単体でも楽しめますが、先に①や②もぜひお読みください
①前日譚 https://privatter.net/p/11213162
②鶴丸国永編→https://privatter.net/p/11346386
④伯仲編→ https://privatter.net/p/11378888
⑤過去編→https://privatter.net/p/11330710
「千年先へ続く物語を」
「契約と鶴丸国永と悪い男」
「鶴丸国永と祈りの旅路を」
辺りの設定が出てきます
1〜11p 本編 12p エピローグ
13p こぼれ話①
15p 〜16p 後日談〜大倶利伽羅の旅路〜
17p 〜25p 火車切と主と大倶利伽羅
26p 大倶利伽羅と歌仙が鉄扇で舞う話
@fu_re_re_ra
《大倶利伽羅と主の願い》
四年にも渡る主の不在の後、癒しの期間を経て、鶴丸国永は無事に修行を終えて帰ってきた。
だが、その後も鶴丸国永は、あまりに無茶を繰り返し過ぎた。何度も何度も危うく折れかかってはけろっと笑って帰って来るので、初期刀の加州や最古参の燭台切も含め、皆、揃って頭を悩ませている。
鶴丸に残った悪癖は、この本丸最大の悩みの種だった。といっても、常にではなく、普段は穏やかで思慮深い鶴丸国永のままであるのに、まるで発作でも起こすように、忘れた頃にこういった行動を繰り返すのだ。
鶴丸は、限界ギリギリまで一度気が触れたにも関わらずこの程度で済んだのだから、まあその内おさまるさ、と鷹揚に構えてみせているが、心配する周囲はたまったものではない。
そして燭台切光忠がついに痺れを切らし「伽羅ちゃんを呼ぼう」と言い出したところから、こたびの物語は始まる。
「伽羅坊のことを知りたい? 光坊の提案で?」
鶴丸国永はそれを聞き「ははん、なるほどな、いいんじゃないか?」と笑った。
「この本丸もすっかり大きくなったしなあ。貞坊が来た頃はまだ、内務の書類に近侍に遠征に内番に畑に馬の世話諸々、戦より先にやらないとならないことが山ほどあったからなあ。今は戦に出たけりゃそれなりに出られるし、呼んでも差し障りないだろ。さすがにいきなり本霊に還るとは言わないんじゃないか? うん、良い時期だと思うぜ」
朗らかに笑った鶴丸国永は、血の気の多い連中の打ち稽古に混ざるのをやめ、道場の端にさっと座って、主を手招いた。
「きみが誰かを呼ぶ時は、できるだけ話を聞いて、相手を知ってから呼ぶんだったよな。光坊と貞坊にはもう話を聞いたのか? それじゃあ、物語ろうか」
穏やかに笑う鶴丸は、記憶を辿るようにしばし顎を擦った。
「あれは真っ直ぐで良い刀だぜ。きっときみの願いに応えてくれるさ」
主は小首を傾げ、じっと鶴丸を見上げた。どれほど見つめても、穏やかに笑う今の鶴丸には影が無い。
なのに、どうしても、どうしても。どれだけお願いしても、時折発作のように腕だの脚だの落として帰ってくるのをやめてはくれないのだ。
「うーん、そうだなあ。そう、太刀筋。あれは太刀筋がまっすぐでな。正眼に構えて愚直に切る。そういう刀さ。つるむのを嫌がって誰にもおもねらないから気難しそうに見えるが、太刀筋を見ればきっとわかるだろう。あれが不器用なほどがむしゃらで、それでいて決して歪まない、凛とした気骨を宿した、筋の通った真っ直ぐな刀だと」
訥々と語る鶴丸は楽しげだ。語り口には気心知れた気やすさがある。
「うん、そんなところが、オレとしちゃあ、だいぶ気に入ってるぜ。驚かせてもからかっても中々面白いんだが。最初こそ難攻不落みたいな態度だが、少しずつ態度が軟化して気が緩んでくところも可愛げがあって嫌いじゃない。馴れ合いの弱さを嫌がるだけで、誰かと共に歩く資質があるやつなんだ。あれは根が真っ直ぐだから、何かを嫌いきれないんだろうな」
耳を傾ける主に向けて、その後も時間をかけて、たっぷりあれこれ語った鶴丸は、程よいところで「さて」と膝を叩いた。
「さて、オレが語れる伽羅坊はこんなところかな。どうだい、呼べそうかい?」
「うん、行ける気がする」
「それにしても、きみの鍛刀は、何度聞いても不思議なもんだな。うっかり慣れちまったが、いったい全体どういう絡繰だ? どうやって呼んでんのか皆目検討がつかん」
鶴丸のその言葉に、主は小首をかしげて「光ってるのを探すの」と答えた。鶴丸は初耳の情報に片眉を跳ね上げた。
「光ってる? 探す? なんだそりゃ」
「目を閉じてね、気持ちをじっと落ち着けると、金色の光がちらちらするの」
鶴丸は内心、霊力の話か?と首を傾げた。
霊力は指紋のように個々で色が異なるものだが、主の霊力はそれはそれは美しい金色をしている。
「だから、その光が強くなったら、手を伸ばすの」
「へえ? 今も見えるのか?」
「んーと」
主は目を閉じた。
見えない何かに手をかざすみたいに、彼女は手を中空に広げた。
「んーん、ここじゃない。ここじゃ、なくて、もっと────」
「……? きみ?」
「もっと、奥、に……」
主の霊力が、少しずつ研ぎ澄まされていく。
茫洋と薄く開いた瞳は、いつにも増して黄金に輝いて
ゆら、とほんの少しだけ
何かが揺れた気がした。
「!!」
鶴丸国永は顔色を変えて、彼女の手を押さえつけた。
深く入りかけたトランスを中断された彼女は、ぱち、と目を開いて、もう元通りだった。
「あ、れ?」
「もういいぜ」
「? うん」
(まさかとは思うが、)
鶴丸国永は考え込んだ。
彼女は、四年の不在を経ても、残した霊力だけで本丸が問題なく稼働するほど、比類なき量の霊力の持ち主だった。
彼女の内側からあふれる黄金の霊力。
多重に受けた彼女の加護の影響で、まるで斜を通したように、彼女の『中』は覗きにくい。
戦の将としてより、明らかに巫女として才覚が偏っている自分たちの主は
政府による『選別』を通っていない。
それは逆に言えば、審神者として赴任させることが許されないほど強い力を持っていても、政府には知る手段が無かったということではないだろうか。それに気付いて鶴丸は思索を巡らせた。
物吉と並ぶほどの幸運。それはいつも、彼女が何かに触れたときに発動する。
彼女が言うには、目を閉じて『光っているもの』を手繰り寄せれば、望む刀剣男士を呼べるのだと。
まるで、何かの流れに手を入れるみたいに。
(考えすぎかもしれんが……)
そんな話に、鶴丸国永はひとつ、心当たりがあった。
歴史の大河。
それは、神の無限の記録、神の図書館とも呼ばれる、世界の記録のこと。
歴史を守る戦いとは、この大河を歪ませ、奪い取ろうとする者たちを排する戦いである。
人智を越える鍛刀の絡繰に、手を入れられると聞いた時に深く考えるべきだったかもしれない。
今まで『彼女の幸運』の一言で片付けてしまっていたが、本当にそうだろうか。
(いや、まさか、な)
もし、彼女に歴史の大河が見えているのだとしたら。
それは突き詰めると、一種の現実改変能力と言い換えても良い。
それほどの能力があるものは、審神者として就任することは許されず、政府に生涯軟禁されると決まっている。
「…? 鶴るん?」
しばし思考の海に沈み込んだ鶴丸は、彼女の呼ぶ声に顔を上げた。
証拠が無い、仮説も多すぎる。そんな埒もない思考を、鶴丸は途中で切り上げた。
だが、一つ言えることがある。それは。
「どうやら、きみの鍛刀の方法は、他所に漏らさない方が良さそうだ」
「? そうなの?」
「ああ。だから、オレたちだけにしておくんだ。いいな?」
主はこくんと素直に頷いた。
「うん、わかった」
「いい子だ。他に誰か知ってるかい?」
「えっと、」
記憶をじっくり思い巡らせて、主は「あ」と思い出した顔をした。
「この本丸に初めて来る時、役人さんに、」
「おい、鶴丸! いい加減サボってないで付き合えって!」
ガッと打ち合いの音が響く。
教育番長として皆の実力の底上げを図っている加州清光が、その場にいる最後の一人を叩き伏せた音だった。
主人の安全を図るため、本丸を強く叩き上げる加州のお役目は、この本丸では何にも増して最重要視されている。
今日は極太刀による先制攻撃を、新参刀たちの体に覚えさせたいということで鶴丸が呼ばれていたのだった。
「あーはいはい、まったく、鶴使いが荒いなぁ」
鶴丸は嘆息して膝を立てた。主が笑って手を振った。
「きみの初期刀がご立腹だ、殴られない内にちょっと行ってくるぜ」
「がんばって!」
迂闊にもオレはこの時、眼前の些事に気を取られた。
この時、この事を、何としても掘り下げて聞いておくべきだったと。
鶴丸は激しく後悔している。
その日の夕刻、本丸に新たな刀が顕現された。
顕現の供は燭台切光忠。呼ばれたのはやはり、狙い通り、大倶利伽羅だった。
鶴丸国永は、道場での打ち稽古を終えてから、少し遅れて主に合流した。
鶴丸に代わって長谷部が近侍を務め、主は既に大倶利伽羅と謁見を済ませ、話を始めていた。彼女がニコニコと嬉しげに大倶利伽羅に笑いかけている。
「伽羅ちゃんって私も呼んで良い?」
「……大倶利伽羅だ」
鶴丸はニッと笑って割り込んだ。
片眉を跳ね上げる大倶利伽羅に「よう、伽羅坊、久しぶりだな。会えて嬉しいぜ」と肩に腕を回し、鶴丸も笑いかける。
「素直じゃない恥ずかしがり屋さんなんだ。呼んでやるといい」
「おい、適当なことを言うな」
「照れるなよ〜伽羅坊ぉ」
「違う」
主は花のように笑った。
「伽羅ちゃん!」
「大倶利伽羅だ」
「伽羅ちゃん!えへへ」
大倶利伽羅は頭が痛そうな顔をして、結局、その後、同じやり取りを何度も繰り返した後、最終的には根負けをしたらしかった。
彼女は自分の刀剣男士たちを心から信じているので、鶴丸が適当を言ってもだいたいその通りに振る舞う。それをわかっていて、鶴丸はわざと割り込んだのだ。
馴れ合いを嫌う伽羅坊だが、主がこうである以上、さっさと絆された方が楽だと暗に示唆したのだ。
ふと妙に視線を感じ、鶴丸は振り返った。近侍代理を務めた長谷部だった。何か物言いたげな目をしている。
「……? 長谷部、どうかしたか?」
「いや」
いつも歯に衣着せぬ長谷部にしては珍しく何も言わなかった。
────あれは真っ直ぐで良い刀だぜ。きっときみの願いに応えてくれるさ
彼女は信じる。信じ続ける。鶴丸国永の言葉を、固く、固く。
その意味を、鶴丸はまだ、いささか甘く見ている。
呼ばれた大倶利伽羅が最初に主に謁見した際
彼女は微笑んで大倶利伽羅に告げた。
そう、それは、後から思えば
密命、と言える類いのものだったと言えた。
だから、あなたは私を護らなくていい。
私のことは、みんなが護ってくれるから大丈夫。だから。
だから、あなたには、私の願いを叶えて欲しい。
鶴るんを、────鶴丸国永を、護って。
彼は私の、もうひとつの命だから。
それは、命令か?
うんん、これは、ただの私の願い。
あなたへのたった一つの命令は、もっとシンプルだよ。
大倶利伽羅の主となった者は
黄金の瞳でまっすぐ大倶利伽羅を射抜いた。
「鶴丸国永の背を傷付ける全てを斬って」
「それだけか」
うん。私があなたにする命令は、これだけ。
近侍として無理に一緒にいろとも言わないし、慣れ合えとも言わないし、周りと歩調を合わせろとも言わない。
あなたは、その剣で、自由に戦って。
「……斬ればいいんだな」
「うん」
「奴を傷付けるもの全て」
「うん」
「────それが、お前でもか?」
主は、穏やかに微笑んで答えなかった。
だが、大倶利伽羅の眼には、不思議とその笑みはとても、とても嬉しそうに映った。
大倶利伽羅は、燭台切の私室にほど近い部屋を割り当てられた。
部屋は伊達家伝来で固めてあるらしく、奥の居室はそれぞれ、太鼓鐘貞宗と、鶴丸国永のものだった。
恐らく、大倶利伽羅にその部屋が充てられたのは、主による意図的なものだったのだろう。
そこは、鶴丸国永の居室と外を結ぶ廊下に面していた。
故に、その月夜。目が冴えた大倶利伽羅は、偶然にも目撃することとなった。
明るい月夜に、音もなく降り立った、────鶴が。
(────あれは)
刀剣男士にも気配を悟らせないほどに存在感を薄く希釈して、鶴丸国永は月夜を戦装束で音もなく歩いていた。
夜中にひっそりと抜け出したという風情の鶴丸国永は、一見すると月夜の散歩でも楽しんでいる風である。だが、その気配の殺し方は、ただの散策にはあまりに不釣り合いだった。
大倶利伽羅は素早く刀を手に取り、気配を殺して後を追った。
鶴丸国永は、外に繋がるゲートに触れ、操作すると、いずこかの戦場への道を開き、単騎で躊躇いなく身を投げた。
後をつけた大倶利伽羅は咄嗟に飛び込み、共に戦場へと躍り出た。
真っ暗だ。何も見えない。
果ても分からぬほど、底無しの暗闇が続いている。
「ここは…」
「なんだ、ついてきちまったのか」
妙に温度の無いその声に、大倶利伽羅は振り返った。
暗がりに灯籠一つ抱えて、鶴丸がぬっと闇から浮かび上がった。
「驚いたな。おいおいおい伽羅坊、明かりも持たずに無茶がすぎるぜ。一体全体、どうやって入り込んだんだ?」
鶴丸があきれたようにそうごちた。
灯りが高くかざされ、白い顔が闇に照らし出される。
白装束は闇の中でぼおっと浮かび上がり、まるで幽鬼のように妙に生気なく映る。
鶴丸は、かざした灯りで大倶利伽羅を見分すると「ああ」と納得したように一人で頷いた。
「足元に神気が残ってるな。そうか、ここの張番は伽羅坊の縁者だったか。迷わないよう慌てて手助けしてくれたってとこか、それで入って来れたんだな」
鶴丸はニコッと笑い、ぐいっと距離を詰めた。息が触れ合いそうな程の距離で、鶴丸は凄んだ。
「無謀だぜ、伽羅坊。お前さんには、異去はまだ早い」
ざぁぁぁぁぁと生ぬるい風が吹いて、暗闇を洗い流していく。
眩しさに腕で目を守った大倶利伽羅は、目の前に違和感の強いおかしな世界が広がっていることに気付いた。
「ここは…」
「異去、と呼ばれる世界さ。灯篭がなきゃ帰れない一本道ってわけだ」
ぐらん、と眩暈がして大倶利伽羅は顔を押さえた。
視覚に広がる光景と体感に奇妙なズレがある。
「危なかったんだぜ? 異去への出陣は、無理に割り込んでタイミングを間違うと、転送時にバラバラに分解されて鍛刀前の縁の流れに還されちまうこともあるんだ。さすがに次回からは自重することを勧めるぜ」
ぽいっと放られたものを反射的にキャッチすると、お守りだった。
「それじゃあ、今回はあまり無茶できんなあ」
鶴丸国永はそう言い残して、舞った。
一閃、刀を振り下ろして、敵を砕く。
時間遡行軍らしき兵が、近付いていることすら気付かなかった。
大倶利伽羅は「……!」と目を見開いて刀を構えた。
ひりつく戦場の中、血に塗れて、ギラギラ笑う鶴丸は、金眼の瞳孔を開き、いささか狂気的だった。
「……ははっ!」
「いや〜、悪い悪い! すまんが物吉、手伝い札出してくれ」
重傷一歩手前の鶴丸国永は、大倶利伽羅に肩を貸されながら蔵へと向かった。
銀髪は紅に染まり、白絹が大量の赤を吸って一歩ごとに滴る。白い箇所など無いほど血まみれだ。返り血も怪我も見分けがつかない。全身で血風呂に浸かったのかと思うような惨事だった。
漂う強烈な血の匂いに、物吉は慌てて飛び起きた。
「鶴丸さん…! またやったんですか…!?」
「いやいや、今回はそんなに無茶しなかったって。ほんとだぜ? なにせ、驚いたことに伽羅坊がこっそりついてきちまった。こいつを無事に帰さないとならなかったしな。まったく、まだ極めてもないのに無謀がすぎるぜ」
「無茶なのは鶴丸さんですよ!!」
「すまんすまん。なあ、このこと、主には」
「ダメです! 絶対に報告するように言われてるんです、特に鶴丸さんのことは!」
「だよなぁ」
目を吊り上げた物吉に、鶴丸は苦笑した。
「そんなに心配せんでも、何十年かほっときゃそのうち落ち着くと思うんだがなあ。いちいち気にしても無駄に心痛が増えるだけだろうに、あの子、教えなきゃ教えないで泣くんだもんなあ、参ったぜ」
これが、この本丸の癌かと、大倶利伽羅は理解する。
「なぜ、そんな真似をする」
「ん?」
手伝い札と主が残した霊力で、すっかり傷を癒した鶴丸が、とぼけるように笑った。
「戦場に出たければ出ればいい。だが、わざわざ怪我をしに行く意味は無い。この本丸の戦力なら、隊を整えれば無傷とまではいかなくても軽傷で突破できるだろう。強くなろうとしているのとも違う」
「心配してくれるなんて珍しいじゃないか、伽羅坊。はは、今日は随分たくさん驚かせてくれるんだな?」
「茶化すな。お前は、そういう真似を、嫌っていたと思っていた」
鶴丸国永は、銀のまつ毛を伏せて笑った。
ごちるように「あーあー、これだから伽羅坊はなー、まっすぐでなー、かわしにくいんだよなー」と苦笑を滲ませる。
「ま、やつあたりってやつなんだけどな。本当に斬りたいものが目の前に無いから、他で代用しないと喉が渇くんだよ」
両肩をすくませて、軽やかに告げる鶴丸国永の瞳が、ゆらり、と濁る。
それがひどく不吉なものに見えて、大倶利伽羅は無言で戦慄し、脂汗を落とした。
「なあ伽羅坊、悪いことは言わない。あまり立ち入るな」
それは、見間違いでなければ。
武器としての領分を超えた、人殺しの────虐殺者の眼だった。
鶴丸が纏う空気はあまりに冷え冷えとしていて、じっとりと汗ばむ夏の気配の中で氷のようだった。背が粟立つ。
「ここまでにしとけって。な? お前さんがいると、ちと都合が悪い」
鶴丸は肩をこきんと鳴らした。
「足手纏いって言いたいわけじゃないんだぜ? ただなぁ、お前さんがいると、羽目が外せないんだよなあ」
たまーに出してやらないと
「……何を」
鶴丸国永は
ニコリと笑って答えなかった。
その晩、大倶利伽羅は一睡もせずに朝を迎えた。
刀を抱えたまま、朝陽が昇るのを見送った大倶利伽羅は、空が白んでいくのを見つめながら、今後の方針を固めた。
時間というものは、埋まらないようにできている。
本来、今の大倶利伽羅に必要なものはそれだった。時間をかけて確実に練度を上げていくこと。だが、それでは足りない。
あれは。あまり時間をかけると。
折れるか、歪む。
昨夜あんなことがあったにも関わらず、本丸に流れる空気はひどく穏やかだ。
どこかで短刀たちの笑い声がして、健やかに隅々まで満ちた霊力が、春風のように屋敷を流れていく。
金色の霊力はきらきらと流れて、太陽の光と共にこの本丸を柔らかく照らす。
主の祈りが隅々まで満ちて、平和ボケしていると言っても良いほど静穏な本丸だった。花が舞い、風がさらさらと流れる。戦の気配の無い、書類仕事に使う硯と紙の匂いばかりする場所だった。
だからこそ、際立つ。
鶴丸国永に付き纏う、腐臭が。
遠くで誰かの怒号がした。
仕事部屋の窓からスパンと誰かが飛び出す音がして、鶴丸国永が笑いながら出てくる。鶴丸は身軽にも軽やかに庭の樹を蹴って屋根に飛び上がると、そのまま屋根伝いに逃走した。
遅れて息を弾ませた加州清光が廊下に走ってきて、「鶴丸ーッ!」と怒号を上げる。
「くっそ、また逃げられた…! あの野郎…!」
舌打ちした加州清光と目が合った。加州が慌てて庭を超えて、大倶利伽羅めがけて走ってくる。
「なあ! 大倶利伽羅、お前、鶴丸と知己だったよな!?」
「……何の用だ」
「あいつの逃げそうな場所、知らねえか!? あいつ、ああなっちまうと三日は雲隠れしちまって見つからないんだよ!」
加州はもどかしそうに頭を掻きむしった。
「本気のあいつを力尽くで止められるの、俺だけなんだ。けど、俺は打刀だから、どうしても極めたあいつの機動に追い付けない…! ああやって逃げに徹されるとダメなんだ。追い付ける長谷部や短刀たちじゃ止められないんだよ!」
天を仰いで歯痒そうに「くそっ」と嘆いた加州は、焦りを吐き出すように深く嘆息し、顔を片手で覆って苦虫を噛み締めたような顔をした。
「昨日の話は物吉から聞いてる。あいつ、一度やらかすと、いつもなら数ヶ月は保つんだけど……今日見たら、全然鎮まってなかった。目が、全然、あいつ、多分そんなに経たずにまたやる」
────お前さんがいると、羽目が外せないんだよなあ
「なあ! なんでもいいんだ、あいつが行きそうな場所、隠れそうな場所、心当たりがあったら教えて欲しい! …………やめさせたいけど、悔しいけど俺じゃ力不足で」
「……期待はするな」
大倶利伽羅は「地図を」と一言告げた。
加州はパッと表情を明るくし、「待ってろ、今持ってくる!」と今来た道を転げるようにとんぼ返りしていった。
「あ〜る〜はずの、血が無くて〜」
さく、さく、と踏んだシャベルが土を掘り返す。
「びっくり、驚いた、無〜い〜はずの〜」
ざく、ざく、と機嫌よく掘り進められた縦穴は深く、鶴丸の姿は隠れて地上から見えない。
「穴真っ逆さま、落とし穴〜」
ひどく暗い暗い歌が、軽やかすぎる鼻歌で紡がれる。
景気良く掘られた穴は深まっていく。虚が広がっていく。地上は遠い。
「嗚呼驚いた、掘りすぎた穴、気が付きゃオレが、穴の中〜」
穴の中
ああ真っ暗だ
ああ 驚 い た
鶴丸国永は、ふと掘るのをやめて、深い穴底から空を見上げた。
「おいおい、本当に驚かせてくれるな。伽羅坊」
知った気配に顔を上げた鶴丸は、仄暗い歌とあまりに不釣り合いに明るく笑った。
「よくここが分かったなあ。こういうのはどっちかといえばオレの方が得意だと踏んでたんだが、意外や意外、才能あるじゃないか、伽羅坊。驚きだぜ」
「…………何をしている」
「落とし穴だな!」
「こんな山中にか。誰が掛かる」
「見ての通り、鶴が一羽? はは」
「…………自分の穴を掘っていたのか」
勢いよく、ショベルを地に突き立てる音がする。
肘を乗せた鶴丸国永は、投げ出した脚を交差させ、軽快に笑った。
「自主的に探しに来るようなタイプじゃないだろう。いったい誰に泣いて頼まれたんだい? 光坊? 貞坊?」
「加州清光」
「なぁるほど、初期刀殿かぁ。うーん、つまりオレは、ちょっとばかし、しくじったかな? 上手く誤魔化せたと思ったんだがなあ」
「……………何をしていた」
「予行演習かな」
わざとらしく「ふわぁ」と大きな欠伸をした鶴丸は、白々しく大きく伸びをして、大倶利伽羅に手を差し出される前に、ショベルを肩に負って軽やかに横壁を蹴って穴から脱出した。
くるり、と宙返りした鶴丸国永は地表に着地して「あーあ、伽羅坊に見つかるとはなあ」とごちた。
「せっかくの驚きのトラップが台無しだぜ。なあ伽羅坊、埋めるの手伝ってくれよ〜」
「…………」
鶴丸はどうやら、大倶利伽羅が断ると思っていたらしく、こちらが黙って裾を捲ったのを見て目を丸くした。
「…………俺が手を貸せば、埋まるのか、それは」
「本気にするなって。冗談だよ」
ひらりと白の裾を翻して、鶴丸国永は姿を消した。
だから、大倶利伽羅は。
次はどんなに手を尽くしても見つからないだろうな、と静かに悟った。
道場に、喘鳴にも似た荒い息が、繰り返し響いている。
滅多撃ちにされた大倶利伽羅が、生まれたての子鹿のように震える脚で、自らの刀を杖のようにしながら辛うじて立ち上がる。
じっと見張っていた加州清光が、竹刀を床に突き立てたまま、「次!」と号令を掛けた。
舞う毛利が、後藤が、包丁が、信濃が、大倶利伽羅を翻弄し、打ち据える。軽やかに舞い続ける極短刀たちに、顕現されて間もない大倶利伽羅は一方的に打たれるばかりだった。
打ち据えられるたびに懸命に振り回す刀は空振りばかりで、剣閃を捉えることすらままならない。また一撃が、容赦なく腹に入る。
「ぐ、ああ!」
漆黒の龍は咆哮した。
それでもなお、大倶利伽羅は立ち上がる。
一撃が一度も届かなくても、決して諦めることはない。
「おー、頑張ってるなあ、伽羅坊」
鶴丸は木の中に隠れ、道場の様子を遠くから眺めた。
この本丸では、本格的に戦場に出る前に、教育番長である加州清光の下、極たちを相手取った打ち稽古を徹底的に行う。
要人警護本丸に分類されるこの本丸の最終目標は、単騎で主の警護を行い、いざとなれば折れてでも主を逃し切ること。
一対多数、悪条件は当然。部隊員が六振り揃って無事に帰還することを前提とした白刃戦とは勝手が違う。
だからこそ、最初に身体に叩き込むのは、勝利ではなく、敗北。
仲間と勝利を重ねる戦場ではなく、圧倒的な戦力差に独りで立ち向かう敗北を、それを乗り越える術を。たとえその身は折れども、決して折れない絶対の鋼の気骨を。
この身に刻んで強くなる。それが初期刀である加州が敷いた教育体制だった。
「うちの形式は特殊だからな、伽羅坊が馴染めるか気がかりだったんだが」
どうやら心配なかったようだと、鶴丸は笑って胸を撫で下ろした。
敗北の屈辱を最初から徹底的に叩き込まれる加州の指導は、大倶利伽羅の矜持を傷付け、いたずらに孤独を深めるのではないかと懸念していた。
だが、大倶利伽羅は今もなお、腐ることなく喰らい付いて、一心不乱に刀を振るっている。
あれは、何かを護ると定めた剣だ。
きっと主の力になることだろう。
「うん、今回も問題なさそうだな」
新しい刀が顕現するたびに、遠くから見守ってはいるが、いつも加州の指導は見事の一言だった。
ああやって加州のもとで限界まで鍛え上げられた刀たちが、やがて極めて主の隣で主を護る。加州に任せておけば間違いないだろう。
ぐるん、と枝に脚を掛けたまま逆さ吊りになった鶴丸国永は、ぶらんと体を揺らすようにしてそのまま宙返りし地面に着地した。
「オレもそろそろ通常運転に戻るかな。光坊の飯も恋しいことだし」
ほとぼりが冷めるまでしばらく姿を眩ませていたが、いい加減腹も空いた。
人の身とはいえ人間とは端から構造が違うので数日ぐらい飯を抜いても支障はないが、気分の問題だった。
それに、あまり飯を抜くと光坊も歌仙もうるさい。
うららかな昼下がりに欠伸を一つ落とせば、初夏の爽やかな風が耳をくすぐった。
銀の髪が涼風でくるくると踊る。厨に行けば握り飯の一つくらいはありつけるだろう。
日向は明るく穏やかだ。
のんびりと本丸をぐるりと回って散歩しながら、初夏のみずみずしい空気を味わっていると
突如として剣閃が空気を切った。
一閃、頭上に落とされた一撃を、鶴丸は容易く鞘で防いだ。
顔を上げれば、突如として自分に切り掛かった大倶利伽羅がいて、鶴丸は
「おいおいおい、驚いたな」
と言いながら、ニヤリと笑った。
軽々と大倶利伽羅の奇襲を防いだ鶴丸は
「驚きはオレの専売特許だと思ってたんだが。いいねえ、嬉しいじゃないか。珍しい」
と喜色を隠そうともしなかった。
その一撃には、鋭さこそあれ殺気が込められていない。
だからこそ奇襲には申し分なかったが、高みにはまだまだ遠い。
「奇襲で驚かせてやることはたまにあるが、逆に驚かされたのは初めてだ。喜ばせてくれるじゃないか。いいねえ」
輝く白塗りの鞘に納めたままの剣を、鯉口だけ切って鶴丸は笑う。
「伽羅坊も驚きの良さが分かったか? 次はどう驚かせてくれるんだい?」
大倶利伽羅が身を引いて、黙って納刀するのを見て、鶴丸は残念そうに「なんだ、もうやめちまうのか」と肩を落とした。
大倶利伽羅は、測っていた。
鶴丸国永と自分の差を。
自分が斬らなければならないものとの差を。
◇ ◇ ◇
寝待ち月もとうに沈む頃、出陣ゲートの前に刀を抱いて座り込んでいた大倶利伽羅は、浅い眠りから素早く目覚めた。
大倶利伽羅が待ちぼうけていた白い幽鬼が、闇の中から音もなくぼうっと浮かび上がった。
「おいおいおい、勘弁しろよ。いったいどうしたんだ伽羅坊? らしくないじゃないか。きみってこんなにしつこかったか?」
刀を肩に負った鶴丸国永が、戦装束を纏って月の無い夜に立っている。
大倶利伽羅は出陣ゲートの前に立ち塞がると、黙って刀を抜いた。
「……最初の内こそ、ゲートの前に見張りを付けもしたが、徒労に終わった」
へし切長谷部は大倶利伽羅に、そう苦々しく語った。
「数回までは笑って素直に追い返されてみせるが、……限界が近くなると、最後は力尽くで突破していった」
指でしきりに机を叩く長谷部は、主命を果たせなかったことを心から悔やんでいる。何も出来ないもどかしさに苛立ちだけが募った。
「あの日の張り番は俺だった。俺は重傷寸前、奴はほぼ無傷で、……帰って来た奴と合わせて、重傷が二人に増えるだけで終わった。次の刻は加州が死に物狂いで止めたが、その次の被害がさらに酷くなるだけだった」
だから、それ以来、見張りは立てていない。
この本丸の総務番長として長谷部がそう告げ、許可を出した。
「無駄に終わるだろうが、気が済むまでやれ。……手入れ部屋は空けておいてやる」
「番長連中は何やってるんだ? 長谷部に忠告されなかったのか? 徒らに怪我人が増えるだけだって」
鷹揚にため息を吐いた鶴丸国永の姿が消え、次の瞬間、首に刃が肉薄した。
「────ッ!!!」
大倶利伽羅が上に捌いた一閃は、大倶利伽羅の頸動脈を掠め、耳を削っていった。
どっと噴き出した血で肩が濡れる。
「なんだ、良い反応するじゃないか。さすが、加州の特訓の成果が出てるな」
いっそ穏やかと言っていいほどの声音なのに、含む空気があまりに冷たい。
大倶利伽羅は血みどろの左耳を庇う余裕もなく、刃を正眼に構え直した。鶴丸国永が、大倶利伽羅の血をひと振り振るい落とすと、白銀の刃を立てた。
「やりたくないが、今日は通して貰わないと困るんだよなあ」
鶴丸国永の視線が、闇の中でゆらりと、濁った金色に発光する。
「きみは頑固だから、退けと言って退くタイプじゃないしなあ。だから、まあ、すまんが、許せよな」
闇を斬る剣閃が月も無く輝き、舞うように変幻自在に軌道を変える。
一閃、頭上から振り下ろされる一撃を、大倶利伽羅は大上段で辛うじて捌き切った。
(重い…ッ!!)
脇腹を掠った突きを命からがら受け流したのも束の間、跳ね上げた白鞘が、大倶利伽羅の顎を打つ。
「っ」
ぐらんと脳髄が回る。容赦なく撃ち下ろされた鞘の一撃が、頸髄に決まった。
「ガッ…!」
「動いたら足も折るぜ」
倒れ伏した大倶利伽羅の背に座って、首筋近くに刀を突き付けた鶴丸が、そう脅しつけた。
「仲間になあ、刃をなあ、向けるのはなあ、ほんと気が進まないんだが、すまんな、今日は本当にちょっと無理だ。いつもなら引いてやっても良かったんだが」
無様に泥を舐める大倶利伽羅の背に尻を落とし、首の皮一枚、頸動脈に白刃を突き付けたまま、圧倒的なまでの力の差を見せつけて鶴丸は嘆息した。
最後まで抵抗した長谷部は重傷だったという。つまり、今動けない大倶利伽羅は、相応に手加減されているという恥辱の証だった。
「こういう嫌な驚きは一回きりで済むように長谷部を選んだってのに、あの合理性の塊がどうしてきみの勝手を許したんだか」
大倶利伽羅が倒れた地面にぽんと放り捨てられたのは、手伝い札だった。
「こいつでさっさと手入れして来るといい。あ〜あ、せっかく苦労してちょろまかして来たんだがなあ」
刀を地面から抜いて、鶴丸はぷらりと肩越しに手を振った。
「じゃ、悪いな伽羅坊。なぁに、適度に暴れたら帰ってくるさ」
その日、夜明け頃にすっきりした顔をして帰還した鶴丸国永は、笑って左手首と右脚をどこかに落として来た。
◇ ◇ ◇
「もう、マジで頭が痛い。本当にどう足掻いても言うこと聞きやしねえ」
額に組んだ手を当て、加州が嘆きながら深く深く椅子に沈み込んだ。
「主が泣いてもやめない。燭台切が泣いても止まらない。太鼓鐘が本気で怒ってもやめない。初期刀として俺もやることやった、番長として長谷部もやることやった。歌仙が叱っても言うこと聞かないし、誰の説得にも応じない。他の連中も総出でやれるだけのことやってくれたし、加えて大倶利伽羅が身を挺して止まらないとなると、もう他にできることあんのかよって感じで」
血みどろの大惨状はすっかり消え去り、主が事前に残した霊力のおかげで、失くした左手首も右足もすっかり元通りだ。
「あいつの言い分はこうだ。そんなに心配せんでも、多分あと何十年かすれば勝手に治まるぜ、だから下手に怪我人増やさず、気にせずほっといてくれ。────じゃねえんだよ!!!!!!」
ガンッと拳を執務室の机に叩きつけた加州は、両手で顔を覆うと「あ゛〜〜〜〜」とままならない嘆きを叫んだ。
「ふっっっっざけんなよマジであいつ、主も俺らも毎回どんな思いで…!!」
「……あれは、身食いだろう」
加州の嘆きに、大倶利伽羅は静かにそう答えた。
「斬りたいものが目の前に無いと言っていた。あれは、供犠の話じゃないのか。足りないのは戦じゃない。────贄だ」
大倶利伽羅の言に、加州は、既に見当がついていたのだろう、胸に凝った重いものを吐き出すように、深々とため息を落とした。
「主も俺もみんなも、……もしかしたら、あいつ自身も。主から引き剥がされて、鶴丸があんなに怒るなんて思わなかったんだ」
神の怒りは贄が無ければ収まらない。
普段は理性で完璧に抑え込んでいるようだが、どうしても内側から蝕むものを吐き出せないでいるのだろう。
「……なら」
「いっそ用意しろってか? 神としちゃ何も間違ってねえけど刀剣男士として倫理観がアウトすぎるだろうが……」
無力さを呪うように、加州は頭をガリガリと掻きむしった。
「政府に知られたらどうなると思う? そういうのは大概、審神者自身が責任取って贄として鎮める。そういう決まりと契約になってる。けど、そもそも主と引き剥がされてああなったんだぜ。何も解決しねえし、誰も幸せにならねえだろうがよ……」
「だから、あいつはああなのか。折れたら折れたで仕方がないと思っている」
「馬っ鹿じゃねえの…」
問題はあまりに根深く、これ以上できることはあまりに少なかった。
「馬鹿じゃねえのか、誰が騙されるんだよ。あんなに、あんなに、あんなに怒ってるもんが、十年やそこらで落ち着くわけねーだろ。あいつの言う『何十年か』ってのは、主がいなくなるその日のことだろうが…!」
くそっ、と苦悩を吐き出した加州清光は、泣きそうな声を出した。
「せめて、あの時何も助けてやれなかった俺らにぶつけてくれんなら、いくらでも相手してやれたのにさ。あいつ、極力、自分のことしか傷つけねえんだもんよ……」
「うーーーーん」
博多が帳簿を見ながら算盤を弾き、頭を悩ませている。
打ち稽古の帰りに竹刀を持って通りかかった大和守安定が、足を止めて少し心配げに
「博多、どうかしたの?」
と優しく声をかけた。博多は顔を上げた。
「この前、鶴丸しゃんと大倶利伽羅しゃんが大怪我したと」
「ああ、手入れ資材」
「うちば鍛刀せん主だから、資材は足りとるばってん、本当だったらもっと貯まっていいはずばい」
「前線本丸に多く回されるから、うちみたいな後方支援型の本丸にはなかなか資材が流れてこないって話だもんな」
「それにしたって少ないばい。主の霊力がものすごーく多くて、主と名代の鶴丸しゃんの差配がすごーく優れとるけん、なんとか帳尻が合っとーよ。こげん鍛刀せんのに、いつも手入れ資材が悩みの種ばい」
安定は、博多が管理している書類を横から覗き込んで「そっか、こんなに入ってこないんだ」と目を丸くした。
「前線、資材足りてないのかな。この本丸、びっくりするぐらい、とにかく前線の情報が入ってこないんだよね」
大和守安定は、懸念を眉に乗せて暗い表情をした。
「前線の戦いが厳しいってことじゃなきゃいいけど」
「は!? さらに資材が削られる!?」
こんのすけが持ち込んだ報告に、刀剣たちは皆揃ってざわついた。
「そんな、今でもあんなに少ないのに…!」
「うちみたいな優良本丸にも、こんだけしか資材が回ってこないなんて」
「前線は一体どうなってるんだ」
ざわつくみんなの中で、安定は博多に見せられた書類を思い出しながら、こう声を上げた。
「ねえ、いくら何でもこの量はおかしいよ。だってこれ、前線だったら最低ランク本丸水準だよ」
安定は難しい顔をすると、清光にそっとこう提言した。
「きっと、どこかで資材の流れが滞ってる。単に流通事故が起きてるだけならいいけど、もしかして、うちだけ冷遇されてるんじゃない? 同じサーバーの本丸の水準を確かめようよ。どこかに連絡とってさ」
「ダメなんだ。うちは、他の本丸との通信が厳しく禁じられてる」
「なんで!?」
「主に本丸ごと課せられてる制約なんだ。考えてもみろよ、主は特別な生まれでもなければ、特殊な地位があるわけでもない。けど、少なくない戦資材を投入して、刀剣男士が付きっきりで現世で護ることを許されてる。なんでだと思う?」
苦渋の顔をしながら加州がそう詳らかにした。
「時の政府の治めるこの国で、審神者の才能を持つ人間が審神者業に従事するのは、今や法律で定めされた国民の義務だ。本当なら元服する前に政府の検査に捕まって、現世の歴史の流れに関与しないように職業制限を受けて、専業の審神者として学校に行って、研修を受けて、そこの本丸の住み込みになるはずなんだ。けど、主は、その制度を何の責任もなくすり抜けた。結論から言えば政府のミスによる把握漏れ。主は好きな仕事について好きに現世で生きてる。そんなこと、万が一表沙汰になったらどうなると思う?」
「……暴動だ」
大和守安定は、さぁっと青い顔をした。
「他の審神者だけじゃない。子供を取られた親や家族、法律家、人権擁護団体、報道関係者、軍隊、全部巻き込んだ暴動になるかもしれない」
「そう、主の特例は口止めなんだよ。だから今さら審神者の学校にも通えないし政府の研修も受けられない。審神者としての顔を隠して現世で仕事をするのはいいけど、他の審神者関係者と接することは固く禁じられてる」
「……でも、いくら何でもこの量はおかしいよ」
「わかってる。どうにかしないと」
「長谷部、主に電報は?」
「もう打ってる。主も考えてくださっている。だが、どちらにせよ、主のご帰還までまだ日がある。俺たちにできることをせねば」
「嘆願書出す? 再調査してくれって」
「調査ったってよ、どこに?」
「問題は、資材量の原因がどこにあるかだよね」
「可能性は?」
「一、前線丸ごと資材枯渇。これは俺たちにどうしようもない。二、サーバー全体の資材枯渇。これも俺たちにはどうしようもない。三、後方支援本丸全体の資材枯渇。これなら施策の問題だ。直に政府の総括部門に嘆願書出せば、すぐとはいかなくても、分配を見直してくれるかもしれない。四、……俺たちの本丸だけの問題」
「四だとしたら? 本当にただの勘だけど、四な気がしてならないよ」
「資材がこんなに削減されるのは、普通は評価評定が極めて下がった時だけのはずだけど……」
「確かに前線と同じような任務はこなせない。けど、主と名代の鶴さんの采配で、うちでできる最高効率は必ず叩き出してるはずなんだ。後方支援本丸としては最優良、前線と比較しても可以下になることなんてあり得ない」
「必要な書類が丸ごと出てなかったり、重要な任務が長期に渡って抜けてたりした可能性は?」
「馬鹿を言うな。総務番長のこの俺が責任を持って全て目を通している。主命にかけて、そのような失態は絶対に犯さん」
「だったら、きちんと出した任務報告がどこかで滞ってる」
「けど、こんのすけから戻ってくる評定は、最新の評価も優良だったぞ」
「他の低ランク本丸と供給番号が間違われていることはありませんか?」
「それなら、調べてもらえばすぐにわかることだけど……でも……」
「なあ、単なる再調査依頼で解決する問題か? ……何だか、政治の匂いがしないか」
「……確かにこの本丸は、存在そのものが、政府にとって都合が悪いんだ。だから」
「迂闊に声を上げたら、揉み消されるかもしれない?」
「……俺もそれを懸念している。常に最優良を保ってきたのは、そういった政治的隙を作らない目的もあった」
「どうにかして調べる方法はない?」
「だが、下手にバレて他本丸との接触の証拠を押さえられたら、それこそ本丸取り潰しだぞ。主と本丸に課せられた制約は、かなり重いものだったはずだ」
「最低限、担当役人に探りを入れるくらいならできるだろうけど……」
「……いや、少し待ってくれ」
それまで、皆の話にじっと耳を傾けながら、だんまりを決め込んでいた鶴丸が待ったをかけた。
この本丸における名代刀、鶴丸国永が上げた声に、皆が話をやめてさっと注目する。
「思い出した。主の担当役人、妙にきな臭い印象を持った覚えがある。最初は、オレだ。初鍛刀にオレを呼んだ時、主は、順守すべき玉鋼量の指示を役人から受けていなかった。だから初手で太刀のオレが呼ばれた」
鶴丸が低く唸りながら顎に手を置いた。
「表向きは伝達ミスということになってたが、責任の所在を巡って後で必ず難癖を付けられるはずだと思っていた。だが、待てど暮らせど、そういう気配もなく、やがて担当が別の男に変わった。オレが前と次の担当を目にしたのはその一度きりだが、……思えばどちらも、オレのことを欲深い目で見ていた」
鶴丸は顔を上げた。
「皆で手持ちの情報を整理しよう。迂闊な動きは首を絞めるかもしれん」
「そうだね」
「幸い、資材はまだ残ってる」
「博多、担当が変わる以前と後で資材や資金の流れに妙な変化が無いが洗ってくれ。担当が変わった時期ならオレが覚えてる」
「わかったと!」
「みんな、他に思い当たることはないか」
「そういや物吉、確かお前、主と過ごした五ヶ月の中で、役人から妙に催促されることがあったって言ってなかったか」
「……あまり良くない気をお持ちでした。あるじさまも、会うのを感覚的に嫌がっておられて」
「みんな! 主から電報! 全ての予定を切り上げて帰って来るって! 通信繋ぐよ!」
通信装置に表示された現世で、息を弾ませた主が、外套も脱がずにスクリーンの中に映った。
「どうなってるの、教えて、長谷部!」
「はっ、ご報告致します」
長谷部が皆で話し合った内容を伝えている間に、博多が転げるように慌てて資料庫から戻ってくる。博多は書類に素早く「ここばい!」と赤線を引いた。よほど意識して詳細に見比べなければ分からないほどの変化だが、確かに違和感があった。
「見てほしいと!! 少しずつ、少しずつ削られとる。確かに担当が変わった後からばい」
「…………黒だな。どうやらこの本丸は、知らないうちに苦境に立たされてたらしい」
鶴丸国永は舌打ちした。
「迂闊だったぜ。戦と内務だけじゃなく、もっと外の政治に気を払っておくんだった。あまりにも情報が入ってこない本丸だからって気を緩めすぎてたな」
「これ、つまり、横領ってこと…!?」
「いや、周到すぎるし期間も長すぎる。気付かれないようにこんのすけへの通告まで弄ってるなら、単なる横領騒ぎでは済まないかもしれない。下手をすると、」
「…………ちょっと待って、それって、資材が流れてる先が、個人じゃないかもしれないってこと!?」
「どこまで腐敗してるか分からない。役人の独断か、後ろ盾がいるのか……」
「それより問題は、どんな嘆願書も、担当役人を通さなきゃいけない決まりになってるってことだよ!」
「そこ飛び抜けて告訴状出して万一繋がってたら目も当てられないぞ。規則違反にされちまう」
「誰をどこまで信じていいか……」
『刀剣男士は?』
通信装置の中で、主が小首を傾げ、そう声を上げた。はたと皆が主を見た。
『人間はどこまで信じて良いか分からない。なら、刀剣男士は?』
主のその言葉に、ハッとする刀剣男士たち。
「────監査官だ」
どこからともなく声が上がった。
「そうか、役所には必ず、政府所属の山姥切長義がいるはず…!」
「山姥切長義はプライドが高くて高潔だ。いくら政府の中にいても、腐敗とは無縁、断言できる」
「なら、何とかして山姥切長義に会えば」
「ああ。必要なところに調査を回してくれるはずだ。彼は監査官として相応の権限を持ってる。適任だ」
「問題は……どういう口実で会うかだね」
「ただ『会いたい』じゃ会ってくれないと思う。担当役人を通さず、怪しまれず、二人きりで話したい、そういう口実が作れれば」
「何か良い手は?」
「どうだろう……うちに山姥切がどっちかいれば良い案を出してくれたかもしれないけど」
「それだ」
鶴丸国永が指を鳴らした。
「呼べばいい。山姥切国広が、本歌にしかできない相談を希望してる。それで押し通せる」
「そっか、それなら役人も止められない。山姥切の本歌と写しを巡る問題はどこの本丸でも付きものだから、解決を下手に阻害したら責が発生する。確かそういう慣例になってたよね?」
「ああ」
鶴丸国永は、大きく頷いた。
「オレたちの主なら、少ない資材でも山姥切国広を呼べる」
「資材は!?」
「いけるばい!」
皆、慌ただしく走り出した。一斉に動き出す本丸の中で「嘆願書作るぞ!」「そっちの書類証拠にできねえか!?」「長谷部しゃん、こっち手伝ってほしいと!」「資材が心許なければ遠征を」「第三部隊ならすぐ出れるぞ!!」「ありったけの硯持ってこい!」とそれぞれがそれぞれの役目に走り出す。
「なんとしても確実に呼びたい。縁のあるやつは居ないか?」
「参ったな、うちには堀川派がいない。山姥切と縁が深い刀は……」
「どうにかして堀川国広を呼べないか。同じ新撰組だろ?」
「新撰組副長、土方歳三の脇差だったね。加州くんと大和守くんは、持ち主同士が知己だった」
「どうだろう……俺も安定も確かに近しい位置には居たけど……安定、どう?」
「少し自信が無いよ……堀川は相棒にべったりだったし、僕の場合、どっちかというと個人的に交流があったのは同じ打刀の和泉守兼定の方で」
「なら僕が出よう。之定が一振り、この歌仙兼定が」
歌仙がそう言って前に進み出た。
「僕が刀工の縁を、きみたちが持ち主の縁を手繰れば良い。主の才覚ならきっとそれで呼べる」
鍛刀部屋に桜吹雪が舞う。だんだら模様が鮮やかに舞った。
「俺は和泉守兼定、かっこよくて強ーい、最近流行りの刀だ……ぜ!? ちょっと待て、鍛刀部屋に何でこんなに刀剣男士が集まってんだ!? 何の祭りだこりゃ」
そうして皆から話を聞いた和泉守兼定は、「へえ」と顎を擦ってニヤッと笑った。
「面白えじゃねえか。協力してやるよ」
供えられた盃をかざして、和泉守は「次は国広だな。いいぜ、語ろうじゃねえか」と盃を煽った。
主となった彼女に、和泉守が盃片手に語った相棒との日々は尽きず、立板に水とばかりに軽快に語り明かす和泉守に、彼女はしきりに嬉しげに聴き入っていた。
鍛刀部屋に、再び桜吹雪が舞う。
「すみません、こっちに兼さん…和泉守兼定は────」
「よぉ、国広、来たな!」
機嫌良く酔った和泉守兼定が相棒に向けて盃を掲げた。堀川が表情を明るくする。
「兼さん!」
「さっそくだけど、堀川国広! オレたちの本丸に力を貸して欲しい!」
「どうやら中々面白いことになってるみたいだぜ? 国広、お前の兄弟呼ぶの、協力してやれよ」
三度舞った桜吹雪が淡雪のように溶けていく。歓声が上がった。
「おっしゃー!」
「来たか、山姥切国広!」
「よく来たな!! 待ってたぜ!!」
「ちょっと待て、本当にどういう状況だ」
山姥切国広は、鍛刀されるや否や、大勢の刀剣男士たちに取り囲まれて困惑した。
「……つまり、目当てはオレではなく本科……写しにはお似合いの役目だな」
「なにいってんだ本丸の危機だぞ!」
「マジでお前が頼みの綱なんだって」
「国広といいこいつといい、本当にマジで一発で呼べんだな」
「大任だよ、兄弟!」
「ここまで来たら山姥切だけが頼りなんだ、頼むよ」
山姥切国広は、頭が痛そうに、被った外套の裾を深く被り直した。
目を逸らす山姥切の前に、主となる女性が進み出た。
「お願い、山姥切国広。わたしたちを助けて」
「写しのオレなんかを頼らなくても、もっと他に良い方法があるんじゃないのか」
「あまり長く待てない。手入れ資材が十分に確保できない中、下手に重傷が出たら命に関わる。私は、誰も絶対に失いたくない。だから、お願い。きっと貴方なら果たしてくれるって信じてる」
「…………そんな大事な任を、なぜオレのような新参に任せられるんだ。どうして信じられる。まだオレは、信を置いてもらえるような働きを何ひとつしていないだろう」
主は少しだけきょとんとして、破顔した。
「会いたかったから」
「会いたかった? 写しのオレにか」
「会いたかったよ、山姥切国広。国広の最高傑作。堀川国広の自慢の兄弟」
ひどく大切そうに言の葉を口に乗せた主が、皆を振り返りながら笑った。
「大事なみんなが、口々に『山姥切国広なら信じられる』って言った。それだけで充分だよ。────多くの本丸の初期刀を務める数多くの貴方が築いてきた信頼が、貴方の中にも流れてる」
山姥切国広は、大きく瞠目した。
主の後ろで、数多くの刀剣男士たちが頼もしげに、山姥切国広を見つめて笑った。
「ま、そういうわけさ」
「お願いします、山姥切さん!」
「山姥切しゃん、頼むばい!」
「頼りにしてるぜ、山姥切!!」
「兄弟、やろう! 応えようよ!」
「山姥切ぃ、ここで臆するのはかっこ悪りぃぜ?」
「きみに託そう。この本丸の未来を」
「山姥切さんならきっとやり遂げてくれる、そう信じてます!」
「みんなわたしの大事な刀だよ。みんなが信じたものを、わたしも信じたいから信じる。それだけじゃ、理由にならない?」
「……それは」
「貴方もだよ、山姥切国広。わたしの前に来てくれた瞬間から、わたしの大事な刀」
山姥切国広の手を握って、主となった彼女は、花のように笑った。
「全部終わったら、ちゃんと歓迎会しようね。聞かせて、貴方だけの物語も」
「…………わかった、やればいいんだろう」
山姥切国広は、フードの裾をぐっと下げて、表情を見られないようにした。
「どいつもこいつも、写しなんかを信じて、…………本当に、奇特な連中だ」
政府の特別面談室にて。山姥切国広を出迎えると「よく来たね」と長義はソファの椅子に沈み込み、長い脚を優雅に組んだ。
「言いたいことは分かっている。さっそく対応しよう」
「……話が早いな?」
「ああ、きみたちが不当に虐げられるのも今日までだ。きみの証言を元にすぐ証拠を押さえて、審神者権限の剥奪と本丸の停止を」
「虐げられる? 何の話だ」
国広は、はっきりと困惑した顔をした。
「ちょっと待ってくれ。話が見えない。オレは、この本丸に来たばかりだが、彼女は誰かを虐げるような人間には見えなかった」
「なに? なら、何のためにオレのもとへ」
「オレは、この書類を預かっただけだ。役人を通すことができないから、信用のおける相手にと……」
ガシャン、と珈琲の入ったカップが、いきなりヒビ割れた。
テーブルに黒が不吉に広がった。
「なんだ……?」
激しいブザー音と共に、山姥切国広が持たされた緊急電報装置が鳴る。慌てて通信を取った。
「こちら山姥切国広」
「敵襲だ!! 本丸が時間遡行軍に攻め込まれた!!」
ザワッと総毛立った二人は立ち上がった。
「なんだと!?」
「内通者だ! ……ザザ………役人………修正主義……」
ブツン、と途切れたきり、山姥切国広がどれほど通話を試みても、後はうんともすんとも言わなかった。
「どうなってるんだ!?」
「なぜ本丸に時間遡行軍が…!!」
「強制帰還用ゲート停止して動きません! 第三部隊、第四部隊、帰還不可能!」
「最悪のパターンだ……本丸の座標を知ってるのは担当役人だけ…! 緊急ゲートにまで介入できるってことは…!!」
「まさか、役人が歴史修正主義者と繋がってたのか!?」
「そうとしか考えられない! よりによってこのタイミング、山姥切の動きを察知して、力付くで口封じにきたとしか…!」
加州清光が一閃、時間遡行軍の大太刀を下す。
「電報班! 山姥切に内通者を知らせろ!」
「主は!?」
「第一部隊が引き付けてる間に、逃走訓練通り鶴丸さんと!」
「……しまった!」
加州清光が太刀を受け止めながら、蒼白で振り返った。
「もし避難シェルターに手が及んでたら、主が危ない!!」
ノイズまみれの通信は通じない。ジャミングされていて、連絡が取れない。
「ダメだ鶴丸ッ! 逃走じゃなく籠城戦に!! 鶴丸ッ!! 主ッ!!」
◇ ◇ ◇
「あと少しだ! 大丈夫、必ずきみはシェルターまで送り届ける!」
「鶴るん、私がシェルターに入ったら、戻ってみんなを…!」
「いいからきみは自分の心配だけしてるんだ!」
鶴丸国永がゲートに手を触れる。操作した緊急避難シェルター座標に、転送座標を合わせる。
「開門ッ!」
背後から追って来ている遡行軍を素早く斬り伏せ、背を向けた鶴丸国永は叫んだ。
「走れ! 振り返るな!」
背後を守る鶴丸国永の号令に、主は転げるように走った。
ゆっくりと開いていくゲートから光があふれる。
その光の中に突進するように走った主は、細い隙間に体を捩じ込むように門を越えようとして
「え」
ゲートの内側からぬっと伸びた腕に
「どうしてここに、」
喉笛を掴まれ、絡め取られた。
悲鳴が上がって、背後の敵を斬り伏せた鶴丸国永が振り返った時には遅かった。
「主ッ!?」
「動くなッ!!!」
主の喉笛に拳銃を突き付け、役人がぎょろりと異様に目を見開いて立っている。
薬物でもやっているのか目が血走っており呼吸がおかしい。
「主ッ!!」
「剣を捨てろッ!!」
鶴丸と主の距離があまりに遠かった。一足飛びに剣閃を走らせても、役人が引き金を引く方が早い。
「このアマ…! あのまま黙ってりゃずっと飼ってやったのに…!!」
刀を手放したら主を助けられない。
だが、動くこともできず、奥歯を噛み締めた鶴丸国永は、黙って背後から敵の一太刀をまともに喰らった。
主の悲鳴が上がった。
「嫌ぁ! 鶴るん! 鶴るん!!」
刀が、背を貫通して腹から突き出る。槍が鶴丸を虫ピンの標本のように大地に磔にする。
砂利を舐めた鶴丸国永の首に、刀が貫通する。
「ガッ…!」
喉から血を吹き出しながら、鶴丸はギロリと殺気を飛ばした。
「てめえ…!」
「鶴るんッ!!」
手を伸ばした主を取り押さえて、男は主を引きずった。拳銃を突き付けたまま、男が転送ゲートに手を触れる。シェルターに合わせた座標が、全く違う所に合わされる。
地面に串刺しにされた鶴丸が、喉から噴き出す血を撒き散らしながら胸を反った。ごぽっと口から血があふれる。
「ご、ぼ…! 離、せッ!! 主ッ!!」
「鶴るんッ!!!」
鶴丸の首を落とそうと、遡行軍の刃が振り下ろされる。
主がゲートに押し込まれていく。転送ゲートがゆっくりと閉まっていく。
「嫌ッ!! 鶴るん、鶴るんッ!!」
その瞬間、遅れてゲート前に駆け付けたのは、大倶利伽羅だった。
「ッ!!」
「来るなッ!来たら撃つぞ…!」
「主をッ!!」
口から血をあふれさせながら鶴丸が叫んだ。
大倶利伽羅は、ゲートに押し込まれる主に向かって迷わず走った。
全てがスローモーションのように映る中、鶴丸国永が、自身の太刀を投擲した。
まっすぐ風を切った太刀の柄頭が、拳銃にぶつかり、矛先をずらす。その瞬間、撃たれた弾丸が、主の首の皮を掠った。
大倶利伽羅の太刀が鞘走る。
鶴丸の首に、大太刀の一撃が迫る。
その瞬間、主は叫んだ。
主が絶叫した、その名は。
「──────大倶利伽羅ーーーッ!!!!!」
大倶利伽羅は、その一瞬、大きく瞠目し
宙で舞った。
ぐるん、と刃が回転し、首落としの太刀を、鶴丸国永の首の皮一枚から弾き落とした。
大倶利伽羅の二の太刀が届くわずか数瞬の遅れを前に、役人と主はゲートから消えた。
鶴丸国永は、重傷を抱えたまま、愕然とした。
『伽羅ちゃん!』
『大倶利伽羅だ』
『伽羅ちゃん! えへへ』
大倶利伽羅の名を正しく叫んだ主が、自分に下した、たった一つの命令。
『──────大倶利伽羅ーーーッ!!!!!』
自らに課せられた使命を果たし、その瞬間、大倶利伽羅は、主を攫った輩ではなく、鶴丸国永の背の敵を斬った。
あの瞬間、主は願った。あまりに強く。
刀剣男士は、────正しく名を呼ばれ、願われると、それに応える。
◇ ◇ ◇
「鶴さんッ!! 伽羅ちゃんッ!!」
「鶴丸さん、しっかりッ!!」
「ダメだ、鶴丸、無理に動くな、折れるぞッ!!」
表のゲートから入り込んだ遡行軍を全て駆逐した第一部隊が見たのは、全身を貫かれた血塗れの鶴丸国永と、その場の全ての遡行軍を斬った重傷手前の大倶利伽羅だった。
仲間の手で地に縫い留めていた槍を抜かれた鶴丸は、未だ何箇所も体を貫かれたまま、ゆらりと起き上がって、拳を振り上げた。
ガッと大倶利伽羅の頬に拳が入る。大倶利伽羅は、あまりに緩慢なその拳を、避けようとしなかった。
大倶利伽羅を殴り付け、「なんでッ!!!」と激昂する鶴丸国永に、血をペッと吐き出した大倶利伽羅は告げた。
「それが主の命だ。貴様を斬る全てを斬れとあいつは命じた」
愕然とする鶴丸国永が、だらりと拳をほどいて、ぶらんと手を重力に投げ出した。
……はは
あははははははは
空に上がる狂った笑い声に、鶴丸以外の誰も、声を上げられずにいた。
「はは、一本取られたぜ。まさか、この本丸に、加州のやつが叩き上げた奴の中に…! 主を最優先しない刀が紛れ込んでるなんて」
鶴丸国永は、血反吐を吐くような声で、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「こんな驚きは…!!」
「その命令をさせたのは。お前だろう」
愕然として、鶴丸国永は
茫然自失に呟いた。
「ああ、そうか。オレが招いたのか」
金の瞳孔を針のように細くして、鶴丸は片手で顔を覆った。
「そうだ、オレが言ったんじゃないか……きっと伽羅坊ならきみの願いに応えてくれると」
絶望するような声で鶴丸国永は、限界まで目を見開いた。
「あの子が必ずオレを信じると知ってて……!!」
呪うような、────祟るような。
ぶわり
と
鶴丸国永の気配が広がって
ざわりと、そこにいる全員が総毛立った。
「!!!」
突如として吹き荒れたあまりの神気の暴風。
濁流に飲まれた大倶利伽羅は、咄嗟に両腕で目を庇い、耐え切れずにがくりと膝を折った。
ゆらぁ、と鶴丸国永が、両手をだらりと投げ出したまま、何もない空を仰いだ。
「────返せ」
その声は、怨嗟だった。
「返せ、返せ、かえせ、カエセ、カエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセ」
「アレは神の子、オレの、おれの」
ぶわりと膨らんだ気に
ぐらっと呑まれそうになった鶴丸国永を
燭台切光忠と加州清光が瞬間、飛んできて、鶴丸を取り押さえて羽交締めにした。
「馬鹿野郎ッ!!」
「鶴さんッ!!! やめて!!!」
「今はそんなことしてる場合じゃねえだろッ!!!」
加州清光が、空に絶叫した。
「今てめえが暴走したら!! 主を助けられないだろうが!!!」
加州のその言葉に、鶴丸は、ゆらぁと顔を上げた。
二人の手で地に無理やり押し付けられたまま、火で炙られたみたいにゆっくりと背を反ると、燭台切の腕を振り払う。
「鶴さんッ!」
腹から素早く抜いた刀で、自分の手のひらをグサッと突き刺した。
貫通した刀が血を吸う。フーッ、フーッ、と獣のように息を荒げながら、必死に自分を押さえ込む。
廃墟と思われる無人の家屋に、審神者は打ち捨てられるように突き飛ばされた。
「っ」
埃っぽい床、むせ返るような酒瓶の臭いと、捨てられた注射器。男の裾から覗く青黒く変色した針の跡に、審神者は男が薬物使用下であることを見抜いた。
それは、理性的な対話が不可能で、交渉ができないこと、何のメリットも無くても突然殺される可能性の高さを意味している。
男は、倒れ伏したこちらに銃を突き付けながら、脈絡も無くケタケタ笑った。
「鍛刀しろ」
「……どうして」
ガッと靴が顔を踏み潰す。
「鍛刀しろ!!! 殺されたいのか!!」
恫喝した男に、審神者は、震え上がりそうな恐怖を必死に宥めながら、冷静な声を出した。
「言うことは、聞く。命は、惜しい。鍛刀は、する。勘違い、しないで」
極力、ゆっくりとなるように、相手を刺激しないように慎重に、審神者は時を稼いだ。
少しでも、一秒でも、多く。時間を稼げば、きっと助けが来ると信じて。
「命は、惜しいから、鍛刀は、する、けど、呼ばれた刀が、どんな審神者の、誰のところで、どんな任務に行かされるのか、知らなくちゃ、後味が悪いでしょう。気になって、鍛刀に、集中できなくて、失敗したら、嫌じゃない」
「審神者? 任務?」
男はそれを聞いて、ははははと嘲笑した。
「材料だよ」
耳を疑った。
「ざい、りょう……?」
「検非違使を作る材料にするんだとよ。だから高く買ってやるってな」
ひゅ、と審神者は息を呑んだ。
「それ、って」
カタ、と手が震える。
「政府に、所属して、歴史修正主義者に資源を流して、検非違使の手のものに刀剣男士を流してた、ってこと…!?」
「上手いこと三竦みにコウモリしてたってのに、余計な真似しやがって」
突如として顔を蹴り飛ばされた。
「三日月宗近を呼べッ!!!」
「…………わたしは、知ってる刀しか呼べない」
「だったら、貴様の持ってる一番レアな刀を呼べ!!!」
ガッと顔を殴りとばされる。頬が腫れ上がり、口角は切れ、鉄臭い味が口に広がる。
「そうだ、鶴丸国永だ。あれも三日月宗近ほどじゃないが高く売れる。呼べ、呼ぶんだ、鶴丸国永をッ!!!」
容赦なく腹を蹴られ、ごぽ、と胃液を吐き出す。埃っぽい床を這うと、玉鋼に手を伸ばした。
「つる、まる……くに、なが、を」
呼ぶ。ここで?
呼べば、酷い目に遭わされると知っていて
ここに、あの優しい刀を?
「早くしろッ!!」
「……ぁ……」
ぐらりと揺らぐ。命の天秤が。
鶴丸国永を呼んで犠牲にする。それは。
命乞いと引き換えに、許されるようなことだろうか。
「っ」
でも、ここで死んだら。
もう二度とみんなに会えない。
────きみは、誰の都合も無視して
耳元で、鶴が優しく笑った。
────ただ全力で生き抜き、未来に語り続けてくれ
「……つるまる、くになが……」
地を這いながら、彼女は固く目を閉じて、天を仰いだ。
「………鶴丸、国永……!!」
「やはりゲートには座標が残っていません」
「あるじさま…! いったいどこに…!」
「ちくしょう、霊力の流れか、祈りの痕跡を辿れないか!?」
「ゲートで時空が断裂してる。せめて時代だけでもわからないと繋ぎようが…!」
「────呼んでいる」
鶴丸国永は、眩暈がするほどの怨嗟の中から、顔を上げた。
暗がりに遠くで光が差し込む気配がする。
「あの子が俺を、……いや、違う、これは」
濁った金眼に、光が差す。
「あの子がどこかで、『鶴丸国永』を鍛刀しようとしてるのか…!?」
「縁の大河に還るだぁ!?」
「主にもう一度鍛刀してもらおうってのか!?」
「馬鹿言うな、無茶だ!!」
「刀解は、主の手でしか出来ない」
鶴丸国永はゆらりと立ち上がって、必死に理性を掻き集めるみたいな声を出した。
「だが、お守りが発動するその瞬間、肉体を再構成すべき瞬間に、異去行き時空間転送ゲートに身を投げれば」
────危なかったんだぜ? 異去への出陣は、無理に割り込んでタイミングを間違うと、バラバラに分解されて鍛刀前の縁の流れに還されちまうことも……
「縁が途切れかかってる。今しかない。鶴丸国永にしかできない。あの子なら、あの子の鍛刀ならきっと呼べる」
こんのすけが悲鳴を上げた。
「上手く縁の大河に還れるかは分かりませんよ! それどころか、どこでもない時代、放棄された世界に飛ばされて、二度と戻れなくなるやも!」
「鍛えた練度をドブに捨てるのか」
「そんなもの犬にでも食わせとけ」
鶴丸国永は、ボタボタと血の滴る脚を、ゆらりと前に出した。
「あの子に代わるものなんてない…!」
「……止めても、行くんだな」
「ああ」
「なら、俺が介錯してやる」
「加州くん!?」
燭台切光忠が悲鳴に近い声を上げた。
加州清光が、血に濡れた白刃を立てた。
「他の連中に責は負わせない。不甲斐なくも襲撃を許した、始まりの一振り、この加州清光が一切の責任を負う」
うなじに突き付けた加州清光の刃が、血濡れに月光を吸う。
「だから、後のことは任せろ」
「……きみの一太刀なら、楽にいけそうだな」
少しだけ鶴丸国永は笑って、銀のまつ毛を伏せた。
「加州清光、本丸を頼む」
「ああ。────主を頼む、鶴丸国永」
鶴丸国永が、迷わず喉を裂いた。
加州清光の介錯が、音速より早く首を落とし、お守りの激しい閃光が視界を奪った。
「早くしろッ!!」
ゴリ、と口の中に突き付けられた拳銃が、無言で語る。鍛刀を成功させねば途端に命を奪うと。
躊躇いがない、殺し慣れている気配がする。言うことを聞いても聞かなくても、助からないかもしれない。
それでも。
ガタガタと震える体を叱咤して、強く願った。
(鶴丸国永、鶴丸国永……!)
祈った。強く、強く。
大声で、天高く、どこまでも届くように。
(お願い、どうか、どうか、私を)
脳裏に、大事なみんなの顔が浮かぶ。
わたしを大切にしてくれた刀たち。
出会えて良かったって、生きてて良かったって思わせてくれた大事な仲間。
閉じた瞼の奥に、金色がチラつく。
金色の光が、────美しい金眼が、笑む。
(私の鶴丸国永と加州清光の、みんなのもとに帰して…!)
縁の大河を手繰って
まばゆい金色に輝く縁に手を伸ばす
体にぶわりと熱いものが迸る
黄金の濁流に呑まれるみたいに、必死に手を伸ばして、金色の光の中────白鶴に、指が触れた。
顕現の桜吹雪が舞う。
視界が効かないほどの桜が舞い散り
白き衣に翼が舞う
聞こえるはずの明るく軽快な掛け声は聞こえず
鞘走りが一閃、人を斬る音がした。
「────その願い、叶えよう」
厳粛な神の声が響いた。
隣で噴水のように噴き出す生温かい血に塗れながら、血濡れの水たまりの中から、必死に顔を上げる。視界が滲む。
降り立った白い鶴が、男の首を飛ばして、ごろん、と床に重いものが落下する音だけがした。
後は静寂の中、廃屋の埃と血飛沫だけが残された。
「言っただろう。必ず、きみを護ると」
美しいかみさまが、両腕を広げた。
「呼んでくれ。きみの鶴を」
涙腺が決壊する
「鶴るん──ッ!」
抱きしめる腕の中で、声を上げて泣いた。
鶴丸国永は、いつまでも、いつまでも、固く腕の中に閉じ込めたまま、愛し子を抱きしめ続けた。
役人殺しで投獄された鶴丸国永が釈放されたのは、それから月が幾つか巡ってからだった。
「いやー、酷い目に遭った遭った」
そう言いながら帰ってきた鶴丸国永は、笑って本丸へのゲートを潜った。
「茎の目釘穴に至るまで裸に剥かれて封じ札ベタベタ貼られてえらい目に遭ったぜ。いくら政府の人間ったって間諜一人斬ったぐらいでとんだ洗礼だ。尻拭いしてやったんだから感謝してくれてもいいぐらいだと思わないか?」
そうごちた鶴丸国永に向かって、必死な足音が遠くから駆けてくる。鶴丸は文句をやめ、とろけるように愛おしそうな表情で振り返った。
「鶴るんッ!」
わっと涙をたたえた主を受け止めて、鶴丸国永は主を抱きしめた。
「ただいま。きみの鶴が帰ったぜ」
「ごめ、ごめんね、鶴るん、わたしのせいで」
「何度も言っただろ? きみが気にするようなことじゃないさ。本丸の外で鍛刀を強要するのは大犯罪だし、歴史修正主義者と繋がってた証拠もゴロゴロ出てきた。そんなことより、よーやくきみの顔が見れたんだ。泣くより笑ってくれないかい?」
ぐす、と鼻をすすった主が、懸命に拙く笑むのを見て、鶴丸は抱きしめながら愛おしそうに頭を撫でた。
走った主に少し遅れて並んだ足音に、鶴丸は穏やかに顔を上げた。安堵の滲んだ初期刀の顔に、鶴丸国永は明るく笑ってみせる。
「よっ、世話かけたな、加州」
「ずいぶんすっきりした顔してんじゃん」
「ま、一人斬ったからな」
贄斬りができてだいぶ鎮まったらしい。
怒らせた神は贄をやらないと鎮まらない、それがこの国の古くからの決め事だ。生贄など用意しようがないこの本丸にとっては不幸中の幸いと言えた。
「やれやれ、やぁっといつも通りだ。ま、余計なおまけまで付いてきちまったけどなあ」
「ずいぶんだね。言ってくれるじゃないか。この山姥切長義をオマケ呼ばわりとは」
ザッと砂利を踏んで、美しい黒革の靴が前に出る。鶴丸国永に抱きしめられたまま、主は顔を上げた。
銀の髪に青い瞳、白銀の外套に身を包んだその男は、手を胸に当て、優雅に一礼した。
「初めまして、この本丸の主。政府所属、××国サーバー、対策管理科本部、山姥切長義だ。今日からきみたちの本丸の監査を担当する」
「監査?」
「ああ。詳しくは後ほど話そう。レディ、こちらへ」
山姥切長義が緩やかに主を奥へ促すので、鶴丸国永は名残惜しそうに主を手放し、長義に向かって恨みがましい目を向けた。
長義は素知らぬ顔をして、美しく優雅に主を結界内に導いた。
「で? わざわざ結界まで張って聞き耳立てられないようにして、監査官殿はどんな言い訳を聞かせてくれるわけ?」
加州清光を先頭に、広間にずらりと並んだ刀剣男士たちが、素知らぬ顔で茶を飲む長義にガンを飛ばした。
「山姥切国広から書類受け取って助けてくれたのは感謝してるけど、そもそもあんたたちの不手際だよね。俺たち結構怒ってるんだけど」
「そうだな。きみたちにはいくつも謝らなければならないことがある。本来ならば責任ある立場の者が謝罪に来るべきところだが、そこに役人殺しの刀がいるものでね、連れて来れなかった。すまないが理解してくれると助かるよ」
言葉と所作こそ丁寧だが、態度にはどことなく高慢さが滲む。
山姥切長義という刀はそもそもこういう刀だ。
「まずは誤解を解かねばならない。確かに今回きみたちは、政府に紛れ込んだ間諜からおびただしい被害を受けた。だが、あくまで末端の話だと理解して欲しい。俺の所属する××国サーバーの長は、古くから地位ある者にしてはなかなか良識ある情の深い男でね。きみたちの受けた被害を非常に申し訳なく思っていた。ここにも直接足を運ぶ気があったが、俺が止めた。遅れを取るつもりはないが、一人できみたちを相手取るのは骨が折れそうなんでね」
「要は、俺たちに斬りかかられかねない話があるってことだな? ぐちぐちとまだるっこしい。はっきり言えよ」
「では、お言葉に甘えて本題から行こう。そこの鶴丸国永だが、初鍛刀の短刀を折って、その資材で鍛刀したことになってる」
「…………は?」
加州清光の絶対零度の声が、広間に落ちた。
他の刀たちも一斉に纏う空気が剣呑なものに変わる。
「は? は? ふざけんなよ、どういうことだ」
「どうもこうもないよ。きみたちの本丸は、鍛刀しては気に入らないと刀解または刀剣破壊を繰り返す、権利失効寸前の最低評価本丸ということになっている」
「は!?!?!?」
書類をひったくった加州清光は、鍛刀の報告数が明らかに水増しされた文面を確認し、ブチ切れた。
「なんだこのデタラメ!!!! うちは折れたやつ一振りもいねえよ!!!!」
「加州しゃんちょっと貸すばい!!! …………報告数と供給資材がまったく合っとらん!! 横領されとるばい!!!!!」
「ふざ、ふざ、ふざけんな!!!!!」
「きみたちの主張はこうだ。主は狙った希少刀剣を毎回一度の鍛刀で必ず引き当てているから、余剰の消費資材は一度も出たことがない」
「そうだよ!!!」
「誰が信じると思うんだそんな報告!」
加州の叫びにすぐさま叫び返した長義は、頭が痛そうに額に手を当てて、いきり立つ加州たちに手のひらで待ったをかけると
「わかっている。きみたちの主張が真実なのだろう」と苦く嘆息した。
「繰り返す刀剣破壊と報告資材数の不一致をもって、きみたちの報告は虚偽と判定され、ずいぶん前から全て違権対策課で対応している。きみたちの主を攫ったのは対策課の者だった。横領の証拠も掴んでいる」
あまりの怒りにぶるぶる震えた加州清光は、地獄のように低い声を出す。
「付喪神たばかるたあ、良い度胸じゃねえか。殴る、ぜってー殴る。ボコボコにしてやる。今すぐそいつの首持ってこいよ!!!」
「ははは、落ち着け加州。そいつ、オレがもう斬っちまった」
「そうだった!!!!」
憤懣やる方ないとばかりに地団駄を踏んだ加州清光は、唾を吐き捨てかねない様子で激怒に打ち震えた。
怒りで顔を赤くした博多ががばりと指を突き付けた。
「横領された資材の再支給を要求するばい!」
「できない」
「はあ!?」
「そんなことより、あるじさまの判定を取り消してください。そのような虚偽、許せません! うちは最優良判定本丸のはずですよ!?」
「わかっている、最低評価は取り消す! だが、せいぜい可までだ」
「ふざけるなよ!?」
「最後まで聞け!! きみたちの証言が全て真実だとして、それはそれで問題があるんだ! それが事実なら、きみたちの主は審神者権限を剥奪されなければならない」
「──────は?」
そこにいる刀たちの纏う空気が、音を立てて一斉に凍り付いた。
激怒を通り越して、明らかな殺気が一気に膨れ上がった刀達に対して、長義は「いいから聞くんだ。きみたちの報告が全て真実だとすれば、きみたちの主は政府が定めた審神者欠格事項に引っ掛かる」と努めて冷静に伝えた。
「審神者権限欠格事項147項の2、異能者特例項目5-9、歴史の改竄が可能と思われる異能については疑いの時点で須く厳重に対処し、発覚した時点で全権を停止し身柄を別項で対処すること。────不確定要素に介入する理想的な改竄、鍛刀の権能に対する過剰な介入にその疑いが持たれている」
ざわ、と刀たちの間に動揺が広がる。
そこにいる全員に、あまりにも心当たりのある話だったからだ。
「調査が入れば、きみたちの主は異能科で調べ上げられ、早晩結論が出るだろう。審神者権限の無期限停止あるいは剥奪、処分、身柄は、────最低でも、生涯、空を見ることすら自由にはならないだろうね」
鯉口を切る音がした。
張り詰めた殺気の中、一瞬で鞘走り、初期刀が一閃を振り下ろす。
山姥切長義は、見もせずに、抜刀せずに鞘で加州清光の一撃を受け止めた。ぎりぎりと力が拮抗する。怒りに震えた加州の低い怒号が、ビリビリと大気を震わせた。
「……ふざけるなよ……そんなこと、認められるはずねえだろうが!!!!!!!!」
「ある意味、不幸中の幸いだったと言えるね。きみたちの申請は全て虚偽だったことにされている。今なら、虚偽申請の一部を修正および更生プログラムへの同意と引き換えに、────隠し通せる。きみたちの主の異能を」
「これはもう、とてもじゃないが公に報告をあげられるレベルじゃない。こんな異能に本丸を持たせ、越権で抱え込んで放置し歴史修正主義者に攫われそうになったなんて表沙汰にしたら、この本丸が所属するサーバー全てが丸ごと停止され、他の優良本丸を巻き込んで解体処置を受ける可能性まである。戦時中に行うべきではない処置だということは分かるね? それはこちらとしても都合が悪いんでね」
露悪的に肩をすくめる長義は、すっと顔を上げた。
おびただしい殺気の坩堝の中、凛とした蒼い目が、まっすぐ前を射抜く。
「だから、オレが来たんだ。政府所属のオレがきみたちの主と本丸を監視する────という名目の、恒常的な隠蔽処置を行うようにと特命指令が降りてる」
「きみたちの主は、そもそもこの本丸の主になるべき人間ではなかったんだ。……などと言っても、今さら納得しないだろう?」
「当たり前だろうがッ!!!!」
「つまり、きみたちとオレたちの利害は一致している。────末永く手を組もうじゃないか。この取引には、そこの鶴丸国永の監視付き執行猶予、という名の、まあ実態は無罪放免の司法取引が含まれている」
頭が沸騰するような激昂、血が逆流するような激怒、炎のような激しい怒りが渦巻く中、長義は氷のように平然とこう告げた。
「きみたちの主は連座で処罰を受けることもなく、この本丸で今まで通り生涯自由が約束される。迷う理由は無いはずだがね」
「────ま、こういうことだ」
ぽん、と両手を叩く音が、張り詰めた空気を弛緩させる。成り行きを見守っていた鶴丸国永からだった。
「ま、みんな、ちょっと冷静になろうぜ。この本丸存亡の危機、なにより主の一大事だ。落ち着いて、慎重に、最良の決断を下さないとな」
殺気の坩堝の中で妙に平然としている鶴丸国永は、どうやら事前にこれらの内容を聞いていたらしい。
一部の刀は、話の衝撃に次いで、今の話を聞けば最も激怒するであろう一振りの存在に遅れて気付いて青くなったが、鶴丸は淡々と話し続けた。
「ちなみに、オレの腹はもう決まってる。────あの子は生涯、オレたちが役人の目から隠す。そのためには、ちょいといけすかない監査官殿を受け入れるのも仕方ないだろうな」
「言ってくれるじゃないか。余計なお世話だよ」
「鶴丸さん、」
「オレの処分なんざどうでもいい。だが、ここで一振りでも欠ければ、あの子を隠せなくなる」
「この本丸は、ただの一度も刀剣破壊を起こしたことがない。これは事実で、揺るがぬ証拠でもある。霊力の痕跡を調べればすぐ分かることだ。潔癖はいつでも証明できる」
ただし、今後も刀剣破壊を一度たりと起こさなければ、だがな。と言い置いた鶴丸は続けた。
「主は名誉にこだわるタイプじゃないし、武勲も欲しがってない。みんな知っての通り、彼女の望みはオレたちの幸福と平穏だけだ。苦渋ではあるが、少しの不名誉は受け入れて、最大に利ある取引をすべきだとオレは思う」
そうして、鶴丸は皆の前で大仰に、自分の胸に手を当ててみせた。
「なんと驚いたことにオレは今、政府の大失態と隠蔽の生き証人であり、同時にこの本丸の政治的な最大の切り札ということになる。────オレがこの本丸にいる限り、隠蔽に加担した役人連中は、主に強硬な手段が取れないだろう。オレは何としても、最期まで折れずにあの子の盾になるつもりだ」
鶴丸の澄んだ金瞳からは、どれほど周囲が働きかけても消えなかった影が消えている。
折れても良いなどと、もう思っていない証だった。
「だから、オレはこの司法取引を受け入れようと考えている。あの子が天寿をまっとうするその日まで」
「なぁに、やることは今までと同じさ」
「本霊に還らない選択をした時点で決めたはずだ。刀剣男士として主を助け、最期の一振りになっても、主を護り切る。余計な敵が一つ増えちまったが、すべきことは変わらない」
鶴丸は、皆の選択を問うように、片掌を広げて前に出した。
「まっ、降りるなら、今だぜ。特に新人連中には酷なことに巻き込んじまった。聞いてるだろうが、この本丸は主に仕えるか否か、自分たちで見極め選択していい、そう主が定めた。付いていけないなら降りていいぜ」
(よくもまあ抜け抜けと)
内心、長義は苦々しく舌打ちした。
言葉巧みに信頼厚げな言動をしている、鶴の形をした詐欺師に対してだ。
よくもまあぺらぺらと口が回るものだった。唾を吐きたい気分だ。
(冗談じゃない)
────ふざけるなよ。四年も待ってやったんだ。その上、今さら?
鶴丸国永は、人間がまともに食らったら失神するほどの、苛烈な殺気を放った。
独房で、鎖に両手を縛り上げられ、手枷に足枷、刀の本体にも全身にも封じ札を山ほど貼られている。どろりと汚泥が粘つくような重い怒りが、鉄格子の向こうに立つ山姥切長義に向けられる。
無数の札の何枚かが、神の怒りに耐え切れず、ひとりでに燃えて朽ちる。
「カミサマ怒らすと後が怖いぜ? 機嫌を損ねて村一つ消えるなんて、昔は別に珍しくもなかった。さて、今回はどうかな?」
「脅しのつもりなら効かないよ。そんなことをして、責を負うのはきみの主だ」
刀剣男士を封じるはずの鎖が、ガタガタとひとりでに震えている。ピシッと重い鉄に亀裂が走った。
鉄格子がビリビリと震えるほどの殺気にも、山姥切長義は余裕の体を崩さなかった。
「政府の意向はこうだ。祟り神を出しかけたことに関しては不問に処そう」
長義は淡々とそう口にした。あくまで代理者として。
「生涯自由にはなれないだろうが、そう悲観しなくともいい。彼女ほどの才覚の持ち主なら、末端の個体と言わず、本霊に近い位置で仕えられる可能性もある。栄誉なことだろう」
「彼女が希望するなら、そうだな、あくまで口添えが限界だが、提言してもいい。できれば────『鶴丸国永』と接せるようにと、」
「なら、鶴丸国永を祟ってやる」
ぴたり、と口をつぐんだ山姥切長義が、それまでの余裕の仮面を剥がし、愕然とした眼を向けた。
政府の代理者として立たされた長義は、鶴丸国永の発言に青くなった。
「正気かい? 自分の本霊を祟る気か…!? そんなことしたら…!」
「傷が付くだろうな、消えない瑕疵が」
鶴丸国永は、ゾッとするほど美しく笑った。
「そうなったら困るだろう?」
──っ!!
「…………要求は何だ」
「あの子にこのままオレたちの本丸で天寿を全うさせろ。誰にも邪魔させるな。そして、天寿を全うしたら、────あの子の墓にオレを入れろ」
白い幽鬼が、口角を吊り上げた。
「そしたら、本霊に還らず、誰も祟らずそのまま朽ちてやるさ。────強欲な誰かが墓でも暴きに来なけりゃ、な?」
(魅入られた神が悪かったな。彼女も気の毒に)
長義は心密かに嘆息した。
この本丸は、彼女が天寿を全うするその日まで、細心の注意を払って維持される。
政府が裏であの鶴丸国永と約定を交わした以上、彼女に選択肢など無い。鶴丸の脅迫と同義の要望は通るだろう。彼女は受け入れるしか道が無い。
だから、それが幸か不幸かは、彼女自身が決めねばならない。
彼女はそれを、不幸だと嘆くだろうか。
それとも、幸福だと笑うだろうか。
数多くの思惑に翻弄されることとなる彼女に、できるのは手助けまでだ。せめて後者であるように。
《エピローグ》
「ずいぶん制御が上手くなったね」
山姥切長義は、そう彼女を評定した。
彼女はパァッとかんばせを喜色に染めて
「優、取れる?」と嬉しげに声を弾ませたが、長義は「まだまだ。残念だが、可もあげられないね」と肩をすくめた。
────あのタイプの異能は、正しい訓練を受けていない場合、制御できるまで自覚させない方がいいんだ。今後はオレが、彼女の異能制御訓練も担当することになる
そう告げた長義は、その後も政府から派遣されて定期的に本丸に通っているが、彼女の呑み込みは悪くない。
霊力は多いほど制御が難しい。よく暴走事故を起こさず生きてこれたものだ。
彼女の甚大な霊力は可能な限り物心ついた頃から訓練すべき類いのものだ。これほどの者となると、神職の中で見かけることも稀だった。
「今日はここまでだ、レディ。あまり急ぎすぎても良くない」
訓練の終わりを告げられた審神者は、「はーい、長義先生!」と行儀よく手を挙げて微笑ましく笑った。
「あのね、授業と関係ないこと聞いてもいーい?」
「なんだい、レディ?」
「そう、それ。わたしのこと、ずっとレディって呼ぶよね」
「お気に召さなかったかな? きみは俺の主ではないから、ご容赦願いたいね」
「うんん、そのままでいいの。ちょっとくすぐったいけど」
くすくすと彼女は笑って、桃色の頬で照れくさげにはにかんだ。
「ただ、長義せんせーには大事な人がいるんだなと思って、少し嬉しくなっただけ」
本当に全く邪気の無い言葉に、長義は少しだけ虚を突かれて、パチパチと二度瞬いた。
「まあ、この俺が力を尽くすに当たって、それに足る男ではあるな」
少し考えてからそう答えた長義に対し、彼女は穏やかに微笑んで、無邪気な子供のように小首を傾げた。
「長義せんせーはその人のために、私に力を貸してくれるんだよね」
「そうなるね」
「じゃあ、たくさんお礼を言わなきゃね。長義せんせー、機会があったら伝えて欲しいな」
「心得たよ」
驚くほど穏やかな本丸だった。
こんな静穏な本丸が最低評価として長く扱われていたというのは、政府側の刀としては頭が痛い。
時間遡行軍の引き入れ、歴史修正主義者との内通、横領、改竄。加えて、刀剣男士の違法売買は、刀剣破壊が繰り返されている審神者が書類上折ったことにして密かに行われていた。いずれも重罪であり、行方不明の審神者は既に殺されていることだろう。
最低評価本丸の所業を隠れ蓑にした、赦されざる行いだった。
彼女が助かったのは、あまりに幸運だったと言えた。彼女ほど類い稀な才を持たねば助からなかったことは自明だった。
(末端の分霊が彼女を独占しているというのは、大局的に見れば損失だが)
まあ、彼女が裏切り者の手に落ちる前に把握できなかったこちらの落ち度だ。致し方ないね。
そう内心で呟いて、長義は肩をすくめた。
「まったく、つくづく惜しいね。貴女ほどの力なら、この本丸に限らず、もっと────」
「よっ、終わったかい?」
不自然なほどタイミングよく、長義の言葉が遮られる。
素早く乱入した鶴丸国永が彼女の肩を持って、ベリッと引き剥がすみたいに、強引に長義との間に割り込んだ。
「そろそろ時間だぜ。監査官殿には茶漬けでも出そうか」
「まったく、狭量もそこまで来ると天晴れだよ」
鼻を鳴らした長義は、慇懃に胸に手を当てると、優雅に一礼した。
「それでは、レディ。此度はこれで」
「うん、ありがとう長義先生、またね」
笑顔で手を振る主の背後で、鶴丸国永が「さっさと行け」とばかりの目をしている。
鶴丸国永という刀は多くの場合、長義に対しても友好的で穏やかなことが多いが、この本丸では長義が政府の代理者である限りはあの態度だろう。あれでも表面上はずいぶん穏当と言えた。
長義が廊下の角を曲がった途端、鋭い殺気が飛んでくる。視線を投げれば、審神者の死角に身を置く初期刀だった。
触れれば切れそうなほどに睨み付けられた長義は肩をすくめた。見張られているのは百も承知、四面楚歌は理解の上だ。こちらも任務なのだから。
「鶴るん、鶴るん! 聞いて聞いて、ちょっと上手になったって!」
「そうかそうか、すごいじゃないか。まっ、根を詰めすぎないようにな」
甘えるように笑った主に、鶴丸は一転して穏やかに、その小さなつむじをふわふわと撫でた。
「無理しなくていいんだぜ? ただでさえやることが山積みなんだ。その上、訓練にまで時間を割いて、オレとしちゃ心配でならんぜ」
「うんん、大丈夫。がんばりたいの。上手くできたら、鶴るんたちのためにできることが見つかるかもしれないから。だめかな」
「きみがしたいなら止めはしないさ」
彼女の手を取って、緩やかに立ち上がる。
長く正座していた主は「足痺れた〜」と子供みたいに笑っている。彼女の穏やかな笑顔を見ていると、やっと日常に戻ったのだと実感できた。
「あ、伽羅ちゃん!」
手をぶんぶんと大きく振って、廊下の向こうの大倶利伽羅に弾けるような笑顔を向ける。
大倶利伽羅はわずかに表情を変え、黙って廊下を曲がっていった。無愛想に見えるが、ありゃ反応に困った顔だ。
「きみは本当に伽羅坊が好きだなあ。ちと妬けるぜ」
「うん、大好き」
揶揄いを多分に含んだ鶴丸の言に、主は綻ぶような笑顔を見せた。細い指先が、あどけなく鶴丸の白裾を引く。
「鶴るんの言う通りだった。わたしの大事なもの、ちゃんと護ってくれたよ」
「ありゃ喜べばいいのか嘆けばいいのか」
ととと、と走っていった彼女を見送る。廊下を回り込んで、鶴丸の背後に立った大倶利伽羅に、そうごちる。
「あの子も一度決めると頑固だからなあ」
「なら、強くなればいい」
大倶利伽羅は迷いなくそう告げた。瞠目した鶴丸は振り返る。
それは、大倶利伽羅の宣誓だった。
「主の望みを阻むもの、全て斬る。それだけのことだろう」
「ホントまっすぐだなぁ伽羅坊は。嫌いじゃないぜ、そういうの」
それだけ告げ、黙って立ち去った大倶利伽羅の背を見送り、鶴丸はにこやかに手を振った。
やがて、誰もいなくなると、鶴丸は好々爺とした表情を引っ込めて、美しいほどに冷たい顔をした。
「────斬るさ。たとえそれが、何であっても。それがあの子の望みなら」
静かに銀のまつ毛を伏せると、いずれ必ず来る『いつか』を瞼の裏に描いた。
「あの子と共に眠るその日まで」
《大倶利伽羅と主の願い》end.
こぼれ話①
《神と生贄について》
※鶴丸国永が贄切りで鎮まった件について
鶴「神って割と、因果関係はどうでもいいんだよな。神を怒らせた人間と生贄が別でも、ま、あまり気にしない神が多いぜ。余程のお気に入り以外は、同じじゃがいもに見えてるものさ」
主「そういうものなの?」
鶴「そういうものだぜ」
主「じゃあ、わたしは?」
鶴「そうだな、きみも他の本丸の刀剣男士から見れば、見分けすらついていないことも多々あるだろうな」
主「みんなは?」
鶴「もちろん、オレたちは別さ。きみはオレたちの主で所有者なんだからな。かけがえのない唯一無二だ。人間だって多少そういう傾向はあるだろうが、神ってやつは往々にして、その傾向が著しく顕著なんだ」
主「じゃあ、長義せんせーから見ると、私も他の生徒さんも、本当は見分けついてないのかもね」
鶴「かもな。まあ、山姥切長義という刀に関してだけ言えば、その辺がそつなくこなせる能力があるからこそ政府に所属しているとも言える。神としての認識じゃなく、書類上のラベルで分類して正しく見分けてるんだろうな。人間ならともかく、神にとっては難しいことだぜ」
主「そっか、長谷部みたいな、すごーく『できる』刀なんだ。じゃあ、わたしは、生徒五十二号とかそんな感じ?」
鶴「多分な」
たとえ政府派遣の山姥切長義が諸々の経緯で気に食わなくとも
その内、この本丸の山姥切長義が来る可能性もあるわけで、だから悪し様に教えたりはしないのだ。
《山姥切長義について》
・政府から派遣されたこの長義は、大和守安定編で登場した長義と同一人物。
・彼は、この本丸の山姥切国広に対して、特に主の前では、本歌主張や偽物くん呼びもほとんどしない長義である。なぜなら、主に指導を拒否されると非常に不都合だし、同じ本丸に所属しているわけでもないからだ。
「他人の持ち物を悪し様に言ったりはしないさ。その主張は、この本丸の山姥切長義にこそ権利がある」
「めっちゃ話の分かるやつじゃん…」
「最初からそう言っている」
長義は、あからさまに出涸らしの茶でも素知らぬ顔で飲んだ。
「そもそも、本当に特例なんだぞ今回の処置は。普通はきみたちの意向など聞かれない」
契約に基づいて問答無用で政府の決定に従わせることだってできたのだと、暗に長義は示唆した。
「だが、著しく自分に不利になる条件を呑んででも、自らの利権より、刀剣男士の意向を優先すると決めた。きみたちの進退の責任を取ったのが、このサーバーの長だったことは本当に幸運なことだったんだよ。他の者では絶対にこうはいかなかった」
「騙されねーぞ。そもそもこのサーバーじゃなかったらあんな目に遭わなかっただろうが」
「そこはあの男というより、従う俺たちの不徳の致すところさ」
《山姥切国広と写しの自分について》
この本丸では『長義に渡りをつけるという目的で堂々と写しの山姥切国広を呼んだ』という特殊な経緯であるため、逆に写しに関する拗れが少し薄い山姥切国広になっている。
自分が写しであるということを巡る様々な内心の拗れは、出会った瞬間に主が「国広の最高傑作、堀川国広の自慢の兄弟」と心から笑ったことでずいぶん解かれてる。
この本丸の山姥切国広は、未熟な自分に代わって、この長義に本丸を救って貰った大恩がある、という認識。
なので、敵意を剥き出しに警戒する他の刀たちと違い、そういった警戒を向けることはない。
本科には心から感謝しているし、顕現したての自分だけではこの本丸を助けることはできなかっただろうから、本科はやはり凄いな、という認識でいる。むしろ、主の刀でありながら、自分一人では主を助けられなかった、という点に、この山姥切国広は引け目がある。
「その、あんたは、……本科をとても頼りにしているが」
「うん?」
「俺のような写しじゃなく、それこそ、この本丸の山姥切長義だったら、あんたをもっと助けられたかもしれない。……あんたにとっては、その方が良かったんじゃないか」
「……??? まんばちゃん、助けてくれたよね? それに、まんばちゃんが来てくれて、長義せんせーに掛け合ってくれてなかったら、内通者の一報を内部に直に届けられなくて、泥沼の消耗戦になるまで本丸の座標閉鎖が間に合わなかったかもしれないって、かしゅーが言ってたよ」
「それも、迅速に動いてくれたのは本科だ」
「??? わたしが長義せんせーを頼るのは、大事なみんなが『山姥切長義という刀ならきっと助けてくれる』って言ったからだよ? まんばちゃんだって、この刀なら助けてくれると思ったから、届けてくれたんだよね?」
「それは、……そうだが」
「わたしが信じたのはみんなと貴方だよ。長義せんせーにはわたしじゃない大事な人がいるし、わたしの大事な刀はまんばちゃんだよね? 長義せんせーの方がいいっていうのとは全然違うと思う」
主はきっぱりと迷いなくそう告げた。
「山姥切国広という刀なら信じられるって、大事なみんなが言ったから、山姥切国広どうか来てくださいってお祈りしたの。それに応えてくれたのは、他の誰でもなくまんばちゃんだよね」
「あの日、わたしの祈りに応えてくれたのは貴方だけなのに、他の刀の方がいいなんてことないよ。それとも、まんばちゃんは、あの日の祈りに応えない方が良かった?」
「! いや、そんなことはない、本当だ」
「なあんだ、よかった!」
山姥切国広の主は、心から安心したように笑った。
「わたしのまんばちゃんじゃなきゃ哀しいよ。だから、他の刀の方がいいなんて、辛いこと思わなくていいよ。ずっとまんばちゃんがわたしのまんばちゃんでいてね」
この本丸の山姥切国広は、主のこの言葉を御守りに修行に出た。
「あそこまで堂々と『山姥切長義の写しよ来てくれ』と呼び求められたら、反発する気も失せるさ」
「あいつは写しのオレをこそ求め、国広の最高傑作と呼び、堀川国広の自慢の兄弟に会いたかったと笑った。オレは確かに写しだが、あいつは、そういうオレの全部を最初から求めてくれた」
「オレが本科の写しだから出会えたんだ。だから、オレの一部を否定するのはもうやめた」
「今はただ、あいつの刀だ。あいつが誇る山姥切国広だ。オレの全部にもう一つ、それが増えただけなんだ」
《大倶利伽羅の旅路〜命という物語を果たすため〜》
「よっ、旦那。調子はどうだい?」
「……薬研藤四郎、か。何か用か」
「いんや、特に用ってわけじゃないんだが、あんたが顕現してからそれなりに経つだろ?」
薬研は人の良い笑みを浮かべて、爽やかに大倶利伽羅へ笑いかけた。
「慣れてくる時期ってのは、逆に色々問題が出てくる頃合いだろ? だから何か困ってやしないかと思ってな。一応、オレっち、医務室を預かってるんでな」
「問題ない。用がそれだけなら行く」
「おっと、つれないこと言うなよ。団子でもどうだい?」
「馴れ合うつもりはない」
「ま、そうだよな。旦那はそういうタイプだ。だからこそ、だがな?」
薬研はニッと笑うと、次の瞬間、瞬きの間に消えた。
極短刀らしく最小限の動きで、立ち去ろうとする大倶利伽羅の懐まで素早く潜り込む。
一瞬で距離を詰めた薬研が、息が触れ合いそうな距離で悠然と微笑む。
「実はな、大将に勧めたのはオレっちなんだ。大倶利伽羅の旦那みたいな刀を呼ぶべきだって」
「…!」
「だからどうにも気掛かりでな、あんたが本丸で不自由してないか」
「……どういう意味だ」
「気になるよな?」
薬研はタンッと軽やかに距離を取ると、肩越しにニカッと男前に笑った。
「ってことで、今なら団子に美味い茶も付けるぜ?」
「…………話を聞くだけだ」
「そうこなくっちゃな」
あくびが出るほど穏やかな昼下がりだったと、大倶利伽羅に茶と団子を振る舞いながら、薬研は述懐した。
「大将ってよ、もちろん心優しくて無邪気な御仁なのは疑いようがないが、差配はびっくりするほど合理的なんだよなあ」
ま、そのギャップがたまらないんだがな。
などと男前な口調で軽口を叩いたのが薬研だった。
「何でも、審神者学校も政府の研修も通ってないんだって? 行ってたらさぞ優秀だっただろうな。独学でここまで兵法を身に付けられるってのは、並大抵なことじゃないだろ?」
粟田口の兄弟は皆仲が良い。故に、この日もまた、皆で仕事を分け合いながら、兄弟同士で何気なく話題に上がった。
「薬研兄ぃは兵法に自信があるんだったよね。薬研兄ぃから見てもそう?」
「ああ。実にキレのある差配だと思うぜ。切り捨てるべきところは大胆に切り捨て、可能な限り一点特化で最大効果を狙う。一方でまんべんなくリスクを最小限に抑え、最短の決着を狙う。全く異なる狙いを、状況に応じて使い分けられる。これで学び始めて間もないとはとても思えんな」
薬研はさらりと主人を称えたが、同時に内心では思っていた。
これは、影の立役者がいるのではないか、と。
とはいえ、下手にそれを口にすることなく、薬研は続けた。
主が妙に優秀すぎるのではないか、影者がいるのではないか、などという発言は迂闊にするべきではない。少なくとも、上手く回っている今この時は。
「何が良いって、やっぱりこの体制だよな。番長を中心に、実に満遍なく、過不足なく、主不在でも上手く目が行き届くように作られてる。大将を頂点にピラミッド型に番長が全体に目を光らせるシステムになってるから、死角が少ない。……けど、ちょっとばかり機械的すぎる気もするな」
「え、どういうこと?」
「均一すぎて、逆に偏ってるってことさ。『遊び』ってやつが少ない。つまり、誰一人欠けちゃだめだってことさ。大将の気性を反映してる。それが良い方向に働くこともあるが、そうじゃないこともあるんじゃないかって意味さ」
などという発言は、あくまで薬研の中では与太話だったのだが。
その発言から数日も経たずに薬研は呼び出され、人払いをされて主と二人きりになった。
ニコニコと無邪気な笑顔を見せる彼女が「聞いたよ、薬研。この本丸が均一すぎるように見えるって」などとごくごく穏やかに口にするので、いささか薬研はひやりとした。
「おいおい誰だい、そんな軽口まで主に逐一報告したのは? いや、皆まで言わなくていい。オレっちの兄弟たちがどう報告したか知らないが、ちょっとした与太話だったんだ。気を悪くしないでくれよ、大将」
「? 気を悪くするような要素は無いよ? むしろ、そんな薬研だからこそ、力を貸して欲しくて呼んだの」
「力を借りる? オレっちに?」
「そう。薬研、私と将棋をしよう」
主はひどく穏やかな口ぶりで、けれども薬研を鋭く視線で射抜いた。
「私はもっともっともっと、強くならなくちゃいけないから」
「なーんて呼び出されたもんだから、さすがのオレっちもヒヤッとしたぜ」
「ふふ」
「大将が裏心のない御仁なのは知ってるつもりだったが、ああして最高責任者に急に広間に呼ばれて、近侍まで人払いされて『この本丸に穴があるって?』なぁんてにっこり笑われると、さすがにな」
「ふふ、ごめんね、よく言われる。素直すぎて逆に笑顔に裏がありそうって。どう? 薬研、裏は見えた?」
「どうかな。少なくとも、意外性は抜群だぜ、大将」
パチ、と交わした将棋盤面は拮抗している。
「大将がここまで勉強熱心だったなんてな。遊んでばかりいるように見せてたのは、とぼけていたのかい」
「どうかな。薬研の意見が聞きたい。どう? 今の本丸は」
「新人ほど手厚く見守る体制だ。まず呼ばれる前の段階で、主が縁者から為人をじっくり聞いてから最適なタイミングで呼んでる。この時点で何もかも違う。呼んだ瞬間から縁者が必ずいて、教育番長の指導の下、多種多様な刀種の極たちから直接指導を受ける。強くなるために徹底的なリソース投入がされてる。遠征担当の燭台切が細やかに調整して悩みを聞き、他の刀と協調して、戦場では名代刀である鶴丸国永の差配の助けを受ける。現世の警護も、細かい調整は鶴丸の旦那がやってる。書類や資源や財務は長谷部や博多が万難排して臨んでるし、蔵番長の物吉貞宗の幸運の加護が手伝い札や刀装を通して確実に行き渡ってるのも見逃せないよな。実に隙なく丁寧に敷かれた布陣だ。ただし、『新人にとっては』な」
パチ、と切り込んだ薬研の一手は慎重で鋭い。
「この本丸の本質はピラミッド型だ。大将を中心に信頼できる古参が番長、新人が枝葉として広がっていく。新人ほど豊かに助け合えるが、逆に頂点に近いほど保証が効かなくなる。つまり、番長連中への支援が手薄なんだ」
「うん、そう、本当にね」
「大将は、その現状をなんとかしたかった。だから、それを指摘できる刀を探してた。そういうことなんだよな」
「うん。わたしは他の審神者関係者と接することを固く禁じられてるから、兵法や運営を見直すには刀剣男士の力を借りる他ない」
「オレっちに白羽の矢が立ったのは実に光栄だが……」
薬研は顎を擦って、知恵を巡らせた。
「そうだな、第三勢力を作ってみるってのはどうだい」
「第三勢力?」
「そう、遊撃隊を作るんだ。制度そのものは上手く行ってる。だから逆に、わざと制度から外れたイレギュラーを作るのさ。予想外ってのは、常に秩序を引っ掻き回すものだが、多様性を増す柱にもなる。同じ方向を向いてたんじゃ全員が同時に溺れる」
薬研の指摘は、冷え冷えするほどに冴えて鋭い。
もちろん組織が一枚岩でなくなるリスクもあるがと、そう前置きした上で、薬研はこう提言した。
「大将なら、秩序から外れた存在も御せるんじゃないかと思う。だからあえてイレギュラーを作るんだ。このピラミッドの構図に捉われず、直に番長連中の助けになれて、逆に番長に逆らうこともできるような、主直轄の第三勢力を」
薬研の腹案を聞き、彼女はずいぶん長いこと考え込んでいた。
薬研が指摘した通り、この本丸は、実は刀の精神的なケアが、主を頂点とした番長に一任されすぎている。
番長を中心としたピラミッド型の構造。新人ほど多くの刀が多重的に面倒を見れる分、加州清光、鶴丸国永、この二振りの負担が非常に大きく、ケアが薄い。
加州と鶴丸が、常に全ての刀に気を配って面倒を見る。一方、加州と鶴丸の面倒を見る刀は少ない。
それがこの本丸最大の穴であり、それが露呈したのが主不在の四年だった。
そう。
鶴丸を護ってくれる刀として大倶利伽羅を呼び、加州と過去を分かち合ってくれる安定を呼ぶ。
この体制は、四年の不在で負荷をかけ過ぎた二人をケアするための差配だったのだ。
「というわけさ」
薬研は茶をすすりながら、団子を一つ口に頬張った。
「燭台切の旦那が、あんたを呼ぼうって言い出したのはその後だ。あんたの為人を聞いた大将は考えたんだろうな。オレっちが出した案に、最適なのはあんたしかいないと」
「なるほどな」
聞きたいことを聞き終えた大倶利伽羅は、刀を持ち直して立ち上がった。
「だが、それだけのことだろう。主人が求め、鍛刀し、呼ばれたオレは戦う。何がきっかけだろうと、あんたの手を借りる謂れはないな。オレは独りでいい」
「じゃあそろそろ本題だ。────この本丸は今、火車切と縁ができかけてる」
「…!!」
「次で『異去・鳥羽』が500回なんだ。オレっち藤四郎なんでな。自然と耳は早い」
粟田口はどこの本丸でも最多勢力となる刀派だ。社交的な者が多く、兄弟仲も非常に良好なことで知られる。
だから第一部隊の最精鋭から外れていても、最前線のことは自然と耳に入ってきているのだと薬研はこともなげに明かした。
「本当なら、次で『異去・江戸の記憶』へ向かえる。オレっちには少々荷が重いが、第一部隊の精鋭連中なら問題なく進めるだろう。だが、大将はこのタイミングで、異去・鳥羽への出撃を無期限で停止すると正式にお達しを出した。あんたと、あんたの縁深い新人刀のためさ」
「……なぜ」
「この本丸には、第三勢力が必要だ。あんたは適任だ、大倶利伽羅の旦那。孤高で独り立つ強い心を持つあんたは、その孤独と責の重さに潰されることは決してないだろう。だが、あんたの縁者はどうかな」
「…………」
「あんたは旗頭なんだ。この本丸の遊撃隊の。否応なく、あんたの後に続く刀は、難しい立ち位置に置かれる。そのための準備が何もできていない。大将はそう考えた。だから異去の攻略を停止している」
薬研は口にした団子の串を引き抜いて皿に放ると、大倶利伽羅に正面からきちんと向き合い直した。
膝を折り、主にするのに準じる正しい姿勢で、深々と薬研は大倶利伽羅に頭を下げた。
「オレっちたち、みんな、あんたに感謝してるんだ、大倶利伽羅の旦那。オレっちたちじゃ鶴丸の旦那を止められなかった。この本丸は長くあの刀に依存しすぎた。それを本当に反省してる。あの日、あんたの一太刀がなければ、オレっちたちは鶴丸の旦那を主人の手から永遠に失わせるところだった。それだけは絶対にさせてはいけなかった、それにも関わらず」
「……」
「だから覚えておいて欲しい。たとえあんた自身が助けを必要としてなくても構わない。いつか『あんたが手助けしてやりたい奴』ができた時、オレっちたちは協力を惜しまないと」
切々と薬研は真剣に言い募ると、パッと両手を開いて空気を弛緩させた。
「なんてな、オレっちの余計なお節介もここまでだ。じゃあな、できるだけ医務室と縁が無いことを祈ってるぜ、旦那」
薬研は皿を片付けてしまうと、本当にひらりと軽やかに居なくなった。
現れた時と同じ、容易に距離を詰めては掴みどころなく去っていく。極短刀の舞うような軽やかさを体現したかのような、夏風のような振る舞いだった。
「………光忠」
「あれ、伽羅ちゃん、どうしたの? 小腹すいた?」
「お前、オレに言うべきことがあるだろう」
夜分遅く燭台切の居室を訪れた大倶利伽羅に、光忠は目を丸くした。
「なんだろ、伽羅ちゃんが好きなお酒なら次郎さんたちには隠してちゃんと取ってあるけど」
「光忠」
「…………う〜ん、誤魔化せない感じ?」
「話せ」
「…………主の命で、修行道具をひとセット、誰にもあてずに取ってあるよ。いつでも使えるように」
「蔵だな」
「行くの?」
「ああ。見送りは要らない」
「わかった。ならここで。伽羅ちゃん、いってらっしゃい。良い旅を」
「…………チッ。見つかったか。黙って出て行くつもりだったんだがな」
主は美しい月の下、穏やかに微笑んでいた。
三度傘を頭に被った大倶利伽羅は、一つ舌打ちを落とした。
「あんたは思ったより食えないな。その食えなさ、見覚えがある」
主は幼なげに小首を傾げた。大倶利伽羅は告げた。
「光忠よりお節介で、貞宗より派手でやかましいやつのことだ。隠しているつもりなら、もう少し上手くやることだな」
主はきょとんと目を丸くして、二度瞬くと、否定することなく苦笑した。
「いってらっしゃい、大倶利伽羅。良い旅になるように欠かさず祈ってる」
「ふん」
大倶利伽羅は発った。
伊達政宗公の道行を辿る修行は、主なくして強さは得られないと。
それを噛み締めるための旅だった。
刀の強さとは、刀剣男士の物語とは
常に主に依存している。
刀身に誇り高き倶利伽羅龍を刻まれし刀、大倶利伽羅。
自分は政宗公が軍陣に帯びた刀ということになっているが、実際は違う。大倶利伽羅が政宗公のもとに行き着いた時には、既に大きな戦は収束していたからだ。
大倶利伽羅という付喪神の物語は、人々が口々に讃えた政宗公という男の武勇伝だ。本来なら存在しないはずの戦武功はあまりに強い物語で、人々を魅了したその強烈な物語が大倶利伽羅を目覚めさせた。
それが、大倶利伽羅という刀だった。
それこそが、大倶利伽羅を焔の中から鍛え上げた強さの姿だった。
大倶利伽羅の心鉄に流れる強さの源流は、伊達政宗という存在のあまりの大きさに由来している。
なら、強くなるということは、主人という存在と切り離せない。それを直視するための旅だった。
「おや、伽羅坊、もう行くのかい?」
「ああ。そうと決まれば、ここで昔馴染みの連中と馴れ合ってる場合じゃない。俺の強さには、俺の振るい方を決める主が必要だ」
「ふ、そうか。そうかぁ」
伊達に居た頃の鶴丸国永、という刀は。どこか興味深げに、感慨深げにそう笑った。
この時代ではまだ顕現を経ていない、付喪神としての姿だった。
普段大倶利伽羅が共に過ごす力の分散した分霊と違って、これこそが本霊の源泉。
どうやらこちらに合わせて笑って神気を完璧に抑えてみせてはいるが、飄々とした好々爺の姿とは別に、そら恐ろしいほどの圧倒的な格の片鱗をかすかに感じる。
恐らく、鶴丸が自ら抑えてみせなければ、大倶利伽羅は立つことどころか、息をすることすらままならないだろう。
いつもペラペラと余計なことばかり口にする鶴丸だが、伊達に居た頃に修行中の大倶利伽羅と共に過ごした、などという話は聞いたことがない。
分霊に記憶が共有されていないのか、覚えていて黙っているのか。
やはり食えない刀だった。
「どうやら未来ってやつは驚きに満ちてるらしいな。楽しみだ。できればまた会おうぜ、伽羅坊」
「ふん」
「俺の戦場はあんたが決めろ。後はこっちで勝手にやる。戦は俺の領分、それ以外はあんたの領分だ。それでいいだろ」
帰還した大倶利伽羅は、大広間で主と相対した。次元を隔てて堰き止められていた祈りは大倶利伽羅の刀身に満ちて、旅の間欠かさず祈るという言葉が正しく真実であったことを知らせる。
「あんたは、あいつを自分のもう一つの命だと言ったな」
「うん」
「命とは物語だ。だから今一度問う。────あんたの物語には、誰が必要だ」
「鶴丸国永と貴方。そして、加州清光を始めとしたこの本丸の全ての刀たち」
彼女は迷いなくそう告げた。
「なら、俺の戦場は決まった」
自らの前に置いた刀を手に取り、大倶利伽羅は膝を立てて立ち上がった。
主に背を向け、大倶利伽羅は迷いなく告げた。
「あんたの物語を果たすために、この先も俺を振え」
「うん」
「あと、俺を異去に出せ。自分で迎えに行く」
大倶利伽羅の主は、きょとんと目を丸くして、二度ぱちぱちと瞬きすると、花が綻ぶように笑った。
「伽羅ちゃん、かっこよくなったね。最初からかっこよかったけど、もっともっと、かっこよくなって帰ってきたね」
「ふん」
《火車切と主と大倶利伽羅》
木漏れ日揺れる春の陽だまりの中、嬉しげにニコニコと微笑む主と、穏やかな目をした火車切が、縁側で楽しげに話をしている。
ほのぼのとした光景に、廊下の向こうから揃って様子を伺った鶴丸と燭台切と太鼓鐘は、微笑ましげに双眸を緩めた。
「火車坊があんなに早く主に懐くとはなあ」
「ね」
「馴染めるか心配してたが、杞憂だったなぁ」
修行を無事に終えて帰って来た大倶利伽羅は、自ら進んで異去に出陣し、この本丸に縁の出来かけていた火車切を迎えに行った。
こうして手ずから迎え入れられた火車切は、表面的にこそぶっきらぼうな振る舞いも目立つが、蓋を開ければ心根は素直で優しい子供だった。
大倶利伽羅とは同じ刀工に打たれた兄弟刀。
まるで伽羅坊の幼い頃でも見ているような容姿は、一目で繋がりが分かるほどに似ている。大倶利伽羅ほどの精悍さはなく、やわらかくまろい幼い顔立ちだが、尖った八重歯を覗かせて笑うと、伽羅坊の滅多に見れない激レアな笑顔に瓜二つだ。
「主に心を開いてくれて本当に良かった」
「だな」
そんなわけで、やってきた大倶利伽羅の弟刀を、伊達伝来の面々は構いたくて構いたくて仕方が無いわけだが、そこをぐっと押さえて見守っている。
猫は構いすぎると逃げるものだし、せっかく主に心を開いているのだから、毛を逆立てて逃げられてしまっては困る。
「にしても、彼女ら、二人して伽羅坊のことばっかりだなあ」
「な〜。主、伽羅のこと大好きだもんなぁ」
「弟くんも伽羅ちゃんにすごく憧れてるみたいだしね。大好きなものが同じだから仲良くなれるんだろうな」
うららかな春の陽射しの中、嬉しげに弾む話題は、伽羅ちゃん伽羅ちゃん伽羅ちゃん、伽羅兄ぃ伽羅兄ぃ伽羅兄ぃ、だ。
雛が二匹、ぴよぴよとさえずっているようで、なんとも微笑ましい。
「ふふ、伽羅ちゃんと一緒にいたくてたまらないって感じだね」
「よし来た。どれ、ここは一つ、この鶴さんが一肌脱いでやるとするか」
柱の影に団子になって並んだ真ん中から、鶴丸の顔がひょこっと抜けた。
「伽羅兄ぃは、かっこいい」
「うんうん、伽羅ちゃんすっごくかっこいい!」
「もっと、二人きりで話とか、できたら」
「話は聞かせてもらったぜ!」
鶴丸が「わっ!!」と逆さに縁側へ顔を出し、屋根からスタッと降り立った。
突然降って湧いた鶴の一声に、びっくりした顔の火車切の隣で、同じく驚いた主がパッと嬉しげに破顔した。
「鶴るん!」
「きみたちにこっそり驚きの情報をやろう。伽羅坊なら、このぐらいの時間はいつも、裏山の外れの竹藪で独りで修練してるぜ」
「!」
「わっ! ほんと!?」
「鶴さんのとっておきだ。きみらなら邪険にされんだろう。団子でも届けに行ってやるといい」
パチン、と軽やかにウィンクした鶴丸は
「伽羅坊の驚く顔が楽しみだな、代わりにしっかり目に焼き付けてきてくれ」と笑った。
火車切と主は互いに顔を見合わせて、表情を明るくした。
地図を手渡した鶴丸は、声を低めてこそっと火車切へ耳打ちした。
「途中の竹藪には蝮も出るからな。火車坊、主を安全に送り届けてくれ、できるよな?」
「! うん!」
「いい子だ」
わしゃ、と優しく頭を掻き回して、火車切へ穏やかに目を細めて微笑んだ。
喜び勇んで厨に駆けていく二人を見送って、鶴丸は腰に手を当て、満足げにひと仕事終えた顔をしている。
隠れていた光忠と貞宗が並んだ。
「さっすが鶴さん」
「火車坊ならともかく、あの道は彼女には無理だからな。二人の距離も縮まって一石二鳥だ」
「策士だなあ」
「仕込みは上々、ってな。万一に備えて緊急電報装置も持たせてるし、問題ないだろ。伽羅坊がどんな顔するか楽しみだぜ」
「弟くんたちならともかく、鶴さんにはすごく嫌がる顔しか見せてくれないと思うけどね」
「はは! まぁそこがいいんだろ」
「……あっ!」
ずるっと段差に足を滑らせた彼女は膝を浅く擦りむいた。裏山の道は、想像以上に険しいもので、きちんと動きやすい長袖と山歩き用の歩きやすい靴に履き替えた彼女でも、なかなかに厳しい。
「見せて」
「ごめんね」
竹筒から水を掛けて、傷を洗い流す。
最後にキュッとハンカチで縛って手当ては終わり。白の生地に少しだけ血が滲んでいる。
「ごめんね火車ちゃん、思ったより険しかったや。足手纏いだよね」
「別に…」
火車切はうろうろと視線を彷徨わせた。チャリ、とピアスが揺れる。
本当は、自分が背負ってやれば簡単だと、わかっているのだが。
柔らかい女の人だ、おぶって密着するのは気恥ずかしい。
肩のふわふわが、彼女の肩に飛び移って、慰めるようにぺろりと頬を舐めた。
ざらついた舌が優しく励ます。彼女は途端に花のように笑って「ふわちゃん、心配してくれるの? ありがとう」と嬉しげに頬を擦り寄せている。
(珍し……)
この子が懐くなんて。火車切が気を許しているからだろうか。
彼女はすごく純粋だから、見えにくいものに少し好かれやすいのかもしれない。
「わたし、戻った方がいいかな。火車ちゃんだけなら簡単だよね」
「いや、いいよ。連れてく」
────火車坊、主を安全に送り届けてくれ、できるよな?
鶴丸国永から、そう言われている。
火車切ならできると。そう信じて笑って託してくれる。
これは任務だ。その気持ちは誇らしくて、自分をしゃんとさせた。
「近道、するから」
「近道?」
「ん」
ぶっきらぼうに手を差し出した火車切に、彼女は嬉しげに破顔してぎゅっと手を繋いだ。
自分たちとは違う、柔らかくて脆い手のひらだった。
鬱蒼とした暗がりで、火車切は提灯を掲げて、彼女の手を引きながら道を辿った。

深い深い山の中、竹藪に鳥の細い鳴き声がピロピロと響いている。
風だけが笹の葉を揺らす中、大倶利伽羅は、正眼に構えた刀を微動だにせず、目を閉じていた。
シン、と音が絶える。
瞬間、大倶利伽羅は、剣閃を走らせ
一刀両断、竹は四つに細切りになった。
返す刃で一閃、六本の竹が一振りで切れる。
大倶利伽羅の竹藪でのとてもまっすぐな太刀筋に見惚れていると
剣を下ろした大倶利伽羅が、腕で軽く汗を拭って、深々とため息を落とした。
「…………隠れてないで出てこい」
ひょこ、と。
火車切は遠慮がちに、主は華やぐような笑みを浮かべて、薮の影から出てきた。
「誰から聞いた」
「鶴るん!」
「…………鶴丸国永か。あのお節介焼きめ」
チッと舌を打った大倶利伽羅に、火車切がぴくっと肩を跳ねさせた。
「あの、えっと、……邪魔して、ごめん」
しゅん、と耳を垂らすみたいに、しおれた火車切に、大倶利伽羅は小さく嘆息すると「別に、邪魔とは言ってない」と口にした。
振り返ると、大倶利伽羅は、くいっと手招いた。
「来い。稽古をつけてやる」
「!!」
火車切は、ぱぁっと表情を明るくして、薮から慌てて立ち上がった。
「うん!!!」
顔面を喜色に染めて、駆け寄った火車切に、主はわっと我が事のようにはしゃいで跳ねた。
「たあ!」
「そら」
火車切が、すごく喜んで、興奮しているのが、傍目から見ても分かる。
そんな光景を眺めながら主は、ふわふわを膝の上に乗せたまま、いつまでもニコニコと楽しげに、二人の鮮やかな剣戟を見ていた。
白熱した打ち稽古は、激しく続いた。
火車切は、竹林の中を縦横無尽に飛び回り、高い位置から一閃、竹のしなりを利用して勢いよく飛び込む。
柔軟で軽やかな火車切の一太刀は、けれども大倶利伽羅の堅実な一閃に阻まれる。幾度死角を狙っても、まるで目が後ろについているかのように鮮やかに受け流される。
「太刀筋を読まれるな。殺気を仕舞え」
「!! うん!」
返す声が弾む。すごく喜んでいるのが分かる。
激しい打ち合い。白熱した剣戟は、まるで一つの劇を覗き見ているみたいだった。
「機動と高さで衝力を補うのはいいが、その分、剣閃の軌道が読まれやすくなっている。お前の剣筋は柔軟だ、生かすなら相手の予想を崩してみせろ」
「うん! やってみる」
やがて柔らかい膝の上で、ふわふわは大きく欠伸をして丸くなった。
毛玉の柔らかい毛並みを優しく撫でながら、主はふんわりと嬉しげに笑った。
嬉しそうな火車切と、わかりにくいが優しい目をした大倶利伽羅が見れて、嬉しくてたまらなかった。
やがてとっぷりと日も暮れ始め、ふわちゃんはぐっすり寝てしまって、ぽかっと口を開けたまま愛らしく眠っている。
「ふふ」
もこもこの毛並みを優しく撫でて、そぉっと持ち上げた。気持ち良さそうに眠ったまま、起きる気配が無い。
────もっと、二人きりで話とか、できたら
(ふたりきりにしてあげよう)
主は微笑んで、ポケットからタオルハンカチを出すと、ふわふわをそっと温かく包んで、柔らかい笹の葉のベッドに置いた。持参した団子を入れた包みを横に置く。
そうして、遠くで白熱する剣戟に背を向け、そっと来た道を戻った。
山の一本道の途中、雨も無いのに足元で水たまりがパシャッと音を立てる。
足元の泥だまりからゆっくりと
誰かの黒い手、が
彼女のポケットから音も無くロザリオを抜いた。
「? 今、触られたような」
小首を傾げた彼女は「気のせい? かな」と再び前を見た。
足跡が残された薮脇の、泥水の中に。
まるで踏み付けられたみたいに執拗に汚されたロザリオが、浮かぶ。
ゆらり、と彼女の進んだ道が、歪む。
陽炎のように揺らいで、そこにはもう道が、無かった。
「はっ…はっ…はぁ…っ!」
「そうだ。今の太刀筋は良かった。その感覚を忘れるな」
「! うん!!」
その時、暮れかけた竹林から、焦ったような「ふにゃあーッ!!」という鳴き声が上がった。
「ふわ?」
はたと振り返った火車切は、ふわふわのもとへと来た道を戻った。
剣戦は白熱して、いつの間にかすっかり竹林の奥まで入り込んでいた。戻ると、ふわと一緒にいたはずの彼女が居ない。
「!? ふわ、彼女はッ!?」
ふわふわの毛玉は、彼女のハンカチだけ噛んで引きずったまま、「ふにゃあ」としょんぼり耳を垂らした。
火車切はさぁっと蒼白になった。空が赤い。夜と昼が混ざり合う。黄昏時だ。
「しまった…!!」
青ざめた火車切に、何事かと戻ってきた大倶利伽羅は、眉をひそめた。
「伽羅兄ぃ!! どうしよう!!」
「慌てるな。どちらにせよ、人ひとりじゃ登れない山道だ。どうせ途中で諦めて引き返して──」
「違うんだ!! 俺、俺、『近道』して…!」
ざわ、と大倶利伽羅の表情が変わった。
「……なんだと」
「マムシやヒルが出る道より良いと思ったんだ…! 俺とふわが居れば『安全』だから、」
火車切は、真っ青になって青い唇を震わせた。
「どうしよう、俺、俺、彼女に言わなかった、俺やふわと離れてあの道に行っちゃダメだって!」
血相を変えた大倶利伽羅が、刀を持って主の気配を追って走り出した。
「なんだか、急に暗く……」
元来た道を辿ったはずなのに、周囲が妙に薄暗くて寒い。
じめじめした重い湿気が、ぐちょ、と泥の足下から立ち昇ってくる。
「どうしよう。道、間違ったかな、ええっと」
彼女は、立ち止まって、自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
「………こういうときは、無闇に歩いちゃダメ。通信、どうしよう、緊急回線使ったらびっくりさせちゃうよね」
本丸内に一斉に放送する緊急電報装置は持ってる。
まだそんなに歩いてないはずだ。だから、じっと動かず、大倶利伽羅と火車切が自分を探しに来てくれるのを待つ方が早いかもしれない。
途中の道ですれ違っても、本丸に戻って自分がいないことに気付けばきっと探してくれる。
幸い、そこまで冷え込む時期じゃない。
けれど、迂闊に緊急回線を使ったら、みんな慌てて総出で探しに来てしまう。
「鶴るんなら、驚いたなって笑って許してくれるだろうけど…」
頭の中で笑った鶴丸国永の姿を思い浮かべた途端
道の奥に、ぼんやりと白い人影が現れた。
「えっ? あれ?」
目を擦る。
道の先にいたのは、見慣れた純白の衣だった。
白銀の髪にすらりと細い背中。ふわりと広がる雪色の絹の袖。
背を向けたまま、暗がりにじっと佇んでいる。彼女はパッと表情を明るくした。
「鶴るん!」
たたた、と駆け寄って、彼女は花のように破顔した。
「わっ、びっくりした! どうしたの? 迎えに来てくれたの?」
ととと、と駆け寄りかけて、彼女は、足を引き摺るように止まった。
「…………鶴るん?」
違和感、だった。
無言でにっこり笑いながら静かに振り返った鶴丸国永が、────いや。
鶴丸国永の形をした何かが、ゆっくり口を開いた。
「きみ、つまらんなあ」
ぴしり、と表情がヒビ割れたのが自分でわかった。
「もう飽きたぜ。付き纏われるのもうんざりだ」
最愛の顔をしてぶつけられる悪意に、ヒュ、と喉が鳴る。
びくっと身体を強張らせて、足を引く。
(ちがう、鶴るんじゃない)
妙にニコニコと微笑みながら、一歩、また一歩と、こちらに近付いてくる。
ぐちょ、ぐちょ、と何も無い泥闇の中を、ゆっくり迫って来る。今すぐ逃げたいのに、脚が何かに絡め取られたみたいに重い。
「もう要らない、だから、」
ぬっと真っ黒な腕を伸ばされて
ゾワッと背筋が粟立った。
強張った足を必死に引いて、逃げる。
開いた擦り傷が、ぽたり
血を落とした。
「────その血、喰わせろ」
顔が崩れて、ぐちゃりと牙が覗いた。
「……これは」
大倶利伽羅はさっと素早くしゃがみ込み、泥で汚されたロザリオを拾う。
主の気配が色濃く残った祈りの道具は、執拗に汚され、辿った気配がここでぷっつりと途絶えている。
まっすぐ進んだ足跡の先に道は無く、でかい岩があるだけだった。
「足跡も気配もここで途切れてる…!」
火車切が青い顔で目を凝らした。
「だめだ、わからない、入り口が閉じてる、連れていかれた!」
大倶利伽羅は、火車切が持たされた緊急電報装置を迷わず起動した。
「────緊急招集ッ!!」
緊急電報装置のスイッチを連打する。ノイズだけ吐き出して反応しない。
(動かない!? どうして!?)
必死に足を前に出す。粘つく泥が脚に絡む。
ぐちゃっ、また泥が跳ねた。
寄越せ、寄越せ、と
闇の中から恐ろしい反響音がする。
血の臭い、血の臭い
寄越せ、寄越せ、寄越せ
喰わせろ、喰わせろと
必死に走りながらポケットをまさぐる。
(! ロザリオ、ない、なんで!?)
拠り所を失って、恐怖で歯がカチカチ鳴る。
「や…いや…」
心に忍び寄る絶望感に悲鳴を上げた。
「助けて、たすけて、鶴るん、鶴丸国永、加州清光、かみさま…!」
「────……きみ?」
鶴丸国永は、ふと後ろを振り返った。
誰もいない空間が、ぽっかりと虚ろだけを主張している。
「気のせいか? ……いや」
ざらりと背を撫で上げられたような不快感が纏わり付く。
嫌な予感がする。
「おい、鶴丸ッ!」
息を弾ませた加州清光が、慌てて襖を開け放った。
「今…!」
「きみも感じたか?」
ビーーッ!!!
入電!!入電!!
本丸中に響き渡った大音量に、誰もが腰を浮かせた。
『────緊急招集ッ!!』
伽羅坊の低い声が、焦燥し切迫した響きを上げた。
『大倶利伽羅だ! 結界境界で主を見失ったッ!』
ざわっと、たちまち本丸中が騒めいた。
『火車切の感知範囲外の隠り世に連れ去られた可能性が高い、結界斬りができる御神刀、今すぐ来いッ!! 座標は──……ッ!』
「助けて、かしゅー、加州清光ッ!」
縋り付くように叫んだ道の先、軽やかな赤と黒の戦装束が見える。
結われた赤みを帯びた黒髪が、風も無いのに靡く。
背中がゆっくりとこちらを向く。
柘榴色の目が不快そうに細まる。加州清光の姿をした誰かが、穢らわしそうに顔を歪めた。
「汚いな。触んな」
ぴしっ、と心にヒビが入るのを感じた。
(ちがう、ちがう、かしゅーじゃない)
頭でわかっているのに、心が悲鳴を上げる。
やだ、やだよ
脚を引きずって、転げるように逃げる。
「みっちゃん、燭台切光忠ッ! 貞ちゃん、太鼓鐘貞宗ッ! 助けて!」
すらりと背の高い闇色の粋な着流しと、青空の浮雲のような派手で鮮やかな背中が、ゆっくりこちらを向く。
金色の瞳に軽蔑が混じる。
じろりと視線をやって
汚ならしいものでも見るように舌打ちする。
「みっともない。うんざりだよ」
「気持ち悪い」
ひゅっ
喉が細く悲鳴を上げる。
息ができない
逃げる、逃げる
舌がもつれる。喉が掠れる。
上手く声が出ない
「もの、よっちゃん、物吉貞宗…亀甲、亀甲貞宗…ッ」
ミルクティー色の金髪がくるくると空気を含んで
金装束を纏った白のまろい背中が闇に浮かび上がる。
同じ色の金髪がさらりと揺れて、すらりとした白の背中が隣に並ぶ。二人でゆっくりとこちらを振り返った。
金色の眼と、銀色の瞳が、不愉快そうに歪む。
「汚らわしい、触らないでください」
「別のご主人様を探すことにしたよ」
心のやわいところを斬り付けられる
逃げる、逃げる
喉が、助けを求める声が、かすれる
「しずちゃん、静形薙刀、ともちゃん、巴形薙刀ッ……石切丸…っ…たす、けて…!」
奥へ奥へ
誘い込まれて
暗がりへ
より深い暗がりへ
「じろちゃん、次郎太刀、たろちゃん、太郎太刀、助けて、たす、けて…ッ…」
深い山道の中に、たちまちほとんどの刀剣男士が集結した。
「火車切の他に、怪異斬りが出来る刀は!?」
「くそっ、青江も源氏連中もウチには…!」
「山姥切長義が居れば」
「ちくしょう、あの野郎、肝心な時に居やがらねえ!!」
集まった人混みがたちまち騒めく中で
ずる、と鶴丸国永が青い顔で座り込んだ。
自らの刀を杖代わりに地面に突き刺した鶴丸が、顔面蒼白で肩で息をする。
「……はっ……はっ……」
「鶴さんっ!?」
「……平気だ、構わないでくれ……」
ぐしゃ、と自分の心臓の上の衣を握り潰す。
白を通り越して土気色の顔色で、神気を限界まで仕舞い込んだ鶴丸が、無理やり自分の気配を極限まで希釈した。
神子を取り上げられた理不尽に、怒りが漏れ出さないように。
慌てて鶴丸に肩を貸した太鼓鐘が、今にも倒れそうに荒い息を繰り返す鶴丸を支える。
「御神刀連中が気配を辿る邪魔になる。貞坊、すまんが、いざとなったらふんじばって気絶させてでも止めてくれ。手足の一本や二本飛ばしてくれて構わん」
「……わかった」
「はっ……はあっ………」
紫色の唇で過呼吸を繰り返す鶴丸が、がり、と唇を噛んだ。
「くそ、こんな驚きはごめんだぜ……! 頼む、無事で…!」
火車切は、血の気の引いた唇を押さえながら、ガタガタと青褪めて震えた。
「俺、俺、取り返しのつかないことを…!」
「しっかりしろ」
青褪めた火車切の肩に手を置いて、何も無い前を睨むように火車切に並ぶ。
「御神刀連中が道を拓いたら、後はお前の目だけが頼りだ。腹を据えろ、揺らぐな。絶対に取り戻せ」
重厚で静謐な声が、背中を押す。鮮烈に。
「信じろ。お前ならできる」
身体を熱いものが走った。
「……うん」
火車切は、震えるのやめ、逢魔の虚空を睨んだ。
激しく焚かれた炎の中、石切丸が一心不乱に白い祓串を振って、高らかと祈祷の祝詞を上げる。
次郎太刀が、普段と打って変わった厳しい表情で、大剣を振り上げて風を巻き上げて舞う。
奉納剣舞と祈祷で清められた場の中心で、目を閉じた太郎太刀が、限界まで気を研ぎ澄ます。
太郎太刀の頬を脂汗が伝う。
(教えたはずです。呼びなさい、我らの名を…!)
閉じられた瞼が、カッと見開かれた。
──── たろちゃん、太郎太刀、たす、けて…ッ…
「兄貴ッ」
「そこですッ!!」
太郎太刀が一刀両断、何も無い空間を斬った。
火車切が、ふわを伴って
切れ目に飛び込んだ。
後はもう、揺らいだ陽炎の跡には
無だけが残された。
「はかた、博多藤四郎…はせべ、へし切長谷部…っ……」
掠れる喉で必死に呼ぶ。その度に心を斬り刻まれる。痛い、痛い、たすけて
「から、ちゃ…大倶利伽羅…たす、け…」
もつれた足で、地面に激突する
その刹那、広げられた腕の中に受け止められる
白い人影にぶつかる。
「鶴る、ん」
影がニタァと笑った。
つ か ま え た
「やだ…や…」
弱った心を絡め取られる。
黒鶴の手に口を塞がれる。
んんッともがくが外れない。ひたりと置かれた冷たい手で両目を塞がれる。果ての無い闇の中にずるずると引き摺り込まれる。
(たすけて、たすけて、だれか、ふわちゃん、火車ちゃ…────火車切ッ)
闇の中、金色の眼がふたつ
ギラリと光った。
みつけた
一閃、常闇の中で剣閃が煌めく。
黒く歪んだ鶴の姿をした影を八つ裂きにする。
ずるり、と崩れる泥の中から倒れていく彼女を受け止め、火車切は黄金の瞳をたちまち赤く燃え上がらせた。
どろりと溶けた汚泥が、無数の黒い手の形をして地面から伸びる。
ぐじゅぐじゅと耳障りな異音がした。
「寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せ寄越せよこせヨコセ、ヨコセェェェ」
「────もう見えてるんじゃないのか」
剣戟が常闇を斬る。
赤々とした眼で、怒りに震えた太刀筋が
闇を貫いた。
「お前の、死神がッ!!」
汚泥は散り散りになって、黒いアメーバみたいに一塊になった。
その瞬間、暗がりの中で、ぶわりと毛を逆立てたナニカが、火車切の肩からタンッと高らかに飛び出して
闇の中でも眩い黄金の虎柄を煌めかせて
二又の美しい尻尾を靡かせたかと思うと
ぶわり、見上げるほど巨大に膨らんで
ギラリと並んだ歯を見せながら大口を開けた。
夜闇に鳴き声が戦慄く
「ンアァァァァァァァァ」
ば、くん
汚泥を喰らった。
固唾を呑んで見守っていた加州清光が、ぴくっと目を凝らした。
鶴丸国永が、青い顔を上げる。
陽炎がゆらりと揺らぐ。
歪んだ景色の向こうから、灯篭の光が漏れ出て
気絶した彼女を横抱きに、ぐったりと手を投げ出した主を連れて、火車切は
地面に静かに降り立った。
「きみ…っ」
「あるじッ!!!」
「あるじさま!!」
「大将!?」
「……気絶してるだけ」
俯いた火車切の肩の上で丸い毛玉が、腹が膨れたようにけぽっとげっぷをした。
たちまち取り囲まれた主を託す。
薬研に脈を取られ、心の臓に耳を当てられた彼女から離れる。
火車切は唇を噛み締めた。
「ごめん。ごめんなさい。俺のせいで」
大倶利伽羅が無言で火車切に手を伸ばした。
びくっと身を竦ませた火車切は、頭に手を置かれ、恐る恐る目を開けた。
「よくやった」
強く髪を掻き回されて、火車切は緊張の糸が切れて涙ぐんだ。
重い瞼を、ゆるり、持ち上げる。
ゆらゆらと視界が滲んで、
泣きそうな顔をした鶴丸国永の面差しが、ぼんやり揺れた。
「目が覚めたかい」
主はハッと目を覚ました。
がばっと起き上がった
わっと泣き出した彼女を抱きしめた
「鶴るん…!」
「よかった…」
「あるじッ! 良かった!」
固く抱きしめて離さない鶴丸国永の横で、加州清光が鶴丸ごと主に腕を回した。
「馬鹿…ッ! 心配したんだからな…! 無事で良かった…!」
温かく抱きしめられた腕の中で、しゃくり上げて泣いた。
「つる、鶴るんじゃない、鶴るんの顔してて、かしゅーも、みんな、」
しゃくりあげて、喉を震わす。
「わたしのこと、いらないって…!」
「ぜんぶ幻だ。悪い夢さ。忘れてしまうといい」
くしゃ、と彼女の髪を優しく握って
鶴丸国永が肩口に顔をうずめるように擦り寄った。
「大丈夫だ、恐ろしいものは火車坊がぜんぶ斬ってくれたからな。残滓も石切丸が全て祓った。もう心配いらない」
主を固く抱きしめた手が、細かく震える。
「心臓が口からまろび出るかと思ったぜ。こんな驚きは二度とごめんだ」
「ごめ、ごめんね、ごめんなさい…!」
「ああ、許すよ。だからもう泣かないでくれ、きみ」
「ふーーっ……」
石切丸は祈祷を全て終え、ようやくひと息付いたところだった。
本丸の霊的な護りを引き受けておきながら、彼女をあんな危険な目に遭わせてしまったのは大失態だ。
決して火車切だけの責任ではない。あのようなモノを、結界の近くまで招き寄せてしまったことも心底悔やまれる。
険しい山道だ、簡単には主も近寄れないだろうと気を緩めていたのは失敗だった。
今後は定期的に、本丸内だけでなく、近接した裏山や薮林も見廻らなくてはならないだろう。
──………
「……? 今、確かに」
石切丸は、名を呼ばれた気がして腰を浮かせた。
よくよく耳を澄ませれば、夜風に乗ってかすかに、本丸の本結界の外から石切丸を呼ぶ声がする。
低いテノールの声。これは。
「大倶利伽羅、さん?」
声を辿って結界の境まで足を伸ばした石切丸は、夜闇の藪の中に立ち、石切丸を呼んでいた彼に目を丸くした。
「いったいどうしたんだい、こんなところで」
「これだ」
大倶利伽羅が白布に包んだ何かを石切丸に見せた。夜目が効かない石切丸は目をこらしたが、すぐに目をみはった。
彼の手の中にあったのは、薔薇色の美しい木の玉を数珠状に連ね、十字架を掲げたもの。
確か『ロザリオ』と呼ばれるものだったはずだ。
「これは……彼女の」
「どうやら異界に引き摺り込まれた時に奪われたらしい。泥で執拗に汚されていた」
直接触れないように白絹のハンカチで包まれている。
綺麗に洗い清められていた。
「手持ちの水で汚れを落としてから、裏の井戸水で清めてきた。厄斬りで最低限の応急処置はしたが、西洋の祓具には明るくない。本丸内に迂闊に持ち込んで良いものか判断しかねた」
「それでこんな暗い所でずっと待ってたのかい!? ちょっと待って、今、袱紗を──……」
石切丸が金糸で刺繍された上質な袱紗を広げて、大倶利伽羅からロザリオを受け取った。
石切丸は慎重に検分したが、わずかな汚れも無いように丁寧に清められており、纏う空気も清らかだった。
「どうだ」
「大丈夫、余計なものは綺麗に落とされてる。とても強い祈りの祓い具だ。下手に私が余計な手を加えるより、封をして彼女の手で教会へ持ち帰った方がいい。このまま預かるよ」
「わかった」
大倶利伽羅はそれだけ告げると、本丸に足を踏み入れることなく、藪の中に踵を返した。
石切丸が慌てて「こんな時間に、どこへ?」と引き留めれば、大倶利伽羅は肩越しに苦々しくこう言葉を落とした。
「結界の緩みを見回ってくる」
「こんな時間にかい?」
「…………火車切の力を知っていて、目を配っておかなかったのは間違いだった」
石切丸は、ああ、と悟った。
そうか、弟くんに少しでも責が及ばないように。
素早く察した石切丸は、それにはあえて言及せず、大倶利伽羅に礼を言った。
「そう。大太刀は夜目が効かないから助かるよ。地図に印を打っておいてくれれば、夜が明けてから確認して結び直しておくから」
「ああ」
それだけ告げ、大倶利伽羅は場を後にした。
まだ青い顔をした主の布団の周囲に、入れ替わり立ち替わり、彼女の刀たちが心配げに押しかけた。
その度に彼女はひどくほっとした顔をして、自分の刀の手を握っては小さく震えて泣きそうな顔をした。そんな様子を見せられれば余計に心配になるというもので、見舞いは夜半をとうに過ぎるまでひっきりなしに絶えなかった。
そうした人波もようやく落ち着いた頃、彼女はふと顔を上げた。
「あ、れ」
きょろ、と彼女は視線を彷徨わせた。
「火車ちゃんが居ない」
ととと、と火車切の姿を探す主の背後で、鶴が音もなくそれを追った。
誰も居ない縁側の端、火車切は独り、蹲っていた。
にゃー、と肩でふわふわが鳴く。皆が主人の周囲に集まる中、火車切だけは膝を抱えて、ずっと独りでそこにいた。
ぴく、と音に反応する。廊下を渡って来た主だった。
「火車ちゃん、ここにいたんだ」
「……」
深くパーカーを引き下げたまま、火車切は無言だけを返した。
「ありがとう、火車ちゃん。助けに来てくれて」
「……」
火車切は黙り込んだまま、より一層、膝を小さく抱え込んだ。
「……ごめん」
自分が、事前に彼女に忠告しておけば。近道を使わなかったら。
彼女は、恐ろしい思いをすることはなかった。
安全に送り届けてくれと、自分はそれに応えたのに。
彼女を危険に晒してしまった。
俯いたまま無言だけを返した火車切に、彼女はやんわりと小首を傾げた。
「わたしの側にいるの、嫌になっちゃった?」
「! ちが、」
慌てて顔を上げた火車切に、彼女はただ優しく目を細めて、穏やかに微笑んでいた。何もかも抱擁するような笑みだった。
「あのね、火車ちゃん、聞いてくれる?」
彼女は、火車切の背に、とん、と自らの背中を預けた。
「真っ暗なところで、たくさん怖いものを見たんだ」
ぴくっと火車切は肩を跳ねさせた。
彼女は多くを語らなかったが、火車切が切った怪異が鶴丸の形をしていたことを重ねれば、彼女が味わった恐怖の中身は容易に推測が立つ。
「その度に、すごく怖くて、喉が掠れて、声が出なくて。本当はね、もう誰の名前も呼べなくなるんじゃないかって思ったの」
物陰でそれを聞きながら、柱に背を預けて、鶴丸は目を閉じて深く沈み込んだ。
「けど、最後の最後に、火車ちゃんが来てくれたから。呼んだら応えて助けてくれたから」
彼女が、火車切に背を合わせたまま、大きく星空を見上げた。
「だから、私、これからも躊躇わずに名前を呼べる」
彼女は背中を合わせたまま、横に置かれた火車切の手に、柔らかな手のひらを重ねた。
「ありがとう。私の心も護ってくれて」
火車切は、じわ、と視界が滲むのを感じながら
ああ、灯し火だ。と思った。
迷いの暗がりを照らす、赤くまばゆい帰り提灯
彼女は灯篭、燈火だと。
大事に護ってやらねば消えてしまう導の火なのだと、火車切は悟った。
これが、この本丸の未来を照らす篝火だと。
「…………俺、もっと、強くなるから」
火車切はそう、小さな声で宣誓した。
「二度と怖い目に遭わせなくて済むくらい、うんと強く」
「うん、信じてる。信じてるよ」
きんと冷えた星空の下
二人はずっと、背中合わせに寄り添っていた。
《epilogue》
火車切は、古い過去の物思いからゆるやかに浮上し、暗がりの中でゆっくりと目を開けた。
黄金の眼が常闇の中で輝き、討つべきものを視線で射抜く。
泥付いた重い瘴気がねばつく。
常人ならば気が触れてもおかしくない常闇が、星ひとつ無い空の下で無数の蟲のように蠢いている。
それらを前に。
火車切は揺るぎもせず、すらりと背筋を伸ばして降り立った。
灯篭の明かりも届かないほど濃い夜闇。
火車切が立てば、闇すらも道を開ける。
本丸で重ねた歳月とあの日の決意は、火車切をここまで強くした。
「さて、隊長くん。どこから攻めようか」
にっかり青江がそう、どこか楽しげに口にした。
「前も後ろも、どこからでも攻め放題だよ?」
「壮観だね。これだけの規模の鬼退治はいつぶりだろう」
「して、どうする」
「決まってる」
特殊部隊、対怪異妖隊、隊長、火車切。
隊員、にっかり青江、髭切、膝丸、鬼丸国綱、祢々切丸。
百鬼夜行を前にして、錚々たるメンバーの中で、最も小柄な彼が、皆を率いて、戦の旗揚げの声を上げた。
「主に害を為す全てを斬る。一匹たりと残さない」
刃をすらりと抜いて、常闇を裂いた鋼が激しく煌めいた。
火車切の瞳が、黄金から真紅へと燃え上がる。
「闇を斬り、主に夜明けを!」
火車切の上げた声こそが、闇を裂く夜明けの勝鬨だった。
《火車切と主と大倶利伽羅》end.
《大倶利伽羅と歌仙が鉄扇で舞う話》
「あるじ〜!! 誕生日おめでとう〜!!!」
クラッカーが鳴り響いた中心で、『本日の主役』のタスキを掛けられた主が、くすぐったそうに頬を赤らめて笑っていた。
今日は、この本丸の幾年目となる、主人の生誕祭だった。
なにせ最初の年など、もう日が終わる寸前という時間になって、たまたま周囲に聞かれてああ誕生日だったのだと平然と明かした彼女に、光忠は「なんでそういうこと早く言わないの!!!!?」と叫んで慌ててケーキを焼きに走るわ、初期刀を筆頭に古株連中が阿鼻叫喚で右往左往するわ、大惨事だったのだ。
時代的にも宗派的にも数え年で祝うわけでもないのに、察するにどうやら周囲に誕生日を祝われたことが数えるほどしかないと思われる彼女のために、次の年からは必ずこうして余興を交えた盛大な祝宴を開いている。いつもの月一の宴に輪をかけて豪勢なこの宴、彼女が毎年のことにようやく戸惑わなくなってくれた実にめでたい日だ。
酒飲み連中は輪をかけて呑むし騒ぐし、厨連中は食糧庫の備蓄を使い切る気かというほど豪勢な飯を並べるし、一部の連中は派手な余興の準備に余念が無いし、特に番長連中など意地でも成功させんと下手をすると戦より気合を入れて号令しているような調子であるし、まあいささか過剰なぐらい、騒がしくもあたたかで良い宴だった。
そもそも付喪神というやつは、皆揃って大なり小なり酒と宴と節目を好むものだ。
九十九神とも書くように、重ねた年月と節目の意味を、付喪神は重要視する。七つまでは神の子と呼ぶように、人の子の齢の変化を、神は時に人の子以上に注視する。
だから、そういった節目を粗雑に扱う者は端から居ないのだ。にも関わらず、自分たちを束ねる主人がそれに無頓着では憂うのも当然と言えよう。
本丸の刀たちそれぞれが、心優しい主を想って作る宴だ。どんなにささやかなものでも彼女は喜んだだろうが、こういうのは派手なほど良いものだ、というのが、この本丸の刀たちの考えだ。
名だたる名将、一国一城の主君、尊き血筋の姫君に愛蔵されてきた歴史を持つ者の集まりである刀剣男士たちからすると、宴もせずに節目を終えるなど、冷遇と変わらない感覚を覚えて気が落ち着かないと述べる者も少なくない。彼女には『そういうもの』だと繰り返し刷り込んで、ようやく遠慮や戸惑いを捨ててもらったが、それまで中々苦労した。
つまり今、歌仙兼定による
実に堂々とした優美な鉄扇の舞いを
まるで雪の中にいるように、頬を真っ赤に高揚させて拍手している主の喜色満面の笑顔は
鶴丸たちが皆で時間をかけて苦労して創り上げた、この本丸の平穏と幸福の象徴というわけだ。
優雅にひらひらと、蝶よ鳥よとばかりに
華麗なる鉄扇の揺めきが、花よ風よと雅やかに踊る。
パッと開けば華やかに、さっと空を斬れば優美に
無骨ながらに美しく光を吸う鉄扇が、流麗に曲線を描いて揺らめく。
足捌きは、のびやかで力強くも軽やかに
腕の先までもしなやかに、爪の先までも艶やかに
くるりと舞うたびに藍色の裾が広がり
空気をはらんだ紫苑の髪が軽やかに風に遊び、鉄扇の向こうに隠された空色の視線が、扇を翻す度にぴたりと射抜く。
扇の舞いとは
優美な手足と艶やかな視線を以って創り上げる
ひとつの芸術だ。
歌仙が、美しい鉄扇を広げながら、主へ舞いを奉じて、優雅に一礼する。
手が痛くなるくらい拍手する主に、歌仙が満足げに笑みを浮かべた。
酒飲み連中は既にかなり出来上がっていて、思い思いに手を叩いては「よっ!」「いいねえ歌仙ちゃん!」「千両役者!」などと膝を叩いて、高らかと指笛を鳴らして囃し立てている。
普段ならあまり羽目を外しすぎるなと目を光らせている長谷部みたいな連中が率先して盛り立てている宴だ、酔って脱いでいる連中もいるが真面目な連中が頭を抱える程度で誰も咎めない。
それぐらい盛大で明るく騒がしい、めでたい祝いの席だったのだ。
余興の締めの拍手と喧騒が途切れるわずかな隙間を、鶴丸が狙ったように、よく通る声を上げた。
「そういや、伽羅坊の舞いも見事なもんだぜ」と。
端の端の端の方で酒をちびちびと呑んでた大倶利伽羅が、手酌をピタッと止めて、余計なことをとばかりに鶴丸を睨んだ。
「わっ! ほんと!?」
「ありゃ一見の価値ありだぜ。なあ光坊?」
「うん、伽羅ちゃんの舞扇は凄いよ」
「そうなんだ…!」
主は無邪気にわっと、見てみたいとばかりに破顔する。
鶴丸は悪い顔をして唆すように、彼女の肩へ親しげに肘を置いた。
「今日はきみが主役だ、お願いしてみれば、聞いてくれるかもしれないぜ?」
旗色の悪さを察し、逃げようと素早く身を翻した大倶利伽羅だが、振り返ったそこに火車切がいる。
思わず立ち止まった大倶利伽羅の目の前で、この上なく目をきらきらさせた火車切が、ぶんぶんと振る尻尾が見えるような様子で、めちゃくちゃ見てみたそうな顔をしている。
弟分から寄せられる真っ直ぐな期待に、大倶利伽羅が無言でたじろいだのが分かった。
「あ、の…! み、見たい…!」
「勘弁しろ、馴れ合いはごめんだ」
「ほら、きみも」
「あ、」
鶴丸に背を押された彼女が、たたらを踏むように前に出て、慌てて火車切の裾を両手で引いて止める。
火車切が訝しげに振り返って彼女を見返した。
「や、でも、急だし、」
彼女はまだまだ、『誕生日』を口実にわがままを言うのに慣れていない。
「ほら、嫌なのに無理やりお祝いさせるのは、伽羅ちゃんに悪いし、ね」
遠慮で俯いてしまった彼女の頭を、大倶利伽羅が眉根を寄せ、ぽんっとすれ違いざまに手を置く。
大倶利伽羅に初めて頭を撫でられた彼女は、両手で自分の頭を持ったまま、ぽかんと口を開けて、穴の開くほど大倶利伽羅を見つめた。
主と火車切に背中を見せた大倶利伽羅は、酒飲み連中に「退け」と少々乱暴に蹴り上げながら道を開けさせ、ずんずんと前に進み出た。
大倶利伽羅が、舌打ちしながら指でクイッと歌仙を招いた。
歌仙は心得たように自身の鉄扇を、大きく弧を描いて大倶利伽羅に投げ渡した。
「さて、手加減は必要かな?」
「要らん。本気で来い」
酒を呑んだ連中が、高らかと口笛を吹き、手を叩いて囃し立てた。
「時代が下ると、主君の屋敷へ上がる時などには、武士と言えど帯刀が許されなくなる」
何が起きるか分からず目を白黒させている主に、鶴丸が耳打ちした。
「許されたのは添え差しである脇差まで。だが、それだけでは斬りかかられた時の防御に劣る。だから刀の代わりに鉄扇を差したのさ。つまり、『打刀の代打』として、あの時代の武士は鉄扇を操る護身の術を持っていた。────さて。では、刀剣男士は?」
鶴丸国永は、胡座に片肘をついて、ニヤッと口角を吊り上げた。
「その答えが、アレだ」
歌仙が鞘走りを一閃、大倶利伽羅に斬りかかる。
大倶利伽羅は、開いた鉄扇で、見事にそれを受け止めてみせた。
歌仙の斬り返しを、鮮やかに鉄扇でいなす。
キン、キン、と高い音が幾度も響き渡り
刃の白銀を、黒の鉄扇が鮮烈に止める。
頭上から振り下ろされる袈裟斬りを肩へ斜めに流すようにいなし
ぐるりと回りながら背を切り付ける一太刀を捌く
それは、小さな鉄扇でくるくると自在に舞うようで、何度斬りかかられてもピタリと止めてみせる姿は、まさしく舞踏と言えた。
刀を抜かぬ背中に凶刃を向けられども鋭くいなし
鉄壁と言わんばかりに、薄い鉄扇一枚が、決してその先に届かせない。
鋭く手首を翻し、白刃を大胆に払う鉄扇が、まるで寄る羽虫を払うかのごとく、大倶利伽羅の手でくるくると存分に舞い続ける。
限界まで見開いて、その美しい戦いを目に焼き付けた主は
隣で目を輝かせる火車切と同じ目で、キラキラと夢中になって見つめた。
やがて、閉じた鉄扇の先で一撃を跳ね上げた大倶利伽羅が、舞うように踵を跳ね上げて鍔を蹴り上げ、ぐるんと縦に回った。
一瞬で懐に潜り込んだ大倶利伽羅が
鉄扇を鋭く歌仙の喉に容赦なく突き付けたところで、その美しい舞扇は止まった。
喉を裂く寸前でピタリと止めた大倶利伽羅は、刀を振るうのと遜色無い鋭さで、眉根を寄せた。
「手加減するなと言ったはずだが」
「うっかり本気を出すと鉄扇を斬りそうでね。苦労して選んだ良品だから、どうにも惜しくて」
「ふん、まあ、余興には十分だろう」
雑にポンッと鉄扇を放った大倶利伽羅に、歌仙が「おおっと!」と慌てて自分の鉄扇を受け止めた。
酒を呑んだ連中が、口笛を吹いて手を叩いて囃し立てる。
「よっ! お見事!」
「伽羅ちゃんカッコイイよ!」
「さっすが、伊達者は粋だねえ」
「うん、何度見ても、伽羅坊の鉄扇術は見事の一言だな。鋭く鮮やか、あれぞ舞扇、ってな」
「……!!!」
頬を高揚させ、手が痛くなるまで拍手を繰り返した主と火車切の方に、囃し立てる連中を押し退けて大倶利伽羅が歩いてくる。
「これっきりだからな」
と言い置いて皆の中心から離れ、すれ違いざまに「見せ物は二度とごめんだが、祝ってやるのが嫌とは誰も言ってないだろうが」と主に言い残して宴の外れへと去っていった。
彼女は、ぽかんと少しの間ほうけていたが、やがてパァッと表情を高揚させ、嬉しそうに、本当に嬉しそうに破顔し、喜びで林檎のように真っ赤になっていた。
鶴丸はニヤッと口角を吊り上げて「さっすが、伽羅坊、外さないねえ」と、その隣で光忠が嬉しそうに頷いて「さすが伽羅ちゃん、カッコイイね」と笑った。