を集中させても彼の声が二人の耳に届く様子はなかった。
「アサギリには、聞こえてるのか。」
「…はい。微かですが……」
人間の聞き取れない音を拾うことが可能であるアンドロイドたちだが、旧型のアサギリが拾う音を最新型のディーノが拾えないということは技術的には考え難い。
しかし、神無は間違いなくアサギリには縞斑の声が届いているのだと確信を持った。
彼らは神無とディーノと同じ、適合率100%のパートナーなのだ。他のアンドロイドや人間では取りこぼす情報を拾えていたとしても、おかしい話ではない。
「アサギリの声を頼りに探そう。聞こえる方に案内してくれ。」
「かしこまりました。それと…神無さん。」
頷いたアサギリが、神無を振り返る。
落ち着きを取り戻し、感情を押さえた彼の瞳には、神無への信頼と懇願が滲んでいた。
「マスターは………ずっと貴方のことを呼んでいます。」
アサギリの聞いた悲痛な縞斑の声は、喉が枯れることも厭わずに繰り返し神無の名を呼び続けていた。
彼が声を枯らす姿も、一人の人間にここまで執着をする姿も、あの事件以降アサギリは見たことがなかった。あの日、元相棒とその妹の死によって失われてしまったのだと思っていたのだ。
けれど、まだ確かに縞斑は生きている。神無がここに来ることを願って、今も戦っているのだ。
神無は、アサギリの言葉に息を呑む。刀を握る手に力を込めて、細く長い息を吐いた彼が小さく頷いた。
「…わかった。」
彼の呟きと同時に、突入の指示が無線から響く。それ以上は何も言わなかった神無は、腰を上げると扉へと向かった。
「行こう。」
覚悟を決めた神無の声に、二人はそれぞれ返事をすると後に続く。手を掛けた扉は、青木たちの計画通りハッキングによって解錠していた。
慎重に扉を押し開き、周囲に人の気配がないことを確かめた三人は施設内へと侵入する。
正面入り口からドロ課が突入を始めたらしく、多くの人の気配と銃撃戦の音が廊下に反響して三人の元まで届いていた。
「アサギリ、頼む。」
「はい。…こちらです。」
アサギリは頷くと、騒ぎの中でも変わらず聞こえる声を頼りに駆け出す。はやる気持ちを抑えて、神無とディーノもその後に続いた。
既に施設内にドロ課が突入したことは、組織の人間も気が付いているはずだ。襲撃の目的が何であるか、彼らが気がつかない筈がない。
「…だらだら先輩……っ」
一刻も早く、縞斑を見つけ出さなければ。
襲撃の目的に気がついた組織が、彼に何をするか分かったものではない。
人質ならまだいい。万が一、処分を判断したとしたら。悪い方向へと考える頭を必死に振ると、神無はただ走ることだけを考える。
「アサギリ!!どうだ?!」
「…っ、ここです!!!」
走るアサギリは、最奥の扉の前で足を止めた。扉は固く閉ざされていたが、アサギリの手が触れた瞬間火花が散って扉に隙間が開く。
ハッキングによって強制的に開かれた扉を押し開けて、三人は部屋の中へと転がり込んだ。
そうして顔を上げた三人は、部屋の奥に設置されたベッドの上に座る縞斑の姿を目にする。
「マスター!!」
「先輩っ!!」
三人は縞斑に向かって声を掛けた。
しかし、彼がその声に応える様子はない。
駆け寄った三人は、虚ろな瞳でぼんやりと座る縞斑の姿に息を呑んだ。
「マスター!!しっかりしてください!!」
「ディーノ!バイタルチェック!!」
「分かりました…!」
必死で縞斑の手を取り声を上げるアサギリの肩を撫でながら、神無はディーノへと指示を飛ばす。頷いたディーノは、瞳に淡い光を湛えると縞斑の状態を観察した。
映像で見た腕の怪我には、止血が施されている。他に目立った外傷はなく、ディーノの診断結果は良好を指し示した。
「脈拍・呼吸・体温・血圧・意識レベル…全て問題ありません。」
「なら、これは……」
肉体には影響が無いにも関わらず、反応がない縞斑の姿に、神無は最悪の予感が当たってしまったことを察する。
縞斑のその姿に、三人は見覚えがあった。
あの事件の日、町に散布された薬品によって多くの住民が感情を失った。その時目にしたロボットのように表情を欠落させた顔が、そこにはあったのだ。
縞斑は、感情抑制剤を投与されていた。
「…ッレミに連絡する!すぐに運ぶぞ!!」
「わかりました。アサギリ、手伝ってください。」
「はい…!」
縞斑の症状は町で目にした人間よりも酷かった。三人の声に反応を一切示さず、瞳が彼らを映す様子もない。感情だけでなく、心そのものが欠落してしまったようなその姿に、神無は震える手で通信を起動させる。
そうして神無が青木とレミへと言葉を送ろうとした、その時だった。
「…おや、もうここを見つけてしまったのですね。」
聞こえた声に、神無はぎくりと肩を揺らす。
咄嗟に刀に手を掛けて振り返れば、扉の前には2体のアンドロイドを引き連れた白衣の男の姿があった。男の顔に、神無は見覚えがある。
「…お前は、」
「お久しぶりです、神無さん。また近いうちにお会いできると思っていましたが、このような形になるとは。」
彼は、事件の後に黒田の病室を訪ねてきたEMCの所員、遠宮千里だった。
ここはやはり、縞斑の読み通り感情操作機関の拠点の一つだったらしい。奥歯を噛んだ神無は刀を抜くと、背後のディーノに声を掛ける。
「ディーノ、アサギリと先輩を頼む。」
「…わかりました。」
必死で縞斑の手を取り名前を呼ぶアサギリは、戦える状態にない。彼らをディーノに任せて、神無は男たちに向き直った。
「どうして…こんなことをしたんだ。」
神無の肉体を引き取った時も、有馬の事件の時も、黒田の病室での時も、彼らは事件に直接関与するような存在ではなかった。
研究を行うことを優先して保身に走る組織は、事件に関与した決定的な証拠に欠けるためにドロ課やスパローでも追うことができなかったのだ。
そんな彼らが何故、スパロー襲撃の主犯となったのだろうか。組織を追う存在を消したいだけであれば、縞斑狩魔をここに連れ去る必要などなかったはずだ。
対面しても尚、相手の目的が分からない神無は、緊張の糸を強く張ったまま相手を睨み付ける。そんな神無に対して、遠宮はにこやかな笑みを浮かべたまま口を開いた。
「多少のリスクを冒してでも、調べたいことがあったのですよ。」
遠宮の言葉に神無は怪訝な表情を浮かべる。
この場所が特定されて、研究が途絶える可能性を加味してでも彼らが優先した調査について、神無には見当がつかなかった。
遠宮と話す間も、側のアンドロイドたちは手に拳銃を握ったまま神無の様子を伺っている。
先手を打って攻撃に出れば、返り討ちにされることだろう。踏み込むことを諦めた神無は、大人しく遠宮の言葉を待った。
「興味があったのです。人間の感情の中でも、複雑かつ強固な存在である『愛』というものに。」
「…愛……?」
「そうです。愛です。以前の有馬の件でも、感情抑制剤の影響を受ける人間には個人差があったのです。」
同じ量の感情抑制剤を投与しても、影響を受けない人間を観測した彼らは、そこに個体差だけではない理由があると考えたのだ。
容認、信頼、敬愛、形は様々であれど『愛』という感情をより多く抱いている人間は、その影響を受けにくい。
そんな仮説に至った彼らは、その立証のために『愛』を抱く人間を探した。
「我々は、被験体を探す中で彼……縞斑狩魔に行き着きました。いやはや、彼の愛という感情は素晴らしかったです。」
彼の言葉に、神無の肩が小さく揺れる。
背後で警戒したまま二人の会話を見守っていたディーノは、ざわりと神無の纏う空気が色を変えたことに気がついた。
「……神無…?」
ディーノの声に、神無は振り返らない。そのまま黙って言葉を促す彼の様子に、遠宮は明るく話を続けた。
「彼の感情は通常量の感情抑制剤を投与しても殆ど影響を受けなかった。まさか、本来の数倍も投与することになるとは思いませんでした。」
縞斑は、遠宮の言うところの『愛』という感情だけで感情抑制剤に抗おうとしたのだ。
そんな彼が感情を欠落させるまで、遠宮たちは大量の感情抑制剤を投与し続けた。
話を聞いたアサギリは震える声で縞斑を呼ぶ。何度名前を呼んでも、手に触れても、縞斑の翡翠の瞳がアサギリを捉えることはない。
「ます、たー……」
蚊の鳴くようなアサギリの声に、神無は唇を噛んで刀を強く握りしめる。
「………なんで、」
「あぁ、そうでした。彼は感情を失う最後の瞬間まで、ずっと神無さんの名前を呼んでいたんですよ。」
神無の感情に構わず、遠宮は思い出した様子でそう声を上げた。満面の笑みを貼り付けた彼は、神無へと手を向けて最悪の言葉を囁く。
「…この実験を行うことができたのは、神無さんがいたお陰です。ありがとうございます。」
その言葉を聞いた瞬間、神無は目を見開いた。怒りに震えた彼は、声も上げないまま地面を蹴ると遠宮へと駆ける。
刀を構えた彼が遠宮に切り掛かった途端、間に2体のアンドロイドが割って入った。彼らが放った弾丸を、神無は刀で次々に弾いていく。
「邪魔だぁッ!!!!!!」
吼えた神無の刀は、アンドロイドの腹を貫いた。捻って引き抜けば、そこからブルーブラッドが噴き出して神無の服や顔を濡らす。
脳裏に過ぎった兄と慕った男の最期の姿に、神無は一瞬動きが鈍った。その隙を逃さず、もう一体の放った弾丸が彼の足を掠める。
「神無っ!!!」
飛び散る血飛沫を目にしたディーノが、声を上げて咄嗟に応戦しようと動いた。
しかしそれより早く、乱暴に顔に散った青を拭った神無は体勢を崩すことなく駆け出す。
怒りに我を忘れた神無は、痛覚が鈍っているのか血の流れる足に構わず地面を蹴った。
放たれた銃弾を真っ二つに切り裂いて飛び上がった彼は、ひらりと回転をつけるとその勢いでもう一体のアンドロイドの体を両断する。
2体のアンドロイドを数秒で切り伏せた神無は、盾を失った遠宮へと掴み掛かった。
「ッよくも…!!!よくも先輩を!!!」
白衣を掴んで床に押し倒した遠宮の体の上に乗り上げた神無は、刀を高く振り上げる。
そんな神無を見上げる遠宮は、一切の抵抗もなく笑みを浮かべていた。
切っ先が遠宮へと沈む直前、ぴたりと神無の両手が止まる。かたかたと小さく震える手のひらは、アンドロイドの血で汚れていた。
脳裏に響くのは、昨晩聞いた縞斑の優しい声だ。神無の手を人を生かす手と呼んだ彼の言葉が、神無の最後の理性を繋ぎ止める。
「……っ、」
縞斑の言葉を裏切ってはいけない。
殺しては、だめだ。
必死に言い聞かせた神無の手から、からりと刀が床に落ちる。両腕を垂らした神無の頬を、涙が伝い落ちた。
降り注ぐ雫を見上げ、遠宮は心底意外な様子で口を開く。
「止めるのですか?愛する人の仇なのに?」
神無はその言葉に、強く拳を握りしめた。
神無は、アンドロイドたちですら殺していなかった。スタックを傷つけないまま機能を停止させたのだ。
遠宮の手のひらが神無に触れる。逃れるように顔を背けた彼の瞳から、涙が散った。
「それは……貴方の手を生かす手と呼んだ彼のエゴを守るためですか?そのために、自身の怒りを抑制すると?」
縞斑の感情を壊す途中で、彼の記憶を覗いたのだろう。全てを見透かしたようにそう尋ねる遠宮の言葉に、神無は血が滲むまで唇を噛む。
俯いて小さく嗚咽を殺す神無は、それでも拳を遠宮に振り下ろすことはなかった。落ちた刀を手に取って、その首を掻き切ることもない。
そんな彼の姿を見上げた遠宮は、押し倒されたままにも関わらず、両手を叩いて嬉しそうな声を上げた。
「素晴らしい。実に興味深いです。自ら感情を抑制する、その動力にも愛という感情が用いられるなんて。」
神無が怒りのままに遠宮を殺さなかったのは、縞斑のことを大切に思い、彼の言葉を守りたいと願ったからだ。
体の底から叫び出してしまいそうな怒りを必死に閉じ込める神無の姿は、遠宮にとって新しい観察対象に他ならなかった。
やはり『愛』とは未知数の感情だ。その感情によって抑制剤を数倍扱うことになった側で、その感情を持つだけで怒りという感情を抑えることができるのだから。
自分たちの仮説が間違っていなかったことに上機嫌になった遠宮は、明るい声を上げて再び神無に両手を伸ばした。
「神無さん。よろしければその感情も、こちらで分析させていただいても」
「黙れ。」
問いかけようとしたその口は、強制的に捩じ込まれた銃口によって塞がれる。
ちらりと遠宮が視線を上げれば、そこには音もなく駆け寄った神無のパートナーロボットが赤い瞳を煌々と光らせていた。
「これ以上、僕の相棒の耳を汚すな。」
一言でも話せば引き金を引く、そんな殺意の篭った瞳に射抜かれた遠宮は諦めて両手を上げる。そんな彼に布を押し込み後ろ手で拘束したディーノは、動けないまま俯く神無の手に触れた。
「神無、戻りましょう。だらだら先輩をレミに見せないと。」
「……あぁ、そうだな。」
頷いた神無がふらりと立ち上がると、アサギリがベッドの上の縞斑を抱えた。立つことがやっとの神無を支えて、ディーノもその隣を歩き出す。
間も無く施設を脱出した三人の耳に届いたのは、青木による全体に向けた施設の制圧完了を知らせる無線だった。
ようやく、長い夜は終わりを告げた。
※
今日も、雨が強く降り続いている。
慣れた仕草で合鍵を使って扉を開いた神無は、部屋の中に声を掛けた。
「お邪魔しまーす。」
まもなく廊下に顔を出したアサギリが、同じく慣れた様子で彼を寝室へと手招く。
「お疲れ様です、神無さん。」
「アサギリもお疲れ。このまま俺が交代するから、メンテナンス行ってきていいよ。」
「…分かりました。朝には戻ります。」
神無の言葉に頷いたアサギリは、神無とすれ違うように部屋を出て行った。その背を見送った神無が寝室を振り返れば、そこにはベッドに座る縞斑の姿がある。
「ハロー、だらだら先輩。」
隣の椅子に腰掛けた神無は、今日も縞斑の手を握って明るく声をあげた。
「今日さ、面白いことがあったんだよ。休憩時間にディーノが……」
相変わらず彼の瞳は虚で、こちらを見向きもしない。それでも彼は根気強く、楽しげに今日あったことを彼へと話し始めた。
施設の制圧から一ヶ月。
捕らえられたEMCの所員たちは、スパロー襲撃と縞斑狩魔の誘拐についてあっさりと罪を認めた。
しかし、感情抑制剤の開発に関しては有馬の件に関与したという証拠が乏しく、そちらでの逮捕には至れなかったのだ。
アンドロイドの破壊と人間一人の誘拐では、罪はあまり重いものにならない。間も無く塀の向こうから出てきてしまう彼らを思うと、ここまで計算通りなのではないかと疑いたくなる。
拠点の調査も進んでいるが、本拠地ではない上に他の拠点に繋がる情報は一切発見できていない。まるで、切り離されたトカゲの尻尾を掴んでいるような感覚だった。
レミの元に運ばれた縞斑は、数日間の処置を受けたのち自宅療養となった。
犯罪組織のリーダーである以上、病院に運ぶことのできない彼のために、度々彼女が自宅へと顔を出して経過を観察しているらしい。
あの日、大量の感情抑制剤を投与された縞斑を診たレミは、彼が感情を取り戻す確率は絶望的だと告げた。
スパローのリーダー権は一時的にアサギリに戻され、新しいアジトの場所が見つかるまでニトとリトは郊外のセーフハウスで暮らしている。他の仲間たちが目を覚ますためのボディの調達は、青木が補佐することになった。
そうして、世界は縞斑が空けた穴をどうにか補い合って回り出す。
「…ねぇ、先輩。」
話の途中で、ふと神無は彼の名前を呼んだ。
応えないその手の甲を指先で撫でながら、あの日の縞斑のように神無は彼へと語りかける。
「あの日さ…俺、いつなら間に合ったのかなぁ。」
もしも通話を受け取った時点で、違和感に気付けていたなら。それを問い詰めて、縞斑から状況を聞き出せていたなら。
唯一、間に合うかもしれない存在だったのだ。こんな結末に陥る前に、神無には最後のチャンスが与えられていた。
「俺は……その合図に一つも気付かないで、呑気に眠ってさ。」
それを神無は、見逃してしまった。
通じ合っていた想いに浮かれて、縞斑の本当の思いを汲み取ることができなかった。
言葉にしなければ思いは伝わらない。その全てを理解することは、人はもちろん、アンドロイドですら難しい。
それでも、気付かなければならなかったのだ。縞斑の残した違和感を拾い集めて、彼に辿り着かなければならなかった。
「いつなら、あんたに間に合った…?いつなら…あんたのこと助けられたのかなぁ…?」
縞斑の手を握る指先が震える。冷たい手のひらが、神無を握り返す気配はない。
ぽたりとシーツに落ちた雫を隠すことなく、神無は浅く息を吐いた。縞斑の手を両手で包んだ彼は、縋るように口を開く。
「お願いだから、戻ってきてよ……今度はちゃんと、あんたに好きって言うから。」
たった一度の奇跡を願うことすら、罪を重ねた自分には烏滸がましいことなのだろうか。
雨音が耳の中で木霊する。縞斑の呼吸の音を掻き消すそれが恐ろしくなった神無は、彼の手を自身の額に押し当てた。
は、と漏れた熱い吐息に混じって、堪えきれないいくつもの涙が彼の手に落ちていく。
「これ以上……雨の日を嫌いにさせないでくれ…」
雨の日が大嫌いだ。雨音はいつだって、神無の大切なものを奪っていく。
感情を失っているとはいえ、縞斑の聴覚は生きているはずだった。彼を困らせたくないのに、神無の溢れ出した不安は止めることができない。
事件の間は、必死で泣くことを抑えていた。もうあの頃のように、取り乱して駄々を捏ねるような子供ではないのだと、縞斑を安心させるために。
事件後も神無は気丈に振る舞った。しかし、神無がいつも通りを装えば装うほど、ディーノやアサギリの表情は沈んでいく。
この手は本当に、誰かを救うことなどできるのだろうか。神無はそんな不安を抱かずにはいられなかった。
「俺の手が、誰かを救えるなら…っ」
彼の褒めてくれた手のひらの温度が、少しでも彼に染み渡るように。両手で包んだ彼の手を強く握りしめて、神無は必死で祈り続ける。
「あんたのことを…救わせてよ……!!」
大切な人ひとり守れない手のひらに、価値などないのかもしれない。こんな無力な両手など、切り落としてしまいたいのに。
そう思ってしまうほど、神無の心は摩耗していた。薄暗い室内に、雨音に混じった耐えきれない神無の嗚咽が響く。
溢れる涙が次々に縞斑の手を伝って、シーツに染みを作った。嗚呼、汚してしまった、アサギリが戻る前に拭いておかないと。
けれど今は、もう少しだけ。自分を甘やかした神無は、そう言い聞かせると目を閉じる。
「……、な…」
そのとき、ぽつりと。
雨音を掻き消して、小さな音が神無の鼓膜を揺らしたのだ。
「…え……?」
顔を上げた神無の手が僅かに握り返される。神無の体温の移る温かな指先が、神無の手をそっと撫でた。
椅子を蹴倒して立ち上がった神無は、腰を浮かせて恐る恐る縞斑の顔を覗き込む。
「………せんぱい…?」
縞斑の白い頬を、一筋の涙が伝う。
目を見開く神無の前で、彼はゆるりと口角を持ち上げた。僅かに光の灯る翡翠の瞳を細めて、彼は小さく口を開く。
「おれ…ちゃんと、わら…えてる…?」
それは、笑顔と呼ぶにはあまりに不恰好で、けれど神無にとって、なによりも望んでいた表情だった。
慣れない笑みを保とうとする愛おしい人を見上げて、涙を拭った神無は穏やかに笑う。
「……俺には及ばないけど、男前に笑ってるよ。」
声が、聞こえたんだ。
雨粒のように降り注ぐ、俺を呼ぶ声が。
手のひらから伝わる温度が、固まって動かない心を溶かした。
まだ上手く笑えない俺と視線を合わせて、手を重ねて、笑う彼は太陽のようで。
ほら、君の手はやっぱり人を生かす手だよ。
おはよう、俺の神様。
終