①本編(色々な刀剣男士) → https://privatter.net/p/11213162
③続編(大倶利伽羅と主の願い)→ https://privatter.net/p/11275650
1p 鶴丸国永と「千年先へ続く物語を」
2〜3p 古参は鶴と共に戦場で踊る
4p 契約と鶴丸国永と悪い男
5〜7p 鶴丸国永と祈りの旅路を
8p 後日談、物吉貞宗/決意、加州清光いわく
9p 粟田口と鶴丸国永と殻色
10p 真白な鳥の偲びの舞と歌声
11p 鶴丸国永は瑞鳥か凶鳥か
12p 鶴と伽羅〜望月の夜に盃を〜
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《鶴丸国永で『千年先へ続く物語を』》
政府や審神者学校で何の研修も受けないまま、特殊な事情で突然本丸に赴任することとなった、オレたちの主。
ようやく本当に最低限、『刀剣男士とは』『歴史を守る戦いとは』という基礎的な内容を押さえてすぐ、初期刀の加州清光と初鍛刀の鶴丸国永にこう訊ねた。
「この本丸にとっての『最悪の事態』って何?」
ほう、なかなか鋭い質問だ。
それまでは右も左も分からない様子だったのに、自分の状況を把握してすぐ出る質問がコレとは。
感心した鶴丸の隣で、加州清光はその質問に「あー……」と返答を濁して、戦と無縁の時代に生きてきたこの主に、どこまで明け透けに教えていいか探っているようだった。
「まあ、そりゃもちろん、負けることだよね」
「この場合の『負ける』って?」
「あー……」
「それはな、きみの首が落とされることさ」
鶴丸は開示を躊躇わなかった。あまりにも明け透けな言に、加州はぎょっとしたようだが、意外なことに、主は動じることなく小首を傾げた。
「本丸が攻め落とされて全滅する、とかじゃないんだ?」
「違うな。分霊が折れども本霊がいる。きみさえ無事なら、オレは何度きみに呼ばれたっていい」
隣で加州清光が息を呑んだのが分かった。構わず鶴丸は続けた。
「ここにいるオレは消え、共に過ごした思い出は消えるが、次のオレがきみのそばで戦えるなら、それは『最悪』なんかじゃない」
主に片膝を折って傅き、オレは心から真摯にそう伝えた。
「だから、この本丸の『最悪』は常にきみが死ぬ時だ。オレたちだけ遺されても意味が無い」
「この本丸は、私が寿命を全うしたら政府に帰属するんだよね? ってことは、次に私の代わりになる人が用意されてるってことでしょう? それでも引き継ぐべき刀剣男士の全滅より、審神者の生死が重要なの?」
「あるじ、」
隣で初期刀が絶句していた。
オレはこの時初めて、主には将としての才能があると感じた。
何も知らないが故に笑顔で刀剣男士の側をちょろちょろするばかりだった彼女だが、必要な知識を与えられてすぐ出たのは、自分と刀剣男士を完全に『資源』と見立てて天秤に掛ける一言。
主は今、明確に測っているのだ。
今後の行動の指針を。
そして、いざという時に何を捨てるべきなのかを。
「ああ、そうだ。きみの生死の方がよほど重要なんだ」
だからこそ、ここは間違ってはいけない。
鶴丸国永は、酔狂な伊達者の仮面をこの時ばかりはかなぐり捨てて、神座に連なるものとして、人の子の問いに真摯に教えた。
「いいかい、オレたち刀剣男士は、どこまで行っても『物』だ。物言えぬはずの刀がこうして人の身を得て、きみと語り合えたのは、人の子がオレたちに物語を与えたからなんだ」
物が語る故、物語。
その真髄を伝えねばならない。
「きみさえ生きてさえいれば、きみは、人の子は語る。折れることすら、きみが語る物語の中に鮮やかに刻まれる。語られるから、オレたちは再びどこかで顕現するんだ」
オレは跪いたまま、主の手をそっと両手で拾い上げた。
武器を持った事のない手だ。白魚のように細くきれいで傷のない手だった。
この手が、この指が、この声が、この喉が。
きっとオレたちを千年先の未来に連れて行ってくれる。
「刀剣男士の真なる死は折れることに非ず。只々、語り部を永久に失くす事也、だ。きみが物語ってくれる限り、折れてもいつかどこかで巡って再び刀に宿る日が来る。ここにいるオレたちも、そうしてどこかで人の子が語ったから、きみに出逢えたんだぜ」
オレは片目を瞑って、主に笑いかけた。
「それがなければ、オレたちは物言わぬ鉄屑、なまくらに戻るだけ。きみが死ぬということは、大切に語られるべき物語が永久に失われるということなんだ」
「物語……」
「そう、物語さ。オレら刀剣を語るべき人の子が一人減る。その損失が、どれほど途方もなく大きいか。語られる物語に一つとして同じものはなく、きみの物語はきみにしか語れない。それこそが、きみにしか呼べない刀剣男士がいるということなんだ」
「……私にしか、呼べない、刀剣男士」
「そうだ。きみたち人間が、オレたちの物語と共に百年先の未来へ行きたいと望むのと同じように。オレたち刀剣男士もまた、きみたちの物語と千年先へ行きたいと願っている」
鶴丸国永は、その金色の瞳でじっと審神者を見据えた。主は、まるで熱に浮かされたみたいに繰り返した。
「千年先へ続く、物語……」
「いいかい、よく聞いてくれよ。戦なんてのは、本当のところ、きみと無関係の誰かが自分の都合で勝手に始めたことさ。そんな誰かが勝手に決めた枠組みで、きみの『代わり』なんてものを測るんじゃない」
主は丸くした目でパチ、パチ、と二度大きく瞬きし、まるで目から鱗が落ちたような顔をした。鶴丸は言葉を重ねた。
「きみが生き、オレたち刀を語る。それだけが、刀剣男士の本霊へと与えられる唯一無二の報酬なんだ」
人の子の柔らかい手を、鶴丸は強く握った。
「だからきみは、他人のどんな都合も無視して、ただ全力で生き抜き、天寿を全うするその日まで、未来へ語り続けてくれ。それこそが、どんな時もきみを護り抜くと誓うオレたちの、たった一つの望みだ」
シン、と音が絶える。
耳が痛いほどの静寂の中で、鶴丸国永はふっと口角を上げ、パッと両手をバンザイした。
「……まっ!そうは言っても、折れるのはご勘弁願いたいがな!ぜーんぶ、最悪なもしもの話さ」
パッと主の手を離し、空気を弛緩させ、鶴丸国永はそう飄々と笑った。
主は、鶴丸国永をじっと見つめていた。
「……加州も、そう思う?」
主は、じっくりと鶴丸国永の言葉を噛み締めた後、振り返って初期刀にそう尋ねた。
「自分が折れるより、私が語り継ぐ方が、重要?」
「……そうだね、俺も、そう思うよ」
加州は、そう、静かに頷いた。
「そりゃ、折れるのは嫌だよ。ぜってー嫌だ。あるじに最初に選んでもらったのは俺で、愛してもらったのは俺だ。それは、他の俺にだって譲りたくない」
噛み締めるようにそう口にした加州の言葉を、主がじっと聞いている。
「けど、大切な主を護れずに遺されるぐらいなら、主を護って俺は折れたい。俺の大事な主がきっと未来に語り継いで、次の俺を愛してくれる日が来る。そしたら俺は、きっと次の俺の一部として、また主に愛してもらえるから」
加州は、まろい両肩にそっと手を触れて、主の目を覗き込んだ。
「だから、俺たちだけ遺されて、主がいない、なんてのは受け入れられない。主にそんな選択はさせない。絶対に」
主は、無表情にも思えるほどにじっと初期刀と見つめていたが、やがてふと表情を和らげた。
「わかった。二人を置いていかない」
主は、鶴丸国永と加州清光に同時にぎゅっと抱きついた。
「未来のことは分からない。だから約束できない。けど、そのために、精一杯がんばるよ。それだけは、約束する」
それ以来、自分の命と刀剣男士を秤にかけるような言動は、二度と聞かれなくなった。
◇ ◇ ◇
主が寝静まった後、加州清光は、深く深く、ふかーくため息を吐いた。
片手で目を覆い、これみよがしに長く嘆息した初期刀殿に、鶴丸は「お疲れだな、饅頭食うかい?」と白々しくすっとぼけた。
「このびっくりジジイ……いくら驚き好きって言ったって、あんまりギョッとさせんなよな。何度折れてもいいなんて、普通、主に最初に教えることかよ」
「ははは、すまんすまん」
全く反省していなさそうな声音でそう笑った鶴丸国永は、「まっ、あの主なら、オレたちをそう悪いようにはしないさ」と言いながら寝所の方向に目をやって、すっと表情を改めた。
「まっ、だがありゃ、異常なほどに素直な性質だ。最初に教えられた中身を生涯大事にするだろうな」
鶴丸国永は投げ出した片脚を交差させ、うなじをガリガリと掻いた。
「迂闊に政府の教えを通ってなくて良かったぜ。嫌な驚きは防ぐに限る」
「……そうだね」
加州は唇を引き結んだ。鶴丸が主にああ教えた理由は、誰より近くで見聞きする加州にも少し察することができた。
「主、護衛の俺たちを盾にするのに抵抗があるみたいだった。俺たちの主は優しいから、オレたちの命の仕組みが自分と違う、ってことを呑み込むのは、ちょっと難しいと思う」
「まっ、すぐ死ぬ自分と頑丈な刀剣男士を同列に扱うのは、悪い癖だな。平和ボケが過ぎるぜ」
「だから、俺たちが何より望む、命より大事な『物語』を護って、って伝えたのは、正解だったと思う。きっと自分を優先してくれる」
「同意見でなによりだ」
肩を竦めた鶴丸国永はさっと立ち上がると「んじゃ、不寝番は任せたぜ。オレはちょいと夜食でも適当に摘むかな」なんていいながら、背中越しにぷらぷら手を振った。
黙って見ていた加州清光は、勢いよく振り返った。
「けどな!そう簡単に折れてもいいとか言うなよな!させねえからな、お前が折れたら、主が泣くだろ!」
ひら、と肩越しに手を振る鶴丸国永は返事をしないまま廊下の角を曲がっていって、加州清光は頭を抱えると「あ゛〜〜」としゃがみ込んだ。
「あっちもこっちも頭が痛いことばっか…!」
◇ ◇ ◇
あれはね、愛情深過ぎるんだと思うよ
と燭台切光忠が言った。
「ほら、やっぱり、どこの本丸だって、最初の方に呼ばれた刀ほど、主に傾倒する傾向はどうしてもあると思うけど」
燭台切光忠は、手元の枝豆のさやを丁寧に剥きながら、そうゆったりと言葉を継いだ。
「たとえば、加州くん、きみたち五振りは初期刀だろう? それって、『最初の一振りになっても、精神のバランスを崩さず上手く主と付き合える』って資質だと思うんだよね」
厨のテーブルに片頬を押し付けたままの加州は、伊達家で鶴丸国永と旧知の燭台切の見解を、じっと無言で聞いていた。
「まあ、僕も分霊だから、必ずしも本霊の考えを完璧に理解できるわけじゃないけど。でも、主と最初から共に過ごしても問題ない、と自分を判断してる刀ほど、人の子が容易にたどり着けるように分霊を送り込んでるのは、実際そうだと思うんだよね」
人の子は良く希少刀とかレア刀って呼ぶけど、それってつまり、未熟な内に呼ぶとマズイとか、本丸の規模が小さい内に呼ぶとまずいかもって意味じゃないかな、と燭台切は私見を述べた。
加州は「あ〜…」と相槌を打った。
確かに最も呼びにくい一振りである三日月宗近を思えば、そういう傾向はあるように思う。改めて言われてみれば確かに、どこの俺も、あまりそういう忌避感はないかもしれない。いつどこでどのタイミングで主に呼ばれても、愛してくれさえすれば、俺はそれにこだわらない。
「その点、鶴さんは、初期刀に次ぐ初鍛刀で呼ばれることなんて、普通は絶対ないからね。それって、言い方を変えれば『向いてない』ってことだと思うんだ。もちろん、どこの鶴さんも素敵な刀だけど、引き継ぎで最初期に主の側に控えてしまうと、過剰に主と絆を結びすぎて何かと問題を起こしがちなのってそのせいだと思うんだよね」
「あー……」
「鶴さんって、昔から本当に周りをすごく良く見てるんだ。死角が多い戦場と、集団の中ではいつでも本当に頼りになる刀だけど、でもあれってさ、裏を返せば、見えちゃまずいもの見えすぎてると思うんだよね」
燭台切はそう言って苦笑した。
「だから、主と近すぎると、見えすぎちゃうんじゃないかな。意識的に視界に入るとつい全力で助けてあげたくなっちゃうのって、程度の差はあれ、僕ら付喪神はみんな共通だと思うんだよね」
そう言いながらゆったりと構えている燭台切光忠を見上げて、加州はテーブルに突っ伏したまま、じっとその横顔を見つめた。
「……落ち着いてんね。心配で不安になったり、しねーの?」
「僕がどんなに心配したって、いつだって鶴さんはああいう刀だよ」
燭台切は、枝豆を剥き終わってザルを持ったまま、そう苦笑した。
「だから、あれこれ心配するより、嬉しいって考えるようにしてる。鶴さんにはいつも助けられてばっかりだからね、僕にも鶴さんを助けてあげられる機会が巡ってきて嬉しいって」
「……さっすが、伊達男。カッコイイじゃん」
燭台切は、加州の褒め言葉に「ありがとう」とさらりと微笑んで、懸念するように苦く笑った。
「鶴さんって、自分のお守り人にこっそりあげちゃうタイプだからさ。僕らがよく見ててあげなきゃいけないよね」
はあ、はあ、と戦場に響き渡る荒い息が、必死に駆け付けた加州清光に聞こえる全てだった。
握り締めたお守りは、本来鶴丸が持っているべきものだった。別動隊から預かって血の気が引いた。
戦場に倒れ伏した白鶴は、どこもかしこも真っ赤だった。
血みどろの両耳は機能していないらしく、辿り着いた加州清光に反応する様子が無い。
金色の瞳は濁ってどこにも焦点が合わず、ゆらゆらと宙を彷徨っている。
「なあ主、ひとつだけ頼みがあるんだが」
ピキピキ、と頬に走る亀裂が、鶴丸国永が折れる寸前であることを示している。
空中に向けて、そう、まるで頬に触れるみたいに少しだけ手を伸ばした鶴丸国永は、端末の向こうで泣きながら見ているはずの主にそう願い出た。
「なあ、次のオレのことは、ただ鶴丸国永と呼んでくれ。きみがくれたあだ名は、オレだけの餞別に黄泉路へ持っていくから」
血濡れの鶴丸は、まるで日常の延長であるかのように笑った。
「あーあ、予定が狂っちまった。こういう驚きはよくないな。最期まで看取ってやるつもりだったのになぁ、墓の下まで付き合ってやれなくて、すまんな」
血で固まった白いまつ毛を重たそうに伏せて、ひどく穏やかに鶴丸国永は目を閉じた。
「次のオレこそ、ちゃんときみを大事にしてくれるといいが」
加州清光は、ギリッと音が出るほど奥歯を噛み締めて
握り締めたお守りを鶴丸に押し付けて「馬鹿野郎!!!」と叫んだ。
お守りが派手に砕け、周囲は光に包まれた。
「いやー、すまんすまん。悪かった!反省してる!」
傷ひとつなく手入れされた鶴丸国永は、本丸の大広間で逆さ吊りにされたまま、殊勝な顔で濡れた子犬のようにニコニコ笑った。
「だから、あー、そろそろ解いてくれないか?」
「ダメだね、全然反省してない。この顔は殊勝に謝れば許してもらえると思ってる顔だよ。ほとぼりが冷めた頃にまたやる」
「光坊〜…そりゃないぜ!」
「信用ゼロだな」
「むしろマイナスですよね」
「信じてもらえると思ってる時点で図々しいな」
「鶴丸さんの大丈夫を信じる刀なんて此処にいるんですか?」
「Oh…」
刀たちの酷評に、逆さ吊りのまま笑顔を引き攣らせた鶴丸国永を他所に、物吉貞宗が急に黙ってじっと考え込んだ。
「そういえば、本丸が出来立ての頃にもありませんでしたっけ。確か……」
「ああ、蔵からくすねた手伝い札で、重傷隠したまま手入れ部屋使おうとして見つかって主に百倍泣かれたアレな」
「自業自得すぎねえか」
「あれで物吉に蔵番長のお鉢が回ってきたんだったよな。数誤魔化されないように」
「あの時もこんな顔で笑ってたような……」
「最悪じゃねえか」
「やっ、いや、今回ばかりは本当に反省してるぜ!? なあ!?」
「ダメだね。これは『そうは言ってもあの場面じゃあれが最善だっただろうに』って顔だよ。合理性があればまたやる」
「光坊〜!!!?」
《古参は鶴と共に戦場で踊る》
これは、この本丸ができたばかり、古参刀たちの時代の話。
新設されたこの本丸、設立時の特殊事情により、着任したのは初期刀の加州清光に次いで、初鍛刀の鶴丸国永、次は燭台切光忠である。
打刀、太刀、太刀と来たこの本丸
何が問題かといえば
「手入れ資材効率、わっっっる!!!」
加州清光はそう言って頭を抱えた。
「重い!!太刀の手入れ資材マジで重い!!」
「ははは」
軽傷でもごっそり持っていかれる資材に、呑気に笑っている鶴丸国永と申し訳なさげに正座している燭台切光忠。反応は対照的だが、結論は同じだった。
「ま、何にせよ、短刀か脇差を呼ぶべきだな」
この際、燭台切光忠に誰を呼びたいか希望を尋ねた主は、鶴丸に希望を聞いた時と同じように、見事に一発で太鼓鐘貞宗を引き当てた。
「みっちゃん! 会えて嬉しいぜ!」
「貞ちゃん! すごいや、本当にこんなに早く会えるなんて!」
鶴丸や燭台切にするのと同じように、主はにこにこと太鼓鐘によく懐いた。それは将と臣下というより、家族や兄弟のような気やすさを求めていると皆感じた。となると。
「んんんん〜……伽羅坊、伽羅坊なあ」
さて、今までの流れに次いで、貞坊の希望を聞くとなると、自然と大倶利伽羅を呼ぶ形になってしまいそうだ。
鶴丸は腕を組んで首を捻り、思案をめぐらせた。この本丸には、どうみても太刀は過剰だろう。それに戦闘が少ないこの本丸には、大倶利伽羅は馴染みにくいだろうな。主はめちゃくちゃ馴れ合いたいタイプだし。
そう考えた鶴丸国永は伊達組で相談し、大倶利伽羅を呼ぶのは今ではない、と判断する。
「僕らの主、いわばめちゃくちゃ馴れ合いたい派だよね」
「戦闘も少ないし、規模も小さい。近侍になれば強制的に四六時中一緒なわけだ」
「逃げ場がないよな〜、伽羅ちゃんにとってはちょっとキツイかもなあ」
「第一、今この本丸に太刀は過剰だろう。ああいや、今は打刀だったか。でもなあ」
「どちらにせよ、伊達に刃選が偏りすぎだよね。加州くんがやりにくいんじゃないかな」
「だが、自分のところの縁者を呼ぶ気は無いみたいだったぞ」
「そうなんだ? 加州くんたちは割と若い刀たちだし、主と相性良さそうに思えるけどな」
「あいついわく、新撰組の刀は程度の差はあれ戦闘狂なところがあるから、呼ぶならもっと本丸の体制が整って戦場でやりやすくなってからの方がいいとさ」
「じゃあ、全く別の刀派から呼ぶことになるね」
「現世の状況を考えるとなあ。主が過ごす場はほとんどが屋内なわけだろう」
鶴丸がそう意見を上げた。
「夜戦と室内戦に向いていて、練度の低い内からそれなりの耐久性がある脇差が一振り欲しいところだな」
そう結論を出し、鶴丸は首を捻った。
「だが主は奉納祈願の手順がめちゃくちゃだし、あまり古い刀は相性で事故るかもなあ」
「となると、誰を呼ぶかより、主と気が合うかどうかが大事になるね」
「ふーむ、となると……」
鶴丸はニッと笑って膝を叩いた。
「そうだ。オレに妙案があるぜ」
そこで鶴丸国永は、主にこう進言した。
「なあきみ、オレたちの縁者もいいが、今度は『自分に似た刀』をイメージして呼んでみたらどうだ?」
「わたしに似た刀?」
「そうさ。自分と共通点が多いと思えるような懐刀が呼べれば、自然と気が合って良い結果になるだろうぜ。せっかくだ、試してみないか?」
鶴丸はそう言って軽やかにウィンクした。
「呼びたい刀を呼べるのはたいそう驚いたが、それだと逆にきみの驚きが足りないんじゃないか? せっかくだ、誰が来るか分からない、そんな驚きももっと味わってみるといい。オレを呼んだ時みたいにな」
目論見は非常に上手くいき、その結果やって来た最初の脇差が、物吉貞宗だった。
「鶴るん、鶴るん! 幸運の刀なんだって!」
「なるほど、きみに似合いだ」
鶴丸国永はそう笑った。
この時は加州に次ぐ打刀も増員したいタイミングであり、物吉貞宗の縁を辿って次に呼ばれたのが、亀甲貞宗だった。
亀甲を呼ぶことそのものは物吉の発案だったが、確かに亀甲貞宗の主至上主義は有名だ。
奉納の正しい手順を何一つ知らない主が治めるこの特殊な本丸においては、一も二もなく主のやり方に全霊で同意するだろう亀甲の行き過ぎた気性は、かえって良い形で機能するかもしれない。
そう考えた鶴丸国永は、物吉の案を主に進言するのを止めなかった。結果は上手くいった、と鶴丸は踏んでいる。
初期刀の気苦労は、ここから倍となったが。
「打刀、打刀、太刀、太刀、短刀、脇差か。悪くないじゃないか。もう少し短刀が増えたら大太刀や薙刀も呼びたいところだな」
幸いにして、このタイミングで大阪城が開門する。渡りに船だった。
主が直接差配するたった一日の短い参加期間で、行けたのは50階層まで。その際、たった1回きりの行軍にも関わらず、10Fで博多藤四郎、20Fで後藤藤四郎、30Fで信濃藤四郎、40Fで包丁藤四郎、50Fで毛利藤四郎を初回ドロップした。
このため、この審神者、毎年ある大阪城を、この五振りが確定ドロップする場所だとずっと思い込んだまま現在まで至っている。
博多を筆頭に短刀が一気に増えたため、そこで、大太刀や薙刀も呼びたい、ということとなった。
この時期に打刀をさらに増員することとなり、千子村正がやってくることとなる。
「薙刀は巴形と静形が来たか。良い刃選だったんじゃないか」
「うん。逸話の乏しい彼らは、主のやり方を自然なものとして受け入れてくれたみたいだ」
「さて、問題は大太刀だな。大太刀連中はどいつも古いからな。主のやり方を受け入れてくれるかどうか」
懸念されていた大太刀だが、石切丸が赴任する。
この石切丸は非常に気性が温和で、幸いにして主の方向性を柔軟に受け入れてくれた。
この時、この本丸の刀、十五振り。
加州清光、鶴丸国永、燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、物吉貞宗、亀甲貞宗、千子村正、博多藤四郎、後藤藤四郎、信濃藤四郎、包丁藤四郎、毛利藤四郎、静形薙刀、巴形薙刀、石切丸。
この辺りまでを、この本丸では古参刀と呼んでいる。
「改めて見ると、本当に偏ったなこの本丸」
「曲者揃いが過ぎんだろ……」
「huhuhuhu…」
「まあ、そもそも鶴さんが初鍛刀な時点でね」
「大将は普通とはちょっと違えからなあ。俺らも普通と違う編成になるのはもう諦めるしかないっていうか」
「人と同じことしても商売は勝てんばい!」
現世に単騎出陣となる主の懐刀、近侍が一振り。
審神者の代理として指揮を取る名代刀が一振り。
第一部隊が六振り、第二部隊から第四部隊まで最低三振。内番および交代要員として四振。
この本丸を回すにあたって、最小刀数は既に揃っている。
「遠征の最大人数を考えると、猶予はあと八振だな。出揃った時点で一旦鍛刀を停止しよう」
「うん、少数精鋭が最適解だと思う。機会が少ない中での練度上げが最優先だからね」
「懐刀の当番を考えると、物吉と交代する脇差がもう一振りくらい欲しいところだな」
「粟田口からもう一振り脇差を呼ぶといいんじゃないか?」
「池田屋を視野に入れれば、交代の七振目の短刀も要るだろうね」
「槍は? 村正、お前のところに蜻蛉切がいたよな?」
「huhuhu…蜻蛉切はワタシが脱ぐとうるさいデス」
「ま、確かに槍は今じゃないだろうな。季節行事にも滅多に参加できない本丸なんだ、足場を固めるなら先に打刀じゃないか」
「いや、遠征効率を上げるなら槍も要るだろ」
この本丸では、近侍であり初期刀である加州清光が、現世で主の警護にあたるため、内務に参加できない。
日中も夜戦も対応できて室内戦が可能な打刀が優先して主につくため、初期刀に代わって実際に内務を取り仕切っているのは鶴丸国永だった。
鶴丸国永は、皆の意見にじっと耳を傾けていたが、最終的に方針をこう固めた。
「急務は加州と交代する打刀の育成だな。第一部隊、亀甲、村正。現世での室内戦、夜戦に備えて物吉にも限界まで入ってもらおう」
「ああ、任せてくれ!」
「huhuhu…任せてください」
「わっかりましたぁ!」
「誉は限界まで打刀に譲って……短刀二振が交代で支援に入る形にしよう。疲労が激しくなるだろうから、遠征は短刀を除いた、薙刀と大太刀で回すことにする」
「了解だよ」
「心得た!」
「殿は太刀だな。統率の高い太刀も早く練度を上げて、昼間に主の盾にならないといけないだろう。光坊と俺で交代で指揮する形にしよう」
「オーケー」
「よし、まずは千子村正、お前が先陣だ。最終的に付ける刀装が多くなるお前の方が、単騎出陣に向いてる。できるだけ早くお前が練度を上げて、加州と交代しながら限界まで叩き上げるぞ」
この本丸は、本来ならば指揮を取るべき主が、月の大半を不在としている。
本来は最低限の知識を身につけた状態で赴任し、本丸と共にゆっくりと育っていくべき審神者だが、この本丸ではその猶予が無かった。
まだ練度の甘い初期刀がたった一振りで主を護っている形である。
現世で無防備な状態にある主のために、早急にこの本丸の体制を整えてしまう必要があった。
鶴丸国永は、この頃、その差配の全てを取り仕切っていた。
故に、この本丸では、鶴丸国永の古参刀からの信任が非常に厚い。
「さてみんな、改めて聞いてくれ」
既に事前に主の承認を得て、それぞれの刀たちの内諾も得た状態ではあったが、この日が、正式にこの本丸の新体制の皮切りとなる最初の朝だった。
主に正式に名代刀の任を与えられた鶴丸国永が、主不在の中でみんなの前に立った。
その隣には、主から名代刀補佐の任を与えられた燭台切光忠が並んでいる。
「知っての通り、オレたちの主は月に一度しか本丸で指揮が取れない。その状態は変えようがないもので、この先数十年は続く予定だ」
鶴丸国永は、そう言って皆を見渡した。
「結局の所、この先どれだけ主が戦上手になったとしても、この仕組みの中にいる以上、オレたちはある程度自立を求められてる。主に代わって指揮を取る役目は、どう足掻いても必要だ」
「本来なら初期刀が指揮を取る方が望ましいだろうが、打刀のあいつは当分の間、主の側から離せない。練度上げの優先順位も最上位だから、あいつには寝る間を惜しんで戦場に出ずっぱりになってもらう予定だ。これは、ここにいないあいつとも話し合って決めたことで、主の承諾も得ている」
「で、状況を考えると、最初は太刀であるオレと光坊が、戦場の殿と本丸を交互に行き来しながら、交代で指揮を取るのが望ましいと思う。刀が増えて状況が変化すればまた変わるだろうが、まずは一秒でも早く主の安全を確保するのが最優先だ。そのためには、たった年十二回の主人の帰還をのんびり待ってなんざいられない」
だから、と鶴丸国永は
戦装束に着替え、今か今かと戦場に出るのを待っている皆の前で、勝鬨を上げるかのように、強い意志を込めてこう言った。
「俺たち最初の十五振りは、主不在の中で強くなる」
皆が頼もしげに頷く中、一振り一振りの顔を眺め回した鶴丸国永は、深々と頭を下げた。
「そのために、オレと光坊にその命、預けて欲しい」
鶴丸の表明に、皆はわっと声を上げた。
「鶴丸しゃん、水臭かよ!」
「俺たちの背中はとっくに預けてるぜ!」
「主の命なのだ、否があるはず無かろう」
「一緒に、あるじさまの力になりましょう!」
鶴丸国永を中心に、この時この本丸は一丸となって同じ方向を見ていた。
頭を上げた鶴丸は、殊勝な態度を捨ててニカッと笑うと、白絹をばさりとはためかせて拳を突き上げた。
「さあて、いよいよ大舞台の始まりだ! オレたちの主に、驚きの結果をもたらそうぜ!」
「あの頃の鶴丸しゃんは本当にかっこよかったばい」
「それがどうしてこうなっちゃったんでしょうね」
「本当にね」
「打刀と脇差に次いで、短刀連中が全員極めたあたりまでは頼りになる差配振るってたんだがなあ」
「色々余裕が出てきたのがかえって悪かったのではないか?」
「元々あいつは主がいない時の方がしっかりしてるよ」
「やっぱ自分が極めた辺りでネジが飛んじまったというか」
「修行先に頭のネジ置いてきちまったんだろ、多分」
「今思うと、鶴丸さんを第一部隊の隊長じゃなく、名代刀に置いた主の采配って本当に正しかったよね」
「アレが第一部隊の隊長だったらと思うとゾッとすんな」
「あの刀いったい何回両腕失くして帰ってきましたっけ」
「どうしてほんと、お守り発動寸前までやらかすんでしょうね」
「あれだよ、限界ギリギリを見極めんのが上手すぎんだろ。だから馬鹿みてえにギリギリの場所にしか自分を置かない」
「だから主直々に言い含めて、戦場組唯一のお守り持たせてたのに、何も知らねえ新刃にこっそり渡してたって?」
「言い訳できねーだろそれは」
「おいきみたち!悪口は聞こえないところで言ってくれないか!?」
「聞こえるように言ってんだよ、ばーか!」
「こんの主泣かせ!」
「この本丸でいちばん主を泣かせてマス」
「そういうやり方はかえって愛がないと思うよ」
「ぐぬぬぬ」
大広間に逆さ吊りにされたまま、鶴丸国永はひたすら言いたい放題言われ続けていた。
この本丸では、最初の三振りである加州、鶴丸、燭台切に次いで、主不在の創設期の激動の時代を乗り越えてきた古参刀十五振りの絆は固く、非常に気安い仲間として誰もが打ち解けている。
その中でも、主の名代だった鶴丸国永は、誰もに一目置かれていた──はずだったのだが。
「ねえ、この刀もう本丸にずっと縛り付けときましょうよ」
「いいなあ」
「いいなあじゃねえよ亀甲……お前の趣味はいいんだよ」
「いちいち突っ込んでると身が保たないよ」
「蔵にぶち込んどくか?」
「それやってこの前逃げられたじゃん」
「あいつ極めちまったから極短刀脇差と長谷部しか追いつけねーんだよ」
「僕の幸運でカバーできる範囲を超えてて……」
「物吉に匙投げられるって相当だぞ」
「だぁ!本当に!悪かったと!思ってるっての!」
「つ る さ ん ?」
広間の気温が五度下がった。
冷え冷えとした低い声が、ひやりと這い寄るように鶴丸国永の後ろから聞こえてきて、鶴丸はビクッと肩を跳ねさせた。
鶴丸国永は、だらだらだらと顔から汗を吹き出して、ブリキ仕掛けのおもちゃのように、ぎこちなく首だけ少し振り返った。
各々喋っていた古参刀たちも一斉に口を噤んで、目を逸らして存在感を消している。「ソレ」と、目が合わないように。
そこには、今までひたすら黙っていた燭台切光忠が、大広間の柱の暗い影に、何故か研いだ料理包丁を手に立っていた。
「ねえ、鶴さん……僕の聞き間違いかな……今の鶴さんの『悪かった』って、鶴さんがよく物壊した時に言い逃れする壊したのは悪かったの、悪かっただよね……?」
鶴丸国永はひくっと頬を引き攣らせ、顔を青くしている。
(うわ、やば)
(よせ、何も言うな。存在を消せ)
古参の短刀たちが、互いに口を塞ぎ合いながら息を潜めている。
ざり……ざり……と妙に重く引き摺る足音が、痛いほどの静寂の中で鶴丸にゆっくりと迫って行った。
「僕ね……鶴さんのことは尊敬してるけど……そういうその場しのぎの嘘はよくないと思うんだよね……ねえ? 鶴さん? 聞こえてる? 耳まで耄碌しちゃったかな?」
光坊の顔が見れない。
鶴丸国永は、真っ青な顔で滝のように汗をかきながら
少しずつ近付いてくる燭台切に怯えている
この本丸における新刃たちは震え上がって
いつも穏やかなこの本丸の三本柱の般若の顔に
怒りのバロメーターが振り切れるとああなるのか
と怯えながら無言で後ずさった。
燭台切光忠が料理刃を振り上げ一閃、鶴丸国永を吊り上げていた縄の上部分を斬り落とした。
縛られたまま畳の上に落ちた鶴丸国永の襟首を引っ掴み、燭台切光忠はこう言った。
「鶴さん、あっちで少しお話ししようね」
「ヒェ」
ずるずると暗い廊下に引き摺られていく鶴丸国永が、古参刀たちに向かって「た、助けてくれ!」と悲鳴を上げたが、誰も鶴丸と目を合わせようとしない。
(いや、無理だよ、鶴さん)
(合掌)
(どんまい)
(あんたマジで一回ちゃんと謝った方がいいよ)
(骨は拾いますね…)
ずる、ずる、と人を引きずる音が長く響き、やがて廊下には誰も居なくなった。
《契約と鶴丸国永と悪い男》
加州清光に代わって、近侍を拝命した鶴丸国永は、なかなか責任重大だと笑って気を引き締め直した。
初期刀が育て上げた刀たちは皆、正しくこの本丸の一柱になってくれている。
加州清光が『教育番長』に任命されたのは間違いなく正しい刃選だった。我らが主は最初、初期刀を近侍に置いたまま、オレに教育番長をさせようと考えていたようだが、こればっかりはあいつの方が向いていたと思う。
この本丸では、最初に加州清光にみっちりしごかれ、単騎で限界まで強く叩き上げられた刀たちが、次いで光坊と共に時間をかけて連携を学び、仲間と共に長期遠征を繰り返して本丸に馴染み、最終的に修行を終えてから、このオレに近侍の心得を指導されて現世に向かう仕組みになっている。
つまりまあ、オレの役目は最後の総仕上げ、ちょいと花を添える程度のことだ。
新刃教育という面では、初期刀の加州清光と最古参刀である光坊が九割がたを担っていると言っていい。
じゃあオレはといえば、その過程で、ちょいちょい起きるトラブルに首を突っ込んだり、適度に息抜きができるようにまぜっ返してやったり、負けん気の強い連中の特訓に付き合ってやったり、まあ、そんなところだ。
あいつらがこの本丸のメインの二翼だとすれば、オレの役目は、取りこぼしを拾う遊撃部隊といったところか。ま、あの二人に比べれば、ぶらぶら遊んでるようなもんさ。
心持つ刀剣男士が集まるということは、それだけ多くの衝突や摩擦が存在することと同義だ。それはどこの本丸でも変わらない。
幸い、主が非常に穏和な性質なのも手伝ってか、ここに集められた刀はいずれも、戦場至上の血の気の多い連中より、本丸の和を尊ぶ連中が多かった。それでも広い本丸だ、あの二人がどれほど気を配っても、目の行き届きにくい死角はどうしても存在する。
そういうところに未然に目を配ってやるのがオレの役目だった。皆と比べて古くから在るオレは、他の連中より多少はそういうことに目端が効く。ま、年の功ってところだな。
オレたちの主は、専任の審神者と違い、月に一度しか本丸に帰還できない。
だからこそオレは、できる限り多くの刀に、主と一日中ゆっくり過ごせる現世警護の任の機会をやりたかった。年にたった十二回しか帰城しないのでは、本丸組の連中が主に会える時間は非常に限られる。主にしかこなせない任務や書類仕事が月一で山積みなのもあって、本丸にいる間も主は手が離せないことが多い。
主もまた、自分のために力を尽くしてくれている刀剣と、ゆっくり共に過ごすことを望んでいる。
修行道具を長らく他の連中に譲っていたのはそのためだ。オレは近侍として、主の本丸滞在中の時間の大半を独占している。本丸の連中の士気を思えば、オレが真っ先に譲るのは当然の結論だった。この本丸には、極めていない刀を長く遊ばせておく余裕が無い。
この本丸には、仕組み上、経験値の余剰が無い。主不在で回せる遠征と戦場の往復には限界があり、限りある出陣機会を、教育番長の加州清光が分配しながら、この本丸の刀は育っていく。
今でこそ上手く回っているこの本丸だが、この体制に落ち着くまでは波乱もあった。
どれほどの数の刀剣がいようとも、現世で供に付けるのは結局、一振りだけ。
あらゆる逆境を想定すれば、対応場面が広い極打刀がカンストするのが理想だ。次いで、夜戦・室内戦・市街戦の可能性が高い現世において、短刀より護りが硬い極脇差。この二振りの育成が急務だった。俺は夜戦に向かない。限られた修行道具を他に譲るのは当然だ。
だからオレは、近侍の役目を初期刀から譲り受けた時、決めた。
オレが修行に出て現世で主の隣に控えるのは、理想的な布陣が整ったその後だ。
近侍を除く第一部隊から第五部隊まで、最低限の刀数が出揃った時点で、この本丸は一度、鍛刀任務を完全に停止した。
つまりこれは、出陣ゲートを潜れる最大同時刀剣数で、遠征を回す最小刀剣数だった。幸いオレたちの主は、物珍しい刀を次々と手元に置きたがる人物ではなかったから、一言、優先順位を説明すればすぐ理解してくれた。
第二部隊から第五部隊までは、交代で効率の良い長期遠征に常に出ずっぱり。第一部隊の連中は、遠征連中が稼いだ資材の全てを手入れに充て、強さを求めて昼夜問わず戦場を限界まで駆け回った。
この時、打刀、加州清光、千子村正、亀甲貞宗。本来なら広い戦場で率先して力を振るうべき大太刀、薙刀は後方支援に回った。夜戦にも屋内戦にも対応が難しいこの二刀種が呼ばれるべきは、主の盾となるべき打刀が育ってからだ。
この頃オレは、主と共に本丸でその指揮を取っていた。
打刀が早く極めない限り、この本丸の最大の急所である、現世での主の護りが手薄なままだ。
だから、オレたちは前もって話し合い、加州清光、千子村正、亀甲貞宗の三振にだけは、特別過酷な戦場を課していた。
そして他の刀は全て、本丸全体を挙げて、彼らの後方支援に回った。
短刀連中は第一部隊の中でも必ず援護に回り、とにかく打刀が誉取る形で戦線を維持し続けた。刀装は禿げまくり、朝作った百の刀装が夜には枯渇しかかる、なんてことも珍しくなく、御守りを持ってはいても中傷進軍は当たり前だったが、この本丸にはそれが必要だった。
現世には、未だ無防備な主が取り残されている。本丸で保護できるのは月にたった一日。いずれは本丸の護りも固めねばならないが、最優先は現世で近侍となる打刀だった。
限られた修行道具は、最初にこの三振が使用した。
極めた連中が切れ味を増すために必死に戦場で走っている間、同時にカンストしたオレたち太刀が、文字通り主の盾として側に控えた。
そうして、初期刀の加州を筆頭に、ようやく極打刀連中が相応の練度を越えたあたりで、この本丸はようやく、次世代となる極脇差、極短刀に次の戦場を明け渡したのだ。
次に育成の中心となったのは、脇差筆頭の物吉貞宗。次いで粟田口の短刀たち。ある程度の練度の極短刀が六振揃った時点で、太刀の光坊や大太刀の石切丸が修行に出た。こうして、オレを除いた古参の十二振りが全員修行から帰った辺りから、薙刀や槍といった他の刀たちも満遍なく、中傷進軍無しで行軍できる余裕ができた。
こうしてこの本丸は、幸い、歴史修正主義者や検非違使の襲撃を受けることなく、カンスト手前の極打刀三振りと、それに必死に追い付こうとしている極脇差を中心に、ある程度ちゃんと護りを固めて主に仕えることが可能になった。
その指揮を取ったオレは、この当時、これでようやくひと息付けるな、と迂闊にも安心しかかっていた。
「主もずいぶん兵法を身に付けたし、ここ最近は、月に一度の指揮も堂に入ったもんだ」
うんうん、としきりに頷いたオレは、本丸の体制を丁寧に俯瞰し、主に打刀連中の血の滲むような努力と光坊の細かな配慮によって、想定よりかなり短期間で成し遂げられた仕上がりを、いたく満足げに眺めていた。
「古参に次ぐ次世代の短刀たちが全員極めるまであと少し。オレはそろそろお役御免だな」
そんなふうに気を抜いたのが悪かったのか、事件が起きたのはこの時だった。
駆け込んできたこんのすけの悪い知らせが、オレの長い長い受難の始まりだった。
「それが…」
「なんだって!? 現世の転送ゲートが開かない…!?」
現世に刀剣男士を送り出すゲートのシステムが、政府の不手際で停止したのだ。
主は、現世に未顕現の刀剣男士を送り込む新制度の、試験運用第一期生だった。
始まったばかりの制度やシステムに不和が出やすいのは自明だったが、まさか根幹となる機能が敵襲もなくいきなり完全停止するなど、それほどに脆弱だとは思っていなかった。
この時、現世の近侍は極めて間もない物吉貞宗だった。
月に一度か二度程度、主の外出予定がない間だけ側に控え、極打刀がカンストに向けて練度を上げる総仕上げの時間を稼ぎ、主を護る。物吉に与えられたのはそういう差配だった。迂闊にもオレは、よりによってその日にゲート停止の報を受け、まだ練度の甘い物吉と主を現世に取り残してしまった。
いつ復旧するか分からない中、一日、また一日と日々が過ぎていくのを待つだけの時間は、あまりにも苦痛だった。
迂闊だった。このような事態が発生し得るなら、有事に備えた極打刀を片時でも主から離すべきじゃなかった。
主と近侍が帰還も交代もできない状態が長く続き、その差配を振ったオレにできるのはただ、今も主のような者を血眼で探しているであろう敵の眼を、主と物吉の幸運が誤魔化してくれるのを願うことだけだった。
物吉貞宗からは、毎日、朝晩の正確な時刻に『異常無』の報が欠かさず送られてきている。
ゲートの力を借りない次元を隔てた電報には神気を消耗するので、先が見えない中であまり詳しい内容は送れない。
だが、この仕組みは主が考えたもので、たとえば誰かに監視されて無理に無事の報を送らされている場合は、特定の文言と特定の時刻で電報の送付を行うと前以て定めてあった。
つまりこれは、本当に無事であることの証左で、主はこれを、電池が消費できない災害現場をモデルに組んだと言っていた。
そう、ある意味では、有事への心構えは、オレより主の方がよほどできていたということだった。
皆と会議室に集まって、事態を少しでも早く解消できないか策を練ったが、結論として、政府が管理する転送ゲートに関しては、オレたちに出来ることは何もなかった。
焦燥を露わにしたオレに対して、皆は口々に「物吉貞宗が付いてくれて本当に良かった」と口にした。
「物吉なら問題ないだろ」
「鶴丸しゃん、心配しすぎばい!」
「政府からの連絡を待ちましょう。こんのすけから電報をすぐ入れてもらって──」
「私は本丸の護りを固めるための祈祷を」
「ならオレは手伝い札の補充に」
皆がそれぞれテキパキと動いて散って行く中、オレは、誰も居なくなった会議室で、愕然と立ち尽くした。
「……オレは、いったい何を言ってるんだ?」
冷静になれば、物吉貞宗は加州たち極打刀に次ぐ練度を有した古参刀だ。
あいつが、日の大半を屋内で過ごす主の側に控えている。それは、状況によっては、加州たち打刀より護りが固くなることを意味する。つまり、カンスト間近の極打刀と物吉貞宗の間で、主の抱えるリスクの差は、本当に微々たるものだった。いつだって不測の事態が起こりうる歴史を守る戦いの中で、この程度の差はむしろ、練度の甘い短刀や室内戦に向かない薙刀が付く状況に比べれば、理想形に近いと言い切っていいぐらいだった。そうなるようにオレが差配した。
だが、オレは、その微々たる差が許せなかった。
主が抱える危険が、問題にならないほど本当にわずかに上昇する、たったそれだけのことが
オレは、臓腑がねじ切れそうなほど耐え難かった。
「……あ? あ? ……あー?」
オレは、切れ者を自負する古刀にあるまじき遅さで、驚くほど緩慢に頭を巡らせ、自分が明らかにおかしいことをようやく自覚した。
月に一度しか帰れない主の名代刀として、あくまで冷静に辣腕を振るってきたつもりだった。
初期刀に次ぐ初鍛刀であると同時に、この本丸ではこの国の最も古い時代を見てきた刀だ。若い連中と歩幅を合わせてはいるが、ずっと大局を見ながら、冷静に、過不足なく、戦場の指揮を振るい、未熟な主の成長を見守りながら、この本丸が育つのを、少し離れたところから適切に見守ってきたつもりだった。
オレから見れば赤子のような若さの主だった。
心根はとても素直で、祈りの言葉を教わってすぐの舌足らずの子供のような、よく祈り、よく騙され、よく笑う主だった。
審神者としての教育を何も受けていないと知った時、なるほどこれは面白い、と思った。政府の手で丁寧に仕立てられた美しい神巫女に飽いたオレは、この何も知らない赤子のような主が、泥まみれになって前に進むさまを眺めることで享楽を埋めようとした。
だが、結局どうだろう。
いつの間にか泥まみれを笑うどころか、少し転んで擦りむくことすらさせたくないと
眼前の小石を払ってやってはいなかっただろうか
「……あ? あぁ? ……あ?」
オレは、化石かと笑われてもおかしくないような遅さで、ようやくその事実に辿り着いて
やっと自分の心中を一から丁寧にさらい直し、そして気付いた。
「あれ? これ、まずいんじゃないか?」
オレは、通常ならあり得ない初鍛刀で呼ばれたことに危機感を持たず、あまりにも主と、迂闊に距離を詰めすぎた。
気付いた時にはとっくに手遅れだった。
瞼の裏に浮かぶ主の笑顔はどれも
無垢な子供のようにきらきらしていた。
花のように「鶴るん!」と笑う彼女のことは、自然と愛らしいと感じていた。
それを当たり前のように受け入れていた。
だが、きちんと冷静になってみれば、主はとうに元服した女性であって、ひどく無垢な子供のように思っていたのは明らかに神側の欲目だった。
神座に座する者は皆どうしても人の子を幼く見てしまいがちだとはいえ、いささか過剰が過ぎたのではないか。
そう、つまりオレは
主のことを元服前どころか、七五三前の子供のように大事に思っていたことになる。
まずい、まずい。
まずいまずいまずいまずい。
(おいおいおいおい、馬鹿かオレは)
それは、まずい。かなりまずい。
何がまずいって、オレのような古刀にとっては特に、七つ前までは神の子なのだ。
オレは迂闊にも
『願われ、祈られ、初めて願いを叶えてやる』
という最低限の節度が守られた
人間と距離を保つべき基本の契約を完全に度外視して
この世の何もかもを優しく与えてやりたいと思うような
嬰児に捧ぐ無性の優しさに近いものを、うっかり主に与え過ぎていた。
他の連中も主を子供扱いするのは同じだが
いくらなんでも帯直しを終えて元服前までの辺りの扱いだ。
どんなに思い返してみても、帯直し前の子供のように本気で思っていたのはオレだけだということになる。
「……やっっっべ」
オレたち神座に連なる者にとっては
たとえば神に身を捧げられて贄を娶る、という恋愛感の方が、多少執着があってもむしろよほど健全だ。
七つをとうに過ぎた子を、過ぎぬ子として手元で慈しむ『歪み』の方が
するりと『隠して』しまうような
よほど強い執着を意味する、ということを
当然のように、オレたちの主は何も知らないはずだった。
「おわー……まじかぁ……」
オレはどっと冷や汗を掻いた。振り返ってみれば、あれもこれも心当たりがありすぎる。
ブチギレた加州清光にしばかれるたびに、初期刀ってやつはどいつもこいつも過保護だなと笑っていたが、よくよく考えればしばかれて当然なことを何度もやらかしていたことにようやく気付いた。そういや時々光坊から物言いたげな視線を感じていたが、むしろさっさと早く教えて欲しかった。
オレは、完全に無自覚だった全部に今さら気付いて頭を抱えた。
「え、うそだろ、ってことは」
オレは今、これを自覚した状態で
七つ前の神の子を、手元から無理やり引き剥がされた状態で
いつになるかも分からない主の帰還を
只々、待たねばならないということなのか
「……え、オレ、それ、祟らないか?」
うっそだろ、オイ
さらに悪いことに、主を待ち始めてひと月経つ頃から、朝晩と毎日同じ時刻に届いていたはずの電報の時間が、わずかに、しかし確実にずれ始めた。
「現世で何かあったか…?」
「いや待てよ、これ、ずれ方の法則が毎日同じじゃないか?」
「違う、これ…! 現世と時間がずれ始めてるんだ…!」
本来、現世と隠り世である本丸の時の流れは異なるが、それを毎日の現世出陣の度に、主の命の歩みに合わせて補正してきたのだ。それが機能しなくなったことで、本丸の方の時間の流れが加速してしまっている。
「そうか、ということは……今はこっちの五日が向こうの三日なんだ」
「この感じだと、これからどんどんズレてくってことか」
「几帳面な脇差の物吉だったから推測しやすくて助かったな」
「無理やり遅らされているわけではないと分かって一安心したよ」
皆がそう理解を深めて、次の電報の時刻を計算し直している間、鶴丸はただ、絶望を深めていた。
半日でも長かった無事の報が、この先まだまだ遠くなっていくのだ。
最終的に、この本丸と現世の時間は、十二暦一周ほどにもズレてしまった。
一日二回あった無事の報は、もう六日に一度ほどまで減っている。つまり、向こうのひと月は、こちらの一年に匹敵するということだった。
臨時の電報が無いことそのものが、無事の証だと頭では分かっているが、知らせの無い数日が苦痛で苦痛で仕方が無い。
いったいどうしたんだ俺は。人の子の百年だって瞬きひとつだと笑っていたはずなのに、一日が千秋のように長い。なんだなんだ、これではまるで恋の和歌じゃないか。はは。
「夜もすがらもの思ふ頃は────ってかぁ? いやぁ、まさか、自分がこんな女々しい性質だとは思わなかったなぁオイ」
上手く笑い飛ばしてみようとしたが、結局乾いた笑いが畳に虚しく落ちただけだった。
夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり
あの人が、もう何日も来ない。今夜もあの人を思って寝られない。戸のすき間には光が差し込まない。辛いから早く朝になればいいのに。
日めくり暦を剥がすごとに、心が死んでいくのを感じる。
こんな時だからこそ、復旧に備えて練度を上げようと周囲を鼓舞する者、憂いを振り払うため戦場でがむしゃらに刀を振るう者、無事を願い祈祷する者。有事への向き合い方はそれぞれだったが、皆、今成せることを賢明に成そうとしていた。
役立たずなのはオレだけだ。
戦場で刀を振れば多少は気も晴れたかもしれないが、カンスト太刀で特付きの自分は、戦場でこの身に吸収できる経験値の上限を超えている。主のためにも、ただでさえ限られる戦場での経験を他の連中から奪うわけにはいかなかった。
少しでも早く極打刀のカンストで万全を、という差配が裏目に出たオレを、ここの連中は誰も責めない。この差配が主の意向を十全に汲んだもので、客観的に見ればこれ以上ない差配だと皆知っているからだ。
だが、非難してくれた方が気楽だったのにと、あたたかく励まされるとかえって絶望する心地だった。
なぜ、今自分は、主の側に侍れないのだろう。
もしもなど考えても意味が無いと理解していながら、自分が率先して極めていれば、と考えずにいられなかった。
無意味だと思いながら、そう思う自分を止められない。
現世警護の仕組みのサイクルに照らし合わせれば、仮に自分がそこに入ってさえいれば、ズレたサイクルは十中八九極打刀に役目を明け渡していたはずだったし、物吉の代わりに自分が主の隣にいた可能性もかなり高かったのではないか、と気付いてしまえば、納得尽くだったことが途端に喉を焼く後悔へ変わった。
これで主に何かあれば。
オレはこの先どれほど永い時を生きても、後悔してもしきれないだろう。
こんな驚きは求めていない。明くる日も明くる日も『復旧』の報を待ちながら、何も起きない日々が続く。笑って皆を励ましながら、ただただ、決まった遠征だけを回す日々。
暦を一枚捲るごとに、どんどん心が死んでいくのを感じた。自分は今、ちゃんと笑えているだろうか。
主が戻らなくなって、既に二年が経過している。
ぐしゃ、と異様な力で真っ二つに破り捨てられた日めくり暦が、まだ大半の頁を残したまま、ゴミ箱に捨てられているのを見て、加州清光は顔をしかめると、手で目を覆って天井を仰いだ後、潰れた蛙のような声で「あ゛〜!」と頭を抱えた。
その日、加州は鶴丸国永の私室を訪れると、柱に身を預けて、じっと鶴丸の背中を見つめた。
にこやかに振り返った鶴丸国永は、本丸の地図を広げて何やら書き込んでいるようだった。
「おお、加州、今はちょっと待ってくれないか。手が離せなくてな、驚きの本丸大改造は見てのお楽しみ…」
「見てらんねえよ」
そう口火を切った加州清光に、鶴丸国永は至ってにこやかに「?」という顔をしている。
「新しく入った短刀たちが陰で怯えてる。こんなんじゃ無理もねーだろ」
「? 何の話だ?」
あまりにも重く、深々とため息をこぼした加州清光は、迷うように視線を彷徨わせたが、結局、ひどく心配げに、こう口にした。
「神気、ダダ漏れだぜ。瞳孔開いてんぞ」
「……あ?」
一瞬、意味が分からなかった。
痛ましげに顔を歪めた加州から手渡された手鏡の中で、見慣れた銀髪金眼の男が、まるで猫のように瞳孔を縦に完全に開いたまま、どうしようもなく、明らかに────何かを祟りたがっていた。
ピシッ、と鏡に亀裂が走り、砕け散った。反射的に顔を庇った加州と違い、鶴丸国永は微動だにしなかった。
「ッ!!」
「……ははっ、こいつは驚いた」
温度の無い声だった。温かみの無い、冷たい声が響く。
「そうか、オレはこんな顔をしていたか」
これではとてもじゃないが、驚き甲斐が無いな
あの子にはとても見せられない
ズッ…と大気が重く揺れた。
神気が本丸にさざなみのように広がって、一気に集約する。
何事も無かったかのように全ての神気を身に仕舞って、鶴丸国永はよくできた芸術品みたいに温度なく笑った。
「いやあ、すまんすまん! やっぱり刀は振るわないとダメだな。蔵に仕舞っておくばかりじゃ、刃が疼いて仕方ない」
「おい……おい、鶴丸!」
「少し戦場で頭を冷やしてくるとするか」
「鶴丸国永ッ!!」
伸ばした手をすり抜けて、鶴丸は着物の白裾をばさりと翻してしまった。
丸窓から一瞬で飛び立ってしまった白鶴と入れ替わりに、部屋に慌てて燭台切光忠が駆け込んできた。
「今の揺れは!? 何があったの!?」
「ごめん!!あんまりにも見てられなくて自覚させたらまずかったみたい!」
燭台切に急ぎそう言い残して、加州は同じく丸窓から外に慌てて飛び出した。
加州と一歩入れ違いに外の転送ゲートは起動して、追い付いた時には、鶴丸国永は既に単騎で戦場に出た後だった。閉ざされた門を前に、加州は片手で顔を覆って「くそっ」と拳を叩きつけた。
五つ夜を過ぎてようやく戦場から帰還した鶴丸国永は、異様なほど返り血を纏って、あの能面のような笑顔を貼り付けたまま本丸に帰って来た。
腕の良い鶴丸とは思えない状態だった。極めてこそいないが、鶴丸国永はこの本丸一の実力者の一角だ。白い絹衣が血に濡れると鶴らしいなどといつも嘯いてはいるが、実際には返り血ひとつ浴びずに刀を振るうことは造作もない。それほどに卓越した技量の持ち主のはずだった。
「よっ、すまんな加州。ちょっとばかり頭も冷えたぜ」
軽やかな挨拶は、逆に加州を焦燥させるだけだった。
明らかに精神の均衡を崩している。
澄んでいたはずの金眼が、どれほど笑ってみせても、欠片も笑うことなく濁っていた。
肩に負った刀を軽く血振りすると、「少しは気も晴れるもんだな。悪いがたまに出させてもらうぜ」と鶴丸国永は言い残して、ずるずると刀を引きずって部屋に戻っていった。
どうせ主が居ないからと碌な浴もせず、血みどろの足跡まで点々と廊下に残したままだ。下手に新刃連中が真似したら主が怖がるだろうと周囲を諌めこそすれ、今まで一度だってそんな血に飢えた振る舞いはしなかった。ずるずると刀を床に引きずった跡まであるのに、そこに神気が少しも残されていない。
これならまだ周囲がどれほど怖がってもあふれ出ている方がマシだった。鶴丸は既に完璧に神気を隠してしまっていて、濁り度合いが見極められない。限界が近いのかどうなのか、外から客観的に測る術が失われている。
「あ〜……!」
あまりにも無力な自分を呪い、加州清光は頭を抱えてしゃがみ込む他なかった。
政府から復旧の報はまだ来ない。転送ゲート障害は戦の最前線に出ている審神者ほど優先的に復旧される仕組みになっているから、どう足掻いてもオレたち要人警護本丸は後回しだ。本物の要人警護本丸なら、『要人』の権力で人員も回ってきただろうが、この本丸の主はただ多重加護を受けて仕組みから外れただけの一般人で、そんな権限を有しているはずもなく、緊急性が低いとされて後回しになっているとこんのすけが嘆いていた。
「あるじ、俺はいいから、早く帰ってきてやってよ…!」
この本丸から祟り神など出せば主が責を問われる。下手をすれば即刻審神者を罷免され罰を受ける可能性だってあるだろう。主がそんなことになれば鶴丸国永がどんな反応を起こすか、想像するだに恐ろしい。
だから、政府にも主にも何も知らせることができない。
「いやあ、世話を掛けてすまんなあ、光坊」
戦場に独り立つ鶴丸国永は、殺しても殺しても殺してもくびり殺し足りない様子だった。
目付け役に付いた太鼓鐘貞宗ではとてもその荒れ様を止めることができず、最終的に泣きつかれた燭台切光忠が側についた。とはいえ、刃を振るう鶴丸国永を、本当にただ、独りにしないことだけが、光忠にできる全てだった。
「ゲートを長く塞ぎすぎると他の連中が戦場に出れなくて困ると、分かっちゃいるんだがなあ。何せ、兎角、一日が長くて長くて」
湧いた検非違使を狩り尽くした上で、重傷寄りの中傷の鶴丸国永だが、燭台切光忠は手を出さなかった。
彼が手出しを望んでいないと分かっていたからだ。燭台切が手を出す間は鬼神のように刀を振るうばかりだった鶴丸国永だが、燭台切が手出しを完全にやめれば、こうしてぽつり、ぽつりと心境をこぼしてくれた。
「まったくもって、自覚した頃合いが悪かったなあ。もう少し遅けりゃ、こうも荒れずに済んだ気もするんだが」
「……鶴さん」
「幸い、手入れは主が残した霊力と手伝い札で賄えるが、────刀解だけは、主の手を借りんとできんしなあ」
振り下ろした刃が一太刀で敵を屠る。既に事切れた骸を執拗に踏み潰して、ぐりぐりと刀でその傷を広げれば、ブシュッと血飛沫が頬に散った。
「ああまったく、恋だろうが愛だろうが、迂闊に人の身を持っちまうと堕ちる時は選べんなあ。これが恋ならもう少し健全だった気もするが、これっぽっちもそういう気にならんから逆に始末が悪いというか」
ぐり、ぐり、と執拗に骸をなじって、何度も何度も刃を突き刺す鶴丸の肩を、見かねた燭台切はそっと叩いた。
曇天の薄闇の中で金眼が薄く発光する。鶴丸は無表情のまま、ようよう燭台切を振り返った。
「大丈夫だぜ、光坊。まだ祟る先を間違っちゃいない。オレは天を驚かせたいのであって、天を祟りたいわけじゃない。オレは主を驚かせてやりたいだけで、祟りたいなんてつゆほども思わんさ」
「けどな、光坊。万に一つ、オレが刃を向けるべき相手を間違うほどに狂ったら、────さすがにその時は、折ってくれると助かる」
「必ず」
「うん、良い仲間を持ったなあ、オレは」
燭台切が鶴丸の心からの笑顔を見たのは、その時一度きりだった。
ゲートが復旧したのは、それからなんと二年以上も経ってからだった。現世の時間では総じて五ヶ月、こちらでは既に四年の歳月が経過している。
幸いにして主は傷ひとつなく無事だった。物吉貞宗の幸福は、最後まで主を敵の目から掻い潜らせてくれたらしい。加護が特別強い物吉貞宗だったから上手く行った可能性もあるだろう。これが練度がさらに甘い短刀だったらと思うと心底ゾッとする。
「物吉、よくやった!!」
「さすが幸運の守り刀!」
「大任だったね」
「疲れただろう、しばらくゆっくり休んで」
「よく倒れなかったな」
「あるじさま、お勤めに向かうほんのわずかな間以外、本当に片時も欠かさずにずっと屋内にいてくださいましたから。お買い物もお食事も全て家で済むようにしてくださって……」
「五ヶ月もそんな禊みてえな生活してたら辛かったろ、主」
「ご時世もあったからね、必要なことだったから。物吉っちゃんが側にいてくれたから、何も辛くなかったよ」
傷ひとつない主を確かめて、初期刀の加州が主の肩を持ったまま膝から崩れ落ちた。
「あるじ〜!!!よかったぁ、あるじに何かあったんじゃないかって、俺、俺…!!」
「心配かけてごめんね、かしゅー」
加州清光を抱きしめて背を優しく叩く主を、鶴丸国永は皆の輪から一歩離れて見ていた。
感情を正しく自制できている自信はあったが、堰き止められた祟りの念が、万に一にも行き場を見失って欠片でも主に向かないようにと離れていたのだ。
今度こそ、正しい、適切な、距離が取れるように。
鶴丸国永は、喉まで出かかっていた「危険な目に合わせてすまない」という言葉を慌てて噛んで飲み下した。
それは、傷一つなく主を護り切るという大任を立派にやり遂げた物吉貞宗に、あまりに失礼だ。
これで何もかも日常に戻れるはずだ。
勝手に暴走して勝手に暴れた自分の荒御魂としての気質については、主に何も話さないまま、気取られないように終えると決めていた。
皆も口裏を合わせてくれることになっていると光坊が事前に耳打ちしてくれていた。事細かに皆に配慮ができる、本当に頼りになる良い男だ、光坊は。
いつでも抜刀できる距離に、ぴたりと背後に付いてくれている光坊の配慮が有り難く、心強かった。
大丈夫、大丈夫。うまくやれる。
最初のひと言は決まっている。主がこちらを見た。
「おっ、帰ってきたな。よーやくこれで、俺に新鮮な驚きが供給され、」
「鶴るん?」
主が目を丸くして、皆を掻き分けて慌てて駆け寄ってきた。
「鶴るん、どうしたの?」
困惑した主が自分の頬に触れた瞬間、ゲートの向こうに次元を隔てて堰き止められていた自分宛ての祈りが、どっっと雪崩れ込んできた。
向こうの時間にして五ヶ月、主は一夜も欠かさずにオレたちに祈り続けていたらしかった。自分は無事だ、心配しないで、物吉貞宗が護ってくれているから何の不安もない、今日もこんなに嬉しいことがあった、大丈夫、大丈夫、だから。
だから、鶴丸国永、そちらも、幸せがたくさんありますように。
きみがいないのに、幸せなことなどなにもあるものか。
「泣かないで…」
「おいおい、オレのどこが泣いてるって?」
身を蝕むほどに、全身に張り詰めていた怨嗟の念が、あっという間にほどけていく。
驚いた。こんなに簡単なことだったのか。
「あー……こいつぁ驚いたな」
頬に触れた小さな手を、オレは掴んだ。
今、この人の子は
オレを手放す最後の機会を、永久に棒に振った。
「鶴るん……?」
「いない間? 俺は死んでたよ。何一つ変わらないんじゃ死んでるのと同じだろ」
主は息を呑んだ。
オレは、主の手を離さなかった。片時も離したくなかった。奥歯を噛み締めたオレを、主は、少しの間戸惑ったようにしていたが、ただ腕を伸ばして、オレをぎゅっと抱き締めた。
「ごめんね……」
「ああ、ぜんぶ赦すよ」
オレは、神に連なるものとして、正しくそう応えた。
きみの全てを赦す
生涯、その全てを赦すと、たった今、そう決めた。
それは、契約だった。
神側のオレだけが、一方的にリスクを負う、きみを護る契約だった。
「おかえり、主。他の誰でもなく、オレをずっと、きみが驚かせていてくれ」
永遠にも思える鶴丸国永の死せる四年は
この日、ようやく終わりを告げた。
◇ ◇ ◇
「────なんだけどなぁ〜、悪い癖がな〜、残っちまったんだよなあ、あはは」
「あははじゃないよ鶴さん!!! 両腕どこやったの!!?」
「いちおう探したんだが見つからなくてな、ははは」
神と呼ばれるものは皆、当然のように荒御魂と和御魂の両面を持っているものだが、オレはうっかり祟り神手前まで一度気が触れてしまったので、ほぼ和御魂寄りだった元々の気性と釣り合いが取れず、戦闘が極端に少ないこの本丸で、時々発作的に限界まで戦闘に身を投じないと荒御魂側から戻って来れなくなってしまった。
元々が戦闘狂の荒御魂寄りだったら適度に発散してこんな不具合は起こさなかったと思うんだが、まあ、この程度の支障で完全に気が落ち着いたのだから、安いものだったと思う。あの時のオレは本当にどうかしていた。
「はははは」
「鶴さん!!主がまた泣くよ!?」
「ま、いいじゃないか。こちとら散々泣かされたんだ、ちょっとぐらい涙を独占させてくれても」
「うっっっわ」
伊達男として絶対に許せない発言だったらしく、光坊から物凄く蔑まれた視線を向けられた。
「最低だ…許せない…いつか主も許してくれなくなっても知らないよ!?」
「いいんだよ。赦すのはオレなんだから、主の方は知らん」
「最っっっ低だね!?」
「ま、こんな悪い男に手を伸ばした奴が悪いんだ。諦めてもらおうぜ!」
《契約と鶴丸国永と悪い男》end.
《鶴丸国永と祈りの旅路を》
現世へ繋がるゲートの障害で、四年の長きに渡り主を不在としていたこの本丸。
審神者が帰還し、再び息を吹き返した本丸は、停滞した部屋の隅々まで新しい風が吹き込み、長い冬を終えて陽射しが差し込む春のようだった。
「帰ったぜ」
「! 鶴るん!」
皆と共に大広間にて膨大な書類に埋もれながらせっせと仕事に勤しんでいた主は、声を聞き付けてかんばせをぱっと明るくした。
鴨居を潜った鶴丸国永は皆を率い、主に直々に命じられた任を終えて帰ってきたところだった。
「おかえりなさい!」
「なんだ、ずっと待ってたのか?」
澄み切った金眼を柔らかに細め、鶴丸国永は春風を思わせる柔らかさで主へ優しく微笑んだ。
鶴丸は主の頭をくしゃりと撫でて、「良い知らせだぜ」と笑った。告げられた主の表情が明るくなる。
「見つかった!?」
「ああ、きみの目当てはこれだろう?」
片腕ですっと差し出された、一振りの刀。
湾刃に砂流や金筋が美しく現れた、見目麗しいこの脇差。
鶴丸国永が持ち帰ったのは、まさしく『物吉貞宗』で間違いなかった。
わっと嬉しげに表情を綻ばせた主は、パッと顔を上げて花のように微笑んだ。
「鶴るん、ありがとう!!」
「礼なら光坊に言うといい。こいつを見つけてきた今回の誉刀だ。夕飯の仕込みが急ぐってんでオレが報告の任を仰せつかったのさ」
「うん、後でたくさんお礼を言うね。鶴るんも知らせてくれてありがとう」
「いい子だ」
彼女の前髪を掻き上げるようにわしゃっと頭を撫で、嬉しげな主はされるままだった。
黒手袋を纏った鶴丸国永の指先から、白くまろい主の手へと、その刀が手渡される。
剥き身の刀身を両手で大切そうに受け取った主は嬉しげに刀を抱き締めて「わたしのところに来てくれてありがとう、物吉貞宗」と頬をすり寄せた。
主はそのまま刀身を抱いて走り寄ると、床の間の刀掛けに掛けられ黒い鞘に納められたその脇差へと手を差し伸べた。
今は大任を終え、一時的に顕現を解いて休眠している物吉貞宗だった。
「物吉っちゃん、今習合するね」
ぽう、と主の手の中で、剥き身の物吉貞宗の刀身が光り輝き、まるでシャボン玉のように淡い光球と化した。
そっと傾けた手から、シャボン玉はふわりと浮かび上がり、この本丸の物吉貞宗の中へとキラキラとゆっくり溶けていった。
「何度見ても、きれいで不思議な光景だね」
「ありゃ実物じゃなく概念だからな。誰しも顕現は一度きりだが、習合を受けると、何度でも再びキミに呼び求められたような心地になる。ありゃ気分が良い」
まったく妬けるなあオイ、と冗談めかした声掛けが物吉へと投げかけられて、鶴丸国永はさっと主の方へ居住まいを正した。
「さて、これで必要なものは一通り揃ったな。オレもこのまま内務に参加させてもらうぜ。目を通し終わった書類束はこれかい?」
「うん、お願い」
「おし、残りはこの鶴さんに任せるといい」
「ありがとう。……物吉っちゃん、まだ起きないね」
「たった一振りできみを護り切る大任を果たし終えたばかりだ。疲れてるのさ」
鶴丸国永は真白で汚れ一つない戦装束を解く時間も惜しみ、主の隣にさっと腰を落として、素早く書類に目を通し始めた。
「消耗した神気を補充するのに時間が掛かっているんだろう。単なる戦の疲労とも違うからな、団子で無理に起こすのも忍びない。もう少し寝かせてやるといい」
「……うん、大丈夫かな」
「なあに、心配することはないさ。この調子なら、月があと二つほど巡る頃には、いつも通り元気な姿を見せてくれるだろうさ」
「! そっか…! よかったぁ」
安堵でほっと華やいだ笑顔が、鶴丸に向けられる。主は床の間に向けて振り返ると「ゆっくり休んでね、物吉っちゃん」と声をかけながら手を振った。そんな主を細めた目で愛おしそうに見つめていた鶴丸国永は、まるで主の視線を奪うように裾を広げた。
「? 鶴るん?」
「ああ、きみの鶴だぜ」
白絹の裾をふさりと広げて、主を後ろから覆って、主の目を覆った。
「鶴るん?」
「きみが足りないから充電してる」
ぐりぐり、と白銀のつむじを後ろ首に押し付けるので、主は「ふふ、ふふふ」とこそばゆそうにしている。
「鶴るん、くすぐったいってば」
「この鶴の羽の下に居てもらわんと落ち着かんくてなあ」
書類を手にせっせと作業する古参刀たちは、遠巻きにその光景を「うわぁ」という目で見ていた。
「拗らせてんな〜、鶴さん…」
「でろ甘じゃねーか」
「あの刀あんなでしたっけ…?」
「完全に開き直ったなありゃ」
「オレさあ、ぶっちゃけ鶴丸さんって主のこと、その内娶る気なのかなって思ってた時期あったんだけど」
「いやあれどう見てもその気ねーだろ。扱いが帯び直し前だぜ」
「大将もなあ。全然まったくその気が無いんだよなあ」
「そこがなあ、上手く噛み合っちまってるんだよなあ」
「どーすんのあれ」
「どーにもできねーだろあんなん」
「祟り神一歩手前だった鶴さんがやべーのか、アレを一瞬で鎮めちまった主がやべーのか」
「何とも言えんな…」
「何とも言えませんね…」
「あれ割れ鍋綴蓋だと思うよ」
「大将が色恋に興味無いタイプで助かったな」
「あれで彼氏とかできたら祟るだろ」
「娶る気もねーのに他所にはやらねーって不健全だよな」
「あの人、主が元服終えてるって分かってんのかな」
「やっと分かったからあーなったんじゃねーの」
「齢を重ねない人の子なんざいねーのになあ」
「受け入れられないんでしょうね」
「うへー、根深ぇ」
「古刀は多かれ少なかれああいうものだよ」
「怖いこと言うなよ石切丸…」
この四年は多くの刀たちにとって、過ぎてみれば一瞬の歳月だった。
確かに待つ時間は多少長く感じたが、神座に連なる自分たちからすれば四年の月日はわずかと言えたし、物である自分たちは総じて待つのは得意だ。
ただじっと時を待つのはそれほど苦ではないし、戦場に遠征に内務にと、身を得てやるべきことに忙しく駆けずり回っていればなおのことだった。
だが、そうでなかった者もいる。
その一振りが初期刀の加州清光であり、この本丸では初鍛刀の鶴丸国永だった。
主と絆の深い最初の二振りにとっては、主と離れている時間はあまりにも長過ぎたのだろう。
最初に変調を起こしたのは加州清光だった。
こちらの時間にして八ヶ月が経ったあたりで、初期刀である加州の状態が、見るからに悪くなった。
主がいない間も懸命に周囲を鼓舞しながら、第一部隊の隊長として率先して戦場を率いていた加州清光は、極打刀としてこの本丸一の練度を誇っている。
他の極打刀と比べても、加州清光のそれは別格だった。普通なら周囲を庇うことこそすれ、庇われることなど皆無だったはずだ。
その加州の疲労の状態が、ある頃を堺に明らかに重疲労の赤から戻らなくなり、辛うじて橙と言える時間がどんどん短くなり、最終的にはついに疲労困憊まで起こして手入れの霊力を受け付けなくなった。
もはや声も出ない様子で、戦装束を脱ぐ力もなく、芋虫のようにただ畳の上にうつ伏せに倒れ伏すだけの加州清光に、周囲の刀たちは懸命に励ましの声を掛けた。
「加州しゃん、しっかりするばい!」
「ゆっくり休んで、加州さん!」
「こっちは気にしないで!」
蚊の鳴くような声で、加州清光は呻いた。
「……………ごめん…………俺…………超……足手纏い……」
「気にすることないぜ、初期刀にはよくあることだって!」
「これまで少し働きすぎだったんですよ」
「きっと主もすぐ帰って来るさ」
「加州くん、一口団子食べれそう?」
「………むり………も、四十個ぐらい食った………」
「もう無理矢理にでも休ませないとダメだね」
今まで周囲がどれだけ休ませようとしても休むのを渋っていた加州清光は、最終的にいよいよ疲労困憊で動けなくなったのを機に、極短刀達の手で簀巻きにされ、強制的に医務室に放り込まれた。
しばらく出陣に出られないように監視を受けることとなった加州清光は、いよいよ気を紛らわせる術を失って、顔を覆って「う〜!」と唸ってじたばたした。
「主の霊力が通ってない本丸に帰んのめっっっっちゃ辛い…! 帰るたびにちょっとずつ霊力が薄くなってんの分かるのしんどい〜!! もう嫌だぁ…! あるじ〜! 早く帰ってきてくれよ〜!」
しばらくの間そう取り乱していた加州清光だが、そこからひと月も休むと完全に気を落ち着かせて「や、超ごめん、頭冷えてきたわ…」と申し訳なさげに内務に復帰した。
「みっともないとこ見せてごめん。戦場だと足手纏いだから、しばらく内番組に回るわ……」
「しょうがないよ、加州くんは初期刀だからね。主との縁の結び方が少し特殊だから」
「大丈夫かい? いきなり主の手から離されてしんどかったでしょ。この本丸はただでさえ直接指揮を取ってもらう時間が短いしね」
「霊力でがっつり所有印付いてんのにいきなり放置されんのってキツイよな、わかるわかる」
「こんのすけから連絡来た時点で、いつかこーなるかもなって思ってましたから。気にしないで下がっててください」
「僕らみんな、加州さんが頼ってくれて嬉しいですよ」
「うあ〜! 仲間がめっちゃ優しい、居た堪れね〜!」
加州は耳まで赤くして顔を覆い、自分が晒しまくった醜態に悶え苦しんでいたが、周囲はにこにこと温かく見守るばかりだ。
「あー、この事、戻って来た時あるじには……」
「もちろん内緒にしておきますね」
「重ね重ねありがとうマジで…」
主と無理に引き剥がされた初期刀が裏でこういった調子の崩し方をすることは実のところそれほど稀ではなく、故に、当分主が帰還できないと判明した時点で、古参の刀たちは皆、加州清光の動向に気を配っていた。気心知れた古参刀たちから見れば、加州がだいぶ復調してきているのは明らかだったし、最終的にこういう場合に立ち直りが早いのも初期刀の特徴なので、皆安心して見守っていたのだ。
「あー、俺が抜けてた間、第一部隊の隊長は誰が?」
「鶴丸さんです」
「え、鶴丸国永?」
あれ、と違和感を持ったのはその時だ。
「珍しいね、太刀が殿に収まらないで隊長なんて」
「たまには自分で率いないと勘が鈍るからと仰って」
「なので、予定していた行軍はほとんど遅れずにこなせました」
「さすが、鶴丸しゃんは頼りになるばい」
「よう、戻ったぜ〜」
「あ、噂をすれば」
執務室の鴨居をくぐった鶴丸国永は、加州を目に留めると「おっ、加州も復帰したか」と鷹揚に笑った。
「思ったより早かったじゃないか。どうだ、気分はマシか?」
「あ〜…まあ何とか」
「そりゃ重畳。まっ、先は長そうだ。無理せず行こうぜ」
ぽん、と加州の肩を叩いた鶴丸国永はすれ違いざまに、こきんと首を鳴らした。
「じゃ、オレはちょいと、打ち稽古組に混ざってくるとするかな」
「あれ、鶴丸さん、戻ってきたばかりじゃないですか」
「まだ身体が動かし足りなくてな。適度に体が温まったら戻って来るから、近侍の判が今日中に必要な分はそっちに分けといてくれ」
第一部隊の隊長と近侍を鶴丸国永が兼任したままということは、加州が抜けた穴はどうやら鶴丸がメインで埋めていてくれたらしい。それに気付いた加州清光は慌てて振り返った。
「悪い、今日からオレも内務やるから!」
「おっ、そりゃ助かる。面倒な書類があれこれ溜まっててなあ」
「鶴丸しゃんてば忙しいのにまぁた自分で書類増やしとーよ。加州しゃん、この収支報告書見て欲しか」
「……あっ!? お前、また勝手に隠し通路増やしたな!?」
「おっとバレたか。退散退散」
「だーもう!初期刀がいねーのをいいことに…!その決算は手伝わねーからな!?」
この違和感を早く追求しておかなかったことを
加州清光は今でも悔やんでいる
くるくると働く鶴丸国永の妙な勤勉さに、もう少し疑問を持つべきだった。
確かに頼りになるやつではあったが、同時にサボり方も上手い奴だった。
畑仕事は逃げるわ洗濯当番は燭台切に押し付けるわ厨番はつまみ食いしかしないわ馬当番は勝手に馬を出して遠乗り競争を始めるわ、この本丸一のトラブルメーカーでもあった。
巧みに煽てて周囲に仕事を回したりこっそり押し付けたり、そうやって、いつも上手いこと柔軟にみんなのバランスを取っている奴だったから、鶴丸国永の仕事量を俯瞰で把握している奴が誰も居なかったのも災いした。
結果として、この本丸は突然の主不在にも関わらず、非常に上手く回っていた。回り過ぎていた。
鶴丸自身の手で巧妙にカバーされていたせいで誰も気付かなかったが、この時の鶴丸国永は、色々なところで過剰に周囲から仕事を引き受けすぎていた。
まるで、主不在の時間の不安を埋めようとして戦場に出ずっぱりだった加州清光と、同じように。
初期刀に次ぎ顕現された、主の信任も厚い名代刀。
頼もしかった鶴丸国永は、いつからか精神の均衡を崩した。
主と引き剥がされた初期刀が調子を崩すのは誰もが分かっていたから、思えば全員、つい加州にばかり目を向けすぎていたのも悪かったのだろう。
皆を取りまとめる中で、完璧な陣頭指揮を取っていた鶴丸国永は、外部から見ると本当に何も問題が無いように見えていた。
様子がおかしいと最初に気付いたのは、旧知である燭台切光忠だった。
「鶴さん……? もしかして、寝てないんじゃない?」
「ああ、畑当番サボって昼寝しすぎたせいか、明け方にちょいと目が冴えちまってな。せっかくだから少し裏庭の奥を散策してきたんだ」
「鶴丸さん、昨日もおかず譲ってませんでしたっけ」
「いやあ、飯前に厨からちょいと茶菓子を拝借したら食い過ぎてな。光坊には内緒にしておいてくれ」
「あれ、鶴さん、また戦場組なのか? 最近多くない?」
「ん? そんなことないぜ? ちょうど遠征組が帰って来る時間とタイミングが被ってるだけじゃないか? 最近シフト組み直したからな」
些細な違和感を感じるタイミングは皆あったが、奴の口車で上手く誤魔化されてしまっていた。
主が戻らなくなって一年半ほどが経過した辺りから、ついに隠し切れなくなったのだろう。
笑顔が妙に作り物めいたものから戻らなくなり、纏う空気が笑みに不釣り合いにぎらぎらして、どれだけ笑っても目が死んでいる様子が目に付くようになった。この頃になって皆、鶴丸の様子がおかしいことにようやく気付いた。
皆、口々に心配したが、本人はどうやら自覚がないらしく、周囲からの心配を「? なんだ、妙に構ってくるな?」と言った様子で笑って受け流していた。
まるでわずかな暇も惜しむみたいに、鶴丸が明らかに本丸の負担を請け負いすぎていたことに、本丸中の書類を一度全てひっくり返してさらい直した加州清光がようやく気付いて、この本丸が主不在で過度に上手く回りすぎていたカラクリが白日の下にさらされた。
あまりにも何もかも巧妙に隠していた鶴丸国永の、尻尾を掴んだ時にはもう遅かった。
そして、皆で無理にでも鶴丸国永を休ませるべきだろうかと思案していた矢先。
ぱきり、とまるで器にヒビが入るみたいに。
鶴丸国永が過剰な神気をあふれさせるようになった。
◇ ◇ ◇
「あん時はホント、どうなることかと思ったな」
「あんな鶴丸さん初めて見ました……」
「本丸全体が鶴丸さんの神気でぐらついてたもんな…」
「隠り世を丸ごと揺るがすほどの量って……ゾッとしますね」
「あれ、本丸中をくまなく覆って、残った大将の霊力を逃さないように囲ってたんだよな」
「痕跡をわずかでも逃したくなかったんでしょうね」
「それであの量だぜ? 古刀じゃなきゃ衰弱して倒れてるっての」
「それでケロッと笑って自覚が無いんですから、ホラーでしたよね……」
「主が帰って来た途端、すっかり落ち着いちまったのはよかったんだけど」
「あまりにも元の鶴丸さんそのもので、逆に怖いです」
「あの蕩けるような笑顔の裏にいるってことだもんな」
「鶴丸しゃんの『大丈夫』を簡単に信じた俺らも悪かったばい」
粟田口の短刀を中心にそこに集まった刀たちは、書類仕事を皆でこなしながら、揃って頭が痛そうにしている。
「俺たち、主が居ない、ってことの意味を軽く考えすぎてたよな」
「オレたちなー、自分たちだけで出陣も遠征も許されてるからって、変に自信付け過ぎてたなー」
「主さんが残してくれた莫大な霊力のおかげで全部賄えてましたからね……自分達だけで問題なくやっていけるって安易に考えすぎてました」
「耳が痛い話ったい」
「四年も主が居なくても手入れ部屋が使えるって、普通は無いことですしね……『普通じゃない』ってことは、『普通じゃない問題が起きる』ってことなんだって、ちゃんと分かってなかったです」
「元々、病床の主が長く指揮を取れない場合のみ、期間限定で適応されてた制度だそうですからね」
「政府の新しい施策で、それを拡大適応した第一期生が主なんだっけか」
「刀剣男士の中にもなー、こーゆー事例に対応してきたケースがなー、少な過ぎてなー」
「いくら本霊を通して知識が多少共有されてたって、経験してなきゃ対策しようがありませんしね……」
「順風満帆な気でいたけど、俺たちの本丸って、思ったより爆弾抱えてたんだなって今なら分かるんだけどよ」
「後の祭りたい」
深々としたため息が、方々から重なる。
「起きた物吉さんにこの惨状を伝えなきゃいけないと思うと……」
「頭が痛え」
「主は何も知らないわけですしね…」
「いつかちゃんと主にも伝えねえとなんねえとは思うけどよ」
「馬っ鹿、何て言うんだよ、『自分が居なかったせいで鶴丸国永が祟り神になりかけてました』ってか? 燭台切さんが言ってただろ、あーいうのはもう祟り先を選べねえって」
「そんなこと聞きつけたら、主さまはお優しい方ですから、当然ご自分を強く責めます」
「迂闊にそうなっちまったら」
「鶴丸さんが自動で反応して」
「全部鶴丸に跳ね返ってくる、と……」
「鶴丸さんが完全に落ち着くまで無理ですね……」
「だあ〜……! ほんと、俺たち、無力ばい……!」
「主の帰還がもし後一年遅かったと思うとゾッとするぜ」
「大将〜! マジ帰って来てくれてサンキューなぁ……!」
「しっ」
偵察値の高い博多が、急に指を立てたので、皆黙り込んで耳を澄ませた。
遠くでとととと、と廊下を駆けてくる足音がして、やがて短刀部屋に軽やかに主が駆け込んでくる。短刀たちは、手元の書類を如才なく捌いているふりをしながら、にこやかに主人を迎えた。
「あるじさん、もう書類終わったんですか?」
「うん!あとは勘定番長に決算をお願いするだけ」
「任せとき!」
胸を叩いて請け負った博多に書類を手渡すと、主はきょろきょろと部屋を見渡した。
「鶴るん見てない?」
「あれ、さっきまでご一緒でしたよね?」
「少し前に、石切丸と一緒に『ちょっと抜けるぜ』って」
(ああ)
(そろそろ祓いの時間たい)
皆、無言でさっと目配せした。
主が帰ってからずっと、鶴丸国永は石切丸の加持祈祷を毎日付きっきりで受けている。
邪気を祓い、身に溜め込んだ祟りの念を少しでも散らすために。
「んー、またどこかでサボってるんじゃねーかな?」
「主さま、鶴丸さんの代わりに僕らがお手伝いしますよ」
「うん…」
毛利に笑顔でそう告げられた主は、まるでぺしょんと耳を垂らすみたいにしょんぼりした顔をしてその場にぺたりと座り込んだ。
「あるじさま?」
「どげんしたと?」
「……鶴るん、ずっと元気ないよね」
短刀達の間に緊張が走ったが、それを態度に出す愚は誰も犯さなかった。
にこやかな表情を変えないように注意しながら、一番近くにいた毛利が慎重に返した。
「そう、ですか?」
「うん、上手く言えないけど……なんだろう、空気? が……重い? 感じ。苦しそう」
眉間にぐぐっと皺を寄せた主は、首を大きく傾げながら、目を閉じて「んんんん?」と両手をもにょもにょさせた。まるで、上手く言葉にできない、正体の見えない何かを手繰るように。
「帰って来た時、眼が……鶴るんの金色が、なんだか、凄く、凄く暗くて……笑ってるのに泣いてるみたいで……そのあとはずっと、優しい眼なんだけど、何だか……」
「なんだか?」
「うん、そう、そうだ。わかった────いつもね、刀剣男士のみんながいると、さぁって風が吹いたみたいに、何だか部屋の空気が軽くなる気がするんだ」
主は、ぱちっと目を開けると、急にそう迷いなく口にした。何かを掴んだみたいに。
「心地よくて、背筋がしゃんと伸びるっていうか、楽になって、息が少し軽くなる感じがする。今までずっと、鶴るんもそうだったんだけど……」
「けど?」
「今は、すごく重い。だから、苦しそうだ、って思う」
(ねえ、これって)
(鋭かね)
(うん、たぶん、神気の質の差を感覚的に嗅ぎ取ってる)
(鶴丸さんがあれだけ完璧に隠してるのに? 嘘だろ?)
(主は審神者としての教育を受けていらっしゃらないはずですが)
(知識が無いからこそ、逆に勘だけ、研ぎ澄まされているのかも)
粟田口の短刀達が目で会話をしている間、主はしゅんとしょげたように視線を落とした。
「何かしてあげたい。でも、どうしていいか分からない。みっちゃんは、『きみが笑ってそばにいてあげるのがいちばんの薬だよ』って言ってたけど……それだけじゃ、足りない気がするんだ」
膝の上でぎゅっと両拳を握って、唇を引き結んだ主は、ぐっと顔を上げた。
「すべきことを教えて欲しい」
◇ ◇ ◇
「世話を掛けて悪いなあ、石切丸」
「気にしないで。御神刀としてこの本丸を祓い清め、加持祈祷でみんなの厄を払う。これぞ私の本領発揮、といったところかな。役に立てて嬉しいよ」
「助かる。万に一にも、主に『これ』を浴びせるわけには行かないからな」
二重、三重に結界を張ったその中で胡座をかいて、鶴丸国永は一見すると穏やかだ。
だが、御神刀である石切丸には、鶴丸国永がぐずりぐずりと腹に飼っている『ソレ』が────鬼が、見える。
「今日はいつもの加持祈祷に加えて、弦打の儀もしようか」
「弓祓いか。よろしく頼むぜ。……上手く効いてくれるといいが」
炊いた炎の弾ける中、石切丸が弓を引く。
びぃん…!と鳴り響く弦の音が、響き渡った。
二度、三度、四度、と鳴弦が繰り返される。
八十八、八十九、と続く中、重い反発に、石切丸は汗を一筋、顎を伝って床に落とした。
(……重い)
九十、九十一、九十二、と弓引く音が繰り返される中、鶴丸国永の体からじゅわりと湧き上がる『ソレ』が、邪気を散らせども散らせども、その形を鮮明にしていく。
「なあ、石切丸。こいつは斬れそうかい」
「……正直なところ、難しいね。鶴丸さんのそれは、形式そのものは正当なのが厄介だ」
「だよなあ。政府に一度捧げられた神の子を取り上げられた。実態がどうあれ、オレの側がそう認識しちまってる。こういう場合、祈りも祟りも、手順が成立しちまえば完成するのが道理だ。形式そのものは呪詛に近い」
自身の現状を冷静に分析した鶴丸国永は、既に真っ当な理性を取り戻しているが、残った問題はそれとこれとは話が別だった。
「となると、どう足掻いても焼け石に水だな」
「引き続き地道にやっていこう。少しでも清めて散らせるように」
「それしかないよな」
長く掛かることを覚悟して、頭をガシガシと掻いた鶴丸国永は、ふと急に視線を彷徨わせ、はたと顔を上げた。
「……あの子が呼んでる」
「鶴丸さん?」
胡座を崩して膝を立てると、鶴丸国永はふら、と吸い寄せられるように立ち上がって、いささか茫洋とした瞳で、自分と外を隔てる結界に両手をついた。
まるで握り潰すみたいに結界を容易く割ってしまうと、石切丸の祈祷場の出口へと真っ先に駆けていく。
「鶴丸さん!? 待って」
石切丸が急いで追い掛けようとするも、機動の遅い大太刀では間に合わない。一目散にだだだと駆けていった鶴丸国永は、封じていた祈祷場の扉をバンッと開け放ってしまって、その廊下の奥の奥にぽつん、と一人、座り込んだ主を見つけた。
「あ……」
祈祷場へと続く一本廊下の奥に座り込んだまま、壁に背を預けて両膝を抱えた主が、顔を上げて鶴丸国永を見た。
「鶴るん…」
「どうしたんだ、きみ、こんな冷えるところで座り込んで」
慌てて白絹の上着を脱ぎ落とした鶴丸国永は、覆うようにばさりと主の体を覆った。
「冷え切ってるじゃないか」
「祈祷場の扉が閉まってる時は、この線の先に黙って近付いちゃダメって、前に石切丸が言ってたから……」
主が祈祷場に繋がる道の奥を指差す。視線の奥で、石切丸が鶴丸に追い付いて、主を見つけて目を丸くしていた。
「だから、待ってたの」
「オレを?」
「うん、私も一緒にお祈りしたくて」
両膝を抱えた主の手には、まるで薔薇のように美しい赤で形成されたロザリオが、静かに光を弾いて垂れ下がっている。
「だから、ここでお祈りして、待ってた。鶴るんが元気になりますようにって」
「オレのために?」
「うん」
声がした。
自分の名を呼びながら祈る声が。
自分に向けられた祈りを、神座に連なる鶴丸国永は聞き逃さない。
◇ ◇ ◇
「すべきことを教えて欲しい」
主からひどく真摯に投げかけられた問いに、短刀たちは唸った。
人が乞い願い、希う。願われれば、叶える。問われれば、返す。
それが神座に連なるものが果たすべき責務だ。だから、この問いには応えなければならない。
けれど、鶴丸国永の現状を迂闊に伝えられないとなると。
皆がどうしたものかと唸っている中、主はしょんぼりと肩を落とした。
「何もできないのは、哀しい。私はただ、祈ることしかできないから……」
その言葉に、毛利はハッと気付いて、こう答えた。
「あるじさま、あれをお持ちですか? 何て名前でしたっけ、そう、キリシタンの数珠」
「? ロザリオのこと?」
「そう、それです。あるじさま、前に話してくださいましたよね。十字を切る形式の祈りだけじゃなく、困った時、不安になった時、お願いする時、あれを使って大事に一玉一玉数えて祈るんだって」
毛利は主の手を拾い上げて、ぎゅっと握った。
「数珠は念珠とも言います。祈りの数を数えるという意味では、とても近しいものです。数珠の場合は108回。同じだけ繰り返し祈って差し上げてはどうでしょう」
「……? そんな、当たり前のことでいいの?」
「あるじさま、決してそれは、当たり前のことではないんですよ」
毛利は、まるで幼い子供を諭すように柔らかに微笑んだ。
「人の子の祈りがどれほど強いことか。僕ら刀剣男士は皆、人間の祈りに応えてここに居ます」
毛利が触れれば、主からあふれる祈りの気配はとても強く、彼女の身から絶え間なく流れ出ている。
祈りが習慣化され、祈ることが息をするように馴染んだ者の纏う空気だった。
「いつもあるじさまが祈り、願ってくれるから、僕らは頑張れるんですよ。きっと、鶴丸さんも同じ想いです」
「そっか」
主は素直にこくんと頷いて、蕾が綻ぶように微笑んだ。
「それなら、わたしにもできる。ありがとう、毛利ちゃん、わたし、行ってくるね」
すくっと立ち上がると、短刀たちの仕事場を離れ、主は一目散に駆け出した。
主が去っていった部屋で、短刀たちは詰めた息をぷはっと吐いた。
「毛利、ナイスプレー!」
「よくやった!」
「迂闊に話せんし、どうしたもんかと思ったが」
口々に褒められた毛利は照れたように頬を掻いた。
「僕、あるじさまの祈り、とても好きです。優しくて清らかで、僕らにも幸せが降り注ぐようにと願ってやまない。幸福を分け合うことの意味を知ってる方の祈りです」
毛利は、主人が駆けていった方へ視線をやって微笑んだ。
「それをあるじさまは、いとも容易くされます。本当に当たり前のことだと思っていらっしゃるから。そんな主が好きなんです。鶴丸さんも、きっと」
◇ ◇ ◇
「あのね、毛利ちゃんが、数珠はロザリオに似てるし108回お祈りするんだって教えてくれてね、ロザリオは10回1連だから、あと10連お祈りすればいいなって思って」
鶴丸国永の白の上着に覆われて、寒い廊下で主は笑った。
「だから、お祈りしてた。鶴るんが元気になってくれますように、苦しくありませんように、苦しかった百と八倍、幸せが降り注いでくれますように、って」
主の笑顔に、鶴丸国永はたまらない気持ちになった。
手にしたロザリオは祈りの途中で、鶴丸国永には彼女の祈りでゆるやかに光を帯びて優しく輝いているように見える。彼女の気性そのものだ。
その全てが自分のためだと思うと、どうしようもなく堪らなかった。
鶴丸国永は、白で包んだその子をひょいと抱き上げた。刀剣男士の怪力で容易く縦に抱き上げられてしまった主は「鶴るん?」とされるままに目を瞬かせた。
「きみの祈りの声が聞きたい」
抱き上げた主の白い額に、自らも額を当てて、穏やかに目を閉じたまま鶴丸国永はそうねだった。
「聞かせてくれ」
「うん。じゃあ、一連の続きから、先に主の祈りをするね」
薔薇の香りのするロザリオを胸に抱いて、両手でぎゅっと握ったまま、主は目を閉じた。
鶴丸国永の額に、自らの額を重ねたまま。
「天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように、み国が来ますように。御心が天に行われるように、地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」
鶴丸国永は、主が上げる柔らかな祝詞を、額を合わせたまま耳を澄ませて聞いていた。
「わたしたちの罪をお許しください。わたしも人を許します」
「……ああ」
「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」
「ああ、うん」
鶴丸国永が腹に飼っていた鬼の気配が、みるみるうちに寝静まっていく。
石切丸はそれを見てとって、大きく息を呑んだ後、ふっと安堵に表情を綻ばせた。
無垢なる祈りは時に、何にも勝る。
それを聞き届けたいと思う者が在る限り。
祈りが鶴丸国永へと溶けていく。
それは、この鶴丸国永が
彼女が与えるものなら全て
祈りでも呪いでも何一つ全て、その身に引き受けたいと、願っているからだ。
「めぐみあふれる聖マリア、主は貴方と共におられます」
「もっと」
「主は貴方を選び、祝福し、貴方の子イエスも祝福されました」
「もっと」
「神の母聖マリア。罪深い私たちのために、今も、死を迎える時もお祈りください」
「もっと」
主は、一つ唱え終わると、少しだけ小首を傾げて思考を巡らせると、よく似た祝詞を選んで再び唱え始めた。
「めでたし聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女の内にて祝せられ、御胎内の御子、イエズスも祝せられたもう」
「……もっと」
「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈りたまえ」
「もっと」
いつまでも主の身に顔を埋めて、もっと声を聴かせてくれと願う鶴丸国永の身が、溶けた祈りで飽和して落ち着くまで。
主はずっと、ただ一人のために。
まっすぐ、優しく、心から
幸福を願う祈りの祝詞を、唱え続けていた。
◇ ◇ ◇
「鶴丸さん、いよいよ修行に出るって?」
「ああ。きみにはいっとう世話になったな、石切丸」
出立を控えた鶴丸国永は、旅道具を纏ってニッと笑った。
鶴丸は自らの胸に手のひらを置いて、銀のまつ毛を伏せて微笑んだ。
「今なら、こいつを飼い慣らしてやっていける。抱え込んだ怨嗟の念よりずっと、あの子が与えてくれた祈りの方がよほど強い」
穏やかに語るその様子は心から凪いだもので、石切丸から見ても揺るぎなく澄んだ大河のようだった。
鶴丸国永は、透き通った金眼を悪戯めいたものに変えた。
「俺たち鶴丸国永は、星の数ほど人間と共に歩んできたが」
纏った旅装束の三度傘をクイっと上げて、鶴丸国永は誇らしげに笑った。
「数ある鶴丸国永の中でも、異教の祈りをこんなに刀身に吸ったオレは、きっと、他のどこを探してもいないだろうな」
「すごく強い祈りだね。108回の祈りが、刀身の隅々まで行き渡って巡っているのを感じるよ」
百と八とは、四苦八苦を足した4×9+8×9=108から来ているという説がある。
怒りと妬み、底なしの欲望を三毒と呼び、身を蝕むこの毒は喩えようもないほどに強く苦しいのだと。これらを祓う習慣が、108度の鐘を鳴らす除夜の鐘。
苦しみと毒を抜く、108度の古くからの習慣だ。
彼女が鶴丸国永に与えた百と八度の祈りは、彼が身に溜め込んだ毒を抜き、苦しみを和らげ、行き場の無い怒りを片時も離れることなく包んでいる。
彼女が人である以上、この先全ての時間を必ず供でいられるわけではない。
けれど、刀身が吸った祈りとは、片時も離れず共に在れる。
自分達は刀剣男士。祈り願われ、応えて顕現せしもの。
祈りは、自分達の存在を確かにする、根幹だ。
「あの子の祈りは光だ。目を閉じてても、道往きの先を白く照らす」
鶴丸国永は青空を見上げ、穏やかに目を閉じた。
「オレは、これを辿って、過去と向き合ってくるよ」
石切丸が見送る中、ぷらり、と肩越しに手を振った鶴丸国永が出立する。
高い空は雲一つなく澄んでいて、心は青空のように晴れやかだった。
さあ、旅路を辿ろう。たとえ祈りの声が聞こえずとも問題ない。
この身に飽くるほどに吸った祈りが、今も耳の奥で響いている。
旅路は、祈りに照らされた白き帰路だった。
帰ろう。あの子の祈りが聞こえる場所まで。
そして帰ったら、今度はオレが。
きみの征く先を、白く照らすさ。
《鶴丸国永と祈りの旅路を》
《後日談、物吉貞宗》
現の時間にして五ヶ月あまり、僕、物吉貞宗はあるじさまをお守りできる唯一の刀として、現世で近侍を務めました。
本丸と現世を繋ぐ転移ゲートの障害事故で、本来近侍を務めるべき警護刀の交代ができなくなってしまったためです。
現世に取り残されたあるじさまの安全を思えば気の抜けない日々でしたが、同時に、本丸に長く滞在できないあるじさまのお側にずっといられる得難い機会でもありました。
僕にとってあの五ヶ月間は、かけがえのない宝物です。
ですから、再び本丸と現世を行き来できるようになって以来、僕は現世警護の任務を辞しています。
あるじさまのお隣に居られる限られた機会を、この本丸では概ね公平に分け合っていますから、その貴重な機会を、少なく見積もって昼夜300回以上も独占した僕は、自ら進んで皆さんにお譲りするべきだと思ったからです。
あるじさまと同じ刻の流れに残された僕と違い、本丸の皆さまは、四年以上の歳月、あるじさまの帰還をただ待たねばなりませんでした。
皆さまとても優しい方々ですから、わざわざ口にしたりはしませんが、予想外にあるじさまのお側に長く留め置かれた僕を、羨ましく思う気持ちが無いはずがありません。あるじさまと共に居られる機会は本当に限られている上、あるじさまはとても、とても慕われていますから。
主人の不在期間が年の大半を占めるこの本丸では、団結がとても重要です。
こういった特殊な本丸では、小さな不和が時に命取りとなることを、僕らは重々理解しています。あるじさまのためにも、お側を取り合うのではなく、皆で支え、分け合わなければなりません。
現世警護を担当する鶴丸さんにも、その意向はお伝えしています。もちろん、必要あれば現世にいつでも参じますが、鶴丸さんは僕の意向とその必要性をとても良く理解してくださって、僕の辞意を皆さんに伝え、配置を僕以外の皆でできるだけ公平に分けてくださっています。
そのため、最近もっぱら僕の役目は、あるじさまが完全に寝静まった夜更けだけ警護を交代し、あるじさまを護る結界の点検をしたり、僕の幸運の加護が可能な限りあるじさまの身の回りに及ぶように見て回ったりなどです。
昼にお勤めのあるあるじさまとは常にすれ違いになる体制ですが、構いません。
良いのです。常日頃言葉を交わすことだけがお仕えする全てではありません。
大好きなあるじさまのお力になれるなら、どんな形であれ僕はとても幸福な刀です。
幸せそうに健やかに眠っておられるあるじさまの寝顔が見れるだけで、僕は充分すぎるほどに報われています。
ですが、そんな夜遅い刻限、僕が他の刀と交代すると、どんなときでも欠かさず、一通のメッセージカードが居間に置かれています。
あるじさまからの置き手紙です。どうやら僕が交代で任務に当たる際、前もって鶴丸さんがそっとあるじさまに耳打ちしてくださっているようです。名代としてお忙しい中にも関わらず、鶴丸さんには本当によく気に掛けて頂いています。
物吉ちゃん、いつもありがとう。だいすきだよ。
そんな、幼い子供のような、純朴で優しいメッセージが、欠かさず置かれているのです。
僕は本当に、本当に、とても果報物なのです。
仲間にも主人にも本当に恵まれた
僕、物吉貞宗は、日々噛み締めるほどに幸運で幸福な刀でした。
こんなにも心優しいあるじさまと仲間に、僕は応えていきたいのです。
◇ ◇ ◇
《決意、加州清光いわく》
物吉の忠誠心は、とても透明で
あの混じり気の無い優しさは、どこか主に似ている。
俺はそう思う。
まだこの本丸に、初期刀の俺と、鶴丸たち伊達の刀しか居なかった時
早急に脇差を呼ぶ必要があったあるじは、鶴丸の助言で『自分によく似た刀』の鍛刀を試みた。
そうしてやって来たのが、物吉貞宗。
俺たちの主は、多重加護、という特殊な体質を持ってる。
物吉を鍛刀する前から、求めた刀は必ず一度で鍛刀、くじ引きやおみくじはいつでも大当たり、賽子はいつでも好きな出目、札遊びは負けなし、そんな様子だったから
あるじに似た刀として物吉が呼ばれた時は、俺たちの誰もが納得した。幸運の刀、物吉貞宗の逸話は、誰が見てもあるじにお似合いだったから。
でも、ただそれだけじゃない。
そう、俺たちはすぐに理解することになる。
物吉のあり方は、優しさは、心配りは
とても、とてもよく、あるじに似ている。純粋で、透明で、綺麗だ。自分の幸福を、分け合って差し出すことを躊躇わない。それが幸せだって穏やかに信じてる。
特に、大好きな主の側を自ら辞した件なんて
俺にはちょっと真似できそうにない。
だから俺は、実は、心密かに決めてることがある。
物吉みたいな刀が、この本丸で、割を食わないように、できるだけ見守ろう、ってことだ。
たとえば、もし物吉が、みんなへ譲る影で哀しい思いをしてたとしたら
それはきっと、物吉とよく似たあるじも、見えないところで、そんな想いを抱えている証拠だと、俺は思う。
だからこそ初期刀として、そういう本丸にしたくないと思ったんだ。それがきっと、あるじの願いだから。
幸い、物吉にはほとんど最初から、同じ貞宗が揃って一緒にこの本丸にいるから
時々俺は、こっそり、亀甲や太鼓鐘に聞く。物吉は、あの透明な優しさの陰で、何か苦しい思いをしていないだろうかと。
そんな時、亀甲も太鼓鐘も、なんだかくすぐったそうな顔をして
どこか物吉と同じものを感じさせる柔らかい瞳で、首を横に振ってくれる。普段はあんまり似ているように見えない亀甲や太鼓鐘たちだけど、それでも同じ鋼の中に、通じ合うものがやっぱりあるんだろうなと思う。
そういう反応が返って来ている間は、大丈夫じゃないかな、って判断してるんだ。
それが、俺なりの見守り方。
それに、俺たちは、物吉が居ない中で、本当は絶対に聞き逃してはいけなかった見えない悲鳴を、既に一度聞き落としてしまっている。
鶴丸だ。俺たちは『あいつなら大丈夫だ』って、安易に考えて致命的な兆候を見落とした。
同じ轍を踏む訳にはいかない。絶対に。
《幕間〜粟田口と鶴丸国永と殻色〜》
「あのね、鶴るんがね」
「? 鶴丸さんがどうされました?」
「一緒にお出かけすると、必ず服屋に寄ろうぜって言うんだよね」
粟田口の短刀部屋で、皆で書類を捌きながら、主はそう首を傾げた。
「私、そんなに服買わないけど、鶴るんが楽しそうだから」
「まあ、気持ちは分かります。あるじさまは目鼻立ちもはっきりしていて着飾り甲斐がありますから」
「でもね、いつもちょっと変なんだよね」
「……? 変、とは?」
「必ず一度、鏡の前で白い服を当てるんだよね。着て欲しがるっていうか」
「まあ、鶴丸さんですし、自分と揃いの白を当てたがるのでは?」
「でもね、鶴るんみたいな真っ白じゃないんだよね。いつも絶対、少し黄色が入った白なの。お揃いなら真っ白の方が良くない?って聞いても、この色でいいんだって言うし」
主は少し困ったように小首を傾げた。
「私、白も黄色も似合わないと思うんだよね。自分で言うのもなんだけど、貞ちゃんもみっちゃんも赤の方が絶対似合うって。でもね、絶対一回、ちょっと黄色い白をね、当てるんだよね、鶴るん。で、何事も無かったみたいに笑って別の服を見繕ってくれるんだ。そっちはいつもね、赤とかで凄く似合うって褒めてくれるんだけど、……なんで毎回、合わない色を当てるんだろう??」
粟田口の古参刀たちは皆、互いに顔を見合わせて「?」という顔で首を傾げ、主の話を聞いていたが
その中で、ただ一人、毛利藤四郎だけが、妙に青い顔をしていた。
隣で後藤が「毛利どうした?」と首を傾げる。まるで気付いてはいけないことに気付いたみたいに、毛利が「あるじさま、ご存知ですか」と恐る恐る口にした。
「卵の殻って何色か、ご存知です?」
「? 真っ白だよね」
「品種改良された近代でこそ染色されて白ですが、うんと古い昔はもっと黄色味を帯びた白をしていました」
「へー、毛利ちゃんやっぱりいろんなこと知ってるね」
「何色って呼ぶかご存知ですか」
「? なんだろう、殻色とか?」
「おーい、あるじー?」
「あ、かしゅーが呼んでる。行かなきゃ、ごめん、またね!」
毛利の言葉を聞いて、青褪めた粟田口の短刀たちは、黙って主を見送った。
主の気配が遠退いた後、毛利が両手で顔を覆って天を仰いだ。
「『鳥の子色』って言うんですよ、あるじさま…!」
「馬鹿野郎なんでそういうこと気付くんだよ!!! 気付かないでおけよそういうことは!!!」
「怖っ」
「おわー…」
「笑顔の裏にどことなく狂気を感じるばい……」
「気付きたくなかった」
「俺ちょっとあの人の顔、正面から見れないかも…」
「やめろ、オレたちは何も聞かなかった。いいな?」
《真白な鳥の偲びの舞と歌声》
「なに、オレの舞? 宴会芸の腹踊りでもへそ踊りでもなく?」
鶴丸国永は目を丸くした。
何やらどこかで聞き付けて、主がそれを見たがっているらしい、という話が回ってきたのは、欠伸の出るような平穏な昼下がりのことだった。
はたと察した鶴丸は「まさか、鶴の舞か?」と片眉を跳ね上げて怪訝そうに唸った。
「なんだなんだ、よく知ってるな? あれは大概どこの本丸でも、主にしか見せない十八番なんだが」
「ごめん、ほんとごめん、口を滑らせたの僕なんだ……あの時、太郎さんと次郎さんの歓迎会でうっかり記憶飛ぶまで飲まされちゃって、しこたま酔ってて……」
「ああ、きみが珍しく泣き上戸してたあの時かぁ。はは、なんだ、出所は光坊か。いったい全体、どこの鶴丸国永が洩らしたんだ?」
「実は、その、あまり良くないタイプの本丸で、葬送に舞ってくれた記憶がほんの少しだけ……あんまり綺麗な舞だったから…」
「ああ、なるほど、道理で」
納得のいったらしい鶴丸は、ばさっと払った白絹の両裾に手を入れて苦笑した。
「あの舞なぁ。墓暴きの歴史に惹かれるようなタイプの主にはたいそう気に入られるんだが、あの子には苦かろう」
追悼の場面に似合うような影のある演舞だ。鶴丸国永の光と影を共に愛する主にはたいそう好評だが、この本丸の主は鶴丸国永の光を愛している。
「珈琲より砂糖入りのホットミルクを好むような主だからな。ひとさし舞ってやったところで、無駄に心配かけるのがオチだな」
「ごめん、ほんとごめん鶴さん…」
「なぁに、もういいぜ、過ぎたことさ。そこの鶴丸国永も、きみになら洩らしていいと思ったんだろ」
こきん、と肩を鳴らした鶴丸国永は、道場に向けて軽やかに踵を返した。
「仕方ない、ちょいと剣舞でも披露して茶を濁すか。光坊、相手頼むぜ。きみならギリギリついて来れるだろ?」
「うん……任せて。責任取ってしっかり合わせるよ」
そうして、鶴丸国永が披露した奉納剣舞は、まさに自由自在に舞う白鶴の如く
主の視線をたいそう釘付けにして、主の話題と心を掻っ攫った。
「すごい、すごい! 綺麗! カッコイイ!」
「どうだい? きみの鶴の舞はお気に召したかい?」
「うん!!! 凄かった、凄かった、かっこよかった! 剣閃がキラキラしていた!!」
頬を真っ赤に高揚させて、手が痛くなるほど精一杯に拍手する主は、宝石のように目をキラキラさせ、興奮冷めやらぬとばかりに何度も何度も「綺麗だった」「かっこよかった」「キラキラしてた」を無限ループに繰り返した。
そうやって手放しで喜ぶ主の瞳の方がよほどキラキラしていると教えてやってもよかったが
声も出せないほど汗だくで疲弊していることを笑って懸命に隠している光坊のためにも、鶴丸は少し考えてから悪戯めかしてこう言った。
「じゃあ、きみも代わりに何かやってみてくれないかい?」
「私も?」
「そうさ、とっときの隠し芸を披露したんだ。きみも代わりに何か楽しませてくれてもいいだろ?」
鶴丸はあえて、できるだけ底意地悪く見えるようにウィンクした。
そうは言っても気にするだろう光坊に名誉挽回のチャンスを渡すため、あえて相手に指名はしたが。
実際のところ、自分の剣舞の相手役を務めるのは、鶴丸から見ればまだまだ若い光坊にはいささか過負荷が過ぎる。せめて、三日月宗近ぐらいの古刀であれば笑って承ってくれただろうが。
意地の悪い聞き方は、あくまで何度も所望されたり、他の芸を際限なく欲されたりしないための予防線で
彼女のためにわざと少し困らせてやるだけのささやかなものであったから
実のところ、本当に何かして欲しいわけではなく
鶴丸国永は、なんてな、と笑って茶を濁そうと思っていたのだが
その前に主が小首を傾げて「お返しになるか分からないけど…」と心当たりのありそうに首を捻ったので
鶴丸は内心、お、と棚ぼたの気配を察知した。
「なんだい? 何でもいいぜ」
「よく歌ってる聖歌とかでもいい?」
「聖歌? 聖なる歌…? ああ、キリシタンの?」
「うん。歌はあんまり知らないけど、讃美歌なら教会で歌うから少し知ってる。好きな歌でもいい?」
鶴丸国永は目をしばたかせて、少し考える仕草をした後、ニッと悪戯めいた顔をした。
「いいぜ、聞かせてくれよ」
汗だくの光坊が目線だけで「鶴さん、いいの?」と言いたげな目を向けてきたが、鶴丸は口角を吊り上げて応じた。何やら面白そうな気配がする。
「ふーん、祝詞や説法ならともかく、讃美歌を歌われるのは初めてだな。いいぜ」
鶴丸国永は、さっと白裾を払って道場の床に胡座をかくと、頬杖をついてニッと鑑賞の体を取って笑った。
主は少しの間だけ「あ〜、あ、あ〜」と喉の調子を整えていたが
やがて二度大きく深呼吸すると、目を閉じ、両手を祈りの形に組んで、すう、と息を吸った。
「Amazing grace how sweet the sound」
美しい旋律と共に、外つ国の言葉が祈り形で主の唇から流れ出たその瞬間
ぶわりと突風に煽られたみたいに、鶴丸国永は仰天してひっくり返りそうになった。
「──ッ!?」
「!?」
鶴丸国永と燭台切は、突然の奔流に、揃って転げ落ちそうになった。目を丸くして口を開けたまま、崩れた姿勢を慌てて立て直す。
凄く、物凄く強い、とんでもない祈りの濁流だった。
広がった歌声に乗せて、力の波が本丸中をぐらぐらと揺らした。遠くで他の刀たちが何事だと騒ぎ出す気配がする。
ささやかで美しい歌声は、あまりにも清らかな祈りが膨大に込められていて
それは、拡声器で叫ぶよりもずっと、本丸中の刀剣男士たちの耳を揺らした。結界がドンッ!と人間に聞こえない轟音を立てて揺れる。
ドドドド、と廊下を走ってくる気配がして、初期刀の加州清光が、慌てて道場の扉を開け放った。
「な、なにごと!?」
駆け込んだ加州の様相に、主は驚いたのか、ピタッと歌うのをやめてしまって、本丸の揺れは止まった。
ひっくり返りそうに姿勢を崩した鶴丸国永も燭台切も、度肝を抜かれて呆然としたまま固まっている。
「え、え?」
主は、困惑したように、祈りのポーズをしたまま歌を中途半端にやめ、目を白黒させている。
「あるじ、な、何があったの…!?」
「主!?」
「大将、どうした!?」
「あるじさま、何事ですか!?」
次々と道場に駆け込んでくる刀剣男士たちに、主はまったく意味が分からない顔をして「え?」「え?」としきりに目を白黒させている。
ずり、と鶴丸の肩から白い羽織が落ちる。あんぐりと口を開けて茫然自失したままだった鶴丸国永は、そこでようやく自分を取り戻して
我慢できずにじわじわと口元を笑みの形にすると「…はは!」と笑った。
「お、驚いた…! こりゃ驚いたぜ…!」
この後、主から聞いた話によれば、彼女たちキリシタンにとって讃美歌とは
歌の形を取っているだけで、感謝の祈りや称賛の祈りそのものだと教わるのだという。
歌は空気より軽いから天高くまで届くのだと
だから天国に届くように心を込めて祈って歌い上げるのだと。
そういう性質のものらしい。
確かに、歌や祝詞は古来より、祈りを遠くまで拡散させる作用がある。
要は彼女は、天高くに座する神に届くようにと全霊で祈る讃美歌を
鶴丸と燭台切の剣舞の礼にと、目の前で歌って贈った。
つまり、刀剣男士たち付喪神への祈りを
天上まで届くような声量で、全身全霊で歌ったことになる。
そりゃ本丸が揺れるわけだった。
生来持つ途方もない量の霊力と相まって、本丸には濁流のようにとんでもない霊力が流れ
顕現にも勝るような大音声で突然呼び出されたと錯覚した刀剣男士たちは皆、泡を食ってひっくり返ったわけだ。
鶴丸と燭台切の奉納剣舞で、霊的磁場が飛躍的に上がっているその場所で
霊力の制御を習っておらず使い方がめちゃくちゃな主にやらせることではなかった。
神座に連なる神自身が自ら奉納剣舞し限界まで清めた場で、神が所望し、彼女が応じた。
その形式が成ったことによってカチリと歯車が噛み合い、いわば、とてつもない強化がうっかり掛かった状態とでも言えばいいだろうか。
つまりこの事故は、よりによって剣舞の直後にその場で場所を変えずに、祝詞に準じる歌を所望した鶴丸国永におおむね責任があり
多重に張った結界をうっかり内側からぶち破られそうになった石切丸が眩暈を起こしながら「つ、鶴丸さん、ちょっと、さすがに軽率だったと思うよ」と苦言を呈した。
「鶴丸さん、自分が神性の強い古刀の一振りだってこと忘れないで……こんな気合い入れて彼女に剣舞を奉納した場で何かさせようとしたら、こういう事故が起きてもおかしくないよ……彼女、ほんとに霊力の使い方めちゃくちゃなんだから……」
「ははは、すまんすまん、うっかりしてたぜ。主の霊力を甘くみてた」
初期刀の手で『主を唆して結界を内側からぶち破りかけました』の反省プラカードを首から下げさせられた鶴丸が、廊下に正座させられたまま鷹揚に笑った。
隣で燭台切も自主的に正座して小さくなっている。
「ごめん、こんなことになると思わなくて……ちゃんと止めなかった僕が悪かったよ……」
「燭台切は鶴丸に無理して付き合って神気消耗してへろへろだったんだろ。霊的磁場がどのぐらい馬鹿みたいに上がってるのか全然見えてなかったんだからしょうがないよ」
「まったくだ。どうせ主にいいとこ見せたくて調子に乗ったんだろう。限度ってものがあるだろう、限度ってものが」
加州と歌仙が揃って鶴丸を叱ったが、鶴丸は「いや〜、すまんすまん」とへらへら笑うばかりで反省の色が見えない。隣で燭台切がひたすら小さくなるばかりである。
「…………あの、そもそも、剣舞は僕が、」
「あー、あー、いい驚きだったな! 歌を最後まで聞けなかったのが心残りだぜ! どうにかまた驚かせてくれんもんかな!」
燭台切の言葉を上手く遮るようにして、鶴丸国永がそう声を上げながら名残惜しそうにケラケラ笑った。
加州と歌仙が揃って鶴丸にゴッと拳骨を落としたが、頭を抱えて「ぐああ!」と痛みに派手にのたうち回った鶴丸に、光忠が言いかけた言葉は有耶無耶になった。
あきれ果てたとばかりにため息をつく加州と歌仙を他所に、鶴丸国永は床を転がったまま、二人の目を盗んで隣の光忠に「しっ」と指を唇に立て、密やかに笑った。
こうして、真昼間の青空の下
敵襲でもないのに結界を危うくぶち破りそうになったこの事件は
120%鶴丸国永のやらかしとして、この本丸の歴史の一ページに刻まれている。
◇ ◇ ◇
◼︎こぼれ話
この本丸の燭台切光忠には「どうやらブラック本丸で鶴丸国永と共に居た記憶がある」ということが今回明かされた。
作中でちらちら設定は見え隠れしてたが、この世界観において刀剣男士たちは、皆共通の本霊の記憶に加えて、個体差はあれど、分霊から本霊に還元された各本丸の記憶も一部持っている。
本霊の記憶は皆共通だが、分霊の記憶の共有はごくごく部分的で個体差である。
特にこの本丸に呼ばれる刀たちは、分霊の記憶を多く保有しているパターンが多く、それは『荒御魂側の刀より和御魂側の刀の方が記憶を多く保有している場合が多い』という性質からきている。
この本丸の燭台切光忠には、『鶴丸国永が葬送の舞をしてくれた記憶』がある。
記憶元の燭台切がいたのは、『レア刀を偏重しレア以外は手入れせず使い捨てで折られるタイプ』のブラック本丸である。
戦に出されずに重宝されるが故に折られず皆を見送るばかりの鶴丸国永が、どれほど手を尽くそうと折られてしまった大倶利伽羅たち皆に絶望する燭台切の前で、『真白な鳥の舞〜偲〜』を舞って「今はまだひと休み」と、今はただ穏やかに眠れと、葬送してくれた記憶があるのだ。
その舞いにとても救われた記憶が、そこの燭台切光忠が最後まで手放さなかった唯一の記憶であり、それが折られて本霊に還った後、現在の燭台切光忠に記憶だけ引き継がれている。
その本丸では、その後、折られた燭台切を見送った鶴丸国永が取り残された。既に審神者も死亡している、遠い昔のことである。
この記憶は、この本丸の鶴丸国永には共有されていない。個体差であるが、そもそも、そこの鶴丸国永が、悪い驚きしかないその本丸の記憶を、本霊に持ち帰らなかったのだろう。
以前の燭台切光忠の「鶴さんは自分のお守りを人にあげちゃうタイプだから」という発言は、どうやらそのブラック本丸における実在の出来事だったらしき様子がある。しかし、最終的に燭台切が折れ、鶴丸国永が残されたということは、それでもその鶴丸国永は、折られる仲間を救えなかったのだろう。
鶴丸の「ああ、なるほど、道理で」という発言は、単に「舞いが洩れた理由」ではなく「ああ、きみはだからオレや周囲にいささか過保護なのか。道理で」という意味である。一を聞いて百を理解する刀なのだ。
この燭台切光忠は、ブラック本丸の記憶を偶然にも保有したタイプの個体差がある個体であるわけだが、この本丸では、主の「他ならぬ燭台切光忠を強く呼び求めている」という祈りに応えて顕現した。それは、燭台切光忠にとって、同じような本丸に呼ばれないために必要で、その時、鍛刀を供したのも鶴丸国永だった。つまり、これは偶然ではなかった、ということである。この燭台切光忠は、飛び抜けてレアではない自分を強く求め、鶴丸国永がいる本丸を無意識に選んで顕現したのだ。
結果としてこの穏やかな本丸に呼ばれたことは、燭台切にとっては癒しの時間となった。他の刀たちに配慮を重ね、厨番長に夜食食堂にバーに遠征司令塔にと、皆を気遣い護ろうとする燭台切の気性は、生来のものであると同時に、記憶の個体差に大きく影響を受けている。
それを、この燭台切は、気が緩んだ酒の席で、珍しく泣き上戸している中、うっかり口を滑らせてしまった、ということだ。
それは、燭台切がこの本丸で、それほどに気を緩めていられる、ということと同義である。
《鶴丸国永は瑞鳥か凶鳥か》
第一部隊の隊長は、初期刀であり最たる練度を誇る加州清光。
その際、主が指揮できない場合は、鶴丸国永が『名代刀』として差配することがある。古参の時代は、殿に燭台切光忠を置き、最初の三振りが隙なく皆を護る体制を敷いていた。
刀が増え練度も上がった現在は、燭台切を厨番長および遠征司令塔に置き、殿は流動的だ。
しかし、第一部隊隊長加州清光、名代刀鶴丸国永の体制は、現在も変わっていない。
初鍛刀、鶴丸国永。現世に警護刀を送り込む体制の維持と司令塔を担当。主不在時には名代刀となり、主帰還時は近侍を務める。最も役割の兼任が多い刀だ。主の信任も厚いことの証左である。
現世からの緊急電報に対応する係も当初は鶴丸だったが、現在は本丸に常駐する総務番長、長谷部に役割を譲っている。
故に、第一部隊が難度の高い戦場を走っている真っ最中を除けば、鶴丸国永は日中、割と暇をしていることが多く、本丸をぷらぷらしている姿もよく見かけた。
大和守安定の例のように、悩んでる連中を見つけてきては話を聞いてやったり、負けん気の強い連中の打ち稽古の相手をしてやったり、驚きという名の悪戯や奇襲や罠の作成に精を出したりもしているようだ。
だが、何よりも。
鶴丸国永が真骨頂を発揮するのは、主の名代刀として指揮を取っているその時だ。
この本丸一の練度を誇る加州清光は、普段は教育番長として、新刃を徹底的に鍛え、戦場に送り込み、その指揮を取っている。
その業務は、この本丸において最も重要な、主の警護刀を鍛え上げるということだ。
だが、その業務を停止し、第一部隊の隊長を加州が担当しているということは、それだけ難度の高い戦場に身を置いていることと同義である。
その時、普段指揮を取っている加州に代わり、鶴丸国永が名代刀として最高難度の戦場の指揮を取る。
そう、通常なら主に任せる指揮を、行軍を、進退を、────命を。加州清光は鶴丸国永に委ねる。
普段は、何かと加州が叱り鶴丸が逃げるような場面が目立つ二人だが、この時ばかりは様相がガラリと変わる。
戦場において、この二人の間に交わされる信頼は重い。
そして第一部隊に率いられる他の五振りに訊ねると、皆似たような感想を述べることが多いのだ。
曰く、鶴丸国永の指揮は、主が率いていると錯覚させる、信頼と安堵に値する何かがある。
誘因の一つを紐解けば
そもそも主の指揮そのものが、実は鶴丸国永に教示を受けながら身につけたものであるということだ。
こんな実話がある。
戦の最前線を走る、顕現した刀数も多数を誇る、とある本丸で。
兵法と将棋の腕にかなりの覚えのある山姥切長義と薬研藤四郎が、軽い気持ちで本丸中を巻き込んだ総当たりトーナメント大会を開いた。
その際、山姥切長義も薬研藤四郎も、まるで歯が立たなかった刀が二振りいたという。
それが三日月宗近、そして鶴丸国永だ。
初戦から周囲が付いていけないほど高度な戦いを繰り広げたこの対決。大接戦だったこの二振りの勝負は、僅差で三日月宗近の勝利で終わったという。
そう、鶴丸国永は。
三日月宗近に次いで、実は刀剣男士の中で最も兵法に造詣が深い。
この本丸では、兵法の何たるかをまるで知らない平和な時代に生きる主が、政府の研修も審神者学校の訓練も何一つ通らないまま、ほとんど放り出されるように主として赴任した。
初期刀の加州清光、そして初鍛刀の鶴丸国永だけがいる、広い広い本丸で。
何も知らない主は、この二振りにそれぞれ訊ねた。自分に、この本丸を護るための知恵を授けて欲しいと。
その際、鶴丸国永は、笑ってこう承った。
「いいぜ。オレが兵法の何たるか、きみに叩き込んでやる。だが、一つだけ条件がある」
「なぁに?」
「オレから学んだと、加州はもちろん、この先出会う誰にも言わず、固く秘密にすることさ」
「……? 鶴るんが言うならそうするけど、どうして?」
「驚きのためには、手札は隠しておくものだぜ」
鶴丸国永は軽やかにウィンクした。
「意外性があった方が面白いだろう?」
小首を傾げた主は、鶴丸国永にこくんと頷いた。
「わかった、やくそ────」
「おおっと!」
約束する、と答えようとした審神者の唇に指を置き、鶴丸国永は言葉を遮った。
主は鶴丸に指を置かれたまま、「?」という顔できょとんとした。
「?」
「迂闊に神と約束なんざするもんじゃない。いいかい、今きみが欲したのは神の知恵だ。きみが払う代償は、きみの身一つではとても払えない」
「……!」
「だからな、これは契約じゃない。ただの神の気まぐれだ」
火に手を伸ばすがんぜない子供に言い聞かせるように、鶴丸は真摯に言葉を継いだ。
「オレはきみに、立派にこの本丸を率いていけるだけの戦の全てを叩き込んでやるつもりさ。でもな、それは約束じゃない。ただの気まぐれ、暇つぶし、対価を寄越せなんて言わないさ。ただし、そうだな、オレの気まぐれで、いつでもやめることができる。オレは気まぐれに知恵を投げ捨て、オレが捨てたものをきみはただ拾う。そういう建前さ、理解できるかい?」
じっと瞳の中を覗き込んだ鶴丸国永に、主となった少女は、しばし無言でいたが、痛いほどの彼の視線に怯えることはなく、ただ、ゆっくりと、目を逸らさずに、頷いた。
鶴丸国永は、視線を和らげ、優しく細めると「いい子だ」と主の唇を解放した。
「…………聞いてもいい?」
「なんだい?」
「約束じゃない。契約じゃない。でも、お礼は言っていい?」
「構わないぜ」
「ありがとう。とても大切なことを教えてくれて」
鶴丸国永は、はっきりと表情を綻ばせた。まるで、満開の桜を前につい笑みをほころばせるような、綺麗なものを見た時の笑みだった。
「たぶん、きみには資質があるぜ。得難い美徳だ」
「…………あのね、わたし、ただ、お話もしたいの。そういうときは、どうしたらいいんだろう」
「簡単さ。言葉を交わし、話を聞きたいだけなら、そう言えばいい。『ただ一緒に話がしたい』と笑うといい。その中で何を知り何を与えられても構わないさ」
鶴丸国永がまた一つ、無造作に知恵の実を放る。無造作に、無造作であるように、そっと。
「引っかかるのは、きみが何かを正面から求め、神が神として正式に応え、条件を提示し、それに約束で返す。その一連だ。求めに条件を出されたら、約束で返してはいけない。まずは、それだけ覚えておくといい」
「うん、ありがとう。……あのね、とても、とても、ありがとう」
「ん」
鶴丸はパンと両手を叩いて空気を霧散させると「さ、小難しい話はやめだ」と破顔した。
「まずはオレと遊ぼうぜ。きみ、将棋は知ってるかい?」
「はさみ将棋しか遊んだことないや。ルールも曖昧で……」
「それでいいぜ。じゃあ将棋のいろはから教えてやる。今からオレが先生だな」
鶴丸国永は破顔した。
「三日月にだって良い勝負ができるように仕込んでやるぜ。驚く顔が楽しみだな」
パチ、パチ、と将棋の駒が交わされる。
その手は迷いなく、度重なる練習の成果が伺える。鶴丸国永にとっては嬉しいことに、この主はきわめて筋が良かった。
「ねえ、鶴るん」
「なんだい?」
「あのね、ずっと気になってたことがあるんだけど」
「なんだい? なんでも聞いてみるといい」
「鶴るんにずっと兵法を教わってること、誰にも言ってないし言わないよ。でもね」
「うん?」
「鶴るんね、手札は隠しておくものだって言ってた。驚きのためには必要だって」
「うん、そうだな」
「でもね、驚きって、驚かせるから驚きだよね」
パチ、と駒が鳴る。
主は、あどけなく小首を傾げた。
「鶴るん、自分が先生だって誰にも、種明かしして驚かせるつもり、ないよね」
「そうだな。きみの読みは当たってるぜ」
「じゃあ、隠してるのは、驚きのためじゃないよね」
「さあ、どうかな? きみはどう読む?」
「鶴るんは、驚きは大好きだけど、……悪い驚きは良くないと思ってるよね」
主は少し考え込むように、目を閉じ、こめかみをとんとんとノックすると
ぱちっと目を開け、まっすぐに鶴丸を見つめ返した。
「だから、何か、不都合があるんじゃないかな。本丸に来たばかりの私にはまだ教えられないような、不都合が」
「教え子が賢いと嬉しいもんだな、嬉しい驚きだ」
鶴丸国永は片目をつぶって笑うと、鋭い攻め手をさらりと受け流して、パチ、と駒を置いた。
「さて、オレはきみに教えたな。最初から正解を求めるのも良いが、自分で解きほぐしていく過程にも意味がある」
「うん」
「なら、きみはどう読む?」
「ん、んー? ん、と、逆に言えば、私が誰にも言わない限り、発生しない不都合……だね」
「そういうことになるな」
「鶴るんは、かしゅーにも、この先出会う誰にも言っちゃだめって言ってた」
「そうだな」
「なら、まず考えるべきは、少なくとも、かしゅー、それか、ええっと、……もしかすると、どこかにいる、大勢の加州清光に知れると、不都合ってことだよね」
「そうなるなあ」
「かしゅーは、初期刀だから、つまり、どこの本丸にでもいるよね。その加州清光に知られちゃだめってことは」
「うん」
「他の主に知られたら、何よりまずい、そういうこと、じゃないかな」
「なかなか良い読みじゃないか」
手を叩いて褒める鶴丸に、主は腕を組んで、首を捻って考え込んだ。
「けどね、わたし、他の本丸のことよく知らない、分からない。イメージできない。だから、どうして私は良くて、他の人はダメなのか、何が違うのか、わからない。んん……そこで止まっちゃうかな」
「じゃあヒントだ」
鶴丸国永は、楽しげに思案するみたいに、顎を擦った。
「角度を変えてみようか。なあ、きみは実はとても、とても頭がいいな。たとえば将棋、ルールすら知らないところから、オレと良い勝負ができるところまで来た。筋もいい。手塩にかけてきみの実力を育ててきたオレが言うんだ、間違いない。けど、きみはまるで、極めて無知であるかのようにいつも振る舞うよな。どうしてだい?」
「教えてもらえなくなるから」
主は迷いなく答えた。
「知らないことは無限にあるし、知りたい。でも、まるで頭が良いかのように振る舞うと、誰からも何も教えてもらえなくなる。だから、言わない」
「真理だな」
鶴丸国永はおもしろげに片目をすがめて、くつりと笑った。
数多くの刀の内、主がこういった冷静で冷めた一面を見せるのが自分だけだと思うとなかなか気分が良かった。
「そうだな、オレも同意見だぜ。平安の頃から時代を見てきたんだ、多少知恵が回るのは当然さ。でもな、それをあんまりひけらかすと、利点より弊害の方が多いんだよな」
パチ、と刺した一手はするりと追撃するもので、たった一手で劣勢から攻勢に移り変わったことを示すものだった。
「特になあ、本丸ってやつは難しい。今まで星の数ほどの本丸が生まれ、消えていったが────その内のいくつかはな、まさに鶴丸国永という存在が破綻させた」
「………聞いちゃいけないことだった? 嫌なこと思い出させた?」
主は、とても哀しげに表情を暗くし、将棋から手を離して、両膝の上でぎゅっと拳を握った。
鶴丸は穏やかに銀のまつ毛を伏せて「いいや、そろそろきみも知っとくべきだろう。ちょうどいい」と答えた。
「他の鶴丸国永にとっては聞かれたくないことかもしれんが、オレにとってはきみさえ健やかなら構いはしないさ。つまりな、昔もいたのさ。審神者に請われ、兵法を教え、時に主に代わって指揮を取った鶴丸国永が」
鶴丸は皮肉げに口角を吊り上げ、苦い笑みを一つ落とした。
「だが、そいつらは押し並べて皆、本丸を破綻させちまった。時の政府に本丸という制度ができたばかりの時代のことさ。政府の古い記録に残ってるかもな。さあ、ここまでヒントを出したんだ。後はきみが解いてみるといい。答えは既にきみの中にある」
「……かつて、鶴るんとは違う鶴丸国永が、たくさんの本丸を破綻させた?」
「ああ」
「破綻……破綻……鶴るんは、私を大事にしてくれてるよね」
「もちろん」
「だから、この本丸は絶対にそうならないように、鶴るんは最初から、必ず布石を打ってる」
「いいねえ、きみの解き方は美しくて好きだぜ」
「答えが私の中にあるってことは、もう教えてるってことだと思う」
主は、ゆっくり考えを巡らすと、ふと顔を上げた。
「そうだ、鶴るん、私に言ったよね。どれほどオレの指揮が上手くても、きみのいない間にどれほど名代として差配を振るおうと、きみ自身が戦を直接率いるのを、決してやめてはいけないと」
「ああ」
「きみが戦の指揮を取らなければ、この本丸は真にきみのものにはならない。決して、決して、どれほど血が流れ辛くとも、目を逸らし戦の指揮を降りてはいけないと。そう教えてくれたよね」
「そうだな。そのためにオレはきみにこうして、教えを授けてる」
「逆を言えば、それを守らないと、大変なことになるってことだよね」
主は目をぱちくりさせた。
「鶴るんがこんなにダメって言うんだから、絶対ダメなんだろうって、ただただ絶対に守ろうと思ってたから、深く考えたことなかった」
「素直さはきみの美徳だな」
「……主が戦の指揮を振るわないと、大変なことになる。それが、本丸の『破綻』だとしたら」
はたと目が覚めたみたいに、主は目を丸くした。
「…………分かった」
「うん、きみの答えを聞こうか」
「『鶴丸国永は主より戦を率いるのが上手い』なんて詳らかにしてしまうと、多くの主は自分で戦を率いるのをやめてしまうんだ」
「正解だ」
鶴丸国永は笑って賞賛の拍手を贈った。ぱちぱちと気のない拍手は、主が出した答えが苦いことを示している。
「そう、審神者としての根幹の役目に、なんの制約も策もなく軽率に手を出したどこかのオレが迂闊だったのさ。そうやって、審神者の代わりに戦を率い、成果を出し、鶴丸国永は笑顔で主を振り返った。だがもう、その時には遅かった。主は理解してしまった。千年の時を重ねて円熟されたこの指揮に、生まれて数十年の自分は決して敵わない。ならば自分が戦を率いる意味が無い、とな」
「鶴丸国永が差配を振った本丸はみんな、最後は主が審神者の仕事を果たさなくなって破綻した。心折れて審神者を辞めてしまった者、蒸発してしまった者、戦指揮を刀剣男士に全て押し付けて酒しか飲まなくなった者、色々いたが、特に最後のが良くなかった。きみやこの本丸とは無縁だが、刀剣男士を虐げる者もいるからな」
主はそれを聞き、ひどく哀しい顔をした。どこかの本丸の虐げられる刀剣男士を慮ったのだろう。
鶴丸国永は甘やかに笑って、しょぼくれる主の頭を撫でてやった。
「だが、きみは違うだろう? 政府や審神者学校から教育を受けず、オレの教えをもとに差配を振るうきみは、つまりオレの直弟子といっていいが、それはオレときみの間だけの話だ」
目に入れても痛くない嬰児の頭を撫でるみたいにしながら、鶴丸は穏やかに語った。
「一から全てオレが教えたきみが差配を放り出す日は来ないし、そうすれば他の刀剣男士が主の指揮から心を離す日は来ない」
「指揮を放り出した主と、主を不要と断じた刀剣男士。そんなろくでもない結末しか生まない亀裂を、鶴丸国永という存在は幾度も作り出しては破綻させた。そう、残念ながら白い鶴は、それらの本丸にとっては瑞鳥どころか凶鳥、つまり疫病神だったのさ」
「そうやって繰り返す内に、ようやく気付いたのさ。時に容易に主を上回るほどに兵法に通じていることを、鶴丸国永は詳らかにすべきではない。だが、きみとこの本丸には事情があったからな」
「きみは指揮を振るう気があって、学ぶ意思があった。加州清光を始めとして、きみの刀剣男士はきみに差配を振るって欲しがってる。だが、それは月に1度しか叶わない。本来1年かけて繰り返すはずの差配の数を、きみは30年かける必要がある」
「そんなのんびりやって途中で襲撃を受けたら目も当てられない。人の子の時間はただでさえ限られてる。そんな形できみを失うのはごめんだったし、刀剣男士のフラストレーションも強いだろう。名代役は必要だった」
「古参を含めた十五振りの中で見ても、その適性がいちばん高かったのはオレだったし、きみは政府や審神者学校の教えを何一つ通ってなかったからな。誰と比べることもなく一から全てオレが教えられるなら、破綻させずに助けてやれるんじゃないかと考えた。オレはきみの初鍛刀で、あの時きみが頼れるのは確かにオレ以外にいなかったしな。だが、オレが師できみが弟子、それはダメだ」
パチ、と鶴丸国永が指した手は、王手。主に返す手は無く、これで終幕だ。
たいそう筋はいいが、千年の先に届くにはまだまだ遠い。
「本丸の指揮系統は、あくまできみが頂点、オレが名代。それは捻じれてはいけない。そうでなければ、刀剣男士に必要な『主に所有され戦に出る』という一種の保護と加護が外れる。それは刀剣男士にとって強いストレスだ」
「オレはきみの軍師にはなってやってもいいが、師には本来なってはいけない。それを本丸の誰に詳らかにすることも良くない。だからきみに口止めした」
「よく分かった。納得した」
「そりゃ何よりだ。できればこの先もきみの瑞鳥でいたいからな」
「あのね、鶴るん」
「ん?」
「いつも私と本丸のことを真剣に考えてくれてありがとう。私を教えてくれたのが鶴るんで良かった。大好きだよ」
「どれだけ知恵をつけても、きみのそういうところは変わらんなあ」
◇ ◇ ◇
「鶴るん! 鶴るん! 見て見て! 新しい宝物!」
「おお、ついに完成したか。双鶴図の鍔じゃないか、めでたいな」
「鶴だよ、鶴! だからこれは鶴るんの!」
「うん? そいつぁ嬉しいが、第一部隊に使わせるのが先じゃないか?」
「だめ。かしゅーには先に見せてきたよ。鶴るんは見てないとこで無茶しがちだから、統率が上がる双鶴図を付けてね。名前が付くまで外しちゃだめだよ。いくら鶴るんでも、自分の名前が付くまで愛用した鶴の宝物を、他の誰かに譲ったりしないでしょ」
「こりゃ一本取られたぜ。まったく、可愛い教え子の成長は頼もしいったらないな」
《鶴と伽羅〜望月の夜に盃を〜》

あれは、大きく満ちた望月が、ひどく明るい夜のことだった。
裏山の竹藪で独り、居合を中心とした修練をしていた大倶利伽羅は、すっかり月も沈もうかという頃になって本丸へと戻って来た。
これほどまで月が明るければ、太刀寄りの打刀である大倶利伽羅でも夜目は効く。とっぷりと夜も更けた頃、暗い藪を降りて、正門を通らずに直に部屋へ向かった大倶利伽羅は、自分の居室の近くが騒がしいことに気付いた。
見れば、大倶利伽羅の部屋に繋がる廊下を塞いで、しこたま酔った鶴丸国永を、光忠が相手しているようだった。
「あ、伽羅ちゃん、おかえり。今日は遅かったね」
光忠は、酌をしながら、にこやかに大倶利伽羅に微笑んだ。泥酔しているらしき鶴丸国永と違って、こちらは涼しい顔だ。珍しいことだった。
「伽羅ちゃん、お腹空いてるでしょ。夜食におむすび作ってあるよ。食べる?」
「ああ」
「ちょうど良かったや。持ってくるついでにお布団敷いちゃうから、伽羅ちゃん、鶴さんの相手しててあげて」
「……なぜ俺が」
「まあまあ、おむすび持ってくるまでで良いから。ね?」
そう言って、こちらの肩を軽く叩くと「お願いするね」と笑って場を離れていった。
他の連中とは別に、わざわざ自分用に夜食をこさえた厨番の光忠の頼みを断って、飯だけ受け取る不義理はしにくい。
人畜無害そうに笑っているが、こちらが断りにくいのを計算して言っているあたり、それなりに狸だと大倶利伽羅は知っている。無論、そこの鶴ほどではないにせよ。
「んん…光坊…?」
柱に頭を預け、うたた寝している様子だった鶴丸が、夢現に身じろいだ。
ぐらぁ、と揺れた頭が、縁側の外へと張り出して、危うく真っ逆さまに落ちる所だった。外に立っていた大倶利伽羅は反射的に手を出し、縁側からほとんど落ちた鶴の頭をキャッチした。
「おい」
「んぁ? 伽羅坊?」
酒精で顔を真っ赤にした鶴丸が、とろんとした目を大倶利伽羅に向けた。
色素の薄い肌の鶴丸は、酔って血色が良くなると途端に赤く色が出る。うわばみとまではいかないがそれなりに酒に強いはずの男だというのに、どれだけ呑んだのか。
「おい、起きろ」
「んーあー? 寝てたか、あはは」
ぼんやりと頭をぐらぐら揺らしてから、何がおかしいのかケラケラと笑った鶴丸に、大倶利伽羅は深々と嘆息した。酔っ払いの相手は疲れる。
かといって、ここで放置してまた縁側から落ち、泥まみれにでもなられたら面倒だ。光忠も後から煩いし、たまったものではない。
舌打ちした大倶利伽羅は妥協案として、ほとんど手付かずで残された盃を大きく煽った。素面で相手をするから疲れるのだ、多少は酔わなければ面倒事などやってやれるか。
強い酒を喉に流し込んだ大倶利伽羅に、鶴丸は再び何がおかしいのかケラケラと手を叩いて笑った。
口をぐいっと拭った大倶利伽羅に、縁側の木板をパンパンと手のひらで叩いて、鶴丸はニコニコと手招いた。
「伽羅坊とサシ飲みは久しぶりだなあ」
鶴丸はゆったりとそう口にして、ずいぶんと穏やかな目をして微笑んだ。
鶴丸が持った徳利が、ゆっくりと傾けられる。
とく、とく、とく、と。こちらの盃に静かに注がれる透明な酒が、月光を吸って緩く煌めく。
静かに交わされた乾杯の音が、高く月夜に溶けていく。
「いーい夜だなぁ」
鶴丸がいたく嬉しげな声でそう密やかに笑ったので、大倶利伽羅は「ふん」と鼻を鳴らした。
「酔っ払いの相手をさせられて俺は散々だがな」
「はは。どうだい、伽羅坊」
鶴丸が月の浮かんだ酒をくびりとやりながら、深く齢を重ねた優しい眼であたたかに微笑んだ。
「ここは良い本丸だろう。きみには少し、退屈かもしれんがな」
戦の少ない本丸だ。前線に比べてひりついた緊張感は薄く、畑だ料理だ馳走だ宴だ余興だと、そういったことにまで古株連中がやたら熱心な、平和ぼけしていると言っていいほど穏やかな場だった。
満たされた黄金の霊力が隅々まで流れ、主が不在だというのに、稽古の些細な打ち身にだって札を使う余裕があるような、泰平かと勘違いするような本丸だった。
「出来立ての頃は輪をかけて戦が遠くてな。今でこそ出陣も遠征も稽古場もフル稼働しちゃいるが、あの頃はまだその人手すら無くてなあ。彼女と初期刀を除けば、俺と光坊と貞坊しか居なかったからな」
ゆったりと思い出を語るように、一献やりながら鶴丸は赤い顔で穏やかに微笑んだ。
「あの時はきみを呼ぶのは早かろうと皆で話し合って決めたが、こうしてきみが来てくれて、光坊も貞坊も喜んでる。嬉しいよ」
これだから困るのだ。
普段はふざけてばかりの男なのに、ひとたび微笑めばこの調子で
じっくり舌で美酒を味わうように、こうしてゆったりと喜ばれると、反応に困る。心から言っていると分かるだけ余計にタチが悪い。
「困ったことがあれば何でも言うといい。頭の固い番長連中も、ああ見えて話は通じる連中さ」
「今まさに困らされているが」
「ははっ」
ぐいっと大きく盃を煽った鶴丸に、大倶利伽羅は眉を顰めた。自分がここに来るまでだって相当の数を空けただろうに、手酌の徳利はもう空になりそうだった。
「飲み過ぎじゃないのか」
「彼女が居る夜は呑めないからなあ」
この本丸の主人が帰城するのは、月に一度。
その度に、光忠が張り切って宴を催すから、月に一度は酒飲み連中の馬鹿騒ぎだ。
多くの刀が肩の荷を下ろして思い思いに楽しむ中、だが、派手好きの鶴丸が宴で呑んでいるのを見たことはない。
か弱い主が、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、宴の中を蝶のように泳いでは、至る所で嬉しそうに笑うのを、近侍として見えない影で警護しているからだ。
「ふん、よくやる。お前が張り付いてなくたって、短刀が側で控えてるだろうに」
「目を離したくないんだよなぁ」
「ずいぶん入れ上げたもんだな」
鶴丸国永は、眉を八の字に落として、弱り切ったとばかりに笑った。
「ははっ、ほんとになあ!」
何がおかしいのか、鶴丸は腹を抱えて弾けるように爆笑した。
ケラケラ、ケラケラと息が切れるまでしこたま笑った鶴丸は、やがて「……はは」と自嘲するみたいに掠れた声をあげた。
すっかり深酒した赤い顔で、盃を持った手の甲を額に押し当てるように
盃と自らの手で目を覆い隠すと、項垂れるみたいにこう口にした。
「こんな身を滅ぼすような愛し方をする予定じゃなかった」
なかった、んだがなぁ
手酌した鶴丸が、酒に溺れ、真っ赤な顔でこぼす
それが、大倶利伽羅が一度だけ聴いた
鶴丸国永が洩らした本音だった。
③大倶利伽羅編へ
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