:

ads by microad

2.アンダルシアの猫/メリー・ハッピーエンド

Publish to anyone
2015-08-25 23:24:08

 デタラメ・リトル・ヨーロッパから車で東へ2時間、我が国最低最悪のスラム街――ピュタン・ドゥ・メルドゥ。「畜生! このクソッタレが!」という意味の名を持つこの街には、正義も秩序も存在しない。貪欲なゴロツキ達が生ごみ臭い路地を這いずり回り、悪行の限りを尽くす。
街を支配するのは、禁酒法時代のアメリカさながらのギャングたちだ。刃向かうことは許されない。彼らはみかじめ料の徴収、売春斡旋、麻薬密売、そして内臓密売といった闇の商売に手を染めている。組織内での裏切り、軋轢、派閥闘争……血が流れることも少なくない。
 両手両足を粘着テープで拘束されたまま、あたしはブリュレ・ファミリーの一員である運び屋の男、ギュスターヴに担ぎ上げられ、アジトへと連れ込まれた……と、いうようなこともなく、先ほどのカフェから徒歩5分ほどの骨董雑貨店に連れて行かれた。

 観光客向けの商店が連なり、賑わうメインストリート。アールデコだかアールヌーヴォーだか、そんなかんじのオシャレなヨーロッパ風の店舗が隙間なくひしめき合う。その中でも、おっさんの家が代々引き継いできたという骨董雑貨店は、ずっしりとした雰囲気を放っていた。赤茶色の煉瓦の壁や、アラベスクを描く窓格子は、たくさんの時間を吸い込んだ色をしている。日に焼けた分厚い辞書によく似ていた。

「読めない。フランス語?」ショウウィンドウの上に掲げられた店名を見上げる。
「“Un chat Andalou”、アンダルシアの猫。もともとは“Un Chien Andalou”、つまりアンダルシアの犬だった。サルバドール・ダリの映画のタイトルから曽祖父が命名したらしい。あいにく俺は犬が嫌いでね、猫にしたんだ」
 言いながらおっさんはしましまスーツの懐から鍵束を取り出し、手馴れた様子で鍵をひとつ選び、店舗の扉を開ける。
「裏手に住居用の玄関もあるんだが、今日はこれからお得意様が来るからね。定休日だけど彼女のためだけに開店するのさ」

 定休日の札を掛けたままの店内に、はちみつ色の照明が灯る。店内には、小さな雑貨から家具まで、レトロなアイテムがびっしり詰まっていた。甘いような苦いような、古いもののにおいがそこはかとなく漂っている。
 入り口の硝子扉の正面奥にレジカウンター、壁面には背の高い商品陳列棚が寄せられ、レジ前にはガラスケースがいくつか、その他大きな家具類は雑然と置かれている。

「好きなように見てくれ。というか見とけ。何処に何があるか把握しておかないと、のちのち困るのは君だ」
 鍵束の輪に人差し指をつっこみ、ぐるんぐるん回しながらさもご機嫌そうにおっさんが言う。そう、そういうことだわ。従業員として扱き使うために、おっさんは身寄りの無い子供を探していたのだ。泣き言を言おうものなら「誰がお前を拾ってやったと思ってるんだ」などと恩着せがしさを振りかざすに違いない。ああ、あたしの人生って常に前途多難だわ。

「よかったの? 曾お祖父さんの頃から代々続いてきたお店の名前を変えたりして」
 茶色い木目の陳列棚に手をかけて、ぼんやりと商品を眺めながらなんてこともないふうに訊ねる。動揺も絶望も諦めの様子も見せてはいけない。さもなければちょび髭オールバックの思う壺だ。屈してはいけない。

「曽祖父は俺が生まれる前に死んだ。祖父も6歳の時に死んだ。父は俺が21歳の時に海外逃亡した。店名を変えたのはその後だ。親戚はこの店に興味が無いし、誰ひとりとしてアンダルシアの猫に異論を唱える奴はいなかった。スムーズだったよ」
「海外逃亡?」
 マッチを擦る音に振り返ると、おっさんはレジカウンターに寄りかかって煙草をふかしていた。常識的に考えて雑貨店で喫煙はまずいし、ましてや自分の店なんだからどうかと思ったけれど、何も言わないでおく。
「あいつは政府が認可した貿易ビザを持ってたんだ。君も知ってるだろうが、この国で渡航ビザを手にしてる奴は少ない。貿易ビザは更に貴重だ。父が優秀であることの何よりの証明だ。気に障る」

 はあ、とわざとらしいため息を交えて煙を吐く。
「ヨーロッパ諸国の蚤の市を周って商品を仕入れてくる、と言って出国したまま戻ってこない。いつもの海外出張より荷物が多い理由を聞いたら、今回は長くなるとだけ答えた。2度3度に分けて父が買いつけた骨董品がフランスから届いて、それきりだよ」
「それは逃亡じゃなくて、失踪って呼ぶんじゃないのかしら」
「そうだな。でも俺と母は逃亡も同然だと思ってる。帰らないつもりで出国したのか、事件か事故か超常現象に巻き込まれたのかは知らん。しかし奴が消えたのは、奴が孤独を望んだ結果起きたことだ。俺たちはそう思う」

これまためちゃくちゃなことを言っている。とりあえず、おっさんの口ぶりからして、父親のことはあまり良く思っていないことは分かった。
「来た」とおっさんが呟く。手元の灰皿で煙草を潰し、上着の襟を正す。陳列棚とガラスケースの間の隙間を器用に通り抜け、扉を引き客人を迎え入れた。ちりんちりん、とベルが揺れる。

「マダム! お待ちしておりました。久しぶりだね」
「ご機嫌麗しゅう、ギュスターヴ。今日はお休みの日なのにどうもありがとう」
 現れたのは、まさにマダムといったかんじの小柄なおばあちゃんだった。白髪をきちんとまとめて、淡いラベンダー色のワンピースと揃いのキャノティエを合わせている。化粧はちょっと濃いけど上品な雰囲気で、小金持ちっぽい。

「少々お待ちいただけるかな」
おっさんは商品の家具の中から折りたたみ椅子を掴むと、レジ前のガラスケースのところまで運んでくる。マダムを座らせると、レジ奥の扉にそそくさと引っ込んだ。
「お嬢さん、こんにちは。あなたも特別なお客様なのかしら?」
商品のダイヤル式電話機をなんとなしに弄っていたら、突然声を掛けられた。重い受話器を元の場所にがしゃんと戻し「ああ、いえ、客じゃないんです」と答える。
「あらまあ、じゃあギュスターヴのお身内の方? 姪っ子さんとかかしら、まさかお子さんじゃあないわよね、だってあの人奥さんいらっしゃらないわよね?」
「ええと、身内とおっしゃいますか」養女です、と答えるのは癪だ。どう説明しよう、これまでのあらすじを話したらこの状況から助け出してくれるんじゃない? と考えているうちに、おっさんが長方形のでかい箱を持って戻ってきた。

「その子はうちの新人だよ。今日から働くことになった」やはりそういうことか。
「まあ、お若いのに感心だわ。私はジュリアっていうの、ときどきこのお店に来るから、お世話になるわ。よろしくね」
 ジュリアさんはにっこりと、懐っこくて人畜無害なおばあちゃんの微笑みをみせた。彼女のすぐ側に立つおっさんが顎をしゃくり、あたしに挨拶を促す。釈然としないとは思いつつ、どうしようもないのでつくり笑顔で応じる。
「常連のお客様にお会いできて光栄ですわ。わたくしは、えー……メリーと申します。こちらこそよろしくお願いします」
丁寧な挨拶、ありがとうとごめんなさい、そして笑顔。良い子になるにはそのみっつが大事ですよ。そう教えられて、きれいな言葉をいくつも覚えて、喉が痛くなるまでただしい喋り方を練習して、明るく子供らしい笑顔を浮かべて。誰からも愛されるための作法を学んだ。そういう態度を取るのはお手の物だ。

我ながらいやしいほどに礼儀正しい。おっさんはこちらにぐっと親指を立ててみせた。ちくしょうこの野郎、近いうちにぎゃふんと言わせてやる。
「さあ、マダム。こちらが例の品だ。お開けしてよろしいかな」
 白手袋をはめたおっさんは、ガラスケースの上にそっと萌黄色の箱を横たえる。ジュリアさんも白手袋をした両手のひらを顔の横で合わせて「お願い」とおっさんを見上げた。
 箱から抱き上げるようにして取り出されたのは、古びた少女人形だった。ビスクドールというやつだろうか。波打つ金髪を持ち、生成色のフリフリなドレスを着ている。おっさんの腕に収まってはいるけれど、赤ちゃんぐらいの大きさはあった。

「まあ、可愛らしい」ジュリアさんはうっとりとため息をつく。おっさんはガラスケースの天板に人形を座らせ、べらべらと解説をはじめた。
「1850年代に発売されたテート・ジュモー、サイズは9号。ヘッドにもボディにも刻印がある、のちほどご確認いただこう。ほら、靴底にも刻印がある。瞳はペーパーウェイトアイだ、美しい。しかもくちびるはクローズマウスときたんだから価値は高い。惜しむらくは、手足の指先がところどころ欠けていること。他にも細かな傷や汚れがあるから、よく見ておくように。そんなところかな」
「ありがとう。じっくり拝見させて頂くわ」
「どうぞごゆっくり。何か音楽をかけようか、いつものショパンがいいかな」
「ゲンスブールはないの?」
「めずらしいな、フランス・ギャルのベストアルバムならあるけど」
「それがいいわ」
 言いながらジュリアさんは人形の頭をわし掴みにすると、金髪のかつらをめりっと剥がした。あまりに豪快で唐突だったから、びっくりして変な声が出そうになった。ドレスや靴も脱がして丸裸にし、虫眼鏡片手に人形の身体を観察しはじめる。

 レジカウンターの中にはホーン付きのレコードプレイヤーがおいてあって、おっさんが円盤に針を落とすと砂嵐混じりのフレンチポップスが流れだす。ちゃんと作動していることを確認すると、おっさんはレジの椅子に腰をおろして新聞を読みはじめた。
 ……手持ち無沙汰だ。とりあえず、店内の商品を一通り見て周ることにしよう。
 まず、壁をぐるり囲む茶色の陳列棚。こまごまとした雑貨類が並べられていて、どうやら中古のものとレトロ風デザインの新品のものがごちゃまぜになっているようだった。レターセット、封蝋、シーリングスタンプ、マスキングテープ、硝子ペン、タロットカード、昔の映画のポスター、俳優や歌手のブロマイド、何に使うのかわからないけどオシャレな小瓶、古書、箪笥か何かの取っ手、天体早見表、懐中時計、オルゴール付き小物入れ、靴下留め、付け襟、その他ちょっとしたアクセサリー。あまり高価ではないものが多い。
 一見大雑把に置かれている家具たちは、おっさんの個人的ルールによってそれとなく規則的に配置されているらしく、上手いこと整頓されていた。椅子、ソファ、テーブル、間接照明、ドレッサー、チェスト、絨毯、花瓶や剥製、置時計、ミシン、燭台などなど。小さめのインテリアは大きい家具の上にディスプレイされている。
 ガラスケースの中には、いかにも高価そうなものと、誰が買うのか分からないキワモノめいたガラクタ(でも高い)が収まっている。どこぞの貴族の紋章が入っているというブローチやステッキ、古びた風合いがむしろ生々しさを引き立てる義手、義足、義眼、ゴミにしか見えない使用済み切手やジュース瓶の蓋、ブランド物らしい指輪や首飾り、ものものしい雰囲気の軍人手帳、怪しげに輝く舞踏会の仮面。もう何年も硝子の中に収まりっぱなしのものもありそうだ。
 詳しいことは全然分からないけど、見たところ商品の年代や生産国に統一性は無いみたいだった。売れるかどうかは別として、眺めるぶんには飽きない。

 それにしても、ジュリアさんの品定めは長かった。あたしは数十分かけて店内をゆっくり見学していたけれど、彼女は未だ小さな背中を丸めてじっと人形を見つめている。失敗のゆるされない細かな作業をするみたいに、そのまなざしは真剣だった。
おっさんがレコードをB面にひっくり返した頃に、ジュリアさんはようやく素っ裸の人形に髪の毛と洋服を戻した。ふっと息をついて宙を見上げたかと思うと、今度は人形の小さな両手を指先で握りしめて、熱心に顔を覗き込みはじめた。
「ねえ、メリー」ふたたび唐突に声をかけられ、何事かと身構える。手招きをされたので、戸惑いつつもジュリアさんに近寄る。
「ほら、ご覧になって」屈むように促され、ガラスケースの縁に手をついた。「この青色の虹彩、とても素晴らしいわ」肩に手を添えられ、ジュリアさんのすぐ隣までぐっと引き寄せられる。彼女の肌に厚く塗られた、おしろいのにおいに目眩がしそうだ。
年月を経てごわつきながらも輝く金髪、ふっくらと丸い頬にほんのり色づいた唇、そして青い硝子の瞳があたしの目の前にあった。つるりと光を反射する両目は、ほんとうに生きている人間のような視線をまっすぐあたしに注いでいる。今にもぱちぱちとまばたきをしそうだ。
「きれいですね。でもちょっとこわいかも」
「ふふ、そうね。あなたみたいに思う人のほうが多いかもしれないわ。でもそれって、お人形に魂がある証拠じゃないかしら」ジュリアさんの顔を見やる。彼女は人形を見つめている。
「考えてもごらんなさいな、この子は私たちよりもずっと長生きよ。何年も何年もずっと昔から、いろんな人の元を転々として、世の中の移ろいを見てきたんだわ。もちろん、美術品としても骨董としても希少価値が高いけれど、この子が過ごしてきた時間はお金で測れない魅力があるの。そうね、この子の素性はなあんにも分からないわ。とてもすてきなお嬢さんと楽しい日々を送ったこともあるでしょうし、扱いの雑なオーナーに手酷い目に遭わされたことだってあるのよ、きっと。こうやって勝手に思いを馳せて、愛おしんで、そう、そうだったの、大変だったわね、私のところに来てくれてありがとうって、抱きしめてあげるの。それが私の趣味なの」
「ずいぶん高尚なご趣味をお持ちだ」
 まさに今あたしが思ったことを、おっさんが悪びれもせずさらっと言い放つ。ジュリアさんはオホホホ、とマダムの代名詞みたいな笑い声を上げて「ありがとう」と答えた。

「この子、お迎えするわ」
何が決め手になったのかさっぱりわからないけど、ジュリアさんはコーヒーでも注文するような軽い調子で言った。最初から買うつもりで品定めをしていたのかもしれない。
「さすがマダム、お目が高い。あのクソいけ好かない輸入業者と交渉した甲斐があったよ。この人形はひと目見たとき、確実に貴女が気に入ると思った」
 おっさんはご機嫌もご機嫌、目尻に皺を寄せてにんまりと微笑む。
「それで、おいくらなの?」ポシェットのふたを開けながらジュリアさんが問う。するとおっさんは「7万エレル」とコーヒーの会計をするような調子でさらっと答えた。あたしの想像していた値段のおよそ4倍だったので思わず「はあ? ぼったくりでしょ」と口に出してしまう。ジュリアさんはあたしの反応にオホホホと笑いつつ、茶封筒から札束を出して数えはじめた。このマダム、7万エレルを現ナマで支払う気である。

「フランス現地のドールショップならいくらか相場も低いだろう。しかしメリー、ここは交易不自由な島国・デタラメリパブリックだ。故にモノの価値も上がるし、貴重なジュモー社のビスクドール様が俺の手元に来るまでにかかったさまざまなコストを加味するとこのお値段になるわけだ、お分かりかな」
「ギュスターヴの値付けは良心的なほうだわ」とジュリアさん。「鑑定士ぶった店主のいる専門店なんて、それこそぼったくりよ」
「はあ、そうなんですね」と間の抜けた返事をするので精一杯だ。おっさんはジュリアさんから手渡された分厚い札束を慣れた手つきで扇状に広げ、目にも止まらぬ速さで1枚ずつ指で弾く。
「丁度お預かりするよ。領収書の宛名は旦那様でよろしいかな」
「今回のは自腹よ。包装は簡単で構わないわ」

 おっさんは目礼すると、ふたたびレジ奥の扉へ向かった。レコードは止まり、沈黙が流れる。手袋を外した手の甲に保湿クリームを塗りこんでいるジュリアさんの隣に突っ立ちながら、何か手伝うべきだったかなと考えてることに気付き、負けた気分になった。
「メリー、あなた何色がお好き?」突拍子もなくジュリアさんが聞いてくる。
「……赤が好きです」

 ジュリアさんは椅子から腰を浮かせて、レジカウンター上に並べられた色とりどりの小さな箱を、短くて太い人差し指で何やらうろうろと指差している。
「赤ね、たしかあったはずよ、ええと、ほら」
 ジュリアさんはカウンターに無造作に小銭を置くと、引き換えに赤い箱を掴んで開封する。アップルシナモン味のクッキーを何枚か取り出して、あたしの手のひらに乗せた。
「あ、ありがとうございます、でも」
「いいのよ、年寄りは若い子を甘やかすのが好きなんだから」
「おそれいります、頂きます」呟いてクッキーをかじる。しょうじきなところ、ジュリアさんとの距離感を掴みかねていたのだけど、あたしがそんなことを心配する必要はなかった。だってジュリアさんが勝手に自分語りをはじめたから。

「私はねえ、あまり裕福ではない家庭に生まれたの。お洋服はぜんぶ姉のお下がりだったし、お人形遊びにだって憧れるばかりで縁が無かったわ。それでねえ、大きくなったら、自分が欲しいものは与えられるのを待つんじゃなくて、自分で買うって決めたの。だから必死で勉強して、奨学金で大学に通って、輸送会社に就職したのよ。それも外国相手にビジネスをしているところよ、いやしい話だけどお給金も良くてねえ……高級レストランのご飯も食べたし、高価なアクセサリーだって買ったし、まあ、そういう贅沢は良いのよ。でもね、とんでもないヒモ男と付き合ってた時期があってねえ、あ、あなたヒモってわかる? 自分は働かないで恋人に生活を賄ってもらうだらしない男のことよ。ほんとう、今思えばなんであんなのに惚れてたのか不思議でしょうがないんだけど、ぞっこんだったのよ。そりゃもう、しこたま貢いだわ。でも、私よりお金持ちの恋人が出来たからってフラれたの。酷い話でしょ、ああいう男って上手くやってるのよねえ、恐いもんだわ」

 ジュリアさんは眉根を寄せ、ああ嫌だとでも言いたげな表情をつくりながら、同意を求めるように首を傾ける。あたしも彼女の表情を大袈裟に真似ながら「そうですねえ」と頷いて同調してみせる。……よく似た話を知っている。まあ、ありがちなエピソードなのだろう。

「そんなことがあってねえ、気持ちが滅入ってた時に今の旦那と知り合ったの。私と同じ会社に雇われてた船乗りよ。もう男に騙されてたまるもんですかって思って、私すごくツンツンしてたのよ。でもねえ、ふふ、彼ったら私に一目惚れだったらしいの。彼は束の間の休暇で帰国して、またすぐに貨物船に乗って仕事に戻る生活を送ってたわ。その間にも何通も何通も熱烈なラブレターが届いて、なんてまっすぐで純粋な人なのかしらって感激しちゃって。彼の休暇のたびにデートを重ねて、何年かのお付き合いののちにプロポーズされたの。その時にね、指輪と一緒にプレゼントされたのが、フランス製のビスクドールだったのよ。『少女のように純粋な君には、豪華な宝石より人形のほうが似合うよ』なんてキザなこと言っちゃってねえ」
 オホホホ、とジュリアさん。口元に手をあてて、もう片方の手で宙をはたく。

「結婚の記念に人形を寄越してくるなんて聞いたことないでしょ、正直彼のセンスを疑っちゃったのよ。でもね、箱を開けて出てきたお人形がね、もう美しくて愛らしくて、見入っちゃったのよね。それで私思い出したのよ、子供の頃お人形が欲しくても手に入らなかった、あの悔しさときらきらした憧れの気持ちをね。それからというもの、お人形の蒐集にはまってしまったというわけ。旦那は呆れ半分だけど、自分が発端だからって趣味に付き合ってくれてるわ。今や彼は貨物船の船長を務めていてねえ、ヨーロッパに立ち寄るたびに気を利かせてお人形を買ってくれるんだけど、やっぱり私は自分で自分の欲しいものを選びたいのよね。だからね、本場の売値よりもふんだくられるとしても、私はこの国にやってくるお人形を買うのよ」

「という壮大な愛の叙事詩を俺は300回ぐらい聞いた。メリーもあと299回は聞かされるぞ、覚悟しておけ」
 ジュリアさんはおっさんの声に小さく悲鳴を上げ、弾かれたように背後を見やる。おっさんは「あなたヒモってわかる?」のあたりから仏頂面でジュリアさんの背後に立っていたが、どうやら彼女は今の今まで気付いていなかったらしい。
「やあねえ、そんなに喋らないわよ。今回のは自己紹介だわ」
「『今回』はね」と、おっさんはイヤミっぽく強調して言った。「それにしても冗長だよ。もっと手短にしてくれないと聴衆は眠くなってしまう。特に何度も聞かされる身としてはね」
「そうかしら、でも面白いお話じゃない?」とジュリアさんは唇を尖らせる。
「そうだな、興味深くはあるね――子供時代の不満は大人の自分が汲み取らない限り、いつまでも宙ぶらりんだ。貴女の気持ちがこの店で満たされているのなら、とても喜ばしいことだよ」




 ビスクドールが収まる大きな紙袋は、小柄なジュリアさんが持って歩くには大変そうだった。タクシーを呼ぶかとか駅まで送ろうかとかおっさんが声を掛けたけど、ジュリアさんはしっかりと紙袋を抱きかかえて断わった。
「お気遣い感謝するわ。重みを感じなガら帰るのが嬉しいのよ」
「それは結構。どうぞお気をつけて」
 おっさんとジュリアさんは頬をかるく寄せ合い、挨拶を交わす。ここはヨーロッパじゃないし、親密な間柄でもないとこんなことしないのだけど、ジュリアさんはあたしにも同じように頬を寄せた。
「おばさんの話に付き合ってくれてありがとうね。それから」ジュリアさんはあたしの耳に唇を近付ける。わずかに頬と頬が擦れる。
「ギュスターヴはちょっと厄介な男だけど、あなたしっかりしてるし、心配ないわ。大丈夫よ。このお店でお仕事なんて、絶対楽しいもの」
 絶対楽しい、ジュリアさんもおっさんと同じ言葉を口にした。いったいその確信はどこからやってくるのだろう。あたしが頷いたか頷いてないかのうちに、彼女はふたたびおっさんに視線を移す。そして悪意のない穏やかな微笑みを浮かべ、言い放った。
「あなたのやり方も悪くないけど、やっぱり商売的にはお父様のほうが一枚上手だったわ。でも、わたくしは今後ともアンダルシアの猫を贔屓しますわ。御機嫌よう」
 ジュリアさんは丁寧に会釈をすると踵を返し、白いミュールをこつこつ鳴らしながら去っていった。おっさんの顔を見やると、苦虫を噛み潰したうえに頭上を飛ぶ鳥からフンを落とされ、お気に入りの靴でガムを踏んだような顔をしていた。「刺激されるのが嫌なことは無い」とか言っていなかった?
 放っておいたらいつまでもジュリアさんの背中をねめつけ続けそうな気がしたので、おっさんの背中を叩く。はっとしてあたしに向き直る。
「ご苦労様。初日にしては上出来だよ、クッキーも売れたし」
「仕事らしい仕事はしてないわ」
「年寄りは黙って話を聞いてくれる子供が好きなんだよ。彼女とは20年以上の付き合いだが、白髪が増え出したあたりから同じ話を繰り返すようになった。ボケてるわけじゃないんだろうが、まどろっこしくてたまらん……ところでメリー、言っておきたいことがある」
おっさんはそう言い、大袈裟に咳払いをする。大人が子供に対して、絶対にゆるがない宣言をする時の顔をしている。真っ当なお説教と見せかけて、子供が不利な条例を発足する時の顔だ。大人が大人であるというだけで持つ特別な権力に圧倒され、こちらの異論は頑なに認められない、たちの悪いやつだ。
「俺は父が嫌いだ。あの男のようにはならないと自分に誓ったんだ、君ぐらいの年頃にな。だからメリー、俺は君の父親にはならない」
「はあ? 屁理屈も大概にしなさいよ。あなたはただの雇用主様ってこと?」
「さあ、どうだろう? 俺たちが結果としてどういう関係になるかは未知数だが、とにかく父親という存在になりたくない。戸籍の養子ナントカ登録みたいなやつもしない。よろしく頼む」
何に対してどういう感情を持つのが正解なのか、めまぐるしさに頭が追いつかない。今までだってそうだったけれど、この状況をあたしの力で捻じ曲げられる方法が何ひとつ見つからない。ああもう、ちくしょう。あたしってそういう星回りのもとに生まれたんだわ。どうにでもなれ。
「上等だわ、あんたの娘にならなくて済むってことかしら?」
おっさんのネクタイを掴み、力任せに引っぱる。おっさんは案外簡単にバランスを崩して前かがみになり、目を見開いてあたしを見た。鼻で笑ってやる。
「改めましてこんにちは、ベルナール店長。本日からお世話になりますメリー・オリヴィエです。至らぬ点が多々ございますが、ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします。それから、たった今自分に誓ったわ。あたしはあんたみたいに理不尽で傲慢で楽しければ万事オッケーのスットコドッコイな大人にはならないわ。以上」
 幾許かのあいだ、おっさんは青灰色の両目でじっとあたしを見ていた。その眼光に気圧されそうになりつつ、負けじと睨み返す。どれほどの時間にらめっこを続けていただろう、おっさんの表情がふとゆるむ。ネクタイを握る手の力がなんとなく抜ける。おっさんは前かがみのまま、恭しくボウアンドスクレイプの姿勢を取って見せた。
「ミス・オリヴィエ、実にいい心意気だ。君を従業員として迎え入れることができて嬉しいよ。店長として歓迎しよう。ようこそ、デタラメ・リトル・ヨーロッパいちの歴史と風格を誇る骨董雑貨店、アンダルシアの猫へ」


ads by microad

You have to sign in to post a comment or to favorites.

Sign in with Twitter


Profile
鬼殺大五郎 @srxxxgrgr
Share this page

ads by microad


Theme change : 夜間モード
© 2020 Privatter All Rights Reserved.