@Alpha_arpA
「「はぁ゛~間に合った~~……」」
ロドスの大食堂に、疲れ切ってガラガラに掠れた死人のような声が二人分転がった。
普段は時間を問わず食事をとったり単に休憩したりする職員達で賑わっているこの広い空間だが、今日はことさらに楽しげな話し声や笑い声でごった返している。
施設の照明や壁面は色とりどりの飾り付けでデコレーションされていた。市販されているモールやリボン、ジャック・オ・ランタンやデフォルメされたスケルトンのフィギュア。オレンジ色や黄色、黒を基調としたさまざまな飾りの中には、ロドスで治療を受ける鉱石病の子供達が作ったのであろう、手作りのリースや色紙のループリボンもちらほら。
所々に置かれている小さなかごの中には、キャンディーやチョコレートなど個包装のお菓子が山と積まれており、通りがかる職員達が時折自由につまんでいる。
部屋の入り口近くには“ハッピーバースデイ エイヤフィヤトラ!”と可愛らしい飾り看板がでかでかと掲げられている。近くでは普段よりも少しだけおめかしをしたエイヤフィヤトラが、沢山のオペレーターとスタッフに囲まれて嬉しげに、少し困ったように頬を上気させている。
今日はロドスの総務が主催するハロウィンのミニパーティ。皆普段の業務の疲れや重圧、オペレーターたちも作戦の緊迫から一時解放され、思い思いに食事や談笑を楽しんでいる。最近誕生日を迎え、自ら執筆した論文がクルビアの学会で素晴らしい成果を挙げたオペレーターのお祝い会も兼ねていた。
中にはハロウィンらしい仮装をして訪れるものもおり、集まった者で記念撮影をしたりと楽しげな雰囲気が漂っていた、のだが。
そんな中、開始からすこしだけ遅れて到着したドクターとドロシーは、仮想もメイクも必要ないほどにゾンビッシュな顔色で目の下に巨大なクマをこさえ、テーブルに突っ伏していた。
「ドロシー……俺達、やり遂げたな……」
「ええ……もう悔いは無いわ……ああ、原っぱの向こうでお母さんが手を振ってる──」
「何だあれ、こわ」
「今日のパーティに参加するために4徹で業務をフル回転させたらしいぞ」
「ロドス随一のやんちゃ天才児コンビが……?
俺この職場好きだけど、管理職にだけは絶対になりたくないよ」
「違いない、ハハ」
一般職員達が笑い合いながら通り過ぎていく。後には安らかな顔でのこされる二つの死体が──。
「ウワーッちょっとふたりとも満足そうな顔で昇天しないでよ!? 起きて! アンデッドは仮装だけにしてーッ!!」
偶然通りかかったアンジェリーナに発見されて理性剤とカフェインを持ってこさせ、なんとか一命を取り留めたのだった。
「いやあ助かったよアンジェリーナ。ドロシーとふたりでなんとか定時上がりできるくらいに仕事を片付けた……までは良かったんだが、正直足下がおぼつかなくて。
ケルシーがカニカニポンプの説明を三時間以上真顔で続ける夢を見ながら、ここまで歩いてきたんだ。」
「そんな悪夢を見るような極限状態でカフェインと変なお薬摂取してけろっと回復しないで!?」
「でも、折角のパーティでしょ? 何より今日はエイヤフィヤトラちゃんのお誕生日会も兼ねてるし。私はともかく、ドクターは絶対直接会ってお祝いしてあげなきゃいけないわ。
だから頑張ってお手伝いしたの! 久々にお母さんの顔も見られたし、結果オーライよね」
「ドロシー博士もちょっと里帰り、みたいなノリで臨死体験しないでください!?」
あきれ果ててため息が止まらないアンジェリーナをよそにニコニコとしているドロシーと、「おっあっちでスズランとシャマレが仮装してる。愛らしいなあ」と完全に他人事のドクター。
普段、この二人の壊滅的な生活習慣をどうにか改善させようと奮闘するエフィとアステジーニの心労が知れるというものだった。少なくともアンジェリーナには無理である。ぜったい。
ふたりはあれから、良い仕事仲間かつ親友として、強い絆で結ばれているようだ。
タッグを組めば社内に敵う者が居ないほどの天才でありながら、度々“ちょっとした”問題を起こしてはその度ケルシーかアーミヤに叱られている。
ただドクターとドロシーがやらかすトラブルはいつも最終的にロドスにとって利益になることばかりのようで、アンジェリーナには細かないきさつこそ分からないものの、ケルシーのお説教が毎回“お説教”のままで済んでいることを鑑みるに、おそらくそういうことなのだろう。
アンジェリーナが察した、ドロシーの想いの結末がどうなったのか。その答えは、ドクターのエイヤフィヤトラへの態度を見れば、自ずと察せてしまう。
だが、ふたりはそんなことをおくびにも出さない。特にドロシー博士は、以前よりもずっと自然な笑顔が増えたような感すらあった。
彼女は以前ほど、“何かを護る”ことに偏執的ではなくなった。勿論生来の気質としてそういう性格ががらりと変わってしまったわけではないけれど。
相変わらず弱者に対して過保護で、見ているこちらがどきどきしてしまうほどに自己犠牲的で、そういうヒトだ。けれど、以前ほどそういう姿に真に迫った危うさや妖しさは感じられなくなった。
アンジェリーナは知らない。彼女が己の中で、その気持ちにどういった落としどころを見たのか。
けれど、少なくとも。
「あ。あっちでミヅキくんがテーブルトークゲームをやってるわ。私、あれとっても好きなの。彼の語りは本当に神秘的で……プレイヤーは誰かしら? ドクター、私ちょっと見てくるわね」
「ああ。俺はまだちょっとグロッキーだ……アデルが来るまで、外の風に当たっていようかな」
「ふふ、あの子にそんな酷い顔色見せちゃだめよ? 怖がられてお祝いどころじゃなくなっちゃうんだから」
「お互い様だろ? 俺たち、まるでゲームの悪役みたいだ」
「あら。私たちには無理でしょう? “悪役”だなんて、そんな器じゃないわ」
「……違いない。行ってらっしゃい、ドロシー。また明日」
「ええ、ドクター!」
手を振り合い、別々の方向へと歩き出す二人。
互いに振り返ることは無い。もう、二人の夢が混じり合うことは無い。
其処にはひとつの失恋が残った。けれど、アンジェリーナはそれを見て思う。
悲しいことの筈なのに。
それはとても、やりきれない痛みであったはずなのに。何故なのだろう、それは本当に──。
「すごいな……」
「アンジェリーナちゃん! 良かったら私と一緒に見に行きましょう? きっと面白いわ!」
「あ、はい! 行きます!」
手の指の間をすり抜けていく風は堅く乾燥していて、吐いた息が白い煙になって空へと立ち上っていく。
それを視線で追うと、冬の澄んだ星空が目に入った。
荒野にヒトの営みの明かりは存在しない。ロドス本艦が発するそれらを除けば、クルビアの荒野に星空を濁らせる明かりは一篇たりともありはしない。
鼻で吸い込んだ息は鼻腔の奥をつんと冷やしては抜けていく。マスクを外し、肉眼で星明かりを受け止める。 青く、赤く、オレンジにピンク、水色。
あまた在る星々の熱の放射が、黒く深い宙の海に光る雲を広げては瞬き、テラの地表に立つ男の瞳へとそれを焼き付けた。
曰く、占星学者たちの言うにはその明かりこそが何億年も前、何億光年も先から届けられた予言の徴なのだと。それを読み取ることができさえすれば、私たちがこれから先歩む未来すらも見通し、ヒトが生涯にわたって抱える未来への不安を取り去って、不安なき生を謳歌することができるのだそうだ。
──ならば、星々は知っていたのだろうか。この大地に拡がり往く病巣も、それに苦しみあえぎ、本来在るべき心を失っては狂い果てるいきものたちがいることも。
知っていて、何もしてはくれなかったのだろうか。
そう考えると、美しい星空が突然憎たらしく思えてきて、男は懐から煙草のソフトケースを取り出し、中から紙巻きを一本つまみ上げた。
滑らかな手つきでそれを咥えると、空いた手で取りだしたマッチ箱を開け片手で火を点ける。
手で作った風除けの中に、星明かりよりも暖かい橙色の光が灯った。煙草の先端にそれをそっと移すと、他人顔でこの大地を見下ろすばかりの星空に煙を吐きかける。
煙は風に流され、直ぐに良いの暗闇の中へと消えていった。冬の星空の清冽は乱される気配も無い。
もう一度吸い込み、肺に冷えた煙を入れる。
『結局さ、確かに鉱石病は怖い病気だが……ここに来て思うのは』
いつだったか、本艦で雇用し働いてもらっている感染者の作業員と喫煙所で一緒になり、煙草が短くなるまでの間にいくつか言葉を交わしたことがあった。
お医者様も吸うのかい? と少し驚いた様子の男の表情が面白くて、どこか印象に残っていたのだ。彼の言葉を、喉に感じる異物感と共に思い出していた。
『本当に恐ろしかったのは、明日どうやって金を稼ごうとか、何処で寝泊まりしたらいいのかとか……病気が無くったって感じるはずの、生きていたら当たり前みたいな悩み事だってことに気が付いたんだよ。
鉱石病はそういう悩みをいくらでもでっかくしちまうが、物事の本質ってのも、一緒に黒い石の中に隠して見えなくしちまうんだろうなァ──』
だからさ、俺は今の生活をもらえて、実はそこまで怖さは感じてないんだよ。たとえ、いずれ鉱石病で死ぬんだとしてもな。それまでにやれることとやりたいことを、やるだけさ。
ありがとうな、ドクター。
吐き出した煙は、長いため息と同じだけの量。
あのとき、あの作業員の男の笑顔がドクターには理解できなかった。だから、あなたの鉱石病もきちんと治してみせると、そう答えを返した。
煙を鼻から吐きながら、嬉しげに、だが同時に少しだけ困ったように笑った彼の表情の意味が理解できなかったのだ。
今なら、やっと理解できる。
この星空にもう、八つ当たりのような焦げ付く怒りを感じなくなったのと同じように。
「先輩~っ」
デッキの出入り口扉の方から小走りに近づいてくる影が、撥ねる声で男を呼んだ。
「先輩! さっき、会場から出て行かれるのが見えたので、追いかけてきちゃいました……煙草、吸われてたんですか?」
柔らかな声が、人気の無いデッキと冷えた夜気のなかに響く。
「ああ。アデルは良かったの? パーティの主役なのに、会場を抜け出してきて」
「皆お酒を飲みだしちゃいましたから。もう誰が主役かなんて、誰も気にしてません。だから、ちょっとくらい大丈夫です」
そう言って悪戯を成功させた子供のように微笑み、アデルはドクターの隣に立って星空を見上げた。
そうか、と応えて彼女から視線を外そうとして、それがほんの少しだけ躊躇われた。
亜麻色のくせ毛がちな髪が、風にあおられる羽のようにふわりふわりと揺れている。星明かりを跳ね返すつややかな角と、側頭部から覗くキャプリニーの耳も一緒に。
ローズグレイの瞳は、遙か頭上に輝くそれと少しだけ似ている。長い睫毛や、形のいい眉や、小さな唇や少し童顔な輪郭が目に入り、不意に男の心臓も撥ねた。
互いの視線が繋がっていた。星を見ていたはずなのに。
微細な光に照らされるたった一人の後輩は、とても美しい。そう、今更のように思う。気付くのが遅すぎる自分という男は本当に不出来だなとも思う。
「先輩?」
首を傾げる彼女に、自分が今手に持っていたもののことを思い出す。半分ほど残ったそれを吸っている姿を、ドクターはあまり他人に見せたことは無かった。
「え、あ、ごめん。ぼーっとしていて……ちょっと待ってくれ、今消すから」
目の前の女性に見惚れていたのだと、正直に白状するのは少々恥ずかしい。
喫煙中の男の傍に、いつまでも居たいことも無いだろう。煙たいし、なにより煙草の刺激臭を好むものはそういない。
ドクターは懐からいそいそと携帯灰皿を取り出した。ごまかしのための言い訳半分だ。少々ばつが悪い。
そんなドクターの動きを、伸ばされた手がそっと押し留めた。
「あ、アデル?」
上腕と前腕に添えられた手に、僅かに感じる重みと温もり。紫煙がゆらりと二人の間に漂う。
澄んだ瞳が近くて、また心臓が嫌な震え方をする。
「アデル、そんなに近いと、消せない」
「先輩の煙草、甘いにおいがします」
すんすんと、鼻を利かせる幽かな音まで聞こえる距離。それだけの静寂。
このままでは、彼女のたっぷりとした髪に煙の匂いが染みついてしまう。ドクターはそっと、煙草を持った手を彼女から離そうとした。ローズグレイが、その動きを追っている。
「ああ……まあ、そういう銘柄だから」
「消さないでください、先輩。私、煙草を吸ってる先輩を見ていたいです。煙草を吸っている時の先輩のにおい、覚えておきたいんです」
そう言ってへにゃ、と相好を崩し些か恥ずかしげに顔を赤らめる彼女の頬を、初冬の乾いた風が冷ましている。
「あんまり、覚えていて欲しくない。煙草吸う大人なんて、厭だろ」
「そんなこと無いです! ちょっと意外で、あの……格好、いいなって」
女の不器用な誘惑と、不器用な男。
すこし、居心地の悪い沈黙。
ぎこちなくそれを受け入れ合って、そして在るべき形に落ち着く。
「先輩は、のんびりされてるときに私が隣に居るの、嫌、ですか……?」
ようやく観念したドクターは、アデルと二人寄り添ってデッキに備え付けられたベンチに腰を下ろした。
取り出しかけた灰皿は、ふたたびポケットの中にしまわれた。
「んっ」
「ゆっくり、優しく。うん、そんな感じ。直ぐに肺には入れず、口の中にある程度煙を溜めて……外の空気と一緒にゆっくり吸い込んで、煙を冷ましながら。で、いきなり深く吸い込みすぎると気分が悪くなるから、無理せず吐き出す。そう」
半身を重ね合うように寄り添い座って、男は右手をアデルの口元に添えていた。
親指が滑らかな頬に触れている。人差し指と中指は、その小さな唇に。薄桃色のそれは僅かに開かれ、先程まで男が銜えていた煙草を軽く挟み、指示されたとおりに息を吸い込む。
僅かに橙を増す火種が、白く小さな灰を舞いあげた。
「ふぅ……~」
手を口元から離すと、アデルは青白い煙を細くゆったりと吐き出した。
「上手だね、アデル。どう?」
「ん……苦いれす」
「はは、そうだろう。美味しくないんだ。煙草って」
眉をしかめて、表情で苦い顔をする彼女が可笑しかった。『先輩の吸っているの、私も体験してみたいです』などというものだから。
身体に悪いよと散々説得するも、煙草が吸ってみたいというアデルの考えは変わらなかった。彼女はもう成人だし、一本くらいなら身体に影響もなかろうと箱から新しいものを取り出して渡そうとすると。
『一口で大丈夫なので、それを』
と、吸いかけのまま男の手にあったものを指さされてしまった。
ふたりの、秘密の手ほどきは。誰にも知られることなく、静かに進む。
やたらと緊張するのに、恥ずかしさもあるのに、事実アデルの柔らかそうな耳はさっきから地肌が真っ赤に上気しているのが透けて見えるほどなのに。
なのに、ふたりともなぜか、そんな行為を辞めようとは言い出さなかった。
「先輩と、同じ匂いがします」
そう言ってはにかむ彼女の表情に、心が波立った。くすぐったいような、触って欲しくない場所を触られているような、それでいて心地良いような。
言葉では形容しきれない感覚が波のように寄せては帰して、男は困惑した。
冬の寒さが好きなのに、側に寄り添う温もりがかけがえないものに感じられた。
「さっき、アデルが来たとき」
「先輩、ちょっとぼーっとしてましたよね? あの時ですか?」
「うん。君に見とれていた。角とか髪とか、目が、あまりに綺麗で」
「だから、煙草も消しそびれたんだ。普段なら、人が来たらすぐ消すんだけど」
言ってしまって、男はすぐに後悔する。
顔が熱かった。今すぐマスクを被りたい。
すぐ隣に居るアデルの顔を直視できない。フードの襟を引っ張り上げ、顔をなるべく隠した。彼女はしばらく何も言わず、少し顔を俯けて沈黙したままだ。
「さわって、みますか……?」
風に流されていきそうな小声。暗い夜空に消えていく煙。きっと、二人は同じだけの熱を共有している。
肩に、アデルの頭がそっと寄り掛かる。
初めは遠慮がちに。次第に少しずつ体の重みが預けられて、煙草のにおいに甘い女性の香りが混ざった。
ドクターは煙草を持っていない方の腕を回して彼女の小さな肩を抱き寄せ、その頭に手を置いた。
ふわりふわりと跳ねる髪を梳くと、指や手に柔らかく細い髪の暖かさが伝わってくる。
重さを預け合った身体から伝わる鼓動が、初めは速く、次第に落ち着いてゆったりとしたものに変わっていく。肩の上下で察せられる呼吸のリズムを合わせて、次第に心臓の煩さも気にならなくなった。
固く滑らかな巻き角を撫でる。アデルはもぞもぞと身じろぎして「ちょっとくすぐったいです」と笑った。つるりとしていて、血の通ったぬくもりだ。ずっと撫でていたいような、不思議な心地だ。
亜麻色の髪から覗く、キャプリニーの小さな耳に触れる。柔らかな毛を逆立てないように指を滑らせていると、こんなに温かいのか、と小さな発見があった。
「ピアスをしてみようかなって、迷っているところなんです」
楽しげに耳がぴこりと動く。男の指と一緒に、アデルは自らの耳に軽く触れた。
「今まで、おしゃれとかを気にしたこともなかったですから。先輩はどう思います?」
「やってみたいことは、全部やってみるべきだ。そうだろ?
それに……おしゃれをした君の姿は、俺も見たい」
殆ど囁くくらいの声の大きさでも、これだけ近くに寄り添っていれば彼女の耳に届く。
花が咲くように笑顔を浮かべたアデルは、一緒に耳に触れていたドクターの手を取り、指を絡めた。
「今度、医療部の方に相談してみますっ」
「またひとり、救えずに死なせてしまったんだ」
「どんな方だったんですか」
「聞いてくれるかい」
「もちろん。話してくれて、ありがとうございます。先輩」
「私の論文、ライン生命でもいい評価をもらったみたいなんです。これを足がかりにして、鉱石病治療がクルビアでも注目されるようになるかもって、サリアさんが」
「すごいじゃないか。アデルの資料の精度と、努力の結果だね」
「先輩が、沢山手伝ってくださったお陰です」
「誰にも手伝われない研究論文なんて、ありはしないさ」
ふたりは、痛みと歓びを分かち合う。
星が映し出す影を重ねて、体温を分け合うのと同じようにして。
「“喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である”」
「──俺の論文の、後記の一文だね」
「はい。目と耳が不自由になってしまった、とある作家の方が遺した言葉だって、調べて知りました」
「それを書いた時の俺が、何を思ってその言葉を引用したのか。今の俺には知ることができない」
頷いてから言葉を続ける男を、アデルは首を回して見つめた。
いつしか身体を寄せ合う恥ずかしさはすべて消え去り、そこにはただ温もりだけがあった。
「アデル、君は暖かい。それが、今の俺にとっては本当に大切なことなんだ」
淵のような瞳だった。沢山の痛みと悲しみを背負いすぎて、洞のように何もかもを押し隠すほか無くなってしまった瞳。けれど今は。
アデルは見た。その淵の奥の奥底に、確かに灯された炎が、闇夜に寄る辺たる薪となって燃えるさまを。
「アデル」
「はい」
その炎が燃え続ける限り、男が本当に大切なことを忘れることは終生あり得ない。
「あの日の答えを、いま返すよ。
俺も君のことが好きだ。そのときが来る瞬間まで、君を治す方法を諦めず探すよ。だからそれまで、力一杯に生きてくれ。“幸せパワー”で、なんとか」
絡めた指をしっかりと握って、男はあの日の意趣返しのように微笑みながら言う。
キャプリニーの女は数瞬驚いたように目を丸くしていたが……やがて楽しげに笑うと傍の男にぎゅっと抱きついた。
甘い煙のにおいが、アデルの髪にゆっくりと染みこんでいく。
男に合わせておどけるようにして、睫毛に乗せた小さな雫を男に見られぬよう拭い、そして花が咲いたような満面の笑みで言った。
「私、百年生きますから、なるべく急いでくださいね~?」
アデル・ナウマンという学者がその後、そのような人生を送り、そして如何にして没したのか。
このテラの一時代、そこに生きる人々の中のただ一人でしかない彼女について、詳細な記録は残されていない。彼女について記した伝記などは存在せず、記録を探ることも不可能だ。
彼女と仲の深かった者も、彼女の子孫も、その凄烈な人生を軽々しく口に出すことはない。
それは彼女の遺言であり、“彼”の望みでもある。
だが確かに、皆は口を揃えて言う。
或る者は笑顔で。或る者は誇らしげに。また或る者は懐かしげに。
『彼女は、幸せに生きたよ』
と。
鉱石病根治治療の、第一成功例となったキャプリニーの少女の。
これは、輝かしき生涯の始まりの一幕。
喜びとは目的を暖め続け、知性を輝かせ続ける神聖な炎である おわり