反転ドラヒナで、夜と昼を彷徨う者(1) https://privatter.net/p/9909493の続きです。ジョンと昼と夜とどちらを選択するかの話をした後から続いています。
これまで、ロナルドくんをどう絡めたらいいのか分からないので空気にしてきましたが、この時思い付いたので急に参戦して貰いました。
お嬢ルドくんに関しては評判も良かったし、チート化の可能性もあるので、ジョン同様二人のバランサーになって貰います。
2023/03/10に上げました。
@kw42431393
「ただいま、ヒナイチくん。いい子で待っていたかね?」
いい子も何も、鍵をかけていったのはお前だろう。遅かったな、ドラルク。
「やっと私のモノだ、私だけの…。夜が明けるたび、君が誰かに見られていると思うと、触れられているかと思うと…やりきれなかったものだが。」
私のモノだと?相変わらず、勝手な事を言う奴だ。私は、誰のモノでもないぞ。
「こちらの世界を選んでくれてありがとう。もう、外に出る必要はない。君を傷つける者もいない。ずっと、ここにいておくれ。」
何を言っている?私が何を選んだって?もうこんな時間だ。吸対に戻らなければ…市民を守るのが、私の使命だ。子供の頃からずっと目指していたんだ。どいてくれ…あれ?何で体が動かない?なあ、私はどうなっているんだ?
「大丈夫、私の血は濃いからね。何度も君の血を吸っている。だから、グールになる事もなく、ちゃんと姿も変わっているよ。まだ、ちゃんと体が順応してないだけだとも。」
何を…したんだ?お、お前…何を!?の、喉が!…渇いてっ…!た、頼…む!ち…血を!
「…はぁ…はぁ…お、おねが…い。くる…しい。」
縋る様に手を伸ばす。明かりがついてない地下室で、心底嬉しそうなドラルクの姿がハッキリ見えた。まさか…お前、私を…。
「フフフ、いいよ。お腹いっぱいお飲み。」
クラバットを外したあいつの首は、私が首を締めた時の痕がくっきりついている。心臓が締め付けられる心地がした。
「あ、あ…それ…は。ゆ、ゆるし…て。」
あの時は弱っているお前を見て、今なら殺せると思ったんだ。どうかしていたんだ。罪悪感と喉の渇きに頭がグラグラする。
「君が責任を感じる必要はない。さあ…。」
本能的に、差し出された首にかぶり付く。血を与えられて転化した者が、最初に飲むのは与えた親の血だという。赤子が母親の乳を求める様なものだろうか。
「…あぁ…おいしい。もっと…ちょうだ…い。」
「…ククク、吸血鬼になっても食いしん坊だねえ。これが終わったら、吸血鬼用のクッキーを焼いてあげよう。勿論、これからもずっと…ね。」
ドラルクの背中に手を回す。今まで何故躊躇っていたのだろう。この暗さが心地よい。吸血鬼と人間の抗争なんか…もうどうでも…?違う、いい訳がない!
『貴女は手首を切って血をあげたんだヌ。その事実をよく考えて、決めて欲しいヌ。』
「副隊長?大丈夫か?」
「っ!?ゆ、夢…か。」
パトカーの中で、半田に呼ばれて私は飛び起きた。心臓がまだバクバクしている、私はガラスに映る自分を確認した。映っている…私は人間だ。よかった。
「さっきから魘されていたが、何か悩みでもあるのか?」
「い、いや。何でもない。悪い夢を見ただけだ。」
「今朝遅刻していたが、どこか具合でも悪いのでは?何でも言って欲しい。仲間を心配するのは当たり前じゃないか。」
心配そうな半田から目を反らす。彼は優秀なダンピールだが、素直過ぎるのが玉に瑕だ。とても自分の上司が、監視対象とその…そういう仲だとは言えない。だから、ドラルクが吸血痕を見える所に作った時には、隠すのに苦労している。
もっとも、兄の本部長と上司のヒヨシ隊長には、一応伝えてあるのだ。まるっきり嘘を報告する訳にはいかなかったからだ。
『ぶ、部下に辛い思いをさせて、その…俺は隊長失格じゃ。別の担当を探すから、その本当に、その…休んで欲しい。』
『いいえ、あの男の監視は他の者ではもっと酷い目に会うと思います。…辛くはないです。彼とはご、合意の上…です。』
これが初めてドラルクに、棺桶に連れ込まれた翌日のヒヨシ隊長との会話だった。明らかにそこだけは嘘だ…無理矢理だったのだから。
兄に至っては、もっと冷静だった。
その頃は、ドラルクの私に対する認識が『自分を殺しうる、遊び相手になりそうな人間』から、今の認識に移行しつつあった時期だった。だから、今程ではないが、情報提供や敵性吸血鬼対応策の提案について協力的だったのである。それを吸対としては、無視出来なくなっていた。
ただ、享楽的な吸血鬼のサガとして妹に手を出す可能性は、大いにあり得るとは思っていたらしい。
『ヒナイチ、本当にその任務を続けるのか?確かに奴と対峙出来そうな隊員は、お前ぐらいだろう。しかし、お前は女だ。やるなら、覚悟はしておけ。』
そう言われていたのに…実際起こってみると力の差は歴然で、なす術はなかった。結局、屈辱の涙と共に昼の世界に帰ってくる羽目になったのだ。
『どうする?妹よ、諦めてもいいのだぞ。法的には、相手を訴える事もできるのだ。』
『どうするもない。負けたままで終わるものか!監視任務は継続する!』
『負け、な。ミイラ取りが、ミイラになるなよ。』
兄さん、すまない。言われた通りになったんだ。もう、胃袋どころか身体も精神も中毒だ。あいつから離れられない。一緒にいたいと思っている。
その反面、あいつも露払いを買って出る程、私にのめり込んだらしい。それに最近気づいたのだが、ドラルクは少し痩せてきた。
実戦とトレーニングで鍛えられた肉体は健在だし、元々着痩せするタイプなので、私とジョン以外は気づいてないのだろう。
以前、扉ごしに「最近、ヒナイチくんの血以外は不味くて飲めない」とジョンに溢していたのを聞いて、ピンときた事がある。
そういえば、ストレートで生き血を飲んでいる姿を見なくなった。よく見ると、ワインや紅茶、牛乳で割って嫌そうな顔で飲んでいる。餓死する訳にはいかないので、最低限それで賄っているらしかった。
吸血鬼によっては、好きになった相手の血しか飲めなくなって、相手を衰弱させたり、飢え死にする者もいると聞く。中毒はお互い様という事か。
パトカーが止まった。考えている内に、現場に着いたらしい。
本来、私が潜入調査する予定だった施設。昨夜、先にドラルクが壊滅させた工場だ。
もう氷は溶けて、施設内は水浸しになっていた。裏の顔は、反人間派が設立した下等吸血鬼の養殖場で、施設内はあいつが殺した下等吸血鬼の塵や壊れた機械類がゴロゴロ転がっていた。
一部の床に広がっていた血痕は、ドラルクのものだろうか…棺桶で眠っているあいつが脳裏に浮かんだ。少しはよくなっただろうか。
「あら、ヒナイチさん。こんにちは。半田くんもごきげんよう。」
「あ、ロナルド。お前、何故ここに?」
後ろから、退治人のロナルドに声をかけられた。いつもティーセットを持ち歩き、「お茶を飲んで話し合えば、どんなお吸血鬼ともお友達になれる」がモットーの変わった男である。男…というより、おネエならぬお嬢なのである。
「ロナルドくん、どうしたんだ?怪我をしているじゃないか。」
半田が怪訝そうな顔をする。確かに、腕に包帯が巻かれ、顔にはバンドエイドが貼られていた。
半田とロナルドは、高校の同級生なのだ。心配されたロナルドは、何でもない事の様にクスクス笑う。
「あら、このぐらいよくある事ですわよ。昨夜のお仕事では、なかなかお説得に応じてくれなくって、お大変でしたわ。」
昨夜…昨夜と言ったか?ドラルクも…偶然だろうか。
「なあ、ロナルド。その…」
「どうかなさいまして?ヒナイチさん。」
上品に笑うロナルドに、少し安心した。非常事態でもこのスタンスはブレないのだ。ドラルクも彼の事は「脱力するというか、戦う気をなくす相手」と言っていた。その反面で、男同士なので私に言わない内容をロナルドには、話していたりする。
「なぁ、半田。少し席をはずしてもらえるか?ロナルドと話したい事があるんだ。」
「ロナルドくんに?構わないが…まだ、安全が確認されていない施設だ。何かあったら呼んでくれ。」
心配そうな半田を送り出すと、私はロナルドに向き直った。彼は私からしてもお嬢なので、話しやすい所もある。
「ロナルド。お前も昨日ここに来たのか?」
反応を窺う。青空の様な碧眼が薄く閉じられた。口元に手を当てて、少し考えている仕草だ。
「いいえ?✕✕地区のサカモト様の会社に、お話し合いに参りましてよ?」
彼が言った『サカモト』という社長は、ここの犯人の協力者と見られていた吸血鬼なのだ。そうなると…
「得意の交渉事か。なら依頼主は…」
「守秘義務がありますので、それはヒナイチさんでも。」
「いや、知っている。ドラルクだろ?」
ハッタリだ。しかし、自信はあった。
昼間出歩けないドラルクは、ロナルドに頼み事をする事がある。謝礼は、吸血鬼用のお茶菓子を作ってやる事だ。
お嬢だからスイーツ作りが得意か、というとそうではない。お洒落なティーセットに駄菓子が乗っていたりして、相手を呆れさせる事がある。
よく見ると、今もロナルドが持っているティーセットのお茶菓子は、あいつが作ったものだった。
「昨夜、ドラルクはこの工場を襲撃した。その間、お前は協力者のサカモトに、犯人への資金援助を止める様に交渉していた…違うか?」
正確には、こちらに援軍を送らない様に足止め目的で頼んだのだろうが、『君の説得で、彼だけでも正道に立ち返らせてくれ』とでも言えば、ロナルドはどこへでも足を運ぶに違いない。
「あら、ドラルクさんから聞いてらしたの。なら、よろしいですわ。仰る通りですのよ。」
ロナルドといい、半田といい正直な彼らを利用している様で、心が痛い。これで、昨夜私を棺桶に閉じ込めている間に、ドラルクが何をしていたのか判明した。
しかし、報告書をどうしたものか。今まで知らぬ間に、あいつが私の露払いをしていた経緯も含めて、どう報告すれば…。
どうやら、ドラルクは私の手に余るであろう任務の前夜に、私を眠らせて閉じ込めた後、敵性吸血鬼の組織を潰したり、犯人を暗殺したり、自首させたりしていたらしい。これまでは、自分がやったという痕跡は綺麗に消していたのだ。
ジョンの話によれば、組織や犯人が、仲間割れで自滅した様に見せかけたり、行方不明の扱いにしたり、催眠術を使ったり、相手に噛みついて命令したりしていたのだという。
それが、今回は相手が手強かったのか深傷を負い、隠蔽工作も出来ぬまま居城へ帰ってきたのだ。
閉じ込めたままの私が、気になったのもあるだろう。仮にここで彼が死んだ場合、ジョンも死ぬ。地下室の入り口はパッと見た目、他の人間には分からない様に出来ている。私もそのまま飢え死にする可能性があるからだ。
監視員の私が寝込んでいる間に、監視対象が抜け出して…そう書くしかないのか。理由も双方が男女関係にあるから…報告書というより始末書だ。降格どころか懲戒免職ものだ、仕方がないな。
「ヒナイチさん、大丈夫ですの?」
「何がだ?」
「お顔色がよくありませんわ。お悩みでもあるなら、そこのお部屋でお茶しませんこと?ただ話すだけでも、お心は救われるものですわ。」
調査中に、勝手にそこの施設内でお茶をしよう…か。相変わらず、ぶっ飛んだ男だと思う。それでも、それを言ってくれた彼に安心感を覚えた。
悩みならある。どちらの世界を選ぶべきか迷っている。『共生の為の秩序』として法を振りかざして、両方の世界を行き来している私より、『お友達になりましょう』と民間…いや人柄(?)故に自由に行き来きしているロナルドの方が、二つの世界について詳しいのではないだろうか。
しかし、仕事中だぞ?
「ど、どうだろう。ところで、何故お前はこの施設を彷徨いているのだ?」
そもそも、警察が調査中の施設によく入れて貰えたな。まあ、彼も吸対では有名だから…いやただ雑なだけかもしれないが。
「ジョンさんからご連絡がありまして。ドラルクさんがスマホを落とした事に気づいたので、取ってきて欲しいと言うんですの。」
よく拾われなかったものだ。拾われたら、あいつがいた事がバレてしまうものな。
「見せて貰ってもいいだろうか?監視員としては、見過ごせないのでな。」
「どうでしょう?スマホについては、『見たら友人の君でも殺す』と凄まれた事がありますわ。」
まぁ、お二人が恋人同士であるのは存じておりますので…と渡してくれた。私は、助かるがいいのか?
「ロック解除、か。」
まずは、『1128』とあいつの誕生日を入れてみるが、『正しくありません』と表示される。
棺桶は『0303』と私の誕生日だった。では、ジョンの誕生日『0701』と入れてみる。
「解除された。あいつも意外と単純な…あっ!?」
『見たら殺す』って、これの事か?
「どうなさいまして?あらあら、これは。お可愛らしい。」
「えっ…ああ!こ、これは…お前も見なかった事にしてくれ。」
「そうですわね、私は何も見てはおりませんわ。ウフフフ」
待ち受け画面が…私の寝顔なのだ。シーツしか纏ってないこの姿は、棺桶の中で眠っている時に撮影したものだろう。
私は、いつもこんな顔で眠っているのだろうか。ドラルクの話によれば、あいつを拒否していた時分ですら、寝顔は安らかだったと言っていた。
『君の寝顔を見ていいのは、私だけだからだよ。』
そう言われた時は、吸血鬼の執着心にゾッとしたな。今は…どうだろう。
ドラルク、すまない。どちらの「世界」はまだ選べない。血を飲ませた事で、お前に妙な期待をさせてしまったのだろうか。
でも、この写真を見て「何」を選ぶかは決めたんだ。それを、兄…本部長と相談してから伝えようと思う。お前が納得してくれる答えになってるといいのだが。
「さあ、ヒナイチさん。お茶をいたしましょう?」
「ああ、こちらこそ聞いて貰えると助かる。」
仕事中にお茶か、どうせ始末書が増える程度だ。別にもう構わない。
日が暮れた。体が良くなっていれば、ドラルクはそろそろ私の為に、クッキーを焼いているだろう。いや、もう並べている頃かもしれない。あの施設でロナルドとお茶をしてから、兄やヒヨシ隊長とも話をしてきた。だから、少し遅くなったのだ。
今回ばかりは、私の不祥事なので始末書を書いてきたが、それより以前の分は証拠がなく、吸血鬼同士のトラブルは人間の法が関知するところではないらしい。あいつのお母上は敏腕弁護士なので、バレても処理して貰えると踏んでこんな事を繰り返していたのかもしれない。
『ちゃんと、玄関から入り給えよ。』
監視任務だからと、いつも屋根裏から出入りしていたな。考えてみなくても行儀が悪い。
「ドラルク、今夜も監視に来たぞ。」
玄関が慣れなくて、声が小さくなる。扉を開けたが、ジョンも迎えに来なかった。
「い、いない…のか?」
いや、気配はする。監視員としての習慣か、息を潜めて扉に張り付いた。カチャカチャと皿を並べる音と、紅茶の匂い…何よりクッキーの匂いがする。
ホッとして扉に手をかけようとしたが、二人の会話に思わず手が止まった。
『ドラルク様。今夜は、さすがにヒナイチくんは…』
『来るだろう。最近言わなくなったけど、あの子が私に「殺してやる」なんて、よく言っていたじゃないか。』
言っていたが、その時と昨日では状況が違うぞ。今回はさすがにロナルドに会わなければ、来るのを躊躇っていたと思う。
『そもそも、気まずくて監視任務から逃げる様な子ではないよ。私に処女を奪われた翌日も来たのには、驚いたね。あれこそは、もう会う事はないだろうと思ったものだが。』
『あれは意地だったんだヌ。今の彼女と当時の彼女は、全然別人だヌ。』
そうだな。あの時は、屋根裏から出てくるだけでも勇気がいった。でも、負けるものかと言い聞かせて。
『吸血鬼ドラルク、今夜も監視に来たぞ。』
忘れもしない。来るとは思っていなかったのだろうな。ソファに腰かけて、本を読んでいたお前は呆気にとられていた。でも、その瞳が青ざめた私を認識すると、裂ける様に口角を上げて…
『いらっしゃい、ヒナイチくん。今宵も…ゆっくりしていき給え。』
無くしたお気に入りのオモチャが戻ってきた、当時はそんな顔だった。怖かったな。
『お吸血鬼さん達は、私達と比べると気まぐれなお方々が多いですわ。その瞬間にお人格がコロリと変わる方もおります。ご本人達にお自覚がなかったりしますの。そこが、お共生を難しくするのですけど。』
ロナルドの言う通りだ。こいつもその辺り、人間味が薄い。分かっている様で分かっていない。ジョンを挟まないと、私も途中で逃げていただろう。
『いずれにしても、もう遅い。来なければ、迎えにいく。逃げるなら、連れ戻す。それより、私に再生能力がないのが忌々しいよ。ジョン、ちゃんと痕は隠れているかね?』
痕…私がつけた首を絞めた痕の事か?
『どうしても、クラバットの間から少し…包帯巻いた方がいいと思うヌ。』
『包帯の方が目立つだろう。ヒナイチくんが気にすると思ってね。』
そこは気にしてくれてるのか…以前なら、寧ろ見せて罪悪感を抉りに来ただろうな。
『証拠も隠蔽出来ずに、逃げ帰る羽目になったのは痛手だった。元々彼女に殺される覚悟はしていたのだからと、白状してしまった事もだ。糞真面目に、始末書を書いているのではないかね。棺桶を開けるのが遅かったから、遅刻もしただろう。』
遅刻届けも書いたのは事実だが、そこじゃない。どういう訳か、こいつは私の勤務査定を気にしている所があった。私の人生を破綻させた張本人が、気にする所ではないだろう…どうも人ならざる者のズレた所だ。
『気にする所は、そこじゃないヌ。それにしても、ドラルク様があんなにやられるなんて…ヒナイチくんが行かなくてよかったヌ。』
『人界に放つ下等吸血鬼の養殖場だからね。とにかく数が多かったのだよ。ピラニアのプールに飛び込んだ様なものだ。『ケガトカスグナオール』の世話になったのも何十年ぶりだろうね?』
…このタイミングで開けると、立ち聞きしていたのか、とからかわれそうだ。どうしたものか…。
『やっぱり遅い。迎えに行ってくるから、留守を頼むよ。』
『今日は、ちょっと待ってあげた方が…彼女にも考える時間が必要だヌ。』
…いや、手遅れだ。いつも通り屋根裏部屋から来ればよかった。
ガチャッ
音を立てて扉が開いた。あの時みたいに、いつも通りに…いつも通りに言えば、いい…んだ。
「あっ。こ、これは…その。」
「おや?」
あの時と同じ呆気にとられた顔をおずおずと見上げた。
「ドラルク。こん……ぐ、具合…はもういい、のか?」
口から出た言葉は、違うものだった。やはり、クラバットの隙間から見える、私の手の痕が気になって。
「おかえり…ヒナイチくん。」
ああ、あの時と同じ意地悪な笑顔だったらよかったのに。今のあいつの顔は、私を甘やかしてくれる父親みたいな優しい笑顔だ。
そして、「いらっしゃい」ではなく「おかえり」になっている。こちらに来ると、疑っていないから言ったのだろう。
「…うん。」
クッキーの匂いがする胸の中に引き込まれながら、私は心が重くなるのを感じていた。耳元で義眼の「キキッ」という機械音がする…安心した時によく鳴っている音だ。
今ここで「ただいま」と言えたら、どんなに気楽だったろう。「もう昼の世界に帰らない」と言えたら…無邪気に笑うお前の顔が見えたのに。
すまない。私の為に簡単に命をかけてくれるお前の要望を、私はまだ全部叶えてやれないんだ。